ロシア刑事訴訟法における「当事者主義」原則

                         上田   ェ 

 

          はしがき

                       1 ロシアにおける司法改革──新刑事訴訟法典の施行

                       2 当事者主義

                       3 検事監督制度の抵抗

                       4 残された課題──むすびにかえて

 

 はしがき

  200271日の新ロシア連邦刑事訴訟法典の施行から5年が経過しようとしている。この法典は,旧ロシア共和国刑事訴訟法典が施行されていた時期とはまったく異なる社会状況の下に登場した。1991年夏の「国家非常事態委員会」のクーデターの試みが3日間で潰えた後に,首都での短時間の騒乱の結果としてソ連邦共産党中央委員会の解散があり,一挙に社会主義国家体制の弛緩から連邦制の崩壊と市場経済制度への移行へと,われわれの目前で音を立てるかに「体制の転換」が進んだ,その結果として生じた一種のカオスが徐々に収まったかに思われた後に立ち現れたのが,今日のロシア連邦である。このロシアは,かつてのソビエト時代の統制と権威主義への反発を隠さず,かつての「西側」の自由主義経済と民主制への自己の統合を目指しつつ,しかし,自身の伝統的な文化や民族の矜持にも強いこだわりを見せている。「先進国首脳会議」やEUの一員として迎えられることを期待しつつ,しかし国内法の整備と民主主義の成熟の遅れを指摘され続けることに反発をも見せ始めている── このロシアにおいて,市民の自由と安全を保障すべき法制度の要として,新刑事訴訟法典は登場したのである。

 ソビエト時代の刑事手続は,1958年の「ソ連邦および連邦構成共和国の刑事裁判手続の基礎」および1960年前後に各連邦構成共和国で制定された刑事訴訟法典(ロシア共和国の場合,196010月制定)により規定されたものであった。その特徴は,予審制度を持つ糾問主義的な基本構造と被告人をも含めた「訴訟参加者」の平等を強調する公判段階の当事者主義的要素との独特の結合である。刑事事件は,その捜査に当たった機関から予審機関に送られることを基本とし,ただ軽微な事件のみ,予審を経ることなく捜査機関が起訴状作成までの全手続を遂行した。法律上予審機関とされていたのは,検事局,内務機関および国家保安機関のそれぞれ予審官で,それぞれ事件管轄が定められていた(たとえば,殺人,強姦,公務員犯罪など最も危険な諸犯罪は検事局の予審官,窃盗,傷害などの一般犯罪については内務機関の予審官,など)。予審官は証拠資料の押収,捜索,被害者・証人の尋問,容疑者の身柄保全処分など,犯罪の解明に必要なすべてのことを行ない,予審が十分になされたと判断されれば,起訴状の作成,事件の廃止などの形で手続を終結し,作成された起訴状は検事に送致される。この段階での捜査・予審機関の活動,とりわけ被疑者・被告人[1]の身柄の拘束についての許可とその適正さの監督は,挙げて検事に委ねられていた。

 公判手続については,公開主義,口頭主義,直接主義などの原則がうたわれると同時に,手続の全体を特徴付ける原理として「当事者主義」を採用しているとする説明が多く見られた。その根拠とされたのは,訴追官と被告人・弁護人の両当事者(さらには被害者等も)の平等が宣言されていたこと(ロシア共和国刑事訴訟法典245条)であり,結局,両当事者の攻撃と防御を通じて刑事訴訟が実現されるという基本構造が存在すると主張されたのである。ただし,公判手続において裁判所は単なる審判者の地位にとどまることは許されず,自ら積極的に証拠の収集と真実の発見に努めることを要求されていた(同70条)し,何よりも,検察官は訴訟当事者である以前に,「合法性の監督者」として,裁判の全過程にわたって関係者の行為の法律適合性を監督する立場にあった。

 このような「ソビエト型」刑事訴訟制度については,以前より,さまざまな問題点が指摘されていた。とりわけその公判前手続に関して,身柄保全の強制処分が裁判官の関与なしに行なわれ,弁護人の援助を受けることが捜査・予審手続の終了後にしか許されないこと,そして,捜査・予審を監督しそれら機関が作成した起訴状を承認した検察官がその後の公判に出席しないことも多く,その場合,起訴状は裁判官が朗読する形で公判が始まり,公訴の維持はむしろ裁判官の職務となっていること,などである。ここに生じうる刑事裁判の一方的な糾問手続化,被疑者・被告人の権利の侵害,そして市民の人身の自由の危殆化については,しかし,それは杞憂であって,ソビエト法における検事監督制度についての無理解に発するものである,との反論がなされてきたことも事実である。

 このような背景の下に,ロシアにおいて新たに登場した刑事訴訟法典が「当事者主義」の原則を掲げるということは,一方において当然の経過であり,それは彼の国における自由と民主主義の定着に資するであろうとの評価が予想される。しかし,従来の検事監督制度も──多少の手直しを伴って──維持されたことをどう考えればよいのであろうか。ロシアの刑事手続が採用した「当事者主義」とはどのようなものなのであろうか。本稿の課題はこの点の検討にある。

 なお,当事者主義それ自体の理解について,わが国でも多数の見解が並存していることは承知しているが,本稿ではその内容に立ち入ることはできない。さしあたり,当事者主義とは刑事訴訟の基本構造に関する概念であって,訴訟手続において裁判所にではなく,訴追側と弁護側との両当事者に主導権を認めるものであるとの定義から出発したい。それが多くの場合に,市民の自由と民主主義という視点から,刑事手続の到達した最高の段階であると認識されていることもまた,重要な事実として踏まえておきたい。

 

 1 ロシアにおける司法改革──新刑事訴訟法典の施行

  ソビエト型の刑事訴訟制度からの改革の動きは,個別的にはすでにソビエト時代1980年代後期の「ペレストロイカ」の過程で提起されたものもあったが,1991年夏の政変を経た10月に登場した「司法改革のコンセプト」を起点として,一挙に表面化し加速する。ゾロトゥーヒン議員の指導の下に作られた専門家グループによって作成され,ロシア共和国最高会議により議決されたこの長大な文書は,新生ロシアの直面する司法改革の諸課題のうち中心的なものが,司法機関を立法機関や行政権力から独立した権威ある国家機関として確立することにあるとした[2]。同時にそこでは「司法改革の重要な方向」として一連の具体的課題が提起されており,裁判所の独立原則の確認,陪審裁判制度や治安判事制の導入と並んで,刑事裁判における無罪の推定原則,被疑者・被告人の権利擁護のための弁護人選任権の保障など,「当事者主義」の拡大について述べられ,また「身柄の保全その他の訴訟法上の強制処分の合法性についての裁判所による監督を確立すること」が明記されていた。これらは,伝統的に検事監督の対象とされてきた領域に裁判所によるコントロールを導入することによって,公判前段階での被疑者・被告人の自由と権利のより有効な保障を図るとともに,はっきりと検事監督制度への消極的な評価を突きつけたのである。

 この間にあって,新しいロシアの司法制度についての見取り図を示したのは,また,1993年のロシア連邦憲法[3]である。

 この憲法の一つの特色は,刑事裁判にかかわる規定の多さである。まず「人および市民の権利と自由」として,人身の自由を奪うことは裁判所の決定によってのみ許され,裁判所の決定以前に48時間を超えて身柄を拘束することを禁止した(22条)上で,一般的な裁判を受ける権利(46条)や法律が認めている場合に陪審裁判を受ける権利(47条)だけでなく,弁護人依頼権(48条),無罪推定原則(49条),一事不再理(50条),黙秘権(51条),被害者の権利(52条),刑事法不遡及原則(54条)などについて,個別に具体的な規定をおいている[4]。また「裁判権」との関わりで,事件審理の公開,欠席裁判の禁止,当事者主義および両当事者の平等といった「裁判の諸原則」(123条)をうたい,その他方で検事監督制度については特別の規定を設けず,ただ,「検察機関」に関する1ヶ条(129条)を置いたのみであった(後述)。

 これら,いわば政治的性格の文書に比べて,刑事訴訟法典の改正には長い時日を要した。

刑事訴訟法典の改正草案の編纂作業は,上記の「司法改革のコンセプト」の成立にも示唆されるとおり,91年の段階ですでに具体的な課題だったのであるが,当時の複雑な政治過程のあおりを受け,司法省と大統領府のそれぞれに作られた起草委員会が並行して進める結果となった。そして,1997年春に下院の立法および司法改革委員会が第一読会に提案したのは前者の手になる草案であったが,この草案に対しては,訴追側と弁護側という両当事者の概念を新たに刑事訴訟に導入し,また訴訟参加者の権利を拡大した反面,被疑者・被告人の身柄保全など強制処分の種類や執行手続きについては「ソビエト型」を維持しているなど,憲法の規定する当事者主義と両当事者の平等の原則を十分に実現していない,との批判が強かった。977月,草案を審議した下院本会議では,当然,草案のいくつかの規定をめぐって激しい議論があった後に,最終段階になって,大統領代理ア・コテンコフより,すでに前年の2月に開催された独立国家共同体(CIS)の議会間協議会総会において,エリツィン大統領のイニシアティヴの下に「モデル刑事訴訟法典」が採択されており,それは現在議会に提出された草案とは無関係に大統領府に設けられた起草委員会の手になるものであり,このままでは,独立国家共同体の諸国にモデル法典を提示しながら,提唱者のロシアが別の草案に基づく刑事訴訟法典を持つことになってしまいかねない,という「政治的」な難点が強く指摘され,審議は停止してしまった[5]

 この喜劇的な一幕に象徴されているように,刑事訴訟法典の改正問題は大統領と議会との,また後者内部での各派のさまざまな思惑の入り乱れる政治的対立抗争の具となったかの観がある。だが,その背景にあったのは,単に保守的な検事監督制度と「ソビエト型」刑事手続への拘泥だけではなく,当時の深刻な犯罪情勢を背景として,刑事手続の領域での大幅な「民主化と人道化」へのためらいが多くの市民に根深く存在し,それを反映して政府機関もまた立法化に向けた手順をきわめて緩慢に進めたということも,指摘されなくてはならない[6]

2年間に及ぶ「妥協・調整作業」を経て997月にロシア下院の第2読会に提出された草案の審議は,再び蛇行と停滞の過程を繰り返したあげく,20003月のプーチン大統領の登場を経た200112月,ついに新しいロシア連邦刑事訴訟法典が成立した。

 新しい法典は,一方において予審制度を存続させ,また被害者の広範囲での手続参加を認めている点において,「ソビエト型」刑事手続の特色を残していると同時に,それからの決定的な転換を図っている。

 新刑事訴訟法典のもたらした変化のうちでも最大のものは,93年憲法にしたがい,訴訟構造における当事者主義を明確にしたことである。法典15条はまず,「刑事裁判手続は当事者主義を基礎として遂行される」と宣言した上で,刑事事件の弁護,訴追および解明の機能は相互に区別され,同一の機関もしくは同一の公務員に負わせられることはない,さらに,裁判所は「刑事訴追の機関ではなく,訴追側にも弁護側にも立たない」とし,そして「訴追側と弁護側とは裁判所の前において平等である」と規定している。このこととの関連で注目されるのは,従来明確でなかった検察官欠席[7]の場合の公判における訴追官について,検察官の委任により捜査官あるいは予審官がその役割を果たすことが明確にされていることである(同法典56号)。なお,当事者の一人である被害者については,明確に「訴追側の刑事手続参加者」と規定されている(42)

 公判前手続については,上述のとおり予審制度を残したことから,なお「ソビエト型」の特色を多く残しているのであるが,ここでも,とくに被疑者・被告人の身柄の拘束について,検察官ではなく,裁判所の決定が基礎となることとなった。捜査機関が被疑者を逮捕した場合,48時間以内に裁判所による勾留の決定がない限り,釈放されるとされ(94条),一方勾留は,原則として2年以上の自由刑が予定されている場合についてのみ,裁判所の決定で許される。公訴の提起以前の被疑者の勾留は例外的で,その場合には勾留の限度は10昼夜までに限られている(100条)。

 裁判システムの複線化はさらに進んだ。とくに第一審裁判所として治安判事が登場し,

軽い傷害や名誉毀損といった事件を管轄するようになり,通常裁判所については単独裁判官と裁判官3名の合議体および被告人の請求による陪審制の3種類が存在することとなった。この陪審制の導入ともかかわって,ソビエト時代の「人民参審員」は姿を消した[8]

 2 当事者主義

  当事者主義という語の含意するところについては,通常,刑事手続において弾劾主義の方式を採るだけでなく,当事者,すなわち検察官と被告人に訴訟進行の主導権を与える原則をもさすと考えられている。一般に当事者主義は,捜査段階とは機能的に分断された公判段階の手続についていわれることであるが,わが国における「捜査の構造」をめぐる論争にもうかがわれるとおり,この原則を公判前の捜査段階にも及ぼし,できるだけ広い範囲での被疑者・被告人の権利主体性=当事者性を認めていこうとする考え方も有力である。

 この当事者主義の歴史的な淵源をどこに見るか,またその概念の多様性をどこまで認めるかについては,さまざまな見解がある。であれば,かつての「ソビエト型」刑事手続も当事者主義(состязательность)の諸原則を採用していたとの主張は,あながち誤りとも言えないであろう。たとえば,かのヴィシンスキーが述べていたような「公開性と両当事者の平等,社会主義的民主主義を基礎としての,両当事者の対審制プラス裁判過程への裁判所自体の積極的な参加こそソビエト的な当事者主義原則である」というような説明は,かなり早くに不正確であるとして捨てられたが,その後多くの刑事訴訟法学者により採られてきた理解は,ソビエト刑事訴訟における当事者主義を,それをコントロールし補充する裁判所の審理への積極的な関与の下での両当事者の対抗と捉えるものであった,とされる[9]。一方ソビエト時代最後期の代表的な論者であるサヴィツキーは(体制転換を確定した1993年憲法を経た後にではあるが),次のように説明していた。

「当事者主義は司法の最も重要な原則の一つであり,その中に民主的な組織原理と,真実の発見と正義にかなった裁判所の決定のために最大限に好適な条件を作り出す,訴訟原理とを統合している。当事者主義的訴訟の推進,それを妨害する,検察官を当事者としてではなく,何よりも合法性の監督機関とする試みとの,長年にわたる闘争の後に,全種類の裁判手続(憲法裁判,民事裁判,仲裁裁判,行政裁判,刑事裁判)において,当事者主義は日常的な現実となったのである[10]。」

これらの説明は,とりわけ「裁判所の積極的な関与」を当事者主義の要素の一つとして強調する点において妥協的であり,具体的にどの範囲をこの概念に含めようとしているかは,明確でない。

 ソビエト時代の刑事訴訟法において,当事者主義の原則は,伝統的に,1> 訴追と裁判との区別,2> 当事者との関係での裁判所の積極的で独立した地位,3> 訴追する者と訴追される者との訴訟上の当事者という地位,4> 両当事者の訴訟上の平等,といった要素によって説明されてきた[11]。この原則が,刑事訴訟手続に固有である訴追側と弁護側との対立を反映するものであり,それによって手続の推進が保障されるのだとして,そのような基本構造においてソビエト=ロシアの刑事訴訟を理解しようとする立場[12]がある一方において,これに批判的な主張も存在した。後者の立場からすれば,訴追と裁判との区別,訴追側からも弁護側からも独立している裁判所の地位は,裁判官の独立と法律のみへの従属という憲法原則,そして事件の状況の全面的で完全かつ客観的な検討という原則から導かれるものである。そもそも,訴追する者と訴追される者とを「当事者」と捉えること自体,法律はこれを拒否し,たとえば1958年の連邦法である「刑事裁判手続の基礎」は「当事者」に代えて「訴訟参加者」の語を用いているではないか,としていた[13]

 このような当事者主義的理解への否定的な対応は,先のスミルノフの評価にもかかわらず,ソビエト刑事訴訟法学にとってかなりに根深いものである。それは,一方では,裁判官を相戦う両当事者の間の受動的な仲裁者に変えてしまう「ブルジョア的当事者主義」への反発に由来するものであったであろうが,より本質的には,それが両当事者間での相互に矛盾する利益の存在を前提とすることへの批判に基づいている。つまり,ソビエト刑事手続における検察官は,「当事者」ではなく「合法性の守護者」であるとするのであり,それこそは「ソビエト型」刑事手続にとって中核的な制度である検事監督制度の位置づけに発する主張である。

 きわめて鮮明な転換は,ここでも,199110月の「司法改革のコンセプト」によってもたらされた。同文書に関するロシア共和国最高会議の決定[14]はその第3項において,連邦制の下での裁判所システムの創設,陪審制の導入,勾留その他の訴訟法的強制処分についての裁判所のコントロールの確立などとともに,「当事者主義,両当事者の平等,被告人の無罪の推定を原則として裁判手続を組織すること」を最も重要な司法改革の方向とみなすと宣言したのである。事実,これに続いた憲法の改正でも,刑事訴訟法典の改正でも,そこには明確に「当事者主義」がうたわれることになる(既述)。

 ただし,実際には,ここで「当事者主義」は通常手続の公判段階での指導的な原則としてうたわれるに至ったということであって,公判前手続は新刑事訴訟法典においてもなお捜査的・糾問主義的構造のままであり,結局,ロシアの刑事手続は全体として,「職権主義」でも「当事者主義」でもない,「混合的」な手続構造をとっているのだ,という説明もなされており[15],この慎重な説明がおそらくは正当であろう。とはいえ,当然のことではあるが,そのように言おうとも,この間に進行している激流のような変化が過小に見積もり直されるわけではない。

 憲法改正から新しい刑所訴訟法典の成立までの間,ロシアにおいて当事者主義の理念を強力に推進し,それに従った刑事手続の転換を図ったのは,また,新憲法に基づき1994年に登場した(新)憲法裁判所であった。憲法裁判所は,とくに,市民や社会団体の申し立ておよび裁判所からの質問により個々の法律規定の憲法適合性につき審査し,その結果としてそれらの違憲性が判決として公表された場合には,それら法律規定は即座に効力を失うものとされていた(憲法125条)ところ,この期間に旧ロシア共和国刑事訴訟法典に関して20を超える違憲判決を行なった。それらの中には,たとえば,予審あるいは捜査の不備が公判において補完されえないときは,「疑わしきは被告人の利益に」の原則に従い無罪判決をすべきなのに,事件を補充取調べのために検察官に送致する旨規定していた刑訴法典232条および252条等は憲法の定める当事者主義原則に反する(1999.4.20),公判の途中に裁判所が新たに被告人以外の者に対し公訴を提起し,彼に身柄保全措置をとることを定めている刑訴法典3条およびそれに関連する一連の条項は,訴追ではなく裁判を行なう機関としての裁判所の本質に反し違憲(2000.1.14),弁護人の援助を受ける権利を,逮捕・勾留の手続が正式にとられた時あるいは告発提起の時からに限定し,公判前のあらゆる段階での弁護人の援助を受ける権利を実質的に奪っている刑訴法典471項は憲法17条等の人権条項に反する(2000.6.27),被害者は実質的に訴追側の「当事者」として捉えられ,したがって彼に判決公判に出席し最終弁論を行う権利を制限している刑訴法典295条は憲法の当事者主義に関する諸条項に違反する(1999.1.15),などがある[16]。それら判決は直接に当該法条の効力を奪い,その後に多くが新刑事訴訟法典に反映された。 

 かくして,ロシアの刑事手続は「当事者主義」の原則を宣言するに至った。

 だが,誰もが知るとおり,法典において何らかの原理の採用を書き留めることは,それが法運用の実態において尊重・遵守されていることと同じではない。とりわけ,ここロシアは,ピヨートル大帝以来の検事監督制度を持ち,裁判所を含めた国家機関から社会団体や個人に至るまでの一切の法違反活動に対するコントロールをそれに委ねてきた国である。

 3 検事監督制度の抵抗

  ソビエト時代のロシアにおいて,検事監督制度の機能をよく示していたのは,公判前手続における検事の権能と活動の実態である。

法律によれば検事は,捜査・予審機関の法律遵守一般を監督することとともに,次のことを義務づけられていた。犯罪のすべてを摘発し,一人の犯罪者も刑事責任をまぬがれることなく,また逆に一人の市民も不法にもしくは根拠なく刑事責任その他の責任に問われることのないように,注視すること。そして,誰であれ,裁判所の決定もしくは検事の承認なしには拘禁されることることのないように監督すること(ソ連邦検察庁法28条)。

 そして,この義務を果たすための検事の活動が,事件開始,逮捕,勾留,被疑者・被告人の取調べ,公訴提起決定,起訴状の点検,といった各段階について予定されていた。捜査・予審機関に対する検事の指示は,これら機関を拘束する。とりわけ,被疑者・被告人の身柄の拘束につきサンクションを与えるのは検事であった。そして,捜査・予審手続に対する検事の最終的な監督は,起訴状の検討によって確保される。すなわち,捜査機関もしくは予審官により作成された起訴状を添えて送致された事件について,検事は5日以内に裁判所送致またはその他の処置を決定しなくてはならないが,その際に検事には捜査・予審の適正さについての全面的な審査が要求されており,ある場合には事件を廃止することも,捜査・予審を別の担当者により再度行わせることも,できたのである[17]

90年代の司法改革はこのような枠組みを根底から覆した。

ただ,刑事手続きの改革の基本方向が当事者主義の確立ということであれば,本来,予審制度そのものの廃止が課題となるはずである。が,この間の刑事訴訟法典の改正の動きの中で,そのことは提起されていない。問題となっているのはその改革だけである。このことが,改めて,ソビエト型の予審制度が大陸型職権主義の手続き構造における予審制度とは異なり,強化された捜査の一形態であったことを示していると捉えることもできよう。

予審制度の改革の動きはすでにソビエト時代にもみられた。1970年代末に,検察庁と内務機関の予審官を統合し,立法機関に従属する連邦予審委員会を設立するという提案が検討されたこともあり,また第19回ソ連邦共産党協議会(1988年)の決議は,内務機関にほとんどの予審事件を集中する一方,地方の内務機関から独立した予審部門を設置するとともに,予審に対する検事の監督を強化するという立場をとっていた。それらはそれぞれ,予審官を検察庁や内務機関内での「行政的な従属関係」から解放し,予審機関を充実させその立場を強化することによって,捜査活動の客観性と中立性を担保し,取調べ水準を引き上げることを目指すものであった。これら提案は当時のさまざまな政治的事情のために実現されなかったが,91年の「コンセプト」はあらためて独立した予審委員会の設置という方向を打ち出し,94年に大統領府の委員会が公表した刑事訴訟法典草案もそれに従い,独立した予審委員会の設置を予定していた。

最終的に成立した刑事訴訟法典も,予審制度の維持とその内容についてソビエト時代のそれを基本的に踏襲している。したがって,大きな枠組みは変化しなかったが,公判前手続きにおける防禦権の保障のあり方については既に多くの変化が見られる。

本来,憲法49条が明確に,「犯罪の実行につき訴追されている者は,連邦の法律に規定された手続きに従ってその有罪が証明され,裁判所の判決の法的効力が確定されるまでは,無罪とみなされる」,と無罪の推定原則を宣言したことからも,検察側と対等な立場での弁護側の防禦権行使の保障が導かれるはずである。しかし,捜査・予審手続きは本質的に密行して進められることが多く,また強大な捜査機関の活動に支えられた捜査官や予審官に対抗して弁護側が十分な公判準備の活動を進めることも容易ではない。ここにおいて問題は,ソビエト型の公判前手続において,身柄保全をはじめとする強制処分にサンクションを与え,それらの合法性を保障する機関として,裁判所ではなく検察庁があてられていたことである。

この問題について,93年のロシア連邦憲法は180度の転換を行い,捜査・予審段階での裁判所のコントロールを基本的なものとした。その端的な表れが,逮捕・勾留を裁判所の決定にもとづいてのみなされると定めた憲法22条第2項であるが,そのような対応は,国際人権規約9条第3項の規定(「刑事上の罪に問われて逮捕され又は抑留された者は,裁判官又は司法権を行使することが法律によって認められている他の官憲の面前に速やかに連れて行かれるものとし,妥当な期間内に裁判を受ける権利又は釈放される権利を有する。」)を強く意識したものであると説明される。これをうけて,新刑事訴訟法典は,まず,逮捕について,「捜査機関,予審官もしくは検事」が,一定の事由の存在を前提として,犯罪被疑者を逮捕できることを規定している(91条)。「一定の事由」とは,その犯罪が自由剥奪以上の刑を適用されうる者であって,犯罪実行の現場で逮捕されたなどの状況である場合(同条1項),またその他の犯罪については,逃走を図り,定まった住所を持たず,あるいはその身元が明らかでないなどの場合(同条2項)である。これらの場合には,逮捕手続きについて裁判所の関与は要求されていない。しかし,逮捕の手続きについては,厳格な時間的制約の下に,かなり詳細な規定が置かれている。たとえば,被逮捕者が捜査機関に連行された時から3時間以内に,予審官もしくは検事に対し,逮捕の時と場所および理由と共に,被告人にその訴訟法上の権利を告知したことを記載した報告書が提出されねばならず(9212項),また捜査機関が逮捕した場合は,逮捕後12時間以内に,その事実を検事に対し文書で通知しなければならない(同条3項)。そして,逮捕の時点より48時間以内に裁判所により勾留手続きがとられない限りは,被疑者は釈放されるのである(942項)[18]

一方,勾留の決定は明確に裁判所の権限に移された。刑事訴訟法典は被疑者・被告人の身柄保全の処分として,不移動の誓約,保釈金,勾留など一連のものを規定しているが,それらのうち勾留のみ,裁判所の決定によることを必要条件としている(1081項)。勾留期間については,刑事訴訟法典は従前どおり勾留期間の限度を原則2ヶ月とした上で,その期間内に予審が終結しないときには,地区裁判所裁判官により6ヶ月延長できる旨規定した(1091項,2項)[19]

刑事事件への弁護人の参加時期については,すでに92年の段階で旧刑事訴訟法典47条が全面的に改正され,従来の「捜査・予審の終了時」を原則とする態度から変化し,告発の提起に先だって被疑者が逮捕もしくは勾留された場合には,彼に逮捕状もしくは勾留決定が提示された時から弁護人の参加を認めることとされていた。捜査弁護の承認に踏み切ったのである。新刑事訴訟法典も当然にこの原則を採用している(493項)。また,被疑者・被告人がその身柄を拘束されている場合にも,彼らが弁護人と回数および時間の制限なく面会することを認める規定が置かれた(4749号,12号)。

これに対応して,弁護人の権利も拡大された。弁護人は被疑者・被告人に有利な事情を明らかにするために法律上許されたあらゆる手段を用いて活動することを義務付けられているが,新しい刑事訴訟法典でもきわめて具体的に,弁護人が被疑者・被告人と回数と時間の制約なく面会し,その取調べに同席し,逮捕状もしくは勾留決定を確認し,捜査員もしくは予審官に質問し,捜査・予審の記録を検討し,証言や資料を検討するなどの権利を持つことが確認されている(53条)。

以上にその断片を見た公判前手続きの改革の中に示されているものは,合法性の担い手としての検事の全能に依存した後見者的な刑事手続きからの離脱の志向であり,当事者主義と令状主義を核心とする新たなそれへの移行の意思である。これを,検事監督制度はどのように受け止めたであろうか。

ソ連邦の崩壊とロシア連邦の発足という事態の推移にともない,1979年のソ連邦検察庁法を基礎に,しかし新規の法律として,1992年に制定された「ロシア連邦検察庁法」は検事監督の対象と限界を定めていたが,そこには,ロシア連邦における法律の履行に対する監督が含められ,検事は法律違反を除去するための措置をとることが認められ,そして同時に,犯罪を実行した者に対する訴追の任にあたるものとされていた。彼には,行政機関,社会団体,企業,公務員による法律の履行とそれらの行為の合法性に対する監督の権限が認められたわけであり,つまりは一般監督制度は維持されたのである。もっとも,従来の一般監督には一定の制約が課され,検事は職権にもとづいて各機関等を査察し,法律の履行を監督するのではなく,市民の告発をまって行動するものとされたが,しかし,監督の対象については限定はみられなかった。

 その後,92年の検察庁法は95年,97年,99年,02年,04年,05年と,毎年のように改正をほどこされた。いずれの改正でも,それまでの批判の論議にもかかわらず,またこの間に成立したロシア連邦憲法(93年)が検察機構に関しわずかに1ヶ条だけを裁判所に関する章の中に置き,その権限や機能については全て法律に委ねて,明らかに検察制度を縮小する方向を明確にしていたにもかかわらず,新しくなるほど検察機構は強化され,一般監督制度も維持された。「連邦の省および官庁,連邦を構成する各主体の代表(立法)機関および執行機関,地方自治機関,軍事行政機関,監督機関,それらの公務員による法律の執行,ならびにそれらにより発せられる法的文書の法律適合性」を対象として,検事は監督権限を持ち,必要な場合に異議申し立て(プロテスト)を行い,意見を述べ,公務員の法違反に対し刑事事件もしくは行政処分手続きを提起することができるのである(ロシア連邦検察庁法12125条)。

司法改革の基本方向に逆行するかに見えるこのような動きの背景には,社会主義体制崩壊後のロシアにおける法秩序の解体状況に直面しての危機感が存在すると見るべきであろう。犯罪の激増と違法な経済活動の横行に象徴される,法秩序の解体状況への苛立ちが一般監督制度維持の強力な論拠となったことは否定できない。このことを明確に述べているのは,ある検事の,「われわれが強力な検事を支持する論拠は,現在の合法性の危機的状況と社会の危険な犯罪化の条件のもとで,その監督機能を縮小することが危険であるだけではなく,有害であるということにある」,との言葉である[20]

さらに,見落とすことのできないのは,プーチン大統領の誕生以降この国で顕著となっている大ロシア主義的な動き,それと結びついた中央集権的な法治国家の樹立と統治能力の回復への動きがこの問題に及ぼす影響である[21]。大統領就任直後の20011月,クレムリン大会宮殿で開催された全ロシア検察活動家大会の席上,プーチン大統領は検察機構の活動を賞賛し,「広範な機能と強力な監督権限が検察庁をして,国内における弱体な合法性と法秩序の遵守機関を埋め合わせるものとしている」のだと述べ,検察機構への信頼と依存の姿勢を露わにした。さらに検察官の増員についてまで述べた大統領の発言によって,大会宮殿はあたかも祝賀会の様相を呈し,ウスチノフ検事総長が高らかに,もはや検察機構の改革はおわったと宣言した,というような一幕もあった[22]99年改正以後は,検察庁法第1条が検事の一般監督権限を明記し,それをむしろ憲法的監督にまで引き上げたことから,逆に,憲法改正を要求する声さえある[23]

しかし,このような空騒ぎにもかかわらず,ロシアの検察制度が新たな条件の下でも「合法性の守護者」としての地位を保持しうるかという問いへの回答は,長期的に見たときには明らかに消極的なものとならざるをえない。当事者主義の刑事手続は監督者=後見人を必要としないのである。

 4 残された課題──むすびにかえて

 「昔から知られているとおり,当事者主義は訴訟を複雑にする。被告人に訴追に対し争うことを認めず,当事者なしに手続を進めた方がはるかに簡単である。しかし,そのような訴訟には公正な裁判の十分な保障はないし,また,ありえない。たとえ,当事者主義の発展と強化の方向への立法の改善が訴訟をいくらか複雑にしようとも,それは公正な裁判と市民の権利の保障を強固にするものであり,それゆえ,そのような改善は必要であり,また不可避なのである[24]。」かつて,ソビエト権力の再生を目指したペレストロイカの時代に,当時の弁護士界の指導的な理論家ステツォフスキーと刑事訴訟法学者ラリンは,目ざされるべきソビエト型刑事手続きの革新方向をこのように捉えた。彼らが必要かつ不可避とした刑事手続の当事者主義化は,おそらくは彼らが予想したものとは違った過程をたどって,またその内容にもさまざまなぶれや不十分さを伴って,ロシアの刑事手続に定着しようとしている。だが,はたしてロシアの刑事手続はこのまま「当事者主義」化の進路をたどり続けるのであろうか。本論において指摘したとおり,その見通しは必ずしも簡明ではない。

 あるいは,「当事者主義」は刑事手続一般に普遍的な原理ではないのかもしれない[25]。かつて平野龍一は,「当事者主義の訴訟は,合理的な精神を前提とする」と断言した。「当事者主義訴訟は,国家権力を悪とし,『権限を持つものには権威を与えてはならない,権威を持つ者には権限を与えてはならない』とする思想を背景とする。そしてはじめから(すなわち,捜査機関の)権力の行使を制限しようとするのである[26]。」であれば,ロシアにおける当事者主義の命運はかなりに危ういといわねばならない。われわれの目の当たりにしてきたかの国の社会変動も,近時の報道に示されるさまざまな動向も,まさにロシアにおける当事者主義の「前提」ないし「背景」の脆弱性を示している。しかも,ここには強固な検事監督制度がなお残存しているのである。

 激しい歴史的振幅を経て法的定着を見たロシアの当事者主義が,今後,どのように展開していくか── いましばらく注視を続けなくてはならない。



[1] 予審の実施過程において,嫌疑につきそれを裏付ける相当の理由が存在すると判断されれば,予審官は被疑者を被告人とすることの決定(告発提起の決定)を行い,被疑者に通告し,併せて被告人としての諸権利をも告知することとされている。したがって,捜査・予審の段階ですでに「被告人」が登場するのである。

[2] Концепция судебной реформы в Российской Федерации, М.,1992.

[3] すでにソビエト時代に提起されていた1978年のロシア共和国憲法の改正は,91年の連邦制の崩壊と市場経済体制への移行,93年のエリツィン大統領によるクーデターなどを頂点とする混乱と対立を経て,9312月に実施された国民投票によって,エリツィン大統領のイニシアティヴの下に作成された草案が採択されることで一応の決着を見た。参照:森下敏男・現代ロシア憲法体制の展開(信山社・2001年),173-220頁。

[4] ただし,憲法とともに公布された経過規定によって,「この憲法の規定に従ってロシア連邦の刑事訴訟法典が導入されるまで,犯罪実行の疑いがある者の勾留,拘禁および逮捕について,旧来の手続が維持される」,とされていた。

[5] これらの経過については,см. "Российская юстиция", 1997, 8, стр. 16-17, 1998, 6, стр. 4 и др. 司法省草案についての批判は,また,たとえば,см. http://www.fiper.ru/spr/chapter-2-6.html. 

[6] 刑事訴訟法典の制定が遅れたいまひとつの理由は,刑法典などの場合とは異なり,刑事訴訟法典の改正問題は複雑で,単に公開制と民主化・人道化の原則を唱えるだけでは何事も解決しないという事情そのものにあるようである。当時議員諸氏は自らの手に余る仕事に戻らない方が得策と心得ているのだ,と皮肉られていた。См. "Юридический вестник", 2000, 9, стр. 5.

[7] 伝統的にロシアの検察制度において検察官と呼ばれるのは各級の検察局の長のみである。起訴状を承認して事件を裁判所に送致する際,検察官は自身が公判に出席するべきかどうかにつき意見を表明し,裁判所はこれを踏まえて検察官の公判参加について決定することとなっていた。だが実際には,検察官が公判に出席して訴追官の役割を演じるのは重大な事件に限られていた。

[8] ロシアにおける陪審裁判の復活過程とその当初の実情については,参照,上田 「ロシアにおける陪審裁判の復活」および上野達彦「ロシアにおける陪審裁判の実情」(ともに『庭山英雄先生古稀祝賀記念論文集・民衆司法と刑事法学』(現代人文社・1999年)所収)。

[9] См. Смирнов В.П., Проблемы состязательности в науке Российского уголовно-процессуального права, ≪Госуд. и право≫, 2001, 8, стр. 53-54.

[10] Савицкий В.М. и Ларин А.М., Уголовный процесс. Словарь-справочник, М., 1999, стр. 163-164.

[11] ソビエト時代の刑事訴訟法における当事者主義の理論についての代表的な研究者はストロゴヴィッチである。ここに挙げたのは彼の定義である。См. Строгович М.С., Курс советского уголовного процесса. т. 1, М., 1968, стр. 149-150. 一時期,ストロゴヴィッチは被告人への弁護権の保障と当事者主義とを同一視したようなこともあったが,後にはここに引用したような考え方に近づき,当事者主義が独立した,ソビエト刑事訴訟法にとり固有の原則であることを強調した。

[12] См. напр. Курс советского уголовного процесса. Общая часть (под ред. Бойкова и Карпеца), М., 1989, стр. 171-173.

[13] См. Советский уголовный процесс, Л., 1989, стр. 81 и сл.

[14] Постановление Верховного Совета РСФСР от 24 октября 1991 г. ≪О концепции судебной реформы в РСФСР≫.

[15] Уголовный процесс. Учебник под ред. проф. Алексеева, Из-во "Юрист" 1995. (Проект "Лучшая юридическая литература"), стр. 12 и сл.

[16] 刑事訴訟法における憲法裁判所の判決の位置づけについて,см. Ковтун Н.Н., Постановления Конституционного Суда РФ по уголовно-процессуальным вопросам: проблемы законодательной техники и практического применения, ≪Государство и право≫, 2001, 11.

[17] それに加えて,ソビエト時代以来,検察官はより一般的な「社会主義的合法性」の守護者たる地位を与えられていた。明確に,1977年のソ連邦憲法によって検察庁は法律の正確かつ統一的な執行に対する「最高監督」を行う機関とされていた。そこでは検事は,法廷において訴追官の役割を演じるばかりでなく,地方の権力機関(共産等を除き),その職員,団体,企業の活動に対する監督の権限を付与されていた。「一般監督」と呼ばれるこれこそ,ソビエト型検察官を特異なものとしていた制度である。検察官は閣僚会議はじめすべての行政機関,公務員,社会団体および個人の活動を点検・検査し,法違反を発見した場合には,これに対して異議申し立て(protest)を行い,法違反を是正・除去させるものとされていた。検察官のこの一般監督の権限は,当然に,裁判所にも及ぶとされていたのである。このような制度の歴史的な淵源は,ピョートル一世がスエーデンやプロイセンの制度をモデルに1711年に導入した秘密調査官たる「フィスカル」の制度を改組し,1722年に検察庁を設けた時点に遡ることができる。当初,検察官は「ツアーリの眼」として地方機関や中央の行政機関を監督する機関であったが,1802年以降は司法大臣が検事総長を兼ねることとなり,西欧諸国を強く意識した1864年の司法改革によって検察官は純然たる訴追機関に改組された。その後,検察制度は,1917年の革命において帝政ロシアの司法制度全体とともに廃止され,5年後に復活するという経過をたどった。その際に重要なことは,復活した制度が,1864年の改革以降の制度ではなく,ピョートル一世の下での絶対主義時代の制度に近いものであったことである。1922年当時,ソビエト政権は地方権力による中央の指示からの逸脱に悩まされており,検事監督制度を復活させたのも,こうした地方権力の統制の手段としてかつての検察制度が評価されたからに他ならない。22年の検事監督規程によれば,検察機構は司法大臣である共和国検事を頂として中央集権的に組織され,その任務は,<1> 国家機関,社会団体,個人の活動の合法性を国家の名において監督すること,<2> 捜査・予審機関および国家政治警察の活動を直接に監督すること,<3> 裁判所において訴追を行うこと,および<4> 被拘禁者の収容の適正さを監督することとされ,すでにこの段階でソビエト型検察官システムの原型が定式化されていた。その後,いくつかの変遷はあったが,ソビエト時代を通じて検事の一般監督という制度は残り,その絶大な権限を背景とした検察官に訴訟に代わる迅速な救済手段をとることが期待され,違法な行政行為によって権利を侵害された市民の訴願は主として検察官に向けられるというような実態があった。

[18] また,95年に旧刑訴法典に導入された通知制度も維持された。刑訴法典96条は,捜査官,予審官もしくは検事が,逮捕後12時間以内にその事実を被疑者の肉親の一人に通知するものとしている。例外的に,検事の承認を得てこれを秘密にすることも許されてはいるが(同条4項),このような規定の持つ重要な意味については,あらためて述べる必要もないであろう。

[19] それ以上の延長については,重大かつ複雑な犯罪事件に関してのみ,12ヶ月まで,また例外的な場合に限って,ロシア連邦検事総長の承認にもとづく請求を受けて,連邦構成主体の裁判所の裁判官により18ヶ月まで,延長されうるものとされた(同条3項)。

[20] ≪Госуд. и право≫, 1994, 5, стр. 27.

[21] その心理をよく示しているのはプーチン大統領が就任前に明らかにした「ミレニアム論文」(991231日)に開陳されているロシア観である 。この論文の中でプーチン大統領は,ロシアの伝統的価値としての「愛国心」,「大国としての地位」,「国家の強権[Государственничество]」(国家こそが秩序の源泉,保証人であり,またあらゆる変革の創始者にして主たる動力である),「社会的連帯」(個人主義の否定)を強調し,ロシアが西欧諸国とは異なった道を進むことを宣言した。この基本的立場に,さらに,ロシア連邦が分散化の危機に瀕しているという認識が加わるとき,1922年のレーニンの対応と同様,検事監督制度の強化こそが最適の選択肢として立ちあらわれることは必然である。

[22] См. ≪Политика и общество≫, 3, 12 января 2001 г. (http://www.vremya.ru/2001/3/2/6411.html -visited 14 Oct. 2001)

[23] Рохлин/Стуканов, Прокурорский надзор в Российской Федерации: проблемы и перспективы, ≪Правоведение≫, 2000, 5, стр. 158.

[24] Стецовский Ю.И. и Ларин А.М., Конституционный принцип обеспечения обвиняемому права на защиту, М., 1988, стр. 129.

[25] 井戸田侃の「わたくしは,刑事訴訟の歴史は,糾問主義から『訴訟』構造へ,『訴訟』構造のなかでも,職権主義から当事者主義へという過程をとっているものと考えている。」という言葉にもかかわらず,である。参照・井戸田侃・刑事訴訟理論と実務との交錯有斐閣・2004125頁。

[26] 続けて,「しかし,現在の都市化し,社会化した国家においては,国家権力をただ排斥するだけでは,すまされない。捜査機関に多かれ少かれ,権限を与えざるをえなくなる。これを否定して当事者主義の形骸だけを維持しようとすると,権力は法外の暴力となり『保障のない糾問主義』(Inquisitorial system without its guaranty)となる危険もある。そこで,むしろ権力に権限を与えて,そのかわりにこれを法的にコントロールした方が得策ではないかという問題がおこる。」と。平野龍一・刑事訴訟法有斐閣・195819頁。