立命館法学 2000年1号(269号) 87頁(87頁)




フランス地方分権改革の源流 (下)

- 一九七〇年代の都市コミューンにおける分権化要求運動 -


中田 晋自


は じ め に

第一章  政権戦略としてのレジオン改革
  第一節  ドゴールのレジオン改革における二つの目標
  第二節  反ドゴール的研究クラブの分権的参加デモクラシー論
  第三節  ミッテランの政権獲得戦略における地方分権改革の公約化

第二章  政権戦略としてのコミューン改革
  第一節  ジスカールデスタン戦略におけるコミューン改革の位置
  第二節  画期的改革構想の提出
            −ギシャール委員会報告書−
  第三節  ジスカールデスタン戦略の挫折         (以上二六八号)



第三章  グルノーブル市における分権型自治体政策の形成−地域民主主義改革の源流−
  第一節  都市構造と住民参加型都市政策決定
  第二節  自治体改革運動とGAM運動
  第三節  分権・参加法制改革における地域民主主義の位置

第四章  マルセイユ市における分権型自治体政策の形成−コミューン行政自由化改革の源流−
  第一節  都市の人口動態と湾岸地域経済構造
  第二節  地域政治の展開と転換
  第三節  ドゥフェールの地方分権改革像

む  す  び (以上本号)


 



第三章  グルノーブル市における分権型自治体政策の形成
−地域民主主義改革の源流−


第一節  都市構造と住民参加型都市政策決定

第一項  グルノーブル市の都市構造
  グルノーブルの地域政治について検討する前提として、ここではまず、この都市コミューンの都市構造(1)についてみておきたい。今日、フランスのなかでも代表的な先端工業都市の一つに数えられるグルノーブルは、著しい発展を見せた科学技術とそれに伴う都市部での人口急増、さらにそれに続く、住民参加を視野に入れた都市計画の推進によって特徴づけられる。グルノーブルとその周辺人口密集地域の発展は、工業生産の発展をみた一九世紀からすでに開始したといわれるが、第二次世界大戦以前には、水力発電、アルミニウム、セメント製造、製紙、諸金属工業などを主力産業とし、戦後は、機械・電気・科学の分野へとその重点を移行させ、さらに七〇年代には、原子力・電子工学・サイバネティクスの分野での発展が著しい。こうした産業の発展は、外部からの人口流入として現れた。一九四六年には一〇万名弱であったグルノーブル市の人口は、一九九〇年時点で一五万七五八名(三二のコミューンからなるグルノーブル都市圏では四〇万四七三三名)となっており(2)、都市圏でみればローヌ・アルプ・レジオン内ではリヨンに次ぐ第二位である(イゼール県内では第一位の県庁所在地)。図表1から明らかなように、一九五〇年代から六〇年代にかけて、グルノーブル市では急激な人口の増大を経験する。
  こうした一九五〇年代以降におけるグルノーブル市の人口急増は、都市化を誘発し、そのコントロールが不可能な水準にまで達した。そして、「必要不可欠の市民施設・都市装置(ゴミ処理施設、下水道、学校・・)」は、都市計画のないまま「危険なまでに不足した状態(3)」に陥った。一九六五年に始まるデュブドゥ市政は、こうした都市問題への対応策と目前に迫った冬季オリンピック大会の準備を同時にすすめるべく、「第五次経済社会開発計画」に取り組むことになる。しかし、デュブドゥ市長自身の考えによれば、これらは市政にとって「基本的な目標」ではなかったとされる。つまり、この左翼市政が目指したのは、「地区や企業や文化団体の活動家たちの支持をうけて、継続的な対話をおこない、諸『中間団体』との協力を通して、住民に関する問題の決定の立案・策定過程への住民自身の参加を可能にすること」にあったのである(4)。こうした取り組みが、後述のように、「グルノーブル方式」として知られる住民参加型都市政策決定の手法開発へと結実することになる。

第二項  デュブドゥ市政の展開
  (1)  ユベル・デュブドゥ
  原子力研究センターのエンジニアであったデュブドゥは、本格的な政治活動を、GAMの代表メンバーとして開始する。一九六五年におけるグルノーブル市のコミューン議会選挙では、この組織のメンバーとして社会党や統一社会党と共同し、勝利を収める。こうしてデュブドゥは、グルノーブル市の新しいメールに就任したが、第一章において既に述べたように、七三年には社会党に入党し、国民議会選挙でも勝利して国会議員を兼職するに至る。七七年の選挙では共産党も参加し、三選を果たしたが、八三年のコミューン議会選挙では、一八年続いたデュブドゥ長期市政にも翳りが見えはじめ、共和国連合(RPR)のカリニョンにメールの座を奪われる。皮肉な結果ではあるが、国政レベルではミッテランを大統領とする左翼政権が成立し、デュブドゥは自らの実践をかなりの点で成文化したといえるドゥフェール法案に社会党議員として賛成したが、翌年のコミューン議会選挙ではカリニョンに敗北し、RPRの市政が成立したのであった。こうして、左翼政権が実施に移した地方分権改革は、グルノーブルにあっては、ゴーリストたちにより実践されたのである。
  その背景には、二度にわたる石油ショックの影響から抜け出しきれずにいたヨーロッパ経済の問題と、それに伴うグルノーブル市全体の低迷という問題があったと推測される。こうした低迷の傾向は、増加傾向にあった人口が、七五年から八二年の間に減少に向かったことにも現れていた(図表1参照(5))。そして、図表2からも明らかなように、外国人の総数には変化がなく、全体に占める比率は一一・四%(一九七五年)から一二%(一九八二年)へと高まる一方、その内訳においては、南欧諸国出身者の比率が下がる一方で、アルジェリアやその他の諸国出身者の比率が高まっていた(6)。こうした現象は、市民の日常生活においては、失業不安として受け止められる。従って、左翼市政は、「雇用・財政・環境」という三つの指標において失敗したとみなされ、とりわけ、雇用と財政においては、その若い候補者(カリニョン)の方が、市政改革への具体的パースペクティヴをもっているとみられていたという(7)

 

  (2)  デュブドゥの新しい都市政策
  デュブドゥは、人口の急増のなかでグルノーブルに体系だった都市計画の必要性を痛感し、都市問題の学際的研究と明確な都市戦略を市民の監視と参加を基盤にして推進しようと考えた。彼は、人口の膨張により「なりゆきまかせにしていたのでは住民の総体を支えきれなく」なったこの都市には、「社会関係ならびに住民と環境の関係の新しい体系」が必要であるとして「新しい都市政策」を構想するが、同時に、「都市発展に対する市民参加」の必要性も、市政担当者として自覚していたのである。この構想は、「経済的・社会的・空間的観点による問題把握」と結びつけられることで、「都市計画プランを検討し、それを承認させ、その実施を監督すること」にある「都市計画公社(ラジャンス・デュルバニスム)」の創設(一九六六年)として、まず実現された(8)。つまり、従来、建築家や建設技術者のみにより担われていた都市計画は、社会学者・経済学者・統計学者などが加わった学際的研究を求められていたが、そのなかで、都市の単なる量的拡大とは区別される「都市の発展」という考え方が明確化されるようになり、都市内部における社会的・経済的階層分化を抑制する都市戦略として「政治秩序の構想」が必要となる。こうして、国家官僚から自律した都市の経済計画をコントロールできる地方の公的機関が重要性を高めることになった。国家からの自律という点で、ここには高い「政治性」がみとめられるが、デュブドゥは同時に次の点を見落としていなかった。すなわち、こうした政治性が、「都市使用者(=市民)の監視と参加という、はっきり表現された意志によって平衡が保たれていないかぎり、最も危険な技術主義に陥る恐れ(9)」がある、と。こうして彼は、グルノーブルにおける市民参加の具体化を開始する。
  デュブドゥは、市民参加の目的が「民主主義の実践に日常的現実を与え、都市政策の実現とグルノーブルの都市整備を通して新しい都市文明を建設することに寄与しつつ、個人と集団が自らの運命の支配者になること(10)」にあるとしたが、より具体的には、都市整備の対象と提案された解決策について市民との間に論争と対決を惹起することで官僚主義的な非公開主義を克服し、都市内部の主要団体に発言の機会を与えることで、資本主義特有の都市建設における私的体制に対抗しようとしたのである(11)。しかし、さらに注目すべき点が二つある。すなわち、「都市全体の構成員の利益を守るための構造」をもち、そのために組織された「連合体」として、ここでは「カルティエ連合(Unions de Quartier)」が想定されていた点であり(12)、その主要な任務が、当局サイドからなされる情報提供(情報公開)を基礎に、住民の様々な参加形態をより強力なものとして実現することにあるとされていた点である(13)。そして、これこそが「グルノーブル方式」とよばれる住民参加型都市政策決定の中心部分を構成していた。
  このカルティエ連合は、当時、グルノーブル全体を網羅する勢いで各所に設立されており、一九六〇年一〇月一三日には、それらの連絡組織として「カルティエ連合連絡委員会(Comite´ de Liaison des Unions de Quartier)」が設立され、翌年の四月に正式に公表されていた(14)。デュブドゥ市政の誕生は、この協会(および連絡委員会)が、グルノーブル市政全体のなかで「制度化」されることを意味していた。デュブドゥ市政が、市議会議員に対するコントロール役として、この「中間諸団体」を高く位置づけていたことはすでに述べた。他方で、この連絡委員会は、この市政の誕生を「ある意味では権力の獲得」と位置づけながらも、財政的援助の問題も重なったために、行政に対して独立したスタンスをどのようにして確保していくのか、この点についてその後もかなりの議論を重ねたとされる(15)。さらに、都市化によって惹き起こされた「新しいコミュニケーションの様式」がカルティエ単位での要求集約形式に変化を与え、様々な要求をもった市民たちが社会団体を次々と設立させていくなかで、カルティエ連合にとっても、自らの存在意義を改めて明確化すべき段階がすでに一九七〇年代に訪れていた(16)
  グルノーブル市における新しい住民参加型都市政策決定の手法は、このように、デュブドゥ市政のもとで発展を遂げた。つまり、市当局が積極的に情報公開をすすめる一方で、カルティエ住民組織は自らを仲介者として日常的な住民参加形態を模索していたが、これらはまさに地域民主主義の一環としてすすめられた実践であった。こうしたカルティエを基軸とする都市政策の独自方式は、一九八一年に設立された「カルティエの社会的発展のための全国委員会」(首相の諮問機関)においてさらに検討が加えられ、一九八三年には、その委員長デュブドゥから首相へのレポート『アンサンブル  都市の再生』が提出されるに至る(17)。しかし、このような地域民主主義の発展が、ミッテラン政権下における分権・参加法制改革にそのまま結実したわけではない。そこには、一九八一年に成立したミッテラン新政権が当然抱えざるを得ない政権の論理や社会党内の事情があった(この点については、本章第三節において詳述する)。また同時に、一九七〇年代におけるグルノーブル市政とカルティエ組織が、もう一つの課題に直面していた点についてもみておかなければならない。すなわち、カルティエ組織が行政側に接近しすぎることで、行政側が優位に立って住民組織を主導・再編成したり、これらの組織を特権化された団体とみなすようになる傾向をどのように回避するかという問題である。これは、地域レベルにおける権力の問題、あるいは民主主義の問題である以上、より政治的な視点からの解決が必要とされる。この問題を論じるためには、デュブドゥ市政を支える運動体としてのGAMを取り上げなければならない。節を改め、以下、GAMを中心としたグルノーブル市における自治体改革運動の理念と現実について検討していく。

第二節  自治体改革運動とGAM運動
  一九七〇年代のフランスでは、全国各地で形成されていたGAM運動によって、市民参加を理念とする自治体改革運動が展開されていた。なかでも、このデュブドゥが率いるグルノーブルGAMが、最も大きな成果を上げたといわれる。事実、GAMの自治体改革運動がフランス政治に与えたイムパクトについては、A・マビロー、J・ロンダン、ガーヴィッテらの研究者たちによって指摘されている(18)。マビローは、GAM運動が「参加デモクラシーの理念を復活させた」とし、「その反響は、一九七〇年代における重要な行政レポート(ペイルフィット、ギシャール、オベール)に認められる」と述べている。にもかかわらず、GAM運動の存在について、日本では意外に知られていない。ここでは、分権化を要求する参加デモクラシー運動としてのGAM運動の活動や主張について検討を加えることで、この運動の先進性を明らかにするとともに、ミッテラン政権下における分権・参加法制改革のなかで地域民主主義の強化という課題が、まさに課題として認識されながらも、決して最優先とされなかったことに鑑み、この運動がフランスの文脈においては一定の限界性を持たざるを得なかった点についても明らかにしていく。

第一項  GAM運動の形成
  GAM運動は、全国の都市に形成された自治体改革運動である。ガーヴィッテは、これらGAM運動に参加した人々を次のように類型化する。すなわち、彼らは、第一には、自分が居住する地方自治体の運営に満足ができず、第二には、そうした地域的諸問題に対する既成政党の対処法にも不信を抱いている人々である、と。そうした背景から、GAMは、「彼らのコミュニティーが直面する具体的諸問題について検討し、彼らが考えた非イデオロギー的でプラグマティックなしかるべき解決策を提案するため、非党派的基礎に基づく市民の動員を企てた」とされる(19)。こうしたGAM運動の形成プロセスの特徴を典型的に示したのが、一九六四年に設立されたグルノーブルGAMの事例である。上述のように、グルノーブルは、先端産業都市としての特殊な発展を遂げたことから、「高等教育を受け、グルノーブルを長い間有名にしてきた原子力研究センターや水力発電所といったハイテク産業で働くためにやってきたミドル・クラスの人々」によって、人口流入現象が引き起こされた。こうした都市における産業の発展と人口の増加に、まず最初に限界を示したのは、水道設備であったといわれる。すなわち、一般世帯や工場の増加に見合う水圧が維持できず、アパルトマンの上層階では水道が使えなくなるという事態に立ち至ったのである。人々の不平不満はそのもっていく先を失っていたが、彼らグルノーブルに流入してきたミドル・クラスの人々は、貧困な行政や社会資本の現状に甘んじるようなたぐいの人々ではなかった。彼らは、その問題について分析する勉強会をつくり、市庁舎へと赴き、彼らが直面した問題を解決するために闘ったのである(20)
  グルノーブルの事例に示されるような、産業化や人口流入に伴う都市問題の発生と、そうした問題の解決へ向けた市民活動の高揚は、都市型社会への地域社会の変容プロセスであるといってよい。従って、GAM運動とは、まさに、こうしたフランス地域社会の変容に付随した地域政治構造の地殻変動を体現する、一つの政治的・社会的現象であったと受け止めることができる。

第二項  グルノーブルGAMの活動と政治目標
  当時、最も大きな影響力を発揮したグルノーブル市とそれをとりまくメラン(Meylan)、サン=テグレーヴ(Saint−E´gre`ve)、ラ・トロンシュ(La Tronche)の各コミューンからなるグルノーブル都市圏のGAM運動は、ジスカールデスタン政権がその基盤強化戦略を実行に移した一九七五ー七八年の時期に、地域政治の実践や経験に立脚した自治体改革の方向性を「地域民主主義」として定式化していった。グルノーブルGAMが地域政治の実践や経験のなかで確立した自治体改革に関わる様々な目標は、彼らの活動情報誌『GAMアンフォルマシオン(21)』において表明されていったが、例えば、一九七五年一一月発行の第三〇号は「自治体権限の分割地域セクターによって分有された一つの政治権力を目指して(22)」を、また、コミューン議会選挙(一九七七年三月)に先駆けて一九七六年一二月に発行された第三一号は「地域民主主義新たな中継点を目指して(23)」を、さらに、一九七七年五月発行の第三二号は「コミューン自治体地域民主主義のための新たな一段階(24)」を、それぞれ主題としている。彼らの主要な関心は、一貫して、コミューン当局のもとにある権限をどのように分割し、市民に分配していくのかに向けられていたが、彼らの自治体改革政策が明確な前進を遂げたのは、ジスカールデスタンが地方制度改革を媒介とする地方名望家たちからの支持調達戦略を具体化しはじめた、まさにこの時期であった。グルノーブルGAMが自治体改革の政策目標をどのように発展させ、どのような地域政治構造改革構想をのちの時代に残していったのか。この時期の『GAMアンフォルマシオン』を中心に、より詳細に検討していくことにする。

  (1)  自治体権限の分割−新しい自治体運営スタイルの確立−
  グルノーブルGAMは、一九六五年以降、新しい自治体運営スタイルが確立されたことを強調して、以下のように述べる(25)。すなわち、「権力を市民の手に取り戻すのか(26)」が、一九六五年に開催されたGAMの第一回全国大会において設定されたテーマであるが、また、一九六五年という年は、コミューン政治史において一つの転機となっており、それは、この年に実施されたコミューン議会選挙でグルノーブルの左翼がゴーリストに勝利したからではなくて、グルノーブルという大都市市政に新たな運営スタイルが確立されたからである、と。それ以来、フランスのコミューン政治領域で多くの変化が認められるとすれば、それは明らかに、従来メールたちが放棄してきた様々な権限を、再び活用するようになったことであり、従って、GAMの活動とは、コミューン議会に議員を送り込んで、各コミューンの自治体当局ブヴォワール)を奪回することにあると彼らは主張する。
  フランスが中央集権制をとりつづける限り、デモクラシーはあり得ない。こう断言する彼らは、市民が権力を手にするならば、責任の問題がついて回るのであり、そこには当然、技術面や財政面での失敗など様々なリスクを伴うことを自覚していた。それゆえ、フランスにおける中央集権的な政治・行政構造の実態が浮かび上がってくる。すなわち、責任者がそれぞれ自らの責任を逃れるため、上級機関の庇護という傘の下に潜り込んでいる「巨大ピラミッド」がそこには存在しているのである。このように、権力と責任という一対の関係を明確にした上で、今後は政治・行政構造の土台を固めていく必要があるが、しかし同時に、責任は人々によって分有されなければならないと彼らは主張する。というのも、上級機関からのあらゆる重圧を一人で受け止めきれる者など、一人もいないからである。ピラミッド型をした国家組織の政治的性向に鑑みるならば、コミューン段階においても、依然として、中央集権制への誘惑が強く残っているという点に注意しておく必要がある。
  議論は、カルティエ政策へと展開する。そして、彼らはいう。GAMは、一九六五年および一九七一年のコミューン議会議員選挙における公約として、住民(とりわけ住民を代表する市民団体カルティエ連合)と対話する意思があることを明らかにした、と。それは、彼らGAMが、カルティエ連合を不可欠の存在とみているからに他ならないが、彼らは、カルティエ連合が、より多くの住民を巻き込んで行くべきであるし、コミューン当局からの干渉を避けつつ、様々な政治的考え方をする市民たち(カルティエでの活動は、政治ではないと考える市民も含め)が意見交換する特別な場となるべきであると主張する。しかし、コミューン当局として、これらカルティエ連合に対して提供できる、そして、提供すべき唯一の援助は、彼らの話に耳を傾け、重大に受け止め、彼らと意見をぶつけ合うことであるという点について確認がなされる。
  およそ二万人規模のコミューンならば、地方議員と市民たちとの対話が可能であるとの考えから、その規模を上回るグルノーブルにおいては、コミューンとカルティエの中間段階として「セクター」が創設され、各セクターに「セクター委員会」が設置された。この委員会には住民合議の単位という機能が期待され、事実、創設された当初、この委員会が住民の意見集約的役割を果たしたと彼らGAMは評価する。そして、グルノーブル市当局は、様々な争点(とりわけ、会計)に関して政策決定をくだす前に、これらセクターに対し意見を求めることを確認する。彼らは、こうした取り組みを通じた、地方議員と市民たちとの対話が、市民による権力の奪取へ向けたさらなる一歩となるとの確信を、ここに示したのだった。

  (2)  「地域民主主義」の定式化
  グルノーブルGAMは、コミューン議会選挙(一九七七年三月)へ向け、「地域民主主義、一つの優先的目標」と題する政策綱領を定め、『GAMアンフォルマシオン』第三一号に掲載する(27)。ここに提出された彼らの「地域民主主義」論は、かつて『GAMアンフォルマシオン』第三〇号で萌芽的に述べた「自治体権限の分割」という新しい自治体運営スタイルの視点をも包摂する、よりトータルな自治体改革のあり方を指し示すものである。

  ここでは、「地域民主主義」の目標が、次の六点で整理されている。
  @  自治体権限の分割
  A  諸団体や集団的空間の拡がりという社会的現実の考慮
  B  地域内の分権化
  C  生活環境整備と生活向上
  D  情報公開と住民合議
  E  民主的自治体当局をすべての段階に

これら六つの課題について、グルノーブルGAMはどのように考えていたのか。以下、概略的に説明しておこう。

@  自治体権限の分割
  GAMは、市民参加を目標とするなかで、自治体権限の分有を目指していく。コミューン議会議員の権限を市民および市民団体との間で分有する場としては、コミューンとカルティエが想定される。コミューン議会は、市民や市民団体に対して権威的な態度をとっていないか自ら注意を払う必要があり、GAMとしては、市民たちの個性や市民団体の独自性を認めるような契約的諸関係の構築を目指す。
A  諸団体や集団的空間の拡がりという社会的現実の考慮
  市民諸団体や集団的空間が現実に拡大しつつあることに鑑みて、GAMとしては、次の二点について確認しておく必要があると考える。すなわち、第一には、社会諸集団のあらゆる組織形態(目的の明確な市民諸団体(アソシァシォン)、さほど伝統のない「対抗勢力(コントル・プヴォワール)」など)の考慮である。そして、第二には、半ば強制的な社会生活(学校、市場など)と自発的な社会生活(遊技場など)とが営まれる空間への配慮である。
  こうした社会的現実を考慮することなしに、地域内の分権化は実現しない。
B  地域内の分権化
  名望家体制の基底にある地域社会の階統制的組織編制を転換させるには、多くの困難が伴うことを認識しながらも、GAMは、地域内の分権化を、実施可能な領域から推し進めていく必要があると考える。
  まずは、コミューンの各部局レベルの場合である。この場合、地域内の分権化は、効率性の問題を持ちだすことによって部分的には正当化可能である。しかし、このような行政的・専門的分権化は、それ自体が特殊政治的な選択の対象なのではない。それとは反対に、ここでいう分権化が、例えば、カルティエ段階における意見表明手段を作り出したり、市民諸団体間や住民とコミューン機関との間の調整や協力を発展させたり、市民諸団体と地方議員たちとの対話と、市民諸団体による行政当局への訪問や参加とを持続的で日常的なものとしたりする契機となっているのだ。
  次いでは、決定と執行のレベルの場合である。この場合、地域内の分権化は、セクター段階における新しい機関(普通選挙に基づいて選出された政治的代表制)の創設を意味する。現代は、都市行政・産業・経済の各分野における権力集中の大きな流れに支配されており、こうした集中化は、その必然的帰結として、徐々に強まる情報操作を生み出すことになる。
  分権的で参加的な新しい機構を導入することによって、市民は社会的責任を十全に負担するようになる。権力を伴わない責任は存在しないし、幾つかの社会的段階(近隣共同体、カルティエ、セクター、コミューンなど)における政治的選択権を伴わない権力も存在しないのである。
C  生活環境整備と生活向上
  GAMは、住民自身による、生活環境整備の管理運営と促進をさらに推進したいと考える。カルティエ(あるいは、コミューン)のレベルにおける生活環境整備の促進を、カルティエにおける生活の向上と混同することはできないが、しかし、生活環境整備は、生活を向上させる上で、重要な方法の一つである。
  コミューン議会は、独自の社会・文化政策を発展させる独自の手法をもつ必要があるが、同様に、自発的市民諸団体と、当局によって設置されたコミューン諸機関とのいかなる混同もあってはならない。
D  情報公開と住民合議
  各人は、自らに関わる全ての事柄について、情報提供を受けることができるようにしなければならないというのが、GAMの考え方である。しかし、ある政策やそれをめぐる選択肢を明らかにするためにコミューン議会が公表する公式発表は、たとえ、自治体の施策に関する批判的分析を加えた場合でも、どうしても一方の立場に偏ってしまう。従って、第三者機関を設立・育成することにより、地方自治体以外の情報源や情報入手手段を市民たちのものにするよう、住民合議の場を保障していく必要がある。
E  民主的自治体当局をすべての段階に
  地域権力を分権化しようとする意思は、翻って、情報公開と、全ての段階(カルティエ、セクター、コミューン、都市圏など)の間での調整を要請する。フランスの中央集権システムとは反対に、このような地域の分権的組織編制のもとでは、多様な意見の表明を促進し、従って、自治体権限の分有を現実的基盤の上に据えることになる。また、こうした分権的組織編制は、様々なコンフリクト(イデオロギー間、諸利害間)を発展させることになる。これらのコンフリクトは、それらの極端なイメージで捉えるのではなく、むしろ、活動的であることの現れやデモクラシーの実践に対する積極的貢献と見なすべきである。実際、GAMにとって本当に重要なのは、コミューンの下位段階(カルティエ)からコミューンの上位段階(都市圏)まで、現実にデモクラティックな自治体当局(ブヴォワール)の実践を押し進めることなのである。
  ここでいう地域民主主義が、分権型社会の成熟を前提とした参加民主主義(分権的参加デモクラシー)であるとするならば、ミッテラン政権下における分権・参加法制改革のなかで地域民主主義がどのように位置づけられていたのかは、極めて興味深い点である。これは、地域民主主義の運動から法制度改革へという、一九七〇年代と一九八〇年代との連続性の問題と捉え直すことも可能である。しかし実際のところ、一九八二年の地方分権改革は、従来の中央集権的な国家の枠組みを、どの程度壊すものだったのか。その点で、例えば、マビローは、一九八二年法が「もう一つの曖昧さ」を生み出したと述べているように、幾らか悲観的な評価を下している。というのも、この改革の主要な目標が、ガストン・ドゥフェールによって明らかにされたロジックに従えば、「地方議員たちに権力を与える」ことにあったことは否めず、中央官僚ー地方名望家の対抗軸において、地域の諸自由を拡大することに主眼がおかれていたからである(28)
  節を改めた上で、フランスの政治的・行政的文脈のなかで、地域民主主義がどのような位置を占めてきたのか、そして、ミッテランの分権・参加法制改革において、地域民主主義強化の課題がどのように位置づけられてきたのかについて検討していくことにする。

第三節  分権・参加法制改革における地域民主主義の位置

第一項  分権的参加デモクラシー運動の先進性
  ミッテラン政権の分権・参加法制改革における地域民主主義の位置を論じるにあたり、地域民主主義をめぐる一九七〇年代と一九八〇年代の連続性について検討しておくことは、重要である。マビローは、地方分権改革に先行して、「地域の政治・行政単位における分権化の考え方」、より正確には、「地域権力と市民が接近をはかることによって、地域住民自ら自治体の諸問題について決定を下すことができるとする参加民主主義」の考え方が存在したことを指摘する。すなわち、分権化と参加デモクラシーの考え方を結びつけた「このような地域民主主義の革新的パースペクティヴは、『フォルス・ヴィーヴ』神話とともに出現する新しいイデオロギー的諸潮流を生み出し、さらに一九七〇年代には、体系化されたさまざまな提案を作成するGAM運動を生み出したのであり、これらの提案はやがて、政治クラブや地方分権改革に先だって提出された重要行政レポートによって共有されることになった」のである。そして、これらのイデオロギーの拡大は、「アソシエーティヴな運動の発展と符合して」おり、こうした運動はとりわけ「仲介者としての役割を独占し、住民の諸要求を明確化するための媒介者を自認する、地域的諸利害を擁護する諸団体」というかたちをとって発展した。同時に、自治体当局の側にも、いくつかの改革の成功例があり、マビローは、その一例としてグルノーブルにおける「カルティエ連合」の実践を挙げている。これらの実践のなかで育まれた思想は、一九七七年や一九八三年のコミューン議会選挙で選出された新しいコミューン議会議員たちによって継承されることになる(29)
  このように、一九八〇年代の分権・参加法制改革に先立つ一九七〇年代のフランスには、「地方議員と地域住民の間を市民諸団体(アソシァシォン)が仲介する新しいデモクラシー像の具体化」が確認されるのであり、「そこでは、市民諸団体がコミューン大統領制への対抗諸勢力として立ち現れる」ことになる(30)。そして、本章においてみてきたように、グルノーブルGAMは、デュブドゥを先頭に自治体改革運動を組織し、グルノーブル市政を自ら担当し、「地域民主主義」を活動上の理念とする自治体改革運動を展開した。ロンダンが指摘したように、CJMが、県制廃止論を唱え、レジオン段階における計画化の推進を構想した開明的テクノクラートたち(とりわけDATAR)と、フランス国家の近代化論を志向する点において考え方の共有がみられ(31)、広域化・合理化・効率化と市民参加型デモクラシーを結びつけた理論志向の改革構想を提起したことと比較すると、GAM運動の特徴は、地域に根ざした民主主義の実践により大きな関心が向けられている点にある。
  自治体改革を通じて独自の「新しい自治体運営方式(32)」を開発し、地域民主主義という都市市民のデモクラシー形態を確立したことは、反画一主義を主張している点において、それ自体、フランスの中央集権システムに対する真のオルタナティヴを提出するものであった。党派を超えた地方議員とグルノーブル市民との対話政治は、自らの独自性を主張する都市型運動が示した一つの到達点であったし、都市型社会の成立に伴う地域政治構造の変動を体現するものであった。そこには、分権型社会の成熟が進行していたと言ってよいであろう。また、国政レベルでは野党の地位に甘んじていた当時の左翼勢力にとって、ドゴール、ポンピドゥー、ジスカールデスタンの各政権を中央集権主義と結びつけて批判することと、都市コミューンにおける独自の政策実行能力を証明することは、一定の整合性をもっていたに違いない。すなわち、地方分権改革によって自発的な政策執行権限がコミューンに与えられるならば、左翼市政にはその権限を活かす能力が十分あることを証明したのである。本稿では、彼らが開発した「自治体運営方式」を、一九七〇年代に都市コミューンのもとで形成された「分権型自治体政策」の一類型と捉え、これが、ミッテラン政権下における分権・参加法制改革の「原風景」の一つとなったと考えるものである。

第二項  フランス型地域民主主義
  上述のように、ミッテラン政権下における分権・参加法制改革において地域民主主義の強化という課題が、最重点課題として位置づけられなかったとする悲観論が有力であったとしても、その原因をめぐっては、むしろ、「参加」に対する特殊フランス的文脈の存在を指摘することも可能である。従ってわれわれは、まず、中央集権国家の典型とみなされるフランスにおいて、地域民主主義がどのように位置づけられてきたのかについて見ておかなければならない。
  マビローは、地域民主主義とは別に、「地域の諸自由」という考え方が第三共和政の初期から発展を遂げた点を指摘している。というのも、県とコミューンの自由化に関する一八七一年と一八八四年の二つの立法が、地域の諸自由の進展に重要な役割を果たしたからである。地域の諸自由という考え方は、代議制民主主義と結びつくことにより、地域住民の普通選挙によって地域の代表者を選出する仕組みを登場させたが、同時に、このことは、地方名望家の正統性を保証するものとなった。まさに、ここで述べた二つの立法の成立は、共和主義を信奉する「新しい社会階層」ないし「自由主義イデオロギーをまとった共和主義的名望家たち」が地域の代表者の地位を獲得する「名望家たちの共和国」の出現と軌を一にするものであった(33)。しかし、こうした地域の諸自由の進展も、国家全体に関わる統治機構の変更(中央ー地方関係の再編成)を達成するには至らなかった。そこには、「フランスの政治・行政システムの組織編制に関して、大革命が定めた民主主義的諸原理の残像」があったからである。そして、「『単一にして不可分の共和国』におけるデモクラシーは、国家の代表者たちによる国家レベルでの権力の行使のみに関わるもの」であり、「このデモクラシーは、中央権力の専有物」であった。そうしたフランス中央集権システムが桎梏となって、「デモクラシーは地域レベルに適用されず、政治領域を除いて、地方公共団体は県知事の権威のもとで単なる行政単位とされている」のである(34)
  こうして、国家官僚と地方名望家との対抗軸(官僚共和政と名望家たちの共和国)が浮かび上がるわけであるが、マビローによれば、地方の組織機構が名望家権力によって支配されている以上、フランス中央集権システムの桎梏から地域システムを解放したとしても、それは実際のところ「地域民主主義の発展と同一のものとはならない」とされる。確かに、地方の組織機構は、代議制民主主義の諸規則に則って運営されるが、しかし、この代議制民主主義のもとでは、「市民には代表者を指名することはできても、都市(cite´)を統治する能力を持たない」のである。マビローは、こうしたフランス型地域民主主義を「市民なき(地域)民主主義」と呼ぶ。まさにこうした視座のもとで、第四共和政憲法および第五共和政憲法は、地域の諸自由を規定したが、決して実施されることがない。この枠組みは、少なくとも一九八二年の地方分権改革まで継続することになる(35)

第三項  分権的参加デモクラシー運動の限界性
  GAMなど一九七〇年代の都市コミューンにおいて大きく発展を遂げた分権的参加デモクラシー運動は、自治体改革を通じて独自の「新しい自治体運営方式」を開発した点では、社会党系都市コミューンの政策能力を証明したし、地方分権改革後のコミューン像を提示したという点では、その先進性を発揮していたといえる。しかし、こうした一九七〇年代の運動が、一九八〇年代における法制化過程と連続しているか否かは、別の次元の問題である。ミッテランの分権・参加法制改革が、メールたちの権力を強化し、名望家たちを特権化し、市民を排除するという予想もしない方向へ展開したとき、この改革における地域民主主義強化の課題が軽視されたことへの疑念の声が挙がることになるが、マリオン・パオレッティは、その理由を次のように説明する。すなわち、「一九七〇年代末まで地方分権化要求の中心に地域民主主義要求があったとしても、その改革の交渉過程、とりわけ、一九八二年と一九八三年において、地域民主主義要求はほとんど存在していなかった(36)」と。
  もとより、ドゥフェール法案のなかには、市民参加の制度化について定める条項が盛り込まれていなかった以上、こうした事態が発生することは至極当然のことであるが、その土壌はそれ以前に生み出されていた。すなわち、上述の、ジスカールデスタン政権下で提出された一九七八年の「地方公共団体責任権限促進法案」の審議過程は、「とりわけ、兼職議員たちにとって、地方分権関連諸法のなかで参加は法制度化されるべきでないし、権力が分権化されれば、地域民主主義の条件を十分満たすことになるという決定を下す機会になった」のである。従って、ドゥフェール法案の審議過程(国民議会の第二読会)において無所属議員ゼレーが提出した修正案(「諸法律によって、地域世界への市民参加促進を定める」)がその後議会において議論されなかったり、上述のグルノーブル市長で社会党国会議員を兼職するユベル・デュブドゥが、一九八二年九月、彼自身が代表を務める「社会主義・共和主義全国議員連盟(FNESR)」の名前で提出した市民参加に関する草案が、その後一切検討されなかったとしても、これはすべて兼職議員たちの間で確立されたコンセンサスに基づくものであったことになる。中央官僚と地方名望家との対抗軸において地方分権化が論議された一九八一ー八二年の時期、フランソワ・ミッテランとユベル・デュブドゥとの間には、一本の境界線が引かれていた。パオレッティは、市民参加促進法制定の動きにストップをかけた張本人として、ミッテランの名前を挙げ、一九八一年の大統領選挙におけるミッテランの勝利が明らかにしていることは、「第二左翼(la seconde gauche)と彼らが抱いている問題意識に対する一つの勝利(37)」であると述べている。ただし、フランスにおける地域民主主義の発展は、一九八二年で終焉したわけではない。というのも、一九七〇年代の運動は、上述の一九九二年法第二編「地域民主主義」へといわば隔世遺伝しているからである(38)
  ともあれ、中央官僚と地方名望家との対抗軸(地域の諸自由の是非)において捉えられる地方分権改革の源流は、デュブドゥのグルノーブル市ではなく、ガストン・ドゥフェールのマルセイユ市にあるといえる。章を改め、一九七〇年代に発展を遂げるマルセイユ市の新しい都市行政の運営手法と、その市長ドゥフェールがとった地方分権改革実現のための行動について明らかにしていく。

(1)  グルノーブルの都市構造と市政史に関しては、既に拙稿「ミッテラン政権下における『地域民主主義』の形成」(『立命館法学』一九九七年度第一号)の第二章において素描している。
(2)  L'etat de la FRANCE 96-97, collab. CRE´DOC;e´d. sous la dir. de Serge Cordellier, E´lisabeth Poisson. -8e e´d. −Paris:La Decouberte, 1996, p. 373.
(3)  ユベール・デュブドゥ「グルノーブルにおける都市政策と市民参加」、『岩波講座・現代都市政策』別巻・世界の都市政策(岩波書店、一九七三年)、七四頁。
(4)  同前、七五頁。
(5)  こうしたグルノーブルにおける人口の減少は、一八八〇年以来初めての出来事であるという。Denis Bonzy et al., Grenoble, Didier Richard, 1988., p. 36.
(6)  ibid., p. 35.
(7)  中田実「フランス都市の分権化と住民組織−グルノーブル市を中心に−」(山田・長尾編著『共育・共生の社会理論』、税務経理協会、一九九三年)、一二頁。
(8)  ユベール・デュブドゥ、前掲論文、七五頁。
(9)  同前、八〇頁。
(10)  同前、七五頁。
(11)  同前、八〇頁。
(12)  同前、八二頁。これを媒介として、「(市政の)責任者と市民、自治権力とさまざまな社会団体、それぞれの間に、緊密な関係」の創出が期待されていたという(八一頁)。
(13)  同前、八四頁。
(14)  ここでは、当該委員会の「CLUQの歴史編纂グループ」が、一九九一年に提出した『CLUQの三〇年史』が参考になる。Groupe de Travail sur l'Historique du C.L.U.Q.,”Trente Annees du C.L.U.Q., Assemble´e ge´ne´rale du 16 mai 1991, Comite´ de Liaison des Unions de Quartier de Grenoble, (Association Loi de 1991), p. 5.
(15)  ibid., p. 6-7.
(16)  ユベール・デュブドゥ、前掲論文、八六頁。
(17)  Hubert Dubedout, Ensemble, ferair la ville, rapport au Premier ministre du Pre´sident de la Commission nationale pour le de´veloppement social des quartiers, La Documentation Francaise, 1983.
(18)  Albert Mabileau, op. cit., 1994, p. 128-129. Jacques Rondin, op. cit., p. 45-47. Peter Alexis Gourevitch, op. cit., p. 165-168. ガーヴィッテがGAMについて言及していることは、すでに野地孝一氏によって紹介されている。野地孝一、前掲論文、一九八三年、二〇〇頁。
(19)  Peter Alexis Gourevitch, op. cit., 1980, p. 166.
(20)  ibid., p. 165.
(21)  Groupe d'Action Municipale, G.A.M. INFORMATIONS. これらの資料は、いずれも、グルノーブルGAMおよび「グルノーブル住区連合連絡協議会(CLUQ)」で活動されているフランソワ・オラール氏(Francois Hollard)より提供していただいたものである。
(22)  G.A.M. INFORMATIONS, N゜ 30 - Novembre 1975,”Partager le Pouvoir:Pour un pouvoir politique de secteurs.
(23)  G.A.M. INFORMATIONS, N゜ 31 - De´cembre 1976,”De´mocratie locale:Pour de nouveaux relais.
(24)  G.A.M. INFORMATIONS, N゜ 32 - Mars 1977,”Municipales:une nouvelle e´tape pour la de´mocratie locale.
(25)  G.A.M. INFORMATIONS, N゜ 30.
(26)  このテーマは、Rendre le pouvoir aux citoyens? と表現された。
(27)  G.A.M. INFORMATIONS, N゜ 31.
(28)  Albert Mabileau,”A la recherche de la de´mocratie locale. Le repre´sentant et le citoyen, Centre de recherches administratices politiques et sociales de Lille (CRAPS), Centre universitaire de recherches administratives politiques de Picardie (CURAPP), La democratie locale:repre´sentation, participation et espace public, PUF, 1999, p. 64-65.
(29)  ibid., p. 65.
(30)  ibid., p. 65. なお、ここで述べられている「コミューン大統領制」とは、メールはコミューン議会内における互選によって選出されるが(実際には、コミューン議会選挙の際、最も得票の多かった候補者リストの筆頭者がメールとなる)、メールに就任した時点で、議会からの信託の如何から独立して、さまざまな権限を獲得するという、現行制度に対するマビローの批判的呼称である。この点については、マビローの次の論文を参照。Albert Mabileau,”De la Monarchie Municipale a` la Francaise, Pouvoirs, n゜ 73, La De´mocratie Municipale, Seuil, 1995.
(31)  Jacques Rondin, op. cit., p. 37-41.
(32)  ibid., p. 46.
(33)  Albert Mabileau, op. cit., 1999, p. 63-64.
(34)  ibid., p. 64.
(35)  ibid., p. 64.
(36)  Marion Paoletti,”La de´mocratie locale francaise. Spe´cificite´ et alignement, CRAPS, CURAPP, op. cit., 1999, p. 53.
(37)  ibid., p. 53-54.
(38)  この「隔世遺伝」の理由を明らかにするためには、分権・参加法制改革後の地域政治構造の動向に関する検討が重要である。この点については、次の小論において若干の検討を加えたことがある。拙稿「ミッテラン政権下における『地域民主主義』の形成」(『立命館法学』一九九七年度第一号)。


第四章  マルセイユ市における分権型自治体政策の形成
−コミューン行政自由化改革の源流−


第一節  都市の人口動態と湾岸地域経済構造
  マルセイユは、パリ・リヨンと並ぶフランス三大都市の一つで、レジオンはプロヴァンス・コートダジュールに属し、県はブシュ・デュ・ローヌに属する、地中海に面した南仏最大の都市コミューンである。一九七〇年代後半、この都市コミューンで進められた新しい政策について検討するため、ここではまず、この都市の人口問題や地域経済問題についてみていくことにする。

第一項  マルセイユの人口問題
  PH・サンマルコとB・モレルは、一九八五年に公刊された共著『マルセイユ』において、「マルセイユの経済的・社会的・政治的展開を説明する鍵は、われわれの視点では、一九五九年から一九七五年までにこの都市が経験した人口爆発にある」と述べ、とりわけマルセイユ研究における人口現象分析の重要性を強調する。というのも、「マルセイユが有する特徴の一つは、この都市が現実的に郊外(バンリゥー)を持たず、パリが一万ヘクタール、リヨンが四千ヘクタールに対し、マルセイユが二万三千ヘクタールもの広大な領域を有している点」にあり、マルセイユは「中心都市であると同時に周辺地域」でもあり、「中心都市の諸問題に直面すると同時に、周辺地域の諸問題にも直面する」といういうように、この人口爆発が、マルセイユに固有の質的に新しい問題をもたらしたからである(1)
  サンマルコとモレルの分析を導きとしながら、マルセイユの人口問題について、より具体的な数値でみていこう(2)

  (1)  人口爆発(一九五四ー七五年)
  まずマルセイユの総人口の変化をみてみると、一九六〇年から一九六八年の間に、二二万人増という急速な増加を見せていることが分かる。反対に、一九六八年から一九七五年までの間の人口の増大は、二万一千名と低調である。ただし、この時期、他の都市では軒並み人口を減少させていたことを考えれば(パリでは三〇万人減、リヨンでは七万二千人減、ボルドーでは四万四千人減)、マルセイユの人口は拡大傾向にあったと言えるし、マルセイユ市周辺の地域も含めて考えるならば、その時期も人口の拡大傾向は続いていたのである。すなわち、東はシオタやロクフォルタベルールまで、西はソセットまで、そして北はカブリエまでの、三〇のコミューンを含むマルセイユ地域は、一九六八年から一九七五年まで、その人口を一六万八千人から二二万六千人にしたのである。
  また、マルセイユ地域がおかれている地理的条件から、外国人の流入の規模が、人口の変化として現れてくる。第二次世界大戦後、一九五八年ごろまで、マルセイユへの移民者は極めて低調に推移した。その原因は、イタリアからの移民数がのびなかったことと、北アフリカ地域からの移民数が著しく低落したことにあった。反対に一九五八年から一九七五年まで、マルセイユ地域の労働力需要に応えるかたちで、北アフリカからの移民の流れが加速化する。一九五五年時点で、マルセイユに住む北アフリカ出身者が外国人全体の一五%を占めていたが(四万名中約六千名)、一九七五年には六〇%を占めるに至った(七万一千八〇〇名中、アルジェリア人三万四千名を含む四万三千名)。一九七五年時点における外国人七万一千八〇〇名に、さらにフランス国籍を取得した人々(イタリア系、スペイン系、そしてとりわけアメリカ系)六万三千名を加えると、この当時、マルセイユには一三万四千八〇〇名もの外国人(外国出身者)が居住していたことになる。彼らマルセイユに居住する移民について、より社会学的なカテゴリーに分類すると、以下のように整理できる。まず、男女比をみると、男性五七%に対して女性四三%となっており、フランスの他の地域に比べて、この地域の移民が「家族単位」で居住しているとの推測が成り立つ。そのことは、一五歳以下の若年人口に現れる。すなわち、一九七五年当時、フランス人全体に占める一五歳以下の人口の割合が二〇%にすぎないのに対し、外国人のそれは二七%を占めていたのである。

  (2)  マルセイユ市の荒廃
  一九六八年以降、一九七五年まで、一定の拡大傾向にあったとはいえ、低調に推移したマルセイユの人口動態は、一九七五年以降減少傾向へと転じる。すなわち、一九七五年から一九八二年までの七年間に、三万三千名あまりの人口の減少がみられたのである。これは、人口流入を除く一万一千二二七名の自然増を遥かに上回る、四万四千五五一名もの人口流出があったためである。そして、この四万人という人口流出者の数も、一〇万人あまりの人口流入者数によって相殺されたものであり、およそ一四−一五万人もの人々がマルセイユを離れたことになる(一九七五年時点の人口の一七%近くが流出し、一九八二年時点の人口の一三%が外部からの流入者)。一九七〇年代のマルセイユに、従来の傾向から大きく逸脱するようなマルセイユ都市構造の再編があったことを示す、こうした人口動態の大きな変動は、マルセイユ政治・経済の構造や展開過程にさまざまな変化をもたらしたものと考えられる。確かに、人口動態(一九七五年以降)をめぐるこれらの現象は、他の大都市にも共通して認められる現象ではある。しかし、一九六〇年代および一九七〇年代の二〇年間にマルセイユ経済が経験した危機を映し出している点で、とりわけ重要である。
  一九八二年時点のマルセイユにおける六五歳以上の高齢者は、全体の一五・五%を占める一方、一九歳以下の若年層は二五・七%と、非常に少ない。このことは、マルセイユの就業人口が、他の地域と比べて少ないことと関連している。すなわち、一九八二年時点のフランス全体における就業人口が四三・三%であったのに対し、マルセイユでは三九・五%に止まっていたのである。また、一九八二年の失業率についてみると、マルセイユは一四・二%と高い数値を示している(男女の内訳でみると、男性がおよそ二万七千人で一三・二%、女性がおよそ二万一千四〇〇人で一五・七%となっている)。さらに、階層構成からマルセイユ地域経済の構造をみることも可能である。一九八二年の調査は、マルセイユの経済が、いまや第三次産業の発展段階に差し掛かっていることを明らかにしている。すなわち、マルセイユは、年金生活者と、ブルーカラー層(就業人口の二八・四%)と、ホワイトカラー層(三四・〇%)からなる勤労者たちのまちなのであり、上級管理職は比較的少数で九・〇%となっている。
  「今日のマルセイユの風景は、一九六〇年代はじめのそれとは全くといってよいほど類似したところがない(3)」と述べて、サンマルコとモレルは、マルセイユ市内の人口動態について検討を加えている(図表3・図表4参照)。それによれば、一九五四年当時、マルセイユには三つの都市化区域が存在した。すなわち、中心部(一区から七区まで)と、これに隣接する八区および一〇区のなかのカルティエがそれであり、これら3つの都市化区域の人口密度は高く、一ヘクタールあたり二〇〇人を数えるところがほとんどで、中心部では一ヘクタールあたり四〇〇人が集住しているところもある。これらの対極には、自然保護区域があり、まさに自然によってつくられた境界線をなすマルセイユ市の外周のほぼ全てを取り囲む非都市化区域がある。都市化区域と非都市化区域の間には、八区から一六区までの「周辺」的居住空間がある。この周辺区域は、一九五四年当時、さほどの人口密度ではなかったが(一ヘクタールあたり五〇人)、二〇年後、その状況は一変し、工業化が進められ、人口密度も一ヘクタールあたり五〇人から二〇〇人ほどになっている。
  マルセイユ市内の人口動態についていえば、都市部から周辺部への移動が基本的趨勢であるが、一九七五年まで中心部においてしか認められなかったその傾向が、それ以降マルセイユ全体に認められるようになっている。中心部の人口は、図表4にも示されるように、一九六八年で三六万九千二八一人、一九七五年で三二万九千五五七人、九八二年で三〇万二千三八九人となっており、七年間で二万七千人、一四年間で六万七千人もの人口減少があったことになる(一四年間で一八%の人口減)。なかには、一九六八年当時の人口の二一%以上を減じている行政区もある(二区、三区、七区)。反対に、一九六八年から一九七五年までの七年間における周辺区域の人口は、著しい増加を示しているが、一九七五年以降、再び減少傾向に転じている。そして、こうした人口動態は、後述するように、マルセイユ地域経済の危機と密接に結びついていた。

  (3)  「大マルセイユ圏」の形成
  こうした人口動態の急激な変動の背景としては、マルセイユ市内の人口密度が高まり、地価が高騰するなかで、その周辺地域への人口移動が考えられる。都市圏の空間的・領域的拡大を通じて、「大マルセイユ圏」と呼ぶべき空間が一九七〇年代後半に形成されたとするならば、そこにはマルセイユ市内のこうした動向が影響していたと考えられる。ただし、都市圏の拡大現象がこの時期までずれ込んだことは、他の都市との比較において一定の考慮が必要である。その点で、マルセイユの特徴と言える要因は、その領域的規模の大きさにあった。
  もとより、この「大マルセイユ圏」と呼ばれる空間を一義的に定義することには、多くの困難がある。とはいえ、「経済的ダイナミクスを考慮することが最も適当である」とするサンマルコとモレルの分析に従うならば、それは七二のコミューンを包摂する次の五つの区域(zones)からなるとされる(カッコ内はコミューンの数)。

【中心都市】@マルセイユ都市圏(6)
【仲介的・補完的センター】Aオバニューラ・シオタ(8)  Bエクサンプロヴァンス(15) Cエタン・ドゥ・ベール(27)
【田園地帯】Dエクサンプロヴァンスの田園地帯(16)

そして、一九六二年と一九八二年の比較でみると、この「大マルセイユ圏」全体に占めるマルセイユ市内人口は、七〇%から五六・五%へと低減し、逆に、人口二万人以上の都市の数は、五から一一へと増大している(マルセイユ、エクス、オバニュ、サロン、マルティグの五都市に加えて、ラ・シオタ、イストル、ポールドゥブー、ミラマ、ヴィトロール、マリニャーニュの六都市)。

  「@マルセイユ都市圏」についてみると、図表5にも示されるように、マルセイユ市を除く周辺コミューンの人口は、一九六八年から一九八二年までの一四年間で、五〇%あまりの伸びを示している。この一四年間における一万八千一二六人という人口の増大のうち、一万六千九三八人(九三・四%)が外部からの流入によって占められている。マルセイユと対照的な動向を示しているのが、「Bエクサンプロヴァンス」および「Dエクサンプロヴァンスの田園地帯」である(合計で三一のコミューンからなる)。図表6にも示されるように、人口の伸び率が、一九六八年からの七年間で二二・四%、一四年間で五二・三%にも及ぶ。その中には、人口を三倍化させたコミューンもある。しかし最もその変化が顕著なのは、エクサンプロヴァンス市である。一九六八年からの七年間に二万二千人あまり人口を拡大し、つづく七年間にも一万一千人あまり人口を拡大している。この現象は、エクス周辺の「田園都市化」現象と並行して生起している点が重要であり、この田園都市化現象は、エクスから離れるほど弱まっていくものの、マルセイユの動向と比較するならば、エクサンプロヴァンス市とその周辺で起こっているこの一連の人口現象は、大マルセイユ圏全体のなかでも、最も注目すべき動向である。また、マルセイユの東部に位置する「Aオバニューラ・シオタ」は、一九六八年から一九七五年までの七年間でおよそ一万八千人、つづく七年間でおよそ一万人、人口を増大させている。この区域における人口動態の特徴は、「田園都市化(rurbanisation)」現象が明確に現れている点にある。さらに、「Cエタン・ドゥ・ベール」でも、エクサンプロヴァンスの事例と同様、大幅な人口の増大が確認される。すなわち、一九六八年からの七年間で二〇・二%、一四年間で六二・四%もの人口が増大をみているのである。
  マルセイユ市を取り囲むこれら周辺地域には、ある時には対照的とも言えるさまざまな動向が認められるものの、最も重要なことは、いまやこの周辺地域に六六万八千四二九名もの人々が暮らしていることであり、この数字は、人口の八二%が人口二万人以上のコミューンに住んでいるといわれる、一五四万五千三〇〇人からなるこの「大マルセイユ圏」全体の四三%を占めている。以上みてきた、「大マルセイユ圏」の形成が、マルセイユ地域経済の構造および危機とどのように関連していたのか。以下、この点についてみていく。

第二項  マルセイユ地域経済の構造と危機
  サンマルコとモレルは、一九八八年に公刊された共著において、マルセイユがのちに経験することになる政治的危機の根底には、第二次世界大戦以後、この地域の経済を揺るがす3つの経済的危機があるとする。すなわち、第一に一九五〇ー六〇年代における「港湾産業の危機」であり、第二に一九七〇年代における「周辺地域との断絶の危機」であり、第三に一九七五ー八五年における「フォーディズムの危機」である。ここに示された三つのうち、第一の危機と第二の危機は、マルセイユ地域経済の構造的特徴を浮かび上がらせるものであった。そして、第三の危機は、その事態の深刻さにおいて、マルセイユ市当局の経済介入をも要請することになった。
  これら三つの危機とはいかなるものか。これらについて、以下、簡単に説明を加えていく(4)

  (1)  港湾産業システムの危機
  フランス資本主義は、富裕者による閉ざされたシステムをとってきたことから、二〇年以上にわたって近代化を進めていたアメリカ資本主義と比較すると、第二次世界大戦以前のところですでに大きく遅れをとっていた。ヴィシー体制への協力(コラボラシォン)によって信頼を失墜していたフランスのブルジョワジーは、第二次世界大戦直後、産業発展をめざす大規模政策の策定を推進し、従来の方針を一八〇度転換させていった。こうして策定された「新しい経済政策」を、レギュラシオン主義者たちならば「フォーディズム」と呼ぶであろうが、これは主に次の三つの部門に立脚するものであった。
  @  機械化とテーラー主義化に基づいた生産性向上を目指す新しい労働組織(こうした労働の科学的組織化という方法は、労働ポストの徹底した専門化に基づいている)。
  A  生産性の向上とは反対に、新たな市場・販路の探索。
  B  資本蓄積体制における調整者としての国家の全面的介入。
また、こうした新しい経済政策は、次のような五つの現象として現れていた。
  @  資本の集中化過程(その目標は、生産性向上戦略において外部経済からの利得を最大限引き出すことにあった)。
  A  交渉、所得の調整、社会権の構築、そしてより一般的には福祉国家に基づく労使関係の修正。
  B  徐々に拡大しつつある国家の持続的な介入。
  C  投資を促進し、消費需要を維持するのための信用の発展。
  D  好条件をもった新たな産業空間の創設を促進するための国土整備政策。
これらの現象は、概して、マルセイユ地域経済を支配していた港湾産業の伝統と対立するものであった。それゆえ、ボルドー、トゥールーズ、ルーアンといったフランスの都市がフォード主義的近代化によって一定の成果を上げていたにも関わらず、マルセイユは、戦後のある一定の時期まで、産業化の大きな流れから遅れをとっていたのである。この点について、サンマルコとモレルは、基本的に二つの理由があるとする。すなわち、第一には、マルセイユでは、従来、その海港を中心とした交易や商品流通によって地域経済を繁栄させてきたことから、戦後も、こうした交易・流通中心の地域経済が残存したという点である。第二には、人口の流入(アルプス地方の農村部からの流入や北アフリカからのフランス人の帰還)によって、第三次産業や建設業における多くの雇用、さらに、公務労働が生み出された点である。これら二つの理由によって、マルセイユは、「自給自足経済に基づく一つの都市となった」とされる(5)。このことは、第二次世界大戦後、ヒト・モノ・カネの流動化が開始されたこの時期に、マルセイユ地域経済だけは外部に対し自らの産業空間を閉じることを意味した。従って、先に指摘したマルセイユにおける第一の経済的危機は、工業生産部門への投資傾向が弱く、もっぱら労働時間の延長(マルクス経済学でいう絶対的剰余価値生産)から利潤を引き出し、地価引き上げから最も直接的な利潤を追求しようとするなかで、概して技術的近代化に否定的な中小企業を中心とする守旧的地域経済の側面をさらに強めたといえる。
  しかし、マルセイユの地域経済は、マルセイユ市の周辺地域をも含めたより広域な都市圏として捉えるならば、産業の近代化を図る上で必要となる、いくつかの好条件を潜在的に備えていた。すなわち、広大な非占有地、自由な労働力、良質の市場、そして、地中海に開かれ、競争力があり、貿易に強固な基盤を提供し、石油の備蓄に特化された港湾が存在したのである。フォード主義的資本主義は、国家機関(とりわけDATAR)から支援を得つつ、まず第一にはエタン・ドゥ・ベール周辺にある大工業地帯の発展を、第二には南北軸(ヴィトロール)周辺にある諸拠点の発展を、そして第三には東西軸(エクサンプロヴァンス)の発展を推し進めていったのである。

  (2)  断絶の危機
  このように、一九七〇年代、経済学的視点から「大マルセイユ圏」という包括的認識が示されるようになったまさにその頃、マルセイユとその周辺地域とのさまざまな断絶が明らかとなった。これが、マルセイユ地域経済における第二の危機を惹起することになる。つまり、大マルセイユ圏内に産業の拠点が乱立し、これらが相補的であるよりはむしろ相互に競争的な関係を徐々に構築していったのである。
  一九六〇年代のフランスにおいて実施された国土整備政策は、周知のように、DATARを基軸とするゴーリスム戦略の一つであるが、大マルセイユ圏も近代化を推し進めていくべき投資対象地域とされ、この地域一帯を「周辺」から「中心」へと移行させることが目標とされた(とりわけ、「フォス臨海工業地帯」計画)。これらの政策は、マルセイユ市の周辺地域が中心レベルへと近代的発展を遂げた限りでは成功したといえるが、マルセイユ市内が周辺レベルのままに止まっていた限りでは失敗に終わった。このように、マルセイユ地域一帯のフォード主義的発展は、不完全な状況にあった。例えば、ボルドー都市圏における近代化プロセスが、周辺都市と中心都市とで同時進行し、ヨーロッパ全体の資本主義的発展からみれば周辺地域に属するアキテーヌが、再び一つの産業拠点として中心化されていった。この点で比較するならば、マルセイユは全く反対の事例である。すなわち、マルセイユ地域における近代化プロセスは、結果的にマルセイユ市と都市圏が分離してしまったのである。マルセイユ市をとりまく周辺地域が大きな発展を示していたのに対し、マルセイユ市は、かつてマルセイユを繁栄させてきた伝統産業という不明確なシェルターにうずくまってしまった。要するに、一九六五ー七五年の間、大マルセイユ圏では、中心であるマルセイユ市内が周辺化される一方、その周辺部は中心化されたと言うことができる。
  こうした、マルセイユ市内におけるさびれた産業空間とマルセイユ周辺地域に形成された新しい産業空間との断絶は、交易・流通に依存してきた港湾産業システムの危機をさらに増幅させた。しかし、これらの危機は、マルセイユ地域経済が従来から内包させてきた構造的弱点をついたものであるだけに、回避することはきわめて困難であると考えられる。この点について、サンマルコとモレルは次のような幾つかの理由を提示している(6)
  第一の理由は、「二重の産業文化」が存在したことである。港湾産業システムの危機は、「呪縛」のようなものによってマルセイユを支配してきた一つのロジックを破壊した。すなわち、マルセイユの外に存在し、伝統を「攻撃するもの」として、また、パリから押しつけられたものとして、さらには、マルセイユの社会構造とは両立し得ないものとして現れた、きわめて異なった取引形態をとる資本主義に対し、従来、マルセイユ独自のロジックはきわめて活発で力強い対抗力を示してきた。従って、マルセイユ産業それ自体としては、近代化の大きな流れに組み込まれる傾向をほとんど帯びていなかったのである。
  第二の理由は、「地理的なもの」である。マルセイユと周辺の新しい工業地帯とを丘陵地帯によって隔てる二〇キロメートルの地理的断絶が、マルセイユと新しい産業拠点を結ぶ上で重大な障害となっていた。二つの空間が異なる二つの産業文化と二つの住民意識で対立していたとされる。こうした地理学的見地をとることによって、マルセイユと周辺地域との間のロジックや行動様式に差異を見出したとしても、これで十分とは言えない。ただ、この現象がもたらした最も重要な帰結の一つは、マルセイユの周辺地域が、自らが少なくとも地中海の一部であるということを拒否した点にある。つまり、フォス臨海工業地帯とエタン・ドゥ・ベールは、マルセイユに備わった地中海的・南欧的性格を消し去り、ヨーロッパのより北部の地域と結びつきを強めようとしたのである。
  第三の理由は、港湾産業地帯と近隣地域が建設された頃、マルセイユは未曾有の人口増大期にあり、こうした人口の増大によって、その経済的衰退が隠蔽されたという点である。マルセイユ市は、住宅の建設や商業および第三次産業における雇用の創出を要請する、こうした人口流入に目を奪われたために、この都市に襲いかかろうとしていたさまざまな経済的危機を認知できなかった。要するに、「人口の流入が、幻想を生み出していた」のである(7)。確かに、第三次産業は存在していたし、その急速な発展を基盤にして、マルセイユは、主要都市地域としての役割が期待されていた。しかし、マルセイユにおける第三次産業の雇用が、未熟練の比較的一時的なもので、ダイナミックな新しい産業諸部門の発展と結びついていると言うよりは、むしろ人口爆発と結びついていると言うことは、無視できないものである。

  (3)  フォーディズムの危機と失業問題
  上述のように、港湾港湾システムの危機とマルセイユの後背地にあたる広大な周辺地域との断絶という二つの経済的危機を経験したマルセイユ地域経済は、一九七五ー一九八五年にフォーディズムの危機という第三の危機を経験する。この危機は、後述するように、一九七三年のオイル・ショックに端を発するものであるが、マルセイユ地域経済に対し失業の増大というきわめて深刻な問題を突きつけ、結果として、マルセイユ市当局による経済介入政策を要請するところとなる。
  一九五〇年代後半以降という、フランス第五共和政の成立と時期的に重なり合うフランスの高度経済成長は、生産性の継続的な向上による消費の拡大によって、さらに勢いを増していた。こうした生産性の継続的向上の背後には、分業化を伴ったテーラー主義的労働組織の構築と資本蓄積の高度化があった。他方で労働者たちは、実質賃金と生産性の同時並行的上昇を通じて消費の拡大を維持し、これにより労使間における一定の力関係を確立した。そのシステム全体は、労働協約、全産業一律スライド制最低賃金(SMIC)、社会保障などと同様、公的諸機関がパイプ役となって、国家の庇護を受けてきた。その意味で、こうした調整様式の効果を継続させる条件は、なによりもまず労働生産性を向上させることであるといえる。
  先進資本主義諸国のこうした高度成長にブレーキをかけた要因として、一九七三年の第一次石油ショックを指摘するのが一般的であるが、サンマルコとモレルは、それ以前から既に「西側先進諸国経済における生産性向上の減速・停止が確認されていた」とする(8)。彼らによれば、こうした減速・停止の原因は、さまざまなテクノロジーの発展に適応できなかったこと、そして、労働条件が後退することを労働者が拒否したことにあったとされる。従って、フォード主義的調整は、生産性の向上を継続させていくというきわめて困難な課題に直面していたことになる。こうした課題にに直面した先進諸国の資本主義は、次のような二重の戦略を実行に移した。

  @  新しいテクノロジーの開発。これによる、先進諸国の資本主義に固有の諸矛盾(生産性のさらなる向上と新たな市場の確保)の克服。
  A  「産業の地域移転」活動の拡大。すなわち、低開発地域における労働者の雇用(人件費の抑制)と、これによる生産性の向上。

このように、生産性の継続的向上という難問に直面した先進諸国の資本主義は、従来フォード主義によって調整されてきた空間から退避する方向性を、既に模索していたのである。そして、一九七三年にこれらの国々の資本主義をおそったオイル・ショックは、テクノロジーによる近代化戦略に再検討を迫るものとなった。すなわち、企業家たちは、利潤の大半を産油国に支払う費用にあてなくてはならなくなったのである。まさにこのことが、インフレーションの進行をさらに強め、こうした状況の下、産業構造の再構築は重大な困難に直面した。付加価値の低減に由来する利潤の低減は、それらの産業の生産力を低下させ、投資を制限する方向に働いた。同時に、企業家たちは、労働者の側にさまざまな既得権益が認められている従来の労使関係の見直しをはかった。その結果、高騰した原油価格と労働者からの権利要求という圧力は、人件費の抑制によって補完可能な地域への企業移転を加速化していくことになる。しかし、こうした地方への産業移転の地球規模化は、利潤率を再び上昇させるには至らなかった。インフレーションは、一時的に抑制されたものの、より抜本的な産業構造の再構築が必要とされた。従って、そうした作業は、投資や購買力の減退を半ば前提としながら、失業率の著しい上昇を伴うという、きわめて困難の多い治療となった。
  こうした先進資本主義諸国をおそったフォード主義の危機は、マルセイユ地域経済にとっては、深刻な第三の危機であった。これは、サンマルコとモレルによれば、「二重の意味でマルセイユに打撃を与えるものであった」といわれる(9)。すなわち、この第三の危機は、一方で、地域産業ネットワークの脆弱性を露呈させ、マルセイユ地域経済の本質をなしてきた小規模企業にきわめて深刻な事態を経験させた。他方でこの危機は、フォード主義的近代化戦略に積極的に関与してきた諸分野に重大な打撃を与えたのである。打撃を受けた分野として、たとえば、船舶修理業やエタン・ドゥ・ベール周辺に確立されていた新しい部門(石油化学、鉄鋼、特殊鋼)が当てはまる。そして、その帰結は、構造的で多くの場合長期間にわたる、とりわけ厳しい失業問題として現れた。失業問題は、マルセイユ地域経済における伝統的部門に襲いかかった。

第二節  地域政治の展開と転換
  サンマルコとモレルは、ドゥフェールのもとで進められたマルセイユ市当局の政策の目標を、「困難に対処すること(faire face)」にあったと述べている(10)。ドゥフェールは、自らがメール職に就いた一九五三年当時の市の財政状況を改善し、施設整備の遅れた状況を打開し、人口の大量流入に対してさまざまな施策を講じたのである。しかし、こうした政策目標が達成されないうちから、マルセイユは、一九七〇年代の中盤以降、また新たな問題状況の出現に悩まされることになる。すなわち、この都市の経済的・社会的・政治的構造に内在するさまざまな分裂やデュアリズムがそれである。その点で、一九七〇年代後半のマルセイユは、地方政治と地方行政の領域においても、重大な転換点にたっていたといえる。ここでは、マルセイユ市長としてのドゥフェールに光を当て、彼の行政責任者としての手腕だけでなく、彼の政治手法および政治基盤について明らかにしていく。

第一項  ドゥフェールの政治的経歴−南仏生まれの大名望家−
  大物政治家としてのガストン・ドゥフェール像を浮かび上がらせるため、まず彼の政治的経歴について確認し(11)ておこう。
  卓越した政治的指導力を青年期から発揮した彼の政治家としての理想は、一時も途絶えることなく貫かれた。それはまさに、南仏の大名望家と呼ぶにふさわしい一人の政治家の生きざまそのものであった。そのことは、ドゥフェールが、社会主義の政治指導者として、一九五三年から一九八六年まで三三年間にわたりマルセイユの市長を務めたほか、多くの大臣経験が物語っている。
  しかしすでに、レジスタンス運動のなかで、社会主義運動の指導者としての頭角を現していた。彼は、一九一〇年九月一四日、地中海に近いエロー県(He´rault)のマルシラルグ(Marsillargue)に生まれ、父親の影響から、プロテスタンティズムと共和主義的伝統のなかで少年時代を送ったといわれる。エクサンプロヴァンス大学法学部に進学した彼は、早速、学生自治会を主宰し、その組織者としての能力を示した。一九三四年一一月に、マルセイユでの三年間にわたる研修期間を終え、弁護士となった彼は、主に、商取引を専門に活動したのであった。
  ドゥフェールの本格的な政治活動は、一九三〇年頃に開始されたと考えられる(当時二〇歳)。彼は、一九三三年、SFIOに加入し、組織内では行動統一のあり方について繰り返し問題提起する一方、国際問題に関しては、穏健なブルム派の立場をとった。第二次世界大戦が勃発すると、フランス兵の一人としてアルプス戦線へ送られたドゥフェールであったが、フランスがナチス・ドイツに敗北すると、彼はいち早くレジスタンス運動へと身を転じていく。彼は、ダニエル・マイエ(Daniel Mayer)による社会主義運動の構築を援助するなど、このときすでに、戦後フランスを代表する社会主義活動家として、その第一歩を踏み出していた。しかし、社会主義者としての彼が、レジスタンス運動に加わっていくことは、決して平坦な道のりでなかった。彼は、当時のレジスタンス運動がもっていた、政党に対する猜疑心に直面したのである。そして、一九四三年一一月、ようやく彼は、社会主義者の武装集団をレジスタンス統一運動へと結集させるのに成功する。また、地下活動の機関誌『レスポワール』をマルセイユで創刊した彼は、フランス南西部での活動に従事し、社会党民兵組織の指導者としてマルセイユの解放に尽力することになる。
  第二次世界大戦直後の一九四五年五月一一日、ドゥフェールは、全会一致でマルセイユ市議会の議長に選出されたものの、社会党勢力が後退したため、同年一〇月一日、その職を辞している。当時の社会党は、勢力を伸張しつつあった共産党と緊張関係にあったばかりか(12)、社会党内部にも路線をめぐる厳しい対立を抱えていた。そこで彼は、レジスタンス運動を源流とする諸潮流を統合した労働者主導の新しい社会党を提唱する。結局、SFIOの執行委員会は、その配下にあるレジスタンス運動組織を解散させた。一九四五年一〇月二一日に、憲法制定議会内のSFIO議員リストの筆頭に選出されて以来、ドゥフェールは、終生、国民議会議員に再選されつづけることになる(一九五八年をのぞく)。こうして、第四共和政が成立すると、ドゥフェールは、いくつもの大臣職(13)を歴任するなど、フランス政界のリーダー的役割を担うようになる。『プロヴァンサル』紙をフランス南東部最大の日刊紙に押し上げ、一九五〇年には、自ら再編し主導権を握っていた「ブシュ・デュ・ローヌ県連合」の書記長に選出された。彼は、一九五三年、社会党だけでなく、穏健派・人民共和運動(MRP)・急進派などの中道諸党派の支持も受けて、マルセイユの市長に選ばれる。それ以降、一九五九年、一九六五年、一九七一年の各コミューン議会選挙において、彼は、それらの支持によって再選された。しかし、後述のように、一九七七年の選挙では社会党系諸党派の指導者として市長に再選される。ドゥフェールにとって最後のコミューン議会選挙となった一九八三年では、第一回投票で右翼勢力が大幅に躍進したため、彼は、左翼連合のリストの筆頭者となることで、何とか市長の座を確保したのだった。
  国政レベルにおける政治家としてのドゥフェールのスタンスは、まさに「柔軟」と評価するのがふさわしいであろう。フランス第四共和政がアルジェリア問題に直面していた頃、彼は、SFIO内で、アルジェリアの内的自治権を認めていこうとする立場をとって、ギ・モレらの方針と対立していた。一九五八年九月に、アルジェリアの和平をめぐってドゴールと会談したドゥフェールは、何の躊躇もなく、ドゴール将軍を支持する。ゴーリズムには反対しながらも、彼は、ドゴールが構築した諸制度には反対しなかった。一九六三年九月、レクスプレス紙は、二年後に控えた大統領選挙の左翼候補者として、「ムッシューX」ことガストン・ドゥフェール支援のキャンペーンをはり、上述の研究クラブ「クラブ・ジャン・ムーラン」も彼への支持を表明した。彼はそれを受け入れると同時に、これを機に、MRPを含む社会民主主義的な「大連合」の整備をはかろうと考えた(中道連合路線)。しかし、MRPの「社会主義」に対するアレルギー的反応やギ・モレの反対にあって、その「大連合」構想は挫折し、ドゥフェールも一九六五年の大統領選挙候補を辞退し、フランソワ・ミッテランの支持にまわったのだった。ドゴールの辞任をうけて実施された一九六九年の大統領選挙に、ドゥフェールは社会党の候補者として立候補した(14)。しかし、ピエール・マンデス・フランスの支持をとりつけていたにもかかわらず、第一回投票での得票率は五%に止まった。

第二項  ドゥフェール市政の展開
  (1)  マルセイユ政治におけるクリアンテリスムとデュアリスム
  サンマルコとモレルは、マルセイユ政治システムが、さまざまな危機や社会的変化を受け止め、さまざまなコンフリクト(都市計画に関する長期的で入念な交渉)を柔軟に解決し、規模の変化(住宅や施設整備の大規模プログラム)に耐え抜き、社会的連帯(社会扶助事務所)を大きく発展させるなど、驚くべき能力を身につけたと述べている(15)。こういったシステムのもとでは、都市の拡大に伴う人々の孤立化や文化的退廃に対して、あるいは、失業問題など様々な経済的困難や経済システムの機能不全に対して、「諸関係のネットワーク」が重要な役割を果たすことから、職探しや住まい探し、あるいは様々な日常的諸問題の解決など社会生活のなかで、この「諸関係」が極めて重要な地位を占めている。もし、社会的扶助の発展、人的諸関係の重要性、政治的クリアンテリスム、さらには地域的分化といったことがらによって特徴づけられる、この「連帯のシステム」が一時的にでも崩壊していたならば、マルセイユはさらに重大な問題に直面していたであろう。ただし、とりわけ、政治的クリアンテリスムについては、注意深くみておかなければならない。確かに、多くの人々が都市に流入し、住居や雇用の問題の解決が急がれるとき、地方議員たちが住民たちとの間に利益供与の関係を築き上げることは、一定の正当性を有するであろう。しかし、こうした問題解決法が認められるのは、人口の拡大、活力ある経済、そして、住民の高い同質性といった条件が満たされる場合のみであって、一九七〇年代中盤には、新しい社会的諸問題の出現とともに、これらの条件は既に崩れていたのである。
  より地域権力の実態からみてみると、ドゥフェール市政下のマルセイユ政治システムは、「一部の者たちによる権力とある一人の男のもとに結集した諸団体とによる複雑なヒエラルヒー」をなしており、「その頂点で市長がこのシステムのバランスをとり」、こうしたエリート政治を「地方議員と市民の人的交流や直接的関係」が下から支えていたのであった(16)。これがまさに、マルセイユ政治における「デュアリスム」の問題である。これは一九七〇年代、マルセイユ市行政の二重構造というかたちでより明確に現れてきた。「都市計画事務所(l'Agence d'urbanisme)」(一九六九年創設)、「都市開発事務局(le Secre´tariat ge´ne´ral a` l'Expansion)」(一九七一年創設)、そして、「預金供託公庫」といった市当局と中央省庁との共同のイニシアティヴにおいて創設された幾つかの準コミューン機関とともに、マルセイユ市当局は、大規模事業の計画策定および実施を担当するさまざまな部局を設置した。この計画策定・実施を担当する新設部局(テクノクラート的傾向)と従来からの部局(現場主義的傾向)との間に、人材のリクルート方法、事業の進め方などの側面で、さまざまな対立が生じるなど、市行政内部に、上述の二重構造を反映したさまざまな対立が引き起こされた。
  そして、このシステムの政治的担い手であるマルセイユ社会党の活動家たちは、党内事情というもう一つの厄介な問題に悩まされていた。

  (2)  マルセイユの社会党と統一戦線問題
  社会党の存在を抜きに、マルセイユの政治を語ることはできない。今日のフランス社会党が国民に大きな影響力を発揮するほどの党勢を拡大していく、その出発点は間違いなく一九七一年のエピネー大会にあり、もちろんドゥフェールも、この大会において確認された新しい指導者(ミッテラン)と新しい政治方針(左翼統一戦線)を承認した。しかし、反共主義左翼を標榜するマルセイユの社会党員やそのシンパサイザー、さらに「労働者の力(FO)」の組合活動家の大半にとって、ドゥフェールのその行動は受け入れがたいものであった。
  一九七九年のフランス社会党メッツ大会までのブシュ・デュ・ローヌ県連合には、次のような二つの潮流があったといわれる。すなわち、一方には、戦術的観点から国政レベルにおける左翼統一戦線を容認しながらも、マルセイユにおけるその適用は拒否し、組織的に反共主義を実践に移す多数派と、他方には、ドイツ社会民主党をモデルに、強固な社会民主主義の理念のもと、共産党との一切の連携を拒否する少数派である。こうした党内の複雑な状況のなか、少数派を裏切ることなく多数派に依拠するかたちでドゥフェールが仲裁者としての役割を果たすという、ブシュ・デュ・ローヌ県連合に独自の手法において統一が維持されていた。彼らは社会党全国組織のなかではいくらか蚊帳の外におかれ、たとえば『リュニテ(l'Unite´)』といった社会党機関紙の購読率も低かったといわれる。党本部もマルセイユにおける諸問題には介入せず、その解決をもっぱらドゥフェールにゆだねた。
  一九七四年の大統領選挙以降、こうしたマルセイユ社会党内の状況が、徐々に混迷の度を深めていく。というのも、ドゥフェールにとって、国政レベルにおいてはミッテランを支持しながら、マルセイユにおいては、先の選挙でジスカールデスタンを支持した党派と連携をくむことは、自ずと矛盾をはらむことになるからである。しかし同時に、社会党の活動家たちに、どうしたら共産党との接近を受け入れさせるのかという課題も残され、さらに、大統領選挙でミッテランに賛同した一定数の人々が、社会党の外から左翼統一戦線の戦略採用を迫ってくるという状況も存在した。一九七七年のコミューン議会選挙まで二年間の準備期間があったが、ドゥフェールの行動はきわめて周到であった。まず、一九七五年、長年の間中道派の助役に託されていた職務を停止することにした。この時点では、未だ左翼統一戦線は存在しなかったが、中道派との統一ももはや崩れていた。次いで彼は、一九七二年の創設以来自らが議長を務めるレジオン評議会において、左翼統一戦線の方針を実践に移す。マルセイユにおける社会党と共産党の共闘関係は、このようなかたちで構築されたのである。

  (3)  一九七七年のコミューン議会選挙
  ところが、一九七七年のコミューン議会に臨むにあたり、彼は、共産党との共同リストを作成しないことを決める。共産党議員のなかから助役を任命することを約束した上で、社会党独自の候補者リストを作成したのである。この二年間の準備期間のなかで構築されてきた共闘関係をご破算にするマルセイユ市長のこの決定に、共産党は衝撃を受け、彼らはこれを拒否した。彼ら共産党員たちには、社会党活動家たちに左翼統一戦線を承諾させるというドゥフェールのあまりにも困難な課題は、理解できなかったのである。いずれにせよ、ドゥフェールとマルセイユの社会党は共闘関係を一切断ち切った。一九七七年にドゥフェールがこうした決断を下すに至った背景を、サンマルコとモレルは、ドゥフェールが過去一八年間の市政運営においてとってきた「任務分担」という手法を見直したものと、捉えている(17)。すなわち、都市計画や経済政策といった要するに「大型プロジェクト」は中道派に任せ、社会党には住民との対話や社会政策を担当させるという手法である。しかし、こうした手法の下で進められてきた政策は、都市整備において一定の成果をあげながらも、マルセイユ地域社会に根深い断絶をもたらしたし、住宅建設や都市のインフラ整備といった目標は達成されながらも、そののちには深刻な社会の解体と様々な問題の噴出を噴出させているのではないか。新しい社会問題の出現を認識し、ドゥフェールは、従来の政策手法を抜本的に見直したのである。そうした見地から振り返るならば、「一九七五年」という年はマルセイユ市政史における一つの転換点であったと言えるかもしれない。そして、一九七七年コミューン議会選挙においてマルセイユの社会党は圧倒的勝利を収める。この勝利は、一方では国政レベルにおける左翼勢力の伸張によるものであったが、他方では各界代表者たちとの連携によるところが大きかった。こうした連携をはかることで、右翼勢力と共産党勢力の双方に対して牽制をかけることができたのである。
  こうして、マルセイユにおける社会党のヘゲモニーは確立された。しかし、従来のドゥフェール市政において、党派間の橋渡し的役割を担っていたマルセイユのGAM(18)について見ておかなくてはならない。というのも、中道と左翼によって支えられてきた一九七七年までのドゥフェール市政のもとでは、都市計画や経済政策などハード面に関わる行政がGAMに数多く任されており、そうした事情から、社会党が単独で与党を形成可能になったこのコミューン議会選挙以降も、ハード面に関わる行政をGAMに継続して任せることを望む声が挙がっていたからである。そして、一九七七年の選挙以降も、こうした市政運営の枠組みが維持された結果、従来は中道・右派議員たちの力添えによって自らの計画を実施に持ち込んでいたGAMも、今後は、ドゥフェール社会党市政のもとで、自らの政策をより精緻化・明確化することが求められるようになる。このように、GAMの計画が市政のなかで取り上げられる枠組みが確保されたことによって、今度は逆に、GAMの代表者たちがテクノクラートとして立ち現れ、いわば新しい外被をまとったクリアンテリスムの再来となる危険性も生まれることになる。一九七七年以降のドゥフェール社会党市政は、その内部にさまざまな対立的要因をはらみながら、出発することになった。
  しかし、そうした対立要因も、現実主義的政策の実施という一致点の下で、解消していった。社会党系諸党派という同質性が担保された市当局の下で、ドゥフェールはマルセイユに進行しつつあるさまざまな領域での崩壊過程をくい止めるべく、新しい都市政策とそれを計画・実施する市政運営の枠組みを確立しようと試みた。すなわち、交通網を再検討し、交通輸送政策を提案し、市北部にある新興カルティエの社会的統合を探求し、最も老朽化が著しい市街地の補修をおこなうため、土地収容計画に関わるアンケートを実施するなどの手段をとって、彼はマルセイユ市の施策に関わる基本的な考え方と計画化を定めたのである。それゆえ、マルセイユ市の施策は、GAMが地元の自営業者だけでなく、企業家たちをも視野に入れた階層包括的な戦略のなかに組み込まれることになり、社会党と中道派の橋渡し的役割を担ったGAMのこうした動員は、社会党と中道派との間に生じていた対立を、政策運営上の枠組みとしても解消させるに至るのである。
  一九七七年のコミューン議会選挙を一つの転換点として、ドゥフェールは、多党派による合議型政策枠組みを見直し、市当局の計画策定部門に新しい人材を積極的に登用して、「左翼としての新しい都市政策計画(19)」を策定していった。

  (4)  新しい都市行政運営の基本条件−マルセイユ社会党の統一−
  一九七七年以降、ドゥフェールがとった政策は、社会的弱者への救済の視点をつよくもった社会党議員という政治勢力に、大きく依存したものであったことから、サンマルコとモレルは、これによって、企業家たちとのクリアンテリスムというドゥフェール市政批判を少なくとも部分的にはかわすことが可能になったとみている。また、この政策を、「社会主義」というよりは「大衆主義(massisme)」であると揶揄する向きあったが、一九七〇年代末の時点でより重要な問題は、社会党の中央本部が奨励する政策とマルセイユ独自の政策とをどのように調和させるのかという点にあった(20)。これらの問題は、一九七九年にメッツで開催された社会党大会をきっかけに、より現実のものとなる。すなわち、この大会では、ミッテラン派とロカール派・モーロワ派との路線問題に関する議論がたたかわされ、社会党ブシュ・デュ・ローヌ県連合のなかで、この議論が重大な問題を惹起することになったのである。というのも、上述のように、ドゥフェールはミッテランを支持する立場をとっていたにもかかわらず、マルセイユではSFIO時代からの幹部の大半や現役活動家の過半数が、モーロワを支持していたからである。これはマルセイユ社会党の組織を分断する危険な論争であった。しかし、大事にはならなかった。一部を除いて、ほとんどの活動家たちが、全国大会における書記長選挙の結果に応じた(マルセイユ社会党内の)ポスト配分を期待して、マルセイユにおける不毛な論争を回避するとの一致点から、ドゥフェール支持にまわったからである。そして、ミッテランが再び書記長に選出され、マルセイユ社会党においてもミッテラン派が主導権を握ることになった。
  マルセイユ社会党内部からは、ポストの配分に際して、モーロワを支持した党員(比較的党歴の長いメンバー)への制裁を求める動きもみられたが、党組織の守旧派と近代派で隔てられた分裂を避けるという観点から、ドゥフェールはそうした措置をとらなかった。ドゥフェールがおこなったポスト配分に関するこの変革(派閥に基づかない人事配置)が、結果的に、彼が推し進めようとしていた新しい政策の実行を容易にし、近代派党員たちはこの政策に賛同した。社会党ブシュ・デュ・ローヌ県連合の書記長に選出されたミシェル・ペゼ(Michel Pezet)は、その就任のあいさつにおいて、マルセイユ市の施策に責任を負っている市当局幹部と緊密に活動するなかでマルセイユの未来を守り、社会党の統一を守るなかで党内諸党派間の和解を訴えた。こうして、一九七九年、市当局とマルセイユ社会党との間に、見解の統一が図られるのである。

  (5)  新しい都市行政の運営手法
  既に述べたように、中道派(ハード面に関わる行政)と社会党(ソフト面に関わる行政)との間の任務分担が、一九五三年から一九七七年までのドゥフェール市政を特徴づける自治体行政組織の運営スタイルであり、そこにはGAMという橋渡し的役割を担う団体が存在していた。しかし、サンマルコとモレルは、一九七七年の時点で、この市政運営スタイルは挫折し、もはや機能しなくなったと述べている(21)。左翼支持者の多くがもっとも恵まれない階層から構成されていることから、一九七七年までのドゥフェール市政は、いわばバラマキ型の政策によって占められていた。ドゥフェールの功績は、こうした従来型行政運営スタイルの見直しがはかった点にある。その背景として、ここでは三つの要因(@一九七七年コミューン議会選挙で当選した新しい社会党議員たちの経験の浅さ、A自治体の活動全体を停滞させる社会的分裂、Bコミューン財政に強く反映した経済的危機)が指摘されるが、ここには「真の経済政策」に立脚した新しい都市政策と新しい行政運営スタイルが要請されていた。これには、膨大な時間と、多大な困難と、深い専門性が必要とされるが、同時に、長期的にみれば最も効果が期待されるのである。しかし、一九七七年以前の市政が議員たちを前面にたてた行政管理であったとすれば、それ以降の市政は、地方テクノクラートたちが主要な担い手となったため、結果として、行政的専門性の論理と政治の論理との間の対立が生み出されることになった。
  厳格な政策計画には、それを支える強固な行政組織が必要となる。一九七七年まで、マルセイユ行政内部の対立構図が露呈されることはなかったが、いまやそれが明らかになりつつあった。すなわち、大型プロジェクトを構想する者たちとそれらを実施する者たちとの対立である。マルセイユの場合、これは、計画の構想を担当する都市計画事務所や都市開発事務局のおかれている「ヴァルメ(Valmer)」と市役所との対立として表現された。そしてこの対立は、次の二つの現象によって裏付けられる。そのまず第一は、ヴァルメがかつて中道派に任務配分されていた都市計画や経済政策の構想作業を担っていたことから、ヴァルメが政治的に偏向しているのではないかという社会党議員の感情である。しかし、こうした政治的偏向性は、さほど問題にならなかった。むしろより根本的な問題は、第二の現象と関連していた。すなわち、ヴァルメの専門家たちが具体的な現実政治から距離を置き、様々なかたちをとったクリアンテリスムに対して専門的な理性を対置しようとするときに生じる、現場との軋轢である。具体的には、歩行者専用区域と商業特別区域の両立可能性や、バス交通整備が住民のエゴイスティックな要求や圧力に従属するかたちで進められていく危険性などが問題とされたが、こうした計画を担当する専門家と地方議員との対立は、都市コミューンの施策を推し進めていく上で障害となった。それゆえ、一九七八年以降、都市開発事務局には、これら二つの活動を調整する役割が与えられた。こうした役割を果たすためには、現場を担当する人々に、計画の構想を担当する人々の基本的な役割を認識させなければならず、これらの問題を解決する任務が都市開発事務局に一任されることになった。具体的には、次のような取り組みが指摘される。すなわち、都市計画にかかわる諸活動の調和をはかるための合同会議の開催や、現場で重要な役割を担う各部門間の調整役の設置などがそれである。分野によっては現場作業班と構想作業班とを水平的な機構に再編成する必要性も生じた。
  これらの調整作業を行うためには、都市開発事務局に一定数の事業の責任と、一定の自律性が与えられなければならなかった。こうした行政組織を特権化する措置は、効率性の観点だけでなく、政治的・政策的な観点からも必要であった。ここには二つのレベルが存在する。すなわち、まず第一に、行政組織レベルの問題であるが、一九七八年まで、計画の構想作業ののちに、その専門的内容を全く省みない地方議員たちによる決定作業が行われたため、計画構想を担当するチームの士気は高まらないままにあった(土地収容計画の事例)。しかし一九七八年以降、大まかな政治的決定ののち、その計画の具体化作業が計画構想担当チームに与えられるようになったことで、彼ら都市計画の専門家たちはモティヴェーションを取り戻すことができたのである。次いで第二に、政治家レベルの問題である。すなわち、一九七八年から一九八三年までの間に、マルセイユの地方議員たちに与えられていたコミューン政策に関与する権力は、過去に例をみない水準のものだったのである。政策の具体化は専門家が行うとはいえ、その計画の基本的な考え方や意味について決定することが、本当の意味での権力である。そして、一旦具体化段階に入ったものに対して地方議員たちが介入をはからないことも、専門家側のやる気をそがないという点で重要である。このような都市行政運営の再整備作業を通じて、マルセイユでは、従来、市の行政組織に対してあったテクノクラート政治批判を払拭し、組織内にみられた部門間・担当者間のコンフリクトの解消が目指された。行政組織を含めたマルセイユの統一を回復すること。これはドゥフェールが一九七〇年代半ばに立てた政治目標であり、マルセイユという都市型社会の根本的変化が要請したものであった(22)
  以上のように、ドゥフェール市政は、一九七〇年代後半、新しい都市行政の運営手法を確立していったのであるが、都市コミューンの自律的運営能力を証明するこうした「分権型自治体政策」の開発が、中央官僚との対立構図を浮かび上がらせ、最終的にはミッテラン政権下における分権・参加法制改革の実現に極めて大きな影響を与えていったのではないかと推察される。この点を明らかにするため、第三節では、地方政府の運動が国家規模の大改革へと結実していくダイナミックなプロセスをスケッチしていくことにする。

第三節  ドゥフェールの地方分権改革像
  地方分権改革を推し進める力が地方政府側から働き、都市型社会の成立を背景とする市民活動の活発化あるいは都市コミューンの自律化運動が、その改革の主要な契機になったとしても、こうした自律化運動が、直接、大規模な国家改革を導くことはあり得ない。そこには何らかの特殊条件や間接的誘導因が必要となるであろう。従って、われわれは、地域政治レベルにおけるこうした運動が、実際にはどのようにして地方分権改革という法制度改革へと結実していくのか、言い換えるならば、地方分権改革をめぐる下からの運動と法制化とが、フランスの場合にはどのように結びつけられたのかという問題を解明しなければならない。
  この点についてわれわれは、現代フランスにおける地方分権化が、一九七〇年代における個別地方政府の自律化運動(分権型自治体政策の形成)から一九八〇年代における国家規模の法制度改革へと大きく展開していくなかで、きわめて重要な役割を果たした一人の仲介者がいたことに気づく。それは、マルセイユ市長、内務大臣そして地方分権大臣という三つの顔をもったガストン・ドゥフェールその人である。ドゥフェールは、自らの都市行政運営の経験から、地方分権改革をどのように位置づけ、その法制化作業にいかにして臨んでいったのか。以下、これらの点について検討する。

第一項  マルセイユ市の経済介入政策
  (1)  船舶修理業の危機
  一九五九年から一九七七年までの間、船舶修理業はマルセイユのもっとも代表的な産業部門の一つであった。この部門は、港湾関連部門の脱工業化の流れに規模拡大ではなくサーヴィスの質的改善で対抗し、マルセイユの港湾部門の伝統を守っていた。しかし、それを死守することの意味は、船舶修理業に直接的・間接的に関係する雇用の維持だけにとどまらず、マルセイユ市当局にとってこの港湾が有する存在意義の点においても、極めて大きいものがあった。船舶の修理は、地域の海上輸送と結びついたマルセイユに従来からある伝統的経済活動であり、とりわけタンカーによる輸送が拡大するなか、港湾交通の発展がフランスのなかでもとりわけマルセイユの船舶修理業に重要な役割を与えることになった(一九七六年時点でフランス国内の七六%強のシェア)。
  ここで船舶修理業が有する幾つかの特殊性について確認しておくと、まず第一は、これが一つの港でしか発達し得ないという点である。従って、修理活動は、これが置かれている港湾の輸送活動と、さらには、サーヴィスの質の向上への路線転換に、基本的には依存している。マルセイユが、ヨーロッパにおける重要な石油輸送基地へと変貌をとげたことは、一九六〇年代から一九七〇年代前半にかけて、ポルトガル、イタリア、スペイン、ギリシアといった他の競争相手に対し、マルセイユの船舶修理業をかなり優位な条件の下に置いた。そして、マルセイユにおける船舶修理は、海上輸送に求められる諸条件を満たしていた。サーヴィスと設備(八〇万トンまでの大型タンカーを受け入れ可能)の高い質は、業績の向上を生み、一九七一年と一九七二年に、それぞれ一〇〇隻ものタンカーがマルセイユでメンテナンスを受けた。
  しかし、そうした急速な拡大は、成功ののちにやってくる諸問題を隠蔽することになった。マルセイユを第一線におくために必要な大規模な投資は、家族経営が主導的で自己投資に頼っているマルセイユの船舶修理業者たちに、強力な資金力を要求するようになった。すなわち、テラン・グループがクルゾ・ロワールと通商協約を締結し、海外採掘用船舶や船舶用巨大部品など徐々にサーヴィス対象を多様化させたが、それでは不十分であった。これらの企業は、否応なしに国際的競争のなかへと引き込まれていく。そして、市場の一部に方向転換をもたらすような競争相手が、次々と現れた。オイル・ショックに伴うタンカー輸送業の危機は、船舶業にとりわけ大打撃を与えた。一九七八年、テラン・グループはついに破産する。この巨大グループの消滅と船舶修理業の大不況とともに、港湾に関連する経済活動の衰退が、マルセイユにおいて現実のものとなった。この出来事は、港湾活動そのものへと波及し、この都市の脱工業化プロセスを加速化したのだった(23)

  (2)  マルセイユ市の救済計画
  一九七八年九月一四日、臨時会として招集されたマルセイユ市議会は、ドゥフェール市長が議会に付託していた動議を全会一致(棄権票を除く五八票)で採択した。この臨時会は、船舶修理業界(とりわけ、その最大手企業テラン・グループ)の救済策について審議するために招集されたもので、共産党議員団を含む五名の市会議員が棄権した。ル・モンド紙(一九七八年九月一六日付)は、このニュースを「マルセイユ市、テラン・グループの再建について実業家と交渉へ」との見出しを付けて大きく報じている(24)
  マルセイユ市長が数日前に予告していた「具体的施策」の全容は、この臨時会において明らかにされたわけであるが、この「救済計画」によれば、テラン・グループを含む諸企業に財産の清算が宣告された場合、生産活動に必要な財産・動産・不動産の買い戻しをマルセイユ市がおこない、これらの企業の活動再開と管理を一ないし複数の実業家に委託するとしていた。マルセイユの船舶修理業は再起不能と思えるほど危機的な局面にあったことから、ドゥフェールが提出したこの計画は、再起をかけた最後のチャンスであるといえた。
  また、この計画により、五ヶ月間操業を停止していたチタン・コデ機械建設グループも活動再開が可能となった。すなわち、清算されることになっていた資産(二〇ヘクタールの土地、生産手段、不動産)を、マルセイユ市が五〇%以上の株を所有するブルス不動産混合経済株式会社(SAIEMB)によって買い戻したのである。このあと、これらの資産は、ベルヴィル氏が社長を務めるサン・マルセル冶金工業に委託された。
  ドゥフェールがこの臨時会の審議で明らかにしたところによれば、この数ヶ月の間に、「テランを復興させ、資産や人材の拡散を回避することのできる実業家あるいは産業グループを、船舶修理業界において既に実績を上げているところから、まず見つけださなければならない」のであり、マルセイユ市が間に入ることで、投機的「細分化」を阻止することが要請されていた。マルセイユ市は、このとき、商工会議所、マルセイユ港湾組合、国の地方出先機関、そして金融公庫などと協力して、マルセイユ経済にとって生命線となっている産業部門の救済をおこなわなければならなかったのである。

第二項  地方自治体による経済介入政策の意味
  (1)  経済的視点
  サンマルコとモレルは、一九七八ー八三年にマルセイユ市当局がとった経済介入政策を「生産手段の救済(sauver des outils)」と捉える(25)。この政策に関する彼らのこうした把握の仕方を手がかりにしながら、ドゥフェール市長の下で進められた経済介入政策の経済(政策)的意味について明らかにしていく。
  「生産手段の救済」とは、何を意味するのか。彼らによれば、それは次のように説明される。すなわち、生産手段を救済するための施策は極めて多様に存在するが、それらはすべて、マルセイユに強固な経済的・工業的ネットワークを維持しようとする意思によって特徴づけられる、と。より具体的には、チタン・コデ社に対して行われたように、活動停止となっている企業の活動再開が挙げられる。しかし、そうした施策は長期的に行われなければ意味をもたない。この点から、次の二つの優先的政策が指摘される。すなわち、まず第一の優先的政策は海港の役割と関連しており、マルセイユにおけるあらゆる経済戦略は海港抜きには考えられないがゆえに、一方ではヴィトロールに港湾都市を建設し、他方では、商工会議所の意向に添うかたちで、エッソの所有地を大型重量物輸送を容易にするための不動産として用いるため、その転用の差し止めが決定されたのである。そして第二の優先的政策は、マルセイユ地域経済の基盤である中小企業の豊富なネットワークを維持することであり、ここでは土地政策が決定的な役割を果たしていた。つまり、第一には、小企業が有するマルセイユ外−とりわけ、エタン・ドゥ・ベール−への志向に歯止めをかけるべく、工業化されていない土地や土地の処分、さらには農村企業に対する土地投機の抑制が必要であった。そして、産業用地を見いだし、企業誘致によってその用地を活用し、既存の企業を救済することは、過去においても現在においても一つの基本的目標となっている。第二には、中小企業に対する財政手段を認めていかなければならない。企業を興したり、企業を拡大するための五年間返還が猶予される融資に関するデクレが、マルセイユを除外していたことにも示されるように、この分野にかかわって、ミッテラン以前の中央政府はマルセイユを全くといってよいほど無視してきた。それゆえ市当局はDATARとの交渉に乗り出し、ついに成功を収める。そして、デクレが発表されると、マルセイユ市議会は早速これらの返還猶予融資を承認したのである。また、それらの生産手段を革新することも重要な戦略であった。それゆえ、一九八〇年代における分権・参加法制改革以前の極めて限定された自治体の活動範囲のなかで、一つの政策が決定された。まずそれは港湾にかかわるものであり、生産活動への投資を通じた船舶修理業への援助やその近代化という地域経済政策のとりわけ重要な手段として正当化されることになる。次いでは、海に関連するあらゆる活動への援助であり、最後に、生産活動を容易にするためのインフラストラクチャーの整備への援助である。まさにこうした政策の枠組みにおいて、交易にかかわるすべての第三次産業を再編するための「地中海国際交易センター」が開設された。経済活動を取り巻く以上のような環境整備なくして、港湾の発展はあり得なかったのである。

  (2)  政治的視点
  地元大企業の倒産は、失業問題という形で地域社会の不安定化を招くものであるだけに、地元地方自治体にとっては、それらの企業をどのように救済していくのかが、きわめて重要な関心事となる。一九七〇年代になると、疲弊し迅速な対応のできない国家に代わって、都市コミューン、都市共同体、県、そしてレジオンまでもが、雇用を守るためのたたかいに参戦するようになってくる。ゴーリスムの基本政策の一つである国家による経済介入政策が一定の限界に達し、地方政府の側からでてきたこれらの動きは、従来の集権的介入主義に代わる、いわば「分権的介入主義」と呼ぶべきものである(26)
  マルセイユ市当局が本格的な経済介入政策に乗り出していたその頃、ブルターニュ地方のブレスト都市共同体は大規模船舶の修理事業を商工会議所との共同で開始していたし、ブザンソン市は、ある企業に一〇ヘクタールの土地を与え、八百万フランを貸し付けるとするプロジェクトに、事前融資する旨の提案をしていた。これらの介入政策は、確かに間接的なものではあったが、決定的な意義をもっていたという点では地元住民たちに受け入れられるものであった。というのも、古典的な国有化とは異なり、地方公共団体が市民に対しておこなう施策は、国家のそれよりも円滑で、政策主体がはっきりしていたからである。それでもマルセイユの場合、救済計画の対象となっていた造船業や船舶修理業が当時としてはきわめて生産性の低い部門となっており、こうした部門への公的資金投入は税金の無駄遣いであるとの批判もあり得た。しかし、何千世帯もの家庭が長引く失業にあえぎ、フォス臨海工業地帯の産業振興が失敗に終わった状況では、給与を支払うために地方税や市の財政を切り崩す施策を開始したことについて、ドゥフェールを非難することはできなかった。つまり、経済の専門家たちが考える財政の常道からすれば、マルセイユ市の施策は批判されるであろうが、深刻な失業問題に直面した自治体責任者たちがまず第一に目指すべきは、現実に合わない財政的諸原則を尊重することではなくて、むしろ、より迅速に社会問題を解決することにあった。一時的に活力を失っている諸企業を維持するよりも、失業者全員に補償金を支払った方が、地方公共団体にとって費用が少なくて済むなどと論証できる者は、一人としていなかったのである。
  当時のマルセイユ地域社会が直面していた課題に鑑みるならば、ドゥフェールの選択は妥当なものであったと評価されるとしても、全く障害がなかったわけではない。それは、中央政府、とりわけ、ドゥフェールがのちに大臣を務めることになる内務省であった。コミューンに対する後見監督をおこなっていた内務省の地方出先機関は、都市コミューンやレジオンが、直接、経済開発政策を担当していることに不信の目を向けていた。工場に課される事業免許税を軽減したり、通勤道路や労働者のための宿泊施設を建設したり、交代制の工場に融資することは許されても、地方公共団体がある企業に資本参加すること(マルセイユのテラン・グループの場合、一三社)は別の問題とされた。当時のコミューン議会にとって憎むべきは、ポニアトフスキー内相(当時)が県知事宛に送付した一九七六年九月一〇日の通達に記された、その内容にある。この内相は、次のような指示を出していた。すなわち、「諸企業の活動や財政への地方公共団体の直接関与を認めるならば、結果がある程度予想される競争を奨励することになる。従って、裕福なコミューンはより裕福になり、貧困なコミューンはより貧困になるであろう。このことはまた、見通しを見誤らせたり、市場の失敗を招いたりといった危険に、地方公共団体と諸企業をさらすことになるし、納税者たちがその犠牲となるであろう。従って今のところは、都市再開発に関連する混合経済企業の現況についてみておくだけでよい」と。このような、国家(中央省庁)による経済政策の独占という発想は、特殊フランス的性質を帯びているが、このことは、後述するドゥフェール法の議会審議過程においてより明確に現れることになろう。

第三項  内務兼地方分権大臣
  一九八一年にミッテランが大統領選挙で当選を果たし、閣僚人事が問題となった。結局、首相はモーロワが務めることになり、ドゥフェールは内務兼地方分権大臣に任命された。一九七四年の大統領選挙にミッテランが当選していたら、ドゥフェールを首相に任命するとの約束がかつて結ばれていたといわれるが、一九八一年の時点で、その約束はすでに過去のものとなっていたのである。しかし、この南仏を代表する大物政治家には、もう一つ別の目標があった。それは、一言で述べるならば、マルセイユ市長として中央集権国家と対決してきた歴史に区切りをつけ、政権担当者の一人として自らの念願である地方分権改革を実現するということであった。
  ジョルジュ・マリオンは、ドゥフェールの生涯を綴った『ガストン・ドゥフェール』のなかで、ドゥフェールがミッテラン政権の新内相に就任する際、地方分権化という大きな理想の実現に並々ならぬ情熱を燃やしていたことを指摘している(27)。ミッテランが一九八一年の大統領選挙において初当選を果たした一九八一年五月一〇日から三日後、ドゥフェールはビエーヴル通りにあるミッテラン邸を訪ね、組閣作業に入っていた新大統領に対し次のように述べたという。
  一九七四年の大統領選挙の際、あなたは、勝利の暁には私を首相に指名するおつもりであると言われ、私はそれを承諾した。あれから七年以上の年月が過ぎ去った今、私は年をとり、あまりにも高齢です。私は、モーロワを首相に指名することを提案したい。私は、内務大臣のポストがいただければ十分満足です。内相になれば、地方分権化を実施することができるのだから、(28)(下線は引用者による)。
  フランスにおける地方分権思想の歴史は長く、少なくとも一九世紀前半までさかのぼることができると言われる(29)。しかし既に第一章でみてきたように、一九六〇年代以降様々な自主的研究クラブによって積み重ねられてきた討議のなかから、分権的参加デモクラシーという考え方が、フランス左翼のなかで定着していく。そして、ドゥフェール自身ももちろん地方分権論者の一人であった。しかし、彼が地方分権論の信奉者として、法制度改革のイニシアティヴをとるに至る背景には、より特殊な事情があったと言わなければならない。すなわち、マリオンが指摘しているように、大都市の最高責任者として彼は、マルセイユにおいて県知事が彼に課してきた行政的・財政的統制がどうしても我慢ならなかったのである。こうしたパリからの監視の存在が、彼にはとてつもなく過重なものに思えることもあった。事実、予算、投資、都市計画など、どれ一つとして、市長の裁量において行えるものはなかったのである(30)

第四項  ドゥフェール法の議会審議−二つの重要論点−
  ミッテラン政権下における分権・参加法制改革の基本法たる八二年法は、一九八一年八月二日に国民議会がまずこの法案を採択し、次いで上院が修正の上、一〇月二八日に同法案を採択し、その後、両議会間での修正合戦が繰り返され、最終的には、上程からおよそ九ヶ月後の一九八二年三月に成立する。ロンダンは、ドゥフェールのこの迅速な議事運営を「電撃戦(blitzkrieg(31))」と呼んでいるが、それは単にその迅速性ゆえではない。ドゥフェールは、前政権のもとで「地方公共団体責任権限促進法案」が廃案に終わった事実から一つの教訓を得ていたのである。かつて、この法案が上程された際、社会党はこれに対案を提出し、その趣旨説明には当時書記長だったフランソワ・ミッテランがたった。ミッテランは、ジスカールデスタンの改革の進め方を批判して、次のように述べたという。すなわち、地方分権改革が成功するのは、中央集権的な「システム全体のバランスをラディカルかつ迅速に断絶させる場合のみ」であり、「国家を分権化する」ためには、「その主要な受益者、とりわけ、地方議員となるに違いない人々」を排除することは避けつつ、「中央集権制の様々な原動力を破壊する」と同時に、「構造改革を即時に展開する」ことが求められる、と(32)。要するに、地方制度改革にかかわる新法制を国会議員たちに承認させるためには、彼らの多くが兼職している地方自治体の代表者(とりわけ、都市コミューンのメール)に思い切って「権利と自由」を与えていかなければならなかったのである。都市部の名望家たちの動員を意図する、彼の議会戦略は、必然的に、農村コミューンが抱える諸問題の解決よりも、むしろ、都市コミューンの地域権力強化策が優先されることを意味していた(33)
  ロンダンによれば、結局、議会審議のなかで最後まで両院(大統領与党が過半数を征する国民議会と過半数を割っていた上院)が一致を見ることのできなかった論点が二つあった。すなわち、一つは県知事による後見監督制の廃止の問題であり、もう一つは企業に対する地方公共団体の支援の問題である(34)。こうして最後まで残された論点こそ、ドゥフェールが決して譲ることのなかった、この改革の最重要課題であったと考えられる。以下、これら二つの論点についてみていく。

  (1)  県知事による後見監督制の廃止問題
  後見監督制の廃止を規定したドゥフェール法案に対して、上院は、最終段階まで反対の姿勢を貫いた。これを全面的に廃止することになれば、論理上、地方公共団体に執行権機能を承認することになるため、上級機関による後見監督という傘の下にいわば安住してきた弱小コミューンのメールたちは、この廃止案に懸念を抱いていた。そして、こうした弱小コミューンのメールたちの立場を代表していたのが、まさに、野党所属の上院議員たちであった。そのような守旧的・伝統的勢力のノスタルジーは、ドゥフェール法案の基礎にある「責任の原則」と矛盾せざるをえなかった。しかし、県知事による後見監督制の廃止というドゥフェールのまさに信念にも似た基本方針は、最後まで貫かれた。なぜなら、国家官僚と地方名望家の対抗軸において地方分権化が推し進められていた以上、これがドゥフェール法案の核心部分に他ならなかったからである。
  なお、一九八二年一月二八日に国民議会で最終的に採択されたこの法律に対し、野党議員たち(共和国連合の八三名の国民議会議員と、中道派所属の九八名の上院議員)は、憲法院への提訴という対抗手段に出ることになるが、憲法院は、その法案の一部について違憲判決を出したものの、その全体的体系については合憲とした(35)

  (2)  企業に対する地方公共団体の支援
  上述のように、ドゥフェールにとって、これは既にマルセイユ市長として自らが実行してきたコミューンの経済介入政策が、内務省の様々な後見監督との対抗のなかで違法の疑いがあるとされてきたことから、これらの行為を、八二年法の成立をもって合法化する狙いがあった(36)。議会審議過程では、八二年法案の第四条(最終的には、第五条として可決・成立)の内容をめぐり、きわめて活発な議論がたたかわされた。
  八二年法案の第四条は、『市町村法典』の一二一条第二六項と一八一条第一八項の一四に次のような一段落を書き加えるものとされていた。すなわち、「コミューン議会は、コミューン業務の探求という目的をもたない営利を目的とした商事会社や他のあらゆる企業へのあらゆる資本参加を除き、当該コミューン住民の経済的・社会的諸利益の擁護に必要な諸措置をとることができる。ただし、これらの介入が、国家計画を承認する立法において定められた国土整備に関わる諸規則に違反してはならない」と。そして、同条第二項は、次のように定めている。すなわち、「コミューン住民の経済的・社会的諸利益の擁護が要請される限りにおいて、コミューンは、困難に陥った諸企業との間に締結した協定が定める更正のための諸措置を実施すべく、当該企業に対する直接的・間接的な援助を承認することができる」と。
  国民議会(一九八一年六月二八日)の審議で、この第四条の内容に懸念を表明したジャック・トゥボン(Jacques Toubon)ら野党(共和国連合、フランス民主連合)の議員に対し、ドゥフェールは、マルセイユ市における自らの経験(チタン・コデ建設機械や、テラン・グループなど船舶修理業界に対する救済措置)を土台にしながら、この条文に対する肯定的な立場を積極的に表明している(37)。また、上院議員たちも、経営が行き詰まった企業に対してコミューンが法的・財政的施策をとるとするこの第四条の内容について、極めて消極的であった。伊藤洋一氏によれば、この問題をめぐって政府・国民議会と上院とを対立させた要因は、「改革の結果に対する見通しの違い」にあったとされる。すなわち、国民議会側(リシャール国民議会立法委員会報告書)は、過去の都市コミューンにおける実績に基づき、彼らコミューン議員たちのイニシアティヴに「明るい見通し」を持ったのに対し、上院側(ジロー上院立法委員会報告書)は、極めて暗い見通しを示したのである。「地方公共団体の経済介入」に対するジロー報告の批判的結論は、以下のように要約される。すなわち、たしかにコミューンは、地方の実情に近いが、しかし、近すぎて、業績不振企業援助を求める労働者などの地域世論に対する十分な独立性を期しがたい。また、コミューンには経済動向の分析・予測能力もなく、せっかくの援助が無駄金投資になる危険が大きい。全国的な産業配置計画と調和しないコミューン単位での介入は、コミューン間較差を拡大させるばかりである。結局、地域の実情に遠からず近すぎず、地域住民らの世論の圧力からも独立し、かつ一貫性ある政策遂行能力をも有する地方公共団体としては、レジオンが最適である、と(38)
  彼は、「ドゥフェール法案」と呼ばれるこの政府提出法案(プロジェ・ドゥ・ロワ)の提出者(内務兼地方分権担当大臣)として、今後もその名を残すであろう。しかしそれ以上に重要なことは、彼が、マルセイユの先行事例を議会に伝える「伝達者(ポルトゥール)」としての重要な役割を果たしたという点であり、より大局的視点にたてば、地方政府の自律化運動が展開された一九七〇年代と分権・参加法制改革が実施された一九八〇年代とを結びつける「仲介者(メディァトゥール)」であったという点であろう。

(1)  Philippe Sanmarco - Bernard Morel, Marseille:l'endroit du decor, Edisud, 1985, p. 87.
(2)  ibid., p. 87-130.
(3)  ibid., p. 119.
(4)  Philippe Sanmarco - Bernard Morel, Marseille:l'etat du futur, Edisud, 1988, p. 15-48.
(5)  ibid., p. 19.
(6)  ibid., p. 33-34.
(7)  ibid., p. 34.
(8)  ibid., p. 46.
(9)  ibid., p. 46-47.
(10)  Philippe Sanmarco - Bernard Morel, op. cit., 1985, p. 163.
(11)  ここでは、主に、次のものを参照した。Jean−Francois Sirinelli, Dictionnaire historique de la vie politique francaise au XXe siecle, PUF, 1995, p. 276-278.
(12)  この当時のドゥフェールは、SFIOと共産党とを統合しようとする企てにも反対していたという。ibid., p. 277. しかし、後述するように、一九七一年に社会党の刷新作業の先頭に立ったミッテランが社共共闘路線をとったことから、ドゥフェールはむしろ、反共的風土の強かったマルセイユ社会党の活動家たちに、この新路線を承認させる立場に立たされるのであった。
(13)  ドゥフェールがついた役職としては、政務次官(一九四六年)、海運担当大臣(一九五〇ー五一年)、ギ・モレ内閣の海外領土担当大臣(一九五六ー五七年)などがあるとされる。この最後の大臣職にあった一九五六年六月、彼は、「アフリカに存在するフランスの植民地の漸進的解放を容易にする基本法(loi−cadre)」を成立させている。ibid., p. 277.
(14)  渡邊啓貴氏によれば、このときドゥフェールは、一九六五年選挙の際と同様、「中道連合路線」を主張したとされる。しかし、「社会党の長老ギ・モレは、ドゴール派に対抗するにはドゥフェール以外の中道派の候補を擁立する必要があるとして、結局上院議長のアラン・ポエールが第二回投票での左翼の得票を見込んで反ドゴール派中道主義の名の下に候補者となった」という。渡邊啓貴『フランス史』(中公新書、一九九八年)、一六六頁。
(15)  Philippe Sanmarco - Bernard Morel, op. cit., 1985, p. 146.
(16)  ibid., p. 148.
(17)  ibid., p. 165.
(18)  この当時、フランス全国で活動を展開していたGAMではあるが、党派的志向性は各地域によって異なっていた。そして、ここに取り上げられたマルセイユのGAMと、本稿第三章において検討した自主管理社会主義を志向するグルノーブルGAMとの間には、政治的立場の点でかなりの偏差が認められる。
(19)  Philippe Sanmarco - Bernard Morel, op. cit., 1985, p. 167.
(20)  ibid., p. 167.
(21)  ibid., p. 168.
(22)  ibid., p. 170-172.
(23)  ibid., p. 78-79.
(24)  Le Monde,”La ville de Marseille devra ne´gocier avec les industriels la relance du groupe Terrin, Jean Contrucci, 16 Septembre 1978, p. 30.
(25)  Philippe Sanmarco - Bernard Morel, op. cit., 1985, p. 139-141.
(26)  上述のマルセイユ市議会の決定を報じたル・モンド紙は、こうした動きを次のように分析していた。すなわち、「あらゆる地方公共団体が、議会与党の政治的色彩に関わりなく、分権化された介入主義あるいは介入主義の分権化と呼ぶべき活動に参加している」と。Le Monde,”Chances et me´comptes de l'interventionnisme de´centralise´, Francois Grosrichard, 16 Septembre 1978, p. 30.
(27)  Georges Marion, Gaston Defferre, Albin Michel, 1989, p. 294.
(28)  ibid., p. 296.
(29)  中谷猛『近代フランスの自由とナショナリズム』(法律文化社、一九九六年)、一九一頁を参照。
(30)  Georges Marion, op. cit., p. 296.
(31)  Jacques Rondin, op. cit., p. 53.
(32)  Cite´ par Jean−Marc Ohnet, op. cit., 1996, p. 164.
(33)  これこそ、ロンダンが、ドゥフェールのこの改革を「名望家たちの聖別式」と呼ぶ所以である。しかし、ロンダン自身この改革が都市名望家たちの一人勝ちであったとは捉えていない。つまり、ロンダンは、都市名望家と農村名望家との共謀的妥協が成立していたとみているのである。この点について説明すると、同法案のなかでは、コミューンのメールたちの「権利と自由」について規定すると同時に、彼らの政策上の責任(罰則)についても規定していたことから、従来上級機関の後見監督という傘の下に安住し、政策立案能力の点で不安を抱える農村コミューンのメールたちがこれに懸念を表明した。そこで、農村部を過剰に代表していると言われる上院の野党議員は、大統領与党が上院内では過半数を割っているという当時の勢力配置を背景として、この罰則規定の削除を強く求め、ドゥフェールもこれに妥協したのであった。Jacques Rondin, op. cit., p. 49-90.
(34)  ibid., p. 63-64.
(35)  地方分権改革法の県知事による後見監督権に関するに一九八二年二月二五日の憲法院判決に関しては、次のものを参照した。磯部力訳「憲法院(Conseil constitutionel)一九八二年二月二五日判決」(『自治研究』第五八巻第七号)、乗本せつ子、前掲論文、一九八四年、一〇〇頁。野党議員は、@国家の代理人に、地方当局の違法な行為に対して、一定の期間が経過してから地方行政裁判所に提訴する権限以外認めていないこと、Aこの提訴は即時の停止効をもたないこと、Bその結果、国家の代理人はもはや行政上のコントロールの行使、法律の遵守の確保、市民の自由の保全をなしえないという三点において、憲法第七二条に違反すると主張した。これに対し、憲法院は、この地方分権改革法が定めるところの、裁判所を通じた事後的な合法性コントロール自体は、「憲法第七三条第三項の定める目的の一体性を目標とするもの」であって、同条の効力を制約するものではないとしつつ、次の点で違憲となる旨の判決を下した。すなわち、第一に、地方公共団体の行為が「国家の代理人に送付される前の段階で、つまり国家の代理人がその内容を知らず、従って行政裁判所に対し、場合によっては執行停止の申し立てを付加して訴えを提起することが不可能な段階で、これらの行為が法律上当然に執行力をもつと宣言する」点、第二に、「国家の代理人が拘束される二〇日間の予告期間の経過前に申し立てられた訴えを、訴訟要件を欠くものとする」点において、「たとえ一時的にせよ、憲法第七二条第三項によって国に留保されている特権の行使手段を国から奪うものである」という点である。
  なお、憲法院は、国会で採択された法律のうち違憲部分を除いた部分は有効であると宣言したが、その範囲についての明確な定めを欠いていたため、違憲部分の削除ないし修正は、審署権をもつ大統領に委ねられるところとなり、ミッテランは、提訴の予告に関する規定を削除し、地方公共団体の行為が「公布または通知」によって執行力をもつとする規定を「法律上当然に」執行力が発生するとする規定に修正し、三月二日法として成立させた。
(36)  八二年法に対するドゥフェールのこうした政治的意図は、マビローの次のような指摘と興味深い一致を示している。すなわち、マビローはかつて、この八二年法を、「地方公共団体に対する一定の自律性を認め」、この自律性を通じて「地方政府を正当化」し、「地域システムの法  制  度  化(アンスティテュシォナリザシォン)を正当化」する画期的立法と評価し(Albert Mabileau, op. cit., 1994, p. 7-8.)、その重要な根拠としてこの八二年法の第五条が「住民の経済的・社会的諸利害の擁護」を地方公共団体に認めた点を指摘したのである。従来フランスでは認められていなかった地方自治体による経済介入政策が、この八二年法第五条によって成文化された以上、マビローによれば、地方分権改革は「地域システムに託された社会的統合機能を強化する」ものとされる。福祉国家の発展とその後の長期にわたる危機のなかで、「地域住民のための物資やサーヴィスの提供という国家の役割」が増大したにもかかわらず、むしろ国家はそうした経済・社会領域からの撤退を開始していることから、地域システム(地方諸機関・地方政府)には、生産や社会的投資、さらには地域住民の日常的な諸要求への応対などを通じた「社会的統合機能」が要請されていたという(ibid., p. 134-135.)。
(37)  トゥボン議員は、困難な状態に陥った企業への救済措置を、メールやコミューン議会に対して要求する地元住民の世論の圧力に抗しきれるのかという、ジロー上院立法委員会報告書と同様の懸念を表明した。これに対しドゥフェールは、次のように答弁した。すなわち、第一に、コミューンの予算は均衡のとれた編成と執行が行われなければならないのであるから、「コミューンの予算のことで、われわれの際限ない介入を強いられることはない」し、第二に、「自分自身の経験則において、突発的にやってくる圧力に抗することは、比較的容易であった」と。ドゥフェールは、マルセイユの大企業チタン・コデ社の問題とならんで、マルセイユ第二の大企業テラン社の問題に対し、次のように言及している。すなわち、「船舶修理業の大手企業テラン社が支払い停止の状態に陥り、商事裁判所が財産の精算を宣告するおそれがあった。早速、フランスや他国のいくつもの企業の代理人たちが、この会社の超近代的な設備を安価で買い占めようと、マルセイユに集まってきた。私はコミューン議会を招集し、テラン社の資産処分を阻止するため、マルセイユ市議会がその設備を買い取る旨を賛成多数で議決した。こうした産業がマルセイユに残っていて欲しいと考えたのである。ところで、この決定は、公金の捻出をわれわれに義務づけるわけではないが、この桁外れのチャンスにとりつかれた企業家たちをマルセイユから退散させるには、この決定で十分である。そのあと、他の諸企業がテランの工場を買い取ったのだ」と。Journal of officiel de la Republique francaise, Assemble´e Nationale, Compte rendu inte´gral, 3e Seance du 28 juillet 1981, p. 442-451.

(38)  伊藤洋一「フランスの地方制度改革と『市町村社会主義』−市町村の経済・社会介入権規定をめぐって」(『法律時報』五七巻八号、一九八四年)、九四ー九五頁を参照。
  改革以降の地方公共団体の経済介入の実態に関しては、図表7・図表8を参照。とりわけ、図表8に示されるように、経営困難に陥った企業への支援は、コミューンでも、レジオンでもなく、もっぱら県レベルで行われている点が目立っている。

む    す    び


  以上のように、本稿は、ミッテラン政権下における分権・参加法制改革の源流を探るべく、「都市型社会の成熟を背景にして地方政府が分権化=自律化の要求を高めていく」という仮説のもと、一九七〇年代に活発化を見せる都市コミューンの分権化要求が、一九八〇年代における法制改革の実現に極めて大きな影響を与えた点を明らかにしてきた。同時に、こうした一九七〇年代フランスにおける都市コミューンの分権化要求が地方制度改革として実現される場合、中央政府の動向が無視し得ない規定要因となる点についても指摘した。というのも、原動力の如何にかかわらず、地方分権改革は、本来中央政府レベルの地方制度改革という体裁をとらざるを得ないからであり、中央政府にとって中央ー地方関係のあり方や地域政治構造の実態は、なお戦略的位置を占め、こうした地域に対する政権基盤強化戦略が地方制度改革という外観をとって実行に移されるからである。
  そこで第一章および第二章では、中央政府(政権)の視点からみた、より政治学的には、政権の支持基盤を強化する戦略的視点からみた、地方制度改革(レジオン改革とコミューン改革)の位置について検討した。現代フランスにおける地方分権改革の端緒をなしたのは、フランス第五共和政初代大統領シャルル・ドゴールのレジオン改革の取り組みである。ドゴール政権の下で一九六〇年代より一貫して追求されてきた地方行政改革の取り組みを、「地方侵攻作戦」という一つの政権戦略として捉える視角は、既にわが国の政治学研究において提出されていたが、本稿では、一九六八年の五月事件以降、言説レベルにおいて高まりを見せていた「参加」要求を、上院議会とレジオン評議会の職能代表制化によって取り込もうと試みる彼のやや特殊な「参加」論をもふまえつつ、一九六九年の国民投票が否決され、彼が最終的に辞任するに至るプロセスについて検討した。こうしたドゴールの動きに対抗するかたちで、CJMを代表格とする研究クラブ運動は、市民や地域のさまざまなイニシアティヴを結集し、中央集権主義的で官僚主義的な弊害に悩まされていた当時のフランス国家をいかにに改革していくのかという、極めて重要な問題に取り組んでいた。これらの運動のなかから、分権的参加デモクラシーの理論的発展が認められるわけであるが、こうした理論的前進が諸政党の政治的方針のレベルに浸透するにはいくらかの年月を要した。自らの大統領選挙における勝利を視野に入れつつ、社会党の再建・強化に取り組んでいたミッテランが、そうした市民や地域のエネルギーを自らの党勢へと組み込んでいくことになる。その点で、一九七〇年代の後半、地方議会における政治的基盤の確立を目指した社会党ほか左翼諸勢力が、各種地方選挙で勝利を収めたことは決して偶然ではなかったし、このことと、一九八一年大統領選挙におけるジスカールデスタンの敗北とミッテランの勝利も、無関係ではなかったと思われる。一九七四年の大統領選挙に当選したジスカールデスタンは、第五共和政下で初の「非ゴーリスト」大統領となったが、議会内においては依然として少数派に止まっていた大統領与党を強化する必要性に迫られる。彼にとって政権基盤の強化、とりわけ地域レベルの政治基盤強化とは、全国の地方議会の大半を占めると言われる未組織中道派議員たちを自らの党派へ組織することであった。ジスカールデスタン政権が農村コミューンの現状を打開するための改革に配慮を示した根拠もここにある。しかし、これは癒しがたい矛盾であった。すなわち、一九七三年のオイル・ショック以降、農村型経済構造の近代化・建て直しが急務の課題となっていた当時の政権にとって、経済構造改革は、農村型地域経済に安住する地方名望家たち(彼らこそが未組織中道派議員であった)との対決を意味していたからである。結局、ジスカールデスタン政権の地方制度改革がもつ「近代主義」的性格は、農村部の弱小コミューンが直面していた課題を解決するというかたちで示されるに止まり、都市化や経済構造の近代化にとって不可欠の「レジオン創設」という課題は、次期左翼政権の「専売特許」的公約となる。要するに、ジスカールデスタン政権の地方制度改革(廃案)とミッテラン政権の地方制度改革とを分かつ、最大のポイントは、その改革の背後に存在する勢力が、農村的・守旧的名望家勢力であったか、都市的・新興市民勢力であったかという点にあった。
  一九七〇年代フランスの都市コミューン、とりわけ、社会党系の都市コミューンのなかから、まさに地方政府の自律化を求める動きが活発化していった。そこで第三章および第四章では、一九七〇年代に台頭した都市コミューンの新政策が検討された。都市としての歴史も、産業構造も、人口動態も、民衆レベルの文化や風土も異なる二つの都市(グルノーブルとマルセイユ)は、自らが直面する諸問題を解決する試行錯誤のなかから、分権型自治体政策をそれぞれ異なったかたちで確立していく。すなわち、グルノーブルにおける分権型自治体政策は、都市計画のプロセスへの市民の参加を促進するなど、「地域民主主義=地域権力の分割」を理念とする自治体改革というかたちで模索されたし、マルセイユにおける分権型自治体政策は、マルセイユの基幹産業ともいえる造船・船舶修理業が危機に陥るなかで、マルセイユ市が、直接、その救済に乗り出すなど、地方自治体による経済介入主義というかたちで模索されたのである。しかし、これら二つの都市コミューンの取り組みは、中央省庁による統制に反対し、自律化=分権化を志向し、従来の官冶・集権型の政策を再検討し、自治・分権型政策を新たに開発していった点では共通している。要するに、一九七〇年代における社会党系都市コミューンのこうした活動を通じて、一九八〇年代に分権・参加法制改革を実現する条件がつくりあげられたものと考えられるのである。このことは、一九八〇年代に、ミッテランの左翼政権のもとで実施された一連の地方制度改革が、なぜ、分権的で市民参加的な一側面を有していたのかを説明するものである。しかし、こうした個別地方政府の自律化運動が国家規模の大改革を導くには、何らかの特殊条件や間接的誘導因が必要となる。この点で、フランスの場合、ガストン・ドゥフェールという一人の大物政治家が重要な役割を果たしたことは、注目に値すると思われる。マルセイユ市長として分権型自治体政策と呼ぶべき新たな政策決定方式を開発し、フランスの都市コミューンが、地方政府として一定の自律性を確立していく可能性を見出していた彼は、逆に、中央政府が地方自治体の施策を統制する中央集権システムへの批判的な問題意識を形成するにいたる。それがきっかけとなって、一九八一年にミッテランが大統領選挙に勝利すると、ドゥフェールは首相ポストではなく、内務兼地方分権大臣のポストを自ら欲し、地方分権改革の実現に情熱を燃やしていくことになった。彼は、一九八一年に開始される地方分権改革の議会審議過程のなかで、極めて大きな政治指導的役割を果たしたのである。
  最後に、残された検討課題を指摘して本稿をむすぶことにしたい。本稿は、一九八〇年代のフランスにおいて地方分権改革という国家規模の大改革が実現された背景として、一九七〇年代の都市コミューンにおける分権化要求運動をみてきた。これは、都市・新興市民勢力の運動的エネルギーが国家の統治の仕組みを変革した一つの事例である。しかし、現代フランスを素材とするこうした運動論政治学は、着手されたばかりである。今後は、より精緻な都市政治研究を通じて、彼らが展望した新しい社会像(分権的参加デモクラシー社会)を浮かび上がらせ、これら下からの運動と国家レベルの政治との連関について、明らかにしていかなければならない。また、本稿は、フランスにおける地方分権改革の法制化プロセスについて論じているわけであるが、今後、日本など従来から中央集権的国家構造をとっていると目される国々との比較研究も必要とされると思われる。