立命館法学 2000年3・4号下巻(271・272号) 681頁




「ナショナル・アイデンティティ」の概念に関する問題整理

− 国民国家論研究のためのノート −


中谷 猛


 

は  じ  め  に

  近年、一般の論壇のみならず、人文・社会科学の諸分野において国民国家とアイデンティティに関する様々な著作や論説が発表され、このテーマの重要性が広く認識されてきたといってよい(1)。言うまでもなく「アイデンティティ」(identity)という概念は、西洋の哲学思想では古くから知られ、近代以降変わらぬものとは何かを問い続ける哲学論争の主要テーマ、すなわち「同一性」是非論の中核となった。なかでも一九六六年にアドルノが大著『否定弁証法』において「非同一的なもの」によって同一化思考の弁証法を批判したことはよく知られている(2)。一方、一九五〇年代の末にE・エリクソンが青年心理の分析に転用した「アイデンティティ」とは、様々な「私」をとりまとめるより上位の新しい『私』のことで、彼の著作 Identity and Life Cycle で使用され、注目されるようになった。その概念は「自我同一性」また自己の「存在証明」を意味した。エリクソンによって哲学用語としての「アイデンティティ」が精神分析の分野に転用されたとき、彼自身が西洋哲学の主体概念を前提に議論し、また「アイデンティティ」概念の定義的説明の困難さについては十分理解していた。一方、この概念は社会科学の分野にまで広く使用され、そこでは主に「帰属意識」の意味で理解されるようになる(3)。もちろん「アイデンティティ」概念の使用が広がれば、この概念自体の帯びる多義的な性格が浮き上がってくる。というのはすでにできあがった所与の「アイデンティティ」というものはないうえに、それ自体が重層決定されるという特徴をもつからである(4)。当然、その概念の曖昧さも増幅されることになる。
  元来、われわれが使用している言葉にはこうした傾向があるのは避けがたい。それゆえ、問題を限定して論じないといたずらに概念の曖昧さが助長され、混乱を生むだけである。なぜこの概念の使用が一般化したのか。広がりの背景を探ることは大切だと思われる。確かにこの概念を分析の道具として用いれば、人間の歴史的、文化的営みにおける個人と集団との次元が交錯する領域の問題解明に役立つので、多くの研究者たちがそれぞれの研究分野にその概念を持ち込み普及に一役買っている。こうした現象が「アイデンティティ」概念の不明確な部分を広げていく契機になっていることは否定しがたい。
  なるほど「アイデンティティ」という概念とその理論が臨床の場のみならず、社会学や歴史学や政治学の分野で使用される場合、それは「私」の次元と「集団」の次元が交錯する領域に集中される。言い換えると、歴史性・社会性・文化性などの諸要素を基盤として構成される自己ー他者の複雑な利害と心理関係の総体が「アイデンティティ」論の対象になる。したがって「私」・「自己」とは何かということをめぐって臨床の場で定義された「アイデンティティ」概念をその他の学問領域に転用する場合、そこには当然制約が生じてくる。とくにある全体性に関わる次元において論じられる社会科学の領域ではこの概念自体が変容する傾向があるので十分な注意が必要だと思う(5)
  たとえばある文脈上、「自我」といっても、社会科学の領域で集団に現象する「自我」についてこの言葉を用いれば、「自我」をめぐって論議が百出するにちがいない。となると「集団的自我」と「アイデンティティ」との関連性を論じることは極めて難しいテーマの一つとなる。また「ナショナル・アイデンティティ」を取り上げれば、明らかに「ナショナル」という言葉自体が自明の理という訳ではなく、多分に論争的性格をもつ曖昧さが含まれている。そのうえに「アイデンティティ」を付け足せば、かなり限定した内容規定を与えて問題に取り組まない限り、対象として取り上げた問題の解明にまでゆきつかないであろう。したがって「アイデンティティ」とは自分自身であって他のものでないと規定したり、あるいは主体性や個性と置き換えてみても、それで「アイデンティティ」論の諸問題が解決するわけではない。
  そこで本稿では、「アイデンティティ」論のうち人文・社会科学分野における「ナショナル・アイデンティティ」概念をめぐる問題状況を整理し、その議論の方向づけのために、私見を提示してみよう。この概念整理には視角の転換が必要であると思われる。つまり、新しい切り口が求められている。それは何か。さしあたり「ナショナル・アイデンティティ」論をナショナリズム論の現在的形態として考えてみたい。言い換えると、ポスト国民国家時代のナショナリズム論として「ナショナル・アイデンティティ」を位置づけることにある。私の意図は、今日盛んに用いられるようになった「アイデンティティ」や「ナショナル・アイデンティティ」という言葉で認識されようとしている現象を理解する必要があること、その際この現象と言葉との関連を明らかにし、言葉によって捉えられる現象の範囲を照射し、言葉自体に含まれた問題を整理して、その有効性の是非を問うことにある。

(1)  本稿で引用したり、参照した文献を主に列記しておく。William E. Connolly, Identity / Difference, democratic negotiations of political paradox, Cornell Univ, Press. 1991(ウィリアム・E・コノリー、杉田・斉藤・権左訳『アイデンティティ、差異/他者性の政治』、岩波書店、一九九八年)Ch. Taylor, K. Anthony Appiah, Tu¨rgen Habermas, Steven C. Rockefeller, Michael Walzer, and Susan Wolf, Multiculturalism, Examining the Politics of Recognition, Princeton Univ, Press, 1994(チャールズ・テイラー他著、佐々木・辻・向山訳『マルチカルチュラリズム』(岩波書店、一九九六年)R. Poole, Nation and Identity, Routledge, 1999. Philip Schlesinger, On national identity:some conceptions and misconceptions criticized (Ed., by J. Hutchinson and A.D.S. Smith, Nationalism Critical concepts in Political Science, vol. I. pp. 69-111. Routledge, 2000) ユルゲン・ハーバーマス、住野由紀子訳「シティズンシップと国民的アイデンティティ−ヨーロッパの将来について考える−」(『思想』No. 867, 一九九六ー九)。『思想』特集アイデンティティの政治学ー身体・他者・公共圏ー. No. 907, 二〇〇〇・一。井上他編『自我・主体・アイデンティティ』(岩波講座  現代社会学2  岩波書店、一九九五年)、青井他編『現代市民社会とアイデンティティ−二一世紀の市民社会と共同性理論と展望−』(梓出版社、一九九八年)。田口富久治『民族の政治学』(法律文化社、一九九六年)
(2)  テオドール・W・アドルノ、木田他訳『否定弁証法』(作品社、一九九六年)
(3)  岩波哲学・思想事典四頁参照。Cf. R. Poole, Nation and Identity, p. 44 seq.
(4)  E・バリバールは「アイデンティティ」の多義性を二つの視角からみる。すなわち、諸個人は唯一の「アイデンティティ」をもつのでないこと、また「アイデンティティ」はつねにそれ自体重層決定されることである。萱野三平「ナショナリズムをどうするか?  エチエンヌ・バリバールのアイデンティティ/暴力編」(『現代思想』、二〇〇〇・五)二五二頁注(49)参照。
(5)  アイデンティティ概念の変容について、西川長夫は多元主義モデル、共和国モデル、三空間並存モデル、そして遊牧民(移民)型の四タイプに分類して考察している。西川長夫『フランスの解体』(人文書院、一九九九年)一九〇頁以下参照。


一  文脈上の「アイデンティティ」概念の多様性


  この概念は様々な文脈で用いられている。以下いくつかの文例を提示して検討してみよう。
  a  「元来「アイデンティティ」はもちろん「同一性」という意味であって、必ずしも人間の心理的主体や「自我」にそくした問題とはかぎらない。ある物質的な対象AがまさしくAであることもまた、その当の対象Aの「アイデンティティ」(同一性)であるし、リンゴとオレンジがどちらも果実という意味では同一であるという事態にも「アイデンティティ」は存在する。前者は個体としてのアイデンティティであり、後者はクラス(集団)としての「アイデンティティ」ということになるだろう。そしてこれらの場合にもやはり、他の個体、他のクラスとの関係抜きには、それぞれの「アイデンティティ」を語ることが不可能であることは、言うまでもない」(細見和之『アイデンティティ/他者性』岩波書店、一九九九、二−三ページ)。この文例では「アイデンティティ」が「同一性」として捉えられ、「個体的アイデンティティ」と「集団的アイデンティティ」との区別を前提に議論が進められている。論点整理としては「アイデンティティ」がつねに他者性との関連で理解されていることに留意しておこう。
  b  次に「アイデンティティ」概念の多様性と使用範囲の広がりをW・E・コノリー、杉田他訳『アイデンティティ/差異』(岩波書店、一九九八)から引用して確認しておこう。「端的に言って、アイデンティティの紛争が国際的な利害の紛争を時としてもたらし、しばしば激化させていると考えるならば、修正型の生きるアイデンティティを探究するのが有益である」(訳書八八ページ)。「あるアイデンティティが少なくとも二つの次元をどのような形で含んでいるのかを考えた方がよいであろう。第一に、アイデンティティは、広がりの次元できっちりと境界画定されていることもあれば、ゆるやかに境界画定されていることもある。かくてキリスト教文化はカソリシズムに自己限定することもあるし、プロテスタンティズムを含むまで広がることもある。……第二にアイデンティティには深さの次元でも色々な違いがありうる。あるアイデンティティは、真理であると自分が思う固有の真理を、自分自身が担うと想定することで、存在論的深さを持つこともあるし、そのアイデンティティが真理であることを信じ、その真理が知識へと翻訳されるであろう日を期待することもある」(訳書八四ページ)。コノリーの場合、「アイデンティティの紛争」という表現に見られるようにこの概念には対抗する複数の実体が想定されている。また、それはある程度の境界線を画定すうる文化的要素として認識され、同時に信念・真理の希求への強さや知識の深さに関わるものとして捉えられている。「アイデンティティ」が他者との関連性において認識されていることは論をまたないが、別の文脈では「アイデンティティ」は「つかまえ所のない不安定な経験」(a slippery, insecure experience, 原書六四ページ)と表現される。
  さらにこの概念を差異について定義する自らの能力と考えた場合には、当然そこに「差異」をめぐる複合的な政治的関係が生じる。すなわち、この複合性のもとでは、「自己アイデンティティ」と「差異」=他者との関係の程度によって様々な「アイデンティティ」が生まれることになる。コノリーの表現を借りれば、それらは「補完するアイデンティティ」、「競合するアイデンティティ」、「否定的なアイデンティティ」あるいは「非アイデンティティ」となる(訳書一二〇ページ)。政治的次元での「アイデンティティ」に限定すれば、それらは分散化され、細分化されてゆくものとして理解されている。
  一方、「集団的アイデンティティ」に視点を移すと、それは社会における行為の基盤と位置づけられる。コノリーによれば「われわれのアイデンティティ」とは、われわれが何者であるか、という問いを基点にしてそこから行為の意味が探究される。このアイデンティティは、概括的に言えば、社会に存在する差異構造に基づいて「社会的に承認されてきた一連の差異との関係において確立される」のである(訳書一一九ページ)。「個人的アイデンティティ」との関連では、それは「自由という水路」によって通じる、とコノリーは考えている(訳書三七一ページ)。結局、彼の場合「集団的アイデンティティ」の概念は先の問いかけにはじまるだけに人間の文化的形成要素のすべてを含みうる広範囲な分野から形成されるものといってよい(1)
  c  「ナショナリズムは、たんに集団的アイデンティティの基盤を提供するだけでなく、こうした集団的アイデンティティが際立った、貴重な達成の結果であることを証明する脈絡のなかで、集団的アイデンティティの基盤を提供している。ナショナリズムは、比較的新しい類型の原理であるといえるが、過去のなかにしっかり投錨されたアイデンティティを得たいという願望に訴えかけていく」(A・ギデンス、松尾他訳『国民国家と暴力』而立書房、一九九九、二四七−二四八ページ)。ギデンスの場合、このように「集団的アイデンティティ」はナショナリズムとの強い連繋のもとに位置づけられ、歴史的過去に根をもつ要素が特徴として認識されている(2)
  以上の文例から分かるように、「アイデンティティ」論の核心は、「私とは何者か」また「われわれとは何者か」という問いにある。だが、私が私であることを証明することは、他者を介在させない限り本来できないであろう。また、「われわれ」と「私」とを同一の次元で論じることはおよそ社会科学の分野では論外の沙汰である。というのは「アイデンティティ」論には私の内なる部分へと向かう次元の問題(たとえば「人格の同一性」)と私と私以外のもの=他者と関わる次元の問題とが交錯するからである。もとより社会的存在と規定される人間にはこの種の問題がつねにつきまとう。自己の存在を根拠づけるものは自己でなくて、他者の目がいる、とすれば、「アイデンティティ」論の要は自己と他者という区別のなかで「他者」を必要とすること、そしてその他者が作り出されること、こうした関係の中でしか自己=私になりえない部分を担う意識・感覚の領域こそ「個人的アイデンティティ」という概念がカバーするものと言える。
  一方、「集団的アイデンティティ」は、「個人的アイデンティティ」の概念が社会からの是認(差異・他者関係を含んだ)という側面を重要視するのに対して「われわれ」という意識の場合、その意識を継承し持続することが必要となる。「われわれ」意識を育む共通の伝承や記憶など持続性を特質とする歴史の役割が概念形成との関連において強調される(3)
  では、「アイデンティティ」はどのように考えたらよいか。さしあたり宮田光雄のアイデンティティ論(『いま日本人であること』岩波書店  一九八五)が一つの手掛かりになる。彼は二つの側面を提示する。すなわち「(一)生まれていらい自分は〈一貫した存在〉として今日まで生きつづけてきたし、さらに今後もそうした延長線上に生きうるだろうという自信=〈自分は何であるか〉という主体性意識の側面。(二)自分という存在、もしくは自分の生き方が自分の生きている社会によって受け入れられているはずだという自信=自己と他者、さらに社会との関係における集団との同一性意識の側面」(同書六〇ページ)。この概念規定にみられる二側面、主体性の意識、また集団との同一性の意識の指摘は重要である。だがこれらの意識が「自信」という表現でくくれるものかどうかについては議論は分かれるのではないか。というのは通常それぞれの個人はある特殊な状況や極限的環境におかれない限り、日常の生活の延長・持続を想定し生きているので、必ずしも各人の能力に対する自己評価を自覚化しているとは言えないからである。「アイデンティティ」の概念について「自信」という要素を組み込むことは重要だが、この点は生きてきたことに対する「誇り」や「矜持」と表裏一体のものとして認識しておくほうが議論を深めるのに役立つと思う。また、集団としてのアイデンティティの場合、それがナショナリズムと密接な関連をもつことはキデンスの言及から確認できる。「アイデンティティ」と「ナショナリズム」との関連性については後に述べよう。
  ところで、すでに述べたことから推量されるように「アイデンティティ」論はすぐれて人間の自己了解に関わる問題領域を含む。すなわち人間が人間自身をどのような存在と考え、またどのように認識するかという古くて新しい問題がそこに織り込まれている。いま「自己」とは「統一された持続する実体」と考えれば、このような自己一人ひとりの=人間はつねに生きる意味を問い、また自己と世界について様々な解釈を下して生きている動物に他ならない。つまり意味と解釈を求める存在といってよい。そしてこうした意識の行為を可能にするものは記憶の働きである。その意味では今田高俊が「自己」とは「連続した記憶の鎖(4)」と捉えたのは正鵠を射ている。ある人間集団にもそれぞれこのような記憶の鎖があることは確かで、一般に過去の記憶は歴史と呼ばれてきた。したがって「アイデンティティ」論に関連する諸問題が歴史の領域と深く交錯するのはいわば当然のことであろう。

(1)  コノリー、杉田他訳『アイデンティティ/差異』で、コノリーは生を可能にする様々な結合の場であるとともに、政治化を必要とする多種多様なズレの場(a site of multiple disjunctions)であるとして「アイデンティティ」を理解している(訳書三〇五ページ)。この概念を二つの「場」の中に捉えていることは注目しておいてよい(原書一六三ページ)。
(2)  A. Giddens, The Nation−State and Violence, Polity Press, Reprinted 1992. 「集団的アイデンティティ」は group identity の訳。idid., 215. 松尾他訳『国民国家と暴力』、而立書房、一九九九年。
(3)  個人のアイデンティティに集団のアイデンティティを対置させ、両者の関係を固定化してはいけない。E・バリバールは「すべてのアイデンティティは個人的だからである」という。つまり社会的諸価値・行為規範・集団的シンボルの領域で構築されないような個人的アイデンティティは存在しないからである。エティエンヌ・バリバール、イマニュエル・ウォーラースティン、若森他訳『人種・国民・階級ー揺らぐアイデンティティ』、大村書店、一九九七年、一七〇ページ参照。
(4)  今田高俊「アイデンティティと自己組織」(青井他編『現代市民社会とアイデンティティ』所収)二七二ページ引用。


二  様々なアプローチによる「ナショナル・アイデンティティ」の概念整理とその問題


  「ナショナル・アイデンティティ」という概念は極めて曖昧な側面が多く、この概念を検討する場合、いくつかの予備作業を通じて複雑な問題が交錯する状況の整理がいる。この概念は、まず「集団的アイデンティティ」の次元の一つとして取り扱う必要がある。そしてもしこの集団の意味を「国民的」、「民族的」あるいは「エスニック」、さらに「政治的共同体」として想定すれば、この次元のアイデンティティ問題の複雑さは直ちに理解できよう。まさにこれらの社会科学上の概念自体が多義性を帯びているので、「集団的アイデンティティ」はアンビバレツなかつ重層的性格をもたざるを得ない。一方、「ナショナル」という概念もまた広く用いられているにもかかわらず、構成主体としての「国民」・「民族」と制度的枠組みとしての「国家」とに関わるものに大きく二分され、その内容規定には曖昧さを伴うことはいうまでもない。
  もちろん社会学などでは自明のものとされる「集団的アイデンティティ」にしろ、その定義に異議を唱える研究者もいる。たとえば、J・W・ラピエールは「集団的アイデンティティ」について社会的事象を説明する道具としてではなく、それを研究対象として捉えようと主張する(1)
  またP・シュレジンガーの場合、「ナショナル・アイデンティティ」という言葉が文化の生産/消費と国民国家の建設との関連性において捉えられ、その言葉の普及過程で使用される様々な言説に考察の力点がある。たとえば、ヨーロッパ委員会の報告書「グリーンペーパー」、「国境なきテレビジョン」の表題で用いられた「ヨーロッパのアイデンティティ」という言葉、また同委員会の別の文書に見られるヨーロッパの「文化的アイデンティティ」という言葉などが取り上げられ、それぞれの論文にみられる表現のレトリック性が指摘された。この論文では「ナショナル・アイデンティティ」は、「集団的アイデンティティ」の特殊形態と見なされ、「ナショナル・アイデンティティ」についてわれわれが語ろうとすれば、そこでは包摂と排除の過程の分析が要求される、と主張する(2)。この種のアイデンティティはまさにある社会での戦略的次元において構成されるものと言える。総じて、「集団的アイデンティティ」とその一形態である「ナショナル・アイデンティティ」の概念が社会科学の分野で使用される場合の問題性が先の論文で指摘されたのである。
  さて、「集団的アイデンティティ」の集団に、たとえば「エスニック」を当て「エスニック・アイデンティティ」として考えた場合、これと「ナショナル・アイデンティティ」との区別が問題となる。「エスニシティ」と「ネイション」との関連について考察したA・スミスの『ネイションとエスニシティ』(The Ethnic Origins of Nations)によれば、「エトニ」とは「共通の名前・血統神話・歴史・文化・領土、これらへの結びつきをもつような人口のカテゴリーだけではない。それは同時に、しばしば博愛主義的な制度として表現されるような、確固としたアイデンティティと連帯感とをもつ共同体である(3)」。この著作では「エスニック・アイデンティティ」という表現が頻繁に使われている。では「エトニ」つまり、エスニックな共同体でのアイデンティティとは何か。それは「エトニ」という集団の感覚・感情・態度であり、文化的な独自性の意識であり、集団的帰属感である。またそれら感情や意識は、集団の起源神話・歴史的記憶・文化・郷土などによって形成されたもので、「エトニ」には他集団に対する優越意識が共有されている点から見れば、このアイデンティティには「エスニシティ中心主義」の傾向が強い。スミスはこの特徴が「あらゆるエトニにとって普通の状態」だという(4)。しかも「エスニシティ中心主義は、独自の神話、記憶・価値・象徴をふくむ共同体の遺産への、ほとんど自己中心的な愛着を、必然的にともなう。このことは、エスニックなアイデンティティの感覚が、部外者を締め出す差異からというよりはむしろ、集団の成員を団結させる共通の要素への傾倒と愛着から発生することを意味する(5)」。スミスにとってアイデンティティとはまず集団的帰属感・共通の要素への愛着である。それは、この「エトニ」において生活するすべての人々がもつ共通経験や価値の概念、共同体の感覚、「われわれ」という感覚から生み出され、人々の結合に際して強く作用する。
  では「エスニック・アイデンティティ」と「ネイション」のアイデンティティ=「ナショナル・アイデンティティ」との区別はどのように考えられているのか。スミスによれば、それまでの人々の集団的帰属意識が「エトニ」から「ネイション」(社会的・文化的連帯)や「民族国家」(彼の場合、国家は公的で究極的には強制力をそなえた制度)へと推移し、同時にこの近代以降に形成された「ネイション」等に個々の人間が強い忠誠心を抱くことにある。言い換えれば、個々の人間に「国家」への忠誠心を強要し、政治と国家に正統性を提供する原理こそナショナリズムに他ならない。
  とくに政治的未来と文化的過去の二重性に制約されるスミスの「ネイション」論の特徴は次の点にある。すなわち「既存のエトニの特質を引き継ぎ、その神話・記憶・象徴に同化するか、さもなければ、みずからの独自の神話・記憶・象徴を作りださなければならない(6)」と述べているように「ネイション」のイデオロギー作用と創出に強調がみられる。近代以降の国家がアイデンティティを創り出すとなると、「ナショナル・アイデンティティ」の概念を固定化して捉えることは問題であろう。すでに触れたようにコノリーが「アイデンティティ」概念について包摂/排除の二分法を基軸に多面的に多重的に分析した視点を導入する必要がある。
  そこで、集合的現象としての「ナショナル・アイデンティティ」論のアプローチにはどのような類型的特徴があるのか、まずこの点について検討してみよう。すでに述べてきたように「アイデンティティ」論は個人の場合では、「私とは何か」という問いに対する探究のプロセスから生まれる自己認識の意識、つまり「自己」の発見を中核に組み立てられる。同様に「われわれ」という集団の場合には、内=仲間・同胞と外=その他の集団・組織(たとえば他民族)との区分をもとに特定集団の「内」意識は広く「外」の世界との境域を明確化する。その意味で「われわれ」意識は集団自体を認識するための座標軸となり、集団自体が社会階層として不均衡で、様々な差異を有しているにもかかわらず、その集団の凝固・結合の役割を果たす。もちろん集合的現象である「ナショナル・アイデンティティ」は、およそある領域をもつ共同体の存在を基礎に形成されるが、前提となる「アイデンティティ」自体が複雑な現代社会では多元的で重層的なものとして構成される。したがってそうした議論の特徴を浮き彫りにするには類型論的認識が役立つと思われる。
  「ナショナル・アイデンティティ」論に関して言えば、集団とはまず政治的共同体が想定され、それとの関連で文化共同体や「エスニック」共同体が議論の射程にはいる。もとより、集団の意識は政治的共同体がどのような形態を形作っているかによって大きく左右される。また領域の規模が拡大すればするほど、その意識が複合的位相になることは指摘するるまでもない。
  さしあたり、スミスが提示している「ナショナル・アイデンティティ」の特徴をあげ、それを手掛かりに論を進めよう。彼によればその特徴とは次のようである。1歴史上の領域、もしくは故国  2共通の神話と歴史的記憶  3共通の大衆的・公的文化  4全構成員にとっての共通の法的権利と義務  5構成員にとっての領域的な移動可能性のある共通の経済(7)。スミスによればこの五つの諸特徴は近代的な「ネイション」の形成に不可欠な要素とみなされるから、「ネイション」と「ナショナル・アイデンティティ」とは相即不離であることが分かる。スミスのいう国家とはもっぱら公的諸制度の意味に重点があり、他方「ネイション」とは人々の文化的・政治的紐帯を意味している。それゆえ、彼の規定からすれば、「ナショナル・アイデンティティ」に「国家のアイデンティティ」という訳語をあてることはできない。
  しかし一般的にはこの「ナショナル」に「国民の」あるいは「国家の」という訳語を用いることは可能である。そして「ナショナル・アイデンティティ」論の混乱の一因は論者たちによる用語の規定に関わる次元にあると思われる。以上の検討を踏まえれば、スミスの「アイデンティティ」論の考察は主に歴史的な発生過程を中心に展開されているといえよう。したがって彼の「アイデンティティ」論は発生論的アプローチと呼んでよい(8)
  次に「アイデンティティ」論の多文化主義的アプローチについて検討してみよう。そしてこのアプローチが「ナショナル・アイデンティティ」論の混乱に一つの方向を与えているように思われる。このグループに分類した論者の一人はチャールズ・テイラーである。「承認をめぐる政治」という論文においてテイラーは、人間のアイデンティティがわれわれの他者との実際の対話を含む関係に反応して形成されると主張し、われわれのアイデンティティの一部には「他人による承認、あるいはその不在、さらにはしばしば歪められた承認(misrecognition)によって形作られる(9)」という。もし個人や集団をとりまく社会環境でこの集団や個々の人に対して、彼らについて不十分な、また不名誉な否定的な像が投影されると、現実に彼らは被害を被り、傷つけられる。逆に彼らが適切な尊敬をうけ、また名誉を与えられるならば、そこに自尊心・誇りの感情が生まれる。
  こうした感情は個人にも集団にも必要であり不可欠なもので、いまそれらを「名誉の観念」と「尊敬の観念」と理解しておくと、他者からの「承認」と自尊心の形で示される「アイデンティティ」との関連は表裏一体のものとみなしてよい。テイラーはさらに「真正さ(authenticity)の観念」を付け加える。すなわち「真正さの観念」とは「人間として存在するうえで、私自身のものである仕方というものが存在(10)」し、自らの人生を私流に生きてゆくこと、そのことは自分の内なる声に忠実に生きることを意味する。それゆえまさに「独自性の原理」が導入されるのである。一方、個人は社会において集団の一員として存在し、社会的に活躍する。つまり社会における自己の社会的役割によって個々人は定義づけられる。テイラーは「アイデンティティ」が問題となる次元を社会における対話とその役割の問題として位置づけた。そして「平等な承認」を根本に据え、私と他者との関係において相互の対話をつうじての平等な尊厳を強調した。このような斬新な考えは、民主主義社会の「アイデンティティ」論として評価できよう。
  なるほどわれわれがテイラーの「承認の政治」に注目するのは「承認」と呼ばれる相互の行為が「アイデンティティ」の生成に不可分な要素と考えるからだ。「ナショナル・アイデンティティ」論の弱点と思われる集団内の心理的次元の理論的考察に「承認」の論理を導入すれば、それは「民族の矜持」などという曖昧な言説の解明に役立ち、自民族中心主義の傾向に陥りやすい議論に異なる回路を提供するにちがいない。
  さらにナショナル・アイデンティティ論のなかで注目されるものに危機論的アプローチがある。そして今日、一般的にはこのアプローチが多い。その理由はグローバル化の進展、すなわち世界のアメリカ的生活様式・価値の浸透に危機感を抱く社会層の意識に対応した言説だからである。また、世界の各地で多発する民族紛争の激化や一国内でのマイノリティ集団によるエスニック運動の顕在化、あるいは先進ヨーロッパ社会(一九七〇年代以降における)「新しい社会運動」の台頭などがいわゆ国民国家の制度的枠組みに衝撃を与えている(11)。言い換えると、強固に見える国家に「ゆらぎの現象」が生じている。それが「アイデンティティ」の危機意識を掻き立てることになる。もちろん危機論的アプローチは古くから用いられており、そうした議論の典型には一国が戦争に敗北した場合によく見られる。議論そのものがナショナルな感情の高揚と不即不離の状態にあることはいうまでもない。
  たとえば、E・ルナンの『国民とは何か』(一八八二年三月・ソルボンヌ講演)や『知識と道徳の改革』(一八七一年)はこの意識なしに成り立たない書物といえる(12)。「ナショナル・アイデンティティ」が危機に見舞われる事態とは敗戦や他国の占領支配の場合が多く、危機意識は広く一般に浸透し深刻な様相となる。したがって危機そのものとその認識や危機のあり方によって論議は多岐にわたる。危機論的アプローチの特色は、人々が国家や祖国の危機に直面して、自らの祖国への義務を痛感し祖国愛に訴えることにある。フランスの著述を事例にとれば、レジスタンス運動に身を投じた著名な歴史家マルク・ブロックの『奇妙な敗北』がある。アイデンティティ論の観点から見ると、そこでは良きフランス人ーユダヤ人ー祖国愛が太い一本の線で結ばれ、ブロックの「ナショナル・アイデンティティ」(フランスへの帰属意識・フランスとの一体化)の強烈さが読者の印象に残るにちがいない。
  「どんな宗教的形式主義とも、人種的と目されるどんな連帯意識とも違うのであるが、私は全生涯を通じて、なににもましてごく単純に自分がフランス人であると感じてきた。すでに長期にわたる家族の伝統によって祖国に愛情を抱き、祖国の精神的遺産と歴史に育まれ、まさにこの組織以外に安らぎを感じることができないこの私は、祖国を熱愛し、全力で奉仕したのだ。私のユダヤ人という資格がこうした感情にいささかも障害になったとは思ったことがない。二つの大戦を通じてフランスのために死ぬ機会は与えられなかった。少なくとも、率直につぎのような証言をすることが許されるだろう。私は良きフランス人として生きたように、良きフランス人として死ぬと」(マルク・ブロックの遺言(13))。
  引用の一文が端的に示すように「祖国」ー「フランス人」は一体として認識され、祖国愛が彼の身体に充満している。一般的に言えば、ドイツに領土を占領されたフランスとは、民主的共和制とヴィシー政府に分裂したフランスであったので、「危機」意識の深刻さは当然のことと言える。だが彼の著作を支える共和主義とその体制擁護まで射程に入れて考えれば、共和制ー祖国ーフランスの思考回路がルソーの思想にまでつながることは直ちに理解できる。ところが、いかなる危機かという「危機」の状況の把握を論外においた場合、概して危機論的アプローチでは「祖国」の概念が根本にすえられることは多い。政治的議論においてこの視点から議論が展開されればいわゆるナショナリズムの論調と共鳴することは必然といってよい。一方、社会の中に発生する様々な退廃現象は、結局、集団的道徳の退廃の議論を招き、「集団的道徳の危機」として認識される。ナショナリズムはこの危機に対応する形で生みだされてくる処方的な言説の一面をもつといえよう。

(1)  J.W. Lapierre, L'identite´ collective, objet paradoxal:d'ou nous vient−il;Recherches Sociologiques 15, 2/3, 1984, pp. 195-205.
(2)  Philip Schlesinger, On national identity:some conceptions and misconceptions criticized, cit., p. 106.
(3)  アントニー・D・スミス、高城・巣山訳『ネイションとエスニシティ』、名古屋大学出版会、一九九九年、三七頁。
(4)(5)  スミス、前掲訳書、五九頁。
(6)  スミス、前掲訳書、一八〇頁。
(7)  Anthony D. Smith, National identity, Penguin Books, 1991. p. 14. アントニー・D・スミス、高柳先男訳『ナショナリズムの生命力』、晶文社、一九九八年、三九頁。
(8)  川上勉、「ヴィシー政府とナショナル・アイデンティティ」、『立命館言語文化研究』第一一巻第四号、三二頁参照。
(9)  テイラー他著、佐々木他訳『マルチカルチュラリズム』、三八頁。テイラーは、人間は他者からアイデンティティを承認される時にだけ、善く生きていくことができると主張し、自分が何者であるかを知ることが、この概念の核心だという。チャールズ・テイラー、岩崎伸訳「多文化主義・承認・ヘーゲル」(『思想』、No. 865)七頁、一二頁。
(10)  テイラー他、前掲訳書四四頁。
(11)  アルベルト・メルッチ、山之内他訳『現在に生きる遊牧民(ノマド)−新しい公共空間の創出に向けて−』、岩波書店、九七年、燈ナ以下参照。
(12)  拙稿「一九世紀末フランスにおける排他的ナショナリズムの様相−反ユダヤ主義の動向を手掛かりにして−」『立命館法学』第二五六号、四一五頁以下参照。もちろんルナンがこの概念を用いている訳ではなく、今日の視点から見て、このような考察が可能となる。危機意識とナショナリズムとの関連は古来多く見られる。
(13)  マルク・ブロック、井上幸治訳『奇妙な敗北』、東大出版会、一九七〇年、二一五頁。


三  ナショナル・アイデンティティとナショナリズムとの関連性


  以上の検討から明らかなように「ナショナル・アイデンティティ」論には論者の立場によって様々なアプローチがある。そしてそれらの議論がナショナリズムと関連性をもっていることは確かだとしても、両者の間にどのような論理的な連関があるのか、という問題になると議論は極めて複雑な様相を呈する。そこでまず、「ナショナリズム」論について大まかな整理をしておこう。A・スミスの『ナショナリズムの生命力』では「ネイションをあらゆる政治的努力の目標とし、ナショナル・アイデンティティをすべての人間的価値の基準とする教義」として「ナショナリズム」が捉えられている(1)。すなわち、彼の場合、ナショナリズムの教義の中核に「ナショナル・アイデンティティ」がある。一方、A・ギデンスの『国民国家と暴力』では「ナショナリズム」は、「集団的アイデンティティの基盤」を提供するものとして位置づけられている(2)。いま、ギデンスのいう「集団的アイデンティティ」の一要素に「ナショナル・アイデンティティ」を含めて考えると、「ナショナリズム」はこうしたアイデンティティの基盤を提供することになる。そう理解するとき、彼の「ナショナリズム」概念はより基底的性格を有するように思われる。「アイデンティティ」と「ナショナリズム」という二つの概念の関連性についての議論では、それぞれの論者が一様にその関連性について言及しているとはいえ、その関連をどのように認識するのかについては、各自の立場によって相違が大きい。
  もちろん、認識の相違が生じる原因の一つは「ナショナリズム」の定義にある(3)。まずE・ゲルナーの議論を紹介しよう。彼は、ナショナリズムによって「国民」が創出されたと主張する。すなわち、農業社会から産業社会への移行過程における資本主義の発展を視野に収めた歴史理論の中で、ナショナリズムがコミュニケーション手段の普及と密接に結びついて形成された、と彼は説明する。というのは様々な工業や商業の経済活動が国家の文化活動、とくに読み書き能力をもつ大衆の形成と連繋し、それらが相俟って思考や行動の共通様式を住民のすべてに普及させ、したがって文化的同質化や画一化を促進させる条件が整備されていくからである(4)。彼の議論では、ナショナリズムの形成に国内の発達するコミュニケーション網の要素が強調される。この点で彼のナショナリズム論は、B・アンダーソンがナショナリズムを文化的起源から捉え、「国民」とは一つの「想像の共同体」であると主張したことと軌を一にする(5)
  ちなみに「アイデンティティ」との関わりで言えば、ゲルナーはこう考える。近代の人間はどんなことをいう場合でも一人の君主や信仰に忠実であったり、領地に帰属するのではない。「ある文化」に帰属するのだ(6)。彼にとって「文化」とはもはやかつて一部の人間の教養、すなわち単なる「装飾品」であったり社会秩序の正当性を確認するものでもない。「文化はいまや不可欠の共有された手段であり、活力である。どちらかと言えば最低限の共有された雰囲気であってその中でのみ、社会の構成員が生き、(色々なもの・引用者)を作り出すことができるのである(7)」。文化とは所与の社会における人々の行為とコミュニケーションの様式であって、したがって文化そのものは多様なものとして位置づけられる。
  ナショナリズム論の視点から見て重要な点は、ゲルナーの「アイデンティティ」概念が文化の多様性という認識のもとに重層化される契機を孕みながら、それを画一化するのが「ナショナリズム」だと彼が考えていることにある(8)。そこで叙上のようなナショナリズム論を仮に文化コミュニケーション型ナショナリズム論と呼んでおこう。
  次にギデンスのナショナリズム論を取り上げよう。彼のいうナショナリズムは、マルクス主義が主張したような支配階級の利害関心が隠蔽された形で表出されるイデオロギーではない。もちろんナショナリズムにイデオロギー的側面があることは否定されていないが、体系的な意味でのイデオロギーとしてそれは捉えられていない。彼の議論では、極めて総合的な視点からナショナリズムという現象が認識されている。それを他の議論と対比した場合の特徴と見れば、総合型ナショナリズム論といってよい。ギデンスによれば、ナショナリズムとは「主権の有する文化的感受性、つまり、境界規定された国民国家の内部における管理的権力の連繋した作用に付随する現象」である(9)。この定義を説明するために彼はナショナリズム現象を構成する次の四つの特徴をあげ、その解明の必要を説く。
  すなわち、1ナショナリズムの《政治》性。つまり、ナショナリズムが国民国家と密接に結びつくこと。2ナショナリズムと工業資本主義との関係。もっと明確には、階級支配と深く関係するナショナリズムの《イデオロギー的特徴》。3ナショナリズムの、いうなれば《心理学的力学》。ナショナリズムを一組の制度化された習わしではなく、むしろ一連の感情や態度と捉えた場合、独特な心理過程がいくつか深く関係しているとする想定に反対することはできないからである。4ナショナリズムとの、とくに《象徴的内容物(10)》。
  このような特徴の解明を通じてナショナリズムを把握しようとする点で、まさに総合型ナショナリズム論と呼ぶに相応しい。
  一方、「アイデンティティ」との関連を問題にする場合、彼がナショナリズムの「心理学的」解釈と呼んでいる分類に注目する必要がある。ギデンスは、すでに述べたA・スミスの『ナショナリズムの生命力』などを参照しつつ、批判の矛先をゲルナーに向ける。ゲルナーはナショナリズムの内容物がナショナリズムの特質や訴求力に有意関連していないと見て、ナショナリズムの内容物にはほとんど言及していない、と批判し、ナショナルな感情の包含する共通の象徴への注意を促す。そしてギデンスは「故国にたいする愛着は、独自な理論や価値の創造とその永続化に結びついており、その由来を「国民の」経験の歴史的に規定された特徴に跡づけることができる(11)」と述べ、これらの特徴こそナショナリズムが繰り返して示す特性の一部だという。およそナショナリズムに関する心理学的解釈が評価されるのは、この側面に分析のメスをいれたからである。ギデンスによれば、心理学的解釈は「人々が一体感をいだく集合体のなかに包み込まれたいという一人ひとりの欲求と結びつけて考えている(12)」。そしてもしこの側面に注目して共同体の構成員の心理・意識を解明しようとすれば、その方法は利用価値がある。
  さしあたり人々が抱く一体感を「集団的アイデンティティ」の重要な形成要素と考えるならば、この欲求の充足は、かつての親族的社会集団では容易であったと思われる。だが、そういった集団が解体した近代以降の社会では、この欲求を充足させる代用物が必要となるに違いない。
  結局、ギデンスが「ナショナリズムの象徴」として理解するものこそ、われわれが想定する「ナショナル・アイデンティティ」の形成に不可欠なものに他ならない。彼にとってナショナリズムとは「その共同体内部のさまざまな集団や階級にとって明らかに矛盾する帰結をもたらす政策に国民共同体全体の支持を結集するために利用できる、そうした感情形態である(13)」。そしてナショナリズムと「集団的アイデンティティ」との関連性についていえば、後者は、感情形態としてのナショナリズムの「心理学的力学」の次元に位置づけられることになる。なるほど「アイデンティティ」論の分析方法を導入すれば、個人や集団の心理過程の側面に接近することが可能となり、従来ナショナリズム感情という表現で片づけられた複雑な側面に光を当てるのが容易になるといえよう。

(1)  A. D. Smith, National identity, p. 18. スミス、高柳訳『ナショナリズムの生命力』、四五頁。
(2)  ギデンス、松尾他訳『国民国家ト暴力』、二四七頁。
(3)  ナショナリズムの概念の根元的なあいまいさについては多くの研究者が指摘している。さしあたりE・バリバール他、若森他訳『人種・国民・階級』によると、その理由を「ナショナリズム」の概念が単独では機能せず、つねにある連鎖の一環をなしていること、その連鎖は中立的なあるいはバイアスのかかった新語によって絶えず豊饒化されているからである。八二頁以下参照。
(4)  E. Gellner, Nations and Nationalism, Basil Blackwell, 1988. pp. 32-33.
(5)  B. Anderson, Imagined Communities Reflections on the Origin and Spread of Nationalism, Revised edition 1991. 白石他訳『想像の共同体』リブロポート、一九八七年
(6)  E. Gellner, op. cit., p. 36.
(7)  Ibid., pp. 37-38.
(8)  Ibid., p. 92.
(9)  ギデンス、前掲訳書、二五三頁。
(10)  ギデンス、前掲訳書、二四八ー二四九頁。
(11)(12)  ギデンス、前掲訳書、二四七頁。
(13)  ギデンス、前掲訳書、二五四頁。


四  「ナショナル・アイデンティティ」・「ナショナリズム」・「国民国家」への視点の転換

−再発見されたナショナリズム論

  われわれは三章にわたって「アイデンティティ」と「ナショナル・アイデンティティ」との関連性についてそれぞれの議論をアプローチの手法と類型論に分類して検討してきた。確かに「アイデンティティ」論自体は多様な展開を示している。また「ナショナル・アイデンティティ」と「ナショナリズム」との関連性について言えば、論者の立場と問題関心の相違によってこうした概念の規定や理論の整理・分類の仕方は各人各様といってよく、議論の展開も極めて複雑多岐にわたる。したがって、「アイデンティティ」にさまざまな形容詞がつけられ叙述される場合、たとえば「文化的アイデンティティ」、「柔軟なアイデンティティ」、「破壊的アイデンティティ」、「自然なアイデンティティ」などはそれらの言葉の意味が文脈の中で曖昧なまま示されると、議論の錯綜は避けがたい。
  とにかく、検討してきた前章の文脈から推量できるように「アイデンティティ」と「ナショナル・アイデンティティ」との連関は明白であるとはいえ、両者の論理的関連性を追っていくと、結局、「アイデンティティ」とは何か、という問いにまた直面することになる。つまりこうした視角からの整理ではトートロジーに陥る。そこで先に触れたコノリーのアイデンティティ論を手掛かりにして、この概念の意味についての確認の作業がいる。
  彼は「私の」アイデンティティについてこう述べる。すなわち「私が選択し、欲し、同意するものというよりもむしろ、私が何者であるか、そして私がどのように承認されているかを意味する。私のアイデンティティは、選択する、欲する、同意するといった行為を生じさせる濃密な自己である(1)」と述べている。つまり「私のアイデンティティ」とは行為を生み出す意志や感情の総体、すなわち「濃密な自己」とその自己についての確認と他者の承認の上に形成される概念的基盤(実体)・心の動き・意識の作用と考えてよい。
  「われわれの」アイデンティティの場合も同様に、われわれが何者であるか、そしてわれわれがそこから「行為する基盤」を意味する。そして「私の」あるいは「われわれの」「アイデンティティ」が一般に社会的に承認されてきた自己/他者という一連の差異の関係の中において確立するものとすれば、「アイデンティティ」の概念の特質はまさにこの差異をめぐる相互の関連性にあるといえよう。
  さて、「ナショナル・アイデンティティ」論をポスト国民国家の時代のナショナリズム論として位置づけるのは次のような理由による。まず、「アイデンティティ」や「ナショナル・アイデンティティ」に関する議論が生じる背景とは何か。具体的にいえば、一九七〇年代の西ヨーロッパにおける「新しい社会運動」の台頭や一九八〇年代後半の東欧社会主義体制の崩壊、またその地域全体での民族紛争の激化、さらにこれらの変化と密接に関わる市場の地球規模での一体化や民主主義の価値原理の普及、つまり「グローバリゼーション」の進行とこうした議論は相即不離といってよい。問題は、それらの動きが国民国家の強固な体制的枠組みを支えてきた主権や国境の概念などに再検討を迫っていることにある(2)。EUの通貨発行権に見られるように従来の国家のもつ主権の枠組みは制約を余儀なくされている。まさに既存の国家は新しい事態に直面し対応を迫られているといえる。その際、再編に向かわざるを得ない国家の課題とは何か。それは新たな政治統合の強化と社会における文化的多様性の承認に他ならない。逆に、現代世界のこうした動きこそ脱国民国家の方向を探るチャンスと捉えることもできよう。ともあれ、現代の課題を考える際、「ナショナル・アイデンティティ」論が重視される必然性はある。
  そこでうえに述べた視角に立って、近代ナショナリズムの論議を大雑把に分類整理し、その作業との関わりにおいて「ナショナル・アイデンティティ」論の射程とその理論的有効性について明らかにしていく必要がある。
  すでに「ナショナリズム」と「ナショナル・アイデンティティ」との論理関連については検討したので、次に国民国家とナショナリズムとの関連性についての整理が求められる(3)。もちろん、両者の関連についての認識はそれぞれ論者の立場によって異なる。われわれの場合、議論を簡略にする必要上、従来の議論を類型化して概括的に捉えておきたい。
  a  近代の国民国家の建設にあたっての政治的情熱・感情としてのナショナリズム(国民主義)。この感情は国家への一体感・統合化を強力に促進する役割を果たす。国家による国民教育の成立に伴い、共通の言語が国家領域の隅々にまで普及する。その結果、共属意識が形成され、文化の同質化が進む。ナショナリズムは国家建設のための政策遂行とイデオロギー面で強い影響力をもつ。
  b  国家本位主義としてのナショナリズム(国家主義)。他国と比較した場合、自民族の文化的優位性が強調されるので、容易に排外主義の傾向に走る。民族自体の優位を人種論から説明するナチスの政治論と文明の優位から説く「文明化ナショナリズム」論とは外見上ことなるが、民族としての国家を中心に据える点では同根といえよう。自国の文化を防衛する側面が強く打ち出されると、文化防衛ナショナリズムとなる。aとbという二つのタイプについて、それぞれ「開かれた」ナショナリズムと「閉ざされた」ナショナリズムとしての二側面から議論することもできる(4)
  c  民族自決・独立運動としてのナショナリズム(民族主義)。歴史的には一九世紀のギリシアやベルギーなどの民族自決・独立運動としてのナショナリズムであり、また第二次大戦後のヨーロッパ列強の植民地に起こった民族解放運動とそのイデオロギーがこのタイプに分類される。この種のナショナリズムでは、「民族」国家の建設と既存社会の改革が結合されているので、革新的な傾向が理論と運動に見られる。
  d  エスニック集団を中核にした少数派のナショナリズム(マイノリティ・ナショナリズム)。これは既存の国民国家の内部における少数派の諸民族の自治・分離独立を求めるナショナリズムといえる。国家への同化を強いられたマイノリティの政治的感情や意識は自らのエスニックな文化の擁護の主張と密接不可分である。「エスニック」の側面を強調することで従来のナショナリズム概念に含意されていた同化・統合の志向よりも分離・独立の志向が強くしめされる(5)。とくに、一国内に居住するさまざまなマイノリティを「エスニック」ナショナリズムの視点から捉えると、このタイプは転換期のナショナリズム論としての位置を占める。しかし分離・独立への志向の側面に限れば、それはCタイプの民族自決ナショナリズムと共通の性格をもっている。
  a−dのタイプに分類したナショナリズム論に対して、一九九〇年代以降のグローバリゼーションを背景にした新しいナショナリズム論、つまり国民国家の動揺とその再編の過程に現れた言説こそ「ナショナル・アイデンティティ」論に他ならない。その中心の概念とは「アイデンティティ」にある。すでにわれわれが指摘したように「アイデンティティ」と「ナショナル・アイデンティティ」との議論における双方向性はその議論の錯綜化を助長するにすぎない。そして循環論法にはまりこむ。つまりトートロジーは二つの概念の関連性について認識する方法に問題があったといわねばならない。なぜナショナリズム論の中心に「アイデンティティ」概念がすえられるのか。この問いが問題を解く鍵となる。われわれ自身はそれまでの世界とまったく異なる世界に生き、人間の経験がそれまでとは根本的に変化せざるを得ない時代に遭遇している。この時代の変容を人間の経験との絡みで考えることが重要と思われる。
  ではなぜそうした言説をナショナリズム論の「再発見」と呼ぶことができるのか。元来、ナショナリズムの特質とは国家の建設と国民統合をめざす、つまり統合化を促進する政策とその事業を支える政治的感情にある。こうした感情はもとより人間の経験にねざしたものである。ところが現代の世界では、国民国家の制度的枠組みの一つである「国境」一つ取り上げてみても、それがボーダレス化し外国人労働者や難民らの移動が起こり、ある国で内乱などが勃発すると、隣国への大量流入の事態が容易に発生する。彼らの一部は経済先進国の繁栄や豊かな生活にあこがれ、自国での貧しい生活から脱却をめざし移動する(6)。一方、既存の西ヨーロッパの諸国家では国境周辺に居住しているエスニック・マイノリティ(たとえばスペインのバスク住民、フランスのコルシカ島住民)がいわゆる同化を拒否して、自らの文化的アイデンティティを主張しその承認を求める(7)。あるいは国境周辺に住む諸エスニック・グループは分離・独立の志向を強め激しい運動を展開する(例えばアイルランドの過激カトリック派)。さらに国連などが人権の普遍性を世界に訴え、自由、平等、民主主義などの普遍的価値観が世界に広がり、これらの価値意識に目覚めた世界各地の民族・エスニック集団が政治的運動を展開し、文化的アイデンティティの承認を要求する。こうした各地域の動きはいわゆる「ナショナリズム」の高揚といえる現象である。
  ところが、カナダやオーストラリアのようなもともと多民族からなる国家の新たな動きへの対応を検討してみると、そこでは多文化主義を政策として採用し、従来の「ナショナリズム」概念では把握し得ない新しい側面が形成されつつある。要するに、グローバリゼーションの進行や情報技術の高度化に伴うマス・コミュニケーションの発達の結果、国民国家の社会的基盤は急速に変化し、一国ー一言語・文化主義から一国ー多言語・多文化主義への変容過程にある。したがって、国家の視点に立てば、政治的統合と文化的多様性を包摂する概念が求められることになる。「ナショナル・アイデンティティ」とはこの要請にこたえものといえよう。この概念のもとにさまざまな言説が展開され、それらがナショナリズム論の現代的形態を形づくっていると考えられる。
  では「ナショナル・アイデンティティ」に関する言説を再発見されたナショナリズム論と規定するのはなぜか。概してナショナリズムはある社会集団の政治感情や意識であり、また人々の愛国心に起因する集合行動である。元来こうした感情・意識や集合行動は社会に歴史的に形成されてきたさまざまな伝統、記憶、神話と象徴などを基盤にしてはじめて生まれる。その場合、社会にあるこうした文化的な非政治的要素が統治の愛国イデオロギー政策の展開や対外的な危機の発生を契機に政治化して強いナショナルな感情をうむ。「アイデンティティ」とは個人のあるいは集団の自己確認とその作業に他ならないし、またその確認のための知的作業の総体と捉えれば、集団の確認作業には共通の言語を媒介にしたコミュニケーションの作用があり、その作業の過程において人々の共属感情が形成される。そこで「われわれ」とは何かという存在論的な問いに政治的な要素を提供するものこそ「ナショナル・アイデンティティ」の特質と捉えてよい。
  さしあたり、「ナショナル・アイデンティティ」に関する言説を次のように分類しておこう。

  a  社会における差異化を承認する国家の政策としてのナショナル・アイデンティティ。
  b  多文化社会・多文化主義(多言語主義を含む)を原則として掲げるナショナル・アイデンティティ。
  c  他者(性)を意識した帰属意識または一体感としてのナショナル・アイデンティティ。
  d  多文化社会を前提にした国民統合の手段としてのナショナル・アイデンティティ。
  e  マイノリティ集団・エスニック集団の政治的・社会的・文化的運動としてのナショナル・アイデンティティ。
  このような諸側面を考慮すれば、この概念を含む言説はナショナリズム論の現代的形態と呼んでよいことが了解されるにちがいない。

(1)  コノリー、前掲訳書、一一九頁。
(2)  さしあたり、加藤節「国民国家のゆらぎと政治学」、山之内他編『ゆらぎのなかの社会科学』(岩波講座社会科学の方法(2)、岩波書店、一九九三年)、六〇頁以下参照。
(3)  関根政美『多文化主義社会の到来』、朝日新聞社、二〇〇〇年、九一頁以下参照。田口、前掲書、二一七頁以下参照。
(4)  M・ヴィノック、川上・中谷訳『ナショナリズム・反ユダヤ主義・ファシズム』、藤原書店、一九九五年。この著作の第(2)部でヴィノックは「開かれたナショナリズム」と「閉ざされたナショナリズム」という二つの分類によってフランスのナショナリズムを概括的に検討している。
(5)  渡辺公三「ナショナリズム・マルチナショナル・マルチカルチュラリズム」、西川他編『多文化主義・多言語主義の現在  カナダ・オーストラリアそして日本』、人文書院、一九九七年、二四頁以下参照。
(6)  本間浩『難民問題とは何か』、岩波書店、一九九〇年、二四頁以下参照。
(7)  宮島喬『コルシカとアルザス−ヨーロッパ統合下の民族地域の統合と分化−」『思想』、No. 863, 四八頁以下参照。またスタンレー・J・タンバイア、岡本真佐子訳「エスノナショナリズム−政治と文化−」、『思想』No. 823, 五〇頁以下参照。


五  ナショナル・アイデンティティ概念の有効性とその論理構造


  「ナショナル・アイデンティティ」論が多角的な側面から議論されることは、こうした分類から明らかである。だがその議論の中核をしめる「アイデンティティ」とは、「私」あるいは「われわれ」という集団の自己認識であり、持続する主体の意識作用が他者との関連において生み出す感情表出の総体でもある。また、自己と他者との差異による独自性の意識と捉えれば、それは社会の中で承認されたいという欲求や人間としての矜持/虚栄心、あるいは栄辱の感情などいずれも人間の特質に深く関わる。したがって、それらが生み出される領域とは差異をめぐる相互の関連性のうちに形成されるとはいえ、この意識・感情自体とそれらが現象する領域も伸縮の幅があり極めて把握しにくい側面をもつ。
  しかもいわば一人の人間の、あるいは人間集団としての社会の経験に深く根ざした「アイデンティティ」はまさにある共同体の前提なしに論じることができない。すでに引用した『ナショナリズムの生命力』の中で、スミスは「ナショナル・アイデンティティ」を多面的な力をもつ複雑な構成体と規定する。すなわち、それは「ネイション」とともに「エスニック、文化的、領域的、経済的、そして法的・政治的といった、多くの相互関連的な構成要素からなる複雑な構成体(complex constructs)である(1)」。しかしこの規定では「ナショナル・アイデンティティ」を構成する諸要素が述べられていても、構成体の内部でそれらがどのように布置されるのか、分かりにくい。つまり個人や集団の心理過程の考察に有効なこの概念は、「構成体」という規定ではすでに述べたような心理的要素を含む領域を念頭に置けば、分析対象に容易に迫れない。この概念に特有の自己と他者との差異をめぐる関連性に注目すれば、個人の心理や集団の心理が社会の自己組織化に果たす機能的側面に視点を定めたうえで、そこでの論理の構造を整理する方が適切と思われる。
  まず、その作業では自己/他者がどのような共同体(国家、地域共同体など)を前提にしているのか。両者の相互の関連性は国家という権力的装置を中心にした制度的枠組みが介在すれば、関係のあり方は大きく変わる。さしあたり、整理にあたっての複雑な作業手続を避けるために関連性自体に注目しておこう。関連性自体に含まれる論理とは結合と排他の対立軸が中心になる。一方の極である結合の軸では、一体性、同一性、同質性などで結合のあり方とその強度を示す。他方の極である排他の軸では個別性、異質性、独自性などで分離の方向と強弱の度合を示す。また結合ー排他の基軸には感情の次元の要素がそれぞれ付着する。すなわち愛着と憎悪、尊敬と軽蔑、名誉と不名誉など。もちろんこうした関連性はつねに社会のなかで歴史的に制約された形でしか形成され得ないから、時間軸と空間軸を除外した議論などありえない。
  叙上のような「ナショナル・アイデンティティ」の論理構造、繰り返せば概念に含まれる結合性/排他性と同時に感情性についていわば三要素の複合化については事例をあげて説明しておこう。たとえば、ある人が他者に認められたいと願うのは、自己愛のためというより、一人の人間として認めてほしいというわれわれに共通する誇りの感情、自尊の念があるからである。感情の次元の問題には、愛情と憎悪のような相対立する複雑な人間心理の絡みがあり、その深層にまで光をあてることは元来難しい。「集団的アイデンティティ」に含まれる負の情念、すなわちルサンチマンが社会に広がれば、自己/他者の関連に決定的な亀裂が生じることはいうまでもない。一九世紀末フランスで「ドレフュス事件」を契機に台頭した反ユダヤ主義は「憎悪」を内包した愛国主義の典型的事例といってよい。ともあれ「ナショナル・アイデンティティ」とはこうした論理と感情の複雑な組み合わせを中心にして、人間集団の感情を組織し、かつそれを動員する機能をもつものといえよう。
  確かに人間の社会的結合には複雑な感情・心理の諸要素が強く作用する。むしろそれは結合行為と表裏一体のものといえるかもしれない。そして社会におけるこうした結合/排他の関連性が緊張をはらみつつ一層統合化を促進するのか、あるいは対立の傾向を助長するのか、それは時代状況の認識を踏まえて考察されねばならない。だが関連性自体は言語、神話、宗教、共通の記憶などの要素や利害の対立なしには生まれない。スミスが指摘したように「ナショナル・アイデンティティ」論が上述の基盤、すなわち文化的な集合意識の総体を前提にした議論だとすると、この概念に「国家的(あるいは国民的)一体感」、「国の個性」などの訳語をあて、矮小化して捉えることは問題であろう。
  言い換えると、「ナショナル・アイデンティティ」の概念の有効性と問題性を問うことにある。元来、思想の領域で使用されてきた「アイデンティティ」の概念は、今世紀の半ば人間とくに青年の心理の病理的解明という問題次元で転用され、その威力を発揮した。それが広く社会科学の概念として政治社会文化現象の考察にまで拡大されたのは比較的新しい。一体、この概念は分析のために有用なものか。すでに検討してきたように「差異をめぐる政治」で使用される「アイデンティティ」とは分析概念であるよりも分析の対象そのものに関わる言説であるといえないか。テイラーが痛感しているように「アイデンティティ」は「とらえ所のない不安定な経験」という側面をもつ。また、「ナショナル・アイデンティティ」の概念を規定したスミスの場合、繰り返していえばそれは多面的な力に重点がある。
  だが一方、個人よりも社会集団の意識や行為の次元での現象・問題を対象とすることの多い社会科学の領域で、「アイデンティティ」概念が使用されていることは、多言を要しない。その用例を検討すれば、概念自体に分析対象の意味と同時に方法としての側面もある。つまり、人間の結合の関連に注目すれば、「アイデンティティ」とは共同体の帰属感情・意識を通して自己を確認し、承認する方法といえる。したがって帰属感情を中核とするこの概念は個と集団(共同体)との関連の二重性、すなわち個の集団への帰属意識、また集団と個人との結合(=帰属)/排他というプロセス(=ある社会集団の自己組織の力)をその集団心理という内側から分析する手段として役立つ。
  他方、「ナショナル・アイデンティティ」について言えば、それは共同体の中で生活する人々の共属感情やその意識の統合化に重要な役割を果たす。したがってこの言葉について「国家的一体感」の訳語のみが付与されるなら、それは政治的感情としての「ナショナリズム」と混同され、イデオロギー的な役割の過剰性が前面に押し出されることになる。もちろん、帰属の基準をどこに設定するかによって「ナショナル・アイデンティティ」論の問題は議論が分かれる。多文化社会における「少数派・エスニシティ」の文化アイデンティティの問題として捉えれば、この概念が「承認の政治」にとって有効であることは論を待たない。しかし、その基準について差異を特権化する「多数派」のアイデンティティととれば、「ナショナル・アイデンティティ」は少数派の排除に向かい、「国民」化のプロセスを促進することになる。すでに指摘したように「ナショナル・アイデンティティ」とはグローバリゼーションのもとでの国民国家の危機に対応して現れた現象であるから、それは国家統合の機能的側面に強く働く。要するに、「ナショナル・アイデンティティ」概念にはおおむね二つの方向が考えられる。まず、第一に脱国民国家の方向を志向する「ナショナル・アイデンティティ」論。そこでは多文化主義のもとにエスニック・グループやマイノリティの異議申し立てを積極的に擁護してゆく。第二に、グローバリゼーションのもとで国民国家の「ゆらぎ」という現象に対して「ナショナルなもの」を基軸に再編成しようとする「ナショナル・アイデンティティ」論。本稿でいう「再発見された」ナショナリズム論とはまさにこのような相対立する二つの傾向が交錯して展開されている現在の状況を意味する。
  ともあれ「アイデンティティ」問題が議論の一つとして注目されるのは、現代文明の進展の中で個人の断片化が進行し、われわれ自身がこの状況に危機感を抱き、一人ひとりが生の意味を問わざるをえないからであろう。分節化された人間の自己回復の欲求がこの問題の根底にあると思われる。つまり、一方に個々のアイデンティティの形成の根拠となる社会組織の多元化と多様化があり、他方に存在の希薄性の感じられる現代の文明社会そのものに問題の淵源がある。個人のアイデンティティの重層化は、個人の社会における部分化、断片化に対応する。したがって個人の次元では全体化の欲求と政治社会の次元ではそうした個々人を統合したいという要請が生まれる。「ナショナル・アイデンティティ」への関心はこうした双方の時代状況に対応する指標設定の意識なしに考えられない。しかもこの概念は政治社会から強く要請されるイデオロギー性と論理を有している。国民国家について論じる場合、この視角からの分析はなおざりにされてはならない。

(1)  A. Smith., National identity, p.15. スミス、高柳訳『ナショナリズムの生命力』四一−四二頁。