立命館法学 2000年5号(273号) 87頁




客観的帰属論の展開とその課題(四・完)


安達 光治


 

目      次

は じ め に

第一章  目的的行為論以前のドイツにおける議論
  第一節  一九世紀の因果関係と共犯をめぐる議論
  第二節  刑法典制定後の因果理論の対立
  第三節  帰責限定理論の動揺  −一九二〇年代後半の過失犯判例
  第四節  学説の対応
  第五節  小    括 (以上二六八号)

第二章  目的的行為論から客観的帰属論へ
  第一節  ヴェルツェルの目的的行為論構想
  第二節  目的的行為論の限界(一)  過失犯における義務違反と結果の関係の問題
  第三節  目的的行為論の限界(二)  被害者の自己答責的態度への関与の問題
  第四節  小    括 (以上二六九号)

第三章  客観的帰属論の現代的展開
  第一節  ロクシン等の客観的帰属論とその限界
  第二節  過失犯における限縮的正犯論(一)  最終惹起者を基準とする見解
  第三節  過失犯における限縮的正犯論(二)  社会的役割を基準とする見解
  第四節  過失犯における限縮的正犯論(三)  その他の見解
  第五節  小    括 (以上二七〇号)

第四章  わが国の議論の整理と今後の課題
  第一節  相当因果関係説と客観的帰属論をめぐる議論の整理
  第二節  わが国の議論についての検討
  第三節  今後の課題

む  す  び (以上本号)

 


第四章  わが国の議論の整理と今後の課題


  以上、第一章から前章までに渡り、客観的帰属論がドイツ刑法学において登場し、有力化してきた背景について考察し、さらに現代における客観的帰属論の展開について概観してきた。
  そこでの一応の結論として、まず、ドイツにおける客観的帰属論は、「過失犯における義務違反と結果の関係の問題」や「被害者の自己答責性の問題」など、戦後ドイツの上級審判例が突きつけた実践的課題を解決するために登場し、有力化したことを強調することができよう。現代における客観的帰属論の展開についても、被害者の自己危殆化への共働の問題や過失共同正犯の問題をめぐる過失犯の正犯概念の議論などでは、同様に上級審の判例が多大な影響を及ぼしていることが見て取れる。すなわち、先に見てきた客観的帰属論の展開とその課題とは、常に実務の動きと連動していることがまず確認される。
  さらに、当然のことではあるが、従前の体系に内在していた理論的な限界が論者によって意識されてきたことも、これらの展開を促してきた重要な要因である(1)。すなわち、本稿第二章および第三章において確認したように、「過失犯における義務違反と結果の関係の問題」や「被害者の自己答責性の問題」において問題とされた、「義務にしたがった態度をとっていたとしても同様の結果が発生したであろう」という関係や「結果は被害者自身の責めに帰すべき態度から生じたものである」という関係を、「注意義務に違反した態度による法益侵害結果の惹起」を内容とする目的的行為論の過失概念で十分に考慮することには理論上無理があり、それゆえ、これらの関係を直接理論的な概念内容でもって体系化するものとして客観的帰属論が登場したのであった。また、客観的帰属論は、「被害者の自己答責性の問題」においては、自殺のなど被害者の自己侵害から、さらには被害者の自己危殆化への共働あるいは合意による他者危殆化の不可罰の根拠付けへと解決の領域を拡大していき、そのような考え方は判例においても承認を受けるに至った。しかし、これに大きく貢献したロクシンの客観的帰属論も、すでにこの見解が前提としている過失犯における拡張的ないしは統一的正犯の前提を逸脱していることが批判され、近時過失犯においても限縮的正犯概念が妥当すべきであるとする見解が有力に主張されるに至っており、これにより客観的帰属論はさらなる展開を見せてきている。それだけでなく、複数の過失の関与者の結果に対する寄与をそれぞれ単独正犯と解する統一的正犯論では、「革スプレー事件」において問題となったような、個々の過失行為の結果に対する因果関係の存在が確認できない場合に、注意義務に違反しており、かつ各関与者が共同して注意義務を遵守しておれば結果を回避することが可能であったにもかかわらず、すべての関与者を不可罰と解さざるを得ないことが問題とされる(2)。過失犯において限縮的正犯概念の妥当を主張する論者は、「過失の共犯」を原理的に承認することで過失犯に対する総則共犯規定の適用が可能になり、それにより過失共同正犯を肯定することでこの問題を解決することができると主張する(3)。さらには、「日常取引」ないしは「中性的態度」による幇助の問題では、「正犯行為の促進」を内容とする従来の因果的に理解された幇助概念に対し、これに変更を加えることでこの問題の解決を図ろうとする見解が有力化しているが、この流れによって客観的帰属論の展開は、特に故意の共犯の場面でも新たな局面を迎えることが予想される(4)
  ところで、現在わが国では、行為への結果の帰属理論についての通説とされてきた相当因果関係説に対して、その理論的妥当性に根本的な疑問が提起され、一部の論者によると、「相当因果関係説の危機」と言われる状況にあるとされる。そして本稿は、客観的帰属論がそのような状況を打開する能力を有する理論であるのかという関心から、この理論が登場し、きわめて有力な学説にまでのし上がったドイツにおける展開を見てきたのであった。その大まかな結論は右に示した通りだが、わが国における議論が、そのようなドイツにおける展開を的確に把握し、その具体的な有用性を意識した上でなされているのかについては、なお検討の余地があるように思われる。そこで本章では、相当因果関係説と客観的帰属論に関するわが国の議論を整理し、この点につき若干の検討を施すことにする。その上で、特に客観的帰属論をわが国において主張する場合に課せられるべき課題を中心に、私見を提示することにしたい。

第一節  相当因果関係説と客観的帰属論をめぐる議論の整理

一、は じ め に
    本稿のはしがきでも述べたように、客観的帰属論の是非についてわが国では、一九七〇年代にドイツにおいて客観的帰属論の具体的内容が明確になり、有力化していくのと歩調を合わせて一部の論者の間では議論がなされていたが、これが一躍刑法学の中心的な課題となるに至ったのは、「相当因果関係説の危機」の問題がクローズアップされた一九九〇年代に入ってからのことである。周知のように「相当因果関係説の危機」とは、行為自体が結果発生の原因を形成した以上は、行為後の介在事情が具体的結果に一定の影響力を有していたとしても、行為と結果の間の因果関係はなお存在するという判例の見解によってもたらされたものであった(5)。これをきっかけとして、従来からの通説である相当因果関係説に対し反省が迫られ、相当因果関係論の再検討が議論されたのだが、そこでは客観的帰属論の考え方が一定の影響を与えているのである(6)。それにとどまらず、客観的帰属論の採用を主張する見解も有力化している(7)
  さらにこの間、被害者の自己答責性の問題や過失共同正犯の是非の問題など、現在ドイツにおいて客観帰属論の立場から解決が試みられている諸問題について、わが国でも、本稿第三章で見たような客観的帰属論の展開を踏まえた見解が、学説上一定の重みを持ち始めており(8)、その意味ではわが国における客観的帰属論の展開は、「相当因果関係説の危機」から一歩踏み出した状況にあるとも言える。とりわけ前者の被害者の自己答責性の問題はそのような傾向にあると思われるが、後者の過失共同正犯の問題についても、伝統的な行為共同説と犯罪共同説の対立を越えて、複数の関与者が存在する場合の帰責の配分という課題を過失犯にも適用できるかを問題とする見解(9)については、前者と同様の傾向を見て取ることができよう。

    他方で、客観的帰属論そのものに対して、特に相当因果関係説を支持する論者の間には依然として懐疑的な見方も強い。これらの論者の見解は、大きく二つのタイプに分けることができる。一つは、従来どおり相当因果関係説で十分問題解決を図れるとする見解である(10)。この見解は、客観的帰属論そのものに対し否定的な見方をしている(11)。いま一つは、「相当因果関係説の危機」についての問題関心から相当因果関係説の是非を論じつつ、相当因果関係概念の精緻化を目指す見解である。この見解は、客観的帰属論に対しては、発生結果の行為への帰属という同一の枠組み中での説明の違いと位置づけ、その理論的な適性を理由として客観的帰属論を正面から採用することを否認してきたと言える(12)。すなわち、この問題は因果関係の相当性の判断基準をより綿密に分析すれば解決し得るとし、さらに客観的帰属論が主張するような規範的な結果の帰属基準は、相当因果関係の判断で十分考慮でき、また相当因果関係に解消できないような規範的な帰属基準を犯罪論体系に持ち込む意義は乏しいというのである。とはいえ、これらの見解の具体的な内容については、各論者ごとに相違がある。また、客観的帰属論に対するこのような批判は、相当因果関係説を離れた、刑法上の因果関係理論そのものの分析を主眼とする見解(13)からもなされていることに注意する必要があるであろう。
  もっともこれらの論者の一部は、理論的な観点にとどまらず、先に述べたようなわが国における客観的帰属論の動向を踏まえて、より実践的な観点から客観的帰属論の是非について態度決定を行っている。例えば、客観的帰属論の立場から解決が図られてきた被害者の自己答責性の問題については、「被害者の同意」の問題の一つとして違法論で評価することができるのであるから、これをことさらに結果の客観的帰属の問題として構成要件の段階で論じる必要はないというのである(14)

    このように、この問題領域に関する論者の主張は多岐に渡っているが、整理にあたっては、特に従来からの通説である相当因果関係説に対する見方と客観的帰属論に対する態度決定を基準として、以上述べたような観点から、各論者の見解をグループ分けするのが適切であろう。ここでは次のように整理したい。
  第一は、従来通り、相当因果関係説で問題を解決することが可能で、客観的帰属論はその具体的な判断の枠組み自体、特に取り入れる必要はないという見解である。この論者は、通説である相当因果関係説の折衷説にしたがう限り、結果の帰属に関する諸問題を妥当に解決することができるので、判断基準の不明確な客観的帰属論を導入する必要性は特にないとするものである。多くの折衷説の論者はこの見解に属するのではないかと思われるが、先に見たように、特にこのように明言されるのは、大谷實教授である。また、曽根威彦教授も客観的帰属論そのものに対し否定的な見方をされるので、ここで検討することにする。
  第二は、相当因果関係説は維持しつつ、相当性の判断の中で、客観的帰属論が主張するような判断は、特に危険実現の判断を行うことが可能で、またそうすべきであるとする見解である。この見解は、従来の枠組みの放棄には消極的で、客観的帰属論の帰属基準だけを相当性判断の中に取り入れようとするものである。この見解に属する主な論者としては、井田良教授、山口厚教授、林幹人教授が挙げられる(15)。また、刑法上の因果関係の分析により独自の因果関係理論を打ち立てる林陽一教授(16)は、必ずしも相当因果関係説に立たれることを明言されないが、自身の因果関係理論を構築するにあたり、客観的帰属論が提示してきた帰属基準を意識していることが伺えるので(17)、併せてこの見解に位置づけておくことにする。
  第三は、客観的帰属論をわが国でも導入すべきであるとする見解である。この見解は、ドイツにおける客観的帰属論の分析をもとに、相当因果関係説から客観的帰属論に全面移行すべきであると主張する。本稿のはしがきでも触れたが、この見解に属する主な論者としては、斉藤誠二教授、山中敬一教授などが挙げられる。

    以上のようにグループ分けを行った上で、次に、各々の見解の具体的内容について順次概観することにする。

二、従来通り相当因果関係説を維持する見解
    この見解の代表的な論者である大谷教授の相当因果関係説の理解について確認する。
  大谷教授は、「刑法における因果関係は、発生した結果を構成要件的結果として実行行為に帰属させるための要件であり、その機能は、社会通念上偶然に発生したと見られる結果を構成要件的評価から排除するところにある(18)」ということを前提に、折衷的相当因果関係説(以下単に「折衷説」と称する)が因果関係理論として妥当であることを主張される。大谷教授の折衷説とは、「あれなければこれなし」という条件関係の存在を前提として、行為時の事情および行為後の事情を通じて、行為の時を基準として、通常人が知りまたは予見することができた一般的事情および行為者が現に知りまたは予見していた特別の事情を基礎とし、その実行行為からその結果が生じることは経験上通常であるか(社会通念上あり得るか)という相当性の判断を行うものである。そして、このような関係が存在する限り、その過程において、第三者の行為、被害者の行為、行為者自身の行為が介入し、さらには自然的事実が介在する場合でも、刑法上の因果関係を認めることができるとされる(19)
  このような実行行為論を前提に、実行行為そのものの結果に対する因果関係を判断する見解からは、行為後の事情は原則として条件関係の確定においてのみ意味をもつことになる(20)。ただ一般人が予見できた限りでのみ、行為後の事情は相当性の判断に組み入れられるにすぎないのである。

    このような大谷教授の見解によると、「大阪南港事件」は次のように理解されることになる。すなわち、本件における最高裁の決定要旨(21)は、「条件説では当然の結論となるが、相当因果関係説においても、行為の時点において死因となる傷害が形成されており、その行為と被害者の死亡との間に条件関係が認められ、また第三者の暴行は一般人においても予見不可能であるから判断の基礎から除かれて、その傷害から死亡の結果が生じることが十分ありうるから、実行行為と結果との間に相当性を認めることができる。異常な介在事情は犯人の行為と被害者の死亡との間の因果関係にとって重要ではない(22)」と。
  ここでは、行為時に予見不可能な行為後の事情を判断基底から取り去り、行為後の事情は存在しないという前提で、いわば仮定的判断として行為者の行った実行行為の発生結果に対する相当性が判断され、本件についてこれは肯定されている。他方で大谷教授は、治療を必要とする程度の傷害を加えた後に傷害の治療にあたった医師の医療過誤によって被害者が死亡したという、同じく第三者の行為が介在する事例について、行為の当時において医師の過誤によって死亡することは一般人には予見できないこと理由に、被害者の死亡結果に対する因果関係を否定すべきであるとしている。また、他人の故意行為や自然災害などが行為後に介在する場合についても同様に、これらの事情が予測できないことを理由に因果関係を否定される(23)

    ここで、「大阪南港事件」とそれ以外の事例を比較して、決定的に異なるのは、介在事情の結果に対する因果性の有無であると思われる。「大阪南港事件」の事案では、南港において第三者が行ったとされる第二の暴行は、せいぜい「既に発生していた内因性高血圧性橋脳出血を拡大させ、幾分か死期を早める影響(24)」しか有しないのに対し、医療過誤等が介在する事例では、介在事情から直接結果が発生しているという点で、両者は異なるのである(25)。この見解からは、「大阪南港事件」の場合でも、第二暴行が重大なものであり、それが原因で(橋脳出血による作用を待たずに)被害者が死亡したとするならば、第一暴行の因果関係は認められないはずである。
  こうして考えてみるとこの見解では、まず直接結果の原因となった事態を確定し、それとの相関関係で問題とされる実行行為の結果発生の危険性が判断され、最後に実行行為に付け加えられるべき相当性の判断基底を予見可能性で決定した上で相当性の判断を行うという手続が取られていると言える。ここで重要なのは、この見解でも結果に寄与した事情の結果に対する事実的な意味での因果性が結果の帰属において重要な役割を果たしており、介在事情の予見可能性は、そのような事実的な意味での因果性が実行行為に存在しない場合に、因果性のある介在事情を判断基底として相当性判断に取り込んでよいかのメルクマールにすぎないということである。これは、「そのような行為からそのような結果が発生することが通常あり得るか」という本来の意味での相当性は、すでに第一段階の事実的な因果性の判断で検討済みであることを意味する(26)。大谷教授は、相当因果関係論において「支配可能性の観点」を考慮されるが(27)、一般人に予見可能な事情は、たとえ行為後に生じた事情であっても行為者には支配可能であるという趣旨ならば、「予見可能性」よりもむしろこのような「支配可能性」こそが折衷説による相当性判断の実質的な根拠ということになろう(28)

    このような考え方は、第三者の故意行為が介在する場合の過失犯の成否の問題(遡及禁止問題)に関して、ドイツの客観的帰属論の論者が主張してきたものと基本的には同様のものである。第三章でも見たように、ロクシンは後発の行為による結果の第一行為者への帰属を、「認識可能な犯罪行為への傾向の促進」という基準で判断するのであるが(29)、これはまさに他人の故意の犯罪行為という介在事情の予見可能性結果の帰属判断で考慮するものである。ただし、ロクシンは発生結果について第一行為者の過失責任を比較的広く認めるのに対して、大谷教授の相当性判断の基準では、第三者の故意行為に対する予見可能性は一般的に否定されることから、第一行為の相当因果関係はおよそ否定されることになろう。その意味で、大谷教授の見解はロクシンの客観的帰属論よりも限定的であると思われる。もっとも、大谷教授が遡及禁止問題について具体的にどのような解決をされるのかは必ずしも明らかでない。
  なお、大谷教授は客観的帰属論については、これを条件関係の限定理論と捉え、危険増加の理論、規範の保護目的の理論、規範の保護範囲の理論に分類した上で、規範の保護範囲や保護目的の基準は漠然としていて、類型的判断である構成要件該当性判断に用いるべきではないと批判される(30)。しかし、被害者の自己答責性の問題など客観的帰属論が解決をもくろんできた問題について、明確な態度決定はなされていない。

    また、最近では曽根教授が特にロクシンの客観的帰属論における個別の帰属基準に対して批判を加えておられる(31)。曽根教授は従来のわが国における犯罪論体系の枠組みに照らし、ロクシンが客観的帰属論で取り扱っている諸類型を、@実行行為の有無に関するもの、A(相当)因果関係の存否に関するもの、B違法評価に関するもの、C過失の認定に関するもの、に大別される。そして、それぞれの類型における諸問題について、それらがはたして客観的帰属論によらなければ解決し得ないものであるか検討するのである(32)。なお、それぞれの類型の具体的な内容およびそこで問題とされる諸事例については、本稿第三章第一節を参照されたい。
  まず、実行行為論に属する帰属(阻却)基準として、危険減少、危険創出の欠如、故意による自己危殆化に際しての共同の三つの類型を検討される。そして、それらのいずれについても、端的に行為者の行為の実行行為性(正犯行為性)を否定すれば足りるとし、総論的な客観的帰属論を援用する必要はないとされる(33)
  次に、因果関係論に属するものとして、危険実現の欠如、他人の答責領域への帰属の類型を検討される。これらの類型について、曽根教授はいずれも介在事情の予見可能性を問題とすることで相当因果関係説の立場から解決可能であるとされる(34)。危険実現の欠如の場合に関しては、本稿でも指摘した通り、客観的帰属論が相当因果関係説とオーバーラップする部分であると言えるが、同様の検討を曽根教授は、他人の答責領域への帰属の類型でも行い得るとするのである。
  さらに、曽根教授は違法論として、危険創出と仮定的因果経過の問題、許された危険および合意による他人の危殆化の類型を取り上げられる。まず、ロクシンが危険創出と仮定的因果経過の問題として取り上げるいわゆる「転轍手の事例」について、被害者は転轍手がポイントを切り替えようと切り替えまいと、いずれにせよ死亡する運命にあったのであるから、転轍手の行為は、それを行わなかった場合との比較で、法益侵害の危険を高めたものとはいえず、違法と評価することができないとして、これは単なる形式的なあてはめを問う構成要件の問題よりも、むしろ実質的具体的判断を内容とする違法評価の問題であると主張する(35)。また、許された危険については、相当因果関係論における危険性とは異なり、実質的違法性の判断をかなりの部分取り込んだ判断であるので、専ら違法論で問題にすれば足りるとされる。そして、合意による他者危殆化の場合は、被害者の自己決定権の行使に基づく「危険の引受け」として把握することが可能であるから、行為者の不可罰の実質的根拠が自己決定の自由に求められるのであれば、この問題も違法論で扱われるべきであるとこの問題を位置づけられる(36)。もっとも、曽根教授は後述する林幹人教授の見解とは異なり、生命侵害における被害者の危険引受けの場合に被害者の承諾の法理を適用することは否定し、ただ行為者が被害者の意思支配の下にあって、行為に出ることが絶対的に強制されていたなどの特別な場合がある場合に限り、不可罰となるにすぎないとされるのである(37)。ただその場合、行為者が被害者の意思支配の下で絶対的に強制される状況というのは、かなり限られてくるため、生命の危険を有するような態度に関しては、被害者の自己決定権が著しく限定されることになるであろう。
  最後に、過失犯論として、許されない危険の欠如、注意規範の保護目的に結果が覆われない場合、適法な代替行為と危険増加論の関係が検討されている。ここでは曽根教授は、前二者については過失犯における予見可能性の問題であるとされ(38)、また、適法な代替行為の問題についても、このような場合に被告人の罪責を問うことが酷であるとするならば、それは過失犯における結果発生の予見可能性が欠如する場合であるとして、問題解決は過失犯における予見可能性に委ねるべきで、客観的帰属論をここで援用する必要はないと主張する(39)
  以上見てきたような曽根教授の客観的帰属論批判は、個別の帰属類型について詳細に検討を加えられた上でのものだけにかなりの説得力を有するように思われる。しかし、詳細にそれを眺めるとき、曽根教授の見解から引き出される結論はいくつかの場合、客観的帰属論によって導き出される(多くは不可罰という)結論とは一致していないことに注意を要する。とりわけ、「合意による他者危殆化」の問題が重要である。この問題を違法論に位置付ける理由として、曽根教授は、被害者の自己決定権を強調されるが、結論的に行為者の可罰性を多くの場合に肯定されるのは、一貫性を欠いていると言える。客観的帰属論は、このような被害者の自己決定を理由として行為者を負責から解放する理論として有力化したのであり、自己決定権の尊重という意味ではむしろ客観的帰属論の方がより徹底していると評価すべきであるように思われる。また、仮定的因果経過と許された危険の場合については、これを違法論で論じるべきであるとされるが、具体的にはいかなる形で違法判断がなされるのか、また客観的帰属論による場合と結論にどのような差異を生じるのか提示されていない点で不満が残ると言える。

三、相当性判断の内容として客観的帰属論の基準を採用する見解

    次に、相当因果関係説の枠組みの中で客観的帰属論の帰属判断を行うべきであるとする見解について見ていくことにする。

    はしがきでも述べたように、相当因果関係説の因果関係理論としての有用性を疑問視する実務家からの批判を受けて、井田教授は周知のように、相当因果関係説の現況を「まさに『相当因果関係説の危機』とでも呼び得る状況(40)」と位置づけた上で、相当因果関係説の再構成を試みている。
  井田教授によると、「大阪南港事件」の事案は、「実行行為自体がすでに高度に危険であり、しかもその後の具体的な因果経過も相当性の範囲を逸脱するような場合」にあたり、「従来の相当因果関係説の『盲点』をつくものであり、その判断構造の不明確さ如実に示すものである(41)」とされる。相当因果関係説は、実行行為そのものがそれほど危険でなかった場合に、それにもかかわらず発生した結果の帰属を否定するための理論としては有効であるが(42)、実行行為それ自体がすでに高度に危険であり、しかもその後の具体的な因果経過も相当性の範囲を逸脱する場合の判断に関してはもともと曖昧なものをもっていた(43)。そして、「大阪南港事件」は後者の事案にあたるというのである。
  しかし、このような場合に「因果関係を否定することは実際的に妥当とは思われない(44)」ので、狭義の相当性判断においては、一定程度因果経過および結果発生の態様を「抽象化」し、具体的な介在事情を度外視した上で、その経験的通常性を判断せざるを得ないことになる(45)。井田教授によると、このような場合の抽象化は「死因が同一であるとみられる範囲内では許容」され、「大阪南港事件の事案」では第二暴行が相当性判断において抽象化され、捨象された結果、第一暴行の結果に対する相当性が肯定されることになる。また、井田教授は「米兵ひき逃げ事件」についても行為者が被害者を車ではねた時点で死因が形成されている限りで、同様の判断を行っている。これに対して、実行行為自体が高度に危険であったにもかかわらず、その危険が結果として実現する以前に、偶然的な介在事情によって生じた別の傷害が死因となった場合には相当性は否定される(46)
  しかしながら、このような「一定程度の抽象化」を認めるに際しての抽象化の程度について、相当因果関係説の立場からは一義的な判断基準を得ることはできない。すなわち、「『相当性』とか『経験的通常性』とか『予見可能性』ということからは、個別事例において、結果帰属の根拠と限界とを実質的・規範的に明らかにするための手がかりがまったく得られないのであ」って、「ドイツにおいて相当因果関係説の不十分な点を克服する形で客観的帰属の理論が通説化した根本的な理由はここにある(47)」。このように井田教授は、相当因果関係説の因果関係理論としての限界を指摘され、同時に客観的帰属論が有力化した背景を分析される。
  もっとも、このような井田教授の見解は、介在事情と具体的結果の予見可能性という要件そのものを否定する趣旨でもないようである。「実行行為が結果発生に一条件を与えたにすぎない場合は、少なくとも、介在事情と結果発生の具体的な態様についての予見可能性が肯定されない以上は、結果の帰属を認めるべきではない(48)とも述べているからである。すなわち井田教授は、実行行為が結果発生の高度の危険性を有する場合には、具体的な態様の介在事情や発生結果を「死因の同一性」の範囲で抽象化するのに対し、実行行為自体が結果発生の危険性を有しない場合には、介在事情の予見可能性によって結果の帰属を判断される。従来、相当因果関係説が相当性判断に際して問題としてきた「判断基底」の問題や「介在事情の予見可能性」の問題は、ここでは重要な役割を果たしておらず、むしろ「結果の帰属がなぜ肯定されるのか、またはなぜ否定されるのかの実質的・価値論的根拠」が重要であるとされる(49)。これはまさに客観的帰属論が意識してきた視点に他ならない。井田教授は、ドイツにおける客観的帰属論が相当性の判断を結果の帰属基準の内部に取り込みながらも、それよりもさらに精緻化された結果の帰属判断を行う見解として評価される。「人間の能力・可能性の限界というギリギリのところではじめて結果帰属を否定するのではなく、むしろそれ以前のいわば『規範的な領域』で結果帰属の外枠を確定するための努力をすべき(50)」だというのである。
  とはいえ井田教授は、客観的帰属論に対して、「客観的帰属の理論において議論されている様々な事例のなかには、体系的にみて、従来は因果関係論とは別個の問題の一環として取り扱われており、必ずしも客観的帰属というカテゴリーで解決される必要がないと思われるものも含まれている(51)」という見方をされる。ここでは、「客観的帰属というカテゴリーで解決される必要がない」のは具体的にはどのような事例なのか明らかでないので断言はできないが、もしそれが第三章で見てきたような現代の客観的帰属論が問題とする事例であるとするなら、井田教授の言う客観的帰属論の有する射程範囲はかなり狭いものとなるのではないか。そしてそれでは、客観的帰属論をめぐる議論は依然として「相当因果関係説か客観的帰属論か」という二者択一的思考に留まるにすぎないであろう。第三章で見てきたように、ドイツにおける客観的帰属論は(相当因果関係説も含め)従来の体系からは解決困難な諸問題を解決するため登場したものであることに再度留意しておくべきである。

    次に、客観的帰属論に好意的な相当因果関係説の論者として、山口教授の見解を見ておくことにする。
  山口教授は因果関係に関するこれまでの判例の分析から、判例において因果関係が否定されているのは、行為者あるいは第三者による故意行為の介入の場合であるという結論を引き出される(52)。その背景的事情として、「行為者の故意行為の介入の場合には、通常、第二の故意行為について結果を惹起した責任を問うことが可能であり、また、第三者の故意行為の介入の場合には、第三者に結果を惹起した故意責任を問うことが可能であって、結局、結果惹起の故意責任を追及することが可能であるから、故意行為の介入の場合には、因果関係を否定することが比較的容易に認められる(53)」ことを指摘される。またこのような考え方は、故意行為に対する関与が基本的に、共犯としてのみ処罰されるという法原則とも整合するとも言われる(54)。しかしながら、「大阪南港事件」においては、第三者の故意行為が介入したにもかかわらず、第一行為の結果に対する因果関係が肯定され、またこれは予測可能性だけを基準とする相当因果関係の判断では説明がつかないことから、「相当因果関係説の危機」という現在の議論状況が生じたとされる。そうして山口教授は、客観的帰属論による結果の帰属基準を取り入れることで相当因果関係説の再構成を図るべきであるとする(55)
  まず、客観的帰属論が判断基準の枠組みとしてきた「許されない危険の創出と実現」については、「許されない危険」の概念には問題があるとしながらも(56)、本来相当因果関係説の立場から承認されてきたものとして、山口教授は相当因果関係説の中にこれを取り入れる(57)。ロクシンの客観的帰属論の「許されない危険の創出とその実現」という判断の枠組みは、第三章でも見たように、エンギッシュ流の相当因果関係説を土台としたものであるから、その意味ではこのような見方は当然といってもよいであろう。
  さらに山口教授は、「構成要件の射程」についても「『構成要件の射程範囲』の議論については、まだその内容の詳細はかならずしも確立してはいないが」、「因果関係の内容は最終的には構成要件解釈の問題であるから、十分な解釈論上の根拠がある限り採用することは可能(58)」であるとして、これを因果関係の判断の中に取り入れる。ここでは、例えば救命可能な傷害の被害者が、死に至る危険を十分承知しながら治療を拒絶し、死亡する場合のような「被害者の自己答責性」の問題について解決が目指されている。すなわちこの場合には、被害者の自由かつ十分な認識に基づく意思決定により結果の帰属は否定され、また被害者の自由な意思決定に基づく自己加害行為を生じさせることは、自殺関与罪としてのみ可罰的であから、結局、傷害行為者は傷害についてしか処罰されないことになる。もっとも、ロクシンが解決をもくろむ「故意による自己危殆化への関与」、「同意を得て行う他人の危殆化」、「他人の答責領域への帰属」の諸問題については、専ら客観的帰属の問題とするのではなく、共犯規定の射程等、他の領域での議論の余地もあるとされる。また構成要件の射程論は全面的に支持されているわけではなく、いわゆる「過失犯における危険引き受け」の問題では、「他者危殆化においては、法益主体が危険発生に同意しているにすぎず、因果的支配は背後者の手中にあるから、法益主体の自己責任が危険・結果の背後者への帰属を排除することになるとはいえない(59)」として、「自己危殆化との同置のテーゼ」を否認される。その上でこの問題について、法益主体による自己の法益侵害危険の同意が認められる限りで、過失犯の構成要件要素である相当因果関係ないしは客観的帰属関係の要件としての「行為の危険性」を「規範的評価において否認」することで解決を図ろうとされる(60)
  このような山口教授の所説は、客観的帰属論の構想が解決を目指してきた問題の意義を十分汲み取った上で、このような問題の解決を図るために規範的評価を否認することなく、むしろ特に過失犯の構成要件解釈に導入される点で、次に述べる林幹人教授や林陽一教授の見解と大きく異なっていると言える。もっとも、実際の事件の具体的経過において発生した危険を規範的評価において否認するという試みは、ドイツの客観的帰属論にも見られないものである。構成要件該当性判断においてどの程度の規範化が許されるのかは、それ自身困難な問題であるが、客観的「帰属」という発想からは、あくまで現実の危険を前提とした上で、それが行為者の答責領域に属するものなのか、あるいは被害者の答責領域に属するものなのかを決定するという判断手続までしか引き出されないはずである(61)。客観的帰属論が取り組んできた問題を正面から受け止める限り、構成要件該当性判断における規範的評価は避けられないが、過度の規範化は、むしろ規範的評価自体の信頼を損なうことにつながり、また規範的評価の安定性を害するように思われる(62)

    林幹人教授は、許された危険の法理を実行行為の内容を定めるものとして採用し、条件関係を許されない程度に危険な行為と結果の関係と理解し、さらに相当因果関係の内容を許されない危険の実現と規定することで、因果関係理論の中に客観的帰属論の基本的思想を取り入れる(63)。もっとも林教授自身が指摘されるように、客観的帰属論は相当因果関係が存在する場合でもただちに結果の帰属を行うべきではない、すなわち構成要件該当性を認めてはならないとするものであり、またその判断基準は必ずしも相当因果関係を機軸とする因果関係理論には解消し得ないものである。林教授は、さらにこの点につき検討を加えておられる(64)
  まず、「規範の保護目的の理論」および「規範の保護範囲の理論」については、すでに右に見たような林教授が前提とされる因果関係の理論の範疇で十分考慮し得るとされ、むしろ、「規範の保護目的・保護範囲という基準よりは、『許されない危険』の『実現』という基準」の方が、「明確で適切」であるとさえ言われる(65)
  また、「構成要件の射程論」については、この理論が主として被害者の自己答責性の問題に関係するものと理解し、そこでは相当因果関係を否定することができない場合もあることを認めた上で、それにもかかわらず客観的帰属論によらなくともその解決が可能であることを主張される。すなわち、被害者の自己侵害、自己危殆化の場合においても、被害者の危険引受けの場合においても、被害者は自らの自由な意思により結果を生じさせ、あるいは自らの意思により、自由に、その危険に同意したという点で、いずれも「被害者の同意の法理の延長線上にあるもの」とするのである(66)。特に被害者の自己危殆化や危険引受けの場合には、典型的な被害者の同意の場合と異なり、結果発生の危険が相対的に低く、被害者は結果発生を望んでいない(むしろその不発生が信じられ、期待されている(67))。しかしながら林教授は、これらの事情は、被害者の同意の法理を拡張して適用するのに妨げとなるほど重要なことではないとして、被害者の自己答責性の問題は被害者の同意の法理によって解決すべきであり、この問題領域における客観的帰属論の適用可能性をあくまで否認されるのであるが、その根拠については、この見解の背後にある遡及禁止概念あるいは被害者の自己答責性概念の曖昧さを指摘するに留まっている。なお、このような林教授の見解については、後に検討することにする。

    林陽一教授は、「外界の支配可能性」が、刑法が結果について行為者に責任を問う前提となることから、最近の相当因果関係説の動向にならって、これを犯罪成立要件としての「因果関係」の本質とし、相当性や客観的帰属における規範的基準に依拠する以前に、因果関係の存否のレベルでその客観的限定が可能であるとされる(68)。すなわち、規範的な帰属限定の以前に事実的な因果関係の存否の判断を重要視されるのである。その因果関係理論の概要は次の通りである(69)
  まず、因果関係の終点としての結果は、構成要件解釈によって定められた重要な外界の不良な変更と規定される。その上で、因果関係の判断を二つの段階に分ける。第一段階の判断では、合法則的条件公式によって条件関係を判断する。その際、経験法則については不明確なものを用いてはならず、また法則性は具体的な事案の中でそれが妥当していることが、事実を跡づけることによって確認されなければならない。第二段階の判断では、行為以外に結果発生に関与した介在事情の中に、単独でも結果を発生させるような性質をもち、かつ、その事情がもつ危険に対して行為が影響を受けないようなもの(行為から影響を受けないという意味で「一般的危険」とされる)が存在するときは、「行為の結果支配可能性」は妨げられている可能性があり、因果関係を肯定することはできない。なお、行為が介在事情に与える影響については、行為が介在事情の有無を決定付けるものでなくとも、「その危険を増加させる場合」にも認められる。
  このように林教授は、「行為の結果支配可能性」を基礎として独自の因果関係の判断基準を定立される。ここでは、介在事情の結果に対する影響力と行為の介在事情への影響力の有無が重要な要因となると思われるが、林幹人教授が挙げられる「許された危険」のような規範的な帰属基準については、特に必要とされないようである(70)。そして、林陽一教授はわが国における客観的帰属論の論者がこれを採用する価値があるのは、被害者の自己答責性の問題だけであるとし、これは被害者の自己決定権の尊重という「違法論に本籍地を有する問題(71)」であるとして、結局、客観的帰属論の積極的な採用を否認している。もっとも、被害者の自己答責性の問題について林教授が具体的にどのような解決をされるのか、林幹人教授のようにこれを被害者の同意の法理が妥当すべき場合の一つと捉えるのか、についてはここでは明らかではなく、単に違法論の問題であると言うだけでは、そこから具体的な判断基準を引き出すことはできないように思われる。その意味で、林教授の客観的帰属論に対する見方には、曖昧なものが残っていると言える。

四、客観的帰属論の導入に積極的な見解
    最後に客観的帰属論を導入すべきであると考える見解を見ることにする。その際、あらかじめ、客観的帰属論を理解する上での試金石とも言える二つの検討項目を設定しておき、それに沿って検討するという方法を採りたい。
  第一に、この見解は、客観的帰属論に対して一定の理解を示し、結果の帰属理論をめぐるわが国の問題状況に鑑みるなら、従来の枠組みを放棄して客観的帰属論を導入することが望ましいと考える見解である。従来の枠組みを放棄して客観的帰属論に全面移行するという主張の背景には、従来の相当因果関係説の枠組みでは解決不可能な一定の問題群が存在しているはずである。そうでないならば、この見解と相当因果関係説との差異は単に同じ結論の説明の仕方にあるにすぎないことになり、従来の枠組みを放棄してまで、客観的帰属論を採用するかどうかは、社会の中で生じる問題の合理的な解決という法律学の使命とは無関係な、論者の個人的なセンスの問題となるであろう。そこで、この見解が、従来の相当因果関係説を前提とする枠組みでは解決不可能であるが、この見解なら合理的な解決が可能になるという問題を客観的帰属論導入の契機となるものとして提示しているかという点を第一の検討項目とする。
  第二に、客観的帰属論は、一定の帰属原理から導かれる帰属基準に従って結果を帰属すべきかどうかという判断を行うという構造を有する。そこでの帰属基準は統一的な観点による原理から導かれたものであることを説明できなければ、客観的帰属論は単に妥当な結果を導くためのカズイスティックな判断を寄せ集めたにすぎないもので、不明確さのゆえにその導入がかえって法的安定性を害するという評価を受けても致し方ないであろう。やはり、法概念である以上、具体的基準の一般的な観点からの統一は不可欠である。この見解を主張する論者が、統一的な帰属原理を提示するか、あるいは少なくともその必要性を意識しているかが第二の検討項目である。
  以上のように検討項目を設定した上で、先に挙げた各論者の見解について検討を行う。

    わが国で、比較的早くから客観的帰属論を紹介し(72)、自らも主張されてきた(73)斉藤誠二教授は、ドイツにおける客観的帰属論の発生時の状況について「一九五〇年代には、西ドイツでは、目的的行為論の台頭などによっていわゆる行為論が注目をあびた。しかし、それは、すでに、一九五〇年代に一応のピリオドがうたれ、一九六〇年代には、行為論に対するあきらめがもたれ、その不毛性がなげかれた。この行為論の不毛性に対する反動として、とくに、一九六〇年代の末から七〇年代にかけて、西ドイツで注目されているものの一つがこの『客観的帰属の理論』である(74)」と紹介されている。しかし、ここでは、客観的帰属論が登場した背景として、故意、過失や相当因果関係説が、条件説による因果関係の広がりを修正できない事案が出てきたこと、および過失犯における義務違反と結果の関係の問題が実務上提起されたことが指摘されるだけで(75)、ドイツにおいていかなる点で「行為論の不毛性がなげかれた」のか、また目的的行為論の「不毛性」を、これに対する「反動」としての客観的帰属論がいかなる形でこれを克服したのかは明らかにされていない。また、特に過失犯について、客観的帰属論、特に規範の保護範囲論で解決できる事案として、「塩化エチルの事件」(「歯科医師事件」とも呼ばれている)などの一連の事件が挙げられているが(76)、結果に対する因果性だけでは、刑事政策上妥当な不可罰という結論が説明できない事案として紹介されているだけで、これらの事案が従来の有力説である目的的行為論ではどのように取り扱われることになるのかについては一切触れられていない。ここでは、斉藤教授は、客観的帰属論を目的的行為論の反動であると紹介されながら、客観的帰属論は目的的行為論が有するいかなる実際的な問題点を批判しているのか、さらに言えば、客観的帰属論が目的的行為論に対して自己の体系の実際上の有用性をアピールしているのかについて立ち入った検討はなされていないのである。これでは、目的的行為論から客観的帰属論への解釈論上の変動は、表面的な思潮活動の変動にすぎないと捉えられたとしても致し方ないであろう。その意味で、斉藤教授の客観的帰属論の紹介・検討には若干疑問がある。
  また、後に述べるように、斉藤教授は過失犯については客観的帰属論の帰属基準を採用すべきであると結論付ける(77)。当然、わが国での過失犯の領域の諸問題を解決するためにこのような主張をされているものと思われるが、その根拠となる事案はすべてドイツでのものであり、わが国でこれらの帰属基準を採用してこそ問題の解決が可能になるという事案は全く挙げられていない。これでは、客観的帰属論の導入によってわが国で抱えている諸問題がどの程度解決されるのかという客観的帰属論の実際上の有用性は具体的に見えてこない。実際に提起されている具体的な問題解決を目指さずして、新しい体系の導入を主張したとしても、学界に対してはともかく、特に実務に与える影響は乏しいであろう。客観的帰属論という新しい体系を導入すべきであるとの趣旨でこれを紹介される限りは、わが国で提起されている実際上の問題を、どの程度合理的に解決できるかを示すべきではないかと思われる。
  さらに、斉藤教授は、客観的帰属論を、「結果を発生させる危険を少なくする場合」(危険減少)、「法益の侵害に対する法的に重要な(意味のある)危険を作りださない場合」(危険創出)、「過失犯で、注意義務に違反した行為者の行為によって結果がひき起こされたが、たとえ行為者が慎重に行為をしたとしても、その結果がひき起こされたであろう場合」(危険増加)、「過失犯で、注意義務に違反した行為によって結果がひき起こされたが、その結果が、規範の保護目的のそとにある場合」(規範の保護目的)に、結果が惹起されたにもかかわらず、結果の帰属は行われない理論として紹介されている。ここでの客観的帰属論とは、言うまでもなく本稿第三章第一節で論じたロクシン等の客観的帰属論を意識したものである。斉藤教授は、このように客観的帰属論を位置付けた上で、過失犯については、「危険をたかめる法理」(危険増加論)と「規範の保護目的の理論」を採用し、過失犯についての結果の帰属を以下のような要件に従って検討すべきであるとされる。すなわち、第一に、「注意義務に違反したその行為が発生した結果(法益の侵害)と『条件関係』(conditio sine qua non)にあるかどうか」、第二に、「その注意義務に違反する行為の客観的な結果としての法益侵害が客観的に予見できたものかどうか(いわゆる相当性の関係)」、第三に、「その注意義務に違反した行為が法益侵害にとって法的に意味のある危険を作りだしたか、ないしは、具体的に一般的な注意義務に違反する行為が注意義務に合った反対の行為よりもより大きな危険をもたらすものであるかどうか(いわゆる法益侵害の『危険を高めること』ないしは『危険の関係』)」、第四に、「その行為者が違反した注意義務は侵害された法益の保護をも目的としているものであるかどうか(保護目的の関係)」である(78)
  この判断構造は、結果に対する条件関係と相当なつながり(相当因果関係)という従来の枠組みに、危険増加と規範の保護目的という帰属基準を付け加えたものになっている。これらの帰属基準が、故意犯および過失犯に共通して適用があるのかは明言されないので断言はできないが、少なくとも特に過失犯について適用があるとの趣旨であろう。そうだとするならば、過失犯について、特にこのような特別な帰属判断を行うことの根拠を明らかにすることが必要となる。故意犯と過失犯は客観的側面では(言い換えれば、結果の客観的な帰属基準は)共通するというのが、一般に承認を受けている限縮的正犯概念の前提だからである。仮に、故意犯と過失犯を客観的な側面で区別して扱うというのなら、かつてヴェルツェルが目的的行為論について行ったような論証が必要であろう。この点でも、斉藤教授の所論は、客観的帰属論の体系構築の生成途上のものと評価せざるをえない。

    現在、わが国で最も有力に客観的帰属論の導入を主張しておられるのは、山中教授である。
  はしがきでも触れたが、山中教授は、わが国の判例、学説の状況について、以下のような見方をしている。まず、判例の評価についてであるが、相当因果関係説の「危機」はすでに昭和四二年の「米兵ひき逃げ事件」の最高裁決定から始まっており、それが「柔道整復師事件」や「大阪南港事件」などの判例によって再び顕在化し、特にその直後に最高裁決定の出された「夜間潜水訓練事件」では、被害者ないしは第三者の結果に影響する落ち度ある態度は、被告人の行為によって「誘発」されたという客観的帰属論のうちの危険実現の判断基準が採用されたことにより、判例も客観的帰属論の採用に踏み出したという見方をしている。また、学説については、客観的帰属論の帰属基準は相当因果関係説の相当性判断でも用いることができるという最近有力な見解(79)に対して、「相当因果関係説とは、本来、客観的可能性論(確率論)を基礎とするものであり、『規範的評価』から独立である点に独自性がある理論である。規範的評価を帰属基準とするために客観的帰属論が登場してきたのに、あえて古い枠組みである相当因果関係に留まる必要はない」とし、この見解は、相当因果関係説と称しながら本来の相当因果関係説とは別の判断を行う点で、「国際的な観点からも誤解を生む元である」と退けている。そうして、現在の判例、学説の状況に鑑みても客観的帰属論に全面移行すべき「機は熟して」おり、またそうすべきであると主張されるのである(80)
  山中教授の主張される客観的帰属論は、事前の立場から法益侵害行為の危険を判断する「危険創出連関」と、これを前提に、刑事制裁を発動するための前提条件として、結果に結びつく法益侵害行為を確定する「危険実現連関」から成り立っている。ここでは、ロクシンの客観的帰属論が取り扱ってきた諸問題を論じながらも、その判断の枠組みはロクシンのそれとは異なっている部分がある。例えば、ロクシンが危険創出の問題であるとする危険減少や仮定的経過(救助の因果経過の遮断)は、事後的な視点から見て初めて判断しうるものであり、事前の立場からみて危険を高めたかという危険創出の判断にはなじまないとしている。また、構成要件の射程の領域で判断される、被害者の自己危殆化への共働や合意による他者危殆化の問題は、創出された危険に対する自己答責的な人の行動の介入という形で、危険実現連関で判断されている(81)。このように、山中教授は、ロクシンの客観的帰属論を土台にしているとは言えるが、危険創出連関と危険実現連関による二段階で客観的帰属について論じ尽くすという点で独特である。
  すなわち、このような山中教授の客観的帰属論が、第三章で紹介したロクシンの客観的帰属論の判断の枠組みと決定的に異なる点は、ロクシンが「構成要件の射程」の問題として、行為者によって創出された危険の実現があったにもかかわらず結果の帰属を阻却すべきであるとしている諸事例を、危険実現論で取り扱っている点である。山中教授は、危険実現連関を、刑事制裁規範を発動する前提として、可罰的行為を選び出す役割を有するものと位置づけ、それゆえ、「ロクシンが提唱する『構成要件の射程論』もこのような可罰的評価を帰属論に取り込んだものであり(82)」、ロクシンが構成要件の射程で論じている被害者の自己危殆化や合意による他者危殆化などの問題を危険実現連関の問題として論じているのである。
  これは、「単なる因果的危険性の大小の問題や因果経過の日常的通常性の問題ないし予見可能性の問題に還元できるものではない(83)」という山中教授の指摘にもあるとおり、相当因果関係説による相当性の判断の対象とはなり得ないと言わざるを得ない。そうであるなら、従来の枠組みではこれらの類型に属する問題をどのように解決するかが問われることになるが、これらすべてが相当因果関係を基軸とする従来の枠組みで論じ尽くせるわけではないことは、本稿でも確認してきたとおりである。
  その他に挙げられる事案は、わが国でのものに限って言えば、相当因果関係説が従来取り組んできたものとほぼ一致すると言える。そして、山中教授はこれらの問題が従来の相当説の枠組みでは解決困難であるとの論証を積極的には行っていないようである。おそらく、それは自明のこととしているのであろう。すなわち、相当因果関係説の「危機」はすでにかなり以前から始まっているという山中教授の見方からすると、相当因果関係説が従来取り扱ってきた問題がすでに相当因果関係説では説明困難であるのだから、相当説では解決困難な事件として特別に取り上げる必要もないと考えておられるのであろう。しかし、従来の体系を根本的に否認して客観的帰属論という新しい体系を構築(ないしは導入)するには、従来の体系で合理的な解決を図ることが不可能に近いほど困難な事件が契機となるはずであることは、これまで強調してきたとおりである。現に山中教授自身、「客観的帰属論者の課題として要請されているのは、もはやドイツの理論の紹介などではなく、我が国の問題を解決するための具体的な展開なのである(84)」と明言されている。しかしながら、これについての具体的な論証が見られない以上、山中教授の客観的帰属論は具体的内容としては傾聴に値するものを数多く含みながらも、客観的帰属論をわが国で採用するメリットという実際的な面で不満が残る。
  次に、帰属原理の問題であるが、特に危険実現連関論について、山中教授は、「一定の『評価的な指導理念』のもとに経験的基礎と規範的基礎にもとづいた『類型化』を行い、それぞれの類型に応じた帰属基準を分析することによって行われる(85)」方法論であるとしている。山中教授が、ロクシンが構成要件の射程論という新たな帰属基準を用いて解決する類型も危険実現連関論で取り扱うのはこの理由による。規範の保護目的論を、行為規範としての注意規範の保護目的論と発生した結果をカバーする構成要件の射程論に区別し、前者についてはその侵害が結果に実現したかの判断が可能であるが、後者は発生結果そのものについての判断であるため、もはや危険実現の判断を超えた判断を要するというロクシンの構想では、危険実現の判断は対象から離れた単なる規範的評価に留まるものではなく、一定の枠組みを有する対象についての規範的な評価であると考えられる。これに対して、山中教授の構想では、危険実現について、制裁規範発動の前提であるという評価的な指導原理が立てられているものの、その判断構造の統一的な視点を危険の実現という概念から引き出すことは難しい。このことは、客観的帰属論の検討の中で、林陽一教授も指摘されているとおりである(86)。規範的な評価という前提だけでは、カズイスティックな事例の解決の寄せ集めにすぎないと批判されても仕方がない。やはり、結果の帰属について統一的な視点があることが客観的帰属論の理論的妥当性を主張する上で肝要である。そして、そのような統一的な視点が体系を構築する際の原理としての役割も演じる。このような意味で、山中教授の見解に限らず、わが国の客観的帰属論はまだ生成途上であると言える。

第二節  わが国の議論についての検討

一、は じ め に
    前節では、相当因果関係説および客観的帰属論に対する見方について、現在のわが国の議論を整理した。そこでは、少なくとも以下のことが確認できるであろう。
  まず、「相当因果関係説の危機」をもたらしたとされる「大阪南港事件」について、被告人による第一暴行と結果の間の因果関係あるいは結果の帰属を否定する見解は皆無であり、いずれの見解も自己の因果関係理論あるいは客観的帰属論の判断構造の枠内で因果関係の存在あるいは結果の帰属が肯定されることを説明している(87)。それは、「危機」に陥ったとされる従来型の相当因果関係説をとる論者でも同様である。
  次に、本稿の課題である客観的帰属論に対して、これを全面的に承認する見解、あるいは正面から否認する見解も存在するが、相当因果関係の判断構造の中で、本稿で見てきたようなドイツにおける客観的帰属論が展開してきた判断をなし得るとする見解が比較的有力であるように思われる。もっとも最後の見解でも、その具体的な内容について、必ずしも一致が見られるわけではなく、とりわけ客観的帰属論の内容とその判断構造に対する見方にはかなりの相違が見られる。これらの論者は、「危険の創出」、「危険の実現」という客観的帰属論の判断枠組みについて、基本的にこれを承認する点では一致していると思われるが、いずれにせよ客観的帰属論の全面的採用には賛成していない。むしろ、客観的帰属論が自己の立場の有用性を例証するものとして積極的に解決を試みてきた問題について、特別に客観的帰属の問題とせずとも他の犯罪論体系上の問題とすることで解決可能であるという見方が強い。特にドイツにおける従来の客観的帰属論が解決を目指してきた主要問題である、「注意規範の保護目的論」および「被害者の自己答責性論」についてそのような傾向が顕著である。
  最後に、客観的帰属論を採用すべきであるとする論者の間でも、第三章で見てきたような過失犯における正犯概念の問題を機軸とする客観的帰属論の最近の展開については、必ずしも自覚されているとは言えない点にも留意する必要があるであろう。

    本章のはじめにも述べたが、新しい体系が登場する背景には必ず解決を目指すべき問題が存在する。そうでなければ、新しい体系が従来の体系に取って代わって主張される意義がないからである。それゆえ、筆者は客観的帰属論を評価するにあたっても、それが解決を目指してきた諸問題に対する評価を中心にこれを論じるべきであると考える。従来の考え方でこれらの問題が解決可能であるのなら、わざわざ新しい考え方を取り入れる必要はないと言える。しかし、従来の考え方に可能な限りの修正を施しても解決が不可能であるのなら、それはすでに新しい考え方の導入の契機である。そしてそれが、ドイツにおけるように実務上提起されてきた問題であるなら、なおのことであろう。
  もちろん、客観的帰属論が前提とする規範的判断についての是非やその判断構造の理論的な適性について真摯に議論することは重要である。しかし、法律学の任務が実際的な問題の解決にあるとするなら、妥当な解決を模索した上で、しかる後その理論的な整合性について検討することは必ずしも不当ではなかろう。したがって、ここではまず「相当因果関係説の危機」をもたらした主因とも言える「大阪南港事件」についての評価を試み、ついで客観的帰属論の主張が特にクローズアップされる契機となった「被害者の自己答責性」問題について、先に整理したわが国の議論を中心に検討を試みることにする。

二、「大阪南港事件」についての評価
    本件の事案については再三に渡って紹介されており、評釈類もかなりの数に上るが、本件をめぐる議論を評価する前提として、繰り返しになることを恐れず以下で見ておくことにする。

    本件の被告人は自己が経営する土建業A組の飯場で、被害者がA組を辞めたい旨懇請することに腹を立て、いきなりプラスティック製の洗面器に入った風呂の水を被害者の頭にめがけて浴びせかけ、さらに洗面器の底や皮バンドで被害者の頭部等を多数回殴打して、洗濯場のコンクリートの床に転倒させ、さらに右脇腹を足蹴にしたり、両頬を叩いたり、被害者の頭髪をつかんで持ち上げては手を離して二、三回コンクリートの床に頭部を打ち付けるなどし、かつその間四、五回に渡り冷水を浴びせかけるなどの暴行を加えたところ、被害者は内因性高血圧性橋脳出血の発生または拡大増悪による意識喪失という傷害を負った。さらに被告人は、被害者を大阪市内の南港にある資材置場に放置したところ、橋脳出血の拡大により同所で死亡した(88)
  以上が、第一審大阪地裁昭和六〇年六月一九日判決が認定した事実の概要である。
  検察官は、被告人が被害者にA組飯場で暴行を加えた後、南港まで被害者を運び、同所において殺意をもって角材で数回殴打したとし、南港における角材殴打が被害者の死亡に対して因果関係を有するとして、殺人罪で被告人を起訴した。

    本判決が判決文中で判断を示した争点は、(一)被害者の死亡原因、(二)南港における角材殴打、の二点に大別される。これは、検察官が被害者の死亡原因について南港での殴打もしくは飯場での殴打のいずれにせよ、結局は被告人が殺意をもって行った南港での角材による殴打が被害者の死亡に対して因果関係を有するので、殺人罪の成立を主張したのに対し、弁護人は、被告人は南港での角材により殴打は行っておらず、また被害者は生前に有していた内因性高血圧性橋脳出血が原因で死亡したのであるから、無罪である旨主張したことに起因するものである(89)
  このうち争点(二)に関して本判決は、被告人が南港において角材による殴打行為を行った疑いは強いとしながらも、これを裏付ける事情はいずれも決定的なものではなく、むしろ第三者がこれを行った可能性を否定し得ない事情が存在するとして、南港での殴打行為が被告人によるものであるとは認定しなかった(90)。すなわち、被告人の所為としては、飯場における暴行および南港の資材置場での放置だけが問題とされるのである。

    次に被害者の死因に関する争点(一)について見ていくことにする。
  被害者の死因について、本件では公判定で二人の鑑定人による鑑定が行われた。本判決は、被害者の死亡原因が解剖時に認められた橋脳出血であることを認定しているが、この出血の発生原因については、二人の鑑定意見は真っ向から対立している(91)。すなわち、一方の鑑定意見は、南港における角材殴打が原因である(つまり外因性のものである)とするのに対して、他方の鑑定意見は内因性の高血圧性脳内出血の可能性がきわめて高いとしているのである。そして本判決は、そのいずれに与すべきか詳細な検討を加えているので、以下にその概略を見ていくことにする。
  まず、直接の死因とされる一センチメートルを越える大型出血以外に被害者の脳内に損傷が存在しなかったことが確認されている。その上で、(i)頭部への外力の作用により直接的に脳幹部に損傷が生じる場合、脳幹部は脳の最も奥に存在するので、加えられる外力は相当強力であるはずであり、そのため脳幹部に至るまでの脳内の他の部分にも損傷を伴うことが通常である点、(ii)また、頭部への外力による場合、脳幹部の出血の性状は「点状出血」(直径一ミリメートル以下)ないしは「小出血」(直径一ミリメートル以上一センチメートル以下)であるのが通常である点、(iii)A組の飯場における被害者に対する暴行および南港における殴打とも本件のような脳幹部の大型出血をもたらすほどの強度のものであるとは到底考えられない点から、本件の脳幹部出血が外力による可能性はきわめて低いとされる(92)。それゆえ、本判決は被害者の脳幹部における出血原因については、「内因性のものであることが想定されるべきである(93)」と結論付ける。
  さらに先に見たような、A組飯場での暴行に対する被害者の反応から見て、被害者の意識喪失は単なる脳震盪症によるものではなく、すでにA組飯場における暴行の時点で既に脳幹部出血が発生していたと考えるのが自然である。そうすると被害者はさしたる暴行を受けないまま意識喪失に至っていることになるから、「本件脳幹部出血は内因性のものであると考えるべきであ」り、また解剖所見および脳の所見から見て被害者のいくつかの身体の部位に動脈硬化症が認められるので、それゆえ「被害者が生前高血圧症であったことが強く示唆されることから、本件脳幹部出血も高血圧性脳内出血であると考えられ」、さらに本件脳幹部出血は橋脳出血であって、橋脳が高血圧性出血の好発部位であることを前提に、本判決は、本件脳幹部出血を「内因性高血圧性の橋脳出血であると認めることができる」と結論付ける(94)。その上で本判決は、被害者の死因を南港における角材殴打による脳幹部挫傷であるとする検察官の主張を明確に退けている(95)
  以上のように、本判決は被害者の死因を内因性高血圧性橋脳出血と特定しており、この点は後の高裁判決および最高裁決定でも維持されている。そうすると、本件被害者の死因である橋脳出血と被告人の飯場における暴行あるいは第三者によるものと推測される南港での殴打行為との間の因果関係が問題となるが、これについて本判決は以下のように判示している。鑑定によると、先に確認した死因である橋脳の大出血は原発性の小出血が拡大進展して生じたものとされる。この原発性小出血が被告人の暴行によって誘発されたものである疑いも強いが、当該暴行以前に小出血の生じた可能性も否定しがたく、いずれかに確定することはできない。しかしながら、暴行以前に原発性小出血が生じていたとしても、被告人による暴行が被害者に恐怖心等の心理的圧迫を与え、被害者の血圧を上昇させ、よって内因性高血圧性橋脳出血を拡大進展させる結果になったことは容易に推測され、それが、被害者が意識喪失に至った過程とも合致する。他方、南港での角材殴打の時点では被害者は全くの意識喪失状態にあったことから、この殴打が被害者に恐怖心等のストレスをもたらし、それが血圧上昇性に作用して出血の拡大に影響を及ぼしたようなことはありえないと思われ、また外力自体が外的刺激となって出血に与えた影響も明らかではない。したがって、「右角材殴打行為が前記出血の拡大に影響を与えたことを認めるに足りる証拠はない(96)」。
  以上のような事実認定の下に、被告人のA組飯場における暴行が被害者に内因性高血圧性橋脳出血を発生させ、あるいは少なくとも既に生じていた出血を拡大進展させる形で被害者の死期を早めたものと認められるとして、被告人の暴行行為と被害者の死亡との間の因果関係を肯定している。そして、この判断は、「被告人の飯場での暴行により既に死因となるに十分な程度の内因性高血圧性橋脳出血が被害者に惹起され、それのみによって近接した時間内に被害者は死に至ったものと認められる(97)」とした本件高裁判決(大阪高裁昭和六三年九月六日判決)、および「犯人の暴行により被害者の死因となった傷害が形成された(98)」とする本件最高裁決定(最高裁平成二年一一月二〇日決定)においても維持されている。これに対して、本判決は南港における角材殴打と被害者の死亡との間の因果関係の存在は明確に否定している(99)

    二審では、被告人側の控訴趣意に基づき、主として南港における角材殴打行為と被害者の死亡との間の因果関係の有無が争われた。これについて、本件第二審の大阪高裁の判決は、先に触れたように、被告人の暴行と被害者の死亡との間の因果関係の存在を前提とした上で、関係各証拠および第二審で新たに取り調べた鑑定意見に照らすと、当該角材殴打は「いまだ死に至る脳損傷をもたらす程度のものとは認められず、せいぜい既に発生していた右内因性高血圧性橋脳出血を拡大させ幾分か死期を早める影響を与えたにとどまると推認され(100)」、「死因の惹起自体には関わりを持たないものであるから、被害者の死亡との間に因果関係は有しない(101)」との判断を下した(傍点は筆者)。
  ここでは、一審判決が端的に角材殴打と被害者の死亡との間の因果関係を否定すると判示したにとどまるのに対し、二審判決が、角材殴打と被害者の死亡の因果関係は否定しながらも、被害者の死期を幾分早める影響を有したことを推認したことが注目される。最高裁はさらに、決定理由において本件角材殴打が「既に発生していた内因性高血圧性橋脳出血を拡大させ、幾分か死期を早める影響を与えるものであった」と本件事実関係を理解し、そうして、「犯人の暴行により被害者の死因となった傷害が形成された場合には、仮にその後第三者により加えられた暴行によって死期が早められたとしても、犯人の暴行と被害者の死亡との間の因果関係を肯定することができ(102)」ることを理由に原審である高裁判決を正当と認めるに至ったのである。

    本件被告人側の控訴趣意及び上告趣意が一貫して問題としてきたように、本件の評価にあたっては、まず角材殴打という第二暴行の結果に対する因果性が問題とされるべきであるように思われる。
  この点につき、先に見たように一審判決は、第二暴行時点での被害者の状態から、第二暴行と死亡結果との間の因果関係を否定したのであるが、これに対して伊東研祐教授は、一審判決は第二暴行と被害者の「死因」の間の因果関係を否定したにすぎず、本来否定すべきである第二暴行と死亡「結果」との間の因果関係について判断していないと批判される。その理由として、第二暴行が、本件被害者の死因である内因性高血圧性橋脳出血を通じてばかりでなく、例えば、有形力として被害者の身体に与えた打撃のショック自体が死亡結果の発生時期を早めることがあることを指摘される(103)。しかし、第二暴行が被害者に与えたと考えられる傷害はいずれも頭部の外傷のみであって、これ以外の第二暴行の影響の痕跡は被害者の体内には残されておらず、本件の橋脳出血が外力によるものではなく「内因性」のものである以上、第二暴行がこの橋脳出血に影響を及ぼしたと考えることもできない(104)。たしかに、一般人の考えでは、すでに脳内に傷を負って出血している者の頭部を角材で殴打すれば、脳内の傷を拡大させたり、またはその他のショックを被害者に与えるように思われるが、専門家による鑑定でそのことが明らかにならなかった以上、それを越える仮定的判断をなすことは許されないことは言うまでもない(105)。もっとも、二審判決は、新たに別の鑑定人を取り調べた上で、第二暴行が橋脳出血を拡大させた可能性があることを認めているようにも読めるが、控訴審においても本件死因である橋脳出血が「内因性」であることが覆されず、また第二暴行の影響力が具体的に確定できなかった以上、一審で認定された事実がそのまま前提とされるはずである。
  このように見てくると、本件では、第二暴行は具体的な結果そのものに対して特に影響を及ぼしていないと見るべきである。たしかに、第二暴行が死因である橋脳出血の拡大を通じて結果に影響したという仮定は、自己の行為の因果性がそれに影響される可能性があるという意味では被告人にとって有利であるかもしれない。被告人側が再三に渡って、第二暴行の因果性を争った所為である。しかし、第二暴行の結果に対する因果性について自ら争点を形成しながら結局この点について自己に有利な裁判所の判断を引き出すことはできなかったと言える。
  それゆえ、特に第二暴行が被害者の死期を早めたと仮定する最高裁の判断は事実審で認定されなかった事実を前提としていると言うべきであり、その意味で本件の最高裁決定は、事実審裁判所の行った事実認定を前提とする争点に対する判断としての判例としての価値を有するとは必ずしも言えない(106)。因みに、一審判決にしても、被害者の高血圧症を特異体質として特に考慮に入れることもなく、被告人の暴行が橋脳出血をもたらした因果的機序は明らかでないとしながら、本件暴行の死亡結果に対する因果関係を結論として肯定している点で疑問がある(107)

    本稿では「大阪南港事件」を以上のように評価をすべきであると考える。このような評価を前提とするならば、この事件が中心的な役割を果たしたとされる「相当因果関係説の危機」とこれをきっかけとして高まってきた客観的帰属論の採否をめぐる議論に対してはどのように評価すべきであろうか。
  まず確認しておかねばならないのは、前節で見たように、従来からの相当因果関係説を維持すべきであるとする論者は、介在事情の結果に対する因果的寄与が極めて微小である場合、これを判断基底に組み込もうと組み込むまいと第一暴行の有する危険性がそのまま結果に現実化したと言えるのだから、第一暴行と結果の間に相当因果関係が認められるとして、本件で裁判所が一貫して維持してきた結論を支持していることである。すなわち、具体的事案の解決の合理性という意味では、この事件では相当因果関係説は「危機」に陥ってはいないというのである。
  このような見方の前提には、第二暴行の寄与度が取るに足りないということがある。その点でこの見解は、本稿と同様、事実審である一審の判決で第二暴行の結果に対する因果関係を否定する判断が下され、形成された争点に対する判断として上級審で明確にこの点が覆されなかった以上、本件の前提事実としては、第二暴行の結果に対する影響力はなかったとする一審判決で認定された事実を前提とすべきとする立場に立つようにも見える。このような前提からは、第一暴行の結果に対する因果関係を認めるのに、相当因果関係説の立場からなされる第一暴行の結果惹起の危険性の検討以外に特別な考察を要しないのは当然であると言える。そして、第二暴行の結果に対する寄与度が取るに足りないというこのような前提は、「相当因果関係説の危機」を標榜され、「死因の同一性」の範囲内で介在事情の抽象化を認める井田教授の見解でも同様であると思われる。このような井田教授の見解に対しては、第二暴行がどれだけ被害者の死期を早めたとしても死因が同一である限り抽象化されることになり、抽象化の範囲が広すぎる(言い換えると第一暴行の因果関係の認められる範囲が広すぎる)という山口教授の批判があることは先に触れたとおりである(108)。しかし井田教授も、もし仮に、南港での殴打の時点で被害者に救命可能性があり、そのままの状態で放置されていれば彼は翌日まだ生存した状態で発見されたかもしれないにもかかわらず、第三者が彼の頭部を殴打したため第一暴行ですでに形成されていた脳内出血が拡大して発見前に死亡したという場合には、当初の暴行の死亡結果に対する相当性を検討するにあたり、死因が同一だというだけでこのような第三者の暴行を抽象化することはしないのではないだろうか。そうだとするなら、井田教授のとられる「介在事情の抽象化」という方法によって「大阪南港事件」の事案とこの設例の事案の結論を分けるのは、第二暴行の影響力であって、「死因の同一性」ではないはずである。このように、従来の相当因果関係説の判断の不明確さを強調される井田教授も、結果に影響しなかった介在事情を相当性の判断対象にはしないという意味では、なお従来の相当因果関係説と同様の考え方に立っているように思われる。

    問題は、二審判決で仮定され、最高裁の決定理由中では前提事実とされるに至ったとも思える、第二暴行が被害者の死期を早めたという事実を前提とする場合でも、これらの見解が第一暴行に死亡結果の因果関係を認めることである。仮にこのような第二暴行が行為者にとって予測不可能である場合にまで第一暴行と結果の間の因果関係を肯定することが妥当であるとするならば、それはまさに「相当因果関係説の危機」を意味する。なぜなら、相当因果関係説の立場からは、予測不可能な第三者の故意行為は、行為者の行為に付随し得るものではないので、この行為の相当性の判断対象とすることはできず、具体的な結果との間の相当因果関係が否定されることになるはずだからである。すなわち、この場合には相当因果関係説では妥当と思われる結論を導くことはできないのである。
  しかしながら、客観的帰属論によってもこのような結論を導くことは困難である。本稿のはしがきでも触れたように、シューネマンは第二暴行が被害者の死をもたらした場合には、これが第一暴行時に行為者にとって予見可能である限りで、第一暴行者への結果の帰属を肯定する(逆に、第二暴行が予見不可能なものである場合には結果は帰属されない。)。また前章第一節で見たように、ロクシンの客観的帰属論によればこの事案は、当初の行為によって創出された危険が後発の行為によって法的に見て測定可能な形で高められたかという危険実現の問題、および発生した結果は誰の答責領域にあるかという各関与者の答責領域への帰属の問題に関係してくると思われる。そして、この事案の具体的解決は必ずしも明らかではないものの、行為者とは無関係の予測不可能な第三者の暴行が被害者の死期を早めた場合には危険実現からして否定され(109)、仮にこれが肯定されるとしても、第二暴行者がまだ生きている被害者に暴行を加えその死期を早めた時点で、事象の経過に対する支配はすでに第二暴行者に移っていることから、発生結果は第二暴行者の答責領域にあるとして第一暴行者への帰属を否定するように思われるのである。いずれにせよ、客観的帰属論の立場によっても、およそ予測不可能な事情が結果に寄与した場合にまで結果の帰属が肯定されるわけではない。それは責任能力を有する第三者の故意行為が介在する場合には第一行為者への発生結果の帰属を否定する遡及禁止の前提に反するからである(110)。ロクシンらの見解から一歩進んで、遡及禁止を客観的帰属の基本的な前提に据える近時の客観的帰属論の見解ではなおのことそうである。
  また本稿のはしがきで見たように、最高裁の決定理由が前提とした「大阪南港事件」の事案では、第一暴行と第二暴行の寄与度を規範的判断として比較した上で、どちらに結果を帰属させるべきか検討すべきであるとし、そのような検討を可能にする学説の一つして客観的帰属論に期待を寄せる見解がある。しかしながら、客観的帰属論は、介在事情の結果に対する寄与があることを前提とした上で、遡及禁止、予見可能性、答責領域論などの観点からいかなる態度に結果を帰属できるか判断する理論であって、寄与度の単純な比較論などではない(111)。それゆえ、客観的帰属論はこのような期待に応えるものとは言えないのである。

    このように見てくると、「大阪南港事件」のような故意行為後に第三者の故意行為が介在する事案については、まさに客観的帰属論の立場に立たなければ解決困難な問題であるという評価は必ずしも成り立たないであろう。この問題は、客観的帰属論の構想を正当に評価する機縁にはなったと思われるが、それ以上のものではない。
  それゆえ、この問題を中心として客観的帰属論の是非について争ってきた従来の議論は、客観的帰属論構想の有する意義という点からすれば、きわめて射程の狭い議論であったと言えよう。

三、「被害者の自己答責性」について
    周知のように、わが国では「ダートトライアル事件」判決(千葉地裁平成七年十二月十三日判決、判例時報一五六五号一四四頁(112))において、本判決がダートトライアル競技の練習中の事故で同乗者を死亡させた運転技術の未熟な被告人に対し、「被害者の危険引受け」による社会的相当性を理由に違法性を阻却し、業務上過失致死罪の成立を否定したことをきっかけとして、「被害者の自己答責性」の問題に関する議論が盛り上がってきた(113)

    この問題をめぐってわが国では、自己答責性という考え方が自己決定権思想という共通の基盤を持つと見られることから、被害者の承諾論との異同が問題とされている。その中で、被害者の自己答責性に独自の意義を認める論者は、これを結果の客観的帰属の原理の一つとして、客観的帰属論によりこれを解決すべきであると主張する。例えば代表的な被害者の自己答責性論の主張者である塩谷毅助教授は、「『被害者の自己答責性論』は、専ら被害者の『意思』のみに着目する『被害者の承諾論』とは異なり、『被害者の意思と態度(行為)の連関』に独自の意義を持たせ、『客観的帰属論』の思考様式のもとで、『正犯・共犯論』の視点を交えながら、『被害者の承諾論』では解決できなかった『生命』侵害・危殆化の問題(自殺関与事例や自己危殆化事例)を解決するための理論であることに注意する必要がある(114)」として、特に被害者による処分権が制限されている「生命法益」について、被害者の承諾を問題とすることでは解決不可能であるがゆえに、これを「被害者の自己答責性論」の独自の問題領域として客観的帰属論の考え方を取り入れて解決を図るべきであるとする。
  客観的帰属論を全面的に採用すべきであるとする山中教授は、より一般的にこの問題を個人の自己答責的行為の介入事例の一形態と見て、その行為によって規範的に新たに評価されるべき介入行為者の答責領域に属する「新たな危険」が設定されたことを理由に、危険実現連関の中断を認める(115)。すなわち、被害者の自己答責性の場合も、自己答責的な介在行為者の態度による結果は、原則的に元の行為者には客観的に帰属されないという客観的帰属の一般原則の下に置かれるというのである。また、松生光正教授は端的に行為者自身への結果の帰属を否定する「自己答責性原理は、被害者自身の行為や第三者の適法な行為が介入する場合についても適用されうる(116)」と述べている。
  これに対し、前節で見た林幹人教授の見解のように、被害者の自己答責性の問題も被害者の承諾の法理の延長上にあるとし、これに独自の価値を認めない見解も有力である。この見解は、例えば、被害者の危険引受けの場合における、被害者が結果発生を望んでおらず、むしろその不発生を信じているというような事情は、被害者の同意を認めるにあたって重要ではなく、結果発生の危険を有するような態度について同意があれば、結果についても同意を認めることができるとする。

    後者の被害者の同意論による解決に対して、この見解が被害者の同意の有無を論じるにあたって重要ではないと切り捨てる「被害者が結果発生を望んでおらず、むしろ結果の不発生を期待していた」という事情は、被害者の同意による違法性阻却の根拠を、法益侵害結果の「無価値」と「自己決定実現の価値」の比較衡量であるとする限りなお重要であるとする批判がある(117)。特に被害者の危険引受けの場合、被害者が自己決定の実現として積極的価値を認めていたものは、「自らの死」ではなかったはずであり、被害者が死亡してしまっては、彼は自己決定を実現することはできず、そこには「被害者の死」という結果の無価値だけが残るというのである。また、危険の認識があれば必然的に結果に対する同意も徴表されるという考え方に対しても、実際上は同意の対象を行為とする見解と変わるところがないと批判される(118)
  結果犯では、結果はその構成要件を特徴付ける重要な構成要件要素である。そして、この構成要件実現による結果の無価値を止揚して、その結果を発生させた行為を正当化するためには、当然同意の対象も結果にまで及んでいなければならないはずである。結果発生を望んでいないにもかかわらず、何らかの自己の利益のために結果発生の危険のある行為を受け入れた者にまで結果についての同意を認めるのは、正当にもツァツィクが指摘するように一種の「同意の擬制」を意味するが(119)、それは被害者の本意に反する。また、現行刑法は特に生命については二〇二条により被害者の同意の正当化的効果を制限しているのであるから、他人による被害者の生命侵害の場合に被害者の同意の法理を援用してこれを正当化することはできない(120)。また、判例・通説は傷害の場合にも一定の範囲で被害者の同意の効果を制限するが、その限りでは生命の場合と同様のことが言えよう(121)。それゆえ、結果発生の危険性を有する行為に同意していることから必ずしも結果に対する同意も認められると解すことはできないように思われる。

    むしろ、この問題の本質は、被害者が結果の発生に客観的側面でも一定の積極的な役割を果たしていることにある。すなわち、被害者の同意の場合には、被害者は同意の意思表示をした上で行為者の行為を消極的に受け入れるにすぎないのに対して、「被害者の自己答責性」が問題となる事案では、「被害者の自己危殆化」の場合は言うに及ばず、「合意による他者危殆化」の場合でも、発生結果は被害者自身の責めに帰すべきであると言うべき態度を被害者がとっているのである。例えば、被害者の自己危殆化の事案とされる、「オートバイレース事件」や「ヘロイン注射事件」では、被害者自身が自分を危険にさらす行為を自らの手で行っていることでこれが認められる。しかし、後者の合意による他者危殆化の事案である「メーメル河事件」や「エイズ感染事件」でも、被害者は、直接に結果を惹起した者(船の船頭や被害者の恋人)から危険性について十分な説明がなされた上で、それにもかかわらず、強く懇請することによって、いわばこの者に共働して彼に被害者を危殆化することになる態度をとらせることに、被害者自身の責めに帰すべき態度を認めることができるのである。
  このような「そもそも実際、『行為者』と『被害者』の関係であるのか、まさに再検討すべきであるような『行為者』と『被害者』の相互的関係(122)」が問題となる場合には、解決には結果に対する各関与者の答責性を直接問題とせざるを得ない。これはまさに「発生結果は誰のものとして客観的に帰属されるか」という客観的帰属の問題であることは明らかである。先に述べた被害者の自己答責性を根拠とする結果の客観的帰属を論じる意義はまさにこの点にあるのである。

    もっとも、このような被害者の「自己答責性論」を前面に打ち出した解決にも問題がないわけではない。特に問題とされるのは、自己答責性原理を正犯原理と解し、自己答責的行為が介在する場合には、その背後者の正犯性が否定され、背後者は総則共犯規定、あるいは特別の規定に把握される限りで可罰的となるという、本稿でも各所で見てきたような遡及禁止論と被害者の自己答責性論をパラレルに考え、このような遡及禁止論を基礎として自己答責的な被害者の態度に関与した者の不可罰を根拠付ける立場についてである。
  たしかにこのような立場に立てば、積極的に結果を意欲する自殺や自傷の誘発・促進を第三者の故意行為の誘発・促進とパラレルに解することについてはそれほど問題はないであろう。すなわち、この立場からは「警官ピストル事件」のような他人の自己答責的な自殺を過失により誘発・促進する場合には、刑法典の自殺関与罪は故意による自殺関与しか処罰していないので、過失共犯として不可罰となるはずである(123)。しかし、特に「オートバイレース事件」の事例のように積極的に結果を意欲していない被害者の自己危殆化の誘発・促進については第三者の故意行為の誘発・促進とパラレルに解するには問題がある。この場合は、被害者は結果発生の抽象的な危険性を認識しているにとどまっており、このような認識は同様の行為を被害者が自分自身にではなく第三者に対して行ったとしたら故意行為と言える程度のものではないからである(オートバイレース中の無謀運転による事故で歩行者を死亡させた場合を想起されたい)。その意味で、レースを持ちかけ、共に行った被告人に過失致死を認めたドイツの判例にも一理あると言えるが、しかし、この判例の考え方にも、明らかな自損的行為を誘発したにすぎない態度に注意義務違反を理由として過失正犯を認める点で問題があるように思われる。すなわち、結果に対する意識を欠く自己危殆化行為といえども、結果発生の危険を有する行為を自ら行うことで結果を自らの手で惹起するという点では自殺や自傷などの典型的な自損行為と何ら変わるところはないのである。このような自己危殆化の場合の主観面でのギャップを埋め、これに背後者への結果の帰属を否定するという意味での正犯としての結果の客観的帰属を認める自己答責性の主観的要件を模索する必要がある(124)

    過失犯における限縮的正犯概念を正面から承認することで問題を解決するには、以上のような困難がある。そのため、ロクシンの見解のように、背後者が原則として過失の「正犯」であるとした上で構成要件の射程の問題として各論的に結果の帰属を判断するという構成をとることも方法としては考えられるが、これがすでに過失犯における統一的正犯の前提に反する結果となってしまうことについては、第三章で見た通りである(125)
  また、被害者の危険引受けあるいは合意による他者危殆化の場合にも、被害者が結果発生の危険について行為者と同程度の認識があるだけでは足りず、答責的とされる一定の態度をとっていたことが被害者の自己答責性を認める前提とされる。しかしながら結果を惹起したのは行為者である。このような行為者ではなく、直接結果を惹起していない被害者の側に正犯性を認めるとするなら、必ずしも因果性を前提としない正犯論がここでは必要となる(126)。このことから、客観的帰属論とはここでは、結果に対して直接因果関係を有する行為を行ったわけではないが、結果発生に対し重要な役割を演じた者に、そのことを理由として正犯としての結果の帰属を認める理論であると評価するのが正当である(127)。しかし、これは処罰の拡大を意味するものではなく、特に注意義務に違反する行為から結果を惹起した過失行為者に、被害者あるいは第三者の自己答責的な態度から生じた結果を帰属させないという点で、むしろ処罰の限定を意味するのである。

四、ま  と  め
  以上、わが国における客観的帰属論の問題として、故意行為後の第三者の故意行為の介入の事案とされる「大阪南港事件」と被害者の自身が結果発生に対して主たる役割を果たしている「被害者の自己答責性」に関するわが国の議論を検討してきた。そこでの一応の結論を確認しておく。
  まず、「大阪南港事件」について、最高裁決定理由中の本件の事案の確認が問題である。すなわち、南港における第二の暴行が被害者の死期を早めた、という一審は言うに及ばず、二審でも仮定的に触れられているにすぎない事情を前提に第一暴行の因果関係を判断している点で問題である。本件では第二暴行は結果に対して因果関係がないという一審の判断が上級審でも明確に覆されなかった以上、この一審で確認された事実を前提とすべきである。そうであるならば、この事案は行為後の第三者の介在行為が結果に影響を及ぼしていない場合と評価できるので、因果関係理論としていかなる見解をとろうとも当初の行為の因果関係を肯定するのに何ら障害はないと言える。その限りでは、この事案は相当因果関係説に「危機」をもたらすものではない。
  仮に、本件で第二暴行が被害者の死亡時期を早めていた場合には、少なくともドイツで主張される客観的帰属論の見解からは、第一の暴行に結果は帰属されない。これは結果に対する寄与度において、第一暴行が第二暴行に勝っている場合でも変わりはないと思われる。客観的帰属論の規範的判断とは、単なる事実的な寄与度の比較論などではなく、直接具体的結果をもたらしたと言うべき行為に結果は帰属されるべきであるとする遡及禁止、およびそれを前提とした上での背後者の介在事情の支配可能性(通常は予測可能性を中心に判断される)を基本とする判断である。さらに、場合によってはこれに加えて、職務的な義務や保障人的地位などを根拠とする独自の答責領域が存在することもあり、その場合にはそのような答責領域を有する者に結果は帰属される。このような客観的帰属論の理解からは、行為者にとって予見不可能な第二暴行によって具体的な結果がもたらされた場合、もはや第一行為者に結果を帰属する根拠はないように思われる。それゆえ、この問題を中心に客観的帰属論の是非を検討してきた従来の議論の射程がきわめて狭いものであることは、先に述べたとおりである。
  次に「被害者の自己答責性」については、この問題領域に属する被害者の自己危殆化、合意による他者危殆化ないしは被害者の危険引受けのいずれの場合でも、「被害者の同意」を問題とすることはできないことを確認しておく必要がある。被害者自身が結果発生を積極的に望むことにより発生結果の無価値を止揚する被害者の同意の法理が妥当するには、当然被害者が結果発生を積極的に意欲していることが前提となるが、「被害者の自己答責性」に属する事案では、被害者は結果発生を望んでおらず、むしろその不発生を信頼しているからである。この問題の本質はむしろ、結果発生に被害者自身も一定の役割を果たしている場合、被害者がそのような態度をとったことは、結果発生について行為者に帰責するにあたり行為者に有利に解されるべきではないか、言い換えれば結果は被害者に帰属すべきものではないのか、という客観的帰属の視点である。つまり、この問題では発生結果そのものの無価値性は否定し得ないのであり、その無価値な結果を誰に帰属するかというのが問題の本質なのである。これは専ら客観的帰属論の領域に属するものである。
  問題はむしろ、遡及禁止論との関係にある。すなわち、被害者の自己答責性の場合には結果に対して第一の答責性を有する被害者は結果発生を積極的に意欲していないの対し、故意の行為を前提とする遡及禁止で通常問題とされる直接行為者が第三者を侵害する場合には、結果に対し第一の答責性を有する直接行為者は結果発生を積極的に意欲しているので、両者を同一次元で考えるには、このような主観面でのギャップをどのように解すべきかが問題となるのである。特に他人の自己答責的な行為が介入することを理由に両者に遡及禁止を認める見解は、この点を重視してこなかったきらいがある。また、「構成要件の射程」による各論的な解決では、他人の死を過失で惹起していながら自己答責的な被害者の態度に関与する場合には、なぜ構成要件の射程からはずれるのか、むしろのそのような判断の背後には、過失犯における統一的正犯の前提により否定した過失犯における正犯と共犯の区別があるのではないかという批判が有力に展開されていることは、第三章で確認したとおりである。
  「被害者の自己答責性」を客観的帰属論の問題と理解し、また被害者による場合を特別視しないとするなら、問題はむしろ客観的帰属論の重要部分である遡及禁止の内容そのものにあるように思われる。すなわち、直接行為者に必ずしも結果発生の具体的な認識が欠けている場合でも遡及禁止が認められるとすることで、被害者の自己危殆化の場合も意識的な故意による場合に限定されずに、第三者の侵害の場合の遡及禁止と同様に解することが可能になるのである。

第三節  今後の課題

    以上わが国における客観的帰属論をめぐる議論を整理・検討してきたが、それではそもそも客観的帰属論の構想を用いねば解決できない事例群としては、わが国ではいかなるものが考えられるのだろうか。本稿におけるこれまでの検討で問題としてきた類型の中から、客観的帰属論の今後の展開において特に重要であると思われる類型をいくつか取り上げることにする。

    第一の類型は、ドイツで客観的帰属論が登場するきっかけとなった、過失犯における義務違反と結果の関係に関する事例である。わが国の裁判例としては、周知のように、いわゆる「京踏切事件」(大判昭和四年四月一一日)が有名であるが、その他にも、交通事犯についていくつか判例がある。最近のものとしては、真夜中に最高制限速度をオーバーして自動車を運転していたところ、突然、老人が路上に現れたので、急制動の措置をとったが間に合わず、この老人をはねて死亡させたが、仮に制限速度で走行していたとしても、同様の事故は避けられなかった場合に、減速義務(他に、前方注視義務)の違反を否定することにより、過失を否定し、被告人を無罪とした下級審の判例(千葉地判平成七年七月二六日、判例時報一五六六号一四九頁)がある(128)。従来この問題は、わが国では仮定的な因果関係の問題として論じられることが多かった。しかし、行為者が現に義務に違反した行為を行って、その行為から結果が発生した場合に、これを因果関係の範疇で論じることが果たして可能であるのか疑問が残る。第二章第二節で見たようなドイツにおける展開はまさにこの点に関するものであった。

    第二の類型は、前節で検討を行なった「被害者の自己答責性」の問題、とりわけ自己危殆化に対する関与、もしくは合意による他者危殆化の問題である。わが国では、この問題が自覚的に論じられてからまだ日が浅く、このような帰属基準を用いたとされる判例も今のところ皆無に等しい(129)。しかしながら、先に触れたように「ダートトライアル事件」の事案はこの点が問題となり得るものであった。
  もっとも、被害者の自己答責性論については、先に指摘したように、その個別の要件について特に直接行為者が第三者を侵害する場合の答責性との関連で問題があり、さらなる検討を要する。
  すなわち、他人の自己答責性は、被害者の行為の場合に限らず、第三者の行為が介入する場合にも問題とされる。故意の第三者が介在する場合には、遡及禁止の原理が妥当するので、本稿の立場からは第三者の故意行為に過失で関与する者には、第三者が責任能力を有しない場合などの例外を除き、原則として結果は帰属されない。それに対して、第三者の過失行為が介在する場合、特に行為者の過失行為が第三者の過失行為とあいまって結果を発生させた場合、両者の過失行為がどのように評価されるべきかが問題となる。この問題は特に管理・監督過失の場合に顕著に現れる。すなわち、監督者の側にも落ち度が存在していたが、これが必ずしも直接結果を惹起した他人の過失行為を誘発したという関係にはない場合、監督者に発生結果を帰属することが果たして可能なのかが問題となるのである。そのような考え方が当罰性の要請を満たすのかも含め、ここでは、この点について詳しく論じることができないので、後日を期す他ない。本稿では試論的にだけしか述べることができないが、筆者の私見は、第三章で見たレンツィコフスキーの見解に倣って、直接行為者が自己の態度の危険性を認識している(結果発生の具体的な可能性まで認識している必要がないのは、もちろんである。)場合には、過失犯においても原則として遡及禁止により背後者に結果の帰属を認めず、背後者に保障人的地位等の帰責の上での優越が認められる場合に限り、背後者(ここでは監督者)を過失の間接正犯と構成することによる解決が妥当であると考える。直接行為者が自己の態度の危険性を認識している(結果発生の具体的な可能性まで認識している必要がないのは、もちろんである。)場合に、直接行為者に自己答責性とそれに基づく結果の客観的帰属が認められず、むしろ背後者の側にそれが認められるのはいかなる場合かということについては、個別に検討すべき課題であるが、ここでは第三章で検討したシューマンの見解が手がかりを与えてくれると思われる。すなわち、彼は、それは背後者の答責領域が直接行為者の答責領域に及んでいく場合、つまり背後者が保障人的義務を負うべき場合があると分析した上で、直接行為者が特定の注意義務から解放されるような答責の引受けを背後者が行ったこと、あるいはそうでなくとも、直接行為者が自分の責任についてどのように評価すべきか教示する義務を負っていることにより、それが肯定されるとする。彼は、前者の義務を「免除義務」と特徴づけ、医師等の専門家が専門的な見地から適切なアドヴァイスを行うべき場合、あるいはこのような専門家による専門的な「引き受け」の場合でなくとも、背後者は直接行為者の行動について指示権限を有する場合にこれが認められるとする。また、後者の義務については、法秩序について教示を行うべきとされる者、とりわけ弁護士に妥当すると言う。このような特別な義務に背後者が違反する場合、いわば「義務犯」として、直接行為者の法益侵害の危険を有する行為にもかかわらず、背後者に正犯として結果が客観的に帰属されるのである。そのために従来の故意を中心に理解されてきた自己答責性原理は変更を迫られることになる。これについてレンツィコフスキーは、過失はその不法内容においては故意と異なるところはなく、ただ結果発生につながる一定の事実を認識していないという一点で故意と異なるにすぎないとする。すなわち、正犯として結果が客観的に帰属されるための前提となる不法内容を直接行為者の行為が有しているという点では、故意犯でも過失犯でも同様であり、故意犯に遡及禁止が妥当するのならば、同様に過失犯にも遡及禁止が妥当すべきであるというのである。それゆえ両者は結果の発生の危険性を有する行為を行ったという意味では、同様に結果発生を防止するための禁止規範に違反しており、その限りでは違法性の内容・程度は同一であり、遡及禁止にとってはそれで十分である(130)。もっとも、遡及禁止の原理を前提としながらも、背後者の側に結果を帰属すべき一定の事由が存在する場合に、背後者に故意・過失いずれの場合でも正犯として結果を帰属するという意味では、ここで主張される私見は、伝統的な遡及禁止論の枠組みを越えたものである。このような規範的判断は、従来の因果関係を前提とする結果の帰属では評価し得ないものであり、まさにここにこそ、客観的帰属論構想の具体的・実践的意義が存するのである。
  なお、遡及禁止原理が前提とする直接行為者の行為自由との関連で、過失行為も故意行為と同様自由になされる行為であるとする前提に立つなら、このような答責性における故意と過失の差異を論じる意義は乏しいと思われ、なおのこと私見のように解するべきであるように思われる。もっとも、結果を意欲していたわけではない過失行為者が、果たして発生結果との関係で自由に行為していたと言えるのかについてはなお議論の余地がある。それゆえ、私見としてはこのような前提に立たないレンツィコフスキーのような解決を行うべきであると考えるのである。

    もっとも、客観的帰属論を前節の最後に述べたように結果に対する因果性だけによらない結果の帰属論と解するなら、遡及禁止の問題一般についても同様に、結果に対する因果性を越えた判断を行うことを認めるべきである。これが前章第三節で見たヤコブスの遡及禁止論である。
  このような見方からは特に過失のみならず、故意の幇助犯についても一定の場合に遡及禁止が認められることになる。これは前章で確認したように、日常的な取引行為が他人の犯罪実行に利用される場合に、利用された者の行為が幇助犯ないしは過失の正犯にあたるかという問題に関係する。この問題は、「中性的態度による幇助(Beihilfe durch neutrales Verhalten(131))」という一群の問題として、ドイツで盛んに議論されており、様々な解決の試みがなされている(132)

    ドイツではこの問題は、弁護士など法律職にある者が、具体的な事件について業務として依頼者に適法・違法について法的な知識を与え、それをもとに行為した依頼者が、一定の犯罪に問われた場合に、法的知識を与えた者はこの犯罪について心理的幇助として可罰的となるか、という形でかつてから問題とされてきた(133)。また古くは、売春宿にワインを提供した業者が売春仲介罪の幇助で有罪とされたが、売春宿に物品を提供する者はすべて売春仲介罪の幇助されるわけではなく、例えばパンや肉のような生活に欠かせない物品を提供する業者は可罰的な幇助とはならないというライヒ裁判所の判例(RGSt. 39, 44)ですでに問題とされていた。さらにドイツにおいて最近盛んに議論されている事件としては、脱税の結果得た金を国外へ送金するのに、銀行の職員が通常の業務によって結果的に手を貸してしまったという事件がある。ただし、後者の事件については、まだ刑事事件として実体的な判決は下されておらず、銀行に対してなされた捜索、押収手続の合憲性の争いにおいて、捜索、押収を受けた銀行側から、このような銀行員の行為は、その取引の通常性により脱税の幇助とはならない(すなわち、犯罪事実が存在しないにもかかわらず、捜索、押収がなされた)という主張がなされているようである(ただし、憲法裁判所は、この事件について銀行職員の行為が脱税の幇助にあたるかの判断はしていない(134))。わが国でも、顧客が脱税に限らず、例えばマネー・ローンダリングを行おうとしていることについて、銀行員が予見すべきであったか、または未必的に認識していた場合に同様の問題が生じるであろう。
  これに対し、わが国で実際の裁判例となった事件として、風俗営業店が宣伝に使用するためのいわゆるピンクチラシを印刷した業者が売春周旋罪の幇助犯に問われた事件について、「幇助犯としての要件をすべて満たしている以上、印刷が一般的に正当業務行為であるからといって、売春の周旋に関して特別の利益を得ていないなど、所論指摘(弁護人の主張・筆者注)のような理由でその責任を問い得ないとは考えられない。」とした東京高判平成二年一二月一〇日、判例タイムズ七五二号二四六頁や、ガソリンスタンドが軽油引取税を納付しないことを知りながら、そのスタンドから軽油を一般客として安く買った行為を、「こうした被告人の行為は、結局のところ、売買の当事者たる地位を越えるものではな」いという理由で、幇助にはあたらないとした熊本地判平成六年三月一五日、判例時報一五一四号一六九頁が注目に値する(135)。特に後者の判例では、このような日常的な取引活動は、それが他人の犯罪実行に役立てられることを行為者がその取引活動を行う際に認識していたとしても、幇助にはあたらないと解されているのである。
  これらの事件で幇助の罪責を否定するというのが妥当な結論であるとしても(もっとも、前者の判例では、可罰的幇助が肯定されているが)、従来の相当因果関係説に基づく結果帰属の枠組みでこれを説明することは困難なようにと思われる。なぜなら、銀行員による脱税の援助を例に取れば、振り込まれた金銭の送金手続きはその金の国外への運び出しにきわめて適したもので、この行為と脱税の幇助という結果の間の相当因果関係は否定しようがなく、手続きを取り扱った銀行員が、持ち込まれた金が脱税により得たものであることを、未必的にでも認識していたなら、故意も否定しようがないからである。
  この類型は、かつてドイツでは故意の問題と論じられたが、その後客観的要件による解決として、社会相当性による解決(136)が学説上提示された。その後、客観的帰属論の影響から、答責分配による解決や取引の相手方の態度が「犯罪的な意味連関」を有するかという基準による解決が提示され、また、第三章で考察したようにロクシンの客観的帰属論の立場からは「認識可能な犯罪的傾向の促進」のメルクマールによる解決が提示されている。もっとも、ドイツにおいてもまだ決定的な解決案は出されていないようである(137)
  これらの問題が提起されたとき、わが国の従来の枠組みで合理的に解決が望めないとするなら、客観的帰属論は一つの問題解決の試みとして、その存在意義が認められるべきである。もっともこれについては、共犯の処罰根拠等共犯論によるアプローチも重要である。むしろここでは、前章の終わりで確認したように、客観的帰属論を共犯の処罰根拠論も含めた結果の帰属の総合的判断と解し、その上で客観的帰属論による解決が必要となるように考えられるのである。

む    す    び


  本稿では、客観的帰属論について、ドイツにおける展開を中心に概観してきた。最近ではわが国でも客観的帰属論の存在意義が以前より重要視される傾向にあると思われるが、それでもなおそれがどのような構想であり、いかなる問題の解決を目指してその主張を展開してきたのか明らかにすることなしには、その採否ついて一概に論じることはできないはずである。本稿はそのような問題意識から、議論の前提のための検討として、客観的帰属論の展開を眺め、その課題をいくつか提示することをもくろむものであった。そのようなもくろみがはたして誤りなく実現されているかどうかは、後日の評価を待つほかないが、相当因果関係説か客観的帰属論か、という従来の議論では、客観的帰属論構想の意義という問題関心からは、きわめて射程が狭いということは明らかになったと言える。
  ところで、客観的帰属論が具体的な問題の解決をめぐって展開されてきたことは本稿で再三強調してきた通りである。これらの個別問題、特に過失犯における正犯と共犯の区別の限界をめぐる問題、および中性的態度による幇助の問題などいわば「各論的問題」について、問題状況とその本質を把握し、客観的帰属論の立場からの解決が必要であることについてドイツにおける展開を踏まえながら検討を試みてきた。いずれにせよ、これらの問題はその本質上「発生結果は誰の態度によるものであるか」という規範的な観点からの解決によらねばならないことは明らかになった思われる。

 

(1)  松宮孝明『刑法総論講義  第二版』(一九九九年)二九二頁では、ドイツにおける新たな理論の登場一般について端的にこのことが指摘されている。
(2)  本件ではBGHは、人体に有害な成分を含んでいると見られる製品を回収しない旨の決議に賛成した取締役の、消費者の身体傷害(肺水腫)についての過失致傷罪の成否の検討の中で、特に因果関係の存否の問題について、「刑法上重要な結果が複数の行為者の態度の寄与が競合することからのみ生じるような事案形態の評価について一般的に妥当する原則から(因果関係の存否に関する結論はー筆者挿入)導き出される」とし、各取締役の義務適合的な態度のすべてを付け加えて考えれば結果は発生しなかった、という関係が認められる限り、不回収の決議に賛成した取締役の態度に結果に対する因果関係が認められると判示した。これについては、本稿第三章第二節参照。
(3)  もっとも周知のように、ドイツの通説は「共同による行為決意」が欠如することを理由に過失の共同正犯を否定している。これに対し、第三章で見たように、過失犯において限縮的正犯概念が妥当すべきことを主張するレンツィコフスキーは、ドイツ刑法二五条二項の「共同して」という文言を、複数の関与者が共同した行為計画の下にそれぞれ役割を分担することと理解し、このような共同による役割分担は必ずしも犯罪結果の発生をもくろんで行われる行為だけに特有のものではないことを理由に過失の共同正犯を肯定する。Vgl. J. Renzikowski, Restriktiver Ta¨terbegriff und fahrla¨ssige Beteiligung, 1997, S. 228ff.
(4)  近時ドイツでは、この問題に関するモノグラフィーが盛んに出版されるようになってきているようである。例えば、T. Schild, Harmlose Gehilfenschaft, Bern, 1994;M. Wolf−Reske, Berufsbedingtes Verhalten als Problem mittelbarer Erfolgsverursachung, 1995;M. Wohlleben, Beihilfe durch a¨uβerlich neutrale Handlungen, 1996;S. Rogat, Die Zurechnung der Beihilfe, 1997;M. Baunach, Grenzfragen der strafrechtlichen Beihilfe, 1999, usw. また、ドイツの主要なコンメンタールの中にも、幇助の要件として、正犯行為への因果的寄与・促進などの因果的な要件を挙げつつ、可罰性の限定を行うために客観的帰属の要素を援用することが必要であるとし、危険減少(これについては本稿第三章第一節参照)の他、「一般的にありふれたものであり、それゆえ社会的に許容された日常取引」をそのような要素の一つに数えるものが登場している。Vgl. Lackner/Ku¨hl, Strafgesetzbuch mit Erla¨uterungen 23. Aufl., 1999, § 27, Rn. 2a (Ku¨hl).
    なお、この問題に関する具体的な検討については、別稿で行うことにしたい。
(5)  周知のように、このような判例の見解は、いわゆる「大阪南港事件」に対する最高裁決定(最決平成二年一一月二〇日)の「被告人の暴行により被害者の死因となった傷害が形成された場合には、その後第三者により加えられた暴行によって死期が早められたとしても、被告人の暴行と被害者の死亡との間には因果関係がある」という決定要旨に端的に現れている。
(6)  例えば、井田良「因果関係の『相当性』に関する一試論」『犯罪論の現在と目的的行為論』(一九九五年)七九頁以下(初出、法学研究六四巻一一号[一九九一年]一頁以下)。山口厚『問題探究  刑法総論』(一九九八年)一六頁以下。林幹人『刑法総論』(二〇〇〇年)一三三頁以下。
(7)  山中敬一『刑法における客観的帰属の理論』(一九九七年)、斉藤誠二「いわゆる『相当因果関係説の危機』についての管見−故意の第三者の行為と客観的な帰属−」法学新報一〇三巻二、三号(一九九七年)七五五頁以下、伊藤寧/松生光正/川口浩一/葛原力三『刑法教科書  総論(上)』(一九九二年)一五八頁以下(松生執筆部分)。「特集・客観的帰属論の展望」現代刑事法四号(一九九八年)四頁以下。また、近時鈴木茂嗣教授が、相当因果関係説は、因果関係に相当性を要求する実体的根拠が必ずしも明らかでないとして、これを退け、客観的帰属論に好意的な見方をされているのが注目に値する。鈴木茂嗣「相当因果関係と客観的帰属」『松尾浩也先生古稀祝賀記念論文集上巻』(一九九八年)一五九頁以下参照。
(8)  前者に関しては、山中・前掲書七〇八頁以下、塩谷毅「自己危殆化への関与と合意による他者危殆化について(一)ー(四・完)」立命館法学二四六号八五頁以下、二四七号七五頁以下、二四八号八〇頁以下、二五一号二七頁以下、同「自殺関与事例における被害者の自己答責性(一)(二・完)」立命館法学二五五号二三七頁以下、二五七号六五頁以下、同「危険引き受けについて」立命館法学二五三号一六五頁以下、同「『被害者の自己答責性』について」『転換期の刑事法学  井戸田侃先生古稀祝賀論文集』(一九九九年)七八三頁以下が代表的である。なお、吉田敏雄「『合意のある他者危殆化』について」『西原春夫先生古稀祝賀論文集第一巻』(一九九八年)四〇七頁以下、小林憲太郎「被害者の関与と結果の帰責」千葉大学法学論集一五巻一号(二〇〇〇年)一四一頁以下も参照。後者に関しては、必ずしも本文で述べたようなことを明言するわけではないが、内海朋子「過失の共同正犯をめぐる問題」法学政治学論究四三号(一九九九年)三四七頁以下がこれ相当すると言えよう。
(9)  内海・前掲注(八)三六四頁。最近では、大越義久教授が、過失共同正犯肯定説の意義は、過失犯における限縮的正犯概念の妥当性を主張することにあると指摘される。大越義久「過失共同正犯」『刑法の争点(第三版)』(二〇〇〇年)一〇七頁。もっとも大越教授は、肯定説の実益自体は疑問視される。
(10)  大谷實『新版  刑法講義総論』(二〇〇〇年)二三八頁。
(11)  大谷・前掲書二二七頁以下。
(12)  曽根威彦「客観的帰属論の体系的論的考察−ロクシンの見解を中心として−」『西原春夫先生古稀祝賀論文集第一巻』(一九九八年)六五頁以下、小林憲太郎「因果関係と客観的帰属(一)ー(三)」千葉大学法学論集一四巻三号一頁以下、四号二六三頁以下、一五巻二号一二七頁以下(二〇〇〇年)(特に(三)が客観的帰属論批判にあてられている)、小林・前掲注(八)(「被害者の自己答責性」原理に対して異議を唱えている)。必ずしも相当因果関係説を支持することを明言するものではないが、客観的帰属論に懐疑的なものとして、林陽一「わが国における客観的帰属理論−最近の展開をめぐって」千葉大学法学論集一三巻一号(一九九八年)二二三頁以下、同『刑法における因果関係理論』(二〇〇〇年)が注目に値する。
(13)  林(陽)・前掲書二〇四頁以下。
(14)  林(幹)・前掲書一四五頁以下、林(陽)・前掲書二〇五頁。
(15)  現在因果関係と客観的帰属に関する浩瀚な論文を公表されておられる小林憲太郎氏の見解も、客観的帰属論に立つ論者、特にロクシンが重要な結果の帰属基準とする「注意規範の保護目的論」が相当因果関係論に他ならないことを論証しようとすることからすると、小林氏自身の見解はともかく、氏の研究はこの見解の流れに沿うものと見てよいように思われる。小林・前掲「因果関係と客観的帰属(一)」千葉大学法学論集一四巻三号(二〇〇〇年)一頁以下参照。
(16)  林(陽)・前掲書三一五頁以下。
(17)  林(陽)・前掲書二三一頁以下。
(18)  大谷實『刑事司法の展望』(一九九八年)七八頁(初出「実行行為と因果関係」『中山研一先生古稀祝賀論文集第二巻』[一九九七年])。
(19)  大谷・前掲注(一八)書七一頁。
(20)  大谷・前掲注(一八)書八一頁。
(21)  注(三)参照。
(22)  大谷・前掲注(一〇)書二三八頁以下。
(23)  大谷・前掲注(一〇)書二三八頁。
(24)  最高裁判所刑事判例集(以下単に「刑集」と称する)四四巻八号八三八頁。
(25)  もっとも、「大阪南港事件」において第二暴行により被害者の死亡時期が早められたという事実認定が妥当だとするなら、第二暴行にも具体的な被害者の死亡結果との間に因果関係が存在すると言える。
(26)  その限りで、相当因果関係説では介在事情の寄与度を考慮することができないという批判は当たらないと言える。むしろ、この意味での相当因果関係説は、介在事情の寄与度を前提にした上で予見可能性により結果帰責を限定する見解と評価できる。
(27)  大谷・前掲注(一八)書八一頁。もっとも、これは行為者が認識・予見していた事情に関してである。
(28)  このような、相当因果関係論における「支配可能性」の思想は、すでにホーニッヒに見られる。彼は、行為の結果に対するつながりの核心は相当説の言うような「予見可能性」ないしは「予測可能性」の概念ではなく、むしろ因果経過の「支配」にあるとしている。ホーニッヒの客観的帰属の構想については、本稿第一章第四節参照。
(29)  本稿第三章第一節参照。
(30)  大谷・前掲注(一〇)書二二七頁以下。危険創出論ないしは増加論に対しては、これは実行行為に当たるか否かの判断に他ならないとしている。
(31)  曽根・前掲注(一二)六八頁以下。
(32)  曽根・前掲注(一二)六八頁以下。
(33)  曽根・前掲注(一二)六九頁、七〇頁、七二頁。
(34)  曽根・前掲注(一二)七四頁、七六頁。
(35)  曽根・前掲注(一二)七八頁。
(36)  曽根・前掲注(一二)八一頁。
(37)  曽根・前掲注(一二)八二頁。
(38)  曽根・前掲注(一二)八四頁、八五頁。
(39)  曽根・前掲注(一二)八九頁。
(40)  井田・前掲書七九頁。
(41)  井田・前掲書八〇頁。
(42)  井田・前提書八四頁。
(43)  井田・前提書八九頁。
(44)  井田・前提書九一頁。
(45)  井田・前提書九二頁。
(46)  井田・前提書九〇頁、九二頁。これに対して山口教授は前者について「死因の同一性」の範囲内で結果を抽象化するのは、第二暴行によりどれだけ死期が早められても因果関係が肯定されるので、広すぎると批判される。山口・前掲書二五頁。
(47)  井田・前提書九三頁。
(48)  井田・前提書九六頁。もっとも、これは結果発生の態様の抽象化を無限定に行いうるとする見解(平野龍一博士、林幹人教授、藤木英雄博士、柏木千秋博士の名が挙がっている)に対して、因果関係の断絶事例でも因果関係が肯定されることになると批判して出された結論である。
(49)  井田・前掲書九八頁。これは、例えば結果的加重犯の成立には加重結果について予見可能性を要するという見解でも同様であるとされる。井田教授は、結果的加重犯について、重い結果が発生する予見可能性が肯定できても、結果的加重犯の成立を否定しなければならない場合があることを指摘される。井田良「結果的加重犯における結果帰属の限界についての覚書」法学研究六〇巻二号(一九八七年)二三七頁以下参照。
(50)  井田・前掲書九八頁。
(51)  井田・前掲書一〇九頁。
(52)  山口・前掲書二三頁。
(53)  山口・前掲書二三頁。
(54)  これは明らかに遡及禁止論のことを指すものと思われるが、ここではそれには言及されていない。
(55)  山口・前掲書二四頁以下。
(56)  「許されない危険」という概念が前提とする行為無価値論に対して、これがわが国の刑法解釈論が前提としている結果無価値論と相容れるものなのか問題視されている。山口・前掲書三〇頁。
(57)  山口・前掲書二九頁。
(58)  山口・前掲書二九頁。
(59)  山口厚「被害者による危険の引受けと過失犯処罰」研修五九九号(一九九八年)六頁。
(60)  山口・前掲注(五九)七頁。
(61)  それゆえ、例えばヤコブスは、被侵害者が自己の法益の取扱について配慮を欠く場合を「自己の危険に基づく行為(Handeln auf eigene Gefahr)」として侵害惹起者を負責から解放すると言うのであって、決して危険そのものがなかったかのように取り扱うとは言わないのである。なお、この「自己の危険に基づく行為」については、長谷川祐寿「自己の危険に基づく行為(一)−デルクゼンの所説を中心に−」法学研究論文集一〇号(一九九九年)三三頁以下も参照のこと。
(62)  なお林幹人教授は、このような山口教授の解決方法は、まさに被害者の同意の法理にほかならないとする。林(幹)・前掲書一八〇頁。たしかに、被害者が危険状況に積極的に入っていくことで、危険にさらされないという利益は消滅するであろう。その限りでは、山口教授の見解は利益欠缺を基礎とする被害者の同意の法理そのものにほかならない。しかし、それによって発生結果についてまで被害者の利益が欠如することにはならない。それゆえ、被害者の危険引受けの場合に行為者の不可罰の結論を導くとするなら、さらなる理由付けが必要となるように思われる。
(63)  林(幹)前掲書一四四頁。一般予防の観点から相当因果関係の内容を規定すべきであるという林教授の相当因果関係説については、林幹人「相当因果関係と一般予防」上智法学論集四〇巻四号(一九九七年)二一頁以下を参照。このような考え方は、林教授の教科書(一三四頁)でも維持されている。
(64)  林(幹)・前掲書一四五頁以下。
(65)  林(幹)・前掲書一四五頁。たしかに、行政上の取締法規違反だけで、許されない危険の創出を認め、あるいは注意義務違反を認めるには十分でないという見解は傾聴に値する。なぜなら、刑法の任務は法益保護であり、犯罪の成立に必要な注意義務違反も法益保護との関係で決定されるべきものだからである。しかし、このような取締法規も注意義務違反の問題に関係してくる限りでは、当然最終的に法益の保護に奉仕するものである。むしろ、注意規範保護目的論とは、取締法規違反があるにもかかわらず注意義務違反を認めるべきではない場合の根拠づけのための理論であり、その意味では取締法規違反がただちに犯罪を基礎付ける注意義務違反となるわけではないという見解の基礎となり得るものと言える。
(66)  林(幹)・前掲書一四六頁、一八〇頁以下。
(67)  塩谷・前掲注(八)井戸田古稀七八九頁。
(68)  林(陽)・前掲書三一五頁。
(69)  林(陽)・前掲書三一五頁以下。
(70)  林(陽)・前掲書二〇五頁参照。
(71)  林(陽)・前掲書二〇五頁。同・前掲千葉大学法学論集一三巻一号二三六頁。
(72)  斉藤誠二「いわゆる客観的な帰属の理論をめぐって」警察研究四九巻八号三頁以下。
(73)  斉藤・前掲注(七)七五八頁。
(74)  斉藤・前掲注(七二)三頁。
(75)  斉藤・前掲注(七二)六頁。
(76)  これらの事例をはじめ、その他には、自転車の事件(本稿では、「二人の自転車乗り事件」と呼んでいる)、酩酊者の事件(酩酊した自動車運転者が、同じ車線に入ってきたバイクをはねたが、通常の状態で運転していても事故は避け得なかった事例)、放火の事件(本稿では、「屋根裏部屋火災事件」と呼んでいる)、医療過誤の事件(交通事故の被害者が、医療過誤で死亡する事例)、流感の事件(薬剤師が誤った薬を渡したため、ビタミン中毒になったが、それを治療するため、入院した病院で流感にかかり死亡した事件)、松葉づえの事件(松葉づえを使用していた被害者が、散歩中に松葉づえを折り倒され、首の骨を折った事件で、松葉づえを使用する原因となった交通事故の加害者の責任が問題となった事例)、ショック死の事件(交通事故の被害者の妻がその知らせを聞いてショック死したという事例)、ピストルの事件(警官が自殺傾向のある恋人のところにピストルを放置してその場を離れたところ、そのピストルで恋人が自殺したという事例。本稿では「警官ピストル事件」と呼んでいる。)、天然痘の医師の事件(天然痘に罹患している医師が病院に出勤し、同僚の医師や患者らに天然痘を感染させた事例)、救急隊員の事例(放火による火災の消火にあたった消防士が、焼死した事件で、放火者の責任が問題になる事例)、追跡者の事例(勾留中の被疑者が逃走したので、これを捕まえようとした者が怪我をした場合に、逃走した者の責任が問題となった事例)、メーメル川の事件(「メーメル河事件」として本稿でも取り上げた事例)、スクーターの事件(酩酊した四人の若者が重量オーバーにもかかわらず一台のスクーターに一緒に乗り、対向してきたトラックにバランスを失って衝突した事件で、運転していた若者の、傷害を負った同乗者に対する刑事責任が問題となった事例)を挙げておられる。これらの事案を見渡すと、斉藤教授が依拠しておられるロクシンの客観的帰属論では、許されない危険の実現、ないしは注意規範の保護目的で解決されているものや、自己危殆化への共働と合意による他者危殆化の問題として構成要件の射程で扱われているものが、規範の保護目的論として一律に扱われている。
(77)  斉藤・前掲注(七二)一四頁、二一頁。
(78)  斉藤・前掲注(七二)二二頁。
(79)  例えば、井田・前掲書七九頁以下。
(80)  山中・前掲書一七頁。
(81)  山中・前掲書五〇四頁。
(82)  山中・前掲書四九二頁。
(83)  山中・前掲書四五七頁。
(84)  山中・前掲書一〇頁。
(85)  山中・前掲書四七〇頁。
(86)  林(陽)・前掲書二〇三頁。
(87)  伊東研祐教授は本件評釈において、本件事案は因果関係論上のいずれの見解をとっても、結論的に第一暴行と第二暴行の因果関係を肯定することになると述べられる。伊東研祐・判例時報一三八八号二二六頁。
(88)  刑集四四巻八号八四八頁。
(89)  刑集四四巻八号八四九頁。
(90)  刑集四四巻八号八六二頁。
(91)  刑集四四巻八号八六二頁。
(92)  刑集四四巻八号八五三頁。
(93)  刑集四四巻八号八五三頁。なお、本判決は外力により脳幹部以外の脳内の部分に損傷が生じ、それを通じて圧迫などにより脳幹部に二次的に出血がもたらされる外因性の二次出血の可能性も否定している。すなわち、本判決は被害者の死因である脳幹部の出血が外力によるものである可能性を排除するものと評価できる。
(94)  刑集四四巻八号八五四頁。
(95)  刑集四四巻八号八五四頁。
(96)  刑集四四巻八号八五六頁。
(97)  刑集四四巻八号八六八頁。
(98)  刑集四四巻八号八三八頁。
(99)  刑集四四巻八号八五六頁参照。
(100)  刑集四四巻八号八六八頁。
(101)  刑集四四巻八号八六九頁。
(102)  刑集四四巻八号八三八頁。
(103)  伊東・前掲二二四頁。
(104)  松宮孝明「『判例』について」『転換期の刑事法学  井戸田侃先生古稀祝賀論文集』(一九九九年)六八九頁。
(105)  松宮・前掲書六三頁。
(106)  決定要旨が判例と評価されないことについては、中野次雄編『判例とその読み方』(一九八六年)三〇頁以下参照。また、松宮・前掲注(一〇四)論文は判例としての価値を有しない「傍論」を担当裁判官による「学説」であると見る。
(107)  松宮・前掲注(一〇四)六八九頁は、むしろこのような一審判決およびこの点を問題としなかった二審判決や最高裁判決の姿勢の方が、「相当因果関係説の危機」であると指摘する。
(108)  注(四六)参照。
(109)  拙稿・立命館法学二七〇号(二〇〇〇年)三〇頁参照。七三頁以下(注(三一)および(三二))も参照のこと。
(110)  もっともロクシンのように、第一行為者が過失の場合に、介在事情が予測可能である限りで結果の帰属を肯定し、過失正犯を認めることには疑問がある。故意であるなら幇助にすぎない行為を過失の場合には正犯とすることは、故意犯と過失犯の正犯原理を分断することを意味するからである。自らの過失行為が、他人の故意行為を促進した場合には、総則共犯規定が過失犯には妥当しないことから、原則として不可罰と解すべきであると考える。しかしながら、そのことは個別の取締法規が存在する場合に、当該過失行為者を取締法規違反で処罰することを妨げるものではない。
    同様の考え方が「大阪南港事件」のような結果的加重犯の場合についても妥当するか否かは、結果的加重犯の共犯を軸に考えるべき一つの問題である。なお、結果的加重犯の共犯については、丸山雅夫『結果的加重犯論』(一九九〇年)、橋本正博「結果的加重犯の共犯」『刑法基本講座第四巻』(一九九二年)一五三頁以下、松宮孝明「結果的加重犯と共犯」中山研一/浅田和茂/松宮孝明『レヴィジオン刑法1  共犯論』(一九九七年)一九四頁以下参照。
(111)  因みに「大阪南港事件」では、被告人が暴行後、被害者を病院へ連れて行く等、何らかの救命措置を取ることなく、夜間は人気のほとんどない資材置場に漫然と放置した点についての刑事責任が問われていない点に疑問がある。むしろ本件は、意識を失い、嘔吐・脱糞等している被害者を放置した行為について、単純遺棄あるいは雇用関係を前提とする保護責任者遺棄罪を認め、これと致死の結果の因果関係を論じるべき事案であった思われる。
(112)  本判決については、山口・前掲注(五九)三頁以下、曽根威彦「過失犯における危険の引受け」早稲田法学七三巻二号三三頁以下、大山弘/松宮孝明「自動車競技練習中の衝突・転倒により同乗者を死亡させる結果になった運転が同乗者による危険の引受けを理由に正当化されることがありうるか(積極)」法学セミナー五〇三号(一九九六年)七四頁以下、佐伯仁志「ダートトライアルの練習中に同乗者を死亡させた事案において、業務上過失致死罪の成立を否定した事例」法学教室・判例セレクト一九九六年三二頁、荒川雅行「危険の引受けと過失犯の成否」ジュリスト・平成九年度重要判例解説一四七頁以下、十河太郎「危険の引受けと過失犯の成否」同志社法学五十巻三号(一九九八年)三四一頁以下、塩谷毅「危険引き受けについて」立命館法学二五三号一六五頁以下を参照。
(113)  文献については注(八)参照。なお、この問題はかつて過失犯における被害者の同意という形ですでに議論されていた。これについては、山中敬一「過失犯における被害者の同意−その序論的考察−」『平場安治博士還暦祝賀  現代の刑事法学(上)』(一九七七年)三三二頁以下。荒川雅行「過失犯における被害者の同意に関する一考察−生命身体犯を中心として−」法と政治三三巻二号(一九八二年)九七頁以下。
(114)  塩谷・前掲井戸田古稀七九九頁(注二)。
(115)  山中・前掲書七二一頁。
(116)  松生・前掲書一六九頁。
(117)  塩谷・前掲「自己危殆化への関与と合意による他者危殆化(二)」立命館法学二四七号九六頁。
(118)  塩谷・前掲立命館法学二四七号九六頁。
(119)  R. Zaczyk, Strafrechtliches Unrecht und die Selbstverantwortung des Verletzten, 1993, S. 51. このような擬制は、この見解がこの場合の同意を「準同意」として、本来の同意とは区別していることからも伺える。
(120)  塩谷・前掲立命館法学二四七号一〇二頁。
(121)  それゆえ、バイエルン上級裁判所は「エイズ感染事件」で正当化的効果が良俗違反性により制限される被害者の承諾の問題とはしなかったのである。これについては、本稿第三章第一節参照。
(122)  Zaczyk, a. a. O., S. 2.
(123)  ここでは、ロクシンの見解のように自殺関与罪の処罰規定が存在しないことからの論証連鎖が用いられているわけではないことに注意する必要がある。
(124)  その一例として、故意の本質を「選択意思」と解する見解が注目に値する。この見解は、故意と過失を区別するにあたり、犯罪結果に対する心理状態から離れて行為者の「行為」選択の意識に着目するものである。この見解によるなら、結果に対する積極的な意思が欠ける自己危殆化の場合でも、故意によるものと評価することが可能になる。この見解については、鈴木茂嗣「故意と意思−選択意思説試論−」法学論叢一四巻五、六号(一九九八年)二九頁以下参照。もっとも、この見解による場合には、被害者の自己危殆化の事例で、被害者が結果発生を望んでいないという事情をどのように評価すべきかが問題となる。
(125)  内海朋子「過失犯における正犯と共犯の限界づけとその判断基準について−ドイツの学説状況を中心に−」慶應義塾大学法学政治学研究三六号(一九九八年)二五一頁以下は、客観的帰属論による帰属連関論で妥当な解決が図れるので、過失犯において正犯と共犯を区別する実益は乏しいと主張するが、本文のように自己危殆化に対する関与の場合には、客観的帰属論による帰属連関論においてすでに正犯と共犯の区別が前提とされているのである。それゆえ、この問題は単なる実益論にとどまらない。
(126)  島田聡一郎「他人の行為の介入と正犯成立の限界−故意作為犯を中心に−(一)ー(五・完)法学協会雑誌二七巻一号一頁以下、三号七〇頁以下、四号四六頁以下、五号七二頁以下、六号五五頁以下は、客観的帰属の問題と正犯成立の問題に関するものとして重要である。本稿は発生結果に対してまず第一次的に答責的とされる者を正犯とするという観点から、正犯性の問題と客観的帰属の問題は同一次元で重なり合うものであるという前提に立っている。なお、塩谷・前掲「自殺関与事例における被害者の自己答責性(一)」立命館法学二五五号二九三頁は、自己答責的な被害者を間接正犯的な役割を果たすものと見る。
(127)  このような、客観的帰属論の発想は不作為犯の場合に顕著である。
(128)  松宮孝明・判例時報四七二号二一九頁以下も参照。
(129)  いわゆる「坂東三津五郎ふぐ中毒死事件」決定(最決昭和五五年四月一八日、刑集三四巻三号一四九頁)がこれにあたるとされる。もっとも、本件で最高裁は、過失犯の成立を肯定している。また、本件評釈である、前田雅英「坂東三津五郎フグ中毒死事件決定」(ジュリスト・昭和五五年度重要判例解説)では、本件で弁護人が「被害者の自己責任」について主張し、一、二審判決は、この点について判断してきたにもかかわらず、論点として検討されていない。
(130)  本稿第三章第二節参照。
(131)  Vgl. B. Tag, Beihilhe durch neutrales Verhalten, JR 1997 S. 49ff.
(132)  これについては、松生光正「中立的行為による幇助(一)」姫路法学二七・二八合併号(一九九九年)二〇三頁以下参照。
(133)  古くは、RGSt. 37, 321.
(134)  憲法裁判所の決定(Beschluβ des BVerfG. vom 23. 3. 1994)では、脱税の幇助の問題よりも、銀行員が身分を確認しないで口座の振り込み手続を行ったことが、租税規則一五四条に規定される身分確認義務に違反しないかが論点となっているようである。なお、わが国でもマネーローンダリング対策として一定の取引を行うにあたっては顧客の身分確認が義務付けられている。
(135)  松宮・前掲書二六四頁参照。
(136)  第二章でも触れたが、タークは、社会相当性については、「ヴェルツェルがこの道具(解釈道具・筆者注)を産み出したことにより、因果的な基準によって規定され、そのために広範である幇助の構成要件の限定に対する有意義な手がかりを創り出した」と評価している。もっとも、「爾後の議論の展開は、ヴェルツェルの構成要件の修正の憂慮すべき不明確さを確固たる支柱でもって理解するために行われた社会相当性の精緻化であり、帰属という考え方によってもたらされた考察の完成である」として、学説では、社会相当性の基準だけではこの問題が解決できず、社会相当性から帰属思想への学説の流れに従って、この問題の解決が試みられてきたことを指摘する。Vgl. Tag, a. a. O., S. 52.
(137)  Tag, a. a. O., S. 52ff.

〔追記〕本稿脱稿後、中性的態度による幇助の問題に関係する研究として、島田聡一郎「広義の共犯の一般的成立要件−いわゆる『中立的行為による幇助』に関する近時の議論を手がかりとして−」が公表された。本研究では結論として、「中性的行為」という形での幇助の可罰性の限定は特に必要ないとされるようである。この点は、本稿が問題とするような客観的帰属論のわが国における導入可能性の試金石となると思われる。別項にて検討することとしたい。