立命館法学 2000年3・4号上巻(271・272号) 80頁




自白と補強証拠


井戸田 侃


 

一  問題の所在

二  自白の位置づけ

三  補強証拠





一  問題の所在


  現行法は、伝聞証拠と並んで自白の証拠能力について厳格な規制を設け、さらには証明力に関しても、伝聞証拠にはないきびしい条件を設けている。本来、理論的には被告人(以下、被疑者を含んだ意味で用いる)の供述と第三者の供述とを−反対尋問の問題を除いては−同じ様に扱ってよい筈である。しかし法はそのようには扱っていない。それは何故であるか、つまりその根拠を追究することによって、法は、自白をどのようにみているのかをあきらかにしようとするのが本稿の目的である。その結果、これまで「常識」とされていた考え方に対して基本的な転換を求め、現に行われている実務における捜査の手法、さらには通説といわれる考え方に反省を迫るものと思われる。そうして、これが、自白をめぐる諸問題、とりわけ補強証拠に関する問題の理解に結びつくことを示したい。

二  自白の位置づけ


1  自白とは、自己の犯罪事実の全部又は一部を認める旨の被告人の供述をいうが、自己が経験した事実であるから、一般に被告人は起訴された犯罪事実の主観的事実、被告人がなした行為、さらにその結果が自己の行為の結果であるかどうかの事実を誰よりも一番よく知っている。しかもその被告人がこれらの事実を認めたならば、当然、犯罪者として刑をうけるというわけであるから、自白は、何よりも有力なかつ犯罪事実の証明にはもっとも強力な証拠であることは誰も疑わない。そうしてまた一番信頼できる証拠であると考えてよい。人には不利益な結果を避けたいという本能があり、かつ自白はその人がいう直接証拠であるからである。そういうこともあって、永らく自白は証拠の女王であると尊重されてきた。このような「常識」にもとづいて、古くは自白がなければ有罪認定はできないという法定証拠主義をとってきた。それはそれなりのよくわかる理由があったのである。

2  ところが現行法はこの永らく承認されてきた「常識」に対して大きな疑念を示した。のみならずむしろ反対の方向に向かうことになったのである。
  まず@  自白の取得する過程において、供述拒否権を保障し、しかも手続きの度毎にそれに対する注意を与えることを定めたのである(法一九八条、二九一条、三一一条)。このような優れた証拠=自白の取得を放棄した。つまり疑われた者も云いたくないことについては、云わなくてもよいということになったのである。発言の義務を免除した。しかも取調べの前にこれを注意することによって、その行使を促したのである。
  A  仮りに本人がそれにもかかわらず犯罪事実について自白したとしても、法は、「任意にされたものでない疑のある自白」は、証拠として使えないことにした(法三一九条一項)。任意性のないものはもちろんのこと、任意性に疑があっても、証拠として使えないのである。
  B  さらにそれが証拠として使える場合であっても、「その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない」ことにしたのである(法三一九条二項)。自発的に発言したものであって、いかに信頼できる自白があっても、それだけでは有罪とはなしえない。
  しかもこれらのことは、C  法律で定めるのみでなく、憲法(三八条)がこれを支えているのである。国家の基本法である憲法上の原則である。これに違反すれば憲法違反になる。

3  しからば、憲法、法律において、このような規制を設けた理由は、何か。@については、右のような古い「常識」から云えば、疑われた者に供述の義務を認めるのがもっとも真実追究に適うことになる。しかし供述の義務を認めることは、右のような自白という証拠があまりに強力な証拠であって自白が証拠の女王であったといわれる程価値があったことからして、(a)  供述義務の履行を求めて、拷問という手段を用いてでも、無理をしても何とか自白をとろうとし、自白を取得するために−仮りに法で禁じていても−人権侵害の現象を惹起し勝ちであったからであり(1)、また(b)  仮りに供述義務にもとづいて自白をえてもその自白内容が果して真実であるかどうかについて疑問である場合が少なくないからであった。しかも右の「常識」からみてこれを過信する傾向がきわめて強かったからである。これは歴史が示している。
  この(a)と(b)は、自白取得過程において供述拒否権を認めた理由であった。それを前提として、Aの証拠能力についても、(a)  手続的に自白を取得する過程において、右の供述拒否権の侵害その他自白をとるために官憲などによる拷問その他人権侵害的圧迫の中における自白でなかったか、(b)  内容的には、真実に反する供述をしたおそれがなかったかを考えて、このどちらか一方においても違法であれば証拠たる資格を排除すると私は考えている。しかも人権侵害的圧迫の下での自白か、内容的に真実に反しているかということは被告人側の立証がきわめて困難であることを法がとくに考えて、「疑がある」だけで証拠能力を排除したのである。「疑」もなく本当に自発的な自白でなければ証拠にならない(2)。まさに法の異例な取扱である。かくして@は、自白収集をする手続的な規制であり、Aは、@違反の法律効果であると考えてよい。これらは法律要件と法律効果との関係にあるから、Aの証拠能力を排除する理由は、@の供述拒否権を認めた理由と同じでなければならない。つまり通説である違法排除説というような手続的理由のみを根拠づけにするのは誤りであって、取得手続と供述内容をともに考慮しなければならない。また自白取得手続以外の違法を考慮することは、法の明文に、沿わない。そうしてこの取得手続と供述内容の二つのうちのどちらか一つを欠いても証拠能力がないということになるのは当然である。
  Aではその証拠能力を問題にしたが、Bにおいては、自白の評価過程を問題にする。仮りに自白に証拠能力があっても、それは、もともと危険な証拠であるから、その証明力を疑うのがわれわれの経験則であるからである。しかも現行法は自白による有罪を妨げるものであるから、右の「常識」に反して自白内容を信頼することは危険であるという認識のもとに、被告人に不利益な方向への事実認定の制限を認めたものということができよう。このためにこの制限は片面的であるという意味において自白の証拠評価を自由心証主義から全面的に解き放したということにはならない。また補強証拠と危険な自白によって要証事実を認定できるかという問題もある。ここでは自由心証主義が働く。そのためこれは一般にいわれているように、自由心証主義の例外であるとするのは誤解を招く。むしろここでもこの制度の意味する内容は、現行法は、古い「常識」が示すような自白のみで犯罪を犯したと認定することは危険であるという「事実認定のルール」を定めたものといえよう。自白は証拠の女王から、もっとも危険な証拠とおいたのである。それは現在の常識であるから、これを自由心証主義による事実認定法則の適用の場面と見ることができる。つまりわれわれのこれまでの経験則判断を改めるべきことをこれが示しているのである(3)

4  かくして右@ABの諸点をみてくると、現行法は、自白は、証拠能力(存在)においても、証明力(評価)においても、それが一見もっとも優れた証拠のようにみえながら、実はもっとも危険な証拠として位置づけるべきであることを告白しているといわざるをえないのである。現行法は、伝聞証拠に対して厳格な規制を設けたといわれるが、自白にはそれ以上の厳しい規制があるのである。自白は、事実の認定については、もともと被告人に不利益な事実の認定にのみしか使えない証拠であるが、法は被告人には供述拒否権を与え、捜査機関の捜査に協力する義務はないことを示している。しかも右のように自白は、手続的にも、内容的にも問題が多い。したがって、現行法の考え方は、被告人の供述は、−とくに被告人の不利益な証拠としては−本来、証拠として予定されているものではない。つまり自白は、むしろ危険な証拠、例外的な証拠であることを示しているといえる。できるだけ使わないのが法の建前であるといえる。ただ被告人が真実についてはもっともよく知っているので、その真の意味での任意な供述については証拠たる資格を排除する必要はないというにすぎないのである。したがって証拠として使える自白は、正に任意な、つまり自発的に述べた自白でなければならない。原則として自白をとるために調べられてとられた自白であってはならない。自白で犯罪人と決めるためには、二重のフィルターを経る必要があることを示めしているのはこのためである。実体的真実主義を現行法の目的としているけれども、その実体的真実主義も実は、消極的実体的真実主義を意味するという考え方もここから知ることができる。
  犯罪はひそかに行われるのが通常であるから、このことは間接証拠が現行法ではきわめて重要になったことを示しており、実務で行なわれているように、連日、連夜取調べて尨大な自白調書をつみ上げるというような現実の捜査手法は、法の建前からみて誤っているといわねばならないであろう。まず自白をとって、それを裏付ける証拠を捜すという捜査手法も法の予定する捜査手法ではない。それは要領のよい、省力的な捜査である。またその意味から云っても、私が主張しているように被疑者取調べ(法一九八条)はもともと自白獲得のために法は認めているのではない。取調べを自白獲得のためと考えることは、自白を重視する考え方であって、法の予定するやり方ではない(4)。取調官が自白させようという意図のもとに行動に及ぶことは、多かれ少なかれ取調べの方法、供述録取の方法等々に取調官に影響を与え、任意性に「疑」をもたせることは、否定しがたい。これを「任意にされたものでない疑」のない自白であるとみることは正しくない。

5  以上のような点からみれば、自白、つまり自己の犯罪事実を認める被告人の供述がここでは問題であるから、公判廷における自白と公判廷外における自白とはその取扱を異にする根拠はない。法三一九条二項は、「公判廷における自白であると否とを問わず978f」と定めているのは、当然である。
  共犯者の被告人に関する犯罪事実の供述はどうか。自白自体が事実認定について危険な証拠であり、例外的な証拠であるとすれば、それが誰に使われようと危険な証拠であることには変わりはない。その意味からみても共犯者の自白もここでいう本人の自白であるというべきである。
  @Aについては、すでに述べたことがある(5)。そこでBに焦点をあてて考えてみよう。

(1)  これは古い時代における手続が示している。拷問が堂々と許されていた。戦前におけるわが国の状況をみてもよくわかる。供述義務を規定しなくて、供述拒否権の規定がないだけでも、自白をとろうとするのが必然的成行である。
(2)  この意味で、あとで述べるように、原則として取調べを自白収集の手段と考えることは「疑」を生じさせるものといえる。
(3)  佐伯千仭「刑事訴訟の考え方」(一九八〇年)一八〇頁参照。
(4)  井戸田「被疑者取調べは、何のためになされるべきか」(季刊刑事弁護四号、一九九五年)などを参照。
(5)  自白の任意性(産大法学三二巻二・三号、一九九八年)。
  なおBについても、これまで個々的にふれたことがある。井戸田・刑事訴訟法要説(一九九三年)六三頁、八七頁、二一〇頁以下、二三五頁以下を参照せられたい。

三  補  強  証  拠

1  それでは、どのような証拠が補強証拠になるのか。この問題については、自白は原則的な証拠ではないことを前提として、Bでふれた自白の証明力の制限の趣旨を補うものでなければならない。つまり被告人が犯罪を犯したと認定するためには、自白という危険な証拠の他にどのような証拠を必要とすると考えるのが、われわれの経験則であるかということである。
  かくして被告人本人の供述、つまり危険な証拠は、いくら重ねても補強証拠にはならない。共犯者の自白も同様であって、自白が危険な証拠であることには変わりはない。これも補強証拠となりえないと思われる。自白の他に補強証拠が要るという法文がこれを示している。
  それ以外の証拠であれば、証拠能力があり(危険な)自白と相まって要証事実の存在を証明するに足りる一応の証明力ある証拠であれば、直接証拠でなく間接証拠であっても差支えない。また右のようなものであれば、非供述証拠であれば被告人の作ったものでもよいだろう。

2  それがどの程度必要であるかについては、自白のみで、心証をえても、それが危険な例外的な証拠であるという反省にもとづいて、われわれの現代的な経験則によって補強証拠の大小を考えるべきである。少なくとも自白事実の真実性を担保するような一応の証明が補強証拠によってなされることを要すると思われる。

3  その対象については、自白内容のうち犯罪の対象である(a)  犯罪の客観面、(b)  犯罪の主観面、(c)  犯罪と行為者との結びつきの三要素について2で指摘した程度の証拠を必要とするといわざるをえないと私は考えている。この三つはそれぞれ独立の犯罪の要素であり、その一つの事実が補強証拠と自白とによって認定できるとしても、他の事実についても、当然に認定できるということにはならないからである。つまり犯罪の一部の自白事実が補強証拠とによって認定できても、他の犯罪事実についての供述の危険性がなくなったとはいえない。もちろん自白によって、この一、ないし二を証明しようとするならば、その点について右の意味での補強証拠があれば足りる。自白が正しい、信用できるかどうかということを補強証拠によって確かめるのではなくて、ここでは補強証拠と危険な証拠である自白によって、われわれの経験則によって、犯罪事実を認定できるのかという問題である。(b)(c)を落としてしまっては、補強証拠を必要とする意味を失ってしまうのであろう。自白は本来的な証拠方法ではないのである。自白は危険な証拠であるから要証事実につき補強証拠が要るのである。

(二〇〇〇・一〇)