ラスコーリニコフの家



 運河めぐりの観光船から降りて、そこがかつてのセンナヤ広場であることに気づき、ふと思いついてすれ違う人に声をかけてみた。
 「ちょっとお尋ねしますが、ラスコーリニコフの家をご存知ありませんか?」
 「ラスコーリニコフって、あの?」
 「そうです、ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公」
 家族連れの外国人の唐突な質問に、重そうな買い物袋を下げた老婦人も、学生らしい口髭の青年も、急に親しげな微笑を浮かべて立ち止まり、「あの角を曲がって少し行くと……」とか、「たしかにこの辺りにあるとは聞いたことがあるけど……」と、それぞれに教えてくれる。一〇人ほどに尋ねて結局諦めたのは、どの人もみんな別々の場所を示したからだったが。
 一昨年の七月、白夜の気配の残るレニングラードの街角での出来事が、そこに立っているわれわれの姿とともに、この都市がもうサンクト・ペテルブルグとなってしまった今も、遠い昔の情景のように懐かしく思い出される。

                    * 洛星中学新聞 卒業記念号(1993)に公表。


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