立命館法学 2000年2号(270号)  19頁




客観的帰属論の展開とその課題(三)


安達 光治




目      次

は じ め に

第一章  目的的行為論以前のドイツにおける議論
  第一節  一九世紀の因果関係と共犯をめぐる議論
  第二節  刑法典制定後の因果理論の対立
  第三節  帰責限定理論の動揺 −一九二〇年代後半の過失犯判例
  第四節  学説の対応
  第五節  小    括 (以上二六八号)

第二章  目的的行為論から客観的帰属論へ
  第一節  ヴェルツェルの目的的行為論構想
  第二節  目的的行為論の限界(一)  過失犯における義務違反と結果の関係の問題
  第三節  目的的行為論の限界(二)  被害者の自己答責的態度への関与の問題
  第四節  小    括 (以上二六九号)

第三章  客観的帰属論の現代的展開
  第一節  ロクシン等の客観的帰属論とその限界
  第二節  過失犯における限縮的正犯論(一)  最終惹起者を基準とする見解
  第三節  過失犯における限縮的正犯論(二)  社会的役割を基準とする見解
  第四節  過失犯における限縮的正犯論(三)  その他の見解
  第五節  小    括 (以上本号)

第四章  わが国の議論の整理と今後の課題
  第一節  相当因果関係説と客観的帰属論をめぐる議論の整理
  第二節  わが国の議論についての検討
  第三節  今後の課題

む  す  び



第三章  客観的帰属論の現代的展開


  前章では、第二次大戦後の判例によって提起された、過失犯に関する二つの問題ーすなわち、義務違反と結果の関係の問題および自己答責的な被害者の態度に対する過失の関与の問題ーに関するヴェルツェルの見解を批判的に検討することで、目的的行為論の直面した限界を明らかにした。前者の問題については、注意義務に適った態度をとっていても結果が発生していた場合には、その結果はもはや回避可能ではなく、注意違反が結果に実現していない、というヴェルツェルの示す解決案に対して、注意義務に違反する態度が過失犯の違法性を根拠付けるという彼の過失犯の不法概念から、そのような考え方は論理必然的に導かれるものではないことが批判された。後者の問題については、自己答責的な自殺に過失によってその一因を与えた者、すなわち自殺に対する過失の共犯者は、故意による自殺関与が法律上不処罰であることとの均衡上、当然不処罰であるという彼の見解に対して、過失共犯に相当する態度を概念上肯定し、これを根拠に不処罰という結論を導くことは、注意義務に違反する態度はすべて過失の正犯を根拠付けるという彼の過失犯の正犯概念に矛盾することが批判された。
  これらの批判はいずれも、目的的行為論の限界のみならず、問題解決についての新たな構想の必要性を浮き彫りにするものであったといえよう。前者の問題については、問題解決には、行為者の義務に違反する態度と発生結果はいかなる関係にあるのか、また後者の問題については、他人の自己答責的な態度によって生じた結果について関与者はいかなる責任を負うのかが、問題解決のために必要とされる観点として重要視された。いずれに関しても、注意義務に違反する態度によって結果が物理的に惹起されたことだけではなく、発生結果がまさに問題とされる態度の産物であると評価されること、すなわち客観的に帰属されることが過失犯の客観的構成要件の不可欠の前提として必要とされたのである。
  このような経緯から、客観的帰属論は、現代のドイツにおける犯罪体系論において中心的な役割を果たすに至っている。そしてこの理論は、周知のように、ロクシンによって一応の完成を見るのであるが、最近の展開を見るにロクシンの見解は必ずしも絶対的なものとは言えず、客観的帰属論を標榜する論者の中には、ロクシンの見解に対して本質的な批判を行う者も見受けられる。そして、主としてこのような批判は、過失犯において限縮的正犯が妥当すべきことを主張する論者によってなされているのである。
  そこで本章では、まずロクシンの見解を中心に客観的帰属論の構想を素描し、その限界について考察した上で、客観的帰属論の現代的展開として過失犯における限縮的正犯概念の妥当性を主張する論者の見解を分析することで、客観的帰属論の構想の持つ意味を明らかにするとともに、現代の客観的帰属論に残された課題の提示を試みる。

第一節  ロクシン等による客観的帰属論とその限界

一、は じ め に
    先に述べたように、過失犯における義務違反と結果の関係の問題、および自己答責的な被害者の態度への過失による関与の問題は、注意義務に違反する態度による結果の惹起を正犯論と結びつくべき過失犯の不法の本質とする目的的行為論にとってネックとなるものであった。そしてそのようなネックは、まさに注意義務に違反する態度と具体的に発生した結果との客観的なつながりに関するものであり、それゆえ、発生結果がまさに当該行為者の態度の産物であると評価できるか、言い換えれば、発生結果が当該行為者の「仕業」として客観的に帰属できるか、という客観的帰属の観点から、その克服が試みられた。
  もっとも、客観的帰属論の論者も、注意義務に違反する法益侵害結果の惹起という目的的行為論が主張した過失犯の客観的構成要件の前提自体については、原則的にこれを維持し、その前提の下に、侵害された注意規範と発生した結果との間の関係について新たに検討するという判断構造をとっている。ただ、注意義務違反を客観的帰属の判断の中でどのように検討するかについては、ロクシンのように「許されない危険の創出」という形で客観的帰属の判断基準の中に解消する見解もあれば、シューネマンのように直接に注意義務違反を問題とする見解も存在する(1)。しかしいずれにせよ、注意義務違反が客観的帰属の判断基準の重要な部分を占めていることは、以下の考察で明らかとなろう。

    また、客観的帰属論については、相当因果関係説との関係が問題とされる。わが国では客観的帰属論に対してしばしば、客観的帰属論がドイツで発達した背景には、ドイツでは相当因果関係説を支持する論者は少数にとどまっており、条件説が通説であるため、過失犯において結果の帰責を妥当な範囲に限定する必要性があった、という評価がなされることがある(2)。たしかに条件説では、過失犯において特に帰責の範囲は無限定に広がる恐れがある。ドイツにおいては、判例は条件説を前提とすることで、比較的広く発生結果についての帰責を認めてきており、相当因果関係説は、中断論や遡及禁止論と並んで、帰責の範囲を限定する理論として主張されてきたことは、本稿でも第一章第二節で見たとおりである。
  しかしながら、客観的帰属論の論者は、相当因果関係の思想とは全く無関係にその帰属基準を展開したわけではなく、相当性原理自体は結果を行為者の態度に客観的に帰属する上で重要な要素と位置づけている。むしろ、客観的帰属論の眼目は、相当因果関係が肯定される場合であっても発生結果の帰属を否定すべき場合を認め、そのための基準を客観的帰属の視点から体系化するところにある(3)。そのため相当因果関係説との関係では、客観的帰属論の帰属基準が本当に相当因果関係に解消し得るものであるのか、あるいは、そのような基準を客観的帰属として位置づけることが妥当なのかどうかについて検討すべきであろう。客観的帰属論を相当因果関係説と全く同様の役割を果たすものとみなして、これを相当因果関係説の下では不必要とするのは速断にすぎるように思われる。

    客観的帰属論が相当因果関係説の考え方を土台に置いていることは、ロクシンが代表的な相当因果関係説の論者であるエンギッシュの「危険創出」、「危険実現」の枠組みを採用していることからも伺える(4)。そうはいっても、ロクシンの客観的帰属論構想の中に相当因果関係の原理に解消し得ない要因が含まれているのは、以下の検討で見るとおりである。むしろロクシンがその教科書において完成した形で提示した構想において、「許されない危険の創出」、「許されない危険の実現」という形で、危険に対する規範的評価を導入する点では、エンギッシュとは異なると言える。そしてこのような規範的評価を導入することによって、客観的帰属論は相当因果関係説ではなし得ない帰属判断が可能になるのである。
  さらに、規範の保護範囲論を基礎とするロクシンの見解では、「構成要件の射程」という帰属基準が設けられているが、これも同趣旨に理解することができると言えよう。

    以上述べたことを踏まえて、ロクシンの見解を中心に客観的帰属論の構想を概観するが、ここでは目的的行為論が直面した問題を客観的帰属論がいかに解決しているか検討することによって、この構想の持つを意味を明らかにしようという趣旨から、考察の重点は、主としてこの問題の解決に奉仕する「許されない危険の実現」、「構成要件の射程」に置くことにする。もっとも、「許されない危険の創出」もロクシンの客観的帰属論においては重要な帰属基準であるので、これをまず簡単に見ておくことにする。

二、許されない危険の創出
  ロクシンによると、結果を客観的構成要件に帰属するための第一の要件は、行為者が法的に許されない危険を創出したということである。したがって、そもそも危険の創出が欠如する場合、また仮に危険の創出があるとしてもそれが法的に許されている(いわゆる許された危険)の場合には、結果の客観的構成要件への帰属が阻却され、客観的構成要件は充足されないことになる。ここでは、危険減少の場合、危険の創出が欠ける場合、および許された危険の場合が帰属阻却基準とされている。

  1.危険減少の場合の帰属阻却
    行為者が、被害者に対してすでに存在している危険を減少させ、行為客体の状況を改善するという形で因果経過を修正する場合には、危険の創出及びそれによる発生結果の帰属可能性が欠如する(5)。例えば、石が被害者の頭にめがけて飛んでくるのを見て、被害者を突き飛ばすなどして、より身体に対する危険の少ない部位に命中するように仕向けた者について問題になる(6)。この場合、行為者の行為は結果と因果関係を有し、また、結果を修正する因果経過は、行為者には十分予見可能で、しばしばその経過を意図することさえできるので、相当因果関係説によっても、結果の帰属を阻却することはできないとロクシンは言う(7)
  保護法益の状態を悪化させるのではなく、むしろ改善する行為を禁止することはナンセンスであると言えるので、結果の帰属を否定すべきであることに異論はないであろう。また、このような危険減少の場合にドイツ刑法三四条の正当化緊急避難を認めることにより問題解決を図る見解が存在する(8)が、ロクシンによれば危険減少の場合には、保護客体に対する危険は増加させておらず、むしろ減少させるにすぎず、犯罪類型としての法益侵害は欠落するので、正当化緊急避難として厳格な要件の下で初めて正当化されるのではなく、そのような要件を欠く場合でも危険減少は始めから構成要件に該当しないとされる。

    以上のようにロクシンは、危険減少の場合には、保護客体に対する危険が行為者の態度が介在しない場合よりも減少するので、法益に対する侵害的な態度であるとは評価できないことを理由に、危険の創出を否定し、結果の帰属を阻却する。たしかに、このような危険減少の態度でも、出来事を純因果的に捉えるならば、具体的な発生結果の一条件と評価することができるであろう。しかし、被害者に対する法益侵害の危険を減少させる態度は、法益侵害を目的とした行為と評価することはできず、またそのような類型的に見て法益侵害の危険性の低い行為については、次に見る危険創出の欠如の場合と同様、刑法上問題とすべき相当性は認められないのではないか。このように、目的的行為論や相当因果関係説によっても同様の解決を行うことができるとするなら、この類型を、帰属基準の一要素として取り上げるだけならともかく、客観的帰属論の独自性を主張する論拠として持ち出すのは妥当でないように思われる(9)。またこれは、「実行行為論」が有力なわが国においても同様であろう。

  2.危険の創出がない場合の帰属の阻却
    行為者が法益侵害の危険を減少させるわけではないが、法的に問題とすべき形で高めてもいない場合、発生結果の客観的構成要件への帰属は阻却されるべきであるとされる(10)。落雷事例(11)の他、大都市での散歩、階段登り、水浴、山登り等のノーマルな法的に重要でない日常的な活動の勧誘などがこの例に属する。たとえ、このような態様の行為が、希少な例外的状況において事故につながることがあるにしても、これと結びつく、社会的に相当なごくわずかな危険(リスク)は、法によって問題とはされず、これによる結果の惹起は、初めから帰属可能ではない。社会的に通常で、一般的にみて危険でない態度を禁止することはできないからである(12)
  さらにロクシンによると、すでに存在している危険が測定可能な程度に達していない場合にも、同様に危険の創出がなく、結果の帰属は阻却すべきであるとされる(13)。例えば、ダムを決壊させるような洪水の際に水槽一杯の水をぶちまける者は、溢水(ドイツ刑法三一三条)として可罰的であるかという古い教室設例が挙げられる。この場合、たしかに(ごくわずかであるとはいえ)結果を変更しているために、結果に対する因果性は肯定されると言え、そのため、いずれにせよ溢水の惹起として刑法三一三条の構成要件に帰属することはできないという形で解決すべきである。なぜなら、この刑罰規定が防止しようとしているような危険は、そのようなわずかな水量の追加によって増加しないからである(14)
  ロクシンは、このような危険の創出ないし増加の原理は、本質的には相当説、及びすでに何十年も前にラレンツ(15)やホーニッヒ(16)によって展開された客観的目的性の原理に対応すると言う。法律上保護された法益を法的に重要な態様で危殆化しないような態度は、結果を全く偶然に引き起こしたにすぎず、結果がそのような態様で目的的に惹起されたということはできないからである。それゆえ、相当説の場合に認められる形式である客観的事後予測は、危険創出の問題を判断する立場についても妥当する。すなわち、この場合重要なのは、明晰な観察者が犯行の以前に(事前的に)当該態度が危険である、ないしは危険を増加させると考えたかどうかということである。しかしここでは、観察者は具体的な行為者の特別知識をも備えているべきであるとされる。途中に謀殺者が待ち伏せていることを知りながら、他人に散歩を勧める者については当然危険の創出を認めるべきであり、散歩中にこの者が殺害されれば、謀殺(ドイツ刑法二一一条)、故殺(ドイツ刑法二一二条)による可罰性が生じる(17)

    このように、危険創出の帰属判断は、実際には相当因果関係説の判断と重なる(18)。しかし、これは、ここに属する事例群が提供する問題を解決するために登場したのが相当因果関係説であり、ここでロクシンが依拠しているラレンツ、ホーニッヒらによって展開された客観的目的可能性を結果の帰属要件とする客観的帰属論もこのような相当性の判断の精緻化を目指していたからである。その意味で、客観的帰属論が相当因果関係説とは全く別個の論理を用いて結果の客観的帰属の判断を行うものと断定することは妥当でないであろう。

  3.許された危険の場合における帰属阻却
    行為者が法的に重要な危険を創出した場合にでも、それが許された危険の範囲内にあると言い得るならば、危険の創出があるにもかからわらず発生結果の帰属は阻却される(19)。これまで、許された危険という概念は様々な関連で用いられてきたが、その意義及び体系的地位については、社会相当性と同視されたり(20)、注意違反の行為における同意の場合のように正当化事由に用いられる(21)など、全く不明確であったとロクシンは言う。また、しばしば故意犯では許された危険に全く意義が認められず、専ら過失犯の正当化事由として承認されることも多い。しかし、許された危険とは、たしかに法的に重要な危険を創出してはいるが、一般的に(つまり、個別の事案のありように関係なく)許されているために、正当化事由ではなく、客観的構成要件への帰属が阻却される態度として理解される(22)べきであるとロクシンは言う。
  許された危険の典型例はあらゆる道路交通規則を遵守した自動車の運転である。自動車の運行が、生命、身体および財物に対する重要な危険を有することは否定できない。それにもかかわらず、立法者は、公共の福祉という優越する利益がこれを要求しているという理由により、自動車による道路交通への関与を許容している。当然、この場合は、緊急避難(ドイツ刑法三四条)の場合とは異なり、利益考量は必要なく当該行為は始めから許されている(23)。さらに、許された危険の遵守は客観的構成要件への帰属を阻却するものであるから、あらゆる交通規則を遵守したにもかかわらず、法益侵害を惹起することは、もはや構成要件的な行為ではない。このことは、故意犯にも過失犯にも同様に妥当するとされる。ロクシンによると、許された危険の場合、その超過により危険創出が認められ、その実現が構成要件的な行為として結果が帰属可能なものとなるとされる(24)
  さらに、許された危険はこれに留まらず、公共交通(すなわち、航空、鉄道、船舶の交通が含まれる)、工業の経営(特に危険な施設)、危険なスポーツ、医療としての水準(lex artis)の範囲内にある医師の医療行為などは、すべて許された危険に属する(25)

    もっとも、このような許された危険の場合と先述の危険の創出のない場合との区別は必ずしも容易ではない。しかし、両者とも客観的構成要件への帰属が阻却されるという効果は共通なので、両者の区別は実際上重要ではなくむしろ、帰属阻却の重要な手がかりは、工業施設の経営、スポーツなどに通常存在している注意規則の設定であるとロクシンは言う(26)
  このように、ロクシンは、許された危険、すなわち注意規則を遵守した一定の態度については、たとえそれに法益に対する危険が存在するとしても、例外的状況おける正当化ではなく、より一般的に、客観的構成要件への結果の帰属の阻却、すなわち構成要件該当性阻却として、体系上位置づけている。
  しかし、その場合には許された危険の態度といえども、法益侵害結果を相当な態様で惹起しているために、原則的には構成要件的な行為として原則的に禁止されることになるが、許された危険が注意規則に従ったものである限り社会生活上一般に認容されていることに鑑みると、これはあまり望ましい結論とは言えない。それゆえ、ロクシンの客観的帰属論は、ここで因果関係の判断を離れた帰属連関論を展開し、許された危険の範囲内にある態度について客観的な構成要件該当性を阻却するという、社会の実態に即したより望ましい結論を導く試みと評価することができるであろう。

  4.ま  と  め
  ここでは、結果の客観的帰属が阻却されるべき、許されない危険の創出が欠如する場合として、危険減少、危険創出の欠如、許された危険の三つの場合を見てきた。
  前二者は、刑法上特に問題とする必要のない態度について、結果に対する因果性と結果の認識(場合によっては意図)の存在にもかかわらず結果の帰属を排除する原理であるが、これについては、相当因果関係説、目的的行為論のような従前の理論からも説明が試みられてきた。すなわち、相当因果関係説は、これらの態度の法益侵害に対する危険が類型的に見て低いことから結果に対する相当性を否定し、目的的行為論は、行為の目的性の欠如ないしは社会的相当性によって、その行為性を否定し得る。
  許された危険については、因果関係の視点からこれを理解することはできないであろう。法益侵害の危険が、たとえ重要なものであろうと許されるのは、その態度をとるにあたって予め定められた注意規則に合致した態度による場合だけであるが、このような構成は、前章でも確認したように、目的的行為論の「社会生活上必要とされる注意」と同様のものであると言えよう。その意味で、ここでは客観的帰属論は目的的行為論の延長線上にあるものと評価することができる。

三、許されない危険の実現
  法的に許されない危険を創出する態度といえども、既遂犯としての結果を帰属するためには、行為者の態度によって創出された危険が結果に実現することが必要とされる。危険の実現が欠如する場合には、故意犯においては未遂犯としての可罰性が問題となるが、過失犯の場合には不可罰となる。ここでは、結果に実現すべき危険は、法的に許されないものであることが前提となるために、危険実現の判断の際にも、結果の帰属のためには、まさに行為者によって創出された許されない危険が実現したことが確認されることを要する。さらにロクシンの構想では、許されない危険の判断において一定の注意規則が問題とされる場合には、その注意規則の保護目的も危険実現の判断の際に考慮されることになる。そして、危険実現の判断は、許されない危険という考え方と結びつくことによって、帰属阻却基準についていくつかのバリエーションを生み出していくのである。これらの基準は、相当因果関係説が行うような事実的な危険実現の判断では行うことができない判断を可能にすると言える。以下、ロクシンの考察に沿って具体的に検討する。

  1.危険実現が欠如する場合の帰属阻却
    まず、客観的構成要件への帰属は、行為者によって創出された許されない危険そのものが結果に実現したことを前提とする。それゆえ、行為者はたしかに保護法益に対する危険を創出したが、結果がこの危険の作用としてではなく、全く別の偶然の関係の中で発生した場合には、発生結果の客観的帰属が阻却される(27)。ここでは、ロクシンは「危険の実現は、因果関係と並ぶ書かれざる構成要件要素として位置づけられる(28)」というエンギッシュの構想に依拠している。その例としては、殺人の故意による発砲で傷害を負った者が、収容先の病院で火災により死亡する場合の、故意で発砲を行った者の罪責の問題が挙げられる。この場合、発砲を行った者は被害者の生命に対する危険を創出し、さらに発砲を行わなければ被害者は病院に収容されることもなく、それゆえ火災で死亡することもなかったという意味では、死亡という結果を惹起している。しかし、彼によって創出された危険は結果に実現しておらず、結果を彼に帰属することはできない(29)。それゆえ、彼は殺人未遂でしかないことになるとされる。
  ここでは、問題の解決は、伝統的見解(30)のように故意の問題としてではなく、客観的構成要件の問題として行われるべきであるとされる。ロクシンの解決によると、先の例では、行為者によって行われた発砲が、火災による死亡の危険を法的に測ることができる形で高めたかが問われるべきであり、発砲によってもたらされた病院での滞在は、そこで火災事故の被害者となる重要な危険を根拠付けることはないから、この問いは否定され、それゆえ危険の実現とそれによる結果の帰属は否定される(31)。逆に、未遂行為が後続の因果経過の危険を法的に重要な形で高め、それゆえ結果が未遂行為によって創出された危険の相当な現実化である場合には、因果経過の逸脱は、取るに足りないもので、結果は帰属すべきであるということになる(32)

    ロクシンによるこれらの事案の解決は、相当因果関係説による解決と結論的にほぼ一致するものと思われる。むしろ、具体的な発生結果に対する危険を法的に重要な形で高めたか、というロクシンによる事実的問題としての危険実現の判断基準は、相当因果関係説による行為後の介在事情がある場合の判断基準との差異はさほど感じられない。それゆえ、この段階ではまだ、理論的に見ても客観的帰属論は相当因果関係説に対してその判断の独自性を存分に示すことはできないと言えるのである。

  2.許されない危険の実現が欠如する場合の帰属阻却
    許された危険の場合には、客観的構成要件への帰属は、許容限界の逸脱とそれによる許されない危険を前提とする。しかし、その場合に、既遂とするには危険の実現を要するのと同様に、許されない危険の場合にも、結果の帰属可能性は、まさにその許されない危険が結果に実現したことに依拠することになる(33)。このような危険の実現が欠ける場合には、新たな問題が生じるとされる。
  問題領域を把握するために、まずロクシンの挙げる事例を以下に示す。

  @  刷毛工場の工場長は、従業員の女性たちに中国産の山羊の毛を、事前に、定められた殺菌消毒をしないで手渡した。四人の従業員が炭疸かん菌に感染し死亡した。後の調査では、定められた消毒法では、それまでヨーロッパで知られていなかったかん菌に対しては効果がないことが判明した(いわゆる「山羊の毛事件」;RGSt. 63, 211(34))。
  A  行為者は最高制限速度を超えて運転していたが、すぐにまた定められた速度に戻った。そうして、彼は、ある自動車の背後から自分の車の前に飛び出してきた子供を轢いた。事故は、彼にとって客観的に回避不可能であった(35)
  B  被害者を誤って追い越したために、被害者は心臓麻痺で死亡した(OLG Stuttgart VRS 18 [1960], S. 356)。もしくは、軽い衝突事故を起こしたため、被害者は心臓麻痺で死亡した(OLG Karlsruhe, JuS 1977, S. 52(36))。

    いずれの場合でも、行為者の義務に違反する態度は、許された危険の範囲を逸脱しており、その結果、許されない危険が創出されている。しかしロクシンによると、いずれの場合でもその許されない危険が結果に実現したとは言えず、結果は帰属できないとされる。
  まず、@の例では、消毒義務の懈怠という形で許されない危険は創出されているが、定められた消毒法は被害の防止に有効ではないことにより、消毒義務の懈怠の有する危険そのものが被害者の死亡という結果に実現してはいないと説明されている。定められた消毒を行うという許された危険を遵守した行為を行った場合にも事後の経過が完全に一致すると考えられる場合には、結果の帰属についても異なった取り扱いをしてはならないという平等原則がこの背景にある(37)
  AおよびBの例では行為者の義務に違反する態度が、結果を惹起するか少なくともそれを促進する場合の結果の帰属が問題となる。Aの例では事故は自動車の運転自体によってだけでなく、最高制限速度の超過によっても惹起されている。最高制限速度を超過していなければ、この自動車は事故現場にいなかったからである。しかし、それにもかかわらず、スピードの出しすぎは、再び規則通りの運転に戻った際の事故の危険を高めるとは言えないから、速度違反に内在する特別な危険が実現したとは言えない(38)。さらに、Bの例では、(他人の誤った運転態度により心臓麻痺で即死したという意味で)心臓麻痺で死亡する危険は、ごく僅かではあるが高められているが、この程度の危険の増加は結果を帰属させるにはあまりに乏しいものであるとされる。交通規則の目的は直接的には、精神的な侵害ではなく、身体的な侵害を防止することにあるが、行為者の義務違反行為によってこのような危険は実現されていないのである(39)

  3.結果が注意規範の保護目的にカバーされない場合の帰属阻却
    ロクシンによれば、許された危険からの超過が、後続の経過に対する危険を、先の2.の場合と異なり、著しく高めているが、それにもかかわらず、結果の帰属を行うことができないような場合も存在するとされる(40)。ここでも、問題領域を把握するために、ロクシンの取り上げる事例をまず紹介する。
  @  二人の自転車乗りが、暗闇の中を無灯火で縦に並んで走行していた。前の自転車乗りは、無灯火であったため前方がよく見えず、対向してきた自転車と衝突し相手の自転車乗りは死亡した。このとき、この事故は後ろの自転車乗りがライトをつけていたら防げるものであった(「二人の自転車乗り事件」;RGSt. 63, 392)。
  A  歯科医師が、ある女性の奥歯を全身麻酔で抜いたところ、この女性は心不全で死亡した。彼女は、少し心臓が悪いとこの医師に告げていたにもかかわらず、この医師は用心のために内科医を呼ぶことを怠った。もっとも、この場合内科医の検診を受けても心臓疾患は発見されなかったことが認められている。しかし、とにかく内科医の検診を受けていれば、これにより抜歯は引き延ばされ、彼女は時間的に後で死亡していただろう(「歯科医師事件」;BGHSt. 21, 59 のロクシンによる変形(41))。

    @の事例では、ライトをつけていれば事故を防げたことからも分かるように、後ろの自転車乗りによる交通規則に違反した無灯火の自転車の運転が、事故の危険を著しく高めているであろうし、Aの事例では、内科医を呼ばないことで抜歯の施術による危険が時間的に早められており、かつこれらは行為者にとっては初めから認識可能であるが、それにもかかわらず、結果を帰属することはナンセンスであるとされる。ここでの問題解決を、ロクシンは注意規範の保護目的に求めている。@では、暗闇の中での自転車の走行時にはライトをつけるという規則の目的は、直接に自分の自転車から生じる事故の回避にあり、他人の自転車を照らすことで、第三者との衝突を防止することにあるのではない。同様に、Aでは、内科医を呼ぶ義務は、施術を遅らせ、それにより患者の生命を僅かな時間引き延ばすという目的のためのものではない(42)。それゆえいずれの場合も、逸脱された注意命令が防止しようとしている危険は実現されていないと言える(43)。ロクシンは、この場合も、危険実現が欠如することで結果の帰属阻却を説明するのである。そしてこれらの場合には、過失犯の未遂処罰規定がないので行為者は不可罰とされる。

  4.ま  と  め
  以上見てきたような2.及び3.で取り上げた許されない危険の実現と、1.の相当因果関係説でも問題とされる因果経過の相当性ないしは予見可能性のみにかかっている事実問題としての一般的な危険実現とは異なったものであるとされる(44)。後者とは異なり前者の場合とは、行為者によって創出された許されない危険と発生結果が相当な関係にある、あるいは予見可能である場合でも、このような結果の防止が保護目的ではなく、それゆえ、まさに許されない危険が結果に実現したとは言えないので発生結果の帰属が阻却される場合なのである。
  このように、ロクシンの客観的帰属論は、危険実現の判断に際して許された危険の実現をその理論に取り入れることで、危険実現について相当説では行うことのできない帰属阻却の基準を理論的に説明している。この点で、客観的帰属論は相当因果関係説を越えた帰属判断を行っているものと言え、まさにここに、相当因果関係説では結果の帰属の阻却を説明し得ず、むしろ客観的帰属論によりはじめて把握される独自の問題領域が存在するのである。そしてこれは、行為者が違反した注意規定と具体的に発生した結果との間のつながりという、規範的な帰属連関が問題となる領域であって、注意規範に違反することで発生結果についての負責を認める目的的行為論からこれを把握することもできないであろう。それゆえ、この問題領域では、客観的帰属論は目的的行為論に対しても、その独自性を発揮している。

四、構成要件の射程
    ロクシンによると、通常は、以上検討したような許されない危険の実現が認められれば、それで結果の客観的帰属にとっては十分であるが、それにもかかわらず、事案によっては、発生結果について、そのような結果発生の防止を刑法上の構成要件規範が規定していない場合、すなわち発生結果が構成要件の射程範囲にない場合がなお存在し、そのような場合には行為者の態度に発生結果を客観的に帰属することはできないとされる(45)。そしてこのような問題は、とりわけ過失犯で生じるが、場合によっては故意犯でも問題となることがあり、ロクシンによると、以下の三つの帰属類型においてそうであるとされる。すなわち、故意による「自己危殆化への共働」、「合意による他者危殆化」、および「他人の答責領域への帰属」である(46)
  ここで、「自己危殆化への共働」として問題とされるのは、被害者が積極的に自己を危険にさらすような態度をとる際に、被害者自身のそのような態度を誘発するか、あるいは、これに共働する場合である(47)。「合意による他者危殆化」では、直接被害者の法益を危殆化する行為を行うのは行為者であるが、その際、被害者自身も自己の法益が危険にさらされることを知りながら、積極的に行為者の危殆化行為を受け入れている点に特徴がある(48)。最後に、「他人の答責領域への帰属」が問題になるのは、発生結果の防止が行為者ではなく、第三者の答責領域にあると言える場合である(49)。これらの場合にはいずれも発生結果は、前二者については被害者に、最後の類型については第三者に帰属されるので、行為者には帰属されないというのである。
  前章で、目的的行為論を限界に直面させた問題として取り上げた「自己答責的な被害者の態度に対する関与」の問題として、ここでは「自己危殆化への共働」および「合意による他者危殆化」の解決が目指されている。それゆえ、ここではこの両者を中心にロクシンによる解決を見ていくことにする。

    まず、被害者が積極的に自己の法益を危険にさらす態度をとる「自己危殆化への共働」についてであるが、彼によるとここでは、故意による自殺ないしは自己侵害の共犯はドイツ法では不処罰とされることが重要であるとされる。そして、自己侵害というより重い態様の態度に対する共犯が不処罰であることを前提とするなら、それより軽い態様である故意による自己危殆化への共働も当然に不可罰であり、構成要件の射程はこのような結果をフォローしてはいないと言う(50)
  しかしながら、従来の判例は、自殺に対する故意の共犯が不処罰なので、過失による他人の自殺への共働も不可罰であるとしながら、この理を、自殺よりも軽い態様である自己危殆化への共働には適用してこなかったと指摘する(51)
  これに対し、自己使用の目的で、行為者、被害者双方とも生命に対する危険性を承知の上で、被害者にヘロインを手渡し、被害者がそれを使用した結果、死亡したという「ヘロイン注射事件」(BGHSt. 32, 262)では、BGHは従来の判例を変更したと評価されている(52)。すなわち本判決は、自己答責的に意欲され、実現された自己危殆化は、危殆化によって意識的に生じた危険自身が現実化する場合には、傷害または殺人の構成要件にはあたらず、そのような自己危殆化を誘発し、可能にし、または促進するにすぎない者は傷害または殺人では可罰的とはならないと判示したのである(53)。「自己危殆化への共働」を原則的に不処罰とすべきであるとするロクシンが、このような判例変更を歓迎しているのはもちろんのことである(54)
  ここでは、被害者の自己危殆化に共働する者の不可罰は、被害者の自身の態度がそもそも発生結果について構成要件に該当しないことから引き出されているが、これはまさに自己を直接危険にさらす被害者を正犯的なものと捉えた上で、そのような不処罰の正犯行為に関与する者を当然に不可罰とするという意味では、共犯の従属性思考を前提したものと評価できるであろう。しかし、この前提が故意による共働ばかりでなく、過失による共働についても妥当するとするロクシンの主張は、彼が前提とする過失犯の正犯概念と果たして適合するのであろうか。この点については後に見ることにする。

    被害者が自己の法益を侵害する危険のある行為を直接行う「自己危殆化への関与」とは異なり、「合意による他者危殆化」の場合には、行為者が被害者の法益の危険にさらす行為を行い、それが具体的に結果に実現しているので、原則的には結果は行為者に帰属されることになる。しかし、いわゆる「メーメル河事件(55)」の場合や自動車の運転に際して同乗者が運転者にスピード違反を強要した結果、事故を起こし同乗者が死亡する場合などでは、必ずしもこのような原則のとおりにはいかないとされる。なぜなら、被害者が、結果発生は望んでいないにしても、自己の法益に対する危険を十分に認識しながら、それでもなお行為者にそのような危殆化行為を要求する場合、たしかに結果を直接惹起したのは行為者であるが、事象全体を支配していたのは被害者であるので、結果発生についてはむしろ被害者の責任とし、行為者を負責から解放すべきではないかが問題となるからである。
  この場合、被害者は通常、結果の不発生を信頼しており、そのため結果に対する同意はほとんど認められないので、通説・判例が行ってきたような被害者の同意による負責からの解放ではうまくいかず、とりわけ被害者が死亡する場合には、生命侵害についての同意は刑法二一六条により認められていないのだから、なおのことそうであるとロクシンは言う(56)。また、「メーメル河事件」でライヒ裁判所が行ったような注意義務の否定も、一般的には許された危険を超過する危険を創出する行為者の態度にすでに注意義務違反が見られる(すなわち、危険な渡河を決行すること自体、渡し守としての注意義務に違反する)ので、説得的でないとして退ける(57)
  その上でロクシンは、発生結果を把握すべき構成要件が合意による他者危殆化をその射程範囲としているかを問うのが正しいとし、そのような合意による他者危殆化が「自己危殆化の場合と同置できる」場合には、この問いは否定され、結果は行為者に帰属されないと結論付ける(58)。そして、それは以下の二つの要件の下で認められるとされる。すなわち損害が、生じたリスクの結果であって、それ以外の他の結果によるものでなく、また危殆化される者が、共同して行われる行為について危殆化する者と同程度の責任を有することが必要とされる(59)。また、このような解決は、「メーメル河事件」のように行為者が過失であるばかりでなく、「エイズ感染事件(60)」のような、行為者が(未必的にであれ)故意により行為する場合にも有用であるとされる(61)
  もっとも、合意による他者危殆化という類型に独自の意義を認めるかということについては争いがあり、シューネマンやオットーなどは一定の場合に、合意による他者危殆化を自己危殆化と同置しようとする(62)。たしかに、問題は被害者の法益を危殆化する行為を直接に行うのは行為者であるのか、被害者であるのかという因果的な視点ではなく、行為者を負責から解放するには、被害者がどの程度自己答責的な態度をとっている必要があるかという価値的、規範的視点であるという意味では、自己危殆化と他者危殆化の区別は重要でなく、むしろ被害者が自己答責的な態度をとっていると言える場合には、自己答責的な自己危殆化と評価すべきであるという主張も傾聴に値する。また、両者の区別の難しい場合も実際には生じうるであろう。しかし人間の態度とは、結果が誰の手によるものであるかということを無視してよいほどにまで相対的に理解できるものなのであろうか。むしろ、直接的に法益を侵害する態度をとったのは誰かという因果的視点は、規範的な結果の帰属判断においても、なお考慮せざるを得ないように思われる。それゆえ、筆者の私見としては、ロクシンと同様、なお自己危殆化と他者危殆化の区別を問題とした上で、他者危殆化については被害者のとった態度が自己答責的なものであったか否かが問われるべきであると考える(63)。もっとも、その個別の要件についてはなお検討を要するであろう。
  いずれにせよ、このような「自己危殆化との同置のテーゼ」による合意による他者危殆化の問題の解決は、直接に被害者の法益を侵害する行為を行う者を、「被害者の(構成要件に該当しない)自己答責的な態度への関与」であるという理由で、不処罰にする構成と評価できる。しかしその場合、先に自己危殆化への共働のところで指摘したように、特に行為者が過失で行為する場合には、ロクシンが前提とする過失犯の正犯概念との関係が問われなければならないように思われる。また、直接結果発生をもたらす行為を行う者を、自己危殆化の場合における危殆化行為の「関与者」と同置されるというのなら因果的に規定された正犯原理についても、修正が必要であろう。

    最後に、「他人の答責領域への帰属」について簡単に言及しておく。これは例えば、いわゆる「テールランプ事件」(BGHSt. 4, 360)で問題となった。事案は、暗闇でテールランプをつけずに走行していたトラックが、警察官に停車を命じられ、その際警官はトラックの後ろに非常灯を置き、安全措置としてトラックを近くのガソリンスタンドまで移動させるよう指示した。しかし、トラックが発車しないうちに警官が非常灯を除去したため、後続の自動車がトラックに衝突し自動車の運転手が死亡したというものである。
  この事案で、BGHはトラックの運転手を過失致死であるとしたが、ロクシンは、生活上の危険として警察官がミスを犯すことまで考慮に入れなければならないとするなら、市民は警察の行動すらも監視しなければならないとして、この結論に反対する。そして、交通上の安全の保証を警察官が引き受けた以上、それ以後の事象の成り行きは警察官の答責領域にあるので、行為者にはもはや帰属され得ないとする(64)
  このようにロクシンの客観的帰属論では、行為者の注意義務に違反する行為の危険が、予見可能な結果に現実化したとしても、その防止が他人の答責領域にある場合には、もはや結果は行為者には帰属されないというのである。例えば過失による身体傷害の被害者が、病院で流感に患るような場合には、彼の見解からは、流感の羅患について病院側に責任がない場合には、傷害を与えた行為者の態度の危険が実現しているとされる。逆に病院側の責任である場合には、死亡結果は行為者には帰属されず、行為者は過失傷害の限度で罪責を負うことになる。

五、遡及禁止の問題について
    ロクシンは、従来から議論されてきた遡及禁止の問題についても、客観的帰属論の問題として解決を試みている(65)。その際、独立の帰属(阻却)原理として遡及禁止論というテーゼを定立する必要はなく、通常の結果帰属の問題の一つして一般帰属論の見地から解決を図ることができると言う(66)。ここでは、これまで見てきたような危険の創出とその実現及び構成要件の射程という彼の客観的帰属論の帰属原理を前提にする場合には、以下の二点が帰結されると言う。
  まず第一は、「故意の自殺、自傷及び自己危殆化に対する過失の共働は、刑法二二二条、二三〇条の保護目的に把握されないため、客観的構成要件に帰属することができない(67)」という、先に見た構成要件の射程に関する理論からの帰結である。第二に、さらに重要な帰結とされるのは、「故意の犯罪行為の非故意による惹起の場合はたいてい一般帰属論の原理によっても、許された危険の観点から、客観的構成要件に帰属することはできないという洞察」である(68)。ここでの許された危険の下位規則は、「何人も、特別な徴表がない場合には、他の交通関与者の(故意または過失の)交通違反を考慮に入れる必要はない」という道路交通において一般的に承認されている信頼の原則である。しかし、この下位規則は道路交通に限らず、通常の社会生活においても、「何人も、他人はいかなる故意の犯罪行為を行うこともないということを、通常は信頼することができる」という形で転用することができるとロクシンは言う(69)。このように、ロクシンは、他人の完全に自己答責的な態度に対する関与は不可罰であるという構成要件の射程による帰属阻却原理と、信頼の原則を補助基準とする許された危険の帰属阻却原理を用いて、遡及禁止問題も彼の客観的帰属論の内部で解決を図ろうとする。
  ここで第一に適用されるのは、許された危険の下位規則としての信頼の原則である。その際、「道路交通における信頼の原則に対応して、許された危険の限界は、故意の犯罪行為実行の具体的な手がかりが存在する場合で画される(70)」ので、第三者が故意の犯罪行為を行うという徴表を有する場合にのみ、その者の事後の態度を信頼することは許されず、発生結果に対して過失犯として可罰的となる。

    問題は、どのような徴表がある場合に、もはや他人が犯罪行為を行わないことを信頼することが許されなくなるかという、具体的なメルクマールである。ロクシンによると、これまで学説においては認識可能な犯罪決意の促進(シュトラーテンベルト(71))や行為者の態度の客観的意味が専ら犯罪実行の援助だけにある場合(後にみるようなヤコブス(72)の見解)というようなメルクマールが提示されてきたが、前者は、犯罪決意が認識可能な場合の共働はもはや故意の共犯として可罰的となり、過失犯として許された危険が適用できる領域がなくなる点で妥当ではなく(73)、後者は、客観的な意味が犯罪促進にのみある行為は、問題とされる行為は日常的な行為であることの多い遡及禁止事例では、ほとんど存在せず、不可罰の領域が広すぎて、問題解決を不可能にしてしまう(74)ので、これらは採用できないとされる。
  したがって、これらの難点を回避し限界を明確にするには、可罰性の範囲が両極端にある両者の間で解決の基準を見つけねばならないとされる(75)。ここでロクシンが提示する基準は、「認識可能な犯罪行為への傾向(die erkennbare Tatgeneigtheit(76))」という基準である。ロクシンによるとこの基準は、犯罪行為への傾向に着目することにより、第一行為が、(ヤコブス説のように)それ自身からではなく、潜在的な犯罪行為者の志向という認識可能な背景から、許容できないほど危険であると解釈できるということを考慮しつつ、他方で、確固たる犯罪決意の基準が狭きに失し、またこれを規定することが不可能であるという難点を考慮に入れたものである(77)

    この基準をもとにして、ロクシンは本稿でも見た「愛人毒殺事件」をはじめとするいくつかの判例上問題となった事案(78)については、判例の結論と同様、関与者について過失犯の成立を肯定している。しかし、第一章で取り扱った「屋根裏部屋火災事件」については、倉庫の火災が偶発的、あるいは第三者の不注意による場合には、火災の危険のある住居に人を住まわせることは、許されない危険の増加とその実現を意味するという理由で、判例の結論と同様、被告人である工場経営者の過失致死罪の成立を肯定するのに対し、倉庫の火災が故意の放火によるものである場合には、判例の結論に反して、これを否定している(79)
  その理由として、通常人は決して、建築警察上の許可を受けていない(また許可が下りそうにもない)建物であって、火災の危険が高いからというだけで放火を行うことはない(言い換えれば、許可の有無などに関係なく放火魔は放火を行う)ので、無許可の住居に人を住まわせるという被告人によって特別に創出された危険が実現してはいないことをロクシンは援用する。この理は、「例えば、意識を失っている事故の被害者の故意による殺害について、意識を失っている者は、抵抗の用意のある人間よりも容易に殺害することができるという理由だけで、過失致死の責任を問うとは誰も考えない」ことからも推論することができる。結論として、ロクシンは「(故意の・筆者注)放火の場合には、いかなる犯罪行為への傾向も認識不可能という理由で過失の帰属は問題にならない」とする(80)
  さらに同じ説明が、故意の犯罪行為に利用されることもある危険物の不用意な放置という頻繁に議論される事例についても妥当すると彼は言う。すなわち例えば、「自殺を考えて、毒薬やピストルをナイトテーブルの引き出しに施錠せずにしまっておいた者は、これによって発生した事故については事情によっては答責的であるが、何者かが行った故意の殺人についてはそうではない」し、「飲食店で自分の武器を放置していた警官や猟師も、他人がこれを用いて行った故意の犯罪行為については、犯罪行為への傾向が認識可能な場合にのみ過失犯として責任を負う」ことになる。もっともこの場合、保管命令や譲渡の禁止が、これに誘発される故意の犯罪行為についての過失責任に直接結びつくわけではない(81)
  このように、ロクシンは、行為時の具体的な状況における犯罪行為への傾向が認識可能である場合に限っては、故意犯の介在にもかかわらず、第一行為者(非故意の関与者)に過失犯としての答責性を認めるのである。

    しかし、このような関与者の予見可能性を機軸とするロクシンの見解とは異なり、関与者の態度の社会的な性格を問題として、関与者の態度が「日常取引(82)」の範囲にあると評価できる場合には発生結果の関与者への帰属を阻却するという見解が支持者を増やしている(83)。この見解は第三節で見るようにヤコブスに代表されるものである。例えば、「パン屋は、パンを売る際に、顧客がこの製品(パン・筆者注)に毒を仕込み、これを彼の招待客に出すであろうということを知っていた場合でも、故殺の共犯の責任を負われない(84)」とし、その根拠をパンの製造、販売という取引の日常性に求めるのである。さらに最近では、このような見方は、一部の論者による主張にとどまらず、「日常取引による幇助」ないしは「中性的態度による幇助」の問題として、共犯論の重要問題の一つに数えられるに至っている(85)
  しかしながら、ロクシンは、通常の日常取引という基準は、認識可能な犯罪的傾向の基準を用いる場合には、問題にならないと言う(86)。すなわち、行為者の行為が許された危険の枠内に留まるなら、相手方の犯罪的傾向が認識可能でない限り、これとつながる他人の犯罪行為から発生した結果は帰属されないという彼のテーゼを用いることで、日常取引には通常結果は帰属されないという結論を導けるので、ことさら日常取引という行為の性格を手がかりに帰属判断を行う必要はないというのである。両説の結論の差は、例えば刀剣商の店先で喧嘩が行われているときに、これに加われることが明白な者にナイフを販売するような場合に現れる。これ以外にも、ロクシンの挙げるギロチンを譲り渡す行為も問題にされるであろう。
  このような、日常取引に帰属阻却基準を求める見解は、ナイフの販売という取引の日常性に着目して、買い手の事後の行為から生じる結果はこの刀剣商に帰属されないとするのに対して、ロクシンの見解では、この場合は、犯罪的傾向は認識可能といえるので、事後に生じる結果は刀剣商にも帰属されることになる。ただし、このような犯罪的傾向が顕著である場合以外は、いずれにせよ、日常的な取引には事後の故意の犯罪行為から生じた結果は帰属されないことは言うまでもない。

    ところで、この遡及禁止の問題は、相当因果関係説の判断基準に従うなら、「行為後の第三者の行為の介入」の場合に相当する(87)。遡及禁止の問題で取り扱われる行為の多くは、事後に犯罪行為に利用される傾向が強く、行為者もこのことを心得ている場合が多いことから、行為の結果発生の相当性および事後の因果経過の予見可能性の基準からは、相当性が肯定されやすい事案といえる(もっとも、事後の経過が予見不可能であるならばロクシンの見解からも、帰属が阻却されることは言うまでもない。その意味で客観的帰属論を事後の経過の予見可能性を考慮しない見解と理解するのは失当であろう。)。それにもかかわらず、これらの行為が日常的に(特に、商売などで)行われることが多いことに鑑みると、ドイツにおいて多くの論者が主張するように、通常は、結果の帰属を否定すべきであると考えられる。しかしその場合、結果の帰属を阻却する原理を提示できないのならば、この問題については、相当説では解決を図ることは困難なのではなかろうか。


六、ロクシン流客観的帰属論の限界
    以上見てきたように、ロクシンによる客観的帰属論は、「許されない危険の実現」、「構成要件の射程」という、相当因果関係説や目的的行為論を基礎とした従来の解釈論の範疇には収め得ない結果の帰属基準を用いて、「過失犯における義務違反と結果の関係の問題」や「被害者の自己答責性の問題」、さらに最近再び注目を集めている「遡及禁止の問題」など、従来の解釈論が困難に直面してきた諸問題の解決を試みるものであった。そしてそのために、この客観的帰属論は、ホーニッヒに倣って「結果犯について因果のドグマから完全に解放された一般的な帰属論(88)」を展開し、その体系化を図ったのである。

    このように、客観的帰属論は実践的な問題解決を目指して展開され、なおかつその帰属基準の体系化にも一定程度成功していると評価してよいように思われるが、その解決に対してはいくつかの矛盾点が指摘されている。
  それは主として、ロクシンによる客観的帰属論が前提としてきた過失犯における拡張的正犯概念ないしは統一的正犯概念に対するものである(ここでは、統一的正犯概念という呼称を用いることにする)。すなわち、ロクシンによる客観的帰属論は、その問題解決のありかたからしてすでに、過失犯では注意義務に違反する態度により結果を惹起し、なおかつ行為者の態度により創出された危険が具体的な発生結果に実現している場合には、行為者はすべて過失正犯であるという、過失犯における統一的正犯概念の前提を逸脱しているというのである。

    そのような矛盾は、具体的には「被害者の自己答責性」の問題の解決について現れる。これについては、自殺に対する過失の幇助の問題に関して、すでに本稿のはしがきおよび第二章第三節で触れたが(89)、以下では、レンツィコフスキーのロクシンに対する批判を確認しておく。
  まずロクシンが、自殺ないしは自傷に対する過失の共働はドイツ刑法二二二条、二三〇条の構成要件の射程に含まれないとすることに対して、レンツィコフスキーは「このような論証は循環している」と言う(90)
  ロクシンが前提とするように、注意義務に違反する態度による法益侵害がすでに過失正犯を根拠付けるなら、注意義務に違反する態度によって自殺を惹起する者も、過失により自殺者(他人)の死をもたらしており、それゆえ二二二条の構成要件を充足しているのであって、二二二条がその保護目的上このような場合を把握しないことは、この規定から読み取ることができない(91)。過失により他人の死を惹起することを禁じる過失致死(傷害については過失致傷)の構成要件が、自殺による死(あるいは自傷)だけをその射程から除外している理由は、この規定の文言そのものには存在しない。むしろ、他人により自己答責的になされた自殺に過失で共働する者の態度を、過失致死(過失致傷)の構成要件が把握しないと言うのなら、そこには「注意義務に違反する態度による他人の死の惹起」以外の原理が働いているはずであり、それはレンツィコフスキーによれば、「故意犯の関与体系の過失犯への転用」であり、他人の自殺による死亡結果について関与者に負責することを禁じる「遡及禁止」である(92)。しかしこれにより、すでに過失犯における統一的正犯概念に反して、過失犯においても正犯と共犯の区別を前提とすることになる。すなわちロクシンのような解決を目指す限り、過失犯において統一的正犯の前提を維持することはできないのである。
  さらに、いわゆる自己危殆化に対する関与について、自己答責的な自己危殆化に対する関与は、刑法二二二条、二三〇条の構成要件の射程範囲にないとすることで関与者の不処罰を説明する場合にも、同様のことが言えるとされる(93)

    いずれにせよ、被害者が自己答責的に行う自損的行為に過失で関与する者を、過失による他人の死ないしは傷害を禁じる過失致死ないしは過失致傷の構成要件の射程範囲にはないという理論構成のために、他人の自己答責的行為に対する共働であることを援用するのは、すでに過失犯における統一的正犯概念の前提を逸脱している。それゆえ、「被害者の自己答責性の問題」について、客観的帰属論の立場から解決を目指す場合でも、過失犯において統一的正犯概念を維持することは困難と言える。その点ではロクシンによる客観的帰属論は、本稿第二章でも触れたように、目的的行為論と同様の限界を有しているのである。

    このような状況を踏まえて、最近のドイツの学説では、過失犯においても限縮的正犯概念を前提に正犯的態度と共犯的態度を区別する見解が有力化している。もっとも、ここで言われる過失犯の正犯原理、換言すれば、背後者に正犯としての負責を禁じる遡及禁止原理を何に求めるか、また共犯的な態度にとどまる者の処罰根拠を何に求めるかについては、各論者の間で必ずしも一致を見ているわけではないように思われる。そこで次節以下では、このような遡及禁止原理および共犯の処罰根拠論に着目して、客観的帰属論に関する最近の展開を概観することにする。

第二節  過失犯における限縮的正犯論(一) −最終惹起者を基準とする見解

一、は じ め に
    自己答責的な自殺ばかりでなく自己危殆化への関与をも不可罰とする、一九八〇年代中頃のBGHの判例変更は、自己答責的に行為する被害者の態度に過失で関与する者を不処罰とする理由付けをどのように行うかという、いわゆる「被害者の自己答責性」の問題を学説に対して提示した。一九八〇年代後半の客観的帰属論の展開は、専らこの問題の解決に奉仕するものであったと言ってよいように思われる。しかし、そこでのロクシンらの通説的な客観的帰属論による解決は、前節の終わりで見たように、自らが前提とする過失犯の統一的な正犯概念を逸脱していることについて、厳しい批判を受けた。

    さらに、過失犯において統一的な正犯概念を前提とする客観的帰属論は、一九九〇年の「革スプレー事件」(BGHSt. 37, 106)のBGH判決における過失犯の因果関係の理解をめぐって困難に直面することになる。本件の事案は複雑なものであるがこの問題に絞って単純化すると、人体に有害な成分を含んでいるとされる皮革用スプレーを、そのスプレーを使用したことに起因すると見られるこの製品の使用者の肺水腫などの身体傷害がすでに何件も報告されていたにもかかわらず、取締役会において当該皮革スプレーを回収せず、警告指示を出した上で製品の製造、販売を続ける旨決議し、製造、販売を継続したところさらにこのような被害が増大した、というようになろう(94)
  本判決では、BGHは七つの論点について判示しているが(95)、ここで問題としている過失犯の因果関係については、製品不回収決議以前に発生した身体傷害に関して、被告人である製造会社の取締役が製品使用者の身体傷害の危険を認識していたとは言えないこの時点での結果について、取締役会決議における各取締役の態度が問題とされている。ここでは、それぞれの取締役が製品の人体に対する危険を適切に認識して、自らの判断で製品の回収を決断し、議決に際して製品不回収提案に反対票を投じたとしても、他の取締役がこれに賛成すればそれは実現しない、つまり製品回収に向けた行動を起こすという意味で義務に適合した態度をとっていたとしても同様の結果が発生していたと言える状況にある。すなわち、各取締役の(製品を回収しないという意味での)当該不作為は、義務適合的な態度を付け加えて考えても同様の結果が発生するという意味で、結果に対する因果関係を欠くと言い得るのである。
  これについてBGHは、取締役会後の製品不回収から生じた傷害に関する故意の危険傷害罪においては、不作為による共同正犯を認め、各取締役の共同による作為義務違反と発生結果との間の因果関係を肯定した(96)。これに対して、取締役会決議以前に生じた傷害についての過失傷害罪に関してはBGHは、因果関係の存否は、「刑法上重要な結果が複数の行為者の態度の寄与が競合することからのみ生じるような事案形態の評価について一般的に妥当する原則から導き出される(97)」とした。ここでは、通常作為犯において妥当する「重畳的因果関係」に関するルールが不作為犯についても同様に妥当するというのである(98)。それゆえ、各取締役の義務適合的態度のすべてを一括して付け加えて考えれば、結果が発生しなかったという関係が認められる限り、不回収の決議に賛成したすべての取締役の態度について、結果に対する因果関係が認められ、そうでなければ、「ー共同正犯的な不作為は別にしてー複数の取締役を擁する有限会社では、各人は同種の、同様に義務に違反する他人の不活動を指摘するだけで免責されてしまう」とBGHは強調する(99)
  しかし、BGHの見解のように各取締役が共犯関係にあることを認定せず、すなわち各取締役がそれぞれ単独犯であることを前提とするなら、不作為の因果関係の存否の判断においては、それぞれの義務に違反する態度について、それぞれ義務適合的な態度を付け加えて考えるべきであり、義務適合な態度を一括して付け加えることは許されないはずである。むしろ、すべての関与者の態度について一括してその因果関係の存否を判断する場合には、当然すべての関与者が(共同正犯も含めた意味で)共犯関係にあることが前提になる。オットーは過失犯における正犯と共犯の問題に関する論文(100)の中で、「BGHはむしろ、すべての関与者の態度を一体として評価しているから、個々の関与者に義務に違反する他の関与者の態度の援用を認めない。そのため、義務に違反する他人の態度の指摘による答責性からの解放の可能性は、関与者にはありえないものとなる。つまり彼らは共同正犯となる(101)。」と述べてBGHの前提と理由付けの矛盾を批判している。
  それゆえ、ここで、この問題に関するBGHの結論を正当なものとして承認するなら、まず因果関係の問題をクリアしなければならず、そのための試みを適切に根拠付けるためには、BGHが故意の不作為犯について認めたのと同様、過失犯においても共同正犯を認める必要があるように思われる。しかし、通説的な客観的帰属論のように、過失犯において統一的正犯概念を前提として、過失犯においては原則として総則共犯規定の適用はなく、すべての関与者は単独正犯であると解するなら、そのような過失共同正犯の構成は不可能であり、ここでBGHが直面するのと同様の問題に直面するであろう。さらにレンツィコフスキーはBGHの見解に対して、取締役会の製品不回収決議という全く単一の態度について、故意の場合に共同正犯の形式によってはじめて負責は根拠付けられるのに、過失の場合には単独犯という別の形式で負責を根拠付けることが可能であるのはどうしてなのか分からないとしている(102)。彼のこの指摘は、態度の客観的な態様が同一であれば、故意犯で妥当する帰属形式は過失犯においてもそのまま妥当する、すなわち過失犯においても故意犯と同様の正犯概念が妥当すべきはずであることを示唆する点で傾聴に対する。

    このように、一九九〇年代における客観的帰属論は、過失犯における正犯概念を中心に展開されている。過失犯の正犯概念については、戦後のドイツでも以前から論じられてきたところであるが、現在のように客観的帰属論が隆盛を極めている状況の中で、特に過失犯の正犯概念について自覚的に論じられるようになった背景には以上のような問題意識があるように思われる。そしてそこでは、過失犯において統一的な正犯概念を前提とする通説的な客観的帰属論よりも、むしろ過失犯における限縮的正犯概念を前提とする客観的帰属論が台頭してきている。この見解は、先に見たように、通説的な客観的帰属論の前提と結論の矛盾を批判し、問題を矛盾なく解決するためには、過失犯でも正犯と共犯を区別すべきであると主張する。また、過失共同正犯についても、この見解は、限縮的正犯概念を前提に、共同正犯規定を含む総則共犯規定を過失犯に適用することでこれを肯定している。そして、先に見たように、ここでも通説の不都合について厳しく批判するのである。

    過失犯においても正犯と共犯の区別が必要であり、なおかつそれが可能であることは、一九九〇年代に入り、まずオットーによって主張された(103)。さらに、最近ではレンツィコフスキーが、『限縮的正犯概念と過失の関与』という浩瀚なモノグラフィーで過失犯における限縮的正犯論を展開している。また、主たる問題関心は若干異なるかもしれないが、ルシュカも自由かつ意識的に行為する者の犯行を教唆する者は共犯であるという遡及禁止論を前提に、過失による教唆者を不可罰の過失共犯であると主張している(104)
  これらの論者の限縮的正犯論に共通するのは、意識的かつ自己答責的な行為者の背後には、いかなる形でも正犯は存在し得ないという遡及禁止論である。そして、発生結果に対する正犯としての負責が禁じられる背後者には、共犯としての負責しかありえないとし、過失による共犯が現行法上不処罰であることから、少なくとも故意正犯に過失で関与する者は不可罰であるという結論を導く。さらに、「被害者の自己答責性」については、関与者は、構成要件に該当しない自損的行為に対する共犯として、同様に不可罰の結論を導くのである。過失共同正犯については、先に述べたとおりである(もっとも、ルシュカは過失共同正犯については検討していない)。
    以下では、過失犯における限縮的正犯論として、まずオットーの見解を見た上で、レンツィコフスキーの見解を中心に概観する。

二、オットーの見解
    オットーは、過失犯においては拡張的正犯概念ないしは統一的正犯概念が妥当するという通説の見解を、故意犯では当然の前提とされている行為者の関与の態様による区別を過失犯では否認するものであり、特に過失犯に対する過失の関与では可罰性は際限なく拡大され、それは通説が言うような注意義務の内容では限定できないと批判し(105)、過失犯における正犯と共犯の区別を試みる。
  もっとも、そこでは彼は、過失犯では正犯だけが処罰の対象となるのだから、教唆、幇助という異なる関与形式すべてを区別し切ることは意味がなく、正犯となる態度と不可罰の共犯的態度を区別することが重要であると言う(106)。その上で、可罰的な過失正犯の基準として、因果関係や結果の予見可能性および回避可能性に加えて、規範的な関係として「因果経過の制御(操縦)可能性」を要求する。すなわち、正犯者は「自己の制御可能性下にある事象について答責的なのである(107)」。
  オットーによると、制御可能性の対象は、結果に至るまでのすべての事象の経過ではなく、法益侵害に実現し得る危険の創出ないしは増加であるとされる。すなわち、「ある人が危険を創出し、あるいは増加させ、それが結果に実現した場合、結果はその人のしわざとしてその人に帰属される」のだと彼は言う。

    しかしこれだけでは、前節で見たようなロクシンによる客観的帰属論と大差ない。彼はさらに、制御主体の決定基準として、「各人は原則的に自らの態度についてのみ答責的なのであって、他人の態度についてはそうでない」という自己答責性の原理に着目する(108)。すなわち、自己の答責領域下にある法益侵害危険の創出とその構成要件該当結果への現実化が、その者の過失犯の正犯性を根拠付けるというのである。
  このような答責領域の区別という考え方は、かつての遡及禁止論と同様、答責原理に依拠するものであるが、この原理はかつての遡及禁止論よりも柔軟な形で具体化される(109)。すなわち、かつてフランクが主張したように(110)、他人の故意行為が介在する場合には、第一行為者については、総則共犯規定にあてはまらない限り、例外なく負責からの解放が要求されるというわけではない(111)。むしろ、第二行為者の故意行為の介在による第一行為者の負責からの解放の原則が問題なのではなく、個々人の答責領域は、個々の命令規範および禁止規範の解釈によって明らかになることが重要である(112)。すなわち彼は、他人の故意行為が介在する場合でも、背後者の過失犯としての正犯性は、総則共犯規定を基にした遡及禁止論ではなく、背後者に与えられる具体的な態度規則と実際に背後者のとった態度との関係から決定されるというのである。

    これに対して、最近ではレンツィコフスキーが、直接行為者の自己答責性を直截に援用して遡及禁止論を展開し、過失犯においても限縮的正犯概念が妥当すべきことを論証している。次項では、彼の見解について検討する。

三、レンツィコフスキーの見解
    レンツィコフスキーは、先に取り上げたような、過失犯において統一的正犯論を前提とする通説の客観的帰属論に対する批判を前提に、過失犯においても発生結果について正犯としての負責と共犯としての負責を区別する限縮的正犯論を展開する(113)。ただし彼の主張の眼目は、被害者の自己答責的な自殺や自己危殆化に対する関与者を不処罰の構成要件該当性を欠く自損的行為に対する共犯とする通説によって目指された解決に、より合理的な解決を与えるだけにとどまるものではなく、通説が原則的に可罰的であるとしてきた、故意の正犯に対する過失の関与を、過失共犯の処罰規定を欠くドイツの現行法の下では不可罰であるとすることにもある(114)。さらに、複数の関与者がそれぞれ過失で関与する場合について、彼の構想では、過失正犯に対する過失の関与も実質的には過失による共犯であって、関与者の方に優越的な結果回避力が認められる場合にのみ関与者は過失による間接正犯に把握されるのみであるとされ、また、複数の過失による関与者に、発生結果についての共同答責性が認められる場合には、過失の共同正犯が肯定される(115)
  このように、レンツィコフスキーの構想は、過失による関与の問題に関するロクシンをはじめとする通説の見解とは大きく異なったものとなっている。これは、彼もロクシンと同様、「自己答責性」という思想から出発しながら(116)、ロクシンがこの思想に各則の構成要件の射程範囲の限定という各論的な役割を演じさせたのに対し(117)、彼は、自己答責性をまさに正犯原理とすることで、これに正犯と共犯の区別基準という総論的な役割を付与していることに由来していると言えよう(118)。その意味でレンツィコフスキーの構想は、「自己答責性」という原則をより徹底させたものと評価でき、彼はこれを現行法の共犯体系が前提とする規範理論と人的不法論から根拠づけているが(119)、それは具体的にはいかなるもので、先に見た彼の構想からの結論をいかにして導き出しているのか。以下で見ていくことにする。

    まず彼は、ドイツの現行法が前提としている共犯体系の位置付けについて、関与者をすべて正犯とする統一的正犯論および関与者は原則的に正犯であるが総則の共犯規定にあてはまる場合にのみ可罰性限定事由として共犯となるとする拡張的正犯概念を退け(120)、限縮的正犯概念を現行法の共犯体系の基礎に位置付ける(121)。もっとも、限縮的正犯概念をとるからといって現行法の共犯体系が自動的に理解できるわけではなく、さらに正犯と共犯の実質的な区別基準の問題がなお残されていると言う(122)
  正犯と共犯の区別基準について、彼は、これまで主張されてきた見解を検討した上で、主観説(123)、全体的考察(124)、および社会的役割による区別(125)を説得的でないとして退け、行為支配論の再構成こそが試みられるべきだとする。さらにここでは、法益侵害に至るまでの因果的過程の中で、無限の負責の遡及について調整を図るという意味で(126)、遡及禁止論の視点から正犯としての負責の遡及を禁じるべき基準が展開されなければならないとされる(127)
  ここでは、自己答責性が重要な役割を果たす。すなわち、各人は自由と自己答責性を付与された一個の人格として、自己の支配領域の中で自らが行ったことによるものについてのみ責任を負うのである(128)。このような自律性原理から言えることは、法益侵害ないしは危殆化は、無限に遡り得る原因連鎖の中から、最終的に自己答責的に行動した部分として現れた者だけに、発生結果をその仕業として帰属できるということである(129)。それゆえ、最終惹起者の自己答責性こそが発生結果についての正犯としての負責を根拠付けるので、このような自己答責性を欠く背後者には、実行者の犯行による結果は帰属され得ない。つまり、実行者の自己答責性は、発生結果について背後者に正犯としての帰属を禁じる遡及禁止を根拠づけるのである(130)
  さらに彼は、このような自律性原理に基づく人的不法論によれば、各関与者はそれぞれ別の内容の態度規範を侵害していることが言えるが、法益侵害の惹起を禁じる禁止規範を侵害するのは、自己答責的な正犯者のみであるとする(131)。これに対し、教唆、幇助については、他人が自己または第三者の法益を侵害し得るような状況を設定することで正犯者による法益侵害の危険を高めることにその態度の本質があると理解し(132)、そのような間接的な法益侵害の危殆化禁止が、教唆、幇助の態度規範の内容であるとする(133)。それゆえ、直接に法益侵害行為を行う正犯者とは異なる内容を有する禁止規範に違反する者には、共犯として、正犯者とは異なった形での負責しか根拠付け得ない。すなわち、このような関与者に対しては、法益侵害結果についてではなく、他人がそのような法益侵害行為を行い得るような状況を設定したことについて、負責されるのである。この場合、現行法が前提としている共犯の従属性の根拠付けが問題となるが、彼はこれについては、態度規範と制裁規範の区別に依拠して、正犯と共犯は異なる態度規範を侵害している点では互いに独立しているが、ドイツ刑法二六条、二七条が共犯の成立には故意かつ違法な正犯行為を要するとしていることに鑑み、危殆化禁止としての共犯の態度規範違反に対して共犯としての制裁を加えるには、故意かつ違法な正犯行為が実行されたことを要するとして、共犯の従属性を制裁規範発動の前提と解している(134)

    以上見てきたように、レンツィコフスキーは、正犯と共犯の区別を各関与者が侵害する態度規範の内容の差異に応じて区別するが、これは故意犯ばかりでなく、過失犯においても同様であるとする。
  従来から判例は、古典的な遡及禁止論を否定し、過失正犯に対する過失による関与ばかりでなく、故意正犯に対する過失の関与までも過失正犯であるとしてきた。このような判例の見解については、本稿でも第一章第三節をはじめ各所で検討してきたが、レンツィコフスキーは、このような遡及禁止論の問題に関係する判例の流れを分析し、正犯としての地位にある直接行為者が、自己の法益を侵害ないしは危殆化する場合には、判例の大勢は関与者を不処罰の自損行為に対する共犯にすぎないことを理由に不可罰とするのに対し、第三者の法益を侵害する場合には、過失正犯として可罰的とすることの自己矛盾を厳しく批判している(135)
  さらに、先にみたように遡及禁止を原則的に否定し、過失犯において注意義務に違反する法益侵害結果の惹起はすべて正犯であるとしながら、注意義務の限定や構成要件の射程範囲により例外的に結果の客観的帰属を阻却するという通説の見解に対しては、そのような限定は過失犯においても正犯的態度と共犯的態度の区別を行わなければなし得ないとして、ここでも正犯概念についての自己矛盾を批判している(136)

    レンツィコフスキーによる判例、通説に対するこのような批判は、前節の終わりで見てきたとおりであるが、彼は、過失犯において統一的正犯論を前提とする判例、通説の限界を踏まえ、過失犯においても正犯的態度と共犯的態度を区別し、法律上処罰規定を有しない過失の共犯的態度を不可罰とする限縮的正犯論を展開する。すなわち、他人が自己または第三者の法益を侵害する行為を行う場合、これに過失による教唆、幇助の形で関与する者は、発生結果については負責されないので、当該過失犯の構成要件を実現しておらず、過失による共犯にすぎないが、ドイツ刑法では総則共犯規定の適用範囲が故意による共犯に限定されていることから、そのような過失による共犯は当然に不可罰となるというのである。
  しかしながら、これまでレンクナー(137)、シュトラーテンベルト(138)、ヴェルプ(139)、オットー(140)らによって試みられてきた過失犯における限縮的正犯概念の根拠付けはいずれも不十分であるとして(141)、先に触れたように人的不法論から過失犯の正犯性を根拠づけ、これにより過失犯において正犯的態度と共犯的態度の区別を試みている(142)。そして、彼は、過失犯は故意犯と同様、他人の法益侵害の禁止という禁止規範に違反しているが、そのような法益侵害状況を認識すべき責務に違反しているという点で、犯罪行為を思いとどまるべきであったのにあえてこれを行ったという故意犯の帰責とは異なった、例外的な帰責の構造を有することを結論付ける(143)

    このようにレンツィコフスキーは、各関与者が侵害する態度規範の差異に応じて、正犯と共犯の区別を客観的な側面において行い、過失による共犯といえども客観的な態度規範の観点からは、あくまで総則共犯規定により把握されるべき狭義の共犯の類型にあたることを論証する。もっとも、関与者が直接行為者の行為について保障人的地位にある場合(144)や過失で行為する直接行為者に強制や錯誤など帰責の上での欠損が見られる場合のように、直接行為者に対し、背後者の優越が認められる場合には、背後者は過失正犯、あるいは場合によっては過失間接正犯となるとされる(145)
  さらに彼は、過失による共同正犯の問題について、通説が過失共同正犯を否定し、複数の関与者の同時犯とすることに対し、そのような構成が常に可能ならばそもそも共同正犯規定は必要がなく、むしろ単独犯で構成できない場合があるからこそ共同正犯規定が存在するのであって、それは関与者が過失である場合も変わらないと批判する(146)。そして、ドイツ刑法二五条以下の総則共犯規定は、過失犯にも適用があることを前提に、二五条二項の「共同して」という文言を、複数の関与者が共同した行為計画の下に、それぞれ役割を分担することと解して過失よる共同正犯を根拠づけるのである(147)

    以上見てきたように、レンツィコフスキーは最終惹起者の自己答責性を故意犯および過失犯に共通する正犯原理であると解し、そのような正犯行為よりも遡って正犯としての負責の遡及を禁止する遡及禁止論を基に、過失犯における限縮的正犯論を展開した。そして彼は、従来原則的に可罰的であると解されてきた、故意正犯に過失で関与する者をも原則的に不可罰であるとしたのである。
  これに対して、遡及禁止を、関与者の態度が有する社会的性格に鑑み、結果に対する負責の遡及を一切禁じるものであると解し、故意犯に対する過失の関与ばかりでなく、故意犯に対する故意の関与についても一定の場合に不可罰とする新しいタイプの遡及禁止論を展開する論者も存在する。その意味では、レンツィコフスキーの言う遡及禁止論は、枠組みとしては古いタイプの遡及禁止論に属すると言えるであろう。もっとも、レンツィコフスキーの見解は、一定の場合に遡及禁止の例外を認め、過失による間接正犯を肯定し、それを直接行為者の自己答責性で根拠づけているという点に鑑みれば、古いタイプの遡及禁止を越えるものであることは言うまでもない。
  ところで、このような新しいタイプの遡及禁止論は、ヤコブスを中心として主張されているが、それでは、彼は一体どのような問題解決を目指してこのような遡及禁止論を展開しているのか。次節では、この点を中心にヤコブスの見解を見ていくことにする。

第三節  過失犯における限縮的正犯論(二) −社会的役割を基準とする見解

一、は じ め に
    ヤコブスは、遡及禁止概念を行為者の態度の社会的な意味によって規定する。もちろん彼も、背後者が間接正犯ないしは直接行為者の態度についての保障人である場合を除いて、直接行為者が発生結果について正犯として負責されること自体を否定するわけではない。しかし、発生結果について直接行為者が正犯として負責される場合には、背後者に正犯として負責することを禁じながら、背後者が故意の場合には実定法上共犯としての負責されるとする前節で検討したタイプの遡及禁止論を、ヤコブスは古い遡及禁止論であると評価する。先にも若干触れたが、彼の主張する遡及禁止論とは、社会的に見て害のない態度が結果的に他人の犯罪行為に加担することになった場合についても、発生結果について一切の負責の遡及を禁止するというものであり、その意味ではより徹底した遡及禁止論であると評価し得る(148)

    後に見るように、ヤコブスは過失犯において、必ずしも前節で見たような、過失結果犯=過失正犯という形での限縮的正犯概念をとっておらず、むしろ実定法解釈としては、過失結果犯の構成要件は、正犯、教唆および幇助の態様による結果惹起のすべてを把握しているという考え方に立っている(149)。もっとも、概念上は過失犯においても、複数の関与者が、間接正犯、共同正犯、教唆、幇助の形態で関与する場合に分かれることは認めている(150)。その意味では、注意義務に違反する態度により法益侵害結果を惹起する者はすべて正犯であるという、純粋な意味での統一的正犯概念とは異なるのである。そしてこのような概念上の区別から、背後者の態度が直接行為者の態度との関係で遡及禁止の要件にあてはまる場合には、結論的に過失犯における限縮的正犯概念を前提とする前節で検討した見解と一致する。
  ただし彼の場合は、過失の背後者の不可罰は、過失による狭義の共犯が実定法上不処罰であることによるのではなく、むしろ発生結果に対する負責の遡及が禁止されることから直接導かれる。両者は、先にも若干触れたが、前節で検討した遡及禁止論によると、結果について正犯としての負責の遡及が禁止される背後者でも、故意犯である場合にはなお共犯としての負責の可能性は残るのに対し、ヤコブスの遡及禁止論では、遡及禁止の適用を受ければ故意犯の場合でも、過失犯と同様不可罰とされる点で大きく異なっていることに留意すべきである。
  以下では、以上述べた点をふまえ、彼の見解を具体的に見ていく。

二、過失による関与について
    過失犯では、行為者には、自らの行為が犯罪結果に関係するという認識が欠如している。さらに、結果的加重犯のように故意犯と過失犯の結合形態を示さない通常の純粋の過失犯では、関与者にとって、事件が結局どのようになるのか明らかではない。そのため、ヤコブスによると、法律はそもそも過失では関与形式の段階付けを断念し、結果の惹起ないしは不阻止を同様に取り扱っているとされる(151)
  もっとも過失の関与の場合には、結果発生の認識は欠けるにせよ複数の関与者の態度が競合しているのであるから、それぞれの関与者の態度を、その順位に応じて位置づけたり(間接正犯の場合には背後者が優越的管轄を有する)、また同一順位で取り扱われる関与を(正犯および共犯として)段階的に区別したりすることは可能である。ただ、他者侵害の場合には、実定法上の効果における差異がないだけである(152)

    しかし、過失の共働の場合にも負責の範囲は無限定ではなく、故意の負責の限界がそのままあてはまるとされる。そしてこれは、とりわけ彼の言うところの遡及禁止についてあてはまることである。例えば、殺人を計画している人に店でナイフを販売することは、故意の幇助ではなく、仮に殺人が認識可能であったとしても、過失致死ではない(153)。ここでは、販売者の態度が過失の幇助に相当するから実定法上不処罰とされるのではなく、そのような行為はそもそも処罰の対象ではないことに留意すべきである。このような考え方の背景には、彼独自の遡及禁止概念があるのだが、これについては次項で見ていくことにする。

    さらに、自己侵害の場合には、自己侵害者の態度は、それによって媒介されるすべての寄与から、他者侵害の促進という特性を失わせることに留意すべきであるとされる(154)。すなわち、被害者の自己侵害に過失で関与する者については、自損行為が構成要件に該当しないため、それに対する関与者も同様に不可罰となるというのである。ここでは、過失犯についても正犯行為に従属する共犯が観念されていることが見て取れる。

    以上見てきたように、ヤコブスは過失による関与については、法効果の上では過失犯について正犯と共犯の区別を認めていないが、それはあくまで法律の規定上そうだというだけであって、概念上は過失犯でも各関与形式を区別することは可能であるという見方をしている。そして、そのような見方は、他人が犯罪行為に利用することについて認識可能性はあるが社会的にみて通常は害のない態度、および被害者の自己侵害行為に対する関与の場合に、実際的効力を発揮することが確認された。
  彼のこのような見方は、過失犯において統一的正犯論を主張するロクシンらの見解とは異なり、概念上は過失犯においても正犯と共犯の区別を認めることから、直接犯罪結果をもたらしたと評価できない、ないしは自損行為に対する共犯的態度であるという理由付けを、そのような態度が不可罰であるという結論に与えることができる点で、従来の客観的帰属論よりも理論的に優れたものであると言えよう。
  ここでヤコブスが展開してきたことは、前節で検討した見解と結論的には大筋で一致している。もっとも、前節で検討した論者はこれを、自己答責的な最終惹起者の背後者に正犯としての負責の遡及を禁じるという遡及禁止論からの結論であるとするのに対して、ヤコブスはこれを遡及禁止ではなく、直截に過失犯における正犯概念からの結論であるとする。すなわち、先にも触れたように、彼の言う遡及禁止とは、前節での見解が指向していた従来型の遡及禁止論とは、内容においても効果においても異なるのである。次項では、彼の遡及禁止概念について見ていくことにする。

三、遡及禁止概念について
    ヤコブスによると、客観的構成要件を充足する他人の態度に、故意または過失で共働するにもかかわらず、そのような関与について負責されない領域があるとされ、彼の遡及禁止概念はまさにこのような領域を把握しているのである。彼によると、このような領域は以下のように特徴付けられる。すなわちこのような領域が把握するのは、「『関与者』は、それ自身は害がなく日常的で、他人の計画の実現によってのみ損害的経過へと変質させられるような寄与を行っている(155)」場合である。例えば、債務者が債権者に債務を弁済したが、債権者がその弁済金でピストルを購入し、そのピストルで他人を殺害する場合や、花を育てるのが好きな人が、隣人が花を盗んでそれを結婚詐欺に利用することを知りながら、きれいな花を栽培する場合の債務者や花を栽培する者は、殺人や詐欺の幇助とされないことにこの考え方は現れている。つまりここでは、自ら犯罪に関与する場合と他人が構成要件を充足するような行為を行い得る状況を創り出すこととの区別が重要なのであり(156)、彼による遡及禁止は、まさに後者の場合を把握していると言える。

    もっとも個別の事案によっては、このような遡及禁止論によらなくとも、負責からの解放を認めることができるとされる。ここでは彼は、社会的相当性、古典的な遡及禁止、および信頼の原則の三つを挙げている(157)
  しかし、まず社会相当性については、その曖昧さが批判され、重大な損害結果の可能性にもかかわらず社会的に相当な態度とは何かが決定されていないとされる。また、故意かつ有責な犯行に対する過失的共働を負責から解放する古典的な遡及禁止論に対しては、複数の者が関与する場合には、故意の関与者は常に負責され、過失の関与者が負責されないことについて合理的な理由は存在しないと批判する(158)

    そうして彼は、遡及禁止論が把握すべき事例群について詳述している。ここでは、これについて触れることにする。
  まず、関与者が正犯者と共同して行為していない場合には、正犯者の行為から生じた結果について関与者は責任を負わない。これに属する事例として、人質となった者が犯人から「逃げると人質を殺すぞ」と警告されながら逃走する場合や、過激派に対する刑事訴訟の担当裁判官が、訴訟をこれ以上続けるならある政治家を殺害すると警告されながら、訴訟を続ける場合を挙げ、これらの場合に、人質もしくは政治家が実際に殺害されたとしても、逃走した者や裁判官には、このような結果について負責されないとする。なぜなら、これらの行為には、正犯者によって形成された犯罪事象との関連性が欠如しており、またそれ自体犯罪としての意味が欠如しているからである(159)
  第二に、関与者が正犯者と共同して行為したとしても、社会的な接触が物の給付(もしくは反対給付)あるいは情報提供に尽きており、それ以外の主観的に追求される目標の現実化が専ら自分自身のものにとどまるような場合には、負責は問題にならない。ここでは、客が妻を殺害するために毒を混入して食べさせることを知りながら、パンを販売するような、日常的取引による場合が挙げられている(160)
  これらに対し、関与者が正犯者と共同して行為し、正犯者が一定の犯罪行為を遂行し得ることによって、関与者の態度が定義づけられるなら、関与者は犯罪への関与であるとされる。これが教唆や幇助の通常の例である(161)

    したがって、ヤコブスによる遡及禁止は、正犯者との共同がない場合や、共同があるとしても、それが社会的に見て日常的なごくありふれた接触の範囲を超えない場合、とりわけいわゆる日常取引による場合を把握しており、これらの場合には、関与者は故意、過失を問わず正犯者によってもたらされた犯罪結果についての負責から解放されることになる。

四、ま  と  め
  ヤコブスの遡及禁止概念では、正犯者の自己答責性ではなく、むしろ関与者の態度が果たす社会的な役割そのものが問題とされている。そして、このような遡及禁止論からは、日常的なごくありふれた関与者の態度が、結果に対する因果性にもかかわらず、負責から解放される点で、このような遡及禁止概念には妥当な核心があると言えよう。しかし、ドイツ刑法において処罰規定を有しない過失の関与の場合はともかく、故意の関与の場合についても処罰から解放することが、現行法解釈として成り立つのかは疑問である。それには、現行法解釈について新たな解釈図式を導入する必要があると思われるが、彼の客観的帰属論はまさにそのような解釈図式を理論的に裏打ちするものと評価することができる。それゆえ、彼のような客観的帰属論をアクティブな形で主張するためには、新たな解釈図式への転換を要するのである。もっとも、右のようなヤコブスの客観的帰属論が取り組んできた諸問題が現実のものとして我々につきつけられたとき、従来の解釈の図式からは、はたしていかなる解決が可能であろうか。そのように考えるとき、彼の解釈図式には一定の合理性があると言えるのではないだろうか。

第四節  過失犯における限縮的正犯論(三) −その他の見解

一、は じ め に
  一九九〇年代に入って有力化した、過失犯における限縮的正犯論は、過失犯においても正犯に従属する共犯の存在を認めることで、自己侵害ないしは自己危殆化などの自損行為への共働を不処罰とすることに合理的な説明を与えたのみならず、特に第二節で見た最終惹起者の自己答責性を正犯原理とする見解は、他人の故意による犯罪に過失で関与する者をも、それが総則共犯規定に把握されないことを理由に、原則として不可罰とするに至っている。これに対し、第三節で検討したヤコブスの見解は、必ずしも他人の故意による犯罪行為への過失の関与をすべて不可罰とすることに同意せず、むしろ故意の共犯なら可罰的であるが、過失による共犯は不可罰とすることには合理的な理由がないとして、総則共犯規定を手がかりとする遡及禁止論を批判している。ヤコブスによれば、共犯者の態度の正犯行為に対して有する社会的な意味が、発生結果の共犯者への負責を論じる上で重要であるとされる。
  以下に見るシューマンの見解は、自己答責的な最終惹起者の行為が、それに先行する行為者への発生結果の負責を排除するという意味では、第二節で論じたレンツィコフスキーらの見解と同じ方向性にあると言えよう。しかし、レンツィコフスキーが共犯の処罰根拠について、他人が犯罪行為を行い得る状況の創出という危険犯的な理解を示し、共犯行為自体の有する社会的な有害性を考慮しないのに対し、特にシューマンは、「正犯不法との連帯」を共犯の処罰根拠とすることで(162)、共犯行為の正犯による犯罪行為への関わりを直接問題とし、そこでは共犯行為自体の持つ社会的な意味合いをも考慮するという点では、第三節で述べたヤコブスの問題意識を十分に汲み取っていると言える。レンツィコフスキーの見解と特に以下に見るシューマンの見解の差異は、先にも見た「日常取引による幇助」の問題において現れている。この問題において、レンツィコフスキーの見解によれば日常的な行為といえども、他人がそれを利用して犯罪行為を行う場合、他人の犯罪行為に対する危険状況の設定と見られる限りで幇助として可罰的とされ得るのに対し、シューマンの見解からは、そのような実行段階以前の行為に対する関与は、他人の不法に積極的に加担したとは言えないので、幇助としても不可罰とされるのである(163)
  このような両者の見解の相異は、遡及禁止概念の理解というより、むしろ共犯の処罰根拠の差異に基づくものである。すなわちここでは、共犯の処罰根拠も客観的帰属についての重要な要因と位置付け得るのである。

二、シューマンとブロイの見解
    シューマンは、各人の行為自由という法確信について、これには犯罪成立事由としての有責性の基礎となる以外に、各人に対して答責性を配分するという別の機能が与えられていると理解する(164)。すなわち後者の答責配分機能によれば、第一行為者の態度の結果発生への因果経過が、被害者もしくは第三者などに媒介されている場合には、この者たちも原則的に自由かつ答責的な行為者とみなされ、発生結果は専らその答責領域にあるとされるので、発生結果は第一行為者の答責領域外にあることになる(165)。このようにして、発生結果についての答責配分は、自由意思に基づく行為による結果惹起を前提に行われるが、彼によると、これは因果関係中断論や遡及禁止論のようなかつて主張された見解とも、結論的には一致しており、さらにこれらの見解も、因果関係の中断や遡及禁止というテーゼではなく、非決定論の前提から、個々人は原則的には他人の態度について責任を負う必要はないとすることを基礎としており、その限りでは基礎付けにおいても一致しているとされる(166)
  しかしながら、このような古い見解が、専ら因果関係の範疇での問題解決を目指したのに対して、今日ではこのような答責配分をめぐる議論は、因果関係よりも高い次元での帰属の段階に移行している。すなわち彼によると、この問題に関する正当な解決とは、自己答責の原理により、被害者や第三者によって直接に惹起された結果を、結果に対する因果性の存在にもかかわらず行為者に帰属することを排除することなのである(167)

    このようにしてシューマンは、各人は原則として自己の態度から生じる事態についてのみ責任を負うのであって、他人の態度による結果については責任を負わないという自己答責性から、自己答責的な被害者または第三者の態度の介在による結果の帰属の排除を説明する。刑法上の禁止規範は、原則的に直接に法益を危殆化する行為だけを対象とするのであって、このような原則にもかかわらず、間接的にしか法益を危殆化しない者の結果への寄与を不法とする、すなわち他人の態度について答責性ないしは共同答責性を認めるには、特別な根拠が必要なのである(168)
  彼はそのような特別な根拠を、共働惹起者(背後者)の寄与が構成要件的不法とされる場合と共犯の不法とされる場合に分けて説明する(169)。前者に属するものとしては、故意の間接正犯(170)、答責無能力者の行為の共働惹起(171)、および拡張された注意義務を根拠とする正犯的答責(過失による間接正犯(172))を取り上げて検討し、また後者については、共犯の処罰根拠論として、「他人の不法との連帯」を論じている(173)

    まず、背後者の寄与が発生結果について構成要件的不法とされる、すなわち背後者が正犯として負責されるのは、直接行為者に自己答責性が欠如する場合である。彼はその例として、先に挙げた三つの場合を想定するのであるが、第二節以降で問題としてきた、過失犯における正犯概念を考える上で重要なのは、拡張された注意義務を根拠とする正犯的答責、すなわち直接行為者の不注意による法益侵害について背後者に一定の注意義務が課せられている場合であろう。
  彼によると、そのような注意義務は、従来の判例、学説は因果関係論における等価説を前提とする拡張的な正犯概念を基礎として論じられてきた(174)とされる。このような立場からは、過失の法益侵害への過失による共働ばかりでなく、故意犯に対する「過失共犯」についても過失正犯として可罰的であり、過失による関与の不可罰は、自殺や自己危殆化への関与など例外として検討されてきたのである。
  しかし、先にも見たように、故意犯における限縮的正犯概念が、行為支配を有する実行ではなく、各関与者は他人の態度による結果については責任を負わないという、他人の自己答責原理から帰結するなら、過失犯についても同様に限縮的正犯概念が妥当するはずである(175)。そして、このことを前提とするなら、背後者の答責領域が直接行為者の答責領域にまでおよんでいくような注意義務の伸張は、直接行為者が特定の注意義務から解放されるような答責の引き受けを背後者が行ったことに求められるべきである、と彼は言う(176)。さらにその理は結論的に、背後者が、実行者を義務から解放するわけではないが、実行者が自分の責任をどのように評価すべきかを教示する義務を負っている場合にも妥当するとされる。
  そして彼は、前者の義務を「免除義務」と特徴づけ、専門家である背後者が特定の領域での専門家としての任務を引き受けた場合には、背後者には直接行為者が専門的に見て正しく行動できるように適切なアドヴァイスをなすべき義務があり、背後者の不適切なアドヴァイスから直接行為者が誤った行動をとり、それにより特定の法益侵害結果が生じた場合には、背後者がその結果について負責されるとする(177)。もっとも、このような「免除義務」は、専門家による専門的任務の「引き受け」の場合に限らず、背後者が実行者の行動について、始めから指示権限を有する場合にも妥当するとされる(178)
  後者の義務については、特に法秩序について教示を行うべきとされる者、とりわけ弁護士に妥当するとされる。
  このように彼は、直接行為者が本来負うべき注意義務を背後者が負うべき場合を整理し、その場合には背後者は、実行者の不注意による結果であるにもかかわらず、発生結果について過失による間接正犯として負責されるというのである。

    他人の態度に対する共働への負責の拡張に関する第二の例である、他人の故意行為に対する共犯の場合について、先にも述べたように、彼は共犯の処罰根拠を、「他人の不法との連帯」であると理解する。ここでは、市場の小売商が窃盗犯と思わしき者にドライバーを販売したところ、実際にその者はそのドライバーを使って侵入窃盗を行ったという事例を素材に検討を試みている(179)
  ここでは、彼は日常取引を理由とする解決自身には与しない。そうではなく彼は、「犯罪からの近さ」という基準を用いて解決を試みる。すなわち、関与者の態度が実行段階においてなされたものか、それともそれ以前の予備の段階でなされたものかの区別に基づいて、前者については可罰的な幇助を、後者については不可罰の予備段階の共働であるとする。この理は、援助者の関与が結果の惹起にとって必要不可欠なものであっても変わらないとされる。その意味で、彼の解決は通常の因果的な視点による共犯論とは一線を画しているのであり、これにより通常は予備段階での共働にすぎない「中性的態度による幇助」ないしは「日常取引による」のたいていの場合を不可罰とすることになる。そしてこの結論は、法感情にも合致していると彼は言う(180)

    共犯の類型論について浩瀚な研究論文を公表したブロイも、基本的にはシューマンと同様の見方を示していたと言える(181)。ただし彼の問題意識は、各関与形式を帰属類型として捉え、その帰属根拠および区別の基準を明らかにするというものであり、過失による関与の問題は、そこで取り上げられるべき諸問題の一つとして取り扱われている。
  しかし、過失犯においても故意犯と同様、限縮的正犯概念の妥当性が問題となり、これは遡及禁止において特に重要であるとした上で(182)、シューマンと同様、遡及禁止を関与者の答責領域の区別によって根拠付ける(183)という彼の見方には、シューマンやさらにはレンツィコフスキーと同様の構想が見て取れるであろう。

第五節  小      括

  本章では、現代における客観的帰属論の展開について概観してきた。
  本稿で再三にわたり述べてきたように、客観的帰属論がドイツにおいて台頭してきた背景には、目的的行為論が過失犯について理論的な限界を露呈した一連の実際的な問題が存在していたと言える。それらの問題について、行為者の態度の注意義務違反性だけでなく、行為者の違反した注意義務と具体的に発生した結果との間の関係、さらには発生結果とその結果の防止すべき構成要件の射程範囲とのかかわりを、当該結果を行為者の態度に客観的に帰属することができるかという観点から、ロクシン等による客観的帰属が解決を目指した。そして、その試みは一定の範囲で成功していると評価してよいように思われる。
  しかしながら、ロクシンの客観的帰属論が前提とする過失犯における統一的正犯概念は、被害者の自己答責性の問題で限界に直面し、この問題の解決にあたっては過失犯においても限縮的正犯概念を前提とせざるを得なくなるのである。ロクシンによる「構成要件の射程範囲」という解決が実際上妥当なものであるとしても、それが理論的な矛盾を抱えていては、積極的に支持することはできないであろう。適切な法解釈論と言うためには、結論の妥当性のみならず、理論的な整合性をもが要求されるからである。そのため、「被害者の自己答責性」の問題がドイツにおいて比較的広範囲で論じられるようになった一九九〇年代に入ってからは、過失犯における限縮的正犯論を展開する見解が台頭してきた。また、「革スプレー事件」のBGH判決において顕在化した、過失共同正犯の問題もその一因を与えた評価し得るであろう。
  このうち、オットー、レンツィコフスキー、シューマンなどの論者は、最終惹起者の自己答責性を正犯原理と理解することで、過失犯においても限縮的正犯概念が妥当するとし、総則共犯規定を手がかりとする伝統的な遡及禁止論から、自己答責的な被害者の態度への関与ばかりでなく、故意の他者侵害に対する過失による共働をも原則として不可罰とする。もっとも、彼ら、とりわけシューマンとレンツィコフスキーは、過失犯に対する過失の共働については、過失で行為する直接行為者の態度に対し背後者が一定の注意義務を負う場合、すなわち背後者の側に事態の把握について優越が見られる場合には、背後者に過失による間接正犯を認める。このような「過失犯に対する過失の関与」という問題意識は、わが国で議論されている管理・監督過失の問題において、危険な作業を行う際の、作業員の態度に対する監督責任者の注意義務違反を理由とする過失犯の成否を論じるにあたって必要となる視点であろう。
  またこれとは異なり、ヤコブスのような、遡及禁止を関与者の態度そのものの社会的な意味に基づいて、その無害性から関与者への発生結果の負責そのものを禁じるものとする理解からは、いわゆる「中性的態度による幇助」ないしは「日常取引による幇助」の問題解決が目指される。もっとも、この問題は従来型の遡及禁止論に立つと評価し得るシューマンによっても、共犯の処罰根拠の視点から解決が試みられている。さらに現在ドイツでは、銀行業務が脱税の手段として利用されるという事件をきっかけとして、この問題は共犯論の重要問題の一つとして議論されるに至っている。そこでは、故意論(184)や幇助の因果性(185)など従来の幇助の成立要件の枠内で解決を試みる見解も見られるが、むしろ問題とされる態度の「日常性」ないしは「中立性」を手がかりとして、社会相当性や「犯罪的な意味のつながり」(フリッシュ)などの態度の社会的な意味を基準に解決を目指す見解が、ドイツにおいては有力であるように思われる。さらに、この問題がわが国でも十分に議論の余地のあることは、本稿のはしがきでも述べたところである(186)
  以上のような、ドイツにおける客観的帰属論の現代的展開を見るに、ここで理論的に展開され、実際上の問題解決が目指されている領域とは、わが国において「相当因果関係と客観的帰属論」のテーマで論じられている問題領域と比較すると、一定の重なり合いを持ちながらもさらに大きな広がりを有することが理解できるであろう。それゆえ、ここで論じられてきた、他人(被害者)の自己答責性の問題や中性的態度(日常取引)による幇助の問題に積極的に答えることができないとしたら、わが国において通説である相当因果関係説は「危機」に陥っていると言えるであろう。逆に言うなら、これらの問題が突きつけられない限り、「相当因果関係説の危機」と言える状況にはなり難いとも言えるのであって、その意味では今日わが国で言われている「相当因果関係の危機」を標榜する論者は、その標語によってこれらの問題をめぐる現在の状況を的確に把握していると言えるか疑問が残る。
  次章では、以上の分析を参考にして、「相当因果関係と客観的帰属」の問題に関するわが国の主要な論者の見解を検討した上で、今後に残された課題を提示することを試みる。

(1)  B. Schu¨nemann, Zur objektiven Zurechnung, GA 1999, S. 217f. この論文でシューネマンは、客観的帰属を広義の客観的帰属と狭義の客観的帰属の二つの段階に分けた上で、広義の客観的帰属の段階として許されない危険の創出の判断基準について論じている。ここでは、許されない危険の創出とは、従来から言われてきた客観的注意義務違反に相当するものであり、許されない危険の創出の判断には、行為者の事物に関する知識、能力などを考慮して行為者の態度が事前的に見て客観的注意義務に違反するものであるかどうかが問われるとされる。
(2)  最近のものでは、大谷實『新版  刑法講義総論』(二〇〇〇年)二二八頁がある。
(3)  Vgl. C. Roxin, Strafrecht Allgemeiner Teil 3. Aufl., 1997, S. 309.
(4)  もっとも、ひとくちに相当因果関係説といっても、相当性の判断基底、判断基準について争いのあることは周知のとおりである。また、その判断構造についても必ずしも各論者の間で一致が見られるわけではなく、様々なヴァリエーションが存在する。これに関しては、小林憲太郎「相当因果関係と客観的帰属(二)」千葉大学法学論集一四巻四号二六三頁以下を参照のこと。
(5)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 314.
(6)  Vgl. C. Roxin, Zum Gedanken zur Probrematik der Zurechnung im Strafrecht, in Festschrift fu¨r Richard Honig, 1970, S. 136.
(7)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 314.
(8)  最近ではマイヴァルトがこの見解をとるようである。Vgl.M. Maiwald, Zur strafrechtssystematischen Funktion des Begriffs der objektiven Zurechnung, in;Festschrift fu¨r Koichi Miyazawa, S. 465ff.
(9)  Roxin, a. a. O (Fn. 6), S. 136 では、危険減少が因果のドグマから解放された帰属論を完成する動因の一つとされている。
(10)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 315.
(11)  よく知られており、本稿でも何度か触れた事例であるが、叔父の財産相続をもくろむ甥が、叔父の死を願って、雷雨の日に高い木の植えられている丘に散歩に行くよう叔父に勧め、実際に叔父が落雷で死亡するというものである。
(12)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 315.
(13)  Vgl. Roxin, a. a. O. (Fn. 6), S. 136ff.
(14)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 315. Vgl. Nomos Kommentar zum Strafgesetzbuch, 1995, vor § 13, Rn. 69, 74 (Puppe).
(15)  Vgl. K. Larenz, Hegels Zurechnungslehre und objektiven Zurechnung, 1927.
(16)  ホーニッヒの構想については、本稿第一章第四節参照。
(17)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 316.
(18)  もっとも、山中教授は、我が国においては、相当因果関係説を通説としながらも、「行為の危険性」(ロクシンこれを危険創出論として展開している)の分析が進んでいなかったと指摘する。教授によると、例えば、行為の危険性は実行行為性の問題であって、固有の相当因果関係の問題ではないとする見解、ないし「広義の相当性」と「狭義の相当性」の区別は必要でないとして、「狭義の相当性」だけを「相当性」の内容として問題とすればよいとする見解、もしくは行為の危険性の判断は「実質的な違法性判断になじむもの」であるといった見解に、このような行為の危険の分析の不十分さは顕著であるという。山中敬一『刑法における客観的帰属の理論』(一九九七年)三七七頁参照。
(19)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 319.
(20)  Schenke−Schro¨der Strafgesetzbuch Kommentar 24 . Aufl., 1991, vor § 32, Rn. 102.
(21)  Jescheck−Weigend, Lehrbuch des Strafrechts, Allgemeiner Teil, 5. Aufl., 1996, § 36 I 1.
(22)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 320.
(23)  Vgl. Kindha¨user, Erlaubtes Risiko und Solgfaltswidrigkeit, GA 1994, S. 217f.
(24)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 320. それゆえ、Bが自動車の運行の際に、交通に適合した注意義務を遵守していたにもかかわらず、Aと衝突し、Aが死亡する場合、たしかに、BはAの死を惹起してはいるが、刑法二一二条、二二二条の意味において死亡させたのではないとされる。
(25)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 321.
(26)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 321.
(27)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 321.
(28)  K. Engisch, Die Kausalita¨t als Merkmal der strafrechtlichen Tatbesta¨nde, 1931, S. 68.
(29)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 322.
(30)  客観的構成要件該当性の問題としての因果関係論は条件説に依拠し、故意、過失で帰責の限定を行うとする見解を指す。
(31)  Roxin, a. a. O.S. (Fn. 3), 322. ロクシンの解決にしたがうと、病院で通常よく見られるような細菌(最近院内感染で社会問題となっているMRSAなどの細菌なども含む)に感染して死亡する場合には、死亡の結果を帰属すべきであると思われる。実際、ロクシンは他人を手斧で殺害しようとしたが、手斧による一撃ではなく、それによって引き起こされた創傷感染のために死亡したというライヒ裁判所の判例の事案(RGSt. 24, 213)について、死亡結果の帰属を肯定している。
(32)  ロクシンは危険実現を認め既遂結果を帰属すべき例として、泳げない者を溺死させようとして、この者を橋の上から川に投げ込んだところ、橋脚の台で頭を打って死亡したという我が国では橋脚事例として紹介されている事例の他、前の注で挙げた創傷感染の事例、意識を喪失した被害者が自己の胃の内容物を吐き、それをのどにつめて窒息する事例および被害者をハンマーで殴打したところ、致命傷は与えなかったが、被害者の血を見て酩酊状態に陥り責任無能力となって被害者を殴り殺したという「血の酩酊事件」(BGHSt. 7, 325)と呼ばれる事例等を挙げている。Vgl. Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 322.
(33)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 324.
(34)  本稿第二章第二節参照。
(35)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 324.
(36)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 325.
(37)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 324.
(38)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 325. この結論に批判的なものとして、vgl. U. Ebert, JR 1985 S. 356.
(39)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 325.
(40)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 325. Vgl. auch . Jakobs, Strafrecht Allgemeiner Teil 2. Aufl., 1991 7/72ff.
(41)  第二章第五節参照。
(42)  Ebenso Jescheck−Weigend a. a. O., § 55 II 2b bb. Vgl. auch Schlu¨chter, Grundfa¨lle zur Lehre von Kausalita¨t, Jus. 1977, S. 108.
(43)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 326.
(44)  ロクシンは、この注意規範の保護目的の帰属阻却と構成要件の保護目的による帰属判断とは区別されることに注意しなければならないと言う。すなわち、ここでは、許された危険を限界付ける注意規範(先の事例では、灯火命令、内科医の検診を受けさせる命令)の保護目的が問題なのであって、侵害された構成要件規範(殺人、過失致死等)の保護目的が問題なのではない。誤解を避けるため、ロクシンは構成要件の保護目的という代わりに、「構成要件の射程」という言葉を用いている。Vgl. Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 327.
(45)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 334.
(46)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 335. なお、このうち「自己危殆化への共働」と「合意による他者危殆化」の問題については、山中・前掲書七〇八頁以下、塩谷毅「自己危殆化への関与と合意による他者危殆化について(一)ー(四・完)」立命館法学二四六号八五頁以下、二四七号七五頁以下、二四八号八〇頁以下、二五一号六七頁以下、吉田敏雄「『合意のある他者危殆化』について」『西原春夫先生古稀祝賀論文集第一巻』(一九九八年)四〇七頁以下、小林憲太郎「被害者の関与と結果の帰責」千葉大学法学論集十五巻一号(二〇〇〇年)一四一頁以下参照。
(47)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 335.
(48)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 342.
(49)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 347.
(50)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 335.
(51)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 336. 例えば、AとBが、酒に酔っていた(しかし、両者とも責任能力は存在していた)にもかかわらずオートバイの競争を行い、Bが自分自身のミスで事故を起こして死亡した場合に、予見可能かつ回避可能な結果を惹起したとして、競争相手のAをBGHは過失致死で処罰されるとした(「オートバイレース事件」BGHSt. 7, 112)。
  さらに、医師がインドに旅行した際に天然痘にかかって帰国し、外見上非常にやつれているにもかかわらず、病院での勤務に就いたため、他の医師や患者が天然痘に感染し死亡したが、その際、ある司祭は、感染の危険を知りながら隔離病棟を任意に訪れ、天然痘に感染し死亡したという事案で、BGHは医師は過失致死であるとした(BGHSt. 17, 359)。
  その他、判例の事案ではないが、いわゆる「雷雨事例」や被害者が事故で死亡することを期待して飛行機旅行を勧める「飛行機旅行事例」も、ロクシンは自己危殆化への関与であると言う。
(52)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 337.
(53)  ロクシンによると、このようなBGHの判例は、これ以降数多くの判例によって確固としたものとなっているとされる。例えば、BGH NStZ. 1984, 452;1985, 25;1986, 266;1987, 406;BGH NJW. 1985, 690;BGHSt. 36, 1 など。
(54)  もっとも、被害者が直接自己を危険にさらすような態度をとる場合でも、被害者の法益保護について関与者の方が優越的な地位にある場合には、結果は関与者に帰属されるべきであるとされる。具体的には、関与者が保障人的地位にある場合、被害者が責任無能力の場合などである。被害者が限定責任能力しか有しない場合には、部分的にとはいえ責任能力を有しているので、責任無能力と同様に論じるわけにはいかない。結論的には、弁識能力が減退している場合には、被害者は自己の危険を正しく見通していないので、事態の把握について関与者に優越が認められ結果が帰属されるのに対し、制御能力が減退しているにすぎない場合には、被害者は事態を一応は正しく把握しているので、結果は被害者によるものとされ、関与者には帰属されないとされる。Vgl. Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 338f. もっとも、このように結果の帰属を危殆化行為を行う被害者の認識(能力)に専ら依拠させる根拠については必ずしも明らかではない。
(55)  RGSt. 57, 172. 嵐の日に旅人が、再三危険だから思いとどまるようにと忠告されたにもかかわらず、河の渡し守に船を出すよう要求し、旅人の懇願を結局聞き入れた渡し守が船を出したところ、船は転覆して、旅人は死亡したが、渡し守は助かったという事件で、ライヒ裁判所は渡し守の注意義務違反を否定し、無罪とした。
(56)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 342f.
(57)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 343.
(58)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 343f.
(59)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 344.
(60)  OLG Bayern, NStZ 1990, 81f. 医者からエイズに感染していることを知らされていた被告人は、彼のエイズ感染について知っている恋人と、彼女の強い懇請に応じ避妊具をつけない性交を行ったところ、自己の感染を知っていて、避妊具を付けずに他人と性交するエイズ感染者は危険傷害罪(刑法二二三条a、現二二四条)であり、善良な風俗に反するため被害者の同意も有効ではないとして起訴されたが、バイエルン上級裁判所は、被告人は、被害者の自己答責的に意欲された自己危殆化に共働したにすぎないので、危険傷害罪の未遂(被害者が実際にエイズに罹患したか確認できなかった)の構成要件を実現おらず、無罪であるとされた。ここでは、裁判所は「自己危殆化への共働」という表現を用いているが、本件では被告人の態度によって被害者のエイズ罹患の危険が設定されたのであるから、むしろ合意による他者危殆化の事案と理解すべきように思われる。
  もとより、そのように解したからといって、本件で検察官が主張したとされるような、良俗違反により有効性が制限される被害者の同意は問題ではなく、被告人の行為に際して被害者のとった態度自体の自己答責性を問えば足りると筆者は考える。
(61)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 346.
(62)  B. Schu¨nemann, Moderne Tendenzen in der Dogmatik der Fahrla¨ssigkeits− und Gefa¨hrdungsdelikte, JA 1975, S. 722f.;H. Otto, Selbstgefa¨hrdung und Fremdverantwortung, Jura 1984, S. 540.;ders Eigenverantwortliche Selbstsa¨digung und−gefa¨hrgung sowie einversta¨ndliche Fremdscha¨digung und−gefa¨hrdung, in;Festschrift fu¨r Herbert Tro¨ndle, 1989, S. 169ff.
(63)  塩谷・前掲(三)立命館法学二四八号九四頁では、オットーの見解について、彼が自己答責性の判断基準とする「因果経過の制御可能性」を、「被害者の危険認識の正確さ」という主観的要素によってのみ決定付けることが疑問視され、むしろこれは因果経過に影響を及ぼす客観的な要因も考慮して判断すべきではないかと指摘されている。
(64)  Roxin, a. a. O. (Fn. 3), S. 347.
(65)  C. Roxin, Bemerkungen zum Regreβverbot, in;Festschrift fu¨r Herbert Tro¨ndle, 1989, S. 177ff.
(66)  Roxin, a. a. O. (Fn. 65), S. 185. ロクシンは、「一般的な帰属論の承認された規則はすでに、故意の犯罪行為に対する非故意の共働はたいていの場合客観的構成要件に帰属することができず、不可罰であることを帰結する」とし、「一般的な帰属阻却のために特別な規則として遡及禁止を過失犯において導入する試みは、それほど必要ではない」と主張する。
(67)  Roxin, a. a. O. (Fn. 65), S. 185. ここでは、故意の自殺に対する故意の関与は不可罰であるという立法者の決断が論拠になっている。ドイツでは、我が国とは違い、自殺に関しては、明文の規定が置かれているのは「要求による殺人」(ドイツ刑法二一六条)だけで、自殺の教唆、幇助については処罰規定がない。そのため、ドイツでは通常自殺の教唆、幇助は不可罰と解されている。故意の自殺の教唆、幇助が不可罰であることのバランスから、自殺に対する過失の関与は当然不可罰となるはずであるというのがここでのロクシンの論拠である。
(68)  Roxin, a. a. O. (Fn. 65), S. 186.
(69)  Roxin, a. a. O. (Fn. 65), S. 187.
(70)  Roxin, a. a. O. (Fn. 65), S. 188.
(71)  G. Stratenberth, Strafrecht Allgemeiner Teil I Die Straftat, 2. Aufl., 1976, Rn. 1162;ebenso J. Wolter, Objektive und personale Zurechnung von Verhalten, Gefahr und Verletzung in einem funktionalen Strafsystem, 1981, S. 348ff.
(72)  Jakobs, Strafrecht Allgemeiner Teil, 1983, 24/15.
(73)  Roxin, a. a. O. (Fn. 65), S. 189.
(74)  ロクシンは、ギロチンを譲り渡すような行為も、それが普通に行われるのなら、犯罪にならなくなってしまうと批判する。Vgl. Roxin, a. a. O. (Fn. 65), S. 190.
(75)  Roxin, a. a. O. (Fn. 65), S. 190.
(76)  Roxin, a. a. O. (Fn. 65), S. 190. これには、「明白な犯行に至る流れ」という山中教授の訳がある。山中・前掲書四四一頁参照。
(77)  Roxin, a. a. O. (Fn. 65), S. 190.
(78)  ここでは、第一章第三節で取り扱った「愛人毒殺事件」、「無許可輸出事件」の他、スイスの連邦最高裁で判示された農家の放火に関する事案がこのような事例として挙げられている。
(79)  Roxin, a. a. O. (Fn. 65), S. 194. ロクシンは、ライヒ裁判所がわざわざ仮定の上でのこととして、故意の放火による場合にまで言及したのは、因果関係の中断論を明確に拒絶したいという意図があったと指摘する。もっとも、本件では、不審な人物が倉庫に侵入することがあったことが認定されているので、故意による放火の可能性は否定し得ない。しかしながら、その故意が階上に住む住人の殺害にまで及んでいる可能性はかなり乏しいであろうから、その限りでは、ライヒ裁判所に対するロクシンの指摘は正当なものと言えよう。
(80)  Roxin, a. a. O. (Fn. 65), S. 194.
(81)  Roxin, a. a. O. (Fn. 65), S. 194.
(82)  S. Wehrle, Fahrla¨ssige Beteiligung am Vorsatzdelikt− Regreβverbot?, 1986, S. 70.
(83)  Roxin, a. a. O. (Fn. 65), S. 196.
(84)  G. Jakobs, AT, 1983, 24/17. (今後、特に断りのない限り、ヤコブスの教科書はこのように表記する)この例のように、ヤコブスは、日常取引による場合の帰属阻却の原則を過失犯だけではなく故意犯、特に幇助犯の場合にまで適用する。
(85)  「中性的態度による幇助」の問題に関する各論者の見解を分類、検討した文献としては、B. Tag, Beihilfe durch neutrales Verhalten, JR 1997, S. 49ff. が有用である。
(86)  Roxin, a. a. O. (Fn. 65), S. 197.
(87)  ただし、逃走の援助など事後的な従犯の形態にあたるときは、事前の犯罪行為の結果ついての帰属が問題となることに注意すべきである。この点に鑑みると、遡及禁止問題を相当因果関係説の従来型の判断構造で取り扱うことには無理があるのかもしれない。
(88)  Roxin, a. a. O. (Fn. 6), S. 135. ホーニッヒの客観的帰属論については、本稿第一章第四節参照。
(89)  本稿はしがき注四一、立命館法学二六八号一二七ー一二八頁参照。
(90)  J. Renzikowski, Restriktiver Ta¨terbegriff und fahrla¨ssige Beteiligung, 1997, S. 193.
(91)  Renzikowski, a. a. O., S. 194.
(92)  Renzikowski, a. a. O., S. 194.
(93)  Renzikowski, a. a. O., S. 195. もっとも、自己危殆化の場合には、自殺や自傷の場合とは異なり、被害者は自らの態度により生じる結末を見通しているわけでも、またこれを望んでいるわけでもないので、被害者の態度が自己答責的になされたものと言えるかどうか、まず問題となる。しかし、これが自己答責的になされた限りで、これに対する共働を不可罰とする通説的な客観的帰属論の理論構成は、過失犯においても自己答責性を正犯原理とする限縮的正犯概念を前提としていると言えよう。Vgl. Renzikowski, a. a. O., S. 196.
(94)  事件の概要およびBGH判決の詳細については、岩間康夫「刑法上の製造物責任と先行行為による保障人的義務ー近時のドイツにおける判例および学説からー」愛媛法学会雑誌一八巻四号(一九九一年)四一頁以下参照。
(95)  Vgl. BGHSt. 37, 106f.
(96)  BGHSt. 37, 129.
(97)  BGHSt. 37, 130f.
(98)  BGHSt. 37, 131. これについては、松宮孝明「ドイツにおける『管理・監督過失』論」中山研一/米田泰邦・編『火災と刑事責任  管理者の過失処罰を中心に』(一九九三年)一九五頁、岩間康夫「製造物責任の事例における取締役の刑事責任ー集団的決定に関与した者の答責ー」愛媛法学会雑誌二二巻一号(一九九五年)四五頁以下参照。
(99)  BGHSt. 37, 132.
(100)  H. Otto, Ta¨terschaft und Teilnahme im Fahrla¨ssigkeitsbereich, in;Festschrift fu¨r Gu¨nter Spendel, 1992, S. 271ff. 紹介・松宮孝明「ハロー・オットー『過失犯における正犯と共犯』」立命館法学二三七号二〇六頁以下。
(101)  Otto, a. a. O. (Fn. 100), S. 285.
(102)  Renzikowski, a. a. O., S. 283.
(103)  Otto, a. a. O. (Fn. 100), S. 271ff.
(104)  J. Hruschka, Regreβverbot, Anstiftungsbegriff und die Konsequenzen, ZStW. 110 (1998), S. 581ff. 紹介・拙稿「ヨアヒム・ルシュカ  遡及禁止、教唆概念とその帰結」立命館法学二六一号二一七頁以下。なお、ルシュカによる遡及禁止論の原型とも言えるヘーゲル学派の遡及禁止論については、本稿第一章第一節参照。
(105)  Otto, a. a. O. (Fn. 100), S. 273f.
(106)  Otto, a. a. O. (Fn. 100), S. 276f.
(107)  Otto, a. a. O. (Fn. 100), S. 277.
(108)  Otto, a. a. O. (Fn. 100), S. 278.
(109)  Otto, a. a. O. (Fn. 100), S. 279.
(110)  R. Frank, Strafrecht fu¨r das deutsche Reich, 18. Aufl., 1931, S. 14.
(111)  Otto, a. a. O. (Fn. 100), S. 279.
(112)  例えば、ライセンスを持たない者にピストルを貸したところ、予見可能であったにもかかわらず、その者がそのピストルで第三者を射殺する場合、ピストルを貸した者の正犯としての負責は問題とならない。武器を資格のある者にしか持たせないという武器法の規定は、武器を手渡された者が人を殺害すること防止するものではないからであるとされる。これに対し、扱いに慣れていない者に銃を貸したところ、狩猟の際に第三者を死なせてしまう場合は、両者とも負責される。この場合は、まさに扱いなれていない者に武器を使わせてはならないという禁止は、まさにこのような危険を防止するものだからである。Vgl. Otto, a. a. O. (Fn. 100), S. 280.
  ここでは、武器を他人に貸す者の、第三者の死亡という発生結果についての負責は、故意正犯の背後には正犯は存在しないという遡及禁止ではなく、武器を所持、管理、使用する者が服すべき武器法の禁止規定の射程範囲から導かれている。
(113)  Renzikowski, a. a. O., S. 6f.
(114)  Renzikowski, a. a. O., S. 7.
(115)  Renzikowski, a. a. O., S. 7.
(116)  Renzikowski, a. a. O., S. 4.
(117)  先に見たように、ロクシンは発生結果が(被害者も含めた)他人の答責領域にある場合には、当該結果は行為者の実現した構成要件の射程範囲にはないとすることで、他人の自己答責的態度に対する関与の不可罰を説明している。
(118)  塩谷毅「『被害者の自己答責性』について」『転換期の刑事法学  井戸田侃先生古稀祝賀論文集』(一九九九年)七八三頁以下で、塩谷助教授は、一般的に自己答責性が正犯原理であることを承認するわけではないが、「被害者の自己答責性」の問題については、自己答責的な態度をとる被害者は、自らに生じた結果について正犯的な答責性を担うとされる。同七九六頁参照。この見解も「被害者の自己答責性」の問題に限ってみれば、やはり自己答責性を正犯(的)原理と位置付けている点でレンツィコフスキーの構想と機を一にするものと言えよう。
(119)  Renzikowski, a. a. O., S. 4f.
(120)  統一的正犯論に対しては、犯罪実行と他人の犯罪実行への関与の差異が等閑にされ、さらに本来不処罰とされる軽罪に対する未遂の教唆、幇助にまで可罰性が拡大されることになること、身分犯に対する共犯の可罰性が説明できないことが批判されている。拡張的正犯概念に対しても、関与者を原則的に正犯とすることから、基本的に統一的正犯論と同様の批判があてはまるとされされる。Vgl. Renzikowski, a. a. O., S. 13ff. 本稿第一章第四節も参照のこと。
(121)  Renzikowski, a. a. O., S. 15.
(122)  Renzikowski, a. a. O., S. 16.
(123)  周知のように、主観説は因果関係論について等価説をとるブーリを中心として主張され、彼の影響の下でライヒ裁判所の判例の見解として定着した。主観説をとる判例としては例えば、RGSt. 74, 85(いわゆる「浴槽事件」);BGH VRS, Bd. 23, S. 207ff.=GA 1963, S. 187(共同正犯と幇助の限界付けに関するもので、直接結果につながる態度をとった被告人を犯罪実行による利益の欠如を理由に幇助とした);BGHSt. 18, 87(いわゆる「スタシンスキー事件」)などが存在する。なお、ライヒ刑法典制定以前の主観説については、本稿第一章第一節参照。一九六〇年代以降の判例の動向については、vgl. C. Roxin, Ta¨terschaft und Tatherrschaft 7. Aufl., 2000, S. 557ff.
(124)  E. Schmidtha¨user, Strafrecht Allgemeiner Teil 2. Aufl., 1984, 10/46.
(125)  W. Schild, Ta¨terschaft als Tatherrschaft, 1994, S. 45f.
(126)  これについては、Vgl. J. Joerden, Strukturen des strafrechtlichen Verantwortlichkeitsbegriffs:Relationen und ihre Verkettungen, 1988, 30f.
(127)  Renzikowski, a. a. O., S. 34.
(128)  Renzikowski, a. a. O., S. 67f.
(129)  Renzikowski, a. a. O., S. 73.
(130)  Renzikowski, a. a. O., S. 73.
(131)  Renzikowski, a. a. O., S. 68.
(132)  Renzikowski, a. a. O., S. 123f.
(133)  Renzikowski, a. a. O., S. 127f.
(134)  Renzikowski, a. a. O., S. 131.
(135)  Renzikowski, a. a. O., S. 160ff. なお、彼は遡及禁止に関する判例として、「劇場クローク事件」(RGSt. 34, 91)、「毒殺事件」(RGSt. 64, 370)、「屋根裏部屋火災事件」(RGSt. 61, 318)、「無許可輸入事件」(RGSt. 58, 368)、「嬰児殺事件」(RGSt. 64, 316)、「テールランプ事件」(BGHSt. 4, 360)、「警官ピストル事件」(BGHSt. 24, 342)、「オートバイレース事件」(BGHSt. 7, 112)、「ヘロイン注射事件」(BGHSt. 32, 262)、「救助者事件」(BGHSt. 39, 322)を挙げている。
(136)  Renzikowski, a. a. O., S. 179ff.
(137)  T. Lenckner, in:Scho¨nke/Schro¨der Kommentar, Vorbemerkung §§ 13ff. Rn. 101.
(138)  G. Stratenwerth, Arbeitsteilung und a¨rztliche Sorgfaltspflicht, in;Festschrift fu¨r Eberhard Schmidt, 1961, S. 390ff.
(139)  J. Welp, Vorausgegangenes Tun als Grundlage einer Handlungsa¨quivalenz der Unterlassung, 1968, S. 174.
(140)  Otto, a. a. O. (Fn. 100), S. 277.
(141)  Renzikowski, a. a. O., S. 210.
(142)  Renzikowski, a. a. O., S. 224ff.
(143)  Renzikowski, a. a. O., S. 259f. このような、帰責事由が存在しないことについて行為者に問責するという例外帰属のモデルはルシュカの構想に倣ったものである。なお、これについては、拙稿・立命館法学二六一号二二〇頁も参照のこと。
(144)  Renzikowski, a. a. O., S. 264ff. もっとも、それが物に対する管理義務から生じる保障人的地位である場合には不作為の関与者は共犯としての責任しか負わないとされる。
(145)  Renzikowski, a. a. O., S. 266.
(146)  Renzikowski, a. a. O., S. 284ff.
(147)  Renzikowski, a. a. O., S. 288ff.
(148)  G. Jakobs, Regreβverbot beim Erfolgsdelikt Zugleich eine Untersuchung zum Grund der strafrechtlichen Haftung fu¨r Begehung, ZStW. 89 (1971), S. 1ff.;ders, Akzessorieta¨t. Zu den Voraussetzungen gemeinsamer Organisation, GA 1996, S. 260. 紹介・松宮孝明/豊田兼彦「ギュンター・ヤコブス  従属性ー共同組織化の前提条件についてー」立命館法学二五三号一九六頁以下(特に、二〇三頁以下参照)。
(149)  Jakobs, AT. 2. Aufl., 21/111.
(150)  Jakobs, AT. 2. Aufl., 21/112.
(151)  Jakobs, AT. 2. Aufl., 21/111.
(152)  Jakobs, AT. 2. Aufl., 21/112. 例えば、窓から物を投げて、下を歩いている通行人にけがをさせるという例では、物を投げた者が直接正犯、特別な強制により物を投げさせた者が間接正犯、投げるように指示した者は教唆、物を投げるために窓を開けた者は幇助となる。
(153)  Jakobs, AT. 2. Aufl., 21/114.
(154)  Jakobs, AT. 2. Aufl., 21/114a.
(155)  Jakobs, AT. 2. Aufl., 24/13.
(156)  Jakobs, AT. 2. Aufl., 24/13.
(157)  Jakobs, AT. 2. Aufl., 24/14.
(158)  もっとも、信頼の原則に対しては、ここでは特に批判はなされていない。
(159)  Jakobs, AT. 2. Aufl., 24/16.
(160)  Jakobs, AT. 2. Aufl., 24/16.
(161)  Jakobs, AT. 2. Aufl., 24/17.
(162)  H. Schumann, Strafrechtliches Handlungsunrecht und das Prinzip der Selbstverantwortung der Anderen, 1986, 49ff.
(163)  Schumann, a. a. O., S. 57.
(164)  Schumann, a. a. O., S. 1.
(165)  Schumann, a. a. O., S. 1.
(166)  Schumann, a. a. O., S. 2. なお、歴史上遡及禁止論が意思自由に関する非決定論に基づくものである点については、本稿第一章第一節参照。
(167)  Schumann, a. a. O., S. 4.
(168)  Schumann, a. a. O., S. 42.
(169)  Schumann, a. a. O., S. 42ff.
(170)  Schumann, a. a. O., S. 69ff.
(171)  Schumann, a. a. O., S. 103ff.
(172)  Schumann, a. a. O., S. 107ff.
(173)  Schumann, a. a. O., S. 49ff.
(174)  Schumann, a. a. O., S. 108ff.
(175)  Schumann, a. a. O., S. 110.
(176)  Schumann, a. a. O., S. 113.
(177)  Schumann, a. a. O., S. 113ff.
(178)  Schumann, a. a. O., S. 121ff.
(179)  Schumann, a. a. O., S. 54ff.
(180)  Schumann, a. a. O., S. 56ff.
(181)  R. Bloy, Die Beteiligungsform als Zurechnungstypus im Strafrecht, 1985.
(182)  Bloy, a. a. O., S. 125.
(183)  Bloy, a. a. O., S. 138.
(184)  日常取引ないしは中性的態度による場合、幇助の成立には未必の故意では不十分であり、確定的な故意を要するという見解は、古くから判例・学説において主張されてきたということである。例えば、Vgl. RGSt. 37, 321. しかし、中性的な態度の場合にのみ、幇助の成立に確定的な故意を要するという根拠は必ずしも明確ではない。また、行為者の主観的な態度を直接に犯罪の成立要件とすることは心情刑法につながるという批判も存在する。Vgl. B. Tag, a. a. O., S. 50f.
(185)  T. Weigend, Grenzen strafbarer Beihilfe, in;Festschrift fu¨r Haruo Nishihara, 1998, Heft 5. S. 190ff. しかし、通常は社会的に見て無害な態度が、すべて犯罪促進的に作用しないと一概には言えないのではないか。むしろこの問題の本質は、通常は社会的に見て無害な態度が、たまたま他人によってその犯罪実現のために利用されるという意味で犯罪促進的に作用した態度を、いかにして可罰的幇助の領域からはずしていくかということにあるのである。それゆえ、幇助の因果性による解決では、この問題の本質を見誤っているように思われる。
(186)  はしがきでも触れたが、この問題について取り組んだわが国の文献として、松生光正「中立的行為による幇助(一)」姫路法学二七・二八合併号二〇三頁以下が注目に値する。