立命館法学 2000年3・4号上巻(271・272号) 148頁




日本企業社会と現代人権論

− 就業時間中の組合腕章・バッジ着用をめぐって −


大久保 史郎


 

は  じ  め  に

  わが国では、五〇年代、六〇年代の高度経済成長期をへて、七〇年代半ば以降、「会社主義」、「企業社会」と称される強力な企業支配とこれを中核とする集団・団体優位の現代日本社会が成立した。これに対して、八〇年代に入って、「方法的個人主義」ないし「個人主義的憲法観(1)」あるいは「自己決定権」論(2)など、個人主義の現代的意義を最重要視する観点から現代社会・国家における個と集団・組織のあり方を再考する現代人権論・憲法論が試みられてきた。ところが、九〇年代半ばに入るや一転して、企業社会の変容が喧伝され、「個人主義化」や「個の確立」が企業(3)や政府(4)の側から提唱される状況も生まれている。
  こうした「個の尊重」や「自己決定権」は現代社会・国家の様々な領域・側面で問題となりうるが、日本における具体的なありようが最も原理的かつ厳しく問われるのが企業現場の労使関係、労働関係においてである(5)。そこで、本稿は、就業時間中の組合腕章の着用を理由とする懲戒処分について、不当労働行為申立てをしりぞけた最近のある地方労働委員会の決定(6)を素材に、日本企業社会における人権状況の特質を検討する。
  前半で、今日の労働現場における就業時間の腕章、バッジ・プレートなどの着用が、団結権行使としての組合活動としてだけでなく、労働者個々人の表現・結社の自由および人格的自由としての意義を担い、この視点から、本件懲戒処分を全面的に容認した地労委決定の論理を批判的に検討する。後半では、就業時間中の腕章、バッジ着用をめぐる判例・決定や労働法学説の動向と現状を検討する。ここで焦点となる職務専念義務論や「企業秩序」論が、団結権はもとより市民的、人格的自由への脅威や侵害を特徴とし、その特殊日本的な性格と背景を分析することによって、現代人権論の課題に接近したい。

(1)  樋口陽一『権力・個人・憲法学』(勁草書房・一九八九)三一頁以下、同『近代国民国家の憲法構造』(東京大学出版会・一九九四)U章三三頁以下、同『近代憲法学にとっての論理と価値』(日本評論社・一九九四)一六八頁以下、同『転換期の憲法?』(敬文堂・一九九六)六五頁以下。
(2)  佐藤幸治「日本国憲法と『自己決定権」』法学教室九八号六頁、「憲法学において『自己決定権』をいうことの意味」(法哲学年報一九八九)八五頁、同『憲法(第三版)』(青林書院・一九九六)四四三頁以下。
(3)  日経連『新時代の『日本的経営』』(一九九五)。
(4)  「21世紀日本の構想」懇談会報告書『フロンティアは日本の中にある』(二〇〇〇)。報告書は「企業と個人は、それぞれ何を与え、何を求めるかを明確にしたうえで対峙し、相互関係を確認した上で契約を結ぶといった意味で対等な立場に立ち、新たな関係を構築することが望ましい」として、「個の確立」を提唱する。
(5)  大久保史郎「『自己決定』論と人権論の課題」法律時報六八巻六号一一二頁。
(6)  本稿は、中央労働委員会に系属中のレオン自動機不当労働行為事件(平成一〇年(不再)第三二号レオン自動機(減給処分)の栃木県労働委員会決定(レオン自動車事件(一・三号)命令(栃木・平成九不一、平成一〇年八月六日決定−以下、地労委決定または決定と略)に対して、私が提出した意見書(平成一二年八月二七日付け)をもとにしている。


一  就業時間中の腕章・バッジ着用をめぐる労働委員会決定


(1)  レオン自動車不当労働行為事件地労委決定
  栃木県地方労働委員会は、就業時間中の腕章着用を理由とする懲戒処分に対する組合側の不当労働行為申立てに対して、これを棄却する命令(以下、地労委命令または決定と略)をおこなった。事案は、次のとおりである。栃木県の食品機械製造・販売をおこなう資本金七三億円、従業員八二〇名の会社で組織された全日本金属情報機器労働組合支部は、八〇年代半ばの結成直後は三五〇名を超えた時期もあったが、会社側との厳しい対立の中で、第二組合の結成や会社の反組合政策(差別、介入、脱退強要等)によって、九〇年代後半にはついに組合員一三名になっていた。このなかで、組合員は就業時間中の腕章、春闘バッジ、プレート等の着用をおこなってきた。
  腕章は、左腕に幅八センチメートル、赤地に白で「団結」、あるいは「全日本金属レオン自動機支部」と記載する形をとっている。バッジはいわゆる春闘バッジであって、直径約一センチメートルの金属製で、その年度−例えば「86」−をかたどったデザインであった。また、プレートは縦約三センチメートル・横六センチメートルの赤地に「要求貫徹、全日本金属情報機器労働組合」と記載したものであった。これらの着用は組合方針の場合もあったが、組合の指示がないまま、何人かの組合員が自主的判断で着用する場合があったことが認定されている。どの場合も、接客業務に従事する組合員が付けることはなく、生産工場に限っての着用であった。これに対して、会社側は就業時間中の腕章着用を就業規則(服務の基準)違反として、組合役員三名の減給処分をおこなった。組合側がこれを不当労働行為として県労働委員会に申し立てたところ、次のような決定がなされた。
  腕章着用は、「平常は着用しない腕章着用を組合員が着用し、その腕章に組合名やスローガンを記載することにより、使用者に組合の存在や要求を意識させ、その要求を実現させることを目的として行われるものである。これらはそれ自体表現の自由の一面をもつとしても、基本的には団結権ないし団体行動権行使の一態様と理解するのが相当である」としたうえで、「しかし、就業時間中の腕章着用が団結権ないし団体行動権の保障をうけ適正であるためには、当該腕章着用が労働組合の行為として正当なものでなければならず、その正当性の判断にあたって、労使慣行の有無や職務専念義務に違反するか否か、また、使用者の業務を阻害するか否かについて具体的に検討しなればならない」として、以下の三点の判断を示している。
  まず、「労使慣行の成立について」では、過去数年間、文書での中止申し入れや処分を行わなかった事実があったとしても、組合の腕章着用を承認ないし黙認していたと認めることができず、慣行成立の主張は採用できないとした。
  「職務専念義務違反について」では、「一般に、労働者は労働契約を締結することにより、就業時間中は職場規律を守り使用者の指揮に服して労務の提供を行うべき職務専念義務を負うものであり、就業時間中の組合活動は、使用者の明示もしくは黙示の承諾があるか労使間の慣行上許されている場合のほかは、原則として職務専念義務に違反するもの」であり、「本件組合員の就業時間中における腕章着用は、たとえ、労務の提供に具体的支障がなくても、職務専念義務に違反するもの」である。
  そして、「業務阻害について」では、腕章着用の組合員は接客業務に従事していないとしても、顧客や一般来客等が工場を見学し、見学ルートを通る顧客に腕章着用が容易に認識されるから、「生産現場における組合員らの本件腕章着用行為は接客業務の従業員のそれと異なること」はなく、「顧客等の多くは、従業員の職務に対する姿勢に疑問をもち、ひいては会社の生産体制に危惧を有することになるのであるから、会社の対外的信用の低下は避けることができないものと考えられる。また、同じ生産現場に働く非組合員にたいしても違和感や不快感を与えることとなるから、たとえ、会社の生産性や効率性が低下しなくとも、会社の業務を阻害しているものと言わざるをえない」。
  決定は、以上のように述べて、「本件腕章着用が職務専念義務に違反し会社の業務を阻害するものである以上、正当な組合活動とは認められず、会社が組合三役に対して懲戒処分をおこなったのは止むを得なかった」と判断し、処分としての必要性、相当性の範囲も超えないとして、労組法七条が禁止する不当労働行為とは認められないとした。

(2)  腕章・バッジ着用の基本的性格
  本件を検討する出発点は、労使の対抗・緊張関係における腕章・バッジなどの着用行為をどのような意義と性質をもつ行為としてとらえるかである。地労委決定は、腕章着用を「それじたい表現の自由の一面をもつとしても、基本的には団結権ないし団体行動権行使の一態様」と述べているが、しかし、ここで曲がりなりにも言及された腕章着用行為の基本的性格と権利性は、その後の検討・判断のなかでは一切言及されることもなく、逆に、使用者側からの職務専念義務違反、業務の阻害だけが一方的に認定される論旨となっていた。
  一般に労働者の団結権ないし労働基本権は、歴史的には財産的自由と対抗するが、他の市民的諸自由・権利とは相互補完的な関係をもって形成される。そのあり方は各国の歴史、法制度や法的保障のあり方、また、法的伝統によってさまざまな形をとりながら、憲法上、実定法上の権利として結実する(7)。わが国では、憲法上、二七条の労働権、二八条の団結権・団体行動権、また憲法二一条をはじめとする一連の市民的自由と権利、そして、こうした権利・自由の前提となる一三条の個人の尊重の諸規定となり、これにもとづく労働組合法、労働基準法などの労働・雇用法が制定されている。
  本件で、組合員が就業時間に着用したのは「団結」ないし「全日本金属レオン自動機支部」と記載した組合腕章(本件懲戒処分の直接の対象)、「要求貫徹、全日本金属情報機器労働組合」と記載したプレート、あるいは年度の数字をかたどっただけの春闘バッジなどである。着用目的は組合要求の実現ないし示威を意図した場合から、個々の組合員の相互連帯の表明、あるいは、たんに自己の組合所属を表示するにとどまる場合があることが認められている。その着用形態も、組合の方針にもとづく組織的な組合活動としての場合もあれば、組合方針ではなく、個々の労働者の自発的意思による場合があったことが認定されている。本件申立ての時期には、腕章、プレート、バッジ等の着用は積極的な組合活動、団結示威活動というよりも、使用者との厳しい対抗・緊張関係の中での自己防衛的なものであって、個々の労働者・組合員による組合所属の表明、確認にとどまるというべきだろう。
  そして、さらに会社側の差別・介入・脱退強要によって状況が深刻化するなかで、腕章等の着用は、団結権や表現・結社の自由の行使以前の、いわば自己の人格的、自律的存在を個々の労働者がみずから確認するためのものになっていた。本件申立人(労働者)側の準備書面の中で、個々の組合員が腕章着用を「いじめに負けそうな自分自身の弱い気持ちを支えてくれるもの」、「私達少数組合の心の怒りを赤い腕章に託している」、「人間として生きていくために目には見えないあらゆる思いが込められている」ととらえていたことが示されている。ここでは、腕章やバッジの着用は通常の団結活動や組合員個人の表現行為をも超えて、「人間である」ということじたいの自己表現、自己の存在確認を意味した。すなわち、個々の労働者の表現・結社行為であるだけでなく、個人の尊厳尊重、自己決定という、より根源的な人格的自由としての性格を強く帯びていることが明らかになっている。
  こうして、腕章・バッジ等の着用は、集団的権利としての団結権の行使と労働者個々人の市民的・人格的な権利・自由としての性格を複合的、重畳的に担う行為であり、労使対立・緊張の具体的な対抗関係の中で、その多面的な姿を顕在化させる、と見ることができる。そうであるとすれば、本件の懲戒処分は、自由・人権のいわば究極的な価値としての人格的自由・自己決定に向けられ、かつ、これを否認するものであると、とらえられなければならない。
  しかし  実は、この腕章・バッジ着用を理由とする懲戒処分が根拠とした就業規則は、日本の企業一般でそうであるように、「従業員は、この規則を守り、互いに人格を尊重し、かつ、上長の職務上の命令に従い、秩序正しく就業し」と規定する。こうした規定とは裏腹に、労働組合の団結権はもとより、その前提をなす個々の労働者の市民的・人格的自由も日常的かつ直接的に脅威にさらされる事態が現代日本企業の労使関係、労働環境ということになる(8)

(3)  不当労働行為制度の意義と判断枠組
  地労委決定は、不当労働行為の成否を「労働組合の正当な行為」性に求める論理構成をとっている。不当労働行為制度は、団結権の実効的な保障と是正・救済を目的とするから、一般には、「正当な」組合活動か否かに焦点をあてることに不思議はない。しかし、組合活動・団結活動は、元来が労働者の個別的行為・態度の集積としての集団的活動であり、不当労働行為制度は、この団結活動の実体であり、基盤である労働者の個別的な活動・行為に対する使用者側からの妨害や不利益扱いを実効的に防止・是正する制度的措置であった。
  この点からみて、労組法七条一号が「労働者が労働組合の組合員であること、労働組合に加入し、若しくはこれを結成しようとしたこと若しくは労働組合の正当な行為をした」を理由とする使用者の不利益取扱いを不当労働行為と規定し、「組合員であること」や労働組合への「加入・結成」を「労働組合の正当な行為」と並ぶ独立の不当労働行為成立の要因と規定したことに注目してよいだろう。しかし、一般には組合活動をめぐる不当労働行為の申立はおしなべて当該組合活動の「正当性」の問題に吸収され、「組合員であること」や組合への加入・結成じたいに着目した不当労働行為法上の検討に乏しい(9)
  その一つの理由は、組合所属や加入・結成に対する使用者の不利益扱い(解雇)は、黄犬契約の禁止が示すように、歴史的にみても、使用者による団結活動の妨害・抑圧のもっとも古典的な形態であって、その禁止があまりに当然視されてきたからであろう。しかし、所属および加入・結成という結社行為はすべての組合活動の起点であり、同時に、その帰結でもあって、これらに対する不利益取扱いの禁止が不当労働行為制度の「総則的規定の位置(10)」を占めることの意義を現代において、あらためて再確認する必要が生まれているのである。これらの組合の結成・加入・所属という結社行為は、それじたいとしては個々の労働者の主体的な決定という、市民的自由であって、団結権はこうした市民的自由としての結社行為を内在させつつ、これを実質化させることによって成立し、ついには憲法上の権利となった。その実効的保障が不当労働行為制度であった(11)。労組法七条一号はこうした団結権保障と市民的自由の重畳的・相互補完的な関係を明確に物語る不当労働行為法上の規定にほかならない(12)。腕章・バッジ等の着用は、この意味で団結権保障の原点にかかわる行為として、不当労働行為制度上の保障・救済の対象そのものであった。
  こうして、本件において、不当労働行為の成否を形式的な組合活動の「正当性」判断に求めた地労委決定は、腕章・バッジ着用の権利性を看過しただけでなく、不当労働行為制度の規定と趣旨に反する判断にほかならない。しかしさらに、決定が正面から取り組んだはずの組合活動の「正当性」の判断じたいも大いに問題であった。

(4)  地労委決定の「正当性」判断
  (a)  労使慣行の有無
  地労委決定は、使用者側による腕章着用の中止の申し入れ等の事実をもって直ちに腕章着用は「慣行して成立していない」と結論づけた。しかし、慣行不成立だとしても、そのことが当該懲戒処分の正当性や不当労働行為性の否認に直ちに結びつくわけではない。就業時間中の腕章着用に関する労使慣行一般が否認されるとしても、本件腕章着用がいかなる意味で懲戒処分の対象となるのか、その個別的、実質的な判断が必要になる。
  (b)  職務専念義務違反
  地労委決定は、就業時間中の組合活動は「原則として職務専念義務に違反する」と述べている。しかし、「労務の提供」との関係でとらえられるべき「職務専念義務」がいかなるものであり、腕章着用行為がいかなる意味でこれに抵触するかの具体的な説明はない。かえって、腕章着用は「たとえ、労務の提供に具体的な支障がなくとも、職務専念義務に違反する」とする。もし、職務専念義務を労務提供の内容と無関係な部分を含めることができるとするならば、それはただ「職場規律を守り使用者の指揮に服する」こと、その無条件的な服従を要求することになり、労働者の団結活動はもとより、労働契約上の労務提供義務に抵触しない市民的自由も、さらに、その人格的、自律的存在じたい使用者の意の下におく、これが地労委の想定する労使関係観、すなわち、ここでいう職務専念義務論となるだろう。にもかかわらず、これほど重大な結果をまねく職務専念義務観念がいかなる根拠と背景にもとづくかの説明はなく、決定の論理が一方的、断定的にすぎることは否定できない。
  (c)  業務阻害
  地労委決定は生産現場であれ、接客業務であれ、腕章着用によって「顧客等の多くは、従業員の職務に対する姿勢に疑問をもち、ひいては会社の生産体制に危惧を有する」とし、「会社の対外的信用の低下は避けることができない」とする。また、企業内において、腕章着用は「同じ生産現場に働く非組合員に対する違和感や不快感を与え」、「会社の生産性や効率性が低下しなくとも、会社の業務を阻害している」と言明する。ここでは、職場における同じ労働者の「違和感」や「不快感」がすでに確定的に扱われ、これを根拠に「業務を阻害している」と即断しながら、他方で、この場合の「業務」は「生産性や効率性」と無関係であるとも言明するのである。
  要するに、本決定は、「疑問」「危惧」「違和感」「不快感」という漠然かつ一方的なおそれを強調しながら、これらが腕章・バッジ着用行為によって生み出されたか否かの説明がない。さらに、これらの「疑問」「危惧」「違和感」「不快感」がどのようにして「会社の業務を阻害」したのかの説明もない。原因と結果の結びつきを明らかにしないだけでなく、「業務の阻害」の判断は「会社の生産性や効率性の低下」とは無関係になしうるというのだから、この「業務阻害」論が説明抜きの一方的な断定であるという以外にない(13)

(5)  小    括
  労働関係・労使関係は使用者と労働者の間の労働契約によって成立する。この労働契約(合意)は、労働者が市民的自由・権利をもつ自律した人格であることを第一の前提とする。第二に、労働者は継続的、画一的な労働契約にしたがって、使用者の指揮命令の下に置かれるが、それがあくまで労働契約上の権利・義務に服するのであって、それ以上ではない。そして、第三に、ここに成立する労使関係・労働関係は労働者の実質的な自由と平等の確保のための団結権を必要とし、これを憲法上の権利とする。使用者によるこの団結権承認が現代的な労使関係成立の前提となる。この三つの前提を充たすことによって、はじめて今日の労使関係、労働関係は合憲法的、合法的となりうるのであり、そのための実効的、具体的な措置が不当労働行為制度なのである。
  ところが、本件の地労委決定はことごとく、こうした前提に反する一方的な論旨を展開した。第一に、労働者の団結権はもとより、この団結権に内在し、かつ、固有に価値をもつ市民的権利・自由やその基礎にある人格的自由に対する理解・考慮をまったく欠く。第二に、この決定が基礎とする労働契約観、労使関係観が対等・独立の当事者による労務の提供と報酬の支払いの合意という近代的な労働契約観とは基本的な理解を異にする。そして、第三に、労使間の対抗・緊張関係を前提に、労働者の団結活動や権利・自由に対する使用者からの侵害、圧迫を防止するための不当労働行為制度や労働委員会の役割を自覚していない、と言わざるをえない。
  こうした決定の基盤ないし原動力になったのが、労働者は、就業時間中、事柄のいかんをとわず、使用者の包括的、自由裁量的な指揮命令と企業秩序の維持の下におかれる、という労使関係観である。この種の論理をそのまま採用する労働委員会命令(決定)は少なくとも民間の労使紛争に関しては例がない(14)。しかし、七〇年代半ば以降の裁判所の労働判例としてまれではなく、とくに最高第三小法廷を中心とする裁判例理論において有力に展開されてきたものであって、企業社会日本特有の社会構造的な背景をもっていた。

(7)  団結権が市民的自由を基礎とする点について、片岡f『労働法の基礎理論』(日本評論社・一九七四)一六三頁、西谷敏『労働組合法』(有斐閣・一九九八)二六頁、佐藤『憲法[第三版]』注(2)五五〇頁、中村睦男「労働基本権」(芦部信喜編『憲法V人権(2)』(有斐閣・一九八一)四八四頁、奥平康弘『憲法V』(有斐閣・一九九三)二七七頁など。なお、最近の団結権論の動向について、三井正信「労働組合と労働者の自己決定」法時六六巻九号六六頁参照。
(8)  角田邦重「企業社会における労働者人格の展開」日本労働法学会雑誌七八号五頁。
(9)  道幸哲也「労働組合員たることの保護法理」法律時報七〇巻一〇号(一九九八)四三頁。
(10)  道幸「労働組合員たることの保護法理」注(9)四七頁。
(11)  西谷『労働組合法』注(7)一三八頁以下。中山和久『不当労働行為論』(一粒社・一九八一)四九頁。
(12)  結社の自由と団結権との関係について、西谷『労働組合法』注(7)四四ー四五頁、中山和久『ストライキ権』(岩波書店・一九七七)一二〇ー二一頁。なお、菅野和夫『労働法(第五版)』(弘文堂・一九九八)が、不当労働行為として禁止された行為の「多くは市民法上は使用者の権利・自由に属する」が、「市民法上、たとえ使用者の権利や自由に属する行為であっても、労働者が団結し団体交渉することを擁護し助長する観点から望ましくない行為として禁止され、是正の対象とされる」(六四八頁)とする。この理解に従えば、相互に対立する労使双方の市民的自由・権利のうち、一方を禁止し、他方(労働者側)を保障する、実質化することによって、団結権保障が実現されることを意味する。これは労働者の市民的自由と団結権の重畳的、相互補完的関係を指摘することにほかならない。もっとも、菅野はこれらの禁止は「不当労働行為救済制度において」であり、「法体系上(裁判規範上)も当然に違法となるわけではない」(同頁)とするが、これがたんなる政策的意義をとどまらない、規範的な意義(違法性)を意味することも明らかであると思われる。
(13)  本決定が強調する顧客の「疑問」「危惧」や非組合員の「違和感」「不快感」は、それじたいとして、相互に独立した市民が自由に懐きうる感情である。しかし、それは直ちに腕章着用等などの禁止・制限の理由にならない。腕章着用がどのような具体的な影響・実害を引き起こしたかの立証が必要となるからである。「対外的信用の低下」や「業務の阻害」を理由とする場合も同じである。それが対等・独立した人格の間による労働契約ないし近代市民法一般の論理である。にもかかわらず、地労委決定が描き出す企業現場は、「疑問」・「危惧」・「違和感」・「不快感」などの主観的な感情や対外的信用、業務阻害の「おそれ」などを口実に、使用者が一方的な指揮命令や秩序維持に労働者をおき、その意のままに措置しうるという論理は契約概念によっては説明できないだろう。
(14)  労働委員会は一般に、就業時間中の腕章、組合バッジ等の着用の懲戒処分について、これを不当労働行為とする厳しい態度をとってきた。本件の栃木県地労委決定は少なくとも民間企業の事例としては始めての事例に属する。


二  腕章着用をめぐる判例・命令と学説の動向


(1)  当初の判例・命令と学説
  戦後長い間、日本の労使関係において、リボン・腕章・ワッペン・鉢巻き等の着用は、争議行為ないし労使紛争時によく見られる光景であって、就業時間中にも労働者の要求や団結意思を使用者に示し、また、労働者の仲間意識、団結意識を維持・強化する効果的な組合戦術としてよく用られてきた。これをめぐって、多数の労働委員会命令や判例が生み出された(15)が、七〇年代前半まで、労働委員会命令は概して、「現実に業務の阻害が生じたとは認められない以上、それが生じた場合の当否を問題とするまでもなく正当な組合活動である(16)」としてきた。判例も、リボン等の着用戦術を労使の紛争状態を背景にした争議行為に準じる積極的な組合活動としてとらえて、これが就業時間中であるとしても、労務提供や業務運営に具体的な支障をもたらさない限り、「正当な組合活動」とする傾向にあった。
  例えば、このリーディング・ケースとされた灘郵便局事件神戸地裁判決(神戸地判昭四二・四・六労民集一八巻二号三〇二頁)は、「さあ!  団結権で大幅賃上げをかちとろう」記載のリボンおよび「全逓灘郵便局支部」の記章着用が就業規則(服装規定と勤務時間中の組合活動禁止規定)違反とされた事件について、「労働者が労働法上保障された労働基本権を行使する場合で、しかも労働者が雇傭契約上の義務の履行としてなすべき身体上精神的活動を何等矛盾なく両立し業務に支障をおそれのない組合活動については例外的に許されるものと解するのが相当である」として、とくに本件のリボン着用闘争を「憲法及び公労法上認められる勤労者の団結権の行使としてなされた示威行為であってその必要性が認められる」と判示している。こうして、労働委員会命令や判例の多くは、リボン着用闘争の「正当性」判断を雇用契約上の義務ー労務提供の面と、集団的な団結権行使の権利性の両面から行い、とくに、右記の神戸地裁判決が示すように、後者の団結活動の正当性に重点がおいた判断がこの時期の特徴となる。
  労働法学説も、集団的な権利である団結権の行使としてとらえて、その正当性を憲法二八条の団結権保障による使用者側の「受忍義務」として構成する見解が大勢を占めた(17)。この時期までのリボン・腕章着用行為が、一般に労使の紛争状態の下で採用される組合戦術であったことから、団体行動権ないし積極的な団結権行使という理解を前提に、その「正当性」を評価したということができるだろう(18)。その後、これを「団結権行使型」と「団体行動権行使型(19)」あるいは「内部運営型組合活動」と「示威対抗型組合活動(20)」に区分するようになったが、いずれにしても憲法二八条にもとづく集団的権利としての団結活動の「正当性」評価を先行させたのである(21)。後に台頭する受忍義務説論に対する批判としての違法阻却説も、争議行為・団体行動権に与えられる民事免責を念頭に就業時間中の組合活動の正当性を否定したのであって、リボン闘争等を集団的な組合活動として捉える点で違いはない(22)
  この時期までのリボン等着用の「正当性」論の第二の特徴は、就業時間中の組合活動の禁止を原則として、その「例外」事由として「正当性」を論じたことである。前述の灘郵便局事件神戸地裁判決は「勤務時間中の組合活動が原則として禁止されることは、労働者は勤務時間中使用者のために完全に労務を提供しなければならない雇用契約上の義務を負担していることから、むしろ当然というべきであるが、しかし一切の例外を許さないものとは解されず、労働者が労働法上保障された労働基本権を行使する場合で、しかも労働者が雇用契約上の義務としてなすべき身体的精神的活動となんら矛盾なく両立し業務に支障を及ぼすおそれのない組合活動について例外的に許される」と判示していた。また、中部日本放送事件(仮処分事件)名古屋高裁判決(名古屋高判昭四四・一・三一労判七三号三一頁)も「組合員である従業員は、雇傭契約の本旨に従い、就業時間中は労務提供の義務をおっている関係上、これと矛盾抵触する組合活動を就業時間内に行う余地はない。したがって、リボン等を着用することが円満な労務提供を阻害するものであれば、就業時間内の組合活動として規制されてもやむをえない」としてうえで、労使双方の法益の具体的な比較衡量が必要と判示している。
  労働法学説もまた、就業時間中の組合活動が「原則」として禁止され、「例外」的にのみ認められるという判断枠組みの下で、憲法二八条団結権保障による組合活動の「正当性」を論じていた(23)。集団的、積極的な組合活動を想定するかぎり、通常の業務命令の下におかれる平時の労働関係において、その正当性を「例外」として論ずる以外にないと考えたのである。しかし、通常の業務遂行と十分に両立する多様な組合活動を想定した場合には、使用者側の業務命令との日常的、具体的な対抗関係のなかで、その「正当性」を検討することになるのだから(24)、この使用者の権限と個々の労働者の権利・自由との対抗を個別的労働関係ないし労働契約上のそれとして実質的に検討する必要性があった。この視角からの労働契約論上の検討は遅れていたという以外にない(25)
  これに対して、アメリカでは、一九三五年の全国労働関係法の制定以来、連邦最高裁判例(Republic Aviation Corp. v. NLRB, 324 US 793, 1945)によって、就業時間中のバッジ・リボン等着用の権利を「組合活動の合理的かつ正当な形態」として承認し、これに対する使用者の禁止・抑制や言動を不当労働行為とする原則をすでに永年にわたって確立してきた。ここでは、労使双方による労働契約上、労働協約上の交渉力の対等化の見地から、不当労働行為制度が設定され、両者の間に実質的な「調和と均衡」を保つことを就業時間中も求める結果、就業時間中の組合標識に対する使用者側の禁止・制限は労働者の結社活動の自由(Freedom of Association)侵害、干渉であって、これを不当労働行為とする命令および判例理論を確立し、例外的に使用者側が「特別な事情」を立証できた場合にのみ、不当労働行為の認定を免れるという処理を行ってきた(26)。それゆえに、日本において、リボン・腕章等の着用が結果として正当な組合活動と認められた場合でも、それは「アメリカの原則と例外があたかも転倒した形で構成されている(27)」と評されたのである。

(2)  職務専念義務論と「企業秩序」論

  (a)  精神的職務専念義務論の登場
  七三年以降、職務専念義務や就業規則の服装規定を根拠として、使用者が就業時間中のリボン・腕章等の着用じたいを一律に無条件に禁止し、その違反を処分することを認める一連の裁判例が登場した。
  その嚆矢となった国労青函地本事件札幌高裁判決(昭四八・五・二九労民集二四巻三号二五七頁)は、「法令等による特別の定めがある場合を除き、その精神的、肉体的活動力の全てを職務の遂行にのみ集中しなければならず、その職務以外のために、精神的、肉体的活動力を用いることを許さない」と、職務遂行における労働者の姿勢ないし精神的要素を強調した特殊な職務専念義務論を展開した。この職務専念義務違反は「具体的に業務が阻害される結果が生じたか否か」は関係なく、当該リボン着用が「物理的には……活動力の職務への集中を妨げるものではない」が、「組合活動を実行していることを意識しながら、その職務に従事していたというべきであり、その精神的活動力のすべてを職務の遂行にのみ集中していたものではなかった」と判示して、就業時間中のリボン着用を職務専念義務違反とした。また、灘郵便局事件大阪高裁判決(大阪高判昭五一・一・三〇労民集二七巻一号一八頁)は、リボン着用行為が「正常な業務の運営を阻害」せず、また「正常な労務の提供が十分可能であったこと」を認めた上で、「組合活動目的を客観的持続的に表明し、組合員が互いにこれを確認し、当局および第三者に示威する趣旨の精神的活動を継続したものにほかならないから、これによって具体的にどのような業務遂行上の支障を生じたかを問うまでもなく、右は、それ自体本来の職務遂行に属しないのはもちろん、郵便業務の秩序ある正常な運営と相容れぬところの積極的な職場秩序攪乱行為であったと断ずるを相当」とした。このように、職務遂行との具体的な関係を問わないまま、職務遂行に対する精神集中に影響を与える「おそれ」や「注意力の集中度を減殺する蓋然性を高めらしめるもの(28)」などと、職務専念義務の内容を一方的に拡散させながら、その全人格的な遵守を義務づけたのである。
  この職務専念義務論は、公務・公共部門での団結権・団体行動権の制限・禁止と職務専念義務規定(29)を有する公務・公共部門の労働関係から、私企業部門に展開した。その契機になったのが大成観光リボン闘争事件である。ホテル・オークラにおける就業時間中の「要求貫徹」、「ホテル労連」記載のリボン闘争について、都労働委員会命令(都労委昭四七・九・一九命令集四七集三四八頁)はこれを正当な争議行為とし、これに対する処分を不当労働行為としたのに対して、その行政訴訟である大成観光事件東京地裁判決(東京地判昭五〇・三・一一労民集二六巻二号一二五頁)は、リボン着用が使用者の業務指揮権に対する心理的不服従を意味し、それじたいが違法である旨の特異な判示を行って、当該命令を取消した。同高裁判決(東京高判昭五二・八・九労民集二八巻四号三六三頁)はこれを維持し、最高裁第三小法廷判決(最三小昭五七・四・一三労民集三六巻四号六五九頁)は、本件リボン闘争を「就業時間中に行われた組合活動」としたうえで、下級審判決の結論を認めた。この事案にはホテル業務の特殊性が絡んでいたが、その後、学校・病院・タクシー等のサービス業種における不当労働行為事件においても、顧客や職場での不快感や企業の社会的イメージを理由にリボン・ワッペン・腕章の着用の禁止・処分を認める判決例が登場したのである(30)
  こうした裁判所側での職務専念義務論が労働委員会命令に影響をもたらすことはなかった(31)が、判例における拡がりに対して大多数の労働法学説は、余りに観念的で、精神主義的な職務専念義務論に強い批判を加えた(32)。ここでは、具体的な業務遂行とは無関係に、労働者の精神的態度・姿勢を問題にすることによって、結局は「人間の内心の在り方それ自体を服務規律の対象」とする観念的、恣意的判断であることが指摘され(33)、また、「労働関係が契約関係であることは、現実の労働過程において指揮命令ー服従の支配関係がなりたつとはいえ、それを基礎づける労働者の労務提供義務があくまで定量的・限定的なものであることを意味」し、「それをこえて使用者が労働者を全人格的に支配しうる権限をゆるすものではない(34)」との、近代的な労働契約論からの原理的批判が加えられた。

  (b)  職務専念義務論と「企業秩序」論
  職務専念義務を前面におし出して始まった組合活動否認の判例理論は、リボン闘争戦術から、ビラ貼り、びら配布、組合事務所や掲示板等の利用等の他の形態の組合活動一般にひろがり、最高裁判所に到達する。ここで第三小法廷が主軸となって打ち出したのが「企業秩序」論という、より包括的な秩序概念であった。
  就業時間中の反戦プレート着用とこれをめぐる使用者を批判するビラを休憩時間中に配布した事件である目黒電報局事件において、最高裁(最三小昭五二・一二・一三民集三一巻七号九七四頁)は、就業時間の内外を問わず、社会通念上政治的と認められる活動の禁止について、「身体活動の面だけからみれば作業の遂行に特段の支障が生じなかったとしても、精神的活動の面からみれば注意力のすべてが職務の遂行に向けられなかったものと解されるから、職務上の注意力のすべてを職務遂行のために用い職務にのみ従事すべき局所内の規律秩序を乱すもの」と判示した。同日に下された富士重工業事件では、企業内での原水禁運動カンパに関する使用者の事情聴取への協力義務が争点になったが、最高裁(最三小昭五二・一二・一三民集三一巻七号一〇三七頁)は、「労働者は、労働契約を締結して企業に雇用されることによって、企業に対して、労務提供を負うとともに、これに付随して、企業秩序遵守義務その他の義務を負う」とした。ここで、具体的な労務の提供や業務阻害に影響しない市民的自由(政治的自由)を制約する根拠として、労働契約上の労務提供義務とは別の、「付随する企業秩序遵守義務その他の義務」がもち出された(35)
  さらに、日常的な企業内組合活動に直接にかかわって、一層、定式化された「企業秩序」論がビラ張りに関する最高裁国鉄札幌駅事件判決(最三小昭五四・一〇・三〇民集三一巻七号九七四頁)に登場した。判決は、その冒頭で、「思うに、企業は、その存立を維持し目的たる事業の円滑な運営を図るため、それを構成する人的要素と及びその所有し管理する物的施設の両者を総合し合理的・目的的に配備組織して企業秩序を定立し、この企業秩序のもとにその活動を行うものであって、その構成員はこれに服することを求めうべく」と判示して、通常の業務命令権や施設管理権をこえ、人的要素と物的施設を統合する秩序定立権限ないし権力を企業に付与したのである。これにしたがえば、企業は、労使の対抗関係をこえる権威的な秩序として、構成員(労働者)を人的、精神的両面から支配しうる存在、システムということになる。
  この「企業秩序」論に対して、労働法学が強い批判を加えたことはいうまでもない(36)。ここで一致して指摘されたのは、最高裁が、労働契約の締結によって労働者が「企業の一般的な支配に服するわけではない」(目黒電報局事件最高裁判決)、「付随する企業秩序遵守義務その他の義務」(富士重工業事件最高裁判決)と云いながらも、この段階に至って、労働契約論であれ、財産権論であれ、その法的根拠を一切、説明しないまま、一個の独立した秩序定立の法的権限を企業に認める論理の特異性である。それゆえ、「従来のどのような学説や見解とも断絶して」、「従業員は徹頭徹尾企業が一方的に定立した企業秩序の支配下で管理される客体」とする「神話化された企業秩序論(37)」と評されたのである。

  (c)  「企業秩序」論と最高裁
  こうした人格的、精神的支配に力点を置いた「企業秩序」論が打ち出される背景に、最高裁がもともと企業を一個の独立した権利主体で、しかもこれを有機的、人格的存在とみてきたことに注目しないわけにはいかない。前者については、一九七〇年の八幡製鉄政治献金事件最高裁判決(最大昭四五・六・二四民集二四巻六号六二五頁)が、企業を「自然人とひとしく、国家、地方公共団体、地域社会その他の構成単位たる社会的実在」であって、そのような存在として、憲法上の権利を「性質上可能なかぎり」保障されると判示して、企業が政治献金という形で強大な政治的影響力をふるうことを認めていた(38)。そして、後者については、三菱樹脂事件判決(最大昭四八・一二・一二民集二七巻一一号一五三六頁)が、憲法上の人権規定は「もっぱら国または公共団体と個人との関係を規律するもので、私人間相互の関係を規律することを予定せず」、そのために「相互の社会的力関係の相違から、一方が他方に優越し、事実上、後者が前者の意思に服従せざるをえない場合」であっても、人権規定の適用ないし類推適用を認めないと判示したことはよく知られている。さらに、この事件の争点であった企業による思想調査・選別を認めた際に、次のように述べていたのである。企業が労働者の「採否決定に先立ってその者の性向、思想等の調査を行うことは、企業における雇傭関係が単なる物理的労働力の提供を超えて、相互信頼を要請するところが少なくなく、わが国におけるようにいわゆる終身雇用制が行われている社会では一層そうであることにかんがみるときは、企業活動としての合理性を欠くものということはできない」と判示し、これが憲法二二条、二九条等による経済活動の自由(契約締結の自由)もとづくとしていた。同判決がくりかえす「企業者」という言葉はその象徴であった(39)
  この七〇年代から八〇年代の労働判例を席捲し、組合活動の権利・自由の制限・抑制の社会的・法イデオロギーを担った最高裁の「企業秩序」論を直接的に支え、かつ、これに呼応した要因として、ここでは、二点を指摘しておかなければならない。一つは、この時期が「企業主義的統合の完成」といわれる日本社会の社会構造的な転換期であったことである(40)。すなわち、七〇年代半ばのオイル・ョックを転機に、日本は産業構造の転換を強行し、大企業を中心とした終身雇用・年功序列、企業別組合という「日本的」経営を確立し、その結果として、長時間労働と過労死に象徴される経済効率優先の特異な企業社会に突進する。これを支えたのが企業内における能力主義競争・選別と企業外での家族・地域支配であった。最高裁判例による「企業秩序」論が、この権威主義的な企業社会の確立のための法的イデオロギーの役割を果たしたことは明らかである。
  いま一つは、この「企業秩序」論が、当時の「司法危機」を担った司法官僚層の秩序観そのものであったことである。全農林警職法事件判決(最大判昭四八・四・二五刑集二七巻四号五四七頁)、名古屋中郵事件判決(最大判昭五二・五・四刑集三一巻三号一八二頁)、猿払事件判決(最大判昭四九・一一・六刑集二八巻九号三九三頁)などの官公労働者の労働基本権や政治的自由の禁止・制限に関する一連の判決で、最高裁は国益と秩序優先の権威的な法秩序観を示していた(41)。「企業秩序」論をうちだした最高裁第三小法廷の目黒電報局事件裁判決や国鉄札幌駅事件判決もその一環にほかならなかった(42)

(3)  職務専念義務論の動揺と現状

  (a)  伊藤正己補足意見
  職務専念義務論の強調に対して労働契約論からの原理的な疑問を提起したのが大成観光事件最高裁第三法廷判決における伊藤正己補足意見(43)であった。
  伊藤判事は次のように述べる。「労働者の職務専念義務を厳しく考えて、労働者は、肉体的であると精神的であるとを問わず、すべての活動力を職務に集中し、就業時間中職務以外のことに一切注意力を向けてはならないとすれば、労働者は少なくとも就業時間中は使用者にいわば全人格的に従属することとなる。私は、職務専念義務といわれているものも、労働者が労働契約に基づきその職務を誠実に履行しなければならないという義務であって、この職務になんら支障なく両立し、使用者の業務を具体的に阻害することのない行動は、必ずしも職務専念義務に違背するものでないと解する。そして職務専念義務に違反する行動にあたるかどうかは使用者の業務や労働者の職務の性質・内容、当該行動の態様など諸般の事情を勘案して判断されることになる」。
  この伊藤意見は、基本的には職務専念義務論の一方的な強調に対する歯止めの試みに止まる(44)。しかし、就業時間中のリボン・腕章等の着用行為をもっぱら集団的な組合活動の「正当性」論から捉えてきた議論に、個別的労働関係ないし労働契約上の検討という新しい、あるいは、むしろ本来の、というべき視点を付加したことは確かである。
  労働契約上、労働者が使用者の指揮命令の下に置かれるのは、「使用者に対して一定の範囲での労働力の自由な処分を許諾する労働契約を締結するからであるから、その一定の範囲での労働力の処分に関する使用者の支持、命令としての業務命令にしたがう義務がある」(電電公社帯広局事件最一小判昭六一・三・一三労判四七〇号六頁)という論理しかない。そして、その具体的範囲を「使用者の業務や労働者の職務の性質・内容、当該行動の態様など諸般の事情」によって確定すべきとする伊藤意見は、労働契約論からみれば、当然の論理的な意見であった(42)。したがって、リボン・腕章等の着用に関しても、これを業務上の指揮命令権の根拠と性格、範囲と限界論を実質的に検討するのは労働契約論として第一次的課題となる。一般に労働法学説は、労使関係の「従属性」や労働契約上の合意の「虚偽性」に留意しつつ、そこでの労働契約の基本的な特徴としての「権利・義務内容の包括性・複合性」、契約の「内容の変動性」や「集団性、画一性」に即して、その「契約的処理の限界を踏まえたあらたなパラダイムによる『契約』法理の構築が緊急の課題(45)」であると指摘している。
  問題はこの労働契約論からの検討を加えるべき職務専念義務論が、判例理論においては独特の「企業秩序」論と結びついて、労働者に対する全人格的支配・従属に帰結する論理を含んでいたことである。このため、職務専念義務論の検討は通常の労働契約論からのアプローチだけでなく、人格権侵害等の現実的可能性を視野にいれたアプローチが必要になった。それは、一方の当事者である労働者の人格的自律・自己決定という、契約論一般からいえば当然の前提が前提にならずに、それじたいを争点にしなければならなくなったからである。このことは労働契約領域では契約主体の人格と切り離しがたい労働力が契約の対象になるということの難しさが、理論的にも実態としても避けがたいことを意味する。就業時間中の腕章等の着用に対する一律・包括的な禁止の論理としての職務専念義務論は、この労働契約の特殊な性格を一挙に浮き彫りにする結果をまねいたといえるだろう。とすれば、組合活動としての「正当性」論にくわえて、労働契約論からの検討と、さらに労働契約の主体である者の人格にかかわる視点、すなわち人格権・自己決定権からの検討が必要になるのは一種の論理的帰結である。労働契約論からの検討という伊藤意見は、この意味で、判例理論としての職務専念義務の一種の「暴走」に対する「歯止め」に止まらない、原理的な問題提起であったということができる。

  (b)  就業時間中の組合活動の「正当性」
  八〇年代に入って、リボン・腕章等を含む就業時間内の組合活動一般の「正当性」をめぐって、判例理論に一定の変化が生まれた。その象徴的判例がオリエンタルモーター事件の一連の判決である。一審の千葉地裁判決(千葉地判昭六二・七・一七労判五〇六号九八頁)は、会社側の組合差別に抵抗する組合活動のために、就業時間中に職場離席をおこなったことを理由とした不利益処分に関する不当労働行為事件において、組合側の救済申立てを認めた地労委命令を維持して、次のように判示した。「労働組合の団結権を確保するために必要不可欠であること」、「原因が専ら使用者側にあること」、「組合活動によって会社業務に具体的な支障を生じないこと」の事情があるときは、「就業時間中の組合活動の職場離脱であっても、正当な組合活動」として許容され、不利益処分は許されない」とした。
  同事件高裁判決(東京高判昭六三・六・二三労判五二一号二〇頁)は一審判決を全面的に維持したうえで、さらに、「通常の私企業における労働者の職務専念義務は、これを厳格に把握して精神的肉体的活動の全てを職務遂行に集中すべき義務と解すべきではなく、労働契約上要請される労働を誠実に履行する義務と解すべきであるから、労働者が就業時間中にいわば全人格的に従属するものと解すべきではなく、労働契約上の義務と何ら支障なく両立し使用者の業務を具体的に阻害することのない行為は、必ずしも職務専念義務に違背するものではないと解する」とした。これは前述の伊藤正己補足意見のより積極的な展開であり、七〇年代半ば以来の、一方的な職務専念義務論と明確に対立する判示であると考えることができるだろう。そして、上告審最高裁判決(最二小判平三・二・二二判時一三九三号一四五頁)もその結論を維持した。
  注目してよいことは、会社側が一審判決を判例違反(目黒電報局事件最高裁判決や大成観光事件最高裁判決など)の控訴および上告を行ったことに対して、高裁判決は、目黒電報局事件判決が「社会性および公益性の強い公社職員についての特別の職務専念義務に関するもの」であり、大成観光事件判決は「ホテル業務という職務の性質に照らし」先例であると応え、最高裁もまた、「事案を異にし、本件に適切でない」としたことである。
  こうして、就業時間中の組合活動に関して、労使対抗の下での具体的、実質的な諸要因を考慮して、その「正当性」をとらえるべきことを明確にした判例が登場した。就業時間中の離席という事案の性格および実例を明示的に斥けたことから見れば、就業時間中の組合活動の全面的否認を主眼とするこれまでの職務専念義務論と異った立場に立っていることは明らかであった(46)

  (c)  JR組合バッジをめぐる判例理論の混乱
  「企業秩序」論と結合した職務専念義務論の理論的混乱を示すのが、この間のJR組合バッジをめぐる一連の判決である。リボン・ワッペン、腕章等は、その目的、形状、そして具体的な状況の中で、多様な意義と効果をもちうるが少なくとも組合バッジ(記章)の着用は単なる組合所属の表明やその象徴にとどまり、規制対象となることはなかった。ところが、八〇年代以降の国鉄分割民営化を契機として、JR各会社は組合バッジの着用を就業規則(服装規則や職場規律)違反とする不利益処分を連発し、これを不当労働行為とする地方労働委員会の救済命令が相次いで出されてきた(47)。しかし、判例の対応は分かれている。
  まず、どの判例も組合バッジ着用が具体的に業務に支障をもたらさない点で一致する(48)。例えば、JR東日本(神奈川・国労バッジ)事件横浜地裁判決(平九・八・七労判七二三号一三頁)「制服等に常時着用されるものであって、そこには所属する組合が表示されているにすぎず」、「もとより抗議意思や要求事項の表示はない」し、「着用によって利用客に不快感を与えたり、職場規律の弛緩によって利用客の生命、身体、財産が脅かされる事態が生じたことはないし、その着用がそれらの虞を生じさせるものでない」し、また、「国労への帰属意識、団結意思の確認”団結意思を高める心理作用といっても、それらが本件組合バッジによって象徴されたにすぎず、そのための特別の身体的または精神的活動を必要とするものでないから、職務に対する精神的集中を妨げるものとはいえない」と判示する。
  にもかかわらず、これを一律無条件に服務規律違反とするのが七〇年代以来の職務専念義務論の特質であった。JR東海(新幹線)東京地裁判決(平七・一二・一四労判  六八六号二一頁)は、「腕章等の着用によって職場規律の紊乱又は業務阻害が現実に発生する場合、あるいはこの具体的発生のおそれのある場合に限られるとの解釈をすることは相当ではなく、胸章等の着用自体がこのような発生のおそれがある場合」だから禁止できるとし、それ以上の積極的な理由づけもなく、規則で決めた以上は「正当な組合活動は同条の禁じるところ」と断定した。同事件東京高裁判決(平九・一〇・三〇労判七二八号四九頁)は、「企業秩序」論と結合した職務専念義務論の典型的な説示をおこなう。「身体的活動による労務の提供という面だけをみれば、たとえ職務遂行に特段の支障を生じなかったとしても、労務の提供の態様においては、勤務時間および職務上の注意力のすべてをその職務遂行のために用い、職務専念義務のみに従事しなければならない非控訴人社員としての職務専念義務に違反し、企業秩序を乱すもので」、「同僚組合員である他の社員にたいしても心理的影響を与え、それによって注意力を職務に集中することを妨げるおそれがあるものであるから、この面からも企業秩序の維持に反する」とした。ここでいう職務専念義務の違反は、「具体的な実害の発生」を要件とせずに、労務の態様ー姿勢、社員としての心構え、同僚への心理的影響、注意力の集中を妨げる「おそれ」を対象とし、その根拠・目的をあげて「企業秩序の維持・確立」に求めている。
  同判決は、この「企業秩序の維持・確立」を目的とする就業規則の解釈・適用にあたって憲法二八条の団結権と二九条財産権の「調和と均衡」への配慮が必要であるとした(49)が、しかし、それは「企業秩序の維持と確立」という目的に照らして「実質的に企業秩序を乱すおそれのない特別な事情が認められるときは、右諸規定の違反になるとはいえない」という意味であり、逆に、企業秩序の維持・確立が憲法論・人権論に優先する概念となっていた。
  これに対して、JR西日本(国労広島地本)事件広島地裁判決(平五・一〇・一二労判六四三号一九頁)は、「私企業における労働者の職務専念義務は、労働者がその労働契約に基づいて行うべき労働を誠実に履行する義務と解すべきであり、労働者がその精神的・肉体的活動のすべてを職務遂行に集中すべき義務と解すべきでないから、本来の職務以外の行為であっても、労働を誠実に履行すべき義務と支障なく両立して使用者の業務を具体的に阻害することのない行為については、必ずしも職務専念義務に違背するものでない」ので、就業規則が禁止する勤務時間中の組合活動に実質的に該当しないとした。前掲JR東日本(神奈川・国労バッジ)事件一審判決も、また、「全人格的な従属関係を肯認できない」と述べて、職務専念義務論への批判的態度を表明し、「労働者の労務の提供に支障を与えず、使用者の業務の運営に障害を生じさせるものでない」組合活動は「例外的に正当性を肯定するのが相当」で、組合バッジ着用はこれに該るという論旨になっている。ここでは、組合活動や組合バッジ着用の権利性に立ち入らないまま、労務提供や業務への支障がないことを理由として、不当労働行為の認定を導いている。
  組合員の自由・権利にまで踏み込んだ判示をしたのが、国労マーク入りベルト着用が争点となったJR東日本(本荘保線区)事件(秋田地判平二・一二・一四労判六九〇号二三頁)である。同判示は、本件ベルト着用を「個人的活動の域を出ていない」としたうえで、具体的かつ説得的な判旨を展開している。職務専念義務論が「全ての活動力を職務にのみ集中し、職務以外のこと一切に注意力を向けてはならないとすれば、就業時間中は使用者にいわば全人格的に従属することとなり、このことは労働者と使用者の関係が対等な人格者相互間の労働契約によってのみ規律されていることにも矛盾する」として、これを斥ける。さらに、ここでの労働者が「それぞれの要求、意思または思想を持ちつつ労務提供している具体的な人間である」と指摘して、「具体的に団結権を保障された労働者としての立場と、使用者に対する誠実な債務の履行という二つの要請の適切な調和の中で決定される他はない」とし、使用者は「むしろ、これを受忍しあるいは是認すべき程度、態様のもの」と説示している。同事件高裁判決(仙台高裁秋田支部平四・一二・二五労判六九〇号一三頁)も、「服装選択の自由」と事業の「社会性、公共性及び職場秩序維持の必要性ならびに業務遂行上の必要性等の調和の観点から判断すべき」で、実質的違法性がないと判示した。最高裁(最二小平八・二・二三労判六九〇号一二頁)もこれを維持した。

  (d)  小  括
  こうしたJR関係判例は、就業時間中のバッジ、腕章、ベルト等の着用をめぐる基本的な争点をあらためて明らかにしている。第一に、労働契約論ないし個別的な労働関係論の基礎的な重要性である。ここでは、職務専念義務論を労働契約論に基礎づけて論じる限り、労務提供ないし業務への具体的弊害との関係で論じる以外にないことであり、さらに、「対等な人格者相互間の労働契約」という基本的理解から導かれる労働者側の市民的、人格的自由(ここには服装の自由等の市民的、私生活の自由)の確認である。
  第二に、団結権承認を前提とする集団的労働関係論として、就業時間中の組合活動に対しては、団結権と財産権という「二つの要請の適切な調和と均衡」の観点が重要になる。ここでは、相い対立する権利・権限の「調和と均衡」であって、その実質的検討の起点は、労働者がいかなる権利・自由を有するかという権利論であり、団結権承認の本来的な意義を財産権ないし業務指揮権との対抗において明らかにする必要がある。
  第三に、職務専念義務論をこれほど野放図にした「企業秩序」論の批判的考察である。八〇年代以降の判例動向からいえば、第三小法廷を主役にして打ち出された「企業秩序」論の立場に最高裁判所全体がに立っているとはいえず、下級審の対応も多様であった。その出現から約五年をへた八〇年代半ばの時点で、すでに、「組合活動の正当性、言い換えれば使用者の施設管理権と団結権保障の要請を調整し不当労働行為の成否を判断する機能的解釈概念として用いられている」との分析があり(50)、また、八〇年代を通じて、「最高裁は基本的に『企業秩序論』を維持しつつ、とりわけ使用者の許可なく企業施設を直接的に利用して行われる組合活動に対しては厳格な姿勢を貫きながら、その他のビラ配布などの組合活動については柔軟に対処しようとしている(51)」と評されている。
  「企業秩序」論が、物的施設と人的要素からなる組織である企業の存在・活動という社会的事実から、直接、一つの法的秩序・権力を導き、かつ、それじたいは包括的、漠然とした概念でしかなく、結局、個別・具体的な法関係に分解せざるをえないことは当初から指摘されてきた。したがって、この企業秩序なるものの中枢にすわる業務命令権や施設管理権限を労働契約や財産権の目的・性質に即して限界ずけることがその第一の課題となる。第二に、日常的に企業の自由裁量的な権限との支配・対抗に位置する労働者の権利・自由の意義・性格を明確にすることが重要になる。ここでは、現代企業の包括的な支配力・影響力を対抗しつつ、その対極に位置する個々人の自己決定権・自律権・私生活の自由を重視する必要があるだろう。そして、第三に、この企業支配と労働者・市民との基本的な対抗関係の社会的、法的な規制、その一環としての憲法上、立法上の検討である。
  以上の中で、基本的な課題はいうまでもなく、第一である。「企業秩序」論とこれに基づく職務専念義務論の横行に対する最大の教訓は、労働契約の原理的考察による使用者側の業務権限等の根拠とその限界づけの課題であった。この場合、労働契約上の権利・義務の応対として、それが対等な関係である以上、具体的な職務の遂行や業務に支障が生じない限り、労働者の権利・自由は一個の独立した人格のそれとして原則的な保障が認められなけばならない。もちろん、それは就業時間中の組合活動−言葉の正しい意味での労働者の「結社活動の自由(Freedom of Association)」についても適用されるのであって、使用者側が「特別な事情」を立証できた場合にのみ「例外的に」制限できるという、アメリカ不当労働行為法のルールを参考にする必要があるだろう(52)。この意味で、争議行為型の組合活動を想定した就業時間中の組合活動の「原則」禁止論を再考することが急務となる。

(15)  渡辺章「リボン等着用行動」『現代労働法講座3組合活動』(総合労働研究所・一九八一)二〇一頁、盛誠吾「判例・命令にみるリボン闘争の正当性判断基準」季刊労働法一二五号八四頁、安枝英伸「リボン等着用戦術の正当性と賃金請求権」労働判例三九九号一九頁など。
(16)  盛誠吾、注(14)八六頁。
(17)  籾井常喜「リボン戦術に対する規制措置と不当労働行為の成否」季労法五〇号一一七頁、本多淳亮『業務命令・施設管理権と組合活動』(労働法学出版・一九六四)一三二頁など。西谷敏「リボン闘争の正当性と懲戒処分」季労八九号九四頁など。
(18)  籾井常喜『組合活動の法理』(一粒社・一九八五)一八二頁以下、本多『業務命令・施設管理権と組合活動』注(17)二五頁、外尾健一『団体法』(筑摩書房・一九七五)三一八頁、籾井常喜『経営秩序と組合活動』(総合労働研究所・一九六五)一四六頁など。組合活動の法理の学説検討として、深谷信夫「組合活動論」(籾井常喜編『戦後労働法学説史』労働旬報社・一九九六)、三〇一頁。
(19)  角田邦重「施設管理権と組合活動の権利」『現代労働法講座3組合活動』二五八頁。
(20)  毛塚勝利「労働契約と組合活動の法理」日本労働法学会誌五七号(一九八一)四三頁。石橋洋「施設管理権と組合活動の正当性」日本労働法学会誌五七号六七頁。
(21)  片岡f・大沼邦博『労働団体法上巻』(青林書院・一九九〇)二四六ー七頁(大沼執筆)は、組合活動と争議行為を区別したうえで、組合活動を主として組織・情宣活動の場合と団結力の示威活動にわけ、前者を団結権として、後者を団体行動権として評価するが、ともに憲法二八条の団結権・団体行動権として、使用者との対抗関係において実効的な保障が与えられなければならないことを強調する(二四九頁以下)。なお、鈴木隆「組合バッジ着用行動の法理」島大法学四〇巻二号四号四五頁は、「当該組合活動が業務を阻害しないから就業時間中に行われたとしても正当であるとする判断枠組みは、組合活動の正当性についての理解が誤っている」として、「結果として、業務が現実に阻害された場合でも正当な組合活動である限り、使用者側の責任追及の放棄を認めること、それを理由とする不利益な取扱いを許さないこと」が団結権保障の法制度上の仕組みであるとして、「組合活動が業務を阻害しないから正当であるとする見方は、組合活動の正当性の判断を市民法のレベルの合法性の判断とはき違えている」とする(五九頁)。
(22)  違法性阻却説に対する受忍義務説からの批判的検討として、片岡・大沼『労働団体法上巻』注(21)二六二頁以下。なお、浜田冨士郎「企業内組合活動の法理と展開」(ジュリスト七三一号二一八頁)は、ビラ貼り活動を念頭に、学説は「対象の把握そのものにおいて欠けるところ」があり、ビラ貼りは組織強化・情宣活動と団結示威・圧力行使の複合的な活動であり、「受忍義務説は前者を重視して団結権の発動活動と解し、違法性阻却説は後者の側面を見て、ビラ貼り活動を団体行動権に基づく活動」としていたと指摘する(二二三頁)。
(23)  横井芳弘「就業時間中の組合活動と職務専念義務−リボン闘争を中心にして」労判三二八号四頁は、七〇年代末の時点で、「今日、就業時間中の組合活動が原則的に禁止されることについては、学説判例ともに異論がない」とし(九頁)、石橋洋「勤務時間中の組合バッヂ着用と職務専念義務違反の成否」労旬一四三七号も、九〇年代末の時点で、就業時間の組合活動の原則禁止を「学説、判例上異論のないところ」とする(二六頁)。
(24)  横井芳弘「就業時間中の組合活動と職務専念義務」注(23)は、どの判例も「当該リボン着用が本来労務提供義務に反するものでないから正当といっているのか、それとも労務提供には違反するが、法益の比較衡量論から正当と解しているのか」が曖昧であるとし、「こうした論理の不透明さが、やがては職務専念義務を理由とするリボン闘争の違法論を生み出してくる一因を形成したのではないか」と指摘し(七頁)、また、石橋洋「組合のリボン闘争戦術と実務上の留意点−大成観光ホテルオークラ事件を契機にして−」労判三九一号四頁は、リボン着用闘争を労働契約上の労務提供と矛盾せず、業務阻害するおそれがないから正当な組合活動とするのか、労務の提供といえないとしても、団結権ないし団体行動権保障の趣旨から「正当な組合活動」とするのかが不明確とする(八頁)。
  なお、菅野和夫『労働法(第五版)』注(12)は、憲法上、労働法上の団体行動の「正当性」を市民法上の違法性を阻却ないし免責する概念とする立場から、「市民法上適法な行為で、同法上責任を追求されえない団体行動も、労働法上の『正当な行為』として表現されることがある。これは、そのような市民法上適法な行為も、法的な制裁(責任追及)をうけない共通の性質のゆえに『正当な行為』に包摂されてしまうからである」とする(五八一頁)。
(25)  労働法学界が組合活動の法理を労働契約論との関係で本格的な検討を始めるのは八〇年代に入ってからである(例えば、毛塚勝利「労働契約と組合活動の法理」注(20)参照)。
(26)  中労委に提出した意見書(注(6))は、アメリカにおけるバッジ、リボン等の組合標識の着用をめぐる判例、命令の分析もおこなったが、本稿では省略する。さしあたり、宮本安美「判例・命令からみた組合活動としてのリボン・バッジの着用」慶応義塾大学産業研究所編『法と経済の基本問題』一七五頁、中窪裕也『アメリカ労働法』(弘文堂・一九九五)四七頁以下参照。
(27)  宮本安美「リボン闘争ー大成観光事件」ジュリスト『労働判例百選』一八二頁。
(28)  下級審判例の展開について、片岡・大沼『労働団体法上巻』注(21)、三三五頁以下。
(29)  全建労勤勉手当請求事件東京地判昭五二・七・二五判例時報八六〇号一五四頁。
(30)  国公法九六条一項、一〇一条一項、地公法三〇条、三五条、旧日本国有鉄道法三二条、旧電電公社法三四条など。
(31)  川口実「リボン等の着用戦術は使用者の対抗手段」(慶応大学一二五周年記念論文集法学部法律学関係六三頁)は、「四〇年代後半には、これら(リボンー引用者)の着用は職場規律、職務専念義務に反するとする見方(いわゆる規律論)が判例の主たる流れとなっていくのが注目された。しかし、労働委員会命令の立場はほとんど変化することなく、昭和五〇年代に入ってからも、やや行政訴訟を意識してか、表現は丹念なものにして、処分を不当とする判断を続けている」(六七頁)として、命令例を詳細に分析し、労働委員会命令の判断の仕方について論じている。盛誠吾「判例命令にみるリボン闘争の正当性判断基準」注(15)も同様の指摘をする(八七頁)。
(32)  渡辺章「リボン等着用行動」注(15)二〇一頁、盛誠吾「リボン等の着用と服装規制」ジュリスト『労働法の争点(新版)』四〇頁、大沼邦博「労務指揮権と組合活動の権利」現代労働法講座三巻一一六頁など。
(33)  萬井隆令「職務専念義務」西村傘寿・浅井喜寿記念論文集『個人法と団体法』(法律文化社・一九八三)三三五頁。
(34)  島田信義「団結活動否定の諸判決と権利闘争」労旬八八〇号二三頁。
(35)  両判決について、西谷敏「企業秩序論と労働者の市民的自由ー最高裁二判決の批判的検討」ジュリスト六五九号七八頁。
(36)  国労ビラ貼り札幌事件最高裁判決への労働法学者の批判として、さしあたり「緊急最高裁”ビラ貼り・組合活動規制判決”をめぐって−労働法学者の緊急見解」労旬九八八号二四頁以下。角田邦重「企業秩序と組合活動」ジュリスト『労働法の争点』(新版)三四頁、片岡・大沼『労働団体法・上巻』注(21)三四六頁以下。なお、籾井常喜「最高裁判例にみる『企業秩序論の系譜と特質』(外尾健一他編『人権と司法』勁草書房・一九八四)は、最高裁判例における企業秩序論の最初が国労広島地本事件第一小法廷判決(昭和四九・二・二八労旬八五九号)として、企業秩序概念が懲戒制度の維持、確保の法概念として、職場外の労働契約履行と関わらない行為を規制するために打ち出され、これが最高裁第三小法廷判決に波及すると指摘する(四〇頁以下)。
(37)  角田邦重「法的理性を喪失した最高裁判所の『企業秩序』論」労旬九九〇号三二頁。労働契約論からの「企業秩序」論の疑問・検討として、西谷「企業秩序論と労働者の市民的自由」注(35)八五頁、菊地高志「労働契約論と企業秩序」労旬九四八号四頁など。近年の整理として、中嶋士元也「最高裁における『企業秩序』論」季労一五七号一二八頁。
(38)  同判決の意義について、大久保史郎「法人の人権」公法研究六一巻一一四頁。
(39)  同判決の判例史上の意義は、企業秩序論に象徴されるように、企業が社会的権力として確立する段階で、古典的、近代的人権観、憲法観と私的自治の原則を打ちだする形をとって、企業権力擁護論を展開したことである。なお、大久保史郎「労働と憲法」樋口陽一編『講座憲法学4』(日本評論社・一九九四)一四九頁以下参照。
(40)  渡辺治「現代日本社会の権威的構造と国家」藤田勇編『権威的秩序と国家』(東大出版会・一九八七)一八一頁、後藤道夫「日本型大衆社会との形成」『戦後改革と現代社会の形成』(岩波書店シリーズ日本近現代史4・一九九四)二五三頁、とくに二七八頁など参照。
(41)  大久保史郎「最高裁判所と憲法判断の方法」法時臨増『労働基本権』(一九八九)六一頁、とくに六七頁以下。
(42)  国鉄札幌駅ビラ貼り事件最高裁第三小法廷判決の司法行政上の背景について、渡辺正雄「『総理府人事局』と最高裁の合作」労旬九八八号一〇頁参照。
(43)  伊藤正己『裁判官と学者の間』(有斐閣・一九九三)三一四頁。
(44)  花見忠「リボン闘争の正当性」ジュリスト七七一号六三頁。なお、小西國友「労働の組合活動と誠実義務・職務専念義務」季労組合九〇号四〇頁。
(45)  道幸哲也『職場における自立とプライバシー』(日本評論社・一九九五)一七五頁。
(46)  同判決の意義について、辻村昌昭「企業内・外の組合活動」日本労働法学会編「利益代表システムと団結権」(講座21世紀の労働法・第八巻)一三〇頁。西谷『労働組合法』注(7)二三八頁以下。浜田富士郎「就業時間中の組合活動−オリエンタルモーター事件」ジュリスト『労働判例百選(新版)』一八四頁などを参照。
(47)  経緯および問題点について、佐藤昭夫『国家的不当労働行為』(早稲田大学出版部・一九九〇)。
(48)  三井正信「勤務時間中の組合員バッジの着用と懲罰的業務命令の効力」労旬一二一七号二三頁は「組合バッジの着用は、本来、受忍義務説に拠らずとも市民法レベルにおいてすら違法性が存しないと解するべき事例」(二九頁)とする。また、角田邦重「組合バッジ着用行為の正当性」(労判七三二号九頁)は組合バッジは「正当だという以前に、集団的示威を意味する団体行動権の行使とは違って、もともと狭義の組合活動の性格そのものに由来するものである」にもかかわらず、「本判決『使用者の財産権と団結権との調和と均衡』が必要だといいながら、実際にはそれとは両立不可能な観念的職務専念義務をもちだしているのは、そもそも出発点における間違い」と指摘する(一一頁)。
(49)  組合活動の自由と財産権との「調和と均衡」は目黒電報局事件最高裁判決も言及しているが、企業秩序論を前提としたうえでの補完・調整にどどまる。
(50)  角田邦重「『企業秩序』と組合活動」労判四三五号一四頁。
(51)  片岡・大沼『労働団体法上巻』注(21)四三三頁。
(52)  注(26)(27)参照。


む    す    び


  七〇年代半ば以降の成立する日本的な企業社会の中で、多くの労働者とその家族は強大な企業支配と秩序の下で、その自立の社会的基盤を喪失する状況におかれてきた。個々の労働者は、この社会的権力との日常的な対抗のなかで、個としての意思とこれを基礎に人々との連帯・結びつきを形成、確立する課題に迫られている。本稿が扱った就業時間中の腕章やバッジの着用の権利獲得の課題は、日本社会における個と連帯・集団の形成の課題と共通の性格をもつ。すでに指摘したように、組合活動における腕章やバッジの着用は、憲法二八条が保障する組合活動、団結活動のもっとも基礎的、中核的な行為であると同時に、個々の労働者の市民的自由としての表現・結社活動であり、また、憲法一三条の個人の尊重や自己決定としての意義をもっている。この意味で、人権における個と集団・連帯の結節点なのである。もっとも、ここでいう集団は、戦後初期のように、労働組合であるとはかぎらない。熊沢誠によれば、日本の都市労働者は戦前以来、「大企業の従業員」になることによって、現代的に言えば「会社人間」になることによって、「下層民「「貧民」から離陸した歴史があるからである(『新編・日本の労働者像』筑摩書房・一九九三)。じつは、これが今日の企業社会日本の発端でもある。しかし、この企業社会日本が今日の過労死・過労自殺、あるいは過剰な教育競争とか、家族の解体をまねいたとすれば、別な個と連帯の途を探る以外にないだろう。これを現代人権論の課題に置きかえるとすれど、市民的・人格的自由と団結権の連帯・相互補完の関係の形成、その論理と条件をさぐることではないか。