立命館法学 2000年3・4号下巻(271・272号) 874頁




「行為」概念と犯罪体系


松宮 孝明


 

目    次

  は じ め に

  ドイツにおける「行為」概念の展開

  日本における「行為」概念と犯罪体系

  むすびにかえて





  は  じ  め  に


  一  日本の刑法学とくに刑法総論において「犯罪体系」というと、すぐに「構成要件該当性」「違法性」「責任」(ないし「有責性」)という三段階体系のことだとする回答が返ってくる。「犯罪」とは、「構成要件に該当し違法で有責な行為」だというのである。このように刑法の総論において「犯罪」の体系を論ずる意味は、たとえば平野龍一によると、「具体的事件にまつわる多様な事情のなかから重要なものとそうでないものとを選り分けることができるようになる」ことや、「理論的な体系をあらかじめつくっておく」ことによって、「裁判官は個々の事件の処理にあたって、感情や事件の特殊性にとらわれず、適正で斉一な裁判をすることができるようになる」ことに求められる(1)。つまり、「犯罪論の体系は、右のような目的に役立つ限度で意味を持つ」のであり、「裁判官の思考を整理し、その判断を統制するための手段として存在する」にすぎないというのである(2)
  しかし、それなら、犯罪論は「構成要件該当性」「違法性」「責任」という三段階に体系化される必要はない。個々の犯罪の具体的な成立要素を分析的に明らかにし、同時に特別の犯罪阻却事由ないし抗弁を明確にしておけば足りる。フランス刑法で用いられている犯罪の「物的要素」「心的要素」「法的要素」という要素の集積でもよいし、英米法で用いられている actus reus と mens rea および各種の抗弁という組み合わせでもよいはずである。それがなぜ、ドイツ刑法学およびその影響を強く受けた日本刑法学では「構成要件該当性」「違法性」「責任」の三段階体系なのか、右の説明では十分でない。また、そのような体系の中にも「行為」「違法」「責任」「可罰性」といったヴァリエーションや「行為」「不法」「責任」といったヴァリエーションがあること、さらには「行為」概念やその体系的位置付けをめぐる激しい議論があったことは、ほとんど説明不可能である。

  二  平野の見解と比較して、たとえばドイツのクラウス・ロクシンの説明には、以下の点で相違が見られる。まず、ロクシンもまた体系的思考の長所として、「事案審査の簡便化」による適正で斉一な裁判の担保と思考経済を挙げる。ついで、体系的な視点によって法的に等しいものは等しく異なるものは異なって扱うことができるとする。しかし同時に、ロクシンは、体系的思考が総則規定の整備による法の単純化と裁判官による操作性の向上をもたらすことを挙げ、さらに法的素材を体系化することで個々の法規範の内在的関連性への洞察と法規範の目的論的基礎が提示され、それによって創造的な、法の発展的形成が可能となるという点を挙げているのである(3)
  ここに示されているのは、体系的思考ないし犯罪論の体系化は、ひとり裁判官の思考の整理のためにあるだけでなく、むしろ新しい解釈論ないし体系論の発展を基礎に総則規定を整備することによって、より単純かつ操作性の高い使いやすい刑法をつくることに資すること、つまり立法者にも奉仕するものであることである。

  三  ロクシンは、より詳しくは、つぎのように述べる。すなわち、たとえば、強盗に襲われた人物は正当防衛を理由に、必要とあらば強盗を射殺することもできるが、銃弾が無関係な第三者に当たった場合には、彼は決して正当化されず、ドイツ刑法三五条の免責的緊急避難によって免責されるだけである。このことは、第三者は侵害者(=強盗)と異なり、被侵害者の行為に対して正当防衛を理由に被侵害者を害してよいということを意味する。このように、正当化(=違法性阻却)事由と免責事由とを体系的に位置づけることによって、刑事政策的に満足のいく、そして各事案における諸利益の多様性を考慮した決断を伴う事案処理が可能となるのである。もし我々が体系をもっていなかったなら、考えられるすべての緊急状況について、いちいち、その要件と効果を定める個別規定が必要になっていたであろう。そうなるとおびただしい規定が必要になるし、見渡すことができないほど膨大だけれども指導的な体系的原理のない不均衡で欠缺の多い条文の塊を生み出してしまうことになる、と(4)
  その上で彼は、法的素材を体系化することで法の創造的な発展形成が可能になるとし、その歴史的によく知られている例として、ドイツ民法二二八条と九〇四条の緊急避難規定を手がかりに、「法秩序の統一性」に依拠した「実質的違法性(より正確には、実質的な違法性阻却)」の考え方による「超法規的正当化的緊急避難」を認めた一九二七年三月一一日のライヒ裁判所判決(RGSt 61, 242)を挙げ、それが判例によって「超法規的」緊急避難としてすべての生活領域に急速に拡大され、精密化された形で一九七五年改正ドイツ刑法三四条の正当化的緊急避難の規定に結実したことを指摘する(5)。かくして、「ひとつの指導的理念のもとに諸判決を整理するという特殊体系的な作業が、この領域における法の発展を決定的に促進したのである(6)。」とするのである。

  四  もっとも、同時に彼は、体系的思考の危険性も指摘する。具体的には、体系的一貫性にとらわれすぎて個別事案における正義、つまり結論の妥当性を等閑視する危険があるとして、一般に周知されていない特別法の刑罰規定に触れることを知らなかった行為者が、ドイツ刑法一七条にいう禁止の錯誤の回避可能性があったなら常に故意犯として、意識的に法に違反した者と同等に処罰されるというのは、不満足な結論であるとする(7)
  つぎに、体系に拘束されると問題解決の可能性が狭められてしまうとして、自然主義と因果関係における条件説(=等価説)という体系に拘束されると、正犯と共犯の区別では「正犯者意思」と「共犯者意思」を基準とする主観的共犯論に至らざるをえず、犯行に対する客観的な寄与の重要性によって正犯と共犯を区別する可能性が始めから閉ざされてしまうとする(8)
  さらに彼は、刑事政策的にみて正当化できない体系的帰結が導かれることがあるとして、正犯の故意への共犯の従属性を挙げる。具体的には、共犯者が正犯者に傷害の故意があるものと誤想して関与した場合に、故意を責任要素とする体系では共犯が成立するが、故意を構成要件に位置づける目的的行為論の体系およびそれを受け入れたドイツ刑法二六条、二七条では傷害罪の共犯も間接正犯も成立しないため無罪とならざるをえず、そしてそれは刑事政策的に誤った帰結であるとする。というのも、正犯者に故意があれば共犯者は疑いもなく共犯として処罰されるのであり、正犯者に故意がなければ背後者の関与の客観的な重要性は増しこそすれ減ることはないのに、突如として無罪となるのは、体系にとらわれずに考察すれば、まったく説明のつかないことだからであるというのである(9)
  最後に、彼は、体系的思考があらゆる生活現象を少数の指導的観点のもとに位置づけようと努力する際に、抽象的に過ぎる概念を選択することで、法素材の多様な構造を無視し捻じ曲げてしまう危険を挙げている。具体的には、故意の作為、過失の作為、不作為の間にある基本的な事物の相違を無視するような統一的な行為概念の探求や、学説が予備・未遂の区別と正犯・共犯の区別に同一の基準を求めてきたこと、さらに、「行為犯(Handlungsdelikt)」と「義務犯(Pflichtdelikt)」との相違を無視した主観的共犯論による正犯・共犯の区別が無内容な基準の適用を許しているとする(10)
  しかしロクシンは、このような体系的思考の危険性を指摘することで「個別事案における結論の具体的妥当性が第一で体系的一貫性は二の次である」というような主張をするものではない。むしろ、そのような主張に対しては、「たしかに一定の体系的な手法の欠陥は個別事案において修正されるが、それは体系の無視という犠牲を払わなければならず、それによって体系のメリットをも犠牲にすることになる(11)。」と警告するのである。そして、体系的思考の欠陥を、法の指導的目的が直接に体系を構築するという「目的論的体系」ないし「目的合理主義的体系」によることで克服しようとする(12)

  五  本稿では、このようなロクシンの指摘を導きの糸としつつ、刑法学における、とくに犯罪論における「行為」概念の意義を、具体的な問題に即して明らかにしたいと思う。とりわけ、「行為」概念と正犯・共犯の区別、過失犯や不作為犯における意義をめぐる争いを軸に、検討を進める。

(1)  平野龍一『刑法総論(2)』(一九七二)八七頁。
(2)  平野・前掲書八七頁以下。
(3)  C. Roxin, Strafrecht AT, 3. Aufl., 1997, 7/36, S. 161. なお、本書当該部分第一版の翻訳として、吉田宣之「クラウス・ロクシン『刑法総論』第一巻第一版(四)」桐蔭法学二巻二号(一九九六)六四頁以下も参照。
(4)  Roxin, a. a. O., 7/34, S. 159f.
(5)  Roxin, a. a. O., 7/36, S. 160f.
(6)  Roxin, a. a. O., 7/36, S. 161. なお、この「超法規的緊急避難」と「法秩序の統一性」との関係を検討したものとして、松宮孝明「法秩序の統一性と違法阻却」立命館法学二三八号(一九九五)七五頁。
(7)  Roxin, a. a. O., 7/40, S. 162.
(8)  Roxin, a. a. O., 7/41, S. 163.
(9)  Roxin, a. a. O., 7/42ff, S. 163f. この「故意への従属性」問題については、松宮孝明「非故意行為に対する共犯−『故意への従属性』について−」立命館法学二三一=二三二号(一九九四)二三七頁を参照されたい。
(10)  「義務犯」という概念はまだ発展途上であり、論者により相違がある。ここでは、ロクシンは自著の『正犯と行為支配(Ta¨terschaft und Tatherrschaft)』の第六版三五二頁以下の参照を求めている。なお、この概念をめぐる最近の研究として、Javier Sa´nchez−Vera, Pflichtdelikt und Beteiligung−Zugleich ein Beitrag zur Einheitlichkeit der Zurechnung bei Tun und Unterlassen, 1999;平山幹子「『義務犯』について(一)(二・完)」立命館法学二七〇号(二〇〇〇)一一二頁、二七三号(二〇〇一)掲載予定。
(11)  Roxin, Strafrecht AT, 3. Aufl., 7/52, S. 168.
(12)  Roxin, a. a. O., 7/53, S. 168.


  ドイツにおける「行為」概念の展開


  一  ロクシンは、「行為(Handlung)概念は、犯罪体系の礎石としては、アルベルト・フリードリッヒ・ベルナーの(一八五七年の)教科書に初めて登場した(1)。」としている。そのベルナーは、行為を犯罪主体の意思と客観的な所為(Tat)とを媒介するものと見ており、それによって「義務とされている作為の不実行」(=不作為)も行為であるとする。その行為概念の射程は、帰属概念(Zurechnungsbegriff)のそれと一致する(2)。問題は、ここにいう「犯罪主体」(Subjekt)は、すでに責任能力(Zurechnungsfa¨higkeit)を備えた人間だということである(3)。したがって、責任無能力者には「行為」は認められない。
  このような考え方は、責任無能力者やその他何らかの理由で「自由」に振る舞っていない者を利用した「間接正犯」(mittelbarer Ta¨ter)が「共犯」(Teilna¨hmer)、とくに「教唆犯」ではないことを説明するのに有利である。それは、法的にみれば「犯罪主体」の振舞いつまり「行為」への関与ではないのだから、「行為」、とりわけ一八七一年ドイツ刑法典では「可罰的行為」(strafbare Handlung)に加担することを要件とする共犯ではなく、むしろ、「犯罪主体」でない者の利用という点では動物や機械の運動を利用した「正犯」と同じである(4)。また、この考え方は同時に、「犯罪主体」による「行為」に加担した背後者には「正犯としての罪責」は遡及しないとする「遡及禁止論」にもつながるものである(5)

  二  しかし、このような「行為」概念は、背後者が実行者の責任無能力を知らなかった場合に、その問題点を露呈する。このような場合には、一方で、責任無能力者には「行為」は認められないがゆえに「共犯」の対象となる「可罰的行為」は存在せず、他方で、背後者は実行者の責任無能力を知って道具として利用したわけではないから「間接正犯」ともならない。実際、一八八四年にライヒ裁判所は、このように述べて責任無能力者を幇助した被告人に従犯の成立を否定した(RGSt 11, 56(6))。
  もっとも、現行法は「拡張的正犯概念」を採用しているとして、教唆犯や従犯も本来は「正犯」なのであり、ただ制定法がとくに「刑罰制限事由」として「共犯」というものを設けたにすぎないと考えるなら、「共犯」に当たらないが当罰的な関与はすべて「正犯」として処罰されることになろう。実際、一九三〇年代になると、エバハルト・シュミットやエドモント・メツガーは、このような解決方法を主張するようになる(7)。しかし、この場合には、錯誤をした背後者になぜ従犯減軽が否定されるべきなのかという疑問が残るし、身分犯などで「正犯要素」を欠く共犯者には、それを本来的な「正犯」だとすることはできない(8)。したがって、一八七一年ドイツ刑法典を含めて、日本およびドイツの現行刑法典が「拡張的正犯概念」を採用しているという解釈は採用できない。

  三  「限縮的正犯概念」を維持しながらこの問題を解決する方策は、共犯における「制限従属形式」あるいはより緩やかな従属形式を採用することである。しかし、それにはひとつ前提がある。それは、責任無能力者にも「行為」が認められることである。なぜなら、「行為」でないものに関与する「共犯」というものは考えられないからである。したがって、「制限従属形式」の採用は、ベルナー流の「行為」概念の放棄とそれに代わる「行為」概念の採用を必要とする。歴史的には、フランツ・フォン・リストに代表される「自然主義的行為概念」ないし「因果的行為概念」がその役割を果たした。そこでは、「行為」とは意思に基づく外界における知覚可能な変更であり、そのような変更の起点となる「意思」は責任無能力者にも認められるとされるのである(9)。そこでは、「行為」は「有意性」と「外界における変更の惹起」によって特徴づけられる。リスト体系によれば、このような意味での「行為」に「違法な」とか「有責な」とか「可罰的な」といった形容が付加されることで、最終的に刑罰の対象となる犯罪行為が確定される(10)。「行為」主体に要求されるのは、「責任能力」よりも低いレベルで足りる「行為能力」である。同時に、それは「責任なき違法」を認める「客観的違法論」を前提とする(11)
  マックス・エルンスト・マイヤーの提唱した「制限従属形式(12)」は、このような「客観的違法論」を背景とした「因果的行為概念」を前提として、初めて成り立つものであった。そして、このような行為概念を基礎にすることで、一九四三年のドイツ刑法典一部改正によって共犯は、正犯の「可罰的行為」ではなく「刑罰によって威嚇された行為」、つまり正犯の有責性を前提としない「行為」に従属することが可能となったのである。

  四  しかし、このような自然主義的ないし因果的行為概念では、「外界における変更を惹起しない行為」というものは概念矛盾である。つまり、「行為」であるためには意思に基づく外界における変更の「惹起」が必要なのである。しかし、「不作為」とくに作為犯の規定の適用を予定する「不真正不作為」に、そのような「惹起」を認めることができるであろうか。
  この問題に突き当たって最終的に刑法の基本概念を「行為」(Handlung)ではなく「所為」(Tat)ないし「構成要件」(Tatbestand)に代えるよう主張したのは、グスタフ・ラートブルフであった(13)。そこでは、「作為」と「不作為」はAと非Aの関係であって、これをひとつの行為概念のもとに包摂することは不可能だとされたのである。その代わりに、より客観的な意味合いの強い「所為」を犯罪体系の基礎に据えることによって、彼はこの矛盾を解決しようとしたのであった(14)
  他方、カール・エンギッシュは、作為と不作為に共通の「因果」概念を認めることで、不作為の「行為性」を論証しようとした。というのも、彼の「合法則的条件公式」は、怠られた作為が結果を防止できていた場合に不作為と結果との間に法則的な関係があるとするものであって、このような法則的関係という意味で、作為の条件関係と不作為の条件関係とは同質だということを論証しようとするものだったからである。エンギッシュはいう。「コンディツィオ・シネ・クワ・ノン公式にとっても因果性は認められるにもかかわらず、(形而上学的にではなく)論理的に理解された条件説の支持者でさえ、不作為の因果性を疑うことができたという事実は、力の概念が突如因果概念に忍び込んだという理由でしか説明できない。しかし、何事かを惹起するということは実在する力によって変更が引き起こされるという意味ではなく、時間的に後の出来事との間に合法則的関係があるという意味だということを明確にすれば、すべての疑念は消滅する。」と(15)。因果的な行為論にとっては外界における変更惹起力つまり因果力が行為の本質的な要素であるから、このような形で不作為の因果力を論証することは、すなわち、不作為の行為性を論証することである。もっとも、ここにいう「法則」は、たとえば嬰児を母親に引き渡せば母親が授乳をするので嬰児は餓死を免れるといったように、母親は嬰児を扶養するものだといった社会生活における「法則」をも含むものであるから、その行為概念はすでに「社会的」なものでもあった(16)

  五  正犯と共犯の区別も、行為概念と密接な関係にあった。というのも、前述のように、一九七五年までのドイツ刑法総則の共犯規定では、共同正犯を含む共犯の関与の対象となるものは「行為」(Handlung)と書かれていたからである。したがって、「行為」でないものには共犯現象はありえず、ゆえに正犯と共犯の区別は妥当しないことになる。このような論理関係を利用して、当時の難問である「故意正犯の背後の過失正犯」という問題に対する回答を与えたのが、ハンス・ヴェルツェルの「目的的行為概念」であった。
  具体的には、火災の際には住人が脱出できないような倉庫二階に従業員を住まわせたため、火災によって彼らが死亡した事例で、火災が殺人の故意を伴う放火行為によるものであったとしても過失致死罪が成立するとした判決や(RGSt 61, 318)、被告人が愛人に毒薬を与えたところ愛人がそれを用いて妻を殺害したという事例で、被告人に殺人幇助の故意が立証できなかったとして殺人幇助を否定しながら過失致死の正犯を認めた判決(RGSt 64, 370)等を契機として(17)、故意であれば幇助にすぎないような行為でも、過失犯では正犯になることの説明が求められたのである(18)
  この問題に対して、伝統的な体系、すなわち故意・過失は責任要素であって殺人罪と過失致死罪とではその客観的成立要件は同じであるとする立場から答えたのが、すでに触れた「拡張的正犯概念」であった。そこでは、本来、故意の教唆犯および従犯も正犯なのであり、ただ、刑法が特別に「刑罰制限事由」としてこれらを「共犯」としたのであって、その意味で「共犯」は徹頭徹尾制定法の産物だ、というのである(19)。この考え方によれば、故意正犯の背後にも正犯は可能であり、ただ制定法がそれを教唆犯や従犯として刑罰を制限している場合にはそれに当たるが、そうでない場合には原則に帰って正犯となる。そして、制定法が教唆犯および従犯を故意のある場合に限っているのであれば、過失による共犯は不可罰なのではなく、まさに過失正犯として処罰されることになるのである。そして、その意味において、故意犯の正犯と過失犯の正犯とで客観的要件は共通だということになる。
  しかし、このような考え方では、自殺や自傷に関与した者は、ドイツ刑法ではそれらの教唆犯や従犯として処罰されない代わりに、殺人や傷害の正犯として処罰されることになりかねなかったし、正犯の資格を制限している身分犯や目的犯の場合には、いずれにせよ身分や目的のない者が「共犯」として処罰されることを認めるためには、「共犯」は正犯以外の者に処罰範囲を広げる「刑罰拡張事由」と解されなければならなかった。そのため、「拡張的正犯概念」という考え方は、一九三〇年代に一時的に極めて有力になったが、少なくとも故意作為犯の分野では、ヴェルツェルの「目的的行為論」に依拠した「二元的正犯概念」が登場すると、しだいに支持を失っていったのである(20)

  六  当時のヴェルツェルによれば、「行為」と呼べるのは「目的的行為」つまり故意作為だけであって、不作為や過失は「行為」ではない。したがって、「行為」であることを前提とした「正犯」と「共犯」の区別は故意作為犯にしか妥当しない。つまり、「目的的構成要件(故意作為犯の構成要件ー筆者注)を過失の構成要件と共に惹起構成要件という同じプロクルステスのベッドに押し込めることが正しくないように、故意の構成要件と過失のそれとに対して同じ正犯概念を立てることも誤りである。過失の正犯はまったく独自の種類の正犯であって、ドグマーティクの中心にある目的的な正犯とはまったく関係がない。共犯論は後者に対してだけ、実質的に根拠のある意味を有するのである(21)。」とし、「ゆえに、あらゆる形態の回避可能な惹起は過失による惹起の構成要件に該当するのであり、過失惹起の正犯なのである(22)。」と結論づけるのである。
  このように考えれば、故意正犯の背後に過失正犯が成立することは当然のこととなる。しかし、その代わりに、故意犯の正犯と過失犯の正犯とで客観的要件は共通だとし、故意・過失を責任要素にとどめていた従来の犯罪体系は放棄されなければならない。「拡張的正犯概念」が伝統的体系の部分的な修正にとどまっていたことと比較すれば、これは革命的な意義を持つ主張である。しかし、このような見解も、その内包する矛盾のゆえに、戦後は「客観的帰属論」に取って代わられる運命にあった。その点は以下で扱うが、ともかくここでは、「目的的行為論」が、まさに、「故意正犯の背後の過失正犯」の説明という極めて実践的な問題を契機に生じたことを確認すれば足りるであろう。

  七  一九四九年の西ドイツ(ドイツ連邦共和国)の成立とボン基本法の制定は、「目的的行為論」の展開にも重大な影響を与えた。というのも、基本法一〇三条二項に「罪刑法定原則」が宣言されたからである。ゆえに、刑法が犯罪を「行為」(Handlung)に限定しているならば、「行為」でない犯罪を認めることは罪刑法定原則に反することになる。
  この問題に直面して、ヴェルツェルはニーゼの批判(23)に答える形で、過失犯を「潜在的目的性」で説明していた従来の見解を変更し、「存在論」を強調して過失犯をも作為犯と不作為犯とに分け、前者については構成要件該当結果以外の刑法上重要でない結果を目指す目的性が認められるとして、その「行為」性を根拠づけた(24)。そこでは、従来「社会的に相当な惹起を除く」として説明されてきた過失犯成立範囲が、「客観的注意の違反」という「行為反価値」の有無によって説明されることとなったのである。
  しかし、それでも、不作為は「行為」とはなりえなかった。とくに、作為犯の規定で処罰されるべき「不真正不作為」については、「行為」でないものに「行為」を要件とする規定を適用するのは類推としか言いようがなかったのである。これに対しては、ヴェルツェルは「罪刑法定原則の内在的限界」を主張した。すなわち、「制定法の構成要件の中に無限の多様性を持つ不作為正犯をすべて具体的に書き込むことは、原理的に不可能である。」として、ここでは罪刑法定の原則が譲歩すべきだと主張したのである(25)。つまり、犯罪は必ずしも「行為」ではなく、不作為を含む「態度」ないし「行態」(Verhalten)だというのである。

  八  このような考え方に対して、「犯罪は行為(Handlung)でなければならない」という考え方で挑戦したのが、ヴェルナー・マイホーファーらの「社会的行為概念」の主張であった(26)。彼は、「行為」に「意思に基づく身体運動」という定義を与える「因果的行為概念」を、不作為を「行為」から排除するものであるとし、さらに「行為」に「目的性」を要求する「目的的行為概念」を不作為と認識なき過失を「行為」から排除するものであると批判して(27)、社会的行為概念によれば、「行為」とは「客観的に予見可能な社会的結果を伴う客観的に支配可能な態度である(28)。」と主張したのである。
  もっとも、その際マイホーファーは、身体的・生理的能力についてまで、「客観的」ないし「平均的」な人物のそれを標準とした。しかし、ヤコブスが的確に批判するように、刑法は社会の構成員が平均的な身体的能力、たとえば視力をもつことに対する期待を担保するものではなく、法規範が常に支配的な動機であるという期待を担保するものである(29)。それは特に、過失犯における「注意義務の標準」ないし「過失の標準(30)」や「違法性の錯誤の回避可能性」の判断の際に明らかになる。しかし、いずれにせよ、「行為」(Handlung)概念をめぐる論争は、一九七五年に施行された改正ドイツ刑法典総則が、共犯に関して「行為」(Handlung)ではなく、より客観的・状態的な意味合いの強い「所為」(Tat)を用いたこともあって、下火になってしまった(31)

  九  右のような「行為」概念と犯罪論の体系構想との関係をまとめると、つぎのようにいえるであろう。すなわち、「行為」(Handlung)は、一八七一年のドイツ刑法典が一九七五年に総則の全面改正を受けるまで、犯罪論の中心的概念であった。それは、ヘーゲル学派では、責任能力を前提とすることで犯罪の主体である「行為者」ないし「正犯」(いずれも Ta¨ter)とそうでない「道具」(Werkzeug)との相違を明らかにし、教唆犯と間接正犯との分離を可能にした。しかし、同時にそのことは、とくに共犯が正犯の責任能力を誤想した場合に、共犯にも間接正犯にもならない「処罰の間隙」を生み出した。この問題を解決するためには「行為」を責任能力から切り離さなければならない。それは、リスト学派にあっては、「客観的違法論」に基づく違法と責任の分離を背景にして、自然主義的な方法で行われた。「行為とは意思に基づく身体の動静である」とする「因果的行為概念」は、このようにして生まれたのである。M・E・マイヤーの提唱した共犯の「制限従属形式」は、このような「行為」と責任能力の分離を前提にして初めて可能となったのである。しかし、皮肉にも、違法と責任を分離し「行為者」ないし「正犯」の客観的な成立要件(実行行為)は故意犯と過失犯とで同じであるとするリスト・ベーリンク体系は、これによって「故意正犯の背後の過失犯」は不処罰となるという過失犯限定機能のゆえに、「倉庫火災事件」等に見られた過失犯処罰拡大の要請に対応できないまま、実務との乖離を生み出した。これは、一方で、リスト・ベーリンク体系に「拡張的正犯概念」を結び付けることで克服されようとし、他方で、過失と不作為は「行為」でないとする「目的的行為概念」に基づく「二元的正犯概念」によって克服されようとした。しかし、その「目的的行為概念」も、戦後、「すべて犯罪は行為である」とする「社会的行為概念」の挑戦を受けた。そこでは、とくに「不作為」の行為性の論証が課題とされたのである。しかし、そうこうするうちに、一九七五年のドイツ刑法典は、とくに共犯の従属対象を正犯の「行為」(Handlung)から「所為」(Tat)に置き換えてしまった。
  要するに、「行為」概念およびそれに基づく犯罪体系の構想は、ドイツにおいては基本的に、正犯・共犯の区別、過失犯における正犯概念、不作為の行為性といった、時々の具体的な解釈問題と結びついて展開されてきたのであって、決して哲学的な思弁だけの問題ではなかったのである。ひるがえってわが国の状況はどうであろうか。

(1)  Roxin, Strafrecht AT, 3. Aufl., 7/10, S. 149.
(2)  A.F. Berner, Lehrbuch des deutschen Strafrechtes, 1857, § 90, S. 138f.
(3)  Berner, a. a. O., S. 109ff. 犯罪主体は自然人に限られる。興味深いことにベルナーは、法人が犯罪主体となりうるか否かという問題はすでに過去のものであって、法人の犯罪と見えるものは、実は、法人のために活動する自然人の犯罪にすぎないと述べている。Berner, a. a. O., S. 109.
(4)  近年では、ヤコブスが両者の違いを、共犯は「意味」(Sinn)に加担し正犯は「自然」(Natur)を利用するものであることに求めている G. Jakobs, Akzessorieta¨t. Zu den Voraussetzungen gemeinsamer Organisation, GA 1996, S. 253.;ders., Objektive Zurechnung bei mittelbarer Ta¨terschaft durch ein vorsatzloses Werkzeug, GA 1997, S.553. 前者の紹介として、松宮孝明=豊田兼彦「ギュンター・ヤコブス『従属性−共同組織化の前提条件について−』」立命館法学二五三号(一九九七)一九六頁、後者の紹介として、松宮孝明「ギュンター・ヤコブス『故意なき道具を利用した間接正犯における客観的帰属』」立命館法学二五八号(一九九八)八七頁。
(5)  Vgl., R. v. Frank, Das Strafgesetzbuch fu¨r das Deutsche Reich, 18. Aufl. 1931, § 1 Anm. III 2a, S. 14.
(6)  この判決については、松宮・前掲「非故意行為に対する共犯−『故意への従属性』について−」立命館法学二三一=二三二号二四一頁以下を参照されたい。
(7)  Eb. Schmidt, Die mittelbare Ta¨terschaft, Festgabe fu¨r R. v. Frank, Bd. II, 1930, S. 131;E. Mezger, Strafrecht, 1. Aufl., 1931, S. 449.
(8)  この点、メツガーは、前者について従犯減軽の類推を認めるとともに、後者について身分犯等には「限縮的正犯概念」が妥当するという二元主義をとる。
(9)  F. v. Liszt, Lehrbuch des Deutschen Strafrechts, 21. und 22. Aufl., 1919, S. 115ff.
(10)  Liszt, a. a. O., S. 115ff., 132ff., 150ff., 181ff.
(11)  ルドルフ・イェーリンクの「客観的違法論」については、末川博『権利侵害論(第二版)』(一九四九)一七八頁以下を参照した。
(12)  M.E. Mayer, Versuch und Teilnahme, in:P.F. Aschrott / F. v. Liszt (hrsg.), Die Reform des Reichsstrafgesetzbuchs, 1910, S. 355ff;ders. Der allgemeine Teil des deutschen Strafrechts, 2. unvera¨nderte Aufl. 1923, S. 391.
(13)  Vgl., G. Radbruch, Der Handlungsbegriff in seiner Bedeutung fu¨r das Strafrechtssystem, 1904;ders., Zur Systematik der Verbrechenslehre, Festgabe fu¨r R. v. Frank, Bd. I, 1930, S. 158.
(14)  実際、一九二〇年代のドイツ刑法典諸草案は、共犯の加担の対象を「行為」(Handlung)から「所為」(Tat)に置き換えている。
(15)  K. Engisch, Die Kausalita¨t als Merkmal der strafrechtlichen Tatbesta¨nde, 1931, S. 31.
(16)  わが国では、ときおり、エンギッシュのいう「法則」を自然科学上の法則だと理解する見解があるが、それは正しくない。なお、不真正不作為と因果力との関係については、松宮孝明「『不真正不作為犯』について」西原春夫先生古稀祝賀論文集編集委員会編『西原春夫先生古稀祝賀論文集第一巻』(一九九八)一五九頁も参照されたい。
(17)  詳細は、松宮孝明「ドイツにおける『管理・監督責任』論」中山研一=米田泰邦編著『火災と刑事責任−管理者の過失処罰を中心に−』(一九九三)一七〇頁以下を参照されたい。
(18)  もちろん、このような「限縮的正犯概念」の放棄に対しては、伝統的な見解からすれば故意があれば幇助にすぎない行為が過失の正犯になるというのは耐え難い処罰の拡張を招くもので、むしろ故意正犯の背後の過失行為は「遡及禁止」を理由に不可罰であるとする批判もあった。後述のように、この「限縮的正犯概念」は、いわゆる「被害者の自己答責性」問題を契機として復活の兆しをみせている。詳細については、松宮・前掲中山=米田編著『火災と刑事責任』一七〇頁以下、松宮孝明「過失犯論の今日的課題」『東巖李炯國教授華甲記念論文集』(一九九八)九六四頁以下、同「過失犯論の今日的課題」刑法雑誌三八巻一号(一九九八)一三頁以下。最近のさらに詳細な研究として、安達光治「客観的帰属論の展開とその課題(一)(二)(三)(四・完)」立命館法学二六八号(二〇〇〇)一五三頁、二六九号(二〇〇〇)二五二頁、二七〇号(二〇〇〇)一九頁二七三号(二〇〇一)掲載予定を参照されたい。
(19)  Eb. Schmidt, Die mittelbare Ta¨terschaft, Festgabe fu¨r R. v. Frank, Bd. II, S. 106;E. Mezger, Strafrecht, S. 415ff.;さらに、佐伯千仭
『共犯理論の源流』(一九八七)八三頁以下、松宮・前掲中山=米田編著『火災と刑事責任』一七〇頁以下、同・前掲『東巖李炯國教授華甲記念論文集』九六七頁以下も参照されたい。
(20)  とはいえ、戦後もシュペンデルなどは「拡張的正犯概念」を支持している。Vgl., G. Spendel, Fahrla¨ssige Teilnahme an Selbst− und Fremdto¨tung, JuS 1974, S. 749ff.
(21)  H. Welzel, Studien zum System des Strafrechts, ZStW 58 (1939), S. 491, in:ders., Abhandlungen zum Strafrecht und zur Rechtsphilosophie, 1975, S. 120, 160.
(22)  Welzel, a. a. O., S. 160.
(23)  Vgl., W. Niese, Finalita¨t, Vorsatz und Fahrla¨ssigkeit, 1951, S. 43.
(24)  H. Welzel, Das deutsche Strafrecht, 11. Aufl., 1969, S. 129.
(25)  Vgl., Welzel, a. a. O., S. 209f., s. auch S. 23;Armin Kaufmann, Die Dogmatik der Unterlassungsdelikte, 1959, S. 282ff.
(26)  Vgl., W. Maihofer, Der Handlungsbegriff im Verbrechenssystem, 1953;Ders., Der soziale Handlungsbegriff, Festschrift fu¨r Eb. Schmidt, 1961, S. 156.
(27)  Maihofer, Festschrift fu¨r Eb. Schmidt, S. 159.
(28)  Maihofer, a. a. O., S. 178.
(29)  G. Jakobs, Strafrecht AT, 2. Aufl. 6/24 S. 139.
(30)  詳しくは、松宮孝明『刑事過失論の研究』(一九八九)一二一頁以下を参照されたい。
(31)  たとえば、ヴォルフガング・シェーネ(中森喜彦訳)「行為、不作為、態度−刑法上の三つの基本概念に対する若干の考察−」鈴木茂嗣編『平場安治博士還暦祝賀・現代の刑事法学(上)』(一九七七)八一頁は、「まさに行為概念が刑法の体系的上位概念でなければならないとする必然的理由は、決して存在しない。時に決定的な論拠として持ち出される実定法に訴えることがいかに説得力をもちえないかということは、改正刑法が『可罰的な』または『刑を科せられた行為』という表現をもはや全く持たず、『所為』という中立的な表現を用いているという事情がこれを示している。」と述べている。

  日本における「行為」概念と犯罪体系


  一  近年のわが国では、「行為」概念を論ずることは「無用な思考の浪費(1)」であるとして、敬遠される傾向にある。行為論は「刑法体系の中心問題」ではない(2)とされるのである。
  それは一面では当たっている。なぜなら、日本の刑法典においては、ドイツの「行為」論争で常に中心問題であった共犯の従属対象に「行為」という言葉は使われていないからである。刑法六〇条以下の共犯規定でその代わりに用いられているのは、「犯罪」という言葉である。単なる「行為」ではなく、それ以上の意味を持つ「犯罪」という概念なのである。したがって、ドイツで論争の焦点になった正犯・共犯の区別や過失犯の正犯概念などでは、わが国で論争の中心にあるべきは「犯罪」概念であった。

  二  ところで、わが国の刑法の教科書では、普通、「犯罪とは、構成要件に該当する違法かつ有責な行為である」と書いてある。しかし、「犯罪」をこのように定義すると、心神喪失者や一四歳未満の者といった「責任無能力者」に対する教唆はありえないことになる。なぜなら、右の定義によれば、彼らの振舞いは「犯罪」ではないからである。実際、少年法三条は、一四歳未満の少年には「刑罰法令に触れる行為」という言葉を用いている。
  ところが、今日の通説によれば、教唆や幇助の成立には他人(=正犯)に構成要件に該当する違法な行為をさせることは必要だが、有責性までは不要だと解されている。つまり、正犯の有責性を要しない「制限従属形式」が通説なのである。だとすると、刑法六一条によって他人に実行させることを要する「犯罪」とは、「構成要件に該当する違法な行為」の意味だと解さなければならない。しかし、先のような「犯罪」の定義を採用しながらそのような解釈をすることは、体系矛盾である。

  三  この点、学説の中には、刑法六一条が「犯罪を実行させた」と規定していることから、「客観的に犯罪の『実行』があったといえればよいのであって、行為者にその責任を帰することができるかどうかは問うところでない(3)」とするものがある。しかし、「実行」の対象は「犯罪」なのであるから、これでは論証になっていない。いずれにせよ、六一条にいう「犯罪」を「構成要件に該当する違法な行為」で足り有責性は不要と解釈できることが先決問題なのである。
  さらに、この先決問題には、もうひとつ厄介な問題がある。それは、ここにいう「行為」の意味である。というのも、ヘーゲル学派がそうであったように、「行為」を責任能力者の意思に基づく身体運動と定義するなら、心神喪失者や一四歳未満の少年には「行為」が認められないことになり、「制限従属形式」自体が無意味なものになってしまうからである。「行為」を「行為者人格の主体的現実化」と定義する場合(4)も、責任無能力者に「人格」や「主体性」が認められないとするのであれば、同じ問題に遭遇する。むしろ、現行法の解釈として「制限従属形式」が正しいのなら、「行為」の定義は、あまり「人格の深み」に入らないもののほうがよい。実際、刑法三九条一項は、「心神喪失者の行為」を認めているのである。その意味で、「人格的行為論」は、現行法の解釈としては、妥当でない(5)

  四  それでは、本題に戻って、有責性のない「犯罪」概念を現行法の解釈として引き出すことは可能であろうか。たしかに、刑法一九条の没収規定にあるような刑罰の前提となる「犯罪」を、そのように解釈することは不可能であろう。なぜなら、責任無能力者の行為は「罰しない」(三九条一項、四一条)からである。しかし、三八条一項の「罪を犯す意思」(=故意)における「罪」は、意思の対象となるものであるから、意思そのもの、つまり故意を含むものではないであろう。同時に、責任能力もまた意思の対象ではない。したがって、ここにいう「罪」は故意における認識の対象となる犯罪の客観的な要素と解すべきである。ところで、「罪」と「犯罪」は通常同じ意味であるから、三八条一項の解釈からは、現行刑法は「犯罪」や「罪」という言葉を、少なくとも二つの意味で用いているということが明らかになる。
  このように解するなら、六一条の「犯罪」も三八条一項と同じ意味で解釈してよいであろう。したがって、教唆者が正犯の責任能力を誤想した事案でも、めでたく窃盗罪の教唆が成立することになる(6)
  なお、類似の問題は、共犯者が正犯の故意を誤想した場合にも生ずる。この場合も、共犯の成立には正犯の故意が必要だとする立場(=「故意への従属性」)に固執すると、「処罰の間隙」が生じることに注意しなければならない。一部には、「故意への従属性」に固執しつつ三八条二項で軽い共犯の成立要件が修正されるのだとする見解もあるが、三八条二項は「重い罪によって処断することはできない。」とするもので、軽い罪の成立要件を修正するものではない(7)

  五  初期のヴェルツェルが意図したような過失犯における「統一的正犯概念」の採用という問題についても、わが国では体系的に一貫した議論がなされているとは言い難い。たとえば、わが国では、一般に、「限縮的正犯概念」が通説だとされている。しかし学説の中には、「原因において自由な行為」や犯行計画より早く結果が発生した「早すぎた結果実現」の場合に、「過失犯は定型性が緩やか」だとして故意犯の場合よりも広い「実行行為」を認めるものがある(8)
  また実務では、放火ないし放火の疑いのある火災で多数の死傷者が出た場合に、建物の管理者らに業務上過失致死傷罪を認めた裁判例がある(9)。このような場合には放火者に殺人や傷害の未必の故意がある可能性も高いので、建物管理者らはこれらの死傷罪の故意犯に対する過失的幇助であったと見る余地がある。にもかかわらず、裁判所が管理者らを過失致死傷罪の「正犯」と見るのであれば、そこでは「過失犯の正犯」について故意犯の場合よりも広いものが予定されているといえる。
  このような考え方は妥当でないように思われる。というのも、たとえば故意でも過失でも処罰される速度違反や駐車違反のような「自手犯」の場合、「運転」や「駐車」といった「実行行為」は過失のほうが広いとはいえないからである。したがって、過失だからといって、「結果と因果関係のあるすべての関与が正犯だ」とはいえない。
  もうひとつ困るのは、たとえばYが−被害者の同意によっても正当化できない重大な−自傷行為の道具としてXがうっかり放置した物を用いた場合である。この場合は、自傷行為をわざと幇助するのは不可罰である。にもかかわらず「うっかり他人の傷害を惹起した場合はすべて過失傷害罪の正犯だ」と考えると、わざとなら不可罰の行為が、うっかりであったがゆえに過失傷害罪で有罪となってしまう。このような矛盾を避けるためには、うっかりの場合でも、自傷行為の「正犯」は自傷行為者Yであって、Xは自傷に対する幇助的役割を果たしたにすぎないと見るしかないであろう。そうだとすると、Yが第三者Zを攻撃した場合でも論理を一貫させて、Xの役割は幇助だと見るべきことになる。つまり、過失犯にも「限縮的正犯概念」を妥当させるべきだということである。
  このようなケースは「被害者の自己答責性」のあるケースと名づけられることがある。この呼び方に倣って言えば、実際、ドイツでは、この「被害者の自己答責性」のケースをひとつの中心として、「限縮的正犯概念」の再評価が唱えられているのである(10)

  六  しかし、「体系的思考」との関係で問題なのは、むしろ、わが国では「過失犯は定型性が緩やか」という主張が「正犯概念」そのものに関わる問題であるという意識がなかったことであろう。たしかに、故意および過失を構成要件に位置づける見解は有力であるが、それは故意犯(たとえば殺人罪)と過失犯(たとえば過失致死罪)とで客観的構成要件においても相違がある、あるいはそもそも、過失犯には正犯と共犯の区別は妥当しないという意味のものとしては主張されていない(11)。また、そもそも故意および過失を責任要素に位置づける立場からも、過失犯の実行行為は故意犯より広いとする見解が主張されているのである(12)。さらに、「目的的行為論」を採用するとする立場から、ヴェルツェルがまさに否定したかったはずの過失犯の共同正犯を認める見解(13)、さらには過失による共犯をも認める見解(14)がある。

  七  不作為と「行為」概念の関係についても、状況は変わらない。いわゆる「保障人説」については、わが国では、単に作為義務を構成要件の段階に移しただけのものという理解が一般である(15)。また、「禁止規範違反」と「命令規範違反」の相違についても、それは「AなければBなし」か「AあればBなし」かという条件関係の相違であるという理解は弱い。それは、不真正不作為犯を、作為を禁ずる「禁止規範」と並ぶ、作為を命ずる「命令規範」に違反するものであると定義づけておきながら、それに作為犯と同様の因果力を認める点に、端的にあらわれる(16)。結果犯における「禁止規範」は「結果であるBを惹起するな」である。作為であるAが禁止されるのは、それがあくまで悪しき結果Bを惹起するからである。仮に不作為に−自然科学的な意味でなく法的な意味においてだとしても−「因果力」が認められるのであれば、それはすでに「Bを惹起するな」という「禁止規範」の違反として捉えられうるのであって、それをあえて「Bを阻止せよ」という「命令規範」の違反として捉える必要はない。逆に、「Bを惹起するな」という「禁止規範」に「Bを阻止せよ」という「命令規範」が含まれるというのであれば、不作為の因果力を証明する必要はないのであって、その代わりになすべきことは、「Bを惹起した者は」というタイプの構成要件に「Bを阻止しなかったにすぎない者は」というタイプの構成要件がどのようにしたら読み込めるのかを論証することである(17)。「保障人説」は、まさにその論証を、「同価値性」を基準とする類推によって試みたものだったのである。
  くわえて、「期待説」の理解にも問題がある。同説にいう「(法によって)期待された作為」というのは、「(法によって)義務づけられた作為」そのものである。それはすでに、すべての不作為ではなく、「形式的三分説」によって認められる作為義務に違反した不作為に限定されている。ゆえに、「期待説」によると因果関係のある不作為が不当に広がるという理解は正しくない。不当に広がるのは、「形式的三分説」の狭さを克服しようとした「日常用語例」による「因果関係」の論証を基礎とした「違法性説」の場合である(18)
  最後に、不作為犯についても「正犯概念」の問題が重要である。「目的的行為論」は、不作為の「行為」性を否定することで、不真正不作為犯の場合も含めて、不作為犯に「統一的正犯概念」が妥当することを論証しようとした。しかし、ドイツの実務でさえ、故意犯の場合には条文上正犯と共犯の区別が可能であることから、不作為犯にも少なくとも「従犯」がありうることを認めている(19)。このような不作為の「行為」性と「正犯概念」との関係については、わが国ではほとんど意識されていない(20)

(1)  平場安治「刑法学における私の立場」刑法雑誌三〇巻三号(一九九〇)五頁。もっとも、平場博士は「裸の行為論」としての「一般的行為論」の省略を主張しているのであって、「行為」を構成要件の中で考えることまでは否定していない。ただし、「行為」概念に各論的な構成要件の問題を超えた一般的属性を認めなくてよいかという疑問は残る。
(2)  米田泰邦『行為論と刑法理論』(一九八六)一三一頁。なお、上田健二「犯罪論体系における行為概念についての『反時代的考察』」中山研一=森井ワ=山中敬一編『刑法理論の探求−中義勝先生古稀祝賀』(一九九二)四五頁も参照されたい。
(3)  たとえば、団藤重光『刑法綱要総論(第三版)』(一九九〇)三八二頁。なお、大谷實『新版刑法講義総論』(二〇〇〇)四三二頁は、「最小限従属性説は、六一条の『人を教唆して犯罪を実行させた者』とする規定の『実行させた』としている点に着目し、正犯行為は実行行為であれば足り、必ずしも違法、有責といった犯罪の要素を具備することを要しないとする立場である。」としている。しかし、「実行」されるのは「犯罪」であるという条文構造を無視することはできないであろう。これに対し、「共犯独立性説」は、教唆犯および従犯は各自がその犯罪に他人の行為を利用するものだとして、六一条にいう「犯罪」を「教唆者にとっての犯罪」と見るようである(牧野英一『重訂日本刑法上巻』(一九三七)四二二頁)。しかし、それは不自然な解釈であって、六一条は明らかに、他人に「他人にとっての犯罪」を実行させることを予定していると読むべきである。また、そうでないと、刑法二〇二条前段が自殺教唆および幇助に殺人罪の教唆・幇助より軽い法定刑を定めた意味が説明できなくなる。というのも、六一条が「教唆者にとっての犯罪」を定めているのであれば、自殺教唆は殺人教唆そのものとして処罰できるはずだからである。せいぜい、二〇二条の自殺関与は「自殺」であることを理由とする殺人共犯の減軽類型だと説明するしかないであろう。なお、自殺関与規定の制定過程については、松宮孝明「自殺関与罪と実行の着手」中山研一先生古稀祝賀論文集編集委員会編『中山研一先生古稀祝賀論文集第一巻生命と刑法』(一九九七)二三七頁も参照されたい。
(4)  団藤・前掲書一〇四頁以下。いわゆる「人格的行為論」である。なお、大塚仁『刑法概説(総論)(第三版)』(一九九七)九三頁、九九頁以下は、刑法的評価の対象となるものを画するという意味での「行為」概念の限界要素としての機能を重視するが、共犯において「制限従属形式」を採用する場合には、視野を単独正犯の刑法的評価の対象たる「行為」に限っていたのでは、共犯の刑法的評価の対象を縮小しすぎることになるのである。
(5)  もっとも、現行法を離れて、そもそも「心神喪失者」等の責任無能力者には「行為」は存在しないとするヘーゲル学派のような見解を妥当とするなら、さらにまた、それに基づく刑法改正を要求するなら、それはそれなりに意味のある「行為」概念である。
(6)  同旨、仙台高判昭和二七・二・二九判特二二号一〇六頁。なお、松宮孝明「共犯の『従属性』について」立命館法学二四三=二四四号(一九九六)三〇二頁、とくに三一三頁以下も参照されたい。
(7)  詳細については、松宮「非故意行為に対する共犯−『故意への従属性』について−」立命館法学二三一=二三二号二三七頁を参照されたい。
(8)  団藤・前掲書一四〇頁注(一)、平野『刑法総論I』一三四頁以下、前田『刑法総論講義(第三版)』(一九九八)一二六頁以下。
(9)  神戸地判平成五・九・一三特殊過失刑事事件裁判例集(三)五六一頁、横浜地判平成七・一〇・三〇判時一五七五号一五一頁など。
(10)  ブロイ、シューマン、レンツィコフスキーなど。R. Bloy, Die Beteiligungsform als Zurechnungstypus im Strafrecht, 1985;H. Schumann, Strafrechtliches Handlungsunrecht und das Prinzip der Selbstverantwortung der Anderen, 1986;J. Renzikowski, Restriktiver Ta¨terbegirff und fahrla¨ssige Beteiligung, 1997. この問題については、塩谷毅「自己危殆化への関与と合意による他者危殆化について(一)(二)(三)(四・完)」立命館法学二四六号八五頁、二四七号七五頁、二四八号八〇頁(以上一九九六)、二五一号(一九九七)六七頁が詳しい。さらに、松宮孝明「被害者の『自己答責性』と過失正犯」指宿信ほか編『渡部保夫先生古稀祝賀論文集』(二〇〇〇)五二三頁も参照されたい。
(11)  たとえば団藤重光は、「過失犯については、性質上、行為の定型性が弱いものにならざるをえない」(団藤・前掲書一四〇頁注(一))としつつ、拡張的正犯概念と限縮的正犯概念(=制限的正犯概念)を「どちらも主として間接正犯の理論的処理のために工夫されたものである。」とし、「われわれの立場では、かように正犯概念をとくに拡張する必要もなければ制限する必要もない。この二つの正犯論は不必要であり、かつ、不当である」とする(団藤・前掲書三八八頁)。ここでは、「故意があれば従犯にとどまるような行為が過失であるがゆえに正犯となりうるか」といった問題は意識されていないのである。しかも、ふたつの正犯概念の相違は、教唆・幇助という「共犯」を「正犯」の外に処罰を拡張するものと見るか「正犯」内部で処罰を制限するものと見るかにあるのだから、「この二つの正犯論は不必要であり、かつ、不当」とか「中間的な正犯概念」とかいったものがあろうはずはない。なお、松宮孝明「正犯概念」中山研一=浅田和茂=松宮孝明『レヴィジオン刑法1共犯論』(一九九七)四〇頁以下、同「『正犯』と『共犯』−その根拠と限界−」刑法雑誌三九巻二号(二〇〇〇)六四頁、とくに七一頁以下も参照されたい。
(12)  平野・前掲書一三四頁以下、前田・前掲書一二六頁以下参照。平野龍一は、「予備行為から結果が発生しても、犯罪は既遂にならない。……もっとも、過失致死罪として既遂になることはありうる。それは右の場合でも過失の実行行為は存在すると考えられるからである。」と述べる(平野・前掲書一三四頁以下)。しかし、平野は他方で、「故意があれば教唆・幇助にあたる行為が、過失であればただちに正犯になるとは思われない。……過失犯にも、やはり限縮的正犯概念が妥当するといわなければならない。」とする(平野『刑法総論(3)』(一九七五)三九三頁)。故意があれば予備行為にとどまる行為が、過失であればただちに正犯の実行行為になりうるのはなぜであろうか。
(13)  木村亀二(阿部純二増補)『刑法総論(増補版)』(一九七八)四〇五頁、福田平『刑法総論(第三版)』(一九九六)二六五頁。
(14)  内田文昭『改訂刑法(2)(総論)』(一九八六)三〇九頁以下、三三二頁、同『刑法概要中巻〔犯罪論(2)〕』(一九九九)五一三頁。
(15)  たとえば、団藤・前掲書一四八頁、大塚仁『刑法概説(総論)(第三版)』(一九九七)一四六頁。もっとも、団藤重光は、保障人説をして、「もし作為犯をかような保証人義務違反に転換することがあらたな−禁止違反ではなく命令違反を内容とする−構成要件を別に作り出すことになるのだとすれば、すくなくとも観念的には罪刑法定主義との関連で困難を生じるであろう。」とも述べている。その認識は正当である。ヴェルツェルによれば、「作為犯を保障人的義務侵害に変換することは命令構成要件という新たな構成要件を作り出すことであって、それは、対応する禁止構成要件とは保護法益と法定刑を共通にするが、ドグマーティッシュには、それと並ぶ独立の構成要件である。」というのであるから。Vgl., Welzel, Das Deutsche Strafrecht, 11. Aufl., S. 210.
(16)  たとえば、大塚・前掲書一四五頁、一九二頁。
(17)  不真正不作為犯に関する最近の業績である西田典之「不作為犯論」芝原邦爾=堀内捷三=町野朔=西田典之編『刑法理論の現代的展開総論(2)』(一九八八)七三頁以下、鎮目征樹「刑事製造物責任における不作為犯論の意義と展開」本郷法政紀要八号(二〇〇〇)三四五頁以下も、同じ矛盾を犯している。なお、平山幹子「不真正不作為犯について(一)−『保障人説』の展開と限界−」立命館法学二六三号(一九九九)二一八頁も参照されたい。
(18)  この問題の詳細については、松宮孝明「『保障人説』について」刑法雑誌三六巻一号(一九九六)一六五頁、同「『不真正不作為犯』について」『西原春夫先生古稀祝賀論文集編集第一巻』一五九頁を参照されたい。
(19)  RGSt 11, 153;53, 292;71, 176;71, 187;73, 53;BGHSt 11, 353;19, 167;BGH NJW 1953, 1838;BGH MDR 1973, 369;BGH StV 1982, 218;BGH NStZ 1984, 164;OLG Ko¨ln, NJW 1973, 861. ドイツの判例については、神山敏雄『不作為をめぐる共犯論』(一九九四)四二四頁以下を参照した。
(20)  もちろん例外はある。中義勝『刑法上の諸問題』(一九九一)三二九頁以下、三七九頁以下、松生光正「不作為による関与と犯罪阻止義務」刑法雑誌三六巻一号(一九九六)一四二頁、松宮孝明「不作為と共犯」中山研一=浅田和茂=松宮孝明『レヴィジオン刑法1共犯論』(一九九七)一八六頁。


  むすびにかえて


  一  以上、本稿では、「行為」概念を手がかりにして、刑法における犯罪体系と個別解釈問題との関係を検討した。そこでは、「行為」の概念規定は、とりわけ、教唆犯と(間接)正犯との区別や教唆犯および従犯といった共犯の従属性、過失犯における正犯概念、不真正不作為犯の罪刑法定原則との関係といった、刑法総則解釈論上の重要問題と結びつき、その時々の争点に応じて栄枯盛衰を繰り返してきたことが明らかになったように思われる。

  二  なお、近年ドイツでは、共犯における「制限従属形式」の問題解決能力に対する疑念を契機として、いわゆる「極端従属形式」、さらにはその背景にある、有責性を前提とするヘーゲル学派流の「行為」概念−それは「主観的違法論」への接近をも含むであろう−への回帰の動きが見られる(1)。筆者は、現時点において「制限従属形式」を放棄することには、なお慎重であるべきだと考えるが、このような問題提起に対しても、掘り下げた検討が必要であると考えている。この問題は、「行為」概念をめぐる今後の重要な課題となろう。

(1)  筆者の知るところでも、「制限従属形式」に対しては、イェシェック=ヴァイゲントが、制限従属形式の採用は「性急でその帰結の明確な見通しをもたずに」なされたものだと評しているし(H.H. Jescheck/T. Weigend, Lehrbuch des Strafrechts AT, 5. Aufl. 1996, S. 655.)、ヤコブスは、制限従属形式に確固たる理論的根拠がないことは周知のことであると述べている(Jakobs, Akzessorieta¨t. Zu den Voraussetzungen gemeinsamer Organisation, GA 1996, S. 253ff. Fn. 5. 松宮孝明=豊田兼彦「ギュンター・ヤコブス、従属性−共同組織化の前提条件について−」立命館法学二五三号二一二頁参照)。さらに、ヤコブスやルシュカは「有責性」を前提とした行為概念を展開している(G. Jakobs, Der Strafrechtliche Handlungsbegriff, 1992;上田健二=浅田和茂訳「ギュンター・ヤコブス『刑法上の行為概念』」立命館法学二二七号(一九九三)九八頁、J. Hruschka, Regreβverbot, Anstiftungsbegriff und die Konsequenzen, ZStW 110 (1998), S. 581;紹介、安達光治「ヨアヒム・ルシュカ『遡及禁止、教唆概念とその帰結』」立命館法学二六一号(一九九八)二一七頁)。