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今月のことば

2019年9月 碧いろ鉱物の生きたプロセスの結晶

 8月から碧いろ鉱物たちの美しい世界の魅惑にとりつかれ、それからさらに恋の病いは急速にどんどんすすんでしまいました。ほんの1か月たらずの短いあいだに、寝てもさめても鉱物たちのことを想い、とうとう病い膏肓(こうもう)に入るという境地にまでなってしまいました。
 青緑いろの美しさの誘惑には勝てません。しかし、考えてみれば、やまとことばでは青も緑も「あお(碧)」と言いました。今でも信号は緑色ですが「青信号」と呼んでいます。青と緑を区別しないで、それらを合わせて「あお(碧)」という呼び名になっていることに、不思議な感動をおぼえます。なぜなら、青と緑のグラディエーションこそ、もっとも美しいからです。
 自然の一端である鉱物たちは、人工的に磨かれて整形された宝石とはちがって、小さいけれど生きた自然の風景をまざまざと見せてくれます。何万年もかかって、地球の変動や火山活動、母岩や他の鉱物との偶然の出会いや共生によって、生きもののように成長し、変形し、その生きたプロセスを「かたち」として結晶化させているからです。人類よりもはるかに長い地球の歴史と記憶と変化のかたちを小さな鉱物たちから感じることができます。
 顕微鏡でミクロな世界を見ると、碧いろ鉱物の生きたプロセスの結晶は、どれひとつとして同じではなく、不思議なかたちをしています。
 そういえば、昔くりかえし愛読していた森有正が、「経験」について「結晶」ということばで語っていたことを思い出しました。そして、「結晶」という既に知っていたことばの奥深さにも改めて感じ入りました。森有正が語っていた「結晶」ということばは、それ以外にない、何と的確なことばだったのでしょうか。

 人間がつくった名前と命題に邪魔されずに、自然そのものが感覚の中に入って来るよろこび、いなそれは「よろこび」以前の純粋状態だ。……自分がまず在って何かを感覚するのだ、という事態から抜け出さなければならない。充実した感覚こそ、自我というものが析出されて来る根源ではないだろうか。……感覚の処女性という表現によって、私は、ものと  の、名辞、命題あるいは観念を介さない、直接の、接触を、意味する。その接触そのものの認知を私は経験と呼ぶのである。(森有正『木々は光を浴びて』)

 それは言いかえると、僕は僕自身を礎石とすることによってほかのものを恐れる必要がなくなったということである。しかし僕は考える。それには何という遙かな時の流れを必要とすることだろう。なぜかというと、僕には「自分というものが在る」と呼ぶだけでは不十分だからだ。それだけならば、誰でも声と言葉が出せる人ならば同じことを言うことできるからである。僕はそれを一つの思想と文字という客観的なものに、結晶させなければならない。(森有正『バビロンの流れのほとりにて』)

 辻邦生は≪私の世界≫から溢れ出す美を小説という作品へ蒸留する。森有正は「純粋感覚」を思索という炎で煮詰めて、最後に残る経験という結晶を析出する。(碧岡烏兎の書評より)

写真
上1段目右から、クリソコラ&水晶、スミソナイト、トルコ石、ラング石&ブロシャン銅鉱
2段目右から、水亜鉛銅鉱&異極鉱、クリソコラ、青針銅鉱、リロコナイト
3段目右から、カレドニア石、水晶&クレソコラ、翡翠、ゾイサイト&ルビー
4段目右から緑鉛鉱、クロム透輝鉱、コルネタイト



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