2004年夏 サンクト・ペテルブルグ





 動き始めた列車のコンパートメントの窓から,これが最後のレニングラードだろうと,街の灯を眺めた夜から13年経って,この夏,文部科学省科研費による共同研究の一環としてペテルブルグに調査に赴くこととなった。もともと,「グローバリゼーションの時代における人間の安全保障と国際組織犯罪」という研究テーマからすれば,ロシアをはずすわけには行かないことは自明だったのだが,いかにも気が進まず今回まで引き伸ばしてきたものだ。

 一行は4人(上田,松宮,倉田,新美[憲法・名古屋経済大学])。今回の出張の目的は,まず,テーマに関連する彼の地での研究状況の調査であり,次いで研究上の国際ネットワークを組む上でのパートナー関係の確立であった。さらに一般的には,プーチン政権下に急激に変貌しつつあるといわれるロシア社会の諸側面を実見することをも目的としていた。出発当日,関空で入手した朝日新聞朝刊の1面に,政府が刑法に「人身売買罪」を導入する方向の改正を決意した旨の記事が載っており,われわれがすでに12月の国際シンポジウムの主題としてこの問題を設定していることと思い合わせ,われわれの研究テーマがまさにアクチャルなものであることを再確認しながらの出張であった。

 

検察庁法律学研究所

 今回われわれを受け入れる労をとってくれたのはギリンスキーГилинский教授で,彼はロシア科学アカデミーの社会学研究所で逸脱行動研究センターを立ち上げ,その責任者を勤めている著名な犯罪学者である。96年に来日された際に会って以来の知人。

818日の朝,ホテルのロビーで再会の挨拶の後,彼が調達してきた車(横腹に大きく検察庁と表示したもの)でリテイヌイ大通りЛитейный проспектの検察庁の法律学研究所へ。副所長のカレースニコフКолесников教授に迎えられ,ミリューコフМилюков教授,ポポフПопов教授を交えて懇談。研究所の活動からサンクト・ペテルブルグの現在の犯罪状況に至るまでのさまざまな話題。当然,わが国の,われわれの研究状況の話にも及ぶこととなったが,正直,比較にならない。彼らの生産力には驚かされた。この5年間に研究所の刑法・犯罪学セクションが出版したモノグラフィーや論文集だけでも20冊ほどになり,紀要や教育プログラム等のブックレットになると何十冊にもなるだろう。しかも研究所は教育活動も行っており,300人以上の院生を抱えているとのこと。帝政時代を含め歴代の検事総長の肖像を並べた壁についても説明を受け,ポポフ教授の部屋では彼のコンピュータ化された論文データベースを見せられた(欲しそうな顔をしたのだろうか,後でCDに焼いてくれた)。

 研究所を辞去して,同じ車でネヴァ河に沿って走り,青銅の騎士像の前まで。観光客の一人として写真に納まり,またネヴァ河の岸にたたずんだ。幸いに空は晴れ,金色に輝くペトロパブロフスク要塞の尖塔の背景には白い雲,絶好の天候,まさに息を呑むようなパノラマだった。

 

第7男子矯正労働コロニー

 翌朝,ギリンスキー教授に伴われて地下鉄でラードジスカヤЛадожская駅まで行き,地上に出て道を尋ねながら第7男子コロニーМужская колония 7へ。近道をと鉄道線路をまたぎ横切り,水溜りに気をつけながら足元の悪い道をたどって,薄汚れた施設の正面にたどり着き,小銃を肩からかけた警備兵の動きを眺めながらかなり待たされた上で,中へ。

所長は大佐の肩章をつけた50歳ぐらいの男性で,最初は緊張している様子で言葉が少なかったが,施設の概況を説明してくれる。一般の厳格レジームの施設,1500人程度を収容しているが,就労しているのは約半数。あとは病気,教育,営繕作業などに従事。民族構成はさまざまだが,宗教戒律にかかわった問題は生じていない,など。面白かったのは,収容の原則・目的などを尋ねたとき,あっさりと「それは隔離だ」と言い,再教育や社会復帰は目的としないのかと確認すると,この年になった受刑者を教育するのは困難だと言い切ったことだ。

背の高い精悍そうな少佐が呼ばれ,彼の案内で施設見学へ。

 しかしこれは── 奇妙に緊張を欠いた施設だ。居住区画は4階建て,それが4つの区画に分けられている。あちらこちらに猫が寝そべり,囚人が三々五々タバコを吸いながら談笑している。今日は労働日のはずだが。少佐の姿を見ても,格別に緊張して見せるわけでもない。彼らはいわゆる「営繕」要員なのだろうか。各区画,部屋の入り口で補助役の囚人が大声で状況報告をするのは日本と同じ。食堂,独房,収容区画(75名用の部屋には簡単な二段ベッドが並び,それぞれのこれまた簡単な荷物箱。ベッドの枕元には手書きで,氏名,該当刑法条項,刑期が書かれたカードが貼られていた。刑期はさまざま──3年もあれば28年もある)。懲罰房はまさに穴倉としか。

 作業区画に移動。この区画では禁煙,と建物の外壁に大きく書いてあるが,少佐は時折タバコをふかしながら案内してくれる。家具製作所,金属加工作業場,陶器製造作業場など。少佐は徹底的に見せてくれるつもりらしい。すでにかなり時間を食っており,たまりかねてギリンスキー教授と相談して少佐に,見学はこのあたりで,と。

 少佐は最後の陶器工場から何かを持ち出して,彼の執務室へ移動。お茶をご馳走になりながら,補足的にいくつかの質問。たとえば,看守は武器を持たないのか。これについては,施設の中では持っていても意味がない,まったく持たないと明確な返事。これまで大きな事故はないとのこと。最後に,やはり,陶器工場での作品の小粋なティー・カップをそれぞれにくれた。

 

ペテルブルグ大学法学部

 サンクト・ペテルブルグ大学法学部では,ルキヤノフЛукьянов副学部長に迎えられ,学部長室で懇談。建物の外観も内部も,ひときわきれいで,手入れも行き届いているとの印象。まず副学部長から大学法学部の概要説明。学部の歴史,とりわけ90年代初めからの激動期のそれ。建物一つ,学生300人,教員120名あまりで出発 98年まで,教員の給与と学生の奨学金についての細々とした給付以外,法学部を支える何の財政措置もなかった。冬場にはまともな暖房もなく,学生はコートを着て,手袋のままでノートをとったほどだったし,教員の方も同じだった。だが,それから,プーチン大統領の登場とともに画期的な発展が始まった──今日では,法学部は5つの建物,5000人の学生を擁し,しかし130人あまりの教員でやっている。研究も教育も。

 とりわけ市場経済へのロシア社会の移行とともに,法律家への需要は高まり,法学部の人気は上々,多くの通信課程在籍者,科目履修生を抱えている。近年は当法学部以外にも法律家の養成が流行であり,ペテルブルグだけで30もの教育施設があり,中にはいんちきなものも多い。だいたいがそれだけの充分な素養を持った教員を集めることは不可能で,多くの弁護士,中には元の警察官などまでが教壇に立っている,と。

 

 途中で私の89年の本が図書室から届けられ,まさしく言葉を尽くして褒められた── およそ刑法と犯罪学に関するロシアの専門家の中で,この本を読まなかった者はいないだろう,その著者が訪問された,と。恐縮して言葉も無かった。おそらくは,日本に関する情報が当時は少なかったために,ちょっと珍しかったというだけのことだろう。が,本は書いておくものだ。

 

 施設見学に出発。廊下のそこかしこにロシアの著名な法律家の胸像や肖像画,写真が飾られ,この学部の伝統と歴史を物語っている。教授会(ученый совет,つまりは評議会)の開かれる部屋。一方の壁には歴代学部長の肖像画。大刑法学者フォイニツキーФойницкийも民法のベネディクトフВенедиктовもいた28の椅子の上手の一つがプーチン大統領の席──何と彼は現職の評議員だという。この部屋の上にはバルコニー形式の傍聴席が取り囲み,博士論文の審査会などの際には傍聴席も一杯になるそうだ。図書室は完全にコンピュータ化されており,図書貸出状況確認も検索あるいはデータベース利用も,自由にできるとのこと。大きな閲覧室の周囲と室外に無数の端末が並んでいた。

 ここにはロシアの大学としては珍しい教員の個人研究室がある。5階の,まさに屋根裏のような位置に,斜めの天井に窓を切ったつくりで,それぞれ10u程度のものだろう。明らかに狭い。だが,あることが重要なのだ。

 教員談話室のような部屋にはわれわれのそれと同じようなコーヒーメーカーとテレビ,新聞。壁には某知事が贈ってきたというシベリア狼の毛皮が恨めしげに。

 見せてもらった教室(120席)はごく普通のものだが,小ホールは衛星通信による国際会議やサテライト講義ができるとのこと。大ホール(360席)は移動式の座席で,さまざまな用途への変更が容易になっている。6ヶ国語の同時通訳システムをそなえており,近いところではシュレーダー首相への名誉学位授与式に使われたとのこと。

 どれをとっても,予想をはるかに超えて見事だ。相当の費用のかかったことを想像させ,権威と美しさを印象付ける。ルキヤノフ副学部長の言葉の端々にうかがわれるのは,プーチン政権との共栄関係。

 大きく華美な訪問者帳に署名。プーチン大統領やシュレーダー首相も記載したものと聞くと畏れ多いことだが,検事総長の次のページに。

 

「北のベニス」から帰国して

主要な目的が研究施設および研究者とのコンタクトにあったとはいえ,ペテルブルグに来てその歴史遺産に目をふさぐことはむしろ不自然だ。われわれもプーシキンの讃えたネフスキー大通りを歩き,エルミタージュの蒐集品に一日を割き,ペトロパブロフスク要塞,イサク寺院を訪れ,青銅の騎士に挨拶した。しかし,それらについては別の文章が必要だろう。

われわれの帰国した翌日にモスクワを発った2機の国内便航空機が爆破され,その直後にはモスクワの地下鉄駅での自爆テロ,ベスランでの小学校占拠事件と続いた。まさに「人間の安全保障」というわれわれのテーマの今日性を象徴するような事態の経過する中での出張だった。

 最後に,ここで述べておいた方がよいだろうと思う二三のことについて。

 一つは,今までともすればわれわれの目が十分には向かなかったペテルブルグでの研究活動の充実ぶりである。ギリンスキー教授という権威と実質的な研究力のあるパートナーを見つけ,彼を仲介としてこの地の多くの犯罪学者・刑法学者にコンタクトが取れたことは,われわれにとって今後に生きる財産となるだろう。

 だがそれよりも,第ニに,われわれに強く印象付けられたのはポスト・ソビエト時代の貧しさだ。物質的にはどうであれ,何よりも精神的意味においての。インテリゲンツィアは,おそらく口を揃えて,旧体制の束縛と空虚さを批判するのだろうが(現に,今回それを何回聞いたことだろうか),新しいものはまだ形を示さず,それがどのようなものかを推し量ることは困難だ。粗野な資本主義,と誰もが言う。しかし,その初期段階でも,終わり近くでもなく,むしろ資本主義ですらないのではないだろうか── 思いつきで言ってしまえば,上層にはコラプションの複合体,多くの市民は自失と猜疑の渦から抜け出す手がかりを未だにつかみかねているというのが,あるいは,正確な表現かも知れない。

 したがって,第三に,帰途に立ち寄ったヘルシンキの印象が異様な輝きさえ見せることになる。それにしても,と思うのである── 今日のロシアがフィンランドの水準に到達することはあるのだろうか,と。インフラの整備において,また市民の表情において,と。

 
Ritsumeikann Law School NewsLetter No.39


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