立命館法学 2000年3・4号下巻(271・272号) 1172頁




医療過誤訴訟と医学的知識

− 因果関係の専門性を手がかりに −


渡辺 千原


目    次

は じ め に

一  医療過誤訴訟の目的と医学的知識

二  法的判断の独自性−最近の最高裁判決から−
  1  顆粒球減少症事件
  2  顔面けいれん事件
  3  非専門家による専門的証拠の評価

三  鑑定書における「因果関係」

四  専門家のプラクティスと専門知識−結びに代えて−




は  じ  め  に


  一九九九年に内閣に設置された司法制度改革審議会において、専門的知見を要する事件の対応という項目で、専門的な知見を訴訟において利用可能にする諸方策が検討されている。医療過誤訴訟もその対象として、具体的には、鑑定人、司法委員、専門参審制など、専門家を訴訟過程で積極的に活用するという提案がなされている。これを受け、二〇〇〇年一一月に出された中間報告では「専門家の適切な協力を得られなければ適正な判断を下すことができない」とし、鑑定制度の改善、弁護士・裁判官の専門化が提言されているが、専門委員、専門参審制などは、当事者の知り得ない場面で専門知識が裁判官に提供されるおそれがあり、審理の透明性が問題になりうるためなお検討を要するとされている。
  これらの専門家は、審理に必要な専門知識を提供することを求められている。専門家と専門知識の提供が結びつけられているわけであるが、専門家が専門知識を背景とする職業であるとしても、専門家のプラクティスと専門知識は即座に対応するものではない。今回の司法改革で力点が置かれているのが補充される専門知識ではなく、専門家の協力であることに注目する必要がある。専門知識を有していることと専門家を安易に結びつているようにも思われるが、専門家が関与するということは、その専門知識だけでなく、専門知識を駆使した推論過程や判断といった専門家のプラクティスの中核部分の情報をも審理の中に取り入れていくことも含意している。さらには、当該専門家のプラクティスの範囲を法廷にまで拡大し、専門家とクライアントとしての法専門家という新たな関係が形成される側面も有する。よって、専門知識と専門家をいったん切り離したうえで、専門家の審理への関与の意味を考察する必要がある。そのことによって、専門家の提供する知見に対するきめ細かな分析を行うことができると思われる。
  本稿は、医療過誤訴訟における因果関係の問題に焦点を当てて、医療過誤訴訟において医学的知識がどのように用いられているかを、近時の最高裁判決と、医療過誤訴訟で用いられた鑑定書およびそれが証拠として採用された判決文を素材に検討していく。
  医療過誤訴訟においては事実的因果関係自体が重要な争点となることが多く、医学的な問題にかかわるため、その立証や裁判官による判断が特に難しいことが問題とされてきた。
  ただし最近、因果関係の問題における事実=政策二分論は維持されていないことが論じられている(1)ほか、こと医療過誤訴訟においては、事実的因果関係の問題も過失の判断と切り離すことはできないことはすで指摘されている(2)。医師の過失の判断基準である医療水準に関しては最近の最高裁判決は、医療水準が単なる医療慣行とは異なる規範的概念であることを明示している(3)。医療水準および因果関係が、医学的な問題に深く関わることは当然としても、それらに関する裁判での判断は、規範的な問題、つまり法的な問題であるとされる。医学の専門領域に深く関わる事実的因果関係に関して、その法的判断の固有性はいかなるものなのか。専門的な医学領域に対して、どのようにアプローチすることで法的判断の正当化を行いうるのか。
  以下、まずは医療過誤訴訟の目的を確認し(第一章)で、それに対していかに答えてきたのかを、最高裁判決(第二章)鑑定=判決(第三章)を素材に、因果関係の問題についていかなる医学的知見がどのように用いられてきたのか、という観点から検討する。その上で、プロフェッションに関する社会学的研究を参照しながら、医療過誤訴訟における専門知識の意義について若干の考察を行っていきたい(第四章)。

一  医療過誤訴訟の目的と医学的知識


  第一に、医療過誤訴訟は、患者の権利確立、医療に対する行為規範の提示の機能を一定程度果たしうる。医療過誤訴訟の提起は近年急増しているが、これは患者がわの権利意識の向上、患者主権の思想の浸透の成果と考えられている。伝統的なパターナリズムを基礎とする医療モデルから、患者の自己決定権を尊重する自己決定医療モデルへという変化を反映するものとされ、法はその流れを推進する役割を果たすものとして語られている(4)
  また、医療過誤訴訟は一回的な事件の事後的な判断を行う点では古典的な訴訟モデルに当てはまるが、対象となるのが医療専門家集団の一員である医師による医療行為であるために、訴訟の結果が、医療全般に対して一定の行為規範を提示するという側面も有する。
  たとえば、法が患者の自己決定権に基づくインフォームド・コンセントの必要性(訴訟上は説明義務)というツールを提供してきており、一定の成果を挙げつつある。また一連の未熟児網膜症事件において医師の過失判断の基準とされた「医療水準」は、医師の治療法選択に影響を与えたと言われる。医療過誤訴訟の判例評釈でも判例を医療事故としての類似事例ごとに分類して、医療実務の正規化、基準提供を意図しているように思われる。直接に患者主権の医療に向けたものではないにせよ、全体として今まで専門領域としてその幅広い裁量が認められてきた医療現場に対して、患者の自己決定および最良の医療を受けることを中心的内容とする患者の権利確立(5)をめざすものと言える(6)
  医療側に行為規範を有効に示すためには、医療実践に対する実質的な評価が必要となる。判決によって、医師に行為指針を与えて事故の再発を防ぐには、医療行為と被害の間には因果的な連関が存在することが不可欠であり(7)、その因果関係の内容も医療の論理にある程度則するものでなければならない。
  第二に、医療過誤訴訟は、基本的には補償を行うことで被害者救済をはかることを主眼とするしくみである。よって、その判断に、あまり過度に行為規範性を求めることには慎重であるべきであるとの指摘もあり、当事者間の公平の観点からも原告側の因果関係の立証の負担の軽減の方策が提唱されてきている(8)。補償の論理をつきつめると、因果関係や過失を問うことなく、被害に対して補償を行う社会保障制度に向かうことになる。その場合、因果関係の内容は、医療の論理からかなり距離をおくことも許されることになるだろう。
  しかし、第三に、補償に還元できない、被害者の声への対応も医療過誤訴訟には求められている。医療過誤訴訟の原告の多くは、補償そのものよりも、事実の解明や、責任の所在を明らかにすることを強く望んでいる。不法行為の本来の機能として、補償だけでなく加害者と被害者の個別的な関係における矯正的正義としての側面があり、かつその機能が近年注目されていることも無視できない(9)
  その機能からは、加害者の過失と被害者の損害との間の個別的な因果関係を中心とする事実を明らかにする意義は大きい。被害者は医療過誤訴訟において何をどのように明らかにすることを求めているのか、という部分にも光を当て、事実解明を補償に還元することなく(10)独立して考察する必要もあるだろう(11)
  原告の描こうとするリアリティに対し、訴訟、医療がどのように働きかけていくか、という点に関する先行研究によれば、事実の解明において法的専門知識や医学的専門知識が、被害者の日常的な語りを押さえ込んでいく傾向があることが指摘されている(12)。法には個別的な体験に根ざす日常的な言説に開かれていることも求められている。被害者の日常的な語りが押さえ込まれることに対する批判も、本来法廷はそういった語りを聞き入れていくべきものであるとの主張である。和田は、交通事故で運ばれた病院で内臓破裂の発見が遅れて不慮の死を遂げた青年の両親が提起した医療過誤訴訟を素材に、患者の視点で語られた日常的言説が、法的言説と交錯し、相互浸潤するさまを描いている(13)。ここでは、医療のがわが示す医学的知識、医学的言説は専門的言説として登場し、患者の日常的言説と対置される。患者の声に対する受容性の高い法的言説を構想する場合、そこでの因果関係概念は、医療の論理に忠実であることは必ずしも必要とされない。ただし「なぜ死ななければならなかったのか、その事実を知りたい」という被害者の望みに鑑みれば、加害者の過失と被害の間の因果関係を中心とする事実を明らかにしていく意義はなお大きく、医療の専門領域に立ち入った評価を全く避けることは困難と言わざるをえないであろう。
  以上をまとめると、医療過誤訴訟の目的あるいは機能としては、患者の権利確立とそれに向けた医療への行為規範の提示、補償やそれを含んだ被害者救済、というように、それぞれに食い違いや不適合はあるものの、いずれの機能も法廷の外で想定される不対等な医師=患者関係の力関係を矯正して患者をエンパワーする形でバランスをとるものと考えられている。
  それらの目的に対して、因果関係の立証は、基本的にはなお必要である。ただし、因果関係概念の内容、それを立証する際必要となる医学的知識については、それぞれの目的に則して明確に導かれる訳ではない。これまでは医療過誤訴訟における因果関係の問題は、基本的に医療の領域に基づくが、その専門性や獲得の難しさのために、医療の論理から若干の距離をとることが、法の目的に資するとして正当化されてきたと言える。
  それでは、そこで考えられる法の論理とはいかなるものであろうか。因果関係とその立証を中心に、最高裁判決の動向を見ていくことにする。

二  法的判断の独自性−最近の最高裁判決から−

  法の論理と医療の論理が異なること自体は争いがないものの、法的な判断が医学上の判断からどの程度距離を置くことができるかについては、これまで必ずしも一貫した基準が形成されてきているわけではない。ここでは、最近の最高裁判決における医療過誤訴訟の因果関係をめぐる事実認定についての判断に注目することにしたい。
  この問題は、医学的証拠の評価ないし鑑定の評価という問題を伴って現れることが多い。ルンバールショック事件最高裁判決では、「訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的立証ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつそれで足りる」と明示して、複数提出された鑑定書の結果に依拠して因果関係を否定した原審を差し戻している。
  この判決は、民事訴訟における因果関係の証明度についても、また医学的証拠や科学的証拠の評価基準としてもリーディングケースとなっている。「通常人」を判断基準として、全証拠を総合検討した上で、真実性の確信を持ちうることで法的には因果関係の証明がなされたものと判断している。このケースについては、複数の鑑定書の結果よりも、ルンバール施術と発作の時間的近接性を重視し、またルンバール施術に不適切な食事直後に、泣き叫ぶ患児を無理矢理押さえつけて何度か失敗しながら施術を行ったといったという事情も考慮に入れて、ルンバール施術と脳出血の因果関係を認めており、医学的検討を詰めるよりも、法的な判断の固有性を前面に出したものと評価されている。
  専門家ではなく通常人を判断基準設定の主体とし、医療過誤訴訟の事実的因果関係を認めるためのメルクマールとしては、@医療行為と悪しき結果との時間的接着性A原因となりうる医療行為上の不手際B他原因の介在否定C統計的因果関係が析出されている(14)。これにより、高度に専門的な医学的事項が問題となる因果関係の立証の負担も軽減し、原告側の救済にも寄与する。当事者の紛争を公平に解決し、被害者を救済することを目的とする民事訴訟においては、こういった因果関係の立証で十分であると考えられたのである(15)
  最近の注目すべき二つの最高裁判決でも、因果関係の問題に絡んで鑑定書の評価のあり方が問題となった。若干の検討を行おう。

1  顆粒球減少症事件(16)
  本件では、原審での鑑定に基づいた事実認定に経験則違反があるとした。ただし、これは原審での鑑定書の読み方に対して異を唱えた判決であり、鑑定結果を排斥するかたちで事実認定を行ったルンバール判決とは異なる。
  風邪の治療のため複数の薬剤が投与された後、Aが何らかの薬剤がひきおこしたと考えられる顆粒球減少症にかかって死亡したという事件について、多種薬剤の投与と、死亡との間の因果関係の認定に、鑑定が用いられた。原審では、Aの顆粒球減少症の起因剤を鑑定をもとにネマイオゾンと特定した。他の薬剤について、それぞれ個別的に起因剤であるか否かの検討を行い、「リンコシンは、……起因剤としての蓋然性は低い」「ラリキシン及びソルシリンによるアレルギー反応、ケルヘチーナによるアレルギー反応並びにオベロン、バファリン及びPL顆粒によるアレルギー反応により本症が発症する可能性はあるが、……から、本症発症の原因としての蓋然性は低い。」「ネオマイゾンが、……起因剤としてはもっとも疑わしい。」とした上で、「以上によれば、本件鑑定を採用して、Aの本症は、ネオマイゾンによる過反応性の中毒性機序により発症したものと認定すべきである。」と、鑑定でもっとも疑わしいとされたネオマイゾンを単一の起因剤として特定したものである。
  それに対して、最高裁では、「本件鑑定は、同被上告人によりAに投与された薬剤を原因として四月一三日よりも前に本症が発症していた可能性を一般的に否定するものではないが、このことを科学的、医学的に証明できるだけの事実を見出すことができなかったという趣旨のもので、Aの本症発症日をどこまでさかのぼりうるかについて科学的、医学的見地から確実に証明できることだけを述べたにとどまる。」「以上によれば、本件鑑定は、Aの病状のすべてを合理的に説明し得ているものではなく、経験科学に属する医学の分野におけるひとつの仮説を述べたにとどまり、医学研究の見地からはともかく、訴訟上の証明の見地から見れば起因剤及び発症日を認定する際の決定的な証拠資料ということはできない」とする。さらに、訴訟上の証明は自然科学的証明ではないので、薬剤のうちの一つまたはその複数の相互作用が本症発症の原因であったという程度の事実を前提として被上告人らの注意義務の有無を判断することも可能であるという。
  このように、鑑定では、「可能性は低い」「蓋然性は低い」「疑わしい」というように、仮説として意見が述べられることが多い。それらの表現について、法的な評価を下す際に、それぞれ、「ではないと認めるべき。」「ではないと認めるべき」「であると認めるべき」というような読み替えを行っていったのが原審の事実認定であったといえる。本判決では、それを「鑑定のみに依拠して、ネオマイゾンが唯一単独の起因剤であり、Aの本症発症日を四月一三日から一四日朝とした原審認定は、経験則に違反したものというべきである。」とするが、この表現はいささかミスリーディングである。なぜなら、鑑定書でも、ネオマイゾンがもっとも疑わしいと述べられているのみで、ネオマイゾンを唯一単独の起因剤と結論付けたわけではないからである。よって、鑑定のみに依拠したのではなく、鑑定に依拠して安易な読み替えを行ったことが経験則違反とされたと解すべきである。
  この判決は、ルンバール・ショック判決を踏襲しながらも、鑑定結果に対して原審以上に合理的、実質的評価を行うことを求めたものと言える。
  他方で、当該鑑定については、「経験科学に属する医学の分野における一仮説」ととらえ、「医学研究」の見地においては妥当性を認めうることも含意している。つまり、因果関係の問題を、科学的、医学的な研究領域で解明されるべき問題として位置づけている。

2  顔面けいれん事件(17)
  本件は、Bの顔面けいれんに対して行った脳神経減圧手術と、その後死亡原因となった脳内血腫との因果関係が問題となった。
  手術部位と血腫の位置がきわめて近接しているわけではなかったため、手術が血腫を引き起こしたとは言えない、と結論だけを記したわずか一頁からなる鑑定書の鑑定結果に依拠し、「本件手術操作の誤り以外の原因による脳内出血の可能性が否定できないことをもって」因果関係を否定した原審に対し、破棄差し戻しを命じた。その根拠として、原審が採用した証拠、間接事実も詳細に検討して、その合理的説明を追求する。
  顔面けいれんは「それ自体、生命に危険を及ぼすような病気ではないところ」、脳神経減圧手術は「生命にかかわる小脳内血腫、後頭部硬膜外血腫等を引き起こす可能性がある」ものであり、実際に小脳内血腫を起こしており、その他の脳の病変も手術操作を行った側である小脳右半球に強く現れていること、死亡の他原因と考えられる高血圧性脳内出血を起こすような素因が認められないこと、「以上のようなBの健康状態、本件手術の内容と操作部位、本件手術とBの病変の時間的近接性、神経減圧手術から起こりうる術後合併症の内容とBの症状、血腫等の病変部位等の諸事実は、通常人をして、本件手術後間もなく発生したBの小脳内出血等は、本件手術中の何らかの操作上の誤りに起因するのではないかとの疑いを強く抱かせるものというべきである」。それに対して、原審は、手術中に偶然動脈硬化等による血管破綻が生じた可能性についての具体的立証がなされていないにもかかわらず、「本件手術操作の誤り以外の原因による脳内出血の可能性が否定できないことをもって」Bの脳内血腫が本件手術中の操作上の誤りに起因することを疑わせる諸事実を軽視し、「具体的な脳ベラ操作の誤りや手術器具による血管の損傷の事実の具体的な立証までをも必要であるかのように判示して」おり、事実評価を誤っているという。
  さらに、手術記録にある出血量の記録では、本来止血済みで出血がほとんどないはずの時間に一五〇ミリリットルの出血量が記録されていること、鑑定人の証言や診療録にも、血腫が手術部位に近い部分にも存在することが示されていること、また鑑定人や専門家の証人の証言の中には血腫は手術部位から離れた部位に発生することもあるとの部分もある。これらを根拠に、血腫の原因が本件手術にあることを否定した原審の判断には経験則ないし採証法則違背があるとする。
  特に鑑定に関しては、「鑑定は、診療録中の記載内容等からうかがわれる事実に符合していない上、鑑定事項に比べ鑑定書はわずか一頁に結論のみ記載したもので、その内容は極めて乏しいものであって、本件手術記録、BのCTスキャン、その結果に関する……各記録、本件剖検報告書等の客観的資料を評価検討した過程が何ら記されておらず、その体裁からは、これら客観的証拠を精査した上での鑑定かどうか疑いがもたれないわけではない。したがって、その鑑定結果及び鑑定人の証言を過大に評価することはできないというべきである」という。
  本件ではルンバール判決の「訴訟上の因果関係の証明は……」の表現は用いられていないが、「通常人」を判断主体として、手術と病変の時間的、部位的近接性を含む上述の諸事情から、その因果関係の肯定へと方向づけている。その上で、鑑定書の内容について他の証拠資料との整合性を検討して評価を加えている点で、顆粒球減少症事件をさらに踏み越えて、裁判官による医学的証拠に対する合理的な評価を求めている。
  このように、顆粒球減少症事件、顔面けいれん事件は、ともに、ルンバール判決を基本的に踏襲しながらも、通常人を基準とする時間的接着性や他原因の不存在などの基準による判断は、因果関係を認めていくための大きなふるいとしての機能を持たせるにとどめている。そして鑑定書の合理的な検討、診療録など他の医学的証拠との整合的解釈をも裁判官に求めており、法専門家が専門家の見解や医学的証拠に対しても合理的な評価を行った上で、その妥当性を判断することに、法固有の判断のあり方を見いだしていく方向を示していると言える。
  ただし、そのことによって、かえって「科学鑑定のディレンマ(18)」の問題が浮き彫りになることは否定できない。アメリカ合衆国でも、一九九三年に出されたダウバート連邦最高裁判所判決において、科学的証拠の許容性の判断基準として、証拠の科学的妥当性を提示し、その判断を裁判官に求めた。科学的証拠の評価、専門家証人の評価の問題はその後盛んに論じられている(19)。ブリュアは、非専門家が専門家の証言を評価する際に用いる推論メカニズムにまで踏み込んで、科学的な専門家証言への評価を非専門家が行っていく法システムのあり方を批判的に検討しており、本稿の関心からも有用な示唆を与えている(20)
  そこで、次節においてブリュアの議論を参考に、本節で取り上げた二つの最高裁判決をさらに検討し、問題を整理したい。アメリカ合衆国の動向にも明らかであるように、異分野の専門領域の事柄に対して、法がその領域の論理から距離のある独自の判断を行うことでは、もはや判断の正当性が維持できなくなっていることは間違いない。他方、裁判官の判断の高度化でその問題に対応するという方向性は、究極的には法専門家である裁判官に対し、科学の専門家たることまで要求することであり、ディレンマをかえって深刻化させるものである。
3  非専門家による専門的証拠の評価
  ブリュアは、次のような問題意識から出発する。すなわち、「法の支配」の理念には、決定プロセスは知識上(epistemic)の観点から恣意的であってはならない、という規範が埋め込まれている。ブリュアはこのことを、知的デュープロセス(intellectual due process)と呼ぶ。ただし、訴訟上問題にしているのは、実際上は科学的知識そのものではなく、十分な理由によって裏付けられた判断、すなわち正当化された信念(justified belief)であり、これを提供するのが専門家証言である。さらに専門家証言の内容の評価と、専門家の信頼性への評価も区別したうえで、ブリュアは、科学の非専門家である法律家が、専門家の証言を評価する際に用いる推論メカニズムを四つ提示し、それぞれに検討を加える。
  第一に、裁判官が科学的証拠の内容を科学的文脈に即して実質的に判断する。第二に、合理的な証拠上の裏付けをもとに一般的な法則を用いた判断(using general canons of rational evidentiary support)を行う。つまり、提出された証拠の論理的矛盾などをもとにその是非を判断する。第三に、専門家証人のふるまいなどからその信頼性を判断する。第四に専門家としての認証、つまり、専門家証人の学位や専門分野(credential)からその信頼性を評価する。前二者が科学的証拠の内容の評価、後二者は証人に対する評価に対応する。
  ブリュアは、法システムは、少なくとも第一の実質的判断を要求しているようであるが、これは非専門家である裁判官に対してあまりに高いハードルを課しており、結局は実質的判断を行ったかのような表面的装いのもとに、第三や第四の、専門家のふるまいや認証による判断に転向していきやすいため不適切であるという。
  日本の最高裁の動向も、鑑定や医学的な証拠に対して実質的な判断を行うことを裁判官に求めている点から、基本的には科学的証拠への実質的判断を要求してきていると言える。そして、実際にブリュアが懸念するように、鑑定書の実質的評価を行うことなく、選任の際のスクリーニングで事たれりとして鑑定結果にそのまま依拠する形の判決が多く出てきている。顆粒球減少症事件、顔面けいれん事件の原審は、まさにそういう判決であったし、筆者の検討したところでも、鑑定書に依存して書かれた判決は少なくない(21)。よって、専門的な証拠を重視することを前提にその実質的判断を求めると、かえって鑑定結果への依存を招きかねない。よって、非専門家が用いることのできる推論メカニズムを前提にした評価のあり方を明示化する必要がある。
  顔面けいれん事件では、鑑定書の中の矛盾やその他の証拠との整合的説明を根拠に、鑑定に対する評価を行っており、ブリュアの分類では第二の方法を示唆し、そこに法的判断の独自性と合理性を求めていこうとしているように思われる。しかし、ブリュアは、実際には証拠法則や、証拠間の矛盾などから科学的証拠を評価できる場合は限られているおり、その射程は実はそれほど大きくないと指摘している。
  ブリュアはこの問題を緩和するには、第四の、証人の認証の評価に代替するのが最も容易で合理的な選択であるとしつつも、実際には対立する専門家証言が提出された場合には対処できないし、現実に法システムが裁判官に科学的証拠の実質的判断を求めていることからも、専門家証言の評価についての法律家の役割を専門家証人の信頼性の評価には還元できないという。結局は裁判官に科学的な知識を一定程度要求せざるをえない。
  ブリュアは、知識的に恣意的な推論プロセスでは正統な結論を生み出すことができないという法システムからの知的デュー・プロセスの要請を抽出した上で、これを出発点として専門家証言の評価の問題を検討する。ブリュアのいう知的デュー・プロセスの要請は、わが国の最高裁判所が強調する「事実認定について精密さ」「実体について真実の発見という強い要請がある」との主張にも重なるであろう(22)
  しかし、逆に考えれば、なぜ科学的証拠の合理的、実質的判断という形のみがそういった知的デュー・プロセスの要請を満たすものと評価されているのか、その合理的な根拠を問題にすることも可能だろう。たとえばケスターは、科学における因果関係概念と法における因果関係概念は、同じ言葉を用いていてもその内容は異なるため、科学における因果関係の主張がいかに行われ、科学的知識がいかに構築されているかという科学の営みに目を向ける必要があることを指摘する(23)。このような視点を持てば、科学的証拠を科学的文脈に位置づけて評価する、ということの意味も、厳密な真相究明とは異なりうるものとしてとらえる可能性も出てくるはずである。
  もっともブリュアは科学的知識を問題にする場合も、実際上は専門家により提供される、正当化された信念であることをはじめに指摘している。この時点で、判断対象は専門知識から、専門家に焦点が移されているのである。このことは、程度の差はあれ、専門家への概括的な信頼を判断の正当化根拠に組み込んだことも意味する。概括的な信頼は、不可避的に専門家のふるまいや認証の判断に向かう傾向を持つ一方で、専門家の提供する情報の文脈に応じた位置づけの評価を省略させる方向にも働きうるだろう。さきに検討した顆粒球減少症事件の原審での鑑定書の結果の受容も、鑑定結果の表現を強引に法的なオール・オア・ナッシングの形に読み替えを行おうとしたものであった。後述するように、医療過誤訴訟においては、医療の問題をはじめから精密な科学の問題としてしまうことで、かえって医療に対して適切な方向付けや判断を行うことを困難にしているように思われる。
  医療が患者の問題への対応を中心とする医療専門家のプラクティスからなることに注目すれば、医学的知識に焦点を絞るよりも、医療専門家のプラクティス全体に目を向けた上で、逆に必要な専門知識の意味を探るほうが望ましいだろう。
  鑑定の評価の問題を軸として医療専門家に目を向ける場合、二つの観点から医療専門家のプラクティスをとらえることができる。臨床医療の現場における通常の医療専門家のプラクティスと、それを背景として法廷での証言や鑑定書を通じて行われる鑑定のプラクティスである。鑑定のプラクティスは、鑑定人の選任後、法律専門家が提示した鑑定事項に対して、鑑定人である医療専門家が鑑定結果、鑑定理由を述べる形で行われ、さらにそれを法律専門家が評価する。よって、鑑定のプラクティスは、法律専門家と医療専門家の相互作用としての意味づけも有する(24)
  次に、鑑定自体が、医療専門家のについて、医療専門家のプラクティスをなしていることに留意しながら、現実に医療過誤訴訟で用いられた鑑定書において因果関係の問題がいかに扱われているかを中心に検討していく(25)

三  鑑定書における「因果関係」


  医療過誤訴訟において、事実的因果関係の問題は、法の問題であるとはいえ、基本的には専門的な医療専門領域の問題ととらえられている。鑑定でも、因果関係はしばしば直接的に問われている。因果関係は医療専門領域の医療専門家が答えるべき問題であるとの法専門家の意識を反映していると言える。
  それに対して、鑑定では、明確な回答を避け、または因果関係について判断することができないとするものが多い。しかし、その理由は必ずしも医学的証明が一点の疑義も許されない自然科学的立証が必要であるためばかりとは言えない。
  まず、必要な診療録、看護記録、必要な検査結果(たとえばCTスキャンやMRIなど)がないために判断することが困難になっているケースが少なくない。これには、そもそも必要な記録や検査が行われていないという医療側の不作為が問題になりうる場合と、鑑定の依頼に際して必要な情報が添付されていない場合がある。後者については、鑑定を依頼する側の問題であり、司法改革に際しても鑑定人リストの整備だけでなく、鑑定の依頼の行い方についての改善も求められるところである。また、両方の問題にまたがるものとして、解剖所見がないために因果関係を明らかにすることができないという回答が複数あった。医療における病因、死因の解明のもっとも有力な手がかりである解剖なしに、病因や死因を特定することはできないというのである。病理学的な因果関係を念頭に置くと、医療の立場からは解剖所見なしに見解を述べるのは難しい。では、因果関係についての医療の論理に則した判断を確保するために、剖検を勧めるべきなのだろうか。医事紛争が訴訟に持ち込まれた段階ではそれが不可能になっていることが通例であるほか、患者の側に医師への強い不信が生じた場合、遺族は解剖の申し出に対して否定的になりやすいと言われる。法専門家も、それを前提として因果関係について尋ねている以上、解剖学的な所見を求めているわけではないようにも思われる。因果関係をめぐる法の論理と医療の論理の相違は、統計学でいう有意度の差のように直線的に把握しうる程度の差として捉えられるものではなく、むしろこのような状況下において質的に異なるアプローチを容れるものなのではないのだろうか。
  ただし、それが医療の厳密性を何らかの意味で緩和するというものなのか、という点についてはさらなる検討を要する。鑑定のなかには、因果関係にかかわる問いに対して、なすべき医療行為との対比から答えるものが見られることに注目したい。
  交通事故で運び込まれた病院で外傷の治療のみを受け、退院後骨折の治療を開始したものの遅きに失して右足に後遺症が残ったという事例で、「……治療と原告の後遺症との間には因果関係があるか」との鑑定事項に対して、「因果関係あり」と答え、その理由として「……距骨骨折は可能な限り解剖学的な整復を行うのが治療の原則である」と、治療の原則を怠ったことを第一の理由としてあげた後、資料から判断できる後遺症の内容にばらつきがあるために「最も重要な日常生活上の後遺症が……(治療)とどの程度の因果関係にあるかは不明である」とする。ここでは、因果関係の判断を、なすべき治療行為との対比において行っている。判決では、鑑定に則して医師の過失を認めた上で、鑑定について「因果関係を否定する趣旨ではない」としており、鑑定尊重型の判断を行ってる(26)
  また、盲腸炎の診断が遅れて、汎発性腹膜炎を起こし、手術をするもおそらく敗血症を起こして不穏状態となり死亡に至った事件(27)で、初診の際に「虫垂炎を発見することは可能であったか」との鑑定事項に対して、医療行為においては患者が命を失うような状況を回避するのが原点であるので、腹痛を訴える以上、その原因が虫垂炎か胃炎かといった鑑別を行うことが第一義なのではなく、腹膜炎の可能性を考えて外科的な治療法を選択肢に入れることが必要である旨回答する。
  この事例では、不穏状態は敗血症性のショックと考えられるかどうかという問いに対しても、「これらが単一の原因に起因するとの前提に立ち、敗血症によるか、あるいはそれ以外かについて鑑別、特定し、確実な判断を下すことは、不可能とするのが常識的な判断であると考える。しかし本事項で重要な点は、原因の同定を為し得たか否かではない。問題となっている状態に対して、その原因として想定し得る不特定多数の原因のうち、より重篤なもののいくつかを治療医が念頭におき、これらに対して十分な監視体制をとり、その監視結果に基づき臨機応変に加療を施したか否かが争点とされるべきである」。ここでも死因が敗血症かどうかについては、血液培養の結果では明らかでなく死後の剖検もなされていないから確定できないが、敗血症を想定して診療に当たるべきであったことは明白であるという。この場合、事実的因果関係の問題設定そのものが、審理対象である医療実践と必ずしも対応していないと言える。医療過誤訴訟で問題にすべき争点を、因果関係の問題に翻訳する際に、専門的な医学的知識の問題に移し替えてしまっている。医学研究に基づきながらも、不確実な状況のもとで診断、治療法の選択に迫られている医療実践において生じた問題で明らかにすべき真相は、これまで医療過誤訴訟で明らかにしようとしてきた事実であったのかは疑わしい。
  この事例では、判決においても、鑑定結果を引用し、虫垂炎の鑑別ができなくても腹膜炎の可能性を考えて手術適応を判断する注意義務はあったとし、診療の際には重篤な疾病を予測して重篤な結果を回避するように治療方針を立てていくべきという見解に基づいて医師の注意義務違反を認めている(28)。このように、この事例は鑑定にかなり依拠した受容型判決である。鑑定書の指摘を受けて、厳密な死因特定にこだわらず医療行為の問題点をもとに医師の過失を判断している。
  ただ、この鑑定で指摘されるように、法律家が立てた鑑定事項は、病理学的な因果関係であり、医師の行為を評価するのに必ずしも必要のないものであったとも考えられる。もしこの鑑定が鑑定事項に忠実に、「利用できる情報からは死因の特定は難しい」という鑑定結果を出し、かつそれを受容して判決を書いた場合、結論は逆転していたおそれがある。実際に、可能性の高い原因を挙げつつも死因を特定することができないという鑑定結果に基づいて、因果関係を否定し、原告の請求を棄却した事例も少なくない。左肺動脈弁狭窄症の既往歴のある妊婦が陣痛時に脳内出血を起こして死亡した事例において、「本件脳内出血の原因として考えられるものは何か。」の鑑定事項に対して、「本件脳内出血の原因として考えられるものは高血圧性脳内出血(妊娠中毒症性脳内出血)と、脳動静脈奇形または脳動脈瘤の破裂の可能性が最も高いが、両者のどちらであるかを確定することは不能である。」と結論を出した後(29)、理由中では「本症には極めて急速に増悪した重症妊娠中毒症が存在した可能性が高い。」としている。判決はそれを受けて、「本件においてはCの脳内出血が重症妊娠中毒症から発症したものと確定することはできないのであるから、右予見義務があったとしても、その義務違反とCの死因とは因果関係はないことになる」という因果関係の判断を行っている。これは、二章で検討した顆粒球減少症事件の最高裁判決が破棄、差し戻すに至った原審での判断と同様であるが、これは多くの医療過誤訴訟の現状でもある(30)
  これらの事例から、読みとれることを試論的に述べておきたい。
  第一に、因果関係について直接問う鑑定事項が多いことからも伺えるように、法専門家は、医療過誤訴訟における因果関係の問題を医療の領域の事柄として、鑑定人の判断に譲ろうとする傾向が見られる。その際、医療専門家には、そこから即座に答えを引き出すことのできる医学的専門知識を有していることが前提とされている。
  しかし、第二に、その問いに対して医学的に答えるためには病理学的な検討を要するため、訴訟の時点で利用可能な情報からそれを明らかにするのは困難なことが多い。そして、この困難が通常、訴訟上の証明と対比され、その緩和が検討されてきた、医学的証明の厳密性であったと言える。これは、従来、医療の専門性の問題として、医療の領域に帰されてきた問題である。
  ところが、第三に、鑑定のなかには、因果関係の問いが求める死因や被害発生の機序の解明は医療行為の評価にとっては付随的な問題であるとするのもや、なすべき医療行為がなされなかったために起こった被害には、厳密な証明抜きに因果関係を認める判断を下すものが見られる。つまり、医療の論理からはその追求が必ずしも不可欠ではない、病理学的な因果関係の解明を、法の側が求めていると考えられるのである。
  医療の論理と法の論理の相違は、ルンバールショック事件以来、法の論理が医療の厳密な科学性を緩和し、患者の権利を保障する方向で作用するものとして捉えられてきたが、実は逆で、法の論理が厳密な医学的証明を要求してきたと言えるのではないだろうか。これは、ブリュアのいう知的デュー・プロセスの要請とも言える。ただし、医療実践の評価において、医療専門家が要請していない厳密性を要求しているとすると、改めてその正当性が問われることになるだろう。医療の専門性が、法廷における当事者の日常的な語りを疎外する方向に働くことが指摘されているが、医療の問題を厳密な証明を要する医学的知識の問題にしているのは、医療からの要請ではなくむしろ法の要請なのである。
  第四に、判決においては、因果関係に対して情報不足で答えられないとする鑑定に対しても、なすべき医療行為のあり方を基準として答える鑑定に対しても、その結論に依拠して判断を下している。判決での因果関係の判断のあり方は、鑑定人がいかに答えたかに左右されており、法専門家が実質的な評価を下しているとは言い難い。因果関係と過失の融合や、因果関係に政策的判断が入り込むとの指摘は、法的な因果関係概念の独自性として語られているが、医療過誤訴訟の判決の中には、鑑定への依拠の結果にすぎないと思われるものも少なくないのである。
  このように、厳密な医学的証明を求める一方で、短絡的に医療専門家の判断に依拠するという傾向が見られるのであるが、いずれも第一章で検討した医療過誤訴訟のどの目的に照らしても是認し難い。
  こういった傾向が生じる原因としては、ブリュアのいう知的デュー・プロセスの要請、すなわち医療といった分野に対してもその論理に従った合理的判断を要するという法的要請を前提に、その合理性の担保として、医学的知識に基づく合理的根拠付けと、医療専門家による判断を同一視しているところにあるように思われる。結局は、法廷において、法律家は専門家支配を受けているとも評されうる。現在の司法改革の議論では、最高裁判所も専門家の関与に対しては比較的安易にその受け入れを認めていこうとしているが、裁判官の事実認定権能の正当性をいかに維持するかという重大な問題にかかわることに対する危機感は薄いように見受けられる。専門家の協力によって審理に必要な専門知識の提供を受けることが提案されているが、残念ながらこれまでのところ、審理に必要な専門知識を、評価対象である医療実践の中に相対化して認識する視点は不十分であったと言わざるをえない。
  医療過誤訴訟が、医療専門家=患者の力関係の温存ではなく、患者をエンパワーすることを可能にする機能を果たすには、医療過誤訴訟において法専門家が医療の専門性の意味に無批判であることは許されない。医療過誤訴訟を過度に専門的な知識の争いにしているのは、法律家による医学的知識の専門性の措定であることに鑑みれば、専門家のプラクティスを専門的なものにしているメカニズムに目を向けていくことが、その問題を解く一つの鍵になりうるのではないかと考えられる。
  そこで、専門家のプラクティスと専門知識の関係を視野に入れて、専門家の仕事の分析を試みたアンドリュー・アボットのプロフェッション研究(31)を参考にして、医療過誤訴訟における医学的知識の意義について若干の考察を加えることで本稿の結びに代えたい。
  これまで専門知識と専門家は当然のごとく結びつけられてきたものの、実際には専門知識を専門家のプラクティスの中に位置づけた分析は欠いていた。素人は専門知識を有しないため、それを有する専門家に依拠せざるをえず、それに対して専門家は自律性を有する代わりに高度な職業倫理が要請されるという図式的な説明が中心で、専門知識そのものは自明のものとされてきた。しかし、それは「専門知識がないので判断できない」という図式をそのまま社会学研究にトレースするものであり、近時は専門知識そのものの構築も社会学的な分析対象とされつつある。医療過誤訴訟が、医療とは独自の目的を持って医療実践を問題にする以上、そこで用いられる医学的知見の意味に対してはことに自覚的である必要があろう。そこで、専門知識を専門家のプラクティスとの関わりで位置づけを試みる社会学の成果は、示唆を与えるものと考えられる。

四  専門家のプラクティスと専門知識−結びに代えて−

  アボットは、専門家のプラクティスに注目し、専門家が専門家たりうるメカニズムを明らかにしようとする。アボットは、いわゆるプロフェッションを、何らかの抽象的な知識を特定の事例に応用することを業とする職業集団、と広く定義付け、ある職業が専門家として行う仕事、およびそれによって自らの職業を他の職業に対して専門家として維持するプロセスに注目する。ある専門家が自らの仕事の対象とする領域を管轄(jurisdiction)と呼び、専門家はこの管轄をめぐってせめぎ合い、仕事の領域を確保、拡大している。
  専門家が扱うのは個人の疾病や紛争などの問題であり、専門家は、そういった問題に診断(diagnose)を下し、それに対していかなる対応をすべきかの推論(infer)をもとに、対処(treat)する。アボットは、こういった仕事(work)に注目するが、プロフェッションの特徴として、これらの仕事を支える形式化した抽象的な知識システムを有していることを挙げる。知識システムは、専門家としての力や威信を支えているが、その抽象性、論理的一貫性、合理性、体系性、科学性が専門家の仕事を正統化する。知識システムは、専門家が行う具体的な診断、推論、対応に対して情報を与え、またそこから与えられた情報をもとに成立しているが、知識システムの抽象性、体系性を維持するのはそういった実践とは区別される学術的な基礎研究であり、それ自体で一応完結している。このこと自体は、法や医療にとって特に新しいものではない。医療について、医療実践と医学研究は一応区別されうる。アボットの議論は、これらを分節した上で、それぞれの専門性がいかなるもので、いかに維持可能かを明らかにしようとした点にその独自性がある。
  現実のプラクティスである診断、対処を結ぶのが推論であり、診断と対処の関係が不明瞭な場合に駆使され、この部分が専門家のプラクティスの核となる。専門家の秘技に当たる部分であり、この部分があまりないルーティンワークでは他の職業の攻撃を受けやすくなるし、逆にすべてが個性ある推論を要求するものであるとすると、社会的非難を免れない。プロフェッションが管轄を維持するには、その診断、推論、対応の部分もある程度客観的で一般化可能であることを必要とするが、あまりにその程度が高いと形式的に過ぎ、他の職業の参入を許すし、あまりに具体的個別的だと、専門職としての正当性を維持できない。抽象性と具体性の均衡点に、専門家としての仕事の成功点があるという。つまり、専門家の仕事の専門性を維持するのは、必ずしもその背後の客観的体系的な専門知識だけではなく、それを個別事例に当てはめるプラクティスの部分でもあり、その部分においても全くの個別的、直観的な判断では専門性を維持できないことを指摘するのである。
  以上が、アボットの議論の簡単なまとめである。アボットの議論は、専門家の範囲を広くとらえているが、専門家のモデルとして医療専門家や法専門家を念頭においていることは容易に見て取れる。そこでいう成功とは、専門家としての管轄の維持、拡大であるため、それが疾病の治癒、紛争解決といった仕事の成果とは直接かかわりないことは言うまでもない。しかし、この議論は医療過誤訴訟で俎上に上げる医療実践の専門性を考察する上で重要な視点を与えている。
  まず、医療専門家のプラクティスを分節し、専門知識もそれとの関係で位置づけることにより、その専門性や排他性の所在を細やかに分析することが可能になる。医療過誤訴訟において必要となる専門的知見は、医療専門知識と目される傾向があったが、実際には個別事例に対する医療専門家の診断や推論、対応といったプラクティスの部分であることに自覚的であるべきだろう。その部分は、専門知識に比すると客観性が薄く、外部からのアクセスが困難となる傾向があり、医療過誤訴訟における鑑定依存を生む原因のひとつとなっていると思われる。実際に医師=患者関係をなしているのは、診断、推論、対処の部分であり、医療過誤訴訟が患者のエンパワーを目指すのであれば、この部分に対する切り込みが不可欠である。最近は、この部分に関しては、医療のがわも患者の精神面のケアも考慮に入れて身体の部分から患者の意思、情緒的な部分も含めて総合的に判断していく方向性も主張されつつある。こういった医療実践のなかの多元的な声も法実践に媒介することが必要であろう。
  また、形式性、客観性の薄さは、外部からのアクセスを困難にするが、しかし、それは全くの「秘技」では専門家として存立しえないし、そこで行使される専門性は法的に尊重すべきものであるとも限らない。例えば、専門家=素人関係における専門性や素人の疎外は、専門知識そのものよりも他の専門家とのコネクションの示唆や患者の声の無視といった要素に強く現れているとの研究もあり(32)、また、診断は患者から提供される情報に依拠していること、さらには専門知識の形成にも素人がかかわっていることの指摘もある(33)。これらの研究は、決して専門家の排他的判断を当然の前提とする必要がないことを物語っている。
  そして、専門家が専門家たりうるために必要な一般性、客観性を梃子に、法律家による医療へのアクセスを推進していくことも可能なことが指摘できる。アボットは、プラクティスの部分についても専門性の達成には客観性と具体性のバランスが重要であること、それを達成するための診断や推論の標準化が常に外部からのアクセスの危険にさらされる、危ういものであることを指摘している。それにもかかわらず、専門家は、自らの仕事の正当性を維持するために専門知識の体系化、仕事の客観化の要請に答える必要がある。医療の科学性は法律家にとってはアクセスしがたい専門知識としてとらえられやすいが、むしろ法律家にとっても患者にとっても医療実践の評価を可能にするものである。最近の医療におけるEBM(evidence−based medicine、根拠に基づいた医療)の主張(34)は、臨床における直観的な判断の積み重ねで構築される医療プラクティスから、科学的根拠に基づいて最適な医療・治療を選択、実践していく医療への提唱であるが、これは患者にとっても法律家にとっても医療実践を評価するツールを与えるものと評しうる。
  また、アボットが分析の鍵として提示するプロフェッションの管轄概念は、法専門家と医療専門家がある種せめぎ合うことになる医療過誤訴訟のプロセスに対しても一つの視角を与えるものと言える。審理に医療専門家が関与する場合、法専門家との役割分担が論点となる。医療専門家は法廷での審理を自らの専門職の仕事の場として積極的な主張を行っているわけではないが、法専門家にとっては自らの職場に他の専門家の関与を要請している点で、アボットのいう管轄の明け渡しになりうることは間違いない。今のところ、法律家による最終的な判断を高度化することで、この問題に対応しようとしているが、その判断の固有性に対して十分な根拠付けができているとは言い難い。
  最高裁の提示してきた、因果関係についての法的な判断の科学的、医学的合理性の要請自体、アボットがいう診断における一般性、客観性の要請に答えて法実践の専門性を維持しようとする営みと評価しうる。しかし、医学的証拠に対する医学的に妥当な評価をすることができるという意味での法専門家の専門化では、この問題に十分に対応することは難しいだろう。
  法医療の専門性に対しても、そして法の専門性に対しても、その意味について多元的な検討を要する時期に来ているように思われる。アボットの議論を含め、これまでのプロフェッションや医療に対する社会学的研究も、こういった問題に対して部分的にせよ一つの視角を提供しているということを指摘してこの小稿の結びに代えたい。

(1)  水野謙『因果関係概念の意義と限界』(有斐閣二〇〇〇)。
(2)  稲垣喬「診療過誤」前田達明ほか編『医事法』(有斐閣二〇〇〇)第四部第三章など。
(3)  一連の未熟児網膜症事件の判決において、光凝固法が水準的医療となった時期をめぐり、医師の過失判断の基準として形成されてきたが、これは医師に対して非常に厳しい問診義務を課した輸血梅毒事件からは、医療慣行を是認する方向にシフトする契機ともなった。昭和五〇年を境に画一的に光凝固法の施行を医療水準の基準として判例が定着してきたが、平成七年六月九日最高裁第二小法廷判決民集四九巻六号七〇頁は、未熟児網膜症に関する医療水準について、すべての医療機関について一律に決せられるものではなく、当該医療機関の性格、所在地域の医療環境の特性などの諸般の事情を考慮すべきであるとした。そして麻酔事故に関する平成八年一月二三日判決民集五〇巻一号一頁は、「医療水準は、医師の注意義務の基準(規範)となるべきものであるから、平均的医師が現に行っている医療慣行とは必ずしも一致するものではなく、医師が医療慣行にしたがった医療行為を行ったからといって、医療水準に従った注意義務を尽くしたと直ちにいうことはできない。」と、医療水準が単なる医療慣行とは異なり、規範的概念であることを明言した。相次いで出されたこれらの最高裁判決は、これまでの医療水準論の質的転換であるとか、最高裁レベルでの医療水準に関する「新たな動き」と評される。ことに、平成七年判決では、新規の治療法の普及に要する時間の差異の認識、およびそれを医療水準に組み込む根拠に、当事者の診療契約に際しての医療機関への期待を挙げており、医療水準の規範性、さらにはその規範の内実を考慮するのに、患者の期待や要求を組み込む動きである点にその質的な転換のポイントがあるという。そして、これらの判決をもって、「『医療水準』には医学的・科学的な判断や医療の実態・常識だけでなく、我々一般人の判断や常識、患者側の期待や要求といった要素が組み込まれることに」なったのだという評価もなされている。以上について、寺沢知子「医療水準の相対化と『医療水準論』の質的転換」阪大法学四七(一九九七)、山口斉昭「『医療水準論』の形成過程とその未来」早稲田法学会誌四七巻(一九九七)および伊藤文夫・山口斉昭「医薬品の添付文書、医療慣行と医師の注意義務」判例タイムズ九五七(一九九八)参照のこと。
(4)  例えば高橋涼子「患者からユーザーへ」『岩波講座現代社会学一四病と医療の社会学』(岩波書店一九九六)。
(5)  患者の権利について、池永満『患者の権利』(九州大学出版会  一九九七)、前田達明、稲垣喬、手嶋豊執筆代表『医事法』(有斐閣二〇〇〇)、第二章など参照。
(6)  例えば、ヴィーチが提唱する信頼を基礎とした契約モデルの提唱もある。ここでいう「契約」は法的な契約関係とは全く異なり信頼にもとづいた患者による意思決定が重点にあるという指摘が田中伸司「患者−医師関係」今井道夫、香川知晶編『バイオエシックス入門第二版』(東信堂一九九五)でなされるが、そもそも日本の医療過誤訴訟で患者の自己決定権の問題について契約構成される際の契約が、当事者間の現実の合意形成、信頼関係に基づかない契約概念であり、義務や責任を基礎づけるために用いられる点でアメリカのそれとは異なり、契約法理が患者の希望を容れる治療法選択を促進するような法理として働く素地が欠けていることを指摘する。樋口範雄「医師患者関係と契約」棚瀬孝雄編『契約法理と契約慣行』(弘文堂一九九九)。本稿では、基本的に不法行為訴訟としての医療過誤訴訟を念頭においているが、医療過誤訴訟でなされる契約構成が訴訟外の医療プラクティスに影響を与えにくいという指摘は、行為規範形成機能の限界を一層画するものと言わざるをえないだろう。
(7)  この場合、平井宜雄『現代不法行為理論の一展望』(一粒社一九八〇)は、個別事例における因果的連関だけではなく、一般的な蓋然的な関連を要するとの指摘するが、蓋然的因果関係の存在は、医療の論理に従った因果関係に包含することが可能であるため、さしあたりここでは区別をしない。
(8)  一応の推定、間接反証などを挙げることができる。
(9)  吉田邦彦「法的思考・実践的推論と不法行為『訴訟』−アメリカ法解釈論の新たな動きを求めて−」ジュリスト九九七、九九八、九九九(一九九二)、浅野有紀「不法行為法と矯正的正義」法学論叢一三六−一、一三七−四(一九九四−一九九五)。
(10)  不法行為が金銭賠償原則をとることによって、損害を商品化することが、日常的な道徳意識と乖離していく危険性について、阿部昌樹「法的思考様式と日常的道徳意識−不法行為法における金銭賠償の原則をめぐって」棚瀬孝雄編『現代の不法行為法  法の理念と生活世界』(有斐閣一九九四)。
(11)  渡辺千原「医療過誤訴訟と専門家−「真相の解明」の観点から」月刊司法改革一一号(二〇〇〇)。
(12)  例えばブフニアックは、アメリカの最高裁での裁判過程を分析し訴訟は、患者の知識よりも医学的知識を重視し、患者の声を疎外していくことを指摘している。Susan M. Behuniak, A CARING JURISPRUDENCE (Rowman & Littlefield 1999). 人工中絶を禁止する州法の合憲性が問題となった Roe v. Wade 事件を例に挙げて、法規範のうちには患者の知識よりも医学的知識を促す役割を果たすものがあること、客観性を重んじるあまり、ケアの観点が抜け落ちることを指摘する。法的推論の形態は、客観性を重んじるため、客観性の高い医学知識は歓迎され、他方患者の個人的な経験は聞き入れられにくい。医学的推論と法的推論がともに論理的展開に基づき、客観性を重んじるという共通性、親和性を持つことがその原因であることを指摘し、ケアの倫理も組み込み、患者の知識に対して耳を傾けるような裁判のあり方を提唱している。
(13)  和田仁孝「法廷における法言説と日常的言説の交錯−医療過誤をめぐる言説の構造とアレゴリー」棚瀬孝雄編『法の言説的分析』(ミネルヴァ書房二〇〇一)。早期の和解で最大限の賠償額を得ることを原告のためと考える原告側弁護士、過大な賠償額を貪欲に求める原告像を描こうとする被告弁護士が原告の声を法的言説空間のなかで抑圧していくものの、その後弁護士を解任して原告が本人訴訟の中で、必ずしも論理的とは言えないものの「親の子をみるまなざし」というアレゴリー的位相に支えられた陳述書提出、証言を行う中で、その説得性を法廷の中でも達成していき、最終的には勝訴をおさめる。
(14)  川井健、春日偉知郎  判例評釈  判例タイムズ三三〇。近年ではCの統計的因果関係の重要性が増していることも指摘されている。中村哲  「医療事故訴訟における因果関係について−疾病を前提とする医療行為を中心にして−」判例タイムズ八五八(一九九四)二四頁以下。
(15)  たとえば薊立明、中井美雄編『医療過誤法』(青林書院一九九四)、一一一頁。
(16)  平成九年二月二五日民集五一巻二号五〇二頁。
(17)  最判三小平成一一年三月二三日判例タイムズ一〇〇三号一五八頁。この事件については稲垣喬、民商法雑誌一二一−六(二〇〇〇)新見育文  私法判例リマークス二〇〇〇(下)に判例評釈がある。
(18)  中野貞一郎「科学鑑定の評価」、中野貞一郎編『科学裁判と鑑定』(日本評論社一九八八)。
(19)  渡辺千原「事実認定における『科学』」民商法雑誌一一六ー三、一一六ー三=四(一九九七)参照。
(20)  Scott Brewer, Scientfic Expert Testimony and Intellectual Due Process, 107-6Yale Law Journal1535, (1998).
(21)  渡辺千原「医事鑑定の語るもの−医療過誤訴訟にみる医療と法−」棚瀬孝雄編『法の言説分析』(ミネルヴァ書房二〇〇一)(以下、渡辺「医事鑑定」とする)。
(22)  最高裁判所「二一世紀の司法制度を考える」(一九九九)。
(23)  Charles Kester, The Language of Law, the Sociology of Science and Troubles of Translation:Defining the Proper Role for Scientific Evidence of Causation, 74Nebraska L. Rev. 529 (1995).
(24)  渡辺「医事鑑定」においてこの視点を説明しており、本稿は基本的にその視点を踏襲している。
(25)  渡辺「医事鑑定」で検討したのと同様、医療事故情報センターが発行している鑑定書集第一集−第一一集と、その鑑定書が用いられた事件の判決文を利用できる範囲で素材とした。
(26)  浦和地裁川越支部昭和六〇年一月一七日。判例時報一一四七号一二六頁。
(27)  鑑定書集七ー一三。
(28)  横浜地裁平成六年一二月二六日判決(判例集未搭載)。
(29)  鑑定書集七ー一。
(30)  渡辺千原「医事鑑定」で検討したところ、五四件のうち、四五件までは鑑定結果を受容しており、またほとんど鑑定結果に依存して書かれた判決も少なからず見られた。
(31)  Andrew Abbott, THE SYSTEM OF PROFESSIONS (The Uviversity of Chicago Press1988).
(32)  弁護士=依頼者関係の文脈では、たとえば John Flood, Doing Business:The Management of Uncertainty in Lawyers' Work 25-1Law & Society Review 41 (1991).
(33)  たとえば、Helen Busby, Gareth Williams and Anne Rogers, Body of Knowledge:Lay and Biomedical Understanding of Musculoskeletal Disorders, in Mary Ann Elston ed., THE SOCIOLOGY OF MEDICAL SCIENCE & TECHNOLOGY (Blackwell1997).
(34)  一〇年前に、アメリカで根拠に基づく医療(evidence−based medicine)の提唱がなされてから、この考え方が急速に医療の現場に普及しつつある。臨床疫学で得られた患者の診断、予後、治療などに関するデータを疫学的・生物統計学的手法で解析したうえで、個別の患者にもっとも適切な臨床的判断を下す、という医療における判断を行う際の新たな方法論であり、医療の科学化の推進の動きであると言える。日本でも欧米から少し遅れて、EBMの重要性が叫ばれるようになってきているが、この方法論が普及しているとは言えない。EBMは、医師の裁量を犯すものであるとか、患者の心の問題を捨象するものであるといった批判もある。R.S. Downie, Jane Macnaughton, CLINICAL JUDGEMENT (Oxford2000) など。しかし、臨床データに基づかない医療に対して、患者の側からEBMを求める動きも強まっている。EBMについて、たとえば縣俊彦編著『EBM医学研究・診療の方法論』(2版  中外医学社二〇〇〇)また、日本でも今年になってEBMジャーナル(中山書店)という医学雑誌も刊行されている。