立命館法学 2000年3・4号上巻(271・272号) 234頁




家族と政治


岡野 八代


 

 

序、なぜ、「家族と政治」なのか

  政治思想/理論を「政治的なるもの」を分節化するのための思想/理論と考えたとき、なぜ、政治思想/理論においては家族に関する議論が少ないか、という疑問はそもそも成立しないのかもしれない(1)。というのも、「政治的なるもの」の分節化を可能にしているのが、政治的領域からの「家族=政治的でないもの」の排除であると考えることができるからである。
  だが、たとえば、七〇年代以降の第二波フェミニズムが発見したように、近代家父長制(2)という装置は、私的領域=家族内に女性を拘束し、その内部において/へと女性(の自由)を束縛することによって公的領域における男性支配に加担している、という見解が正しいのだとすれば、政治と家族がそれぞれ別個の領域で、かつ、無関係に存在しているとは考えがたい(3)
  むしろ、これまでのさまざまな研究領域におけるフェミニズム理論の知見を総合すると、「政治的なるもの」を支えている、また、「政治的なるもの」の性格を決定している、あるいは、その存在を可能にしているのは、政治の領域からの「家族」の排除ではないか、と問うことができるはずである。
  しかし、このような疑念は、単純に「家族」も政治的である、として家族そのものの歴史をもう一度振り返ることによっては解消されない。なぜなら、「家族」の歴史を語ってしまうことで、逆に、「家族」をそれ自体で存在してきた実体として扱ってしまう恐れがあるからだ(4)。そこで、この論考は、いかにして「家族」は「政治的なるもの」の存在を支えている/きたか、あるいは、いかにして「家族」は家族をとりまく「政治的なるもの」によって構築されている/きたか、という両者の構成・被構成のあり方を探ることを目的とする。
  右の目的のために、本論考をつぎのように進めていきたい。まず、「なぜ政治思想/理論は、家族を語ってこなかったのか」、あるいは、「語ることができなかったのか」という筆者が抱いた初発の疑問そのものを成立させている視座をずらすことを試みる。というのも、この疑問は家族と政治は違う、ということをそもそも前提としているように思われるからだ。そうではなくむしろ、家族は、そして、家族に関わる事象は、政治的な議論の対象にはならない、と,論じ続けられたことが、逆説的にではあれ、家族は政治の中心であったことを明らかにできるような視座が必要となる。この中心こそが、触れてはならないほど政治が依存しきっていた核心であった、と示し得るような視座が。
  そして、そのような視座の移行の後に、現在の家族構成の変化や多様化、また、家族内におけるもろもろの関係性や事象を見たとき、政治的領域において当然視されてきた諸価値を意味づけし直す可能性もまた見えてくることを示してみたい。つまり、現在の家族構成の変化や多様化は、これまで自然なもの、自明なもの、所与のものとして現在の政治のあり方を支えてきた(あるいは、支えねばならないとみなされてきた)家族が、反対に、現在の「政治的なるもの」と考えられてきた諸価値、諸制度に対して、異議を申し立てているのだ、ということを明らかにしたい。政治的なるものと政治的ではないものは、いったいだれが/何が決定しているのか、と問うことによって。
  本論考では、家族はなぜ政治思想/理論のなかで政治的領域ではないと常に語られてきたのか、この語られ方には、なにか重要な政治的問いかけの契機となるようなものが隠されてはいないか、という問いかけを通じて、家族を政治思想/理論の内部で論じる可能性を探り、そのことによってこれまで自明のごとく語られてきた「政治的なるもの」を再検討・逆照射してみたい(5)

一、「家族と政治」を疑ってみること


  まず、「家族と政治」と、二つの名詞を並べてみる。そのうえで、あえて筆者が問いたいのは、いったいなぜ、このような並置が可能なのか、という問いである。この並置を可能にしている「と」とは、どのような役割を果たしているのだろうか。「と」を挟んで両項は、全く異なるものとして存在しているのだろうか(家とそこに住むひとびとのように)。それとも、この「と」が存在しないならば、両者は区別できない相対的な区分にすぎないのか(上下・左右のように)。アリストテレスが『政治学』第一巻において、ポリス「と」家族を、そこでひとびとがどのような関係性を持つかによって区分したように、たしかに、政治と家族とは、全く異なる領域であるように思われる。

アリストテレスにしたがえば、家族は熟慮を経た目的によってではなく「自然の衝動」によって形成された。私的領域、つまり家族の目的は、基本的な生物学上のニーズを充たすことであった。「日々の同じように充たされなければならないニーズを満足させるために自然に形成された第一の人々の集まりとは、すなわち、家族である」と。他方、公的領域、すなわち、ポリスは、「単なる生活」の必要を越えて、その代わりに、「善き生活」のために存在している、というわけだ[Arneil:1999:31. 強調は引用者]。
  政治思想史の代表的な古典において、家族が語られる場合は、政治的ではないものとして、政治とは区別されるようにして語られてきた。また、主流の政治思想史を批判的に読み解き、「家族と政治」という二項対立の図式を疑うフェミニストの政治理解においても、問題とされるのは、家族と政治の間に存在する階層的な価値の序列である場合が多い。つまり、批判されるべきは、もっぱら政治に人間の価値の実現を見、家族にはそれに対する補助的役割しか見ない、という見方である。言いかえると、「家族と政治」という枠組みそのものは、疑われることがなかった(6)
  たとえば、そのような関心の下で政治思想史が再読される場合、その再読が目的とするのは、女性にも「男性におとらない評価をあたえられる」ために、「性支配の実体と、性支配の組織としての家父長制と、そしてそれに抵抗する女性の姿勢とをよみとること」[水田 1973:16-17]と設定される。こうした「女性史」の観点からは、男性支配への抵抗として、周辺的、あるいは、エピソードとして語られる「女性」を語らざるをえない。というのも、問題は、「人間はすべて、社会あるいは国家と、家族というふたつの組織に属しているけれども、その属し方は性によってちがう」[ibid:14]ことにある。そして、以上のことが問題とされるがゆえに、男性とは異なる方法で、社会あるいは国家と、家族というそれぞれの領域に属している女性を主題として描写することが、まず第一の目的とされるからだ(7)
  だが逆に、水田珠枝の言葉を借りれば「社会あるいは国家と、家族というふたつの組織」が、なぜ「ふたつの」組織であるのかを問う契機は、減じてしまう。つまり、ふたつの組織への属し方の男女による「ちがい」に焦点が当てられるために、このような問題意識は、二つの領域がいかに設定され、どのようにして支えられているか、という過程を解きほぐすという方向へとは向きがたい。
  たしかに、「女性史は可能か」という問いは、女性は主題(サブジェクト)とはならないとされてきた政治思想史に対する批判の拠り所を与えてくれる。事実、現在のフェミニスト理論の興隆は、そうした研究に多くを負うている。だが、他方で、政治思想/理論の領域「外」である、「女性史」、「家族史」の領域で多くの知見が蓄積されていくと同時に、日本においてはまったくといってよいほど、政治思想/理論の分野で、家族や女性は主題として扱われてこなかったのも事実である(8)。そもそも政治思想/理論が「政治的なるもの」を「政治的でないもの」の除外によって定義し、そのことによって自らの主題を確立してきたとすれば、この傾向は、当然のことであるともいえる。しかし、このことが当然のように見えるのは、あくまでも家族は政治的では「ない」という前提があるからである。
  現在のように、家族の問題を政治思想/理論の「外」の問題として考え続けることに、なにかしらの陥穽があると言えないだろうか。というのも、政治思想/理論において政治的なるものが定義される場合、なぜ、政治的で「ない」ものとしてつねに家族が取り上げられてきたのか、という問いはまた、政治的な問いであるとも考えられるからである(9)。さらには、わたしたちはここで、政治思想/理論という知の集積が、主題の優先順位を定め、ある主題は重要であり、他の主題に不適格を宣言することの政治性に立ち会っているとも言える。しかし、「家族と政治」という並置は、こうした問題を見えなくしている。そして、このことはまた、「女性史は可能か」といった問いかけそのものが、知らず知らずに作り出してきた陥穽ではなかったか(10)
彼女たちは、「女性」というカテゴリーの再評価を主張するが、二項対立の図式そのものは検討しようとしないのである。私たちは、二項対立の図式がもつ固定的で永続的な性格を拒否し、性差という用語を、真に歴史化し、脱構築する必要がある[Scott 1988:40/72]。
  「家族と政治」という並置には、なにかしらの陥穽があるのではないか、という疑いの下で、再度、政治思想史のテクストを読み返すならば、それらのテクストがいかに繰り返し家族に言及しているかに驚かされる。ともすると、家族に言及しない思想家をあげるほうが、困難なほどであるかもしれない。
  もし、政治と家族とは別の領域であるとすれば、なぜ、これほど家族「と」政治は、「政治」思想史のテクストで語られてきたのだろうか。筆者の初発の問いは、「なぜ政治思想/理論は、家族を扱ってこなかったか」、であったが、政治的なるものの定義にとって家族が必要であるならば、政治思想/理論は、じっさいには家族を主題として語ってきた、と結論づけてよいのではないか。
  そこで、つぎのように考えてみることにしたい。すべての男性はある普遍的な人間性を属性として等しく持っていることを証明しようとしたときに、かれらとは異なる存在者として女性は、つねに男性性=人間性の記述のさいに利用されてきた(11)。それと同じように、政治的領域が説明される際にも、政治的領域ではない家族との比較のなかでのみ、政治的領域は、その独自の性格を明らかにし得たのではないだろうか。
  そのように考えると、次のような疑問が生じる。政治は、はたしてそれ自体で独立した一つの領域なのか。政治と、その裏で否定的であれ肯定的であれ、語り続けられている家族には、実際には密接な関係があるのではないか。「家族と政治」という並置がそれなりの妥当性をもって受け入れられているとするならば、いったい何が、そもそもこの妥当性を与えているのだろうか、と。
  たとえば、性とジェンダーは家族という制度へ、階級は職場や共同体に、そして、戦争や憲法の問題をもっぱら政府や国家という「ハイ・ポリティクス」へと囲い込もうとしてきた「分断的な傾向 compartmentalizing tendency」を歴史学の分野において批判しているジョーン・スコットはつぎのように述べている。
固定化された対立は、どちらのカテゴリーについてもその異種混在性 heterogeneity を、また、対立するものとして提示されている用語がどれほど相互に依存しあっているか−すなわち、それらがなんらかの固有の、もしくは純粋な対立からではなく、内部に設定された対照点 internally established contrast から意味を引き出していること−を、覆い隠してしまう。そのうえ、その相互依存性は通常ハイアラーキーをなしており、一方の用語が優勢で主要で可視的であるのにたいし、もう一方は従属的で二次的であり、しばしば存在しないか、不可視である。にもかかわらず、まさにこの取り決め arrangement をとおして第二の用語は存在しているのであり、第一の用語の定義にとって必要であるという意味で中心的なのである[Scott 1988:7/24]。
  スコットの議論を家族と政治という対立項に関してパラフレイズしてみると、つぎのようになろう。政治がなんらかの意味を帯びるとき、政治はその内部に−決して外部にはなく−自らに対照的なものを必要としている。そして、この対照的なるものは、政治に対して「従属的で、二次的」である「にもかかわらず」、政治の「定義にとって必要であるという意味で中心的なのである」。家族はあくまで政治的な「取り決め」を通じて存在していると考えるならば、家族は、否定形として政治を支える中心的存在であることが、明らかとなる。
  ここでわたしたちは、家族「と」政治がいかに異なるのか、両者はどのような制度であるのか、といった探求から、いったい両者はいかに関わってきたのか、どのように両者は互いに支え合ってきたのか、という探求へ移行することを迫られている。「家族と政治」という並置が可能であるのは、一方の対立項である政治が、その内部に自らの参照点としての家族を創り出しているからに他ならないことを暴き出すために。そして、いかにして「家族と政治」という並置が可能になり、この並置が存在することによってどのような体制が維持されているのか、といった探求を可能とするために。

二、家族は自然である、のか


  社会史、家族社会学、あるいは歴史社会学の分野ではすでに、「近代」家族制度は、資本制の矛盾を解決し、人口、衛生、医療、教育、労働、軍事政策をつうじて繁栄しようとする近代国家の中心に位置づけられた一つの「権力装置(12)」であることに関して、多くの論証が積み重ねられている[ex. ドンズロー 1991,上野 1994,牟田 1996,瀬地山 1996]。この節では、第一節の最後に提起した問い、すなわち、「家族と政治」という並置の存在によっていかなる体制が維持されているのか、という問いを考察する準備段階として、ひとがシティズン(公的存在/成人市民)へと育てられる場としての家族(の社会化の機能)に注目してみたい。
「政治的公共性が、今日でも依然として構造的には私的領域の家父長制的な特徴と深く結びついている(13)」とするならば、「近代家族」の成立と構造を思想史のなかで再検討することは、近代の思想と世界を再考するにあたってこれまで見過ごされてきた視点からの寄与の可能性を秘めているように思われる[杉田 1993:127]。
  ここで杉田孝夫が引用するハーバーマスの場合は、『公共性の構造転換』が出版されて以降のフェミニズム理論の展開に大きく影響され、私的領域における家父長制と政治的公共性との関連に目を配らざるを得なくなった、という経緯がある。しかしながら、そもそも公的領域の構造を語るときに、公的領域における行為主体は家族という領域で公的領域にふさわしい主体を形成する、ということに目をつぶったままでいることは難しい(14)
  たとえば、リベラリズムは「政治理論の主体であるはずの成人にわたしたちがいかにしてなるかについて、驚くほど注意を払っていない」と論ずるオゥキンによれば[Okin 1991:41]、ロールズは、正義に適った環境の「内部」にある社会制度として家族を取り扱う思想史上数少ない男性理論家である[Okin 1989:27]。ロールズは、家族を子供が道徳性を養う連合体 association として描写しつつ、子供の道徳は両親との関係性の中から育まれることを指摘している。「子供は大きくなると、自分の持ち場に適した行動の基準を教えられ」、かつ、「良き息子、あるいは、良き娘の徳は、両親の是認と否認の中で示されるかれらの期待によって説明され、あるいは、少なくとも伝えられる」[Rawls 1971:467/366]。子供は、道徳的発展の第一段階で従うべき権威の道徳性を習得し、そののちに、こうした両親との相互関係の中で自分の立場を知り、いかなる行動をとるべきかを学んでゆく。「このタイプの道徳観は、後世になって採用される理念にまで広がってゆき……良き妻、良き夫、良き友人、良い市民等々という様々な概念を与える」[ibid.:468/366-367]。
  オゥキンは、ロールズが家庭における親子関係がその後の市民としての徳を支える大きな要因であることに気づきながら、しかも、両親から期待される徳が息子と娘では異なる、ということまで示唆しながら、家族内でジェンダーに沿って配分される労働や権力に対して、なぜかれは現状を容認するような議論しかできなかったのか、と批判する。
  わたしたちはすでに、多くの社会学、心理学の著作から、家族内の養育が成人後のひとびとが抱くアイデンティティを深く規定することを知っている。男女の間に多く見られるジェンダー・アイデンティティの差異と道徳観の差異は、自然 nature によるものではなく、養育 nurture によるものであると。このテーゼは、現在では枚挙のいとまがないほど女性のアイデンティティに関わる議論のなかで提起されている。ここでは、そうした議論の端緒において、その後のフェミニスト理論に大きな影響を与えたN・チョドロウの主張と(15)、彼女の議論をさらに展開させたE・スペルマンが家族の社会化の機能をいかに考えていたかについて、検討を加えておく。
  チョドロウの『母親業の再生産』におけるそもそもの関心は、なぜ「女性」が母親業 mothering を担うのか、という問いにある。チョドロウがあえて「母親業をする mother」という動詞を使用するのは、彼女以前の議論における混同をもう一度区分し直す必要性を感じているからに他ならない(16)。つまり、この用語によって子供の出産 bearing と養育 rearing を区分すること、妊娠と出産から一つの活動としての養育を区分することが目的とされている。彼女の根本的な問いとは、女性が日常的に母親業をし、生まれた子供の世話をしなければならない根拠は何か、という問いかけである。そして、この問いは、女性が母親業(子供の養育)に適していることへの生物学的説明に対して反駁を加えるための出発点である。チョドロウの議論は、精神分析に訴えることで、女性/男性という二項対立の図式をあたかも普遍的な対立項として逆説的にであれ強化してしまうとして、のちに否定的に読まれることが多くなるが(17)、つぎの彼女の主張には、家族と政治を語るさいのある糸口が示唆されている。
女性がなぜ母親業を担うのか、を説明するには、進化論を加味した機能主義的説明だけでは不充分である。機能主義的見解のなかに種の生存や直接的な技術上の必要性だけでなく、特定の社会体制の再生産という視点を含めなければならない。この体制のなかには、男性支配、特定の家族体系、女性の男性への収入依存が含まれている[Chodrow 1978:21/31. 強調は引用者]。
  チョドロウが指摘するには、女性による母親業の選択/男性による母親業の非選択は、家族という領域に限定される事象ではなく、それは、広く社会的、経済的、さらに政治的な体制を再生産している。彼女によれば、母親業は、女性の生物学的な性向から帰結するものではないし、また、教えられたり、学ばれたりする以上のものである。なぜ女性が母親になるのか、という問いは、彼女以前のフェミニストたちが説明してきたようなイデオロギーの教化や強制からは説明できない。
,0一人一人の男性、もしくは全体としての社会……が、女性に母親業を押しつけたり、子どもたちの世話を女性に期待したり、要求するしないにかかわらず、女性がTある程度、そして意識的であれ、無意識的であれT、適切な親業 adequate parenting を提供するための能力と母親らしい maternal 自己意識を持っていなければ、女性にそのようなことを要求したり、強いたりすることはできない[ibid.:33/50。傍線強調は引用者]。
  彼女が精神分析に訴えるのは、女性による母親業の選択が、個人の意志を越えた方法で、恣意的ではない規範化された手順で、より広い社会的文脈の中で「構造化」されていることを証明しようとしたためである。女性が母親業をするのは、生物学的な決定でもなければ、個人の意志による決定でもない、と。
  スペルマンは、チョドロウと出発点は共有しているものの、精神分析アプローチに訴えるのではなく、母親業がジェンダーだけではなく、階級、人種、セクシュアリティといった他の社会階層にいかに規定されているのかを、チョドロウによる家族の機能定義から明らかにしようと試みる。チョドロウによれば、家族の機能とは、「より広範な社会構造を再生産するために必要とされる行動から、喜びと満足を得るような」新しいひとを生産することである[ibid.:36-7/55]。スペルマンは、チョドロウによるこの定義を、家族における子どもの社会化は厳しい階層社会への「同化」であり、それはまた、女性が母親業を選択することを再生産しているだけでなく、女性が母親業を選択せざるを得ないような社会全体の再生産である、とする有意義な発見として、さらに展開する。「チョドロウは明らかにつぎのように考えている。ひとが男性、あるいは、女性になるには、そして、自分自身を男性として、あるいは、女性として認識するようになるには、男性的な存在者が女性的な存在者を支配している世界における自らの役割を身につけてゆくことが必要である、と。セクシストの文脈における母親業は、それがセクシストの世界における自らの役割を引き受けるために心理学的にうまく順応した若いひとびとを生産する限り、セクシズムを再生産しているのだ」[Spelman 1988:87]。
  スペルマンは、チョドロウの家族論を受けて、つぎのように持論を展開してゆく。まず、彼女の関心は、フェミニスト理論において、ジェンダーのみを個別に扱う傾向を批判することである。というのも、社会は決してセクシストであるだけでなく、そこには人種差別や階級差別が存在し、しかもその三者は決して無関係ではないからだ。そして、チョドロウの議論に依りながら、つぎのように問いかけてみる。なぜ、ひとはこのように複雑に階層化された社会に順応することができるのであろうか、と。なぜ、こうした不正に固定化された階層のなかに、自らを進んで順応させることができるのだろうか、と。そして、彼女は、とりわけアメリカにおける黒人女性が、どのようにしてこの厳しい差別社会において生きるすべを母親から学んでゆくのか、をつまびらかにしている。
  ここでは、その議論の詳細を述べることはできないが、しかし、ここでもう一度、この節の始めに触れたロールズとスペルマンの議論とを比べてみたい。たしかに、子供はまず家族内で社会化される、と両者ともに指摘している。しかし、ロールズが家族を子供の社会化の準備段階の領域と考えているのに対して、スペルマンは、家族の領域内はすでに、より広い家族外の世界の階層が内在化されており、子供たちは複雑で、しかも厳しい階層社会を家族のなかで生きている、と指摘する(18)。スペルマンによって引用されている Lillian Smith は、つぎのように母との思い出を語っている。
わたしは、母親たちがわたしたちに教訓を伝えていると意識していたとは思いません。あたかも、彼女たちは、家の外の生活と彼女たちが抱いている思い出の内側の生活、そしてまた家の外、といった具合に、それらを交互に映し出す回転鏡であったかのようでしたから。……わたしたちは、自分が生まれ落ちた世界をこのような予告編から学んでいたのです[ibid.:99]。
  ロールズのように正義に適った社会を前提とせず、むしろ、スペルマンに従い、社会はジェンダー・セクシュアリティ・階級・人種によって不正に階層化されているとしよう。そうすると、家族が、単なる社会への準備段階であるだけでなく、すでにその社会そのものを生きていることがよく分かる。すなわち、家族は社会への新たな参加者である子供たちをこの不正に順応させるために機能しているのだ。家族は、その構成員が社会の中でどのような役割を期待され、どのような位置にあるのかを次世代に伝えるために、まず、社会における諸々の権力と価値からなる構造を内在化せねばならない。そして、この階層化された構造に沿いながら、次世代の子供たちを教育してゆくのである。この機能は、不正から子供たちを守るためであるが、それは同時に、不正を不正として感じなくさせることでもある。よって、例えば家族は、社会の不正、悪意に対する抵抗の場であると同時に、イデオロギーを刷り込む場としても現れてしまうのだ(19)。家族は自然であるどころか、一つの政治体制のミニチュアとして、その体制をそのまま生きることを規範とする「権力装置」に他ならない(20)
  家族が自然であるかのように見えるのは、家族が家族を取り巻く社会の「権力装置」として、その機能を全うしている限り、家族の外に存在している世界に必要な欲求や充足感、正義感や責任感、知性や理性が、家族によって再生産されているからに他ならない。そのような再生産の任を主体的に引き受ける者をも含めて。そして、家族の領域を政治的領域からまったく切り離してしまうこと、政治的な課題からは取りのけてしまうことは、じつは、家族が再生産しているその諸価値を現状のままに維持しようとする政治的な態度である。というのも、それはあきらかに、そのような諸価値を批判に晒さないために、諸価値を守ろうとする政治的意志の現れに他ならないからである。

三、「家族と政治」の政治化へ向けて


  ここまで、「家族と政治」という枠組みを疑うことから始まり、チョドロウを援用するスペルマンによる家族内での社会化の機能を考察し、家族はある政治体制のミニチュアである、という結論に達した(21)。つまり、政治的領域と家族という領域がいかに異なる人間関係、目的、構成原理によって制度化されていようとも、その「違い」は、あくまである政治体制によって要請されている「違い」であって、この「違い」こそが政治的領域を支えている、と。
  さらに、家族が「自然」であるとされるのは、家族がある政治体制のなかでその機能をよりよく果たせば果たすほど、その政治体制の中で家族は自然に見えるからである、と論じた。すなわち、ある政治体制に必要な諸価値を家族が再生産しているのであれば、その政治体制の中で、家族が自然に見えるのは当然なのだ。また、フーコーのように、政治を諸価値を生み出す言説活動だと考えれば、政治的領域で権力をめぐる闘争のすえ次々と生み出される新しい価値に順応し得るひとびとを再生産する家族が、闘争よりむしろ宥和や協調という特徴を示すことも納得できるであろう。よって政治思想/理論は、あえてそのような政治的領域にとって自然な家族を語る必要はなかったのである。政治思想/理論が語るべきなのは、新しく生み出されてくる諸々の価値についてであるか、その価値を巡る争いについてであるから、という理由で(22)
  しかし、チョドロウを経て、スペルマンが暴いたように、家族が再生産しなければならない諸価値は、ジェンダー、セクシュアリティ、階級、人種によって不正に固定されてしまった構造が必要としている諸価値である。家族がそうした諸価値を再生産できなくなったとき、そのときもはや家族は、ある政治体制にとっての自然ではなくなってしまう。そして、「家族と政治」という、いっけん安定した並置が不可能となったそのときこそ、「自然な」家族の政治性がもっとも露わになるときである。そして、「家族と政治」の安定が揺らいでいるその「揺らぎ」にこそ、あるいは、家族「と」政治が「違う」ということの政治性が露わになるその場でこそ、よりよい政治的価値、規範、社会構造を求める政治的な異議申し立ての声を聞き取ることができるのではないだろうか。
  ここでは、そうした政治的な異議申し立てとはどのようなものかを、最近のフェミニストの議論によりそいつつ確かめてみたい。
  チョドロウが分析の対象としていた家族は、「男性支配、特定の家族体系、女の男への収入依存」という体制が再生産されるのにもっともふさわしいモデルであった(23)。このモデル家族が、ある政治体制によって規範として要請されているがゆえにその体制にとって「自然」であるとすると、モデル家族の構成とは異なる家族は、体制が必要とする諸価値を再生産できない家族として、そもそも家族とは認められず、法的に家族に与えられている特典(24)を剥奪されるか、あるいは、政治的に逆機能 disfunctional 家族としてのスティグマを負うことになる。その家族は、その体制にとって「自然ではない」からだ(25)
  たとえば、アメリカでは社会保障制度との関連からシングル・マザーの存在が一つの社会問題として取り上げられている。この問題に対し、リベラリズムは決して価値中立的ではなく、実現すべき価値、徳、目的に積極的に関わっていると主張するW・ギャルストンは、シングル・マザーが増加する傾向に警告を与え、政府は離婚と片親家族を減少させ−そのためには、立法が必要である−、両親のそろった家族を奨励するべきだと主張している。ギャルストンのこうした主張は、シングル・マザーが世帯主である家族は政府にとって高くつく、といった一部の保守派によるシングル・マザーに対するいたずらに扇情的な攻撃ではなく、むしろ、かれがリベラリズムが追求すべきと考える徳と密接な関係があるだけに、興味深い。
リベラルな社会は、二つの重要な特徴を持っている。それが、個人主義と多様性である。個人主義は、リベラルの徳である自立 independence、つまり、自分自身をケアし、責任を負い、不必要に他者に依存することを避ける傾向性と対応している。人間は、だれも生まれながらに自立しているわけではなく、また、一人っきりの生物学的な成長によって自立が可能になるわけではない。多くの論証に示されているように、リベラルな社会では、自立とその他の徳の多くが生まれる決定的な場は、家族である。それゆえ、家族が弱体化することによって、リベラルな社会は危険で充たされてしまう[Galston 1991:222]。
  かれは、多くの保守派のリパブリカンがそうであるように伝統的な「家族の価値」を称揚しようとしているのではない[ibid.:285]。かれにとって問題は、家族がリベラリズムの諸価値をよりよく実現し得る子供を養育できるか否かであって、その意味で、伝統に内在する価値そのものを評価する「内在的伝統主義 intrinsic traditionalism」と区別して自らの支持する伝統主義を「機能的伝統主義 functional traditionalism」と呼ぶ。
  しかしながら、まず、第二節において検討したスペルマンの論理から見れば、ギャルストンの「機能的伝統主義」は、一種の循環論であり、かれが批判してみせる内在的伝統主義との違いが曖昧となる。かれは、リベラルな社会にとって必要だからこそ、両親のそろった家族が必要であるという。しかし、また逆に、自立といった価値を子供に教育しうる両親のそろった家族には、リベラルな社会が必要であるともいえる。つまり、そのような価値を教育しうる家族を特権化し、特典を与え、保護するリベラルな社会が必要なのだ。あるいは、個人の自立に価値を見いだす諸個人を再生産する家族が存続し、そうした家族が規範として存在しているからこそ、社会はリベラルなのである。さらにまた、家族が特定の社会のために個人を社会化する機能を果たしている限りは、その家族の存続には、当の社会が必要になるのは当然である−たとえば、父親のみが働き、母親はもっぱら家内労働をし、子供は成人するまでは両親に依存する家族には、そのような家族構成を可能にし、また、そうした家族構成に規範的価値を付与する社会が必要である−。よって、かれのように社会のための家族の価値か、家族そのもの価値か、といった区分は無意味である。
  一方、フェミニストの立場から、既存の公的領域/私的領域の区別立てに異議を申し立てきたI・ヤングは[Young 1990]、ギャルストンがリベラルの徳の一つであるという自立そのものを疑問に付している。ヤングの批判に従えば、この自立という近代の政治理論における規範の一つは、男性偏重であり、依存を必要とするひとびとの地位を貶めることにつながり、さらには、そうしたひとびとをケアする者さえも劣った地位へと引き下げる(26)。しかも、ギャルストンの自立とは、貧困でないこと、つまり、経済的に自立してるか否かが基準となっており、現在の男女の間に見られる賃金格差を考えても、女性は男性のパートナーがいた場合でもしばしば男性に依存した存在であることを強いられている。ということは、ギャルストンの議論に従えば、女性は家族を形成する限り、シングル・マザーであれ、世帯主としてのパートナーがいる場合であれ、常に二級市民としての扱いを免れない(27)
  たしかに、ギャルストンは、自分はシングル・マザーが機能不全家族の原因である、と意味するつもりはないし、また、そのように言うことは誤っているだけでなく、多くのシングル・マザーに対する侮辱である、と注記してはいる[Galston 1991:284-285]。だが、かれの提起するリベラルなシティズンシップと政治体の徳は、シングル・マザーはリベラルな政治体には不必要な存在であるとして政治的、あるいは、法的規制の対象にせざるを得ないのである。ここでは、簡単にではあるが、ギャルストンの政治理論においてシングル・マザーという表徴(28)がどのような役割を果たしているか、を考えてみたい。この表徴は、規範としての「家族」が政治的な意志に貫かれた構成体であることをも示唆しているからである。
  ギャルストンの政治的徳に関する議論を詳しく見てみると、まず、市民たるものすべてが必要としている徳として、勇気、遵法精神、忠誠が挙げられている。そして、リベラルな政治体に属する市民としては、これらの徳に加えて、他者の権利を尊重する能力、市民の代表者の才能を見極める能力−代表制が前提であるため−、そして、過大な要求を政府に対してしないように、とりわけ、近視眼的な要求をしないように、自己規律的であることが要請される。つまり、政府が満たせるだけの要求を掲げることで満足するよう、自己を律することができる者、それが自立した人間である。
  そのうえで、かれは続ける。「こうした観点からは、リベラルな市民たちが自分たちの国家が提供しうる公的サーヴィス以上のものを要求しようとしないことは、経済的な技術論の問題ではなく、道徳の問題なのだ」と[ibid.:225]。その声を聞いた後、シングル・マザーを告発しているわけではない、というかれの留保の言葉は、貧困に苦しむ家族はシングル・マザーを世帯主にしている場合が多い、というかれの言葉とともにかき消されてしまう。つまり、ギャルストンの議論に従えば、シングル・マザーとはまさに、こうしたリベラルな市民の徳を脅かす道徳的な脅威であり、政治体そのものを蝕んでいる。彼女たちは、政治的領域にはふさわしくない、過度な要求をする自制心のない者たちであり「抑制、すなわち、自分自身で力を蓄える self−aggrandizement ための活力は適度に維持しながらも、その活力の境界を定め circumscribe、チェックするような徳」を持ち合わせない者たちである[ibid.(29)]。
  つまり、本来ならば自分で面倒をみなければならないニーズを政府に要求し、境界を越えて自己の望みをかなえようとする者たち、それがシングル・マザーという姿になってギャルストンの議論に現れる。ここで、かれが使用する自己規律 self−discipline、抑制 restraints という言葉が、自ら充たさなければならないニーズを社会のコストへと移し替えてしまう displace ことをよしとしない、という意味であることに注目してみたい。そうすると、家族にどのような政治的な機能が期待されているかが自ずと明らかになるであろう。リベラルな政治体にとって、家族とは、政府に過度な要求をしないように、しっかりと個人のニーズを満たしてくれるような共同体でなければならない。それは、家族自らが、ある特定のニーズについては、その構成員が決して越えてはならない境界線を引くことである。そして、政治体は、外からこの境界線を強固に守るために政治的、あるいは、法的手段に訴えるのである(30)
  「リベラルな国家は、すべての正常な子どもたちが、自分自身と自分の子どもの面倒をみる caring for ことができる大人になることを希望するよう教え込む権利を持つ」[ibid.:252]。家族は政府の重要な関心事であるにもかかわらず、その関心の払われ方は逆説的である。つまり、政府はある特定の−つまり、自分で、あるいは家族内で充たされるべき−ニーズに関しては、家族の面倒をみ care for なくてもよいように、と政府は家族に関心を払って care about いる。シングル・マザーとは、本来ならば自分自身で充たすべきニーズを政府に要求することによって、家族/政治のあいだの境界線を越え、家族「と」政治という並置を揺さぶるために、政治的に、あるいは、ギャルストンの言葉でいえば、道徳的に問題視される。
  だが果たして、自立とは、そのような経済的な自己充足を指しているのだろうか、とヤングは問い正す(31)。もしそうだとすれば、現在のジェンダー構造においては、「安定した婚姻が意味するのは、女性はしばしば男性に依存的であり、しばしば家庭の内外で不平等な権力関係と男性による様々な支配に苦しむ、ということである」[Young 1997:123]。つまり、自立を市民としての徳と考え、その徳に必要な家族を要請する限り、一部の者を二級市民へと貶めるこの構造は決して変わらない。
逆説的であるのは、そのような自律と個人の自立は、母親からの個別的な配慮が行き届いた、愛情のこもった心遣い the loving attention を必要としている、と考えられていることである。母親たちは、子供たちに自己に対するこうした意識[自律と自立−引用者−]を育むために、献身しなければならない。しかしながら、心遣いに満ちた愛情 [a]ttentive love のために、市民の個人性と自律を養育する者は、市民性を行使するには不適任であると判定されてしまう。というのも、母親の性格は感情的になりやすく、一般的な善ではなく、個別のニーズと利害に関心を向ける傾向があるからである[ibid.:124]。
  子供たちに細心の心配りを払う母親の必要性と自立した市民という価値が対となって構造化される限り(32)、つまり、つねに家族「と」政治が固定化されてしまっている限り、この市民性は一定の者たちを二級市民へと囲い込みつづけることになる。
  よって、ヤングは以下のように提唱する。平等な市民性(シティズンシップ)を実現するためには、経済的な自立を果たせない者を劣った者としてみるような考えを捨て去らねばならない、と。そのためには、シングル・マザーに対する政府からの援助も、彼女たちが不正な服従から自由であるためには必要であり−それこそが、自立である−、なによりもある特定の家族構成を特権化するような政策を改めるべきである。その代わりに、特定の家族構成を前提とした経済構造、労働市場を改善するような政策に取りかからねばならない。それが、現在の誤った自立概念をも変革してゆくと。
  ヤングは、家族という制度そのものを否定してるわけではない。ひとは快適な生活を送るために共に住み、生活の糧を共有し合う他者が必要であろうし、また、互いに他者の物質的、感情的なニーズにできるかぎり心を配り合うような他者を求める。そして、彼女たちは永遠ではないにしろ、比較的長期の安定した関係性を結び、みずからをともに家族の構成員と認識しあう[ibid:106]。また、そのような者たちが築く家庭 home は、未来志向的な近代において高く評価される活動の創造や建設の場ではなく、保存 preservation や想起 rememberance の場であり、とりわけ、前者の活動を重視する近代性によって抑圧されてきた個人にとって尊厳と抵抗の場として機能する場合がある[ibid:151-157]。そして、フェミニストに多く見られる home の否定的な見解に抗して(33)、むしろ、積極的に政治的に重要な home の価値を見いだそうとしている。
  ヤングにとって問題は、個性を構築し、また、構築し直し、安全を保障された場である家族が、異性愛(の「自然視」)を前提とした男女のカップルを中心に考えられていることであり、またそのために、性別分業を強要するような現在の家族のあり方である。家族の機能の中心に異性間の婚姻を据えるような現在の家族観を改め、家族が現在享受しているような特権を、あらゆる者が享受できることがまず必要とされる。そして、様々な家族像をむしろ積極的に肯定してゆくことは、現在支配的な政治が家族に強要する諸々の価値に、家族の立場から異議を申し立てる契機となるはずである。その意味で、ヤングは、現在のアメリカにおけるシングル・マザーの増加に対して、女性が積極的に公私の領域における男性への従属から解放されるための決断として、積極的な評価を与えようとしている。そして、この決断は、チョドロウが示す性別分業の構造的な再生産と、スペルマンが指摘する人種と階級、ジェンダーとセクシュアリティに沿った階層的な諸価値による構造化を断ち切ることを意味してもいるのだ。

結びにかえて、境界線上で政治的であること


わたしたちは、世界をちがうように見る必要がある。そうすることによって、既存の権力者たちのために権力の増大を正統化している諸活動の価値を引き下げ、外部の者たちとの権力の分かち合いを正統化するような諸活動の価値を引き上げるのである。こうしたプロセスへ向かう最初のステップとして、倫理的生活と政治的生活の現在の境界線は、比較的権力のない人々の諸々の関心や諸活動が社会の関心の的からはずされるように引かれている、ということを認識しなければならない[Tronto 1993:20]。
  本稿の目的は、家族「と」政治といういっけんすると二項対立的な領域が、いかに相補的な関係にあるのかをつまびらかにすることで、両者の構成・被構成のあり方を探ることであった。
  そのためにまず、スコットを援用することで、家族「と」政治といった二項対立の図式を「脱構築」した。すなわち、政治的領域において家族とは「従属的で二次的であり、しばしば存在しないか、不可視である」がゆえに−にもかかわらず、ではなく−、家族とは、政治という「用語の定義にとって必要であるという意味で中心的」なのだ、と論ずることで、家族という領域は、政治的領域の外部に存在するのではなく、むしろ、その内部につねに設定される対照点として、政治的領域の核心にあることを明らかにした。
  つぎに、アリストテレスに代表されるような家族「と」政治の峻別、つまり、家族を自然の領域における集団として考察することへの反駁として、チョドロウを経由したスペルマンの議論に依拠しながら、家族の社会化の機能に焦点をあてた。そして、家族の内部でこそ、家族を取り巻いている政治的領域における諸価値は、ジェンダーを価値配分のさいの主要な機軸としながら再生産され、ひとびとがその価値を家族内で内面化していくことを確認した。家族は決して自然な存在ではないにもかかわらず、自然として現れるのは、わたしたちが存在している政治的共同体に「とって」ふさわしい諸価値を(再)生産しているからである。
  最後に、ある政治的共同体に「とって」ふさわしい諸価値が(再)生産されるさまと、家族「と」政治という領域の構成/被構成のあり方をさらに具体的に探求するために、政治的領域における諸価値が、家族という領域内にふさわしいとされる「異なる」諸価値と相俟ってジェンダーの軸に沿って構造化されていることを、とくに市民性(シティズンシップ)をめぐる議論を中心に検討した。
  本論の結びにかえて、本論がどのような「政治的」な−つまり、ある政治的共同体において共有されるべき諸価値を生産し、正当化し、さらには、それらを正統な価値として維持、再生産、あるいは、強化していくような諸制度の構築に向けての−プログラムを構想しているかについて述べておきたい。
  本稿全体で示したように、「政治的なるもの」とは、ある特定の領域に限定された活動をさすものではない。むしろ、「政治的なるもの」は、その内部に「政治的でないもの」を対照点として生産し、それとの「違い」において、「わたしたち」にとって共有されるべき価値−それこそが、「政治的な」価値である−と、そうでない価値を区分するような、境界線の設定に大いに関わっている。ここで注意しておきたいのは、「政治的でない」とされる価値は、価値がないものとして全否定されているわけではなく、むしろ、政治的ではない領域にとっては価値あるものとして、政治的に決定されている、ということである。
  問題は、「政治的なるもの」として「わたしたち」に共有されるべきである、とは考えられてこなかった要求を、「わたしたち」の一員として挙げようとする者は、「わたしたち」には属さない者−二級市民−として、「わたしたち」の領域の外へと押しやられてしまうことである。すなわち、そうした要求にはその要求にふさわしい領域がすでに存在している、として。
  この場合に失念してはならないのは、「わたしたち」は、たとえば自己規律的で、自立しており、合理的判断を下すことのできる成人男性である、といった前提が理念的に存在している、ということである。つまり、「政治的なるもの」とは、ある想定された(集合的)主体にとって価値あるものを、そうした主体にとっては価値のないものとの「違い」によって創造してゆく営みであるがゆえに、つねに、政治的領域においては価値のないものとされた価値を体現する主体を、政治的でない領域に属する者として想定してしまうのだ。
  ところで、家族という領域における諸価値もまた「わたしたち(すべて)」に関わるのであるから、政治的に価値あるものであるとし、よって、「わたしたち(すべて)」が家族に要求されている役割を等しく分担すべきだと唱えることで、このような問題は、解決されるのであろうか。そうではないだろう(34)。というのも、その場合には、「わたしたち」にふさわしいとされる既存の政治的な価値は、疑問に付されることがないからである。さらには、いったい誰が「わたしたち」なのか、といった問いは回避されてしまう。
  むしろ必要なのは、さまざまな領域設定を可能にしている現在の「政治的な」諸価値を、意味づけし直すことである。そのためには、なぜ、現在の「政治的なるもの」は、対照点として現在の「政治的でないもの」を必要とし、現在のような境界を固持しようとすることで、いったい何を、誰を、政治的には重要ではないのだと「政治的に」決定しているのか、と問い続けることで、政治的なるもの「と」政治的でないものとの境界線を注視することである。つまり、J・トロントが述べるように、「現在の境界線は、比較的権力のない人々の諸々の関心や諸活動が社会の関心の的からはずされるように引かれている」ことを、まずは認識することである。
  本稿は、「政治的なるもの」の意味づけの変更といった壮大なプログラムの最初のステップとして、政治的領域の境界線の向こう側に存在するのだと「政治的に」語られてきた家族に焦点をあてた。いや、むしろ本稿は、このプログラムの遂行に向けた最初のステップを踏み出すために必要な、息を整えるための足踏みの一つにすぎない。なぜなら、政治「と」倫理、正義の倫理「と」ケアの倫理、権利「と」責任、自由「と」平等、そして、男性「と」女性といった様々な境界線のうえで立ち止まり、思索することなしに(35)、そうしたプログラムの最初のステップを踏み出すことはできないのだから。


本文中参照文献表


Arneil, Barbara, 1999 Politics & Feminism (Oxford:Blackwell Publishers).
Chodrow, Nancy, 1978 The Reproduction of Mothering (California:University of California Press). 大内、大塚訳『母親業の再生産性差別の心理、社会的基盤』(新曜社、一九八一年)。
ドンズロー、ジャック、一九九一  宇波彰訳『家族に侵入する社会』(新曜者)。
Galston, William, A., 1991 Liberal Purposes:Goods, Virtues, and Diversity in the Liberal State (Cambridge:Cambridge University Press).
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杉田孝夫、一九九三  「ドイツ観念論における家族観−Haus から Familie へ−」『お茶の水女子大学  人文科学紀要』第四六巻。

(1)  もちろん、プラトン以降、政治思想家たちは「家族」を語ってはいる。しかし、本稿で注目したいのは、その語られ方である。
(2)  上野氏のつぎの言葉を参照。「七十年代のラディカル・フェミニズムが家父長制の概念を持ち出して近代家族を批判したとき、おおかたの論者の反応は、過去の亡霊を論じているかのようなとまどいを表明し、『家父長制はすでに存在しない』と答えたものである。だが、『家父長制』は近代家族の固有の性支配を説明する概念として、フェミニストによって再定義されて使われてきた。リサ・タトル編の『フェミニズム辞典』によれば、『家父長制』とは『男性が女性を支配し、年長の男性が年少者を支配する』社会構造をさす」[上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』(岩波書店、一九九四年)、七五頁]。
(3)  さらに、今日の現実政治においていかに「家族」が国家政策上の主題となってきたかを考えるならば、なおのことそうである。たとえば、英国のサッチャー政権、合衆国のレーガン政権において、(経済的)「依存」に対して激しい攻撃がなされたことは、記憶に新しい。たとえば、サッチャー政権のなかでも、そのイデオロギー的特徴を最も露わにした第三期において社会保障大臣であったジョン・ムーアはつぎのように依存 dependence/dependency を表現している。「わたしたちが信じているように、長い目で見て依存は、人間の幸福を減少させ、人間の自由を失わせるものである」[cited from Sarah Benton,”Death of the Citizen, New Statesman (20 November, 1987), p. 21]。さらに続けて、かれは次のようにも述べている。「わたしたちは、つぎのように信じてもいるのだ。諸個人の福祉は、かれらの自立を助け、かれら自身とその家族をケアすることができるように自分たちの才能を発揮するとき、最もよく守られ、促進される」[ibid.]。
  しかし、ムーアが念頭に置いている「かれら」とは誰のことなのだろうか。この問いに対して、Benton はつぎのように答えている。「はっきりとしているのは、それは一般の女性ではない、ということである。というのも、かれの福祉政策は一つとして、彼女たちの夫への依存を減少させ、女性たちが公的世界において活動を始める自由を高めるようには、企図されていないからだ」[ibid.]。すなわち、個人が誰にも依存せず自立した存在となることを強調する一方で、その自立した存在(家長)に経済的に依存せざるを得ないひとびと(=たいていは、家長の妻たる女性)の自立については触れられることはない。それどころか、むしろ伝統的家族の価値を強調することで、女性の社会的自立を阻むような政策がとられることが多いのだ[なお、第三期サッチャー政権の特徴については、豊永郁子『サッチャリズムの世紀−作用の政治学へ−』(創文社、一九九八年)第六章を参照]。
  日本においては、七五年前後に政府は「家族」制度の動揺を察知している。そして、八〇年には、「家庭基礎充実のための基本的施策のとりまとめ」が公表され、八四年には、経済企画庁国民生活局編の「家庭機能をその施策の充実の報告に関する報告書」が出された。この報告書の根拠となったのは、当時有識者にたいして出されたアンケートであり、そのアンケートには以下のような施策案が家庭機能全般の弱体化を防止するという目的の下で、その賛否を問われている。@国民の祝日の一つとして「家庭の日」を設ける  A「家庭省」のような家庭専門の省庁を設ける  B各市町村に「家庭問題相談所」(公立または私立)をおく  C結婚する男女には必ず「婚前教育」を受けさせるようにする  D協議離婚の際には、公的機能で両者の意志と条件を確認させるようにする  E家庭生活の安定を中傷し、損なうようなマスコミ表現に対し、警告・告発する機関をおく。この試案は一つとして実現されなかったが、政府の家庭政策の意図は明らかであるとして、西川祐子はつぎのように結論づけている。「近代の国民国家はすべて家族国家が原則であり、国民を家族単位で把握し、また国家を家族になぞらえて情緒的な国民統合を行うところも共通している」、と。[西川祐子「男の家、女の家、性別のない部屋」『ジェンダーの日本史』(東京大学出版会、一九九五年)所収、六三八頁]。
  日本では、家族は「福祉における含み資産」と考えられてきた。七〇年までは、この「含み資産」の意味は、日本特有の共同体意識に基づいた三世代家族を、老親の扶養と子どもの養育、保育の基礎単位と位置づけるものであった。しかし、三世代家族像が、現状に適合しなくなる八〇年代以降は、「自立・自助」の精神をもつ個人を基礎としつつ、それを「相互扶助の精神」に基づいて第一次的に支援、援助するものとしての家族という、より「近代的な」装いが与えられるようになってきている[原田純孝「日本型福祉と家族政策」『変貌する家族  6  家族に侵入する社会』(岩波書店、一九九二年)所収]。
(4)  たとえば、日本における家族国家論に関して、定説ではつぎのように説明されてきた。日本の伝統的な祖先崇拝の観念を利用し、天皇家の神話的祖先の傘下に、元来無関係の国民の「家」の先祖を組み入れて天皇と国民の一体化を企てた、と。すなわち、伝統的に存在してきた「家」制度が、国家によって取り込まれたと説明されている。しかし、日本の前近代性を家族国家論によって説明してしまうことへの見直しが、最近の歴史社会学の分野には多くみられる。そのような研究では、「家庭 home」という親密で情愛深い親子関係が一八九〇年以降急激に広まる過程に注目し、つぎのように主張されることが多い。「近代日本において顕著であったのは、伝統的『家』の規範や制度の維持強化というよりも、家族が独立性や自律性を失い、『家庭』という名の生産基盤をもたない女・子どもの場として弱体化、私化していったことではないだろうか。言いかえれば、われわれの近代において、『家庭』とは、『家』を縮小し、情緒性と暖かさを付与して家族を国家に直結させる装置として働いたのではないだろうか」[牟田和恵「日本型近代家族の成立と陥穽」井上、上野、大澤編『岩波講座現代社会学  九  <家族>の社会学』(岩波書店、一九九六年)所収、六七頁]。また、筒井清忠「解説」川島武宜『日本社会の家族的構成』(岩波現代文庫、二〇〇〇年)所収も参照。
(5)  本論考におけるこうした一連の作業は、各時代のフェミニズム理論の傾向に対するフェミニズム理論内部での批判的省察/継承の歴史から多くを学んでいる。たとえば、筆者のここでの作業は、政治理論という学問分野におけるジェンダー・アプローチの類型を、@「取り込み inclusion」  A「反転 reversal」  B「ずらし displacement」の三類型であると考える Squires の議論とほぼ対応している。この三類型はそれぞれ、政治学にフェミニズム理論を統合させるための固有の戦略を持っている。@のアプローチに見られる戦略とは、政治的領域のなかに見られる女性固有の行動や女性の歴史を考察しようとすること、つまり、政治的領域に「女性を加えること adding women in」であり、主にリベラル・フェミニズムの運動、理論に見られる戦略である。Aのアプローチに見られる戦略は、第二波フェミニズムが掲げた「個人的なるものは、政治的である」といった主張にみられたように、これまで政治的ではないと考えられてきた「女性的なるもの femininity」によって表象されてきた行為や価値にも、政治的な価値を与えようとするもので、政治的な「境界線を拡大すること extending the boundaries」であり、主にラディカル・フェミニズムの運動、理論に見られる戦略である。Bのアプローチに見られる戦略は、政治的なるもの/政治的でないもの、といった二項対立の図式そのものを支えている線引き、境界線そのものの政治性を問い返すことによって、政治的に価値あるものとされてきた自明の諸価値をもう一度政治的議論の場へと引き戻そうとするもので、学問的な諸前提を担ってきた「核心的な諸概念を構想し直すこと reconceptualizing the core concepts」である。これは、現在フェミニズム理論において最も盛んに論議されているポスト・モダニズムの運動・理論に見られる戦略である[Judith Squires, Gender in Political Theory (Cambridge:Polity Press, 1999), pp. 3-19]。本論考は、Bの立場から、@Aの立場を批判的に検討したうえで、まさに、政治学上の「核心的な諸概念を構想し直すこと」を目的にしている。
(6)  念頭においているのは、つぎの著作である。Susan M. Okin, Women in Western Political Theory (Princeton:Princeton University Press, 1979), Jean B. Elshtain, Public Man/Private Woman:Women in Social and Political Thought 2nd ed. (Princeton:Princeton University Press, 1981), Diana H. Coole, Women in Political Theory:From Ancient Misogyny to Contemporary Feminism (NY, London:Harvester Wheastsheaf, 1993).
(7)  たとえば、七〇年代の政治学の分野におけるフェミニズム理論の傾向を V. Sapiro は次の述べている。「当初、ほとんどの課題は、『女性を付け足し、混ぜ合わせる add women and stir』こと、すなわち、変数を付け加えることであった。つまり、さまざまな分野、とりわけ政治行動や政治理論といった分野において、慣習的な問いをとりあげ、『では、女性についてはどうであろうか』と問いかけることであった。政治行動について、このことが意味するのは、女性と男性は政治的な行為や世論形成において異なっているのか否かを見いだそうと試みることと、政治的リーダーシップから女性が排除されているその力学を探求することであった。政治理論について、このことは……古典的な政治哲学者が女性についていかに語っているか−あるいは、語っていないか−を問うことを意味していた」[Viginia Sapiro”Feminist Studies and Political Science, in ed. by Anne Phillips, Feminism & Politics (Oxford, NY:Oxford University Press, 1998), pp. 67-8]。
(8)  むろん、これまでの日本における政治学のあり方を批判的に考察し、なぜ、「女性」問題が政治学の課題とならなかったのかを論じたものも存在している。そのような例として、石田雄「政治学者のみたジェンダー研究−社会科学の空白への反省」原、大沢、丸山、山本編『ジェンダー』(新世社、一九九四年)を参照。また、いかに日本における政治学が「女性」問題に無関心であったかについては、御巫由美子『女性と政治』(新評論社、一九九九年)第一章を参照。
(9)  これまで「文化的」、「私的」、「経済的」、「家庭内の」、そして、「個人的」であるとされてきた主題が、いかに政治的に構成される主題であるかを論じ続けてきた Fraser によると、「興味深いことに、政治的なるものの限界に関する問いは、まさに政治的問いである」[Fraser, Unruly Practices:Power, Discourses, and Gender in Contemporary Social Theory (Minneapolis:University of Minnesota Press, 1989), p. 6. 強調は、原文]。
(10)  水田珠枝の議論に公正を期すために、以下のことを注記しておきたい。つまり、歴史上声を奪われきた者、その声に聞く耳をもたれなかった者の存在を書き取るためには、書き取ろうとする者自らが、中心/周辺という二項対立の図式を再度設定してしまうというパラドクスに直面せざるを得ない、と。現在のフェミニズム理論が、自らの運動上の、そして/あるいは、理論上の−註(5)における@Aのアプローチによって露わになった−隘路を克服することに向かって理論構築を試みることが可能となったのは、まさにどのようなパラドクスに「女性」が見回れているかが、これまでのフェミニズム理論の蓄積によって明らかになったからに他ならない。そして、水田自身、七〇年代すでにこうしたパラドクスに注意を払っていることは、注目に値する[水田珠枝『女性解放思想史』(筑摩書房、一九七九年)]。フェミニズム理論が現在直面しているパラドクスについて詳しくは、岡野八代「分断する法/介入する政治」大越、志水編『ジェンダー化する哲学』(昭和堂、一九九九年)を参照されたい。
(11)  たとえば、ペイトマンは、リベラリズムのなかに存在し続けてきた男性/女性という対立項によって表象される二項対立の図式をつぎのように指摘している。「女性的 female とは、すなわち、自然、個人的、感情的、愛情、私的、本能、道徳性、属性、個別的、服従を意味し、男性的 male とは、すなわち、文化、政治的、理性的、正義、公的、哲学、権力、達成、普遍的、自由を意味している」[Carole Pateman,”Feminist Criticques of the Public/Praivate Dichotomy, in The Disorder of Women (Stanford, California:Stanford University Press, 1989), p. 124]。
(12)  ここでの「権力装置」という用語は、江原由美子の用法に従っている。彼女は、家族は「権力」というタームで記述できるか、という問いにたいして、つぎのようのに応えている。まず、権力が一般に「行為者の自由な選択に対する外的な強制力の行使を意味するとすれば、家族を家族にしているものはそのような『強制』に基づく行為ではなく」、家族を権力というタームで読み解くことは困難である[江原由美子「権力装置としての家族」上野、鶴見、中井他編集『変貌する家族  3  システムとしての家族』(岩波書店、一九九一年)所収、六〇頁]。しかしながら、「権力」は、支配者との関係、自由の不在として考えられる必要はなく、むしろ行為の複数文脈性を強いる装置だと考えることができる。「家族とは、複雑に絡まった文脈的意味を供給する場としては特権的な場であり」、「権力装置としての家族とは、家族をこのような複数の文脈的意味の絡まり合う場として見る見方を意味する」[同右、六六ー六七頁]。
(13)  引用は、ハーバーマス『公共性の構造転換』の一九九〇年新版への序言から。
(14)  近代の政治理論において、とりわけリベラリズムの主張の核心をなす公的領域/私的領域の峻別を巡る議論において、いかに「家族」が除外されてきたかについて、Kymlicka はつぎのように論じている。「じっさいには、リベラリズムにおける<公的ー私的>の区別立てには二つの異なる考え方が存在する。第一の考え方は、ロックに始まる考え方で、政治的なるものと社会的なるもの、という区別立てである。第二の考え方は、ロマン主義の影響を受けたリベラルたちとともに生まれた考え方で、社会的なるものと個人的なるもの、という区別立てである」。第二の考え方は、第一の考え方の批判的応答として生まれてきた区別立てであり、社会的な画一性 social conformity に向けて個人の自由に圧力をかけようとする市民社会内に存在する権力から、個人の自己表現のために親密な領域を擁護しようとして生まれた。しかし、個人的自由の追求の場、つまり私的領域と、すべての者が平等に自由を追求できるために必要となる制度的取り決めの場、つまり公的領域についてのこうした二つのリベラリズムにおける<公的ー私的>の区別立てにおいては、「一般に、公的生活と私的生活の両方を構造化するとき、家族がいかなる役割を果たしているかについては、ずっと無視され続けてきた」[Will Kymlicka, Contemporary Political Philosophy:an introduction (Oxford:Oxford University Press, 1990), p. 250]。
(15)  チョドロウに対する批判としてもっとも彼女の意図からかけ離れているのは、彼女の議論が本質主義的であるという批判である。たしかに、チョドロウの著作に触発されたギリガンの『もう一つの声』には、本質主義の傾向が見られることは否めない。だが、安易な本質主義批判に耳を貸す前に、チョドロウ自身が『母親業の再生産』へ影響を与えた論文として挙げているゲイル・ルービンの「女性の交易」(一九七五年初出)へとわたしたちはもう一度遡ってみる必要がある。文化人類学を専門とするルービンは、まず、ジェンダー、セクシュアリティが深く文化に規定されていることを多くの例示でもって指摘し、さらに両者が政治、経済、宗教体系によって生み出され、逆に政治、経済、宗教は、ジェンダーとセクシュアリティの特殊なあり方によってその固有性を発揮する、と述べる。現在において、ジェンダー、セクシュアリティが、それに沿って政治や経済における財が配分され、また、文化的な価値付与がなされるような基軸であることが見えにくくなっているのは、家族がかつて持っていた機能を失っていったからである。しかし、実際にはいまだに、象徴的なレヴェルにおいて、ジェンダー、セクシュアリティはそのような基軸であり続けているし、異なる形で、同様の機能を果たし続けている。そして、この論文における彼女の結論とは、つぎの二つであるといえる。「一言でいえば、フェミニズムは親族関係における革命を必要としている」。「性的システムは、完全なる孤立のもとでは理解され得ない。……同様に、経済的、政治的分析は、もしそれが女性、婚姻、そしてセクシュアリティを考慮に入れていないならば、不完全である」[Gayle Rubin,”The Traffic in Women:Notes on the ‘Political Economy' of Sex, in Feminism and History, ed. by J.W. Scott (Oxford, NY:Oxford University Press, 1996), p. 137, 144. 長原豊訳「女たちによる交通−性の「政治経済学」についてのノート」『現代思想』第二八巻、第二号(二〇〇〇年、二月号)、一四六、一五三頁)]。
(16)  チョドロウが本書を出版した一九七八年にはまだ、一九七〇年に発表されたファイアストーンによる『性の弁証法』の影響力が強かったことを考慮に入れておかねばならないだろう。ファイアストーンの議論によれば、女は子供を産む性であるがゆえに、抑圧される性であることを免れない。その議論では、子供を産む者と育てる者とが同じである、ということが前提とされている。チョドロウはまず、mothering を nurturing と読み替えることで、「産む」ことと「育てる」こととの(当時、ほぼ当然視されていた)連関を切断しようとしている。Shulamith Firestone, The Dialectic of Sex:The Case for Feminist Revolution (NY:Bantam Books, 1970). また、ファイアストーン以後の mothering に関する議論に関しては、Hester Eisenstein, Contemporary Feminist Thought (Boston:G.K. Hall & Co., 1983), pp. 69-95 を参照。
(17)  たとえば、同じようにセクシュアリティを軸に構造化される男性/女性のアイデンティティ分析のためにラカンの精神分析に訴える Cornell によれば、こうした傾向を生む一つの理由は、チョロドウが「対象関係理論 object relations theory」を適用しているためである。つまり、この理論によれば、精神構造が社会構造によってジェンダー化されていると理解されるために、ではなぜ、つねにすでにそのような社会構造の中で生きている男性が、いかにして自らの精神構造に背いてまで母親業をすることを欲するようになるのかが説明できない。Cornell の批判にいかにして応えるかは今後の課題とし、ここではこうした批判もまた無視し得ない課題を提起している、と指摘するにとどめたい[Drucilla Cornell, Beyond Accomodation:Ethical Feminism, Deconstruction, and the Law, New Edition (Oxford, NY:Rowman & Littlefirld Publishers, INC, 1999), pp. 50-53)]。
(18)  たとえば、スペルマンはつぎのような例を挙げている。「合衆国における貧しい黒人の少年が、かれは男性であり、彼女たちは女性であるから、『男性』であることによって自分は白人女性たちを支配するに値する、と思いこんだとしたら、かれは自分が生まれてきた社会に充分適応できていない」[Spelman 1988:89]。また、彼女は階級を加味することよってさらに複雑な例を検討しようとしている[ibid.:esp. 153-155]。
(19)  本論稿では直接触れることはできないが、このように社会は、ジェンダー、セクシュアリティ、階級、人種などによって複雑に(しかも、ある者にとっては不正に)階層化されていると考えることで、家族の両義性とはどこから生じてくるのか、その所在が明らかになる。たとえば、フェミニスト理論において、家族はとりわけ性別役割を通じて個人のアイデンティティを決定している点で、セクシズムのイデオロギー強化、女性抑圧の場として批判される一方で、家族内で個々人が一つに統合することよって家族は、Home=「安全地帯」であり、敵対的な社会の悪意から家族の構成員を守る「緩衝体」として機能しているとして肯定的に評価されている[鄭暎惠「異文化適応と家族−民族と国家のはざまで−」上野、鶴見他編『シリーズ  変貌する家族  六  家族に侵入する社会』(岩波書店、一九九二年)所収。bell hooks, Yearning:race, gender, and cultural politics (Boston:South End Press, 1990)]。
(20)  この場合、家族が政治的領域とまったく同じ性格をそのまま帯びる必要がない。たとえば、近代国民国家の形成において、いかにジェンダー規範が利用されたかをつまびらかにした大越愛子は、近代国家成立の隠された要因が戦争であることを指摘したうえで、銃後を支える家族=女・子供と自分の家族を守るために戦争に向かう男の関係を「濃密な相補関係」と呼んでいる。戦時において戦い死んでいく男性たちの物語とそれを弔う女性たちの物語があって、初めて戦争をめぐる集団的記憶が国家統合の原理となり得るように。つまり、政治的領域での男性の役割を内在化しているがゆえに、家族は、政治的領域に必要な男性を再生産するよう機能すると考えれば、「政治のミニチュアとして家族」という定義は、本考の第一節で指摘した「否定形として政治を支える家族」という定義となんら矛盾しない[大越愛子『近代日本のジェンダー現代日本の思想的課題を問う』(三一書房、一九九七年)、一二六ー一三四頁]。
(21)  近代国民国家が家族を模した存在である、という指摘はこれまでに幾度となくなされている。しかし、この指摘が家族が国家に先行して存在することを前提としていることは、否めない。たとえば、アーレントは、近代国民国家を「一つの超人間的家族の模写 the facsimile of one super−human family」と定義している[Hannah Arendt, The Human Condition (Chicago:University of ChicagoPress, 1958), p. 29. 志水速雄訳『人間の条件』(ちくま学芸文庫、一九九七年)、五〇頁]。
(22)  ある政治体制のなかでマイノリティとされてきた様々な集団の権利を擁護しようとする多文化主義の主張や、フェミニズムにおける差異の政治は、価値を巡るヘゲモニー闘争においてこれまで破れてきた者たちが、勝者たちの価値に従うことに異議を申し立て始めたものだと考えることができる。つまり、これらの主義主張が掲げる政治は、私的領域や文化の領域から公的領域へと参加するときに、公的領域に相応しい規範への順応や同化が当然とされていることこそが公的論議にふされるべき主題であることを唱え始めている。しかし、このような要請に対して、旧態依然の公共の対話にふさわしいルール−合理性、不偏不党性、中立、争点から距離を保つこと−を強要することは、Connolly によってつぎのように批判されている。「しかし、この立場は公共の対話に信じられないほどの制約を課す。それは、公的空間において自らのアイデンティティを示し、それを擁護したり変更したりするよう人々を動機づけるような考慮のほとんどを締め出してしまう。それは、生とアイデンティティの最も緊密な領域にほとんど触れることのない最小国家(ミニマムスティト)を想定している」[William Connolly, Identity/Difference:Demoeratie Negotions of Political Paradox (Ithaca, London:Cornell University Press, 1991), p. 162. 杉田、斉藤、権左訳『アイデンティティ\差異−他者性の政治』(岩波書店、一九九八年)三〇〇頁]。
(23)  こうしたモデル化こそが、「白人中流階層の異性カップル」といった規範を再強化しているという批判はすでに多くなされているが、ここでは、それでもなおある体制が規範とする家族構成が存在する、という事実がいかなる政治的効果を発生させているかに注目するため、そのような批判に対する評価を行うことはしない。
(24)  たとえば、以下の議論で紹介するI・M・ヤングは、こうした特典が関係してくるものとしてつぎのものを挙げている。所有権、相続権、年金制度、税金面での控除、社会保障上の特典、クレジット所有、軍人遺族年金、そして、移民制度[Iris Young, Intersecting Voices:Dilemmas of Gender, Political, Philosophy, and Policy (Princeton:Princeton University Press, 1997), p. 103]。さらに挙げるなら、養子制度なども考えられよう。
(25)  現実に家族がどのような機能を果たし、また、どのようなひとびとが自分たちを「家族」とみなしているかをまったく省みず、辞書的に家族とは「何か」を決めてしまう法のあり方は、「法ではなく、イデオロギーである」。それは、「どの人間の諸制度を立法者が支持し、また、支持しないかをたんに表明しているにすぎない」。Martha Minow,”Redefining Families:Who's In and Who's Out, University of Colorado Law Review, 62/2 (1991), p. 271.
(26)  同様の文脈において、Selma Sevenhuijsen は、自立、自助をシティズンシップの徳として考えることについて、つぎのように批判している。「そのことは、ケアが政治におけるハンディキャップ、負担、あるいは、『必要悪』として現れることを意味している。このイメージは一面的であり、ある意味では有害ですらある主体性に関わる理念である。というのも、そのことによって、シティズンたちは、自分たちのシティズンシップを行使するさいに、ニーズやニーズをめぐる諸問題を自分自身のなかに見ようとせず、他者の中に見ようとしがちになるからである」[Selma Sevenhuijsen, Citizenship and the Ethics of Care:Feminist Considerations on Justice, Morality and Politics (NY, London:Routledge, 1998), p. 28]。
(27)  現実のわたしたちの生活においては、一方的な他者への依存と無償でその依存に関わるケアやニーズを引き受けること、といった関係が実際に多く見られる。それにもかかわらず、リベラリズムの伝統では、個人の選択能力を重視するために、依存 dependency を巡る議論は不問に付され、相互依存といってもあくまで、自立した対等な個人を前提とした相互関係性 reciprocity にすぎなかったことを指摘するものとして、以下を参照。Eva Feder Kittay,”Taking Dependency Seriously:The Family and Medical Leave Act Considered in Light of the Social Organization of Dependency Work and Gender Equality, in Femiist Ethics & Social Policy, eds. by P. DiQuinzio and I.M. Young (Bloomington and Indianapolis:Indiana University Press, 1997). この論文では、「相互依存と平等のイデオロギー」が、いかに依存を巡る関心を私的領域へと押しやり続けているか、を明らかにしている[ibid., esp., pp. 12-16]。すなわち、相互に助け合うことのできるほどの自立した人間とは、どのような存在であるかというと、かれらは私的領域に一方的な依存とそれを引き受けるという−おそらく誰しもが一度は経験しているであろう−関係を押し込めることで、言葉を換えるなら、そうした関係を足下に踏みつけることで、自ら立つことができる存在である。
(28)  ここで表徴 sign とは、Linda Zerilli の用法に従っている。つまり、ここで意図していることは、ある言葉が「語っていることとその意味上の一致という直接の連関」ということよりも、その言葉が「いかに表現されているか」、あるいは、その言葉がおかれている「文脈」に注意を寄せることで、その言葉が含意してしまうことを読みとることである。Linda Zerilli, Signifying Woman:Culture and Chaos in Rousseau, Burke, and Mill (Ithaca, London:Cornell University Press, 1994), p. 7.
(29)  統計的に見て、シングル・マザーに対するステレオ・タイプなイメージ(黒人の働きたがらない十代の少女たち)と実際のシングル・マザーたちの実態がいかにかけ離れているか、についてもヤングは論じているので、是非参照されたい[Intersecting Voices, pp. 116-120.]。
(30)  「ある特定のニーズ」ということは、強調されておかねばならない。というのも、どのニーズが公的に充たされてしかるべきニーズであるかが、つねにすでに政治的に決定されているからである。こうした決定を経て、個人が家族の領域内で充たすべきニーズは、公的領域へと侵入してこないように、と制度上、法律上規制を受ける。たとえば、Tronto によれば、<倫理と政治>のあいだの境界線、道徳的見地を設定する境界線、そして<公的生活と私的生活>のあいだの境界線、という三つの境界線が、現在の権力者の地位を維持するために機能していることを、そのような境界線が存在する社会とは異なる社会を構想していたスコットランド啓蒙における道徳論を検証することで論証しようとしている。現在では、この三つの境界線が存在することによって、ある者のケアのニーズは、他の者のケアのニーズよりも完全に充たされることになる。そして、この不平等な配分は、権力関係に沿って行われている。権力者は、かれらのニーズがその社会において他の者のニーズよりも重要であることを知っており、また、他の者のニーズがなぜ自分たちのニーズよりも考慮されなければならないかを理解しようとしない。ある者たちのケアを家族の領域の問題、政治的問題ではなく倫理の問題へと押し込めることは、こうした権力者の「特権的な無責任」に対して口実を与えることに他ならない[Joan Tronto, Moral Boundaries:A Political Argument for an Ethics of Care (NY, London:Routledge, 1993), pp. 146-147]。
(31)  たとえば、やはりシングル・マザーが社会的にスティグマ化されている状況を批判する Fraser は、つぎのように現在の福祉国家におけるフリー・ライダーの大半は男性であると指摘する。「保守的主張に反して、現在の体制における真のフリー・ライダーは、雇用されることを回避している貧しい独身の母たちではない。そうではなく、ケアの仕事 carework と家庭内労働の責任をのがれているあらゆる階級の男性たちである」[Nancy Fraser, Justice Interruptus:Critical Reflections on the Postsocialist Condition (NY, London:Routledge, 1997), p. 62. 強調は原文]。
(32)  ここでもまた、脚注(20)で参照した、大越の「濃密な相補関係」という指摘を思い出してもらいたい。
(33)  「ホーム」は差異を排除する同一性の場であるとして、ホームへの郷愁を断ち切ることがフェミニストには必要である、と主張するフェミニストの議論としては、次の論文を参照。Bonnie Honig,”Difference, Dilemmas, and the Politics of Home, Social Research 61/3 (Fall 1994). 拙訳「差異、ディレンマ、ホームの政治」『思想』八八六号(一九九八年、四月)。
(34)  たとえば、これはオゥキンがロールズの配分の正義を家族の領域にも適用しようとするときの提起である。しかし、配分のパラダイムは、Sevenhuijsen によれば、つぎの三つの問題を孕んでいる。
  @  論理的レヴェル、レトリック・レヴェルでの問題。平等な扱いが平等な結果を生むであろう、という論理は、説得的であるが、実際には、こうした推論は、循環的、かつ思弁的である。というのも、現実には、そのような平等は存在しないため、原初状態の平等は規範としてのみあるにもかかわらず、あたかも現実の記述として平等な状態があるかのように考えられてしまう。それによって、ひとびとの間の扱いに違いが存在すると、あたかもかれらが違っていたから扱いにも違いが生じた、と考えられてしまう。そもそも、ある原理を選択するときの状態が、平等であるべきだ、と想定することが間違っている。
  A  政治的問題。あらゆる特殊な状況を捨象した普遍的原理は、「同じであること」を基本原理とし、再配分における結果の平等を政治的課題としている。そのために、暴力、傷つき安さ、複数性といったその他の問題は、政治的問題としては周辺化されてしまう傾向がある。たとえば、こうした普遍的原理の下では、女性は合理的選択者となるべきであり、ジェンダーの違いは最小限にとどめることがフェミニズムの課題となる。そしてもし、女性が「女性として」発言するならば、彼女は「フェミニン」のレッテルを張られることになるか、伝統的なステレオタイプを継承しているにすぎない、と非難されることになる。配分パラダイムは、権利、社会財、義務の配分を決定するだけでなく、語られるべきこともまた配分してしまうのだ。
  B  アイデンティティと政治の問題。配分が政治の最大の関心となることは、アイデンティティの問題を教育、養育の問題に還元してしまいがちである。つまり、白紙状態の人間がどのような財を受け取ったかによってアイデンティティが決定される、と考えてしまう。逆説的なのは、このようにあたかも社会によって白紙の人格に内容が与えられると考えられることによって、じっさいにある人格にとって、彼女たちの生がどのような意味・価値を持っているのかに対する関心が軽減することである[Sevenhuijsen 1998:42-44]。
  Sevenhuijsen の議論は、Young による配分パラダイム批判を基にしている。Young によれば、社会正義を配分の正義に還元して論ずることは、なぜそのような配分が必要であるのか、また現在の配分がなぜ繰り返されるのか、といった文脈から目をそらすことになる。たとえば、ある配分パタンに注目するために、誰が配分のパタンを決定したか、どのような手続きがとられたか、あるいは分業や文化の問題を扱えない。また、権利や権力までをも配分という視点から考えることは、権利や権力を物象化することに他ならず、両者がともにひとびとの間の或る相互関係性を捉えた概念であることを失念している。このような配分パラダイム批判によってヤングは、配分のパタンではなく、配分が生じるプロセスに注目する批判理論の必要性を説いているのだ[Iris Young, Justice and the Politics of Difference (Princeton:Princeton University Press, 1990)]。
(35)  このようなプログラムを構想するうえで、刺激を受けた論考、著作として、是非以下を挙げておきたい。大川正彦『正義』(岩波書店、二〇〇〇年)、竹村和子「アイデンティティの倫理−差異と平等のパラドックスのなかで−」『思想』九一三号(二〇〇〇年、七月)。