立命館法学 2000年5号(273号) 1頁




経験科学と刑事立法

- 「国民の期待」への応答をめぐって -


葛野 尋之


 

目    次

一  問 題 設 定

二  法的判断と経験科学
  (1)  法的判断の構造
  (2)  法的判断における事実認識

三  「少年法改正」法案をめぐって
  (1)  法案の内容
  (2)  少年非行の「凶悪化」
  (3)  刑罰の正当化要件としての犯罪抑止効果
  (4)  一般抑止効果
  (5)  再犯率への影響
  (6)  「責任の自覚」と応報的制裁
  (7)  立法過程の問題

四  考    察
  (1)  「国民の期待」と刑事立法
  (2)  刑事立法過程の適正手続

五  結    語



一  問  題  設  定


  犯罪社会学者の原田豊は、アメリカ犯罪社会学会の最近の動向を紹介したうえで、次のように述べている。「今日、わが国の犯罪・非行問題について『何かがなされなければならない』という気運が急速に高まっていると感じられる。しかし、たとえば昨今の少年法改正問題で日々飛び交っている議論のうち、確かな実証的裏付けを持って語られたものがどれだけあるだろうか。『適正手続き』によって得られた『証拠』以外は断固として議論の素材から排除するという実証科学の精神が、今こそ必要なのではないか(1)」。
  実証主義の犯罪社会学者からの厳しい指摘である。刑事法学者として、これをどのように受け止めるべきか。
  本稿においては、経験科学と刑事法の交錯、あるいは刑事立法における経験科学の位置づけという視点から、「国民の期待」への応答という形で進められている今回の「少年法改正」の批判的検討を通じて、このことを考えてみたい。このような形で刑事立法が進められるとき、その経験科学的基盤が失われ、科学的・理性的態度から離れた、恣意的でご都合主義的立法の危険が高まるのではなかろうか。このことは、刑事立法の立法政策としての妥当性、あるいは憲法の趣旨・精神により適合するような刑事立法の保障を失わせるのではなかろうか。

二  法的判断と経験科学


(1)  法的判断の構造
  刑事法の場合に限らず、法の解釈は、かつて、法の正しい客観的意味を明らかにすることであって、本来、解釈する主体の主観的なものには影響されない、と理解されてきた。現在も、正当化のための技法としてそのような装いをまとうことがあるが、法解釈も、解釈する主体の価値判断の結果であり、その前提には事実の認識がある、と一般に理解されている(2)。このような法的判断の性格は、法の解釈の場合のみならず、立法にかかわる判断にも当てはまる。むしろ立法の場合の方が、法規定の文言に拘束されないがゆえに、より強くなるといえる。
  法的判断は価値判断であるといっても、勝手気ままに、どのような価値に立っても構わないという意味でないことは、もちろんである。憲法の要請を逸脱する法的判断は、当然、許されない。さらに、後述するように、法解釈においても、立法においても、憲法の趣旨・精神により適合するような法的判断が要求される。

(2)  法的判断における事実認識
  問題は、価値判断の前提となる事実の認識である。正確な事実認識がなければ、それに対する価値判断の結果として示される法的判断が、恣意的なもの、場当たり的でご都合主義的なものとなり、結果として、憲法の趣旨・精神にうまく適合しないものになる危険があるからである。
  しかし、これまで、法的判断における事実認識については、正確な事実認識かどうかを十分に吟味することなく、あるいは、必要とする結論を導き出すために都合よく、一定の「事実」を作り上げてしまうことさえ少なくなかったように思われる。
  正確な事実認識が公正・公平な法的判断にとって不可欠であるならば、そのために、経験科学的研究の成果、そこに示された知見を踏まえるべきである。それが存在するにもかかわらず、それを十分に踏まえずに、あるいは、それを無視や歪曲して「事実」を設定し、法的判断を行うならば、そのような法的判断は、恣意的判断の危険をはらむもの、あるいはご都合主義的な判断として、批判されるべきである。
  しかし、このような意味において批判されるべき法的判断は、これまで、必ずしも少なくなかったように思われる。刑事法の場合にもそうである。それは、個々の具体的な法解釈にとどまらず、実務のあり方を規定し、その大枠を設定する刑事立法の場合にもみられる。また、個々の研究者においても、法律実務家、裁判所、立法者においてもみられる。

三  「少年法改正」法案をめぐって


(1)  法案の内容
  そのような批判されるべき刑事立法の例として、二〇〇〇年九月二九日、議員提出法案として国会に提出された「少年法改正」法案がある(3)
  今回の「少年法改正」法案は、第一に、少年法の厳罰化として、@刑事処分適用年齢の現行一六歳以上から一四歳以上への引き下げ、A一定事件についての原則刑事処分適用、B懇切でなごやかな審判から厳正な審判へ、という点の改正を、第二に、「非行事実認定手続の適正化」のための審判手続改正として、@裁定合議制、A検察官関与、B検察官関与の場合の弁護士付添人関与、C検察官の不服申立、D観護措置期間の現行最長四週間から最長八週間までの延長、E保護処分終了後の救済手続の整備、という点の改正を、第三に、被害者等に対する配慮として、@被害者等の申出による意見聴取、A被害者等への審判結果等の通知、B被害者等の非行事実に関する記録の閲覧・謄写、という点の改正を行おうとするものである。
  本稿が問題とするのは、このうち、少年法の厳罰化についてである。
  「改正」法案は、刑事処分適用年齢を現行の一六歳以上から一四歳以上へと引き下げ、殺人、傷害致死その他故意の犯罪により人を死亡させた一六歳以上の少年の事件については、原則として刑事処分を適用するなど、少年への刑事処分適用を拡大しようとしている。この点において、少年法を厳罰化しようとするものであり、少年法の理念や少年司法の根幹にかかわる重大な「改正」法案である。

(2)  少年非行の「凶悪化」
  いまこのような改正が必要とされる理由に、少年非行の「凶悪化」がいわれる。しかし、そのような事実認識に疑問のあることは、これまでにも、いくつかの研究が明らかにしてきた(4)。一般に、犯罪統計上の数値には、警察の犯罪取締の態勢、積極性など、法執行政策のいかんが一定の影響を与えうる。とくに、警察統計において少年の強盗検挙人員が一九九七年に顕著に増加していることの意味については、ひったくり事犯において問題となる強盗傷害と窃盗および傷害の併合罪との区別に曖昧さが残ることからも、少年警察における非行取締の積極化・厳格化の影響を慎重に考慮しなければならない(5)
  ところが、いくつかの世論調査が示すように、国民の多くが「凶悪化」を信じており(6)、立法者もそれを前提にして、少年法の改正を進めようとしている。少年非行の「凶悪化」の確信は、福祉・教育理念に基づく現在の少年法がうまく機能していないとの認識を媒介として、少年法の厳罰化要求に結びつく。ここに、今回の「少年法改正」が科学的・理性的な態度を失い、恣意的でご都合主義的に行われる危険がある。

(3)  刑罰の正当化要件としての犯罪抑止効果
1  刑罰を正当化する要件に、犯罪抑止効果がある。これは、一般抑止効果と特別抑止効果とに分けることができる。
  刑罰理論上、絶対的応報刑論をとらない限り、犯罪抑止の効果がないならば、刑罰は正当化されない。より厳しい刑罰を正当化するためには、その必要条件として、相対的により強い抑止効果がなければならない(7)。今回の「少年法改正」をめぐっては、刑事手続により刑罰を科すことが、少年審判により保護処分で対処するよりも強い抑止効果があるかどうか、問題になる。
2  憲法もこのことを要請しているように思われる。人権の最大限の尊重という憲法原則からすれば、刑罰による人権制約も、それによる犯罪抑止を通じて人権侵害を防止するために必要最小限の範囲においてのみ、許容されるからである(8)。犯罪抑止効果の存在しないことが明らかであるにもかかわらず、より厳しい刑罰を科すことは、憲法上正当化されず、「残虐な刑罰」(憲法三六条)として禁止される、と理解すべきである(9)
  また、明らかに犯罪抑止効果が存在しないとはいえず、憲法違反とまでは認められない場合でも、後述のように、憲法の趣旨・精神により適合するような刑事立法が必要とされるならば、より厳しい刑罰を定めるためには、より強い犯罪抑止効果の存在が、相当程度にまで確実に認められなければならない。これが認められないにもかかわらず、より厳しい刑罰をあえて定めることは、人権の最大限の尊重という原則をとる憲法の趣旨・精神に適合しない、というべきであろう。

(4)  一般抑止効果
1  まず、一般抑止効果が問題になる。これまでの経験科学的研究において、保護処分の場合よりも刑事処分の場合の方が、より強い抑止効果を有するとの所見は示されていない。むしろ、アメリカで過去行われた研究は、消極的所見を示してきた(10)
  しかし、「厳重な処分はより強い抑止効果をもつ」という強い信念があるためか、保護処分より刑罰の方がより強い抑止効果をもつ、と広く信じられている。たとえば、徹底した厳罰政策をとってきたアメリカにおいて、一九九〇年代半ば以降に殺人による少年の被逮捕者数の人口比が減少していることなどを、厳罰の抑止効果の現れとする見方も示されている。このような見方は、厳罰に抑止効果ありとの信念に適合するだけに、容易に受け入れられやすい。

2  少年法の母国アメリカは、一九七〇年代末から、極端な厳罰化へと傾斜を進めてきた。重大犯罪を効果的に抑止するためとして、一定の重大犯罪については、@少年裁判所から刑事裁判所に事件を広く容易に移送(管轄権放棄)できるようにする、A検察官が事件を少年裁判所に送るか、刑事裁判所に起訴するかを裁量的に判断できる場合を拡大する、Bはじめから少年裁判所の管轄から除外して、刑事裁判所の本来的管轄下に置く、という方法により、刑事処分の適用を積極的に拡大した(11)。このような傾向は、一九八〇年代から九〇年代を通じて進行し、現在に至っている(12)
  抑止効果があるという見方は、アメリカの警察統計において、殺人についての少年(一〇歳以上一八歳未満)の被逮捕者の人口比率が、一九九三年をピークに一九九四年以降減少を続けていることを、根拠とすることが多いように思われる(なお、指標犯罪とされている暴力犯罪〔殺人、強盗、強姦、加重暴行〕全体についても一九九四年をピークに一九九五年以降減少の傾向にある)(G1、G2参照)。この時期の減少は少年法の厳罰化の効果に違いない、と考えるわけでる(13)
  しかし、犯罪の増減は、少年法の厳罰化ということ以外のさまざまな要因の影響を受ける。そうであるがゆえに、アメリカにおける過去の経験科学的研究は、厳罰立法ができたこと以外の、犯罪の増減に影響を与えそうな要因をコントロールしたうえで、すなわち錯乱要因を除外したうえで、厳罰立法が犯罪の増減に影響を与えたかどうか、確認している。その結果、厳罰立法の一般抑止効果については、消極的所見が示されているのである。したがって、厳罰化が進行していた時期に犯罪が減少を示したということをもって、ただちに厳罰化に抑止効果があると結論することは、短絡的に過ぎるといわざるをえない。一般抑止効果について消極的所見を示している経験科学的研究が存在するとき、たんに警察統計上の数値において犯罪減少の傾向があるからといって、これらの所見が覆されないことは当然であろう。




3  また、警察統計上の数値の増減だけを見ても、一九八〇年代半ば頃から一九九〇年代半ばのピークに至るまで、暴力犯罪全体についても二倍程度、殺人については三倍程度も増加している。上述の減少傾向は、このような顕著な増加のあとに生じた。アメリカ少年法の厳罰化は、一九七〇年代末から始まり、一九八〇年代、九〇年代を通じて進められた。一九九〇年代半ば以降の減少の時期のみならず、それに先立つ増加の時期も、同じく、少年法の厳罰化が進められていた時期に重なるのである。
  一九九四年代以降における殺人の被逮捕者数の減少をもって、厳罰化の抑止効果の現れとみるならば、一九八〇年代半ばからの一〇年は厳罰化に抑止効果はなかったけれども、一九九四年からは一転して抑止効果を発揮し始めた、ということになって、あまりに不合理である。厳罰化が進行してから一五年も経って急に、犯罪抑止効果が発揮されたことを、合理的に説明することは不可能であろう。

4  アメリカの警察統計上の被逮捕者数を見ると、一九八〇年代半ばから九〇年代半ばにかけて、少年の殺人は、人口比率で三倍程度にまで増えている(G1参照)。この間、成人の殺人は安定し、少年の財産犯も増加していない。少年の殺人の増加はすべて銃によるものであり(G3参照)、少年の銃規制法違反も激増した。同じ時期、少年の麻薬犯罪も、とくにマイノリティのあいだに増加した。
  ブルームシュタインらの研究によれば、少年の殺人が増加したことの構図が、次のように示されている。すなわち、麻薬の蔓延により、犯罪組織が拡大して大都市のスラムに生活するマイノリティの少年を末端の麻薬売人として組み込み、これらの少年が自己防衛のため銃を所持し、それがその周辺にも広がった結果、麻薬取引のトラブルなどの諍いが銃の使用により殺人や重大傷害に発展する、という構図である。そして、この背景には、政治経済的・文化的衰退による社会的混乱や矛盾のなかで、家庭や地域社会が荒廃し、少年たち、とくにその苛酷な影響が集中する大都市スラムのマイノリティ少年が、将来への希望や社会への理想を失ってしまった、というアメリカ社会の病理がある(14)

5  このように、少年の殺人の増加に、構造的な社会的要因が複雑に作用していることからすると、厳罰立法が抑止効果を有しなかったことも、当然であるように思われる。厳罰立法の抑止効果に期待する立場は、犯罪行為は合理的な利害得失計算によって決定されるという合理的選択モデルに依拠して、少年の殺人の増加は少年に対する処分の甘さが主たる要因であるから、厳罰化によってこれを抑え込むことができる、と仮定する。しかし、このような仮定が的外れであることは、明らかであろう(15)
  少年の殺人の増加について、上述の構図があったとすれば、一九九四年以降の減少には、銃の規制が一定の成果を収めたこと、さらには、経済状態が上向きとなるなかで、社会が一定の安定を見せ、また、若年失業率の低下に示されるように、少年たちが社会参加する機会も増加し、適法な経済的機会の増大にともなって、違法な麻薬市場が縮小したことなどが関連している、と考えられるであろう(16)

6  アメリカの「刑法犯罪(詐欺などを除く)検挙人員の変化」において、少年については、その実人数が一九七〇年代末から八〇年代半ばにかけて顕著に減少し、八〇年代半ば以降は若干の増加傾向を見せながらも比較的安定していることを示すグラフを参照しながら、「米国で、八〇年代以降少年犯罪が沈静化した事実も重要である。『米国では厳罰化政策は失敗した』ともとれる論述が見られるが、少なくとも、少年厳罰化により少年犯罪の全体数が抑え込まれた事実は否定し得ない」とする見解がある(17)
  しかし、このような見解には疑問がある。
  厳罰立法の一般抑止効果に消極的な所見を提示した経験科学的研究があるとき、たとえ厳罰化と少年犯罪の減少が同時期に存在していたとしても、そのことからただちに、厳罰化という原因によって少年犯罪の減少という結果が生じたと認めることができないのは、上述のとおりである。厳罰には抑止効果があるはずだ、という人々の信念が存在するからといって、当然ながら、それだけで、少年法の厳罰化に抑止効果があることを説明したことにはならない。

7  アメリカの警察統計においては、州ごとの犯罪定義の違いを考慮して、どのような州においても犯罪とされているような犯罪を指標犯罪に指定している。この指標犯罪は、殺人、強盗、強姦、加重暴行の指標暴力犯罪と、侵入窃盗、自動車窃盗、単純窃盗、放火の指標財産犯罪とから成る。「刑法犯罪(詐欺などを除く)」とは、この指標犯罪のことであろう。
  たしかに、指標犯罪全体の被逮捕者について、一九七〇年以降の人口比率をみると−検挙人員の時系列的な増減を問題にするときは、実人数よりも、人口比率による方が適切であろう−、一九七七年までは増加傾向がみられるが、一九八四年までは減少傾向がみられ、その後、一九九四年まではゆるやかな増加傾向、その後はまた減少傾向がみられる(G4参照)。
  しかし、当然のことながら、人口比率でみたとき、指標犯罪全体のうち大部分を占めているのは指標財産犯罪である。一九七〇年から一九九六年のあいだに、指標財産犯罪が占める割合は、最高で九〇%、最低でも八三%にのぼっている。したがって、指標犯罪全体の増減は、指標財産犯罪の増減によって決定的に左右されることになる。指標財産犯罪が減れば指標犯罪全体も減り、増えれば増える、という関係である。事実、指標犯罪全体、指標財産犯罪、指標暴力犯罪を並べてみると、指標犯罪全体は、指標暴力犯罪の増減傾向とかかわりなく、指標財産犯罪の増減傾向と





一致して変化していることが分かる(G4参照)。したがって、一九七〇年代末から一九八〇年代半ばにかけて、指標犯罪全体が人口比においても減少したということは事実であるが、それはあくまでも、指標財産犯罪の減少の結果である、と考えるべきであろう。
  このように、指標犯罪全体の増減は、指標財産犯罪の増減に決定的に左右されるものであるから、厳罰化の抑止効果を確認する指標として適切ではないように思われる。少年法の「厳罰化」という概念は多様なものでありうるが、今回の日本の「少年法改正」との関係でとくに問題となるのは、重大犯罪への刑事処分適用の拡大という意味の厳罰化である。アメリカの厳罰化も、これを最大の焦点としてきた。したがって、厳罰化の抑止効果を問題にする場合、指標犯罪全体を指標とするのではなく、厳罰化の主たる標的となった指標暴力犯罪(殺人、強盗、強姦、加重暴行)を指標とするべきであろう。さらに、指標暴力犯罪のなかでも、殺人以外の犯罪についての暗数の大きさ、限界の曖昧さと関連する取締のあり方の与える影響の大きさを考慮するならば、殺人を指標とすることが最も適切であろう。

8  一般抑止効果と関連して、少年法の厳罰化ないし刑事処分の適用拡大による「規範意識」の覚醒ということがいわれる。少年非行の増加・深刻化は、少年のあいだに「規範意識」が衰退していることの現れであるから、「規範意識」の覚醒による犯罪抑止のために、刑事処分の適用拡大が必要である、というのである。
  たしかに、理論的には、刑罰の一般抑止効果は、威嚇による抑止だけでなく、規範意識の確認・強化による抑止によって達成されうる。近時刑罰理論として有力となってきた積極的一般予防論は、後者を強調するものである。しかし、規範意識の確認・強化による一般予防効果は、それ自体、検証されていない仮説である。
  上述のように、厳罰化の一般抑止効果について消極的所見を示している経験科学的研究があるなか、このような未検証の仮説としての規範意識の確認・強化による一般予防効果を、刑罰全体ないし刑罰制度一般を理論的に正当化するための根拠として用いることを超えて、たとえば殺人に対する最高刑を無期刑ではなく死刑とすべきかというような、犯罪行為に対するより厳格な具体的処分を正当化する根拠として用いることはできないように思われる(18)

(5)  再犯率への影響
1  犯罪抑止効果として次に問題となるのが、再犯率への影響である。
  保護処分の場合の再犯率と刑罰の場合の再犯率を比較した経験科学的研究は、日本にはこれまでにないが、少年院仮退院者が保護観察中の再犯によって懲役・禁固の刑罰または少年院送致の保護処分を受けた割合に比べて、満期または仮釈放により行刑施設を出所した者が行刑施設に再入する割合の方が高いこと(19)や、アメリカの経験科学的研究の示す所見(20)からすると、刑罰の場合の方が再犯率は高いように推測される。
  このことは、刑罰の場合には、社会生活からの長期の隔離、社会復帰支援の弱さ、否定的な社会的烙印の強さが再犯率の高さにつながるという点において、理論的に説明も可能である。刑罰を科された場合には、安定した就職など、将来の実効的な社会参加の機会をより大きく失うことになる、との説明も可能であろう。少なくとも、刑罰の場合の方が再犯率が低いとすることは、不合理である。
2  このように、一般抑止の点でも、刑罰の方が強い抑止効果を有するとは考えられないし、特別抑止の点でも、刑罰の場合の方がむしろ再犯率が高いと推測される。
  上述のように、憲法の趣旨・精神に適合する刑事立法であるためには、より強い犯罪抑止効果の存在が、相当程度にまで確実に認められない限り、より厳しい刑罰を定めることは許されない。そうである以上、今回の「少年法改正」は憲法の趣旨・精神に反している、といわざるをえない。より強い一般抑止効果を有するわけでもなく、再犯率を高めることさえも予測されるような「改正」をあえて行うことは、人権の最大限の尊重という憲法原則に矛盾し許されない、というべきである。
  それにもかかわらず、効果的な犯罪抑止のために刑罰が必要である、と国民の多数が信じているということをもって(21)、犯罪抑止効果の存在を前提にして、今回の「少年法改正」が進められている。この意味の「国民の期待」に応えるものであったとしても、経験科学的基礎に欠ける、科学的・理性的態度から離れた刑事立法、あるいは憲法の趣旨・精神に適合しないような刑事立法が正当化されるはずはない。

(6)  「責任の自覚」と応報的制裁
  今回の「少年法改正」をめぐっては、刑罰による「責任の自覚」ということがいわれる。刑罰によってそれが可能なのか、どのような方法が有効なのか、という点は経験科学的研究の課題となりうる。しかし、このようにいわれる文脈は、経験科学的視点から離れて、「重大犯罪には厳しい刑罰こそが当然だ。少年だからといって保護処分で『甘く』扱うのは正義に反する」というような応報的制裁の強化への要求の言い換えであるように思われる。そうであるがゆえに、「責任」の意味が吟味されることも、それが社会復帰の展望と関連づけられて、その内容が実務上の処遇目標として設定可能な程度にまで具体化されることもない。
  結局、犯罪抑止効果についてと同様、応報的制裁の強化という観点から刑事処分の適用拡大を要求するのが現在の「国民の期待」であるとの前提に立って、その「国民の期待」への応答という理由から、「少年法改正」が進められている。
(7)  立法過程の問題
1  先に廃案となった「事実認定手続の適正化」を標榜する「少年法改正」法案(22)が、法制審議会の審議を経て、政府提出法案として作成されたのに対して、今回の大きな特色は、「少年法改正」が「政治問題化」して、議員立法という形で「政治主導」により進められたことである。もっとも、先に廃案となった「少年法改正法案」をめぐっても、実は、議員立法の威嚇が法制審議会の審議や政府の法案作成を促進し、法案の内容に影響を与えたのであったが(23)、今回は、「政治主導」がよりストレイトに顕在化した。
  このなかで、最近の注目された非行事件をどのように捉えるかを含め、非行原因や実務における少年法の運用状況、子どもを取り巻く社会環境などについて、正確な事実認識を得るために十分な努力がなされたとはいえない。少年法の実務に携わる家庭裁判所裁判官、家庭裁判所調査官や少年院職員、保護観察官、保護司などの意見さえも、十分に聞かれていない(24)。自民党内では、今回の「改正」法案提出に先立って、一定の範囲で関係者からの聞き取りが行われたようであるが、これも非公開で断片的なものでしかなく、自民党案や「改正」法案にどのように反映したのか、明らかではない(25)

2  アメリカにおいても、少年法の徹底した厳罰化は、少年司法改革の「政治問題化」という文脈のなか、国民の厳罰要求と厳罰立法に向けた政治過程との相互促進的な関係を通じて進められた(26)
  たとえば、一九七八年のニュー・ヨーク少年犯罪者法は、謀殺については一三歳以上の少年を、強盗、加重暴行などその他一定の暴力犯罪などについては一四歳以上の少年を、家庭裁判所の本来的管轄権から除外し刑事裁判所の本来的管轄下に置いて、刑事責任を問い、厳しい刑罰を適用する、というものであり、アメリカを代表する厳罰立法であると評されたが、これも、州議会や政府が、保守派を中心に、「犯罪不安」に駆られて厳罰化を要求する州民世論を煽りつつ、それに迎合する形で立法された。二年続けて州議会が可決した死刑法案に拒否権を行使するなどにより、保守派から「犯罪に弱腰」と批判され続け、政治的痛手を被ってきたリベラル派州知事が、州知事・州議会選挙にあたって、保守派州議会議員の提案を取り込み犯罪への強圧的姿勢を示すことにより、有権者の支持を広く獲得しようとの政治的思惑から、少年院を退院した直後にある少年が地下鉄で数人を射殺するという突発的に起きた重大非行事件をきっかけに、突然に立場を転換したことによって、ほんの数日間で法案が作成され可決された。州議会議員に法案が手渡されたのは、審議・採決のために議場入りするさいにであった。
  この間、二年前一九七六年の少年司法改革法の制定にあたって行われたように、専門調査委員会を設置して、少年非行の原因や少年法の運用状況、法改正の効果予測などについて正確な事実認識を得るための調査研究を行うこともないまま、少年法の運用に携わる実務家や専門家の意見さえも十分に聞かれることなく、むしろそれらの反対を押し切る形で、強引に立法が行われた(27)

3  今回、日本においても、「少年法改正」を推進した国会議員からは、「法制審議会にかけていたのでは時間がかかりすぎる。『国民の期待』に迅速・的確に応答することが政治家の責任であるから、今回の改正は政治主導の議員立法によって行う」旨表明された(28)。また、このような形で「国民の期待」に応えることは、国民のあいだに広がっている「不安感」を解消して「安心して暮らせる日本」を作ることを意味する、ともいわれた。
  こうして、「少年法改正」が、非行対策ないし子どもの福祉・教育に関する法の改正という意味を超えて、積極的な国民統合のための手段として国家危機管理の一環に位置づけられたともいえよう。これは、「盗聴法」や「組織犯罪対策法」にも通じる位置づけである(29)。このような刑事立法を正当化する切り札が、「国民の期待」への応答ということである(30)

四  考      察


(1)  「国民の期待」と刑事立法
1  今回の「少年法改正」の推進力として位置づけられるものは、「国民の期待」である(31)。重大非行に対する応報的制裁の強化への要求が、厳罰化の犯罪抑止効果への信念によって支えられて、厳罰化への「国民の期待」に応答するという形で、今回の「少年法改正」が進められた。ここでは、マス・メディアなどを通じて広く伝えられ認識された「被害者の要求」に対する「共感」が重要な位置を占めている。

2  チェザーレ・ベッカリーアが、一八世紀半ば過ぎに『犯罪と刑罰(32)』において、功利主義的立場から、刑罰の正当化根拠を応報ではなく犯罪抑止に置くべきことを主張して以来、犯罪抑止効果を刑罰の正当化要件とする刑罰理論が優勢となった。
  こうして、犯罪抑止効果や再犯率は、刑事立法を正当化する必要条件であり、その有効性を決める指標として位置づけられた。刑事法に関する経験科学的研究の主たる関心も、これに向けられてきた。たとえば、死刑存廃をめぐる議論においても、みられるとおりである。このことは、「犯罪抑止効果が経験的に確認されない刑罰や、再犯率をかえって高めるような刑事立法は正当化されない」という形で、刑事立法が、経験科学的基盤を有するものとして、科学的・理性的態度の下に行われることを保障した。
  しかし、今回の「少年法改正」にみられるように、刑事立法の「政治問題化」という文脈のなかで、その正当化の根拠をストレイトに「国民の期待」への応答に置くようになったならば、立法を基礎づける事実の認識において経験科学的基盤が失われ、刑事立法が科学的・理性的態度から乖離していく危険が生じる。現在までに、「規制緩和ー自由競争ー自己決定・自己責任」を掲げる新自由主義的改革により全面的な社会再編が進められようとしているが、これの前提とする人間像は、犯罪行為との関連においては、合理的な利害得失計算の結果として犯罪行為に及ぶかどうかを決定するという人間像であろう。新自由主義的改革が進められるなかで、このような犯罪行為に関する合理的選択モデルに依拠した威嚇抑止論に、政治的・社会的支持が強まり、それにともない、威嚇抑止論に基づく厳罰化への「国民の期待」において存在するとされる刑犯罪抑止効果は、もはや、経験科学的に確認可能な事実ではなく、科学的・理性的態度の下で、刑事立法を基礎づけるものとはなりえない。
  刑事立法が科学的・理性的態度を失って行われるとき、犯罪・非行に対する社会的憤激を背景にして、不必要に苛酷な、過度の人権制約をもたらす危険が強くなる。また、犯罪原因を正確に解明しそれを解消するという関心が失われることになって、結局、犯罪問題を深刻化させることにもつながる。上述のように、憲法の趣旨・精神に適合するような刑事立法であるためには、相当程度にまで確実に、より強い犯罪抑止効果の存在が確認されなければ、より厳しい刑罰を定めることはできない、というべきである。経験科学的基盤から離れ、科学的・理性的態度が失われたとき、結果として刑事立法は、人権の最大限の尊重という原則をとる憲法の趣旨・精神から逸脱したものとなっていく。

3  「国民の期待」に応答することこそが政治の責任である、との考えもあるかもしれない。たしかに、一見もっともである。
  しかし、人権の最大限の尊重という憲法原則の下、刑事立法にあたっては、立法者は、ありのままの「国民の期待」に、その内容を吟味することもなく無批判に従うのではなく、あるべき刑事立法を市民に提示したうえで、それについての合意を形成するよう努力する政治的責任を負っている、というべきであろう(刑事立法過程の適正手続について、後述参照)。刑事立法が人権の強制的剥奪に関するものである以上、たとえ多数派の「国民の期待」に合致するからといって、どのような刑事立法でも正当化されるわけではないからである。このような政治的責任を果たすことこそが、民主主義に適うものである。フランスにおける死刑廃止は、その好例である(33)

4  また、厳罰化ないし犯罪統制の強化の要求という形で表現されることの多い「国民の期待」について、その内容をより精緻に解明し、それがどのように形成されるのか、どのような要因がそれに作用しているのか、などを問題にしなければならない。今回の「少年法改正」をめぐっては、なぜ厳罰化の要求が強まったのか、どのような事実認識を基礎にしているのか、そのような「国民の期待」がどのように形成されるのか、「政治問題化」の文脈がどのように関連しているか、などの点についてである(34)
  このとき、厳罰化の要求を引き起こす「犯罪不安」が、より広範で根深い「社会不安」のひとつの現れではないのか、という視点にも留意すべきであろう(35)。そうであるならば、「犯罪不安」の解消を狙った刑事立法によって、たとえ一時の「安心」が得られたとしても、それはつかの間の偽りにしか過ぎず、基盤に残る「社会不安」が暫くしてまた「犯罪不安」となって表出し、厳罰化要求が再び生じることになるからである(36)

5  現在、犯罪の大規模化・組織化・複雑化、国際化などがいわれ、深刻化する犯罪から市民の安全を確実に守る必要があり、実体、手続の両面にわたる犯罪統制の強化に対する「国民の期待」があるとして、それへの応答という形で、捜査権限の強化、犯罪処理の効率化など、広範な刑事司法改革が提起されている。司法制度改革審議会においても、「国民の期待に応える刑事司法の在り方」をめぐって、このような議論が行われている(37)
  しかし、提起されている具体的改革案を基礎づけ、それを正当化する程度にまで、犯罪の深刻化が現実にあるかどうか、必ずしも明らかではない。また、犯罪予防や犯罪被害救済の手段として刑事司法には決定的な限界があり、それに過剰な期待を寄せることは、犯罪からの市民の安全を確保するために真に必要な、広範な社会的条件の変革をも視野に入れた政策を結局は放置することにもつながる。
  もともと、刑事司法は国の苛烈な強制的権力としての刑罰権が行使される過程であり、司法の本来的機能が市民の人権保障にこそある以上、最重要の課題とされるべきことはやはり、権力行使の恣意・専断からの人権保障である。戦前・戦中期の深刻な人権侵害への反省に立ち、人権保障に深く配慮して、手厚い適正手続を定めたのが憲法である。人権の最大限の尊重を原則とする憲法の下では、人権保障こそが刑事司法のテーマであり、「国民の期待」は権力的な犯罪統制の強化にではなく、実体的・手続的に適正な刑事司法による人権保障に向けられている、と理解すべきであろう(38)

(2)  刑事立法過程の適正手続
1  憲法三一条は、「何人も、法律の定める手続によらなければ、……刑罰を科せされない」と定めており、この規定は、適正手続ないし適正手続の保障として、刑事実体法と刑事手続法の適正さを要求している、と理解されている。さらに、刑罰執行過程の適正手続も要求されている、との理解もある(39)。市民の人権保障のために、刑事法の適正さがこれらの点において要求されるのであれば、刑事立法の過程についても、適正手続が問題となりうるのではなかろうか。
  たしかに、刑事立法は憲法の要請を満たすものでなければならず、憲法違反の法令であれば、裁判所によってその適用は排除される。しかし、刑事立法については、憲法の要請を満たすという意味の合憲性の要求を超えて、立法政策としての妥当性をも問題としなければならない。この点について、村井敏邦は、刑事立法の立法政策的妥当性を問題とすることの意義を提起し、確実な立法事実の存在、それと刑事立法の関連性が必要であることを論じるとともに、基本的人権の尊重という立脚点から、刑事立法の妥当性判断のメルクマールをあげている(40)。また、憲法学者の市川正人は、「憲法の趣旨・精神により適合するような法解釈、立法政策の提示も憲法学の課題である」との問題を提起し、「憲法の理念を現実化させていく、憲法の定立した価値を全法体系に実際に貫徹させていく」ために、「立法政策の当否についての議論の土俵、基準を設定するもの」として、「ある政策が『憲法上望ましい』『憲法上望ましくない』という議論」を行うべきである、と論じている(41)。とくに、上述のように、憲法の趣旨・精神に適合した刑事立法であるためには、特別な犯罪抑止効果の存在が相当程度にまで確実に認められない限り、より厳しい刑罰を定めることはできない、というべきである。
  このように、刑事立法について、立法政策としての妥当性、あるいは憲法の趣旨・精神により適合するような刑事立法が必要とされるのであれば、それを確保するための手続保障として、刑事立法過程についても規範的な手続基準が設定されるべきではなかろうか。いわば、刑事立法過程の適正手続が要求されるのである。

2  刑事立法過程の適正手続といっても、その内容は明らかではない。これを考える手がかりとなるのは、歴史的に適正手続の本質的要素として、「告知」と「聴聞」の保障が観念されてきたことである(42)。刑事立法過程の適正手続を構想するとき、刑事立法により人権を制約されうる市民に対して「告知」と「聴聞」を実質的に保障し、刑事立法過程への市民の実効的参加を確保することが必要とされるであろう。
  刑事立法過程における「告知」と「聴聞」の保障という観点からは、立法者は、まず、立法の前提となる事実を正確に認識するために必要な情報を収集し、それを広く市民に提供しなければならない。ここで、経験科学的知見を踏まえること、関係する実務家・専門家の意見を適切に聴取することが要請される。そのうえで、刑事立法過程への市民の実効的参加を確保するために、開かれた自由な討論の場と機会を用意する必要がある。これは、前提となる事実認識を深め、それを広く共有し、科学的・理性的態度の下で、刑事立法のあり方について自由かつ真摯に討議するということであって、ありのままの「国民の期待」に短絡的に応答するということを意味するものでないことは、もちろんである。

3  刑事立法過程の適正手続について、その憲法規定上の根拠はどうか。憲法三一条は、適正な刑事実体法・手続法による刑罰の実現を要求しているが、この目的の下で、刑事立法が憲法の趣旨・精神により適合するようなものであることを確保するために、刑事立法過程についても適正手続を要求している、と理解することができるであろう。
  また、憲法五七条一項は、「両議院の会議は、これを公開する」と定めている。「議会での自由な討論が公開され、表現の自由の保障のもとで、国民の批判にさらされることによって、多元的な利害と価値を反映した審議が可能となり、そのことによって、そのときどきの議会少数派(野党)も、その時点での表決では敗れても、国会審議の場で、さまざまな争点を提起することを通じて、次の選挙の機会に、有権者の支持を得ることを期待できる、というところに、現代議会制民主主義の図式が成り立つ」のであり、この意味において、「今日の議会制民主主義の骨格をなすもの」である、とされている(43)
  この会議の公開の意義について、刑事立法過程の適正手続という視点からは、適正手続に適った立法過程が実現することを、会議の公開を通じて、市民の監視と批判によって保障している、と理解することができる。裁判の公開が、刑事手続の適正手続の本質的要素であるのと同じように、会議の公開は、刑事立法過程の適正手続の本質的要素として位置づけられる。

五  結      語


  かつて「法解釈論争」において、来栖三郎は、法解釈の本質が価値判断であって、解釈者は自己の法解釈について政治的責任を免れえないことを論じた(44)。村井敏邦は、盗聴法の制定をめぐって、「法律学者が、時の支配的な政治権力と、それの推進する政策に対する批判的精神を失い、むしろその政策を実現する積極的役割を果たすとき、学問研究にとって重要な価値である政治からの自由をみずから捨て去ることになる。……法律の性格を変え、人々の基本的人権に多大なる侵害的影響を与えるということになると、単に学者個人の問題では済まされない。『あなたはそれが招来する結果に対して、政治的責任をどうとりますか』と問い掛けられることになる。『私は、政治家ではない』という答えでは逃げられない」と論じている(45)
  立法者の政治的責任とは、ありのままの「国民の期待」の短絡的に応答することではない。立法者は、憲法の要請を満たすことはもちろん、憲法の趣旨・精神により適合するような刑事立法を行うという政治的責任を負っている(46)。この政治的責任を果たすためには、経験科学的研究の知見を踏まえた正確な事実認識に基づき、市民に開かれた自由な討論を経て、科学的・理性的態度の下で刑事立法を行わなければならない。人権の最大限の尊重という憲法原則の下、犯罪抑止効果が相当程度にまで確実なものとして認められないにもかかわらず、より厳しい刑罰を定めることは、憲法の趣旨・精神に反するものである。「国民の期待」への応答であるとの理由によって正当化されることはない。立法者がこのような意味の政治的責任を果たさないとき、「私は法律家ではない。国民から選挙された政治家である」という言い訳は通らないのである。

(1)  原田豊「犯罪研究動向アメリカ犯罪学会における『継続と変化』」犯罪社会学研究二五号(二〇〇〇年)。また、津富宏「EBP(エビデンス・ベイスト・プラクティス)への道−根拠に基づいた実務を行うために−」犯罪と非行一二四号(二〇〇〇年)は、再犯率低下の実証的根拠に基づいた処遇実務を構築するべきことを具体的に提起している。
(2)  刑法理論研究会『現代刑法学原論・総論(第三版)』(三省堂・一九九六年)二頁以下。
(3)  団藤重光=村井敏邦=斉藤豊治ほか『「改正」少年法批判』(日本評論社・二〇〇〇年)参照。
(4)  野田正人「最近の少年非行(事件)の特徴」法律時報七〇巻八号(一九九八年)、石塚伸一「少年非行『深刻化』の神話」龍谷法学三二巻四号(二〇〇〇年)、同「少年犯罪の凶悪化と刑罰の抑止効果」団藤重光ほか・註(3)書など。なお、William J. Chambliss, Power, Politics, & Crime 50-54 (2001) は、アメリカにおいても、右派犯罪社会学者や政府機関報告書などの一部が、科学的妥当性を欠く統計的根拠に基づいて、近い将来における少年の暴力犯罪の劇的増加を予測し、それによって公衆の「犯罪不安」を煽り、厳罰政策へと方向づけている状況があることを批判的に検討している。
(5)  葛野尋之「厳罰指向の少年法改正案・批判」犯罪と刑罰一四号六六頁以下。
(6)  読売新聞が一九九七年七月に実施した世論調査によると、「今後、凶悪な少年犯罪が増えていくのではないかという不安」を「おおいに感じている」との回答が六二・〇%、「多少は感じている」が二九・五%であり、少年法について、「犯罪防止の立場から、凶悪犯罪に限っては、一六歳未満の少年でも刑事罰を適用できるように、この法律を改正すべき」かとの質問に対して、七六・三%が「改正すべきだ」と回答し、「そうは思わない」は八・四%であった(読売新聞一九九七年七月三一日)。一九九八年二月の読売新聞世論調査においても、これとほぼ同様の結果が示された。ただし、いずれの世論調査についても、「少年事件が凶悪化していますが」との一節を別の質問中に挿入するなど、調査方法上の妥当性に疑わしさが残る。総理府が一九八八年四月に行った世論調査「青少年の非行等問題行動に関する世論調査」によれば、「最近、青少年による非行等が問題となっていますが、あなたは、実感として、こうした青少年による重大な事件などが以前に比べ増えていると思いますか。それともそうは思いませんか」との質問に対して、「かなり増えている」との回答が、二〇歳未満で五七・〇%、二〇歳以上で六九・九%、「ある程度増えている」との回答が、同じく三五・九%、二四・四%にのぼった(http://www.sorifu.go.jp/survey/seishonen.html)。質問に「最近、青少年による非行等が問題となっていますが」との一節を入れたことは不適当であろう。
(7)  葛野尋之「死刑制度と犯罪抑止効果」佐伯千仭=団藤重光=平場安治編『死刑廃止を求める』(日本評論社・一九九四年)参照。この論文が、「未検証の仮説ないし主観的信念にすぎない犯罪抑止効果により死刑を正当化することは、生命の尊重という現代社会の最高価値にあまりにも反し、合理的でない。犯罪抑止効果が確たる科学的証拠によって示されることが、それによって死刑を正当化するための必要条件である」としたことについて、所一彦「犯罪の抑止と死刑」法律時報六九巻一〇号(一九九七年)は、社会科学的事実についての実証の性質という視点から批判する。
(8)  杉原泰雄「人身の自由」芦辺信喜編『憲法(4)・人権(2)』(有斐閣・一九八一年)一一五から一一六頁は、「人権保障を国勢の目的として掲げかつ公権力をその手段と規定する市民憲法(日本国憲法)」においては、「個人主義の観点から人権の最大限の尊重が義務づけられるから、刑罰権の発動も他の国民に人権の平等の享受を保障するうえで必要やむをえない場合について認められることになるはずである」と論じている。また、同論文二五六頁は、このような意味の「自由国家的公共の福祉(内在的制約)」としての刑罰権の実体的デュー・プロセスの要請として、「人権についての必要最小限の規制原則からすれば、刑罰権の発動は、一定の行為を禁止することについても、また禁止違反に対して制裁を課すことにおいても、必要最小限のものでなければならない」と論じ、罪刑均衡の原則、「より制限的でない他の選びうる手段」原則(LRA原則)に言及している。
(9)  杉原泰雄・註(8)論文二七〇頁は、「三六条の『残虐な刑罰』の禁止が三一条の要求する実体的適正の一内容をなし、かつ三一条の実体的適正自体が一三条の人権の最大限の尊重−人権規制の必要最小限−の原則に基礎づけられているところからすれば、三六条の残虐刑が一三条および三一条によって規定される刑罰目的を達成するうえで不必要過大な刑罰を意味するのは当然のことであろう。原則として、他の人権に対する侵害を阻止するために不必要な過大な刑罰のことである」と論じている。そのうえで、同論文二七二から二七三頁は、「死刑が残虐か否かが不明確な国民感情によって相対的に決定されるとすることにも問題がある。すでに指摘しておいたような残虐刑の理解の仕方からすれば、死刑が残虐か否かは、死刑の威嚇力・排害力をもってしなければ、人権に対する侵害を食い止められないかどうかによってきまる。排害力の点においては、無期刑が十分に代替性をもっていることから、現実には犯罪抑止の威嚇力が無期刑では不十分か否かによって決まることになる。この点で無期刑が死刑に代替しうるのであれば、死刑は現状においても残虐刑となる」と論じている。
(10)  一九七八年のニュー・ヨーク州少年犯罪者法について、Singer & McDowall, Criminalizing Delinquency:The Deterrent Effects of New York Juvenile Offender Law, 22 Law and Society Review 521 (1988). これについて、葛野尋之「ニュー・ヨーク少年犯罪者法の犯罪抑止効果−強圧的な少年犯罪統制立法は成功したのか?−」法経論集六九=七〇号(一九九三年)参照。一九八一年のアイダホ州法について、Jensen & Metsger, A Test of Legislative Waiver on Violent Juvenile Crime, 40 Crime and Delinquency 96 (1994). 少年犯罪への刑罰適用が有する一般抑止効果および特別抑止効果に関する最新のレビューとして、Bishop & Frazier, Consequences of Transfer, in Jeffry Fagan & Franklin E. Zimring, The Changing Borders of Juvenile Justice:Transfer of Adolescents to the Criminal Court 227 (2000).
(11)  葛野尋之「アメリカ/少年司法の歴史と改革の動向」澤登俊雄編著『世界諸国の少年法制』(成文堂・一九九三年)、同「アメリカ少年司法改革と社会復帰理念」法政研究一巻一号(一九九六年)、同「少年司法における『保護』理念の再構築に向けて−アメリカ少年司法改革の教訓から−」刑法雑誌三六巻三号(一九九七年)参照。ほかに、佐伯仁志「アメリカにおける少年司法制度の動向」ジュリスト一〇八七号(一九九六年)、斉藤豊治「アメリカの少年司法」季刊刑事弁護一〇号(一九九七年)など参照。
(12)  刑事処分適用を拡大させる傾向は、一九九〇年代に入っても、継続している。Howard N. Snyder & Melissa Shickmund, Juvenile Offenders and Victims:1999 National Report, National Center for Juvenile Justice 103 (1999) によれば、一九九二年から一九九七年のあいだに、刑事処分適用拡大の方向への法改正を行った州は、コロンビア特別区を含めて四五州にものぼり、このような立法を行わなかったのは、六州に過ぎない。また、ますます多くの州が、法律により一定犯罪について刑事裁判所の本来的管轄下に置くことを定めるという方法を採用するようになっている。
(13)  たとえば、今回の「少年法改正」法案をめぐる衆議院法務委員会二〇〇〇年一〇月一〇日における横内正明委員(自由民主党)の発言(第百五十回国会衆議院法務委員会議録第二号)。アメリカ少年非行に関する主要な警察統計については、安東美和子=松田美智子=立谷隆司「アメリカにおける少年非行の動向と少年司法制度」法務総合研究所研究部報告一九九九年五号を参照。本稿のグラフ(G1、G2、G4)は、これに示された数値を基に作成した。また、司法省の少年司法非行防止局のインターネット・ホームページ(http://ojjdp.ncjrs.org/ojstatbb/index.html)から、容易にアクセスすることができる。本稿のグラフG3はこれによる。
(14)  Blumstein, Young Violence, Guns, and the Illicit−Drug Industry, 86 Journal of Criminal Law and Criminology 10 (1995);Blumstein & Cork, Gun Availavility to Youth Gun Violence, 59 Law and Contemporary Problem 5 (1996). 有力な少年裁判所廃止論者でもあるフェルドは、「少年犯罪に直接関連しているものは、コミュニティにおける生活の質であって、政府の与える処罰の程度ではない。……家庭、宗教、保健管理、教育、住宅、雇用、コミュニティの価値、そして犯罪が相互に関連しているのであるから、少年非行に真剣に対処するためには、コミュニティのあらゆる構成部分が積極的役割を果たさなければならないのである」という自らが委員長を務めたミネソタ州少年司法特別委員会の報告書の一節を引用したうえで、「いかに思慮深い法改正であっても、少年司法・刑事司法に関する立法が少年と成人との境界線を変更したところで、コミュニティに生じる犯罪量を減少させることも、犯罪行為者の再犯可能性を低減させることも、一般市民の安全を増大させることもできるはずがない」と述べている(Feld, Violent Youth and Public Policy, 79 Minnesota Law Review 965, 1128 [1995])。
(15)  Franklin E. Zimring, American Youth Violence 128-129 (1998) は、次のように論じている。すなわち、少年の暴力犯罪への政治的憤激に駆られて進められてきた厳罰立法は、現在の移送制度をなにか具体的に改善するためというわけではなく、少年の暴力犯罪率の高さは「現行政策になにか問題がある」ことを示すに十分な証拠であり、「厳罰化こそが万能の解決策である」という短絡的な考えから、移送制度を改正する立法が続いた。現行制度の運用実態の評価から改善すべき問題を明らかにするのではなく、「少年の暴力犯罪発生率の高さは刑罰の厳格さ不足に原因があるのであり、したがって、暴力犯罪には刑事処分を適用する方が当然に適している」という短絡的な考えに基づいて制度改革を行ったとしても、それには必然的に大きな限界がともない、実務の改善には決して寄与しない。十分かつ正確な情報に基づかない立法は、立法過程のあり方として恣意に流れ、理性的なものでなくなる危険をともなうし、また、実務の現状や問題点を踏まえない立法は、結局は意図した実務の変化を生じさせることもなく、法の文面と実務の乖離を広げることになる。これについて、葛野尋之「(紹介)少年の暴力犯罪をめぐる厳罰政策に対する包括的批判−Franklin E. Zimring, American Youth Violence, Oxford University Press, 1998−」アメリカ法二〇〇〇年二号参照。
(16)  Blumstein, Disaggregating the Violence Trends, in Alfred Blumstein and Joel Wallman, The Crime Drop in America 39-40 (2000).
(17)  前田雅英「少年凶悪犯罪、深刻さ認識を」日本経済新聞二〇〇〇年九月九日。本稿末の付記***を参照。
(18)  理論的にも、少年法に基づく保護処分が、少年の自由を強制的に剥奪するという点において不利益処分であり、現行少年法上も、決定時一六歳以上の少年について一定の場合には刑事処分の適用が認められていることからすると、刑事処分の適用を拡大することにより、規範意識の確認・強化の機能がどれほど高まることになるのか、必ずしも明らかではないように思われる。
(19)  『犯罪白書(平成一二年版)』六三頁、一九八から二〇〇頁。
(20)  一九八七年フロリダ州法の下での短期間の再犯率に関する Bishop et al., The Transfer of Juveniles to Criminal Court:Does It Make a Difference?, 42 Crime & Delinquency 171 (1996)、同じくより長期間の再犯率に関する Winner et al., The Transfer of Juveniles to Criminal Court:Reexamiing Recidivism Over the Long Term, 43 Crime & Delinquency 548 (1997)。Fagan, Separating the Men from the Boys, in James C. Howell et al. (ed.), A Sourcebook:Serious, Violent and Chronic Juvenile Offenders (1995) 238 は、ニュー・ヨーク州の刑事裁判所において事件を扱われた少年と、ニュー・ジャージ州の少年裁判所において事件を扱われた少年とを比較したところ、制裁の確実性・厳格性において刑事裁判所の場合の方が高いわけではなく、再犯率は刑事裁判所の場合の方が高い傾向にあることを明らかにした。
(21)  本稿・註(6)参照。
(22)  葛野尋之「非行事実認定をめぐる司法と福祉」刑法雑誌三九巻一号(一九九九年)参照。
(23)  葛野尋之・註(5)論文六二から六三頁。
(24)  二〇〇〇年九月八日共同通信社配信ニュースによれば、「『非行に走る年少の子供は相当ゆがんでいて、更生させるには、刑罰を科すとしても少年院で続けているような個人に合った処遇が必要だ』。保岡興治法相と少年院の教官らの懇談会が八日、法務省内で開かれ、教官らからは厳罰化に向かう少年法の改正に疑問を投げ掛ける意見が相次いだ。教官らは非行少年の八割以上が『少年法が軽いと知っているから非行をしたわけではない』と答えたアンケート結果を示したほか、非行少年と向き合った経験から、最近の少年の特徴や非行の原因なども率直に語った」という。このような少年院法務教官たちの意見が、今回の「改正」法案を作成するうえで生かされたとはいえない。井垣康弘=草場裕之=佐藤学=野田正人=葛野尋之「(座談会)少年法の厳罰化が意味するもの」団藤重光ほか・註(3)書六一頁(佐藤学発言)は、少年院教官が少年院処遇の効果、これまでの成果、予想される刑罰の否定的効果などについて、市民に向けて、自由に発言できるよう保障すべきであるとする。
(25)  自由民主党政務調査会法務部会少年法に関する小委員会「少年法に関する中間取りまとめ」(一九九八年四月)、自由民主党政務調査会法務部会少年法に関する小委員会「報告書」(一九九九年一月)日本弁護士連合会編『追いつめられる子どもたち』(現代人文社・一九九九年)所収。朝日新聞一九九八年一二月二二日によれば、自民党少年法小委員会が一九九八年「十月以降にヒアリングした専門家らの意見では、実際に十四、五歳に刑事罰を科した場合の現場の対応や、再非行防止効果への疑問も出ていた。だが、小委での議論の中心は、あくまで『抑止力』。実際に十四歳から少年刑務所に入れた場合の対応についての詰めの議論はないままだった」という。
(26)  Zimring, supra note 15, at 129 は、アメリカの厳罰立法が一般に、十分な情報による正確な事実認識に基づくものではない点において、立法過程における欠陥を有すると指摘している。アメリカの厳罰立法と「政治問題化」について、Stuart A. Schneingold, The Politics of Street Crime:Criminal Process and Cultural Obsession (1991) 参照。アメリカ的な個人主義、自己責任など、犯罪統制をめぐる文化的要因をも重視している。また、本稿・註(36)参照。
(27)  Edmund F. McGarrell, Juvenile Correctional Reform:Two Decades of Policy and Procedural Change 105-115 (1988). 葛野尋之・註(10)論文参照。
(28)  たとえば、今回の「少年法改正」法案作成・提出において主導的役割を果たした自由民主党・杉浦正健衆議院議員は、朝日新聞のインタビューに対して、「選挙運動を通じて、有権者は少年法改正を望んでいることがよく分かった。法制審にかけると、哲学的な議論から始めることになり、何年もかかる。刑事処分対象年齢の引き下げは、専門家よりも政治家が決めるべき問題。だから、議員立法にした」と答えている。
(29)  村井敏邦「組織的犯罪対策法の背後にあるもの」法律時報七一巻一二号(一九九九年)。また、小田中聰樹「現代治安政策と盗聴法(上・下)」法律時報七一巻一二号・七一巻一三号(一九九九年)も参照。
(30)  「市民的安全」の要求に応答する形で実体的・手続的に犯罪統制を強化しようとする動きが、一九九〇年代末には、組織犯罪対策法、盗聴法などの制定として具体化した。小田中聰樹『人身の事由の存在構造』(信山社・一九九九年)一三頁以下は、一九九〇年代以降、規制緩和、市場原理、自己責任などを掲げる一連の新自由主義的改革によって全面的な国家的・社会的再編が進められるなかで、「警察による市民支配の進行を中軸とする『現代的』治安法」が、「市民の安全要求に立脚する擬似的『市民主義』的なイデオロギー的外装をとり」つつ展開されていることを、人権保障の強化と「市民主義」的治安法の本質的矛盾という視点から、批判的に分析している。
(31)  西原春夫『刑法の根底にあるもの』(一粒社・一九七九年)は、刑法の根底には「国民の欲求」があるとする。ただし、この「国民の欲求」は、ありのままのものではなく、「もし平均的国民が非行の状況とそれに対する刑法制定の意義について正確な認識を持ったならば抱いたであろう欲求」を意味する、とする。これについて、村井敏邦「刑事立法の妥当性−盗聴の法制化問題を題材にして−」『西原春夫先生古稀祝賀論文集・第四巻』(成文堂・一九九八年)三八頁以下参照。
(32)  ベッカリーア(風早八十二=風早二葉訳)『犯罪と刑罰(改版)』(岩波書店・一九五九年)。
(33)  フランスの死刑廃止における国民世論と政治的リーダーシップとの関係について、伊藤公雄=木下誠編『こうすればできる死刑廃止−フランスの教訓−』(インパクト出版会・一九九二年)参照。
(34)  大庭絵里「少年事件とマス・メディア」後藤弘子編『少年非行と子どもたち』(明石書房・一九九九年)は、モラル・パニックとそれに対するマス・メディア報道の影響を指摘している。
(35)  「犯罪不安」について、Furstenburg, Public Reaction to Crime in the Street, 40 American Scholar 601 (1971);LaGrange, Ferraro and Spanicic, Perceived Risk and Fear of Crime:Role of Social and Physical Incivilities, 29 Journal of Research on Crime and Delinquency 311 (1992);Perkins & Taylor, Ecological Assessments of Community Disorder:Their Relationships to Fear of Crime and Theoretical Implications, 24 American Journal of Community Psychology 601 (1996);McGarrell, Giacomazzi & Thurman, Neighborhood Disorder, Integration, and the Fear of Crime, 14 Justice Quarterly 479 (1997). モラル・パニックについて、竹村典良「モラル・パニック」藤本哲也編『現代アメリカ犯罪学事典』(勁草書房・一九九一年)三九頁参照。
(36)  マックギャレルとキャステラーノの一連の研究は、強圧的犯罪統制法の制定について分析するために、「多元的コンフリクトモデル」を提示している。McGarrell & Castellano, An Integrative Conflict Model of the Criminal Law Foundation Process, 28 Journal of Research in Crime & Delinquency 174 (1991);Castellano & McGarrell, The Politics of Law and Order, 28 Journal of Research in Crime & Delinquency 304 (1991);McGarrell & Castellano, Social Structure, Crime and Politics, in William J. Chambliss & Marjorie S. Zatz (eds.), Making Law (1993). これについて、葛野尋之・註(11)論文(刑法雑誌)三九頁以下参照。
(37)  たとえば、司法制度改革審議会第二五回(二〇〇〇年七月一一日)における山本委員(東京電力副社長)のリポートは、「精密司法」といわれる現状を基本的に肯定し、これを変革すべきでないという基本的立場のうえで、「コミュニティーの解体、経済不安さらには外国人の増加、情報技術の発達などを背景にした犯罪の凶悪化、国際化、組織化、高度情報化等」に対応して、「社会秩序の維持」という「国民の期待」に応えるため、新たな捜査方法・公判手続(おとり捜査、司法取引、刑事免責など)、証人保護の強化、「正義感の揺らぎ」のなかで国民の「違和感」を解消するような事件の重大性に対応した適正な処分(終身刑の導入、少年法の見直し)などを提起するものであった。これに対して、同日の高木委員(連合副委員長)のリポートは、「憲法・刑訴法が想定した世界は、あくまでも『適正手続の保障』の上での『真実の発見』であり」、「強大な権限を与えられた捜査・訴追機関による人権侵害を防止するという観点から見た時、真実発見に重点をおいたり、過度にバランス論に依拠した場合は、力の弱い被疑者・被告人の人権侵害を引き起こすというのが歴史の教訓であり、憲法三一条はその歴史的な教訓を踏まえたものである」という基本的視点に立つもので、被疑者・被告人の身体拘束(人質司法)、代用監獄、調書裁判、自白偏重などについて現状の問題点を鋭く指摘し、人権保障のための適正手続の強化と冤罪防止に向けてのさまざまな改革課題を提起した。
(38)  葛野尋之「司法改革審議会ウォッチングI『国民の期待に応える刑事司法の在り方』をめぐって」法律時報七二巻一一号(二〇〇〇年)。なお、市民の権利と刑事人権の関係について、葛野尋之「犯罪報道の公共性と少年事件報道」『立命館大学法学部創立一〇〇周年記念論文集(上)』(二〇〇一年)参照。
(39)  福田雅章「受刑者の法的地位」澤登俊雄他編『新・刑事政策』(日本評論社・一九九三年)。
(40)  村井敏邦・註(31)論文。
(41)  市川正人「憲法論のあり方についての覚え書き−憲法の趣旨・精神の援用をめぐって−」『立命館大学法学部創立一〇〇周年記念論文集(上)』(二〇〇一年)。
(42)  杉原泰雄・註(8)論文九六頁以下。
(43)  樋口陽一他『註釈・日本国憲法(下)』(青林書院・一九八八年)九五五頁(樋口陽一)。
(44)  来栖三郎「法の解釈と法律家」私法一一号(一九五四年)。
(45)  村井敏邦・註(29)論文四八頁。
(46)  市川正人・註(41)論文七三から七四頁。


  *  本稿は、二〇〇〇年一〇月二二日に行われた日本犯罪社会学会大会(淑徳大学)のミニシンポジウム「実証的アプローチを実務にどう生かすか」における報告原稿に、修正を加えたものである。

  **  私は、二〇〇〇年一〇月二六日、衆議院法務委員会に参考人として出席し、科学的・理性的な態度の下での少年法改正という視点から、@少年法改正を論じるにあたっては、とくに厳罰化のもたらすであろう効果を検討する必要があること、A厳罰化には一般抑止効果が期待できないこと、B厳罰化により少年の社会的再統合が困難になって再犯率が高まり、かえって社会の安全が損なわれ、将来の犯罪被害が増える結果となるおそれがあること、C少年審判、少年処遇、刑事裁判、刑罰執行などにおいて、これまでの安定した実務が混乱するであろうこと、D非行原因の科学的解明とその解決というアプローチから離れることにより、問題をますます深刻化させる結果となり、厳罰化によって国民がたとえ一時の「安心感」を得られたとしても、それは「つかの間の偽り」に過ぎないこと、E科学的・理性的態度の下に少年法改正を進めるために、非行原因、少年法の運用状況、少年を取り巻く社会環境などについての正確な事実認識が必要であり、その事実を公開したうえで、少年法の運用や教育に携わる専門家の意見を聞くことをも含め、開かれた自由な討論を行わなければならないこと、を指摘した。これについては、『第百五十回国会衆議院法務委員会議緑第七号(平成十二年十月二十七日)』。その後、二〇〇〇年一一月二八日、国会において、「少年法改正」法案は可決・成立した。刑事処分適用を原則と定める「改正」少年法二二条二項を解釈・運用するにあたって、家庭裁判所は、憲法の趣旨・精神に適合した法の解釈・運用であるためには、法の文言にかかわらず、刑事処分のための検察官送致の決定を抑制すべきである。

***  脱稿後、前田雅英『少年犯罪』(東京大学出版会・二〇〇〇年)に接した。同書一九〇頁以下は、アメリカにおいて一九七〇年代末から一九八四年までのあいだ少年の指標犯罪検挙人員が減少したことは、この時期に進められた少年法の厳罰化の効果であり、一九八五年からの増加は、厳罰化の犯罪抑止効果が時間の経過によって切れたからである、との見方を提示している。本文に述べたように、警察統計上、指標犯罪(指標暴力犯罪と指標財産犯罪からなり、指標財産犯罪が全体の九〇%近くを占める。G4参照)の被逮捕者数の減少があったとしても、それをもって、ただちに厳罰化の犯罪抑止効果が示されたものとして理解すべきではないように思われる。また、少年法の厳罰化はたしかに一九七〇年代末に始まったが、本文に述べたように、一九八〇年代から九〇年代を通じて、各州は厳罰立法の制定を継続し、厳罰化への傾斜を深めていったのであるから、一九八五年以降、少年の指標犯罪検挙人員が増加しているのは、厳罰化の犯罪抑止効果が時間の経過によって切れたからである、との見方には疑問が残る。

****  斉藤豊治「ここがおかしい、少年法『改正』」団藤重光ほか・註(3)書二六頁は、「一連の重大な少年事件を経験して、日本社会でモラル・パニックが生じ」るなか、「少年法『改正』につき、あたかも国民的合意が成立しているかのような風潮がみられた。しかし、民主主義社会における国民的合意は、正確な情報を基礎にして形成されなければならない」と論じ、今回は、正確な情報に基づくことなく、「少年法の厳罰化『改正』は虚構の国民的同意」でしかなかったと指摘する。また、同論文二七頁は、今回の少年法「改正が」、議員立法の形で、「反対すれば、議席を減らす」との思惑から、「最初に結論ありき」「問答無用」で強行されたことは遺憾であるとする。