立命館法学 2000年3・4号下巻(271・272号) 1145頁




人格権としての私道通行権について


和田 真一


 

目    次

は じ め に

一  判      例

二  学      説

三  権  利  性

四  人 格 権 性

五  道路開設、道路位置指定の不要性

まとめに代えて




は  じ  め  に


  本稿は、私道通行権の法的構成を検討しようとするものである。この権利を人格権の一つに挙げる見解とその他の見解で従来から争いがあった。その最中、最高裁平成九年判決は「人格権的権利」という表現で私道通行権を初めて肯定した。以下では、従来の議論を整理しつつ、その上で、この私道通行権が人格権に包摂されるべき権利であると考える理由を示してみたいと考える。数多くの判決の分析に基づきこの権利の具体的な内容についてはすでに多くの研究があるが(1)、本稿は特に法的構成に限って考えるものである。
  ところで、私道通行権とはどのような権利であるのかを、最初に述べておく必要がある。建築基準法上の道路として、同法四一条一項五号は土地建築物の敷地として利用するため、道路法などの法律によらないで築造される政令で定める基準に適合する道で特定行政庁からその位置指定を受けたものを道路とし、さらに同条二項は、現に建築物が建ち並んでいる幅員四メートル未満の道で、特定行政庁の指定したものは、原則としてその中心線から水平距離二メートルの線をその道路の境界線とみなすと定めている。そのような建築基準法上の道路(私道)は、私有地でありながら道路としての役割を果たすために公法的な規制を受けている。道路内の建築制限(建築基準法四四条)、私道の変更又は廃止の制限(同法四五条)、道路における禁止行為(道路交通法七六条)、道路の使用に際しての許可の必要(同法七七条)等である。しかし、そのような規制に当たらない限りでは、私道敷地所有者は私道の使用方法などについて自ら管理する権限を有する(私道管理権)。これに対し、敷地所有者の管理が私道利用者の通行を合理的な範囲を超えて妨害するときには、利用者は第一次的には行政に対してその妨害の排除を請求することになる。だが、道路利用者の通行が敷地所有者によって妨害されているか又は妨害されるおそれがあるにも関わらず適切な行政上の救済が得られない場合に、私法上の妨害排除請求権や妨害予防請求権が認められるのか、認められるとすればその根拠は何なのかがここでの問題なのである(2)

一  判      例


1  五つの関連判例
  通行権に関係する最高裁判例としては、次の五つを挙げられる。
  まず第一は、最判昭和三九年一月一六日民集一八巻一巻一号(以下、昭和三九年判決という)である。この事案では、私道が問題になったのではなく、公道である村道の通行妨害行為の排除が請求された。この点で後の四つの判例とは本質的に異なる。判決は村道通行者は他の村民の利益ないし自由を害しない範囲で自己の生活上必須の行動を行える使用の自由権を有するとし、そして、この自由権に対して継続的な妨害が行われた場合には妨害排除できるとした。この判決をもって公道上に通行の自由権が認められたものと評価されている(3)
  第二は、最判平成三年四月一九日金判八七二号四二頁(以下、平成三年判決という)であり、建築基準法四二条の道路位置指定処分を受けた私道上への所有者による障害物設置(従前の塀と同じ位置への塀の再築)に対する徐去請求に対し、原審が一般人の通行の利益は道路位置指定による反射的利益であるが、私人の日常生活上必要な通行利益であるから、民法上保護に値する自由権(人格権)として保護されるべきであるとした判決を破棄した上、請求を棄却したものである。その理由は、本件で問題となった場所が、道路位置指定処分を受けてはいたものの、従前から存在した竹垣及びマサキの生け垣の内側に位置して現実には道路として開設されていなかったから、その部分を自由に通行することができる権利はないというものであった。本判決は、私道が位置指定を受けていても開設されすでに道路として利用されているのでなければ私法上の保護は受けられない趣旨を確認した判決として重要な意義を有する。
  第三の最判平成五年一一月二六日判時一五〇二号八九頁(以下、平成五年判決という)も、道路位置指定を受けた部分の内、問題の部分が従前から塀の内側に当たっており、道路として開設されていなかったこと、今回の妨害行為として除去請求の対象となっているブロック塀の築造によっては通路の幅員がブロックの幅二枚分程度が狭められただけで、道路位置指定部分だけでなお幅員二メートルの公道に通じる通路が存在している限り、日常生活に支障が生じたとは言えず、人格権が侵害されているとは理解し難いとした。
  最判平成九年一二月八日民集五一巻一〇号四二四一頁(以下、平成九年判決という)は、道路位置指定を受け、前二者とは異なって既に現実に開設されている幅四メートルの道路を自動車で通行する(本件では三〇年の長期に及ぶ)について日常生活上不可欠の利益を有する者は、敷地所有者が通行を受忍することによって通行者の通行利益を上回る著しい損害を被るなど特段の事情のない限り、妨害行為(自動車を全面的に通れないようにする簡易ゲートなどの設置)の排除や将来の妨害行為の禁止を求める権利(人格権的権利)を有するとした。
  最後に、最判平成一二年一月二七日判時一七〇三号一三一頁(以下、平成一二年判決という)は、幅二−三メートルの建築基準法四一条二項のみなし道路についても平成九年判決の考え方を適用しつつ、徒歩、二輪車による通行実績しかなく、賃貸駐車場の開設に伴う自動車通行のためにポールの除去を求めることは日常生活上不可欠の要件を欠くとして、請求を棄却した。

2  判例の法律構成に対する評価
  昭和三九年判決では自由権が認められたものの公道である村道に対してであり、その後の平成三年判決と平成五年判決はいずれも私道が未開設であることを理由として通行権を否定したので、この段階では、私道について最高裁が通行権を認めるのかどうか不明であった。学説の評価もどちらかと言えば人格権ないし通行権に消極的な態度を示していると評価するものと(4)、人格権ないし自由権を前提としつつ要件・限界を明らかにしたものであると評価するもの(5)に分かれていた。これに対して平成九年判決は、初めて積極的に請求を肯定する文脈で、「人格権的権利」という権利概念を用いた。しかし、昭和三九年判決のような自由権でも、単なる人格権でもなく、わざわざ「人格権的権利」という表現を採用している。野山宏最高裁調査官によれば、人格権的な権利(6)としての妨害予防・妨害排除請求権が発生すると平成九年判決はしたが、本判決のいう権利はいわゆる人格権と異なるとは考えられないが、人格権については実定法上の規定が無く、最高裁判例(最大判昭和六一年六月一一日民集四〇巻四号八七二頁「北方ジャーナル事件」判決)においても定義がなされていないことから、「人格権的権利」という表現にとどめられたものと思われるという(7)。「北方ジャーナル事件」判決以降、名誉やプライバシー等に基づく差止請求を人格権に基づかせることは裁判実務ではほぼ定着したと見ても良いが、通行妨害のような生活妨害タイプの事例での人格権による差止請求には慎重な態度を示したということになろうか。人格権に名誉、プライバシーなどの権利と生活妨害行為から保護されるべき権利の双方を包括することにどのような利点があるのか、理論的に統一的な説明がつく部分があるのかどうかは一つの論点である(8)。けれども、平成九年判決に対しては、人格権に基づく差止請求を肯定したものとする評価が専らである(9)

二  学      説


  私道通行が妨害された場合に、その中止を求める場合の根拠に関する学説は大きく四つに分けられよう。

1  不法行為説
  内田教授は侵害があれば直ちに物権的請求権が発生すると見るよりも、諸事情を比較考量して判断すべきであり、この点では不法行為に対する人格権に基づく差止請求と同様の構造が見られるとされている(10)(ただし、違法性判断についての指摘であるとも取れ、妨害者の故意・過失まで必要と考えられているかは明確でない)。

2  人格権説
  人格権として構成する学説は、どのような具体的人格権が侵害されていると見るのかによってさらに二分される。
  a  自由の侵害
  不法行為法の教科書では一般的に保護されるべき自由の一つとして、公道の通行に関する昭和三九年判決を例示しているものが多い(11)。また人格権に関する研究書でも、同様の叙述が見られる(12)。しかし、私道を通行する権利をここに含めるものまでは見あたらない。
  b  生活の侵害
  通行権を要役地の上で営まれる生活に必要不可欠な権利として捉える見解である。藤原裁判官は、私道通行の妨害は、その実質から言えば、いわゆる日照権侵害などの場合と同様、物権や債権の侵害ではなくて、その道路の通行によって成り立っている生活や営業そのものに対する妨害にほかならないと主張されてきた(13)。また、澤井教授も、道路の存在意義を「通行往来の必要」という理解に矮小化してはならず、袋地利用の保障という原点に引き戻すべきであるという。袋地利用の保障とは同地における人間生活の保障にほかならない(14)。そして袋地における生活を守るという観点から通行権を見直すならば、人格権的発想に結びつくことは当然であり、平成九年判決が「生活の本拠と外部との交通は人間の基本的生活利益に属する(15)」と述べた点は正鵠を得たものだと肯定されている(16)。そのほか、瀬木裁判官も、私道通行が人たるに値する生活を営むための重要な必須の条件と見られるべきものならば、それは人格権概念の中に含めて考えて良いとする(17)

3  通行地役権説
  学説と判例の流れは人格権として通行権を構成する方に向いているようにも見えるが、通行権の問題を要役地と相隣地との所有権調整の問題として、あくまで物権関係の問題として解決すべきとする見解も主張されている。岡本教授の見解は、道路位置指定の直接の効果ではなく(道路位置指定から受ける利益自体は反射的)、特定人が私道に対して個別・具体的な生活利益を取得すれば、これによりはじめて自由使用利益が私法上の自由権になると見る点で判例と同じである(18)。しかし、教授によれば、確かに生活妨害という側面を前面に押し出して「人格権」と解する判例が少なくない。ところがこれまでの例を見てみると、全て建築基準法上の私道に直接、間接に接続ないし沿接する土地所有者・利用者の使用利益・通行利益が問題となっており、結局はその要役地と当該私道との客観的な地理的状況、私道築造の経緯、通行の必要性等、諸般の事情を考慮して、その保護の当否を判断せざるを得ない。特に紛争の核心は車両による私道通行の可否である。この判断のためには、当該要役地の「通常の用法」を考慮せざるを得ないから、結果的に通行権は決して土地所有者個人の人格的利益に眼目を置くものではないとされる(19)

4  生活秩序違反説
  学説のうち不法行為説と他の二説(権利として構成する人格権説と通行地役権説)との違いは、保護対象を権利として法律構成する意味があるかどうかという問題と、差止請求の要件としての違法性判断に利益衡量を入れるのか、故意過失の存在をも要求するか否かの点にあろう。他方、人格権説と通行地役権説は、通行権の保護対象をどのように把握するのかというレベルで結論を異にしていると言える。
  これらに加えて、不法行為構成には依拠しないが、同時に権利構成にも与せず、生活秩序違反行為に対する差止と構成する考え方が、吉田教授によって示されている。教授によれば、生命・身体などの人格的利益の帰属(人格権)は絶対権として保護されるが、通行の自由等は、この人格権の外側に存在して、生活利益の享受を内容とする生活法秩序に違反する侵害行為からのみ保護される。総合的利益衡量によってかかる秩序が何であり、秩序違反行為が何であるかが確定される。そして、人格権の概念を稀釈化しないためには、これを人格権侵害として構成することなく、秩序違反として構成しておくことが望ましい。判例が「人格権的権利」への侵害としたのは、判例がかかる法律構成を知らないために、秩序違反を権利侵害に仮託したものにほかならない(20)

三  権    利    性


  まず私道通行の根拠を権利として認めるべきだと考える理由を四点にわたって述べ、次に人格権(生活権)と考えるべき理由を項を改め四に述べることにする。

1  欠缺補完の必要
  民法上で他人の土地の通行を許す権利としては、契約により通行権を債権として発生させることはもちろん、物権である通行地役権を設定することも可能である。また、法定の通行権としては、相隣関係の規定中に囲繞地通行権が認められている(21)。このように民法上通行権が認められる場合は皆無ではないのだから、したがって、通行権を新たに人格権として権利創造する場合には、どういう場合に創造する必要があるのかが問われざるを得ない(22)。契約による解決が相隣関係で行われ得るならばそもそもこの種の紛争は生じにくいに違いないが、最高裁判例の事案を見ても分かるように、話し合いでは決着が付かなくなっているケースで裁判による解決が求められる。そこで勢い法定の利用権が主張されることにもなる。私道の通行妨害をめぐる裁判例を分析した上で、岡本教授は民法上の通行権(通行地役権、囲繞地通行権など)がまず主張されるのが普通であり、当該私道が建築基準法上の私道であるならば、予備的に「通行の自由権」も主張されると指摘されている(23)
  私道通行権の既知の権利に対する補完性は認めざるを得ないであろう。賃借権、通行地役権、囲繞地通行権などの債権または物権に基づく請求権を行使できないときに限って、人格権としての私道通行権による救済は考えるべきである(24)。その際、約定の権利である賃借権や通行地役権とは異なり、法定通行権である囲繞地通行権は登記無しに第三者に対抗できるから、囲繞地通行権を拡張して考え、補えない部分を人格権としての通行権(もちろん登記は問題にならない)に依拠すべきである(25)

2  被保全権利
  通行権をめぐる訴訟では、単に権利の確認が求められることも(26)、損害賠償が請求されることもない。専ら問題は、私道敷地所有者による通行妨害行為の中止である。妨害行為は塀や門扉状の物程度から、建物の新築や再築の場合まで、様々なケースが考えられる。そして、容易に想像できるように、通行を妨害するような障害物が建築されてしまうと、とりわけそれが建物のように大がかりで堅固な物であるほど実際問題として撤去は困難であるから、通行権に基づいて私道通行を確保しようとする者にとって、保全処分は大いに有効な手段である(27)。この仮の地位を認める保全訴訟では争訟の存在と保全の必要性が明かであれば良く、被保全権利の存在まで疎明される必要はないとする考え方もある。だが、本案で全く勝訴見込みのない場合にまで仮処分を認めることは適当でない。従って、被保全権利の存在はこの仮処分決定の際にも必要であると考えるべきである(28)。そして、被保全権利としての妨害排除請求や予防請求を、通行権という権利の侵害の効果と見るべきことは、次に3と4で述べる。

3  不法行為構成の問題
  不法行為として構成する利点は、二1で見た通り、通行妨害行為に対する差止請求を認める際に総合的で柔軟な判断ができることに求められている。民法七〇九条の不法行為ような一般条項に依拠するのはできれば回避すべきであるが(29)、その点は別としても不法行為説のいう総合的判断、つまり違法性判断の際に利益衡量が可能なことと、侵害者の故意や過失をも考慮できることには利点があるのだろうか。まず前者について考えると、権利として構成することがただちに差止請求の要件となる違法性判断を硬直的にするものではないと言える。人格権であっても、生命や身体、健康の侵害、自由のなかでも身体運動の自由の直接的物理的な制限(監禁や拘束など)のように、権利侵害の事実が違法性を徴表し、違法性阻却事由となる特別な事情(しかもこれらの保護法益の侵害の場合にはかなり限定される)がない限り中止義務違反の評価を免れないものもあるが、他方、例えば名誉侵害のように名誉と侵害行為の表現の自由等との調整が必然的なものもあり、通行の自由は後者のタイプに属する(通行者等と道路敷地所有者の利益調整が当然に必要)と考えることができるからである(30)(言い換えれば、不法行為構成との差はこの点で不明確である)。
  次に、不法行為の成立要件として要求されることになろう故意や過失については、通行妨害は意図的ないし通行に支障が生じることは予見しつつ行われていることも多いであろう。妨害行為が道路敷地所有権の濫用であるとして禁止される場合もある程である(31)。従って、これが要件とされても実質的には差止請求の成立範囲を狭めるものではないかも知れない。しかし、このような妨害行為が所有権の濫用と認定され、その反射的効果として通行が保護されるという法律構成から脱却してきたこれまでの経緯は尊重されねばならない。それは、敷地所有者側の事情は違法性判断で考慮する余地はあれ、主観的な故意又は過失までは問題とすることなく通行権者に救済を与えようとしてきた過程であったはずである。もちろん故意過失を要件とすることで、通行権者の証明、疎明の負担も増加してしまうことになる。以上から、損害賠償責任が不法行為に基づくことは勿論であるが、中止については権利侵害に基づく効果として考えるべきである。

4  義務違反構成との異同
  最後に、吉田教授の主張される生活秩序違反行為に対する差止請求という構成についてである。まず人格権概念の稀釈化の問題であるが、教授が主張されるように、生命・身体に絶対的保護を付与することには異論はない。しかし、3でも述べたとおり、人格権はそれ以外に名誉、プライバシー、肖像、氏名、最近では自己決定権や生活環境など、様々な内容を含み持つ権利概念として成長している。かりに、生活妨害タイプの人格権侵害事例を全て除外して考えたにしても、人格権を利益衡量の必要から完全に免れさせることはできないであろう。また、侵害者の秩序違反(行為義務違反)を差止請求の根拠とするにしても、それではこのような差止請求権が誰に発生し、行使することが許されるのかという問題が次に起こる。そうすると、ある者に対する秩序違反行為による不利益な結果(又は損害)の発生(又はそのおそれ)等を問題にして特定せざるを得ない。しかし、不利益な結果と言っても、どのような不利益でも良いのかと言えばそうではなく、そこには通行による生活利益の具体的な妨害が表現されていなければならないはずである。そして、そのような不利益(保護されるべきかどうかが法的に評価された侵害結果)は、実は権利侵害を要件にすることによってより端的に捉えられると考えるものである。
  さらに四1に述べるように、確かに公道通行の場合は、通行者の権利としても一般的な通行の自由が問われるように思う。しかし、私道通行の場合には、私道敷地所有権を制限するのは建築基準法などの公法的規制と民法上の客観的な相隣生活上の規制で十分であっても、当該通行者の権利を積極的に根拠付けるには、一般的な通行の自由では未だ弱く、日常生活上不可欠な通行利益を権利の核心に据えることが必要であるとも考えるのである(ただしその内容の理解は判例とは異なる。五で述べる)。

四  人  格  権  性


  通行権をどのような性格の権利と考えるかについては、二2bで紹介した様に、私道通行妨害を人格権(要役地へのアクセスが妨害されることによる生活の)侵害と見るのが妥当であると考える。

1  身体活動の自由構成への疑問
  通行権を人格権として理解するにしても、通行の自由が侵害されれば、日常生活上不便を感じ、精神的にも苦痛であり、健康にも影響することがあり得るとして(32)、あえて精神的苦痛の発生や健康への影響を権利侵害存在の徴表としたのでは、通行権に期待される保護の必要は到底満たさないであろう。
  また、通行の自由は人格権の中でも身体活動(通行)の自由の保護に属すると考えることも問題解決には役立たない。本来的な身体活動の自由とは、身体の直接的物理的な拘束等が存在しないことであるが、このような意味での自由の侵害の存否が問題になるときには、場所的な要素は問題にならない。身体の自由は肉体が存在する限り必然的に随伴し、常に何人にも、そしてどこにいても存在しているものである。他人の土地や住居にかりに無断で侵入した場合であれ、この様な意味での最低限の身体の自由は、各人に備わる人格権として不当に侵害されることはないはずのものである。
  要役地上で営まれている生活が保護されるべきだと考える以上(33)、このような生活利益は身体活動の自由(通行行為)を通じて確保されるとして、あえて身体の自由に還元ないしはこれを媒介として保護を図ることは(34)無用である。ただし、昭和三九年判決のような公道通行権は、およそ公道上であれば同様に保護が必要になるという意味で場所的規定性がなく、所有地やそこでの生活とは全く切り離されたところでまさに身体を移動させる自由が問題になっているのであるから、むしろ身体活動の自由の意味での通行権の問題だといえる。従って、公道の通行権と私道の通行権を統一的に法律構成しようとするならば、通行地役権(物権)構成では前者の包摂は無理であるから、この点からも人格権構成を採るべきである(35)

2  生活権構成の妥当性
  通行権の内容は場所的に規定されるものである。当該私道の接続地や沿接地の所有者、その上での生活者が権利主体として現れてくることがほとんどである。土地所有権の相隣関係法理によって解決しようとする通行地役権説もこのことを根拠としていた。しかしこの見解も、純粋に物権的に問題が解決可能と考えているわけではない。むしろ、不動産所有権の相隣関係が物的な支配秩序の維持・存続だけを目的としているのではなく、機能的には隣地所有者の人格的利益の保護をも意図していることを強調している(36)。この意味での地役権の内容は抽象的に土地所有権から導かれるのではなく、当該土地の具体的な利用形態や利用計画から導かれるのであり、それはまさに要役地所有者の生活や営業に他ならないのである。ことは生活の基盤となっている土地の利用に関することであり、道路の有り様をめぐる利益調整の際にもまさに総合的に判断が必要になるから、要役地の生活権を端的に権利の目的と考えた方が実際的だと思われる(37)。ただし、生活や営業への配慮が必要なことは承役地である私道敷地所有者についても同様である。要役地の生活を権利保護の核心に据えることは、承役地の負担の増加(その可能性が他の考え方より広いことは認めるが)を必然的にもたらすものではないし、加重な負担も止む無しと考えるものでもない。
  権利主体の点でも日常生活上不可欠の通行利益を有する者に通行権が付与されうる点で、地役権よりも広がることになる。そして、生活そのものを保護の対象と考えるときには、本人の生活上の必要を満たすためにその場所を通行する者のアクセスも保障されると考える。住宅地の中の店舗の営業のような場合を考えると、営業を継続していくのに不可欠な業者の出入りや顧客の私道通行も保護の対象になると考えるべきである(38)
  ところで、通行妨害ケースでは自動車による通行が問題になっていることが往々である(39)。身体活動の自由を問題にせず、生活妨害を問題とする人格権説に立つならば、人格権構成に立つからと言って自動車による通行権を認めることが理論的に困難(40)になる訳でない(41)。むしろ生活や営業に必要な自動車通行が可能な幅員の道路が積極的に認められるべきことになる。平成九年判決のように既に長年に渡って自動車通行が行われている場合は言うに及ばず、平成五年判決のように幅員が僅かに狭められただけでなお幅員二メートルの道路が存続しているとはいえ、判決の言うように本当に生活に支障がないと言えるかどうかは、当該私道における自動車通行の見通しという観点からも考えられねばならない事柄である。平成一二年判決は営業利用と自動車通行の両面にわたって慎重な判断が求められるケースであった。もっとも、この点はむしろ通行権が認められるためには、道路開設の必要性(通行場所が道路としての外形を持って通行に供用されているか)と関わって一番争われているところである。最後に、この道路開設と道路位置指定、通行権との関係について述べておきたい。

五  道路開設、道路位置指定の不要性


1  道路開設の要否
  最高裁は平成九年判決で、建築基準法上の道路位置指定を受けた道路が開設されており、日常生活上不可欠な道路使用に当たる範囲で妨害排除請求が認められるとしている。これが妨害排除請求が過大に広がらない(42)、と言うより通行が現状以上には拡大されないための歯止めとなってしまうことは明かである。そこで道路開設の要否については学説では争いがある。

  a  開設必要説
  道路位置指定を受けただけでは不十分であり、妨害排除が認められる前提として通行の事実が存在することが決定的だと見る立場である(43)。開設必要説は日常生活上不可欠であるということの意味を、位置指定道路がすでに道路として開設され、利用が不可欠になっていることだと考えるのである。この見解では従って、位置指定は受けているが未開設の部分にまで通行権が及ぶことはない。
  岡本教授は、道路開設がすでに行われていることが必要だと考えることによって、公法的規制の効果を民法が直接受け入れるという難点も克服できるとされる。すなわち、私道沿接の居住者の権利は所有者が私道敷地所有権に基づく利用を断念すること、私的管理処分の結果であると考えるのである。その立場からは、最高裁が道路開設を要件としたことは、私道敷地所有者の側から見れば、土地所有権に基づく私道開設という管理処分行為を前提とされたことになり、肯定的に評価されることになる(44)
  この見解は、私道開設地の所有権と通行権との調整の重要な要素として、土地所有権者の開設の意思を尊重し、開設がない限り通行権は認められないとするものである。同様の観点から、しかし敷地所有者の意思ではなく、認識のレベルに要求水準を設定して、田中助教授は次のように述べられる。すなわち、道路として使用していない限り通行権は発生しないが、ただし、道路を負担すべき者が一旦道路を開設できる状態を任意に作出した場合に、通行者が遅滞なく道路の通行を主張するか、特定行政庁による指導により道路負担者が道路を負担すべきことを認識したときには、道路が開設されていたかどうかを問うことなく、道路位置指定による反射的利益を通行者は享受でき、妨害排除請求も可能であると考えるべきである(45)。この考え方は私道開設が必要であるとの原則に立ちながらも、建築基準法により道路位置指定されている場所がなるべく速やかに私道として利用に供されるよう私法上何らかの処置をとれるようにしたいという意図の現れであろう。その限りで公法的規制内容が民法上の敷地所有者の受忍義務として取り込まれ、その上に通行者の権利を認めるのである(この見解では平成三年や五年判決のようなケースでは、判決とは逆に排除を認める可能性があろう)。この考え方を前面に出すのが次の開設不要説である。

  b  開設不要説
  澤井教授は、土地の相隣関係法は、隣接する土地所有権の私的利益の調整であると同時に、相互互譲により土地の最大限の活用を図ろうという社会公益的見地に立つものであるという基本的理解のもとに、袋地の現実の利用を考慮するだけではなく、袋地にとって客観的に相当な利用が考慮されるべきであり、そのために必要な通路は囲繞地との利益衡量を経て開設されるべきものと主張されている(46)
  その具体的な利益衡量の一例として、大塚教授は、従前使用されてきた道路を廃止してこれに代わり新たな道路が開設された場合はもちろん、通行者の土地取得後に敷地所有者が既存の建物などの建て替えをし、除去義務に違反している場合にまで現実の通行を要件とする必要はない。とりわけ、特に袋地所有者の日常生活や防災上の必要から既存の道路幅員に問題があるような場合に、妨害排除が認められないのは不都合であるとされる。そして、道路位置指定処分は一定水準の住宅環境を確保するという公益的見地から土地所有者に課された相互的負担であるが、機能的には私的な土地利用の相互調整をも実現していると見られるから、道路開設の要件は必要条件と見るべきではなく、日常生活上不可欠かどうかの要件の判断のなかで考慮されるべきであると主張される(47)。池田教授も、平成九年判決の評釈の中で、「建築基準法は、乱開発や無規律で錯綜した町並みといった日本的現状の下でも文明的都市形成の最低基準(シヴィル・ミニマム)ともいうべきものを極力達成させるため、建築物や敷地の有する社会性に立脚して、防災や衛生、アメニティーの観点から道路との関係を規定し、場合によっては建築確認の制度を通して私道の設置強制を含む強い建築基準を定めている」ものだとし、「近隣住民にこの警察規定によって守られる都市空間条件の最低基準の恵沢を享受することは、市民(市民社会の成員)としての権利」だとする。そして、位置指定道路であるにも拘わらず、通路未開設を理由に妨害排除請求を棄却した平成三年判決および平成五年判決を「建築法規の私道に対する強い規制のあり様とは隔たった基調に立つ」ものであるとして批判し、そして判例に見られるような公法関係と私法関係の乖離は疑問であるとして(48)、近隣者には私道敷地に既に存在する障害物の除去を所有者に対して積極的に請求する権利は不在だが、少なくとも、障害物が従前より強固な物とされようとする時や一旦障害物が除去された後は私道敷地内に築造できないことは公序であるから、私道通行に利害を有する近隣者は再築を予防・排除できると解するべきであるという(49)

  c  私道敷地所有者との調整
  開設不要説に立ったとしても現にある建物などの築造物を排除してまで未開設地に通行権を実現することは、私道敷地所有者側の生活を考慮すれば、確かに困難なことが多いであろう。他方、開設必要説も私道敷地所有者の意思や認識を媒介として、建物再築のような場合には除去義務を認めるので、どちらの考え方でも結論は接近し、平成三年判決や五年判決よりはいずれにしても広く妨害排除を認めることになる。開設要件以外の争いとなる平成九年のような開設済み私道の通行妨害ケースではもちろんこの点で結論が異るはずがない。開設必要性と不要説の判断の分かれ目は、位置指定道路が全部又は部分的に未開設であるが、敷地所有者の負担を考慮してもなお開設を求めうる場合を認める可能性を残すか否かである。
  考えるに、判例や開設必要説は日常生活上不可欠な通行であるかどうかを通行者と私道敷地所有者との利益調整の一つの基準として置いている。これには異存がないが、問題は日常生活上不可欠なものになっているかどうかをいかに判断するかである。日常生活上必要不可欠であるかどうかの判断は現実に利用されている範囲で事実的に確認されるものではなく、建築基準法が想定している利用関係を前提として、規範的にあるべき利用形態を考えて確定されるべきである(50)。私道敷地部分が実際に道路として利用されていることを前提に日常不可欠性が判断されてはならない(四2参照)。また、開設が敷地所有者の道路としての供用の意思の現れであるとみなして、これを以て敷地所有者と通行者との具体的な利益衡量の基準とすべきでもない。それは通行権を不当に不安定なものとしてしまう。公法規制と民法上の義務や権利との関係に関する基本的な理解の仕方に関わるが、むしろ、少なくとも建築基準法による公益的規制が土地所有権にかかっている場合には、敷地所有者に通行を受忍する義務が発生すると端的に考えられないであろうか(51)。そしてその一方で、敷地所有者の保護も、敷地所有者の意思を尊重することによるのではなく、私道敷地による制約を受ける土地の利用の在り方を追求することによって客観的に定められるべきである。
  この客観的総合的判断という点で、吉田教授が指摘されているように、平成九年判決が、敷地所有者が通行の受忍によって通行者の利益を上回る著しい損害を被るなどの特段の事情のないことを要件に挙げていることは重要である(52)。ただし、判決のように特段の事情を通行利益を上回るほどの損害を被るときに限定例示することが適当とは思われない。通行秩序を形成する公序は、公法たる建築基準法のみならず、地域住民等によっても創出される(住宅地内の私道の通り抜け禁止や大型車通行禁止など)。このような自主ルールの存在も特段の事情として考慮されるべきである(53)。この点、多田教授が提唱されている衡量基準(@当該通行権が、妨害排除請求などによって保護されるに値する内容を備えているかどうか(通行の目的、態様、頻度など)、A現に妨害排除を認める必要があるかどうか(妨害の程度、継続性、代替道路の有無など)、B妨害状態を正当化すべき特別の要因が見られるか否か(妨害に至った経緯、加害及び被害の回避可能性の有無、緊急事態や著しい公益性の有無など(54)))も示唆に富むものである。@が道路開設を前提としている点は既に述べたように承服できないが、AとBは平成九年判決の特段の事情よりもかなり広く敷地所有者の事情を考慮に入れうるものとなっているからである。

2  道路位置指定の要否
  それでは通行権は、道路位置指定がなく、敷地所有者に建築基準法に基づく受忍義務がない場合にも、通行者の私道通行の日常生活上不可欠の現在または将来の必要に基づいて存立し得ると考えるべきであろうか。

  a  道路位置指定が解かれた場合(廃道処分)
  一旦発生していた民法上の私道通行権は、廃道処分以後は消滅すると考えるべきか。この問題については、通行権を人格権として構成する説でも(55)、物権として構成する説でも(56)、必ずしも消滅するものでないと考えている。つまり、通行利用者の利用が先述の日常生活上不可欠の範囲で、私法上の権利として認められるレベルに達しているならば、それは行政庁の指定の存在如何に関わらず権利として存続することを認めるのである。逆にそのレベルに至らない場合には、通行利用者は固有の権利を主張し得ない(57)。もっとも、私道が一人の所有地上のみならず、通行利用者自身の敷地にもまたがって存在することが多く、私道と一団の敷地が一体となっている(ものとして私道の指定を受けた)ときには、私道の廃止にも原則として他の所有者の同意が必要である(58)。したがって、通行利用者が自らが関知しない廃道処分によって通行利用を奪われる可能性があるのは、土地所有権に基づいても、通行権によっても保護され得ない場合に限られる。

  b  道路位置指定が行われていない場合
  このような場合にまで他人の土地の通行によって人格権としての通行権が認められるのか。この場合には、日常生活上不可欠と言われるには道路開設があると認められる程度に通路が固定されている必要があろう。
  かつて末川教授は、相隣地通行の局面とは異なるが例えば寺院の境内や共同墓地に参詣するような場合、通路に地役権はないが、一種の「人役権」は存在するとみなければならず、これが閉塞されるときには他の地点を通行できるようにしなければならないと説かれている(59)。確かに、他の法制度では、一定の目的で他人の土地への立ち入りや利用ができる権利を人役権として認める例がある(60)。わが国では人役権の制度は持たないが、これに代えるとすれば、賃貸借契約や使用貸借契約あるいはその擬制(事実的契約)にでも依拠することになろう。
  相隣地の日常的な通行に限って考えるときには、人役権からアプローチするよりも通行権を認める方が良い。従来このような考え方に反対してきた学説は、承役地所有者の負担の重さを考えれば、このような通行権はあくまで承役地所有者の好意に基づくものであって、受忍義務まで生じさせるものでないと説いてきた(61)。しかし、関係者によって慣習的に形成されてきた通行ルールであったとしても、もはや承役地所有者の任意の土地利用を制限するほどの強いルールにまで成熟する可能性を全く否定してしまうまでもない。土地利用に関する公序に、法律による規制のみならず住民による自主規制も含めるべきだと考える場合、それは先述のように受忍義務を緩和することもあろうが、その逆の作用もあり得ると考えなければならないであろう。廃道処分後に通行権が存続するのと同じ理由で、そもそも位置指定がない場合にも通行権が認められる可能性が否定されるべきでないと考える。

  c  通行地役権の時効取得
  もっとも道路位置指定がなく、しかもその場合に通行権は認められないという立場に立っても、他人の土地の通行利用が長期継続した場合には、少なくとも通行地役権の時効取得は認められ得る。長期の継続的通行は、人格権としての通行権の要件とされる日常生活上不可欠の要件を肯定させる方向に影響を与えることが十分に考えられるが、他方、日常生活上不可欠かどうかは直接には問われることなく、時効期間の満了によって通行地役権の取得は認められるのである。ただし、民法二八三条が通行地役権の時効取得については「継続且表現ノモノ」であることを要求し、通常の時効取得よりも限定的な厳しい要件を立てている(62)。判例によれば、地役権の時効取得が認められるには、ある者が一定の場所を長年にわたって通行してきたという事実だけでは不十分であり、通路が開設されていなければならず(63)、しかも開設は要役地の所有者が行っていなければならないとされている(64)。相当程度、厳しい態度を判例は示しており、学説にもかなり古くにはそれに同調する傾向のものもあったが(65)、現在の学説では批判も強い。しかし、批判は、通路開設を要役地の所有者が行っていなければならないことについてであり、通路開設の要件まで不要と見るには及んでいない。開設されていなければ「表現」の要件を満たさないと解するからである(66)。これと比較しても、先の道路位置指定のない場合に、原則として通路が開設されていることを要求することは妥当だと考える。

まとめに代えて


  本稿では以上のようにあえて法律構成の検討整理にのみ重点を置いた。私道利用契約が締結されており交渉の可能性が有れば最も端的に問題は解決されるのであるが、そういう期待ができない場合こそ念頭に置かねばならない。また、通行地役権の時効取得は要件が厳格である上、時効期間が満了するまでは通行者に保護がないという状態は解消されねばならない。
  そこで通行権が考えられるのであるが、特定行政庁によって道路位置指定のある私道であるときには、その通行が日常生活上不可欠である場合、特段の事情がない限り通行権が認められる。これが判例である。その際、道路が開設されていることは、日常生活上不可欠であると判断されるための必要条件である。しかし、道路が開設されていることは、日常生活上不可欠な道路であると判断されるための重要な要素ではあり得ても、不可欠の前提であると考えるべきではなく、通路として開設される必要のある部分に通行権は及ぶと解すべきである。もっとも、具体的請求の認否に当たっては敷地所有者の被る不利益と利益衡量を経る必要はあるが、道路指定位置に築造物が存在する場合にも、それの撤去まで請求できる理論的可能性は否定できない。
  人格権(生活権)として通行権を構成し、袋地でのあるべき生活の実現を隣接地所有者の生活と調整しつつもできる限り積極的に図っていこうとする立場からは、平成九年判決の結論は「人格権的権利」という用語はともかく実現内容の点では当然のものであり、むしろあえて人格権と構成する意義は平成三年や五年の事例でも妨害排除や予防請求を肯定できると考える場合に生じる。昭和三九年判決は公道通行の自由が問題になる点で、生活権ではなく移動の自由の問題であるが、同じく人格権に包摂されるものと考えて良い。
  道路位置指定がない(又は廃道処分によって消滅した)場合にも、日常生活上不可欠かどうかという同じ判断基準によって通行権を認める理論的障害はないと考える。敷地所有者の利益は十分配慮しなければならないが、公法上の道路位置指定がなければ受忍義務が生じない理由はない。実際には、建築基準法などの行政的規律が不在にも拘わらず、当該場所において敷地利用がどのように調整され、通行がどのように確保されるべきかを確定する作業はもちろん容易ではない。この場合には通行の既成事実、現に通路の開設のあることが相対的に重視されることになろう。日常生活に不可欠な場合以外の隣地等への一定目的での立ち入りのケースは、通行権の射程を超えて、人役権的なものまで人格権の中で認めるかどうかの判断がなお必要であり、今後の課題として留保しておきたい。
  もっとも、通行権を人格権、生活を維持するための権利の一つとして認めるべきだと強弁しても、そのネーミングから感じられる権利の個人性とは裏腹に、権利内容を根拠付ける要素も、権利を限定する要素も、一個人の意思や利益だけには還元できない客観的な要素によるところが大きい。その意味で、吉田教授の主張されるように、私道の通行妨害ケースでは人格権侵害ではなく、生活秩序違反行為が問題になっているのだという指摘は本質をついている。しかし、特に権利の基礎が要役地の現在および将来の日常生活上不可欠性の上に発生するという権利の出自と、権利主体の特定の機能の点から、通行権も人格権の一種として認めるべきであると考えるのである。

(1)  判例学説の詳細な分析としては、例えば、岡本詔治『私道通行権入門』(信山社・一九九五年)、安藤一郎『私道の法律問題[第三版]』(三省堂・一九九五年)、瀬木比呂志「私道の通行権ないし通行の自由について」判タ三九一号(一九九七年)四頁、牧賢二「通行の自由について」判タ九五二号(一九九七年)二六頁など。
(2)  澤井裕=東畠敏明「私道と建築基準法ー公法と私法の接点としてー」乾昭三編『土地法の理論的展開』(法律文化社・一九九〇年)三五九頁参照。
(3)  瀬木・注(1)八頁、牧・注(1)二六頁。
(4)  中井美雄「判批」民商一〇六巻(一九八七年)三号四一三頁、安藤一郎「判批」判評四三三号(一九九四年)五〇頁、大塚直「判批」ジュリ一〇四六号(一九九四年)七六頁。
(5)  内田勝一「判批」判タ八七一号(一九九五年)五三頁、五六頁、岡本詔治「建築基準法上の私道と通行の自由権」島大法学三五巻(一九九二年)四号三二頁、田中康博「私道上のブロック塀の収去請求の可否」京都学園法学一九九五年一号四四頁、瀬木・注(1)一三頁。
(6)  原文では「物権的な権利」と注括弧をつけられているが、妨害排除請求権など物権的効力を有する権利ということであろうか。
(7)  野山宏・ジュリ一一三七号(一九九八年)一〇〇頁、一〇一頁。
(8)  藤岡康宏「人格権」山田卓生編集代表・藤岡康宏編集『新・現代損害賠償法講座2』(日本評論社・一九九八年)二一頁以下参照。
(9)  「平成九年判決判批」では斎藤博・法教二一六号(一九九八年)九四頁、田中康博・判評四七四号(一九九八年)一九九頁、二〇一頁、阿部政幸・判タ一〇〇五号(一九九九年)五二頁、その他、田中康博「私道通行の保護ー実体法上の残された問題を中心にー」石田喜久夫先生古希記念『民法学の課題と展望』(成文堂・二〇〇〇年)三九九頁、四〇〇頁。
(10)  内田・注(5)判タ八七一号五六頁。
(11)  前田達明『不法行為法』(青林書院新社・一九八〇年)九八頁、四宮和夫『事務管理・不当利得・不法行為(中)』(青林書院・一九八三年)三二三頁、澤井裕『テキストブック事務管理・不当利得・不法行為[第2版]』(日本評論社・一九九六年)一三九頁、吉村良一『不法行為法[第2版]』(有斐閣・二〇〇〇年)三九頁など。
(12)  斎藤博『人格価値の保護と民法』(一粒社・一九八六年)四七頁以下、五十嵐清『人格権論』(一粒社・一九八九年)一〇〇頁など。
(13)  藤原弘道「通行妨害禁止の仮処分ー公道的私道の被保全権利は何か」鈴木忠一=三ヶ月章編『新実務民事訴訟法講座14』(日本評論社・一九八二年)二九五頁、三一四頁。
(14)  最判平成五年九月二日民集四七巻七号五〇三五頁の事例を引いて、かかる理解の下に電気・ガス・上下水道の導管設置権も確立するとされる。なお、この最高裁判決自体は下水管の敷設権を認めなかったが、五十嵐清「最判平成五年判批」私法判例リマークス一九九五年度(上)六頁、九頁は、下水道敷設を要求する土地上の建物が違法であり、除去命令を受けうるものであることが最高裁の権利濫用を肯定する結論を導いていることを批判し、除去命令が滅多に行使されないことは周知のことで、したがって本件建物には長年にわたって誰かが住むことになるのだから下水管の敷設は肯定されるべきであった、と評している。
(15)  民集五一巻一〇号四二四三頁。
(16)  澤井裕「隣地通行権と建築基準法」判評四七六号(一九九八年)一八〇頁、一八七頁。
(17)  瀬木・注(1)判タ三九一号一四頁。
(18)  岡本・注(5)島大法学三五巻四号八頁。
(19)  岡本・同一九頁。
(20)  吉田克己「判批」民商一二〇巻(一九九九年)六号一六二頁、一七五頁以下。
(21)  安藤一郎『実務法律選書・新版  相隣関係・地役権』(ぎょうせい・一九九一年)一七頁以下は、様々な権限に基づく通行権の可能性について簡単に整理している。
(22)  大塚・注(4)ジュリ一〇四六号七七頁、野山・注(7)ジュリ一一三七号一〇一頁。
(23)  岡本・注(5)島大法学三五巻四号二頁。
(24)  坂本倫城「建築基準法と民法の相隣関係」判タ七六七号(一九九七年)二一頁、二七頁、田中・注(9)論文四一二頁。
(25)  石田喜久夫「判批」判タ三一四号(一九八五年)一二九頁、一三一頁。この点に付き、池田教授は、平成九年判決の事実関係を詳細に検討した上、本件では人格権構成は実は迂路であり、無償の通行地役権の準共有ケースとして構成すべきであったと指摘されている(池田恒男「判批」判タ九八三号(一九九八年)六三頁、六七頁)。
(26)  安藤・注(4)判評四三三号二二九頁は、大まかにいえば、人格権は個人の人格に関わる利益を侵害されない権利、つまり、人格的利益侵害を排除する権利と理解されているので、権利の存在確認の訴訟は無用であるという。
(27)  東京地裁保全研究会『民事保全実務の諸問題』(判例時報社・一九八八年)三〇五頁。
(28)  藤原・注(13)三一四頁。
(29)  石田・注(25)判タ三一四号一三三頁。
(30)  澤井・注(11)一三六頁以下、吉田・注(20)一七四頁。
(31)  仙台高判昭和五五年一〇月一四日判タ四三一号一〇四頁など。安藤・注(21)二四頁参照。
(32)  樋口直「判批」判タ七三五号二二頁、二三頁。
(33)  田中康博「判批」判評四七四号(一九九八年)一九九頁、二〇一頁。
(34)  田中・同二〇一頁。
(35)  池田・注(25)六六頁、吉田・注(20)一七四頁。
(36)  岡本・注(5)一〇頁以下。
(37)  坂本・注(24)判タ七六七号二八頁。
(38)  田中・注(9)四〇五頁。池田・注(25)七一頁もこれを積極的に肯定する。田中助教授は営業活動を含むとしつつも、接道土地を賃貸駐車場として使用している場合には、土地所有者としては請求できないとされているがどうであろうか。
(39)  岡本・注(1)一四九頁。通行の自由の内容として、通行利用者の車両通行の当否が問われる場合と、私道所有者が自己所有の私道部分を宅地内に取り込むことに起因して、法所定の幅員を回復することの当否が問われる場合がある。
(40)  瀬木・注(1)一九頁。
(41)  池田・注(25)七〇頁。
(42)  野山・注(7)ジュリ一一三七号一〇一頁。
(43)  内田・注(5)判タ八七一号五六頁、斎藤・注(9)法教二一六号九五頁、田中・注(9)四〇五頁など。
(44)  岡本・注(5)二九頁。
(45)  田中・注(5)三四六頁。
(46)  澤井裕『民法総合判例研究・隣地通行権(増補)』(一粒社・一九八七年)五二頁、同「隣地通行権と建築基準法」判評四七六号(一九九八年)一八〇頁。
(47)  大塚・注(4)ジュリ一〇四六号七七頁。
(48)  池田・注(25)六七頁。
(49)  池田・同六九頁。
(50)  池田・同七〇頁。
(51)  池田・同六九頁。
(52)  吉田・注(20)一六六頁。
(53)  吉田・同一七七頁以下。
(54)  多田利隆「判批」私法判例リマークス一八号一八頁。
(55)  安藤一郎『新建築基準法』(有斐閣・一九八九年)七八頁、澤井=東畠『道路・通路の裁判例』(三省堂・一九九三年)三七二頁。
(56)  岡本・注(1)一四七頁。
(57)  岡本・同一四六頁。
(58)  岡本・同一四七頁。
(59)  末川博「他人の土地を通行する権利」民商五巻(一九三七年)一号一〇八頁、一一四頁。
(60)  例えば、ドイツ民法一〇九〇条第一項は、制限的人役権(beschra¨nke perso¨nliche Dienstbarkeit)について定め、ある土地が個人的に利用する権限を有する者や、地役権の内容となるその他の権限を有する者による利用の負担を受けることを認め、一〇九一条は制限的人役権が原則として譲渡及び相続の対象とならないことを定める。
(61)  田中・注(9)四〇二頁。
(62)  藤原・注(13)三〇八頁、安藤・注(21)二三頁。
(63)  大判昭和二年九月一九日民集六巻一〇号五一〇頁。
(64)  最判昭和三〇年一二月二六日民集九巻一四号二〇九七頁、最判昭和三三年二月一四日民集一二巻二号二六八頁。
(65)  宮崎孝治郎「地役権の時効取得」法協四六巻(一九二八年)七号一七〇頁。
(66)  舟橋淳一『物権法』(有斐閣・一九六〇年)四三二頁、末川博『物権法』(日本評論社・一九六一年)三五六頁、我妻栄=有泉亨補訂『新訂物権法』(岩波書店・一九八三年)四二一頁、ジュリスト臨時増刊『不当産物権変動の法理』(一九八三年)一六〇頁以下。