立命館法学 2000年2号(270号) 112頁




「義務犯」について(一)

− 不作為と共犯に関する前提的考察 −


平山 幹子


 

目    次

は じ め に

第一章  作為犯・不作為犯の区別と支配犯・ 「義務犯」の区別
  第一節  ロクシンによる「義務犯」論の展開
    一  「義務犯」概念
    二  二つの帰結
    三  支配犯における不作為
    四  不作為による「行為支配」
    五  不作為による関与
  第二節  ヤコブスによる「義務犯」論の展開
    一  支配犯・「義務犯」の区別と組織化管轄にもとづく犯罪・制度的管轄にもとづく犯罪の区別
    二  ネガティヴな義務とポジティヴな義務
    三  組織化管轄にもとづく義務・制度的管轄にもとづく義務と作為犯・不作為犯の区別との関係
    四  「義務犯」の正犯資格
    五  「義務犯」領域の拡大と縮小
  第三節  小      括   (以上本号)

第二章  「義務犯」をめぐる論争

第三章  不作為と共犯

むすびにかえて



は  じ  め  に


  一  本稿は、不作為と共犯をめぐる諸問題、とりわけ、不作為犯における正犯・共犯の区別問題を論ずる上での前提的考察として、いわゆる「義務犯」をめぐる議論(1)を検討し、右の問題を論ずる上での視座を得ようと試みるものである。

  二  不作為犯における正犯・共犯の区別問題の主要な関心は、他人の犯罪行為(故意の作為犯)を阻止しなかった者について保障人的地位を肯定しうる場合に、(1)不作為による共犯(幇助)が成立し得るのか、(2)それはいかなる区別基準によるのかにある(2)。ドイツでは、ヴェルツェルやアルミン・カウフマンら目的的行為論者が、「結果回避義務を負う保障人の不作為は、不作為正犯の前提をすべて充たしているので、幇助となることはない」として、「不作為犯については統一的正犯概念が妥当する」との考えを主張したことや、ドイツ刑法一三条が不作為による共犯の問題についての立場決定を留保していることから、(1)の問題についてもなお争いがある(3)。これに対し、わが国では、他人の犯罪の不阻止については不作為による共犯(幇助)が成立し得るし、その際には、「当該不作為による構成要件の実現が作為によるそれと同視できることが罪刑法定原則から要請された不可欠の条件である」との考えが、判例を中心に認められている(4)。要するに、わが国では、不作為による正犯と共犯の区別は可能であって、不作為による共犯は作為による共犯と同視できる場合に成立する、と考えられているのである。
  このようなわが国の考えそれ自体は、妥当であると思われる。というのも、わが国では、不真正不作為犯は、作為による構成要件の実現と同価値であり同置できることを条件に同じ作為犯規定の適用を受けるのだから、作為犯と不作為犯とで正犯概念が異なるわけにはいかず、また、同価値や同置という要件からすれば、正犯と共犯の区別基準も、作為犯と不作為犯とでパラレルになされなければならないはずだからである(5)
  問題は、作為犯と不作為犯とでパラレルな正犯・共犯の区別基準とはどのようなものなのか、である。解答に際しては、さしあたり、作為犯の領域で妥当する正犯原理ないし正犯・共犯の区別基準はいかなるものなのか、それは不作為犯においても維持されうるのかを明らかにする必要がある(6)。この点、わが国でもドイツでも、作為犯における正犯・共犯の区別基準は「行為支配」である、との考えが主流であるといってよい。「支配」概念の理解は様々であるとしても、いずれにせよ「行為支配」が正犯・共犯の区別を方向づける唯一のキー概念ないし基本原理であると考えられているのである(7)
  しかし、「行為支配」はすべての犯罪に妥当しうる正犯原理なのだろうか。「支配」の内容に巾を持たせたとしても、作為犯および不作為犯の正犯性が「支配」によってくみ尽くされるのだろうか。近時、ドイツでは、「特別義務の侵害」を正犯性の核心的要素とする犯罪があるとして、これを「義務犯」と呼び、「行為支配」によって正犯性が基礎づけられる「支配犯」とは異なる取扱いをしようとする理論が展開されている。ロクシン、ヤコブスらによる「義務犯」論である(8)。この理論のそもそもの目的は、それによって種々の共犯理論を実り多いものにすることにあるところ、不作為犯論との関わりにおいても、重要な貢献をなしうるものであるとされている(9)
  右のような「義務犯」論について、わが国の議論は、あまり目を向けずにいるように見える(10)。その背景には、「特別義務の侵害」を犯罪の中核に据える理論に対する抵抗感や懸念、「身分犯」とは別に、「義務犯」というカテゴリーをあらたに認めることの意義についての疑問等があるように思われる(11)
  しかし、右のような懸念や疑問が正当であったとしても、「義務犯」を検討する意義が損なわれるわけではない。この理論が「支配」概念を中心とした従来の正犯理論の限界を問題とし、また、作為犯・不作為犯を貫く正犯原理の構築を試みようとしている点は、作為犯の領域で妥当する正犯原理ないし正犯・共犯の区別基準はいかなるものなのか、それは不作為犯においても維持されうるのかを軸に論じられる不作為と共犯の問題に関して、とりわけ多くの示唆をもたらすものと予想できるからである。

  三  それ故、本稿は、近年ドイツにおける「義務犯」論の展開およびそれをめぐる議論を検討し、正犯・共犯の区別問題をはじめ、不作為と共犯をめぐるいくつかの問題を論ずる上での方向性を探究することにしたい。

(1)  Vgl. Roxin, Ta¨terschaft und Tatherschaft, 7. Aufl. 1999, S. 352ff., Jakobs, Strafrecht AT, 2. Aufl., 1991, 28/16. なお、ドイツにおける近時の「義務犯」をめぐる議論については、Javier Sa´nchez−Vera, Pflichtdelikt und Beteiligung −Zugleich ein Beitrag zur Einheitlichkeit der Zurechnung bei Tun und Unterlassen, 1999 が詳しい。右は、「義務犯」をめぐる議論を本格的に検討したモノグラフィーとして位置づけられる。Vgl. Roxin, a. a. O., S. 696.
  なお、「義務犯」について検討・紹介したわが国の研究としては、中義勝「いわゆる『義務犯』の正犯性」佐伯千仭博士還暦祝賀『犯罪と刑罰(上)』(一九六八)四六三頁以下、同・「クラウス・ロクシン『正犯と行為支配』」法学論集一五巻二号一七二頁以下・同三号二七三頁以下がある。
(2)  同様の指摘をするのは、松生光正「不作為による関与と犯罪阻止義務」刑法雑誌三六巻一号(一九九六)一四二頁、松宮孝明「不作為と共犯」中山研一・浅田和茂・松宮孝明『レヴィジオン刑法・共犯論』(一九九七)一八七頁、山口厚「プロバイダーの刑事責任」法曹時報五二巻四号(二〇〇〇)八頁など。
(3)  平山幹子「不真正不作為犯について−『保障人説』の展開と限界−(一)、(二)」立命館法学二六三号二三七頁以下、同二六四号一四〇頁以下参照。
(4)  不作為犯における正犯と共犯の区別問題について論じているわが国の主要な文献として、注(2)で挙げたものの他に、中義勝『刑法上の諸問題』(一九九一)、神山敏夫『不作為をめぐる共犯論』(一九九四)、大野平吉「不作為と共犯」刑法基本講座第四巻(一九九二)一〇九頁以下、阿部純二「不作為による従犯(上)(下)」刑法雑誌一七巻三・四号一頁以下、一八巻一・二号七八頁以下、斉藤誠二「不作為と共犯」ロースクール一四号(一九七九)一三頁以下、宮澤浩一『刑法の思想と論理』(一九七五)一〇九頁以下、山中敬一『刑法総論U』(一九九九)八四八頁以下、高橋則夫「不作為による幇助犯の成否」現代刑事法二巻六号(二〇〇〇)一〇四頁以下などがある。
  不作為による共犯(幇助)の成立が問題とされたわが国の判例には、@大判昭和三年三月九日刑集七巻一七三頁(投票干渉幇助)、A大判昭和一三年四月七日刑集一七巻二四四頁(詐欺幇助)、B大判昭和一九年四月三〇日刑集二三巻八一頁(詐欺幇助)C福岡高判昭和二五年八月一日判特一二巻一二二頁(密輸幇助)、D高松高判昭和二八年四月四日高刑特三六巻九頁(窃盗幇助)E最判昭和二九年三月二日裁判集九三巻五九頁(公然猥褻罪幇助)F名古屋高判昭和三一年二月一〇日裁特三巻五号一四八頁(放火幇助)G東京地判昭和三四年二月一八日判時一八五号三五頁(傷害幇助)H高松高判昭和四〇年一月一二日下刑集七巻一号一頁(傷害幇助・銃砲刀剣類等所持取締法違反幇助)、I大阪地判昭和四四年四月八日判時五七五号九六頁(不動産侵奪幇助)、J大阪高判昭和六二年一〇月二日判タ六七五号二四六頁(殺人幇助)、K大阪高判平成二年一月二三日判タ七三一号二四四頁(売春防止法違反幇助)L東京高判平成一一年一月二九日判時一六八三号一五三頁(強盗致傷幇助)M釧路地裁平一一年二月一二日判時一六七五号一四八頁(傷害致死幇助)N札幌高裁平成一二年三月一六日判時一七一一号一七〇頁などがある(C、F、K、L、Mは無罪判決。NはMの控訴審である)。もっとも、これらのうち正犯・共犯の区別基準について正面から論じたものは見当たらない(ただし、Fでは放火行為の不阻止について共同正犯の成立も問題にされ、Jでは被告人の不作為を「作為によって人を殺害した場合と等価値なものとは評価し難」いとして殺人幇助とされた)。いずれにせよ、わが国の判例は、不作為による共犯の成立余地を認め(これに対し、結果回避義務に違反する不作為はすべて正犯であり不作為による共犯の成立余地はない、とするのは、Armin Kaufmann, Die Dogmatik der Unterlassungsdelikte, 1959, S. 300ff.;Welzel, Das deutsche Strafrecht AT, 11. Aufl., 1969, S. 222;Gru¨nward, Die Beteiligung durch Unterlassungen, GA 1959, S. 111f.)、また、不作為による幇助と「同視しうること」を必要としている(Mでは、不作為による幇助犯が成立するための一般的要件の一つとして「要求される作為義務の程度及び要求される行為を行うことの容易性等の観点からみて、その不作為を作為による幇助と同視し得ること」が必要とされている)。
(5)  平山「不真正不作為犯について−『保証人説』の展開と限界−(二)」立命館法学二六四号一四〇頁以下、山口・前掲注(2)論文八頁以下、松宮・前掲注(2)一九〇頁。
(6)  なお、不作為犯に関しては、「保障人的義務」の内容が「監視的保障」か「保護的保障」かによって、正犯か共犯かを区別する見解もある。Vgl. Herzberg, Die Unterlassung im Strafrecht und Garantenprinzip, 1972, S. 259ff.;Scho¨nke−Schro¨der−Cramer, StGB Kommentar, 25. Aufl., 1997, Vor §§ 25ff., Rdn. 103ff.;中・前掲注(4)書三三〇頁以下山中・前掲注(4)書八四八頁。しかし、後に本文で示すように、この見解では、義務の種類にしたがった取り扱いの区別自体は妥当であるが、なぜ義務の区分が正犯と共犯の区分に結びつくのかについての理論的根拠は乏しいように思われる。
(7)  Vgl. Welzel, ZStW 58, 1939, S. 543;ders., Das Deutsche Strafrecht Lehrbuch, S. 100f.;Maurach−Go¨ssel−Zipt, Strafrecht AT, 2. Teil., 7. Aufl., 1989, S. 247ff.;Gallas, Ta¨terschaft und Teilnahme, in:Materialien zur Strafrechtsreform, 1. Band, 1954, S. 121ff.;ders., Strafbares Unterlassen im Falle einer Selbstto¨tung, JZ 1960, S. 649ff., 686ff.;ders., Studien zum Unterlassungsdelikt, 1989, S. 92ff.;Ranft, ZstW 94, 1983, S. 815ff.;Kielwein, GA 1955, S. 225ff.;Jescheck/Weigend, Lehrbuch des Strafrechts AT, 5. Aufl., 1996, S. 651ff., 669f.;Scho¨nke−Schro¨der−Cramer, a.a.O., Vor §§ 25ff., Rdn. 62ff.
  なお、「行為支配」を正犯・共犯の一元的な区別基準ないし不可欠の正犯メルクマールであるとする立場から、行為支配論を網羅的に検討したものとして、橋本正博『「行為支配論」と正犯理論』(二〇〇〇)に注目できる。
(8)  前掲注(1)の諸文献参照。
(9)  Vgl. Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 25f.
(10)  注(1)に挙げた中論文以外に、正面から「義務犯」について論じたものは見当たらないように思われるし、右の中論文の「義務犯」論への評価はむしろ否定的である。もっとも、「義務犯」論は比較的あたらしい理論であり、ドイツでもこの理論を正面から検討したモノグラフィーは、Sa´nchez 注(1)以外で見つけることは困難であるとされる。Vgl. Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 19.
(11)  なお、橋本・前掲注(7)書五九頁以下および中・前掲注(1)論文四七一頁以下参照。


第一章  作為犯・不作為犯の区別と支配犯・「義務犯」の区別


  本章では、まず、「義務犯」論の創始者であるロクシンの「義務犯」構想(1)を示す(第一節)。「義務犯」概念がどのように定式化され、関与理論において「行為支配」とならぶ独自の地位を与えられたのか、その目的は何であったのかを明らかにすることが目的である。
  つぎに、右のようなロンシンによる「義務犯」論のさらなる展開として価値の認められるヤコブスの「義務犯」構想(2)を取り上げる(第二節)。ここでは、「義務犯」構想にもとづく不作為犯の取扱いに見られるロクシンとの差異、および.それが不作為による共犯の取扱いに与える影響に注目することにしたい(3)

(1)  わが国でロクシンによる「義務犯」構想を紹介・検討したものとして、中義勝「いわゆる義務犯の正犯性」佐伯千仭博士還暦祝賀『犯罪と刑罰(上)』(一九六八)四六三頁以下、同・「クラウス・ロクシン『正犯と行為支配』」法学論集二五巻二号一七二頁以下、同三号二七三頁以下。
(2)  このような評価は、ロクシン自身によってなされている。Roxin, Ta¨terschaft und Tatherschaft, 7. Aufl., 1999, S. 704.
(3)  「義務犯」論を検討し、ロクシンおよびヤコブスによる「義務犯」論の展開を明らかにしたものとして、Javier Sa´nchez−Vera, Pflichtdelikt und Beteiligung −Zugleich ein Beitrag zur Einheitlichkeit der Zurechnung bei Tun und Unterlassen, 1999, S. 22-47 参照。なお、Roxin, Ta¨terschaft, S. 696, 705.


第一節  ロクシンによる「義務犯」論の展開

  一  「義務犯」概念    ロクシンによれば、「義務犯(Pflichtdelikt)」とは、「構成要件に前置される刑法外の特別義務を侵害する者だけが正犯となりうるような構成要件(1)」のことである。それは、従来、身分犯(Sonderdelikt)と呼ばれてきたものとほぼ内容を等しくするものである。そして、「義務犯」という名称はその名称で呼ばれる犯罪の本質的構造に由来し、その正犯性を認定するための核心的要素を表すものであるとされる(2)。詳しくは、以下の通りである。
  まず、ロクシンは、犯罪行為の正犯を「具体的な行為事象の中心形態」と定義する。しかし、ロクシンによれば、この中心形態は、全犯罪について同じ基準でつきとめられるわけではない。ほとんどの犯罪では、立法者は正犯行為(Tathandlung)を可能な限り明確に記述しており、正犯とは、その条文ごとに記述された行為事象を支配する者である。ここで、支配関係の判断基準は、法律で定められた構成要件に書かれた事象であり、ロクシンによれば、このような基準の妥当する犯罪が「行為犯」あるいは「支配犯」と呼ばれるものである。たとえば、ドイツ刑法二四九条の強盗罪では、「人に対する暴力をもって、あるいは身体もしくは生命にとっての現在の危険をもってする脅迫を用いて、自己または第三者が不法に領得する目的で、他人の動産を他者から奪取した者」と書かれているところ、そのような記述された事象を支配した者が正犯であるとされる(3)
  以上の説明を前提に、つぎにロクシンは、「行為支配」という基準以外のものを正犯基準とする犯罪が存在するかどうかを検討する。そして、たとえば、公務員による供述の強制に対する処罰規定であるドイツ刑法三四三条を例におおむねつぎのように説明する。刑法三四三条は正犯者(行為者)が公務員であることを要求しており、そうでないものが「行為支配」を有していたとしても正犯とはならない。それ故、ロクシンによれば、特別な正犯資格を伴う構成要件を立法者が形成したところでは、「行為支配」は、犯罪行為の中心形態という概念の統一的原理ではない(4)。すくなくともそのような構成要件に関しては、立法者は正犯行為の外部的な性質ではなく、行為者によって請け負われた社会的役割−たとえば、公務員としての役割−の給付要求に制裁の根拠をおいたと考えられる(5)とされる。こうしてロクシンは、そのような犯罪を「義務犯」と名付け、先に述べた支配犯と区別するのである。
  たとえば、非公務員が公務員に無理やり供述の強制をさせたという場合、通常ならば、彼は事象に対する「行為支配」を有すると考えられる。しかし、刑法三四三条は、公務員が取調べをなすにあたり、供述の強制をした場合のみを罰しているので、彼は、本罪の正犯者とはならない。ここで、三四三条の正犯となるために必要なのは、ロクシンによると、公務員としての身分ではなく、その(公務員としての)役割を侵害したこと、つまり、公務員が彼に与えられている適切な審問をなすべき具体的かつ特別の義務を侵害したことである。同様のことは、刑法三〇〇条の秘密漏示罪や二六六条の背任罪、刑法三四〇条や三四八条、三五〇条以下の真正あるいは不真正公務員犯罪についても当てはまるとされる。すなわち、刑法三〇〇条の主体となる医師や弁護士は、その職務において具体的に取り扱った事項に関する沈黙義務を侵害した場合にのみ問題とされ、この関係を離れたところにまで本罪の効力は及ばない。また、刑法三四〇条で、公務員は、その職務の執行にあたり虐待におよんではならないという公法上の義務に違反するが故に、通常よりも刑が加重されるという(6)
  ロクシンによれば、以上のような犯罪は、いずれも、構成要件の実現にとって「特別義務の侵害」を必要としているという点で一致している。つまり、立法者は、これらの犯罪に関しては、関与者の間ですでに確定されている刑法外の義務を引き合いに出しているのであり、そのような刑法外の特別義務を有することによって、義務保持者を行為事象の中心形態としているとされる(7)。それ故、ロクシンは、右のような犯罪を「義務犯」と呼び、そこでは「行為支配」ではなく、「特別な義務の侵害」が正犯基準であるとする(8)。「義務犯」とは、「構成要件に前置される刑法外の特別義務を侵害する者だけが正犯となりうるような構成要件(9)」であるというロクシンの「義務犯」概念は、以上のように説明される。

  二  二つの帰結    では、ロクシンが右のような「義務犯」概念を提唱した目的は何であろうか。その答えの一つは、「義務犯」概念を展開することによって(1)共犯論および(2)不作為犯論の領域でロクシンが導いたつぎの二つの帰結に見いだすことができる。
  まず、(1)共犯論において導かれた帰結は、つぎの通りである。まず、ロクシンによれば、共犯論では、一般に、構成要件問題が重要であるとされる(10)。すなわち、関与者の態度が犯罪の記述に包摂されえない場合、つまり、構成要件的記述によれば関与者は正犯になりえないとされる場合には、教唆および幇助が問題とされる。この点、ロクシンによれば、「義務犯」の場合、正犯態度の外見ではなくて、刑法外の義務が重要となる。そこから、つぎのような結論が導かれる。すなわち、義務を侵害するような行為のみが構成要件該当的となることができ、また、義務を侵害する者はつねに構成要件該当的で、それ故、正犯的に行動しうる。非身分者が正犯とされることはない。要するに、共犯とは、何らかの方法で、正犯性を根拠づける刑法外の特別義務を侵害することなく、構成要件充足に加担した者のことであるという結論が導かれる(11)
  つぎに、(2)不作為犯論において導かれた結論については、以下の通りである。そこでは、まず、作為と不作為との区別に関して、このように説明される。つまり、「義務犯」における可罰性の根拠が行為者に担われた社会的役割の侵害に存在するとすれば、可罰性判断に際して、義務の侵害が作為によって生じたか不作為によって生じたかは、明らかに同じであるとされる(12)。たとえば、囚人を自由にさせたいと望む看守が、義務違反的に積極的な作為によって監獄の扉を開くか、あるいは、命令に反して扉を閉めずにいるかは、逃走援助罪(ドイツ刑法三四七条)の構成要件にとって、まったく異ならないというのである(13)。このことから出発して、ロクシンは「不作為犯はすべて義務犯である」という結論を導く。より詳しくは、以下で示す通りである(14)

  三  支配犯における不作為    ロクシンの見解によれば、立法者が行為の精密な記述を行った構成要件が存在する場合、それは、原則として、支配犯である。構成要件に該当する行為の明確な記述にもかかわらず、そのような構成要件は、一般的な見解によれば、作為のみならず、刑法一三条のもと、不作為によっても実現されうる。その場合、一定の外部的態度、つまり、構成要件において精密に指定された態度によって犯罪が実現されたかどうかは、重要ではない(15)。たとえば、鉄道官が二台の列車の衝突を誤ったポイントの切り替え(作為)によって引き起こしたか、ポイントの切り替えをしなかったこと(不作為)により引き起こしたかは、同罪である。ここで関連する構成要件では、原則的に−特別な刑法外的な義務をまったく示さないので−「義務犯」ではなく、−特定の精密にスケッチされた態度が提示されているので−「通常の」支配犯が問題となるが、もちろんこの支配犯は、不作為によっても行われうるとされる(16)

  四  不作為による「行為支配」    しかし、不作為によって、表現形式的に従えば支配犯であるものが行われた、という場合における関与の適切な区別基準の問題に関しては、ロクシン自身、以下のようなジレンマに気づいている。すなわち、一方で、考慮されるべき構成要件−たとえば、身体傷害、財の侵害等々−は支配犯に見合った文言内容であるために、そのかぎりで多様な関与形式の区別基準として「行為支配」という概念を引き合いに出さねばならないが、他方で、不作為犯においてはまったく支配は認められず、少なくとも作為犯の領域で妥当していた支配概念をそのまま使用するわけにはいかない。というのも、経過の重要な支配は積極的な態度を前提としているが、そのような積極性は不作為による可罰的行為にはまったく存在せず、したがって、事件経過は不作為によって支配されないからである(17)
  この問題を解決するにあたり、ロクシンは、つぎのような見解について検討している。すなわち、介入可能性という意味での潜在的な「行為支配」、あるいは、社会的行為支配という意味で修正された「行為支配」概念によって、不作為犯における「行為支配」を説明しようとする見解を検討している。
  まず、介入可能性による「行為支配」の基礎づけについては、連邦裁判所が「結果回避の可能性のみが不作為者の行為支配を基礎づけうる」と主張している(18)
  しかし、これに対してロクシンは、おおむねつぎのように述べて反対する。すなわち、かりに結果防止の潜在的支配が実際の「行為支配」を意味しているとすれば、結果回避の可能性を有する者はすべて不作為による正犯者となり、行為経過においてまったく従属的な意義しか持たない者であっても、作為的介入により結果を回避しえた場合には行為支配者とみなされるのだから、教唆や幇助は存在しないことになる。たとえば、自殺に対する不可罰の幇助は、不作為によって、要求による正犯的な殺人へと変えられてしまう。ロクシンによれば、このような考えは、結局のところ、結果防止の潜在的支配に加えて保障人的地位という要件が加わることによって正犯の成立を認める見解に行き着くことになる(19)という。
  つぎに、社会的行為支配によって不作為犯における「行為支配」を説明しようとする見解によると、たとえば、(1)母親がその子供を飢死させた場合、社会的にみて、母親は子供を「殺した」のであり、事象を支配しているとされ、母親が十分に子供を養った場合には、あたりまえのことをしたものと評価される。これに対して、(2)水中に落ちてしまった子供を助けなかった父親については、社会的判断によっても父親は子供を殺したのではなく、結果を回避しなかっただけであるとされ、かりに父親が子供を助けた場合には、その父親は賞賛される。つまり、社会的行為支配によって説明しようとする見解では、(1)の場合(母親の例)のように、一定の行為をすることが社会的機能の枠内にある場合には、そのような行為の不作為は実質的に作為と同一のもの、つまり、社会的行為支配を有するものと考えられ、(2)の場合(父親の例)のように、一定の行為が事故等のアクシデントの是正のために法秩序によって命ぜられている場合は、その不作為は社会的意味の上でも秩序の不回復、つまり、単なる不作為であって、右のような意味での社会的行為支配は認められないとされる(20)
  しかし、ロクシンによれば、(1)の場合のみ支配を認めること、つまり、それを原理とする正犯の認定は、誤りである。もし、(2)のような場合に「行為支配」が認められないとすれば、実際上、ドイツ刑法二一二条(殺人罪)の正犯として処罰されると考えられているつぎのような場合についての説明ができなくなるからであるとされる。すなわち、たとえば、溺れかけている水泳者を死に至らしめた海水浴場の監視員がドイツ刑法二一二条の正犯者として処罰されることを説明できなくなってしまうからであるという。というのも、監視員に対する非難は、殺人行為(作為)ではなくて、救助の不作為について向けられているからである。社会的行為支配という基準によると、救助の不作為は正犯とはならず、もし作為の正犯者が存在しない場合には、その可罰性も欠けることになってしまうのである。しかし、ロクシンによれば、不作為犯の通常事例は、概して、(2)の場合のように、非日常的事情によって迫ってくる侵害に対するエネルギーを投入しなかったという事例である。にもかかわらず、社会的行為支配という基準では、そのような事例において不作為者の正犯性が基礎づけられなくなってしまうし、作為の犯罪行為者が関与しない場合には、その可罰性も基礎づけられないことになってしまうが、ロクシンによれば、そこで不作為者の刑事責任が存在することは明らかであり、さもなくば、不作為理論全体がラディカルなものへと変えられてしまう。それ故、不作為者を正犯者たらしめるのは、(右で言及したような意味での)社会的行為支配ではなく、結果回避義務とならざるを得ないというのである(21)

  五  不作為による関与    以上がロクシンによる「義務犯」概念と、そこから導かれる共犯論および不作為犯論における帰結である。もっとも、ここで重要なのは、そこでの基本的考えにもとづけば、本稿が注目する不作為と関与の問題、とりわけ、故意の作為犯に対し不作為で関与したという場合がどのように説明されるかである。
  ロクシンによれば、すでに示したように、不作為による関与は原則正犯として評価される。しかし、たとえば、一身専属的な「義務犯」や加重された支配犯への関与において、結果回避義務はあっても一定の構成要件を正犯的に充足しえない場合には、正犯は成立しえず、不作為による共犯が成立するとされる。ここで、不作為による共犯が成立する積極的理由は、「行為支配」を有する作為者が介在する場合、不作為者はつねに「義務犯」の正犯としての側面と支配犯の幇助者としての側面という二重の側面を持ち、通常ならば競合原理にしたがって正犯の背後に退いている幇助者(共犯)としての性質が、不作為者が構成要件を正犯的に充足しえない場合には表面に現れてくるからであるという(22)。ロクシンの場合、作為であれば支配犯である犯罪の場合、それは、作為犯としては支配犯であるが不作為犯としては「義務犯」であるという二重構造を有し、それぞれ別個の正犯概念が妥当する。そして、不作為正犯は、作為正犯と社会倫理的反価値性という性質においては同置されるが、責任の程度や当罰性の点では同置されえないのであり、「行為支配」を有する作為犯が介在する場合、不作為正犯は作為幇助と同じ重さで処罰されうるとされる(23)。つまり、ロクシンの場合、作為の行為者に対し、不作為で関与する保障人は、不作為の正犯として幇助の刑で処罰され、作為で関与する場合には、作為犯への幇助としてのみ処罰されることになるのである。
  しかし、右の説明には、いくつかの問題が指摘されている。その最も重要な指摘は、関与が作為であれば共犯が成立するのに不作為であれば正犯が成立するという説明は、たとえ量刑に関する矛盾を回避しているとしても、同一の関与行為についての評価矛盾であることは変わらない、作為と不作為が価値的に同置できるものであっても当罰性の点で同置できないというのは、両者の同置ないし同価値性を無視することになってしまう、というものである(24)
  また、不作為による関与についての右のような問題点を別にしても、ロクシンの「義務犯」構想には、つぎのような問題が存在することが、ロクシン自身によって指摘されている。すなわち、特別な「義務」の存在はどのようにして明らかになるのか、どのような「目的論的解釈」によって具体的な構成要件の解釈は導かれるのか、なぜ「刑法外の特別な義務」が犯罪の−可罰的な−構成要件、つまり、刑法内の現象に影響しうるのか(25)である。
  これらの問題に対する一つの答えは、この区別の目的、とりわけ、共犯論の諸問題の説明にある。しかし、次節では、「義務犯論のさらなる展開についての今日までのもっとも重要な貢献」とロクシンが認める(26)ヤコブスの「義務犯」構想を概観し、そこでは右の諸問題の解決策が用意されているか、用意されているとすれば、それはどのようなものかを明らかにすることにしたい。

(1)  Roxin, in:LK, 11. Aufl., 1993, § 25, Rdn. 37;ders., Ta¨terschaft und Tatherschaft, 7. Aufl., 1999, S. 354.
(2)  Roxin, Ta¨terschaft S. 353f.
(3)  Roxin, Kriminalpolitik und Strafrechtssystem, 1970, S. 16.
(4)  Roxin, in:LK, § 25, Rdn. 36.
(5)  Roxin, Kriminalpolitik, S. 17.
(6)  Roxin, Ta¨terschaft, S. 384ff.
(7)  Roxin, in:LK, § 25, Rdn. 36.
(8)  Roxin, Ta¨terschaft, S. 352ff.
(9)  Roxin, in:LK, § 25, Rdn. 37.
(10)  Roxin, Ta¨terschaft, S. 371.
(11)  Roxin, Ta¨terschaft, S. 364.
(12)  Roxin, Kriminalpolitik, S. 18f.;ders., Ta¨terschaft, S. 460f.
(13)  Roxin, Ta¨terschaft, S. 460.
(14)  Roxin, Ta¨terschaft, S. 459ff.;ders., in:LK, § 25, Rdn. 206.
(15)  Roxin, Kriminalpolitik, S. 18.
(16)  Roxin, Kriminalpolitik, S. 19.
(17)  Roxin, Ta¨terschaft, S. 463.
  なお、「行為支配」を不作為の領域にも転用しうると考えるものとして、Gallas, Strafbares Unterlassen im Fall einer Selbstto¨tung, JZ 1960, S. 687;Jescheck, Lehrbuch des Strafrechts, AT, 5. Aufl., 1996, S. 641ff.;Kielwein, Unterlassung und Teilnahme, GA 1955, S. 227.
(18)  BGH 2, 150;BGH MDR 1960, S. 939f. なお、学説では、Kielwein, Unterlassung, S. 227.
(19)  Roxin, Ta¨terschaft, S. 463ff.;ders., in:LK, § 25, Rdn. 205.
(20)  Vgl. Schwab, Ta¨terschaft und Teilnahme bei Unterlassungen, S. 74f.;Henkel, Mschr Krim., 1961, S. 1961, S. 180. Roxin, Ta¨terschaft, s. 465.
(21)  ロクシンによれば、(1)・(2)の区別自体は可能であるが、両者の違いは、義務者的地位の特殊性にある。つまり、(1)は社会的機能義務、(2)は緊急義務の事例であるとされる。しかし、両者とも結果回避義務であるという点では同じであり、結局、社会的行為支配とは社会的機能義務の派生語にすぎないとする。Roxin, Ta¨terschaft, S. 466f.;ders., Kriminalpolitik, S. 19. 中義勝「クラウス・ロクシン『正犯と行為支配』(二)」法学論集一五巻三号九二頁。
  なお、この点については、平山幹子「不真正不作為犯について−『保障人説』の展開と限界−(三・完)」立命館法学二六五号(一九九九)一二二頁以下でも言及しているが、本稿の記述は、それを修正・補充するものである。
(22)  Roxin, Ta¨terschaft, S. 483ff.
(23)  Roxin, Ta¨terschaft, S. 501ff.
(24)  Vgl. Ranft, Garantiepflichtwidriges Unterlassen der Deliktshinderung, ZStW94, 1982, S. 855ff. ロクシンが、不作為犯すべてを義務犯としたことについては、つぎのような批判もなされている。すなわち、ロクシンによれば、義務犯の正犯性を基礎づける特別な個人的義務のメルクマールが欠ける場合、共犯者の場合も、刑法二八条一項により、刑を減軽される。ここで、義務犯の基礎にある刑法外の特別義務は、特別な、個人的義務なので、義務犯である保障人以外の関与者はつねに刑を減軽されることになる。しかし、たとえば、保障人的義務のない通行人が転轍係を教唆して、誤ったポイントの切り替え(作為)による列車事故を生ぜしめたという場合、転轍係は、器物損壊あるいは身体傷害などの正犯であるとされるし、通行人は、刑法二六条により教唆者であるとされ、正犯と等しく罰せられる。その一方で、通行人が転轍係を教唆して、ポイントの切り替えをしないこと(不作為)によって事故を生ぜしめたという場合、転轍係は、器物損壊あるいは身体傷害などの正犯であるとされるが、通行人は刑法二八条一項および四九条によって減刑されることになる。なぜなら、ロクシンによれば、結果を回避すべき保障人的義務は、特別な個人的義務のメルクマールであり、教唆者にはそれが欠けているからである。しかし、教唆者は、通常、転轍係が作為によって事故を実現するか不作為によって実現するかは知らずに教唆しているのに右のような結論に至るのは奇妙であるとされる。そして、このような評価矛盾に陥ってしまう原因は、不作為犯すべてを義務犯であるとしたところにあるとされる。Vgl. Sa´nchez−Vera, Pflichtdelikt und Beteiligung−Zugleich ein Beitrag zur Einheitlichkeit der Zurechnung bei Tun und Unterlassen, 1999, S. 49f.
(25)  Roxin, Ta¨terschaft, S. 384.
(26)  Roxin, Ta¨terschaft, S. 705. 同様の評価をするものとして、Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 29ff.;Lesch, GA 1994, S. 126.

第二節  ヤコブスによる「義務犯」論の展開

  一  支配犯・「義務犯」の区別と組織化管轄にもとづく犯罪・制度的管轄にもとづく犯罪の区別    ヤコブスによれば、「義務犯」とは、「ポジティヴな義務」の違反である「制度的管轄にもとづく犯罪」のことであり、支配犯、すなわち、「ネガティブな義務」の違反である「組織化管轄にもとづく犯罪」と区別される。つまり、支配犯と「義務犯」とは、それぞれの負責根拠によって区別される。支配犯では、組織化自由と結果責任の引き換えという観点から、結果について自由な組織化をなしていた者に負責されるのに対して、「義務犯」では、社会において重要性を有する制度の維持という観点から、制度に由来する「特別な義務」を有する者に負責されるのである。この区別は、作為犯と不作為犯との区別には結び付かない。そして、支配犯では、正犯とは、組織化管轄を有している者、つまり、被害結果を組織化していた者のことであるのに対して、「義務犯」では、制度的管轄を有していた者、つまり、被害法益との制度的な結びつきを侵害した者が正犯とされる。その結果、支配犯では、「だれの組織化自由の結果なのか」ということや組織化の「量」が問題となるのに対して、「義務犯」では、制度に由来する「特別な義務」の侵害が重要であって、それはつねに一身専属的に行なわれるため、「量」は問題とならない。別の言葉で言えば、支配犯では正犯と共犯の区別が可能であるのに対して、「義務犯」では、つねに正犯が成立するとされる(1)
  このように、ヤコブスの見解では、「義務犯」は、その負責根拠において支配犯と区別され、支配犯とは異なる正犯原理ないし概念が妥当するとされる。そして、この区別は、作為犯・不作為犯のそれぞれについてなされる。詳細は、以下で示す通りである。

  二  ネガティヴな義務とポジティヴな義務    すでに示したように、ロクシンの場合、「義務犯」を基礎づける「特別な義務」の由来や位置づけについては、ロクシン自身も認めるように、かならずしも十分に説明されていない。この点、ヤコブスによれば、「義務犯」を基礎づける「特別な義務」の侵害、すなわち、「制度的管轄にもとづく義務」である「ポジティヴな義務」は、「義務犯」の負責根拠そのものであるとされる。そして、それが負責根拠となり得る理由、つまり、法的義務である理由や、支配犯の負責根拠である「ネガティヴな義務」との関係についても説明がなされている。
  そこではまず、支配犯を基礎づける「ネガティヴな義務」が法的義務であることにから説明される。すなわち、ヤコブスによれば、人間の生活におけるあらゆる秩序、つまり、あらゆる社会秩序は、少なくとも「他の人格を侵害してはならない」というすべての人格に課せられた義務を含む。この「他の人格を侵害してはならない」という禁止を遵守するために他の人格との間で必要とされる関係を、ヤコブスはドイツ観念哲学の用語法にしたがって、ネガティヴな関係と呼ぶ。このネガティヴな関係は、合法性の最低条件であり、それは法的秩序が問題となるかぎり自明であるとされる。すなわち、社会が法に適合した状態に至るための条件は「他人を人格として承認すること」であり、この承認の最低限の内容は、他人を侵害したり傷つけたりしないという規範であるという。つまり、法秩序の最低条件が、他人とのネガティヴな関係を維持し、他人の自律性をとどめなければならないという「ネガティヴな義務」であるために、「ネガティヴな義務」は、市民の本来的義務として格付けされ、それに違反した態度への負責を根拠づけるとされるのである(2)
  そして、ヤコブスによれば、社会の秩序は、右のような「ネガティヴな義務」だけを必要とするわけではない。他の人格と共同世界を形成し、その意味で、他の人格とのポジティヴな関係に足を踏み入れるべき義務、すなわち、「ポジティヴな義務」も必要とする。たとえば、親とは、子供を殺害したり怪我させたりしない人のことであるというだけでは不十分であり、子供を育て庇護しなければならない人、つまり、子供と共同世界を形成する人のことでなければならない。ヤコブスによれば、このようなポジティヴな関係およびそれに向けられた義務は、社会のアイデンティティーの決定に不可欠な制度に由来する。そのため、「ポジティヴな義務」は、「ネガティヴな義務」の前提であるとされる。したがって、「他人と共同世界を形成する」人と他人とのポジティヴな関係は、それぞれの社会を存続させための条件であって、それを内容とする「ポジティヴな義務」は、法的義務に属するとされる。
  要するに、ヤコブスによれば、重要なのは、社会形成に不可欠な要素の保護であり、それは人格と人格のネガティヴな結びつきの保護およびポジティヴな結びつきの保護によって可能になる。したがって、ネガティヴな関係の保護を内容とする「ネガティヴな義務」およびポジティヴな関係の保護を内容とする「ポジティヴな義務」は、法的義務であり、それぞれの義務に違反した態度への負責を根拠づける。また、社会のアイデンティティーを決定する諸制度から導かれる「ポジティヴな義務」は、「ネガティヴな義務」の前提であるという点で、「ネガティヴな義務」と「ポジティヴな義務」は社会の形成に関連付けられ、それ故に理論的な区別基準になりうるとされる(3)

  三  組織化管轄にもとづく義務・制度的管轄にもとづく義務の区別と作為犯・不作為犯の区別との関係    つぎに、「ネガティヴな義務」および「ポジティヴな義務」は、それぞれ「組織化管轄にもとづく義務」に違反した作為・不作為および「制度的管轄にもとづく義務」に違反した作為・不作為によって侵害されるのであり、支配犯と「義務犯」の区別は作為犯と不作為犯との区別に結びつかないことについては、つぎのように説明される。
  まず、ヤコブスのいう「組織化管轄にもとづく義務」とはどういう義務なのか、これを簡単に言うならば、「自分の自由な態度から生じた結果についての責任は、自分で負わなければならない」という義務のことである。つまり、行動の自由としての組織化自由と引き換えに、被害についての責任を負担せねばならないというものである。ここで、ヤコブスのいう「組織化」とは、その管理や権限が自分だけに帰属されるという意味での排他的な支配のことであり、自分の組織化領域には、たとえば、自分の身体や所有する土地、家、車、動物、機械などが含まれる。そのような組織化領域を自由に形成することと引き換えに、その領域を他人にとって危険の無い状態に保たねばならないというのである。それ故、ヤコブスによれば、「組織化管轄にもとづく義務」は、「他人を侵害しない」というネガティヴな関係を保護すべき「ネガティヴな義務」を内容とし、その違反は、「ネガティヴな義務」の違反として負責を根拠づけるのである。
  そして、この「組織化管轄にもとづく義務(ネガティヴな義務)」に関しては、侵害を実行に移すことの禁止のみが問題となるのではなく、侵害を孕んだものを抑制するかあるいは完全に取り消すことの命令も問題になるとされる。つまり、「組織化管轄にもとづく義務(ネガティヴな義務)」は、人が積極的に襲いかかかるという作為によっても、他人にとって危険なプロセスを取り除かないという不作為によっても侵害されるという。たとえば、獰猛な犬の飼い主は、自由な組織化としてその犬を所有している。また、車を運転する人は、自由な組織化として自動車運転をしている。そのため、自分の自由な組織化として獰猛な犬を所有する人は、その犬が他人に害を与えないように配慮しなければならないし、害を与えた場合には救助しなければならない。同じように、組織化自由として自動車を運転する運転手は、加速するとか減速しないとかという作為や不作為によって他人に害を与えることのないよう配慮しなければならないし、害を与えてしまった場合には、救助しなければならないというのである。ヤコブスによれば、右の場合に車の運転手が作為や不作為によって他人に害を与えないよう、配慮したり救助したりせねばならない理由は、自由に組織化をなす者は、彼の組織化の結果について責任を負わねばならず、逆に、結果を考慮しない者は、他人に管理されねばならないからである。したがって、「ネガティヴな義務」は、人格による組織化自由との引き換えによって形成され、また、それは作為および不作為によって侵害されるというのである(4)
  つぎに、「制度的管轄にもとづく義務」とは、「一般的に、または特定の危険に対して、一定の法益を保護しなければならない特別な」義務のことである。別の言葉で言えば、社会の存続にとって必要とされる一定の役割を持続的に果たす義務のことである。ヤコブスによれば、何が「制度的管轄にもとづく義務」となるかは、抽象法や社会形態の分析によって導かれる。したがって、「制度的管轄にもとづく義務」は、共同世界の形成に向けられた、社会のアイデンティティーを決定する「ポジティヴな義務」を内容とし、その意味で、「ポジティヴな義務」を基礎づけるものである。
  そして、このような「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」、つまり、共同世界に関する義務に関しても、それが作為で救助することの命令として具体化するのか共同性の条件を破壊することの禁止として具体化するのかは、どうでもよいことであるとされる。つまり、作為犯・不作為犯の区別は、重要ではないのである。たとえば、他人の財産の管理人は、権限のない者から金庫の鍵を返すように要求しない場合(不作為)も、鍵を権限のない者に譲渡した場合(作為)と同じように背任罪を犯しているとされる。また、友人の可罰的行為を義務に反して時効にせしめた(不作為)検察官は、義務に反して進行中の手続を停止した(作為)場合と同様、職務上の犯罪庇護罪を犯している。つまり、「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」も、「組織化管轄にもとづく義務(ネガティヴな義務)」とまったく同じように、それを侵害した作為および不作為の負責根拠になるとされる(5)
  「ネガティヴな義務」を基礎づける「組織化管轄にもとづく義務」および「ポジティヴな義務」を基礎づける「制度的管轄にもとづく義務」を以上のように説明することによって、ヤコブスは、「組織化管轄にもとづく犯罪」、すなわち、支配犯と、「制度的管轄にもとづく犯罪」、すなわち、「義務犯」との区別は、作為犯と不作為犯との区別には結び付かず、いずれの場合も作為および不作為によって実現されうる、との結論を導く。

  四  「義務犯」の正犯資格    以上の説明にもとづいて、ヤコブスは、「組織化管轄にもとづく犯罪」、すなわち、支配犯は、作為・不作為の実現形態にかかわらず、正犯・共犯の区別が可能であるのに対して、「制度的管轄にもとづく犯罪」、すなわち、「義務犯」は、作為・不作為にかかわらず、つねに正犯的に実現されるとする。
  すなわち、支配犯、つまり、「組織化管轄にもとづく犯罪」では、負責判断の際、「だれの組織化自由から生じた結果なのか」という点が重要とされる。結果について組織化自由を有していた人が正犯とされるのである。と同時に、行為者の組織化と侵害経過とを結び付けるプロセスをだれかが組織化していたことも問題となる。簡単にいえば、「組織化」はその「量」を問題にすることができる。そのため、「組織化管轄にもとづく義務」に違反する作為や不作為については、正犯と共犯の区別が可能だとされる。つまり、ヤコブスの場合、支配犯の正犯は、「行為支配」に対応した組織化の拡張の「量」によって決定され、「量」にしたがった正犯と共犯との区別も可能とされる(6)
  これに対して、「制度的管轄にもとづく犯罪」、すなわち、「義務犯」の場合は、作為であれ不作為であれ、つねに一身専属的になされるという。なぜなら、「制度的管轄にもとづく義務」では、被害法益を保護すべき特別な義務の侵害、すなわち、被害法益と制度的な結びつきの侵害が問題であって、この結びつきはつねに直接的だからだとされる。「制度的管轄にもとづく義務」の違反については、「量」の問題は馴染まないのである。別の言葉でいえば、「義務犯」の場合、正犯資格は「制度」に還元されるという。ここで、「制度」と呼ばれるものは、親子関係、夫婦、いわゆる特別な信頼、そして、純粋な国家的義務などである。それは、連帯性の強固な根拠であり、保護の対象となっているのは、「制度の確立」である。それ故、「義務犯」においては、行為者の正犯資格にとって関与の分量は重要ではなく、つねに一身専属的に実行される「特別な義務」の侵害に求めれるという。義務の保持者は、一身専属的に彼に結びつくような特別な役割を果たしているので、他の者はその役割を分担できず、したがって、「義務犯」による関与はつねに正犯と評価されるというのである(7)

  五  「義務犯」領域の拡大と縮小    したがって、ヤコブスによれば、「制度的管轄にもとづく義務」の保持者にとっては、ロクシンが通常の犯罪として取り扱った作為の事例においても、つねに「義務犯」となる。ヤコブスの場合、支配犯、すなわち、「組織化管轄にもとづく犯罪」と、「義務犯」、すなわち、「制度的管轄にもとづく犯罪」の区別は、すべての構成要件に妥当し、制度が関わるすべての事例に、正犯と共犯の区別についてのあらたな基準が適用されるのである。たとえば、自分の子供を殺害する者にナイフを手渡す父親は、ロクシンの考えでは殺人の幇助ということになるが、ヤコブスによれば、殺人の正犯者となる(8)。というのも、この場合、父親は、自身の作為によって子供の保護に向けられた義務、つまり親子関係という制度に由来する「特別な義務」を侵害しているからである。父親の義務侵害は、彼が「行為支配」を有していなくとも、正犯性を基礎づけるものである。つまり、文言が積極的に「義務犯」を示すような構成要件−たとえば公務員の犯罪−に当てはまる態様だけでなく、制度に反する態様はすべて「義務犯」であり、当該構成要件が通常の犯罪として形作られているような場合−たとえば殺人罪−であっても、関係ないのである(9)。したがって、ロクシンの場合、通常の犯罪が「義務犯」として実現されるのは、それが不作為で犯された場合だけであったところ、ヤコブスによれば、それが作為で犯された場合にも、行為者が「制度的管轄にもとづく義務」の保持者であれば、「義務犯」となるのである(「義務犯」領域の拡大)。
  逆に、ヤコブスによれば、不作為犯がすべて「義務犯」となるわけではない。「組織化管轄にもとづく義務」のみを有する者が不作為で犯罪を犯した場合、それは「義務犯」ではない。「組織化管轄にもとづく義務」に違反する不作為は支配犯であり、「組織化管轄にもとづく義務」に違反する作為とパラレルに位置づけられる。そして、たとえば、自分の管理する−つまり組織化する−ピストルを持ち去る犯罪者からそれを取り返さないこと(不作為)は、犯罪者にピストルを譲渡すること(作為)に対応し、いずれも幇助にな(10)(11)という結論が導かれる(「義務犯」領域の縮小)。
  以上のように、ヤコブスの場合、「義務犯」と支配犯の区別は負責根拠における区別であり、作為犯・不作為犯において貫かれることによって、正犯・共犯の区別基準は作為犯・不作為犯で統一的に説明される。その結果、ロクシンに向けられた「関与が作為であれば共犯が成立するのに不作為であれば正犯が成立するという説明は、同一の関与行為についての評価矛盾である」という批判は回避されている点が注目に値するのである(12)

(1)  この考えが要約されている記述として、Jakobs, Strafrecht AT, 2. Aufl., 1991, 28/16;Sa´chez−Vera, Pflichtdelikt und Beteiligung −Zugleich ein Beitrag zur Einheitlichkeit bei Tun und Unterlassen, 1999, S. 29ff.
(2)  Jakobs, Strafrecht AT., 29/58;ders., Die strafrechtliche Zurechnung von Tun und Unterlassen, 1996 S. ff.;ders., Beteiligung bei Herrschaftsdelikten und bei Pflichtdelikten, S. 2;ders., Tun und Unterlassen im Strafrecht, S. 1f.;Sa´chez, Pflichtdelikt, S. 29ff.;51ff.
  なお、右二者は、一九九二年に東北大学で行われた講演原稿および一九九九年に立命館大学で行なわれた講演原稿における該当頁である。阿部純二・緑川邦夫訳「支配犯および義務犯における関与」東北法学五七巻三号(一九九三)四〇頁以下および松宮孝明・平山幹子「刑法における作為と不作為」立命館法学二六八号(一九九九)二五六頁以下を参照されたい。
(3)  Vgl. Jakobs, Strafrecht, 7/70, 28/15;29/53ff.;ders., Tun und Unterlassen, S. 1f., 8f.;ders., Die strafrechtliche Zurechnung, S. 29ff.
(4)  Vgl. Jakobs, Strafrecht, 28/16, 29/29ff.;ders., Die strafrechtliche Zurechnung, S. 19ff.;ders., Tun und Unterlassen, S. 3.
(5)  Vgl. Jakobs, Strafrecht, 28/16, 29/57ff.;ders., Die strafrechtliche Zurechnung, S. 30ff.;ders., Tun und Unterlassen, S. 8ff.
(6)  Jakobs, Die strafrechtliche Zurechnung, S. 22;ders., Tun und Unterlassen, S. 7f.;ders., Akzessorita¨t. Zu den Voraussetzungen gemeinsamer Organisation, GA 1996, S. 262f. なお、支配犯の「行為支配」の内容に関しては、Roxin, Bemerkungen Zum Regreβverbot, in:FS fu¨r Tro¨ndle, 1989, S. 177.
(7)  これに関係して重要となるのは、たとえば特別な役割の保持者でない人、いわゆる非身分者が義務犯に関与した場合、彼はそもそも処罰されるべきなのか、それもどのように処罰されるべきかという問題−たとえば、公務員の妻が買収を唆した場合の取扱い−であるとされる。この問題についての詳しい検討は、後述する(第三章)ことにして、いずれにせよヤコブスは、この問題の結論に作為と不作為との区別は無関係であるとする。Jakobs, Tun und Unterlassen, S. 11f.;ders., Strafrecht, 29/57ff.
(8)  もっとも、このようなヤコブスの考えが明確に書かれた文献は公刊されていないが、本人から直接に説明を受け、また、本人の承諾を得たので、ここに掲載するに至った。なお、Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 34.
(9)  Vgl. Jakobs, Strafrecht AT, 21/115ff. なお、ここで言及したような事例の取扱いをめぐる議論については、本稿第三章で詳述することにしたい。
(10)  Vgl. Jakobs, Strafrecht AT, 28/13ff., 29/14, 29/89f.
(11)  さらに、不作為犯すべてが義務犯ではないという意味での義務犯領域の縮小以外にも、ヤコブスは、身分犯と義務犯との区別という点から、義務犯領域の縮小について述べている。それによれば、たとえば、財産法上の債務履行義務は、制度にもとづく義務ではなく、したがって、それに反しても義務犯にはならない。単なる債務者としての特性は、制度に結び付くものではないので、作為犯および不作為犯を義務犯とすることはない。刑法的に承認された(制裁可能な)義務が制度の一部であるような場合−たとえば公務員や父親−か、偽証罪における証人あるいは秘密漏示罪における弁護士など、義務が制度に由来するような場合にのみ、義務犯は成立するとされる。ヤコブスによれば、身分犯と義務犯とは、正犯の純粋に外見的な限界のみが存在するのか、あるいは背後に存在する制度のために、立法者が限界を設定しているのかという点で区別され、したがって、身分犯すべてが義務犯ではないとされる。Vgl. Jakobs, Strafrecht AT, 25/46;Sanchez, Pflichtdelikt, S. 34f.
(12)  この点については、第二章以下で詳しく検討する。

第三節  小      括

  以上、第一章では、ロクシンによって提唱された「義務犯」構想とはいかなるものであり、ヤコブスによってさらにそれがどのような形で展開されているのかを概観した。その結果、明らかになったのは以下の諸点である。まず、ロクシンによれば、「義務犯」とは「構成要件に前置される刑法外の特別義務を侵害する者だけが正犯となりうるような構成要件」のことであり、「行為支配」を正犯基準とする支配犯とは区別される。この理論の提唱よってロクシンは、(1)共犯とは、何らかの方法で、正犯性を根拠づける刑法外の「特別義務」を侵害することなく構成要件充足に加担した者のことであるという結論、(2)不作為犯はすべて「義務犯」であるという結論を導いた。これに対して、ヤコブスは、「義務犯」とは、制度的管轄(ポジティヴな義務)にもとづく犯罪であり、支配犯とは、「組織化管轄(ネガティヴな義務)にもとづく犯罪」であるとする。すなわち、支配犯・「義務犯」は、負責根拠の相違によって区別され、また、この区別は作為犯・不作為犯を貫くものであるとする。そして支配犯における正犯・共犯の区別は組織化の「量」の問題であるのに対して、制度的管轄にもとづく「義務犯」は、つねに一身専属的・正犯的に行なわれるとされる。それ故、ヤコブスの場合には、作為犯・不作為犯とで正犯・共犯の区別基準はパラレルである。
  次章では、以上のような形で展開されている「義務犯」構想に対していかなる批判がなされ、それに対して「義務犯」論を支持する立場からはどのような説明がなされたかの検討を通じて、とりわけ、すべての犯罪について「行為支配」という正犯原理を維持すべきであるとする見解に見いだしうる諸問題(限界)を明らかにし、不作為犯における正犯・共犯の区別をはじめ、不作為と共犯の諸問題を論ずる上での方向性を探究することしたい。

 本稿は、平成一一年度(一九九九年度)および平成一二年度(二〇〇〇年度)科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による研究成果の一部である。