立命館法学 2000年3・4号上巻(271・272号) 28頁




正当防衛に関する一考察


生田 勝義


 

目    次

一  課題の提起

二  いわゆる口実防衛について

三  偶然防衛と防衛の意思

四  行為原理と「防衛行為」

五  正当防衛権と日本国憲法




一  課題の提起


  正当防衛は犯罪にならない。犯罪にならないばかりか、正当な行為なのだといわれる。また、正当防衛というにとどまらず、正当防衛権という言葉も使われる。ところが、正当防衛は権利行為なのだと説明すると、権利とまではいえないのではないかとの疑問を呈する向きもある。緊急行為性に重点をおくと、それ以外に適法な行為への動機付けが期待できないので不可罰にしているとの理解が出てくる。自己保存本能に根拠を求める見解にも同じ傾向が見られる。「法確証」の利益についても、「法」を「権利」や「人権」に近づけて理解するか、それとも倫理と不可分の行為規範ないし法秩序として理解するかによって、「正当防衛権の制約」についての考え方がかなり異なってくる。
  生命に対する緊急防衛は古くから処罰されなかった。しかし、財産に対する緊急防衛まで認められるようになったのは近代以降のことである。緊急防衛には長い発展史があり、国によっても多様である。緊急防衛の権利性が意識されるのは近代になってからである。近代以降においても国によってはそれを免責事由としか位置づけないところもある。緊急防衛は、国や時代の法思想を端的に映し出す。日本の現行刑法第三六条は、現代用語化の改正(平成七年法九一)に伴って「正当防衛」という見出しを掲げるに至った。学説・判例は西洋諸国から近代法を継受した明治以来、正当防衛という概念を用いている。「緊急」でなく「正当」という言葉が使用されていることのもつ重みをどのように受け止めるべきか。さらに、国や時代の法思想を端的に示すのが正当防衛であるとすれば、大日本帝国憲法から日本国憲法への法思想の革命的転換を正当防衛はどのように反映するのか。比較法による知見を踏まえた日本法の創造的探究が求められている。
  本稿では、そのような基本的課題に、次のような個別課題の検討をとおして取り組んでみたい。第一は、侵害の機会を利用して積極的に加害する意思で侵害に臨んだ場合、正当防衛にはならないのかという問題である。口実防衛の問題といってもよい。これは、そのような意思を侵害を予期した段階で持っていた場合と侵害に直面してから持った場合に分けて検討され、前者は急迫性要件、後者は防衛の意思の問題であると整理されることが多い。しかし、そこでは、「意思」という主観的要素が正当化事由において重要な位置を占めるばかりか、急迫性という事実的要素の規範的再編が行われている。さらに、学説の中には、予期された侵害についての事前回避義務を提唱するものまで登場した。刑法の主観化・規範化・倫理化が問題となっている。これをどうすべきか。
  第二は、偶然防衛の問題である。「防衛の意思」につき、その中身が希薄化するとともに、客観的事情による認定(1)という意味での「客観化」が進んでいる。学説では、「防衛の意思」不要説、すなわち偶然防衛をも正当防衛とする見解が一定の広がりを見せるとともに、それに対する反動も見受けられる。改めて偶然防衛の問題を検討しておく必要がある(2)
  第三は、防衛行為の相当性についてである。侵害の程度と反撃行為の程度を考量して相当であればよいとするのが判例であるが、それでは、反撃行為の程度が侵害の程度を大きく上回っていたが生じた結果は僅かなものだったという場合はどうなるのか。結果無価値論は、後者に正当防衛を認めるが、前者についてはどうなのか。行為無価値論は、前者につき正当防衛を認めるが、後者についてはどうなのか。
  第四は、防衛の効果が出た場合にのみ正当防衛が認められるとの見解が結果無価値論の帰結として主張され始めたこととかかわって、結果無価値論や利益考量論と行為原理や権利論との関係について改めて検討し、行為原理が犯罪論に及ぼす影響を具体的に明らかにするということである。これは上述した防衛行為の相当性のとらえ方とも関連する。

二  いわゆる口実防衛について


1  予期された侵害と正当防衛
  近代人権宣言の自由概念によると、自由とは、「他人を害しないすべてをなしうることにある」ということになる。この自由という人権を前提にすると、他からの侵害が予想ないし予期できた場合でも、法的には、その機会を避ける義務、つまり回避義務はない。悪いのは侵害しようとする方なのである。この点については、最高裁判例も、「予期された侵害を避けるべき義務を課する趣旨ではない」として認めている(3)。まさに各人は、「行きたいところに行く自由」や「自分の家にとどまる自由」という正当な利益を享受できるのである(4)
  しかし他方、上記最高裁判例は、侵害を予期した上、その機会を利用して積極的に加害行為をする意思で侵害に臨んだ場合は急迫性の要件を充たさないものと解するが相当であるという。急迫性要件を欠くという処理は、この場合、緊急行為性を欠くということからそもそも防衛行為ではなく、侵害行為そのものだということを明確にするために行われている。もっとも、侵害行為かどうかは、客観的な行為によってではなく、積極的加害行為「意思」があったかどうかによって判断される。ここでは防衛行為か侵害行為かは急迫性要件が充たされるか否かによって決まるわけであるが、急迫性の有無は「意思」という主観によって決められるわけである。
  しかし、急迫性という要件は客観的要件であるはずだ。その判断は客観的な行為事情によって行われるべきであって、主観的事情を用いるとしてもそれはあくまでも客観的な事実を推測する<手がかり>にすぎない(5)。判例に見られる発想の逆転は、急迫性要件の規範的構成ということでは正当化できない。規範的構成の許容限界を超え、むしろ、客観的な急迫性要件の主観化そのものであるというべきである。
  機会利用・積極加害行為意思の扱いにつき、行為者が侵害を予期していた場合は急迫性要件の問題、予期していなかった場合は防衛の意思の問題になると整理する実務家の見解(6)がある。この基準は明確で実務の指針として有効だというわけである。しかし、侵害を予期していたとしても、前述したように法的には、それに近づくことは自由であるから、事前回避義務を負わせることはできない。また、積極的加害行為「意思」を重視すると、主観的なものによって客観的なものに代替するという問題が出てくる。やはり、急迫性は客観的要件として客観的な行為事情により客観的に判断されるべきである。そして、要件の明確性を確保しようとするのであれば、急迫性の規範化は避けた方がよい。問題とすべき構成要件該当行為は<不正侵害に対する反撃>行為なのであるから、その行為が急迫した不正侵害への反撃であったかどうかの確定からまず判定されなければならない。本質直感的思考でなく、要件分析的思考の方が、判断の恣意性を防止できる。「客観的なものから主観的なものへ、事実的記述的なものから規範的評価的なものへ」というテーゼの重要性は未だ色褪せていない。
  機会利用・積極加害行為意思、つまり口実防衛の問題は、防衛の意思必要説からは防衛意思の問題として扱われることが多くなろうが、不要説はもちろん必要説からも、「やむを得ずにした」、つまり防衛行為の必要性ないし相当性の問題として解決すべきであろう。この解決方法は条文に照らしても妥当である。なぜなら、刑法三六条の法文は、「急迫不正の侵害に対して、……、やむを得ずにした行為」となっており、「対して」の後ろに「、」が付いているからである。すなわち、その構文からは、「侵害」以前の行為事情をも「やむを得ずにした」かどうかの判断の対象にできるようになっているからである。これは防衛行為の相当性を要求するものといってよい(7)。もちろん、「やむを得ずにした行為」の部分は「……防衛するため、」の部分をも受けたものであるから、防衛に必要な行為であったかどうかという必要性の要件も、その条文から導き出される。
  なお、侵害の可能性はあるが未だ急迫していない段階で、まさに機先を制して侵害の芽を摘んでしまう行為は、広義では防衛するための行為といえても、急迫性要件を欠くから、そもそも「防衛行為」にはあたらない。
  積極的加害性を加害意思という主観的なものにおいてでなく客観的に捉えるという問題意識から、それは客観的に「防衛するため」であったかどうかの問題であるとする見解(8)がある。これは、解釈論としてありうる見解である。とくに、急迫不正の侵害に反撃する段階になってからその機会を利用して積極的に加害する場合については、そうである。しかしながら、法的要件の明確性と安定性を確保するためには、規範的評価や価値判断を必要とする要件はできるだけ少なくし、やむを得ず使う場合であってもできるだけ事実的要件を先行させぎりぎりの最終場面で登場させるようにすることが、必要である。「防衛するため」という要件についても、「急迫の侵害」という事実的要件の存在が確認された後、その侵害に対する「反撃」行為であったかという事実問題としてまず認定されるべきものであろう。そうすると、侵害の機会を利用して積極的に加害しようとして侵害に臨んだとか対応したという行為事情は、「防衛するため」の要件でなく、「やむを得ないでした」の要件に関係するものといわなければなるまい。

2  侵害回避義務論の問題点
  判例は積極的加害意思でもって急迫性を否定する要素としているだけだが、学説の中には「積極的加害行為意思」論が提起した問題を侵害回避義務ないし退避義務の問題として捉え直そうとする動き(9)がある。退避義務を基準にして急迫性の有無や防衛行為性を判断することには、事実的要素の規範化という問題を超えて、(杞憂であればよいのだが)義務刑法への道を掃き清めかねない危うさがあるように思われる。正当防衛の「倫理的制限」の議論に引き摺られたものであろうが、行為刑法の道を発展させるという観点からは軽視できないので、その代表的見解として「侵害回避義務の提唱」という見出しを掲げる橋爪論文(10)を取り上げ、少し詳しく検討しておこう。
  その見解を要約すると。まず、正当防衛についても「緊急避難と共通の原理と評価しうる自己保全原理を前面に出し」つつ、「正当防衛状況においても、緊急避難状況と同様に、複数の要保護性のある利益が衝突しており、その利益衝突の合理的な解消が目的とされていると考えるべきであろう」とされる。そして、「『利益衝突の合理的解消』という観点を強調すれば、そもそも侵害が現実化する以前の段階において、利益衝突を回避する行為を要求する余地が生まれることになる。事前の回避行為を義務づければ、それによって対立利益の両者がともに擁護できるわけであるから、社会全体の利益状態は一層向上することになり、まさしく『合理的』な解決とも評しうる」と主張する。もっとも、「侵害回避義務を一般的に広く要求することは……個人の行動の自由を大幅に制約することになってしまうから……合理的な範囲に限定する必要が生じる」。「具体的に言えば、行為者が何らかの挑発的言動によって侵害を招いた場合、あるいは侵害現場に赴くことによって侵害をこうむった場合、行為者は挑発的言動を控えることや現場に行かないことによって侵害を回避することができる。そして、このようなことを義務づけることが行為者にとって特段の負担とならない場合には、侵害回避義務を認めるべきである。この検討に際しては、侵害を招く行為を断念させることにいかなる不利益があるのか、さらに、このような行為に代えて他の行為を選択したとしても同一の目的・利益を達成できるのかという観点からの評価が必要となろう。そして、このような侵害回避義務が要求されている場合に、それを履行せずに侵害に直面した場合には、そこで現出した侵害の切迫性はいわば表見的なものにすぎず、この利益衝突は本来、事前に解消すべきものであったと評価できるのである。それゆえ、このような場合には不正の侵害が規範的な意味においては切迫していなかったという観点から、侵害の急迫性を否定して、正当防衛の成立の可能性を排除することが適当である」とされるわけである。
  この見解は、第一に、正当防衛と緊急避難に共通するものとして事前の侵害回避義務による解決を提唱しているところに特徴がある。これまでも、侵害を事前に回避することによって被侵害者の正当な利益が害されることがないのであれば、侵害についての予期の存在により回避義務を肯定することは可能であり、それは、「もっぱら相手を侵害するために相手方に赴く場合」、や「もっぱら侵害者を逆に侵害するために待ち受ける場合」であるとする見解(11)(山口説)があった。これはさらに、侵害が予期された段階における公的救助を求める義務までも、相当程度の予期の存在や特段の負担にならないなどの条件付きではあるが、認めるものであった。しかし、後者の山口説では、正当防衛を「正は不正に譲歩する必要はない」という原理によっても根拠付けることから、正当防衛では侵害を予期しても一般的には回避する義務はないという原則が一応確立している。したがって、「行きたいところに行く自由」とか「自分の家にとどまる自由」ということが正当な利益としてスムースに観念されるわけである。ところが、前者の橋爪説では、自己保全原理に基づく緊急行為性に焦点を合わせて事前の侵害回避義務を検討する結果、一般的には回避義務がないという原則面が弱くなってしまわざるをえない。例えば、「事前の回避行為を義務づければ、それによって対立利益の両者がともに擁護できるわけであるから、社会全体の利益状態は一層向上する」との理解が前面に来てしまう。もっとも、それをすぐさま限定せざるを得なくなるのだが。緊急避難は、何の落ち度もない第三者に危難を一方的に転嫁しても、それしか法益を保全する方法がなければ、それを社会的に許すという制度である。事前の回避義務を検討するに当たり、そのような緊急避難と「不正対正」の正当防衛を同列に置くことは妥当でない。事前の回避義務を考えるとしても、正当防衛独自の検討が要る。
  第二は、「行為者にとって特段の負担とならない場合には、侵害回避義務を認める」ということだが、「特段の負担」かどうかの判断において、行為者の自由の位置づけが後退してしまっている。挑発的言動と表現の自由との関係、現場に行かない義務や逃げる義務と居住・移動の自由との関係などについての検討が要る。「他の行為を選択したとしても同一の目的・利益を達成できるのかという観点からの評価が必要」とされるが、まさに手段選択の自由を含めてそれらの自由が存在するといわなければならないのである。
  第三は、侵害回避義務違反の場合、急迫性要件を欠くと解するのであるが、緊急避難とは異なった正当防衛における独自性を考慮すべきであり、また、考慮するためには、機会利用・積極加害の問題は正当防衛の相当性要件に関するものだというべきである。緊急避難と同じレベルでの規範的評価というのであれば、急迫性を規範的な意味でとらえて行うこともできようが、正当防衛独自の規範的評価を十全のものにしようと思うのであれば、防衛行為性が確定できた後に行われる相当性判断の場に委ねる方がよい。
  なお、事前の回避義務に関し、侵害が予期された段階における公的救助を求める義務を認める見解については、それは警察協力義務ではないかという問題がある。警察協力義務は公益を理由にする個人の自由制限である。しかし考えてみると、侵害が予期できても、悪いのは侵害する方である。他害性がないところに警察義務を課し、正当防衛の可能性を否定することは自由の侵害である。次の例で考えてみよう。Xは、暴力団員Yが組長からAの殺害命令を受けて拳銃を渡されたこと、そのことを警察に通報すれば警察は確実にYを逮捕するであろうことを知っていたが、関わりになりたくなかったのでそのままにしておいた。ところがいよいよYがAを射殺しようとした段階で意を決しAを助けるためにYに重傷を負わせた。この場合は、「侵害が相当程度まで予想され、特別の負担なく公的な救助を求める可能性が存在し、そして公的救助により侵害の回避が見込まれる」のではなかろうか。暴力団相手では通報することが「特別の負担」だというのであろうか。匿名の情報提供であっても、暴力団と銃砲がからめば、腰の重いことで有名な警察でも動かざるを得ないであろう。それゆえ、公的救助を求める義務がXにも存在したといわざるを得なくなる。しかし、この場合のXに警察通報義務を負わせ、正当防衛の成立を否定することは行き過ぎであろう。Xは緊急の場でやっと意を決して不正に対し正を実現したのに、事前の警察通報義務を怠っていたというだけで処罰されるというのでは、この場合、被害者が殺されるのを放置せよということと同じになる。それとも、傷害罪で処罰される義務をXに負わせるのであろうか。
  今日、一部に見られる義務刑法への動きは、社会国家原理を基礎にするものといってよい。しかし、社会国家原理は、国家や社会による福祉政策を導びく原理としては妥当であるが、一般の市民に対し社会や国家への配慮義務を課す方向で機能することには問題がある。とりわけ、刑罰でもって一般市民に社会に対する配慮義務を強制することは、人類が引き継ぎ発展させるに値する自由主義刑法の理念をあやうくしかねない。刑罰を科す方向では、「自由な法治国家」という原理が妥当すべきなのである。

3  基準としての「決闘」と自由・権利の行使
  自由を基礎にする行為刑法理論からは、正当防衛についても、事前の侵害回避義務ということは軽々しく提唱すべきものではない。回避義務という立て方でなく、やはり、客観的に積極的攻撃行為であったのかという方向での検討が必要である。口実防衛の問題については、関連する行為事情を全体として客観的に考察し、積極的攻撃行為の一環として当該反撃行為がなされたと認められるかどうかを判断する。それが肯定されれば、防衛行為の相当性を欠き、正当防衛が否定される。比喩的に言えば、後述する偶然防衛の場合と同様、まさに「決闘を挑んだりそれに応じた」ことと客観的に同様であるといえる場合に相当性を欠くのである。決闘行為は、現行法上禁止され、犯罪にされている。「決闘」は、双方が闘争に合意しているものをいうとされ、その処罰根拠は、近代的な「国家法による平和」に対する侵犯ということにある。口実防衛は、合意なしに私的闘争状態を作出する。これは決闘よりたちが悪い。法秩序の統一性に鑑みれば、そのような口実防衛による行為を「やむを得ずにした」とはいえないであろう。それに対し、自宅に居る者が、いかに侵害を確実に予期していようが、あるいは侵害されれば積極的に加害してやろうとの意思を持っていようが、そのような主観的事情で正当防衛が否定されるわけではない。自宅にいること自体は自由であり、自宅から逃げる義務はないからである。また、他人の不当な行為を批判することは表現の自由の行使であるから、暴力を振われるおそれがあるからといって、不正に口をつぐみ、談判に行くなと要求することはできない。悪いのは、暴力を振う方なのである。相当性の判断にあたっては、自由や権利の行使であったかの判断を優先させるべきである。

三  偶然防衛と防衛の意思


1  問題の所在と偶然防衛の三類型
  防衛意思の要否の問題は、違法論の試金石の一つである。犯罪のとらえ方にとどまらず、犯罪捜査や裁判の在り方にも大きな影響を与える。
  防衛の意思は、機会利用・積極加害行為意思との関係でも問題になるが、ここでは偶然防衛との関係を検討する。判例によると、防衛の意思は、一方でその中身が稀薄にされ、他方で攻撃意思との併存可能性すら認められるに至っている。さらに、最判昭和六〇年九月一二日刑集三九巻六号二七五頁になると、防衛意思を客観的な行為事情から推認するという手法が採られる。機会利用・積極加害行為意思についても、客観的な積極的加害行為として認定する動きのあることが指摘されている。防衛の意思という主観的正当化要素は機能不全に陥りつつあるように思われる。しかしながら、防衛意思不要説までなかなか行き着かない。それは、偶然防衛のすべてを正当防衛としてしまうことへのためらいがあるからではなかろうか。このような問題意識から、以下、偶然防衛につき検討してみよう。
  偶然防衛には大きく分けて三つの類型がある。第一は、よく引き合いに出される講壇事例である。XがYを射殺したところ、YもXを射殺しようとしていたところであったという事例で示されるもので、自己防衛型の偶然防衛といわれる。第二は、Xが悪戯でY宅の窓ガラスに石を投げたところ、Yによってガスで殺されそうになっていたAの命を救ったという事例で示されるもので、第三者救助つまり緊急救助型の偶然防衛といわれる。第三は、狩猟仲間とともに熊狩りに出かけていたXは、茂みに熊がいると思って銃を発射したところ、実はそれは狩猟仲間のYであってYに重傷を負わせてしまったが、Yは事故に見せ掛けてXを射殺しようとしていたところであったという事例で示されるもので、いわゆる過失による正当防衛の類型である。

2  決闘と同じ偶然防衛の類型
  第一類型は、ほとんどの場合、客観的にみても防衛行為というよりむしろ「決闘」であるといえるだろう。決闘は、現行法上、「決闘罪ニ関スル件」(明治二二・一二・三〇法三四)により犯罪とされている。行為事情を個別的に見ると急迫の侵害に対する反撃行為といえても、行為事情を全体として客観的に見ると決闘であれば、「やむを得ずにした行為」とはいえず、正当防衛にはならない。そこには、正当防衛の相当性の要件が欠けている。この場合を直截に「防衛のための行為」でないとする見解も可能であろう。しかし、全体として正当防衛の要件の明確性を確保するためには、その要件をできるだけ事実的なもので構成し、規範的なものはできるだけ最後にもっていくべきである。そのような観点からすると、第一類型の偶然防衛は、当該行為を個別に検討すれば防衛行為といえても今日の法秩序からすれば犯罪とされている決闘と客観的に同じであり、法的評価としては相当性がないといわざるをえない。その意味においてそれは、正当防衛の相当性要件に関する問題であると位置づける方が適切なのである。防衛の意思不要説の中には、偶然防衛について、一律に正当防衛を認めるものもあるが、私は予てより「偶然防衛や口実防衛にあたるかにみえる事案について、事実を具体的に認定してゆけば、急迫性や必要性あるいは相当性要件に欠けることが現実には多くなるであろう」と考えてきた(12)。この第一類型は多くの場合まさに相当性を欠くものといわざるをえまい。
  ところで、第二類型の緊急救助型については正当防衛を認めるが、第一類型の自己防衛型については、正当防衛状況が存在しないとしつつ、未遂の成立を認める見解(13)がある。「防衛意思は、それがあることによってその者の利益が『正当』となるのであり、反対に防衛意思を欠く場合は、利益衝突状況が『不正』対『不正』の関係に転化する」のであるから、正当防衛の客観的な前提要件である正当防衛状況が存在しないとした上で、第一類型の場合、「Yの利益もXの利益と同様に法の保護に値しない不正の利益であって、通常の殺人とは異なって既遂違法(既遂の結果無価値)は発生しておらず、Xの行為の違法性(結果無価値)の程度は未遂の限度にとどまる」という。この前提には、「自己のための正当防衛における防衛意思は、これを法益(利益)に還元させて論ずることが可能」という理解がある。防衛意思でなく犯罪意思を持ってする行為には法確証の利益はなく、「法の保護を受けるべき正当な利益」と解することはできないとされるわけである。
  しかしながら、この見解には次のような問題がある。第一は、正当な利益かどうかが「意思」という主観によって決められるという点である。「主観的違法要素は客観化した上で違法要素に組み入れるべきであり、例えば通貨偽造罪(刑法一四八条)における『行使の目的』は客観的な『行使の危険』と解すべき」という点はその通りだが、「防衛意思についても同様であって、自己防衛型の偶然防衛においては、その不存在が『不正な利益』として客観化される(14)」という点は、レベルの違う問題を同一に扱っている。行為無価値や行為価値を利益と言い換えたにすぎず、結果無価値とは別問題であるといわざるをえない。第二は、急迫不正の侵害を行ったというだけで、法的に保護されなくなるわけではないということを看過している点である。過剰防衛は違法が減少するとはいっても違法であることに変わりはない。過剰防衛はその程度によっては刑の減軽さえなされないこともある。過剰防衛が処罰されるということは、不正侵害を行った者でも、過剰な反撃行為からは保護されるということである。つまり、不正対不正の関係にある場合の不正を行った者にも、法により保護される利益は存在できるのである。したがって第三は、正当防衛状況にないのであれば、その行為は正当化されず、既遂の罪責を負うはずだということである。侵害者の法益が減退するとされるのは、正当防衛状況にあるからである。より正確に言えば、その侵害に対し反撃する行為が法益を護るためのものだからである。XがYを射殺したが、丁度YもAを射殺しようとしていたところだったのでAを救うことができたという緊急救助型の偶然防衛では、まさにYとAの関係が不正対正の関係として問題になるわけであり、Aとの関係でYの法益が減退する。その場合、XとYの関係においてYの法益が減退するのではない。この点は論者も認める。自己防衛型の偶然防衛が正当防衛状況にないというのであれば、その際のX・Y間においてYの法益を否定することはできないはずである。自己防衛型の偶然防衛については、構成要件該当結果が生じた時点の行為を取り出せば、急迫不正の侵害に対し防衛するための行為といえても、双方が殺害しようとする客観的状況からは、「やむを得ずにした行為」とはいえず、相当性を欠き、正当防衛にはならないと解すべきである。

3  「過失による偶然防衛」
  第二類型は、特別の事情がない限り正当防衛になるといってよい。問題は、第三類型である。結果無価値論からは特別の事情がない限り正当防衛になる。偶然防衛の場合、既遂には問えないが未遂は残るとする見解に立っても、過失犯に未遂処罰規定はないから、不可罰になる。さらに、行為無価値論に立っても、一方で、生じた殺害結果につき故意がある場合に比べ、せいぜい過失しかないという事情、つまり防衛意思はないが侵害意思もないという事情を考慮して行為無価値の減弱を認め、他方で、結果として法益衝突状況の中で一方の法益が保全できたという事情から結果無価値が帳消しにされたと考えると、少なくとも可罰的でないという結論が可能であろう。常識的にも、第三類型の場合に、わざわざ過失犯として処罰すべきだとか、生じた被害についての損害賠償請求を認めよと主張することは行き過ぎだと受け取れよう。
  ところが、私見のように、第一類型を決闘と同じであるとして処理する見解からは、第三類型も客観的には決闘と同じではないかという疑問の出てくる余地がある。このような疑問が出てくるのは、当該事案の行為事情のうち射撃行為だけを抽出し、X・Yの両者に射撃行為ないしその着手があったという事情だけをとらえるからである。たしかに、侵害の急迫性とか侵害への反撃行為であったとかいう個別化された事実要件については、行為事情の中からその要件に該当する事実だけを抽出して検討するという認定方法が採られるべきであろう。しかし、防衛行為の相当性は、行為事情の規範的評価により確定する必要のある要件なのであるから、その相当性判断は、当該射撃行為に関連する行為事情の全般を考慮に入れて行われなければならない。そうすると、第三類型の上述した事例においては、関連する行為事情全般を客観的に考察して当該射撃行為が動物に向けられた「狩猟行為」なのか、それとも人に向けられた「殺人行為」なのか、の判断を行い、客観的に狩猟の行為態様に当たるといえる場合であれば、それは、「決闘」にあたらないことはもちろんのこと、さらに防衛行為としての相当性を備える行為でもあるというべきであろう。「過失による正当防衛」といわれる事案では、その関連する行為事情全般を客観的に考察すると、客観的にも犯罪結果に向けられた積極的侵害行為といえない場合が多い。それがさらに客観的に権利を防衛する行為なのであれば、それを正当防衛に当たるとしても問題はないというべきであろう。

四  行為原理と「防衛行為」


1  防衛効果の要否
  結果無価値論からは、防衛の効果が出なかった場合、つまり防衛に失敗した場合は、優越利益が実現されたわけでないから、違法性が阻却されないと主張される(15)ことがある。そのような見解によれば、例えば、@Xから理由なく棒でなぐりかかられたYが身を護るためXに反撃し重傷を負わせたが自身も重傷を負ってしまった場合とか、A甲は、乙によってナイフで突き殺されそうになっているAを救おうとして乙に向け猟銃を発射し重傷を負わせたが、Aを救うことはできなかった場合、Yや甲の行為は正当防衛にならず、処罰されるということになる。もっとも、Xや甲は正当防衛のつもりであったから、誤想防衛として故意が阻却され、過失犯の成否が問題となるにすぎないのだが。
  しかし、そのような見解は、条文に照らしても、正当防衛の成立範囲を制限しすぎているといわざるをえまい。刑法三六条は、「防衛するため、やむを得ずにした行為」と規定しているのであって、「やむを得ず防衛した」ことまでは要求していない。違法の実質論から目的論的に、正当防衛には「防衛した」こと、つまり防衛効果のあったことが必要であると解釈することは、被告人に不利益な類推解釈であるといわざるをえない。条文からは、客観的に防衛のための行為であり、やむを得ないでしたものであれば、結果として防衛に失敗しても、不正の侵害に対する関係では正当防衛として違法性が阻却されるというべきである。防衛のために「有効な行為」でなければならないということ、つまり防衛行為の有効性(Wirksamkeit)と、防衛の効果があった場合でなければならないということとは区別する必要がある。
  それでは、急迫不正の侵害に対し防衛するための行為をなしたが、反撃に失敗して傍らにいた第三者に危害を加えてしまった場合はどうなるのか。この第三者に対する危害も正当防衛になるのか。いわゆる「防衛行為と第三者」の問題には様々な態様がある(16)ので、個別の検討が必要なのであるが、少なくとも、不正の侵害と関係のない第三者に危害を及ぼしてしまった場合、そこで問題となる法的関係は行為者と第三者の関係である。この第三者との関係では、その行為は侵害への反撃つまり防衛ではなく、危難の第三者への転嫁である。それゆえ、それは緊急避難の問題になる。そこでは第三者への転嫁行為が法的評価の対象なのである。法的関係の相対性という問題の一場面といってよい。一つの行為が法的関係のあり方によって複数の性質をもつことがあるということである。例えば、Xからナイフで切りかかられたYが身を護るためにゴルフクラブでXの腕を強打したところ、ナイフが飛んで近くにいたAに刺さり重傷を負わせた場合、Yの行為は、Xへの暴行ないし傷害については正当防衛、Aへの傷害については緊急避難の問題となる。

2  防衛行為の相当性
  上述のように、正当防衛は権利を防衛したという結果がなくとも、防衛「行為」であればよいのだというと、それは行為無価値論ではないかとの疑問が出される。確かに、結果無価値論の中には、利益考量は行為と切り離して法益間でおこなうと理解する向きもある。そのような理解からすると、防衛行為で足りるのだから、行為無価値論ということになろう。また、行為無価値論からは、結果無価値だけでなく行為無価値も等しく考慮する行為無価値論によらなければそのような結論は出てこないと説かれることが多い。
  このような見解の対立が実際の事案の処理に影響するのが、防衛行為の相当性の判断基準においてである。相当性は、発生した結果と実際に保護された利益とを事後的に考量して判断されるべきだという主張(17)がある。これによると、駅のホーム上で酔っ払いから執拗に身体を触られている女性がその酔っ払いから逃れるためその胸を突いたところよろけて線路に転落して電車に轢かれて死んでしまった場合、その女性は防衛行為としては侵害と釣り合いが取れ相当性があるといえるのに、たまたま生じた結果が保護された利益に比べ著しく重大であるという理由で傷害致死罪に問われることになってしまう。この結論に対しては、それでは将来に渡り正当防衛に出ることを萎縮させてしまうとの批判が可能である(18)。西船橋駅ホーム事件判決(千葉地判昭和六二年九月一七日判時一二五六号三頁)は同様の事案に対し正当防衛の成立を認めた。
  最高裁も、「反撃行為が右の限度を超えず、したがって侵害に対する防衛手段として相当性を有する以上、その反撃行為により生じた結果がたまたま侵害されようとした法益より大であっても、その反撃行為が正当防衛でなくなるものではない」と判示した(最判昭和四四年一二月四日刑集二三巻一二号一五七三頁)。これは、防衛行為の相当性を行為無価値論的に捉えたものだと解されている。
  それに対し、結果無価値論からは、「侵害に対する防衛手段としての相当性」は事後的に客観的行為事情の具体的利益考量により判断するということになる。ところが、最近、「刑法の目的は法益の保護にある以上は、法益侵害の『危険性』を基本的な内容とするのでなければならない」としつつ、「防衛行為の相当性は、危険の衡量、すなわち、許された危険の法理によって判断される。それは、違法の基礎としての行為無価値を規定するものが基本的にこの法理であることからの帰結である。」との主張(19)が現れた。その前提になっているのが、「防衛行為の相当性は、行為時に立って、事前的に判断されなくてはならない」ということと、事前的に判断するから危険が存在するとの理解である。
  しかし、行為の危険性は事後的に判断できるし、そうすべきである。たとえば、二階手すりの外側に上半身を乗り出した相手方の片足を持ち上げて約四メートル下のコンクリート道路上に転落させ、重傷を負わせたという最判平成九年六月一六日刑集五一巻五号四三五頁の事例で考えてみよう。この事案では、落ちる途中で一階のひさしに当たったという事情があったものの、「一歩間違えば同人の死亡の結果すら発生しかねない危険なものであった」として過剰防衛になるとされた。頭から落ちて行くような態様で四メートルの高さからコンクリート道路上に落とす行為は、事前的のみならず、事後的に判断しても、死の危険すらあるものといってよい。行為当時客観的に存在する事情を抽象化し類型的行為の一般的危険性を判断するのが、抽象的な確率論的判断であり、行政取り締まり規則の必要性判断に用いられる。それに対し、行為当時存在する事情を基礎にして具体的な行為の危険性を判断するのが、相当性判断である。どちらにしても、そのような危険は客観的に存在するから、われわれはそれを観念できる。客観的存在である行為の危険をも含めて具体的に利益考量することは、結果無価値論と矛盾しない(20)。急迫不正の侵害に対し、権利を防衛するために必要な行為であれば、それによって生じた害が、不正侵害によってもたらされるおそれのあった侵害に比べ重大であっても、原則として相当性が認められる。権利保全のために必要な行為であれば、「正当防衛権の行使」といえるからである。相当性を欠くのは、些細な法益を護るために人の生命を奪うといった場合のように、正当防衛権の濫用というべき場合である。例えば、古靴一足を盗もうとする者を猟銃で撃つ行為は、その盗取を防ぐためには射殺するか重傷を負わせるしか方法のなかった場合であっても、また、結果として相手にかすり傷を負わせたにすぎない場合であっても、相当性を欠くことになる。そのような射撃行為がもった危険や結果として惹起された危険は、不正侵害に対する防衛行為であるという事情を考慮しても、保全法益に比べあまりにも重大すぎるからである。
  また、事前判断説は、正当防衛の成否に関しそれを適用すると、正当防衛権の衝突という事態を招来してしまう場合がある。しかし、そのような事態は、法秩序の統一性と相容れないものというべきである(21)

3  結果無価値論と行為原理
  侵害に対する関係では、防衛行為であれば防衛結果が出なくとも正当防衛が成立しうる。防衛行為か避難行為かは、行為と客体との間にある法的関係によって決まる。この関係は客観的な関係である。したがって、結果無価値論によってもそれを認めることができるはずである。「行為の危険性」や「行為の担う利益ないし価値」は、客観的に存在する客観的要素であり、利益考量の俎上に置くことができる。それは単に事前判断にしか馴染まないのではなく、事後判断で確定することも可能なのである。
  ところが、そのような主張はなかなか理解されない。理解を妨げている原因として、二つのことを挙げておきたい。第一は、「結果が生じれば、それは必然だったのであり、危険はなかったとか、結果が生じなかったのは危険でなかったからだ」との観念である。しかし、これは自然における偶然や確率の存在を無視するものといわざるをえない。第二は、「法益侵害原理」という言葉が引き起こしている一面性である。これは、法益侵害原理説の限界性を示すものといってよい。衝突し合う法益といっても、それは多種多様にある。それらのうちどの法益を俎上に乗せるか判断しなければならない。その際の基準になるのが、一方における構成要件的結果であり、他方における構成要件的行為が担っていた、ないしは客観的に保全・実現しようとしていた法益なのである。いずれにしても「行為」を軸にしてはじめて確定できる。
  侵害原理というだけでは、不作為犯の例外性を説明できなかったように(22)、防衛行為の相当性についても妥当な結論に行き着くことができなかった。それらの問題を克服するためには、刑法的禁止の前提条件として「客観的・外部的行為の他者侵害性」を要求する行為原理、すなわち従来の侵害原理を包摂した行為原理による理論構成が必要なのである(23)。スチュアート・ミルの自由論において展開されたことで有名な他害性原理は、もともと近代的人権の一種である自由、すなわち「他を害しない限り全てをなしうることにある」とされた自由を基礎にするものである。自由は人の精神的・肉体的活動の自由であるから、自由な意思行為による他害性が自由の限界とされたわけである(24)。歴史的に見ると、ベッカリーアが名著『犯罪と刑罰』において主張した「犯罪の尺度は、行為が社会に与えた損害である。」とか、一七八九年のフランスの人権宣言「法は、社会に損害を与える行為だけを禁止できる。」というのが、行為原理(Tat−Prinzip)の源泉である。現在の刑法理論における行為概念は抽象化・形式化されて他害性から切り離されている。その中で「行為」が重要だというと行為無価値論という風に誤解されることもある。そのような誤解を避けるためには、他害行為原理といってもよい。
  防衛行為だと思っていたがそうでなかったという誤想防衛につき、その誤想に客観的過失がなければ違法性が阻却されるとの見解(25)がある。しかし、行為原理に基づく結果無価値論からすると、誤想防衛は誤想に過失がなくても、違法が阻却されるということはできない。もっとも、主観的過失がなければ責任がなく不可罰になる。したがって、問題は、本人には注意すれば分かったことだが、一般人にとってなら誤信がやむを得なかったといえる場合に過失犯まで不成立とできるかという点にある。結果無価値論からも、一般人にとってはやむを得ない場合については類型的責任の不存在として違法ではあるが可罰的責任はないということができる。行為無価値論のようにこれを違法阻却にする必要はない。

五  正当防衛権と日本国憲法


1  問題の所在
  正当防衛の正当化根拠については、自己保存本能、個人の保護あるいは法確証の利益が上げられ、それらをどのように位置づけるかという形で論じられることが多い。最近ではドイツにおける議論の影響を受けて、個人の保護と法確証の利益の両者で説明する見解が有力になっている。比較法的な検討が重要なことは言うまでもない。
  しかしながら、正当防衛権というのであれば人権論との関係が問題にされてしかるべきであろう。人権論ということになると、憲法との関係も当然検討されなければならない。法解釈論としては、現行刑法の三六条が現行憲法以前に立法されたものであっても、憲法に反する法令は無効になるわけであるから、刑法上の正当防衛規定と憲法との関係について検討しておく必要があろう。ところが、刑法学では正当防衛と憲法との関係を論じるものがほとんど見られない(26)といった状況にある。正当防衛を権利としてではなく、単なる自己保存本能や利益考量による優越利益の実現というレベルでしか問題をとらえていないことの反映かもしれない。正当防衛を「法の自己保全」とか、単なる利益考量説で説明すると、その権利行為性が稀薄になるように思われる。

2  誤解された憲法一二条
  正当防衛権の憲法上の根拠として重要なのが、その第一二条である。憲法一二条には、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」と規定されている。「保持しなければならない」とされていることから、それはあたかも個々の国民に保持義務を負わせた規定であるかのごとく誤解されることがある。例えば市販の六法全書に収録された憲法の条文見出しでは、編集者によって「自由・権利の保持義務」とか「自由・権利の保持責任」などと表記されることが多い。けれども、一二条は「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と規定しているにすぎない。義務の主体は明記されていないのである。したがって、「しなければならない」という当為を個々の国民に向けられていると狭く解釈する必要はない。むしろ政府や国家に対して、自由や権利は国民の不断の努力によって保持されるべきものであるから、自由や権利擁護のために国民が自主的に行う活動を尊重し、自由・権利擁護のための公的制度への国民参加を推進すべきことを義務づけたものと解することもできる。憲法一二条前段は、自由・権利の保持の仕方について規定したものというべきである。すなわち、自由や権利を保持するのは第一次的に国民であって、政府や国家ではないこと、自由や権利について国家がパターナリスティクに国民の後見人になるのではなく、政府は主権者である国民の信託をうけて保持の任務に当たることを明らかにしたものなのである。それゆえ、国民の側から見れば、その義務や責任というより国民の権利・権限を規定したものというべきなのである。
  このような理解にとり参考になるのが、日本国憲法の英文訳である。日本国憲法の英文によると、その第一二条は次のとおり。

    Article 12.  The freedoms and rights guaranteed to the people by this Constitution shall be maintained by the constant endeavor of the people, who shall refrain from any abuse of these freedoms and rights and shall always be responsible for utilizing them for the public welfare.

  なお、日本国憲法の他の条文における”shall の用例を参考までに掲げておく。
    Article 41.  The Diet shall be the highest organ of state power, and shall be the sole law−making organ of the State.

  個々の国民が義務を負うという場合の表現としては、納税義務に関する第三〇条がある。
    Article 30.  The people shall be liable to taxation as provided by law.

  憲法一二条は、「自由や権利は国民の不断の努力によって保持される。」と定めた方が誤解を避けられたのではないか。同条後段では、その国民は権利濫用を控え、自由・権利を公共の福祉のために使用する責務を負う存在であるとする。エゴイストではないからこそ、崇高な権利主体となることができるのである。
  自由や権利の第一次的保持権限が国民にあるとすれば、公権力によるそれらの保持が期待できない場合に国民がみずからその保持に当たることは憲法上認められた権限行使である。自分の自由や権利を防衛する場合だけでなく、他人の権利であろうと憲法が保障する自由や権利である以上、国民がみずから保持できる。自由や権利は個人のものであるとともに、「現在及び将来の国民」のものでもあるからだ。このことは、次のような憲法規定からも明らかになる。すなわち、「侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。」(憲法一一条後段)。「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、……現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」(憲法九七条)。
  このようにして、正当防衛は自己防衛の場合だけでなく、他人の権利を防衛するためであっても憲法に根拠をもつ正当防衛権の行使である。緊急救助も権利の行使であることに変わりはない。
  正当な理由なく権利を侵害することは違法である。権利に対する違法な侵害から権利を護ることは、自由や権利を保全するために社会に結合した人々が当然有する権利である。権利侵害が他の権利主体により惹起される場合であっても、その主体は社会結合の目的に反する行為、むしろそれに敵対する行為をなすわけであるから、他の権利主体によりなされる権利防衛行為に対する関係では、その権利を主張できなくなる。違法な侵害から権利を防衛する行為は、社会結合の目的である権利保全行為だからである。もっとも、権利保全を一般的に個々人に委ねてしまうと、かえって権利保全をむつかしくしてしまうことは、「自然状態」の問題として古くから指摘されてきたとおりである。権利保全のための公的な制度と手続が必要となる。適正手続や裁判を受ける権利の重要性である。紛争を当事者同士が任意に解決することは個々人の自由だが、他人に対し解決を私的に強制することは許されない。これが「自力救済の禁止」である。しかし、公的な救済を求めていては間に合わない場合は、元々国民が有している権利保全権が浮上する。これが正当防衛なのである。

3  憲法論からの帰結
  以上のことから、四つのことがいえる。
  第一は、正当防衛の法的性質につき、個人の保護か、それとも法の確証かという形で二者択一を迫る一元論でなく個人と権利そのものの両者の保護をはかるいわゆる二元論が妥当であること。個人の権利保護にととまらず、生命権等という権利そのもの、つまり権利一般の保全をなす(27)ことが正当化根拠である。ここで注意すべきなのは、いわゆる「法確証」の利益との異同である。法確証は、ベルナーの「正は不正に譲る必要はない」との命題に関係させて、法秩序の正しさを確認し示すこと、さらにはそのことによる一般予防の意味に解されている。法確証の利益を持ち出す見解は国家主義的な発想であると評価するものまである。けれども、法の中身が個人主義的である場合は、そうはいえまい。もっとも、法確証という概念においては、「法」が単に客観的な法ないし法秩序という意味で把握されることが多い。それゆえ、法や国家は個々人の自由や権利を護るためにあるという理念を具体化するためには、法の中身が曖昧なままにされている法確証という概念ではなく、「自由・権利の確証」という概念を用いるべきであろう。そのような「自由・権利の確証」という側面とあいまって、正当防衛は緊急避難と法的性質を著しく異にする。後者は、権利行為とはいえないが、前者は権利行為なのである。学説・判例には、防衛の手段は必要最小限度のものでなければ相当性を欠くとするものがあるが、この見解は、緊急行為性に引きずられたものといわざるをえない。正当防衛の権利性をしっかりと基礎にすえれば、そのような理解はでてこないはずである。
  第二は、優越利益の原則をどのように構成するかに関わる問題である。個人の権利と法確証(自由・権利の確証)の利益の合計と反撃により失われる利益とを比較考量して前者が優越するとの構成をとるのか。それとも、不法侵害を惹起したものの利益は法の保護を喪失するので防衛された利益が優越するという構成をとるのかである。思うに、不法侵害に対し権利防衛のために反撃するという構造に照らすと、それは自由や権利の保全という社会結合の目的をみずから実現する行為であるから、生命を護るために侵害者の生命を害することまで正当化される。逆に、他人の権利を正当な理由なしに侵害しようする者は、社会結合の目的に反することから、他人の権利を保全するために必要なかぎりで、その権利を制約ないし剥奪される。正当防衛の場合は、不正侵害者の法益が減退するとの構成の方が妥当である。緊急の利益衝突において権利を防衛するために必要な限りで、不正侵害者の権利は法的には価値が減退する。生命対生命のように至高と至高が衝突する場合においても、他方の至高を理由なく侵害する者はみずからの至高を主張できないことは公平の観念に照らし明らかであろう。
  第三は、正当防衛が可能な「権利」は、「この憲法の保障する自由や権利」を基本にして考えなければならないことから、いわゆる個人的法益が原則になる。刑法三六条の「権利」を「法益」にまで拡張して解するのが、通説・判例である。単なる法益でよいということになれば、そこには国家的・社会的法益も含めることができる。しかし、上述した正当防衛権の根拠に照らし合わせて解すれば、「権利」は個人的法益に限ると解釈することになろう。正当化事由を目的論的に限定解釈することは、被告人に不利益な類推解釈になり、罪刑法定主義に反するのでないかという問題がある。しかし、個人的法益に限定して解釈しても、もともと刑法三六条には「自己又は他人の権利」と規定されているのであるから、むしろ被告人に有利な拡張解釈なのであって、「被告人に不利益な類推解釈」にはならない。
  第四に、自招侵害や挑発、侵害を口実にした積極的加害が問題となる場合の処理の法的性質如何の問題については、正当防衛の権利性を憲法一二条前段によって根拠づけたわけであるから、権利濫用で説明するのが憲法一二条後段の趣旨にも沿う見解である。権利濫用説に対しては、その具体的基準が明らかでないとの批判が加えられる。この批判に対しては、自招侵害などの個々の問題毎にその基準を明らかにすることで答えていく必要がある。ここでは、個別の基準を定立する際に不可欠な基礎理論を示すにとどめざるをえない。
  正当防衛については、多くの論点があり、それらについて多くの優れた論考がある。本稿では、それらの助けを借りながらも、私がこの間考えてきたことを開陳することに主眼をおいた。共犯と正当防衛の問題など残された課題は多いが、それらの検討は他日を期したい。


(1)  この点を指摘するものとして、山本輝之「防衛の意思」松尾・芝原・西田編『刑法判例百選・総論[第四版]』(有斐閣・一九九七年)五一頁。
(2)  この問題についてはすでに拙稿「正当防衛における防衛意思」西原・藤木・森下編『刑法学2《総論の重要問題U》』(有斐閣・一九七八年)四〇頁以下で論じたところであるが、その後の理論展開があるのでそれに言及する。
(3)  最決昭和五二年七月二一日刑集三一巻四号七四七頁は、「刑法三六条が正当防衛について侵害の急迫性を要件としているのは、予期された侵害を避けるべき義務を課する趣旨ではないから、当然又はほとんど確実に侵害が予期されたとしても、そのことからただちに侵害の急迫性が失われるわけではないと解するのが相当」と判示した。
(4)  山口厚『問題探究  刑法総論』(有斐閣・一九九八年)五三頁。
(5)  実務家による注目すべき指摘として、「主観面の認定に当たっては外形的事実関係が重視されるのであり、判例が積極的加害意思を認め急迫性を否定している事案では、客観的に積極的加害行為がなされたと認定されているのである」(安廣文夫「正当防衛・過剰防衛に関する最近の判例について」刑法雑誌三五巻三号(一九九六年三月)八六頁)というものがある。たしかに、判決文を見ると、最終的には「客観的に積極的加害行為がなされたと認定されている」ように受け取れるものがある。それが客観的な積極的加害行為そのものを要件事実とするものであれば、この方向は基本的に発展させるべきものであろう。しかし、多くは、加害行為意思を要件事実と解した上で、それを客観的行為事情から証明している。すなわち、主観的要素であるはずの「意思」を客観的に認定しているにすぎない。そこが問題なのである。
(6)  例えば、安廣文夫・前掲論文八七頁、同『最高裁判例解説刑事編昭和六〇年度』一三二頁以下。
(7)  相当性を刑法三六条の法文から導びき出すことを批判するだけでなく、相当性要件を不要とするのが、山中敬一『正当防衛の限界』(成文堂・一九八五年)。正当防衛の本質からする内在的制約論に立つが、それを相当性といってもよいように思える。
(8)  前田雅英「正当防衛に関する一考察」団藤重光博士古稀祝賀論文集第一巻(有斐閣・昭和五八年)三五一頁以下。なお、退避義務が生じる場合には、対抗行為を正当防衛として行うことはできないということから、「防衛するため」の行為でないとするのが、山口・前掲書五九頁。
(9)  例えば、山口・前掲書五二頁以下、特に五八頁から六〇頁。橋爪隆「不正の侵害に先行する事情と正当防衛の限界−急迫性概念の検討を中心として−」現代刑事法第二巻第一号(二〇〇〇年一月号)二八頁以下。さらに、同「正当防衛論の再構成−相互闘争状況における正当化の限界」刑法雑誌三九巻三号(二〇〇〇年四月)一頁以下および同「正当防衛論の再構成(一)(二)」法学協会雑誌一一五巻九号(一九九八年)二七頁以下、一一六巻四号(一九九九年)一一九頁以下。
(10)  橋爪隆・前掲論文「不正の侵害に先行する事情と正当防衛の限界−急迫性概念の検討を中心として−」
(11)  山口・前掲書五八頁以下。
(12)  拙稿・前掲論文「正当防衛における防衛意思」四八頁。
(13)  曽根威彦「防衛意思と偶然防衛」現代刑事法第二巻第一号(二〇〇〇年一月号)四八頁以下。
(14)  曽根・前掲論文五〇頁注(23)。
(15)  町野朔『プレップ刑法[二版]』(弘文堂・一九九四年)一六五頁、山本「優越利益の原理からの根拠づけと正当防衛の限界」刑法雑誌三五巻二号(一九九六年三月)五三頁以下、山口「刑法三六条一項にいう『已ムコトヲ得サルニ出テタル行為』に当たるとされた事例」警察研究六三巻一号(平成四年)三二頁。
(16)  ここには、対物防衛による場合も含まれる。対物防衛については、拙稿「対物防衛」西原他編『刑法学2《総論の重要問題U》』五四頁以下参照のこと。
(17)  山口厚・前掲論文三八頁、山本・刑法雑誌三五巻二号二一三頁。
(18)  松宮「正当防衛」浅田ほか『刑法総論〔改訂版〕』(青林書院新社・一九九七年)一三二頁、林幹人『刑法総論』(東京大学出版会・二〇〇〇年九月)二〇〇頁。
(19)  林・前掲書二〇〇頁以下。
(20)  私は、このような考え方を具体的優越利益説と名づけてみた。拙稿「医療過誤の刑事責任」莇立明・中井美雄編『医療過誤法入門』(青林書院新社・一九七九年)一九三頁以下、特に二〇九頁から二一四頁参照のこと。
(21)  橋田久「防衛行為の相当性(二)・完」法学論叢一三七巻五号(一九九五年八月)七五頁以下。
(22)  拙稿「行為原理と刑法」立命館法学二三一・二三二号(一九九四年三月)一一七頁以下参照のこと。
(23)  そのための総論が拙稿・前掲論文一一五頁以下。
(24)  近代的人権としての「自由」と他害性原理との関係については、拙稿「『被害者の承諾』について」立命館法学二二八号(一九九三年九月)一七二頁以下参照のこと。
(25)  古くは藤木英雄『刑法講義総論』(弘文堂・一九七五年)一七二頁以下。近年では野村稔『刑法総論補訂版』(成文堂・一九九八年)一六一頁、川端博『刑法総論講義』(成文堂・一九九五年)三七七頁。
(26)  正当防衛の正当化根拠につき、個人主義的見解の妥当性を憲法一三条によって論証するものとして、例えば、松宮『刑法総論講義第2版』(成文堂・一九九九年)一二五頁。しかし、憲法一三条によるだけでは、間接的かつ一般的な根拠づけにとどまるといわざるをえない。
(27)  イェーリングの見解を引用しつつ、この点の重要性を指摘するのが、川端『正当防衛権の再生』(成文堂・一九九八年)七頁以下。