研究会の概要

 

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ダニズム芸術の最盛期は、第二次世界大戦をはさんで、地球上の人口動態がおびただしく変容した時代と重なっているばかりでなく、人間の移動に対して敏感であろうという知的意欲・想像力の解体・再編が急激に進んだ時代とまさしく呼応している。20世紀の人口移動は、労働力の移動といったような経済的な理由に起因するものから、亡命・難民・政治工作といった政治的なもの、異国趣味や文化人類学的な探求といった知的好奇心に由来するものまで様々である。しかし、従来のモダニズム研究は、知識人や創作者の越境には少なからぬ関心を抱いてきはしたが、物言わぬ移民や難民にまで思いを馳せることはまれだった。

したがって、本研究では、おもに第一次世界大戦後から1960年代くらいまでの諸都市をピックアップし、それらの諸都市の無国籍性を可能にした歴史的な民族移動との結びつきに可能なかぎり留意しつつ、それらの諸都市がモダニズム運動のセンターたりえた根拠を明らかにする。

プラハ、ワルシャワ、カイロ、チューリッヒ、パリ、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンジェルス、メキシコシティ、サンパウロ、ブエノスアイレス、東京、大連、上海、ジャカルタといった諸都市は、前近代的な帝国あるいは植民地帝国の支配から国民国家への脱皮、永世中立国に属しているがゆえの亡命知識人の逗留、留学生から難民までの多様な外国人居留の形態、外国人労働者の不断の流入、欧化知識人と定住先住民社会との隣接などという20世紀を象徴する変革を生きてきた諸都市である。これらの諸都市でモダニズムの実験がなされるとき、その実践はおのずから多言語・多文化横断的なものとならざるを得ず、それらは支配民族・支配言語・支配文化とのあいだに常時、強い緊張関係を生まざるを得なかった。その緊張感こそがモダニズム運動を推進した原動力であったと仮説を立てることはあながち誤りではないだろう。それぞれの諸都市はその地政学的な位置によって、個別の歴史、個別の感受性を有してはいるが、同時に、世界のありとあらゆる政治変動に対して、それぞれに反応してゆける敏感さを秘めていたという意味では共通している。たとえば、これらの諸都市での1968年が緊迫した同時性を示していたことは、雄弁な傍証となる。

 

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来のモダニズム研究は、とくに日本では大学の文学部教育や語学教育担当者が主力をなしてきた経緯もあり、えてして言語圏別に進められてきた。さいわい、大学改革が進んだ結果、こうした障害はとりはらわれつつあるが、まだまだ十分とは言えない。本研究を担う研究組織は、前身ともいえる二つの研究組織を有し、それらはすでに『モダニズム研究』(思潮社、1992年)、『モダニズムの越境(全3巻)』(人文書院、2002年)の形で研究成果を世に問うたが、私たちが日本におけるモダニズム研究の横断性構築に果たしていた役割は大きかったと自負している。しかも、はじめはパリに代表されるアヴァンギャルド運動の世界的波及を同心円的に確認するところから着手した一連の研究が、こうした西欧中心主義から脱却すべく、「越境」というキーワードを共有することの不可欠性を確認したのが、本研究の前段階である。

しかし、「越境」というキーワードの汎用性は、かえってモダニズムが世界化していくプロセスを緻密に分析してゆく上で、いくつかの曖昧さを孕んでいた。地球という地政学的配置からなっている空間上の「越境」にかならずしも問題を絞り込めなかったことと、創造者たちの「越境」へと注意が傾いた結果、表現手段を持たない越境者(移民や難民や亡命者)に対する配慮が至らなかったことである。

モダニズム研究を西欧を中心とする同心円的な比較研究として落ち着かせるのではなく、いまや地球上のどこにあってもモダニズム的な創造行為がなされうる現状を偏りなく分析できるような立脚点を見出すには、グローバル化の名で呼ばれる人間や文化の高速で濃密な移動形態に即した普遍的な位置を確保することがどうしても必要である。そもそも西欧中心主義的な偏りを孕みながら出発した比較文学というディシプリン自体が再審に付されている今こそ、モダニズム研究においても、西欧諸都市を中心にすえるのではなく、世界に散らばるいくつものセンターのひとつひとつとして、全地球的なモダニズム運動の歴史記述の中に溶けこませなければならない。

 

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