立命館法学 2000年5号(273号) 頁



◇紹  介◇

ハンス・ヨアヒム・ヒルシュ
古稀祝賀論文集の紹介(三)
Festschrift fu¨r Hans Joachim Hirsch zum 70. Geburtstag, 1999.


刑  法  読  書  会
松宮 孝明 編



 

目    次

ギュンター・ヤコブス「客観的帰属論に関する覚え書き」
ハロー・オットー「危険な製品の供給に対する刑法上の責任」
 −以上二〇〇〇年一号

ハインツ・シェッヒ「延命措置の限界に関する未解決の諸問題」
フェリドゥン・イェニセイ「トルコの資金洗浄法について」
 −以上二〇〇〇年二号

 

 

ミヒャエル・ケーラー
「帰責の概念」
Michael Ko¨hler, Der Begriff der Zurechnung, in:
Festschrift fu¨r Hans Joachim Hirsch zum 70. Geburtstag am 11. April1 1999, S. 65ff.

〔紹介に当たって〕
  ケーラーは、ハンブルグ大学教授。法哲学ゼミナール担当。Ernst Amadeus Wolff (Frankfurt/M) に師事。一九八二年に『認識ある過失』、一九九七年には浩瀚な刑法の体系書(Strafrecht, allgemeiner Teil, Springer, 1997)を公刊。法律による理性にかなった自由の組織化として法をとらえる。哲学者カントの自由理論を基礎にして自由主義刑法理論の構築をめざすもの。
  「帰責」は刑法理論における重要概念の一つであるが、最近では「客観的帰属」が注目を集めつつある。それに対し、ここに紹介する論文は、「主観的帰責」をアリストテレス以来のヨーロッパ的共通財であると位置づけ、カントの自由論を基礎にしてその擁護・貫徹をはかるもの。近年における機能主義や規範主義の刑法理論が主観的帰責をも客観化し曖昧にしつつあることは明らかだが、本論文はその点の批判にとどまらず、古くはホッブスやフォイエルバハの経験主義(近代合理主義といってもよい)、さらにはメツガーなどの実証主義によって、主観的帰責がその本来あるべき内容を形骸化されてきたとする。その上で本来的な主観的帰責論からは、@「避けることのできる」禁止の錯誤は現実的な不法意思を前提にしなければならず、A認識なき過失は不可罰とすべきであり、B故意を規範化する最近の動向は誤りであること、を明らかにする。
  現在、テロや薬物、それらを支える「組織犯罪」と闘うために必要であるという理由で、刑事法の拡大が進んでいる。その中で、近代以降徐々にではあるが実定法化されつつあった近代刑法原則や自由保障原則が急速に後退させられつつある。しかし他方では、国家により独占された刑罰権があまりにも拡大しすぎる中で、その機能不全もあらわになってきた。修復的司法や地域などの共同体レベルにおける犯罪予防活動の重要性が唱えられる背景にはそのような事情があると言ってよい。このように激動する時代にありながら(あるいはそうであるからかもしれないが)、またもや現実を合理化し、正当化するだけの実証主義が幅を利かしつつあるように思われる。しかし、現在はむしろ、刑事規制の限界や「二一世紀における刑法の守備範囲如何」という問題を改めて論じるべき時期にあるのではなかろうか。この問題を考察する上で、人間(いわゆる被害者を含む)や犯罪者を法の客体としてだけでなく、法の主体として位置づける刑法理論がますます重要になっている。ケーラー論文には、禁止の錯誤に関するドイツ刑法一七条との整合性など、解釈論としてはなお検討すべき課題も多々残されているが、これからの刑法のあり方を考えるという観点からは大いに参考になる文献といえよう。





はじめに

  ヒルシュは、自然主義や実証主義に対抗して、客観性を決定する力を持つとされる人的行為概念で刑法体系の新方向を喚起。理解しつつ行為する主体を再び法規範的連関とその侵犯の根本に据えた(社会に対する見せしめの客体として現われさせるのでなく)。主観的不法要素の発見に対応して、侵害に向けられた行為者の故意を構成要件要素に。この出発点の優れた面を矛盾や逆戻りに抗して堅持・貫徹させることが重要。そのため主観的帰責概念を省察すべし。

一、主観的帰責の基本思想


1.アリストテレス以来の帰責
  帰責と同一視されるのは、規範的に意味のある事象の自由な(自己決定された)原因(Grund)としての、規則を理解しつつ行為する主体である。賞罰のための要件として、主観的帰責は、アリストテレスのニコマコス倫理学以来、ヨーロッパの共通財。その思想は、まず、倫理と法の目的論的統一性の下にある。それゆえ、重大な規範侵犯は通常、悪い意思に帰責されるべきもの。刑法に関する帰責論はそれとはかなり異なり、法の不知を帰責するのが通常。帰責は、この伝統においてはそれゆえ、原則として、規範に関係した自由な意思行為に結び付けられるにとどまる。聖パウロ的・宗教改革的恩寵・非難論の意味における「客観的帰責」は、それと一致できない。後のヘーゲルにあっては、客観的帰責(彼自身はこの用語を使用しなかった)は、主観的帰責に取って代るものではなく、民法および秩序法上の意味での個人的な不法答責における、自由により媒介された法秩序の客観的妥当要求、という意味を有するものだった。
2.経験主義的目的論における「帰責」
  ホッブスにより代表される経験主義的目的論では、幸福と力を求める自己中心的な主体が、国家法と単に合理的で不安定なだけの関係に立つ。外的な必要の秩序(Notordnung)。刑罰は保安に向けた法的強制の一手段になる。予防理論によれば刑罰の目的は、服従強制や威嚇にある。犯罪の主観的側面は、客観的外的規範からの逸脱を判定する基準になり、絶対主義的国家の予防強制による単なる動機づけ可能性の根拠となってしまう。そのことは、心理強制刑罰論とイムプタティオン論を結合しようとしたフォイエルバハにおいて明瞭になる。彼におけるはなはだしい矛盾は、過失(culpa)の可罰性問題に示される。当初の〈意思的な不注意としての過失〉から、終には〈悟性欠如としての無意識の過失〉へと逆戻りしてしまう。
3.自由主義的法概念による帰責
  ホッブスからロック、ルソーを越えてカントに至るヨーロッパ的思考のコペルニクス的転回。自由な行為は、理解された規則、つまり普遍的に妥当する法則、を適用する活動として規定される。自由な行為の客観性にとり、主体の理性がイデーにしたがって共に構成するものとなる。このことが、法律にも妥当する。それゆえ、外的な関係における他の人の必然的承認。カントは、道徳的人格は道徳法則の下にある理性的存在の自由以外の何者でもないと定式化。道徳的な意味における帰責(imputatio)は、ある者を行為の惹起者(causa libera)とみなす判断である。それゆえ、行為の自由は元来、その帰責可能性の根拠。
  それからの帰結。犯罪はなるほど、外的な法関係において必然的に、法的な自由の客観的・外的な侵害、つまり不法である。単に主観的で倫理的な犯罪観の排除。しかし、主観的帰責の必要性が、刑法の根拠付けにおいて、古い目的論から解放され自らの独立を獲得する。特徴的なのが、刑法理論における、責任を阻却する「法の錯誤」の原理的承認。ヘーゲルによる定式化として、所為は意思の責任としてのみ帰責される、など。最後に、自由主義的法原理から帰結される犯罪概念は、法的な承認関係の、客観的に重要で主観的に帰責可能な否定を含む行為である。

二、帰責論の位置について


1.実証主義における「主観的」帰責
  実証主義の古典的犯罪概念では、主観的帰責は、故意と過失を並列させた形での、客観的に構成要件に該当する形式的に違法な行為への行為者の「心理的」関係を意味した。実証主義に見られる、臣民としての「主体」と客観的法との不整合−それにとり特徴的なのが命令理論(Imperativentheorie)−が、主観的帰責の定理から法概念における土台を奪った。法律がそうせよと命じているとの理由で、いかに反省なく故意と過失という「責任形式」が同じ物とされていったことか。法における利益社会的な(gesellschaftlich)目的の支配、つまり近代学派において頂点に達した刑法における目的理論、とともに、犯罪者は、完全に客観的・主観的な撹乱の潜勢力にされてしまい、所為の主観的側面は、法や犯罪の構成要因から客観的危険性の一モメントへと零落する。合目的性だけに導かれた処分法への移行の中で、常習犯罪におけるように、主観的帰責はその保障的機能を完全に喪失する。
2.価値関係的思考から機能主義へ
  目的論的・価値関係的で人的・倫理的な犯罪観(法益侵害としての、義務侵害、心情無価値としての犯罪)では、多義的な転移が生じる。一方で、構成要件実現に関する人的ないし目的的行為が犯罪概念を構成。ヴェルツェルの目的行為論の優れた面は、故意の概念において再びヘーゲルの行為理論に結びついたこと。他方ではしかし、Finalismus の刑法構想は客観的な価値目的論にとらわれたまま。つまり、行為者の意思は単に評価の客体であるにすぎず、不法は本質的に「社会倫理的な」行為無価値になる。とりわけアルミン・カウフマンの後継者達において深化された主観的・倫理化的不法論は、再び「規範的責任論」を模写する。それゆえこの説によれば、主観的帰責は何らの統一的な原則ではなくなる。主観的帰責の諸要素と客観的・目的論的な帰属(Zuschreibung)のそれらとの断絶は、情動犯、習慣犯、確信犯に関する禁止の錯誤の回避可能性という規範的・客観的な定義に表われる。認識なき過失を可罰的とする主張も同じ。
  そこから機能主義への道は遠くない。客観的で価値関係的に理解された規範に利益社会ないし「システム」の機能が取って代わる。Zurechnung という表現を放棄して Zusta¨ndigkeit や Zuschreibung に。ヘーゲルによる「主観性の権利」やアリストテレス的帰責論の自由概念的説明は短縮される。「責任」はまず、利益社会的に正統化された一般予防から導出されるものとして低位に規定され、ついで「正統な規範に対する法的背信」として定義される。しかし、規範の正統性も責任非難も十分には根拠づけられない。「背信」ということからは結局のところ、客観的な逸脱そのもの、つまり「法盲目性」へと彫琢された過失が、「犯罪」の基本形態となってしまう。
3.帰責概念の再受容
  重要なのはアルツール・カウフマンの意思責任論。彼は、認識された人倫的義務に反する自由で自己答責的な意思決定として責任を位置づけ、禁止の錯誤について故意説をとり、単純な認識なき過失の可罰性を批判した。
  しかし、カウフマンは、共同体における人的自己決定がもつ独自の客観性や倫理に対する法の相対的独自性を十分に汲み取っていない。それに対し、E.A. Wolff は、カントの法哲学から出発して自由主義的刑法理論を構築。犯罪は、民事不法や行政不法という客観的な法侵害から原則的に区別された、法構成的承認関係の侵犯として規定され、客観・主観の両側面が適切に組み入られることになった。

三、主観的帰責構想各論


1.厳格な主観的帰責構想の概略
  矛盾のない主観的帰責の構想は、主要に、客観的な(侵害)構成要件の具体的実現に関する実践的妥当意思としての所為故意(Tatvorsatz)という概念と行為者の具体的な規範弁識に基づく不法意思という概念を必要とする。
  まず、過失犯は、規範違反の危殆化への意思的な決心という要件の下でのみ可能。それに対し、認識なき過失は不可罰。
  次に、「回避可能な」規範の錯誤(禁止の錯誤)は、現実的な不法意思を前提にする。規範の客観的不特定性は行為者の負担にされてはならない。
  最後に、所為やその主観的帰責要件の主体になりうるのは、規範やその妥当を省察する人間的主体だけである。団体の可罰性は責任のない者の処罰に行き着く。
2.新旧の矛盾
  古くからの未解決の矛盾は、「規範的な」責任理論と結びついている。結局のところ客観化的であるというべき基準によれば「回避可能」である禁止の錯誤は、刑法一七条の適用において可罰的となる。主観的帰責は「非難可能性」によって取り替えられる。いわゆる故意説がこのような概念構成の根本矛盾、つまり責任原理への衝突を白日の下にさらす。もちろん、規範の錯誤にもかかわらず主観的に帰責することは、次の場合、何ら矛盾ではない。すなわち、不法を弁識した上での決心は、一時的な主観的不確かさに際する、認識された媒介的規範解明義務とも対抗できる、ということが理解される場合である。規範・軽率(Norm−Leichtsinn)のこの形態は、見通しの利かない諸関係を直感的にうまく受け入れる。この意味において、意思的・有責的に「回避可能な」規範の錯誤を語ることができるのである。それゆえ、規範の錯誤についての現行法と主観的帰責原則とをうまく一致させることができる。
  類似の批判は、規範的責任論によって主張された認識なき過失の処罰に対しても向けられる。目的的行為論での矛盾は明白。それに対し、客観面において重過失の方向で制限を行うことは十分でない。なぜなら、客観的に重大な過失の場合、有責でない瞬間的な機能不全も存在するから。
  所為故意の概念は元来、Finalismus に続く行為理論的方向づけによって最も強く刻印されてきた。しかし、主観的帰責に替えて客観的帰責で満足させようとする傾向との対立が残っている。故意の問題を、あたかも客観的に前置された危険ないし侵害事象の多かれ少なかれ広範に渡る模写が問題であるかのように提起するのは方法的に間違っている。これが「表象説」の欠点。逆に、意思ないし故意の概念では、客観的事象の主観的構想(招来)が把握されてきた。行為ないし帰責の概念からすれば、それゆえ、故意は、(客観的構成要件に関係する)実現意思として正しく規定される。その意思は、目的論的な事象経過に関する主観的・実践的な妥当認識によって構成される。すなわち、認識と意欲の統一物(Einheit von Wissen und Wollen)であって、分離した存在としての認識と意欲ではない。構成要件の実現を意欲するということはそれゆえ、構成要件を自己の行為構想の客観的・規則的に措定された部分契機として主観的に理解するということである。それは、具体的な実現可能性とその内在的な偶然の統一物(それこそが現実性)を包含する、肯定的な実践的妥当判断(「そうあるべきだ」)なのである。行為者が可能なものと認識した構成要件の実現に関し否定的な妥当判断に達する限り、彼は故意で行為するものではない。意思や主観的帰責という概念をまじめに受け取れば、侵害故意にとって行為者が構成要件に該当する侵害結果の可能性あるいは危険を認識していたというだけで満足することはできない。なぜなら、それは危殆化故意を意味するにすぎないから。むしろ、行為者が構成要件に該当する結果そのものを肯定的妥当判断でもって自己のために組み入れることが前提にされるべきである。侵害結果を実践的に自己のために組み入れるということ(Fu¨r-sich-Einsetzen)は、dolus eventualis という言葉の意味にも最も近く、次の定式化により表現される。すなわち、行為者は「結果発生の場合につきそれを承諾」していなければならないということ。もちろん、その「承諾」(Einwilligung: (紹介者注)・日本では普通「認容」と訳されているが疑問あり)は、仮定的な「意思」と誤解されてはならず、現実的な、状況への理解によって不可避な妥当意思として解釈されなければならない。構成要件実現と「折り合う」(sich abfinden)、これを「真面目に取る」(ernst nehmen)、「是認する」(billigen)は、同様の近似語である。それらは、認識ある過失における、構成要件該当結果の不発生への「信頼」とは異なっている。これらの定式化に対しては、単に記述しているだけであり、本来なら基準となる認識事態に並べて証明されていない意思あるいは情緒的な契機を置いているとの批判がなされる。しかし、これらの定式は、主観的帰責や実現意思という観点の下で完全に基準となる対立的な実践的妥当認識(や意欲)の判断内容を表現できている。すなわち、「なるほど、結果の可能性や侵害の危険は現実に存在している。しかし、結局のところ何も起こらないであろう。」。この、自らの行為の現実に関して主観的に対立する実践的妥当判断は、「軽率」あるいは認識ある過失を形成する。相対的に独立した主観的妥当省察としてのその妥当判断は、侵害故意について「遮蔽されていない危険」(unabgeschirmte Gefahr)あるいは「加重的危険表象」(qualifizierte Gefahrvorstellung)に照準を合わせる最近の試みが主張するようには、客観的な危険定義によって規定されたり、排除されたりすることはない。なぜなら、(加重された)危険の意識的引き受けは、侵害故意を意味しない。危険構成要件と侵害構成要件とは、客観的同様主観的にも区別されていなければならない。それゆえ、判例は、「承諾」公式に基づいて全く圧倒的に適切な区別に至っている。判例は、行為者が侵害意図を持たないが客観的および主観的にきわめて危険な行為をした場合に、未必の故意を認めている。これらは主観的確信に近い事案である。例えば、勢いを込めてナイフを身体に突き刺した後、「お灸を据えた」かったと告げた事案。それに対し、高度に危険な状況にあるにもかかわらず行為者が通例の回避機会に全幅の信頼を置く場合、故意が適切にも排除される。例としては警察の阻止線に、経験豊かな警察官が適時に傍らに飛び退くことであろうことを信頼して高速度で突っ込む場合。このような事案では通例、故意による危殆化犯は考えられるが、故意による侵害犯(の未遂)は排除される。判例はまた、故意の概念とその確定のための問題ある証明規則とを確信を持って区別している。
  遮蔽されていない危険ないし加重された危険の表象で足りるとする見解には、古い間接故意論(dolus−indirectus−Lehre)への再接近が見られる。「規範的」考察方法あるいは客観的帰責構想が故意を根拠づけるべきだと明言される。これは、主観的・倫理化的な不法観と輻輳している。それによると、不法意思の現実規定的な質ではなく、規範一般からの意図的な逸脱が基準にされる。しかし、不法や犯罪は、意思による行為という主観的・客観的な事態として他人に対する現実の外的な自由の関係において規定されるものなのだ。未必の故意という形態での侵害故意は、危殆化故意や単なる証明規則とは必ず区別されなければならない。
  同様の理由からする論争として、因果経過に関する故意がある。ここには、概括的故意ドクトリンへの強い傾向が支配している。付加的な、故意のない行為によって結果が招来された場合でも、前後を問わず、その結果は行為者に完全に帰責される。その公式は、表象された因果経過からの「非本質的な逸脱」というもの。かなりの者が、これを「方法の錯誤」や「当該客体の抽象的同価値性」の場合にも認めたがっている。後者の拡張は支配的見解に相応せず、また判例によっても一般的に拒否されている。例外は、Rose−Rosahr−Fall の状況。正犯者が人違いをした場合、教唆者からすれば本来は方法の錯誤になるのに、連邦裁判所は教唆者に既遂の故意を認めた。主観的帰責が現実には欠けるのに、証明されない「同等の評価」ということによって、その欠如が飛び越えられる。この用語の背景には、客観的・目的論的帰責構想がある。なぜなら、他人の殺害を招来したいという不法な態度に示される道徳的事情およびその否定的評価が、法概念上の帰責に取って代わるから。
  それに対し、首尾一貫して説明しようとする試みからは、故意表象の内容は、次の限りにおいてのみ客観的な現実性と一致しなければならないことが認められる。すなわち、どのような表象が故意を構成する要素であるかを立法者が構成要件において規定し、それとともに、この構成要件にしたがって行為者の故意に帰責できる、結果や因果経過の部類(Klasse)の範囲をも規定する限りにおいてである。行為者はいずれにせよ、この部類を特別の表象あるいは願望によって制限する権能を有しない。この抽象化からの帰結は次のようになる。すなわち、故意にとっては、その行為に「そもそも構成要件に該当する客体」に打撃を与えるだけの適性があることの表象で足りるということ。同様に、概括的故意の場合、行為者は完全で十分な結果条件を知っている必要はないということである。このような首尾一貫性の功績は、原則的なものにおける欠陥を明瞭に披瀝することにある。意思や故意という概念は根本的に台無しにされる。
  主観的帰責と刑法の根拠づけとは実質的に互いに結びついている。それは犯罪論体系において妥協なく貫徹されるべきだ。そうでないと、刑法はそのアイデンティティーと名称を失ってしまう。ここでは特に、自由主義的共和国の行為・責任刑法が問題なのである。

(生田勝義)




 ヴァルター・グロップ
「『義務衝突』:義務の衝突もなければ、衝突状態にある義務もない」
WALTER GROPP, Die”Pflichtenkollision:weder eine Kollision von Pflichten noch Pflichten in Kollision, in:Festschr. f. H.J. Hirsch, 1999, S. 207-224.

〔紹介者はしがき〕
  本論文は、法的義務の衝突は法秩序の統一性からして回避されるべきであるという問題意識から、「義務衝突」概念の再検討を試みたものである。なお、本論文の著者グロップは、ギーセン大学の教授である。
  本論文において、著者はまず、@不作為義務と作為義務との関係は原則(不作為義務)ー例外(作為義務)の関係にあること、及び、A法的義務は法的許容の枠内でのみ存在すること、という二つの命題を提示する。これら二つの命題から、作為義務が発生するにはその前提として正当化的緊急避難によって介入権が承認されていなければならない(介入権が認められない場合には、原則通り不作為が義務づけられる)という帰結が導かれる。
  以上の考察ののち、従来「義務衝突」とされてきた事例群が検討される。そして、大半は利益衡量の段階で正当化的緊急避難の問題として処理され、複数の実質的な法的義務が存在するのは同価値の作為義務が存在する場合のみであるということが示される。しかし、この場合にも作為義務の名宛人が自己の能力に応じて少なくとも義務の一方を履行することは法秩序が彼に義務づけていることであるとされ、最終的に複数の作為義務の「衝突」は否定される。かくして、著者は、いずれの事例群においても「義務衝突」は存在せず、法秩序の統一性との抵触はないと主張する。
  わが国でも、作為義務間の衝突以外の衝突は緊急避難によって解決され得るとして、義務衝突の範囲を作為義務間の衝突に限る見解(内藤、山中他)は散見される。しかし、義務衝突と利益衝突との関係、さらには、法秩序の統一性との抵触の問題を意識的に論じているものは必ずしも多くないように思われる。
  もっとも、本論文は、義務衝突概念の否定という斬新な切り口にもかかわらず、結論的にはそれほど新味がないのも確かである。例えば、独の通説が同価値の作為義務の衝突を「不可能は義務づけられない」という理由から正当化するのと、著者がこの場合には義務の名宛人の選択によって義務が単一化されるという理由から義務の「衝突」を否定するのとで結論的に何ら異なるところはない。両者の差異は、単に、「義務衝突」という用語法上の差異にすぎないともいえる。
  とはいえ、利益衡量の結果を義務衝突の先決問題と位置づけ、法的義務を実質化することによって法秩序の統一性を確保しようとする本論文のアプローチは示唆に富むものであり、わが国の義務衝突論にとって大いに参考になるであろう。
  以下は、本論文の要約である。


  「同時発生した二つもしくはそれ以上の義務が、具体的状況において、相互に、それらの義務の一つの履行が同時に他の義務の一つの侵害を意味するような関係に立っている場合でまたその限りにおいて」、「義務衝突」は存在する(ルシュカ)。しかし、かの衝突の要素は同時に存在する複数の法的義務なのか。法的義務が同時に存在する限りにおいて、それらの衝突は法秩序の統一性を前にして深刻な疑念に直面しなければならないのではないか。

A.複数の衝突する法的義務がないため「義務衝突」が存在しない場合「義務衝突」ではなく利益衝突の場合

T.法的義務ー法規ー衝突

    1.法規から生じる法的義務が衝突する場合「義務衝突」
  法的義務は(刑法においては書かれた)法規の定式に基づいているが、法的義務の名宛人に対していかなる態度をとるべきかがこれらの法規によって知らされることは原則としてない。そこには、害悪付与と考えられる一定の法律効果を伴った、諸状況が記述されるのみである。従って、記述された態度は望ましくない態度であって実現されてはならないということ、そして、その実現を回避する法的義務があるということがここから結論づけられる。「義務衝突」を考える際、このような法的義務と法規の対応関係も顧慮される必要がある。
    2.不作為義務(原則)としての法的義務と作為義務(例外)としての法的義務
  禁じられた態度を記述した法規(不作為義務)に対応する作為犯と、命じられた態度を記述した法規(作為義務)に対応する真正もしくは不真正不作為犯は区別されなければならない。刑法典の各則において、作為犯の数が(真正)不作為犯の数を圧倒的に上回っているということから、刑罰で強化された不作為義務と作為義務との間に原則と例外の関係があることが示唆される。
  もちろん、不真正不作為犯の承認は、不作為義務に基づく禁止が作為義務に基づく命令にも転換されうることを示している。しかしながら、この転換は刑法一三条において定められた補足的要件と結びついている以上、不真正不作為犯を顧慮する際にも、禁止(不作為義務)が命令(作為義務)に対して基本形(Grundform)をなすのである。
  制裁で強化された不作為義務が数の上で優越しているのは偶然ではない。これは、(刑)法秩序の平和秩序〔維持〕機能からの帰結である。平和及び秩序が、作為義務よりむしろ不作為義務によって保証されうるのは明らかである。作為者は、いうなれば第三者の利益を侵害する危険を冒しているのでありそれ故一定の介入権を必要とするが、これに対して、不作為者は、自己が例外的に第三者の利益を擁護する法的義務を負うのでない限り、いかなる正統化(Legitimation)も必要としない。
    3.法的義務の併発ー「義務衝突」の形式的な事例群
  形式的な事例群には以下のものがある。即ち、作為義務と不作為義務との「衝突」、作為義務と作為義務との「衝突」、不作為義務と不作為義務との「衝突」の三つである。

U.実質的な法的義務と利益衝突

    1.形式的な法的義務と実質的な法的義務
  これまでの考察は法的義務の形式的概念を出発点としていたが、このような形式的視点で満足するわけにはいかない。というのも、正当防衛の場合を考えればわかるように、形式的に構成要件に該当するあらゆる態度が違法なのではなく、形式的に義務に反するあらゆる態度が実質的に義務に反するわけではないからである。
  許容されることのみが実質的に義務づけられうる以上、法的許容(Du¨rfen)が法的当為(Sollen)の前提になる。作為義務において許容命題即ち介入権が欠如する場合、実質的な法的義務も存在しない。従って、実質的に存在しない法的義務は衝突することもないのである。
  つまり、法的義務の実質化は「義務衝突」概念の縮減を意味する。少なくとも、「義務衝突」は、一つの法的義務しか存在しないところには決して存在しないのである。その結果、まず第一に、この種の事例が、「義務衝突」の形式的な事例群からふるい落とされなければならない。
    2.実質的な法的義務の前提問題ー利益衝突の決定
  法的義務は法的許容の枠内でのみ存在する以上、「義務衝突」の枠内では、許容命題ーとりわけ正当化的緊急避難ーに決定的な意義が付与される。正当化的緊急避難が利益衝突に際して何が許容されるかを確定するとすれば、利益衡量の結果は「義務衝突」の先決問題となる。要するに、正当化的緊急避難及び他の全ての介入権は、法的義務の衝突について決定するのではなく、法的義務の存在自体について決定するのである。

B.複数の法的義務の衝突がないため「義務衝突」が存在しない場合

  −A.の帰結として−優越する利益を保全する法的義務がさらなる実質的な法的義務の存在を排除するとすれば、複数の実質的な義務が成立する余地は、優越する利益が定立されえないところにしか残されていない。
  この観点の下で、形式的な「義務衝突」の事例群が検討されなければならない。

T.形式的な作為義務と形式的な不作為義務との「衝突」

  形式的な作為義務によって保全されうる利益が不作為によって保全されうる利益に優越していない場合には、作為義務の前提である介入権は存在せず、従って、作為義務は否定されなければならない。
  例カルネアデスの板の事例に変更を加えた事例
    船が沈没し、一人分の浮力しかない板に疲れ果てた難船者A、Bがつかまっている。同様に難船したDは、友人であるAを助けるためにBを板から突き飛ばし、Bを溺死させた(Aに対する一般的救助義務に基づく形式的な作為義務とBに対する刑法二一二条【故殺】から生じる形式的な不作為義務)。
  しかしながら、形式的な作為義務に対応する利益の方が優越する事例(介入義務がある正当化的緊急避難の特殊事例)も考えられる。
  例急行列車が工事区間に接近している。本線上には、一〇人の作業員、待避線上には農夫Xの馬がいる。ポイントをそのままにしておけば、列車は本線を走行する。サイレンが突然故障したため、線路番Sは一〇人の作業員に列車の接近を警告することができない。彼らの死を回避するためには、Sはポイントを切り替えなければならない。もちろん、Sはそれによって待避線上の馬の死を惹起することになる。
  この例が特殊であるということは、待避線上にいるのが馬ではなく、作業員Eであった場合を考えれば明らかである。
    この場合、正当化的緊急避難によって介入権が認められない以上、線路番SがEの権利に介入することは禁止される。行為者が生死に関する運命をもてあそんではならず、むしろ、運命をその成り行きに任せなければならない。
  形式的な作為義務と形式的な不作為義務との衝突については、通例、利益衝突の段階ですでに優越的利益の原理に基づいて決定され、それによって実質的な「義務衝突」が回避されるということが判明する。つまり、作為義務であれ、不作為義務であれ、一つの実質的義務しか存在しないのである。
  結局、作為義務と不作為義務とが「衝突」する場合、介入行為に対しては正統化が必要であることから、具体的事例においていずれが優越するか確定され得ないということは考えられない。ここでは、「真偽不明(non liquet)」は存在しないのである。

U.形式的な作為義務間の「衝突」

    1.価値に差異がある形式的作為義務間の「衝突」
  価値に差異がある形式的な作為義務間の「衝突」に関しても、どちらの利益が実質的な法的義務の対象として守られるべきかは利益衝突の準則から明らかになる。
  例父親Vが、五歳の息子Sと家族にかわいがられている犬Hを連れて海に行った。SとHは突然深みにはまり今にも溺死しそうである。SとHの距離及びVの限られた肉体的能力からして、Vはどちらか一方しか助けられないと悟った。Vは息子Sを助け、犬Hを溺死させることを決心する。
  この場合、犬を救助する実質的な法的義務は存在せず、Vは息子の生命を助ける場合にのみ適法といえる。
    2.同価値の形式的な作為義務間の「衝突」
      ー違法阻却事由としての同価値義務の複数性
        (gleichrangige Pflichtenmehrheit)
  ここで問題となるのは、優越的利益が確定され得ないが故に、形式的に衝突している他の法的義務を排除し得ない場合であり、この事例群こそが実質的な法的義務の衝突を想定できる唯一の事例群といえる。


  例:前述の海浜事例で、二人の息子S1とS2が溺れている場合。
    S1の生命利益もS2の生命利益も他方に対して優越しないため、優越的利益に基づく正当化は排除される。衝突する利益のどちらも保全しないことは違法である以上、実質的な救助義務はS1についてもS2についても排除されない。
  これについては、ー「不可能なることの何らの義務なし(impossibilium nulla obligatio est)」という観点からー少なくとも行為者が義務の一方を履行する場合には正当化を認めようとする見解(通説)や、この場合も、優越的利益が守られていない以上、正当化の効果はなく、免責の効果があるに過ぎないとする見解が主張される。
  しかし、今や行為者が何かをなさなければならない場合、このことが同時に違法とはなり得ない。なぜなら、法秩序は違法な行為の実行を命じることはできないからである。同時に存在する同価値の作為義務の下で選択がなされ、それがー任意にー遵守された場合、違法性は阻却される。
  なお解決されるべき問題がある。即ち、同価値の作為義務の併存する場合が、冒頭でルシュカによって定義された「義務衝突」に当たるのかという問題である。作為義務の名宛人が自己の能力に応じて少なくとも一方の義務を履行することは、全くもって法秩序が彼に義務づけていることである。それ故、義務者において複数の作為義務は衝突していないのである。最終的に、複数の作為義務は、名宛人によって具体化された唯一の法的義務に行き着く。従って、正当化的に作用するのは義務「衝突」ではなく、同価値義務の複数性である。

V.不作為義務間の衝突は存在しないー禁止法は決して相互に衝突しない!

    1.不作為義務間の衝突の論理的不可能性
  義務の衝突は一方の義務が他方の義務を無視することなくしては履行し得ない場合にのみ存在しうるとすれば、純然たる不作為によって履行できるあらゆる義務が同時に履行され得る以上、不作為義務間の衝突は論理的に不可能である。
    2.論理的不可能性を裏付けるための実例?
  しかしながら、驚くべきことに、不作為義務間の「衝突」が今日「義務衝突」の「標準的レパートリー(Standardrepertoire)」に数えられている。
1.「ハンブルクのエルベトンネルの事例」。
      エルベトンネルでは、ラッシュアワーの交通規制として、車線の大部分があるときは北向きにまたあるときは南向きに開放される。(装置が突然故障し)ある車線の進行方向が変更されたが、運転者はなおも変更前の方向に進行している。運転者は、引き返してもそのまま進んでも、トンネル内での誤方向への進行、停止、もしくは、進行方向の変更について不作為義務(禁止)に違反することになろう。
2.「アウトバーンの高速運転者の事例」。
      高速で走行する運転者が渋滞の最後尾に至る。彼がブレーキをかければ、彼は後続の者との追突事故を惹起するであろう。彼がさらに車を走行させた場合、彼は先行している者に追突することになるであろう。この運転者は、停止することも走り続けることもしてはならないことになる。
3.「(反対方向に走行する)無謀運転者の事例」。
      アウトバーンを誤った方向で利用している「無謀運転者」は、止まることも、走り続けることも、バックすることも、Uターンすることも許されない。
  (a)  「作為の余地が汲み尽くされている」としても不作為義務間の衝突は存在しない
  例えば、アウトバーン上の無謀運転者には、アクセルペダルから足をはずし、場合によってはさらにブレーキを踏むことによって、「逆走」を継続しないことが義務づけられなければならない(道路交通規則一八条七項)。他方、彼は、これによって、停止しない義務に違反せざるを得ないことになる(道路交通規則一八条八項)。しかし、それが不作為義務間の衝突なのか。
    ここで直ちに疑義が生じる。即ち、それは、アウトバーン上での逆走の禁止は、無謀運転者に不作為を義務づけるのか否か、むしろ積極的行為を義務づけているのではないかという疑義である。
    「通常の場合」、逆走禁止が意味するのは、運転者は進行方向を変更してはならない(不作為義務)ということである。走行の継続はそこでは(アクセルペダルの操作にもかかわらず)不作為として評価され、停止と進行方向の変更は積極的行為と評価されなければならないであろう。無謀運転者の場合に異なった評価をする理由は存しない。つまり、彼にとって、走行の継続は不作為による「逆走」であり、停止は積極的行為である。逆走の禁止は、無謀運転者に対して逆走しないこと、即ち、積極的に行動することを義務づけるのである。
  要するに、この場合、義務者の作為の余地は確かに汲み尽くされているが、それは形式的な不作為義務間の衝突に起因するのではなく、他の不作為義務と衝突する作為義務が存在することに起因する。これこそが他の事例にも染みついている「弱点(wunder Punkt)」なのである。
  (b)  不作為義務間の「衝突」を裏付けるために挙げられた例がもつ「弱点」
  エルベトンネルの例では、運転者は「逆走」しない義務に違反している。しかし、この場合、逆走しないということは行動することを意味しており、この作為義務が停止及びUターンに関する不作為義務と衝突する。
  高速運転者の例でも、運転者はブレーキをかければ第三者を危殆化することになるような速度で走行していることから、運転者には、それを止める義務、即ち、ブレーキをかけるという積極的行為が義務づけられる。
  (c)  不作為義務間の外見上の衝突と立法理由
        −「無謀運転者」の例について
  アウトバーン上の行動準則の意義は、およそ、道路利用者の危殆化を最小限に抑えつつ交通の流れを保証する点にある。「無謀運転者」の場合、「逆走」があらゆる態度のうちで最も危険である以上、道路交通規則一八条八項【アウトバーン上での停車禁止】によって保護される利益は存在しない。即ち、停止しない義務は、「無謀運転者」の事例においては、道路交通規則一八条八項における規範の保護目的に合致しないであろう。
C.まとめ
  1.法的義務の実質化は「義務衝突」概念の縮減を意味する。まず第一に、法的義務が一つしか想定されないところには決して「義務衝突」は存在しない。優越的利益の判断において違法阻却事由が決定するのは法的義務の衝突についてではなく、その前提となる実質的な法的義務の存在それ自体についてである。
  2.複数の実質的な法的義務が存在するのは、同価値の作為義務が存在する場合のみである。この場合、自己の能力に応じて少なくとも同時に存在する義務の一つ(選択)を履行する者は適法に行動しているといえる(違法阻却事由としての同価値義務の複数性)。
  3.同時に存在する不作為義務間の衝突は論理的に不可能であり、それを例証することもできない。

(井上宜裕)