立命館法学 2000年3・4号上巻(271・272号) 88頁




検事監督制度からの離脱(上田)

− ロシア連邦における公判前手続の改革 −


上田 寛


 

は し が き

一  問題の性格

二  ソビエト時代の公判前手続

三  エリツィン政権がもたらした変化

四  公判前手続における改革

むすびにかえて

 



は  し  が  き


  旧社会主義諸国における市民的自由のありようは長期にわたって緊張した論争的性格の問題であり続けたが、その実態を刑事手続きにおける防禦権の法的構成にそくして検討するとき、核心に位置する問題の一つが検事監督制度の理解であった。ここで社会主義的な刑事手続の一例としてソビエト刑事訴訟法における公判前手続を見ると、それにわが国や欧米諸国のそれとは大きく異なる外観を与えていたのは、捜査・取調べ諸機関の活動のコントロールのあり方であった。後者の国々においては、形態の多様性を含みつつも、基本的には令状主義という形で裁判所によるコントロールが予定されているのに対して、ソビエト型の公判前手続において捜査・取調べ機関の活動を監督するのは明確に検事である。制度上、そこでの検事は単なる一方の当事者ではなかったのである。
  そこにおける検事は、いわゆる「ソビエト型検察官」として、捜査・取調べにあたる諸機関の活動の法律適合性について直接の監督権限を持ち、起訴状の確認という手続きによってそれを最終的に承認し、また裁判の過程を通じて法律の解釈適用に誤りがないことを監督する位置にあった。その機能は、ある意味においては、裁判官以上に司法官的であるとさえ言えるものであった。のみならず、検事による合法性の監督は裁判所の活動にとどまらず、一般的に国家機関や公務員、社会団体、市民の行為の合法性に対しても及ぶとされ、検事は「合法性の守護者」、最高の監督者という地位を与えられ、それに対応したきわめて強力な権限を有していた。そして、ソビエト国家における「社会主義的合法性」が同時に国家統治の原理であったことから、検察制度は常に国家と党に忠実な精鋭によって構成され、格段の権威を我が物としていたのである。
  しかしそのような制度は、やはり、権威主義的でパターナルな体制にこそふさわしい性格のものであろう。九一年を境としてロシアの各領域で進められている脱社会主義・非ソビエ化の中で、「検事監督」制度もまた見直しを迫られていることは必然である。すでに九三年のロシア連邦憲法は検察制度について一ヶ条を、しかも裁判所に関する章の中に置いたのみであり、「法治国」たる新生ロシアにおける法、自由と権利の保障者の地位に立つのは裁判所であることを宣言している。従来のソビエト型刑事手続きを大きく特徴付けてきた職権的・後見人的なあり方が今まさに問題とされ、本来の意味での当事者主義的な構造の正当性と必要性が主張され、それへの移行が課題とされているのである。検事の権能は刑事手続きにおける一方当事者として、捜査の遂行、公訴提起、公判維持などを中心とするものへと縮減されようとしており、いまや検事監督制度からの離脱は明らかといわねばならない。
  だが、刑事手続きの領域では変化はより緩慢に進行しているように見える。検事の強力な監督権限を定める一九六一年の刑事訴訟法典はなお現行法であり、他分野でのこの間のめまぐるしい立法作業の展開にもかかわらず、その改正は遅れている。しかし、刑事手続きの在り様は市民の自由と権利に直結する性格のものであり、とりわけ、密行されることの多い公判前の諸手続きは人身の自由に深くかかわる以上、その改革には広範な関心が寄せられている。憲法の関係条項を根拠に、あるべき改革の方向を論じ、また具体的な法改正提案が行われている。本稿はその状況を概観し、その意義を考察することを目的とするものである。
  もとより、今日われわれの目前において進行しつつある事態は巨大な歴史過程の一部であり、刑事手続きとのかかわりで見えてくるのは微小な局面に過ぎないであろうことは当然である。しかし、それが具体的に刑事手続きの諸問題に及ぼしている変化を介して、ここに生じている巨大な変化が逆照射されることもありうるであろう。

一  問題の性格


  今日における刑事司法の改革の動きの起点となったのが、一九九一年一〇月の「司法改革の構想」であることは広く承認されている。同年八月以来の政治的興奮状態が続く中で、ハズブラートフを議長とするロシア共和国最高会議は「ロシア共和国における司法改革の構想」を議決した。この文書にまとめられた司法改革の諸課題のうち中心的なものは司法機関を立法機関や行政権力から独立した権威ある国家機関として確立することであったが、同時にそこでは「司法改革の重要な方向」として一連の具体的課題が提起されており、その一つとして「身柄の保全その他の訴訟法上の強制処分の合法性についての裁判所による監督を確立すること」が明記されていた。伝統的に検事監督の対象とされてきた領域に裁判所によるコントロールを導入することによって、より有効な公判前段階での被疑者・被告人の自由と権利の保障を図るとともに、はっきりと検事監督制度への消極的な評価を突きつけたのである。
  その日から九年を経た今日、「構想」に沿って多くの立法作業が進められ(1)、「法治国」ロシアにおける裁判所の権威は格段に高まった。苦しい財政事情の下でも、今年からは裁判官と裁判所職員に遅れることなく賃金が支払われるようになった(2)。そのように司法領域での改革と正常化が曲がりなりにも進む中にあって、ロシア共和国刑訴法典(УПК РСФСР)の改正問題はなお膠着したままであり、実体法と比較しても刑事手続法の領域での遅れが目立つこととなっている。
  刑事訴訟法典の改正草案は、司法省と大統領府のそれぞれに作られた起草委員会が並行して進め、一九九七年春に下院の立法および司法改革委員会が第一読会に提案したのは前者の手になる草案であった(3)。この草案は、その理由書によれば、訴追側と弁護側という両当事者の概念を新たに刑事訴訟に導入し、また訴訟参加者の権利を拡大した。とりわけ、被害者の権利を尊重し、捜査機関による事件の不開始・不起訴、訴追側による事件の取下げなどに被害者が異議を申し立てるときには、一定の条件の下に私人による訴追と公判維持を認めている。被疑者・被告人の身柄保全など強制処分の種類や執行手続きについては、現行法との大きな差異はなかった。刑事裁判所の構成として、新たに単独の職業裁判官による裁判を認めた(五年以下の自由剥奪刑を上限とする比較的軽微な犯罪について(4))。
  この草案は、しかし、批判されるところによれば、糾問主義的な手続構造を色濃く残し、憲法の規定する当事者主義と両当事者の平等の原則を十分に実現していなかった。公判前の身柄拘束の期間がきわめて長く、捜査・予審活動に対する裁判所の監督も不十分で、無罪の証明責任は事実上被告人に課せられていた。また陪審裁判の対象となる事件種類は大きく制限され、とりわけ賄賂や職権濫用といった公務員の犯罪がそこから除外されていた。当然にこれらの点は民主的諸潮流の批判するところとなった(5)。九七年七月、草案を審議した下院本会議では、草案のいくつかの規定をめぐって議論があった後、大統領代理ア・コテンコフより草案の抱える「政治的」な問題点が強く指摘された。それは、すでに前年の二月に開催された独立国家共同体(CIS)の議会間協議会総会において、エリツィン大統領のイニシアティヴの下に「モデル刑事訴訟法典」が採択されており、それは大統領府に設けられた起草委員会の手になる刑事訴訟法典草案に基づくものであったことである。このままでは、独立国家共同体の諸国にモデル法典を提示しながら、提唱者のロシアが別の草案に基づく刑事訴訟法典を持つことになってしまいかねない。そこから、コテンコフは両草案の妥協・調整の作業を要請し、これを受けて下院は、第二読会までに草案をなお検討し、「モデル刑事訴訟法典」に近づける方向での作業を行うことを決定した(6)
  この経過に見られるように、刑事訴訟法典の改正問題は大統領と議会との、また後者内部での各派の政治的思惑の入り乱れる政治的対立抗争の具となり、今もその帰趨を見定めることができない状態にある。二年間に及ぶ「妥協・調整作業」を経て九九年七月にロシア下院の第二読会に提出された草案の審議は進んでいない。この背景にあるのは、もちろん直接にはプーチン大統領の登場前後の政治的な状況の慌しさであろうが、間接的には、なお深刻な状態の続く犯罪情勢を背景として、刑事手続の領域での大幅な「民主化と人道化」へのためらいが多くの市民に根深く、それを反映して立法機関もまた立法化に向けた手順をきわめて緩慢に進めているということに他ならない(7)
  今ひとつの改革抑制要因は、刑事手続にも大きく関係する検事監督制度の改革をめぐる状況であるが、きわめて広範囲に及ぶこの問題の全体をここで詳細にわたって検討する余裕はない。それについては別途の作業を予定したい(8)
  そして、刑事手続の分野においてとりわけ深刻な状況にあるのは、公判前手続の改革にかかわる問題である。

二  ソビエト時代の公判前手続


  一九九一年のソ連邦崩壊まで、したがってロシアのソビエト時代の刑事手続きを規制していた基本法は、一九六〇年施行のロシア共和国刑事訴訟法典であった。前述のとおり、この法典がなおロシア連邦の現行法であるが、九一年末以降の多くの修正を経て、またそれを補足する一連の法令の登場によって、すでに実質的には刑事手続きの非ソビエト化は相当に進んでいる。
  ここでは、以下での問題の検討に先立って、まず、ソビエト時代の公判前手続きがどのような構造をとっていたかを簡単に見ておくこととする(9)

(一)  公判前手続
  ソビエト時代も今日もロシアの公判前手続きは、狭義の捜査と予審を併せ含むものであるが、将来の公判手続きを予定して、被疑者の犯罪活動を阻止し、すべての意味ある証拠を収集し、被疑者の身柄を保全するといった、捜査・予審機関の目的志向的な活動がその内容をなしている。
  法が捜査機関として予定しているのは、民警(警察)、かつての国家保安委員会(КГВ)・今日の連邦保安局、税務機関などであるが、これらは犯罪を予防・摘発し、それを実行した者を追及し、証拠を集め、検証を行い、必要な結果発生防止の措置をとる。一定の要件が備わっている場合には犯罪の容疑ある者を逮捕することができ、必要に応じてその者の身柄保全の処分を講じることができる。捜査機関は緊急に必要とされる捜査活動を行い、「手続開始の決定」より一〇昼夜以内に事件を予審官に送致しなければならない。ただし、法律に定められた種類の軽微な事件については予審は必要でなく、起訴前の全手続を捜査機関が行う。刑事事件全体の二〇%弱を占めるとされるこのような場合、捜査は手続開始の決定より一ヶ月(検事の承認あればさらに一ヶ月)以内に、起訴状の作成をも含め終了せねばならないとされていた。
  以上のように、ソビエト=ロシア法における捜査とは、手続開始決定にはじまり起訴状の作成に終わる手続段階である。ここで特徴的な「手続開始決定」とは、市民・社会団体からの届出、犯罪者の自首、自らの活動による発見などに基づいて、犯罪を徴表する十分な資料が存在すると考える場合に捜査機関、予審官、検事または裁判官が行う決定であり、刑事手続きの起点とされている。これを独立の手続段階として構成し、その決定の時をいくつかの期問(例えば予審の期間)の起算点とすることは、捜査に責任を持つ機関を明確にし、そこにおける合法性の確保に役立つであろうことは疑いない。
  一方、ソビエト時代に完成した刑事訴訟法上の予審制度は、いわゆる「改革された刑事訴訟法」以来の、伝統的な予審制度とは異なり、むしろ取調べ制度の一種と理解されよう。歴史的には、帝政時代、一八六四年の司法改革により導入されたものであるが、当初は、比較的重大な刑事事件につき検事の監督下に予審判事によって予審が行われるとされたものである。が、ロシア革命後の一九二二年に復活した検察制度の下で、予審官は検察庁に属することとされ、その後三〇年代に入って、捜査のみで予審を行わない事件の範囲が拡大されるとともに、内務機関に予審官を置く制度が導入された。一九六〇年公布の現行刑事訴訟法典は、逆に予審に付される事件の範囲を拡大した上で、内務機関等にも予審官を置く制度を継承した。その結果、予審機関は、検事局、内務機関および国家保安機関のそれぞれ予審官となり、各自の事件管轄に従い、最も危険な諸犯罪(殺人、強姦、公務員犯罪など)は検事局の予審官、国家犯罪については国家保安機関の予審官、その他の一般犯罪(窃盗、傷害、麻薬犯罪など)については内務機関(主要には民警機関)の予審官が担当することとされたのである。
  予審官は刑訴法典の規定に従って、証拠資料の押収、捜索、被害者・証人の尋問、容疑者の身柄保全処分など、犯罪の解明に必要なすべてのことを行なう。この過程において相当の理由が存在すると判断されれば、予審官は被疑者を被告人とすることの決定(告発提起の決定)を行い、被疑者に通告する。その際に、併せて被告人としての諸権利をも告知しなければならない。予審官は必要に応じて被告人に対する取調べを継続し、予審が十分になされたと判断されれば、手続を終結する。終結の形態には、起訴状の作成、事件の廃止、強制治療処分の適用のための裁判所送致、の三種がありうる。作成された起訴状は検事に送致されるが、この段階までの手続は刑事手続開始決定の時から原則として二ヵ月以内に終了せねばならない、とされている。
  捜査・予審機関が行う具体的な捜査活動の中心をなすのは、物的証拠資料の収集および保全とともに、被疑者・被告人の身柄の保全とその取調べである。後者には「不移動の誓約」(刑訴法典九三条)、「私的な身元引受」(同九四条)、「社会団体による身元引受」(同九五条)、「保釈金」(同九九条)などもあるが、とりわけ逮捕や勾留といった、直接的に行動の自由を制約する処分が最も厳しい保全処分とされている。

(二)  逮捕(刑訴法典一二二条)
  ソビエト=ロシアの刑事手続において被疑者を逮捕するための要件は、被疑者が刑法典において自由剥奪以上の刑罰が規定されている犯罪を実行したと疑うに足る資料が存在すること以外に、(一)その者が犯罪の実行の際またはその直後に拘束されたこと、(二)被害者を含め目撃者が彼を犯人であると指摘すること、(三)彼の身体、衣服、住居または周辺に明らかな犯罪の痕跡がみとめられること、のうちいずれか一つが存在することである。より軽微な犯罪については、被疑者が犯罪を実行したと疑われるに十分な証拠があることを前提に、彼が逃走を企てた時、定まった居所を持たない時もしくはその身元が明らかでない時にかぎって、逮捕されうる。
  ところで、ソビエト刑訴法上、逮捕の決定は捜査・予審機関自らが行なうこととされてきた。被疑者を逮捕した場合、捜査機関は逮捕の理由と根拠を示した報告書を作成し、二四時間以内にその事案を検事に報告しなければならず、この報告を受けた時から四八時間以内に、検事は、被疑者の拘禁に承認を与えるか彼を釈放するかをしなくてはならない。この判断に際して検事は、捜査機関の報告書を検討し、必要な場合には被疑者を直接に尋問するよう求められていた。また、逮捕された者は、逮捕の時から七二時間以内に勾留手続がとられない場合には、釈放される。勾留される場合にも、被疑者の身柄保全はソピユト刑訴法上例外的な処分とされていたため、逮捕されてからの拘禁は一〇日を超えて継続することはできず、この期間内に被告人とすることの決定がなされなくてはならなかった。さもなくば、被疑者の勾留は消滅するのである。
  以上のようにソビエト法は逮捕手続に令状主義を採らず、この手続への裁判所の関与を求めてはいなかった。この点はかつての社会主義国すべてに共通であった。

(三)  身柄保全処分としての勾留(刑訴法典九六条)
  逮捕の場合とは異なり、被疑者(被告人)を勾留する手続には、あらかじめ検事の許可または決定が存在することが必要である。ソピェト各共和国の刑訴法規によれば、捜査機関および予審官の勾留決定はあらかじめ検事の承認を得ることが必要であり、この承認を与えるに際して検事は、勾留の必要性を裏付ける資料を検討し、必要な場合には直接に被疑者(被告人)を尋問しなければならない、とされていた。
  捜査・予審にともなう勾留は二ヵ月を超えないのが原則であった。この期間は勾留決定の写しが被疑者(被告人)に交付された時から起算されるが、勾留に先立って逮捕されていた時には、現実に身体の拘束が開始した時点から算定される。この期間は、事件が複雑でそれが必要な場合、自治共和国検事、州検事、地方、自治州および民族管区検事により三ヵ月まで、共和国検事により六ヵ月まで延長されることが可能であり、例外的な場合にはソ連邦検事総長によりさらに三ヵ月以内の延長がありうる−したがって、勾留期間として認められるのは最大限九ヵ月とされていたのである。

(四)  取調べと被疑者・被告人の防禦権
  逮捕または勾留された被疑者は、ロシア共和国刑訴法典によれば、二四時間以内に取調べを受けると定められているが、それに先立って彼は、自分がいかなる犯罪の嫌疑を受けているのかを説明される権利を持っている。また、彼は供述を行うことの拒絶もしくは回避や虚偽の供述について、刑事責任を追及されないとされていた。供述は義務ではなく、権利である。また被疑者は請願を行なう権利、捜査員や予審官の処分に対し不服を申し立て、あるいは彼らを忌避する権利を有していた。
  取調べを含む捜査の期間中に弁護人を持つ権利の構成については、未成年者および身体的・精神的障害のために自ら弁護権を行使できぬ者の事件あるいは検事が特に承認する場合に、弁護人が告発提起(被告人とすることの通告)の時点から刑事手続に参加することができることを例外として、原則的には、弁護人の手続参加は被告人に対して予審の終結が伝えられ、事件の全資料が開示された時点から認められていた。法はこれを具体的に、予審終結時に予審官のとるべき手続として、被告人が弁護人を持つことを欲するか否かを明らかにし、その現実の参加を保障しなくてはならない、と規定していた。しかし、狭義の捜査に弁護人が参加することは全く予定されていなかったため、予審が行なわれない事件については、弁護人の事件参加は裁判所への事件送致の段階からとなる。弁護人の参加の時期がこのように定められていたのは、予審手続の迅速・完全な実施という要請と被告人の利益保護との妥協点としてにほかならない。
  最後に、被疑者・被告人の防禦活動が実効的なものとして行なわれうるか否かをはかる一つのメルクマールとして、刑訴法典における「無罪の推定」原則の取扱いがあるが、ソビエト各共和国の刑訴法典は長らくそれにつき規定していなかった。一九七八年のソ連邦最高裁判所決定がこの原則を承認した後、やっと八九年に至ってソ連邦裁判所構成立法の基礎に「無罪の推定」という語は明記されたのである。

(五)  取調べの適正さに対する監督
  法規上、被疑者・被告人にいかに防禦権が与えられていようとも、非公開下に行なわれる取調べにおいて彼らの諸権利が護られ、厳格に法規定を遵守しての取調べが行なわれることはなお困難である。ここから、取調べにあたる捜査・予審機関の活動を何らかの形でコントロールすることが、さまざまに目指されることとなる。
  ソ連邦において捜査・予審機関の活動を監督する地位にあったのは、検事である。法律によれば検事は、捜査・予審機関の法律遵守一般を監督することとともに、次のことを義務づけられていた。犯罪のすべてを摘発し、一人の犯罪者も刑事責任をまぬがれることなく、また逆に一人の市民も不法にもしくは根拠なく刑事責任その他の責任に問われることのないように、注視すること。そして、誰であれ、裁判所の決定もしくは検事の承認なしには拘禁されることることのないように監督すること(ソ連邦検察庁法二八条)。
  そして、この義務を果たすための検事の活動が、事件開始、逮捕、勾留、被疑者・被告人の取調べ、公訴提起決定、起訴状の点検、といった各段階について予定されていた。捜査・予審機関に対する検事の指示は、これら機関を拘束する。さらに、捜査・予審手続に対する検事の最終的な監督は、起訴状の検討によって確保される。すなわち、捜査機関もしくは予審官により作成された起訴状を添えて送致された事件について、検事は五日以内に裁判所送致またはその他の処置を決定しなくてはならないが、その際に検事には捜査・予審の適正さについての全面的な審査が要求されており、ある場合には事件を廃止することも、捜査・予審を別の担当者により再度行わせることも、できたのである。

三  エリツィン政権がもたらした変化


  九一年末のソ連邦の崩壊とともに急激な非ソビエト化の諸施策が推進される中にあって(10)、司法制度にかかわっても多くの立法作業が進められた。たしかに、それらの多くは既にゴルバチョフ政権下において議論が開始され、一部は既に具体化に着手されていたものである(たとえば陪審制の導入(11)など)。しかし同時に、それらが具体化されるには政治的諸条件が整っていなかったことも明らかである。
  新生ロシアはエリツィン政権の下で旺盛な立法活動を続けてきたが、刑事手続きにかかわる主要な点は以下のとおりである。
  まず、九二年六月に「ロシア連邦における裁判官の地位について」の法律が公布されたが、この法律によりロシア史上初めて、「司法権は独立であり、立法権および行政権からは独立して作用する」ことが宣言された。この点は翌一九九三年のロシア連邦憲法一〇条および一一条において確認されたことである。この法律はまた裁判官の任期制を廃止し、原則として終身制とすることによって、裁判官の地位を格段に引き上げた(12)
  次いで九三年七月一六日、ロシア連邦最高会議は、陪審裁判を具体化する裁判所構成法の改正と陪審制による刑事手続きに関する第一〇編を追加するなどの刑事訴訟法典の改正を決定した。ただし、同法の施行に関する最高会議決定によれば、刑事訴訟法典の改正部分の施行は連邦の一部地域に限定して認められている。つまり、陪審裁判は九三年一一月一日からサラトフ州、リャザン州、モスクワ州、イワノフ州、スタヴロポーリ地方で、そして翌九四年一月一日からは、ウリヤノフ州、ロストフ州、アルタイ地方、クラスノダル地方、合計九地域で先行的に実施されることとされ、残余の八〇地域についての陪審制導入の予定については決定は何も述べていなかった(13)。時間的にはそれに後れたが、九三年一二月にはロシア連邦憲法が成立し、その三二条五項が「ロシア連邦の市民は司法作用に参加する権利を有する」と規定するとともに、一二三条第四項が「連邦の法律により規定された場合には、裁判手続は陪審員の参加を得て実施される」と、明確に陪審制の採用を確認したのであるが、先のような地域限定とこの規定との整合性は明らかでない。
  九六年の「裁判システムに関する」法律(14)はさらに、司法権の内容と国家権力のシステムにおけるその位置について定式化している。同法第一条は司法権の担い手を、裁判官および、法律に定められた手続きにより裁判に参加する、陪審員、人民参審員および仲裁委員により構成される裁判所だけに限定し、それ以外のいかなる機関も人も司法権を行使することはできないと宣言した。司法権が独立であることの再確認であるが、かつてのソビエト時代における行政機関の裁判への介入の事例や国家権力の分立を拒否するソビエト制の下での裁判所の位置を想起するとき、その重要な意義については多言を要しないであろう。
  そして、エリツィン政権が志向した「法治国ロシア」において市民の権利と自由の保障者として予定されたのは、ソビエト時代における検察システムに代わって、このように強化された司法権であった。「各人にはその権利と自由の裁判による保護が保障される」(憲法四六条第一項)。そして、「国家権力機関、地方自治機関、社会団体および公務員の決定ならびに行為(もしくは不行為)に対しては裁判所に不服申し立てができる」(同第二項)とされたのである。
  憲法規定に対応して一九九三年に「市民の権利と自由を侵害する行為および決定に対する裁判所への不服申し立てに関する」法律(15)が制定され、国家機関や公務員のあらゆる行為および決定に対し裁判所に不服申し立てを行い、それによって権利と自由を護ることが可能とされた。市民は身柄の拘束から税額の変更に至るまでの公務員の行為に対する不服申し立てを裁判所に行い、訴えられた機関と個人は文書によって自己の行為(不行為)の法律適合性を証明すべき訴訟上の義務を負うものとされた。逆に市民は、不当な行為のあった事実を論証するだけでよく、その行為等が法に反するものであることは証明の必要がないのである。
  同様に、九五年七月に公布された「捜査活動に関する」法律(16)も捜査段階における裁判所の関与を格段に拡大していた。
  ところで、刑事手続きの改革の基本方向が当事者主義の確立ということであれば、本来、予審制度そのものの廃止が課題となるはずである。が、この間の刑事訴訟法典の改正の動きの中で、そのことは提起されていない。問題となっているのはその改革だけである。このことは、改めて、ソビエト型の予審制度が大陸型職権主義の手続き構造における予審制度とは異なり、強化された捜査の一形態であったことを示しているであろう。
  予審制度の改革の動きはすでにソビエト時代にもみられた。七〇年代末に、検察庁と内務機関の予審官を統合し、立法機関に従属する連邦予審委員会を設立するという提案が検討されたこともあり、また第一九回ソ連邦共産党協議会(一九八八年)の決議は、内務機関にほとんどの予審事件を集中する一方、地方の内務省の機関から独立した予審部門を設置するとともに、予審に対する検事の監督を強化するという立場をとっていた。それらはそれぞれ、予審官を検察庁や内務機関内での「行政的な従属関係」から解放し、予審機関を充実させその立場を強化することによって、捜査活動の客観性と中立性を担保し、取調べ水準を引き上げることを目指すものであった。これら提案は当時のさまざまな政治的事情のために実現されなかったが、九一年にエリツイン大統領が提起した「司法改革の構想」は、あらためて独立した予審委員会の設置という方向を打ち出し、九四年に大統領府の委員会が公表した刑事訴訟法典草案もそれに従い、独立した予審委員会の設置を予定していた(17)
  しかし、現在下院において審議が継続している刑事訴訟法典草案はこの点については現行制度からの大きな変化を予定していない。
  そして、市民の人身の自由に大きくかかわるのが、公判前手続きにおける防禦権の保障である。憲法四九条は明確に、「犯罪の実行につき訴追されている者は、連邦の法律に規定された手続きに従ってその有罪が証明され、裁判所の判決の法的効力が確定されるまでは、無罪とみなされる。」と、無罪の推定原則を宣言したが、そこからは、検察側と対等な立場での弁護側の防禦権行使の重要性が導かれる。しかし、捜査・予審手続きは本質的に密行して進められることが多く、また警察機構に支えられた捜査官や予審官に対抗して弁護側が十分な公判準備の活動を進めることも容易ではない。
  次項において、この領域にもたらされためぼしい変化、原則の変更を見ておくこととしよう。

四  公判前手続における改革


  先に見たとおり、ソビエト刑事訴訟法上の公判前手続は、西側諸国のそれと類似する制度を含みつつも、固有の特徴を持つ構造のそれであった。何よりも、身柄保全をはじめとする強制処分のサンクションを与え、それらの合法性を保障する機関として、裁判所ではなく検察庁をあてるという対応が問題の焦点となろう。
  この問題について、一九九三年のロシア連邦憲法は一八〇度の転換を行い、捜査・予審段階での裁判所のコントロールを基本的なものとした。その端的な表れが、逮捕・勾留を裁判所の決定にもとづいてのみなされると定めた憲法二二条第二項である。「勾留、拘禁および収容は、裁判所の決定によってのみ許容される。逮捕は裁判所の決定以前に四八時間を超えてはならない。」と明確に規定する。このような憲法の態度は、国際人権規約九条第三項の規定「刑事上の罪に問われて逮捕され又は抑留された者は、裁判官又は司法権を行使することが法律によって認められている他の官憲の面前に速やかに連れて行かれるものとし、妥当な期間内に裁判を受ける権利又は釈放される権利を有する。」を強く意識したものであると説明されるが、従来の手続が形式上この規定に反していたわけではない(ソビエト=ロシアの検事は司法官ではないとして、これに反対する見解もあるが)。より独立性・中立性が大きいとみなされている裁判所に手続を移し、期間も二四時間短縮したということである。
  ところが、ロシア連邦憲法の第二編・付則および経過規定には、次のようにとくに述べられている。「ロシア連邦の刑事訴訟立法がこの憲法の規定に従い改定されるまでは、犯罪の実行が疑われる者の勾留、拘禁および逮捕に関する従前の手続が維持される」。つまり、何時ともはっきりしない将来のその時まで、憲法二二条第二項は単なる空文句にとどまるということに他ならない(18)
  しかし、勾留の決定およびその期間延長の決定に関してのみは、妥協的に、九二年五月二三日の一部改正により補充された刑訴法典二二〇条の一で、裁判所への不服申し立てを新たに認めたのである。
  同条第一項は、「捜査機関、予審官、検事による身柄保全処分としての拘禁の適用ならびに拘禁期間の延長についての不服申し立ては、拘禁されている者、その弁護人もしくは法定代理人により、直接または捜査担当者、予審官もしくは検事を通じて、裁判所に対しなされる」と規定している。
  また第二項以下によれば、勾留施設管理者は裁判所に宛てた被拘禁者の不服申し立てを受け取ったときには、検事にそのことを通知するとともに、可能な限り早く、おそくとも二四時間以内にそれを裁判所に送付しなくてはならず、捜査担当者、予審官もしくは検事が被拘禁者の不服申し立てを受領したときも二四時間以内に、勾留の適法性を裏付ける資料を添えて、これを裁判所に送らねばならないとされている(19)
  次いで二二〇条の二によれば、裁判所は上の不服申し立てを受け取った日から三昼夜以内に、勾留の適法性と必要性について非公開の法廷において審理を行うこととされている。審理には検事、もし弁護人が付されていれば弁護人、被勾留者の法定代理人が参加し、被勾留者も出廷する。審理の結果裁判官は、申し立てを認め勾留を取り消すとともに申立て人を釈放するか、申し立てを却下するかの決定を、理由を付して行うのである(20)
  以上のように、勾留の決定および期間の延長の承認を誰が与えるかという決定的な問題について、憲法の規定に反する状態が続いているのであるが、その他方において、未決拘禁の具体的な内容については一九九五年七月に「被疑者・被告人の勾留に関する」法律が制定されている。この法律はソビエト時代の旧法(21)に比べ被疑者・被告人の権利保護にむけ大きく前進したとされ、それに対応して刑事訴訟法典の関連する条項に一連の修正・補充がなされた(22)
  まず、従来は未決拘禁中の者の権利侵害を防止する責任を負っていたのは裁判所と検事のみであったのに対して、未決拘禁施設の長が加えられた。刑事訴訟法典一一条に補充された第三項によれば、未決拘禁施設の長は被疑者・被告人の拘禁期間の終了する二四時間前までに事件を担当する公務員または管轄する機関ならびに検事にその事実を通知する義務があり、さらに第四項では、勾留期間の延長あるいは釈放などについてのしかるべき決定が通知されない場合に、未決拘禁施設の長が自らの決定により被疑者・被告人を釈放するものとした。
  また重要なのは被疑者・被告人の面会権の拡大である。この点について、かつて刑事訴訟法典には弁護人が被告人と制限なく面会することを許容する規定がなく、旧五一条には一般的に弁護人の被告人との面会(単数)の権利が述べられ、二〇二条では捜査の終結にともない資料が開示される時に被告人と二人だけで面会(単数)することが認められていたに過ぎなかった。この点については九二年五月の段階で刑事訴訟法典の一部修正がなされ、弁護人の権利として制限が外され、そしてやっと九六年の六月になって、被疑者と被告人の権利として、弁護人と回数および時間の制限なく面会することが認められたのである。同時に、彼らが肉親その他の者と面会する権利を持つことも明確にされた(四六条第四項、五二条第三項)。
  さらに、法典九六条に第六項が補充され、刑事事件を担当する公務員もしくは機関は速やかに被疑者もしくは被告人の所在場所あるいはその移動先について彼の肉親の一人に通知しなくてはならないとされた。このような規定の持つ重要な意味については、あらためて述べる必要もないであろう。
  これらと比べ複雑な経過をたどったのは勾留期間の問題である。
  先に述べたとおり、現行刑事訴訟法典は当初、勾留期間を原則二ヶ月とするとともに、その延長を各級の検事の権限にかからしめ、最も長い場合にはソ連邦検事総長の承認により九ヶ月まで延長できるとしていた。しかし実際には法規定にもかかわらず、当時の最高権力機関であるソ連邦最高会議幹部会の個別決定により、勾留期間は無期限に延長されていた(23)。やっとペレストロイカ期の一九八九年になってこのような事態に終止符が打たれるとともに、刑訴法典九七条二項が改正され、ソ連邦検事総長の決定があれば勾留期間の上限は一八ヶ月まで延長することができるとされたのである。このときにはさらに同条に第五項が加えられ、被告人とその弁護人とが開示された事件資料を検討する時間はこの勾留期間に算入されないことが明らかにされてもいた。−結局、実務と妥協する方向での法規定の整備が行われたのである。
  九六年六月一三日、憲法裁判所は第五項との関係で刑訴法典九七条を憲法規定に反するものとし、六ヶ月後の一二月一三日までに必要な法改正措置をとることを命じた。この期限には僅かに遅れたが、年末一二月三一日に大統領の署名を得た刑事訴訟法典の修正・補充法は、連邦の消滅にともない改組された検察機構に合わせて勾留期間の延長に承認を与える検事の名称を改めた上で(ロシア連邦検事総長の許可あれば最高一八ヶ月まで)、さらに、勾留期限内に被告人とその弁護人とが開示された事件資料を検討することができない場合、または彼らが予審の補充を要求する場合には、裁判所の決定で勾留期間をさらに六ヶ月延長できる旨定めたのである(九七条第五項・第六項)。法律により許される勾留期間の最長期は、今や、二年となった。
  重要な変化がもたらされたのは、また、被疑者・被告人の防禦権の保障の中核をなす、事件への弁護人の参加時期についてである。九二年五月二三日の刑事訴訟法典一部改正法によりその四七条は全面的に改正され、従来の「捜査・予審の終了時」を原則とする態度から大きく変更され、告発の提起に先だって被疑者が逮捕もしくは勾留された場合には、彼に逮捕状もしくは勾留決定が提示された時から弁護人の参加を認めることとされた。捜査弁護の承認に踏み切ったのである。この点は翌年の憲法においても確認されている(24)。「逮捕された者、勾留された者、犯罪の実行につき訴追されている者は、その逮捕、勾留もしくは告発提起の時から、弁護士(弁護人)の援助を受ける権利を有する。」(憲法四八条第二項)。
  これに対応して、弁護人の権利も拡大された。弁護人は被疑者・被告人に有利な事情を明らかにするために法律上許されたあらゆる手段を用いて活動することを義務付けられているが、修正された法典五一条ではきわめて具体的に、弁護人が被疑者・被告人と回数と時間の制約なく面会し(既述)、その取調べに同席し、逮捕状もしくは勾留決定を確認し、捜査員もしくは予審官に質問し、捜査・予審の記録を検討し、証言や資料を検討するなどの権利を持つことが確認されている。
  たしかに新しい刑事訴訟法典はいまだ登場していないのであるが、以上に見てきたような公判前手続きの変化の中に、すでにその本質的な特徴が示されていると言えよう。それは、合法性の担い手としての検事の全能に期待した後見者的な刑事手続きからの離脱であり、当事者主義と令状主義を核心とする新たなそれへの移行である。

むすびにかえて


  ソ連邦の崩壊とロシア連邦の発足という事態の推移にともない、一九七九年のソ連邦検察庁法を基礎に、しかし新規の法律として「ロシア連邦検察庁法」が制定され(一九九二年)、九五年には同じ法律がさらに改正を受けた。いずれの法律でも、それまでの批判の論議にもかかわらず、またこの間に成立したロシア連邦憲法(九三年)が検察機構に関しわずかに一ヶ条だけを裁判所に関する章の中に置き、その権限や機能については全て法律に委ねて、明らかに検察制度を縮小する方向を明確にしていたにもかかわらず、一般監督制度そのものは維持された。「連邦の省および官庁、連邦を構成する各主体の代表(立法)機関および執行機関、地方自治機関、軍事行政機関、監督機関、それらの公務員による法律の執行、ならびにそれらにより発せられる法的文書の法律適合性」を対象として、検事は監督権限を持ち、必要な場合に異議申し立て(プロテスト)を行い、意見を述べ、公務員の法違反に対し刑事事件もしくは行政処分手続きを提起することができるのである(ロシア連邦検察庁法二一ー二五条)。しかし、このような法規定の残存にもかかわらず、ロシアの検察制度が新たな条件の下でも「合法性の擁護者」としての地位を保持しうるかという問いへの回答は、明らかに消極的なものとならざるをえない。
  個別的な監督領域としての捜査および予審を遂行する諸機関による法律の執行に対する監督については、もはや検察庁法自体は検事の権限を規定せず、すべて刑事訴訟法規にその内容を委ねている(同法三〇条)。そしてまた、新しい刑事訴訟法典の成立を待たずにこの分野で進行しつつある「脱検事監督化」の動きについては、すでに見たところである。そのような事態の推移は新生ロシアの「法治国」への移行に対応するものとして積極的に評価されるべきものではあろう。
  しかし、今日のロシアの裁判所が公判前手続きにおける被疑者・被告人の自由と権利を確保することにおいて十分に機能を発揮しているとは、残念ながら、信じることができない。そのことは、論文や各種メディアにより伝えられる未決拘禁施設(СИЗО)の目を覆うような過剰拘禁の惨状を見ることによっても(25)、枚挙に暇のない裁判所の法運用上の不慣れを示す資料によっても(26)裏付けられるところである。
  新しい刑事訴訟法典の制定作業はなお続いている。われわれは今しばらく、当事者主義の原則を具体化し、ロシアの裁判所に本来の司法機関としての役割を回復するとともに、真の「法治国」を確立するという、彼の国の困難な努力を見守らなくてはならない。


(1)  この間の司法制度にかかわる主要な立法として以下のものがある。検察庁法(九二年一月)、仲裁手続法典(九二年三月)、裁判官の地位に関する法律(九二年六月)、国家保安機関に関する法律(九二年七月)、公証人役場法(九三年二月)、憲法裁判所法(九四年七月)、裁判官ならびに法秩序維持機関および監督機関の公務員の国家的保護に関する法律(九五年四月)、仲裁裁判所法(九五年四月)、仲裁手続法典(九五年五月)、裁判官の地位に関する法律改正法(九五年六月)、被疑者・被告人の拘禁に関する法律(九五年七月)、捜査活動に関する法律(九五年七月)、刑法典(九六年六月)、ロシア連邦の裁判制度に関する憲法的法律(九六年一二月)、刑事執行法典(九七年一月)、執達吏に関する法律(九七年七月)、執行手続に関する法律(九七年七月)、ロシア連邦における治安判事に関する法律(九八年一二月)、検察庁法改正法(九九年二月)、ロシア連邦の軍事裁判所に関する憲法的法律(九九年六月)。
(2)  <<Российская юстиция>>, 2000, No.3, стр. 2.
(3)  司法省において草案作成に参加したのは、司法省のС.Ь. Ромомзинを責任者として、学者としてはВ.П.Кашепов' П.А.Лупинская' В.М.Савицкийなどであり、検察庁、内務省などのメンバーも加わったとされる。
(4)  <<Российская юстиция>>, 1997, No.8,стр.16.
(5)  司法省草案についての批判は、たとえば、см . http://www.fiper.ru/spr/chapter-2-6.html、<<Российская юстиция>>, 1997,No. 8, стр.16. 草案については一九九八年四月のロシア連邦裁判官協議会総会でも審議され、全体として否定的な評価を受けた。総会はまた、軽微事件や重大でない事件についての簡略手続きを導入すること、有罪答弁と司法取引の制度を採用すること、陪審裁判の活動領域の拡大などの具体的な提案を決議したと報じられている。См ..<<Российская юстиция>>, 1998, No. 6, стр. 4.
(6)  <<Российская юстиция>>, 1997, No. 8,стр. 17.
(7)  いまひとつの理由は、刑法典などの場合とは異なり、刑事訴訟法典の改正問題は複雑で、単に公開制と民主化・人道化の原則を唱えるだけでは何事も解決しないという事情そのものにあるようである。議員諸氏は自らの手に余る仕事に戻らない方が得策と心得ているのだ、と皮肉られている。<<Юрицический вестник>>, 2000, No.9, стр. 5.
(8)  問題状況を示すものとして、さしあたり、参照、小田博「『法治国』ロシアにおける検察制度」(松尾浩也先生古稀祝賀論文集下巻[有斐閣・一九九八年]所収)。
(9)  ソ連邦をはじめとする社会主義諸国の公判前手続きについては、参照、上田「社会主義諸国における被疑者取調べ」(『総合研究被疑者取調べ』(日本評論社・一九九一年)所収)。
(10)  一九九一年以降のロシアの非ソビエト化の過程における各領域での法改革については、参照、藤田・杉浦編・体制転換期ロシアの法改革(法律文化社・一九九八年)。
(11)  当時、「法治国家」をめざす上で伝統的な参審制に陪審制の要素を加味することが必要だとする意見はまず新聞紙上に見られたが(たとえば弁護士A・モーヴェの発言(『プラウダ』八八年三月一四日)や科学アカデミー国家と法研究所のA・ヤーコヴレフの発言(『文学新聞』(八八年六月八日)など)、次いで公式的には、八八年七月のソ連邦共産党第一九回全連邦協議会の「司法改革に関する」決議で、複雑な犯罪事件については人民参審員の数を増やすことが妥当であるとされた。その際、そのような改革の必要性については、現状の人民参審員が積極的な役割を果たしきれず、法廷の飾り物になっていること、当事者主義のいっそうの推進が必要であること、それによって裁判所の独立性と権威とを高め、真の「法治国家」を実現すること、に求められていた。これを受けて、一九八九年一一月に全面改正された裁判所構成法の基礎では、すでに、陪審制(「拡大参審員会」)実施の可能性が承認されていた。
(12)  この法律は九五年六月に修正され、裁判官の選挙制から任命制へと大きく変化したが、地区(市)人民裁判所裁判官は最初に任命される時のみ三年の任期がつけられ、再任後には終身制とされた。
(13)  陪審裁判の実施状況とその成果に関しては多くの報告があるが、その実施範囲については今日に至っても当初の九地域からの拡大はなされていない。
(14) СЗ РФ,,1997,.No.1 ст1.
(15) Ведомости Сьезда народных депутатов РФ и Верхвного Совета РФ, 1993,No.19 ст. 685.
(16) С3 РФ, 1995, No.33, ст.3349.
(17) Проект Общей части УПК Российской Федерации <<Российская юстиция>>, 1994, No.9.
(18)  この点について、単に八九条の規定から裁判所以外の諸機関を削除するという簡潔な一部修正法で十分であり、必ずしも新しい刑訴法典の制定を待つ必要はないという意見もある。Дмириев Ю.Ф., Защита конституционных прав граждан в уоловной и конституционной юстиции, <<Госуд. и право>>, 1999, No.6 стр. 40.
(19)  しかしこれらの条項に関しては、それが不服申し立ての権利を持つ者を制限している点において憲法四六条、一九条、二一条、二二条に反していると、ロシア連邦憲法裁判所が九五年五月三日の決定で判断している。
(20)  司法統計の速報値によれば、九九年には約八万五千件の不服申し立てが裁判所にあり、その約四〇%が釈放されている。 <<Российская юстиция>>, 2000, No3,стр.3.
(21)  「未決拘禁に関する規程」(一九六九年七月一一日)および「犯罪の実行が疑われる者の短期間の拘束手続に関する規程」(一九七六年七月一三日)。
(22) Федеральный Закон от 15 июня 1996 года И 73-ФЗ
(23) Савицкий В., Последние новеллы УПК : иорядок и сроки содержани под стражеи,<<Российская юстиция>>, 1997, No5,стр.17.
(24)  ロシア連邦憲法裁判所は最近、刑事訴訟法典四七条第一項が事件への弁護士(弁護人)の参加を逮捕状ないし勾留決定の提示後としていることを憲法四八条等に反するものとし、しかるべき法律改正がなされるまでは、憲法四八条第二項が直接に適用される旨決定した。Постановление Конституционного Суда Российской Федерации от 27 июня 2000 года И 11-П.
(25)  См. С6. <<Человек и тюрьма>> No.2, 1999 г. また参照、「ロシアの未決拘禁」(NHK ワールドレポート・一九九七年六月九日)。
(26)  См. Питулька К.В., Проблемы судебного контроля за применением заключения иод стражу в качестве меры пресечения и за продлением его сроков,<<Правоведение>>, 2000, стр.216 и сл.