日露学長会議に際しての出張 

(20109月)

 

201099

もう5時間もシベリア上空を飛んでいるわけだが,何とも実感が伴わない──まずはこのアエロフロート機の快適さ。と気づいて確認すると,Airbus330となっている。TuIlも捨てられたのだろうか。無意味に多いのではないかと思うほどの昼食の後,窓を閉めて多くの乗客は仮眠中で,窓の下を見ることもできない。

きっかり10時間を飛んで,モスクワに到着する直前に地上を見ると,いやに目に付くのは小ぎれいなダーチャ群だ。モスクワ市民の70%はダーチャを持つとされるが,その内実は単なる小屋のようなものが多かったと記憶するのだが,一定の余裕ある階層が増えているということの,これも一つの例証ということだろうか。

空港から市内までのバスの窓から見る限り,変わったものも,変わっていないものも,ごった煮状態といったところ。車が増えたのは一目瞭然だが,その結果交通渋滞に悩まされ,ホテルに着いたのはもう午後8時に近く,さらに諸手続きの間を待たされて。

部屋に入って,ぐったりする暇もなく,ネットにつないで今日発表の新司法試験の合格状況を確認。予感したとおりに,かなり減っているさて,どうしたものか―― いずれにしたところで,帰国後のことだ。

 

2010910

時差と体内時計との食い違いで,何度も目が覚めては「もう少し寝ていなくては」と枕を直すことを繰り返した。さすがに夏時間だ,午前630分でも薄暗い。テレビの第1放送によれば今日は「戦車兵の日」だとのこと。モスクワの気温の予想は17~18°C

7時頃に朝食をとって,ノートを整理。

今日の半日は特別の会議等はなく,自由行動を許されているとあって,9時には外出。まずコムソモリスカヤ駅から地下鉄に乗ろうと,適当に歩き出したのだが,鉄道線の駅だったりでなかなか行き着けない。歩いているうちにどうも反対方向に来たのだと気がついたころには,もうプロスペクト・ミーラ駅の方が近い状況になっており,また通りを間違えたりで,1時間ほどもかかってやっとのことで駅に到着。掲示で確かめると乗車券は26 рにもなっており,愕然とした。が,それ以外はまったく変わっていない,地下へ降りていくエスカレーターの深さ,車両の色合いと全体的な古さ,アナウンスの内容と調子......  オクチャーブリスカヤ駅で降りて,工事中のために閉鎖されたものでない出口から出されてしまうと,まったく見慣れない広場の様子に立ちすくんでしまった。何よりも意外だったのは,広場の真ん中のレーニン像。まだそのままに残っていた。

が,人間の記憶の何といいかげんなことか。かつてしばらく滞在したアカデミー・ホテルの建物さえ見つけられない。しばらくうろうろとしてやっとのことで市電のデポを見つけ,電車を待ったが一向に来ない。諦めてタクシーをひろおうとしても,これまた来ない。マルシルートノエの呼び込みに乗って,いくらかと尋ねると25 р.だとの答え。乗り込んで,レーニンスキー・プロスペクトを南へ。科学アカデミー本部の門,ばらばらな商店の連なり。両側の光景は全てが19年前と同じように見えた。ガガーリンの孤独なモニュメントも含めて

モスクワ百貨店の前で降りて,グープキン通りдом 12に向かって歩く。

既視感はますます強まり,単調なテニスボールを打つ音がすることも含めて,むしろ堪らないような切羽詰まったものにさえなる。ヴァヴィーロワ通りとグープキン通りの交差点付近では,スイカの店さえ開店していた。

Д.12の建物南側は駐車場になっており,その管理人らしき男性が「何だ,写真を撮っているのかい」と。20年ほども前にここに住んでいたのだと説明し,若干の雑談。

それにしても,驚くべきインフレーションだ。ホテルでのミネラル・ウオーターのペットボトルが60 р.,軽い夕食に800+100 р.,部屋からのインターネットアクセスは1時間契約で450 р.。そして極め付けが地下鉄の乗車チケットの26 р.──520倍ではないか。

参加学長たちとの夕食会。

その後,1階のビュッフェで,甘すぎるマルガリータをすすりながら懇談。

未必の故意について。亀山さんは『カラマーゾフ』の父親殺しは未必の故意によるもので,当時のこの理論の影響力などを調べたくて,という。タガンツェフの教科書にでも当たってみることを約束。

 

2010911

例によって6時過ぎに起床,シャワーを使ってから朝食へ。昨夜着いたメンバーもいて,人数は増えている。

8時に2台のバスでモスクワ大学へ向けて出発。懐かしい光景と見慣れないものとが次々と窓外に。通りの様子。街路樹に植えられたリンゴの樹々が小ぶりな実をたくさんつけている。一方,大型のクレーンを使っての住宅建設など,かつては無かった光景だ。会場となったモスクワ大学の交流センターは本部棟の真南に大通りを隔てて建てられた新しい建物で,外観も内装もきわめて立派

ここで夕方までの長い会議。鳩山邦夫代議士(由紀夫氏はロシア国内の別の会議に出ているとのこと)が長い 挨拶をし,ルイシコフ・モスクワ市長がまたそれに対向するような挨拶で始まり,日露の各大学の学長がそれぞれ勝手なことを演説するというような,まとまりの無い会議をそれでもモスクワ大学のサドーフニチー総長(全ロシア学長会議の議長とのこと)がうまくまとめて,次回は再来年の3月に日本でと決めて,後はパーティー 。とくにハバロフスクにあるという太平洋大学のイヴァンチェンコ学長には挨拶。あとはさまざま。

私については, まあ予想通りだが,出席して紹介され,多くの出席者に名刺と大学のパンフレットを配ることが仕事の大半だったようだ。

あらためて痛感したこと,それはこの国の大学のステイタスの高さと豊かさだ。これは例外だとしても,このキャンパスの広大さと美しさは日本の例えば東大とか北大とかであれそれとは比較しようが無い。このことを抜きにしての「学長会議」は所詮は実質的なものとはなりえない。会議の席で壁面上部のステンドガラス風の飾りをを眺めると,そこにはロモノーソフのノートらしきものと並んでモスクワ大学の創立250年を祝賀する法律が掲げられ,プーチン大統領の署名が麗々しく記載されていた。

ホテルに帰るとまだ18時過ぎなので,Nさんの希望にしたがって街に出ることに。

コムソモリスカヤから地下鉄に乗り,レーニン図書館で乗り換えてスモレンスカヤまで。アルバート通りは,これまた見事に昔のままで,違うのは客引きに黒人が多く,決まってこちらを中国人と判断した呼び込みをしてくること。

 

2010912

第4日ということは,もう今日は最終日ということだ──午後3時には,空港行きのバスが出る予定。

昨日までの好天とはうって変わって,今朝は少し雨が降っている。駅近くの小さな食料品店に行って,ボロジンスキーを買って,最低限の買い物も終わった。さて,あとは何を見ておくべきか。といっても,大したものは思いつかない。

まずはクレムリンの壁の無名戦士の墓に詣で,グム百貨店を見て,ジェルジンスキー広場の様子を見て(何の変哲も無い花壇とその隣で改築中のジューツキーミール),地下鉄マヤコフスカヤへ。ここもまた,無機質な広告のパネルに取り囲まれて,マヤコフスキーはなお立っている。この19年,彼は何を見てきたのだろうか。

プーシキン広場も。かつてと何が変わったのだろうか──以前の道端での露店と呼ぶのさえためらわれるようなそれらが,それぞれ小さな小屋を維持するようになったことぐらいのものか。かのクーデター騒ぎのとき,この広場で火を吐くようなやり取りが交わされ,クレムリ寄りの大通りでは,トロリーバスを倒してのバリケードが作られ,人々が緊張してその周りを取り囲んでいたのだ。

14時半にはホテルに帰り着き,15時にはバスで空港へ。

バスの中で,自然な日本語を話すロシア人女性に亀山さんが確認すると,オフチンニコワと名乗った,つまりかのV. オフチンニコフの娘だとのこと。モスクワ大学アジア・アフリカ研究センターの教員。令息はモスクワ大学の法学部を出て,龍谷大学に留学していたこともある,とのこと。細っそりとした50歳ほどの女性。風邪を引いているとかで苦しそう。今度モスクワに来たときには連絡してくれ,と言ってくれる。しかし,そのような機会の訪れることがはたしてあるのだろうか。


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