UBC、WCLおよびニューヨーク旅行
                                                                          (2002.09.05.〜09.15.)


9月5日
 San Fransiscoから2時間の飛行でVancouverに到着。空港は拡張したのだろうか、ただっ広く、やたら東洋系の顔が目立つ──韓国語のアナウンスが流れたりしている。予想したほどには寒くなく、快適。20℃ぐらいのものか。San FranciscoまでのUA機で落としたらしいノートと辞書(関空で買ったばかりの)を探してもらうよう大**さんが窓口を探していたが、どうもうまくいかなかった様子だ。
 一旦ホテルに落ち着いて(前回には*道さんが泊まっていたHotel Vancouverで、これまた"すごい"ホテルだ)、軽食をとりに街に出た。前回の中華料理屋を敬遠して、ギリシャ料理の店に。甘い白のハウスワインで珍しい、しかしなかなかいける味のギリシャ料理をつつきながら、まずはここまで無事に到着したことをお互いに祝った。私自身は98年の3月以来のVancouverだ。街には──以前も居たのだろうか──物乞いや交差点で止まる車の窓拭きの女性、ベトナム人ではないかと思われる小銭せびりなどが目立つ。
 部屋からは1日9.95ドルでインターネットに接続できると書いてあり、情報コンセントや10-baseTが用意されているが、今日のところはNiftyのローミングサービスで繋ぎ、三砂子[妻]に到着の報告とH君の相談に回答(それにしても、K君とM君の取り合わせのつまらないいかがわしさよ)。
 夕方にSeattleから出*君がやってきて、この間の情報交換。レンタカーで来たとのこと。
 ホテルに現れたDand.教授に初対面の挨拶をし、彼に同行の趙*博士も一緒に、歩いてBeijingという名のレストランへ。
 料理もレストラン自体も悪くなかったが、やはり、英語での会話の進行はつらいものがある。明日の再会を約束して別れた。
 ホテルに帰り、1階フロアのラウンジでジャズピアノの演奏を聴きながらマルガリータ。来る道中での話を大**さんが繰り返すが、どうするにせよ面倒くさいことだ。1時間ほどで、部屋に引き上げた。

9月6日
 朝は7時ごろに起き出し、インターネットに繋いで三砂子のメールを確認。いつも思うのだが、メールのやり取りでこんな風にお互いを思いやることが出来るのであれば、こんな外国出張も悪くない。8時に階下に集まり、どこかに出てコーヒーショップでも、と言っていたのだが、結局、朝はホテルのレストランでBuffetにし、15ドルほどを払った。
 昨夜かなり遅くまでかかってpresentation用の原稿にすべく手を入れたのだが、これをたどたどしく読み上げることにどれほどの意味があるのか、むしろ、テキストを各自で読んでもらったほうがよいという思いがますます募る。
 9時40分ごろに階下へ降りていくと、出*君が待っていて、そこへ東洋系の顔立ちの女性が現れてVivienne C.だと名乗った──昨夜のDand.教授の奥さんで、今日訪問するはずの国際刑事政策研究センターの研究員でもある人だった。4分の1は日本人とかで、親しみの持てる感じの女性。残念ながら日本語は出来ず、中国語と英語だけ。彼女の先導で、出*君の車に乗ってUBCへ。ホテルのあるDowntown(おそらくは繁華街ということだろう)やその周辺は整然とした町並みがそろい、大きな商業施設にしても、裁判所やコンドミニアム、果ては街路樹やそこを通る車、歩行者すらもが、とりすました大都市を示しているかのようなのに、郊外に出るに従い、道路沿いの風景が変化する。雑多な品を取り扱う商店群が雑然とつながり、舗道の補修は悪く、そこかしこに服装もまちまちな非欧米人が座り込んで通行する車をにらんでいる。つまりは、かれらnewcommerには市街地の面積は割り当てられなかったのだろう。中国人、ベトナム人、韓国人たちの、それでも、生命力の旺盛さを示すこれは例かも知れない。
 そしてUBC。このただ広い大学は、今回は3日前に始まった新学年度との関係で、それなりに学生であふれていた。ここでも東洋系やアラビア系と思われるような学生が多い。感覚的には3割を超えているのではないか。
 研究センターは記憶にあったとおりのたたずまい──灰色に塗られた木造の平屋──で、最初に通された会議室も以前のままだった。変わっていたのは所長がPreFontane先生からFrances Gordonという女性になっていたこと。もともとは警察のコントロールをしている委員会で仕事をしていて、最近に任命されたのだと。
 所長とKathleen M.という女性、それに先ほどのVivienneさんという女性3人に対して、既にメールで伝えてあった来訪の目的とわれわれの研究プロジェクトについて説明し、次いで、これからの共同研究の前提として日本の犯罪現象の現状と最近の動向について私の方からレポート。しかし、ペーパーを予めコピーしてあるので、要点だけ、ということになり、結局は大**さんの通訳を借りての説明に。プロジェクトへの参加については意欲的で、日本の犯罪と犯罪学の現状もかなりの興味を引いたようではあった。継続的な情報・資料交換、来年秋の「共同研究会」への研究員の派遣や04年5月ごろのセンターのシンポジウムへの招待などについて話し合い、具体的にはメール等で、と。
 入り江とWest Vancouverの山並みを見渡す絶景に向かい合った教職員用のレストランに案内され、Dandurand教授も一緒になって昼食をご馳走になった。
 午後はロースクールにBlom学部長を訪問し、今後の提携関係についての可能性を探るという目的での懇談。市*君の方からわが国の司法改革とロースクール問題について概略を説明した上でいくつかの具体的な協力関係のあり方を検討したが、全般的には問題の後送りという印象だった。「次の学部長に申し送り、具体的な可能性について継続して検討してゆきたい」とのこと。いかにも好人物だが、行政手腕はあるのだろう。6年の学部長任期の最終年度だとのこと。
 Salt.氏には挨拶だけ──彼がBlom学部長とのわれわれの面談に顔を出さなかったのは不思議な感じだが、新年度で忙しかったのだろうか。あるいは、見限られたか。
 Rits Houseを表敬訪問。事務局の武*さんの話ではもう11期生になるとのこと。現在のコーディネイタである国際関係学部の中*さんは若く、精力的な感じの人だが、ここで初めて会った。愛想のよい、礼儀正しい学生たちにも。1階トイレのコンドームの自動販売機も健在だった。Greenholz氏とも挨拶。
 学生のためのブックセンターを覗いた後一旦ホテルに帰り、出*君も一緒に食事に出かけ、今日はオイスターバー。新鮮な牡蠣とワイン、貝類と魚のHotBoleで70ドル(これは大**さんに借り)。
 これで出*君はSeattleで待つ妻子のもとへ帰ることとなり、車で出発。3時間ぐらいのものだとのこと。彼と一緒に、車の中に置き忘れた大**さんの鞄もアメリカへ。

9月7日
 窓の外が明るくなるのにあわせて目が覚めたが、今日は曇り。
 朝食のときの相談で、10時半ごろに街に出かけ、WaterFrontから美術館に回って、食事をして帰ってこようということになった。
 ちょっと寒く、持参したヤッケのようなものを上に着てちょうどよいくらいのもの。緩やかな坂道のBurrard通りを歩いているうちに前回の記憶がよみがえってくる。Waterfrontの大きな商業施設を通り抜けると、われわれの泊まったWaterfront Hotelのロビーに入り、見覚えのあるレストランを横目に、向かい側の港へ。大型のクルージング船が何艘も停泊しており、次の出発に備えての補修と清掃に忙しくしていた。こんな外洋船に乗り、長期間をかけてクルージングに興ずることの出来るような時は、いつであれわれわれには来そうもない。前回と同じにカモメの鳴き声はするが、季節も天候も違うためか、今ひとつ風景に感情移入できない。きびすを返して中心部の商業施設へ。地下になったGranville通りのMallの店みせを眺めて歩き、Banana Republicで土産のTシャツを買うのだと言う市*君を待ったりしたあと、Food Centerと称する一角へ。色いろな軽食の店が並んでいるが、圧倒的に中国系の料理が多い。7ドルほどのComboを頼み、食べたが、正直言ってまずかった。しかし、周囲を見渡しても、どこかで見慣れた光景ばかりのような気がするのは、世界の大都市全てが同じような表情を持っていると言うことなのだろう。これまたGlobalizationの表れなのだ。
 美術館は見るからにちゃちなもので、予定からオミット。Denverでの講演のことが気になる大**さんがホテルに帰ると言うので途中で別れ、市*君と裁判所、Robson通りのUBC校舎(社会人教育のためのサテライト施設のようなものか)、St. Paul病院などを眺め、散歩。この、赤紫蘇のような色で立つ街路樹の名前は何というのだろうか。
 街を歩いて、あらためて日本人の多さに感心する。若い男女が談笑しながらRobson地域の商店街にあふれている。さまざまな感想はありえても、格別に批判したり重大視したりする必要はないのだろうし、そうしたいとも思わない。
 Alberni通りを東へ歩くと正面にHotel Vancouverがそびえ、あれが793号室だとわかる。
 ホテルに帰り、原稿を手直ししたり一眠りして、6時に階下で中*先生と武*さんとを迎え、ちょっと迷った末に向いの中華料理店へ。
 この間のUBC生活の苦労話や、最近の立命の学生の特徴などから、UBCの留学政策についての変化の予測など、さまざまな論議。中*先生は広*大学から国際関係学部に来て、まだ2年余りとのこと。武*さんは10年ほどの職員歴となるが、ここに来る前はBKCの研究部に居たとのことで、私の研究部長時代のことなどについても。東北大学出身、上智大学の職員を経て立命へ、とのことだが、心なしか言葉に外国訛りがあるように感じられた──当人には尋ねなかったが。
 さて、明日はWashingtonへの移動日だ。朝は6時過ぎにチェックアウトすることにしたので、今夜中に準備をしておかなくては。

9月8日
 電話線を引き抜いてD.C.のアクセスポイントに繋ぎ、三砂子のメールの確認とTs.氏への連絡を済ませ、風呂に入ってこのところ気になっていた下着類の洗濯をすませると、もう11時半だ。今朝Hotel Vancouverを出たのが6時半だから、VancouverからChicago、Washingtonと、移動のために一日を費やしたことになる。もちろん、この間に3時間の時差があるが。
 空港に降り立ってまずその暑さに気づかされ、ホテルでは部屋のエアコンがフル稼働だったことで、あらためて夏の地域に戻ったことを実感した。
 Holiday Inn, Chevy Chaseはこれで3回目になるので、何となく古巣に帰ってきたような感じさえする。事実、従業員の質から調度のあれこれに至るまで、何もかもがHotel Vancouverとは比較にならない。しかし、この程度がかえって気楽ではあるのも事実だ。一階のレストランで遅い夜食をとっているところへ、シ**さんが現れた。2日前に着いたそうで、この間にV.先生などに会おうとしたがうまくいかなかったとのこと。明日からのWashingtonでの日程は彼と一緒ということになる。
 思えばWashingtonはこれで4回目になる。97年からの5年──この長い/短い期間に私自身も世界も大きく変わった、だろうか。何を得て、何を失っただろうか。

9月9日
 昨夜は一度しか目が覚めずに朝を迎えた。調子が戻ってきたのかもしれない。窓の外は今日も暑そうだ──テレビの予報では90度近くになるとのこと(つまり、摂氏32度だ)。
 朝10時半に階下に集合して、WCLに向け出発。この気温は30度ぐらいのものか、空気が乾燥しているのか、さほど苦にはならないが、日陰を探してそこに逃げ込もうという気持ちが働く。タクシーをロースクールの前で降り、例によってスターバックスの店でちょっと休もうということになって、コーヒーを買い、横のテラスに出ると、Dean、Din.ともう一人が立ち話をしていた。簡単な挨拶。
 WCLの前には小さな噴水ができたり、緑色の恐竜の置物が登場したりで、それなりに記憶とは変わっている。申し訳程度の植え込みと百日紅、白樺。その陰に並んだガーデン・テーブルに学生が座り込んで勉強していた。
 11時過ぎにDean's Officeに赴くと、驚いたことに、今日の訪問が公式日程として組まれ、時間刻みで予定と担当者が印刷されていた。近況を話しながら最近のわが国のロースクール問題の説明に移ろうとすると、食事をしながらにしようということで、近くのレストランへ。WCL側ではGros.、Din.、Chav.、Pop.、立命側は大**、市*、シ**、上田で、食事をしながら論議を再開。Pop.教授が昨年中央大学の客員教授だったということもあって、基本的な問題状況は伝わっていたため、具体的な質問も的を射ていた(Deanを除いては)。教授の交換と学生の交換あるいは一方的な派遣については誰もが積極的な立場で、具体的な条件について今後つめていくこととした。
 科研の共同研究についてはDav.、Wil.、Din.のなつかしい教授たちと打ち合わせ、これまた具体的なコンタクトと来年度および再来年度のConferenceへの研究者派遣について基本的に合意した。
 4時から教授会があるというので603号室へ行くと、これは一種の法廷教室で、徐々に人が集まり始め、入り口の飲み物や果物などを手にとって後方の列から席が埋まっていくのはわれわれのそれと同じ。5・6歳の子供を連れてきた男性教員も一人居た。全体で60人ぐらいのものか。机の上には会議の資料が綴じられて置かれていた。新しい客員教授などに続いて、「立命館大学からの客人として上田法学部長」以下が紹介され、大きく拍手され面映いことだった。
 Ms. Car.との打ち合わせで、やはり授業料と学生の宿泊施設の問題が最後まで残りそうだとの予感がしたが、委細は今後の折衝で。いずれの問題についても、今年度後期セメスターに内留の大**さんが12月からWCLに滞在する予定であることで、双方が安心してしまったことが大きいだろう。
 一旦ホテルに帰り、6時40分に迎えに来てくれたChav.教授に伴われてMatisseというレストランへ。Mil.教授夫妻[だと思ったのだが、後ほど大**さんから、あれは6人目のGirl Friendだと聞かされた]、遅れてPop.教授。10時ごろまで。

9月10日
 今朝のAvenue Deliはそれでも2・3人の先客が居たが、相変わらず閑散としている。お決まりのBuffetでチップをあわせて$11。3年前に比べて10%の価格改定という訳だろう。しかも提供される食事の質は確実に下がっている。
 9時半に集まってタクシーでWard Circle近くのTraCCC(Transnational Crime and Coruption Center)の建物を目指し出発。あまり迷うことなくたどり着いて二階のオフィスでShel.教授に挨拶した。後刻彼女にも話したことだったが、思えばこれまでに2回、彼女と知り合う機会はあったのだ──最初は91年に彼女が立命館大学に訪れた時、そして2回目は98年のPreCongress in Kobeで。しかし91年の時には私がモスクワに居たし、98年にはPreCongressで発言する彼女を見かけたものの、時間がなくて途中で私が退出したのだった。まさにKontse kontsov!というわけだ。
 TraCCCの活動内容についての彼女の説明から、今回のわれわれのプロジェクトの評価、協力のありうる形態など、昼食をはさんで5時過ぎまで、彼女の威勢のよい説明が続いた。しかし、これは彼女が一人で作り上げたセンターなのだから、誇って当然だ。現在では大学と司法省、いくつかの財団から資金援助を受けて、かなり潤沢な資金の下に12名の研究員を抱え、10室ほどの部屋と図書室を擁する研究センターとなり、旧ソ連邦地域をはじめ数箇所の支部を持っている。Karen Saund.という女性は最近にウクライナから帰ったばかりだということで、きれいなロシア語を話すし、スタッフの中には最後に顔をのぞかせたロシア人の女性(ターニャ)もいる。このセンターを中核としたわれわれのcounterpartネットワークを組み込めば、今回の共同研究の進行についてはずいぶん確実性を増すように思われる。
 昼にはSISのDeanも合流して大学の近くのレストランに出かけ、夜はShel.さんを招待しての、どちらもイタリア料理だった。選択は彼らがしたわけだから、最近のアメリカン大学では「イタ飯」が流行っているのだろうか。それにしても、大きな樹木と緑の芝に囲まれたキャンパスは美しく、活気があった。
 明日はシ**さんがWashington市内を案内してくれ、夜はShel.さんが自宅に招待してくれるとのこと。

9月11日
 9・11事件から一年の記念日だということで、朝からテレビでは荘重な曲が流れ、ニューヨーク市警の音楽隊だろうと思われるパレード、"Ground Zero"からの実況──犠牲者全員の名前を次々と読み上げている──があったりで、あらためて、この日にまつわる市民の記憶の深さ感情の昂まりなどを感じた。記念セレモニーでブッシュ大統領の演説に聞き入る聴衆の目に沸きあがる涙を見せられて。
 朝、期待した三砂子のMailの代わりに入っていた平*君のMailで、そういえば水曜日は常任理事会の日だったことを思い出したが、こちらはまだ水曜日の朝、面白いものだ。
 水を買いにFriendship Hightsのあたりまで出かけてみたが、Hecht'sなどデパートは休みのようで、水曜定休といったところか。11時半ごろからシ**さんとともに地下鉄とタクシーを乗り継いでVirginia-Alexandriaへ。アメリカの最初の入植地の一つで、ポトマック川から緩やかに立ち上がった旧い住宅街と商店街が広がっている。Washingtonが最初に政治活動をはじめたHallなども。シーフードレストランでとった昼食も素朴で、おいしかった。Washington市内でもそうだったように、ここでも、街のここかしこに白と赤の百日紅が目立つ。
 同行中のシ**さん──昨日祖母が死んだのだが、Hawaii行きの航空機の切符が確保できないので、帰らないとのこと──の話では、彼は国防省に入り、軍の法務将校になることにしたとのこと。「研究の仕事がしたかった」のだがと。ハワイのオアフ島に生まれ、日系社会の中で育ちながら、やがて大学で日本史を勉強することとなったが、研究職の獲得が難しそうだと見て、父親の後を追ってLawyerになることにしたそうだ。当面の任地はアラスカのAnchorageだとのこと。将来、大学に帰ってくるつもりかもしれない。
 帰途、時間があったのでWhite Houseに寄ることにしてMcPherson sq.で降り、地上に出てみたが、かえって人は少なく、ところどころに警察官の姿が見える程度のもの。建物に半旗はかかっているが、それ以上の警戒も緊張も感じられなかった──今朝の新聞では、ペンタゴンには対空ロケット砲さえ設置されていたのとは大違いだ。
 6時半に迎えに来てくれたShel.さんの車で、大**、シ**、私の3人で彼女の家へ。大学からもさほど遠くない住宅街の瀟洒な一戸建て住宅で、前庭に二抱えもあるような喬木が二本立っている。環境といい、建物の外観といい、まったく文句なしの条件だ。招き入れられて、その内装や調度、飾りつけに趣味のよさが表れているのに感心した(予想外に、と言えば失礼だが)。壁に飾られた多くのイコンも単なる芸術作品でない「本物」だった。「国外持ち出しは禁止されていたのじゃなかったか」と尋ねると、「前の夫は外交官だったから」との明確な返事だった。ベランダのテーブルを囲み、夕闇の中、彼女の用意したサーモンソテーとサラダ、ジャガイモをご馳走になり、Virginian Wineを飲みながら、さまざまな情報交換や人物談義で午後9時ごろまで。面白かったのは、小*君についてShel.さんが、「彼は変な人だ」と言っていたこと:ラップランドなどからカードを送ってきて、ただ「Hellow, I'm here. Why AU dosn't invite me?」というようなことだけ書いてよこすのだから、と言っていたことだ。思わず笑ってしまった。しかし、自身のことについては、今ひとつ明かさない──が、69年に大学を出たと言うのだから、われわれと同一の世代のようだ。辞去する前に紹介されたDenisという青年は、Peterburg出身で、経済学を勉強している下宿生とのこと。
 多分、来秋のシンポジウムには彼女が来ることになるだろう。そのときにこのようなもてなしがわれわれにできるだろうか。
 10時半ごろN.Y.の岡*さんから電話。明日の4時にHotelで、と約束した。

9月12日
 6時半ごろに目が覚めて東の空が明らみ、木々のシルエットから段々に朝の空になっていくのを見た。Washingtonはこれで終え、New Yorkへ移動。Hotelの請求は$579.70に。4泊したのだから当然か。
 Union Stationには予定通り着いたが、われわれの乗る列車が20分ほど遅れて出発したために、New York着は結局午後3時過ぎになり、余裕を見てTs.と岡*さんとに時間を指定しておいてよかった。急行列車のはずにしては随分ゆっくりしたスピードで、太った車掌の対応を含めて、悠揚としたもので、これでは赤字になるのも無理からぬ話との感。列車を降りてただっ広いPenn Station構内を歩き、地上に出たと同時に、New Yorkの猥雑な街の有様のさ中に放り込まれてしまった。タクシーはなかなかつかまらず、道路の向こう側に止めたタクシーは交通渋滞のためにのろのろとしか進まず(運転手の話では、Bush大統領が国連に来ているためとのこと)、やっとの思いで Holiday Inn at Midtownにたどり着くともう約束の時間にさほどもなくなっていた。前回と同じ宿舎だが、WashingtonのHolidai Innに比べると、こちらの方が数段まし──値段もそれなりに高いのだが。
 4時にロビーで待っていると、まず岡*さん、少し遅れてTsがやってきた。3年ぶりの再会を思いながら挨拶。
 Tsの友人である建築家のアトリエを訪ね、マレーヴィチの弟子を父に持つという彼の世界貿易センタービルの再建プランのコンクール参加作品を見せてもらった後、Ground Zeroへ。見物人としてはしゃぐ気分にはなれないが、それでも、かつてあのトゥインタワーがあった場所にぽっかりと空いた空間の印象は強烈だった。
 以前に来たことのあるSouth St. Seaportのデッキに上がり、キューバ料理のレストランに入り、まずはテキーラで、市*君と岡*さんはマルガリータで、再会を祝して乾杯。最初は外のテーブルに座ったのだが、波を見ていると船酔いになりそうだというTsの希望で屋内へ。様々な話は楽しく料理はおいしかったが、結局Tsが払うことになってしまったのが問題だ。"You are the guests!"と言うが、京都でどんなもてなしが可能だろうか、と思ってしまう。
 のべつ幕なしに喋っている彼の話の中で印象に残ったのは、彼らが家を買い換えようとしている最中であるということ、Ir.さんがNYUで勉強していること、Ser.(girlfriendと暮らしている)はコンピュータ業界の不況の中で失職し、今は就職しようと苦心している、Son.はロースクールの最終学年でとある弁護士のアシスタントをしているが、Bar exam.を受けるために追加して特別のコースを受けなくてはならない、などのこと。彼の大学でのこと、東京の甥のこと、最近の旅行の話:サバティカルが取れるならヨーロッパがいいぞ、と繰り返し強調する──フランスが気に入ったようで、Cote d'Azurほどきれいな風景は地上に二つとない、と。当方からも子供たちについての愚痴やなにやら。
 夜の街を、途中で岡*さんを降ろし、ホテルまで送ってもらいながら、とてつもない渋滞に巻き込まれてTsがこぼす。Bushは5千人のボディガードを引き連れて移動している、とか。以前はアメリカのクリントンというしっかりした大統領とロシアのエリツィンという馬鹿がいたが、今は逆だ、ブッシュの馬鹿とまともなプーチンと、など。
 市*君が岡*さんに話しているのを聞きながら、そうだ、何時にしてもこれが最後のアメリカだと思いながら、これで4回目のアメリカなのだ。しかし、やはりこの国は好きになれない──この上なく広大であらゆる意味での力を持ち、比べようもなく生命力に満ちた国だとは思ってはみても。

9月13日
 ここのレストランは朝食もバイキングの形式はなく、心配しながら注文したベーコンエッグは案の定巨大なボリュームだった。
 朝10時15分に表に出てみるとTsが車の中で電話をしていた。John Jay Collegeを目指して出発。予想外に近く、これまでは気がつかなかったが、Holiday Innからなら歩いても10分というところだろう。受付で写真つきの身分証明書を要求され、6階の副Deanの部屋へ行き、R. Blot.という女性に挨拶した。Tsの以前からの知り合いとかで、きわめて親切に応対してくれた。次々にCollegeのDepartmentやSectionに案内してくれ、その責任者に紹介してくれた、だけでなく、議論に参加し、結局1時半に辞去するまでわれわれに付き添ってくれた。このCollegeは予想に反して有力な研究部門を持っており、警察活動に関わる多くの問題を研究している教員を抱えていた。とくに、住民ないし関係市民に対する警察官の態度がもつ重要な意味、警察官に対する信頼が結局は警察官の市民に対する誠実な対応に関わっていること、犯罪予防に向けた効果的な対策など、彼らの研究課題はいずれも興味深かった。加えて、かつて関心を持った雑誌"Criminal Justice Ethics"がこのCollegeの出版物だったことには驚かされた──最初から気づかなかったことが失礼なのだが。
 1時半に大学に帰らなくてはならないTsと別れ、College近くのピザレストランで昼食をとり、ホテルまで歩いて帰ってきた。
 美術館にはやはり行かなくてはまずいだろうということもあって、Guggenheim Museumへ行くことし、Central Parkを斜めに横切って散歩。Columbus記念塔の横からParkに入り、芝生に寝転んで本を読む人やソフトボールの試合を眺め、模型のボートを貸し出している池や老人たちの座るベンチの傍らを通って、相変わらず多くの人々が階段に座り込んでいるMetropolitan美術館(Gauguin展をやっていた)の手前でFifth Av.に出て、少し北に歩くと白い特徴的な建物の美術館が。本体の展示は何とも評価しようのない"Moving Picture"だったが、Annex部にUtrilloやMonet、シャガール、そして多くのカンディンスキーなどの絵画が展示されており、歩いて行っただけの価値があった。
 約束の6時半近くになってTsから電話があり、渋滞に巻き込まれていて、少し遅れるとのことで、市*君と階下で待っていた岡*さんとでラウンジに座り、たわいない話の合間にラム入りの紅茶。
 遅れてきたTsとIr.さんに伴われて、5年前と同じAnkle Vanyaへ。多少混んでおり、演奏や歌も無かったが、ウオトカとロシアのビールで乾杯。隣に座ったIr.さんが家族は元気かなどと尋ねる。それにしてもIr.さんの太り方は尋常はでない。
 10時過ぎにホテルの前で別れたが、Tsとは来年は京都で会えるだろう。



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