立命館法学 2000年3・4号下巻(271・272号) 713頁




ジョン・W・バージェスの政治論

− 民族主義的国民国家の原理 −


中谷 義和



(一)  歴史学と政治学


  第一次世界大戦頃までのアメリカ政治学は、総じて、ドイツの観念的国家論の影響を脱していなかったと言えよう。F・リーバー(Francis Lieber, 1800-72)に緒をえ、Th・ウルズィ(Theodore Dwight Woolsey, 1801-89)に継承された国家論型アメリカ政治学は、バージェス(John William Burgess, 1844-1931)に至って、ヘーゲルの歴史観とブルンチュリの有機体的国家論の論調を強く帯びるに至る(1)。こうしたバージェスの政治論は、アメリカ政治学の知的文脈に即してみると、リーバー以来の「国家」論型政治学の潮流に位置し、個人史的にはドイツ型知的訓練に負うものである。また、歴史的背景に即してみると、アメリカ社会が南北戦争後の連邦国家の再建の課題にのみならず、世紀末の社会的「アキュート・アノミー」状況の克服の必要にも迫られていただけに、さらには、世界が第一次世界大戦へと向かう変動期にあたっていただけに、ヘーゲルの歴史哲学を基礎に「民族主義的国民国家」観に訴えてアメリカの国内統一を期すと共に、チュートン民族の「使命」をもって世界の将来を展望せんとする志向に発するものでもあった(2)
  確かに、一九世紀末に至って「論理・抽象・演繹・数学・機械学は社会研究になじみ得ず、社会生活の豊かで、動態的潮流を包括し得ない」とする視点から、いわゆる社会諸科学における「形式主義に対する反乱(revolt against formalism)」が起こり、政治学もこの方向を強くしている(3)。この点は、「アメリカ政治学会」の初代会長=F・J・グッドナウ(Frank Johnson Goodnow, 1859-1939)が、会長講演において、「政治学は国家と呼ばれる組織を対象とする科学である」としつつも、「国家の動態(state in action)」に政党などの法律(エクストラ・リーガル)の「実践的・実体的問題」をも含め、その分析の必要を指摘していることにも窺われる(4)。こうした動向は、ウィルソン(Woodrow Wilson, 1856-1924)、ローウェル(Lawrence A. Lowell, 1856-1943)、ベントレー(Arthur F. Bentley, 1870-1957)の議会内委員会・政党・利益集団の研究に認められるところであり、既に、国家論的・法的・制度論的アプローチから政治の現実的動態分析への脱却が試みられている(5)。この方向は、やがて、哲学のデューイ(John Dewey, 1859-1952)、経済学のヴェブレン(Thorstein B. Veblen, 1857-1929)、政治学のC・A・ビアード(Charles Austin Beard, 1874-1948)、歴史学のJ・H・ロビンソン(James Harvey Robinson, 1863-1936)に至って、道具主義的・経験論的・実証主義的分析方向を強くすることになる(6)
  したがって、一九世紀末に至って、既にアメリカ政治学の「アメリカ化」ないしドイツ型政治学からの相対的自律化が起こっていたことになる。だが、アメリカ政治学は、なお、歴史学的・国家論的政治学を脱していたわけではない。この点で、バージェスの政治学は、学史的には草創期から形成期の過渡期に位置するだけに、また歴史的にはアメリカ社会と世界の構造的変動期における政治学的営為であるだけに、この局面における歴史学的・国家論的政治学の内実を明らかにする、ひとつの重要な位置にある。
  一八九六年一二月三〇日の「アメリカ歴史学会(American Historical Association)」の講演において(7)、バージェスは、時間と因果の観念だけでは歴史の範疇は成立し得ないとし、継起的事象に占める「増殖(インクレメント)」の契機を重視し、これを「自己発展(self−progression)」の範疇に括り、ここに「歴史」の意義を認めている。バージェスが歴史の自己展開の起動力と駆動力に措定しているのは「精神(geist, spirit)」の契機である。この「歴史」理解において、「歴史的事象は人間精神(スピリット)の創造物」であり、「人間精神の諸理念(アィデァルズ)の漸次的現実化」であると(AHR 2, p. 403)、また、政治の制度と形態は政治原理を媒介とした「精神」の顕現形態であると位置付けられることになる。このバージェスの「歴史」観はヘーゲルの『歴史哲学』を想起せざるを得ないものであるが、この視点において「政治学」の特徴を次のように規定している。
  政治学(political science)は事実に、また事実から論理的に導かれた結論に止まらないものを含んでいる。哲学的思弁という要素を含んでおり、それが真実で正しい場合には、歴史の先触れとなる。政治的事実と結論とが触れ合うと、この理性に訴えて、いまだ実現されていない政治理念の覚醒を呼ぶことになる。こうした理念は、提議(propositions)の形態と結び付けられて、政治学の原理に、政治信条の体系に、さらには法や制度に結実することになる(8)
  かくして、「哲学的思弁」に政治学に固有の歴史的役割を措定し、これを媒介とした「政治理念」の増殖的自己展開に政治の歴史的「現在」が求められることになる。「政治学(political science)」の現代的課題は「主権論・自由論・政府論」の構築にあるとの、また「憲法(constitutional law)」は「政治学の教義の客観的実現」にほかならないとの理解が導かれているのは、こうしたバージェスの歴史観に発しているのである(AHR 2, pp. 405-06)。したがって、「哲学的思弁」が正しく機能するためには、また「哲学的思弁」をもって歴史的「現在」の「行方を照らし、人々の究極的目的へと経験を方向づける」ためには、政治学は不断に歴史に引照される必要があるとする。この視点において、バージェスは、この講演を次のように結んでいる。
  政治学であれ歴史学であれ、それが正しく理解されるためには、政治学は歴史的に、また歴史学は政治的に研究されなければならない。両者を分離すると、死んだも同然とは言わないまでも、不満足なものと、鬼火にすぎないものとならざるを得ない(9)
  歴史が「人間精神の諸理念の漸次的現実化」であると、また「歴史的事実」が諸理念の歴史的「増殖」過程であると考えられている限り、政治学の課題は「哲学的思弁」の歴史と政治的事象の歴史的「現在」を確認し、「哲学的思弁」ないし「政治的理性」をもって将来を展望すべきことになる。こうして、歴史のなかに目的論的方向を、換言すれば、歴史のなかに理性の展開法則を発見しようとする歴史学的政治観がバージェスの政治学の基礎に位置している。この歴史観こそが、次にみるように、「国家」とは「歴史を媒介とした人間理性の漸次的顕在化の所産」であるとする信念に底礎されて、自由主義的「国民国家」をもって現代「国家」の歴史的顕現様式であるとの理解に、さらには、その展開が「明白な定め(Manifesto Destiny)」であり、その担い手はチュートン民族に求められるとする論理と心理に連なってくるのである(10)。バージェスの歴史学的政治学がこのような構成にあるからこそ、政府機構を含む政治現象への法学的・制度論的アプローチも歴史的・理念史的傾向の強い特徴を帯び、比較政治史的検討に傾かざるを得ないのである。

(1)  リーバーとウルズィの政治論については次を参照のこと。中谷義和「草創期のアメリカ政治学−F・リーバーの政治論」(『立命館法学』一九九六年第一号)、同「T・ウルズィの政治論」(『立命館法学』一九九九年第四号)。また、バージェスの略伝については、同「ジョン・W・バージェス小伝」(立命館大学『政策科学』第八巻三号)を参照のこと。
(2)  Jurgen Herbst, The German Historical School in American Scholarship:A Study in the Transfer of Culture, Kennikat Press, 1965, p. 66. バージェスに与えたヘーゲル歴史観の影響については次を参照のこと。Bert James Loewenberg,"John William Burgess, The Scientific Method and the Hegelian Philosophy of History," The Mississippi Valley Historical Review 42, no. 1, June 1955, pp. 490-509.
(3)  Morton S. White, Social Thought in America:The Revolt Against Formalism, Viking Press, 1947, Beacon Paperback Edition, 1957, p. 11. ホワイトは、形式主義ないし「抽象主義(abstractionism)」に対する攻撃は二つの実証主義要素を、つまり、「歴史主義(historicism)」と「文化的有機体主義(cultural organicism)」を生むことになったと指摘している(p. 12)。
(4)  Frank J. Goodnow,"The Work of the American Political Science Association:Presidential Address," Proceedings of the American Political Science Association, Wickersham Press, 1905, pp. 35-46.
(5)  Thomas I. Cook and Arnaud B. Leavelle,"German Idealism and American Theories of the Democratic Community", The Journal of Politics 5, Aug. 1943, no. 3, pp. 213, 236. なお、米独両国の政治理念と政治体制の比較をもって、プロシア的政治哲学からの脱却を試みたのは、第一次大戦中に公刊されたウィロビー(Westel W. Willoughby, 1867-1945)の次の著書である。Prussian Political Philosophy:Its Principles and Implications, D. Appleton and Company, 1918.
(6)  Sylvia D. Fries, "Staatsheorie and the New American Science of Politics," Journal of the History of Ideas 34, July−September, 1973, pp. 391-404;John G. Gunnell,"The Declination of the ‘State' and the Origins of American Pluralism," James Farr, John S. Dryzek and Stephen T. Leonard (eds.), Political Science in History:Research Programs and Political Traditions, Cambridge University Press, 1995, pp. 19-40.
(7)  John W. Burgess,"Political Science and History", The American Historical Review 2, 1897, pp. 401-08(以下、AHR 2, 1897 と略記). なお、「アメリカ歴史学会」は、H・B・アダムズ(Herbert B. Adams, 1850-1901)とA・D・ホワイト(Andrew Dickson White, 1832-1918)を中心に一八八四年に創設され、ホワイトが初代会長に就いている。
(8)  AHR 2, 1897, pp. 407-08.
(9)  Ibid., p. 408. こうした歴史学的政治学は、直接的には、ドイツ留学中に教えを受けたドイツ史家のドロイセン(Johann Gustav Droysen, 1808-84)に負っている。というのも、ドロイセンは「政治とは現在の歴史であり、歴史とは過去の政治である−少なくとも、歴史が国家の領域にかかわる限り」と教えたとされているからである。また、バージェスと同様にドロイセンの教えを受けたH・B・アダムズは、「歴史は過去の政治であり、政治は現在の歴史である」という格言をジェンズ・ホプキンズ大学の自らのセミナーの教学理念とし、また、少なくとも、当初、同大学の歴史・政治学叢書の中心的理念に据えたとされる(Jurgen Herbst, op. cit., 1965, pp. 111-13)。
(10)  バージェスにおけるチュートン民族(ネーション)の特定は一定していないが、『政治学と比較憲法』においては、チュートン民族として「イギリス人、フランス人、ロンバルド人、スカンディナヴィア人、ドイツ人、北アメリカ人」を想定し、彼らをもって「偉大な近代国家の建設者」であると位置付けたと述べている。次のバージェスの自叙伝を参照。Reminiscences of an American Scholar:The Beginnings of Columbia University(以下、Reminiscences と略記), Columbia University Press, 1934;reprinted 1966, AMS Press Inc., 1966, pp. 254, 397.


(二)  国民(ネーション)国家・政府の概念


  〈国民(ネーション)〉  『政治学と比較憲法』(全二巻)は(1)、コロンビア大学の『政治学クォータリー』などへの寄稿論文の体系化であり、「比較の方法」を「政治学と法学」に適用せんとするものであるとしている(PSCCL, I, p. vi)。この書はバージェス政治学の代表的著作に位置し、「政治学(political science)」と「比較憲法(comparative constitutional law)」の二部編成にあり、第一部では「国民(ネーション)」・「国家」・「英米独仏の憲法編成」について、第二部では「憲法における国家組織」・「個人的自由」(以上、第一巻)、「政府の構成」(第二巻)について論じられている。また、第一巻の副題が「主権と自由(sovereignty and liberty)」とされていることにも窺われるように、第一巻では国民・国家・主権・自由の概念など政治学の基礎理論が扱われ、第二巻では、英米独仏の政府(government)の憲法的・機能的構成の、いわば政治原理の具体的適応形態の比較政治史研究にあてられている。この点で、本書の編成とブルンチュリ(Johann Kasper Bluntschli, 1808-81)の国家学的・国法学的アプローチとの対応性については夙に指摘されてきたところである(2)
  『政治学と比較憲法』は「国民(nation)」の概念から出発している。「国民(ネーション)」とは「民族学的(エスノロジカル)概念」であって、「民族的(エスニック)統一体であり、ひとつの地理的統一体である領地に居住している人々(population)にほかならない」と、また、「民族的統一体」とは「言語・文芸(literature)、伝統と歴史、慣習と理非の意識を共有する住民である」と規定している(PSCCL, I, pp. 1-2;Reminiscences, pp. 250-51)。この規定からすると、「国民」とは一定の地域性と文化的・規範的共通性を歴史的に共有する民族的統一体とされていることになる。したがって、「人種(race)」という血縁的要素は民族的統一体の強力な契機とはなり得ても、その不可欠の構成要素とは見なされていない(3)(PSCCL, I, p. 2)。また、「国民(ネーション)」とは「民族的表象(ethnic signification)」であって、「法と政治」に引照される「国家(state)」の概念とは次元を異にするものとされる(PSCCL, I, p. 4)。
  バージェスの民族論に特徴的なことは、その構成要素に「理非」という規範意識の共通性が挙げられていることである。いわば人倫的ないし規範的意識の共通性が「民族」の、したがって、また地理的統一性を有する「国民」の構成要素とされていることである。さらには、「地理的統一体と民族的統一体とが照応すると、あるいは、ほぼ照応すると、まず間違いなく政治的に組織されて、ひとつの国家となる」と指摘している(PSCCL, I, pp. 3-4)。この限りでは、「民族」・「国民」・「国家」の歴史的一体性の把握にあるわけであるから、バージェスの理解は少なくとも近代の「国民(的)国家」については妥当し得よう。だが、他方で、「人間性(human nature)」を「普遍的(universal)」側面と「個別的(particular)」側面に分け、前者が「国家」を、後者が「個人」を形成するとし、さらには、原初的「国家」(「主観的国家(subjective state)」)の創造主体を「政治理念(political idea)」に求め、法や制度の歴史的展開は「政治理念」の客観化過程であるとしている(「主観的国家」の「客観的国家」化。PSCCL, I, pp. 52, 63-4)。この指摘は、人間性に内在的な「普遍性」に国家の「恒常性」を求めているだけに、あるいは、人間存在にとって「国家」を不可避とするという理解にあるだけに、「国家」と「社会」との原理的区別の論理的説明に欠けざるを得ない。この点で、バージェスは、「アナキー」の回避が社会的人間存在において不可欠であるとの、したがって、何らかの規範性の社会的共有を前提とせざるを得ないとの認識において、「国家」の所与性を前提とし、その歴史的展開は、「政治理念」の規範意識化を媒介とした「主観的国家」の「客観化」の過程であり、政治的理性の「漸次的顕在化の所産」であると見なしていると考えられる。
  バージェスは、さらに、国家起源論について論じ、「神学的(theological)」・「社会契約的(social compact)」・「歴史的(historical)」説明に整理したうえで、神学的説明は、国家の発展過程に即してみると必ずしも歴史的説明と矛盾するものではないが、社会契約的国家論は「既に高度に発展した国家生命(state−life)」を前提としているがゆえに、既存の国家形態の変化の説明ないし新しい領土における国家形態の移植の説明原理とはなり得ても、国家「起源」の説明とはなり得ず、「歴史的理論」が最も妥当な説明原理であるとする(PSCCL, I, pp. 60-63)。確かに、社会契約的国家論は国家の原初的起源論とはなり得ないし、歴史的説明が妥当であるとしても、バージェスの国家起源論が発生史的説明にはなく、また「国家」と「社会」との明示的区別にはないだけに、国家と社会の起源と形態の不分明化をきたさざるを得ない。例えば、「神学的」国家は国家の歴史的形態であって、国家起源の説明とはなり得ないからである。バージェスのこうした「国家」把握は、次にみるように、その「国家」理解に発しているのである。
  〈国家(ステイト)〉  バージェスの政治学の中心は民族型「国民国家(national state)」論にあり、そのアプローチはドロイセンとトライチュケを介してブルンチュリに負っている(4)
  ブルンチュリは「国家の理念(Idee)」と「国家の概念(Begriff)」に分け、前者は哲学的思弁に訴えて実現されるべき国家像であり、後者は現実国家の特徴と本質にかかわり、歴史に訴えて発見されるべき概念であるとしている(5)。この方法をバージェスも踏襲している。すなわち、定義を導く二つの様式として、「純粋哲学の過程」(理性の観念)と「帰納的論理の過程」(理解ないし悟性の概念)を挙げ、「国家の理念は完全かつ完結的国家」であり、「国家の概念は展開過程にあり、完成に向かっている国家である」としている。また、「思弁的哲学」に訴えて「理念」を「概念の先導者(パイオニア)」とすることによって、両者の統一を期し得るとし(PSCCL, I, pp. 49-50)、次のように続けている。
  理念の視点からすると、国家とは組織的オ(オーガナイズド)統一体と見なされた人  類(マンカインド)である。概念の視点からすると、組織的統一体と見なされた人類の特定部分である。また、理念の視点からすると、国家の領土的基礎は世界であり、統一性の原理は人間性である。さらには、概念の視点からすると、国家の領土的基礎は地上の特定部分であり、統一の原理は人間性と人間的必要の特定の局面であり、人間性の発展の、いずれの局面にあっても、支配的で、いかんともしがたいものである。前者は完全な未来の現実国家である。後者は過去の、現在の、そして不完全な未来の現実国家である(PSCCL, I, p. 50)。
  引用文にも明らかなように、バージェスは、国家の概念を、いわば「理念国家」と「概念国家」とに、つまり、純粋哲学によって得られる「国家」と帰納的論理ないし経験的検討によって得られる「国家」とに二分し、前者は思弁的理性の所産(論理の帰結)であり、後者は歴史過程における理念の現実化(経験的・歴史的事実)であるとし、分析と説明の対象を主として後者に、つまり「組織的統一体と見なされた人類の特定部分」に設定しつつも、「概念国家」と「理念国家」とは「思弁的哲学」をもって普遍的「世界国家(world−state)」において総合されるものとしている。だからこそ、バージェスは、「理念国家」の展望において「国家とは歴史のひとつの所産であって、その確定的所産ではない」と断言し得たのである(PSCCL, I, p. 67)。
  バージェスは、ヘーゲルにならって「人間性」の「普遍的側面への漸次的従属化」に国家の歴史的展開の契機を認め、「国家」の「究極的目的」を「人間理性の完全な展開」に、「人間の神格化(apotheosis of man)」に求めている(PSCCL, I, p. 85)。だから、国家は「最高の実在(highest entity)」であり、「国家の最高義務は、自らの存在を、また自らの健全な成長と発展を保守することにある」との認識に連なっているのである(PSCCL, I, pp. 43-4)。この文脈において、「国民国家」は、「民族」の近代的実現形態であり、普遍的意識の顕在化としての「世界国家」につらなるものと位置付け、この歴史観において「国家」の目的を「国民性(nationality)の完成」に求めているのである(PSCCL, I, p. 86)。
  こうしたバージェスの「国家観」にヘーゲルやブルンチュリの影響を認めることは容易であろう。というのも、ヘーゲルにあって「国家」とは「倫理的理念の現実性」であり、「実体的意志の現実性」であると、また、ブルンチュリにあって「人倫的実体(sittliches Wesen)」であり、「人倫的義務」を有するものとされているからである(6)。だが、バージェスの国家論において止目しておくべきことは、国家と政府とを峻別すると共に、「国家意志」を国家主権の顕現と見なすことによって「国家」を「政府」の規制主体とし、自由の「源泉と保塁」と位置付けていることである。つまり、主権型国民国家を、いわばヘーゲル的「人倫(sittlichkeit)」の現局面における表現形態であるとし、この「国家」をもって「政府」の絶対化の防波堤であるとの理解を導いているのである。この点は、「政府の背後に憲法が、憲法の背後に始原的主権国家が控え、この国家が政府と自由の基本構造を確定している」との指摘にも明らかである(PSCCL, I, p. 57)。この認識は次のようなバージェスの「国家」の属性の理解に発している。
  バージェスは、アナキーとの対抗において「恒常性(permanency)」を、また、国家内住民の無国家性と国家内国家の排除において「包括性(all−comprehensiveness)」と「排他性(exclusiveness)」を「主権(sovereignty)」と並ぶ「国家」の「固有の特徴」としている(PSCCL, I, pp. 52-53)。バージェスがとりわけ重視しているのは「主権(sovereignty)」であり、これを定義して、「個別主体や主体の結合体のいずれを問わず、両者に対する始原的・絶対的・無制限的・普遍的権力」であると位置付けている(PSCCL, I, p. 52)。この「主権」規定からすると、バージェス「国家」論にあっては、先の「領域性」と「住民」という要素と並んで「主権」が「国家」の不可欠の属性とされているわけであるから、その「国家」概念には、少なくとも、いわゆる「国家」の三要素が内包されていることになる。
  バージェスは「国家」に不可欠の属性として「主権」を挙げると共に、アリストテレスの国家形態分類を踏まえて、主権者の人数をもって君主制・貴族制・民主制の国家形態に分類し得るとしている(PSCCL, I, p. 81)。だが、この分類は、ウィロビーも指摘しているように(7)、バージェスの「概念国家」とは「人類の特定部分」であると、また、主権が国家の不可欠の属性であると観念されている限り、国家主権の人格的主権化の論理が求められることになるが、その明示的論述にはない。これは有機体的国家観を背景とするものであるにせよ、少なくとも、同一空間レベルにおける社会的次元と政治的次元との区別と接合様式の説明が求められる問題でもある。
  バージェスは、以上のように主権的国民国家概念を導出したうえで、「主権」を民族と国民の構成要素である「規範意識」に、つまり「共通意識」としての「国家意識(state consciousness)」に結び付け、さらには、「近代国民国家」の主権的表現は「民衆主権(popular sovereignty)」であり、これが「国民的国家意識(national state consciousness)」であるとし、「憲法改正権(amending power)」は、その法的表現形態にほかならないと位置付けている(PSCCL, I, p. 54)。こうして、「民族」の構成要素のひとつである規範意識の共通性という契機は「国民的国家意識」と、さらには「民衆主権」と結び付いて、「民衆主権的国民国家」の概念が導出されることになる。この視点において、「所与の国家の住民大衆が理非について、また政府と自由について意見の一致を見ないあいだは、民主的国家は存在し得ない」との、あるいは、「民主的国家は国民国家であるはずであるし、国家住民が真に国民的意志をもつに至った国家は、必ずや、民主的国家にならざるを得ない」との判断が導かれるのである(PSCCL, I, pp. 81-82)。
  かくして、規範意識(心理的契機)・国民(民族的契機)・民衆主権(政治的・法的契機)の複合的一体化のなかに「近代の国民的民衆国家」の歴史的「先導性」を認め、この国家をもって「最も完全かつ明確な主権的組織体である」と位置付けられることになる(PSCCL, I, pp. 55-56)。バージェスの政治学的論述の主たる対象が「都市国家(city−state)」や「地域国家(country−state)」(ローマ帝国)ではなく、近代の「国民的地域国家(national country−state)」の歴史的論述形態をとるのは、こうした文脈においてのことである(8)。だが、「国家意識」は規範意識の実践主体とはなり得ない。ここに「基本法(憲法)」と「政府」が登場せざるを得ないことになる。この点で、バージェスは、「国家目的」の実現に即して、その三段階を次のように説明している。
  第一に政府と自由の組織化が求められることになるが、これは、最高度の個人的自由と矛盾することなく政府に最高度の権力を与えるためである。そのために、次いで、個別国家の国民的資質(genius)の発展と完成が期され、慣習・法・制度に客観化されるべきものとなる。こうした視点が供されることによって、最終的には、世界の文明が全面的に検討・図示・精査され、衆知されることになろう。……この流れを逆転しようとすると、部分的であれ全体的であれ、成功し得ないものである。政府よりもまず自由を、国民秩序よりも世界秩序を実現しようとすると、この国家は、直ちに、解体とアナキーの危機に瀕することになる。これでは、初めから、やり直さざるを得ないことに、自然と歴史の既定の方法と流れに即して対処しなければならないことになろう(PSCCL, I, p. 89)。
  こうした歴史学的国家観にバージェスの「自由主義国家」論の起点が存在しているのであるが、それが発展段階論と民族主義的政治資質論を基礎としているだけに、後に見るように、現局面における「国家」は「国民国家」段階であるとの認識とチュートン民族の「政治的資質」の一体的理解において、自由主義的「国民国家」論は「民族主義的・帝国主義的国家」論となってあらわれる。
  〈政府と自由〉  バージェスは、「政府(government)」とは「国家によって創造された機関」であるとし、「国家」と「政府」との峻別の必要を繰り返し指摘すると共に(9)、「自由とは、政府と同様に、国家が創造したものにほかならない」と述べている(PSCCL, I, 88)。したがって、「自由」とは人間存在に生得的権利ではなくて「国家」において成立する理念にほかならず、その範囲は「文明」度に制約された相対的社会観念にすぎず、この認識を欠くと「普遍性」は退き、「個人主義の野蛮(barbarism of individualism)」が浮上することになるとする(10)(PSCCL, I, pp. 89, 177)。こうした「自由」の歴史的制約性の観念に保守的政治観を読み取ることは容易なことであろうが、社会における「自由」の有意性と「自由」に内在的なアナキーとの原理的対立から、規範意識の共有を嚮導概念として、「自由」と「国家」とは相即的連関構造にあるとの理解が得られているのである。この点で『政治学と比較憲法』は次のように指摘している。
  国家、つまり究極的主権者のみが個人の自由の構成要素を規定し、その範囲を定め、その享受を保護することができる。したがって、政府を創造・維持・破棄し得る権力に訴えて、個人は、この領域について政府から保護され、また、この権力に訴え、政府を介して別のあらゆる侵害からも守られることになる。この権力自体に対抗する手段を個人が持ち合わせているわけではない(PSCCL, I, pp. 176-77)。
  引用文からすると、「自由」は「国家」に発し、「国家」に帰着することになる。したがって、バージェスにおける「自由」と「国家」との相即的理解にあっては、「自由」の内実規定と保全が「国家」に求められているわけであるから、あるいは「国家」において「自由」が実現すると理解されているわけであるから、「自由」は不断に「国家」に媒介されざるを得ず(「最高の実在」論)、「自由主義的国家主義」と「国家主義的自由主義」の両面性を帯び得ることになる。また、「国家」と「政府」との峻別は理論的に至当であるとしても、両者の一体化の擬制メカニズムや「政府」による「国家」の凝集化と総括の機制が問われなければならないのであるが、「国家」の不可避と相対的無謬性および主権の至高性が前提とされているために(PSCCL, I, p. 57)、自由権の侵害は「政府」の「国家意識」(主権意志)からの乖離に求めざるを得ないことになる(11)。かくして、バージェスの行論は「自由権」の保守と「政府」の規制メカニズムの模索において「政府」形態論に連なる。
  バージェスは、「国家」の形態と同様に、「政府(government)」形態も統治機構を構成している人々の人数に従って君主的・貴族的・民主的形態に分け得るとし、さらには、(i)直接型(immediate)と代表型(representative)、(ii)集権型(consolidation)と分権型(distribution)、(iii)世襲型(hereditary)と選出型(elective)、(iv)大統領型(presidential)と議会型(parliamentary)に分けている(12)(PSCCL, II, pp. 1-16)。
  第一の直接型と代表型分類とは、国家が政府の機能を直接的に行使しているか、それとも統治権が国家とは別の組織体に委ねられているかによる分類とされ、したがって、直接型政府形態には国家の三形態に則した政府形態があり得ることになるが、この形態は、直接民主的政府形態を含めて「専制的(despotic)」形態とならざるを得ないとする。また、「代表型政府(representative government)」を「専制的代表政府」と「立憲的(constitutional)代表政府」に分け、前者は国家権力の政府への全面的・無限定的委譲型政府であり、後者は政府権力の限定的委譲型政府であるとすると共に、カエザル主義(caesarism)やボナパルティズムは民主的国家の君主的政府形態であるとし、「未成熟」型民主政にあっては、「人民の、人民のための、人民の最善の人々による」政治が、つまり「民主的国家における貴族的政府」が望ましいと位置付けている(PSCCL, II, p. 4)。
  第二の政府形態分類は権力の配分様式に則した分類であると位置付け、(1)中央集権型(centralized)と二元型(dual)、および(2)統合型(consolidated)と調整型(coordinated)に分けられ得るとし、二元型は、さらに、連合(コンフェデレイト)政府と連邦(フェデラル)政府に再分類され得るものとしている(13)。また、(2)の形態は政府機構における集権型と分権内調整型に則した形態分類とされる。そして、第三の政府分類は政府権力の保持ないし就任形態に則した分類であり、第四の分類は立法部と行政部の関係に則した政府形態の分類であるとしている。
  『政治学と比較憲法』は、以上のような国家と政府の形態分類を踏まえ、さらには、英米独仏の憲政と政府編成の比較検討にあてたうえで、「政治の世界」は「共和主義(republicanism)」の趨勢にあるとしている(PSCCL, II, p. 38)。また、アメリカ合衆国の政府形態を「権力の制限された(limited)民主的代議政府」であり、連邦型・選挙型・調整型・大統領型の特徴にあるとの結論を導くと共に、この形態の先駆性を指摘している(PSCCL, II, pp. 17-21, 39-40;Reconciliation, p. 379)。こうした政府形態の比較検討も、バージェスの歴史観と結合して、次にみるように、「チュートン諸国民(ネーションズ)の明白な使命」(PSCCL, I, p. 47)論に接合することになるし、また、その意識に発しているとも言える。

(1)  Political Science and Comparative Constitutional Law(以下、PSCCL と略記), 2 vols., Ginn & Company, 1891. 本書の書評としては次がある。Annals of the American Academy of Political and Social Sciences, I, 1891, pp. 681-85;Westminster Review 135, 1891, pp. 541-46;English Historical Review 7, 1892, pp. 388-92;New Englander and Yale Review 54, 1891, pp. 471-86. なお、いまだプリンストン大学の教授職にあったウィルソンは長文の批判的書評を寄せ、バージェスにあっては、「論理の方法」としての法学と「生命(life)の解釈の方法」としての政治学の区別に欠け、したがって、論理的分析(演繹)には秀でていても、歴史解釈(帰納)の方法の点では弱点が認められると指摘している。A System of Political Science and Constitutional Law, Atlantic Monthly 67, 1891, pp. 694-99 (reprinted in R.S. Baker amd W. Dodd, eds., The Papers of Woodrow Wilson, vol. I, pp. 187-98, Harper & Bros., 1925). また、『ザ・ネーション』誌は『政治学と比較憲法』に書評を寄せ、バージェスの形而上学的国家観を構成している「意識」の概念が彼の国家論を支持しがたいものとしていると位置付けている(The Nation 53, no. 1369, 1891, pp. 240-41)。
(2)  Bernard Edwin Brown, American Conservatives:The Political Thought of Francis Lieber and John W. Burgess, Columbia University Press, 1951, reprinted 1967, AMS Press Inc. p. 120;W.W. Willoughby,”The Political Theories of Professor John W. Burgess, Yale Review 17, May 1908, p. 64. ブルンチュリ『一般国家学(Allgemeine Staatslehre)』の英訳は次である。The Theory of the State, translated by D.G. Ritchie, P.E. Matheson and R. Lodge, Clarendon Press, 1885;reprinted 1971, Books for Libraries Press. 英訳版に従えば、「国家学(Staatswissenshaft)」に「政治学(Political Science)」の訳語があてられ、政治学とは「国家(Staat)」の「基盤(Grundlagen)」・「本質(Wesen)」・「現象形態(Ersheinungsformen)」・「展開」の科学であり、「国法(Staatsrecht, Public Law)」と「政治(Politik, Politics)」から、つまり、国家の編成と存続条件および国家の生命と行為からなる「人倫的実体(Gehalt)」を対象とするとしている(pp. 1-3)。また、ウィロビーは、『政治学と比較憲法』の多くが比較憲法論に割かれていることをもって、バージェスは「政治理論家というより、憲法学者と呼ぶにふさわしい」と位置付けている(Willoughby, op. cit., 1908, p. 83)。なお、ドイツにおける「国家学(Staatslehre)」は、イェリネク(Georg Jellinek, 1851-1911)の『一般国家学(Allgemeine Staatslehre, 1900)』(芦部ほか訳、学陽書房、一九七四年)に至って、「国家」は「根源的支配権を備え、一定の土地に定着している人間の団体的単一体である」(国家三要素説)とされるとともに、新カント派的二元的構成において「国家両面説(Zweiseitenstheorie)」から法学的国家概念と社会学的国家概念との峻別が起こり、前者がケルゼンの純粋法学に、後者はヘラーの国家学に継承されたとされる(『政治学事典』、平凡社、一九五四年、三八ー三九頁)。
(3)  「人種(レイス)」の共通性を「国民」の構成要素から除外し、「理念的・民族(エスニック)的」共通性が挙げられていることからみても、「レイス」と「エスニシィティ」は区別され、したがって、「国民国家」は多人種から構成され得ることになるし、また、北アメリカに認められるように、「ネーション」は地理的に分離されて複数の「国家」を構成し得ることにもなる。
(4)  バージェスの国家観批判については次を参照のこと。Bernard Crick, The American Science of Politics:Its Origins and Conditions, University of California Press, 1964, pp. 97-99(内山・梅垣・小野訳『現代政治学の系譜−アメリカの政治科学』、時潮社、一六四ー六八頁). Daniel T. Rodgers, Contested Truths:Keywords in American Politics since Independence, Basic Books, 1987, pp. 164-65.
(5)  J.K. Bluntschli, op. cit., 1971, pp. 15, 26.
(6)  藤野・赤澤訳「法の哲学」(『ヘーゲル〈世界の名著35〉』、中央公論社、一九六七年、四七八、四七九頁)。J.K. Bluntschli, op. cit., 1971, p. 2.
(7)  W.W. Willoughby, op. cit., 1908, p. 75.
(8)  AHR 2, 1897, p. 403.
(9)  John W. Burgess, The Reconciliation of Government with Liberty(以下、Reconciliation と略記), Charles Scribner's Sons, 1915, p. 98;id., The Sanctity of Law:Wherein Does It Consist?, Ginn and Company, 1927.
(10)  この視点において「不可譲の自然権」は「全く非実践的で不毛な」、「非科学的で錯誤に満ち、かつ有害である」と指摘している(PSCCL, I, 88, 175-76)。
(11)  バージェスが「個人的免除権(individual immunity)」として挙げているのは、(i)財産権、(ii)身体的自由権、(iii)精神ないし思想と表現の自由権である(Recent Changes in American Constitutional Theory, Columbia University Press, 1923, p. 19)。
(12)  普選の制度化以降、「代議制政府(統治)(representative government)」とは人民の代議を意味することになるが、バージェスにあっては、「政府」とは人民主権型国家を含めて「国家」主権の代議機関を意味している。
(13)  連合型システムにあっては、「幾つかの国家、同数の地方政府、ひとつの中央政府」からなるのに対し、連邦型システムにあっては、「ひとつの国家、ひとつの中央政府、幾つかの地方政府」からなるとしている(PSCCL, II, p. 6)。したがって、アメリカ合衆国というひとつの国家にあって、全統治システムが連邦型(フェデラル)の形態にあることを明確にしている。


(三)  民族主義的国家観


  バージェスは、『統治と自由との調和』の冒頭において次のように指摘している。
  アジアの特質は政治的であるというより宗教的なことに、他方で、ヨーロッパの特質はすぐれて政治的なことに求められる。……殆どすべてのアジア国家は神権政治ないし神権型原理を基礎とした専制政治(despotism)である。こうした国家は統治のために自由を犠牲にしており、統治と自由との調和という問題が存在するという明確な認識すらない(1)(Reconciliation, p. 1)。
  バージェスは、国家と政府の形態に異同はあれ、とりわけ英米独のチュートン系民族に(1)「個人の価値と個人権」の尊重、(2)「地方自治の原則」、(3)「国民国家」を基礎とした民主的制度、(4)文明と文化の高さ、この点で高い「倫理的・政治的合意(コンセンサス)」が認められるとし(2)、「チュートン民族の政治的資質」が近代の「国民的民衆国家」の成立を導いたとしている。すなわち、『政治学と比較憲法』は、近代ヨーロッパと北アメリカの諸民族の基盤となった「主要人種」として、ギリシア・ラテン・ケルト・スラブ・チュートンの人種を挙げ、各人種の「政治心理」を歴史的に辿り(PSCCL, I, pp. 30-37)、次のように指摘している。
  国民国家は、したがって、世界がこれまで生み出した政治組織の全ての問題の最も近代的で最も完全な帰結である。また、それがチュートン的政治資質から生まれたものであるという事実は、チュートン諸国民がすぐれて政治的諸国民であることを示すものであり、世界の経済にあって、諸国家の成立と行政の指導力を担い得ることを裏書きするものである(PSCCL, I, 39)。
  かくして、バージェスの「民衆的国民国家」論は、テュートン民族を、いわば「規範民族(Normal Volk)」(J・G・フィヒテ)と位置付け、その「政治資質」による「文明化」の枠内に限定しながらも、帝国主義的植民地政策の正当化論を導いている(3)。この点で、『政治学と比較憲法』は次のように指摘している。
  野蛮(barbarism)状態には人権など存在しない。文明諸国家は未開住民に対して要求と義務を負っている。つまり、文明化されるべきことを求めるべきである。自ら文明化し得ないのであれば、自らのために、これをなし得る列強(powers)に服すべきである。文明国家は組織化を課すに強力(force)の行使にまさる行動を正当に行使し得る。野蛮住民がこれに強力に抵抗するのであれば、文明国はその居住地を清め、文明人の住処とすることができよう(PSCCL, I, p. 46)。
  「歴史」とは「人間精神」の「自己展開」であるとするバージェスの歴史観は「概念国家」としての「国民国家」に近代国家と近代的政治体制の顕現形態を認め、「理念国家」の展望において、チュートン民族の「植民地政策」をもって「世界を政治的に組織する」必要があるとの認識に連なっているのである(PSCCL, I, pp. 45-48)。
  だが、こうした発想はバージェスに限られるものではなくて、ブルンチュリも「アーリア精神」に「国家と法の理念」を認め、「その他の人類を教化すること」に歴史的使命を求めているし、ヘーゲルにあっても、その歴史哲学においてゲルマン民族が歴史の目的に沿うものであると認識されているのである(4)。この点で、バージェスも同様の民族主義的歴史観において、「ドイツは、英国(Great Britain)が合衆国の母国であるように、英国の母国」であるとし、このチュートン系民族にあって、国民国家を基礎に個人権と自由の観念や地方自治(local self−government)の制度化と民主化を、さらには「文明化」をみたとしている(5)。後年、バージェスは、『政治学と比較憲法』の執筆主旨を説明して、「国民国家が、つまり自覚的民主政が政治史の究極目標(ultima thule)であることを明らかにすると共に、今や、チュートン型体制を未組織で無秩序な、あるいは粗野な人々に、彼らの文明化のために課すことを、また世界社会に組み入れることを正統化するものである」と述べている(Reminiscences, p. 254)。
  以上のように、バージェスの民族主義的国民国家論は、「概念国家」の現状認識と「理念国家」の模索と展望において、チュートン系民族の歴史的「使命」論に連なっているのである。こうした国家論は、ドイツ的歴史認識を背景としているだけでなく、この局面においてアメリカ思想の転換を呼んだとされる「進化論的自然主義(evolutionary naturalism)」も大きく影を落としているとされる(6)
  バージェスの政治論は、「国家」と「政府」との峻別論に立ち、「国家」に「自由」の「保塁」を、あるいは「自由」の実現を「国家」に求めるものであるだけに、世紀転換期から第一次世界大戦の終了期にかけての現実のアメリカ政治の展開に即してバージェスの所論を辿ってみると、「国家主義的自由主義」の理念とアメリカにおける「自由主義国家」の歴史的・相対的自己完結性の認識において、その行論は思いの外に極めて批判的展開をみせるのであるが、この点はアメリカ政治史の現実を踏まえて明らかにしなければならない。また、バージェス政治論のアメリカ政治学に占める学史的位置の論述も求められるが、この作業は別稿に譲ることにする。

(1)  「明治憲法」下の日本については、「帝国的専制(imperial autocracy)」にあり、「皇帝のための法・法令・統治行政の完全な体系」であると位置づけている(PSCCL, II, p. 12)。
(2)  John W. Burgess,"German, Great Britain and the United States," Political Science Quarterly(以下、PSQ と略記)19, no. 1, March 1904, pp. 1-19.
(3)  この点については、次も参照。John W. Burgess,”The Recent Pseudo−Monroeism, PSQ 11, no. 1, March 1896, pp. 44-67. 同様に、H・B・アダムズは中央ヨーロッパのチュートンの森に民主的制度の起源を求め、ドイツ人民によってイギリスとアメリカに伝播したとし、その形跡をニューイングランドのタウンやケンタッキー山地住民などに辿っている。だが、一八九三年の「アメリカ歴史学会」で、ターナー(Frederick Jackson Turner, 1861-1932)が「アメリカ史におけるフロンティアの意義(The significance of the frontier in American history)」においてアメリカ西部の歴史的役割を強調し、こうしたアメリカ民主政のヨーロッパ起源説は批判されることになる。
(4)  Jurgen Herbst, op. cit., 1965, pp. 120-21. 一九〇二年夏に、バージェスはローマ史の泰斗=モムゼン(Theodore Mommsen, 1817-1903)に会見した折りに、モムゼンは、独英米の主要チュートン三民族の友好と相互理解が世界の文明化に決定的位置にあり、折に触れて、この教義を広めることを勧めたとされる。次を参照。J.W. Burgess, op. cit., March 1904, p. 1.
(5)  Ibid., pp. 3-6.
(6)  Georg G. Iggers, The German Conception of History:The National Tradition of Historical Thought from Herder to the Present, Wesleyan University Press, 1968;Paul F. Boller, Jr., American Thought in Transition:The Impact of Evolutionary Naturalism, 1865-1900, Texas Christian University, 1981, pp. 214-15. この頃、日本は、西欧諸国に比肩し得る国家形成を目指した段階から、日清・日露の両戦争に見られるように、帝国主義列強に伍する国家へと変貌しつつある局面を迎えている。