立命館法学 2000年3・4号上巻(271・272号) 57頁




憲法論のあり方についての覚え書き

− 憲法の趣旨・精神の援用をめぐって −


市川 正人



は  じ  め  に


  私は、かねがね、憲法論には、憲法規範に違反していないか否かというレベルだけでなく、憲法の趣旨・精神により適合するか否か(憲法上望ましいか否か)というレベルもあると主張してきた。ある国家行為が憲法に違反しているか否か(憲法によって許容されているか否か)ということを究明するだけでなく、憲法の趣旨・精神により適合するような法解釈、立法政策の提示も憲法学の課題であることを指摘してきたのである。
  私は、一九八〇年代中頃の内野正幸教授(1)、奥平康弘教授(2)の問題提起を検討する中で、憲法学は、この二つのレベルの主張を、どちらのレベルかを明確に峻別しながら、大いに行うべきであると考えるに至った(3)
  内野正幸教授は、「<憲法解釈は、ある国家行為などが(イ)合憲か違憲か、また、(ロ)(その要請に反したら違憲になるという意味での)憲法上の要請なのか否かを明確に指摘するものとして行なわれるべきである>、という命題に要約される」という「厳格憲法解釈論」(「厳格な意味での憲法解釈論」)を提唱した。この厳格憲法解釈論は、「憲法解釈論の本質は、憲法上望ましいか否かではなく、憲法上要請されるか否かを指摘し、また、憲法上望ましくないかどうかではなく、憲法上禁止されるか否かを指摘する点に存する」との立場を採るものである。内野教授は、憲法解釈論的言明が厳格憲法解釈に徹底されていない実状を指摘した上で、憲法解釈論的当為命題には、厳格憲法解釈論上の命題とそれ以外の命題の二種類があるが、規範の学としての憲法学の一次的任務はあくまでも厳格憲法解釈論を展開する点に存すると主張した。他方、奥平教授は、憲法研究者は、憲法解釈論と運動論としての憲法論とを、すなわち、厳格な規範解釈を経由したうえでの違憲論とある立法を阻止するためという運動論上の違憲論とを明確に区別しなければならないと主張した。そして、どんな憲法研究者も、自分がどちらのレベルの憲法論に従事しているのかまず内心において識別しておくこと、また可能な限り−特に運動論のレベルでは−そのことを議論の相手方(運動の担い手=大衆)にも識別してもらうように努めることが要請されるとした(「憲法研究者のけじめ」)。
  それに対して、私は、厳格憲法解釈論の問題提起を評価しつつも、「裁判所向けの厳格憲法解釈以外の憲法解釈論的議論を憲法学から放逐したり、軽視したりすることがあってはなるまい。即ち、憲法研究者は、裁判所以外の国家機関や一般国民に対しては、厳格憲法解釈−これも裁判所向けのものとは異なった面をもつ−をなすだけでなく、それ以外の憲法解釈論的言明をも大いに提示すべきであるし、そればかりか、裁判所に対してさえも、[「憲法〇条の趣旨・精神に照らして望ましい」といったような]厳格憲法解釈以外の憲法解釈論的言明を提示する必要がある。総体としての憲法研究者は厳格憲法解釈をしているだけでは不十分であって、多次元的に憲法解釈論的議論をしなければならないのである」、と論じたのであった(4)
  このように、私は、「憲法上望ましい」といった主張の有用性を論じ、こうした見地から、具体的な主張も行ってきたが、それに対しては、最近、高井裕之教授から厳しい批判を受けている。すなわち、高井教授は、「厳密な意味で憲法の要請ではないが『憲法上望ましい』という言明のもつ積極的意義を評価する見解」として私の見解を挙げて次のように批判している。「それが厳密な意味での法解釈の帰結でない以上、そこで言及される日本国憲法というテキストはもはや法的意義をもたない単なるテキストにすぎず、他のテキスト、例えば大日本帝国憲法やアメリカ合衆国憲法、あるいは世界人権宣言と較べて特権的な意義を有するわけではない。特定のテキストに論拠を置く議論がそのテキストを信ずる者の間でしか意味をなさないのと同様に、『日本国憲法の精神に照らして望ましい』という言明は『日本国憲法の精神』を共有する者の間でしか説得力をもたない。問題は、なぜ、その『憲法の精神』が望ましいか、である。日本国憲法の内容の望ましさに疑問をもつ者も、実定法秩序にコミットするかぎり日本国憲法の要求するところは遵守しなければならず、したがって憲法の意味するところを明らかにする作業に参加することができるが、しかし、それは法が法として要求するかぎりのことであって、それを越える要請は受け入れないという態度をとることができる。すなわち、憲法の要請をいわばぎりぎりまで値切るわけである。このような態度をとる者とは、そもそも『日本国憲法の精神』が望ましいかどうかから議論を始めなければならない。しかも、護憲論者にとっても、少なくとも建前としては、憲法の内容を問い直す作業は『憲法を強める』ために必要なことであるはずである。その意味で、一般的にいって、憲法よりも下位の法規範の解釈や立法政策論において『憲法の精神に照らして望ましい』という論拠を持ち出すことは、望ましくない思考停止である場合が多いであろう」、と(5)
  本稿は、こうした高井教授による批判に応えて、再度、「憲法上望ましい」という主張の成立可能性、憲法学の役割について検討を加えようとするものである。ところで、「憲法上望ましい」という主張は、憲法の趣旨・精神を活かした法律解釈という形をとる場合と、憲法の趣旨・精神からみて望ましい政策、法律の提唱という形を取る場合とがある。まず、前者から検討していこう。

一  憲法の精神を活かした法律解釈


  高井教授は、直接的には、刑罰謙抑主義を憲法の趣旨・精神に照らして望ましい刑法解釈ないし刑法理論として評価すべきであるとする私の主張を取り上げて批判している。すなわち、私は、憲法三一条が刑罰法規の内容の合理性を要求していると解することには理論的な問題が多く、そのような解釈を支持することはできないとしつつも、「一般的にいって刑罰権の発動が最も強力な国家権力行使であり、国家権力は国民に人権を確保するためにこそ存在するというのが近代立憲主義の発想であるならば、刑罰権発動の根拠および発動の指針は国民に人権を(形式的または実質的に)平等に保障することであるというのが日本国憲法の趣旨であるといえよう(憲法の理念としての刑罰謙抑主義)。憲法は直接的にはこの趣旨に明らかに反しているもののみを禁止していると解さざるをえないとしても、この憲法の趣旨によりかなった形で刑罰法規が立法され、また、裁判所がこの憲法の趣旨によりかなった刑法理論に基づく法律解釈をすることは、憲法上望ましいことであるといえる。この意味で『憲法の名で刑法上の論争に権威的に決着をつける』ことは決して不当ではない。学説が、憲法の要請(それに違反することは許されない最低ライン)と憲法の趣旨・精神との区別を明確にした上で、憲法の趣旨・精神に照らして望ましい刑法解釈ないし刑法理論を構築していく意義は大きいと思われる」、と論じた(6)。これは、個々の法律規定の解釈を指導する原理を憲法の趣旨・精神から引き出すことをも提唱したものである。このような法律解釈にあたっての原理を憲法から引き出すという主張はこれまであまり見られなかったかもしれないが、憲法を法律解釈の指針とするということは、学説においても判例においても広く認められてきたように思われる(7)。憲法を法律解釈の指針とする典型例としては、学説が、憲法二五条をプログラム規定であるとする説も含めて、憲法二五条が社会保障諸法律の解釈基準として働くことを古くから認めてきたことが挙げられる(8)
  憲法を法律の解釈基準として用いるとは、憲法の趣旨・精神により適合するように法令を解釈するということである。これは、法律について可能ないくつかの解釈の中で憲法の精神に照らして望ましいものを採用するという手法をとるものである(憲法の精神を活かした法律解釈(9))。ここでは、憲法が厳密な意味で裁判規範として機能しているわけではなく(10)、<憲法・条の趣旨・精神に照らして……が望ましい>という「緩やかな意味での憲法解釈」がなされていることになる。憲法を法令の解釈基準として機能させることは、憲法上の権利の「裁判的保障(11)」にとって重要であるばかりか、内野教授の言う「厳格憲法解釈」とは別のレベルで(法律解釈のレベルで)法的意味をもつ(12)ことは否定されえない。
  また、私人間の人権保障問題についてのわが国の「間接適用(効力)説」も、憲法の趣旨・精神を活かした法律解釈である。間接適用説が憲法の人権規定が私人間にも間接的に適用される、間接的に効力をもつといっても、実は、「私法の一般条項を、憲法の趣旨をとり込んで解釈・適用する(13)」、「憲法の趣旨をうけて法律を解釈適用し、私人間の問題を解決」する(14)ということなのである(15)。この間接適用説は、「人権は、戦後の憲法では、個人尊厳の原理を軸に自然権思想を背景として実定化されたもので、その価値は実定法秩序の最高の価値であり、公法・私法を包括した全法秩序の基本原則であって、すべての法領域に妥当すべきものであるから、憲法の人権規定は私人による人権侵害に対しても何らかの形で適用されなければならない」との認識に基づくものである(16)。そこから、私法の独自性と自律性を認めつつも、私法の一般条項の意味を人権価値を導入・充填して解釈しようとするのである。
  高井教授は、「憲法よりも下位の法規範の解釈……において『憲法の精神に照らして望ましい』という論拠を持ち出すことは、望ましくない思考停止である場合が多い」というのであるから、憲法を法律解釈の基準として用いることを否定する立場であると解される。それゆえ、間接適用説の論法も否定されることになるはずであるが、高井教授の「私人間効力論」についての叙述はそれほど徹底したものではない。すなわち、「@仮に私法秩序に憲法的規律が及ぶとしてもそれは抽象的な要請にとどまり、国会には私法秩序の規律につき広範な立法裁量がある。A裁判所が私法の一般条項を通じて私人間の人権侵害に関する紛争を処理する際にも、不必要に憲法条項を援用することを避けるべきである」、と述べられている(17)。しかし、「法律には、憲法規定に反しないかぎり、国会の判断で、独自の価値・原理を導入しうる(18)」という高井教授の立場からは、私法秩序に憲法的規律が抽象的な要請として及ぶということは否定されるはずである。それゆえ、仮にとして述べられているのだが、@は高井教授の立論とは矛盾する。また、Aはどのようなことを意味するのであろうか。高井教授は、別の箇所では「憲法を援用する」という言葉を「憲法〇条違反」といった意味で使っているが、ここでは民法九〇条の解釈において憲法条文に言及することを意味していると思われる。とすれば、「不必要に憲法条項を援用することを避けるべきである」という表現からは、私法の一般条項の解釈において憲法条項を援用することが必要な場合があるということになるが、それはどのような場合を意味しているのであろうか。いずれにせよ、@Aは「百歩譲って−だとしても、せめて……であるべきだ」ということが述べられているにすぎず、憲法と私法との関係、憲法学の役割についての高井教授の立場を貫けば、「私人間における人権保障」問題はどのように処理されるべきことになるのか、明確に述べられているわけではない。

  以上見てきたように、これまで憲法が法律解釈の基準として働くことが広く認められてきており、高井教授もそのことを徹底して否定できてはいない。ではなぜ憲法は法律解釈の基準となるのであろうか。それは、間接適用説が説くように、憲法が全法秩序に妥当すべき価値を定めたものと解されるからである。憲法と法律とは一般法と特別法の関係にあるとも言える。この点、日本国憲法の下で、行政の組織と作用に関する法である「行政法は、憲法の精神を具体化し、その理想を国民生活のなかに定着させる使命を担う、憲法理念の具体化法となった(19)」ことを理由に、行政法の憲法の趣旨に照らしての解釈を説くことには、高井教授もそれほど異論がないかもしれない。高井教授の論文は医療をめぐる憲法と民法・刑法との関係を対象とするものであって、「民法(特に財産法)や刑法を憲法の規律の対象とすることには慎重であるべきだ」と主張しているのである。「憲法は、法律のよって立つ価値・原理を網羅的・排他的に指示しているわけではなく、したがって法律には、憲法規定に反しないかぎり、国会の判断で、独自の価値・原理を導入しうるのである。言い換えれば、法律には、憲法がノーということは盛り込めないが、憲法がイエスということのほかにイエスともノーともいわないことも盛り込むことができる」、「民法の財産法や刑法については、憲法がその内容に指示するところは比較的少なく、民法典・刑法典が独自の価値体系を立てる余地を多く残しているように思われる」、というのである(20)。このように、高井教授は、基本的に憲法と民法、刑法とを切断して捉えている。「憲法謙抑主義」「憲法消極主義」の主張と言えよう。
  しかしながら、憲法と民法との関係については、民法研究者である山本敬三教授が、「憲法が、基本権の保障を宣言し、その侵害の禁止と保護・支援を要請するのを受けて、民法が−市民相互の関係に関する私法の領域について−その保障体制の基本枠組みと基本原理を決定する」という構造を力説しているのが示唆に富む(21)。具体的には、次のように説かれている。すなわち、憲法によって保障された基本権を「市民相互間で問題となる状況に即して具体化し、その内容を特定することが、民法の第一の任務にほかなら」ず、さらに、基本権を侵害から保護する制度(基本権保護制度)を用意することや、個人の基本権をよりよく実現できるよう支援するための制度(基本権支援制度)を用意することも、民法の役割である。もちろん、憲法によって民法の内容がすべて規定され尽くされてしまうわけではなく、どのように基本権を具体化し、どのような基本権保護制度・基本権支援制度を創設するかについては、憲法の枠を越えない限り、まず立法者に委ねられるのであり、次に裁判所が、そうした立法者の決定を前提として、その具体化をはかり、必要な場合にはその不備をおぎなうのである。このように立法者と裁判所との協働で形成される民法には、「憲法を出発点としながら、それのみに尽くされない独自性がある」、と。
  こうした山本教授の説く「穏健な憲法中心主義(22)」は基本的な方向性において支持できるが(23)、必ずしも民法学において一般的なものになっているわけではないようである。たとえば、星野英一教授は、「人間には、人間であるがゆえの尊厳、守られるべき価値があることは、憲法の規定(一三条)をまつまでもなく認められるはずであ」り、「それは、国家に対して主張できる基本的人権であるほか、他の人に対しても主張できるもの、つまり私権でもなければなるまい」と論じている(24)。つまり、「人権は憲法にだけ認められており、それが私人間にも適用されるというよりは、基本的な法律の原理があって、それが憲法においては国に対する権利として、民法においては私人に対する権利として存在する、と考えるほうがよくはないか」、というのである(25)。星野教授は、人間の尊厳の原理、人権が民法にも及んでいることは認めているが、憲法の人権保障の趣旨が民法に及んでいるわけではないとするのである。
  また、山本教授は、ドイツの学説展開に依拠しつつ論じているが、その「穏健な憲法中心主義」は比較法的に見て十分な根拠があるとも言い難いようである。たとえば、フランスにおいては、民法の憲法化を主張する憲法研究者と憲法の民法化を主張する私法研究者との間で論争がある(26)。そもそもフランスでは、大革命直後の一七九〇年七月五日に議会は、「立法者は、民法を再検討し、改革し、単純明白で憲法に適合した一般的法典を作成しなければならない」との布告を決定し、それを受けて、一七九一年憲法は「全王国に共通な民法典を作る必要がある」と規定し、それが結局、一八〇四年のナポレオン法典に結実したのであった(27)。しかし、今日では、私法研究者の側から、「私法は規範秩序において憲法に従属するという考え方は私法の伝統を無視した非歴史的なものである」とか、「家族、契約、財産といった各種の基本概念は、人権宣言が定めたものではなく私法の伝統によるものであり、憲法院はこれを尊重せよ」などといった主張がなされている。こうした主張の背景には、憲法の制定が繰り返される一方で民法典は今日まで生き続けてきたこと、長らく違憲審査制が確立しなかったことなどがある。また、アメリカでは、民法が憲法に適合するものであるかどうかは厳しく問われているが(28)、憲法による権利保障を具体化するのが民法の役割であるといった発想はみられない。ただ、アメリカが連邦制であり、合衆国憲法が本来、連邦政府に限定的な形で権限を与えるものであること、合衆国憲法の人権規定が連邦議会、州に対して権利の侵害を禁止するという規定の仕方をしていることなど、わが国との無視できない相違がある。このように各国それぞれの事情があり、憲法と民法の関係に関する近代立憲主義の一般的な考え方を引き出すことは困難である。
  しかしながら、少なくとも日本国憲法の理解としては、「穏健な憲法中心主義」は十分な説得力をもつと思われる。日本国憲法が、憲法の保障する権利を、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であり「侵すことのできない永久の権利」である「基本的人権」と呼んでいる(一一条・九七条)ことからして、憲法の保障する権利は人間が人間であるがゆえに当然に有する価値・属性であると解するのが自然であろう。そして、この人権価値の根拠は、個人が個人として尊重されるという個人の尊厳原理あるいは人間の尊厳の原理(一三条、二四条二項)に求められる(29)。とするならば、憲法は、個人の尊厳(人間の尊厳)の原理に基づく人権価値、人間である以上当然に有する価値を認めるものであるから、それが憲法以下の法令において貫徹していくことに無関心であるとは考えにくい。それゆえ、憲法の人権規定は「社会生活の基本的な価値秩序」「公法・私法を包括した全法秩序の基本原則」と捉えられるのである。なお、星野教授は、「人間の尊厳の原理」を憲法の基盤でも民法の基盤でもあるような法の根本原則ないし根本規範と解しているようである。しかし、実定法としての憲法は憲法制定権力によって初めて正当化され根拠づけられるものであって、憲法を基礎づけるような法の根本原則、根本規範は認めがたい。憲法制定権力が憲法において法の基本原理としての「人間の尊厳」(あるいは「個人の尊厳」)の原理を定立し、それが私法秩序にも妥当すると解するのが適切であろう。また、仮に憲法を基礎づける法の基本原則、根本規範の存在を認めるとしても、法の段階構造からして、それはまず憲法における「人間の尊厳」(「個人の尊厳」)の原理として現れ、それが下位の法規範に貫流していくと解するのが自然であろう。
  憲法が全法秩序に妥当すべき価値を定めたものだという前提からは、裁判官による憲法の趣旨・精神にそった法律解釈がまさに求められていると言えよう。確かに、権力分立原理や民主主義原理から裁判所による法解釈に一定の限界があることは否定できない。法律の文言は法律解釈の枠となるであろうし、立法者の意思は法律解釈にあたっての重要な指針となるであろう。しかし、裁判官が、法律の文言の枠の中で立法者の意思を重要な指針の一つとしつつも、憲法の精神を導きの糸として、法体系、各法律の構造、問題となる法的な概念の歴史、社会の現実等を考慮に入れつつ法律解釈を行うことには、権力分立や民主主義との関連で何ら問題はないであろう(30)。そして、法律家や市民が裁判所に向けて憲法の趣旨に即した法律解釈をするよう求めることも正当なことと言えよう。そして、法律の解釈基準としての憲法の機能を明らかにすることは、それには憲法についての専門的な知識を必要とするだけに、憲法学の重要な課題であろう。

  立法政策論としての「憲法上望ましい」論  −憲法政策論

  「憲法上望ましい」とする主張の第二の類型は、立法政策論としてなされるものである。憲法からみて望ましい政策・法律の提唱を「憲法政策論」と呼ぶことができるし、憲法からみて望ましい政策・法律を立案し論じるという学問領域を「憲法政策学」と呼ぶことができる(31)。こうした憲法政策学は、「一部ではかなり早くからその必要性が説かれながら−憲法学の中では最も遅れた分野に属する」のであり、「全体から見れば依然として未開墾に近い状態にある(32)」。しかし、小林直樹教授が指摘するように、従来、おびただしい数の憲法政策論が提示されてきている。たとえば、手島孝教授は、早くから自覚的に、公計画、財政、地方自治、政党国家等に関して憲法の視点からの政策論的な提言を行なってきた(33)。手島教授以外にも、国会や選挙制度(34)、地方自治、裁判所制度の改革の提案が憲法研究者等によってなされてきた。たとえば、小林武教授は、議員定数不均衡問題にかかわって、最高裁が合憲判決を下しても国会はそれに安住することなく不均衡の是正措置をとるべきであり、さらに、最高裁の違憲判決が下された場合ですら、国会は「そこに示されている違憲の判断は控え目で抑制的なものであると受け止めて、より憲法に適った高みへと自ら積極的に法律を改めることが求められる」と主張している(35)。芦部信喜教授も、衆参同日選挙について、「それを違憲と解するのは困難だとしても、両院制の存在理由など憲法の趣旨からみた当否の議論を、単なる政治論と断定することは適当でないように思う」、と論じている(36)。さらに、室井力教授は、「自治体の政治行政における直接請求制度は、憲法上、むしろ積極的に推進されることが望ましいということは、住民自治の保障の徹底という点から肯定できるとしても、それがもしなければ、そのような地方自治制度は憲法に違反するとまでは、なお断言しがたい」と言う。そこから、「現行法の認めている直接請求制度……を法律の改正によって廃止することは、直ちに憲法違反とまではいいえないとしても、少なくとも憲法の精神には反するもの、またそれに逆行するものとの評価は可能であろう」、とされるのである(37)
  また、民事訴訟法研究者である小島武司教授は、新しい公正と正義の観念に導かれて成長発展を続ける憲法の理念に即応して民事裁判制度が改革されるべきことを提唱してきた(理想の民事裁判制度を創造するための挑戦の原理としての憲法、創造の原理としての憲法(38))。新堂幸司教授は、こうした小島教授の提言は、「憲法の要請を立法政策の指導原理とみる」憲法論であると捉えている(39)。さらに、野中俊彦教授は、「訴訟要件が憲法訴訟の成立にとって大きな壁になっているという現実があるときに、これらの問題について憲法学の観点からも発言がなされてしかるべきであろう」とする。「これらの問題が、憲法上の『裁判を受ける権利』の侵害、あるいは憲法上の司法権の範囲を不当に狭める制約として語りうる性質のものかどうか、にわかには結論を出しにくい」が、「少なくともその当・不当は問題にしうるのであり、特に人権救済の観点から、憲法の趣旨に沿うか沿わないかの議論は行うことができる」、というのである(40)
  さらに、人権領域でも、芦部教授は、外国人は社会権の享有を認められないという伝統的な立場に立ちつつ、「法律において外国人に社会権の保障を及ぼすことは、憲法上何ら問題はない」とし、さらに、「わが国に定住する在日韓国・朝鮮人および中国人については、その歴史的経緯およびわが国での生活の実態等を考慮すれば、むしろ、できるかぎり、日本国民と同じ扱いをすることが憲法の趣旨に合致する」、と論じている(41)。こうした見地からは、国際人権規約批准、難民条約加入に基づく社会保障関係の法令からの国籍要件の撤廃は、「憲法の趣旨にかなう立法政策」ということになる(42)。また、労働法研究者の菅野和夫教授が、「協約締結権否定を定めた現行[国家公務員法上の]交渉制度は、国会の立法裁量の領域に限界線すれすれでとどまっており、憲法二八条の中核的要請の領域を侵食するには至っていない」としつつ、「最も憲法二八条を尊重しない立法政策であって、同条の側から立法政策の当否を大いに問題とされうるものである」としているのも(43)、憲法の人権規定が立法政策の当否の判断の要素となることを認めている例として挙げられよう。
  このように、これまで学説では憲法政策論の提示が相当なされてきたのである(44)。私も、こうした憲法政策論を提示したことがある。まず、憲法上、定住外国人は地方参政権を有しているわけではないが、法律によって定住外国人に地方参政権を付与することは、憲法上許されるばかりか、憲法の住民自治の理念により適合し、憲法上望ましいことであると主張した(45)。さらに、「変容する社会と司法」を統一テーマとする日本公法学会第六五回総会において「裁判へのアクセスと裁判を受ける権利」と題する報告を行い、裁判を受ける権利の実質的保障という視点から、(非刑事訴訟を中心に)裁判へのアクセスの改善について論じたが、その際、憲法違反になるか否かという面だけでなく、憲法の趣旨からしてどのようにするのが望ましいかといった面についても検討を加えた。すなわち、裁判を受ける権利を侵害しており違憲であるといった状況から脱するだけでなく、国民の裁判へのアクセスの保障や権利侵害の実効的救済をより充実化していくよう、司法制度を改革していくべきであるという観点(裁判を受ける権利を保障する憲法の精神・理念によりかなった司法制度に向けての改革)から、裁判へのアクセスの改善策を論じたのである(46)

  以上見てきたように、これまで憲法政策論的な提言が憲法研究者等によってなされてきた。このような憲法政策論的な提言が議論として成り立つのは、第一に、憲法の人権規定が全法体系に妥当する価値を定立しており、憲法が具体的に要求すること以外については、基本的に立法府に憲法の定立した価値を具体化する裁量を与えていると解されるからである。第二に、憲法が、国会に、議会制度、司法制度、地方自治制度等の諸制度を、当該制度についての憲法の趣旨・精神にできるだけかなうように形成することを義務づけていると解されるからである。ただ、国会はできる限り人権保障や諸制度についての憲法の趣旨・精神を実現すべきだとは言えても、国会がどのように(どの程度)憲法の理念を活かすかは、具体的な憲法の要請に反しない限り立法政策の問題である。「立法政策の問題」だといっても、そこには、任された国会は、憲法の要請に反しなければ何をしてもいいというのではなく、諸般の事情を考慮に入れてできるかぎりよい制度を形成するはずだという建前があるはずである。とするならば、「憲法上望ましい」かどうかが、立法政策の指針、立法政策の当否の判断の指針になるであろう。確かに、国会は、財政上の理由その他諸般の事由を考慮に入れて、どのように、どの程度憲法の理念を具体化するかについて判断を下すであろう。そうした具体的な立法について、はたしてできる限りで憲法の理念を具体化したものであるか否かについて、立法政策の当否という形で議論がなされるのである。そして、わが国の司法制度をめぐる状況のように、極めて貧困であるため、「財政上の理由」は立法政策の当否の議論のレベルでも十分な説得力をもたない場合もあろう。いずれにせよ、「憲法上望ましい」という概念は、「憲法違反である」「憲法が要求している」といった概念のような絶対的な意味をもたない。それは、高井教授のいうような「思考停止」に陥るものではなく、むしろ立法政策の当否についての議論の土俵、基準を設定するものなのである。このようなある政策、法律が「憲法上望ましい」「憲法上望ましくない」という議論は、憲法の理念を現実化していく、憲法の定立した価値を全法体系に実際に貫徹させていく上で、重要な役割を果たすであろう。
  憲法政策論の見地からは、最高裁が合憲判決を出しても、立法府はその合憲判断に安住することなくより憲法の理念にかなった「より合理的な立法への努力」を行うべきであると主張されるし(47)、さらに最高裁の違憲判決が出された場合にも、国会は「より憲法に適った高みへと自ら積極的に法律を改めることが求められる」、と論じられる(48)(49)。こうした見地からは、「裁判所は、法的効果のあるところをこえて、憲法のよりよい現実化のために必要・有益と思われる視点・観点を、他の国家機関や国民一般にとって判断材料になるものとして、提示すべきである」、「法的効果のあるところをこえる視点・観点の提示に関しては、裁判所としては、単なる判断材料の提供などすべきではないなどと考えずに、憲法のよりよい現実化のために可能なかぎりの寄与をおこなうべきであ」る、ということになろう(50)
  こうした憲法政策論の提示は、憲法についての専門的知識をも必要とするのであるから、憲法学の課題の一つと言えよう。そこで、私は、これを厳密な意味での憲法解釈と別のものであるということを十分意識した上で、積極的に提示すべきことを説いたのである(51)。厳格解釈論を提唱した内野教授も、憲法政策論の提起を憲法学の課題ではないとするわけではない。「憲法上望ましいか否かといった言明は、いわば緩やかな意味での憲法解釈論という資格で行いうるのであり、規範的憲法学は、むしろかかる方面でも積極的に発言すべきである」、としている。ただ、「このような緩やかな意味での憲法解釈論は、厳格憲法解釈論とは異なった次元に属するものである、ということが十分自覚される必要があろう」、というのが主張の核心なのである(52)。それに対して、「憲法研究者のけじめ」を説いた奥平教授は、憲法解釈論をもっぱら内野教授のいう厳格憲法解釈論と捉え、こうした意味での憲法解釈こそが憲法研究者の役割であるということを強調したのであり、裁判所で通用する解釈を提供することにとどまるか、それとも自分の専門知識を活用して政治過程−運動の世界−へと参入するかどうかは、その人の個人の問題、しかも「かぎりなくただの市民に近い」ところにある個人の問題である、と主張した(53)。奥平教授の場合、憲法に照らして望ましいという政策論が成り立つこと自体は否定されていない。ただ、それは憲法研究者の本来の役割ではなく、市民として行っているだけだということなのである。私は、この点を、「適切な憲法政策論を構築するのには、憲法についての『専門知識を活用』することがまさに必要とされるのであるから、憲法政策論の構築は総体としての憲法研究者の役割の一つであるとみるべきではなかろうか。また、憲法政策論を展開するかどうかは、憲法研究者としての選択の問題ではなかろうか」、と批判した(54)
  では、高井教授は憲法政策論に関してどのような立場をとるのか。この点、高井教授は、「立法政策論において『憲法の精神に照らして望ましい』という論拠を持ち出すことは、望ましくない思考停止である場合が多いであろう」という叙述(55)からして、憲法に照らして望ましいという政策論(憲法政策論)の存立自体を否定する立場のようにも思われる。しかし、高井教授の立論はそれほど徹底してもいないようである。というのも、「官僚制や政党の組織・活動方法、利益集団の働きかけなど、厳密な意味での憲法解釈では一義的なあり方を示せない問題も多いであろう」が、「政策的提言として、憲法学を専門とする者が貢献できる事柄も少なくなかろう(56)」、とも論じているからである。「憲法学を専門とする者」が行う政策的提言とはどのようなものであろうか。それを憲法の精神・理念に依拠して行うのであれば、憲法政策論の成立自体は認めていることになろう。そして、「憲法学を専門とする者が貢献」するとは、そうした憲法政策論の提示を憲法学の課題として容認しているという趣旨であろうか。それとも、奥平教授のように憲法研究者がその知識を活かして市民として行うものであると捉えられるのであろうか。とするならば、奥平教授への批判が妥当しよう。

結びに代えて


  以上、憲法が全法秩序に妥当する価値を定めているという立場からは、「憲法上望ましい」という主張が法律解釈においても、立法政策上の提言としても十分成り立つことを見てきた。そして、高井教授の立論が必ずしも徹底していないことを指摘してきたが、そのことは、それだけ「憲法上望ましい」という主張がこれまで広く行われてきたし、従来の憲法学の基本的な憲法観(実体的価値の憲法観)や諸理論(たとえば間接適用説)と強く結びついていることを示している。なお、高井教授は、「公権力が関わることが明らかな場合でも、実質的な権利の内容は抽象的な憲法原則から演繹するのではなく、仮に憲法問題にするにしても、従来から蓄積された民法・刑法上の諸規範から帰納的に析出されたものを憲法に読み込むべきものであろう(57)」、「憲法解釈が必要な場合も、特に幸福追求権の解釈に当たっては民法・刑法などの法理が参考になろう(58)」と述べていることからして、憲法の理念・精神を持ち出すことは抽象的な憲法原則からの演繹を行うことになる(あるいは、なりがちである)と危惧しているのではないか、と推測される。しかし、憲法の理念・精神は、憲法の文言の抽象的な考察によってのみその意味内容が確定されるわけではない。文言の意味、憲法制定過程に関わった者の意識その他憲法制定過程、当該(あるいは関連する)理念の歴史、諸外国の憲法との比較が考慮されねばならないが、他方、憲法より下位の法規範がどのように定められ運用されているかも考慮に入れられねばならない。下位の法規範が上位の法規範の内容を確定すると考えることは背理だが、下位の法規範の定立と運用、その解釈にあたって前提とされる原理が上位法の解釈の参考になることは大いにあろう。憲法の理念・精神の内容の確定にあたっては、下位の法規範との視線の往復が不可欠であろう。
  高井教授は、憲法上望ましいという議論の場合、「日本国憲法というテキストはもはや法的意義をもたない単なるテキストにすぎず、他のテキスト、例えば大日本帝国憲法やアメリカ合衆国憲法、あるいは世界人権宣言と較べて特権的な意義を有するわけではない」のであり、「なぜ、その『憲法の精神』が望ましいか」の議論をしなければならない、という。これに対する私の回答は、「憲法の定立した人権という価値は公法・私法をとわずすべての法秩序に妥当するのであり、国家機関は日本国憲法の精神をできる限り実現しなければならない、というのが日本国憲法の立場ではないのか」、また、「憲法が国会に具体化を委ねた諸制度につき、国会はできるかぎり当該諸制度の趣旨・精神に照らしてよいものを作る政治的な責任がある」ということである。憲法上望ましいという議論をする場合も、「日本国憲法というテキストはもはや法的意義をもたない単なるテキストにすぎ」ないわけではないと考えるのである。そうすると、憲法が具体的に要求する点以外については憲法に拘束されるいわれはないと、「憲法の要請をいわばぎりぎりまで値切る」者との間でまずしなければならないことは、右のような憲法理解を認めるか否かという議論であって、「そもそも『日本国憲法の精神』が望ましいかどうかから議論を始めなければならない」わけではないのである。ここで、憲法観こそが真の議論の焦点であることがわかる。今後は、憲法観についての議論−実体的価値の憲法観をとるのか、それとも憲法は統治のプロセスについての定めであるといったプロセス的憲法観(59)をとるのか等々−を深めていくことが、より重要であろう。

(1)  内野正幸「憲法解釈論のあり方ーその批判的再検討ー」筑波法政八号九六項(一九八五年)、同「憲法的規範の法的性格ー厳格憲法解釈論の立場からー」筑波法政九号一三三頁(一九八六年)、同「厳格憲法解釈論について」ジュリ八九一号一〇九頁(一九八七年)、およびこれらの論文をもととした内野正幸『憲法解釈の論理と体系』第一章、第二章(日本評論社、一九九一年)参照。
(2)  奥平康弘「試論・憲法研究者のけじめ−特に教育法学者に教えをこう」法セミ三六九号八頁(一九八五年)参照。
(3)  拙稿「憲法解釈学の役割・再考−『厳格憲法解釈』の意義と限界」ジュリ臨増『憲法と憲法原理ー現況と展望』三〇頁(一九八七年)参照。
(4)  同三九頁。
(5)  高井裕之「憲法と医事法との関係についての覚書」『佐藤幸治先生還暦記念  現代立憲主義と司法権』三〇〇ー三〇一頁(青林書院、一九九八年)。
(6)  拙稿「刑事手続と憲法三一条」樋口陽一編『講座・憲法学第四巻』二〇七ー二〇八頁(日本評論社、一九九四年)(傍点は原文)。「憲法の名で刑法上の論争に権威的に決着をつける」は、刑罰謙抑主義を厳しく批判する阿部純二「刑罰についての謙抑主義」清宮四郎ほか編『新版憲法演習2』二一六頁(有斐閣、一九八〇年)からの引用。
(7)  最大判昭和五一年五月二一日刑集三〇巻五号六一五頁(憲法における教育に対する国の権能及び親、教師等の教育の自由についての理解を背景にして、教育基本法一〇条を解釈)、最判平成元年六月二〇日民集四三巻六号三八五頁(「憲法九条は、人権規定と同様、国の基本的な法秩序を宣示した規定であるから、憲法より下位の法形式によるすべての法規の解釈適用に当たって、その指導原理となりうる」)参照。
(8)  俵静夫「経済的基本権の法的特質」鵜飼信成編『憲法行政法論集』一〇七頁(河出書房新社、一九六〇年)、伊藤正己『憲法入門』一七七頁(有斐閣、一九六六年)、橋本公亘『日本国憲法』三八六頁(有斐閣、一九八〇年)、兼子仁『行政法総論』六二頁(筑摩書房、一九八三年)、佐藤功『憲法(上)』四二三頁(有斐閣、一九八三年)、同『日本国憲法概説  全訂第五版』二九六頁(学陽書房、一九九六年)、今村成和『行政法入門[第六版]』一五頁(有斐閣、一九九五年)等参照。また、ワイマール憲法時代のプログラム規定説が、ワイマール憲法一五一条一項等が法律の解釈基準(Auslegungsregel)として働くと解していた点につき、高田敏「生存権保障規定の法的性格」公法研究二六号八八頁(一九六四年)参照。
(9)  いわゆる合憲限定解釈は、憲法上の要請をみたすようになされる法令の解釈、すなわち、そのように解釈しなければ法令が違憲となるということを前提とする解釈であって、本文でいう憲法が法律の解釈基準として用いられる場合とは異なる。内野『憲法解釈の論理と体系』一三一頁参照。
(10)  佐藤功『憲法(上)』四二三頁、同『日本国憲法概説  全訂第五版』二九六頁は、憲法二五条が法律の解釈基準となる場合に「その限りで、裁判規範性をもつ」と述べている。用語法の問題であるが、私は、「裁判所による違憲審査の場で直接の準則となる」法規範が裁判規範であり、憲法条項が国家行為が憲法違反か否かの基準として働く場合を「裁判規範」として機能している、と捉える。拙稿「裁判規範性の意義」教室一一六号五五頁(一九九〇年)参照。
(11)  山下健次「生存権の裁判的保障」『法学教室<第二期>』三号二〇頁(一九七三年)。
(12)  中村睦男「生存権の法的性格」法時四八巻五号一〇頁(一九七六年)(同『社会権の解釈』〔有斐閣、一九八三年〕所収)及び芦部信喜編『憲法V人権(2)』三三四頁(有斐閣、一九八一年)(中村執筆)参照。
(13)  芦部信喜『憲法  新版補訂版』一〇七頁(岩波書店、一九九九年)。
(14)  伊藤正己『憲法[第三版]』三二頁(弘文堂、一九九五年)。さらに、戸波江二『憲法〔新版〕』一六〇頁(ぎょうせい、一九九八年)、長谷部恭男『憲法』一三七頁(新世社、一九九六年)、大沢秀介『憲法入門〔補訂版〕』七九頁(成文堂、二〇〇〇年)、内野正幸『憲法解釈の論点[第3版]』三一頁(日本評論社、二〇〇〇年)等も参照。
(15)  有名なドイツ連邦憲法裁判所のリュート判決は、民事裁判官が憲法の基本権規定の価値基準を見誤り、私法規範における憲法の影響を考慮の外に置くならば、当該裁判官は客観的規範としての基本権規定を侵害するばかりか、判決によって基本権を侵害することになるとした。芦部信喜『現代人権論』一五頁(有斐閣、一九七四年)参照。このようにドイツの間接適用説においては私法の一般条項の解釈を誤った判決が憲法違反となるが、わが国の間接適用説の大多数はそのような結論をとっていない。
(16)  芦部『憲法  新版補訂版』一〇六頁(傍点は原文)。また、芦部信喜『憲法学U』二八一頁(有斐閣、一九九四年)(「人権規定が社会生活の基本的な価値秩序、したがって公法・私法を包括した全法秩序の基本原則、を定めたものである」)も参照。
(17)  高井・前掲注(5)三〇五頁注三八。
(18)  同二九六頁。
(19)  原田尚彦『行政法要論(全訂第三版)』九頁(学陽書房、一九九四年)。
(20)  高井・前掲注(5)二九六ー二九七頁。
(21)  山本敬三「基本法としての民法」ジュリ一一二六号二六一頁(一九九八年)。以下の本文での引用は同論文からのものだが、さらに山本敬三「現代社会におけるリベラリズムと私的自治(一)(二)・完」法学論叢一三三巻四号一頁、五号一頁(一九九三年)、同「憲法と民法の関係−ドイツ法の視点」教室一七一号四四頁(一九九四年)も参照。
(22)  山本「憲法と民法の関係」前掲注(21)四九頁。佐藤幸治教授が、私人間における人権保障にかかわって、@「人格的自律権の相互尊重と自律権の延長としての私的自治の原則が基本的考慮要素とされる限り、憲法の保障する人権は私人相互間にも妥当するとみることができる」、しかし、A私的自治の原則にかかわる法秩序形成の第一次的責任は国会にあり、「裁判所も、まず法律に着目して裁判すべきものである」、結局、B「憲法の人権保障と民法・刑法などの法律秩序とは全く独立した法秩序ということではなく、あるいは重なり合い、あるいは法律秩序に不足するところを直接に補うというような関係にあることがより重視されて然るべきではないか」、と論ずるのもほぼ同旨であろう。佐藤幸治『憲法[第三版]』四四〇頁注一(青林書院、一九九五年)参照。
(23)  国家の基本権保護義務や基本権支援義務といった観念については判断を留保したい。基本権保護義務について詳しくは、小山剛『基本権保護の法理』(成文堂、一九九八年)参照。また、基本権保護義務を強調する立場へ批判を加えるものとして、芦部信喜「人権論五〇年を回想して」公法研究五九号一二頁以下(一九九七年)参照。人権規定を「社会生活の基本的な価値秩序」「公法・私法を包括した全法秩序の基本原則」と捉えることができれば、基本権保護義務を認めなくても「穏健な憲法中心主義」は成り立つであろう。
(24)  星野英一『民法=財産法=』五二頁(大蔵省印刷局、一九九四年)。
(25)  星野英一「民法と憲法」教室一七一号九頁(一九九四年)。また、同『民法論集  第七巻』六二ー六三頁(有斐閣、一九八九)も参照。
(26)  大村敦志『法源・解釈・民法学』三五一頁以下(有斐閣、一九九五年)参照。
(27)  星野『民法論集  第七巻』六一ー六二頁参照。
(28)  樋口範雄「民法と憲法の関係−アメリカ法の視点」教室一七一号五八頁(一九九四年)参照。
(29)  人間の尊厳の原理と個人の尊厳の原理との相違について、拙稿「日本国憲法における『個人の尊厳』原理」大河純夫ほか編『高齢者の生活と法』二五頁(有斐閣、一九九九年)参照。
(30)  高井・前掲注(5)二九九ー三〇〇頁は、「司法審査と民主主義」の問題を指摘して、「裁判所は、実体的価値についての不必要な判断を避けるべきであり、原則として民法や刑法の解釈で紛争を解決できる場合に憲法を援用すべきではない」としているが、これは裁判所が直接、憲法・条違反であると判示すべきでないという趣旨であろうか。それとも「私人間効力」についての間接適用説に立って憲法・条を参照しつつ民法九〇条を解釈するといったことや憲法を法律の解釈基準として用いるといったことも民主主義との関連ですべきでないという趣旨であろうか。おそらく前者と思われるが、国会は法律改正によって裁判所の法律解釈をくつがえすことができるのであるから、裁判所が憲法を法律の解釈基準として用いることを「司法審査と民主主義」論を理由に否定しようとすることには説得力がない。
(31)  「憲法政策学(論)」をほぼ本文のように理解しているものとして、小林直樹『〔新版〕憲法講義上』七五ー七六頁(東京大学出版会、一九八〇年)、奥平・前掲注(2)八頁、手島孝『憲法解釈二十講』一四頁(有斐閣、一九八〇年)、阿部泰隆『政策法学の基本指針』四頁(弘文堂、一九九六年)参照。なお、小林直樹『憲法政策論』一七頁(日本評論社、一九九一年)は、改憲を要しない諸政策だけでなく、憲法の部分改正を要する政策の提示も「憲法政策論」の主要な課題となるとしている。「憲法政策学(論)」につき別の理解をしているものとしては、黒田了一「憲法学の方法について(二)」法学雑誌六巻一号九六頁(一九五九年)、上田勝美『新版  憲法講義』六頁(法律文化社、一九九六年)、池田政章「法律学の成果と課題・憲法」法時三七巻五号一〇〇頁(一九六五年)参照(前二者ではあるべき憲法を構想し、また歴史的発展の視座から実定憲法を分析する学として、最後のものでは現行憲法典を越えてなされる憲法問題についての政策論として捉えられている)。
(32)  小林『憲法政策論』三ー四頁。
(33)  手島孝『憲法学の開拓線』(三省堂、一九八五年)参照。
(34)  「政治改革」の一環としての衆議院の選挙制度改革に関する憲法研究者の批判・提言も、その主な部分は、憲法政策論であった。森英樹『検証・論理なき「政治改革」』(大月書店、一九九三年)、吉田善明『政治改革の憲法問題』(岩波書店、一九九四年)等参照。
(35)  小林武「判例批評」民商九四巻四号九四頁(一九八六年)(傍点は原文)。小林武「最高裁判所判決と議会の関係」ジュリ一〇三七号九五頁(一九九四年)も参照。但し、小林教授の主張が、ここでいう憲法政策論だけでなく、国会による厳しい合憲性の検討の要求をも含む点につき、後掲注(49)参照。
(36)  芦部信喜「法律論と政治論」法学教室七四号五頁(一九八六年)。
(37)  室井力『行政改革の法理』八五ー八六頁(学陽書房、一九八二年)。
(38)  竹下守夫ほか編『民事訴訟法を学ぶ[第2版]』一一頁以下(有斐閣、一九八一年)(小島武司執筆)。また、小島武司『民事訴訟の基礎法理』一四頁(有斐閣、一九八八年)も参照(「憲法化された理想の範囲内においても、最小限絶対に満たさなければならない『ミニマムの要請』と、憲法理念として立法者が追求すべき『マキシマムの要請』とを区別」すべきとする)。
(39)  新堂幸司「訴訟と非訟」ジュリ増刊『民事訴訟法の争点[新版]』一七頁(一九八八年)参照(「ここで憲法論とは、違憲かどうかという観点だけでなく、憲法の要請を立法政策の指導原理とみることをも含んだものと理解すべきであろう」、とする)。
(40)  野中俊彦「憲法訴訟論の意義と問題点」憲法理論研究会『違憲審査制の研究』一八五頁(敬文堂、一九九三年)。
(41)  芦部『憲法  新版補訂版』九一頁。芦部信喜編『憲法U人権(1)』一二ー一三頁(有斐閣、一九七八年)(芦部執筆)も参照。
(42)  芦部『憲法学U』一三七頁。
(43)  菅野和夫「国家公務員の団体協約締結権否定の合憲性問題」下井隆史ほか編『久保敬治教授還暦記念論文集  労働組合法の理論課題』一四七頁(世界思想社、一九八〇年)(傍点は原文、傍線は市川)。
(44)  さらに、生活保護に関する憲法政策論を提示する注目すべき業績として、山崎栄一・阿部泰隆「生活保護の憲法政策序説−阪神・淡路大震災における生活保護の運用実態調査を踏まえて−」神戸法学雑誌五〇巻一号九三頁(二〇〇〇年)がある。
(45)  拙著『ケースメソッド憲法』四七頁(日本評論社、一九九八年)参照。
(46)  本報告は、公法研究六三号に収録予定。
(47)  山下健次「現代日本の立法府−その存在理由と検討視角−」公法研究四七号四四ー四六頁(一九八五年)、樋口陽一・栗城壽夫『憲法と裁判』三三六ー三三七頁(法律文化社、一九八八年)(栗城執筆)。
(48)  小林武「判例批評」前掲注(35)九四頁(傍点は原文)。
(49)  もっとも、山下教授、小林教授の主張は憲法政策論のみではない。というのも、「司法権の限界(立法裁量の限界等々)にとどまったが故に違憲とまでは断定できないとした判決」を想定し、「だからといって法律が一〇〇%憲法の趣旨にそうものであるとの結論が出たわけではない」(山下・前掲注(47)四四頁)、広い立法裁量論に立つ判決は、「係争法律につき、それを精査することなしに違憲でないと判定しただけのものであって、その内客を積極的に合憲と評価したわけではない」(小林「最高裁判所判決と議会の関係」前掲注(35)九五頁)、と述べられているからである。そこには、国会では裁判所よりも厳しい違憲審査がなされるべきであり、国会としてはそうした厳しい違憲審査をパスするような法改正をすべきだという主張も含まれている。しかし、山下、小林教授の主張には、国会は憲法違反でなければよしとするのではなく、より憲法の趣旨に沿うように、より憲法に適った高みへと自ら積極的に法律を改めるべきであるという部分、すなわち憲法政策論の部分もある。
(50)  樋口・栗城・前掲注(47)三三六頁(栗城執筆)。なお、高井教授は、「法律に対する違憲判断を下せば、この司法審査と民主主義との間に緊張が発生するが、結論的に違憲判断ではない場合でも、裁判所が憲法の内容について解釈を示せば、判例の効力の解し方にもよるが、以後の国会の立法内容を制約するおそれがあり、一般的にいえば望ましいことではない」、と言う(高井・前掲注(5)三〇〇頁)。これは裁判所の合憲判断を念頭においての叙述であるが、高井教授は、裁判所が憲法のよりよい現実化のために必要・有益と思われる視点・観点を提示することを否定する趣旨であろうか。だとすればあまりにも極端な司法消極主義的な発想と言わねばならない。
(51)  同様の主張として、小林直樹「憲法政策論序説  3完」法時六二巻七号五一頁(一九九〇年)参照。
(52)  内野『憲法解釈の論理と体系』七三頁。
(53)  奥平・前掲注(2)八ー九頁参照。
(54)  拙稿・前掲注(3)三八ー三九頁注二三(傍点は原文)。
(55)  高井・前掲注(5)三〇一頁。
(56)  同三〇七頁。
(57)  同三〇一頁。
(58)  同三一四ー三一五頁。
(59)  松井茂記『二重の基準論』二七七頁(有斐閣、一九九四年)、同「国民主権原理と憲法学」山之内靖ほか編『社会科学の方法メ@ 社会変動のなかの法』三三頁(岩波書店、一九九三年)参照。