立命館法学 2000年2号(270号) 1頁




強制連行・強制労働と安全配慮義務(一)

− 合意なき労働関係における債務不履行責任成立の可否 −


松本 克美


 

は じ め に

一  安全配慮義務をめぐる理論状況

二  強制連行・強制労働訴訟における安全配慮義務問題    (以上本号)

三  安全配慮義務の成立と合意

四  強制連行・強制労働における安全配慮義務の成否と内容

お わ り に





は  じ  め  に


  一九九〇年代になってから、数十件提訴されるに至っている外国人が原告となっている日本の戦後補償訴訟の中で、第二次大戦中に自らの意思に反して強制連行・強制労働された被害者やその遺族が日本政府或いは企業を相手取って提訴している訴訟が少なくとも二一件ある(1)
  それらの訴訟においては、国際法或いは国際慣習法上の損害賠償責任や民法上の不法行為責任とともに、労働契約ないし事実上の労働契約関係に基づく賃金未払や安全配慮義務違反に基づく債務不履行責任が追求されている。
  これに対して、国や企業の側からは、強制連行・強制労働の事実自体或いはそれへの関与の否定とともに、仮にそのような強制連行・強制労働への関与があったとしても、そもそも安全配慮義務の成立のためには、合意による契約関係が前提とされていなければならず、そのような関係を欠く強制連行・強制労働には安全配慮義務の成立の余地はないなどの主張がなされている。
  かくして強制連行・強制労働における安全配慮義務問題は、現在日本に問われている戦後補償問題の実践的解決の観点からは言うに及ばず、安全配慮義務成立の法的根拠論にかかわる原理論的な問題をも含んでいるのである。
  本稿ではまず、安全配慮義務をめぐる一般的な理論状況を概観した上で、強制連行・強制労働訴訟における安全配慮義務をめぐる問題の所在を確認し、次に安全配慮義務の成立と合意の問題に関する一般的な判例・学説状況を検討した上で、強制連行・強制労働における安全配慮義務の成否と内容について考察を加えたい。

一  安全配慮義務をめぐる理論状況


1  安全配慮義務概念の登場
  今から二五年前、最高裁第三小法廷がある判決を下した。その判決は契約責任及び不法行為責任の分野におけるその後の判例と学説に巨大な影響を与えることになった。安全配慮義務概念の登場である。
  周知のように事案は自衛隊員の公務災害であった。当初は遺族から国の不法行為責任を追求する訴訟が提訴されたが、事故から四年を過ぎての提訴であり、国が消滅時効を援用し、1審では原告敗訴となった。そこで、控訴審では、一九七〇年代になって下級審判決で採用されるようになってきた使用者としての国の被用者である被害者への安全配慮義務違反を理由とした債務不履行責任の追求が付け加えられた(3)。控訴審では、本件被害者と国の関係は特別権力関係であるとして、安全配慮義務違反の責任は否定された。これに対して、最高裁は次のように判示して原判決を破棄差戻した。

@  「国は、公務員に対し、国が公務遂行のために設置すべき場所、施設もしくは器具等の設置管理又は公務員が国もしくは上司の指示のもとに遂行する公務の管理にあたって、公務員の生命及び健康等を危険から保護するよう配慮すべき義務(以下『安全配慮義務』という)を負っているものと解すべきである。」

A  「右のような安全配慮義務は、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務として一般的に認められるべきものであって、国と公務員との間においても別異に解すべき論拠はなく、公務員が前記の義務を安んじて誠実に履行するためには、国が、公務員に対し安全配慮義務を負い、これを尽くすことが必要不可欠」である。
  このうち、@は民間労働者と企業の間には既に認められていた労働契約上の安全配慮義務を、労働関係という実態では同じ公務員と国の関係に認めたものであり、それまでの安全配慮義務概念の延長線上に捉えられるものであった(4)
  ところがAの判示は、「ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において……信義則上負う義務として一般的に認められるべきもの」としたため、安全配慮義務が成立する根拠や適用範囲、また、この事案でもそうであったように不法行為責任も追求できる場合の安全配慮義務違反責任と不法行為責任との関連、適用すべき規範の問題など様々な論議を呼び起こすことになり、判例上も安全配慮義務の適用領域は労災を中心としつつも、学校事故、欠陥商品事故、旅客施設の事故などに拡大されていった(5)。安全配慮義務論のパイオニアの一人である國井和郎は次のように述べている。「ひとつの判決を契機として、これほど多くの裁判例と議論を生んだ例は他になく、安全配慮義務は現代損害賠償法において最も華やかな領域ということができる(6)。」

2  理論的課題
  ところで、安全配慮義務に関する判例が蓄積され契約責任の拡大現象が進行していく中で、一九八〇年代半ばからは、この義務概念の存在意義を疑い、或いは安全配慮義務が活用されている事案については、むしろ不法行為責任での対処こそが求められるべきだとする議論が展開されるようになってきた。
  その背景の一つに、従来、不法行為責任の追及に比して被害者側にとってメリットと考えられていた加害者の過失の証明の点での安全配慮義務違反の債務不履行責任追及のメリットが、思ったより大きくないのではないかという点がある。その大きな契機となったのが安全配慮義務違反の主張・証明責任を論じた一九八一年の最高裁判決である(7)。この判決は、当該事案における安全配慮義務の具体的内容を特定し、その義務に違反する事実を主張・証明する責任は債権者側、すなわち被害者側にあるとした。こうした主張・証明責任の分配は、被害者が主張・証明すべき安全配慮義務の内容とその違反の具体性の程度によっては、過失を証明するのとほとんど変わらないのではないか、だとすれば、ことさらに安全配慮義務違反構成をすることのメリットはないのではないかというわけである(8)
  第二に、不作為不法行為論、契約関係型不法行為論の発展である。従来、不法行為法規範が特別な関係に立たない一般人に対する不可侵義務ととらえられ、それに対して契約関係或いは契約的関係に立つものの間で生ずる安全配慮義務は高められた義務であると理解されてきた(9)のに対して、そのような契約関係或いは契約的関係にあるものの間に生ずる不法行為上の注意義務は一般人に対する不可侵義務とは異なり、高められた不法行為上の注意義務であり、安全配慮義務と変わらない、或いは変わるべきでないという議論の登場である(10)
  これに対する安全配慮義務の固有の存在意義を肯定する論者からは、不法行為上の作為義務は安全配慮義務のような積極的な安全保護措置の請求までをも含まず、その点に意義が残ると反論がなされたが(11)、この点に対しては更に、不法行為法上の権利として、積極的な措置請求権が認められるとする意見が出されている(12)
  第三に、安全配慮義務違反の責任は何ゆえに債務不履行責任として位置づけられるのかという点での疑問である。生命、身体、財産などの完全性利益侵害は本来不法行為法で処理すべき問題であって契約責任の守備範囲ではないという議論(13)や、給付結果や契約目的との関係で債務の履行過程に位置づけられない安全配慮義務は不法行為責任で処理すべきであるなどの安全配慮義務の縮減論(14)がこの間、精力的に展開されている。
  前者の立場に立つ平野はこう強調している。「不法行為法に不備があるからといって、目先の実益のために契約責任へと逃避すべきではなく、不備があるならその立法さらに解釈上の修正を提案するのが学者の正しい姿勢ではなかろうか(15)。」また後者について、精緻な債務構造論を精力的に展開してきた潮見佳男は、既に一〇年前に次のような指摘をしている。「安全配慮義務論は、激動と混迷の時代を過ぎて安定の時代に入ったといえる。その意味では、今日における安全配慮義務論の課題は、もはや政策論・戦術論の域を出、最高裁判例の到達点と理論構成の客観的把握を基礎として、契約責任を初めとする民事責任の一般理論並びに要件事実・証明責任論との理論的整合性を図る点にあるものと思われる(16)。」
  以上、まとめると、今日の安全配慮義務論の課題として多くの論者により指摘されていることは、安全配慮義務が既存の制度や理論の不備に基因してそれを解決するために「仮託」されているのならば、むしろ正面からそれぞれの不備を解決すべきであり、むしろその固有の存在意義を、不法行為論と契約責任論の理論的到達点を踏まえつつ、体系的に明らかにし、もって民事責任論全体の理論的深化をはかるということであろう。もちろん筆者にとっても全く異論の余地のない課題である(17)
  ところで、一九八〇年代後半から九〇年代にかけて安全配慮義務不要論や安全配慮義務縮減論が華々しく展開されている中で全く念頭におかれていなかった新しい問題が現在、幾つかの訴訟で争われている。新しいといっても事件そのものは古い。それが本稿の冒頭でふれた第二次大戦中の強制連行・強制労働被害者による国及び企業を相手取った戦後補償訴訟である。そこでの大きな争点の一つが、強制連行・強制労働における国、企業の安全配慮義務の成否である。すなわち、合意を欠いた労働関係において安全配慮義務は成立し得るのかという問題である。

二  強制連行・強制労働訴訟における安全配慮義務問題


1  安全配慮義務構成の手段的性格
  ところで、本論に入る前になおひとつ付言しておきたい。強制連行・強制労働事件において原告側が安全配慮義務構成を主張することの背景についてである。

  (1)  戦前の国家無答責論の回避    戦前の日本では、国家の違法な公権力の行使によって生ずる私人への被害に対して、国家は不法行為責任を負わないとする国家無答責の法理が判例・通説とされた(18)。従って、国家の不法行為責任を問う戦後補償訴訟では、国側はこの国家無答責の法理をもって、自らの責任を否定する論拠としている。
  しかし、仮に戦前において、国が国家公務員に対して安全配慮義務を負うとした場合に、国が提供した労働器具の不具合により公務員が死傷した場合に、国は安全配慮義務違反の債務不履行責任を国家無答責の法理により負わないと解すべきであろうか。労働過程における安全配慮義務は、民間企業が労働者に負う安全配慮義務と本質的には変わらないはずで、公権力の行使に固有な問題ではない。従って、国家無答責の法理自体の問題性はおくとしても、少なくともその適用範囲は国の安全配慮義務違反の債務不履行責任には及ばないと解すべき余地があるのではないだろうか(19)

  (2)  民法七二四条後段の除斥期間の適用の回避    仮に国家無答責の問題をクリアしたとしても、次に問題となるのが、民法七二四条後段の権利行使の期間制限の問題である。周知のように、最高裁は一九八九年判決で、「民法七二四条後段の規定は、不法行為によって発生した損害賠償請求権の除斥期間を定めたものと解するのが相当である。」とした上で、「裁判所は、除斥期間にかんがみ、本権請求権が除斥期間の経過により消滅した旨の主張がなくても、右期間の経過により本件請求権が消滅したものと判断すべきであり、したがって、被上告人ら主張に係る信義則違反又は権利濫用の主張は、主張自体失当であって採用の限りではない。」とした(20)
  ところで、強制連行や強制労働自体を不法行為と構成した場合、民法七二四条後段の「不法行為の時」を、遅くとも強制連行され、強制労働させられた被害者たちが帰国したときには終了したものと考えた場合には、その時点から提訴時点までは二〇年が経過していることになる。そして、これが時効期間であれば、国による時効の援用が信義則違反ないし権利濫用であるとして援用制限を導くことも可能であるが、前掲最判によれば、除斥期間についてはその主張が前提とならないので、その主張の信義則違反や権利濫用論は初めから適用されないかのような結論が考えられ、現にそのように判断した下級審判決が幾つか出されている(21)
  強制連行・強制労働を安全配慮義務違反の債務不履行責任と構成することは、以上のような不法行為責任とした場合の七二四条後段適用にかかわる問題点を回避することができる。

  (3)  国際法ないし国際慣習法上の個人の賠償請求権    戦前の国家無答責論や民法七二四条後段の適用にかかわる問題点を回避し、更に安全配慮義務違反に基づく債務不履行責任と法的に構成した場合でも生ずる時効の問題を回避するために、強制連行・強制労働にかかわる個人の賠償請求権の成立根拠を、国家無答責や時効の定めのない国際法ないし国際慣習法に求めることが考えられ、現に多くの訴訟で原告側から主張されている。ただ日本ではこのような賠償請求権についての検討がいまだ十分になされず、これを認める見解が未だ判例・通説に定着しておらず(22)、国や企業の側からはこのような請求権を否定する主張が常に出されている。

  (4)  小括    以上のように、強制連行・強制労働訴訟においては、仮に国や企業の不法行為責任が成立したとしても、戦前の国家無答責の法理や民法七二四条の除斥期間論によって責任が否定されるおそれがあり、それを回避するための手段として安全配慮義務違反の債務不履行構成が追及されている側面があることは否定できない。
  しかし本質的な問題は、そのような問題点回避の便宜的手段としての安全配慮義務構成という側面だけではなく、そもそも強制連行・強制労働の当事者関係において、国や企業は安全配慮義務を負うと考えるのか否かという問題である。
  冒頭で述べた安全配慮義務論の理論状況からすれば、この問題に否と答えるのはたやすい。強制連行・強制労働はそれ自体が不法行為である。契約関係も、また労働することに合意さえもないこのような事実上の労働関係は安全配慮義務の本来の守備範囲を超えるものである。国家無答責や七二四条後段、国際法の個人賠償請求権の問題はそれぞれの制度や理論の是正、発展によってこそ克服されるべきであり、それを追求することこそが「学者の正しい姿勢」である。「理論的諸不合理」をひきおこす安全配慮義務論に「仮託」して解決されるべき問題ではない、そもそも戦後補償は訴訟ではなく立法で解決すべきではないか(23)
  だが、「本来の安全配慮義務概念の守備範囲」とは、どこから産まれるのであろうか。少なくとも、強制連行や強制労働において債務不履行責任をもたらすような安全配慮義務が成立するのか否かを、正面から理論的に研究した著作に私は出会ったことがない。
  本稿はその試みの一つである。

2  判決の検討

  (1)  はじめに    これまで、強制連行・強制労働訴訟において、国、ないし企業の安全配慮義務違反を理由とした損害賠償責任が追及されている訴訟が数件ある(24)。そのうち、三つの訴訟につき既に判決が下されているが、この問題に関して国ないし企業の安全配慮義務の存在を正面から認めたものは1件もない。
  但し、仮に安全配慮義務違反の債務不履行責任が成立するとしても、これに基づく損害賠償請求権が消滅時効にかかり消滅しているとするものが一件、逆に安全配慮義務の存在を正面から否定するものが二件ある。

  (2)  仮に安全配慮義務違反があるとしても時効消滅したとする判決    これに属する訴訟が、日本鋼管強制連行・強制労働訴訟である(別表@)。ここでは原告側は被告企業に対して国際人権法違反による民事責任や民法上の不法行為責任を主張するとともに、使用者たる被告と原告との間には事実的労働関係が成立していたとして、この関係の信義則上の安全配慮義務として、原告の意思の決定の自由を不当に奪って意思に反して連行してはならない、被告工場において本人の意思に反する奴隷的労働をさせない等の義務を負っていたのに、これに違反したと主張している。
  これに対して被告は、本件で原告が主張する安全配慮義務違反の事実は、いずれも労働安全衛生法はおろか労働基準法も日本国憲法も施行される前の大日本帝国憲法下において発生しており、本件当時、被告が原告に対して安全配慮義務を負っていたとは到底考えられないとするとともに、仮に安全配慮義務違反を理由とした債務不履行に基づく損害賠償責任が成立するとしても時効による消滅したと主張した。
,0  これに対して判決は、「仮に本件当時において被告に安全配慮義務が認められ、かつ、安全配慮義務違反による損害賠償請求権が成立したとしても、右請求権は、右の症状固定の時から一〇年経過後の遅くとも昭和二八年一〇月ころまでには、消滅時効の完成により消滅したもの」とした(傍線引用者・以下同様)。

  (3)  安全配慮義務の成立を否定した判決    (a)  鹿島花岡鉱山中国人強制連行損害賠償判決(別表F)  ア  原告の主張  原告は、被告が日本軍の捕虜である原告らを花岡出張所に強制連行し、強制労働、虐待を繰り返したことが、被告の不法行為責任にあたるなどと主張するとともに、次のような安全配慮義務違反に基づく債務不履行責任が成立していると主張する。
  原告と被告の関係は、いかなる意味においても労働力の提供に関する契約関係もしくは被告が労働力の提供を受けることを正当化すべき法令上の根拠は存在せず、強制労働の実態は単なる組織的犯罪行為である。
  しかし、被告と本件労働者との間には、労務提供に伴う指揮命令、使用従属関係が認められ、これは、直接の契約関係に準ずる法律関係が存在する場合に当たるから、被告の本件労働者に対する安全配慮義務が認められるべきである。
イ  被告の主張  安全配慮義務の成立を否定。
ウ  判旨  使用者に安全配慮義務が成立するためには、「当該労働者が当該使用者の指揮監督の下に労務に服すべき明らかな契約関係があること、又は少なくともそれに準ずる直接の契約関係を観念し得る法律関係があることを要する。」
  「安全配慮義務とは、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務として一般的に認められるものである(最判昭五〇・二・二五民集二九・二・一四三)。
  ところで、右にいう特別な社会的接触の関係の前提としての『法律関係』の意義について本件のような労務提供の場面に即して検討するに、安全配慮義務は当事者の意思に関わりなく信義則上認められるものではあるけれども、労務提供に関して使用者の被用者に対する安全配慮義務が認められる根拠が労務指揮権等使用者が労働者の労務を受領し得る正当な法的地位の存在に求められ、これに付随する義務として信義則上一定の内容が具体的な安全配慮義務として要求されるものであることからすれば(最判昭五九・四・一〇民集三八・六・五五七)、右の『法律関係』が認められるためには、当該労働者が当該使用者の指揮監督の下に労務に服すべき明らかな契約関係があること、又は少なくともそれに準ずる直接の契約関係を観念し得る法律関係があることを要すると解すべきである。」
  「原告らが安全配慮義務の発生根拠として主張する『法律関係』は、結局において被告による中国からの強制連行及び花岡出張所における強制労働という支配の事実にすぎず、いずれも本件労働者が被告に対して何ら労務提供の意思を有していなかったことを前提にするものであるが、それが不法行為規範における義務違反の内容としての条理上の義務についての主張ということであればその趣旨を理解し得るものの、そのような義務の違反については除斥期間によって消滅したことは一で説示したとおりであるし、それが不法行為責任とは峻別された債務不履行規範における安全配慮義務違反についての主張ということであれば、被告と本件労働者との間の直接の契約関係ないしこれに準ずる法律関係についての的確な主張ということはできず、いずれも採用することはできない。」

  (b)  関釜訴訟・山口地裁下関支部(別表E)  ア  原告の主張  「帝国日本との間に、両者の合意によって、同原告らが女子勤労挺身隊に入隊し、その隊員として帝国日本の指示に従って行動するとの非典型契約たる『挺身勤労契約』が成立しており、かかる契約の内容として、帝国日本には、同原告らに対し、生け花・裁縫・ミシン等を教え、また、当然に、同原告らの就労中、工場への移動あるいは帰郷等の間の生命身体に対する安全配慮義務があるというべきところ、帝国日本は、右の義務の履行を怠ったから、被告は、同原告らに対し、債務不履行に基く損害賠償の支払を求めることができると主張する。」
イ  被告の主張  「原告らが主張するような私法上の契約として挺身勤労契約なるものがそもそも存在していたのか、また、仮に、国民学校の教師等が挺身隊原告らに対し何らかの働きかけをしたとしても、それが挺身勤労契約の申込みとしての意思表示の趣旨でなされたといえるのか、さらに、国民学校の教師等に右のような意思表示をし、あるいは契約を締結し得る権限ないし法的根拠が存するのか、といった多くの疑問がある。」
  「そもそも原告らが主張する挺身勤労契約は、雇用のあっせんないし仲介をする契約と解されるから、就労先の労働条件を保障し、安全配慮義務を負うことまでは、契約の内容になっているとは考えられず、この点からしても原告らの右主張は失当であるというべきである。」
ウ  判旨「女子挺身勤労令等は、いずれも国家総動員法に最終の根拠をおくいわゆる非常時の動員法規であり、同原告らは、いずれもこれに従い、『志願』の形式をとって帝国日本の総動員体制に組み込まれたものである。したがって、同原告らと帝国日本との関係は、すべて右動員法規によって規律される公法関係というべきであり、この間に、同原告らが主張するような一般私法上の権利義務関係を内容とする合意が介在する余地はない。したがって、右『挺身勤労契約』なる契約関係が成立していたことを認めることはできない。」
  「よって、その余の点について判断するまでもなく、挺身隊原告らと被告との間に『挺身勤労契約』なる契約関係が存在することを前提とする同原告らの請求は失当である。」

  (4)  小括    安全配慮義務の存在を正面から否定した二判決のうち、関釜訴訟判決では、国の安全配慮義務の法的根拠として原告側から主張された「挺身勤労契約」の成立が判決によって否定された。また、花岡鉱業所事件判決では、企業の安全配慮義務の法的根拠として原告側から主張された被告と原告労働者との間の労務提供に伴う指揮命令、使用従属関係について、このような事実上の支配関係からは、安全配慮義務は成立せず、安全配慮義務の成立のためには、「当該労働者が当該使用者の指揮監督の下に労務に服すべき明らかな契約関係があること、又は少なくともそれに準ずる直接の契約関係を観念し得る法律関係があることを要する」とされた。
  従って、検討すべき問題は、強制連行・強制労働における国・使用者の安全配慮義務の成立と契約関係の存否との関連である。契約関係が成立していなくても、労務提供に伴う指揮命令、使用従属関係があれば安全配慮義務が成立するならば、花岡事件判決の前提自体が誤りということになる。また、関釜訴訟判決の原告は、国の安全配慮義務を肯定する根拠を「挺身勤労契約」に求めているが、契約関係を前提としなくても国の安全配慮義務が肯定されるならば、原告とは異なる主張が可能となる。
  そこで、次に安全配慮義務の成立と契約関係・合意の関係について一般的な検討を加えよう。

(1)  後掲別表・強制連行・強制労働訴訟リスト参照。第二次大戦中の強制連行・強制労働の被害者は、朝鮮内で被害にあったものの数が三〇・万人以上、朝鮮から日本に連行されてきたものが八〇万人、中国から連行されてきたもの四万人以上という研究がある。海野福寿「朝鮮の労務動員」『岩波講座  近大日本と植民地』第五巻、一九九三年、朴慶植「資料(一)朝鮮人強制連行関係@」アジア問題研究所報九号、二七頁以下、『資料中国人強制連行』明石書店、一九八七年。これらについては、山田昭次「強制連行された朝鮮人・中国人本人とその遺族の現在」二〇〇〇・五・一一強制連行・強制労働フォーラムで極めてわかりやすい報告がなされた。また山田は、強制連行、強制労働における「強制」の意義について鋭い検討を加えている(同「植民地支配下の朝鮮人強制連行・強制労働とは何か−『強制』の性格を改めて問う−」在日朝鮮人民史研究二八号四三頁以下、一九九八年)。当時の様子を伝えるものとして、古庄正『強制連行の企業責任  徴用された朝鮮人は訴える』創文社、一九九三年、山田昭次・田中宏編著『隣国からの告発』創史社、一九九六年、野添憲治『花岡事件を追う  中国人強制連行の責任を問い直す』御茶の水書房、一九九六年。また筆者は、日本の戦後補償訴訟の現状と課題を概観した別稿を予定している。拙稿「日本における戦後補償訴訟の現状と課題」立命館大学国際地域研究一七号、二〇〇〇年一二月発行予定。
(2)  最三判一九七五・二・二五民集二九・二・一四三。
(3)  七五年判決以前、以後を含めた日本における安全配慮義務論の展開については、拙稿「戦後日本における安全配慮義務論の理論史的検討−労災責任論の展開過程とのかかわりを中心に(1)(2)(3)」早大・法研論集三八、四〇、四三号(一九八六−七年)で検討を試みた。
(4)  なお最高裁自身もその後、民間労働者に対する使用者の同様の義務も安全配慮義務と同じ呼称で呼ぶに至った(最判一九八四・四・一〇民集三八・六・五五七。呉服会社の宿直社員の殺害事件)。この点について、淡路は、「使用者が被用者・労働者の安全を確保すべき義務は、私法的な関係においてもいわゆる特別権力関係においても変わるべきではないから、このような判例の態度は正当なものと評価されるべきである」とする(淡路剛久「債務者の債務不履行と損害賠償」月刊法学教室一七六号八三頁、一九九五年)。
(5)  この間の判例・学説の展開を鳥瞰した近時の論稿として、淡路剛久「日本民法の展開(三)判例の法形成−安全配慮義務」広中俊雄・星野英一編『民法典の百年・』四四七頁以下、有斐閣、一九九八年参照、新美育文「安全配慮義務」山田卓生編集代表『新・現代損害賠償法講座一』日本評論社、一九九七年、二二三頁以下など。また、一九八八年までの主要参考文献、判例リストとともに、それまでの特徴的な論文を集成した貴重な文献として、下森定編『安全配慮義務法理の形成と展開』日本評論社、一九八八年。
(6)  國井和郎「安全配慮義務」月刊法学教室一九三号三〇頁、一九九六年。
(7)  最判一九八一・二・一六。民集三五・一・五六。
(8)  この点を含めて、安全配慮義務の存在意義を早くから疑問視していたのが、新美である。新美育文「『安全配慮義務』の存在意義」ジュリスト八二三号九九頁以下、一九八四年、同「『安全配慮義務の存在意義』再論」法律論叢六〇巻四・五合併号六〇八頁以下、同「安全配慮義務(一)(二)」月刊法学教室一二四号五八頁以下、一二五号五八頁以下、一九九一年。
(9)  奥田昌道は雇用関係における第三者惹起事故に対する使用者の安全配慮義務や労務管理、健康管理の面における積極的な措置義務などは、「一般不法行為行為規範ではとても出てきそうにない」とする。奥田昌道「契約責任と不法行為責任との関係(契約法規範と不法行為法規範の関係)−特に安全配慮義務の法的性質に関連して−」林良平・甲斐道太郎編集代表『谷口知平先生追悼論文集二契約法』信山社、一九九三年、六五頁、六八頁。
(10)  高橋は安全配慮義務であろうと、不法行為上の注意義務であろうと「いずれを根拠とする場合であっても、重要なのは当該危険を防止するために必要とされる措置は何かということであり、この点については構成のいかんを問わず、求められる注意の具体的内容は同一であると解すべきである」とする(高橋眞『安全配慮義務の研究』成文堂、一九九二年、一四八頁。
(11)  奥田は積極的な保護措置義務を含む安全配慮義務違反の場合には、同時に保護法規規範違反の不法行為責任を成立することも考えられるが、「すべての場合にそのように断定できるのかなお問題が残ると思われるので、やはり、安全配慮義務の独自の存在理由を肯定したいと考える。」とする(奥田昌道「安全配慮義務」石田喜久夫・西原道雄・高木多喜男先生還暦記念論文集・中『損害賠償法の課題と展望』日本評論社、一九九〇年、三九頁、四一頁)。また、とりわけ雇用契約上使用者が負う安全配慮義務には、給付義務性を認め、そのことによって労災防止の実効性を高めようとする宮本健蔵、下森定はこの視点を重視する。宮本健蔵『安全配慮義務と契約責任の拡張』信山社、一九九三年、一八〇頁以下、下森定「国の安全配慮義務」下森定編『安全配慮義務法理の形成と展開』日本評論社、一九八八年、二四一頁など。
(12)  高橋は、「不法行為法上の不可侵義務は、自己の行為や支配領域に対するコントロールの要請に基礎を置くものであるとするならば、他人の法益を自己のコントロール下に置いた場合には、右の不可侵義務によって、積極的な安全措置の義務が基礎づけられうることになる。」とする(高橋眞「安全配慮義務の性質論について」奥田昌道先生還暦記念『民事法理論の諸問題・下巻』成文堂、一九九五年、三一六頁)。
(13)  平野裕之「安全配慮義務の観念は、これからどの方向に進むべきか」、椿寿夫編集『講座  現代契約と現代債権の展望二債権総論(二)』日本評論社、一九九一年、三三頁以下。その前提をなす契約責任と不法行為責任との関係についての理論的研究として、平野「完全性利益の侵害と契約責任論−請求権競合論及び不完全履行論をめぐって−」法律論叢六〇巻一号、一九八七年、四三頁以下、同「利益保障の二つの体系と契約責任論」法律論叢六〇巻二=三合併号、一九八七年、五一九頁以下など。
(14)  潮見佳男『契約規範の構造と展開』有斐閣、一九九一年。とくに、二五四頁以下。
(15)  平野裕之・前注13椿寿夫編集『講座  現代契約と現代債権の展望2債権総論(2)』日本評論社、一九九一年、三五頁。
(16)  前注14・潮見佳男『契約規範の構造と展開』二七八−九頁。
(17)  安全配慮義務違反の債務不履行構成で、不法行為構成に対する差異として最大のものの一つが時効・除斥期間の問題である。筆者は、日本で安全配慮義務を初めて最高裁が認めた一九七五年判決の事案もまさにそうであったように、日本の時効制度の貧困さこそが安全配慮義務構成を実践的に生み出し、発展させてきた隠れた原動力の大きな一つであり、そのことは本稿で扱う強制連行・強制労働事件において再び鮮明化してきていると考えている。時効制度と安全配慮義務については、拙稿「時効規範と安全配慮義務−時効論の新たな胎動」神奈川法学二五巻二号一頁以下、一九八九年、その要約として「時効規範と安全配慮義務」私法五二号一四一頁以下、戦後補償訴訟と時効・除斥問題についての筆者の見解として、不二越訴訟の一審判決の評釈(ジュリスト一一一八号一一七頁以下、一九九七年)、同二審判決の評釈(法律時報七一巻一一号一一八頁以下、一九九九年)を参照。
(18)  国家無答責の法理を検討したものとして、宇賀克也『国家責任法の分析』有斐閣、一九八八年、四〇五頁以下、下山英二『国の不法行為責任の研究』一九五八年など。とくに戦後補償訴訟との関連で、西埜章「戦争災害と国家無答責の原則」新潟大学法政論集三一巻二号一〇七頁以下、秋山義昭「行政法からみた戦後補償」奥田安弘・川島真他『共同研究  中国戦後補償  歴史・法・裁判』明石書店、二〇〇〇年、四八頁以下。
(19)  なお前注秋山六五頁は、強制連行や強制労働について、非営利的、非権力的事業とみて、民法規定の適用を認める立論は可能であったように思われるとする。
(20)  最判一九八九・一二・二一民集四三・一二・二二〇九。本判決の評釈として、拙稿・ジュリスト九五九号一〇九頁以下、一九九〇年。
(21)  別表@の日本鋼管強制労働事件第一審判決や、別表Dの不二越訴訟の一審判決、二審判決等。これらも含めて七二四条後段に関する判例動向を批判したものとして、拙稿「消滅時効・除斥期間と権利行使可能性」立命館法学二六一号八一〇頁以下、一九九八年。
(22)  この問題に課して個人賠償を認める明快な論理を展開するものとして、申恵
「国際法からみた戦後補償」前注18・『共同研究  中国戦後補償』八〇頁以下。
(23)  なお、ナチス時代の強制労働に関して、国内外で多数の訴訟をかかえるドイツでは、本年七月六日に、この問題に関する立法的解決をはかるものとして、ドイツ連邦及び企業がそれぞれ五〇億マルクずつ計一〇〇億マルク(約五二〇〇億円)を出資して、ナチス時代の強制労働の被害者に給付金を支給するための「記憶、責任、未来」基金を設立する法律を成立させたことは記憶に新しいところである(das Gesetz zur Errichtung einer Stiftung”Erinnerung, Verantwortung und Zukunft, Drucksache 14/3459)。筆者も強制連行・強制労働を含めて、戦後補償問題については早急に立法的解決が図られるべきであると考えているが、だからといって訴訟上の請求権が安易に排斥されるべきではないとも考えている。この点での筆者の立法的責任論については、拙稿「権利行使条件の成熟度と時効・除斥期間制度の紛争解決阻害性−じん肺訴訟・戦後補償訴訟を中心に」法社会学五三号、二〇〇〇年発行予定及び前注1の拙稿「日本における戦後補償訴訟の現状と課題」を参照していただければ幸いである。


(24)  別表@、E、F、I、P、Sなど。

(別表)  強制連行・強制労働訴訟リスト
(俵義文氏作成リスト*を松本克美が補充  2000年7月13日現在)
* http://www.linkclub.or.jp/teppei−y/tawara%20HP/sengo%20hosyou.html

@  日本鋼管損害賠償請求訴訟  東京地裁91.9.30  提訴
      97.5.26第一審判決  ×  判時1614.41  99.4.6  和解
A  強制徴兵・徴用者等に対する補償請求訴訟  東京地裁91.12.12  提訴
      東京地判96.11.21  ×
B  金順吉三菱造船損害賠償訴訟  長崎地裁92.7.31  提訴  ×
      長崎地判97.12.2  判時1641.124  福岡高裁97.12  控訴
      福岡高判99.10.1  第二審判決・控訴棄却
C  侵略の被害者と遺族369人の謝罪請求訴訟  東京地裁92.8.28  提訴  ×
      東京地判92.3.25  判時1597.102  ×
      東京高判99.8.30  判時1704.54  ×
D  不二越未払賃金請求訴訟  名古屋高裁金沢支部92.9.30  提訴  ×
      名古屋高裁金沢支判96.7.24  第一審判決  労判699.32  判タ941・183
      名古屋高判98.12.21  (棄却)
      最高裁2000.7.11  和解  解決金+不二越社内に労働に感謝の碑
E  関釜訴訟・「従軍慰安婦」・女子挺身隊公式謝罪請求訴訟  山口地裁下関支部92.12.25  提訴
      山口地裁下関支判98.4.27  判時1642.24  一部勝訴
      広島高裁98.5.1  原告・敗訴部分控訴98.5.8  国側控訴
F  鹿島花岡鉱山中国人損害賠償請求訴訟  東京地裁95.6.28  提訴  ×
      東京地判97.12.10  判タ988.250  ×
      東京高裁97.12.11  控訴99.9.10(裁判所が和解勧告)
G  新日鉄朝鮮人損害賠償請求訴訟  東京地裁95.9.22  提訴  □
      97.9.18  企業と和解成立,国相手の訴訟は継続
H  三菱重工朝鮮人損害賠償請求訴訟  広島地裁95.12.11  提訴  ×
      広島地判99.3.24  棄却
I  中国人(劉連仁)損害賠償請求訴訟  東京地裁96.3.15  提訴
J  三菱重工朝鮮人(広島第2次)損害賠償請求訴訟
      広島地裁96.8.29  提訴 NO. 9 と同じ事件。追加提訴の原告40名
K  東京麻糸紡績・沼津工場朝鮮人女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟
      静岡地裁97.4.14  提訴
L  中国人強制連行・強制労働第2次(集団訴訟)損害賠償請求訴訟
      東京地裁97.9.18  提訴
M  中国人損害賠償請求・長野訴訟  長野地裁97.12.22  提訴
N  日鉄大阪製鐡損害賠償請求訴訟  大阪地裁97.12.24  提訴
O  西松建設損害賠償請求訴訟  広島地裁98.1.16  提訴
P  中国人損害賠償請求・京都訴訟  京都地裁98.8.14  提訴
Q  三菱重工名古屋・朝鮮人女子勤労挺身隊賠償請求訴訟  名古屋地裁99.3.1  提訴
R  中国人(張文彬)損害賠償請求・新潟訴訟  新潟地裁99.8.31  提訴
S  中国人損害賠償請求・北海道訴訟  札幌地裁99.9.1  提訴
21  中国人損害賠償請求・福岡訴訟  福岡地裁2000.5.10  提訴