ローセフ夫人の客となって


 雲行きがあやしいので、傘をどうしようかなどと妻と話しながら、遅めの昼食をとっているところへ、約束どおりにJ氏がやって来た。彼は、肩からかけた鞄の中から小さなスズランの花束を取り出し、私の分とにこれを二分してくれと言い、妻がその作業をやっている間に簡単な食事。彼の説明では、今日これから出かけるローセフの墓には、故人が好きだったスズランを供えるのが習慣になっているのだそうだ。ローセフはギリシャ哲学やロシアの哲学者ソロビョフの研究で著名な学者だが、彼は生前、J氏とも個人的に親しかったとのこと。今日はその三回忌にあたるのだそうだ。
 電車通りに出て、なかなか来ない市電を待っていると、われわれと同じアパートから出てきた中国人の夫婦が英語で話しかけてきて、「モスクワ駅はどう行けばよいのか」と尋ねられた。どうも、プラハかどこかに荷物を送るつもりらしいが、J氏と私が「モスクワには鉄道の駅は八つあるが、《モスクワ駅》は存在しない、プラハへ送るのならベロルシア駅ではないか」と説明したのだが信用しない風で、疑わしげに夫婦で中国語のやりとりをしている。と、細君の方が夫の腕を引っ張って、われわれには挨拶もなしに道路の反対側に行き、そこで車を止めようと手を上げている。そちらの方向には絶対に鉄道駅はないのだが―― われわれの市電が来て、結果は見損ねた。
 地下鉄の《一九〇五年》駅で降りて地上に出、ワガニコヴォ墓地へ。スズランの花束を持って急ぎ足で歩いているわれわれを、後ろから「エセーニンの所にかね」と声をかけて来る夫人がいたりする。葬式の帰りらしい一行に会ったり、大きな花束を抱えた二人連れの少女に追い抜かれたりで、墓地はそれなりに賑わっている。墓地の門を入って、途中で何人かのJ氏の知り合いが帰って行くのとすれ違い、遅刻したことの詫びを言うJ氏に、「なに、気にすることはないよ、人生にはよくあることだ…… 」などと応えている。
 ローセフの墓自体は簡単なもので、木の墓標にはまだ碑銘もなく、盛り土の上には花がたくさん供えられ三・四人の女性がそれらに加えてスズランの苗を植えようとしていた。われわれも墓標に花束を載せ、J氏は墓標に接吻。
 二つほど離れた区画には新しく建立されたエセーニンの墓があった。詩人の童顔を刻んだ白い大理石の像の周囲には数人の男女がたむろし、写真や本などが売られていた。像の裏側にあるエセーニンの恋人の墓碑銘をJ氏と見ていると、横のベンチに座っていた老人が、「彼女のことを話してやろうか」と、彼女の生い立ち、エセーニンとの出会い、二人の生活、そして、死――J氏の話しではありふれた周知の物語だそうだが、それなりに感情を込めて話してくれた。さらに、「エセーニンの詩をいくつか聞かせてやろう」と立ち上がり、像の正面にステッキをついて立ち、しばらく頭を垂れた後、きっと顔をあげ、胸をそらして謳い始めた。何人かの聴衆が加わり、次から次へと、彼の熱演はなかなか終わりそうにない。J氏が何枚かのルーブリ紙幣を畳んで彼の外套のポケットに滑り込ませ、われわれは退散。墓地の入口近くにはかのヴィソツキーの墓があり、ここにも一面の花。多くの人々がたむろしている。
 さて帰ろうと、地下鉄の駅の方へ歩きながJ氏と話していると、「今日はこれから何か予定があるか」との質問。妻は子供たちを連れてクレムリン大会宮殿にバレーを観に行っているはずで、さしあたっては格別の予定はない。「これからローセフの家に行くので、一緒にこないか」と言うのだ。しかし、今日は彼自身の郊外の家で、幼い娘たちが彼の帰りを待っているはずではなかったか。――彼は気にもとめない。
 アルバート街の中程、南側の古い住宅の二階、おそらくは三寝室のフラット。もう二〇人ほども客がつめかけていて、中央の客間に未亡人アザ・アリベコヴナを中心に一〇人余りが肩を狭めるようにして一つの円テーブルについていた。私もその一角に座るように勧められ、会食。決して豪勢な料理ではなく、酒も少なかったが、まず軽く乾杯してから、和気合いあいといったふうに食事が始まった。小声でJ氏が説明してくれるところでは、一座の人々はなかなかの顔ぶれだ。地理学者、ピアニスト、タルト大学とトビリシ大学の教授たち、版画家、神父…… アザ・アリベコヴナ自身、モスクワ大学の言語学科の教授だが、にぎやかで気さくなおばあさんといった感じの女性で、しきりに食事を勧め、別室の若い人たちのグループに声をかけたりで、忙しい。アレクセイ神父は先日の総主教のイタリア訪問にも同行したそうで、皆からイタリアの印象などをせがまれている。彼の地でも麻薬が社会問題となっており、カソリックが非医学的な治療・再社会化プログラムに協力している、とか、カソリックの大学があって、などと彼が話している。と、アザ・アリベコヴナが私に「日本にも宗教関係の大学はあるか」と尋ね、これには簡単に状況を説明。やがて、隣の部屋で件のピアニストがバッハの曲を静かに弾き始めた。
 沈んだ色調の壁紙、重厚な家具類、本の詰まった多くの書架、グランドピアノと小さなディヴァン、天井から下がった照明器具のまさに凝った造り…… 長い年月をかけて揃え、また磨き込んで来たのであろうそれらの間で、かつてのこの部屋の主人ローセフの写真が飾られたこの部屋で、客人たちの談笑がいつまでも続いている。すぐ隣には、猥雑なアルバート街の喧噪と退廃がうなり声をあげていても、その外側ではペレストロイカとロシア共和国大統領選が取っ組み合いを続けていても、ここにいる人々は、次々と繰り出されるアネクドートに笑い声をあげ、グラス片手の神父を囲み、プーシキンの詩の何節かを読み上げ、静かに生きている。奇妙な、非現実的な感覚。
 書斎に引っ込んでいたアザ・アリベコヴナが最近出版されたローセフの著書『ソロビョフ:その時代と思想』に献辞を書いて現れ、私に贈ってくれるという。名誉なことと、心からの謝辞。
 一座の人々に別れを告げて、九時過ぎにやっと退出、夏至が近くわずかに明るい中を地下鉄《スモレンスカヤ》駅へ。J氏の娘たちはさぞかし寂しがっていることだろうと気がかりだったが、これは私にとって興味深い経験であり、その後しばしばこの夜のことを思いだしたことであった。

ソロビョフ V. Solov'ev (1853-1900) ロシアの宗教哲学者、詩人、政論家。スラブ主義、キリスト教神秘主義の立場から、西欧の合理主義に反発しつつ、キリスト教信仰の普遍性を説いた。
エセーニン S. Esenin (1895-1925) ロシア・ソビエトの詩人。ロシアの自然についての叙情的なうたい手として出発、革命期の社会の激動の中で揺れ動く個人の精神、ロシアへの郷愁、挫折感などをテーマとした多くの詩を残し、1925年に自殺。美男子として知られ、人々に愛された。
ヴィソツキー V. Vysotskii (1938-80) 70年代に人気のあったタガンカ劇場 の俳優。歌手としても優れており、ギターを弾きながら自作の詩を歌った。

                 * 立命館教職員組合『群鳩』41/42号(1992)に公表。


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