1991年8月・モスクワ――日記の数ページ――


8月19日(月曜日)

 朝7時半、Nさん[旅行でモスクワに滞在中の知人]から電話があり、「日本の家族から、ゴルバチョフ大統領が辞任し、非常事態宣言が出たとのニュースが流れているが大丈夫かと言ってきたが、それらしいことがあったか」、との問い合わせ。この瞬間から、われわれの世界は一変した。
 例によって子供たちが学校に出かけるまでの慌ただしい時間を過ごしていたために、その時まで、それらしい気配は全く察知しておらず、曇った、それなりに穏やかな一日になるのではと思っていた。あわててテレビのスイッチを入れ、ニュース番組を探したのだが、どのチャンネルでもしごくのどかな室内楽の演奏ばかりが流れている。普段、こんな時間にテレビをみることもないので、こんなものかと思っていると、唐突にアナウンサーが登場し、ソ連邦最高会議議長ルキアノフの声明を読み上げ始めた。この声明自体は、明日に調印をひかえた新連邦条約の内容が不十分なものであり、先日の国民投票の結果にもそぐわず、最高会議での再論議が必要だというもので、この期に及んでの連邦の最高会議議長の声明としては奇妙な内容だが、特に緊張するほどのものでもない。しかし、それに引き続いた副大統領ヤナーエフの布告、「ソビエト指導部」の声明の内容は、まさに異様なものだった。ゴルバチョフ大統領が病気だという理由を一応はつけているが、これはまさしくクーデターではないか。
 淡々と読み上げられていく。
 ふと、前回の留学でモスクワに居た1981年の12月に、ポーランドで布告された戒厳令の内容を読み上げていたテレビ・アナウンサーの調子を思い出した。この種の文書を読み上げるときには、どのアナウンサーも同じような表情になるものらしい。

 このようなことを全く予想していなかったわけではない。3月末にモスクワに到着して以来、商品の欠乏や物価の急騰に悲鳴を上げる人びとを見続けてきたし、ゴルバチョフへの怨嗟の声はいつも響いており、私自身、日本への手紙に「何が起きても不思議ではありません」と書いたこともあった。しかし、実際にそれが起きたとなると....
 静かに、だが、身の震えるような興奮をおぼえ、窓の外の見なれた光景がにわかにまったく違ってしまったかのような錯覚さえ生じる。思い出して、アカデミーホテルに滞在中のF先生[同じ研究所に留学中のK大学教授]に電話。まだ寝ておられた様子だが、さすがに緊張した声で、すぐテレビを見てみようと。

 日本人学校はどういう判断か、平常通りにスクールバスが子供たちを迎えに来た。運転手のコーリャコフ氏に尋ねてみても要領をえない。学校は中心部とは逆の方向でもあり、大丈夫だろうとそのまま乗せることにした。

 三砂子[妻]と当面の対応を話しているところへ、思いがけず科学アカデミー渉外部のノギン氏から電話があり、大使館のK氏に電話するようにとの連絡。折り返し電話を入れると、初めて声をきく学術担当書記官の話は、要するに、大使館の方でも事態の把握が十分にできていないということで、むしろモスクワ滞在中の日本人研究者の所在について情報はないかと尋ねることが目的のようだった。当面は外出を控えるようにとのこと。
 しかし、大事件が起きていて、しかも情報がまったく入ってこない状態でじっとしていることは苦痛でもあり、たとえば、帰国後に「あのときどうしていたか」と尋ねられて、「家に篭もっていました」では話にもならぬではないか。そして、何よりも、好奇心が「見ておきたい」とうずく。
 11時半頃、大学法学部から電話。H事務長、U学生主事と話す。心配しての事で、有難いが、新しい情報はさしてない。
 ともかくも、街の様子を見てみようと出かけることにしたが、市電に乗って近くの地下鉄の駅まで行く途中、30台ほどの戦車と燃料車、弾薬車が南方に向かって停止し、それに乗った兵士たちと歩道の市民が論議を交わしている姿が目に飛び込んで来た。乗客達も息をつめてこの光景を見つめている。ただ、兵士たちの表情はいかにものんびりとしており、砲塔にはまだカバーがかぶせられていたが。

 地下鉄の中の様子は普段と変わらず。しかし、考え込んでいる人や低い声で言い争っている二三人連れの姿が、何か気にかかる。

 市の中心部の状況を見ようと、地下鉄で《ゴーリコフスカヤ》駅まで行き、地下の通路にでると、数十人の人だかり。若い男が大きな紙に「エリチン大統領はストライキを呼びかけている、全市民はマネージ広場へ」となぐり書きしたものを掲げ、その周囲を取り囲んだ市民と叫びあっている。そこへ民警隊員が近付き、通行の邪魔になっているから止めろと要求。男はおとなしくこれに従い、件の紙を背に下げて人びとに見えるようにしながら地下通路を遠ざかっていった。心なしか通路の露店も少ない。
 《モスクワ・ニュース》の前で地上に。ここではいつも以上に人びとが群れ、議論に熱中している。壁にA4大のコピー:エリチン大統領の声明。今朝9時づけの文書で、事態のこれ以上の進行を押しとどめ、民主主義の復活を実現するために、全市民に無期限の全面ストライキを呼びかけている。「具体的にどうすりゃいいんだ、どこへ行けば!」と若い男性が声をはり上げていた。だが、後ろを振り返ると、今日も《マクドナルド》の前の行列は長々と続いている。
 トヴェリ通りをクレムリンに向かって歩く。行き交う人びとの様子は平和そのもの。アイスクリームを手にした娘たち、小さな机に外国産の小物やガムをならべた露店、《ピザハット》の前の光景、食料品店の行列.... モスクワ市庁舎前のソビエト広場には、予想外に格別の集会もなく、二三十人の人垣が二つだけ、それぞれ中年の男性が民主主義を守れと叫ぶのを人びとが聞き入り、時々言葉を交わしている。目を引いたのは、中央電電局の前の人混み。外国人らしい多くの人びとが、国際電話をかけようと殺到し、行列が建物の中に納まりきらずに、通りにあふれ出したものらしい。歩くにつれて、なにかが変だと思っていたら、トヴェリ通りの車の走行が途絶えているのだ。
 改築中のホテル《ナツイオナーリ》の横、トヴェリ通りの入口に、道路を塞ぐような格好で数台のトロリーバスが止められ、一種のバリケード然としたものが出来上がっている。その上に十数名の男たちがのぼり、例の三色旗をふり、何か叫んでいる。マネージ広場を囲んで通りがバスやトロリーによるバリケードで封鎖された形になり、中に人が集まっている――数千から一万ぐらいのものか。彼らは、アレクサンドロフ公園に沿って並んだ戦車や装甲車につめよっている。必ずしも多く感じないが、マネージ展示場の前近くには相当数が集まり、ハンドマイクでの演説が聞こえる。「わが兵士諸君、諸君は人民の軍、兵士のはずだ、人民に対し武器を向けるようなことはないと信じている」、「ヤゾフ、ヤナーエフ、クリュチコフらを打倒せよ.... 」。「こんな所にいるよりも、ベールイ・ドーム[ホワイト・ハウス:ロシア共和国政府のビル]に行こう」との声も聞かれた。
 どのキオスクにも今日の新聞は無し。土曜日の『独立新聞』など、何となく時代遅れの白々しさしか感じさせない。レーニン図書館の前でトロイツカヤ塔の方を見ると、観光客はいつもと同じに多く、クレムリンの中へと入っている。先ほどのマネージ展示場前の光景との奇妙なコントラスト。その手前には装甲車の列、そしてさらにその手前には10台ほどのパトロールカーが集まり、降り立った民警隊員らがタバコを吸いながら談笑している。 
 突然、昨日カメラの修理を依頼した工房に電話をいれなくてはならなかったことを思い出し、こんな時にとは感じながらも電話。シャーシキンという技師は不在で、後ほど電話することとして、地下鉄で帰途に。
 《大学》駅から市電に乗り、窓の外をながめていても、さして変わった風には感じられない。ルイノクの様子も普段のまま。三砂子に頼まれていたバターを買おうと途中の食料品店に寄ったが、おそらくは通常より長い行列ができており、バターは無し。「買いだめ」の開始だろうか。
 帰宅すると三砂子が――体調が悪く、今朝から横になっていたのだが――、いくつかの電話があったことを伝えた。一つは、大使館の政務班に属するU氏から、何か情報があれば、との話があったと。立場が逆ではないかと思いながら、以前より名前だけでも聞いたことのある人と、電話。ヴァヴィーロフ通りの戦車などについて話す。先方からもいくつかの断片。直接の衝突はまだ起きていないらしい。二番目はBから、外出を控えるようにとの忠告があったとのこと。今回のクーデターは滅茶苦茶だ、なんの建設的なプログラムもないではないか、と言っていたと。
 夕方になってのNさんの話などを総合すると、結局、マネージ広場の群衆は、降り始めた雨の中をカリーニン大通りを経てベールイ・ドームへと移動し、クトゥーゾフ大通りから来る橋の近くをはじめ、ベールイ・ドームを護る格好でバスなどをつかったバリケードが作られている。新聞社や放送局などに向けて戦車と砲が並べられている。ただし、現在のところ兵士たちにも殺気だったものはない、ということらしい。
 6時頃、突然に東京の共同通信社会部から電話が入った。だが一体何のために? 共同通信にもモスクワ支局はあり、特派員もいるだろうにと思いながら、先方の要領の悪い話につきあい、何度も、自分の専門ではないので、と断わりながら、現在の状況についての感想など。いいかげんな記事にまとめられるのかと思うと、不愉快だ。
 そして最後に、例のシャーシキン技師から電話。驚くなかれ、AE−1の修理は終わった、と。明日10時に受け取りに行くと約束。現在のモスクワの情勢と重ね合わせて、不思議な安堵感があることも事実だ。
 夜9時の《ブレーミャ》。冒頭は例によって国家非常事態委員会の創設とヤナーエフの布告、国民への呼びかけ、諸外国首脳・国連事務総長への通告を読み上げ、その後各共和国の反応、ロシア共和国の諸都市の様子などが伝えられた。モスクワを除いては目だった反対行動は見られないということらしい。ただ、モスクワでは、マネージ広場での情況に引き続いて、ベールイ・ドームの前でのエリチンの演説の一部、窓から投げ撒かれる彼の声明文などが映された。バリケードを作る男たち。「ビリニュスから学んだのだ」、「われわれが選んだ大統領だから、われわれは護るのだ」、などの声も。多少意外だったのは、ウクライナやカザフなどの政府がかなりに落ち着いた対応をしているらしい点だ。ウクライナやカザフには非常事態宣言の適用が及んでいないためらしいが、しかし、それはそれで今回の事態の底の浅さを示しているようにも思われる。
 あと二点。モスクワは非常事態宣言下におかれ、モスクワ軍管区指令官カリーニン大将が市の全権を掌握したと。しかし、テレビで見るかぎり、彼自身事態の推移に戸惑っている様子。新聞は限られた種類のもののみ刊行を継続(プラウダ、イズベスチヤ、トルードなど)、残余は今後の審査を経て再開されるまで停止される。したがって、今日買い求めた《独立新聞》や《コメルサント》は記念すべき号になるやも知れない。
 《ブレーミャ》に引き続いて、外務省のプレスセンターで行なわれた国家非常事態委員会の記者会見の模様が中継された。ヤナーエフが中心となって発言・応対し、プーゴ、バクラーノフ等がときおり発言。記者たちの質問の一つはゴルバチョフ大統領の所在と健康状態だが、これについては、しかし、ヤナーエフの抽象的な回答のみ。しかも彼は、「将来、健康状態が許せば、ゴルバチョフ大統領もわれわれの事業に加わるだろう」と言う。残余の質問に対してもそれなりの回答はなされたが、最重要の問題はボービン記者が発したものだろう。「いったい誰が諸氏を国家非常事態委員会に選出し、そのように重要な職責を果たすよう委嘱したのか」、と。――当然、明確な回答は無し。ストラドゥプツェフが、「副大統領の相談を受け、私はこの重責を果たすことを決意した」旨の的外れな発言があったのみ。
 途中から不思議な感想が浮かんで来た。ここにいる面々はそれなりに国家機関や党の中枢に居る人間であり、彼らの意識からすれば、その行動にも十分の合法的根拠が備わっているのかも知れない、と。しかし、それには二点の必須条件がある。一つはゴルバチョフ大統領の病気が本物であること、もう一つは、26日に召集されるという最高会議での全面的な承認を受けることだ。それにしても、現在公表されている連邦条約の草案を拒否し、またペレストロイカの失敗を宣言してしまって、どのような脱出路が用意されているだろうか。朝から繰り返し読み上げられている諸「声明」にしても、経済の引き締め、社会秩序の強化といった一連の施策自体はそれなりに明瞭だが、全体的な経済プログラム・政治プログラムが全く読み取れない代物ではないか。


8月20日(火曜日)

 子供たちの学校が休校になったおかげで、朝は8時頃まで寝坊。
 10時の約束にしたがい、スヴォーロフ並木道のカメラ修理工房へ。途中、ヴァヴィーロフ通りの戦車群は姿を消していたが、プーシキン広場の《イズベスチヤ》本社やニキーツキー・ヴァロートの《タス》のビルの周囲には、それぞれ多数の戦車・装甲車が配備され、通行人を威圧している。だが、近くの《マクドナルド》の行列は、早朝というのに2・300mはある....
 カメラは直っていた。底のモータードライブ用接点から雨水が染み込んでIC回路が焼き切れたのだろうとのこと。修理代金は370ルーブリ。「モスクワではとうてい無理と誰もが言ったけれど、このとおり直った。あなたは偉大なマスターだ」。彼は肩をすくめただけ。これは気持ちだけ、と持参したコニャックの一本を進呈。
 カリーニン大通りに出ると、アルバート広場から《ドーム・クニーギ》にかけて、二ヶ所で路上にバリケードが作られている――もしそう呼びたければ。そこいらの建築資材やベンチなどを積み上げただけのもので、戦車などには何の妨害にもならないだろう。しかし、乗用車にとっては障害で、これはその脇をすり抜け、歩道に乗り上げて悪態をつきながら走り去っている。建物の壁には貼り紙:「祖国は危機に瀕している、ファシズムを許すな」。本日12時からベールイ・ドームで集会だとのこと。行ってみようかと気持ちは動いたが、13時のV女史との約束もあり、断念、帰途に。
 地下鉄《大学》駅でも、壁の貼り紙に人がたかっている。集会の呼びかけ。「ロシア共和国大統領令」、これは、国家非常事態委員会を名乗るグループの行為は違法であり、一切の法的根拠の無い行為であり、むしろ国家的な犯罪行為である、とするもの。概して人びとは無口に、これらの貼り紙ながめ、立ち去って行く。別のなぐり書きのビラをのぞき込んでいた若い男が、「ファシストめ」と呟いたのに、隣にいた婦人が「これを書いたのはコムニストでしょう?」と聞き返すと、彼は、「どんな違いがあるものか、同じだよ」と。すると、彼らの前でビラに見入っていた老人が振り返り、「いや、コムニストは民衆に武器を向けたりはしない、絶対に同じものではない」、と静かに喋った。別段の言い争いにもならず。
 約束の13時に、となりの建物11階の84号室、V女史の部屋を訪問。前回われわれが居たフラットより一部屋多い造りで、よく手入れされ、きれいに使っているという感じ。われわれ夫婦のために色々とご馳走を作ってくれていて、かえって恐縮した。キュウリやトマトは彼女のダーチャで作ったものだという。話題が9年前の思い出から現在進行中の事件のことになると、恐らくは無意識のうちに、部屋のドアを閉めてから、「これは民主的なことではない」と言う。ゴルバチョフは気の毒だ、とも。あまり口数が多くないが、その後、最近の物価の上昇のことなどになると、一つ一つ商品の値段を数え上げ、いかにそれらが高くなり、生活は苦しくなったかを相当に詳しく話す。途中で、年金生活者の夫君が帰宅。歯医者に行っていたとか。彼も必ずしも政治的な話題は好まないらしく、日本の車の話など。二時間ほどで退出。短時間でウオトカの一本を空けてしまった。
 降り出した小雨の中を帰宅すると、留守番をしていた子供たちが、隣室のT氏が日本の本社からの帰国命令で急遽帰国したと話す。驚いた。われわれ以外にこの建物に住んでいる唯一の日本人が突然居なくなってしまったわけで、心細い気もしないではないが、何を慌てているのかと不思議でもある。
 18時、J氏[われわれのロシア語の先生]が来訪し、いくつかの情報交換。これは明らかに反民主主義的な、展望の無い企てだとしながらも、彼の態度は一般に冷笑的なものだ。昨夜の国家非常事態委員会の記者会見を見て、人びとは笑っていると言う――これはみんなゴルバチョフの友達ではないか、と。今後どうなるかは簡単には予測できないが、特に外国人には何も危険は及ばないだろうから、心配しないようにと三砂子に言い、しかし念のためにと、隣人の電話番号[大学の講師である彼の自宅に電話が無い]を残して、彼は帰って行った。
 大使館からは二回電話連絡があり、ベールイ・ドームへの攻撃がまもなく始まるぞとの話と、夜間外出禁止令が出そうだから夜9時の《ブレーミャ》に注目しておくようにとの連絡。後者は本当のことになった――モスクワ軍管区指令官は、いかにも気の乗らぬ調子で、23時から翌朝5時までの外出禁止令を読み上げた。あとは、《ブレーミャ》では、モスクワの平穏さが強調され、また国家非常事態委員会の指示にしたがい、警察・検察機関の活発な取締りが効を奏し始めたとのこと。オクチャーブリ区の検察庁によりいくつかの経済犯罪グループが摘発されたが、科学アカデミー本部を舞台にした犯罪グループさえあったと。
 夜半になってもそれ以上のニュースは無し。思い立って《 Radio Japan》を聴こうと、悪戦苦闘、1時半頃になってやっとそれらしきものを捜し当てたが、日本の深海探査船の記事を長々とやっている。と、そこへ日本から電話――共同通信。「軍がバリケードに攻撃を開始、5人が死んだとのニュースが入ってきたが」、と。何が言えよう。同時にラジオの方もニュースを伝え始めた。3人が死亡、10人が負傷、銃撃戦と。今日昼間に見たカリーニン大通りのバリケード付近らしい。撤去に向かった軍に市民が石や火炎瓶を投げ、一部に銃撃戦も起こっているらしい。もちろんこの辺りには何のもの音も、ざわめきも響いては来ないが。


8月21日(水曜日)

 国家非常事態委員会の企図はどうやら三日天下に終わった模様。間もなく軟禁されていたゴルバチョフがモスクワに帰って来る。
 しかし、まずは時間系列に従って。
 遅くに就寝したにもかかわらず、5時半頃にH事務長の電話で起こされてしまった。「そろそろ帰国準備をされた方が良いのではありませんか」、と事務長。「しかし、この住居付近を見る限り、さして危険とも思われないので、当面は様子を見るつもりです」、と私。ついでながらと、「9月21日からは授業開始ですのでお忘れなく」、と念を押されてしまった。
 テレビは朝方のニュースで、戦車の下敷きになって2人が死亡と伝え、外国製の銃、火炎瓶などを使った組織的な挑発行為があったことを強調。しかし、そのあとは、例の通りの旧い映画や音楽会のフイルムばかり。
 未明からの雨が相当に激しく降っている中を外出。一つには、研究所に寄って私宛に来ているという手紙を受け取らねばならない。地下鉄《マルクス大通り》で降り、マネージ広場の様子を見ながら研究所に行こうとしたのだが、広場側の地上への出口は迷彩服姿の兵士たちにより封鎖されていた。別に殺気だったものも感じなかったが、不気味であることにかわりはない。反対側の階段を上がり、広場の様子をうかがうと、数十台の戦車がびっしりとトヴェリ通りの入口を封じ、その前に雨合羽姿の兵士たちが密集整列している。とうてい通れる風でなく、仕方がないので地下鉄で《レーニン図書館》まで引き返し、地上へ。
 ここでも、クレムリンの側には多数の戦車や装甲車が見られたが、カリーニン大通りは車も含め自由に通行できている。研究所にたどりついてみると、ここではのんびりと天井のペンキ塗りをやっており、しずくを浴びぬように注意しながらやぐらの下を通って国際部の部屋に行くと誰もいない。4階の刑法セクションの部屋では見かけたことのない若い男が長電話の最中で、手振りでニーナ[セクションの秘書]は? と尋ねると、手を広げて知らぬと応えるので、諦めて帰途に。 参謀本部の横にさしかかったところで、アルバート広場の方から来るニーナに出会った。傘をさし、いつものように右足を引きずっている。片手に下げた買物袋が重そう――どこかの食料品店で行列に並んでいたのだろう。彼女と一緒に再度研究所へ。「どこもかしこも戦車ばかり。《レーニン図書館》からは簡単に来れたか」などと尋ねる。「一体どうするつもりなんだろう、あの人たちは」とも。不快感がありありとうかがわれる調子で。
 手紙自体は何と言うこともない、学術振興会からの単なる事務連絡。
 カリーニン大通りに出ると、アルバート広場西側のバリケードはそのままだったが、《ドーム・クニーギ》の前のトロリーバスなどは片付けられていた。人びとの流れに沿って、西方へ。レストラン《アルバート》の近く、サドーヴォエ環状道路がカリーニン大通りの下をくぐる付近で、今朝未明の衝突はあったらしい。環状道路はトロリーバスや乗用車を主体としたバリケードで封鎖されており、多くの人が集まっている。コメコン・ビルからベールイ・ドームに近付くにつれ、多くの戦車や装甲車が目につくようになる。付近一帯の道路には、おびただしい数のトロリーバス、建築資材、コンクリートパイプなどを使ってのバリケードが作られ、そこかしこに人びとが集まり、議論の輪ができている。傘もささずに呆然と立つ男性、手をとりあったまま泣いている二人の老婦人。ベールイ・ドームの前では集会。相当の人数。ロシアの三色旗が振られている―― 今日はロシア共和国の最高会議が開催されているはずだ。
 足が疲れたので引き返そうと、サドーヴォエ環状道路の方へ下がって行くと、所々に人垣ができ、何かを指さしたり十字を切ったりしている。路上に散乱した花束。恐らくは犠牲者が出た場所だろう。
 やっとつかまえた白タクで疾走しながら、運転手氏との話。彼は、何のために人びとがこの辺りに出かけて来るのかわからない、と言う。物見だかい見物人は自分を危険にさらしているだけではないか、と。今回のクーデター騒ぎについての彼の意見を聞くと、自分には関係が無い、上の方がやっていることだ、というだけで、格別の関心も無さそうだ。今朝未明の犠牲者が出た一件も、初耳という感じ。
 ここ何日分かの新聞が届いており、改めてこれを読んでみる。すでに昨日の《イズベスチヤ》にも、多くの兆候がうかがわれることに注目。ソビエト広場での大集会の様子――ポポフ、シェワルナッゼなどが演説――、軍の一部がロシア共和国側についたこと、ロシア共和国の代議員等がルキヤノフにつめ寄ったことなどが報じられている。その一方で、国家非常事態委員会の活動については、公式的な決定、声明などのみ。
 午後4時頃、買い出しに出かけていた三砂子が、レーニン大通りのガガーリン広場付近で、南方に去って行く戦車群を目撃したそうだ。戦車のいくつかはロシアの三色旗をはためかせ、花を飾ったものもあり、乗っている兵士も嬉しそうだった、と。
 夕方になって、多くの情報が一挙に流れ始めた。いままで静止していたテレビの各チャネルの画面が突然に動き始めたよう。賑やかになった。国家非常事態委員会の企図は失敗に終わったのだ。
 その後は、さして重要でない多くの事実――美しいものも、醜悪なものも。ベールイ・ドーム防衛陣の若者たちの上気した顔、ロシア共和国最高会議のめちゃくちゃな議事運営での「勝利集会」、パヴロフの病気の報道、ベススメルトヌイフの弁明の記者会見.... 国家非常事態委員会のメンバーの多くは行方不明、一部はクリミアに逃亡という。
 夜、日本のU君から電話。昨日から申し込んでいた電話がやっとつながったと思うと、騒ぎも一段落したようで、なんとなく間の抜けたことになった、と笑っていた。彼とも話したのだが、国家非常事態委員会の側の読みの甘さ、準備不足、そしてロシア共和国指導部の迅速な反応が、今回の結末につながったのだろう。


8月22日(木曜日)

 朝のTVニュースではゴルバチョフ大統領のモスクワ帰着の映像を流した。ノーネクタイでジャンバー様の上着を引っかけただけの彼は、日頃に比べ元気がないものの、相当の長広舌をふるった。要するに、今回の事態の推移自体が、85年以降のペレストロイカの社会過程の成果を示すものだということで、これはおそらく本当のことだろう。ソビエトの民衆はもはやかつてのそれとは違うのだということを示してみせたのだ。
 慌ただしさの中で忘れていた出張の件を思いだし、キエフのS教授に電話。今回は在宅で、「キエフは全く静かだったが、モスクワはさぞかし大変だったろう」と同情された。切符を手にいれたら、到着時刻と号車番号を知らせよと言う。[アカデミー渉外部の]ノギン氏に会いに行かなくては。
キエフへの手みやげにするべく、《月桂冠》を買おうと、《グム》の中の《Stockmann》へ。しかし、意外にも全く姿を消しており、一方で「ゴス・バンクの指示により、買い上げ額に10.5%の手数料を加算する」との掲示が新たに貼り出されている。こころなし、客の数も少ない。コーヒー等、若干の物を買って帰途につこうと、赤の広場を出ようとすると、ホテル《モスクワ》の前に演台が組み立てられ、人が集まり始めていた。
一体何が始まるのか、と思う間もなく、マネージ展示場の向こうから人の波が押し寄せて来た。――本当に、何時か見たことがあるだろうかと疑うほどの数の人、数十万人といったところだろうか。年齢も服装もまちまちの男女、仕事を切り上げて職場から抜け出してきたような感じの人びと、表情は明るい。あまり整然としたデモではないが、生き生きしている。ロシアの三色旗や簡単なプラカード――クリュチコフくたばれ、勝利!、エリチン万歳、などなど。最も声高らかに叫ばれていたのは、「КПСС打倒!」のシュプレヒコールだった。つまりは、彼らはベールイ・ドーム前の集会からデモ行進でここまで来たのだと、納得しつつ、しかし、よく集まったものだと感心しながら見物していると、ホテル《ナツィオナーリ》の前でF先生に会った。研究所を出たところでデモに巻き込まれ、ここまで来てしまったとのこと。先生と情報を交換しながら集会の開始をしばらく待ったが、延々と人の流れが続くばかりで、赤の広場も埋まったのではないかと思う頃になっても、まだマネージの向こうには人の波が続いている....  諦めてここを立ち去ることに。
 地下鉄《10月広場》で表に出て、トロリーバスでアカデミー渉外部へ。この付近では何の動きも感じられず、平穏そのもの。しかし、ノギン氏は、残念ながら切符を渡せるのは明日の午後だ、と。
 5時過ぎにJ氏が娘をともなって現れ、今日づけの《独立新聞》を届けてくれた。「大きな行列だった」そうだが、彼の行動原理も、行動パターンもよくわからない。なぜ今日のような平日に、モスクワ大環状線の外に住んでいる彼が、学校に行っているはずの娘を連れて、街をうろついているのか....
 今夜の《ブレーミャ》のニュースの一つは、ナザルバエフ大統領の声明で、そこではКПСС中央委員会の書記局がカザフの党組織に対し国家非常事態委員会の行動を支持せよとの支持を発していたことが暴露されていた。 ”物証”が出てきたわけで、КПССとしてはずいぶんと苦しくなったに違いない。 少なくとも、書記局の総入れ替えでもしなければおさまらないだろう。改めて今日の昼間のデモの様子が思い浮かぶ―― 「КПСС打倒!」のシュプレヒコールに何万もの群衆が唱和していた光景が。


8月23日(金曜日)

 当然にこのことは予想すべきだったのだ。 ――昨日の興奮状態を長引かせたい心理状態が人びとを駆り立て、КГБ本部、内務省、КПСС中央委員会などを標的としての騒擾をつくり出している。これら建物の周囲では、数万単位の群衆がデモを繰り返し、ジェルジンスキーの像を引き倒し、スヴェルドロフの像にロープをかけている(テレビで見た彼の像の首には、《ツアーリ殺し》の札が懸けられていた)。
 昼から夜にかけて、断続的に、ロシア共和国の議会に姿を見せたゴルバチョフと代議員のと応酬をテレビで見た。最初はかなりに儀礼的な、ゴルバチョフのロシア議会への謝辞――ロシアが連邦を救ったことへの。しかし、途中から議場と彼との応答になってしまった。マイクを奪い合うようにして、代議員たちの厳しい質問あるいは非難(今回のクー・デターにあなたは責任はないのか、ロシアでの共産主義の実験は失敗に終わった以上、共産党は解散すべきではないか、など)は続き、その集中攻撃に一人で対応するゴルバチョフの姿は、雄々しいというよりは、むしろ痛々しかった。ЦКだけでなく、共産党全体に対する攻撃に公式の場で対応できるのは、考えてみれば、現在では彼しかいないのだ。その彼の前で、エリチンはロシア共産党の活動停止の大統領令に署名してみせた。恐らくは、「一部の指導者が誤りを犯したからと言って、党の活動自体を禁止するのは、不当、反共ヒステリーだ」としたゴルバチョフの方が正しいのだろうが、議場の雰囲気も、議場の外の市民の感情も、もう止まらない。これほどまでの憎悪を受けるまでに、КПССは不法非道な行ないを重ねてきたのだろうか。昨日F教授が口にしたような、「スターリン時代の負の遺産」というような要素だけで片付けることはとうていできそうにないし、逆に、民衆の一時的な激昂に過ぎぬとしてしまうことは、それ以上に誤りだろう。
 街ではすでに、人びとの口から「8月革命」という言葉が流れ始めた。
 朝、ИНИОН[社会科学情報研究所]で少し仕事をして、そのあとホテル《ペキン》にできたドイツの店に寄ってキエフへの土産にするチョコレート類を買い込み、アカデミー渉外部で切符を受け取って帰宅。街のキオスクで今日の新聞を買おうとして果たせなかった――けた外れに長い行列があるか、何も売っていないか。地下鉄《プロフサユーズナヤ》の通路で《法律新聞》の新しい号を買ったのみ。配達もされない。
 17時にJ氏が現れ、授業。合間の雑談からも、彼がこの間の事態についてかなりに醒めた評価をしている風がうかがわれる。明日の「国葬」に行くのかと尋ねると、彼は行かぬ――もし私が行くのであれば、同行するが、と。しかし、私の気持ちとしても、行きたいとは思わない。
 夜半近くになって、日本人学校の電話連絡網を通じ、明日は休校との連絡が入った。「国葬」で相当の混乱が予想されるのだそうだ。


8月24日(土曜日)

 早朝から、テレビの全チャンネルがいかにも荘重そうな音楽を流し、「国葬」のための舞台準備に余念がない。10時頃からは、マネージ広場で開かれた集会の中継。数十万人は集まったのでではないか。ポポフ、ルツコイ、次いでゴルバチョフが演説――それほど長くなく、相当に儀礼的。3人の犠牲者は「ソ連邦英雄」の称号を授与されたが。しかし、その次に登場したボンネル[サハロフ博士夫人]の演説はすさまじかった。例のかすれた声で、最初、犠牲者の母親たちを慰める言葉から静かに始まったものが、段々と熱を帯び、やがて、コムニストたちを非難し、「この償いをさせねばならない!」との絶叫に至るまで、よく練られたアジテーションになっていた。集会全体の雰囲気が明らかに変化するのが見て取れた。わが国などではもう薄れてしまった、《演説》の力が、ここではまだ生きながらえている....
 夕方まで、断続的にテレビを見ていたが、「国葬」はそのあとカリーニン大通りをデモし、ベールイ・ドーム前での集会ではエリチンが演説し、ヴァガニコヴォ墓地へ埋葬するまで、延々と続き、それだけで人びとは疲れてしまったのか、その後に予想された騒動はなかった様子。
 昼、以前から気にかかっていたNさんを食事に招待。これまで日本で漠然と想像していたソビエト像と現実との落差の大きさに打ちのめされたような気がしていた所へ、今回のクーデターとそれに引き続く諸事件.... 強烈な印象の集積を必死に整序しようと努力しているところだ、と。彼女を送って、タクシーでオリンピック村との間を往復。日ソの友好に残された人生の何割かを捧げようと決めている彼女が、相変わらずロシア語を勉強する気にはなれない、ということの不思議。彼女は明日一旦帰国する予定。
 夕食後、子供たちの質問に答えてこの間の事態を説明しているところへ、T君から電話。やはり予定通りに[キルギスで開かれる環境会議に出席のため]モスクワに来たそうで、ホテル《インツーリスト》に入ったとのこと。ホテル付近は全く静かだと聞き、会いに出かけることに。30分後に、ホテル1階のパーラーで、1ドルの缶ビールを開け乾杯。同行のK先生、K女史も一緒。彼らとの話は、当然にこの間の事態をめぐることになる。日本での過剰な報道ぶりをいろいろと聞く。K先生からは、私の談話が京都新聞に出ていたと言われ、恐縮しつつ、事情を説明。
 こんな時世でも、例の淑女たちのビジネスは繁盛らしく、そこかしこで商談を交わす姿が目についた。
 3氏とともに、夜の街を散歩。ジェルジンスキー広場では、照明もない暗がりの中、かつて像が立っていた台座の周囲に相当数の人が集まり、台座を金槌でたたくなどしている。かけらを集めて、売るのだそうだ。ボリショイ劇場の向いのマルクス像の下部には落書き――白く、「私を許してくれ!」と。
 明朝早くキルギスに飛ぶという彼らと別れて帰宅すると、《Вести》[ロシア・テレビのニュース番組]で短く、ゴルバチョフがКПССの書記長を辞任とのニュース。


8月25日(日曜日)

 日曜日ということで、多少寝坊し、そのこともあって午前中はさしたる仕事もせず、時折テレビニュースを追いかけていた。
 昼過ぎに、Nさんが来訪、日本への郵便物を持ち帰ってくれるために。空港まで彼女を送って行くK氏[Nさんの知人で日本びいきの民警隊員]は、明日から二週間ほど黒海に出かけ、泳いでくるとのこと。遅れた”休暇”だそうで、この間の事態のことなど、全く気にしていない。
 騒ぎのおかげで、しばらく家に閉じこめられていた子供たちがせがむので、3時頃から外出。地下鉄《ジェルジンスカヤ》で地上に出て、かつてのジェルジンスキー像の台座に集まった人びとを見る―― 写真屋までが店開きをしていた。われわれも、КГБ本部の建物を背景に、子供たちを台座の横に立たせて写真。次いでマルクス像。昨夜の文字は薄れて読みにくくなっていたが、それ以上にきたなく汚されていた。スヴェルドロフ像もやはり無かった。こちらの台座は無惨に壊れ、これを取り囲んでさらにハンマーを振るったり、ペンキの缶を持って歩く多くの若者たちが居た。楽しそうに。
 その後、レーニン博物館(閉め切って、窓にはカーテン、表の看板は取り外されていた――通行人の仕業か、館員自身の措置か――)の前、アレクサンドロフ公園を経て、カリーニン大通りへ。そして、これは全く予想外に、カリーニン像も無くなっており、台座には白いペンキで”WASP”とか ”Iron Maidon”などの落書き。バンダリズムの所為以外の何物でもない。
 アルバート通りでいくつかの買物―― われわれのモスクワ滞在もあと一ヶ月、真剣にみやげ物の心配をしなくてはならない時期になった。日曜日とあって、ここは相当のにぎわい。公然とドル紙幣を出して絵を値切ろうとしている外国人らしい夫婦連れなど。しかし、路の両側に並んだ商品はどれもこれも同じ様な物ばかりで、工夫がない。おそらくは一手にこの通りの商売を取り仕切っている卸し元があるのだろう。一向に購買意欲がそそられない。しかし、みやげ.... S教授が言っていたように、これはまさに「永遠の問題」なのかもしれない。
 《スモレンスカヤ》駅から地下鉄に乗るのをやめて、外務省の横から環状道路を歩いて例の、事件のあった場所まで。焼け焦げたトロリーバスなどはまだそのままにしてあり、見物人はまるで雑踏のようにあふれていた。新しいモスクワ名所になったようで、飾りたてた車を止めて、新婚カップルらしい二人連れが花束を供えて行く光景も。
 これらを、子供たちは何を感じながら見ているのだろうか....
 帰途、タクシーの窓から確認。オクチャーブリ広場のレーニン像は今のところ無事だった。足元の100人ほどの人だかりが多少気がかりだったが。
 ロシアに引き続いて各共和国の最高会議が次々と、自国領域内での共産党の活動停止措置をとっている中で、昨夜、КПСС中央委員会は自己の解散を決定したとのこと。一瞬耳を疑うような情報だが、事実のようだ。とすれば、88年のボリシェヴィキ党の歴史はここに終わりを告げたことになる。あまりにもあっけなく.... これを一体どう評価すべきだろうか。たしかに、この間の事態の推移自体が、すでにこの党の生命力の枯渇を露呈していたとはいえ、レーニンの指導の下に組織され、史上初めての社会主義革命を遂行しえた党、多大の犠牲をはらいつつファシズムとの戦争に勝利したソ連邦を長年にわたり指導してきた、世界最大の共産党が消滅しようとしている事実の持つ意味は果てしなく重い。今日の《ブレーミャ》では、閉鎖された地区委員会(オクチャーブリ地区?)のガラスのドア越しに投げ込まれた党員証の山が映されていた。沈みかけた船からの脱出過程の進行。早晩、この国は共産党が存在したという事実すらも忘れ去るのかも知れない。だがそれにしても、と思う。この国の74年間は一体何だったのだろうか、彼らロシアの民衆にとって、そしてわれわれにとって、と。

バクラーノフ:連邦国防会議副議長
クリュチコフ:KGB議長
パヴロフ:首相
プーゴ:内相
スタロドゥプツェフ:農民同盟議長
チジャコフ:産業連盟総裁
ヤゾフ:国防相
ヤナーエフ:大統領代行


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