立命館法学 2000年3・4号上巻(271・272号) 395頁




成年後見事件の審理手続(佐上)


佐上 善和


 

目    次

一  は じ め に

二  人事訴訟手続法旧規定における禁治産事件手続

三  新しい成年後見事件の審理構造

四  残された課題





一  は  じ  め  に


  平成一一年法律一四九号によって改正された新しい成年後見事件に関する審理について、家事審判規則(以下、たんに規則という)二五条は、「家庭裁判所は、後見開始の審判をするには、本人の意見を聞かなければならない」と定めている。陳述聴取の方法については定められていないので、家庭裁判所は事案の状況に応じて裁量権を有するといえよう。それが非訟事件たる家事審判の審理に関する一般的な理解である。それゆえ、調査官による調査、本人の陳述書の提出、本人が家庭裁判所に出頭して自ら口頭で意見を述べる方式、あるいはまた裁判官が本人の居所に赴いて意見を聴取する方法などが考えられる。そのいずれが原則的な審理方式になるかは、規則だけでは明らかではない。
  ところで、改正前の禁治産・準禁治産法の時代には、裁判官による本人の陳述の聴取については、家審法にも規則にも明文の定めがなかった。この点で、新しい成年後見事件における本人の意思の尊重という観点から、規則二五条に本人の意見聴取の定めが置かれたことは重要な意味をもつ。
  しかしながら、成年後見事件の審理について、精神状態に関する鑑定(規則二四条)と本人の陳述聴取(規則二五条)を定めるだけで果たして十分であるかについては、改めて検討を必要とする。後見開始命令については、「日常用品の購入その他日常生活に関する行為(民九条但書き)」以外の取引について、本人の行為能力を剥奪する。人の社会生活の基礎に重大な制約を加える裁判手続に対する本人の手続保障が、従来の非訟法や家審法の定める程度で十分であるかということ自体が反省されなければならない。禁治産宣告は、新しい後見開始命令よりも厳しい能力剥奪を伴っていたにもかかわらず、裁判官による本人の直接の審問は実施されていなかった(1)。新しい制度が、このような審理実態を継承するようなことがあってはならない。本人の自己決定を制約するという重大な効果に結びつく裁判手続では、どのような手続保障が必要となるかを慎重に検討しておく必要があると思われるのである。禁治産・準禁治産の手続自体がこれまで十分に研究されているとは言いがたい。そのために、家審法および規則の定めで一応の水準を維持していると考えやすい。以下に検討するように、この仮定自体に重大な問題が潜むのである。近時における諸外国の手続規定との対比のみならず、家審法以前の人訴法旧規定の禁治産手続と比べても、現行の家審法および規則の定めは著しく見劣りがするということを確認することができる。
  新しい成年後見事件における審理構造を考える場合、われわれはまずこの点を確認することからはじめなければならない(2)。以下においては、成年後見事件における家庭裁判所の審理のあり方のうち、若干の点について提言を行うことにする(3)

(1)  最高裁判所事務総局家庭局「平成八年度家庭裁判所裁判官等協議会における協議結果の概要」家月四九巻九号(一九九七年)六九頁、また西岡清一郎・竹村和夫「東京家庭裁判所における禁治産・準禁治産宣告事件の実情」家月四八巻六号(一九九六年)一七頁は、「事件本人の審問は行っていないのが一般的」であると指摘している。
(2)  この点について、佐上『成年後見事件の審理』(二〇〇〇年)二二頁以下。
(3)  成年後見の審理では鑑定に関しても多くの問題があるが、この点については、佐上・前掲注(2)一二五頁以下、及び一九〇頁以下において、ドイツの世話事件に関して述べたところを参照されたい。わが国の鑑定理論や実務に関しても検討しなければならないが、ここでは留保しておく。


二  人事訴訟手続法旧規定における禁治産事件手続


1  訴訟事件の非訟化による手続保障の低下
  わが国ではじめて禁治産宣告の手続を定めたのは、明治二三年法律一〇四号であった。それは明治三一年六月に成立した人事訴訟手続法に引き継がれ、家事審判法の施行まで効力を有した(以下、人訴法旧規定という)。これらはドイツ民事訴訟法における禁治産手続を継受したものである。家審法の定めと比較するためにその内容を確認しておこう(4)。人訴法旧規定から家審法への移管によって、わが国の禁治産手続が著しくいびつなものになっていることが確認できるはずである。
  人訴法旧規定によれば、禁治産を申し立てるには医師の診断書の添付が求められていた(四三条)。医師の診断書は、禁治産の要件を確認するものではなく、手続が濫用されないための申立ての適法要件であった。本人は非公開の法廷で、鑑定人の立会いのもとで裁判官による審問を受け(四七条)、さらに裁判所は鑑定人を尋問した後でなければ禁治産の宣告ができないとされていた(四八条)。そして禁治産の宣告を受けた者が不服の訴えを提起しようとするときは、その申立てにより裁判長は訴訟代理人として弁護士の付添いを命じることができた(五九条による三条二項、三項の準用)。禁治産事件は、人訴法制定当時よりその本質は非訟事件であると解されていたが、人訴法によって規律されることになった。禁治産が行為能力の剥奪という重大な効果を生じさせるために、訴訟という保護形式により対立構造的な審理枠組みを必要とするとの理解が、ドイツ民訴法の立法者には存在していた(5)。ドイツ民訴法の政府草案では、禁治産事件が地方裁判所の管轄とされていたのもそのような理由に基づいていた。政府草案をめぐる審議の過程では、禁治産事件を非訟手続で審理していたラントからの強い批判や、精神病者を居所から遠く離れた地方裁判所に出頭させることは、精神状態の正しい診断にとってかえって不都合であるといった批判を考慮して、区裁判所における対立構造的ではない審理手続へと転換した(6)。しかし不服の訴え以降の手続では、対立構造的な枠組みが維持されている。このような意味では、禁治産手続は訴訟と非訟のまさに折衷的な性格を有する手続であったのである。明治二三年法律一〇四号および人訴法旧規定もこれと同一の考え方を採用していた。
  第二次大戦後、家事審判法の制定に伴って禁治産・準禁治産事件は家事審判として非訟事件手続に移管され、しかも甲類審判事項とされた。禁治産・準禁治産事件は、それ自体としては家事事件とはいえないが、後見人の選任等の手続が必然的に伴うため、戦前から家事審判所構想の中に取り込まれてきたのである。戦後改めて家事審判事項として定められるについても、とりたてて異論はなかったようである(7)。なによりも、戦前においてすでに禁治産・準禁治産事件が隠居、廃家、戸籍訂正の許可、親族会員の選定などの人事非訟事件と同じ部で扱われ、実質的に非訟事件の扱いを受けていたと指摘されているのである(8)
  禁治産事件を家事審判に移管した際に、人訴法旧規定において認められていた鑑定人の立会いのもとでの裁判官による審問、鑑定の必要性、本人の手続能力の承認と弁護士の付添い命令の必要性などが、どのように維持され保障されるべきかについて、家事審判法の立法過程で慎重に議論されたとはいえない。少なくとも、人訴法旧規定における禁治産を受けた者の保護規定のほとんどは継承されなかったのである。当時、禁治産の対象となるのは圧倒的には精神病者であったが、戸主等に私宅監置を許す精神病者監護法がまだ効力を有していたのであり、彼らに対する保護の必要性が意識されていなかったといわざるを得ない。
  法律や規則のレベルで見る限り、家事審判としての禁治産・準禁治産事件の審理は、鑑定人立会いのもとでの裁判官による審問、手続能力の承認、弁護士の付添い命令のないまま、新たな成年後見法の改正に至っているといえるのである。人訴法旧規定のもとでも、禁治産手続は必ずしも純粋の訴訟事件とは言えなかったが、訴訟手続から非訟事件手続に移管が手続保障の低下をもたらすとの指摘は、ここに典型的な形で示されることになったのである(9)

2  禁治産事件における本人の審問
  禁治産事件の審理において、裁判官による鑑定人の立会いのもとでの審問を実施せず、書面審理化するという傾向は、人訴法旧規定の時代から存在した。人訴法旧規定四七条は「法廷ニ於テ」本人を審問すると定めているが、この法律の母法であるドイツ民事訴訟法の立法者は、禁治産事件における本人の審問は法廷ではなく、本人の居所において実施するのが原則だと理解していたのである。人訴法旧規定の立法者は、当然にこのことを知っていたはずであるし、当時の学者達にも知られていたはずである。精神病で、しかも心神喪失状態にある本人を裁判所に出頭させること自体が、禁治産の適切な審理形態でないことは容易に理解できよう。ドイツでは、まさにこうした点を考慮して、訴訟事件において一般に考えられる本人の裁判所への出頭という原則に対して、例外として禁治産事件では裁判官が本人の居所に赴いて審問するという扱いを実践してきたのであり、法律の規定にも「法廷において」という文言がみあたらないのである(10)
  この結果、わが国では裁判所が本人の審問をなしがたいと認めるとき、あるいは審問の実施が本人の健康に害があると認めるときは、審問を実施しないという例外規定が原則化したのである。家事審判法の制定時においても、禁治産事件の審理に際して裁判官が本人の居所に赴いて審問することが必要であるといった考慮はなされていない。規則五条一項は、家事審判事件についても本人の自身出頭主義を採用し、その但書きで「やむを得ない事由」があるときは代理人を出頭させることができると定めるにとどまっているのである。心神喪失の状況にある者について、本人の手続能力を否定するのが、家事審判法に関する通説の態度であるから、本人は代理人すら選任することができない。人訴法旧規定の時代の実務の慣行が、家事審判法に至ってもほとんど反省されることなく引き継がれてきたといっても過言ではなかろう。
  さらに、家事審判法になってからも本人の審問がほとんど実施されないで、禁治産事件の審理の間接主義化が進行し、この点が反省されていないという点も指摘しておく必要がある。人訴法旧規定の下においては、少なくとも法律の規定上では「裁判官による鑑定人立会いのもとでの審問」が定められていた。ここでは裁判の直接主義が原則であることが明らかにされていたのである。しかし家事審判法のもとでは、鑑定人の立会いが削除されたほか、調査官制度の発足によって事実調査も調査官に委ねられ、裁判官による本人の審問も実施しないという審理実務が定着することになるのである。たしかに、非訟事件である家事審判においては、審問は口頭または書面によっても可能である。しかしながら、調査官の事実調査が裁判官の審問を代替することは、本人の能力制限という重大な効果に鑑みると大きな問題をはらむといえるのである。
  ドイツにおいても、世話法以前の禁治産時代の審理にはいくつかの問題が指摘されていた。とりわけ鑑定の質が問題とされていた。わずか数行程度の鑑定書が一般的だとされ、このような簡単な鑑定書で人の運命が決定されてよいのかと批判されていたのである。この欠点を補っていたのは、裁判官による本人の直接の審問と直接の印象の獲得である。ドイツにおいては、審理の質の低下を裁判官の直接の審問がかろうじて食い止めてきたといえる(11)。わが国においては、裁判官は書面審理だけで、本人に関する直接の印象を持たないまま、行為能力を剥奪するという裁判をしてきたのである。直接主義が維持されず、裁判官は実質的に調査官報告書や鑑定書を批判的に検討する材料を何も持たないままに判断してきたといえる。
  以上、ごく簡単に見たところからも分かるように、禁治産に関する家審法および規則の定め、および審理の実務は、人訴法旧規定が本来予定していた水準にも到達していないことが確認できる。そしてなお重要なことは、新しい成年後見法の制定に伴って改正された規則二五条における本人の陳述聴取の定めを加えても、なお事情は異ならないという点である。成年後見法の改正を考慮しつつ開催された家庭裁判所裁判官等協議会においては、禁治産手続における必要的鑑定が厳格すぎるとして、その簡易化を求める意見が出されることがあっても、家審法および規則だけで新しい成年後見法の理念である本人の自己決定の尊重を保障するために、審理のあり方が十分であるかという問題意識が希薄なのである(12)
  成年後見法の立法者からも、実務家にも成年後見法にふさわしい手続のあり方が提示されていないことは奇妙だといわざるをえない。一九九〇年に改正されたドイツの成年後見制度である世話法は、実体法における改革目標の実現は、手続法の改革に依存しているとの意識から詳細な手続法の改正を施した。世話事件は、訴訟事件から非訟事件へと移管され、また本人に対する能力制限を廃止したにもかかわらず、新たな手続規制は従来の禁治産手続時代よりも格段に本人の意思を尊重する方向へと踏み出している(13)。それに対比すると、わが国の手続規制はやや極端な言い方をすれば、一〇〇年以上前の法律の水準にも到達していないといえるのである。このことを我々は深刻に受け止めるべきではないか。規則二五条の新設によって成年後見事件の審理手続が、旧法時代に比べて一新されるとはいえないのである。具体的にどのような事項が問題となり、また改善されるべきか、網羅的ではないにせよ次にこれを検討しよう。

(4)  佐上・前掲注(2)二五頁。
(5)  佐上・前掲注(2)三六頁。
(6)  佐上・前掲注(2)四二頁。
(7)  この経過については、堀内節『家事審判制度の研究』(一九七〇年)二九七頁以下。なお、禁治産事件を家事審判所に移管させる提案がはじめてなされたのは、臨時法制審議会における「諮問第一号ニ関スル調査要目(其一)」(大正八年九月一五日)である。この段階では、家事審判所の性格および禁治産宣告が司法的裁判か行政処分かをめぐって争いもあった(諮問第一号主査委員会議事速記録)が、多数決で移管と決して以降は、この点は改めて問題とされていない。この点につき、堀内前掲六二九頁以下参照。
(8)  堀内・前掲注(7)四一頁
(9)  わが国の場合、禁治産制度の非訟化があまりにも拙速であったといえる。もちろんドイツにおいても禁治産制度を非訟化する議論がなかったわけではない。しかしそれを訴訟手続によらせていることの手続保障の観点が重要であるとされ、非訟化の実現は世話制度まで持ち越された。この間、一九七九年の監護権に関する民法と非訟事件手続法の改正で、基本的な手続保障が整備されていることが重要である。これらの経過については、佐上・前掲注(2)七三頁以下参照。
(10)  佐上・前掲注(2)三〇頁。
(11)  これに対して、ドイツにおいてはいわゆる強制監護(§1910 BGB a. F.)の審理は、非訟事件手続に委ねられていたところ、裁判官による本人の直接の審問も、鑑定もなされないで裁判されていたのである。これらの審理の実態と、世話法の立法者による批判については、佐上・前掲注(2)九八頁以下を参照されたい。
(12)  最高裁判所事務総局家庭局・前掲注(1)においても、この点の指摘がみられない。
(13)  これらの問題点については、佐上・前掲注(2)一六三頁以下。


三  新しい成年後見事件の審理構造


1  管轄の定め
  成年後見事件は、本人の住所地の家庭裁判所が管轄権を有する(規則二二条)。民法上、住所とは生活の本拠ないし場所的中心であるとされ、裁判管轄権の決定の基準ともされる(民訴二四条二項参照)。その所在が明確であるとともに、そこで多くの法律関係が発生し、そこを基点として法律関係を処理することが適切だと考えられているのである。しかしながら、民法の考え方がその他の法律にも画一的に適用されるわけではない。民事訴訟の場合、管轄の定めは原則として住所によって定まるとはいえ、審理上の当事者双方の公平、審理の充実や審理の遅滞の危険を防止するなどの理由によって、より適切な裁判所に移送することが認められている(民訴一七条)。
  家事審判事件の管轄は、専属管轄であるから管轄遵守の要請は、通常の民事訴訟事件以上に強いといえる。しかし家審法四条は、管轄権に属しない事件についても本来管轄権ある裁判所への移送を原則としつつも、特に必要があるときは他の裁判所への移送あるいは自ら処理すること(自庁処理)を認め、さらには管轄裁判所から他の裁判所への移送を認めているのである。この四条一項但書き後段および第二項の規定は、人訴法旧規定には存在しなかった。事件の関係人の便宜さらには充実した審理を狙った規定である。住所地を管轄の定めの原則としつつも、審理過程上で生じる関係人間の公平、証拠調べの便宜などが考慮されているわけである。このことを逆にいえば、管轄権の定めは、裁判所へのアクセスポイントをどこにするかについて意味を有するにとどまり、実体審理を行う裁判所を定める決定的基準ではないということを意味しているといえる。わが国の人訴法旧規定ではこの趣旨は明確ではなかったが、一八九八年に改正されたドイツ民訴法は禁治産事件の管轄裁判所と実質的に審理を担当する裁判所とは、別の基準によって定まるとの考え方を採用していたのである(14)。このような考え方を採用するとしても、なお本人の住所地の家庭裁判所に申し立てることが前提とされている。
  申立てがあれば、民訴法一七条や家審法四条等の考慮によって移送できるとするならば、専属管轄を定めるにあたって、すでにこのような考慮がなされてもよいのではないか(15)。専属管轄権のある裁判所を本人の住所によって形式的に定めるのではなく、本人をはじめ関係人の便宜を考慮して定めることがあってもよいのではないかが問題となりうる。そのためにはどのような要因が考慮されるか。申立てのしやすさ、裁判所の審問や証拠調べの便宜、後見人等の職務内容と裁判所による後見監督上の便宜などが考えられよう。成年後見の事件においては、住所地とは別の病院に入院しあるいは施設に入所している本人からの申立ても増加することが予想される。また、審理の便宜の観点からいえば、現在のように本人を裁判所へ出頭させるについても住所地よりは居所を基準とする方が便利だといえる(16)。ただ、裁判所が本人の陳述を調査官の調査の過程で確認するというのであれば、審理過程上の関係人の便宜は、管轄裁判所を決定する重要な要因にはならない。どのような審理方式を採用するか、裁判所がどのようにして本人の審問を実施するかという内容を明らかにすることが先決問題となるのである。裁判官による直接の審問を実施せず、鑑定人の鑑定と調査官による調査だけで裁判しようとするならば、むしろ本人の居所よりは後見人候補が居住しあるいは財産の存在する住所地の方が適当だということになろう。
  これに対してドイツの世話事件のように、世話を命じる裁判に先だって裁判官が本人を原則としてその居所で直接に審問し、直接の印象を獲得しなければならないという審理方式を原則とする(ドイツ非訟法六八条一項)ならば、本人の居所地を管轄裁判所としその裁判所で審理することが決定的に重要になる。ひるがえって、規則二五条は、後見の開始を命じるに先立って本人の陳述を聞かねばならないとする。このことは審理を担当する裁判所を決定するについてどのような意味を有するのであろうか。残念ながら規則二五条からはその解答を導くことができない。調査官による調査ないし書面による陳述聴取を原則とするならば、本人の住所地の裁判所でもさして不都合はないといえるからである。もちろん、現行法のもとでも移送や自庁処理が可能なのであるから、その運用によって不都合が生じないという反論は可能である。しかし例外的処理を原則化するよりは、成年後見事件については本人の状況等を考慮して、居所地の裁判所を管轄裁判所にする方が合理的であるといえる(17)。家庭裁判所が、様々な障害をもつ本人の直接の審問を実施するという方向を示すことがなければ、管轄裁判所をどのように決定するかは、たんに理論的な問題に過ぎない。申立てがしやすく、裁判官による直接の審問を受けやすい裁判所を決定するという視点が重要であるが、そのためには審理実務を大きく変えることが不可欠だといえる。この点は以下に検討する。

2  本人の手続能力の承認と手続監護人制度の導入
  家事審判手続における本人の訴訟能力(以下、手続能力という)は、民事訴訟法の準用によって定められる。このことは家事審判手続においても手続の安定が重視されていることの現れである。それゆえ、心神喪失の常況にある者の訴訟行為は、後にその効力が争われる可能性があるので、禁治産を受けておればもちろん、受けていなくても実質上そのような状態にあるときは、たとえたまたま正常に復しているとみられても、当事者本人による手続の履践は拒否するべきであると解されてきた(18)。成年後見法による家審法および規則の改正でも、この点には触れられていないから旧法時における解釈がそのまま維持されると考えられる。
  しかしながら、成年後見事件の審理、とりわけ後見開始の審判やそれに対する抗告、取消申立ての手続において本人の手続能力を否定することについては、再検討が必要である。結論を先に述べておくならば、すべての成年後見事件において行為能力にかかわらず本人の手続能力を承認するとともに、本人による十分な手続行為を保障するために、ドイツ法にならって手続上の法定代理人である手続監護人制度を導入することが必要であると思われる。これは人訴法旧規定に存在した弁護士の付添い命令の現代化といってもよい。
  後見開始の審判を申し立てる要件は、本人が事理弁識能力を欠く常況にあることである(民七)。一般的な理解によれば、この状態では本人は他の者に自らの意思を表明することができないし、たとえ表明されたとしても理性的なものであるとは評価できないとされよう。それゆえにこそ、法定代理人を通じてのみ行為することが求められているのだとされるのである。このような考え方から、実体法上の法律行為や訴訟行為をなすについては、後見開始命令を得て法定代理人たる後見人の選任が必要だと解されているのである。ところが問題となるのは、後見開始の申立てを審理する段階においては、本人は誰によっても正当には代理されていないし、また本人自身が自らの意思を表明することも保障されていないのである。本人は完全に無防備な状態で、自らの行為能力を制限される手続に組み込まれているのである。本人は手続主体ではなく、その客体としての地位しか与えられていない。この手続構造自体が、本人の自己決定や自由意思を奪う仕組みになっていることに気が付かなければならないのである(19)。本人の示す言語上・非言語上の様々なシグナルを手続に反映させ、最大限に尊重するための手続上の工夫を検討する必要があるといえるのである。
  旧禁治産制度のもとでの申立ては、遺産分割など禁治産者の共同権利者の権利を実現する手段として、あるいは一回的な行為をする必要性のためになされることが多かった。あるいはまた、兄弟姉妹のうちの一人が禁治産を申し立て、他の者がこれに反対するなど、禁治産申立てが遺産分割の前哨線と位置付けられるような場合もみられた(20)。このような事態は、禁治産の本来の姿から逸脱した要素を含んでいる。禁治産者の福祉ないし権利の擁護というよりは、申立人等の利益を伸張させる側面が強く、申立人と禁治産を受ける本人との利益が必ずしも一致するとはいえないからである。将来後見人の候補となりうる者による禁治産申立ての場合でも、このような利害対立が潜んでいることがある。新しい成年後見制度においても、このような状況が解消するとは考えにくい。そうだとすると、申立ての背後には本人の利益を害するような状況があることを前提とした手続の設計をしておくことが必要となる。さらにわが国の成年後見制度のうち後見命令は、いったん命じられるとその医学的要件と解される本人の精神状態の改善が見られない限り、その実際上の必要性が解消しても、取り消されないこととされている。後見開始命令の前提となった法律行為や取引、訴訟などが終了しても、本人はなお後見に付せられたままなのである。
  このような状況も、審判手続において本人の客観的利益を代弁し、手続に反映させる工夫を必要とさせるといえよう。審理の対象が、申立人やその他の親族等からの意見聴取にとどまるとすれば、本人の客観的状況や利害状況が裁判官に正確に伝わるかについて疑問が残されるからである。むしろ申立人やその他の親族の審問よりは、本人自身の審問を中心に据えることが重要である。そのためには、本人の行為能力にかかわらず手続能力を承認するとともに、実質的に意思を表明できない本人のために手続上の法定代理人たる手続監護人の制度を導入する必要がある。
  この提案は、たしかにドイツの世話手続における手続監護人の制度に示唆を受けたものであるが(21)、わが国にとって、本人の手続能力を承認することやその利益擁護を実質化するという考え方は、先にも指摘したように人訴法旧規定に存在したものであり、決して唐突なものではないのである。これが家審法のもとで十分な検討がないまま削除されていたものである。
  後見が開始された後は、本人は後見人によって代理される。しかしその審判に対して不服を申し立てるか否かについて、本人と後見人の意見が常に一致するとは限らない。申立人が後見人に選任される場合には、後見人が本人のために後見開始の審判に対して不服を申し立てることは考えにくい。また申立人以外の者が後見人に選任される場合も、その地位は審判に由来するのであってやはり不服を申し立てにくいのが実際であろう。こうした状況を考えると、法定代理人が選任されることによって、本人の不服申立権がかえって無視される事態が生じていることが分かる。そのため、実体法上の法定代理人とは別の本人の利益主張者である手続監護人を用意しておく必要があるのである(22)。人訴法旧規定が、禁治産宣告に対し本人が不服申立てをする場合に、裁判長が弁護士の付添いを命じることができるとしていたのは、まさに本人の手続能力を認めたうえで、その利益保護を実質化しようとする趣旨であった。法定代理人たる後見人を通じて代理されるとはされていなかった点に注意が必要である。後見人から独立した弁護士による付添いの必要性が認識されていたのである。
  もっとも、人訴法旧規定においては、本人は禁治産宣告に対する不服申立てに限って手続能力を認められていたにすぎない。禁治産宣告手続自体や取消の訴えにおいては、一般原則に従って手続能力は認められていなかった(23)。この意味では人訴法旧五九条は、きわめて例外的な定めであった。しかし本人の自己決定を尊重し、残存能力を活用することを目的とする新しい成年後見においては、人訴法旧規定の右の趣旨を、手続の開始から終結、取消に至るすべての局面に拡張していくことが求められているといえよう。それゆえ、本人には行為能力にかかわらず手続能力を認めたうえで、次のような内容をもつ手続監護人の導入をすることが求められるのである。
  (1)  手続監護人の選任要件    すでに別稿において示したように、手続監護人の選任、その地位、職務内容等を考える上では、ドイツ法における定めが参考となる(24)。それによれば、手続監護人が選任される要件は、手続の対象と本人の利益擁護の必要性の二つの観点から判断される。手続対象に関しては、わが国の成年後見制度を考慮すると、後見開始、後見人の解任、新しい後見人の選任の手続が重要である。また本人の利益に関しては、ドイツ非訟法は、「本人の利益の擁護に必要である限り」と抽象的に定めるにとどまっている。立法者は、軽度の精神病や精神障害の場合には必要がなく、また本人自身による申立ての場合にも必要がないとしている。また本人がすでに弁護士等を選任している場合にも、手続監護人は選任されない。いずれにせよ、本人が現実に適切な手続行為をなし得るか否かの判断が重要であるとされている。
  さらにドイツ非訟法六七条は、裁判所が本人の直接の審問を実施しない場合(これについては後述する)、手続の対象がすべての事務の処理のための世話人の選任であるときは手続監護人の選任は必要的であるとしつつ、「手続監護人選任の利益が明らかに存しないとき」は、この選任を行わなくてもよいとの例外を定めている(六七条一項第三文)。本人が裁判官による直接の印象により、明らかに意思を表明できない場合がこの例外にあたると解されている。
  (2)  手続監護人の地位と職務    手続監護人は、本人が自ら意思を表明できない場合に、客観的利益を主張することを職務とする。本人と並んで、また本人とは独立して裁判所による直接の審問を受け、裁判に対して本人の名で、また手続監護人独自の権限として不服を申し立てることもできる。手続監護人は本人の授権によって選任されるのではなく、裁判所によって選任される本人のための手続上の法定代理人であるが、本人の意思に拘束されず、また裁判所の監督に服しない(25)。その結果、本人の利益に適切であると考える事実を主張するのであって、場合によっては本人の意思に反することもあり得る。手続監護人には独自の事実調査権限は認められていないが、すべての記録を閲覧することができる。
  手続監護人が選任されることによって、本人の利益について異なる内容が主張されることがある。本人が裁判に対して不服を申立てていないにもかかわらず、手続監護人のみが不服申立てをすることもあり得る。こうしたことは、成年後見事件の特殊性として承認されなければならないし、手続を複雑にするものでもない。多数の関係人が関与する非訟事件では、こうした事態は決して珍しくはないからである。
  (3)  手続監護人となり得る者    手続監護人は成年後見事件の審理に関与し、本人の客観的利益を主張する者であるから、弁護士がその職務にふさわしいことは疑いがない。時として、申立人らと対立する主張をなすことも考えられるから、その良心を保持し得る者でなければならないからである。家庭裁判所の許可を得れば司法書士も候補者として考慮されうるであろう(26)。ドイツにおいては、世話が本人の身上監護にも及ぶためにソーシャルワーカーも候補になりうると解されているが、わが国では後見人の任務は財産管理とされているため、法律専門家であることが望ましいといえよう。

3  本人の直接の審問
  (1)  規則二五条の不十分さ    すでに指摘したように、規則二五条は「家庭裁判所は、後見開始の審判をするには、本人の陳述を聞かなければならない」との定めを置き、成年後見事件の審理における本人の手続保障を強化した。このこと自体は、旧禁治産宣告申立ての審理に比較すれば、一歩前進したようにみえる。しかしよく考えてみれば、この規定はいかにもおざなりである。そればかりか、規則二五条の定めは、人訴法旧規定四七条の水準を回復していないのである。規則二五条は十分な検討を経て定められたものであるか、きわめて疑わしいといわざるを得ない。
  思いつくまま挙げてみても次のような疑問が生じる。規則二五条は、本人の陳述聴取の方法を明らかにしていない。裁判官が自ら聴取するのか、調査官の調査に含ませるだけで十分であるかが明らかにされていない。後見開始の手続では、本人の陳述を聞くことができない場合が当然に予想されるにもかかわらず、その場合にどのような代償的措置をとるかが明らかにされていない。また本人の陳述を聴くことができないとの判断をどのような資料によって決定するかも明らかではない。裁判官や調査官が本人の状況を見ることは、陳述の聴取とは区別される(27)。見分しても、本人が質問等に答えることができない場合には、陳述を聴取したことにはならない。この場合に二五条の規定だけでは十分ではない。さらには、専門医以外の者の質問等が、本人の健康を損なってしまうこともありうる。この場合には、本人の陳述を聴取してはならない。意見陳述の機会を別に設定することは可能であるが、健康の悪化は取り返しがつかないこともあるのである。二五条はこうした事態への配慮を欠いている(28)。二五条は実務上で実際に生じうる様々な問題点を検討した結果であると解することができないし、実務に対する十分な指針を提供しているとはいえない。人訴法旧規定四七条は、すでにこのような事態を想定して、審問の方法についての定めをしていたのである。ここで、この規定を再確認するとともに、その趣旨を新しい成年後見事件の審理に復活させ、さらに充実したものとすることができるかを検討する必要があると思われる。
  人訴法旧規定四七条は、禁治産事件における本人の尋問について次のように定めていた。
  裁判所ハ鑑定人ノ立会ヲ以テ禁治産ノ宣告ヲ受クヘキ者ヲ訊問スヘシ但其ノ訊問ヲ為シ難キトキ又ハ其者ノ健康ニ害アルトキハ此ノ限ニ在ラス
  前項ノ訊問ハ受託判事ヲシテ為サシムルコトヲ得
  本人に対する裁判所の審問は、裁判官によって直接に行われること、審問を実施するには鑑定人の立会いが必要であること、審問を中止するのはそれが可能でないとき、あるいは審問の実施が本人の健康に有害となるときであることが示されている。このことを明確にする点で、規則二五条よりも優れていることが分かる。この規定も、禁治産事件が家事審判法に取り込まれた際に継承されなかったもののひとつである。人訴法旧規定四七条の立法の段階では、この趣旨について十分な議論が展開されたわけではない。しかしその母法であるドイツ民事訴訟法の制定過程における趣旨は、次のようなものであった。まず鑑定人の立会いの必要性は、裁判官には十分な医学的知識が不足していることである。裁判官に代わって医師に質問させたり、本人の陳述の趣旨を医学的な立場から説明して、裁判官が誤った判断をしないように裁判官を援助させることにその目的があった(29)。禁治産の理由は、当時は圧倒的に精神医学でいう精神病であり、その医学的要件が厳密に確定されなければならないと解されていたためである。審問の中止の要件もこの観点から必要であるとされ、理解されていたのである。禁治産に関する旧法が、すでにこのように高度な手続保障を定め本人に対して慎重な配慮をしていたことは、改めて確認しておく必要がある。
  ところで、人訴法旧四七条およびドイツ民訴法六五四条では、本人の審問を実施しない場合の代替措置は定められていない。ドイツの旧法下でもこの点は対して問題視されていなかった。裁判官による直接の印象の獲得と鑑定結果だけで十分だとされていたのである。しかし世話法のもとでは、裁判官による本人の審問を中止するためには、@医師の鑑定により本人の健康に重大な不利益のおそれがあること、A裁判所の直接の印象により、本人が明らかにその意思を表明できないと判断される必要がある(ドイツ非訟法六八条二項)。そのうえで手続監護人に対する直接の審問が実施されるのである。審問中止の要件自体は、世話法のもとでも旧法とは大きな差異はない。重要なのはそれを判断する基準と代償的措置なのである。

  (2)  審問期日における親族等の立会い    裁判所が本人の陳述を聴取する場合、本稿で指摘しているように裁判官による直接の審問を実施するとすると、問題となるのは親族の立会いである。成年後見事件においては、本人の家族等への依存や感情的対立が存在し、家族の立会いのもとでは十分に意見を表明できない場合もある。この点で審理の内密性・秘密性が維持されなければならない。他方で、家族は本人との長い生活歴から、本人が口頭で陳述できない場合でも、しぐさや身体表現などの非言語上の表現の意味を解し得るのであり、本人と裁判官との通訳者的な役割を期待できる。さらに審問の際の雰囲気を和らげることもあり、後見が開始された場合はその中から後見人が選任されると否とにかかわらず、重大な影響を受ける者である(30)。審問においてはこの両者を調整する必要がある。本人の意見聴取においては、本人自身の利益を優先するべきであるが、家族の立会いをどのように認めるかについては裁判官の裁量に委ねられよう。
4  調査官による調査の意味
  ところで、裁判官による本人の意見の聴取を検討する場合には、調査官の関与のあり方を同時に検討しておく必要がある。旧法下の実務によれば、禁治産の大半のケースでは調査官による包括的な事実調査が命じられていた。禁治産の要件である本人の精神状態については、鑑定人の関与が予定されその判断に委ねられるが、その他の本人の社会的状況、家族等との関係あるいは後見人として相応しい人物の調査などがその対象とされていた。新しい成年後見制度のもとでも、ほぼ同様の調査官活動が予定されているようである(31)。この過程で本人の意見が聴取することが予定されているわけである。
  しかしこれでは、禁治産事件の場合とほとんど差がないといえよう。もちろん調査官は、社会学や心理学等の専門知識を有し、社会調査の方法にも習熟しているから、裁判官による審問よりも慎重かつ丁寧に事実を探知することができるといえる。しかし問題なのは、調査官による本人の意見聴取によって、裁判官による審問機会の保障を代替してしまうことである(32)。調査官の調査によって、後見開始の要件具備の判断に必要な事実や事情をすべて探知させようとするところに問題がある。調査官の調査は、あくまでも裁判官による本人の意見聴取を実質化し、円滑に運営するために必要な諸事情の探知と、裁判官による本人の意見聴取では十分にカバーされない事実の探知を中心とするべきである。裁判官が自ら本人の意見を聴取するという直接主義を維持することこそ、能力を制限される本人の手続保障の最後のよりどころなのである。この意義は決して低く評価されてはならない。
  裁判官による本人の審問と、調査官による調査の機能分担を考えるうえで参考になると思われるのは、ドイツの世話事件における社会報告の内容である。社会報告は、行政官庁である世話官庁のソーシャルワーカーによって作成される被世話人の生活・社会的および人的関係等に関する包括的な調査報告書である(世話官庁法七条)。ドイツにおける後見裁判所は、独自の調査機構を有していないために、世話事件を扱うのに必要な本人の包括的な事実の調査を世話官庁に命じ、世話官庁に裁判所への協力義務を課したのである(世話官庁法八条)。そのため世話官庁の社会報告は、裁判所の調査官による報告書と直ちには同視できない。しかしながら、ソーシャルワークの専門家によって作成された報告書は、裁判官のみならず鑑定人にも提出されてその判断の基礎になるとともに、さらに審理期日においても審問を受けるという点では、わが国の調査官の報告書にもきわめて類似しているのである。もちろんこの社会報告は審問に先だって本人にも開示される。
  一九九二年に連邦司法省によって作成された社会報告の雛型によれば、次のような事項が調査されなければならない(33)。(1)本人の社会的状況。本人の生活歴、教育・職歴、家族の状況・直近の親族、住居および生活関係、友人・知人・接触のある人物、収入・扶養・年金・資産、継続的あるいはその他の金銭上の負担(たとえば家賃など)、(2)本人の健康状態。いかなる健康上ないし能力障害があるか(精神病・知的・精神的障害、身体障害)、従来の治療状況、事件本人のホームドクター、事件本人はホームドクターまたは検査医の守秘義務を免除しているか、(3)実際上の生活の困難の克服について。自らの事務処理に際して生じる問題、利用できる援助(訪問介護を含む)、従来の援助が十分でない理由、世話人の選任以外の援助で補える可能性、その他のコメント(たとえばすでに開始されている援助)、(4)世話の任務領域について。右の欠点を根拠として提案されうる任務領域(身上監護ないし財産管理の領域からできる限り厳密に定める)、(5)世話人について。事件本人の世話人選任に対する態度、世話人として選任可能な者、本人の提案とソーシャルワーカーの提案、提案された者の同意の有無、世話人の選任に際して考慮されるべき事項、事件本人は世話処分、高齢に備えた代理権等を知っているか、(6)裁判手続への示唆。事件本人の滞在先と変更の可能性、審問ないし検査(鑑定)に際して予想される困難(ドアを開けない、視力・聴力の障害、歩行ないし移動の困難など)、審問ないし検査で仲立ちをしてくれる人物、緊急を要する事情、および(7)その他となっている。
  ここでは極めて包括的な事実が調査対象とされていることが分かる。ドイツの世話制度は、必要性原則と補充性原則に立脚し、法的な介入よりは事実上の援助措置が優先されるために、その事情を見極める必要があることが調査を広範囲なものとする一因になっている。しかし、わが国の成年後見事件においても、調査官の報告はこの程度のものとなっているのではないかと推測される。ドイツでは、この社会報告に加えて専門医による本人の事務処理能力および世話の必要性に関する鑑定が命じられる。裁判所はそれらの調査や鑑定の基礎に立って、本人の直接の審問を実施するのである。このことはわが国の家庭裁判所の調査官の調査と裁判官による本人の意見聴取のあり方を考えるうえで示唆的であろう。もちろん社会報告は行政機関の作成するものであるから、そのまま裁判の基礎とすることができない。この意味で裁判官の審問が必要であるともいえる。しかし同一対象を行政機関と裁判所が重ねて調査する必要もないわけであり、世話法は両者の機能分担を図っているのである(34)。この意味では調査官の報告書と同様の機能を果たしているといえる。社会報告は裁判官による本人の審問に際して留意すべき事項を明らかにするとともに、ソーシャルワーカーの立場から、いかなる法的措置が必要であるかを提言するものである。社会報告は、世話官庁に属するソーシャルワーカーが自らの専門的立場から、調査を行いさらに具体的な提言を行う。それは世話の必要性に関する社会的観点からの鑑定に近い評価を受けているのである(35)
  わが国の家庭裁判所調査官の調査は、裁判官の命令によって行われるものであるが、裁判官の有しない専門知識を駆使して作成されるものであり、その観点から審尋期日にも意見を述べることができるのである。調査がいかに詳細なものであっても、裁判官による本人に関する直接の印象の獲得や直接の審問の必要性が消滅するものではない。何よりも裁判官によって審問されないで、本人の行為能力を著しく制限し、そしてその裁判に対しても本人自ら不服申立てをなし得ないという手続は、最低限度の手続保障すら欠いているといわざるを得ないのである。

5  終結協議の導入の可能性
  後見開始の命令に先だって本人の陳述を聞かなければならないという規則二五条の趣旨は、本人が意思を表明できる場合に、本人が申立てに対してどのような意見を持っているか、どのような措置を希望しているか、後見等の措置の意味を理解しているか、あるいは後見人として誰を希望しているか等を確認するものである。また本人が申立てをする場合に、それが本人の意思によっているか、あるいは本人以外の者による申立てに対して本人が真意に基づいて同意しているかの確認も、審問の重要な内容をなす。これらの点について本人の意思が明確にされれば、審問の目的は達成されたと考えられやすい。しかし新しい成年後見制度のもとでは、なお注意しなければならない点がある。それは裁判所が申立てとは異なる内容を必要とする場合の審問のあり方である(36)
  新しい成年後見制度においては、本人以外の者が補助開始の申立てをする場合、および特定の法律行為に関し保佐人に代理権を付与する場合には、それぞれ本人の同意が必要である(民一六条二項、八七六条ノ四第一項、第二項)。これは本人の自己決定を尊重する趣旨で設けられたものである。旧法下においては、禁治産と準禁治産申立ては一個であり、裁判所は禁治産申立てに対して審理の結果、準禁治産が相当であるとするときは改めて申立てを要することなくその旨の審判をすることができるし、その逆の場合も同様であるとする申立て一個説が主張されていた。禁治産と準禁治産の要件の差異は、本人の精神状態の点に見られるに過ぎず、両者は制度趣旨を同じくすることがその理由とされていた。新しい成年後見制度のもとでは、その要件と効果が旧法下よりもいっそう異なるために、この見解をそのまま維持することは困難であろう。
  これに対して実務は、申立て別個説をとり、禁治産の申立てに対して準禁治産を相当とするときは、申立人に対して釈明し申立てを変更させる措置をとらなければならないとし、さらに申立人が申立てを変更しない限りは申立てを却下せざるを得ないとしていた。新たな成年後見制度のもとでも、この実務が維持される旨が指摘されている(37)。しかしこの場合の処理を、申立人に対する釈明、申立ての変更という枠組みだけで考えるのは適切だとはいえないであろう。申立てを変更する場合には、本人の同意が必要であるとすれば、裁判所が本人の審問に際してその意思を確認することができることを考慮すれば、実質的に重要なのは本人の意思確認なのである。申立人に対して釈明の場を設けるのであれば、裁判所はいっそう本人の審問に重点を置くべきだといえるのである。このことは、保佐開始の申立てに対し、裁判所が後見開始を適切と考える場合にも当てはまる。後見開始については、本人の同意は必要とされていないから、保佐開始申立てを後見開始に変更する場合には、本人に対する重大な能力制限という効果にかんがみて、その意思を確認する必要が必要になるのである。
  わが国の新しい成年後見制度は、法的介入の必要度に応じて個別的にその内容を定めるとする一元的制度を採用せず、三つの類型を認めた上でその相互の垣根を低くすることによって、可能な限り柔軟な運用をなし本人の意思を尊重した内容となることを目的としている。補助開始や保佐人の代理権付与に対する本人の同意は、この趣旨を明らかにする民法上の定めである。しかしながら、本人の意思を尊重するためにはそれだけでは十分ではない。むしろ手続上でそのための措置を講じることが重要なのである(38)。民法上の原則を前提とすると、申立てを別個とし申立て人が釈明に応じない限り申立てを却下しなければならなくなるのである。これではかえって本人の利益を損ないかねない。立法に際して手続上の諸問題を十分に検討していなかったことから生じる問題点の一つである。このような不都合を解消するためには、審理手続上でそれなりの工夫が必要である。
  手続過程で、裁判所が調査官の報告書や鑑定書を基礎に本人の審問を実施するならば、申立ての適切さやその他に必要となる処分の当否をあわせて判断することが可能である。裁判所がそれらの措置の必要性やこれに対する本人の意向を打診し、意見を聞き、さらには申立人に変更の意思があるかを確認するならば、審問・釈明およびそれに対する新たな措置に対する本人や申立人の態度を一度に処理することができる。申立てを別個と解しても、審理の中で裁判官の心証によって変更する余地を認め、改めて申立てをさせなくても柔軟に処理することができるといえる。しかしこの方法は、審問の期日に裁判官が心証を開示し、裁判官から見て最も適切と考える内容を提案すること、それに対して本人や申立人に対して意見を求めることを前提としている(39)。要するに裁判結果を開示し、それについて関係者と協議することを意味するからである。
  一般的にいえば、裁判においてその言い渡しの前に裁判結果を本人に開示することは背理であると考えられる。しかしながら成年後見事件の場合には、保佐人や後見人に誰が相応しいかについて、本人の意思が最大限に尊重されなければならない。裁判内容について本人や申立人に対して、留意しなければならない事項を予め指摘することは、審判の後に円滑に事務が遂行されるための不可欠の要請である。さらに旧法下においても、申立ては適切でなく別の内容が適切である旨の釈明は行われていたのである。申立人に対しては裁判結果が示唆されていたともいえるのである。ここでの提案は、これに本人をも加えて意見の聴取をなすべきであるというに尽きる。従来の実務からみても、著しい逸脱だとはいえないであろう。
  このような審理は、ドイツの成年後見事件においては終結協議と呼ばれている。それを実施する可能性は、裁判官が直接に本人を審問するという実務を実現するならば、わが国でも十分に可能なのである。

(14)  この点については、佐上・前掲注(2)二九頁。
(15)  専属管轄という場合、該当する裁判所は一個であると考えやすい。しかしドイツ非訟法は、世話事件については、本人の居所のほか監護の必要の生じた地、また一定の仮処分についても監護の必要の生じた地の裁判所にも管轄権を生じさせている(六五条一項、二項、五項)。この規定の概略については、佐上「世話事件および収容事件の手続(1)」立命館法学二五九号(一九九八年)二三八頁以下参照。
(16)  成年後見事件において登場する本人は、事理弁識能力を多かれ少なかれ欠く者である。そうだとすれば、たとえ本人を裁判所に出頭させるにしても、可能な限りその生活圏に近い裁判所であることが望ましいといえる。この意味では、家庭裁判所の管轄を簡易裁判所のそれと一致させるような司法改革が必要であろう。家庭裁判所の審判に対する抗告審が高等裁判所であるから、本人の生活圏からあまりにも遠隔地となってしまうからである。家庭裁判所を地方裁判所と同格のものとして出発した趣旨も理解できるが、他方で、本人の居所に近い裁判所での審理を実現することも考慮すべき時期になっているのではないかと思われる。なお、家事事件と家庭裁判所の役割については、佐上「家事紛争と家庭裁判所」『岩波講座・現代の法5  司法システム』(一九九七年)二六七頁以下参照。
(17)  成年後見の事件を扱う上では、裁判所が福祉機関と密接な関係を維持しなければならないことが予想される。それゆえ、裁判所の都合だけで管轄裁判所を定めるのではなく、本人に対する措置を実施していくうえで最も相応しい場所がどこかを総合的に判断していく必要がある。
(18)  東京家庭裁判所身分法研究会編『家事事件の研究(1)』(一九七〇年)三五九頁[加藤令造]。
(19)  ドイツにおいても、強制監護の手続で本人の手続能力が承認されたのは、一九六一年三月二二日の連邦通常裁判所の決定であった。これは、一九五四年における本人の手続能力を否定した通常裁判所の決定に対する、Ro¨hl, Prozessfa¨higkeit Geisteskranker, JZ 1956, S. 309 の批判を受けて態度変更をしたものである。本文での指摘は、ほぼ右の通常裁判所の理由とするところと同様である。この点について詳しくは、佐上・前掲注(2)二三八頁以下。
(20)  この点については、精神保健福祉法にもとづく保護者選任審判に関連して佐上・前掲注(2)二九六頁以下参照。
(21)  ドイツにおいて手続監護人の制度が導入されたのは、禁治産や障害者監護に先立って監護権に基づく収容手続においてであった。この点について詳しくは、佐上・前掲注(2)六九頁以下を参照されたい。
(22)  この点について、前掲注(19)参照。
(23)  松岡義正『特別民事訴訟論』(第三版、一九二〇年)四二六頁、四六三頁は、禁治産者の訴訟能力を禁治産宣告に対する不服の訴え及び禁治産取消申立却下に対する不服の訴えにも認めていた。戦後になってこの能力は否定されるが、反省を要しよう。
(24)  以下の説明について詳しくは、佐上・前掲注(2)二四六頁以下、佐上・前掲注(15)二四二頁、および同紹介の(3)立命館法学二六二号(一九九九年)一三三一頁以下。なお、ドイツにおいて手続監護人の制度につき、手続監護人が本人の利益よりも自己の利益を優先させているとして否定的な立場を強調する者として、Coeppicus, Handhabung und Reform des Betreuungsgesetzes (1995), S. 113f.;ders., Sachfragen des Betreuungs− und Unterbringungsrechts (2000), S. 225f.がある。しかし、彼の主張はドイツにおける通説とはいえない。
(25)  前掲注(24)参照。
(26)  社会福祉協議会やその他の公益団体等が中心となっている、高齢者等の財産管理団体のメンバーなども、本人の状況を知悉しているという点からは、手続監護人の候補ともなりうるであろうが、現時点では法曹および準法曹に限定しておく方が無難であろう。
(27)  ドイツ非訟法六八条の定めから明らかになるように、裁判官による直接の審問と直接の印象の獲得は別の内容を意味する。通常は、両者は一連の経過であり、同時に実現することができる。しかし、直接の審問が可能でないときは、手続監護人を選任してその者を直接に審問しなければならないのである。ドイツにおいては、両者をともに省略し、書面によるだけで審理することは予定されていない。
(28)  本人が審問に耐えられないとか、審問を実施することが健康を害するといった判断は、現在の実務を前提にすると医師の診断書によるのではないかと考えられる。しかし、診断書と鑑定人との差異がここでも問題となる。ドイツの旧法下の障害者監護の審理において、医師の鑑定的意見によって、本人との意志疎通が可能でないとされていた場合には、本人の審問が省略されていたとの反省から、世話法では鑑定人の意見を必要的とした。鑑定人に対しては、反対訊問権が保障されるなどの点で、手続上診断書とは区別されるからである。この点について、佐上・前掲注(2)一〇七頁以下、一九〇頁以下参照。
(29)  この点について、佐上・前掲注(2)四四頁。
(30)  佐上・前掲注(2)一八二頁。
(31)  こうした指摘をするものとして、相澤眞木「運用の実際」判例タイムズ一〇三〇号(二〇〇〇年)六七頁、吉田健司「新しい成年後見制度について」ケース研究二六四号(二〇〇〇年)九一頁、九四頁。
(32)  たしかに、規則二五条は「裁判所は」としているので、調査官による事実調査を許容しているようにも読める。しかし重要なのは、審問の主体が裁判官か調査官かということであり、直接主義を採用するのか、間接主義で足りるのかという議論である。最終的判断に責任を持つ裁判官が本人に関する直接の印象を持たないで、能力の制限をするということは、人格の制限という最も厳しい効果に照らしてみると、幸福追求権を侵害し、また重大な手続上の疑義を生じさせるということを認識する必要があるのである。この意味で、調査官と裁判官の役割分担をもっと深刻に再検討してみる必要がある。
(33)  この点について詳しくは、佐上・前掲注(2)一七四頁以下。
(34)  佐上・前掲注(2)二〇二頁。
(35)  ドイツの世話事件において、クレフェルトは、裁判官の法的判断だけでは世話事件を適切の処理することは困難となっており、鑑定人やケースワーカーの協働が必要になっていることを強調している。クレフェルト/佐上訳「世話事件における鑑定人」立命館法学二六七号(二〇〇〇年)二九五頁(これは、佐上・前掲注(2)三四三頁以下に収録した)。この考え方を応用すれば、成年後見事件において調査官がその専門知識を活用して、裁判官と協働する可能性を認めることは十分にありうることになる。その具体的な協働のあり方については、今後の研究課題としたい。
(36)  この点についての詳しい問題指摘については、佐上前掲注(2)三一五頁以下参照。
(37)  小林昭彦・大鷹一郎・大門匡『一問一答新しい成年後見制度』(二〇〇〇年)一〇三頁。
(38)  佐上・前掲注(2)三三八頁。
(39)  この点について詳しくは、佐上・前掲注(2)二二二頁以下、および「ドイツの世話手続における終結協議」吉村徳重先生古稀記念論文集(近刊)を参照されたい。


四  残 さ れ た 課 題


  成年後見事件の審理手続には、ここで取り扱った問題のほかにもなお疑問点がある。従来より甲類審判事件についての研究は立ち後れている。今次の法改正によって、その不十分さがいっそう目立ったといえる。本人の自己決定を最大限に尊重する手続はいかにあるべきか、また裁判手続においてもこれに関与する裁判官、鑑定人、調査官の協働関係をどのように形成していくのかは重要な検討課題である。ここでは、現在の家事審判法が明治二三年法律一〇四号およびそれを引き継いだ明治三一年の人事訴訟手続法の水準を回復していないといった主張をしたが、個人の意思の尊重がますます重要となるこれからの時代に相応しい成年後見事件の審理手続や諸条件を整備していくという重い問題が、なお未解決のままに残されているのである(40)

(40)  その一つの問題としての成年後見事件における不服申立てについては、佐上「成年後見事件における即時抗告」鈴木正裕先生古稀記念論文集(近刊)を参照されたい。