立命館法学 2000年5号(273号) 549頁




◇特別講演◇

ウルリッヒ・アイゼンハルト

ドイツ民法典の不完全性と法曹の力量

−サヴィニーは正しいことを述べてはいなかったか?−


谷本 圭子 (訳)


 

目    次

T.はじめに

U.成立史について

V.法学と裁判と民法典

W.結    び

 

T.はじめに

  ドイツ民法典(BGB)について我々はそれが一〇〇年間の適用に値すると評価しているが、その創設は、ドイツにとって何ら自明の出来事ではなかった。法典編纂をめぐっては猛烈な争いが生じていたのである。それは法典編纂論争と呼ばれている。フリードリッヒ・カール・フォン・サヴィニーは、周知のように、「蓄積された全ての法の略図」といって法典編纂を嫌ったのである。というのは、法典編纂が意味ありかつ可能であるのは、法学が問題となっている法的テーマにつき熟達している場合のみだという理由からである。サヴィニーはまさに、このような前提が彼の時代には充たされていないと見ていたのである。さらに、彼は、「法曹」を立派に養成することを立法よりも優先させるべきと見ていた。というのは、彼が明らかにしたような「法の作出」及び法曹の間での法の絶えざる発展も、立法をなした場合に保全されるとは、彼は見ていなかったからである。
  一九世紀の後半になってはじめて、民法の法典編纂を支援する者が優勢となった。その時なされたドイツ民法(すなわち一九〇〇年に施行されたドイツ民法典)の法典編纂は、今日でもなお、「当時の最も偉大な法政策上の成果」と見られている(一九九二年になお歴史家であるトーマス・ニッパーダイは彼のドイツ史第二巻でそう言っている)。この法典編纂という成果は、民法典の施行の時には、一八七一年のドイツ帝国成立後の時代に形成された文化的ナショナリズムの中にあって、あまりにオーバーに積極的に評価されすぎてしまった。
  しかし、一九〇〇年前後にはもう既に批判的な声が優勢となった。これに立ち返る必要があろう。
  民法典は第一に法曹に向けられており市民には向けられていないように見える。これは注目すべきいくつかの特性をもっている。この民法典がアングロサクソン以外の世界に多大な国際的影響力をもったことが、このことを印象深く証明している。
  今日では、ー一〇〇年後にふさわしくー民法典に対して批判的な距離を置いた立場が優勢である。この民法典の欠陥は、その研究者にはおのずと明らかとなろう。それらの欠陥リストは今日の観点から注目すべきものである。いくつかを挙げておくと、
(a)  学生さえすぐに気がつく点であるが、民法典に詳細な規律がある給付障害すなわち不能は実務において二次的な意味しかもたないという点である。これに対して、民法典の立法者が見誤った、積極的契約侵害(PVV)が債務者遅滞とならんで傑出した役割を果たしている。そしてこのことは民法を超えた事態であり、例えば会社法や労働法においても同じである。
(b)  民法典の信用担保モデルは、動産及び債権上の担保権に関するものであるが、これは失敗である。法の実情は法定の秩序をさっさと飛び越えてしまっている。動産の質入れは、譲渡担保と債権譲渡による債権の質入れによって、取って代わられた。その理由は明らかである。このような展開にとって決定的であったものとして、債務者の「利用利益」と「秘密保持利益」でもって表される、二つの異質な要因をあげることができる。
(c)  よりひどい欠陥は、私見によれば、民法典すなわち八三一条を含めた八二三条以下の失敗作である不法行為法である。民法典の立法者は、フランス法(民法一三八二条、一三八三条)を手本とする包括的な不法行為に関する一般条項を採らないことを決定した(類似の規律が重要な法秩序のほとんどに見られる。例えば、日本民法参照)。そのため、財産侵害の多くの要件をリストに入れることは困難であったり、そもそも不可能であったりするのである。さらに、八三一条という失敗作である規律も加わる。すなわち、この規定は二七八条とは対照的に、補助者の誤った行動について本人に過失がある場合にのみ本人に責任を課すものである。
(d)  欠陥及び空白のリストは、残念なことにどんどん拡張していっている。例えば、失権に関する法律上の規律はなく、適合装置に関する規律もない。事情変更約款は古くからの法制度であるにもかかわらず。
焉@ 私には特殊な欠陥に思われるのは、民法において適用されるべき方法(Methoden)に関する規律が広く欠けていることである。オーストリアの民法典、スイスの民法典、及びイタリアの民法典とは異なり、ドイツの民法典はその法律上の規範についての一般的な解釈規定を欠いている。それは、意思表示(一三三条)及び契約(一五七条)についての解釈規範に限られているし、加えて、それらは失敗作と見られている。今日通用している解釈基準(文法的、歴史的、体系的、目的論的解釈)及び類推という手段は、法適用に際して卓越した役割を果たしているにもかかわらず、民法典の中には見つけられない。
  このようなことは以下の問いを立てるものである。すなわち、
・サヴィニーは民法の法典編纂を否定したがこれは正しいことを述べていたのではなかったのか?
・民法典が編纂されたとき、法学は実際時代の先端をいっていたか?
・ドイツの民法体系は民法典の不完全さにも関わらず、なぜ今日まで比較的よく、すなわちあつれきなく機能してきたのか?
  これらの問いに答えるため、簡単にではあるが、民法典の成立の歴史と、その後、裁判と法学が不完全なまま法典化された民法を取り扱ってきた方法を扱う必要がある。

U.成立史について


  ドイツ全体のための民法の法典編纂を成し遂げようという要求は、ハイデルベルグ大学の教授であったアントン・フリードリッヒ・ユストゥス・ティボー(一七七二ー一八四〇)により激しく、彼の一八一四年に刊行された論文「ドイツにとっての普通民法の必要性について」の中で主張された。この要求は、激しい議論を経て、一九世紀後半に民法典を創設することでもってはじめて実現された。
  法典編纂は一九世紀において立法の理想型となったのであり、要するに、法律は法制定の最も重要な形となったのである。法律はヨーロッパの大多数の国家において、裁判及び法学よりも前面に出ることとなった。このような展開においては、立憲政体及びそれと結びついた議会の協力が、立法において重要な役割を果たした。
  一九世紀、ヨーロッパ諸国における私法領域での立法は、形式と内容に関して、その時代に特徴的な一定の共通傾向を見せていた。このような動きは、経済展開、とりわけ産業化に根拠を有するものであり、多くのヨーロッパ諸国が同じ問題に直面していたのである。また、憲法制度、法律についてのよく似た考え、そして社会秩序に関して共通方向での考えの中にも、共通の傾向は見られる。
  ティボーは、彼の基礎となっている論文「ドイツにとっての普通民法の必要性について」(一八一四年)でもって、ドイツにおける民法全体の法典化に尽力したのである。ティボーは、彼の論文が現れた時代にドイツを支配していた法の状態を批判した。彼は、その状態を、その細分化と個別の法の矛盾を理由に、複雑なものと性格づけ、それにつきとりわけ以下のように述べた。すなわち、「そうしてすなわち我々の国の法は、互いに矛盾し、効力をなきものにする、雑然とした規定からなる無限のくずであり、まさに、ドイツ人を互いに分裂させ、そして裁判官と弁護士が法を完璧に知るのを不可能にさせるような性質のものである」と。
  ティボーは、民法の法典編纂のための草案を準備するために、法曹からなる団体が全ラントから集まるべきと主張した。読者層の国家意識が自由闘争により一九世紀に強力となったためにようやくというわけではなく、その読みやすさも一因となって、ティボーの論文はその効果を損なうことはなかったし、また一般的なドイツの法典編纂という考えにはじめて大衆の幅広い利益を向けさせたのである。その時代の気風も、ティボーの呼びかけに反するものではなかった。むしろその時代の気風は、ティボーの警告にも関わらず法統一を妨害しそのいく手を遮るところのドイツの政治的分断により、しかしまたナポレオンによる支配という非常時とロマン主義が作り出した歴史意識によっても、規定されていたのである。
  サヴィニーは、一八一四年に公表された論文「立法と法学のための我々の時代の使命について」でもって民法の法典編纂に反対した。この論文は、既に長年構想されていたが結局ティボーの呼びかけをきっかけとして「ドイツにおける普通民法」の後に書かれたものである。「法が民族の本質及び性格と有機的に関連していること」を強調し、これにつきとりわけ、以下のように述べている。すなわち、「法は民族と共に絶えず成長しており、民族から成り立っている……この考えをまとめると、どんな法も、完全に適切というわけではないが通用している言い方をすれば慣習法という形で発生している、換言すれば、どんな法も、まずは風習や民間信仰により作り出され、次に法学により作り出され、すなわち至る所で内的な力により作り出されているのであり、立法者の恣意により作り出されるのではない」。それゆえサヴィニーは、法は国家により設定されるのではなく、民族自身における法を作り出す力に基づきまずは慣習法として発生するという見解を主張した。どんな法も言葉、風習、そして国制(Verfassung)と同様、有機的に成長するが故に、法学は歴史の学問である、というのがサヴィニーの考えである。彼はそこから、法典編纂は蓄積された法の略図であり、それが意味をもち可能となるのは、問題となっている貯蔵された法の全てにつき法学が熟達している場合のみであるという結論を導いた。サヴィニーはこのような前提要件が彼の時代に充たされているとは見ていなかったのである。
  サヴィニーが法を形成する際に特に重要と見ていたのは、法律に通じている者という立場(Stand)、すなわち法曹であった。これにつき彼は以下のように述べている。すなわち、「法はこの立場の意識の中では、継続しているものでありかつその民族法が固有に発展しているものにすぎない。したがって、それ(=民族法)は今二重の人生を歩んでいる。すなわち、その基本的特色によれば、それは民族の共通意識の中で生き続け、そしてそのさらなる鍛錬と個別の適用は法曹の特別な仕事なのである」。サヴィニーは明白に、「民族の法作出活動」は圧倒的に「全体の代表者である」法曹すなわち法作出活動を絶え間なく実行している法曹へと移っていると述べている。
  すなわち、サヴィニーによれば、法曹は実質法の展開に直接の影響を及ぼすとする。彼が名付けたような、この「特殊な法作出(besondere Art der Rechtserzeugnung)」を、彼は「学問法(wissenschaftliches Recht)」と呼び、これと「法曹法(Juristenrecht)」という概念とを同一視している。
  結局、サヴィニーは立法よりも、有能な法曹を養成することを優先すべきと考えた。というのは、彼は、市民のための法的安定性及び法の平穏な継続的発展は、まず第一に優れた法曹により担保されるのであり、新たに創設される法律によっては担保されないということから出発していたためである。それでもってサヴィニーは、教育のもつ深遠な人間的威力に関して同世代とその基本的見解を共にしていたのである。彼は教育の中に、よき法曹を生み出し、かつそれと結びついたドイツでの法学の躍進を生み出すための決定的な手だてを見ていたのである。
  サヴィニーは「法の蓄積全体」の略図として法典編纂のみを拒絶していたにすぎず、個別の立法は、それでもって既存の法状態を確定するという目的が追求される限りで無害と見ていた。
  一九世紀の後半には、ドイツの法学は、歴史法学派の有力者により呼び起こされ、そして推進されてきた民法の法典編纂に反対する立場に打ち勝った。法学と立法は、法統一とりわけ民法分野で存在すべき法統一を成し遂げるという目的で、結合したのである。一八六〇年に設立されたドイツ法曹協会が法統一の実現をその主たる目的と位置づけ、一八七一年のドイツ帝国の成立でもって民法の法典編纂のための政治的前提要件が作られた後、国制の変更により、民法を包括的に法典化する可能性が開かれたのである。
  個別の有名な成立史について、私はここで扱おうとは思わず、その代わりに、ただちに、立法の大詰めと同時代の批判につき扱っていきたいと思う。
  一八九六年七月一日、帝国議会において第三読会の後、法律草案につき採決がなされた。議員二八八人のうち二二二人が賛成の投票をし(とりわけ保守党、国民自由党、及び中央党の議員)、四八人の議員が、そのうち四二人は社会民主党の議員であったが、反対の票を投じた。そして一八人の議員は投票を棄権した。
  社会民主党の議員が反対票を投じたのは、まずもって、彼らの本質的な要求が達成されなかったためである。この要求に含まれていたのは、
  −全ての労働者の法的な平等取り扱いを確立すること、
  −国家公務員の職責違反について国家が責任を負うこと、
  −夫婦、家族、及び経済生活において女性を法的に同等にすること、
  −婚外子を嫡出子と法的に同等にするよう要求すること、
  −離婚法における有責主義を撤廃すること、
であった。
  一九〇〇年一月一日の施行前から既に民法典は、激しい批判の的となっていた。その帝国議会の議員団が民法典を拒絶したところの、一連の社会民主党員の中から、その委員長であるアウグスト・ベーベルが繰り返し発言していた。彼は、民法典を以下のような産物と評したのである。すなわち、「先祖の誰もがそれに真に素直な喜びを見出さなかった産物である。なぜなら、それがドイツの状態のまさに所産であるが故に、それが施行されないうちに既に、時代の要請による非常に根本的な規定につき古くさくなってしまうような、自然の理に背く妥協の産物だからである」。ベーベルは民法典をフランス民法典と比較して、フランス民法典でもって「革命的な市民によるフランスが封建的絶対専制的なフランスを破壊したのであり」そして国家(Nation)全体のために一つの法(Recht)を作ったのであると。これに対して、新しいドイツの民法典は「従来主として通用してきた法を様々な欠陥をもちながら不完全に編集したもの」であり、かつ、「時代遅れの精神に可能な限り配慮したために、現代の精神と矛盾することとなった、社会制度であり政治制度」なのであると。
  ベーベルの批判は根拠のないものではなかったということは、二〇世紀後半の法学による民法典の評価が証明している。その自由主義的な基本思想、これはとりわけ自己の生活領域を自分自身で形成する可能性としての私的自治、所有の自由、そして遺言の自由の中に現れているものであるが、その基本思想でもって民法典はその形式的な法秩序と共に、占有ブルジョワ、小規模事業者、そして小規模農家に向けられている。特に債務法及び物権法は、市民による経済社会の利益を考慮している。しかし他方、独立していない賃労働についての規律は「当時の社会の評論が口をつぐんだビスマルクの社会保障の元来の家父長制」にすら遠く及ばないものである。ヴィアッカーはこのことを以下のように表している。すなわち、民法典は一つのまとまった社会の傾向を表すものではなく、一九世紀のドイツの社会史の中で融合できなかった多くの価値体系の間での調整の試みなのであると。
  民法典はあまりに大衆的ではないという非難(とりわけ、フォン・ギールケによる)は、少なくとも部分的には正当であった。例えば、民法をおおっている区別原理と抽象原理は、法曹においてさえ、それが実生活からかけ離れているとの理由でもって、繰り返し拒絶されてきた。そのため、知られていない原理も同然に、これらの原理を他の法秩序の中では廃棄するという努力がなかったわけではない。
  それでもやはり、すなわち、古典的自由主義を手本としているにもかかわらず、民法典は、取るに足らないとはいえ、民法の社会政策的任務に道を開いた、最初の現代的な法典編纂と見ることができる。
  立法者による民法典の改正は、その成立後五〇年の間まったくなかった。これがなされたのは西ドイツにおいて一九四九年になってようやく、とりわけ家族法についてであった。
  ドイツ民主共和国において民法典は、その施行後七五年の一九七六年一月一日に施行されたZGBすなわちドイツ民主共和国の民法典により、廃止された。しかし、社会主義的な法秩序の領域においては民法は国制により規定されかつ共産主義的法理論により形作られる性格を有するにもかかわらず、ZGBは部分的に、ドイツにおける従来の民法の展開及び議論と結びついていた。一九七六年一月一日のZGBの施行と共に、法統一が私法分野でも、ある範囲では法統一は長い間−少なくとも一部は−維持され続けてきたが、一五年間破壊されることとなったのである。
  民法典がその時代の国家的なオーバーな感情にもかかわらず、初めから批判的にまた懐疑的に見られていたということは、記憶に留めておく必要がある。とりわけ社会政策に関わる非難には反響があった。実際に法律を適用したときに明らかとなった欠陥、それを私は冒頭でいくつか列挙したが、その欠陥は、時のたつうちにはじめて認識されたのである。
  それにもかかわらず、住民の中への民法典の受け入れは、わずかなものではなかった。それは一九四五年以降たぶん、それ以前の時代よりも大きなものであった。このことは、以下のことでもって表現されるべきであろう。すなわち、民法典という典型(Leitbild)は、一九世紀末のドイツ帝国の分裂した社会の市民よりも、一九四五年以降少なくとも西ドイツで生まれた非常に富裕な社会の、自負心のある、経済的に独立しておりかつ教養ある市民にこそ、向いているのであると。

V.法学と裁判と民法典


  私が始めに示す試みをした欠陥は、民法典施行の時には、ほとんど認識されていなかった。それは後に法律の適用の際にはじめて明らかとなったのである。この深刻な欠陥において問題となるのは、まさに、サヴィニーが、法学が法的テーマ全体に習熟していなかったために、自分は、民法の法典化を蓄積された法全体の略図として、自分の時代にとり意味がなくかつ不可能と見ているとして、警告していたような欠陥なのである。
  このことは挑発的な問を導く。すなわち、非常に文明化しておりかつ産業化している社会がそのように不完全な法律でもってどのようにして一〇〇年生き延びることができるのか?
  私は答えの一部を先取りしておく。すなわち、民法典が適応に対して開かれているために、裁判が−例えば一三八条及び二四二条におけるような一般条項はもとより−法学と協同して、民法をさらに発展させ、そして「改良」することができたのであると。
  このような確認は、さらなる問をもたらす。すなわち、裁判官と法律についての問であり、これは、民法典の施行後唯一のドラマでもって、最初にワイマール時代に発せられた問である。
  インフレが私法秩序に紛糾状態を引き起こしたが、民法典の立法者はこれを予見していなかった。裁判官こそが、物品取引法においてインフレの通貨が戦前の通貨及びインフレ後のレンテンマルクとの関係でいかなる価値を有すべきかという問題に直面していることを悟ったのである。
  インフレの時代、通常、金の法外な価値低下及びそれにより引き起こされた価格と反対給付の不釣り合いを理由として、契約上の給付内容が完全に経済的な変更を受けた。民法典は「正当な価格」についての規律を何らもっておらず、また、単に二四二条でもってしてはこの問題を克服することはできなかったのである。帝国裁判所は、契約締結に際して前提となっていた関係の非常に極端な変更があるという要件の下、解除権を認めた。それでもって、インフレ発生前に生じており、抵当権により担保された消費貸借上の債務をどのように扱うべきかという問題は解決されなかった。結局、帝国裁判所は、非常に極端に価値が低下した場合には、契約上の債務の場合でも信義誠実という観点(二四二条)の助けを借りて、不当な結果を避けなければならないという見解に達したのであり、それゆえ、−この問題において立法が拒否されたためもあり−ドイツ紙幣の強烈な価値低下を考慮して、抵当権により担保された消費貸借に基づく債務を増額評価(Aufwertung)する判決を下したのである。一九二三年からのこの判決は、インフレに見舞われた金銭債務全ての増額評価を許容すべきでありそれが必要であるとの、後に支配的となる見解の土台を築いた。
  インフレ問題及び増額評価問題に関する裁判は、ワイマール時代における裁判官と法律との間の関係につき解明するものとはいえない。第一次大戦の終結までは、裁判官を法律に拘束することに対して反対していた対立見解−そこにはサヴィニーも入る−がなかったわけではないにせよ、実証主義的な裁判官像(Leitbild)が優勢であった。自由法学派の影響の下、裁判官の法律への服従を否定する傾向が強くなったのは、二〇世紀の初めになってのことだった。インフレを法学上克服することが、裁判官の法律への拘束という問題に、巨大な実際的意味を与えたのである。何人かの法曹が法実証主義の伝統にしがみついている一方で、別の法曹は自然法、普通の法感覚、または支配的な民族観に裁判官を拘束するということで、たがをはめたのである。帝国裁判所の増額評価判決を弁護した法曹の中には、多様な見解が見られる。何人かは(ここには著名な民事法及び手続法学者である、ポール・エルトマン(一八六五ー一九三八)も含まれる)、裁判官による増額評価は現行法に一致している、という見解であった。すなわち、彼らは、戦争前の時代の社会関係を少なくとも部分的に復旧する目的で、民法二四二条に基づき増額評価を要求したのである。また別の者たちにおいては、例えばジェームズ・ゴールドシュミット(一八七四ー一九四〇)のように、自然法的な考えの影が見られる。彼らの見解によれば、裁判官という新たな権威が、増額評価及びそれでもって一定の社会関係の復旧を要求した、ということになる。
  帝国裁判所の判決の中に、法律の文字に対して正当性が勝利したことが、見られたのである。この判決は、帝国裁判所における裁判官協会の声明により担保された。すなわち、この声明の中では、この協会に集った裁判官は議会に対して、帝国議会が法律により増額評価の禁止を決めた場合には、服従を解消すると脅したのである。それでもって、ドイツの最高峰の裁判官が、初めて、法律に対し明白に服従の解約通知を出したのである。このことにより、「裁判官法(Richterrecht)」という不明瞭な名称の下いわば立法者的な力を働かせる、新たな裁判官像が生まれることとなった。「包摂機械」という歪んだ裁判官像とは別れるべきように見えた。
  増額評価裁判は、いずれにせよ、一九世紀の伝統にも関わらず法律からの離別が法曹にとって考えられないことではないということを、明らかにした。
  増額評価裁判は、裁判官と法律/民法典との関係に転機を与えた。このようにして始まった方向性は、戦後期(一九四五年以降)に、社会秩序を形成している数ある制度のうち、その一つである私法秩序がその中心部で国家制度を形作っているという認識が普及するに至った後になって強力となった。民法典の適用にとっては、国制と私法の関係についての新たな定義も基準となった。注目されたのは、どれくらいの範囲で基本法が直接あるいは間接に私法に作用するかという問題であった。
  一九四五年以降に西ドイツで展開された私法についての新たな理解及び変革された政治並びに社会の展開は、単に、多くの新たな法律をもたらしただけではない。それは、既存の法律の深刻な変更をももたらしたのである。立法者のみではなく、例えば裁判も、さらにより強力に、契約法の中に社会の構成要素を採り入れた。そうして例えば賃借人保護において、及び、裁判官による普通約款のコントロールでもって(結局普通約款規制法が一九七六年に施行された)。
  五〇年代半ば以降の時代については、ますます自負心をもつようになった裁判官が−創造的かつ生産的な法学に支援されて−民法の形成に常に多くの影響を及ぼしているということが、特徴的であるように私には思われる。我々は、裁判官による法創造と名付けているものの「全盛期」を体験している。解釈規範を提供するために八方手を尽くし、かつ、一部大胆な類推でもって−一般的な人格権を重大に侵害した場合の慰謝料のみが考えられる(いわゆる乗馬愛好家事件−BGHZ 26, 349)−民法は法創造によりさらに発展しているが、しかしまた変更されてもいるのである。裁判官による法創造のもつ、法を形成するが、また法を変更もする力という意味は、あまり高く評価することができるものではない。しかし、それは重要な範囲で立法の意味を越えているという見解には、疑いをもって対処する必要がある。もちろん、裁判官法と呼ばれるものの対象は今日、法律の欠けている部分の補充や、一般的な評価領域が問われない一般条項の充填のみではないということは、否定されはしない。裁判は、−法学により準備され支持されて−ますます、新たな法思想を展開し、法制度を生み出し、そしてそれを通用させてきたのである。
  このことは裁判官による法創造の限界についての問いを生じさせるものであるが、ここではこの問いを示すことしかできない。裁判官は法を設置してはならないという異議が出されるのは正当である。裁判官は立法者ではないのである。少なくとも以下のことから、裁判官による法創造の限界は明らかである。すなわち、
  ー基本法九七条に基づき、裁判官の法律への拘束から形式的な制限が生じる。
  ー裁判官は基本法の実体的な価値秩序、とりわけ基本権に拘束される。
  ーそれに加えて、正当な方法での合理的な再審査になじむ理由付けへの拘束が存在している。
  新たな法制度の発展と関連して、私は、不完全ではあるが私の講演の初めに示した欠陥のリストに戻る。
  ここ一〇年のうちにその欠陥を克服して、裁判は多大な成果を納めた。
  その点では我々が−少なくとも部分的には−立法者を抜きにして、民法の変更と関わり合っていることは疑いない。裁判官による法創造の限界がここそこで踏み越えられているかどうかは、ここではさらに審査することはしない。
  1  最も重要かつ成功した構成は、積極的契約侵害である。帝国裁判所(RGZ 52, 19;106, 25)はそれを直接に民法典の二七六条から引き出した。連邦通常裁判所(BGHZ 11, 80, 83)は二八〇条、二八六条、三二五条及び三二六条の類推に努めたが、しかし、同じ判決(BGHZ 11, 80, 84)の中で既に二四二条に依拠しているのである。今日、積極的契約侵害は慣習法により認められ、二四二条により援護された法創造とみられており、これは制定法によっても裏書きされてきた。
  2  譲渡担保が許されるかどうかという問題については、その原因は物権法の類型強制にある。厳密に言えば、動産担保権は他の形態の担保約束を排除しているのである。法の現実がすでに簡単に法定の秩序を飛び越えてしまっていることを見て取れるのは、法律に忠実に法適用をなすという立場からは興味深い。連邦通常裁判所(BGHZ 21, 52, 57f. und 28, 16, 25)は、裁判は「法適用に際して経済生活の利益をも気にかけないではいられない」、そして、解釈上の根拠のみでは「この(経済生活の)利益に背く判決をなす原因とはなり得ない」ことを強調している。譲渡担保の許容性のこのような理由づけが「法律外の(praeter legem)法創造」でもってさらに理由づけられることは明らかである。ゲルハルト(動産物権法・第四版・一九九五年、§一四ー二)は正当にも、民法典自体は、一方では担保権の分裂と他方では占有と結びついた利用可能性とを、抵当権及び所有権留保の場合に認めている点を強調している。
  2・1  譲渡担保の許容は軽率な解釈上の誤まりではなかったということは、歴史の展開をみれば明らかである。ドイツでのローマ法継受の結果、占有なき担保権は許されていたのである。すでに古代ローマ法は占有なき質入れを知っていた。それゆえ、担保所有にとっては何ら利益は存在しなかったのである。
  そのようなことに目覚めたのは、占有なき担保権が無効にされた後、一九世紀の末になって初めてである。この展開はヴィーリング(物権法・一九九二年、§一八ー一)により邪道とみなされたのは正当である。
  3  不法行為法の欠陥を必然たらしめてきた構造について、ここでは二つだけ簡単に説明することにする。一つは、契約締結上の過失であり、もう一つは、第三者のための保護効を伴う契約である。
  3・1  よく知られているように、一般的な法原理である契約前の過失責任の発見は、ルドルフ・フォン・イェリングの手によるものと考えられている。民法典の立法者は、契約締結上の過失を一般的な法原理として受入れることをやめ、そのかわりに、イェリングにより扱われた事例を個別規定、とりわけ一二二条、一七九条、三〇七条、三〇九条などの中で解決しようとした。民法典の施行後、損害事例は、まずはもっぱら不法行為の原則にしたがって解決がなされてきた。これは周知のように、純粋な財産損害に関する責任を通常は否定することにつながった。不法行為法の弱点−とりわけ人損と物損への制限ならびに八三一条による免責可能性−をもはや無視することができなくなった時はじめて、契約締結上の過失という法制度を発展させるための良く知られた展開が始まったのである。この展開により、研究可能な事例グループを細かく区別して構成し直すこととなった。私は、契約交渉の中止、説明義務の違反、期待にそぐわない契約の成立、弁護人の責任、そしていわゆる宣伝責任のみをあげておく。そこでは総じて、法学と裁判による尊敬されるべき成果が焦点となっているのである。
  その他の点では、八二三条一項の意味でのその他の権利を拡張すること、そして、取引保全義務を過酷なほど用いることにより、裁判は民法典の不法行為法の欠陥を修正しようとしてきた。その間にこれは、取引保全義務違反についての責任が実際にはすでに「一定の危険の実現についての結果保証義務」へと移行するほどに、広範囲のものとなっている。これは、非常に多くの事例において結果責任と過失責任との区別をほとんど不可能としている。
  3・2  先に挙げた不法行為法の弱体化により、「第三者のための保護効を伴う契約」が生み出されることにもなった。その構造は、第三者を契約の保護範囲の中に含めて、そして一定の要件が存在する場合にはその第三者に損害賠償請求権を許すというものである。解釈上の理由付けは、とりわけ、補充的契約解釈及び二四二条にある。
  4  同様に重大な民法典の欠陥、すなわち、適応装置が欠けている点については、法学と裁判がとりわけ、行為基礎の欠如及び脱落からなる一つのシステムを展開することによって、補正されてきた。等価障害に関するさまざまな判決が思い浮かぶであろう。
  5  法学と裁判は、民法典における欠如をふさぎそしてその欠陥を補正することに関連して、楽々と成果をあげ続けている。裁判官による法創造の意味及び地位については、私法の別の分野、すなわち、会社法を参照することができる。ここでは、「法律と並ぶ法」が生み出されており、法典化されていない有限会社・コンツェルン法、有限会社になる前の責任関係、そして株式会社法及び有限会社法における忠実義務が思い浮かぶであろう。
  まとめをなすべき時である。法学と裁判の成果につきわずかな部分についてのみ示したが、この成果に面しては、なぜドイツ民法は民法典が不完全であるにもかかわらずうまく機能してきたかという問いに、すでに答えたも同然である。民法典の開放性、これはあらゆる欠陥にもかかわらず積極的に強調されるべきであるが、この開放性が、裁判に−法学から励まされ、かつ、「護衛されて」−重大な欠陥を−たいていは裁判官による法創造により−調整すること(補正すること)を許してきたのである。民法典の不完全性が、ドイツの法学とドイツの裁判所をとてつもない成果へといわば強要したのである。そこにおいて、一九世紀に注目すべき繁栄を極めた私法学が、普通法(IUS COMMUNE)の中にあるそれの根っこと共に、ますます成果をあげうるシステムへとさらに発展することができたのである。
  法学に助けられて法創造により民法典の欠陥を補正してきた裁判官は、民法典にも他の法律にも規律されていない、一〇〇年の間に展開されてきた方法に助けられて(すなわち解釈規範及び類推を適用して)これを実行してきたということを記憶に留めておくべきなのはいうまでもない。

W.結    び


  私は、サヴィニーは正しいことを述べてはいなかったか?という問いに戻ることにする。
  法典編纂を拒否する彼の立場は、つまり、法学は時代の先端をいっていなかったし、また、現今の蓄積された法にまだ熟達していないというものであるが、これを否定することはできない。示された欠陥−多くのうちいくつかしかここでは示すことはできなかったが−及び法学と裁判の反応が、このことを物語っている。
  法典編纂の問題は今日ではもはや時事的ではないとしても、有能な法曹の養成が立法よりも優先されるべきというサヴィニーのテーゼは相変わらず時事的なものである。なぜなら、彼の考えによれば、法の継続的発展は新たな法律によってではなく、優れた法曹によって保証されることになるからである。
  私の考えでは、サヴィニーのテーゼはいずれにせよ正しい部分が少なくない。ドイツでの民法の展開は以下のことを示している。すなわち、良く訓練された法曹、つまり独創的かつ想像力ある法学と創造的かつ勇敢な司法とは、少なくとも、多くのそして可能な限り完全な法律と同じくらいに、重要なものなのである。このことは少なくとも、法学と司法の双方が、ドイツにおいてそうであったように、協同する時に妥当する。各国を比較すれば、多くのそして可能な限り完全な法律の存在というのは自明の事柄でないことは明らかである。法学と裁判が立法者に代わって法を作りそしてさらに発展させていることは、多くの事例において証明されてきた。
  ここ一〇〇年間のドイツでの私法の展開は、いずれにせよ、以下のことを表している。すなわち、不完全な法律−故意によりあるいはふとした拍子に不完全性は生み出されるものだが−を、法学と司法は必要としており、かつ、それを押し進めているということを。

【付記】  以上は、ドイツハーゲン通信大学教授ウルリッヒ・アイゼンハルト Ulrich Eisenhardt 氏が、平成一二年一一月五日(金)の午後三時から五時まで、立命館大学における国際学術交流研究会で行った講演の翻訳である(講演の原題は「Die Unvollkommenheit des deutschen BGB und die Leistungsfa¨higkeit des Juristenstandes−oder:Hatte Savigny nicht doch recht?」)。翻訳を御快諾くださったアイゼンハルト教授に、紙面を借り心より御礼申し上げる。