立命館法学 2000年1号(269号) 317頁(317頁)


◇資料◇

市民の司法参加

朴 元淳(パク ウオンスン)
(弁護士 「参与民主社会と人権のための市民連帯」事務處長)


 


一、序    論


(1)  国民の司法疎外と国民主権主義
”米国では、毎年一二〇万名のアメリカ人が聖書に手を当て、数千名の同僚市民が殺人、強姦、強盗その他の罪を犯したか否かについて、公正に決定することを誓約する。特別な技術も訓練も経験もない一二人の門外漢が、正義の感覚を行使して人間に対する洞察力を発揮することを要求されている。各々の陪審員は、いずれにしろ、我が国の社会として自らの最も優れている部分と、最も劣っている部分を表すものである(1)。”
  このような米国の陪審員制度は、韓国のテレビ名画劇場で見ることができる。韓国人にとって、「裁判」、「法廷」、「判事」という単語は、なにか厳格で暗くて、権威的だとか不親切だということの同義語になってしまった。ひいては威圧的、専門的であるため、一般市民が恐れ多くも接近するなど困難であり、親しみが湧くことはありえない場所という烙印が押されている。一般市民が恐れ多くも裁判に参加するなど!  想像も出来ないことというのが、私たち国民の一般的な法制認識に他ならないのである。”警察になど一度も行ったことがないこと”が美徳の韓国人には、遠い国のお話でしかない。
  こういった韓国国民の認識は、判事、検事、弁護士ひいては警察官などの法従事者自らにも、一種の特権意識のようなものを植え付けてしまった。
  裁判とそれに関連した様々な業務は、国民の無関心と無意志の中で権限行使がなされている。国会議員と大統領は国民の選挙により選出され、その任期の間、法定の権限を行使するようになる。しかし判事と検事は、任命職公務員ではあるものの、相対的に独立性が強く保障されている。したがって彼らは、投票権を持つ一般国民をそれほど意識しなくても良くなる。その代わり、任命権を持つ大統領や提案権を持つ大法院長の顔色をうかがう程である。大法院長や最高裁判事は、最終的に自身の任命権者であるところの「青瓦台(大統領府)」に向かって、「風向計」を付けて置くよりほかない。

(2)  参加民主主義と司法への市民参加
  最近韓国では、参加民主主義のスローガンが高々と掲げられている。金大中大統領は参加民主主義の実現を、重要な国政目標の一つとして主張している。参加民主主義の実現を、基本目標とする社会運動団体も生まれた。このような傾向は、過去の権威主義政権下において統治の客体としてしか認識されていなかった国民が、今や様々な領域で自身の権利を主張し、守ろうという意識を強く持つことにより、拡散している。傍観と沈黙から積極的な参加と高らかな声、具体的な行動に進んでいるのである。参加は民主主義の実質を満たす民主市民の主要な行動綱領であり美徳でもある。参加は下から上への意思伝達体系であり、具体的に自身の運命を決定する手順に介入して影響を及ぼすものであって、さらには具体的な行動に達するものをいう。このような参加の精神が、司法の領域においても芽ばえているという事実は少しも不思議なことではない。司法であるからといっても、参加民主主義の例外領域ではないからである。
  全ての主権は、国民から由来すると韓国の憲法は規定している。司法権もこれら主権の一部分であることは、疑う余地はない。しかし判事や検事など司法権を行使する者が、その権力の当事者が国民であるという意識を持っているか否かは非常に疑わしい。それは具体的には、彼らが国民によって選出されたり、国民によって統制されないためである。仮りに司法権が国民によって成立するということを正しく認識しているならば、判事や検事らは、もう少し国民の基本権保障や権益擁護に対して確固たりえるはずである。しかし不幸にも、現実はその反対であった。憲法の規定は装飾化、形骸化したため、国民は統治の客体として、抑圧と規制と統制の対象になるばかりであった。その過程において、司法の傲慢はより一層深刻化し、国民は均衡を欠いた司法作用によって多くの被害を蒙った。基本権を蹂りんされ、自由を制限されても、効果的な救済を受けることはできなかったのである。
  司法権が国民によって成立するということは、国民が司法作用に様々な形態で参加すべきであるということを意味する。しばしば、国民主権主義と民主主義が普遍化された国家では、公職者を直接選挙によって選出するだけでなく、一旦選出された公職者ではあっても、その権限の濫用を防止するため、他の機関と相互牽制するようになっている。ひいてはそれでも飽き足らずに、主権者である国民が直接その機能に参加する、様々な制度が作られている。ここでは、数多くの多様な制度が各国の特殊な政治的状況と歴史的脈絡の下で、発展してきた。特に起訴と裁判への国民参加、および国民による法官と検事の選出を、直接保障している。このように国民が司法過程に積極的に参加することによって、司法関連機関とその担当者らが、権力者である特定の人物や特定の政党派閥に癒着することを防止する一方、主権者である国民の側に立つようにしたなら、我々の不幸な司法の歴史はなかったであろう。今や(金永三政権の)「文民政府」を経て(金大中政権の)「国民の政府」に至る過程において、司法における国民主権の原則を確立し、司法への市民参加を制度化する諸方案を模索する時がきたのである。

二、外国における司法への市民参加


(1)  裁判活動と市民参加
  @  概    観
  誰が裁判を行うかという問題は、司法制度の核心であり、出発点である。歴史的に見れば、裁判の主体には多くの変化があった。当初は、「ソロモンの裁判」(旧約聖書列王記三・一六)から分かるように、王や君主によって裁判が進行された。時代が流れ、社会紛争が増加するにしたがって、王や君主に直属した、多数の官僚により裁判がなされるようになった。その後、「司法の行政からの独立」、または「人による支配から法による支配へ」などの思想が生まれ、政治権力に対し相対的独立性を持った職業裁判官層が出現した。また政治の民主化の進展、あるいは市民の法意識の向上とともに、市民が様々な形で裁判に参加するようになった。このような過程をたどり、一般市民の司法参加は歴史の趨勢と言える。
  非専門家による司法参加の問題は全世界で多様な形で発展してきた。このような制度は大きく分けて二種類に分類することができる。第一に、専門判事と一般人が混ざり合った裁判部で、事実と法律の決定をする、いわゆる参審制の形態で、第二に、一般人が事実の決定だけをする、いわゆる陪審制である。前者はドイツの法制史において発展したものとして、中部及び東北部ヨーロッパで施行されている。後者は主に英米の法曹界で見うけられる。
  非専門家である市民の司法参加は問題点がないわけではないが、同時に多くの利点もある。一般的に非専門法官制度の効用として指摘されているのは次の五つの点である。@司法制度の予算を節減することができ、A裁判の権力傾斜が防止できる上に、B事実認定は豊富な生活経験を持つ常識人の判断が要求されるため、専門法官が持ちえないこれらの部分の能力が補充され、Cひいては国民の司法認識を増大させて、法治国家建設に役だつのである。特に、D非専門家法官(Laienrichter)は一般国民との信頼を形成維持して、多様な利益集団からの非専門家法官の参加により、利益調整(Interessenausgliech)がなされうるという利点がある。
  このような理由のため、色々な国では各国の実情に合う市民の司法参加を制度的に保障する制度を発展させてきた。もちろんこのような非専門家による司法参加は、”様々な点で欠如した法的認識により、瞬間的に違法な影響の前に屈服してしまう傾向もあり、そのためのマス・メディアを通じた操作の危険性”など、多くの問題点を現わした。しかも、非専門法官らが職業法官よりも、より保守的な姿勢を取る傾向もあった。しかしこのような問題点にもかかわらず、専門法官による補完を維持しながら、司法の民主化という大いなる目標のため、それらの制度の発展と定着に心血を注いできたのである。ここでは、そのような制度の中で、英米法国家において普遍化されている陪審制と、ドイツにおいて発展してきた参審制制度のみについて、簡略に検討することにする。

  A  陪審制
  米国大法院の位相に関して、大法院長であった Charles Evans Hughes は、”法律は大法院が宣言する、そのものである”(The law is what the Supreme Court says it is)。王の言葉がそのまま法律であった時代は、専制君主時代であった。しかし法院の言葉が法律である時代は、民主主義時代である。しかしこのような米国における法院の権威が、「司法独裁」を意味するわけではない。米国の「司法優位」が生まれたのは、それだけ一般市民の司法参加が制度的に保障されているためである。このような国民の直接参加と司法統制を前提として、司法権の優位を認めているのである。
  陪審制の母国は英国である。この制度が生まれ、確立された時期に関しては異論があるが、英国において定着したのは一三五一年頃とみられる。この長い伝統のもと、現在も主に刑事事件の中でも重要事件は陪審により裁判がなされる。しかし陪審制が最も根深く定着した国は、やはり米国である。年間約一〇万件の刑事事件と約二〇万件の民事事件が陪審制で行なわれ、一二〇万名の市民が陪審に奉仕している程である。米国の陪審制を中心として、簡単にこの制度を説明してみる。
  米国では、被告人が控訴事実を自白すると、陪審員は関与せず、直ちに判決が宣告される。被告人が否認すると公判を始めることになり、陪審員の選定もなされる。一二人の陪審員を選出するようになるが、これは裁判所において選挙人名簿に基づき、無作為に三六名程度の陪審員候補者を選抜し、その際、被告人と検察官側において、各自偏向的でありうる人物を排除する機会が与えられた後、最終的に確定する。検察官が証拠により証明する事実の概要を陳述し、証拠書類と証拠物を提出してから、証人や鑑定人を尋問する公判審理が進行される。この過程で弁護人が反対訊問権を行使する。検察の立証が終わると、弁護人側の反対立証活動がなされる。これが終わると、検察の論告と弁護人の弁論がある。職業法官による裁判と異なる点はないが、陪審員が理解しやすくするため、検察側と弁護人側がともに努力する。論告と弁論が終わると、裁判官は陪審員に対して公正で客観的な評決がなされるよう、証明の基準など法律的な問題に関して説示する。
  このような陪審制には、利点ばかりがあるわけではない。職業法官よりも時には外部圧力により大きな影響を受けやすく、事物の判断を公正かつ賢明に行うという保障をするのは難しい。のみならず陪審員の選出において、該当事件に対する偏見や先入観を持たない陪審員を選ぶというのは、たやすいことばかりではないではない。米国の場合、該当地域共同体の多様な人種の代表性が成立しないという問題点も指摘されている。時間と経費の非能率も、その欠点のひとつである。これらの問題ゆえ、陪審制の改革を要求する声が多いのも事実である。しかしいまだそれらの声は、陪審制を廃止しようということにはつながっていない。

  B  参審制
  陪審制は事実認定と量刑決定のうち、陪審員が前者のみを担当し、専門法官が後者を担当するのに対し、参審制は一般人で構成された参審員が専門法官と共に合議体を構成し、両方とも担当することだといえる。陪審制が専門法官と一般市民の分業だとするなら、参審制は両者の協同作業だといえる。
  参審制はヨーロッパの様々な国で発展してきたが、最も活発に利用されている所はドイツである。ドイツの参審制を中心として、この制度を説明してみることにする。専門法官の官僚化を防止するために導入されたこの制度は、刑事裁判や行政事件などには一般市民が参審員として参加し、その他の裁判では専門家、あるいは利害関係者が参加する。例えば、社会保障事件には受給者と給付主体の代表、労働事件には労使代表が参加する。このような参審制の利用状況を具体的に見ると、次のようになる。
  @  正規裁判において、区法院では一名の職業法官と二名の参審員が刑事補助司法において協力し、州法院では刑事部が公判において二名の参審員を任用する。民事裁判権では、商事部において一名の職業法官以外に二名の非専門家法官が協力する。それ以外の区法院、州上級法院及び聯邦通商法院で農業関係手続において非専門家法官が参加する。それ以外の民事裁判では、非専門家法官は活動しない。
  A  労働裁判権においては、労動法院及び州労働法院において一名の職業法官外に、二名の非専門法官らが、連邦労動法院では二名の非専門家法官以外に三名の職業法官が協力する。
  B  行政裁判官においては、三名の職業法官の他に二名の非専門法官が行政法院の各部に任命される。上級行政法院では、二名の非専門法官の任用に住民の参加を考慮することができる。
  C  財政裁判権においては、財政法院の三名の職業法官の他に、二名の非専門法官で構成される。
  D  社会裁判権においては、社会法院に一名、州社会法院と連邦社会法院に三名の常任職業法官以外に、その時その時ごとに二名の非専門法官らが活動する。
  E  連邦憲法裁判所には非専門法官がいない。州憲法裁判所も同じである。
  F  弁護士及び公証人の懲戒裁判権においても、非専門法官が参加する。保健職、建築会社、税理士及び公認会計士の服務裁判でも同様である。これらの法院は、非専門法官でのみ構成されることもある。
  以上のように、参審制が利用される裁判には、民事、刑事、行政事件などが全て含まれていて、第一、二審は無論、はなはだしきは大法院においても場合によっては利用される。このような参審を構成する非専門法官は、決してその数字や役割において、専門法官に劣らない。現在ドイツでは、一万七千余名の専門法官と七万名の参審員がともに裁判を行っているという。
  参審員の資格は、二五歳以上七〇歳未満のドイツ国民であり、一定の欠格事由と非適格事由が法律上規定されている。各裁判における参審員の数は地方法院長が決定し、地方法院長はその管内地方自治体政府に住民数に比例した参審員の推薦数を通知し、地方自治体は参審員として適切であると判断して選択した人々を記載した参審員推薦名簿を作成する。参審員に対する事件配当は無作為に行なわれる。民主的代表という意味で、あらゆる階層を参加させるため、ドイツの法院組織法第三六条第二項と第四二条第二項は、あらゆる住民集団が適切に考慮されなければならないと規定している。一旦任用された非専門法官は、職業法官と同程度の「物的独立」を保障されて中立義務が賦課され、手続において職業法官と同じ権限を持つ。証人に対する審問権、審理と決定における同じ表決権を持つが、ただし、いかなる裁判部の長にもなれない。

三、韓国における市民の司法参加


(1)  概    観−司法権の客体としての市民
  現在韓国では、一般市民が司法作用に主体的に参加する機会は皆無というよりほかない。一般市民は司法権の客体であり、対象であるのみである。司法の主体は判事と検事、または弁護士にすぎない。参審制または陪審制は全く導入されていない。司法は常に国民を抑圧し、弾圧するものと見なされ、その主体として市民が参加するということは想像も出来ないことと見なされてきた。それだけ韓国の司法制度は国家主義的であり、官僚的であると言える。
  韓国はしばしばドイツを中心にした大陸法系の法律体制をもつといわれる。日本を通じた大陸法の伝統を継承した韓国は、解放後、米軍政の実施と共に英米法の内容も一部受け入れ、混在した形態の法体制を持っているといえる。ところがドイツが発展させてきた参審制度も、英米法系国家の特徴である陪審員制度も完全に排除されたことは、それだけ韓国が司法権に対する一般市民の接近を徹底して封鎖してきた事実を意味する。日本帝国主義支配下の司法の権威主義的で官僚的な姿が、あらゆる面において温存された。第二次世界大戦以後、日本が不完全ながらも司法制度改革を試みてきたこととは大きく対照される。
  このような現実は司法作用に対する国民の統制可能性の機会を完全に排除してしまった。国民の牽制から比較的自由になった警察や検察、法院は、公正で客観的な権限行使ができなかった。国民の監視の目のない所には、自ずと政治権力との協力や同居が寄生するよりほかなかった。

(2)  司法部構成と市民参加
  @  判事の選挙制問題
  国家公職者を国民の手で選出することは民主主義原理のひとつである。大統領と国会議員を大統領が選出することは、まさに国民主権実現の一つの内容だといえる。ところが韓国では判事や検事などを国民の直接選挙で選出すべきであるという主張はほとんどなかった。やはり最近になって、法官の直接選挙制を主張する見解があらわれた。
”基本的な国家統治機構のひとつである法官に対して、国民直選制という観念がなぜ考えられることすらないのであろうか?  なぜ法官は私達の手で選んではいけないのか?  ある政党の候補として選出された大統領が選任する大法院長は、当然その大統領が信任する親政府的な人物であろうし、したがって大統領や与党の掌中から抜け出すことは難しいものであるのに、何故そのような制度をおきながら表面では司法権の独立を主張するのか?  名実ともに独立をしようとするなら、少なくとも大法院長だけでも国民が選ばなければならないのではないか?  そして地方自治の次元において自治体長や議会を住民の手で選ぶように、地方法院長や判事も国民が選ばなければならないのではないか?”
  法官だけでなく、不公正な検察権行使のため、検察の責任者も選挙しなければならないという主張もある。すなわち地方自治の完全な実現と並行して、高等検察庁の管轄を単位として任期制の民選検事長をおき、その下で一定の地域での転勤のみを可能にした身分保障を受ける職級による検事をおくようにしようというものである。ただしこの主張は、この制度の完全な実現が困難であるならば、まず政治的事件、及び政財界癒着による疑惑事件が集中したソウル管内だけでも、検察自治制を施行することが望ましい方案であるという。
  この問題もやはり陪審制と同じで、原則的に同意できる内容である。裁判という形式と内容が、どんなに一般行政作用と異なる特殊性をもっているとしても、その担当者に対する主権者としての国民の参加と圧力、牽制は必要不可欠である。このような国民の参加の原則的な方式は、すなわちその司法担当者の選挙である。無論あらゆる検事や法官を選挙することはできないとしても、検察や司法部の政策決定者と人事権者に対しては選挙をすることができることから、選挙を通じて国民の司法参加、公正な裁判の確保に寄与していることが分かる。
  しかし各種公職者選挙が実際多くの決定と弊害をともなうのが現実である以上、それが除去されない状態における判事、検事の選挙は、客観性と公正性を生命とする検察と司法部の機能が、大きく壊損される可能性がある。情実や金権などにより選出される人物が、検察や司法部の責任者になった場合、その結果がどうなるか、敢えて想像するのは難しくはないからである。しかも韓国には、有権者が自身が選出した公職者に利権請託などの、あらゆる圧力を加える慣行がある。選出された法官などが、まさにこのような圧力から自由でありえる制度的防止策が、まず工夫されなければならない。
  同時に、判事、検事の選挙制の趣旨を、実質的、過渡的、部分的に反映する方案等も導入できるのである。例えば、大法院長と最高裁判事だけでなく、地方法院長などに対する国会同意要求の拡大、または四・一九(一九六〇年四月、李承晩独裁政権を打倒した四月学生蜂起のこと)直後に試みられた法官資格者で構成された選挙人団に対する大法院長、及び最高裁判事の選出制などが考慮しうる。特に前者の場合、国会承認過程で人事聴聞会を導入することによって、実質的な国民統制の効果を上げることができるであろう。韓国でも、先般、最高裁判事及び憲法裁判官の任命と関連して人事聴聞会を導入しようという世論や要求が高かった。
  A  大法院の構成と非法律家の任用
  これまで、大法院裁判事の資格は法曹従事者に限定されていた。すなわち現職法官、検事、弁護士などの一定の経歴者に限定されていたのである。はなはだしきは、法学教授たちさえ、最高裁判事に選出されたことはなかった。したがって一般公職者、学者、専門家などは、最高裁判事になることはできなかった。
  大法院は、国民の法律的常識と多様な利害関係を反映し、調整する役割を遂行しなければならない。専門法官出身と在野法曹人の弁護士だけで大法院を構成するということは、国民の多様な意思と利害関係を反映することができない危険に陥る可能性が高い。実際にこれまで韓国の大法院は、一国の最高法院としての権威を否定されてきた。今後法学者や公職者らの中からも、国民の尊敬を受けて専門的識見を高く積んだ人々が、最高裁判事に任命されるべきである。
  B  法官人事委員会構成と市民参加
  現在法官の人事と懲戒は、全的に法官人事委員会と法官懲戒委員会で行うことになっている。この委員会の委員らは、全員法官で構成されている。一般市民等の参加は、完全に封鎖されている。
  法官の人事と懲戒は、当然公正かつ独立してなされなればならない。一般市民をこのような委員会にむやみに任命しては、そのような公正性および独立性を害することがあるのではないかという憂慮は部分的に一理ある。しかし法学者、弁護士または市民団体の幹部を委員に任命すれば、むしろ司法府人事の独立性と中立性に大きな助けになるであろう。

(2)  裁判活動と陪審制論議
  韓国にも最近、陪審制の導入の必要性を主張する見解が現れて注目を集めている。”正義の究極的な判断者は市民であり、法官はその代理者として行為するだけ”という前提の下、次のような陪審制の導入の必要性を力説している。
”司法民主化は国民主体化の側面において、裁判への民衆参加と国民による法官選出制であると見る。つまり法官は国民が直接選ばなければならず、裁判は民衆によって主導されなければならない。・・裁判の八〇ー九〇%は、機械的な法律適用でなくその前提になる事実認定にある。それは人間的に成熟し、人生に対する深い洞察力がなければほぼ不可能である。二十歳やそこらの記憶力の神童が、人生に対して何が分かっていると期待できるのであろうか?”
  このような陪審制導入の主張は、これまでの韓国の司法現実に照らし合わせて見るならば、ほとんど革命的発想ということができる。裁判は当然、専門法官によりなされるべきで、その過程に一般市民が参加して事実認定をしうるという可能性自体、考えたこともないからである。陪審制導入に関する論争は言うまでもなく、はなはだしきは陪審制に対する紹介の文においても、英米法系の陪審制に関する論文さえ発見するのが難しいという実情である。それだけ、陪審制は韓国の司法現実とはかけ離れているのであった。しかし突然、陪審制導入の必要性を提起する文がひとつ発表されたとしても、直ちに陪審制導入の動きが現実化されるのは難しい。ようやく議論の出発というわけである。
  陪審制が、それ自体理想的で国民主権主義にふさわしいという点を否定できるはずはない。ただし、一般市民が陪審員として参加する陪審制が導入される場合、彼らが果して独立的に争点になった事件の事実認定に関する公正かつ合理的な判断をできるかという点は、十分に検討されるべきである。しかし残念ながら英米など、陪審制が定着した国と同様、陪審制が韓国社会で正しく機能することについては、いろいろな問題があると判断される。特にそれらの国では、一般的に法治主義と法の下の平等が根を下ろしているだけでなく、一般市民であっても憲法と法律が定める市民の基本的権利をおおよそ理解しており、任意に選出される一般市民であっても、陪審員としての役割を遂行するのに特別な問題はない。しかしいまだに「官尊民卑」の思想と、司法参加の主体としての認識不足、権利意識と憲法意識の欠如などが普遍化している状態で、韓国で一般市民を裁判の主体として前面に押し出すということは、むしろ職業法官によりなされる現在の裁判制度よりさらにひどい後遺症を生む可能性もないわけではない。
  したがって陪審制自体を拒否するよりは、このような理想的制度が施行できる土台を作り、前提を充足させられるように努力しなければならない。事実これまで韓国では、司法過程に対する国民の監視運動、裁判の傍聴やモニター運動をはじめとする、国民の司法参加に対する認識や実践は皆無であった。少なくともかなりの期間、このような努力を通じ、まず国民の司法参加意識を拡散するべきである。このような国民の意識の発展なしに、単純に陪審制の導入だけで司法の民主化が成立するというのは、行き過ぎた楽観でしかない。

四、韓国における市民の検察参加


(1)  概    観
  巨大な犯罪組織、マフィアに対する捜査や、ほとんど全ての政治家たちが網羅されている巨大な腐敗構造を清算しようというイタリアの闘争過程において、検事が英雄になったことがあった。いわゆるピエトロ検事がまさにその人物である。彼の法廷新聞が放映されるテレビニュースの時間は、ソフィア・ローレンが熱演するドラマより、高い聴視率を記録した。「正義の使徒」と呼ばれた彼が辞任した時、ミラノをはじめとする数多くのイタリアの都市の商店街は、一斉休業を行った程であったという。
  同じ現象が日本でも見られる。いわゆる東京地方検察庁の特捜部が、権力の核心を捜査して果敢に拘束措置することにより、得るようになった名声がまさにそれである。日本検察は、いわゆるシーメンス事件、帝人事件、昭電事件、造船事件、田中事件、金丸事件などにおいて、検察権の厳しい行使により内閣の崩壊を引き起こした伝統を誇りとしている。日本検察は、”政権が犯罪捜査によって倒壊するというの重大な問題であるのに、元来、検察は内閣の倒壊を目的として必死に捜査、処理したわけではないが、事実と証拠があり、不偏不党、厳正公平な事件処理をした結果が直接の原因となって内閣が倒壊するのは、いたしかたないこと”としている。
  しかし、このような独立的かつ中立的な検察が、自然とできたわけではない。数多くの国民の監視の目と、誇らしい検察となるための努力と闘争の結果である。例えば、日本の東京地検特捜部が、自民党の副総裁であり日本政界の最大の実力者であった、金丸信を拘束する過程で見られた市民の圧力と関心である。当初、金丸信を形式的に審問した後、略式起訴しようとしていた検察は、国民の激しい抗議とこれによる内部の反発など、途方もない危機を招いた揚句の果に、ついに彼を拘束したのである。市民の反発が、どの程度であったのか見てみよう。
”「金丸」を略式起訴した同じ月の二八日、東京地検には一日に百件以上の抗議電話が殺到し、玄関に黄色のペイントが入っているビンが飛んできた。二九日には松山地検の玄関のガラスが投石で割られ、朝日新聞の「論壇」には札幌高等検察検事長の憤怒に満ちた意見が掲載された。「検察がその長い歴史を通じ、権力に屈せず、権勢を恐れずに任務を果たしてきたのは、先輩から後輩に伝えられてきた数多くの事例を挙げて話を続けてきたためである。ところが、今やその話が全て誇張となってしまった」という嘆きであった(2)
  いわゆる「佐川急便」事件と関連して、約五億円の金を授受し、六億円に対する脱税嫌疑を受けていた金丸の拘束を要求する三万一千余名の告発状が、このような検察の勇気をふるいたたせて圧力を加えたに違いなかった。これにより東京地検特捜部が、自身の名誉回復を図ってきたことは言うまでもない。先進国の検察がこのように本来の役割を遂行しているのは、それだけ一般市民の検察参加が活性化しているためである。制度的に一般市民が起訴権の行使と捜査権の統制に参加することが保障されているだけでなく、様々な司法関連の団体が監視の目を光らせて、検察権の行使を牽制している。

(2)  起訴統制と市民参加の問題
  英国では、フランスの徹底した検察訴追主義と対立する警察訴追主義と私人訴追を幅広く認めている。英国の検事は特殊事件に関する例外的訴追を担当することと、被告人の上訴事件にあって公益代表として訴訟を遂行することに限定されている。米国の場合、連邦法院の管轄の事件に関して、重大事件の起訴は連邦大陪審(Federal Grand Jury)の管轄に属する。したがって検事は、懲役一年以下の軽犯罪事件の起訴と、既に起訴された事件の控訴維持、及び連邦大陪審の補助者としての役割を遂行する。州政府、またはその他の地方自治体の場合、その管轄に属する事件の起訴は、大陪審の起訴または検事の起訴によりなされることができ、その州の憲法が定めるところにしたがう。普通被疑者が逮捕されると、二日以内に大陪審による起訴手順が始まる。二三名の市民の前で、検察官が検察側の証人を審問して被疑者の犯罪を立証すると、大陪審は多数決により起訴可否を決定する。この過程は起訴手順の一部にすぎないため、被疑者や弁護人の出廷は許されない。英国では一九三三年に大陪審制が廃止された。ドイツの場合には、市民による訴追を認めない代わり、場合によっては当然、起訴する、いわゆる「起訴法廷主義」を採択することにより、公訴権の乱用を防止しようとしている。このように大部分の先進国のうち、検察に何ら制限のない起訴権を与えている所はない。起訴権は一社会の道徳性と賞罰体系の公正性を維持する挺子であるため、その権限の適正な行使こそは、言うまでもなく重要なことである。このような理由ゆえに、検察の起訴権を牽制するための市民の参加、監視、法律の介入がなされているのである。
  これに反し、韓国の刑事訴訟法は国家訴追主義を行っている。被害者または公衆の訴追に依存する私人訴追主義と対立する国家訴追主義を行っているのである。その中でも大陪審訴追主義、または警察訴追主義とは違い、検事訴追主義を採択している。このように検事は訴追権を独占し、一般市民が訴追権行使に参加する余地はない。しかしここに例外がわけではない。すなわち告訴人、または告発人の裁定申請により、高等法院が当該事件の控訴遂行者を任命する、いわゆる裁定申請制度がまさにその例外である。だが、韓国の裁定申請制度は大きく制約されている。すなわちあらゆる犯罪の不起訴処分に対して、裁定申請をできるわけではなく、公務員犯罪など一定の罪に対してのみ裁定申請が可能となる(刑事訴訟法  第二六〇条)。
  このように韓国の場合、起訴の権限は検察に専属しており、それに対する統制装置はほとんどないため、検察の専断が予想される。実際、これまで検察が公正な検察権を行使して、起訴と不起訴の権限を適正に発揮してきたとは、とうてい言えなかった。政治権力の注文により検察権は踊らされてきたし、国民の不信と反感は増幅されてきた「権力の走狗」という非難は、極端な権威主義政権時期に検察に与えられた汚辱の別名である。しかしいわゆる金泳三政府下でも、検察権がまともに民主化され、適正な検察権が行使されていると信じる人はそれほどいない。重要事件ごとに特別(独立)検察制の要求が湧きあがっているのである。
  したがって私たちも、検察の権限を統制しうる様々な制度を導入することを、慎重に検討してみなければならない。ここには、検察自体の不服申請制度を合理化する方案、裁定申請、憲法訴訟など、法院と憲法裁判所など他の司法機関による統制体制を強化する方案、検察人事の独立、検察権行使の統制などのために、一般市民と法曹人らにより構成された検察人事委員会、検察委員会などの設置方案、特別検事制の導入方案、制限的な私人訴追制の導入など、被害者または他の機関に対する訴追権の分権化方案など、様々なものが考えられる。

(3)  日本の検察審査会制度導入問題
  訴追や控訴維持などは、全て検事の専権事項である韓国では、原則的に検察の捜査権に参加したり、それを統制する機能を一般市民が持つことはできない。しかし犯罪の被害者、または一般国民が告訴、告発権を持つため、その犯罪について告訴、告発した被害者または一般国民は、その事件に対する不起訴処分がなされる場合、これに対する抗告、再抗告権の行使、裁定申請などを通じて、間接的に捜査権に統制を加えることができる。
  しかしこれは、別に実効性はない。処分検事による無嫌疑などを理由とする不起訴処分に対して抗告と再抗告によって不服申し立てをしてもこれを担当するのは依然として高等検察庁、または大検察庁など、同じ検察に違いないため、当初の決定を翻して起訴措置を引出すということは非常に困難である。のみならず裁定申請制度は、非常に少数の数種類の罪目に限定されて認められるだけである。
  私人訴追主義と起訴法廷主義など、検察権の独断を防止できる制度的装置が確保されるべきであることは言うまでもない。このような制度の導入には、刑事訴訟法の根本的な改革が前提とならなければならない。しかし、このような根本的制度の変化なしに難無く導入できるのが、日本で実施している検察審査会制度である。この制度は戦後日本の司法改革の一つとして米国の大陪審から由来したというが、実際その機能は完全に異なっている。
  ”起訴権の実行に民意を反映させて、その適正を期すること”(検察審査会法第一条)を目的として誕生した検察審査会は、選挙権を持った国民の中から選抜された一一名の検察審査員が、一般国民を代表して検事の不起訴処分を審査する役割を持つ(3)。市区郡の選挙管理委員会が選挙人名簿に基づいて検察審査員の候補を選抜し、その中から検察審査会事務局長が再び検察審査員を決定する。検察審査には一一名の審査員全員が出席し、審査してその会議は公開される。事件の記録を調べ、必要ならば証人を呼んだり現地調査をすることもある。その審査の結果、「不起訴不当」、「起訴相当」という議決をした場合には、検事はその議決を参考にして事件を再検討する。
  このようにして、毎年検察審査会に対する申請件数は、一千件から二千件程に推算される。そのうち一−二割の事件に対して、不起訴不当の議決をしているが、減少する趨勢を見せているという。しかもこの議決が法的な拘束力を持つわけではない。このため、この制度の実効性が問題視され、行政改革の一環として廃止の可否が論議が沸騰しもした。しかし昭和二九年のいわゆる「造船疑惑事件」に、東京第一検察審査会が起訴相当の議決をしたため、この制度が国民の参加による司法の民主化に重要な役割を果たすという事実を再認識させることになり、制度の廃止を免れることができた。この制度の利点は、まさに市民の検察権行使、判断への参加の象徴性にある。すなわちこの制度の存在自体だけでも、検察の決定に一定の圧力と負担として作用し、適正な検察権行使の担保となるはずである。

五、結  論 −市民の司法監視活動が司法民主化の礎石


”一九六二年一月八日、午前配達の郵便物の中に、米国大法院はフロリダ州立刑務所の囚人番号〇〇三八二六号クレーランス・L・ギデオンという人物から、大きな封筒を受領した。……彼は米国の法律の歴史において、最も偉大な決定を要求していた。彼は、まさに大法院に対し、従来の態度を変えるように要求していたのである(4)。”
  これがかの有名なギデオン事件である。ギデオンは従来、米国の大法院が重罪事件においてのみ弁護人を法院で選任するようになっていた態度を変え、自分が犯した軽い犯罪に対しても、弁護人の選任を受ける権利があると主張した。自身が矯導所の中で行った、大法院の規則や適法手順に対する詳細な研究を土台として、彼はついに米国大法院に従来の判例を変えさせることに成功し、米国の法司において有名な人物となった。”法の目的は平和であり、それに至る過程は闘争”であると言明した Jhering の言葉のように、権利は決して自然に誰かがもたらすものではないことをギデオンは証明した。
  またあらゆる制度に先立ち、その制度を運用する人間の意識が最も重要なのである。どんなに良い制度を導入するとしても、それを運用する担当者、関係者らがその制度の趣旨を正しく理解したり、実行する意志を持つことができないならば、失敗するのは明らかである。しかし正しい司法制度と適正な運用は、自然には成り立ちえない。あらゆる制度は、生まれると同時に改革の対象になり、あらゆる担当者は官僚化されてしまうものである。これを防止する道こそが、すなわち市民の関心と参加、そして行動である。
  他の立法活動において行政作用でも同じだが、司法作用にあっても、市民の参加と関心は適正かつ厳正な司法作用の礎石となる。このような市民の司法監視活動が皆無であった韓国でも、最近いくつかの団体が関心を示し目覚め始めている。「参与連帯」と「法律消費者連盟」がそれである。国家権力の監視運動を標榜している「参与連帯」は、司法監視センターをおいて、警察、検察、司法府、在野弁護士業界の諸般の活動に、組織的なモニター活動、主要法官や高位検察官任命に対する意見発表、「開かれた法廷」開設、申告受付や法律相談などを通じて監視活動を展開している。「法律消費者連盟」は司法作用の被害者らが中心となり、法律相談、モニター活動などに主力を注いている。これまで無風地帯であり、特権領域として残されていた司法作用にも、これから市民参加と監視の運動が活気あふれ展開する展望である。これに対する法曹人の反応は、冷ややかな冷遇と無視、反感などに現れているが、一部ではそのような運動の正当性や必要性を認めている。次第に司法における市民参加運動、その初歩段階としての市民監視運動は、より一層本格化する展望である。
  このような監視運動の拡散、定着とともに国民の権利意識と法律的思考が本来の姿を取り戻すであろう。外国で発展してきた各種の司法への市民参加が、可能な土壌として法治主義に対する訓練がこの監視運動を通じてなされうるのである。監視運動は自然に市民の司法参加に対する法制の導入運動に発展するはずであり、ひいては主権者としての国民の地位と役割を果たす時代に進むはずである。単純な司法の客体かつ傍観者としてではなく、司法の主体かつ進行者として参加することを意味するであろう。その時がくるまで、司法監視運動の険しい闘争とたゆまぬ努力が捧げられなければならない。

(1)  Seymour, Wishman, Anatomy of a Jury:The Systems on Trial, Times Books, New York, 1986, vii.
(2)  中江昭夫、”東京地検特捜部に何か起きたか”、世界、一九九三年一月号、六五頁。
(3)  詳細なことは Suzuki,”Safeguards Against Abuse of Prosecutorial Powers, Role of Public Prosecutors in Criminal Justice:Prosecutorial Discretion in Japan and the United States, Japan Society, 1980, pp. 13-14.
(4)  Anthony Lewis, Gideon's Trumpet, Vintage Books, New York, pp. 3-10. (徐勝訳)

※本稿は、昨年一〇月二一日、京都弁護士会会館で行われた日韓共同研究「司法改革・陪審制度を考える」で発表されたものである。