立命館法学 2000年3・4号下巻(271・272号) 833頁




世紀転換期の現代行政学

− 現代アメリカ行政学の自画像をてがかりに −


堀 雅晴


 

目    次

は じ め に

一、既成行政学の形骸化

二、Kettl の政治思想アプローチ

三、Stillman の欧米比較アプローチ

四、Uveges と Keller のパラダイム・アプローチ

まとめにかえて





は  じ  め  に


  世界における現代行政学は周知のとおり、Woodrow Wilson の論文 The Study of Administration(一八八七年)を嚆矢とするアメリカ行政学を中心に発達してきた。そして今日でも、アメリカ行政学から大きな影響を理論的にも実践的にも受けている。もちろん日本行政学もその例外では無く、アメリカ行政学から積極的に多くを学んできた。例えば、日本行政学会創立三〇周年総会(一九八一年)での記念講演と各報告は、その証左となっている(1)。しかし、同学会創設五〇周年記念講演会とパネルディスカッション(二〇〇〇年)では、対照的にアメリカ行政学への直接的な言及はごくわずかしか聞かれなかった(2)。各報告者およびディスカスタントはいずれも自分の「行政学像」を個性的に語り、その意味で後退的でも否定的でもまったく無く、むしろ喜ばしい状況であるといえよう。この背景には、日本行政学が研究者数の増大により研究の質量両面での向上や海外交流の進展を通じた大きな発展があり、今日では独自の教科書や講座の刊行に結実するまでの研究が蓄積されるまでになっているのである(3)
  日本行政学には、そうした到達があるからといって将来展望を確実に描けるだけの力量が果たして備わっているといえるであろうか。残念ながら同パネルディスカッション(3)のテーマである「行政学の現状とその展望」では、大方の理解と納得が深まる方向で議論が詰まったとは到底言い難いと思われた。逆に、周知のとおり九〇年代に欧米諸国において「ニュー・パブリック・マネージメント」(New Public Management、以下NPMと略す)や「ニュー・マネージェリアリズム」(New Managerialism)などと呼ばれる新たな行政の理論と実践が大きな潮流として台頭しており(4)、その真只中にあって日本行政学が将来に向って肯定的に自己を発展していけるかどうか、かえって深刻に問われたとの感を強めることになった。従ってこれを機に、今後日本の学会にとってはこのテーマを基調に活発な議論を交していくことが大切になったであろう(5)。その際に、私は少なくとも次の二つの問かけが大切ではないかと考えている。一つは、日本行政学がこれまで学んできたアメリカ行政学に肩を並べるだけの世界に発信できる個性的な行政学理論を果たして構築しえているだろうか(6)、である。いま一つは、そのために必要な比較理論研究(例えば、手島孝のいう『濾過装置』)が基礎的な準備作業として着実に蓄積されてきているだろうか、である(7)
  さて本稿の目的は、以上のところまでで述べてきた問題意識からこの二つの問かけに自分なりの回答を用意するため、必要な手続きとしてできるところから着手することである。具体的には、第一に世紀転換期にあってグローバリズムの進展のなか国際社会と国民国家および地域社会・集団・個人が大きく変動しており、そして欧米や日本の行政学が従来から立脚し続けてきた学問的諸前提も動揺を繰り返すなかでその内部から形骸化するという事態を迎えているわけで、その特徴を概括的にでも押さえて現代行政学の現状を確定しておくことである。第二に、そうした事態に直面して、世界の行政学の中心を占め続けている現代アメリカ行政学は自らの学問研究の状況についてどのような認識を持っているのか。換言すれば、いかなる自画像を描いているのかについて典型的と思われる三つのアプローチを順に紹介し検討するなかで、世紀転換期の課題に応えうる行政学像の探究の手がかりを得ることである。では、さっそくみていこう。

(1)  日本行政学会編『(年報行政研究17)行政学の現状と課題』(ぎょうせい、一九八三年)参照。
(2)  直接言及したのは、今里滋のみであった。『二〇〇〇年度日本行政学会総会・研究会要項』(日本行政学会、二〇〇〇年五月)、久保はるか「二〇〇〇年度日本行政学会総会・研究会報告」『季刊・行政管理研究』No. 90, 二〇〇〇年、参照。
(3)  教科書では、西尾勝『行政学』(有斐閣、一九九三年)、今村都南雄ほか『ホーンブック行政学』(北樹出版、一九九六年)、森田朗『現代の行政』(放送大学教育振興会、一九九六年)、村松岐夫『行政学教科書』(有斐閣、一九九九年)。西尾・村松編『講座行政学(全六巻))』(有斐閣)が、一九九四年から一九九五年にかけて刊行された。
(4)  拙稿「世界の行政改革論議」『経済科学通信』基礎経済科学研究所、No. 87, 一九九八年七月、参照のこと。
(5)  例えば、西尾勝は日本行政学の再構成にあたって「国際化」と「国産化」の課題を指摘し、そのなかで特にアメリカ行政学の受容問題に由来する管理学的研究の圧倒的弱さの克服を提起している(「行政制度の再編制と行政学の再構成」「季刊・行政管理研究」No. 86, 一九九九年)。新藤宗幸は「この一〇年[一九九〇年代−引用者、以下同様である]は、学としてのあり方を厳しく問われる時代」であったとして、日本行政学の現状が「先鋭な規範意識とそれにもとづく制度設計論指向」の低調・希薄、行政研究者の増加による制度評価と改革方向の拡散、「伝統的パラダイム」批判のマイナスの影響、を指摘する(「日本における行政学・地方自治論の意義と課題(報告要旨)」『二〇〇〇年度日本政治学会研究会報告要旨』日本政治学会、二〇〇〇年、二四頁)。
(6)  今里滋の発言(久保はるか、前掲、五〇頁)、参照。ちなみに、イギリス行政学の現状と今後の展望に関する R.A.W. Rhodes の見方は参考になるであろう。彼は既成行政学が行動論の攻撃によってではなくて、八〇年代のマネージャリズムと公共選択論のインパクトによって衰退してしまったと現状をみている。しかし、イギリス行政学が生き残ることができるとするならば、それは行政学のアカデミックへの貢献のまさにその質によってであるとその展望を語っている(R.A.W. Rhodes,”From Institutions to Dagma:Tradition, Eclecticism, and Ideology in the Study of British Public Administration, Public Administration Review, Vol. 56, No. 6, Novenber/December 1996)。
(7)  手島孝は、一九九五年に『アメリカ行政学』(日本評論社、一九六四年)を復刻した理由を述べたところのなかで、「日本経済社会の驚異的発展と国情の違いが、近来とみに、もはや欧米諸国に学ぶところなしとの思い上がりを学界にすら助長しているかに見える」(「復刊にあたって」、黒ナ)との所感を吐露している。また今村都南雄は、自著への「書評」(日本行政学会編『(年報行政研究33)行政と責任』ぎょうせい、一九九八年所収)の後でも、「今日、[辻清明が四〇年近く前に指摘した外来理論に対する批判的研究の弱さの]事態はどれほど変っているだろうか。さほど変っていない」との認識をさらに強くしている(同『行政学のパースペクティブ−『基礎理論』案内−』地方自治総合研究所、一九九八年、九三頁)。


一、既成行政学の形骸化


  現代行政学は、劇的変化をとげる環境変化のなかで既成行政学(traditional Public Administration)自身が立脚してきた学問的諸前提の形骸化に直面している。そこで、B. Guy Peters と Vincent Wright(1) の議論を参考にしながら、七〇年代以降の公共選択理論をはじめ九〇年代のNPMや「ニュー・マネージェリアリズム」などと呼ばれる新たな行政学の理論と実践によってもたらされているそのような事態を、日本行政学の学問的諸前提の状況とともに概観してみたい。

A  自己完結性の前提
  既成行政学では、行政組織が自らで国民にサービスを直接提供すること(=自己完結性(self−sufficiency))を自明のことと考えてきた。しかしこの前提が八〇年代の新自由主義的諸改革のなかで、民間委託・民営化・規制廃止(deregulation)を通じた競争化の手法の採用、さらには市場化や準市場(quasi−markets)の導入によって挑戦を受けている。また既成理論では自己完結性とともに、「単一の孤立した行政組織(2)」モデルもあわせて前提としていた。しかし、今日では行政組織の内外を通じたネットワーク型の組織展開が理論的にも実践的にも明らかになってきている(後述)。
  以上の指摘は日本行政学が依拠する前提状況にも十分に当てはまる。八〇年代の臨調行革以降今日まで、民間委託をはじめ民営化や規制緩和の実施から始まり、最近では社会福祉事業法の改正や介護保険制度の導入により「措置から契約へ」とのキャッチフレーズで市場化や準市場の創設が取り組まれている(3)。またこうした動きを従来から事実上裏付けてきた公共選択理論が、「行政関与のあり方」についての理論的な基本枠組みの明文化にあたって公式に採用されるまでになった。いわば、名実ともに日本における行政改革論の「公認の哲学」になったといえる(4)

B  ヒエラルキーの前提
  既成行政学では、ナポレオン型行政モデルの組織原則にまで起源が遡られるといわれる直接的コントロールないしはヒエラルキーを前提にしている。これは、上位者からの命令が下位者の喜び並びに報賞を伴なった服従によって確保されていること、あるいは法の支配とアカウンタビリティ・システムが作動している場合にも相変わらずヒエラルキーの媒介によって大臣と多くの下位者との結合が決定的に保たれていることを意味している。しかし、今日ではこの前提は「エンパワーメント(権能付与)」(empowerment)に取って代わられている。この考え方は、元来組織理論家によって公私の組織の違いにも関わらず民主主義の導入として提唱されてきた長い歴史がある。そして九〇年代に入り先進国政府がマネージメント・スタイルの変更のなかで、積極的に取り入れてきたことが知られている(例、カナダ連邦政府の PS2000、米国連邦政府の National Performance Review(以下、NPRと略す)、英国政府の the Citizens Charters など)。「エンパワーメント」は下位者と顧客の両方に権能を付与することで、下位者には自分の職務に対するコントロールとアカンタビリティが、顧客には増大された権能を活用した参加意欲の高揚と顧客指向型サービスへの期待増大が、それぞれ約束されることになる。
  以上の指摘は、日本の状況からみるとどうか。一言でいって、課題設定それ自体があいまいなままの状況である。行政組織では、一方で下位者への「エンパワーメント」は、職場環境に大きな相違があるが一般的に見ていわゆる「大部屋主義(5)」のもとで「エンパワーメント」の実質が相当程度に確保されているかのようにみえる。他方で顧客へのそれについては、法制度的な保障が直接用意されるところまでにはまだ至っていない。先進自治体でのオンブズマン制度の導入を皮切りに、行政評価制度の導入・外部監査制度の法制化・介護保険制度に関わる介護サービス評価委員会の検討(6)などが最近話題になっているが、それらのデザインには説明責任の指摘はあっても顧客への「エンパワーメント」の視点が明示されるまでにはなっていない。NPM型行政改革と評されたりする三重県の「さわやか運動」は「県民の皆さんへ」(九八年四月)を発表して県民への説明責任を果たす姿勢を明確に打ち出しNPO支援の面でも積極的ではあるが、県民への「エンパワーメント」の面は今後の課題となっている(7)。さらに、「エンパワーメント」の議論では欠かせない Total Quality Management(TQM)はどうか(8)(表1)。日本の民間企業において広く導入され先進国政府のなかでも浸透しつつあるTQMであるが、日本の行政組織ではほとんど話題すらなっていない。その理由に、政治的任用の未発達による堅固なキャリア官僚制の存在、中央省庁による計画・財政・人事など広範囲な統制、垂直的中央地方関係、年功序列型給与制、コンセンサス重視の稟議制、官への高い信頼感等の行政文化があげられる(9)。もしそうだとすれば、今後日本でのTQMの導入・普及はヒエラルキーの前提が形骸化したことを示す指標の意味を果たすものと言えるであろう。

 

C  同一性の前提
  既成行政学は、同一性(uniformity)を共通の前提にしている。すなわち、「全ての市民は国家から等しい便益を可能な限り受け取り、かつ国家を支えるために等しい負担を担うべきである」(p. 633)という考え方である。現代行政国家、とりわけ福祉国家の成立のなかで、この前提は正当化されてきた。しかし反・中央化と反・集中化に向けた新保守主義勢力からの攻撃をはじめ、民間企業での生産ラインの細分化に連動する形で、行政組織は自らの課題や政策を差別化・焦点化し始めた。その端的な例は、英国の「ネクスト・ステップス(Next Steps(10))」政策である。これにより設立されたエイジェンシーは効率性が重視され、各エイジェンシーの顧客はまったく異る取り扱われ方がなされる。要するに、同一性の前提が「一つのサイズが全てにフィットすることは、ますます多様化する社会において適当なことではないかもしれない」(p. 634)という新たな認識に取って代わられることになる。
  以上の指摘は、日本の状況にもぴったり当てはまる。国鉄の民営化以降、全国一律の運賃体系が改められ、JR各社間および同一社線内での都心路線と地方路線での二重の運賃格差が生じている。また、八五年の「地方行政改革大綱」(自治省通知)以降今日に至る一連の自治体改革の中において「選択と責任(負担)」が強調され、それまではいわゆる「横並び」だった公共サービスの利用料・手数料等が今日では自治体間で差が生じていることを疑問に思うものはいない。この点で極め付けは、二〇〇〇年四月から実施されている介護保険制度であろう。厚生省による事実上の一元的な予算管理(=サービス提供総量の決定)の下で同省の示す全国一律のサービス提供基準で運用されているにもかかわらず、(国の財政調整措置はあるが)財政責任は自治体毎に担わされていため住民から徴収する介護保険料に格差が発生している。高齢化の地域的差異とともに自治体財政の力量差を反映する格好となった今回の保険料設定は、全国の市で比べると最低・最高の間で一・五倍以上(全国市長会調査(11))、同一県内でみても例えば福島(一・六六倍)・石川(一・六二五倍)・岩手(一・五二倍)・長崎(一・五一倍)・京都(一・三四倍(12))の開きが生じている。
  日本での「独立行政法人」の設立は、英国のエイジェンシーの経験がヒントとなっている(13)。現在のところ、その設立は国立研究・試験機関等からはじまり、数年後には国立大学でも誕生する運びとなっている。各大学法人の財政力の強弱によって、学生の納付金(授業料)に差が生じることになるかもしれない。ここでもっと強調されていいことは、村松岐夫が指摘するとおり、制度改革論としての「エイジェンシー化」の意味が「行政学の前提に関わる大きな変革の種」の「埋め込(み(14))」にある点であろう。

D  上向きのアカンタビリティの前提
  既成官僚制モデルは、大臣責任制の原則により匿名性をまとった官僚が大臣に対する応答責任(responsibility)と国民(主権者)に対する「上向きのアカンタビリティ」(accountability upward)を果たすことを建て前として考えている。しかし既にみたエージェンシーやサードセクターの拡大あるいは市場化のなかで、応答責任の範囲がきわめてあいまいな状況になってきている。また英国でのエージェンシーの経験は、大臣が応答責任を回避する傾向にあることを教えているし、NPMの考え方には大臣の行政活動の最前線からの引き離しが含まれている。しかしこうした「上向きのアカンタビリティ」の問題性については、擁護者から政治的アカウンタビリティには何ら影響がないとの反論があるという。その理由は、政治的アカウンタビリティの確保を「アカウンタビリティ原則が公共サービスの顧客にまで引き下げられること」(p. 635)と単純に考えているからである。例えば、市民に公表された指標による質とパフォーマンスの評価に基づいた幹部への任命はその一例であり、「下(=市民)向きアカウンタビリティ」の原則を高めるための方策とみている。
  さて、以上で指摘されていることは、日本の状況ではどうか。諸々の改革の動きがあるとはいえ、「上向きのアカンタビリティ」は堅持されたままとみていいだろう。この点で最近注目を集めるものに、「政策評価」制度の導入(二〇〇一年一月実施予定)がある。「政策評価の導入に向けた中間まとめ」(政策評価の手法等に関する研究会、二〇〇〇年六月三〇日)が公表されたが、この評価は変らない。その理由はこうである。冒頭の目的に「国民本位の効率的で質の高い行政の実現」と並んで、確かに「国民に対する行政の説明責任(アカウンタビリティ)の徹底」と「国民的視点に立った成果重視の行政への転換」が挙げられている。しかし前者ではその中心は情報ギャップの改善であり、後者は将来の課題となっている。次に基本枠組において、「政策評価」は行政組織内のマネージメント・サイクル(Plan−Do−See)に位置付けられる。従ってこの内容であれば「自己評価としての政策評価」であり、「上向きのアカンタビリティ」あるいは大臣への応答責任に類するものと判断できる。換言すれば、「下向きのアカウンタビリティ」には、それに相応しい国民への結果責任を明らかにできる制度デザインが別に用意される必要がある。その下では、他者(=国民)評価として活用される「政策評価」が新しく生まれる。その点で西尾隆による「外在的統制の優先的命題」の提起は、アカンタビリティにおける「上・下向き」の視点を一層深めるものとして重要である(15)

E  標準的エスタブリッシュメント編成の前提
  既成行政学の中心的な特徴のひとつは、標準的エスタブリッシュメント編成(standardized establishment procedures)に沿った明確なキャリア構造とメリットシステムに基づく公務員制度にある。しかし当該制度の多くが攻撃を受けており、民間セクターの人事管理が導入されてきている。そのなかでも重要なもののひとつが業績給(pay for performance)の導入である。業績給とは、「パフォーマンスを報奨金に結び付けることにより職員をより高いパフォーマンスと生産性へと動機付ける(16)」ものである。すでに数多くの難問が持ち上がっているが、Ingraham によれば次の二つになる(P. W. Ingraham, 1993)。ひとつは、パフォーマンスの測定方法、プログラムの成功・失敗と個々人との因果関係、経営者的役割の強調と政策アドバイスの軽視の傾向に関する問題である。いまひとつは、業績給のような個人指向とTQMのようなグループ指向との管理テクニック上での対立、個人別成績給与制と公務員の考え方(=全体の奉仕者)との両立可能性、不安定な有期雇用契約者の流入に関するそれである。従って、いずれの変化も既成行政学が従来から強調してきた「訓練、エートス、そして政治からの隔離が重視された公務員のキャリアの固有性」(p. 636)という公務員制度の枠組を掘り崩すものである。そしてNPMなどは、民間からの短期契約者の採用による新しいリクルートのパターン化と幹部職員の目標と文化の再定義をつうじて、「彼らの顧客に、効率的で特別の要求に敏感な、マネージャー、起業家、『行為者』」(do.)へとその養成をめざしている(17)
  以上の指摘は、現在日本において進められている公務員制度改革の議論とおおいに重なる(18)。最近の人事院勧告(二〇〇〇年八月一五日)では、「年功や人事グループ等の別に基づくこれまでの公務員人事管理を能力・実績や適性を重視したもの」(「(別紙第三)公務員人事管理の改革に関する報告」)へと改革することが明言された。すでに公務員制度調査会答申(九九年三月一六日)でも、「能力・実績に応じた昇進・給与」が基本的な改革方向の一つに取り上げられている(19)。また私の「市民公務員」の提案は、ボランティア課長をボランティア公募(九九年八月)で採用した大阪府池田市で現実化した(20)

F  政治とは無関係な公務サービスという前提
  既成行政学の前提は、従来「公務員制度が政治的に中立的である、あり得る、あるいはあるべきである」(p. 636)という考え方に立ってきた。もちろん実際には、この前提がヨーロッパの多くの諸国で侵害されてきたことはよく知られている。さて世紀転換期の政治的現実は、政治家と上級幹部公務員にとってどうか。まず政治家はどこの国でも統治能力を失っていながら、上級幹部公務員の有する積極性や逸脱性に対する非難が、政治家の経営能力と政策能力の欠如以上に浴びせられている。次に上級幹部公務員は一方で積極的でかつ起業家的に組織目標を追求しなければならないとされ、他方で顧客に対するサービスも改善しながら政策を追求すべきであるとされ、このふたつの期待が衝突している。さらに以上の実証研究に加えて、公務員の政治的役割の二つの理論化の試みがある。ひとつは「新制度主義(new institutionalism)」である。このアプローチでは、「制度は『それが自らのメンバーに教え込もう、そして政策形成のためのメカニズムとして利用しよう』と試みることでその価値を具体化する」(p. 637)ことを強調している。いまひとつは、組織利益の重要性を強調する「合理的選択(rational choice)」である。このアプローチでは組織が自らの予算の極大化と自らの柔軟性向上のために、指揮命令でのリソース・専門的技術や情報を利用する。この見解では官僚組織は政治家との同盟という党派的理由からではなく、集団の増強という理由から政治家への抵抗を行う、いうなれば自己利益に動機づけられたアクターであるとみなされる特徴がある。
  さて以上の指摘は、日本の状況にも当てはまるところがある。近年のことでいえば、九九年に国家公務員の兼業禁止問題がクローズアップされた。結局「閣議了解」(九九年一一月三〇日)で国立大学教官を中心に規制が緩和されることになった(21)。また、中央政府と民間企業の人事交流に関する法律が施行(二〇〇〇年三月二一日)されたことも注目される。なお、引き続き従来からの退官時に「密接な関係」があった営利企業への二年未満の就職承認(国家公務員法第一〇三条第九項)も過去五年間(九五年−九九年)に五九一名にのぼり、「私企業からの隔離」原則があいまいなものになっている(22)。この点に関って、村松岐夫からは改めて政党優位論の立場から、日本官僚制が政策活動量を多くするためにその自律性(ないしは中立性)を「犠牲」にして政治化がはかられたとの重要な見解が示されている(23)

  以上、Peters と Wright の議論を中心に形骸化状況をみてきた。ここで表2を参考にしながらまとめておきたい。まず第一に、欧米に続き日本の行政学も同様の現実に直面していることが指摘できる。既成行政学は構造部分と機能部分に分けられるとすると、前者にはA・B・Eが、後者にはC・D・Fがそれぞれ相当するであろう。それからいえば、彼らの立論の範囲内ではあるが欧米の既成行政学では構造と機能の両面から形骸化が全面的に進んでいるわけで、日本行政学でもその方向で形骸化の進行が認められる。かつて Christopher Hood が八〇年代におけるNPM化に関するOECD諸国の国際比較をした際に、日本にもNPM化の可能性を認めながらも、その動機が欠如していることを指摘したことがある(24)。その意味からいうと、九〇年代のNPM改革への動機づけはバブル経済の崩壊後、改めて「この国のかたち」(行政改革会議)の探究とそれに必要な行財政改革のヴァージョンアップの要請から生じたといえるであろう。第二には、そうした共通面とともに相違面にも十分に注意をむける必要がある。その理由は、日本ではBとDに形骸化傾向がはっきりとした形で認められるまでに至っていないからである。今後ともこのままで推移するのか、欧米同様に形骸化していくのか。いずれにせよ現在の事態をどのように理解したらいいか、若干でもここで検討しておきたい。
  まず考えられることは、BのヒエラルキーもDの上向きのアカンタビリティも、いうなれば行政活動の根幹である行政官僚制の自由な作動を保証する必要条件である。従って日本でこの二つが形骸化する事態は、行政官僚制に優先しうるだけの政治システムの発展が実現する過程で生じるのではないかと思われる。この点では新藤宗幸がかつて指摘した日本官僚制の「換骨奪胎(25)」的特質は参考になる。すなわち、「日本の官僚制は、一党支配の政治的空間の閉塞性ゆえに、新保守主義の掲げる『規範』を、リソースの拡張にむけて援用した(26)」、と。
  そうであれば、いかなる官僚制に優先する民主政治システムの創造によって「政治的空間の閉塞性」が打破されるのか、これが欧米と日本の比較から改めて理論的課題になってくるわけである。そこで次からは、冒頭での全体課題にここで浮かび上がった現代日本の課題も加えて、現代アメリカ行政学の諸潮流を鳥瞰するなかでその解明の手がかりを得ていきたいと考える。

(1)  B. Guy Peters and Vincent Wright, Public Policy and Administration, Old and New, pp. 628-641. In Goodin, Robert E., and H−D. Klingemann, edited, A New Handbook of Political Science, New York:Oxford University Press, 1996. なお、以下では当該論文に関する注は、煩わしさを避けるため本文中に付す。
(2)  Hjern, B. and Proter, D.O., 1981,”Implemantation structures:a new unit of administrative analysis. Organization studies, Vol. 2, p. 212.
(3)  拙稿「地方分権一括法と社会福祉」「おおさかの住民と自治」No. 254, 二〇〇〇年。駒村康平「介護保険、社会福祉基礎構造改革と準市場原理」『季刊・社会保障研究』Vol. 35, No. 3, 一九九九年。
(4)  行政改革委員会事務局編『行政の役割を問い直す−行政関与の在り方に関する基準−』大蔵省印刷局、一九九七年。三重県「公共関与・県の関与の判断基準−平成九年度業務見直しテストの判断基準−」魚谷増夫編著『地方行政システム改革の実践−三重県事務事業評価システムの運用を中心として−』行政管理研究センター、二〇〇〇年。この点に関する検討は、次のものが詳しい。今村都南雄「問われる公共・民間関係」『都市問題研究』第五一巻第六号、一九九九年、福家俊朗「法的負担の公理におけるパラダイム転換」『法政論集』No. 177, 一九九九年。なお公共選択理論の影響は、既に七〇年末の行政管理基本問題研究会(行政管理庁長官の私的諮問機関、座長・辻清明)報告『今後における政府・公共部門の在り方と行政改革』(一九七九年七月)において確認できる。
(5)  大森彌『自治体行政学入門』良書普及会、一九八七年、第一部参照。城山英明「行政学における中央省庁の意思決定研究」城山英明ほか編著『中央省庁の政策形成過程』中央大学出版部、一九九九年、熊沢誠『女性労働と企業社会』岩波新書、二〇〇〇年も参照。
(6)  石田道彦「社会福祉事業における第三者評価の意義と課題」『季刊・社会保障研究』Vol. 35, No. 3, 一九九九年。
(7)  大西均「『さわや運動』と『行政システム改革』−三重県のめざす行政改革−」『季刊・行政管理研究』No. 81, 一九九八年、三重県『平成一〇年度行政システム改革』一九九八年三月。
(8)  三重県の「事務事業評価システム」や静岡県の「業務棚卸法」の本質がTQMにあるとする古川俊一の指摘は重要であり、検討が必要である(同「公共部門評価システムの制度化と限界−計画行政への含意−」『計画行政』Vol. 22, Num. 4, 1999, p. 10)。
(9)  Jun, J. S. and Koike, O.,"Why is total quality management not popular in Japanese public administration?," International Review of Administrative Sciences, Vol. 64 (1998), 275-288. なお、同様の認識は唐津一編著『新たな行政の管理基準』(行政管理研究センター、二〇〇〇年)のなかでも鮮明である(特に、第三章)。
(10)  総務庁長官官房企画課『英国における行政管理の改善に関する調査研究報告書』、一九八九年。
(11)  「日本経済新聞」二〇〇〇年六月七日付朝刊。
(12)  「朝日新聞(各地方版)」、二〇〇〇年三月一日、八日、一〇日、一八日、一九日朝刊。
(13)  『英国におけるエージェンシー制度の実情−武藤嘉文総務庁長官英国行政改革実情調査結果報告−』(行政管理研究センター、一九九七年)。中央省庁等改革推進本部事務局編集発行『独立行政法人って何だろう・あなたの疑問にQ&
Aでお答えします!』(二〇〇〇年四月)、参照。
(14)  村松岐夫「『旧来型行政システム』の改革−『最終報告』と地方分権化『諸勧告』」京都大学法学部百周年記念論文集刊行委員会編『京都大学法学部創立百周年記念論文集第一巻』(有斐閣、一九九九年、二四二頁)。
(15)  西尾隆「行政学のアカウンタビリティとその内在化」日本行政学会編『(年報行政研究33)行政と責任』(ぎょうせい、一九九八年)。
(16)  P.W. Ingraham,"Of pigs and pokes and policy diffusion:another look at pay for performance." Public Administration Review, Vol. 53, No. 4, 1993, p. 350.
(17)  Turo Virtanen,"The Competencies of New Public Managers." In David Farnham et al, (eds) New Public Managers in Europe, Basingstoke:Macmillan, 1996, pp. 62−70、拙稿「行政・市民の新しい関係の創造」辻山幸宣編『住民・行政の協働』(ぎょせい、一九九八年)も参照。
(18)  不足する研究の蓄積を図るために、『公務研究』(良書普及会)が創刊(一九九八年)された。
(19)  西尾隆「公務員制度改革の政治行政−行政学の視点から」『ジュリスト』No. 1158 (1999.6.15) 参照。同答申には、公務と民間の異同に関する矛盾がある(同上、三五ー三六頁)。
(20)  拙稿前掲論文(一九九八年)。なお「市民公務員」の提案に関する検討は、田尾雅夫からある。同『ボランタリー組織の経営管理』(有斐閣、一九九九年)、二〇八頁以下。
(21)  「国立大学教官等の民間企業役員兼業に関する対応方針について」「閣議了解」(平成一一年一一月三〇日)。
(22)  人事院職員課「営利企業への就職の承認に関する年次報告(平成一一年)の概要について」(平成一二年三月)。
(23)  村松前掲論文、二四六ー二四七頁。ただし、「犠牲」かどうか検討を要する。
(24)  Christopher Hood,"Exploring variations in public management reform." In Bekke, Hans A.G.M., Perry, James L. & Toonen, Theo A.J., Civil service systems in comparative perspective, Bloomington & Indianapolis:Indiana University Press, 1996, p. 281.
(25)  新藤宗幸「公共性の拡散と再編−ポスト福祉国家への課題」山ノ内靖ほか編『岩波講座社会科学の方法第七巻政治空間の変容』(岩波書店、一九九三年)、五四頁。あわせて同「日本における行政学・地方自治論の意義と課題」(二〇〇〇年度日本政治学会報告、二〇〇〇年一〇月八日、於名古屋大学)、福家俊朗・前掲論文も参照。
(26)  新藤宗幸、同右(岩波書店)、六三頁。

二、Kettl の政治思想アプローチ


  あらかじめ、日本におけるアメリカ行政学研究の到達点を大まかに確認しておこう。まずはじめに研究者としては辻清明ら第一世代からはじまり、手島孝、西尾勝、村松岐夫、大森彌、水口憲人、森田朗、今村都南雄、辻隆夫、今里滋らがいる(1)。彼らの研究業績は、アメリカ行政学を学説史的に追究する研究(辻、阿利、井出、手島、水口、辻(隆)、今里)と、特定の理論を検討する研究(村松、大森、西尾、今村、森田)とに大別される。そして現代アメリカ行政学の鳥瞰にあたって関係することになる前者についていうと、従来の研究の特徴はこうである。すなわち現在でも研究を継続する今里を例外として、@時間的には八〇年代初頭までを検討対象とし、A政治行政分離論から融合論、Waldo のプロフェッショナリズム論、Ostrom の「一体性の危機」論、アメリカ行政学の性格規定論などの問題意識に限られ、B特定理論の紹介にとどまる、といえるであろう。今里についていえば、@時間的には八〇年代中期までを検討対象とし、幅広く行政学と行政教育についての検討をおこなうとともに、A意思決定論と組織理論を中心に理論紹介を精力的に行なっている。先述した五〇周年記念シンポジュームにおいては、唯一アメリカ行政学との比較の軸で日本行政学の現状と展望への興味深い問題提起を行なった。しかしここでの問題意識である九〇年代後半期以降の現代アメリカ行政学の理論状況については、今後の研究にまたなければならない。以上が日本行政学におけるアメリカ行政学研究の概観である。
  それでは、これから政治学と行政学を統一的に把握する Kettl の政治思想アプローチによる現代アメリカ行政学の鳥瞰を行いたい(2)。まずはじめにアメリカ行政学の現在の状況は、六九年ごろから始まるとする。この年は周知のとおり、Waldo が率先していわゆる「新行政学運動(New Public Administration)」を推進し始めたことで学説史上に記憶されている。この運動自体は特定のアプローチや理論を掲げるというものではなくて、正統派批判に関わる研究態度やその規範に共通性がみられる(3)
  さて、現在の学問状況は、一言でいえば「中心から遠離かっていく諸潮流(Centrifugal Forces(4))」のそれとみている。ここでいう諸潮流とは、具体的には Implementation (代表的研究者、A. Wildavsky)・Public Management (L. Lynn)・Economic theories (J.M. Buchanan)・Public Bureaucracy (J.Q. Wilson) のことであり、八〇年代中期以降では Formal and Game theory、Network theory、NPMが特に注目される。
  ところで、Kettl は以上の諸潮流を分析するにあたって、アメリカの四つの伝統的政治思想を使って行政学的思考の説明から始めているので、それからみておこう(表3参照)。

  表3を簡単にみておこう。まず Wilsonian/ハイアラーキー型とは、政策立案者(政治家)は民主的コントロールとアカウタビリティを信用して執行者(行政官)にプログラム執行の権限委譲を行う一方で、執行者は政策立案者の立てた目標とは無関係に専門技術の向上に取り組み、行政効率性を専ら追求することを意味する。この考え方の後への影響は、@政策の形成よりも執行に、A統治の効果性を人物のリーダーシップよりも装置それ自体に関心を向けさせ、B完全無欠なマネージメントを抽象的レベルで措定することで、二〇世紀の行政改革の伝統を確立することに大いに貢献する。
  次に Madisonian/権力バランス型とは、Wilsonian のように行政効率ではなくて政治権力を統治活動の中心としてみなしたために、腐敗を恐れてそのバランスの必要性を強調する。この伝統は、J.L. Pressman と A. Wildavsky の Implementation (1973) や J. Q. Wilson の Bureaucracy (1989) という著作となって今日でも脈々と生き続けている。
  さらに Hamiltonian/強い執行部・トップダウンとは、「行政部が精力的であることは、およそよき政府の本質であり、その主要な性格のひとつなのである(5)。」(The Federalist Papers, No. 70)との建国の父の言葉をその内容とするものである。そして、強力な国民政府の確立に関する国民的見解となったものである。
  最後に Jeffersonian/弱い執行部・ボトムアップとは、Jefferson の「農民としてのルーツ(agrarian roots)」(PAM, p. 16)に根ざすものであり、「個人の自立性を擁護するために、スモール・ガヴァメントに貢献する政府への強い関与」(do.)を表明する見解である。Jefferson 自身は、大統領に就任するまで行政に何ら働きかけることはしておらずボトムアップの伝統を態度に示すにとどまっていた。しかし就任すると、皮肉にも a supreme Hamiltonian に変貌した。ただし、この変貌ぶりも「人が権限についてどのように感じるかは、人が権限を有しているかどうかにかかっている」(do.)わけであり、さして驚くには値しない。重要なことは、この見解が今日までアメリカ行政学に大きな影響を及ぼしていることの方である。
  以上のところで政治思想アプローチの枠組自体は押さえられたわけであり、表の中についてみていきたい。実はこの四つの思想の組み合わせから、一九世紀末から今日までアメリカの政治行政体制の編成のあり方として提示され続けてきた基本的な四つの選択肢を読み取ることができる(PAM, p. 17)。
  @  執行者(行政官)や理論家は皆等しく、the Hamiltonian tradition に従って中央政府の強化に焦点を合わせるべきか。
  A  彼らは the Jeffersonian tradition に従って、州並びに地方政府に権限委譲するために、ないしは政府プログラムを民営化するために、焦点を合わせるべきか。
  B  彼らは、the Wilsonian reform tradition のもつ「執行部強化、効率性重視、唯一の最良の道」(PAM, p. 17)に焦点を合わせるべきか。
  C  彼らは数世紀前の the Madisonian constitutional tradition に従って、アメリカ政治過程(特に権力分立)の中に行政過程をより一層渾然一体となるよう統合すべきか。
  以上までの論述をもって、Kettl は現代アメリカ行政学が直面するその理論的課題の難しさがまさに伝統的政治思想の緊張関係に根ざすものであるとの認識を示す。そして結論として、次の二点を得ている(PAM, p. 27)。ひとつは、アメリカ行政学がアメリカの政治文化にしかりと組み込まれており、その政治文化によって多様化する政治的規範と政策的欲求に応えてきたことである。いまひとつは、四つに分かれた政治的諸価値の間の紛争が不可避的な性格を有するものである。この紛争を端的に表すものが、これから表4で説明する諸潮流であり、いずれも現代アメリカ行政学を代表するものである。では、さっそくみてみよう。

  まずはじめに既成行政学が、Hamiltonian−Wilsonian(HW)型に位置していることを確認したい。同型には、それ以外に Principal−agent theory NPM NPR を置いている。まず Principal−agent theory とは、同型の枠組みを前提かつ研究対象とするひとつの公共選択理論である(6)。その考え方は、政治家と官僚の関係を「為されるべき仕事をもつ主人[政治家]と、報酬と引き換えにその仕事をすることに合意する代理人[官僚]との関係として組織的に相互作用」(PAM, p. 18)が働いていると仮定し、その関係の下で両者が等しく自己利益を最大限まで追求する途上での「情報の非対称性」や「モラル・ハザード」等の組織病理の分析を行う。
  次に、NPMとは八〇年代に米国や英連邦(UK, NZ, AUS)で行われた行政改革の諸経験が九〇年代以降OECDによって本格的に経験交流されているものの総称である。(なお、その普及に果たす国際的なコンサルティング会社の役割を見逃すわけにはいかない(7))。その特徴を、Fred Thompson (1997) の引用箇所(D. Garson and S. Overman (1983))を簡潔なものにしてこう述べる。つまり「社会的諸価値よりもマネージマントに、公正よりも効率に、エリートよりもミドル・レベルのマネージャーに、特定の公的イッシューに合わせた戦術よりも一般理論に基づくアプローチに、プロセスと諸制度よりも組織に、政治学ないしは社会学よりも経営学に」(PAM, p. 27)、それぞれ重きを置くものである、と。
  最後に、NPRとは D. Osborn と T. Gaebler のベストセラー、Reinventing Government に目を付けた B. Clinton 大統領が、A. Gore 副大統領をトップにすえて取り組んでいる連邦政府改革のことである(8)。ここではNPRの改革の柱が五つに分けられ、その内の三つ(Downsizing・Performance measurement・Procurement reform)がHW型に、残りの二つ(Employee empowerment・Customer service)が Jeffersonian−Wilsonian(JW)型に、それぞれ分類されている。
  前者についていえば、数百項目にも上る改善案と、連邦政府職員に対する35万ポジション以上もの縮小によって攻撃的なダウンサイジングをおこなったり、連邦議会の Govermental Performance Results Act(業績評価法)の制定とあいまって全ての連邦機関に対して performance measurement(業績評価)の実施を命令したり、ある主要な調達改革法案(a major procurement reform bill)を具体化したりしたことをさす(PAM, p. 25)。後者は最上位の監督者に対して部下に権限付与するよう催促したり、政府の事業プログラムが市民のニーズにより一層応答するものになるよう顧客サービス向上の取組みを進めたことをさす(do.)。
  次に Hamiltonian−Madisonian(HM)型に位置づけられているもの、すなわち Bureaucratic politics と Implementation theory・Game theory(Institutional choice・Congressional/presidential dominance)をみておこう。まず Bureaucratic politics(PA, p. 419 以下)とは、いわゆる「行動論革命」の最中にあっても Norton E. Long (1949) 以後に継続的に蓄積されてきた一連の官僚制研究の成果をさし、J.Q. Wilson の前掲書がその総合化された著作とみなされている。この見解のポイントは、行動論的視点に対する官僚制の役割の強調、官僚制から独立しうる政治権力のソースとしてのネットワークの指摘、公共政策執行への権限と影響力という独立したソースを有する制度としての官僚制観、である。
  そして Implementation theory とは、 J.L. Pressman と A. Wildavsky の前掲書からスタートとし、九〇年代初頭には研究の第三ステージを宣言する研究(Goggin, M.L., A. O'M. Bowmn, J.P. Lester, and L.J. O'Toole, Jr. (1990))が刊行されるまでに発展している見解である。その問題意識は前掲書の副題が示すとおり、「ワシントンにおける大きな期待がオークランドにおいてどのようにして失望にかわるのか、あるいは驚くべきことにモラールの確立を追求する同情的な観察者によって語られるように連邦政府プログラムの実施が経済開発行政に関する退屈な長話になっているのは何故か」にある。そして重要な点は、Implementation theory が暗示的にハイアラーキー型を拒絶し、連邦政府プログラムの成功がなぜ分り難くみえるのかを説明することに役立っている(PA. p. 415)。
  最後に Institutional choice theory についてみておこう(9)。この見解(例、Knott, J. H. and Miller, G. J. (1987);T.M. Moe (1995))は先にみた Principal−agent theory と同じ公共選択理論のひとつである。その特徴は、既成行政学が独立変数とみている官僚制を制度に対する従属変数とみなし、いずれの外部監督者が官僚の行動に支配を及ぼす大きなインセンティブと強力な手段を有しているかを把握しようとするものである(PAM, p. 20)。なお、Kettl は公共選択理論に対する高まる批判を十分に承知している。しかし公共選択理論が全体として未成熟で実践とのギャップも存在することを前提にしたうえでも、議論の豊富化や知見の新しさによって当該分野の理論研究に貢献していることを了解している。従ってこうしたさまざまなを知見を包括する立場こそ、アメリカ行政学研究を発展させる立場であると積極的に表明する(PM. p. 419, p. 423, PAM, pp. 22-23(10))。
  さて、表4に関する最後の説明は、Jeffersonian−Madisonian(JM)型に位置付けられる Network theory についてである。この見解は第二次世界大戦以降、政府活動がそのヒエラルキー構造を越えて数多くの民間組織と非政府的行政手段をますます多用するようになってきており、既成行政学では説明不能となっている現実を背景として登場してきた。換言すれば当該理論への期待は、公的セクターの民営化ではなくてむしろ民間セクターや社会全体に及ぶ「政府化(governmentalization)」(PAM, p. 23)の進展と「政府プログラムの集権化と分権化の同時進行」(do.)とを、公共管理の課題として上手に解こうとしているところにある。また Network theory は、アメリカ行政学をその誕生から深く根付くヒエラルキー的権威とその病理から解き放し、新たな governance theory の発展の基礎的理論を提供していることで最近ではますます重要になっている。そしてアメリカ行政学は、そのなかで自らを力強く活性化させ、「政治権力と代議制民主主義の間の結びつきを理解する最良の方法とはなにか」(PAM, p. 24)という学問固有の課題に挑戦している(11)
  重要なことは、Network theory に関する同様の認識が学界重鎮で「新行政学運動」の中心の一人であった H.G. Frederickson からも示されていることである。彼は九九年の the John Gaus 賞受賞の記念講演において次のように述べた。「アメリカ行政学は、実践と理論の両方において、国家の解体化[の課題]に関連する威圧的な問題を処理するためにそれ自身を再定義しつつある。端的にいって、再定義される行政学というものは、断片化されかつ解体化された国家業務を作り出すための政治学である(12)。」(傍点は引用者)、と。
  以上のところで Kettl が描く現代アメリカ行政学の自画像について、ここで必要な範囲でのフォローを終える。彼の特徴は、統治(官僚制)に関わる現代政治理論を網羅しているところにある。しかしそこにはこれから述べる Stillman の分類する諸潮流のうち、特に重要視されているものが含まれていない。それは再建派のことであり、解釈派とともに明示はない。その理由は、「新行政学運動」の系譜にあたる学問潮流に対する評価の低さにあるのか、既成行政学の新種とみているのかなどとさしあたり推測する他はない。では、次から Stillman のアプローチをみていこう。

(1)  主な業績等は、以下のとおりである。辻清明「現代行政学の動向と課題」日本行政学会編『年報行政研究1』(勁草書房、一九六二年)、同「私の行政学」『(年報行政研究17)行政学の現状と課題』(ぎょうせい、一九九三年)。阿利莫二「アメリカ行政学の動向」『今日の法と法学(山之内先生追悼論文集)』(勁草書房、一九五九年)。井出嘉憲「アメリカにおける行政理論の展開過程」高橋勇治・高柳信一編『政治と公法の諸問題』(東大出版会、一九六三年)。手島孝『アメリカ行政学』(日本評論社、一九六四年、復刻版一九九五年)。村松岐夫「行政における組織目標と人間の行動−サイモンの行政理論の一研究」『法学論叢』第七八巻第六号、一九六六年。大森彌「行政学にたいするプロフェッショナリズム・アプローチ−アメリカ行政学の一動向」『(年報行政研究10)政策決定と公共性』(勁草書房、一九七三年)、同「現代行政学の展開−アメリカ行政学における『行政』モデルとパラダイム−」辻清明他編『行政学講座第一巻  行政の理論』(東大出版会、一九七六年)。西尾勝「組織理論と行政理論」同『行政学講座第一巻  行政の理論』(東大出版会、一九七六年)。水口憲人「『民主主義社会』の行政学(一)−アメリカ行政学研究序説」『法学雑誌』第二〇巻第四号、一九七四年。D・ワルドー・山崎克明訳『行政国家』(九州大学出版会、一九八六年)、今村都南雄「アメリカ行政学の受けとめ方」『(年報行政研究17)行政学の現状と課題』(ぎょうせい、一九八三年)、森田朗「インクリメンタリズムの論理構造−Charles E. Lindblom の政策決定理論に関する一考察」『千葉大学法経研究』第一〇号、一九八一年。辻隆夫「戦後アメリカ行政学の再整理」『早稲田大学社会科学研究』第二七号、一九八三年。今里滋「現代アメリカ行政学の展開とその『一体性の危機』(一)−(二・完)」『法政研究』第五〇巻第一号・第二号、一九八三年。同「行政学と行政教育−アメリカ行政学における『一体性の危機』の制度的側面(一)−(四)」『法政研究』第五一巻第三・四号、一九八五年−第五三巻第二号、一九八七年。同「意思決定過程論再考−アメリカ行政学にみるその方法論的意義−」九州大学法政学会編『法と政治−二一世紀への胎動(下巻)』九州大学出版会、一九九五年。同「アメリカ行政学の回顧的展望−事例研究と組織研究」『法政研究』第六三巻第三・四号、一九九七年。
(2)  以下の叙述は、次の文献に基づく。煩わしさを避けるために注を本文中に付す。D. Kettl,”Public administration:The State of the Field (thereafter, PA). In Ada W. Finifter edited, Political Science:The State of the Discipline II, Washington, DC:American Political Science Association, 1993;ditto,"Public Administartion at the Millennium:The State of the Field (thereafter, PAM), "Journal of Public Administartion Research and Theory, Vol. 10, No. 1, 2000. なお、アメリカ政治学会が設けている the John Gaus 賞の受賞者においても、行政学と政治学の関係に関して二つの見解が併存している。統一的に把握する者は、Allen Schick, James W. Fesler, H.G. Frederickson である。分離的に理解する者は、Dwight Waldo, Herbert Kaufman である(D. Kettl, PA, p. 412;PAM, p. 12)。
(3)  今里滋「現代アメリカ行政学の展開とその『一体性の危機』(二・完)」『法政研究』第五〇巻第二号、一九八三年、二二五ー二二八頁、参照。
(4)  この言葉は、PA (p. 412), PAM (p. 12) の見出しに使われている。
(5)  斎藤真・武則忠見訳『ザ・フェデラリスト』福村出版、一九九一年、三四〇頁(Jacob E. Cooke, edited, The Federalist, Cleveland OH:The World Publishing Company, 1961, p. 471)。
(6)  Principal−agent theory についての解説は、加藤寛編『入門公共選択(改訂版)』三嶺書房、一九九九年、七七頁にある。公共経済学には、Principal−agent theory の他に、表3に挙げられている Institutional−choice theory をはじめ Bureaucratic outcomes theory, Transaction−cost theory がある(PAも参照)。
(7)  同理論については、村松岐夫によって初めて日本の行政学の教科書に取り上げられた(『行政学教科書』有斐閣、一九九九年)。国際的なコンサルティング会社の関与に関する指摘は、Denis Saint−Martin,"How the Reinventing Government Movement in Public Administration Was Exported from the U.S. to Other Countires?." Paper prepared for the American Political science Association annual Meeting, Boston, September 3-6, 1998. が詳しい。最新の研究成果では、Pollitt, C. and Bouckaert, G, Public Management Reform, Oxford:Oxford University Press, 2000 がある。
(8)  最新の研究は、D. Kettl, Reinventing Government:A Fifth−Year Report Card. Washington, D.C.:Brookings Institution Press, 1998。日本での研究成果は以下のとおり。小池治「経営革命と行政改革−ナショナル・パフォーマンス・レビューの評価をめぐって−」「クリントン政権の行政改革とその実像」総務庁長官官房企画課『行政のボーダレス化と機能的再構築に関する調査研究報告書(平成七・八年度)』、一九九七年−一九九八年、平井文三「アメリカ・カナダの行政改革の動向」堀江教授記念論文集編集委員会編『行政改革・地方分権・規制緩和の座標』(ぎょうせい、一九九八年)、大山耕輔「クリントン政権の行政改革とNPM理論」『季刊・行政管理研究』No. 85, 一九九九年。
(9)  なお、Kettl による Congressional/presidential dominance に関する説明がPA・PAMにないので、ここでは説明は留保しておく。
(10)  合理的選択理論をめぐる論争状況については、さしあたり次のものを参照のこと。『レヴァイアサン』木鐸社、第一七号、一九九六年。
(11)  最新の研究には、次のものがある。E.S. Savas, Privatization and Public Private Partnerships, New York:Seven Bridges Press, 2000. Savas は民営化の一層の促進(政府所有のビジネス・インフラストラクチャー・社会保障)による公私間のパートナーシップの前進を今後の方向性としてみている。その下で政府に期待されていることは、(1)公認・部分的財政支援・監督・アクセス確保への役割限定と、(2)市民とのコミュニケーション・説得・交渉による動機付けに基づく彼らからの支持の一層の確保、である(pp. 318-320)。なお、民営化には十分に思いやりがあり、そして「手段としての民営化」は福祉国家によって効果的に運用されるが、一旦それが「目的」化されると福祉国家にとって有害となるという「基本的なパラドックス」が内在することを十分に承知している(pp. 300-301)。
(12)  H. George Frederickson (1999),"The Repositioning of American Public Administration", PS:Political Science and Politics, December 1999, Vol. 32, No. 4, p. 702.


三、Stillman の欧米比較アプローチ


  R.J. Stillman II は、現代アメリカ行政学研究が欧米比較アプローチからみて「反国家主義(antistatism)」という政治的伝統の産物であるとみている(1)。彼のいう「反国家主義」とは、「統治の諸制度に対する敵愾心をあらわにする教義と考え方のことであり、その役割と活動を縮小・制限、さらには削減さえも論じる」(p. 16)ものである。そして、その上でアメリカ行政学のユニーク性を次の五点にまとめている(pp. 18-19)。@合州国憲法制定に遅れること一世紀後に冒頭で触れた W. Wilson 論文が現れることに象徴される学問の未発達、A「行政国家」確立および「憲法の運用」(p. 18)の両段階以降での登場、Bプロテスタント的な「モラル向上」と「民主主義的理想主義」で鼓舞された下からの諸改革による浮上、C欧州大陸での法学教育の伝統と異なり政治行政分離論の下での科学的管理運動の思想と方法からの成長、D社会の膨張化と断片化に強く応答した学問研究と教育の展開、である。
  さて Stillman は、アメリカ行政学思想を四期に分けた鳥瞰図(表5)を示すなかで、現代アメリカ行政学の画期を Refounding movement が台頭してきた八九年に求めている。そして、現在それを含め六つの学問的諸潮流の影響を現代アメリカ行政学に確認している(pp. 25-27)。それでは、さっそくみてみよう。

(1)  再発明派(The Reinventors)
  彼らは九〇年代初頭に登場した D. Osborn と T. Gaebler の前掲書の考え方に結集する者たちで、第一の最も重要なグループである。「起業家精神」を基調に「第三の道」「旧い大きな官僚制の打破」「市場原理の導入」(p. 25)をキーワードにNPRの推進する連邦行政改革をリードしていった。諸々の理由から九〇年代末までにその熱気は著しく低下してきているといわれるが、それにもかかわらず全ての政府レベルで公行政に関する「規模・範囲・方法そして思考方法」(p. 25)に大きな影響を有している。

(2)  コミュニタリアンズ(The communitarians)
  この考え方は Philip Selznick や Amatai Etzioni のような社会学者の著作(2)によって、九〇年代にポピュラーになり影響力を高めた。例えば、Selznick は権威的官僚制のモラル的・実践的な限界を指摘し、「オープンさ・適用・参加そして問題解決力」(Selznick (1992), p. 287)というポスト・モダンの精神に基づく正統性の展望を示唆する。要するに、コミュニティーとシチズンシップを再建するというような大きな課題に取り組み、行政改革にまでは具体的に触れてはいない。しかしながら暗示的には行政の姿勢が家族や近隣・職場での絆を強めたり、より広範な市民参加の奨励を示唆する。

(3)  バージニア工科大の再建派(The VPI refounders)
  これまでのグループとは対照的に、Virginia Polytechnic Institute(VPI)の再建派は、アメリカ行政学研究者として著名な G.L. Wamsley, R.N. Bacher, C.T. Goodsell, P.S. Kronenberg, J.A. Rohr, C.M. Stivers, O.F. White, J.F. Wolf から構成されている。彼らは元々八四年に the Blacksburg Manifesto(同大学の所在地に因んで名付けられた宣言)を発表したグループで、九〇年代に二つの論文集、Refounding Public Administration (1990) と Refounding Democratic Public Administration (1996) にその成果をまとめている。その狙いは行政学の規範理論化の試みであり、行政学の役割が機関・執行官・権威の再定義と市民の実践への新たな意味の付与を通じて、ガヴァナンス・プロセスにおける正統なパートナーとして実践を解釈することにあると考えている(Wamsley, G.L. and Wolf, J.F. (1996), p. 11)。要は、根本的・哲学的・制度的そして理論的な面から行政学全体の再建を追求している。

(4)  解釈派(The interpretivists)
  解釈派たちは既述の「新行政学運動」の直系の後継者として、現象学ないしは「主体ー間主体的諸関係」を指向した研究を行う。その特徴は、彼らの問題意識がアメリカの政治文化に根ざした行政学の正統性概念の復興にあり、イマジネーションのテクニックを使って既成行政学の神話を乗り越えようとするところからきている(Kass, H. D. and Catron, B. L. (1990), pp. 9-11)。そうしたことから、彼らは九〇年代初頭に Public Administration Theory Network(PAT−NET、一九八一年結成)を American Society for Public Administration(ASPA)から組織的に独立させ、Administrative Theory and Praxis の刊行(Vol. 22, 2000)や年次大会の開催を行っている(二〇〇一年六月に第一四回大会を予定)。研究成果としては、Kass and Catron (1990) をはじめ Sage book series”Advances in Public Administration がある(3)

(5)  ツール・メーカー派(The tools−makers)
  彼らはテーラー主義以来のテクノロジストであり、行政学の草創期から学問形成に主要な役割を果してきた。調査・教育の分野で、ハードな計量分析や分析方法論・政府プログラム分析の開発を継続的に行っている。注目される成果としては、Lester Salamon の Beyond Privatizetion (1989) であり、政府プログラムで使われている道具(ツール)を分析し、自分たちの新たな道具を提案している。その背景には彼の「第三者政府(Third−Party Government)」論がある。それは、従来まで行っていたサービス提供や政府プログラムの実施を非連邦レベルの多彩な第三者に任せさせ、政策の優先順位を設けたり助成基金を創設する方向に政府を再定義する見解である(Lester Salamon (1989), pp. 8-10.(4))。

(6)  新官僚制分析派(New bureaucratic analysts)
  官僚制分析の分野において新しい研究成果をあげる政治学者のことで、行政学に対してもその研究を前進させることで貢献している。名前として挙げられる者は、James Q. Wilson, Louis Gawthrop, Paul Light, Donald Kettl, Hal Rainey らである(5)。彼らの著作の特徴は、政治と行政の関係とは何かといった最も規範的で政治的な課題を取り上げる傾向がある。
  以上のところまでで、Stillman が描く現代アメリカ行政学の自画像の輪郭が明らかになったと思われる。彼の分類はコミュニタリアンズやツール・メーカー派といったところまで目配りしているわりに、公共選択理論を取り上げていないところにその特色である。なお再建派と解釈派とを区別する理由はそれぞれのグループの形成過程に着目したところにある。しかし登場の背景には、官僚バッシングに対する正統性の擁護やASPAにおける理論研究の軽視への反発が共通してありそうである(6)。それでは最後に、欧米比較アプローチからこの自画像に先のユニーク性がどのような形で刻印されているかをみておこう(7)

  第一に、方法論からみると、現代国家が欧州大陸の行政学を作りアメリカ行政学が現代国家を作った歴史からいうと、大陸のヨーロッパ人は国家の意義から演繹しアメリカ人は国家の意義の喪失のために行政学から国家に帰納させることを強いられている。従って、行政学に関する思考における演繹的方法(欧州大陸)と帰納的方法(合州国)というの基本的な相違が大西洋を隔てて存在している。
  第二に、学問の性格からみると、トップダウンよりもボトムアップにより構築されたアメリカ行政国家の現実は、より一層「明確な範囲、本質あるいは焦点のないまま」(p. 258)にアメリカ行政学を生み出している。その上でアメリカに実在する国家は、アメリカ行政学のアイディアと実践の挑戦的試みから帰納的に定義されることになる。
  第三に、研究課題からみると、永続する民主主義と官僚制の難問のような制度的課題を論述する際に、行政学的思考は欧米において次の相違がみられる。ヨーロッパでは民主主義と官僚制の相違は、「より先鋭であり、より論理的であり、そしてより良く」(p. 259)定義される。しかし合州国の場合には、両者の問題はより一層問題性を帯びるものとなる。その理由は民主主義と官僚制は既に相互に絡み込みあっており、混乱の原因はそうした複雑な錯綜ぶりにあるからである。この民主主義・官僚制のアマルガムといもいうべき一体化はまた、「局面のニーズに著しく柔軟にかつ急速に応答し得る高度に適応しうる民主的な行政システム」(do.)を提供すると同時に、「もっとも難しく、そして作動するのに混乱を伴い、当然[国民からの]憤慨を被るシステム」(do.)ともなる。
  以上で Stillman のアプローチを終えたので、最後の Uveges と Keller のパラダイム・アプローチによる鳥瞰をみていくことにしよう。

(1)  以下の叙述は、次の文献に基づく。煩わしさを避けるために注を本文中に付す。Richard J. Stillman II,"The Study of Public Administration in the United States:The Eminently Practical Science", pp. 17-30, In Richard J. Stillman II, Public Administration:concepts and cases, 7th edition, Boston, MA;Houghton Mifflin Company, 2000.
(2)  各著作は次のとおり。Philip Selznick, The Moral Commonwealth:social theory and the promise of community, Berkeley:University of California Press, 1992;Amatai Etzioni, The Spirit of Community:rights, responsibilities, and the communitarian agenda, NY:Crown Publishers, 1993.
(3)  PAT−NET 結成の経緯等は、次のものが詳しい。McSwite, O.C., Legitimacy in public administration:A discourse analysis, Thousand Oaks, CA:Sage Publications, 1997, pp. 222-226. また、このシリーズから刊行された著作は次のとおりである。なお、Stillmann も編集委員会のメンバーの一人である。Terry, Larry D. Leadership of public bureaucracies:the administrator as conservator, Thousand Oak, CA:Sage publications, 1995.;McSwite, O.C., ibid.
(4)  「第三者政府」論を検討したものに、次のものがある。田中建二「行政ーNPO関係論の展開(二・完)」『法政論集』No. 179, 一九九九年、三四七ー三五〇頁。
(5)  彼らの代表的な著作は、以下のとおりである。J.Q. Wilson, ibid, L. Gawthrop, The human side of public administration, Gaus Lecture, Sep. 4, 1998, Paul Light (1999), The New Public Service, The Brookings Institution Press, Donald Kettl (1988), Government by proxy:(Mis?) Managing federal programs, Congressional Quarterly Inc., Hal Rainey (1997), Understanding and managing public organizations, Second edition, Jossey−Bass Publishers.
(6)  McSwite, O.C., ibid., pp. 221-223. 両派の共通性は人物の重複からも伺える。Henry D. Kass and Bayard L. Catron (1990) に加わる Orion F. White は、Refounding Public Administration (1990) と Refounding Democratic Public Administration (1996) の両方にも加わっている(Cynthia J. Mcswain は後者には参加している)。
(7)  以下の叙述は、次の文献に基づく。煩わしさを避けるために注を本文中に付す。Richard J. Stillman, II,"American versus European Public Administration:does Public Administration make the modern state, or does the state make Public Administration?.", pp. 258-259. In Walter J.M. Kickert, and Richard J. Stillman, II, The Modern State and its Study:New Administrative Sciences in a Changing Europe and United States, Chelten, UK, & Northampton, USA:Edward Elgar, 1999.


四、Uveges と Keller のパラダイム・アプローチ


  J.A. Uveges と L.F. Keller(1) は、現代アメリカ行政学の自画像をどのように描こうとしているのかをみていきたい。
  まずはじめに、アメリカ行政学の多様性は異なるパラダイムが反映したものであるとの見方から、その分析枠組として G. Burrell と G. Mogan (1979) に依拠してマルチパラダイム・アプローチを採用する(図1)。

  図1の座標軸から説明をはじめよう(2)。まず〈主体ー客体〉軸では、主体的観点は「個々人が自分自身が知っている世界を創造・修正・解釈する方法に対する理解」に焦点を絞るのに対して、客体的観点は「観察されるべき現実を説明・統治する普遍の法則」を探究するものである。次に〈ラジカルな変革ー規制〉軸では、「凝集性を有するヒューマン・システムの秩序を説明しよう」とする立場か、「変革を考慮しよう」とするそれかの次元が問われている。次に、各象限にそれぞれ名付けられている見解の定義をみておこう(3)。〈ラジカル・構造主義的パラダイム〉とは構造的現実に対するイデオロギー的関心を有する客体主義者の立場のことであり、〈ラジカル・ヒューマニスト的パラダイム〉とはその関心を持たない主体主義者の見解である。続けて、〈解釈主義的パラダイム〉とは規制に対する明白な関心あるいは現状変化に対するそれの欠如を有する主体主義者の見解であり、〈機能主義的パラダイム〉とは安定化あるいは現状維持の指向性を有する世界に対する客体主義者の立場である。
  さて、以上で分析枠組の説明を終えたので、さっそく Uveges と Keller によるパラダイム・アプローチの結果を示す図2の説明に進もう。彼らによると、アメリカ行政学に影響を与える建国以来の政治的あり方を三つのモデル、すなわち党派紛争型(conflict of factions、COF)、党派支配型(rule of factions、ROF)、公益型(public interest、PI)で考えている。党派紛争型とは政体の本質を党派の紛争であるとする見解を、党派支配型とはそうした紛争状況が選挙に基づいて政治的正統性を獲得した政党によって支配されるとする見解を、公益型とは科学の適用による公共問題解決とモラル向上・専門職への権限委譲を内容とする政府のあり方に関する見解を、それぞれ示している。これらのモデルは、座標軸上では党派紛争型が〈ラジカルな変革・主体〉象限に、党派支配型が〈ラジカルな変革・客体〉象限に、公益型が〈規制・主体・客体〉現象に存在し、それぞれにパラダイムの指向性が認められる。
  では、以上の分析枠組のなかで、現代アメリカ行政学を彩る学問的諸潮流はどのような配置を取ることになるかといえば、次のとおりである。
  Reinventing government は、パラダイム指向からみると機能主義的ということになる。その理由は、活動の業績測定に多大の関心を寄せているからである。その以外にも、費用対効果分析などを用いる政策分析論が該当する。公共選択理論はパラダイム指向からみるとラジカル・構造主義的となる。その理由は現代政府の有する立憲的本質を検討課題にする一方で、経済学と同様の方法により紛争を特徴づける、客観的世界に対する仮説から成り立っているからである。Refounding movement は解釈主義的パラダイムにある。その理由は専門職業人の役割を重視し、秩序探究の主観的世界からの行政学の構築を強調するためである。Multicultural movement はラジカル・ヒューマニスト的パラダイムにある。その理由は、この運動が行政に対して行う要望が大きなインパクトをもちそして紛争までも生み出しており、そのために公共サービスの提供実態を調査するスタッフとその機関の増大をもたらしているからである。
  以上の説明によって、Uveges と Keller は現代アメリカ行政学の現状がパラダイムの多様性を反映していることを明らかにし、同時にこの多様性こそが行政学研究の活力の源泉になっていると確信している(p. 31)。

(1)  以下の叙述は、次の文献に基づく。煩わしさを避けるために注を本文中に付す。Joseph A. Uveges and Lawrence F. Keller,"One Hundred Years of Amerian Public Administration and Counting:Moving into a Second Century in the Study and Practice of Public Management in American life." In J. Rabin, W.B. Hildreth, G.J. Miller, Handbook of Public Administration, Second Edition, New York:Marcel Dekker Inc, 1998.
(2)  Marc Holzer and Vatche Gabrielian,"Five Great Ideas in American Public Administration." In J. Rabin, W.B. Hildreth, G.J. Miller, ibid., pp. 51-52.
(3)  Gioia, D.A., & Pitre, E. Multiparadigm perspectives on theory building. Academy of Management Review, 1990, No. 15, pp. 585-586.


まとめにかえて


  以上のとおり世紀転換期の現代行政学の現状を押さえたのちに、三つのアプローチから現代アメリカ行政学理論の動向を鳥瞰してきたわけである。ここで八〇年代初頭に同様に自画像を描いていた H.G. Frederickson の行政学モデルも視野にいれながら、これまでの考察によっていかなる現代アメリカ行政学の特質が各アプローチにより浮かびあがってきたかをまとめておきたい。またあわせて、当該の問題意識の出発点となっている日本の現代行政学が世紀転換期にどのような自画像を積極的に描いたらいいかについても検討を試みたい。
  まず第一に、現代アメリカ行政学はこの二〇年間でどのような展開をみせたかとえば、人間関係モデルの地位の低下に代わって、公共選択理論の多彩な発展と新たにNPMや Reinventing Government、Refounding movement、Policy analysis の台頭があったことは明白である(1)。その当時、Frederickson によって分類された行政学モデル(2)とは、@古典的官僚制モデル(F.W. Taylor, W. Wilson, L. Gulick)、A新官僚制モデル(H.A. Simon, J. March)、Bインスティテューショナル・モデル(C.E. Lindbloom, J. Thompson, F. Mosher)、C人間関係モデル(E. Mayo, R. Likert, R. Kahn)、D公共選択モデル(V. Ostrom)、であった。
  第二に、三つのアプローチによって現代アメリカ行政学の特質として明らかになったことは、次のとおりである。@欧米比較アプローチによって行政学思考における演繹的方法(欧州大陸)に並立する帰納的方法や民主主義と官僚制のアマルガムが孕むパラドックスなど、個性的な特質が浮かび上がったこと、Aパラダイム・アプローチによってその学問的諸潮流の位置関係や個々の特質、そして未発達部分や今後の展開方向等の羅針盤が与えられたこと、B政治思想アプローチによって政治的伝統にその基礎を置く現代アメリカ行政学の理念的四類型が抽出され、その中でもとりわけ Network theory に代表される Jeffersonian−Madisonian 型(3)の発展への期待が大きく高まっていることである。そして、現代日本との関連から先に問題意識として示していた「政治的空間の閉塞性」打破の課題については、この型の理論的発展による民主的政治システムの構築にかかっているということがここでの結論である。ちなみに代替理論として日本でも話題になっている公共選択理論は、これまでの検討結果からパラダイム的には〈ラジカルな変革・客体〉現象、政治思想的には Hamilitonian−Wilsonian 型、という同理論に内在する指向性が明らかになった。
  最後に、本稿での検討結果が冒頭で示していた二つの問かけに対して、さしあたりいかなる回答を用意しえたのかをここで述べておきたい。世紀転換期における日本行政学の展望にかかわる点では、次のように考えられる。一方で「制度学・管理学・政策学としての日本行政学」(西尾勝)のアイデンティティを総和としてさしあたり持ち続けつつも、他方で従来から行政学者の多くが Hamiltonian−Madisonian 型(表3、一四七〇頁)を研究の前提に置いていたのではないかという自覚も必要となっている。従って、これまでどおりJM型やHW型での「分析・批判」研究を継続するとともに、Jeffersonian−Wilsonian−Madisonian(JWM)型での「理論・制度デザイン」研究を本格化させることが大切になっているだろう(4)。またその意味からいうと、比較理論研究の停滞傾向が続くなかで(5)、近年の外国研究への着目は、「分析・批判」研究に新たな知見を与える目的で専らその有用性から研究されるというある種の狭さがあるように思える(6)。要するに、各国の政治文化・伝統そしてグローバル化の下で育ってきた理論と制度・思想に対する比較研究はJM型やHW型のためだけにあるのではなく、今後発展が期待されるJWM型での「理論・制度デザイン」のためにもあることをここで強調しておきたい。

(1)  人間関係モデルの地位の低下といっても、それはあくまで相対的な意味であり、アメリカ行政学の懐の深さに留意すべきであろう。この点に関しては、Levine, Charles H., Peters, Guy B. and Thompson, Frank J., Public administration:challenges, choices, consequences, Glenview:IL, Scott, Foresman and Company, 1990, part3, 参照。
(2)  H.G. Frederickson, New Public Administration, Alabama:the University of Alabama Press, 1982, pp. 17-30. (中村陽一監訳『新しい行政学』(中央大学出版部、一九八七年、二五ー四二頁)。
(3)  H. George Frederickson (1999) は、既述の the John Gaus Lecture において、Kansas city の実証研究に基づき institutionalism, network theory そして governance theory の交差地点の上に the theory of public administrative conjunction と呼ぶ統合型の理論を提起しており、注目される(op. cit., pp. 706-710)。同理論は、「行政的統合(administration conjunction)がネットワーク化された公共(a networked public)においてユニットを代表する諸アクターとそれらの諸アクターの行政的行動の間の水平的な公式・非公式の組織配列とその性格である」(p. 708)と定義される。そして一五項目にも渡る諸仮定を提示しながら、ヒエラルキーや市場を求めない行政プロフェッショナルの存在と彼らの信条の重要な役割・極端に低い取り引き費用等の特性が示される(pp. 709-710)。
(4)  管見によれば寄本勝美の「『機能的相互連結型』システムの構築」論は、次の二点からみて日本の行政学会にあって Jeffersonian− Madisonian 型の性格を有する独創的な理論ではないかと思われる。ひとつは、これまで市民参加や公民のパートナーシップ・中央地方関係というキー概念がごく当然のように個別的ないしは無機的に論じられてきた。しかし当該システム論の視点は、今日的課題の複雑性と包括性を鑑みて、コミュニティから始まり市町村・広域行政・中央政府に至る各アクター間をボトムアップ型システム構築へと有機的に収斂させていくものであり、その意味で Jeffersonian といえる。いまひとつは、これまで制度デザインを考える際に、ごく当たり前のように個々の制度内部の精緻化と効率化に目を奪われてしまっていたように思われる。しかし当該システムのそれは、制度の肥大化や濫立化の防止およびリソースと努力の効果的な投入をめざすために、シナジィスティックなアプローチによる制度デザイン上でのバランス化を企図するものであり、その意味で Madisonian といえる。Katsumi Yorimoto,"The Establishment of A Cooperative Relationship between the Central and Local Governments with the Aim of Implementing Sustainable Development." Paper prepared for the International Conference on Governance Challeges for the 21th Century:sustainable development, Environmental Conditions, and Public management in the United States, Japan, and Other Pacific Rim Nations, sponsored by the National Institute for Research Advancement and The National Academy of Public Administration, July 26-28, 2000, Tokyo, Japan. 同「役割相乗型の行政を求めて−新時代における行政と市民の課題−」日本行政学会編『(年報行政研究13)行政の責任領域と費用負担』(ぎょうせい、一九七八年)。
(5)  小野耕二「日本における政治理論・比較政治の意義と課題」(二〇〇〇年度日本政治学会報告、二〇〇〇年一〇月八日、於名古屋大学)参照。
(6)  例えば、真渕勝「書評今村都南雄著『行政学の基礎理論』」日本行政学会編『(年報行政研究33)行政と責任』(ぎょうせい、一九九八年)。

参考文献(以上の注に記載されなかったもの)
Burrell, G. and Mogan, G. (1979) Sociological paradigms and organizational analysis, Exter, NH:Heinemann Educational Books.(鎌田伸一他訳『組織理論のパラダイム』千倉書房、一九八六年)
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付記  本稿は、一九九八年度に立命館大学学外研究員規定に基づき派遣された米国ピッツバーグ大学政治学部における研究成果の一部である。この機会を借りて、学内外の関係者に対する謝辞をここに記す。