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今月のことば

2019年6月 ビジュアル・ナラティヴとしての俳句

 この春から思い立って、俳句をはじめることにして、2か月ほどになります。詩は昔から好きで、芭蕉の句なども好きでしたが、ふだん読むのは、もっぱら自由詩でした。定型の短歌や俳句は、古くさくて窮屈に思えました。庶民的で誰でも句を詠むことができて裾野が広いのですが、かつてはやった「第2芸術論」が頭をよぎることもありました。また、長い伝統が蓄積された結社などの人間関係もにがてでした。
 しかし、素晴らしい師匠に出会えたことが幸運でした。俳句をやってみるとこれがまた楽しくてたまらず、なぜ、もっと早くはじめなかったのかと思えて、世界を見る眼が一変しました。
 俳句にしようと思えば、散歩をしていても、何をしていても、ものごとをじっとよく見て、観察し、それをことばにしなければなりません。まさに私が、いつもフィールドの精神として説明してきた「よく見れば、薺花咲く垣根かな(芭蕉)」という観察力が必要になります。
 ここ2か月ほどは、本来の仕事そっちのけで、連日、句つくりにとりつかれ、すっかりはまってしまいました。初心者というものは良い身分です。初めは知らないことばかりなので、何をしても興味深いし、スタートラインが低いのですぐ上達するし、怖いもの知らずで、純粋に面白いのでしょう。おかげで、やらねばならないライフワークの執筆は、また、また頓挫しています。
 しかし、まわり道ではありますが、俳句もまた、本業とむすびつくことがわかってきました。今の研究上の一番の関心事「ビジュアル・ナラティヴ」として俳句を見ることができることに気づいたのです。9月に開催される日本質的心理学会では、「ビジュアル・ナラティヴの実践性と多様性」と題したシンポジウムを企画する予定ですが、そこで「ビジュアル・ナラティヴとしての俳句」という題で発表することにしました。
 通常のビジュアル・ナラティヴは、ビジュアル・イメージを媒体にしてことばで語ることをさしますが、俳句は、その逆で、ことばでビジュアル・イメージを映像化する芸術といえましょう。今は、ビジュアル・ナラティヴとしての俳句の特徴を整理してまとめているところです。
 特に興味深いのは、虚子が唱えた「写生」という概念です。彼は、写生とは単なるスケッチではなく、「じっと眺め入る」ことで、科学者が1本の薔薇を見て、そこに寄生する何十種類もの昆虫たちの不思議な関係性を発見するように、文学的な新しい「不思議」を発見することをさすのだと言います。そして「じっと眺め入る」ことが「じっと案じ入る」ことに落ちていくのだというのです。
 写生によって「映像化」をめざす俳句は、自分の感情や感興を詠嘆的に詠む短歌と比べることができます。こころの内側に眼を向けた小さな自己の「主観」から出発するのではなく、自分と風景の「あいだ」にあるものを「外在化」して、ことばにするという考えは、現代のナラティヴ論から見ると、興味深いものです。虚子は「客観写生」と呼んだようですが、この名前は誤解を生みます。写生は、「主観」でも「客観」でもない、両者の「あいだのインタラクション」と考えるべきでしょう。
 「写生」を強調する一方で、虚子は実践的で平易で誰でもできる「俳句のつくりよう」を指南しています。古典の句の一部を空白にして、そこに、どのような語を入れたらぴったりくるかという「埋字」クイズのような「言語ゲーム」も試みています。そして、たった一語で、どんなに句のイメージが異なってくるか、多様な変異を弟子たちに体験させています。
 風景を自分の眼でていねいに観察する「写生」と、ことばあそびのような「言語ゲーム」は、一見すると相容れない句作法に見えます。しかし、ことばが自分の内面の表出ではなく、文化によって蓄積された伝統の賜であり、場のなかで「外在化」され共同生成され、さまざまな変異のなかで「変容」していくものだと見る点で、これもナラティヴ論から見ると、興味深いものです。


 一つ根に離れ浮く葉や春の水(虚子)

写真 薔薇を観察するモモ



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