立命館法学 2000年5号(273号) 336頁




カナダ連邦システムと地域主義、国民統合

- 西部カナダ地域主義と連邦制度改革論を中心に -


柳原 克行


 

は じ め に

第一章  西部カナダの地域的特質と歴史的発展
  第一節  プレーリーと「最西部」
  第二節  農本型ヒンターランドとしての西部カナダ
  第三節  「新西部」の時代−エネルギー経済と州建設
  第四節  連続と断絶

第二章  カナダ連邦システムと地域的利益の代表メカニズム
  第一節  インターステイト連邦主義の局面
  第二節  イントラステイト連邦主義の局面
  第三節  連邦システムと西部カナダの地域的利益

第三章  憲法議論の展開と西部カナダ
  第一節  「メガ憲法政治」とその展開
  第二節  西部カナダの参入とイントラステイト連邦主義型改革論の台頭
  第三節  西部カナダにおける上院改革議論とその変容

第四章  上院改革議論の変容とその政治的含意
  第一節  国民統合へのインパクト
  第二節  西部地域主義の脈絡
  第三節  新しい地域主義的アクターの登場−改革党

むすびにかえて

 

は  じ  め  に



  一.地域主義−古くて新しい問題



  二〇世紀後半から世紀転換期にかけて、「地域」ないし「地域主義」の問題が、現実政治のみならず、政治学一般において、これほど多くの注目を集めるとは、誰が予想し得たであろうか。周知のように、戦後政治学のメインストリーム、とりわけ、比較政治学の分野には、一つの支配的モデルがあった。例えば、ロッカン(Stein Rokkan)とリプセット(Seymore Martin Lipset)、あるいは、ドイッチュ(Karl Deutch)を筆頭とする政治的近代化論者たちのモデルに共通する仮説を要約すれば、次のようになる。


(一)  資本主義の発展・産業化・都市化は、非人格的市場諸関係の浸透を促し、個別的要素と伝統的価値を崩壊させる。
(二)  テクノロジーの発展・機械化・専門化は、周縁地域の自給自足型経済を崩壊させ、センターからの普遍的価値の普及を促す。
(三)  コミュニケーションの発展によって、地域的ないし局地的言語が浸食される。
(四)  近代国家は、官僚型行政の公平無私かつ普遍的規範を浸透させる。
(五)  この変容過程において、民衆の政治的アイデンティティの対象も、局地的(ローカル)コミュニティから全国的(ナショナル)コミュニティへと移行し、古い領域型(テリトリアル)クリーヴィジに代わって、階級とイデオロギーを中心とするクリーヴィジが支配的となる(1)


こうした支配的仮説によれば、国によって多少の違いはあるものの、この近代化過程を軸として、西欧型国民国家(ネィション・スティト)の統合がすすみ、下位国家的(サブナショナル)な地域主義(リジョナリズム)ないし領域中心主義(テリトリァリズム)は、徐々に衰退していくものであると考えられていた。
  しかしながら、今日、グローバル化の進展は、ヨーロッパ連合(EU)や北米自由貿易協定(NAFTA)といった超国家型(トランスナショナル)地域統合の速度を大幅に早めると同時に、その政治的・社会的インパクトは、ベルギーのフランドル地方やスペインのカタロニアとバスク地方、あるいは、イギリスのスコットランドやイタリアの北部同盟といった下位国家型(サブナショナル)地域主義の復活を促すというパラドクスを生んでいる。キーティング(Michael Keating)は、欧州の地域主義を扱った近著において、次のように述べている。


地域主義は、もはや、領域的調整と交流という古いメカニズムを媒介としては統御し難いものと、また、全体的な空間設計デザインのなかに容易に組み込むことのできないものとなった。国家それ自体は大きく変容するとともに、その過程において、かつて国家がもっていた空間的変化および発展を管理する能力を失いつつある。その権力と権威は、三つの方向から浸食されている。すなわち、上からの国際化と下からの地域的・地方的要求の強まり、そして、横からの市場と市民社会の発展によって、国家は、自らの制度的配置のみならず、経済管理や社会的連帯、あるいは、文化とアイデンティティの形成に必要とされる能力を失いつつある(2)


このように、近年の社会的・政治的変容は、理論と実際の両方において、国民国家のフィクション性を根底から揺るがすと同時に、「領域主義」ないし「地域主義」といった古い概念の復活を促し、さらにグローバルな文脈において、こうした概念に新たな意味を与えている。同時に、この変容は、超国家的統合と地域化、国民統合とエスノナショナリズムといった新しい問題領域を出現させている(3)

  二.連邦システムと領域的多様性


  さて、キーティングが指摘するように、領域主義の存在を前提とするなら、完全な国民統合(ナショナル・ィンテグレィション)はあり得ない。国家の統合性が維持されるためには、実際に、国家エリートによる「領域管理(テリトリァル・マネジメント)」のための様々の方策が媒介とされねばならない。キーティングは、「領域管理」型方策の実例として、全国政府内において個別領域の特別代表を認めるメカニズム(政党による地域代表、官僚制、クライエンタリスト型ネットワーク)、市民社会内における分権型制度(機能的・職能的集団)、経済政策および財政政策(関税障壁、歳入均衡化)−の三つと並んで、連邦主義を挙げている(4)
  連邦主義にまつわる問題領域はきわめて広範であるが、その基本的定義とは、「一定の領域内において、全国政府と地域政府が相互に協調と自立の関係をもつ権限分割方式」である(5)。すなわち、二つの次元の政府、すなわち、国家全体を統治する全国政府(ジェネラル・ガヴァメント)と領域的単位を統治する地域政府(リージョナル・ガヴァメンツ)の存在を前提とし、両者がともに、統治権限の独立と併存を認められる統治様式である。いずれの次元の政府も、自立的に立法権限を行使し得る領域と、他方と権限を共有する領域とをもつ。また、両者はいずれも、独自の立法議会を持つことで、市民に対して直接的なつながりをもち、独自の代表構造を備えている。連邦主義においては、国家を構成する下位単位がそれぞれ独自の機関をもち、独自の政策ヴァリエーションを展開することができるという意味で、キーティングの言う「領域管理」の方策の一つとして捉えることができる。
  政治システムとして連邦主義が要請される根拠には、歴史的に多様なものがあるにせよ、いくつかの共通の特質を指摘することはできよう。まず、連邦システムには、社会的・政治的生活において、領域的要素が重要な位置を占めていることを認めるという前提がある。したがって、争点の形成と政策の実施においても、領域的多様性が反映されることになる。実際、連邦システムは、領域的クリーヴィジが、エスニシティやジェンダー、あるいは階級といった非領域型ないし領域横断型のクリーヴィジと結びつくことがあるとしても、総じて、前者に基づく政策展開が重視される傾向にある。第二に、連邦システムは、領域的多様性を超えて、より大きな国民的共同体(ナショナル・コミュニティ)を創出する試みでもある。例えば、合衆国の国璽の標語=「多数の統一(e pluribus unum)」は、この点を如実に示している。この意味で、連邦システムには、国家建設ないし国民統合という側面がある。フリードリヒ(Carl J. Friedrich)が述べているように、連邦システムとは、「なによりも、政治的コミュニティを連邦化する過程である。言い換えれば、複数の政治的コミュニティが、解決策を導きだし、共同政策を採用し、共通の問題について共同で決定を下すための編成へと包含される過程であり、逆に言えば、単一型政治コミュニティが連邦型に編成される統合体へと変容される過程でもある(6)」。従って、領域的多様性の保持とその超越との間のバランスを模索することは、連邦システム一般の大きな特徴である。
  さて、カナダ史上最も長く政権の座にあったマッケンジー・キング(William Lyon Mackenzie King)が「領土があり過ぎる」と述べたことからも分かるように(7)、世界第二位の国土面積を誇るカナダにとって、領域的規模とその多様性、そして統合は、常に深刻な課題であり続けている。しかも、スマイリー(Donald V. Smiley)が指摘するように、「人間生活の示差化において、政治的に最も先鋭化する次元が領域を中心に組織されることから、カナダは、最も根源的な意味において、連邦的特質を有している国」である(8)。政治制度のデザインがその国の社会構造を反映して然るべきであるとすれば、カナダが単一国家ではなく、連邦国家の構想を採用したことは当然であったと言えよう。連邦結成(コンフェデレーション)当時のカナダには、イギリス植民地的伝統の枠内において、ケベックの言語的・宗教的独自性を保持しつつ、沿海諸州に対しても一定の自律性を保障することが要請されており、この意味で、連邦型政治体制の採用は不可避的対応であった。建国の父祖にして、初代連邦首相となるマクドナルド(John A. Macdonald)は、単一の政府と立法議会に基づくイギリス型「議会中心型統合(legislative union)」による建国を望んでいたが、こうした多様な領域的・民族的・言語的・宗教的利益を一つの国家としてまとめるために、連邦システムを採用せざるをえなかったと言われている。この結果、カナダの政治制度は、多元的社会構成に対する妥協の産物であり、すぐれて中央集権型の連邦体制として成立した。
  とはいえ、連邦システムには、単なる社会構成の反映にとどまらないものがある。カナダの連邦システムには、いったん成立すると、その発展過程のなかで、領域的クリーヴィジをさらに強化する傾向が認められる。ケアンズ(Alain C. Cairns)が指摘するように、強固な地域的共同体の存在は、連邦型政治体制の採用を促す最大の契機であると同時に、州政府の社会構成的基盤となる一方で、地域的共同体が州政府という制度的基盤を得るや、これが、全国的共同体の同質化傾向に対して、地域的利益の保護と促進を担うことになる(9)。すなわち、カナダの連邦型統治システムは、社会構成における多様なクリーヴィジを基盤として成立するが、いったん成立した連邦システムは、当初のクリーヴィジをさらに強化するのみならず、多くの場合、新しいクリーヴィジや下位国家型のアイデンティティをも創出する傾向がある。ここにカナダの政治発展の最大の特質をみることができる。
  この点は、同じく連邦制を敷くアメリカ合衆国との対照において際だっている。ビアー(Samuel H. Beer)は、一九七三年の論文『アメリカ連邦制の近代化』において、一般的に、政治的・経済的近代化の過程は、必然的に、中央政府の権限強化を促し、州権を衰退させることを指摘して、その実例としてアメリカ合衆国を挙げている(10)。だが、カナダは、これとは全く逆の発展過程を辿ってきた。スマイリーは、アメリカとの比較を踏まえたうえで、次のように述べている。

カナダの連邦システムにおいて、近代化は、中央集権化を生むことにはならず、むしろ、諸州の権力と積極性、法的権能の強化に連なった。さらに、近代化が最も急速に進行した諸州は、その自律性の保持と拡大において、最も顕著であった(11)

  カナダにおいても、近代化の過程で産業的・階級的クリーヴィジが登場するとともに、中央政府の役割の拡大を経験する。例えば、一九四四年における議会開催演説において、連邦政府が「完全雇用、失業・疾病保険、老齢年金に関する政策」へのコミットメントを表明したことは、カナダにおける福祉国家型発展の契機を見ることができる。しかし、カナダの政治発展が、一般モデルから大きく逸脱し、他の先進諸国と決定的に異なるのは、こうした階級的クリーヴィジ中心の政治が、地域的・言語的クリーヴィジ中心の政治と結びつき、とりわけ、後者の優位が顕著となったことである(12)。カナダにおける近代化は、地域的利害の差異をむしろ先鋭化させることになった。さらに、州政府の多くには、連邦政府の影響力に譲歩する姿勢は殆ど見られないばかりか、むしろ、強力な中央集権化の傾向に抵抗し得るだけの重要な憲法的・制度的資源を保持するに至る。かくして、カナダの近代化は、総じて、州権の拡大と地域間対立の激化を特質とする領域中心型の発展を辿り、これに伴って、連邦システムも、建国当初の中央集権型体制とは全く異なるすぐれて分権的な連邦システムへと発展したのである(13)。カナダにとって、連邦型体制は建国時の不可避の妥協であったとしても、これをもって領域的緊張関係が抑えられたわけではなく、むしろ、その発展過程において、地域主義的諸力は、さらに激化することになった。すなわち、カナダ政治の地域主義的特質は、人種的・経済的・文化的多様性の領域中心的特質に発しているだけでなく、連邦システムという制度的特質によって強められてきたのである。

  三.地域・地域主義・政治制度

  それでは、地域や地域主義という現象をどのように考察すればよいのだろうか。カナダ政治において、地域主義が重要なテーマであることは、研究者の多くが指摘する特質−経済構造の地域的多様性、諸州の人口学的構成、投票行動の地域的バイアス、政党代表の地域的偏向、地域間対立の激しさ−を見れば明らかである。とはいえ、こうした現象を説明するうえで、「地域」概念それ自体が、どれほどの有効性にあるかとなると、概念の広範さと包括性のゆえに、深い疑念が投げかけられてきた(14)。この意味で、地域とは、社会的・文化的・経済的諸力が展開する一つの「物質的空間」にすぎないといえるかもしれない。
  だが、キーティングが指摘しているように、他の社会的諸ファクターに意味を与える媒介として位置づけることによって、地域をより有益に理解することができる。すなわち、地域が物質的空間であることは確かであるとしても、それは、「経済活動や社会的相互作用、さらには生活様式に影響を与える影響力の複合」であり、「社会的相互作用を決定することはないが、条件付け得る」のである。したがって、地域とは、「単一のファクターに還元し得ない社会的・経済的・政治的構成物」なのである(15)
  シメオン(Richard Simeon)も同様の認識から、地域とは、それ自体、従属変数として理解すべきであると指摘している。すなわち、各地域間に違いがあるとしても、それのみをもって何かを説明できるわけではなく、むしろ、地域的差異ないし地域主義は、説明されるべき対象として捉えなければならない。すなわち、地域とは一つの「容器(コンテナー)」であり、その内容において様々の差異が生じ得る。したがって、どこに境界線を引いて地域を区分するかは、もっぱら考察の目的に依存する。すなわち、理論的要請や政治的目的によって、「地域」という概念は、一つの州を指す場合もあれば、州の地域や州境を横断する地域として、あるいは、いくつかの州の集合として理解される場合もある。カナダにおいては、上院議席の配分方式に認められるように、政治的には、多くの場合、四つの地域区分(オンタリオ、ケベック、西部、大西洋)において論じられている(16)。また、ケアンズが指摘するように、連邦システムがもたらす制度的効果によって、州単位の重要性が高まっている(17)
  次に検討すべきは、現象としての「地域主義」をどのように考察すべきかである。シメオンは、地域主義を分析するための視角について、三つの点で次元を整理している(18)。第一は、地域主義を考察するためのパースペクティヴについての次元である。(一)人口学的様相や社会経済構造、あるいは、政党システムや政策類型といった次元における多様性という意味での地域主義と、(二)全国型政治が、州政府の利益間の相互作用、あるいは、諸州政府の利益と連邦政府の利益の間の相互作用を軸に展開しているという意味での地域主義−の区別である。前者の視角は、カナダを複数の地域的政治システムの集合体と見ることで、いわば比較政治的視座に連なるのに対して、後者は、連邦システム研究の視座を提供するものとなる。すなわち、州益が表出される形態、連邦ー州間の対抗と協調、さらには、多様な地域的利益の表出と調停における全国型政治制度の役割が考察の対象とされる。
  第二は、地域的差異の次元である。地域的差異には、(一)政治文化における地域的差異と、(二)実質的な政治目標ないし利益の差異−という示差的次元を確認することができる(19)。これらの二つの差異をそれぞれ別の次元として捉えることで、同種の文化的傾向をもつ諸地域が、実質的利益において異なり、したがって激しい対抗関係に置かれる事例を、あるいは、逆に、全く異なる文化的傾向にある諸地域であっても、同様の実質的利益をもつという事例を考察することが可能となる。この点は、西部カナダと大西洋カナダが、経済的にはともにヒンターランド的特質にありながらも、政治的次元においては、前者が遙かに激しい地域主義を展開していることにも明らかである。
  第三は、分析的次元の問題である。以上を前提とすると、地域主義の分析次元は、(一)社会経済的構造の差異、(二)政治的目標ないし態度、利益の差異、(三)政治行動の差異−の三つに整理することができる(20)。民族的・言語的・人口学的様相や産業構造、あるいは、所得水準といった社会経済的クリーヴィジの全てが、政治的に動員されるとは限らないし、また地域的パースペクティヴを軸に政治化されるとも限らない。この点で、政治制度と政治的リーダー層が果たす役割は決定的に重要である。というのも、潜在的クリーヴィジが人々によって認識され、それが地域的パースペクティヴにおいて政治的表現が与えられるためには、政治制度ないしその運用を担うリーダー層による動員が媒介とされなければならないからである。シャットシュナイダー(E.E. Schattscheider)が述べているように、「あらゆる形態の政治的組織は、ある種の対立を優先し、他の種の対立を抑えるバイアスをもっている。なぜなら、組織とは偏向の動員であるからである。ある争点は政治へと組織されるが、他の争点は組織的に排除される(21)」。カナダの場合、こうした制度的バイアスの役割を果たしているのが、連邦システムであることは言うまでもない。カナダの連邦システムは、本質的に、地域主義および地域間対立を争点化するフィルターの役割を果たしてきたのである。
  したがって、地域主義の分析は、(一)地域的社会経済構造の示差的特質、(二)媒介としての政治制度、(三)前二項から生まれる地域主義的特質−という三つの段階において構成されることになろう。以上の作業を踏まえることで、地域主義の展開が、全国的コミュニティと政治制度に対してどのような影響を与えているかを明らかにすることもできよう。

  四.本稿の目的と構成

  本稿では、連邦型国民統合と地域主義の問題を考察する取り組みの一環として、カナダ連邦システムと地域主義の関係を検討したい。カナダにおける下位国家型地域主義といえば、多くの場合、フランス系ケベックのナショナリズムとその分離独立ないし主権確立の動向に多くの注目が集まってきたが(22)、本稿では、西部カナダの地域主義を取り上げることにしたい。ケベックが、領域的基盤と民族構成的要素との強固な一致をもって、すぐれて遠心的なナショナリズムを展開しているとすれば、西部カナダ地域は、後に見るように、連邦内の後発地域としての起源を反映した「ヒンターランド型」地域主義であるといえる。その中心的要素は、歴史的に、中央カナダに対する政治的・経済的従属を解消し、全国的コミュニティにおいて他地域と同等の地位の獲得を目指すというものである。したがって、ケベック・ナショナリズムが連邦国家の分権化と、究極的にはその解体へと連なるベクトルを常に包含しているのとは対照的に、西部カナダの地域主義には、「地域」主義でありながらも、全国的コミュニティへの包摂を志向し、全国政府における地域代表の向上を求める結果、連邦国家の「統合」の強化に連なるというパラドクスが備わっており、きわめて興味深い。また、近年、新興の西部地域政党、「改革党(Reform Party)」の主張に象徴されるように、西部カナダの地域主義には、カナダを英系と仏系という二つの「建国民族(ファゥンディング・ネィションズ)」間の協調であると想定する伝統的なヴィジョンを否定し、そうしたカナダ観に起源をもつ二言語主義・多文化主義といった連邦政策に異議を唱えるとともに、これに代えて、州間平等および個人的平等の原則に基づいた連邦システムの再構成を企図する傾向にあることから、カナダ連邦国家の基盤そのものに対する挑戦という側面を見ることもできる。一九八〇年代後半以降、西部カナダの地域主義は、憲法議論における上院改革イニシアティブの展開や改革党の躍進を通じて、実際に、カナダ政治における重要性を高めつつある。
  以上の問題意識から、本稿では、連邦システムという制度的次元に着目しつつ、西部カナダ地域主義がどのような特質を帯びてきたのかを考察し、その展開が、全国型コミュニティおよび全国型政治制度に対して、どのようなベクトルを与え得るのかを明らかにしたいと考える。
  本稿の前半(第一章、第二章)では、まず、地域主義の土壌として、西部カナダの地域的特質とその歴史的発展を、社会経済的側面を中心に概観する。カナダの全国的コミュニティにおける西部の位置、あるいは、西部カナダと中央カナダとの関係に焦点を当てることで、地域主義が興隆する背景を素描する。次いで、カナダの連邦システムと地域的利益の代表形態について考察する。政治制度という媒介によって、西部カナダの地域主義は、どのような輪郭を与えられているのか、さらには、逆に、地域主義の政治的目標が、全国的コミュニティに対して、あるいは、既存の連邦システムの枠組に対して、どのような挑戦を突きつけているのかを明らかにしたい。
  以上の考察を踏まえて、後半(三章、四章)では、一九六〇年代後半に始まる憲法議論と西部カナダの上院改革イニシアティブに焦点を当てる。西部地域主義の歴史的展開に鑑みると、上院改革イニシアティブは、その実現可能性がきわめて低いにもかかわらず、とりわけ重要な位置にある。後に見るように、西部カナダの地域主義には、その当初から、実効的地域代表の獲得という持続的なテーマが存在していたにもかかわらず、これを成就するための手段という点では、歴史的に、一貫した戦略は存在しなかった。だが、上院改革という戦略、とりわけ、「トリプルE型」上院改革イニシアティブの登場は、連邦制度の改革という形態において、西部地域主義のヴィジョンと最も合致したターゲットを初めて明確にしたという意味において、一つの画期であった。また、上院改革議論との関連においては、改革党という新しい地域主義的アクターが登場したことも重要であった。というのも、上院改革という新しい課題にとって、改革党は、最も妥当な推進勢力としての特質を備えた政党であったからである。以上を踏まえて、西部カナダにおける上院改革議論の登場とその変容を詳細に検討する。最後に、近年の動向とグローバル化との関連を踏まえつつ、西部カナダの地域主義の今後の展開について触れることにする。

(1)  次を参照のこと。Stein Rokkan, ‘Electoral Mobilization, Party Competition, and National Integration', in Joseph LaPalombara and Myron Weiner eds., Political Parties and Political Development (Princeton University Press, 1966), pp. 241-66;Seymour Martin Lipset and Stein Rokkan, ‘Cleavage Structures, Party Systems and Voter Alignments:An Introduction', in Lipset and Rokkan eds., Party Systems and Voter Alignments:Cross−National Perspectives (The Free Press, 1967), pp. 1-64.;Karl Deutch, Nationalism and Social Communication:An Inquiry into the Foundations of Nationality (Cambridge, MA:MIT Press, 1966). これとはやや異なる視野にあるとはいえ、タロウ(Sydney Tarrow)も、政治的近代化の「歪曲効果」によって機能主義的対抗軸が発展するという視点から、領域的クリーヴィジの衰退を見ている。Sydney Tarrow,”Introduction, in S. Tarrow, P. Katsenstein, and L. Graziano ed., Territorial Politics in Industrial Nations (New York:Praeger, 1978), pp. 5-7.
(2)  Michael Keating, The New Regionalism in Western Europe:Territorial Restructuring and Political Change (Northampton, Mass:Edward Elgar, 1998), pp. 72-23.
(3)  周知のように、我が国において、こうした視角から支配的「国民国家論」モデルを再検討したものとしては、梶田孝道教授の「三空間共存モデル」や石川一雄教授の「多極収差モデル」が挙げられる。梶田孝道『統合と分化のヨーロッパーEC・国家・民族ー』(岩波書店、一九九三年)、石川一雄『エスノナショナリズムと政治統合』(有信堂、一九九四年)。とりわけ、石川教授の著作は、検討の対象として、ミーチレーク協定をめぐるカナダ連邦制を素材としている。
(4)  Michael Keating, Nations against the State:New Politics of Nationalism in Quebec, Catalonia and Scotland (London:Macmillan, 1996), pp. 44-45. なお、「領域管理」の概念を詳細に論じた文献として、次を参照のこと。Michael Keating, State and Regional Nationalism:Territorial Politics and the European State (Hemel Hempstead:Harvester−Wheatsheaf, 1988), pp. 18-24
(5)  K.C. Wheare, Federal Government, 4th ed. (London:Oxford University Press, 1963), p. 10.
(6)  Carl J. Friedrich, Trends of Federalism in Theory and Practice (New York:Prager, 1968)., p. 7.
(7)  Canada, House of Commons, Debates, Session 1936, p. 3868.
(8)  Donald V. Smiley, ‘Territorialism and Canadian Political Institutions', Canadian Public Policy, III:4 (1977)., p. 449.
(9)  Alain C. Cairns,”The Governments and Societies of Canadian Federalism, in Constitution, Government, and Society in Canada:Selected Essays (Toronto:McClelland and Stewart, 1988), p. 145.
(10)  Samuel Beer,”The Modernization of American Federalism, Publius 3, no. 2 (Fall 1973), p. 52.
(11)  Donald V. Smiley,”Public Sector Politics, Modernization and Federalism:The Canadian and American Experiences, Publius 14, no. 1 (Winter 1984), p. 59.
(12)  次を参照のこと。Richard Simeon and Ian Robinson, State, Society, and the Development of Canadian Federalism (Toronto:The University of Toronto Press, 1990)
(13)  Howard Cody,”The Evolution of Federal−Provincial Relations in Canada:Some Reflections, in American Review of Canadian Studies, vol. 7, no. 1 (Spring 1977), pp. 55-83.
(14)  例えば、スマイリーは、「地域」概念には、その曖昧さのゆえに、分析概念としての妥当性に乏しいために、より具体的かつ実質的な「州」概念をもって統一すべきではないか、と問題提起している。次を参照のこと。Donald V. Smiley, The Federal Condition in Canada (Toronto:McGraw−Hill Ryerson, 1987), pp. 22-23.
(15)  Keating, op. cit., The New Regionalism, pp. 7-9.;Simeon and Robinson, op. cit., pp. 119-128.
(16)  Richard Simeon,”Regionalism and Canadian Political Institutions, in Queen's Quarterly, 82. (1975), pp. 499-500.
(17)  Cairns, op. cit.
(18)  Simeon, op. cit., pp. 500-501.
(19)  ibid.
(20)  ibid.
(21)  E.E. Shattschneider, The Semi−Sovereign People (New York:Holt, Rinehart and Wilson, 1966)., p. 71.〔E・E・シャットシュナイダー、内山秀夫訳『半主権人民』、而立書房、一九七二年〕
(22)  例えば、近年の研究として、次を参照のこと。Robert Young, The Secession of Quebec and the Future of Canada, 2nd. ed. (Montreal:McGill−Queen's University Press, 1998).;Guy Lachapelle, John E. Trent, Robert Young, ed., Quebec−Canada:What Is the Path Ahead? (Ottawa:University of Ottawa Press, 1997).


第一章  西部カナダの地域的特質と歴史的発展



  周知のように、一八六七年の連邦結成とは、狭義において、既存の英領北アメリカ植民地(カナダ植民地とニュー・ブランズウィック、ノヴァ・スコシア)を新しい連邦国家として統合する試みであったが、広義において、あるいは、長期的展望においては、マクドナルド保守党の「ナショナル・ポリシー」に明らかなように(1)、新しい国家と市場の建設に必要される豊富な潜在的資源をもつ未開の地域、すなわち、西部を開拓するための政策にほかならなかった。一八六四年から六七年までの議論において、建国の父祖たちが新興国家の青写真を描くとき、そこには既に、広大な西部および北西領域の併合が想定されていたと言われる。この過程において、一八六九年に、ルイ・リエル(Louis Riel)によるレッドリバー蜂起も起こったとはいえ(2)、一八七〇年には、マニトバ州(Manitoba)と北西準州(Northwest Territories)が創設された。また、一八七一年のブリティッシュ・コロンビア州(British Columbia)の加入をもって、「海から海へ」の版図の一応の完成を見る。さらに、一九〇五年には、移民を中心とする人口増加に対応して、サスカチュワン州(Saskatchewan)とアルバータ州(Alberta)が創設され、現在、「西部カナダ(Western Canada)」という名称で括られる地域が出揃うことになる。一九一五年の憲法改正によって、マニトバ、B・C、サスカチュワン、アルバータの四州は、一つの「地域」単位として二四の上院議席を与えられた。

  第一節  プレーリーと「最西部」

  西部カナダの「地域」主義を考察するという目的に鑑みると、これら四州を単一の地域として捉えることが望ましいことは言うまでもない。だが、西部カナダ四州が、必ずしも同質的な地域を構成しているわけではないという事実には注目しておかねばならない。とりわけ、B・C州も含めて、一つの地域として捉え得るかどうかをめぐっては、論者によって大きく議論の分かれるところである(3)。というのも、西部カナダとして括られる地域にあって、プレーリー(大平原)地域(マニトバ、サスカチュワン、アルバータ)と、太平洋沿岸地域ないし「最西部(the West beyond the West)」(B・C)には、歴史的に、あるいは、とりわけ、ロッキー山脈という自然的境界に隔てられていることから、共通性のみならず、多くの点で示差的特質が認められるからである(4)
  第一に、連邦加入における歴史的背景の違いが指摘される。B・Cは、その国家建設における重要性のゆえに、自律的な政府を持つ完全な州として連邦に加入することが認められたのに対して(5)、プレーリー地域は、広大な北西領域から、連邦政府によって「創られた諸州」であり、国内的には、疑似植民地的地位にとどめ置かれた。連邦の加入条件の違いは、天然資源の所有権をめぐって最も顕著に示されている。B・Cは、連邦加入当初から天然資源所有権を認められていたが、プレーリー諸州はそうではなかった。次章でみるように、天然資源の所有権は、憲法によって州の管轄領域に定められているものの、プレーリー諸州には認められず、天然資源ないし王領地の所有権は、連邦政府によって掌握されていた。これは、ナショナル・ポリシーの枠組において、連邦政府にとって、西部の発展は極めて重要であり、こうした権限を保持することは、移民政策およびそれに必要とされるインフラ整備のために不可欠であったからである。プレーリー諸州に天然資源管轄権が認められるには、一九三〇年の「天然資源移譲法(Natural Resources Transfer Act)」を待たねばならなかったが、その成立を見るまでの連邦政府との激しい対立は、プレーリー地域、とりわけ、アルバータの政治文化の形成に大きな影響を与えた。この意味で、西部カナダにとって、連邦政府とは、イギリス本国政府の植民地支配を継続する存在にすぎなかった。実際に、一八六七年から一九四六年までの間に、連邦政府が不認可した一二二の州法のうち、八六が西部カナダによるものであった(6)
  第二は、経済構造の示差性である。経済学者ノリー(Kenneth Norrie)が指摘するように、西部カナダ経済一般は、「小規模型・資源中心型地域経済(Small, Resource−Rich, Regional Economy)」という一般的特質にあるとはいえ(7)、プレーリー三州は、なによりも穀物生産を中心とする農業地域として出発したのに対して、B・Cの経済は、漁業、林業、鉱業を基盤としている。したがって、後者は、とりわけ、環太平洋圏とのつながりが深いものの、いずれの経済も、総じて、第一次産品ないし資源に基づいており、対外市場への依存という特質を共有している。一八六七年から一九四〇年代までに、とりわけ、プレーリー諸州は、穀物経済を基盤とした独自の社会として発展してきた。二〇世紀の最初の数十年間において、小麦を中心とする穀物生産は、西部カナダのみならず、全国的経済において最も重要な位置を占めるに至り、マニトバ州のウィニペグは、西部カナダの中心都市であるにとどまらず、カナダ全国経済において、最も重要な拠点となった。地理的諸条件に加えて、穀物経済という共通の経済基盤の存在は、カナダの他の地域に対して西部プレーリーの独自性を強めるとともに、プレーリー地域内に共通性を提供してきたという意味において、初期における地域主義の基盤となった。
  第三は、人口学的構成における特徴である。一八八五年にルイ・リエルが処刑され、カナダ太平洋鉄道が完成した直後は、世界的不況の直中にあったことから、連邦政府の積極的な誘致策にもかかわらず、西部カナダへの移民の出足は鈍かった。だが、一八九〇年代後半に世界経済が好転すると、カナダ東部のみならず、ヨーロッパとアメリカからも大規模な農業移民の並が押し寄せる。当時、アメリカのフロンティアが既に消滅していたこともあって、西部カナダのプレーリー地帯は、「最後の最良の西部(ザ・ラスト・ベスト・ウェスト)」と呼ばれていた(8)。かくして、プレーリー社会は、その形成と発展のなかで、民族的・宗教的にきわめて多様な要素をもつに至ったことから、「多様性のなかの統一」と称される人口学的特徴にある。文化的傾向としては、オンタリオ寄りのマニトバ、イギリス型のサスカチュワン、アメリカ型のアルバーターのように若干のトーンの違いはあれど、総じて、英系カナダ的特質に同化吸収され、これを支配的文化として共有するところとなった。人種的多様性という特徴は、B・Cにも共通しているが、プレーリーがヨーロッパ中心であるのに対して、アジア系移民の比重が大きい。加えて、B・Cには、その産業構造に加えて、バンクーバーという大都市が存在することから、プレーリーとは異なって、比較的早期に都市労働者階級の形成をみ、階級型政治の登場を経験するところとなった。ただし、注目すべき点として、二〇世紀初頭のアジア系排斥運動に見られるように、人種と階級という次元の異なる要素が、政治的に連動することもあった(9)
  このように、プレーリー諸州とB・C州は、いずれも新興国家のヒンターランド的地位という特徴を共有してきたものの、二〇世紀初頭までに、それぞれ独自の社会的特質を発展させてきた。とはいえ、プレーリー三州と「最西部」の二つから構成される西部という二元論的理解が、必ずしも絶対的に有効であるというわけではない。後に見るように、むしろ、今日においては、アルバータとB・Cの二州が、社会経済的諸条件において収斂を見せつつある。また、西部カナダ史の専門家、フリーゼン(Gerald Friesen)は、西部カナダの発展を、「二つの西部」から「四つの西部」、そしてさらに、「一つの西部」へという枠組みで捉えている(10)。以上のように、「西部カナダ」という地域カテゴリーは、歴史的発展とともに大きく変化しており、安易な定義を許さない複雑さを含んでいることがわかる。しかし、カナダ政治を扱った文献の多くに認められるように、政治的概念としての「西部」は、なお、消滅したわけではなく、今日においても、カナダの政治的言説および論争において、不可欠の概念であり続けている。本稿では、この点を踏まえて、オンタリオとマニトバの州境から太平洋岸に至る広義の地域カテゴリーをもって、「西部カナダ」を捉えることになる。

  第二節  農本型ヒンターランドとしての西部カナダ

  さて、世紀転換期から二〇世紀前半までの時期において、穀物経済が西部地域、とりわけ、プレーリーに与えた地域統合的効果は、きわめて重要である。というのも、この時期、西部地域主義に現れた様々のテーマは、総じて、プレーリーとその経済的独自性を背景として展開されたのであり、カナダ全国経済におけるプレーリー経済の位置づけが、多くの場合、西部地域に共通の不満を募らせる土壌となったからである(11)。初期の穀物経済における最大の特徴とは、地域外的市場、とりわけ、国際市場への依存にあった。加えて、小麦という単一のステイプルに依存していたために、国内外の景気変動は地域経済全体に直接的影響を及ぼした。西部の農民層は、不安定で厳しい気候に左右されつつ小麦を生産し、絶えず不安定な国際市場に売却しなければならない存在であった。とはいえ、モートン(W.L. Morton)が指摘しているように、カナダの諸地域におけるプレーリーの独自性は、なによりも、全国的コミュニティとの関係において位置づけられるべきものである(12)。この点で、連邦政府による経済政策とそれが地域に与えたインパクトを無視することはできない。次の二点を指摘することができよう。
  第一に、一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけて、カナダの経済的・産業的発展の枠組は、ナショナル・ポリシーによって提供されていたことである(13)。既述のように、これは、東部の製造業育成を目的とした関税政策、西部移民、鉄道建設の三つの柱から構成されるものであったが、本質的には、カナダの諸地域を東西軸において組織化される単一の全国型経済へと統合する企図であった。この枠組において、西部は農業フロンティアと位置づけられ、開拓者としての農業移民には、カナダの穀倉として、あるいは最大の輸出品目としての小麦を生産する同時に、国内市場の需要を創出する役割が期待された。したがって、西部カナダの農民は、関税政策のもとで、農業機具や日用産品に至る殆ど全ての工業製品を高い値段で購入せざるを得なかったにもかかわらず、他方で、小麦等の農産品や林産品を、オープンな国際市場価格で売却しなければならなかった。すなわち、西部の人々は、高い関税のコストを支払いこそすれ、何の恩恵を受けることもなかった。この意味で、ナショナル・ポリシーとは、西部カナダを中央カナダに対して従属的地位にとどめ置くものにすぎず、以後、地域的不満の一つのシンボルとして受け止められるようになる。
  第二は、これと関連して、差別的運賃率の問題である。歴史的に、連邦政府が設定する輸送運賃は、中央カナダにおける競合的な輸送ネットワークと西部における独占的鉄道輸送というダブルスタンダードを反映して、東部においては比較的低く抑えられたのに対して、西部においてはきわめて高いものであった。これは、西部に流入する東部の工業製品よりも、西部から出ていく農業産品のほうが高い運賃が課せられることを意味する。こうした輸送運賃における地域的差別の構造は、製造業が西部に進出する誘因を減じる帰結を生むことになり、東西カナダの産業的配置を固定化する効果をも生みだした。したがって、西部カナダの地域的パースペクティヴからすると、連邦政府が設定する運賃システムにおいて、西部諸州および民衆は、中央カナダの独占的金融的・鉄道利害によって搾取されるという構図が生まれるのである。
  穀物農業をめぐる諸条件、全国型経済の枠組における西部の従属的地位、さらには、それを固定化する連邦政府の政策−こうした地域的不満の源泉は、西部カナダの、とりわけ、そのプレーリーにおける地域主義が形成されるうえで、共通の土壌となる。すなわち、西部は、カナダの全国型経済の発展において重要な貢献をしているにもかかわらず、公共政策においては、その地域的利益が全く尊重されないという動かしがたい「西部疎外」の感情が生まれる。ギビンズ(Roger Gibbins)は、この点について、次のように述べている。

西部疎外とは、プレーリー各州の様々な政治史の違いを越えて、これらを統合する態度的(アティテューディナル)地域主義の形態である。西部疎外は、プレーリーの政治文化の示差的中核であり、その鍵的要素は州的というよりも地域的性格にある。すなわち、これは、政治行動の場としての州という狭いアリーナを超えて、西部地域としてのアイデンティフィケーションを生む。この意味で、西部カナダとは、「精神的地域(region of the mind)」なのである(14)

  この現状認識に政治的説明を与えようとすると、一つの結論にたどり着く。すなわち、西部カナダには、全国的経済に大きく貢献しているにもかかわらず、それに見合う政治的影響力を持ち合わせていないこと、これである。したがって、西部は、自らの地域に直接的影響を与える経済問題に関してさえ、政治的に無力であった。次章で見るように、連邦議会は、本質と機能において多数派中心型(マジョリタリァン)であるばかりか、厳格な党議拘束によって、人口の少ない地域は実効的に代表され得ない。その結果、「全国的(ナショナル)」という名の下に、中央カナダの利益のみに基づく政策が形成される。こうした認識において、ナショナル・ポリシーおよびそれに付随する連邦政府の政策は、西部の地域的抵抗運動の歴史において、西部地域の政治的無力の象徴とされる。
  世紀転換期から二〇世紀前半にかけて、とりわけ、大恐慌期までの時期において、西部カナダの地域的テーマを構成したのは、穀物経済とそれにまつわる連邦政府の政策であった。実際に、「カナダ農業評議会(Canadian Council of Agriculture)」によって採択された三つの「農民綱領(Farmer's Platforms)」には、関税障壁の撤廃、公平な輸送運賃、穀物エレベーター、鉄道−といった分野での要求項目を確認することができる(15)。当初、西部の農民層は、地域特有の不満を表明し、状況の改善を期すために、二大政党への圧力団体活動や協同組合運動を展開したが(16)、一九二〇年代を迎えると、独自の新政党を結成するようになる。西部農民を基盤とした政党で、最初に連邦選挙に登場したのが、「進歩党(Progressive Party of Canada)」である(17)。同党は、第一次世界大戦後の政党政治の混乱期に乗じて、一九二一年の総選挙では、自由党の一一六議席に次いで、六四議席を獲得した。進歩党は、プレーリーの四三議席中三七を、また、B・Cでは一三議席中二議席を、さらにオンタリオでも二四議席獲得した。進歩党が西部地域を基盤としていたことは確かであるが、躍進の背景となった不満は、地域的というよりも、農本的特質にあったと言えよう。この点は、選挙の議席獲得傾向からも明らかである。プレーリーに加えて、オンタリオの農村部に比べて、B・Cおよびオンタリオ都市部では伸び悩んだ。
  だが、進歩党には、結成当初から、方向性をめぐって党内に意見の対立が存在していた。クリアラ(Thomas Crerar)のマニトバおよびサスカチュワン派は、総じて、自由党出身者であり、既存の政党政治への参入を求めていたのに対して、ウッド(Henry Wise Wood)率いるアルバータ派は、政党システム自体の変革という当初の運動的目標を支持していた(18)。マッケンジー・キング自由党が、進歩党の政策的立場を採用するのに伴って、前者のグループは自由党へと吸収され、一〇年を経ないままに自然消滅することになった。
  かくして、進歩党は、連邦政策に大きな影響力を及ぼすことはなかったとはいえ、次の点において重要な画期をなすものである(19)。第一に、西部の農民層が、選挙を媒介として、政治に直接参入する契機となったことである。進歩党の先例は、一九一九年のアルバータ農民連合(United Farmers of Alberta)や一九二二年のマニトバ農民連合(United Farmers of Manitoba)に継承されると同時に、州次元において伝統的政党を駆逐した。とりわけ、前者は、一九二一年から一九三五年まで、アルバータ州政権を独占的に担った。第二に、進歩党運動の失敗は、一九三〇年代における二つの西部地域政党、協同連邦党(Cooperative Commonwealth Federation)と社会信用党(Social Credit)を生み出したことである。社会信用党は、その党名が示すように、イギリスの経済理論に由来するが、カナダでは、むしろ、ポピュリスト的地域政党としての性格が強い。同党は、連邦次元ではそれほど重要な勢力となり得なかったものの、州次元、とりわけ、アルバータとB・Cの二州において長期的な政権を築き上げることに成功した。アルバータでは、マニング(E.C. Manning)が一九三五年から一九七一年まで州政治を支配し、B・Cでは、一九五〇年代から一九八〇年代後半まで重要な政治勢力であり続けた(20)。CCFは、農民の協同組合運動に由来するが、労働者や知識人層をも組織基盤とするフェビアン型社会主義政党として登場した(21)。同党は、一九四四年にはサスカチュワン州で政権を獲得すると同時に、連邦次元では、一九三五年から一九五八年までの選挙において、一一二議席を獲得している。だが、一九五〇年代の低迷期を経て、一九六〇年には、新民主党(New Democratic Party)として刷新され、組織労働者との連携において、地域主義的色彩を弱めると同時に、以後、連邦レベルの第三党として定着することになる。
  いずれにせよ、農本型地域主義としての西部カナダの重要性は、大恐慌期を境に大きく減少するところとなる。一九二九年、ニューヨーク株式市場での株価暴落を皮切りに始まった世界大恐慌は、一九三〇年代にはそのピークを迎え、その影響は第二次世界大戦まで及んだ。大恐慌の影響はカナダ全体におよぶものであったが、とりわけ、穀物輸出を中心とする西部カナダ経済には壊滅的打撃を与えた。世界市場の崩壊は農産品と食料の価格の大幅な下落を引き起こし、カナダでも小麦価格が急落した。西部カナダにさらに打撃を与えたのは、大恐慌と同時期に、干ばつ、強風、イナゴの大量発生が起こったことである。販売価格が生産・輸送コストを上回ることから、収穫を廃棄したり、農場そのものを手放す農民層も多数現れた。

  第三節  「新西部」の時代−エネルギー経済と州建設

  第二次世界大戦後の発展は、全く異なる「西部カナダ像」を生み、地域カテゴリーの点においても重要な変容をもたらした。一九四〇年代後半に、アルバータ州エドモントン郊外のルダック(Leduc)に油田が発見され、開発が始まると、豊かなエネルギー資源が西部経済の中軸を占めるようになる。小麦に代わって、石油・天然ガス、カリウム、石炭、ウラニウムといった天然資源が西部経済の主役となる(22)。また、この変容によって、プレーリー諸州、とりわけ、アルバータ経済とB・C経済が収斂をみたことも指摘しておくべきである。というのも、B・C州の経済において、林業と漁業のみらず、石炭や天然ガス、水力発電に加えて、銅や鉛、モリブデン、亜鉛といった様々の鉱物資源も重要な基盤であるからである。一九七〇年代に石油輸出国機構(OPEC)主導による石油世界価格の急騰と世界的なオイルショックが起こると、カナダ経済における西部の、とりわけアルバータの重要性が一気にクローズアップされる。それにともなって、カナダ全国から、新しい経済機会を求めて多くの人々が流入した。かくして、豊かな資源経済は、かつての農村型社会とは大きく異なる「新西部(New West)」の時代の到来を告げる。それでは、どのような意味で、「新しい」のか。次の三つの特徴を指摘することができよう。


  第一に、「新西部」とは、すぐれて「都市化された西部」である。マニトバ、サスカチュワンを中心に、農業が、なお、重要な経済部門であり続けていることは否定できないが、農業技術の発展に伴う大規模経営化と農業人口の減少によって、西部の地域経済に占める相対的比重は大きく低下した。西部の人々の大部分が、都市的生活様式と文化を享受するようになり、それに伴って、階級構成においても、都市型ホワイトカラーやテクノクラート層が占める比重が高まった(23)
  第二は、地域内的構成の変化である。【図1】は、西部地域内の人口推移をグラフ化したものであるが、一九四五年前後を境に州間人口配分に大きな変化が認められる。世紀転換期から一九三〇年代半ばまでは、地域内人口比率の点で、西部四州のなかでも東の二州、マニトバ州とサスカチュワン州が優位を占めていた。しかし、一九四〇年代後半以後、人口比重が西方に大きくシフトしており、アルバータ州とB・C州が、西部カナダの中心的地位を得たことがわかる。「新西部」の時代にあって、アルバータとB・Cの二州は、とりわけ、新しい資源経済の恩恵によって、高い水準の経済成長と人口増加を達成したのに対して、かつての農業中心地としてのマニトバとサスカチュワンは、前二州と比べると、エネルギー経済の比重が低く、地域内においても副次的地位に置かれることになった。この意味で、プレーリーとB・Cの軸よりも、むしろ、アルバーターB・Cとマニトバーサスカチュワンの間において、示差性が強まったと言える(24)
  第三に、最も重要な要素として、「新西部」の登場は、州中心主義(provincialism)ないし州建設(provincial building)の発展と時期的に重なっていることが指摘される。冒頭で述べたように、カナダにおける福祉国家的発展は、州権の拡大と州政府の強化と密接に結びついている。一九六〇年代までに、西部の諸州政府は、政府規模と官僚型行政において大きな発展を遂げていた。州建設とは、連邦政府主導の全国型経済管理とそれに伴う州管轄領域への介入に対抗して、州政府が独自の社会経済的利益の管理体制を構築しようとする企図である(25)。一九七〇年代の連邦システムは、連邦ー州関係の緊迫化を特徴としており、スマイリーは、この時期を「行政的連邦主義(Executive Federalism)」として特徴づけている(26)
  西部カナダの地域的利益との関連において、この特質が最も先鋭化したのは、一九七〇年代から一九八〇年代にかけての時期である。石油の国内販売価格と課税権をめぐって、連邦政府と西部諸州政府、とりわけアルバータ州政府との間に、激しい対立が生じた(27)。この対立は、当初、連邦政府(トルドー自由党政権)とアルバータ州政府(ロッヒード進歩保守党政権)との間で争われたが、後にサスカチュワン州政府(ブレイクニー新民主党政権)とB・C州政府(ベネット社会信用党政権)が加わることになる。マニトバは、他の三州と比べて資源産業の比重が低いことから、それほど重要な役割を果たしていない。
  対立の公式的争点は、州政府の天然資源管轄権限と、連邦政府の州際および国際貿易の規制権限のいずれが優先されるかということであったが、実際には、いずれの政府が、天然資源を規制する政治権力をもち、その資源のから生まれる利潤を獲得するかという問題であった(28)。西部の産油州にとって、天然資源開発は、経済の多様化を図り、長期にわたる中央カナダに対する経済的従属から脱するための重要な機会となるべきものであった。他方、連邦政府にとって、エネルギー政策には、全国的規模で利潤を再配分し、地域間不平等の解消に着手するという名目があった。
  オイルショックに伴って世界石油価格が高騰すると、連邦政府は、石油の自給率の向上とカナダ国内の消費者の保護を目的として、あるいは、エネルギー収益における連邦政府のシェア拡大を求めて、アルバータの資源開発に対する介入を強めていった(29)。アルバータ州政府は、自州の歳入源が奪われるとして激しく反発し、連邦政府と州政府との間で、一〇年以上におよぶ「エネルギー戦争」が始まることになる。一九七〇年代を通じて、数多くの連邦ー州間交渉、あるいは全州を含む多角的交渉が重ねられたが、両者が満足する合意に達することはできなかった。しかし、一九七九年に第二次オイルショックが起こると、連邦政府(トルドー自由党政権)は、一九八〇年一〇月に、(一)石油自給率の向上、(二)石油および石油産業の利潤の再分配(産油州、消費州、連邦政府の三者間)、(三)石油産業の「カナダ化」、(四)カナダ国内の消費者の保護−を柱とする「国家エネルギー計画(National Energy Program)」を制定する(30)。アルバータは、連邦政府が州の同意を得ることなく、一方的に計画を制定したとして、再び激しく反発した。国家エネルギー計画のインパクトは、アルバータにおいて最も大きかったとはいえ、マニトバとサスカチュワン両州の首相もアルバータの立場を支持するようになった(31)。アルバータ州政府は、この後も連邦政府と交渉を繰り返すが、計画が廃止されるのは、連邦政府の政権交代後、マルルーニー進歩保守党政権時代に入ってからであった(32)

  第四節  連続と断絶

  さて、ギビンズによれば、エネルギー経済の時代において、西部カナダは、地域を社会経済的に束ねていた穀物経済が衰退したことで、もはや「示差的地域」としての意義が失われたとされる。すなわち、地域全体を包括する利益はもはや存在せず、個別州レベルの権限の問題になったという意味において、西部地域主義は「衰退」した、と(33)。確かに、ギビンズが指摘するように、「新しい西部」には、全体的に、都市的生活様式や文化の発展をみたことで、他の地域との社会的・文化的同質性が増すとともに、西部四州に共通する地域的独自性が薄まったといえよう。さらに、この時期の地域的利益は、州政府、とりわけ、州首相と州官僚制によって担われていた。しかし、一九七〇年代以降においても、いくつかの点で、西部「地域」を包括する共通性と歴史的連続を確認することができる。
  第一に、「新しい西部」の時代においても、西部諸州は全て、天然資源を経済の中心としており、したがって、対外市場依存型経済であり続けているということである。既にみたように、農本型の「古い西部」は、穀物経済を基盤としていたため、一九三〇年代における世界市場の崩壊や気候の不順に直面して、その脆弱性をさらけだすことになった。「新しい西部」は、より広範で安定的な経済基盤のうえに成り立っていることは確かであるが、なお、天然資源の開発と不安定な世界市場の動向に依存していたという点では共通している。事実、アルバータがエネルギー景気を迎えることができたのも、中東危機とそれに伴う石油世界市場価格の高騰によるところが大きかったことは確かであり、これによって、経済の資源依存度がさらに高まったとさえいえよう。
  第二は、この点とも関連して、西部カナダの経済状態が、なお、連邦政府の政策によって大きく左右され続けるということである。穀物経済の時代においては、関税政策、運賃率、鉄道敷設、移民政策、穀物貿易の規制−といった政策は、西部経済の存亡にかかわる重要性をもっていた。同様に、一九七〇年代においても、運輸、資源課税権、外国資本の投資、輸出、地域的経済発展−こうした連邦政府の政策は、西部の天然資源経済に決定的な重要性を保ち続けている。西部経済に最も大きなインパクトを与えた政策が、国家エネルギー政策であったことはいうまでもない。
  ただし、留意しておかねばならないのは、一九七〇年代以降にあっては、西部カナダの経済成長が、多くの場合、カナダの全国的コミュニティに深刻な経済的・政治的緊張を引き起こしていることである。かつての農業経済の時代であれば、西部カナダの経済が急速な成長を遂げたとしても、その波及効果がカナダ経済全体におよび、東部はこれによって西部の農民層に消費財やサービス、信用を提供することができたという意味で、ある程度の緊張は緩和されていた(34)。しかしながら、一九七〇年代以降の諸条件においては、石油ブームによって西部の資源関連の歳入が高まると、それは直ちに、地域間対立の源泉となった。しかも、激しい政府間対立を特質とする「行政的連邦主義」のもとで、西部の人々は、連邦政府を「審判」としてではなく、対抗的プレーヤーの一つとしか見なさなくなる。小麦ブームによって生まれた利潤は、総じて、西部の農民層と東部の大企業のいずれを問わず、民間の手に渡っていたが、一九七〇年代のエネルギー好況から生まれた超過利潤は、連邦ないし州のいずれを問わず、政府の公的歳入源とみなされる。だからこそ、国家エネルギー計画は、連邦ー州間の激しい争奪戦の舞台となったのである。
  第三に、西部カナダが、天然資源開発と石油ブームによって豊かな経済力をつけて以降も、「西部疎外」が消滅したわけではない。西部は、全国人口に占める比重も大きく高まったにもかかわらず、依然として、連邦議会において充分な政治的発言力を得ることができなかった(35)。一九八〇年の連邦総選挙では、西部から強く支持されていたクラーク政権(進歩保守党)が僅か9ヶ月の短命で敗北し、中央カナダと大西洋諸州からの支持を背景に、トルドー(自由党)が政権に復帰した。この選挙において、トルドーの自由党は、西部四州合計七七議席のうち、僅か二議席しか獲得することができなかった。しかもその二議席はいずれも、石油消費州たるマニトバのものであった。すなわち、国家エネルギー計画が制定された当時、資源産出州(サスカチュワン、アルバータ、B・C)は、政権党内に選出代表を全くもっていなかったことになる。


(1)  カナダの国家形成とナショナル・ポリシーに関しては、次を参照のこと。大原祐子『カナダ史への道』(山川出版社、一九九六年)。特に、第一章「カナダにおける『ナショナル・ポリシー』の決定とジョン・A・マクドナルド」、第四章「カナダ太平洋鉄道敷設の決定とジョン・A・マクドナルド」。また、地域統合という視点から、カナダ史を扱った邦語文献として、次を参照のこと。ダグラス・フランシス、木村和男・編著『カナダの地域と民族ー歴史的アプローチ』(同文館、一九九四年)。
(2)  「メティス(Metis)」とは、ノースウェスト地域の先住民と白人(ヨーロッパ植民者、とりわけフランス系)との混血民族を指す。毛皮交易を中心に定住していたが、カナダ政府の強引な植民政策に対して、一八六九年−一八七〇年と一八八五年の二度にわたって、ルイ・リエルを指導者として激しい抵抗運動を展開した。リエルは、当時のケベックでは、フランス系の権利の代弁者として評価されていたものの、イギリス系歴史学の潮流にあっては、国家建設を阻もうとした先住民として、久しく敵視されてきた。しかしながら、一九六〇年代になると、リエルは、混血民族であったが故に多文化主義の象徴として、あるいは、連邦政府に抵抗した西部の地域的抵抗運動の源流として再評価されるようになる。次を参照のこと。George F.G. Stanley, The Birth of Western Canada:A History of the Riel Rebellions (Toronto:University of Toronto Press, 1960);W.L. Morton,”The Bias of Prarie Politics, in Transactions of the Royal Society of Canada, Series III, Vol. XLIX (June, 1955), pp. 57-66.
(3)  Nelson Wiseman,”The West as a Political Region, in Ronald G. Landes, ed., Canadian Politics:A Comparative Reader (Montreal:Prentice−Hall, 1989), p. 311. また、ブリティッシュ・コロンビア州の独自性に焦点を当てて、その地域主義の展開を論じた研究として、次を参照のこと。Philip Resnick, The Politics of Resentment:British Columbia Regionalism and Canadian Unity (Vancouver:UBC Press, 2000). また、歴史家による次の著作を参照。Jean Berman, The West beyond the West:A History of British Columbia, rev. ed. (Toronto:University of Toronto Press, 1996).
(4)  Gerald Friesen, The West:Regional Ambitions, National Debates, Global Age (Toronto:Penguin, 1999).;J.F. Conway, The West:The History of a Region in Confederation, 2nd ed. (Toronto:James Lorimer, 1994).
(5)  「海から海へ」の自治領としてカナダを完成するためには、まず、ブリティッシュ・コロンビアの加入が不可欠の条件であったことは言うまでもない。とはいえ、地理的諸条件に鑑みると、ブリティッシュ・コロンビアは、カナダに加入するよりも、むしろ合衆国とのつながりのほうが自然である。そこで、連邦政府は、ブリティッシュ・コロンビアに対して、完全な州としての地位に加えて、大陸横断鉄道の一〇年以内の完成や負債の肩代わりなど、破格の待遇をもって連邦加入を働きかけた。
(6)  とりわけ、一九三〇年代には、アルバータ州社会信用党政権に対する不認可が際だっている。David K. Elton,”Alberta and the Federal Government in Historical Perspective, 1905-1977, in Carlo Caldarola, ed., Society and Politics in Alberta:Research Papers (Toronto:Methuen, 1979)., pp. 108-130.
(7)  Kenneth H. Norrie,”A Regional Economic Overview of the West Since 1945, in Anthony W. Rasporich ed., The Making of the Modern West (Calgary:University of Calgary Press, 1984), pp. 63-78.
(8)  Conway, op. cit., pp. 6-32.
(9)  例えば、一九〇七年の「ヴァンクーバー暴動」を引き起こしたアジア人排斥運動などを想起されたい。
(10)  Friesen, op. cit.
(11)  Roger Gibbins, Prairie Politics and Society:Regionalism in Decline (Toronto:Butterworth, 1980)., chap. 2.;Vernon C. Fowke, The National Policy and the Wheat Economy (Toronto:University of Toronto Press, 1957), p. 282.
(12)  W.L. Morton, op. cit.
(13)  「ナショナル・ポリシー」期の連邦政策と西部の穀物経済との関係については、次を参照のこと。Fowke, op. cit.;J.R. Mallory, Social Credit and the Federal Power in Canada (Toronto:University of Toronto Press, 1954), p. 39.
(14)  Roger Gibbins, op. cit., p. 167.
(15)  「農民綱領」は、一九一〇年、一九一六年、一九二〇年の三回にわたって採択された。次に収録されている。W.L. Morton, The Progressive Party in Canada (Toronto:University of Toronto Press, 1966)., Appendix.
(16)一九二〇年代を迎えるまで、こうした地域的不満は、二大政党(とりわけ、自由党)に対する圧力団体活動という形で表明され、連邦および州政府は、総じて、発展しつつある西部の諸要求にそれなりの応答性をもっていたと言われる。実際、この時期、西部の農民層が敗北したのは、加米互恵協定をめぐって争われた一九一一年の総選挙のみであった。同選挙において、西部の農民層は、加米互恵協定を推進するローリエ自由党を全面的に支持していたが、東部の製造業・鉄道・金融資本が反対にまわったために敗北するところとなった。
(17)  進歩党については、モートンの研究が有名である。W.L. Morton, ibid.
(18)  とりわけ、ウッドの反政党的立場のゆえに、一九二一年の政権において、進歩党は、野党第一党(Official Oppositon)の地位を拒否した。その結果、五〇議席を獲得した保守党が、この地位を担うことになった。
(19)  David E. Smith,”Western Politics and National Unity, in David J. Bercuson, ed., Canada and the Burden of Unity (Toronto:Macmillan of Canada, 1977)., pp. 155-157.
(20)  社会信用党については、次を参照のこと。C.B. Macpherson, Democracy in Alberta:Social Credit and the Party System, 2nd. ed. (Toronto:University of Toronto Press, 1962)〔竹本徹訳『カナダ政治の階級分析ーアルバータの民主主義』、御茶の水書房、一九九〇年〕Alvin Finkel, The Social Credit Phenomenon (Toronto:University of Toronto Press, 1989).
(21)  CCFーNDPについては、次を参照のこと。Alan Whitehorn, Canadian Socialism:Essays on the CCF−NDP (Toronto:Oxford University Press, 1992) Seymour M. Lipset, Agrarian Socialism:The Cooperative Commonwealth Federation in Saskatchewan, rev. ed. (Berkeley:University of California Press, 1971). Walter D. Young, The Anatomy of a Party:The National CCF, 1932-61 (Toronto:University of Toronto Press, 1969).
(22)  「新西部」の主要な経済的特質については、次を参照。Kenneth H. Norrie, op. cit.;John Richards and Larry Pratt, Prarie Captalism:Power and Influence in the New West (Toronto:McClelland and Stewart, 1979), chap. 7.
(23)  Gibbins, op. cit., pp. 68-70.
(24)  とりわけ、「新西部」期におけるアルバータとサスカチュワンの間の発展の違いついては、次を参照。Richards and Pratt, op. cit.
(25)  例えば、アルバータの州建設を扱った論文として、次を参照。Larry Pratt,”The State and Province−Building:Alberta's Development Strategy, in Leo Panitch ed., The Canadian State:Political Economy and Political Power (Toronto:University of Toronto Press, 1977)., pp. 133-162.
(26)  カナダ連邦システムの研究において、「行政的連邦主義」概念を最初に適用したのが、スマイリーである。Donald V. Smiley, Canada in Question, 2nd. ed. (Toronto:McGraw−Hill Ryerson, 1976), p. 54.
(27)  David Elton,"Federalism and the Canadian West", in R.D. Olling and M.W. Westmacott, ed., Perspectives on Canadian federalism (Scarborough:Prentice−Hall Canada, 1988), p. 353.
(28)  ibid.
(29)一九七三年の第一次オイルショック直後、連邦政府が最初に着手したのは、国内における石油価格を一時凍結し、国外市場に向けて輸出される石油に税金を課すことであった。また、オタワ川以東へ国産石油を供給することを目的に、モントリオールまでのパイプラインを整備した。これによって、国外市場に対しては、世界価格と同等の値段で輸出し、国内に対しては、世界価格よりも安価に石油が供給されることが期待されていた。一九七五年には、国営企業「ペトロ・カナダ(Petro−Canada)」が設立される。さらに、連邦議会において、「資源供給緊急法(Energy Supplies Emergency Act)」と「石油産業管理法(Petroleum Administration Act)」が可決され、連邦内閣が、産油州の同意なしに州際貿易における石油と天然ガスの国内価格を定めることができるようになった。
(30)  国家エネルギー計画の制定に至る決定過程については、次を参照。G. Bruce Doern and Gren Toner, The Politics of Energy (Toronto:Methuen, 1985);David Milne, Tug of War:Ottawa and the Provinces under Trudeau and Mulroney (Toronto;James Lorimer, 1986)., chap. 3.
(31)  アルバータ州政府の算出によると、国家エネルギー計画の直接的影響によって、少なくとも五〇〇億ドルの歳入が失われたとされる。Roger Gibbins and Sonia Arrison, Western Vision:Perspectives on the West in Canada (Peterborough:Broadview Press, 1995), p. 22.
(32)  マルルーニー進歩保守党政権は、一九八五年に、アルバータ州政府と「西部協定(Western Accord)」を締結した。その柱は、国家エネルギー計画の廃止、輸出規制の緩和、連邦税の廃止ないし軽減−であった。西部と連邦政府の「エネルギー戦争」は、これをもって、ようやくの決着をみる。
(33)  Gibbins, op. cit., pp. 196-201.
(34)  Fowke, op. cit.
(35)  Roger Gibbins,”Political Discontent in the Prairie West:Patterns of Continuity and Change, in Transactions of the Royal Society of Canada, Series V, Vol. I (June, 1986), pp. 19-30.


第二章  カナダ連邦システムと地域的利益の代表メカニズム


  さて、周知のように、連邦主義、あるいは、政治体制としての連邦システムの研究領域には、きわめて広範な問題群が含まれる。カナダを例にとると、一概に連邦システム研究と言っても、全国的議会制度、公式の憲法構造、フランス系とイギリス系コミュニティの関係、ペリフェリー型領域間対立(西部および大西洋)、政府間関係、司法審査、政党政治−と、きわめて多様なテーマが存在している。とはいえ、冒頭でみたように、地域主義との関連において、連邦システムをその重要な制度的媒介として捉えるという本稿の視角からすれば、連邦システムの構造と機能において、地域的利益がどのように代表され得るのかに注目しなければならない。
  カナダ政治体制の基本的枠組は、一八六七年の「英領北アメリカ法(British North America Act)」をもって成立するが、その特徴を要約するならば、イギリス型議会主義とアメリカ型連邦主義の制度的結合である。本章の結論を先取りすれば、二つの異なる原理の制度的結合こそが、カナダ連邦システムにおける地域的利益の代表と地域主義の展開にとって重要な帰結をもたらしてきたのである。この点を考察するにあたっては、連邦システムの局面を、「インターステイト連邦主義(inter−state federalism)」と「イントラステイト連邦主義(intra−state federalism)」の二つのチャンネルに整理することが有益であろう(1)。これらの二つの局面において、西部カナダの地域的利益が、連邦システムという制度的次元との関連でどのような含意にあるのかを考察したい。

  第一節  インターステイト連邦主義の局面

  インターステイト連邦主義とは、政治システムにおいて二層の政府が存在し、両者が相互作用することを前提としたチャンネルである(【図2a】)。

これは、まずなによりも、憲法における連邦型権限配分に示される。すなわち、領域的単位によって利益と関心が多様に分岐する諸問題については、当該州に責任と権限が与えられることになる(2)。州政府が当該地域に固有の問題について専属的権限を保持しておれば、たとえ全国的議会において少数派の立場におかれたとしても、この権限を媒介として、地域的利益の保護を期待することができる。カナダの憲法=英領北アメリカ法(一八六七年憲法)では、第九一条が連邦政府の専属的権限に、第九二条から第九三条までが、州政府の専属的権限に充てられている(【表2a】)。

連邦政府には、建国当時に重要と考えられていた主要な経済的権限と課税権が(3)、州政府には、教育、病院、自治体、公有地の管理、財産権および私権といったローカルな領域に関する権限が与えられている(4)。後者の権限は、一八六七年当時の事情を反映して、フランス語系カナダにおいて、とりわけ重視されていた領域に関わるものであった。この権限配分によって、ケベック州域内で多数を占めるカソリック系ないしフランス語系コミュニティは、全国的多数派たるプロテスタント系ないしイギリス系の影響力から、自らの文化的・言語的利益の保護が期待できると考えられた。
  だが、他方で、現代国家の活動範囲と規模に鑑みると、明確な権限分割を厳格に維持することは、非効率であると同時に、不可能でさえある。そこで、インターステイト連邦主義の論理は、権限配分に関する憲法の公式的規定の範囲を超えて、インフォーマルな政府間関係(インターガヴァメンタル・リレィション)の局面としても現れる。政府間関係のアリーナにおいて、地域的少数派の利益の保護は、州政府によって担われることになる。
  州政府が、政府間関係のアリーナにおいて、連邦政府の介入ないし中央集権主義に対抗するとともに、地域的利益の担い手となり、その追求に積極的に与し始めるのは、一九六〇年代以降のことである。個別政策領域における連邦政府主導の政府間協力を特徴とする「協調型連邦主義(Cooperative Federalism)」の時代が終わると、「行政的連邦主義」の時代を迎える(5)。この時期の政府間関係の変容は、ケベック・ナショナリズムの高揚とエネルギー危機に象徴されるように、激しい連邦ー州間対立によって特徴づけられる。また、この時期において、多くの場合、政府間関係の作動様式が、国際関係と類似した特徴を示していることから、シメオンはこれを、「連邦−州間外交(federal−provincial diplomacy)」と呼んだ。国際的舞台での外交関係一般と同様に、カナダ連邦システムにおける政府間関係は、州首相を中心とする行政部を軸に展開されるようになる(6)。最近の数十年間にあっては、とりわけ、連邦ー州政府の政治的執行部(州首相、閣僚、官僚)の役割がクローズアップされるに至っている。加えて、重要なことは、次章でみるように、「メガ憲法政治(Mega−Constitutional Politics)」時代にあって(7)、憲法改正をめぐる争点は、その大部分において、総じて、行政型連邦主義のアリーナ、とりわけ多くの注目を集める「連邦ー州首相会議(First Ministers Conferences)」において展開されてきたことである。

  第一項  インターステイト連邦主義とケベック
  連邦結成以来、約八〇年間において、連邦ー州間の権限配分は、フランス系ケベックの利益にとって上手く機能してきたことは明らかである。英領北アメリカ法には、イギリス系ーフランス系の関係について、何の規定も存在していないが、これがケベックの側で問題にされることは殆どなかった。実際、ケベック州政府の優先課題とは、連邦政府との関係において、憲法上の権限配分を確実に防衛することにあったといってよい。
  第二次世界大戦終了後、「協調的連邦主義」の時代を迎えると、連邦政府は、歳出権に訴えて州の管轄領域に介入するようになる。ヘルスケア、社会扶助、高等教育、州際輸送−等の政策領域にに関する「費用分担型プログラム(share−cost programs)」は、憲法上の権限配分を曖昧化し、州権限の自律性を侵害することになった(8)。ケベックを除く諸州では、こうした領域での需要が爆発的に高まる一方で、州歳入のみでは賄えないという事情があったことから、連邦政府による介入型プログラムがそれほど大きな問題とされることはなかった。だが、一九六〇年代初頭に、ケベックの「静かな革命(クワィェット・レヴォリューション)」が始まると、ケベック州政府は、連邦政府が州管轄領域から撤退することを、さらに州権の拡大を要求し始めるようになった(9)。この要求は、カナダ連邦国家の政府間的局面に大きなインパクトを与えるとともに、一九七〇年代後半から一九八〇年代の時期には、分離独立要求へと発展する。この意味で、連邦システムの分権化は、ケベックの地域的利益およびケベック・ナショナリズムが目指すベクトルと同じ方向性を包摂しているといえる(10)。事実、一九六〇年代以降、憲法議論において主導権を握るのは、常にケベックの自律性拡大の要求であったし、ケベックを含めて、国民統合の本質的条件を満たし得るバランスを探ることが、連邦政府にとっての最大の課題とされるようになった(11)

  第二項  インターステイト連邦主義と西部カナダ
  これとは対照的に、西部カナダにとっては、権限配分と政府間関係を媒介とした地域的利益の擁護は全く上手く機能しなかったし、あるいは少なくとも最近に至るまでこの状況は変わっていない。既にみたように、西部カナダにとっての主要な地域的利益とは、文化や言語ではなく、むしろ経済的領域に関わる。すなわち、初期の農業中心経済時代と「新西部」の天然資源中心経済時代とを問わず、西部カナダにとって重要な権限とされるのは、州際貿易ないし国際貿易、関税、運賃率、州間パイプラインおよび鉄道、金融部門の規制、利率、農産物マーケティング、農産物価格支持政策−といった領域にかかわるものであった。しかし、こうした経済的領域の立法権限は、連邦国家の経済的統合の根幹に関わるものである。すなわち、本質的に、中央政府に帰属すべきものであり、分権化によって州に委譲できる性質のものではない。したがって、西部カナダの立場からすると、連邦システムの分権化と政府間関係を媒介として、地域的利益の保持を図ることは、究極的には、論理的ないし構造的諸制約に直面することになる。
  西部カナダにとって、インターステイト連邦主義の限界が最も先鋭化したのは、一九八〇年の「国家エネルギー計画」をめぐる攻防である。国際貿易ないし州際貿易に関して、連邦政府が優位にある限り、たとえ西部諸州の天然資源所有権が憲法によって保障されていたとしても、西部の天然資源のコントロール権は妥協を迫られざるを得ない。だが、天然資源の産出や価格設定、あるいはマーケティングに関して、州政府が絶対的なコントロール権をもつことは、それ自体、連邦国家の論理的基礎と相容れないのである。
  かくして、インターステイト連邦主義のチャンネルが、西部カナダの地域的利益の防衛と代表を担い得るとしても、それは、西部カナダが連邦政府において実質的に代表されている限りにおいてのことである。したがって、西部カナダの地域的利益が代表され、連邦型公共政策にも反映されるべきであるとするなら、連邦政府における地域代表を向上させ、その地域的応答性を高めることが求められる。この意味で、地域的利益の代表において、イントラステイト連邦主義のチャンネルに焦点が集まったとしても、これは合理的であると言えよう。


  第二節  イントラステイト連邦主義の局面

  さて、インターステイト連邦主義が、連邦ー州間の権限分割に基づいて、二つの次元の政府間関係を重視しているのに対して、イントラステイト連邦主義とは、中央政府の諸機関に地域的利益を代表させることで、地域間対立の緩和を図るチャンネルである(【図2b】)。すなわち、イントラステイト連邦主義という考え方は、地域に対する中央政府の応答性を高めると同時に、過度の分権化の要請を抑えるために、カナダの政治制度における議会主義的局面に注目する。したがって、中央政府において地域的利益が充分に代表されるならば、州政府が連邦政治の舞台において果たす役割は著しく減少することになる。だが、次に見るように、カナダの議会制度の実態を見る限り、イントラステイト連邦主義のチャンネルにおいても、西部カナダの地域的利益が実効的に代表されているとは言い難い。

  第一項  連 邦 上 院
  周知のように、連邦国家の多くは二院制を敷いており、人口比例代表制に基づく議会に加えて、領域型(テリトリアル)代表制に基づく議会を設置することで、人口の少ない領域的単位にも相対的に大きな比重を与えている(12)。同様に、カナダに

【表2b】上院議席の配分
地    域 州ないし準州 上院議席数 上院議員一人あたりの人口(1995年)
Atlantic
Canada
New Foundland
Prince Edward Island
Nova Scotia
New Brunswick
6
4
10
10
95,000
32,000
89,000
72,000
Quebec Quebec
24
287,000
Ontario Ontario
24
420,000
Western
Canada
Manitoba
Saskatshewan
Alberta
British Columbia
6
6
6
6
182,000
165,000
424,000
547,000
Territories Yukon
Northwest Territories
1
1
28,000
58,000


104
2,304,000
*1988年,マルルーニー首相は,加米自由貿易協定の可決を確実とするために,8名(各地域2名)の上院議席を追加した。よって現在の議席合計は112名である。
*1994年4月をもって,ヌナヴト準州に1議席配分された。
出典・ M. Westmacott and H. Mellon, Challenges to Canadian Federalism (Scarborough:Prentice-Hall, 1998), p. 48.

おいても、連邦型第二院の採用は、アメリカ型連邦原理を反映する機関としての役割をあたえられていたが(13)、実際の構造と機能においては、アメリカ型上院モデルとは全く異なって、地域代表機関としての役割を殆ど果たし得ないのが実状である。
  第一に、カナダの上院は、州間平等ではなく、地域間平等に基づいて構成されたことである。一八六七年の建国時において、オンタリオ、ケベック、沿海地域(マリタイム)にそれぞれ二四の上院議席が配分された。オンタリオとケベックはそれぞれ一州で一つの上院代表区画を構成するものとされたが、大西洋地域は、ノヴァ・スコシアとニュー・ブランズウィックの二州が、また、後にプリンス・エドワード・アイランドが加わって三州が、一つの地域区分に含められ、しかも議席配分は不均等であった。一九一五年の憲法改正によって、西部カナダが上院代表区域として認められると、同じく二四議席が与えられ、四州間で平等に配分された。また、一九四九年には、ニューファンドランドの、そして一九七五年には二つの準州の上院代表が加えられた(以上、英領北アメリカ法・第一四七条・二一−三六項)。注目すべきは、この地域間平等原理による上院構成を州間平等の視点から見ると、かなりのズレが生じていることである(【表2b】)。例えば、西部は、一九九五年の全国人口において三〇パーセント近く占めているのに対して、上院議席数では、全体の二三パーセント程度しか保持していない。とりわけ、アルバータ州とB・C州の過小代表が顕著である。
  第二に、より深刻な点として、上院は、公選制ではなく、任命制の機関とされており、しかも実質的な任命権が連邦首相によって掌握されていることである。上院議員のポジションは、高い社会的地位として認められるだけでなく、充分な収入が見込めて、過度の労力を要しないだけに、魅力的なパトロネージとされてきた。しかも、一九六五年に七五歳定年が定められるまでは、終身制をとっていたため、きわめて安泰な地位でもあった。歴代の連邦首相は、上院の任命権を、総じて、自党に貢献した人々への報酬として、あるいは、現役を退いた政治家にあてがうポジションとして行使してきた(14)。すなわち、任命されるための基準は、上院議員となることで、将来的にカナダの福利に貢献し得るということではなく、既に政権党ないし首相にどれほどの貢献したかということになる。このように任命権が行使されてきた結果、上院は、総じて、富裕層によって構成され、政権党にきわめて有利なバイアスがある一方で、少数派政党は殆ど代表されず、総じて男性優位にあり、下院議員よりも政治的経験が長い人々によって構成されるという特質をもつようになった(15)。さらに、重要なことに、民主的政治制度にあって、任命制上院が政治的正統性を欠いていることは言うまでもない。
  民主的正統性に乏しい任命制機関であるにもかかわらず、上院には、実質的に下院と同等の権限が認められている。上院が下院において可決された法案を承認しない場合でも、その拒否権は、下院によって覆され得ない。唯一の例外として、憲法改正に関して、上院は、停止権(suspensive veto)しか行使し得ない。上院は、財政法案の発議権を与えられていないが、下院において発議された財政法案を否決することができる。ただし、重要なことに、こうした上院の権限が行使されることは殆どないということである。実際に、上院が下院において可決された法案を阻止しようと試みたことは、きわめて少ない。
  以上のように、実際的パフォーマンスに鑑みると、なんら有効な立法機能を果たし得ていないとまでは言わないまでも、上院が実効的地域代表として機能し得ていないことは明らかである。しかも、連邦国家においては、総じて、第二院が地域代表の機関となることが想定されているだけに、次章で考察するように、中央における地域代表を実質化しようとする動きが出てくると、決まって上院が改革の標的とされたとしても、これは驚くべきことではない。

  第二項  連 邦 下 院
  イギリス型議会主義にあって、下院は立法活動の中心である。また、「人口比例代表(Representation by Population)」原理に基づく全国的多数派(ナショナル・マジョリティ)を構成する意味において、民主的正統性の基盤にほかならない(16)。とはいえ、下院の制度的特質もまたイントラステイト連邦主義のチャンネルとして有効に機能し得ていない。その最大の要因は、厳格な党議拘束(party discipline)の存在である(17)。周知のように、党議拘束は、責任型議院内閣制の基本原理であり、慣例の一つでもある。原理上、下院議員が自らの地域的利益を実効的に代表するアクターとして行動することには、何の制約も課せられない。実際、連邦結成から一九世紀初頭までにおいて、政党の影響力と党議拘束はきわめて緩やかであり、また、一定数ではあるが、無所属の候補が選出されることも可能であった。多くの下院議員は自律的に行動する存在として認められ、政党コーカス、あるいは内閣において地域的利益を代表することも可能であったといわれる(18)。しかし、二〇世紀以降、全国政党が発展し、政党組織における党首のリーダーシップが増大するのにともなって、独立候補が選出されることは不可能となり、下院において、議員が自律的行動をとる余地も殆どなくなった。下院議員は政党配列において組織されるようになり、地域的利益と政党利益とが抵触するときには、前者の犠牲のもとに後者が優先されるようになる。下院議員の地位と次回選挙における再選可能性は、選挙における自党の命運に左右されるようになった。フランクス(C.E.S. Franks)は、カナダにおける党議拘束について、次のように述べている。

党首にとって、議員の機能とは、……(中略)……支持することにほかならない。議員は自らの権力と影響力の源泉を自らが所属する政党に求めるが、同時に、政党と完全に自己同一化している。政党と党議拘束が、議会の構造と手続、議員の態度、報道機関、政府、野党リーダーを枠付けている。これこそが、議会と議員の現実世界における最も支配的かつ広範な影響力なのである(19)

  党議拘束それ自体は、イギリス型の議会制民主主義が機能するうえで不可欠の要件であることは言うまでもない。地域的利益の代表との関連で、党議拘束が問題となるのは、それが人口分布の地域的不平等と結びついたときに生じる効果である。カナダ全人口の六二パーセントがオンタリオとケベックの中央カナダ二州に集中していることに加えて、国の主要な財政的利益や政治的拠点がこの地域に集中していることに鑑みると、全国政党が政権を維持し、さらに、次回の選挙での勝利を展望するためには、中央カナダ二州からの支持が不可欠なのである。したがって、人口の少ない地域ないし州からすれば、政党の利益は、中央カナダの利益と同視されてしまう。オンタリオとケベックの議員であれば、党議拘束に従って地域を犠牲にしたところで、何の問題も起こり得ないが、他方、西部の議員にとっては、全く異なる含意が生まれる。すなわち、党議拘束に従うことによって、自らの地域的利益よりも、中央カナダの利益を優先するという帰結が生まれる。政党コーカスの内部において、西部の議員が、自らの地域的利益のために熱心に活動したとしても、その公的活動は、党議拘束によって制約を受けざるを得えず、西部カナダの民衆にとっては、自らの利益が政党内で代表されていることを確認する術がない(20)

  第三項  連 邦 内 閣
  下院における党議拘束と同様の論理は、連邦内閣における地域代表にまで及ぶことになる。一八六〇年代の連邦結成をめぐる議論以来、内閣の構成は、地域的利益の「防衛線」とみなされてきた。建国当初の国家デザインは、イントラステイト連邦主義の論理において、地域代表のメカニズムを組み込んでいた(21)。実際、今日でも、「地域大臣(regional ministers)」という呼称に示されるように、連邦内閣には、一〇州からの代表のみならず、広義の「地域」の代表が閣僚として参加することが期待されている(22)。とはいえ、内閣の構成において、形式上、地域代表への配慮が示されるとしても、それが現実に機能しているかどうかを確認することは不可能である。というのも、閣僚は、政権党の一員として党議拘束に縛られるだけでなく、内閣の立場の一体性を保障するための内密性と集合的責任という慣例に従わざるを得ないからである。その結果、閣議で地域的利益に抵触するような政策が決定されたとしても、閣僚たちは、公式的見解において、その政策を支持せざるを得ない。地域の有権者は、政策立案過程において、自らの地域出身の閣僚がどれほどの影響力を行使し得たのかを確認することすらできない(23)

  第四項  選挙制度と連邦政党システム
  さて、下院における厳格な党議拘束と内閣における地域代表の不可視性が、地域的利益の実効的代表を妨げてきたことは明らかであるが、さらに根源的な要因は、選挙制度と連邦政党システムそれ自体に求められる。カナダの下院議員選挙は、「小選挙区・比較多数得票制(simple−preference, single−member−constituency plurality system)」によって実施されているが、この選挙制度がもたらす「歪曲作用」のために、議会代表システムにあって、領域的要素は上手く反映され得ない。ケアンズは、この点について次のように指摘している。

(カナダの)選挙制度は、得票が議席へと変換される過程において偏向を与えている。最も強い政党と弱いセクショナル型政党が、不相応な恩恵を受けることになる。選挙制度は、特定の地域ないしセクションと特定の政党とのアイデンティフィケーションをもたらす大きな要因であった。また、各地域ないし各セクションにおいて、党派的多様性を減じることにもなった。かくして、選挙制度のゆえに、各政党の議会内構成は、代表されるべき政党支持者層において明確に現れるセクショナルな利益を、政治システムにおいて、代表し得ないのである。選挙制度は、特定のセクションに集中的な支持基盤をもつ小政党に有利に作用し、支持を全国的に分散させている小政党に対しては不利に作用する。この選挙制度には、セクションないし州境によって分けられるクリーヴィジを徹底的に誇張することで、政党間対抗をセクションないし州間対抗へと変化させる傾向がある(24)


選挙制度が地域代表にもたらす歪曲作用は、一九七九年と一九八〇年の二回の連邦総選挙において、とりわけ顕著であった。一九七九年にクラーク進歩保守党少数派内閣が成立したとき、ケベックにおいて、一三・三パーセントの得票にもかかわらず、実際に議席を得ることのできた議員は二名にすぎなかった。逆に、一九八〇年選挙では、トルドー自由党は、西部を除く六州において増幅効果を得ることができたために、パーセンテージにおいて、得票率を三〇ポイント上回る議席数(九八・七パーセント)を確保することができた。トルドー自由党は、西部四州において、二二・二パーセントから二八・二パーセントの得票を得たにもかかわらず、既述のように、二議席しか獲得することができなかった(25)。こうした選挙制度がもたらす歪曲作用によって、自由党は、西部の代表を全く欠いた、中央カナダ、とりわけ、フランス系ケベックを代表する政党としてのイメージが、他方、進歩保守党は、とりわけ、一九五八年の


ディーフェンベーカー政権以来、英系カナダ、とりわけ、西部から強く支持される政党としてのイメージが定着し、政党の代表構造はさらに地域的特質を強めている。【図2d】は、戦後の各選挙において勝利した政権党が、各地域において獲得した議席のパーセンテージを、【図2e】は、政権党コーカスにおける各地域別構成率をグラフ化したものである。二つのグラフから、西部カナダの代表は、もっぱら進歩保守党政権に限定されており、自由党においては殆ど代表されていないことがわかる。また、戦後カナダ政治が、総じて、自由党優位の時代であったことに鑑みると、西部カナダが政権党側において実質的に代表された政権は、ディーフェンベーカー政権(一九五八年、一九六二年)、クラーク政権(一九七九年)、マルルーニー政権(一九八四年)の三つを数えるにとどまる。

  第三節  連邦システムと西部カナダの地域的利益

  それでは、連邦システムという制度的媒介が、西部カナダ地域主義に与えた政治的バイアスを整理しておこう。西部カナダは、歴史的に、経済的不安定性および中央カナダに対する従属性という慢性的不満を抱えてきたが、これを克服するための焦点は、中央政府レベルの政策決定にあった。だが、この地域には、中央政府において、地域的利益を代表させ得るに十分な人口的比重がないことに加えて、たとえ政権内に代表をもっていたとしても、議院内閣制的慣例の制約によって、地域的利益の代弁者として行動することはできない。すなわち、西部カナダにとって、イントラステイト連邦主義のチャンネル−議会主義的局面−は、上手く機能し得ない。また、こうした疎外状況は、西部カナダの人々自身によって、さらに悪化させらされたという側面もあろう。地域的利益を代表し得ない議会制度に対して、西部カナダは、歴史的に、数々の小政党の創出−進歩党、社会信用党、CCF−をもって攻撃してきたが、当然のことながら、政権内に代表されることは殆どなく、政策形成に影響を与えうるポジションを得ることはできなかった。一九五八年総選挙において、ディーフェンベーカー進歩保守党は、連邦レベルにおける地域政党(社会信用党とCCF)の影響力を切り崩すとともに、西部からの実質的代表を含む全国的基盤をもって政権を掌握したが、ケベックからの支持をつなぎ止めることができず、一九六三年には自由党に政権を譲った。ディーフェンベーカー政権以降も、西部は進歩保守党を強固に支持し続けたが、これは同時に、進歩保守党が慢性的に野党であり続けることを意味するものであった。
  かくして、西部カナダは、イントラステイト連邦主義のチャンネル−連邦ー州政府間関係−において、地域的利益の保護を期待しなければならない。だが、既述のように、カナダにおける憲法上の権限配分は有効な手段とはなり得ないために、全国的政治過程において地域的利益を代表する役割は、州政府(および州首相)に独占的に委ねられることになる。州政府を媒介とした地域的利益の保護は、連邦内閣における代表ほど実効的ではないにせよ、州首相は党議拘束や閣議決定によって制約されることはない。加えて、州選挙に勝利する過程においては、野党批判よりも、「オタワ叩き」が重要となるために、州民の反連邦政府感情を動員する意味において、安定した支持基盤を備え得る。とはいえ、これには深刻な問題が残る。というのも、州首相が地域代表の役割を独占的に主張することによって、西部における連邦政府の地域的正統性は切り崩され、また、政府間関係のアリーナにおいて、連邦政府と激しく対立することによって、西部疎外をさらに強めてしまうからである。
  以上の整理から、次の二点を指摘することができる。第一に、連邦システムの構造と展開は、西部カナダ地域主義のターゲットを明確に示したということである。すなわち、西部カナダの疎外を克服し、地域的利益を実効的に代表されるためには、イントラステイト連邦主義の局面、とりわけ、中央レベルの議会制度改革が必要とされるのである。この点で、地域代表機関としての潜在性をもつ上院が、改革のターゲットとされることは必然的であった。第二に、西部カナダの地域主義は、歴史的に、中央レベルの制度改革という目標の一貫性があったにもかかわらず、これを克服するための体系的戦略を欠いてきたことである。西部カナダは、数多くの手段−(一)連邦レベルでの全国政党(多くの場合、野党であり、とりわけ、ディーフェンベーカー期以来の保守党)、(二)新しい小政党の結成(進歩党、社会信用党、CCF)、(三)州建設など−において抵抗運動を試みてきたとはいえ、制度的現状に体系的に対処し得るオルタナティヴの創出には失敗してきた。新しい体系的な地域主義的戦略は、一九六〇年代に始まる憲法政治の舞台において、ようやく明確に登場することになる。

(1)  「インターステイト連邦主義」と「イントラステイト連邦主義」の区別は、レーベンシュタイン(Karl Loewenstein)にヒントを得た用法であるが、レーベンシュタイン自身は、これら二つの概念を一国の政治制度の枠組において用いているわけではない。とりわけ前者は、「国際関係における連邦主義」ないし「国家間の連邦的結合」を念頭に置いた概念である。Karl Loewenstein, Political Power and the Governmental Process (Chicago:University of Chicago Press, 1965), pp. 405-406. 阿部照哉・山川雄巳訳・『新訂・現代憲法論ー政治権力と統治過程』(有信堂、一九八六年)しかし、カナダでは、憲法改正と連邦型政治体制の再編をめぐる議論の文脈において、この分類法は、カナダの連邦型政治制度改革の二つの局面を説明する枠組として参照されることになった。次を参照のこと。Donald V. Smiley and Ronald L. Watts, Intrastate Federalism in Canada (Toronto:University of Toronto Press, 1985):Donald V. Smiley, Canada in Question, 3rd ed. (Toronto:McGraw−Hill Ryerson, 1980).;  Roger Gibbins, Regionalism:Territorial Politics in Canada and United States (Toronto:Butterworths, 1982). すなわち、カナダの脈絡において、「イントラステイト連邦主義」は、中央政府内の諸機関ないし政策に反映され得る「連邦的特質」に注目した概念として、また、「インターステイト連邦主義」は、連邦ー州の政府間関係を媒介とした地域的利益の表出様式に注目した概念として用いられている。レーベンシュタインが国際関係を念頭において設定した「インターステイト連邦主義」が、国内の政治体制をめぐる議論に適用される背景には、後に述べるように、カナダの政府間関係が、多くの場合、外交関係一般と類似した特徴をもつことにも関連している(「連邦ー州間外交」)。直訳すれば、「国家間連邦主義」と「国家内連邦主義」になるが、本稿は、カナダの脈絡を想定しており、一国内の政治制度を念頭においているため、混乱を避ける意味で、そのままの「インターステイト連邦主義」と「イントラステイト連邦主義」という訳語を充てている。
(2)  Donald V. Smiley,”Territorialism and Canadian Political Institutions, in Canadian Public Policy, vol. III:no. 4 (Autumn, 1977). pp. 452-453.
(3)  R. MacGregor Dawson, The Government of Canada, 4th. ed. (Toronto:University of Toronto Press, 1949)., pp. 99-100.
(4)  ibid., pp. 100-101.
(5)  Richard Simeon and Ian Robinson, State, Society and the Development of Canadian Federalism (Toronto:University of Toronto Press, 1990).
(6)  Richard Simeon, Federal−Provincial Diplomacy:The Making of Recent Policy in Canada (Toronto:University of Toronto Press, 1972).
(7)  Peter Russel, Constitutional Odyssey:Can Canadians Become a Sovereign People?, 2nd. ed. (Toronto:University of Toronto Press, 1993) 本稿の第三章を参照。
(8)  連邦ー州関係の発展とその財政的諸関係については、次を参照。岩崎美紀子『カナダ連邦制の政治分析』(御茶の水書房、一九八五年)。同 『カナダ現代政治』(東京大学出版会、一九九一年)、第三章。
(9)  第二次世界大戦後のケベックは、一時期を除いて、イギリス系資本と癒着し、カトリック教会を道徳的後ろ盾としたユニオン・ナシオナル党のデュプレシ(Maurice Duplessis)による権威的支配体制のもとで後進性を色濃く残した社会であった。しかし、一九六〇年に、ルサージュ(Jean Lesage)自由党州政権が成立すると、フランス系カナダが「我が家の主人(メートル・シェ・ヌー)」となることをスローガンに、州政府主導で教育・文化・経済の改革に着手した。これを指して「静かな革命」と呼ばれている。一般的に、「静かな革命」は、一九六〇年におけるケベック自由党政権の成立をもって始まるとされているが、実際には、漸次的な社会経済的変容の蓄積であり、(一)宗教的規範が支配的な社会から世俗的社会へ、(二)農村型経済から都市型経済へ、(三)保守主義的政治体制から社会経済的介入型政治体制へ、(四)フランス系文化およびフランス語へのアイデンティティの再確認−という一連の変容過程であった。かくして、ケベックは、社会的・経済的条件において、カナダのメインストリームにより近づいたと言える。しかしながら、政治的に、「残りのカナダ」との差異は、ケベック・ナショナリズムの高揚をともなって、さらに広がることになる。「静かな革命」のスローガンたる「我が家の主人」に示されるように、ケベックは、自州の管轄領域から連邦政府が撤退することを、さらには、州政府の権限の拡大を要求することで、現行の憲法体制に根源的な挑戦を開始した。さらに、この挑戦は、ナショナリスト感情と結びつき、ケベックは他とは異なる州であるという主張にまで高められる。ケベックの社会と政治については、次を参照のこと。長部・西本・樋口編著『現代ケベックー北米のフランス系文化』(勁草書房、一九八九年)。Kenneth McRoberts, Quebec:Social Change and Political Crisis, 3rd ed. (Toronto:McClelland and Stewart, 1988).
(10)  カナダの連邦システムが、建国当初の中央集権型モデルから高度に分権的なモデルへと発展してきたことは既述の通りであるが、とりわけ、第二次世界大戦以後の発展において、重要な契機の殆どが、ケベックから発せられてきたことに注目すべきである。
(11)  一九六〇年代以降における憲法政治の展開については、本稿の第三章を参照のこと。
(12)  カナダを含めて、多くの連邦型政治体制のデザインにおいて、最も困難な重要な試金石とは、憲法上の権限配分の規定ではなく、連邦型政治制度、とりわけ、第二院の構成をめぐる問題であった。事実、合衆国において、一七八七年のフィラデルフィア会議の行き詰まりを打開したのは、連邦型第二院を提起した「コネチカット協定」であった。同様に、一八四八年にスイスが緩やかな国家連合を廃して、連邦型憲法と政治体制の創出を可能としたのは、二院制型議会の採用であった。また、カナダの連邦結成に際しても、上院の構成をめぐって、最も多くの時間が割かれた。この点を含めて、連邦システムの比較研究として、次を参照。Ronald L. Watts, Comparing Federal Systems, 2nd. ed. (Montreal:McGill−Queen's University Press, 1999), pp. 92-97.
(13)  Dawson, op. cit., p. 320. ただし、建国当初においては、連邦内閣が地域的利益の主要な「防衛線」として想定されていた。次を参照のこと。Peter Aucoin,”Regionalism, Party and National Government, in Peter Aucoin, ed., Party, Government and Regional Representation in Canada (Toronto:University of Toronto Press, 1985).
(14)  Dawson, op. cit., p. 334.
(15)  C.E.S. Franks, The Parliament of Canada (Toronto:University of Toronto Press, 1987), pp. 187-188.
(16)  Dawson, ibid., p. 362.
(17)  Franks, ibid., p. 114.
(18)  Aucoin, op. cit., p. 140.
(19)  C.E.S. Franks, op. cit., p. 115.
(20)  Gibbins, op. cit., p. 61
(21)  Aucoin, op. cit., p. 143.
(22)  しかし、一九七二年から一九八二年の自由党政権期において、西部カナダ出身の議員は、きわめて少ないか、あるいは、皆無であったので、内閣における地域代表は、総じて、自由党の上院議員に任されることになった。
(23)  Gibbins, op. cit., pp. 64-71.
(24)  Alan C. Cairns,”The Electoral System and the Party System in Canada, 1921-1965, in Canadian Journal of Political Science vol. 1, no. 1 (March:1968), p. 62.
(25)  F. Leslie Seidle,”The Canadian Electoral Reform and Proporsals for Reform, in A. Brian Tanguay and Alain−G. Gangnon, Canadian Parties in Transition, 2nd. ed. (Scarborough:ITP Nelson, 1996), pp. 283-285.


第三章  憲法議論の展開と西部カナダ


  周知のように、近年、カナダ政治の争点の大部分は、激しい「憲法政治」によって占められている。とはいえ、カナダにおいて、憲法ないし国家体制そのものが、激しい政治的対抗のテーマとなったのは、最近数十年間のことにすぎない。事実、一八六七年の連邦結成後、約一世紀の間、憲法政治といえば、既存の諸規則の解釈や作用、改正をめぐる争点にとどまり、既存の体制原理の正統性が、根源的な挑戦を受けるということ全くなかったといってよい(1)。憲法諸規則を変更するいくつかの憲法改正があったことも事実であるが、そうした改正は、総じて、散発的かつ漸次的であり、政治体制の根幹にかかわる包括的憲法改正案が登場をみることはなかった。さらに、この時期における憲法政治のアクターは、もっぱら政治エリート中心であり、広く国民的議論を喚起することはなかった。
  だが、一九六〇年代に入ると、カナダの憲法政治は、大きな変容をみることになる。憲法構造そのものが、あるいは、カナダの政治的コミュニティの特質そのものが問い直されるようになり、その過程においては、政治エリート層のみならず、広範かつ多様な市民的アクターも参入することになる。この一九六〇年代以降の憲法政治は、「メガ憲法政治(Mega Constitutional Politics)」の時代と特徴づけられ、それ以前の「憲法保守主義(Constitutional Conservatism)」の時代、あるいは、「ノーマル憲法政治(Normal Constitutional Politics)」の時代と区別されている(2)。ラッセル(Peter H. Russell)によれば、「メガ憲法政治」の特徴は、(一)アイデンティティと政治体制の基本原理をめぐって争われ、(二)こうした争点の根源的特質のゆえに、きわめて感情的で激しい対立を伴うこと−にある。憲法政治がこの段階にまで達すると、公的領域において、憲法問題が他のあらゆる諸問題を凌駕して展開されることになる(3)。西部カナダが、地域主義の新しい戦略として、連邦制度改革、とりわけ、上院の改革を提起することになるのも、この「メガ憲法政治」においてのことである。

  第一節  「メガ憲法政治」とその展開

  一九六〇年代に憲法政治が大きく変容する契機となったのは、まずなによりも「静かな革命」とそれに伴うケベック・ナショナリズムの高揚である。ケベック社会の変容に、あるいは、ケベックが全国有権者の二五パーセント以上を占めていることに鑑みると、これが憲法議論、とりわけ、連邦システムの改革をめぐる大きな波を引き起こしたことに疑いの余地はない。憲法政治の背景として、最初にこの点について触れておこう。
  ケベックの憲法的立場の基本は、「二民族型ヴィジョン」に基づいている。すなわち、カナダとは、イギリス系とフランス系という二つの「建国の民族(ファゥンディング・ネィションズ)」間の契約によって生まれた国であり、ケベックこそが、北米大陸におけるフランス系の故郷であるとする考え方である。この観点に立てば、「残りのカナダ(Rest of Canada)」とは、イギリス系カナダの故郷であり、彼らは多数派として、連邦政府をコントロールする存在であるとされる。その最も重要な含意は、ケベックとは他と異なる「独自の社会(distinct society)」であるということである。すなわち、他の諸州が、カナダを構成する二民族のうちの一つ、すなわち、イギリス系カナダの行政的下位単位のさらに一つにすぎないのに対して、ケベックは、一州のみをもって、一民族の制度的単位を構成しているのであるから、他の諸州よりも多くの権限を保持すべきであるとされる(4)。ケベックは、このコミュニティ観に基づいて、連邦システムの分権化を求めると同時に、究極的形態においては、独自の「国家」としての分離独立をも要求し得る存在となる。
  とはいえ、一九六〇年代の前半までは、ケベックの立場は、既存の憲法規定や連邦システムを大きく変更することなく、行政レベルの対応によって処理されてきた。既述のように、「協調型連邦主義」体制は、政府規模の福祉国家型発展と費用分担プログラム等を媒介とした連邦政府の介入を特徴とするものであったが、連邦政府は、諸州政府に、様々の連邦型プログラムからの「離脱(opting−out)」を認めることで、ケベックの要求を抑えることができた。しかし、一九六〇年代半ばに、連邦政府と州政府との間で、イギリス議会からの「憲法移管(patriation)」とそのために必要とされる国内的憲法改正手続をめぐる議論が本格化すると、ケベックの憲法的立場は大きく変容をみせた。一九六四年に連邦政府が提案した憲法改正の「フルトン=ファヴロー方式」は、憲法の一部の規定(例えば、君主および総督、上院における州代表、下院議員の任期)の改正には、連邦議会に加えて、少なくとも五〇パーセントを有する三分の二の諸州の同意が必要とされ、さらに重要な規定(連邦ー州間権限配分、言語権、宗教学校、下院における州代表)については、連邦政府と一〇州議会の全会一致のみをもって改正され得ると定めるものであった(5)。ここで留意しておくべきは、憲法政治において、改正手続の規定が重要視されるのは、その実質的有効性よりも、むしろシンボル的な内実によるところが大きいことである。すなわち、この意味において、改正方式とは、カナダ社会における政治権力の基本構造を規定するものとして争点化されるのである。
  当初、ケベック州ルサージュ自由党政権は、フルトン=ファヴロー方式をもって、連邦体制の集権化を防ぐことができるとの認識から、これを承認した。だが、ケベック・ナショナリストや野党勢力、さらには学生運動の間で、改正方式、とりわけ、後者の「全会一致」の規定が、ケベックの分権化要求の障害となるとの激しい批判が発せられ、同州は、こうした圧力のもとで、僅か二年の後に、フルトン=ファヴロー方式への支持を撤回してしまう。さらに、一九六六年に、ルサージュ自由党を引き継いだ、ジョンソン(Daniel Johnson)率いる「ユニオン・ナシオナル党(Union Nationale)」州政権は、さらに急進化の度合いを強め、二民族間の平等に基づく新しい憲法の必要性を説き、それが実現されない場合には、分離独立をも辞さないとした(「平等か独立か」)。分離独立運動の高揚は、その過程において、過激派集団をも生み出すものの、政党勢力としては、一九七〇年の「ケベック党(Parti Quebecois)」の登場に連なる。
  いずれにせよ、以上の展開は、単なる憲法交渉の失敗にとどまらない重要な含意を持っていた。すなわち、ケベックは、憲法移管を支持する条件として、連邦システムの根源的な再編成を求めるようになったということである。憲法政治において、ケベックが攻勢に転じ、分離独立と連邦制の再編のいずれを問わず、公式的な憲法改正を主張し始めたことによって、カナダの憲法は、一気に「政治化」し、ケベックのみならず、全ての諸州をも巻き込んで、新しい「メガ憲法政治」の局面を迎えたのである。
  さて、ラッセルによれば、メガ憲法政治は、五つのラウンドを経てきたとされる。(一)ケベック・ナショナリズムの高揚を背景として、「フルトン=ファヴロー方式」から「ヴィクトリア憲章」に至る憲法改正規定の挫折(一九六〇年代後半から一九七〇年代前半)、(二)分離独立派のケベック党州政権の成立(一九七六年)と、憲法政治アクターの複雑化、(三)一九八〇年のケベック州「主権ー連合」をめぐるレファレンダムの敗北と、一九八二年の憲法移管および「権利と自由の憲章」導入の時期、(四)ミーチレーク協定とその挫折の時期(一九八七年から一九九〇年)、(五)シャーロットタウン協定とそのレファレンダムによる敗北(一九九〇年から一九九二年)−である(6)。以上の時期区分からも分かるように、メガ憲法政治は、常に、ケベックが突きつける国民統合の危機によって開始され、これが、カナダ連邦国家の憲法的枠組に大きな挑戦を突きつけるという構図において展開している。
  また、スマイリー(Donald V. Smiley)とワッツ(Ronald L. Watts)が指摘するように、一九七〇年代前半までの憲法政治は、フランス系とイギリス系関係の新しい状況によって引き起こされたと言える。加えて、憲法政治とその主要な原動力が、フランス系ーイギリス系関係にある限り、イントラステイト型の憲法議論の台頭は抑えられ、「言語・文化問題」の影響力において、何らかの形でインターステイト型改革論が主軸を占めた(7)

  第二節  西部カナダの参入とイントラステイト連邦主義型改革論の台頭

  とはいえ、憲法政治がもっぱらケベックの地位をめぐって展開してきたというわけではない。一九七〇年代後半以降の憲法政治は、イギリス系とフランス系の関係という軸を超えて、より広範な脈絡において展開を見たのであり、イギリス系カナダにおいて、憲法が激しく「政治化」した時期である。ケベックにおいて憲法的現状の維持が放棄されると、「ケベック以外のカナダ(Canada outside Quebec)」ないし「残りのカナダ(the rest od Canada)」も、ケベック・ナショナリズムに触発されて、あるいは、これに対抗するための改革案を積極的に模索し始めた、西部カナダは、経済的成長とその全国的経済への貢献に比して、中央政府の諸機関における実効的地域代表を欠く制度的現状の改善を求めた。また、先住民の自治を求める動きが活発化した。そして、とりわけ、一九八二年の「権利と自由の憲章」が、カナダ社会に定着して以降は、フェミニズムや環境保護運動などの「新しい社会運動」の高揚が著しい。こうした一連の動向は、全て、憲法政治の舞台へと流れ込み、アクターの多様化・複雑化をもたらすとともに、その展開は、さらに激しさを増すところとなる。スマイリーは、この時期の変容について、次の二点を指摘している(8)
  第一に、約一五年間、憲法議論を支配してきたインターステイト連邦主義に代わって、新たにイントラステイト連邦主義型の改革に注目が集まるようになったことである。この種の改革案には、きわめて多様なヴァリエーションが想定されるとはいえ(9)、次の五つの前提が共通して含まれている。

(一)全国政府の諸機関は、その形態において、中央集権的・多数派中心的バイアスが強い。
(二)中央政府の権限と正統性が浸食されてきたのは、地域基盤的利益の実効的な捌け口が認められてこなかったからである。
(三)中央諸制度には、多くの場合、州的・地域的利益が十分に反映されないから、州政府の権限が拡大したのであり、これを抑えるためには、そうした諸利益に対して、連邦政府をより代表的かつ応答的なものとする以外にない。
(四)連邦政府と州政府との対立は、もはや現行の構造において対応し難い段階にまで達している。
(五)カナダの人々は、連邦下院議員選挙の有権者としてのみならず、州コミュニティの構成員の資格としても、中央政府の諸機関に代表されることが必要であり、望ましい(10)
すなわち、イントラステイト連邦主義型の改革案は、総じて、カナダ政治制度の議会主義的側面にまつわるものであり、制度的構成と社会的実態との乖離の認識において、多数派中心型の議会制度を、社会の連邦的特質に適合的なものとするための企図であると理解される。そして、この背景には、連邦システムの発展と中央レベルでの全国的政策の結果として、当初、カナダの全国政府が有していたイントラステイト型要素が浸食されると同時に、地域主義的諸力が強まったことによって、オタワ連邦政府の正統性が揺らぎつつあるという危惧が認められる。実際、一九七八年八月には、連邦政府によって、「法案C六〇」として知られる憲法改正案が提出された。これは、最終的には、成立に至らなかったものの、権利章典や権限配分規定他の広い範囲にわたる提案であったが、中央レベルの制度的改革として、連邦最高裁判所の改革と並んで現行の上院を「連邦の院(House of Federation)」に改革するという提案も含まれており(11)、憲法議論がイントラステイト型枠組へとシフトしつつあったことを示していた。
  第二に、これと関連して、連邦レベルの議会制度改革が重視されたことは、西部諸州の台頭と、その経済権力に応じた政治権力を求める動きに対応していることである。実際、ギビンズが指摘しているように、西部カナダが積極的に憲法政治に参入するようになるのは、一九七〇年代に入ってからのことである。彼は次のように述べている。

(憲法政治に積極的に参入しなかったからといって−筆者注)、西部カナダが自らの政治的現状に満足してきたというわけではない。この点は、連邦ないし州の政党システムを揺るがした様々の抵抗運動を見れば、明らかである。だが、西部カナダの不満が、憲法オルタナティヴに昇華されることはなかった。抵抗運動は、カナダ連邦国家の憲法的基礎ではなく、党議拘束、東部が占める選挙的比重、東部金融利益による全国政党の操作に向けられてきた(12)

加えて、一九三一年に天然資源所有権を獲得するまでの連邦政府との激しい対立を除いて、西部は伝統的に、権限配分問題にコミットすることはなく、「西部の政治的抵抗は、常に、オタワ連邦政府の責任の範囲ではなく、その運用実態に向けられてきた(13)」。

西部カナダは、過去数十年間の憲法交渉において、全く準備を整えてなかった。西部は、体系的かつ強力で綿密に構想された主張を欠いていたために、全国的政治制度の改革は、憲法アジェンダから抜け落ちていた。その代わりに、州権限を保護するために、既存の連邦体制の改良のみが当面の問題とされた。すなわち、オタワの宣明権・緊急権・歳出権に対して、州が統制し得る憲法的制約を設けるという改良、これである。憲法ヴィジョンのオルタナティヴを欠いていたために、西部諸州政府は、総じて、守勢に立たされた結果、黙認すべきでも、擁護されるべきでもないはずの制度的現状を保つことになってしまった(14)

すなわち、西部独自の憲法ヴィジョンが存在していなかったために、一九七六年までの憲法政治は、もっぱらフランス系ーイギリス系の二元論的立場によって独占され、西部カナダが主導的な役割を担うことはなかった。だが、一九七〇年代後半から八〇年代にかけて、トルドー自由党政権が、西部カナダの意向を殆ど省みずに、言語政策やエネルギー政策といった中央集権的政策を推し進めると、西部諸州は、ようやく憲法政治の舞台において積極的に介入するようになる。この局面において、西部カナダの憲法アジェンダとされたのが、中央レベルにおける制度改革、とりわけ、上院改革案であった。
  前章で検討したように、カナダ連邦システムの構造とその地域的利益の代表メカニズムは、西部カナダの地域主義にとって、改革のターゲットを規定する。イントラステイト連邦主義型枠組、すなわち、全国政府のシステムにおける地域的利益の代表を実質化するために、中央諸制度を改革しなければならない、と。したがって、連邦国家における第二院として、地域代表の役割を十全に果たし得ない現行の上院にターゲットを絞り、これを改革することで、全国政府のシステムにおける連邦原理を強化し、下院の多数派中心型バイアスに対して、より効果的な地域主義的抑制を加えるという目標が、西部カナダにとっての憲法オルタナティヴとなる。そこで、以下では、一九七〇年代末期から一九八〇年代後半にかけて、西部カナダに登場した上院改革案を整理し、検討を加えることにしたい。

  第三節  西部カナダにおける上院改革議論とその変容

  さて、一九七〇年代後半以降、西部カナダを中心に登場した上院改革案は、大別して、二つのモデルに分類することができる。第一は、上院議員の任命権を州政府に与える改革案である。これは、一九七〇年代後半から八〇年代前半にかけて支配的となった潮流であり、B・C州政府案(一九七八年)とアルバータ州政府案(一九八二年)がその代表である。第二の潮流は、上院議員の直接公選制を規定する改革案である。このモデルの嚆矢は、西部カナダ財団案(一九八一年(15))に既に認められるとはいえ、一九八五年のアルバータ州議会特別選任委員会の報告書をもって、「トリプルE(Triple−E)」型上院モデルとして、一つの完成を見ることができる。

  第一項  州任命型上院改革案
一、権限配分から中央制度改革へ
  上院を含む憲法改革に関して、包括的改革案を最初に提起したのは、B・C州政府(ベネット政権)であった。同州政府は、一九七六年一一月に、『カナダ憲法に関するB・C州の立場』という文書を公表し、コンフェデレーションをめぐる本質的問題として、連邦レベルの政策形成過程において地域的要求が配慮されていないことを指摘していた(16)。B・C州の基本的立場は、なお、連邦型権限配分の再編にあるとはいえ、注目すべきは、州代表によって構成される地域代表機関として、新しい第二院の必要性が主張されていたことである。この主張は、一九七八年一〇月の連邦ー州首相会議に提出された文書『B・C州の憲法提案』において詳細に論じられている(17)。この文書は、B・C州がカナダにおける「独特の地域」であるという立場から(「太平洋地域(Pacific region)」)、包括的な憲法ヴィジョンを展開したものであり、そのなかの第三ペーパーが、上院改革の方向性についての議論に充てられている。憲法議論改正をめぐる議論の一部として、上院の根源的改革を明確に主張したのは、B・C州が最初であった。
  B・C州と同様に、アルバータ州政府(ロッヒード進歩保守党政権)も、一九七八年一〇月の連邦ー州首相会議において、『多様性のなかの調和ーカナダの新しい連邦制』と題する文書を公表した(18)。この当時、州政府の関心が、連邦政府の介入から州管轄領域を守ることに集中していたことに加えて、「連邦ー州首相会議が州益を代表する実効的メカニズムとして機能していた」との認識から、同文書は、現行の権限配分の見直しを主張するにとどまり(19)、上院改革については殆ど言及されていなかった(20)。だが、一九八〇年に、西部地域の代表を欠くトルドー自由党政権によって、国家エネルギー計画が導入され、さらに一九八二年には、諸州の同意を得ることなく、連邦政府の単独的判断において憲法移管(patriation)が強行されると、アルバータ州政府は、連邦政府の一方的政策の展開と連邦システムの急速な中央集権化傾向に大きな危機感を抱くに至る。さらに、一九八二年アルバータ州議会選挙では、西部分離主義を掲げる政党の支持が高まり、一議席の獲得に成功する。こうした状況が呼び水となり(21)、州政府は、同年八月に『州任命型上院ーカナダの新しい連邦制』を公表し、憲法議論の新しいアジェンダとして、上院改革を提起することになる。
二、「諸州の院」
  その名称が示すとおり、州任命型改革案の主眼が、上院議員の選出方式の改革にあることは言うまでもない。すなわち、建国以来、久しく連邦首相の手に掌握されてきた上院議員の任命権を各州政府に委ねることで、上院を実質的な州政府の代表に再編する試みであった。したがって、改革案が想定する上院とは、ドイツの連邦参議院(Bundesrat)をモデルとする「諸州の院(House of Provinces)」となることが想定されている。さらに、次の二点を指摘することができよう。
  第一に、このモデルは、政府間関係の円滑化という視点の優先において、上院改革を位置づけていることである。上院議員に対する州政府の統制という点では、一定の個人的裁量を認めるB・C案と厳格な指導関係を強調するアルバータ案では若干の違いこそあれ、総じて、政府間関係の優先のもとに、上院による地域代表が構想されている(22)
  第二に、同モデルの政治的主眼は、連邦政府の管轄領域において州政府の発言力を高めることに置かれていた。すなわち、全国的政策形成に対する州政府のインプットを増大すると同時に、州の政策決定に対する連邦政府のインプットをさらに抑制することが重視される。連邦政府が州の管轄領域に介入し、州的利益に関わる立法活動を行う場合には、事前に州政府の代表からの承認を得ることが必要とされる。従って、州政府の代表が、オタワ連邦政府における地域的「監視人」となることで、全国的政策形成における地域的ないし州的利益の保護が図られることが期待されている。
三、現行システムに対する含意
  それでは、最後に、州任命型上院改革案は、現行システムに対して、どのような含意にあるのだろうか。州任命型モデルは、連邦システムにおける地域的利益の代表という観点において、三つの論理を含むものであった。第一は、現行の地域代表メカニズムの制度化である。カナダ連邦システムの構造において、全国政府は実効的地域代表のチャンネルを著しく欠いているために、地域的利益の擁護者としての公式的役割は、実質上、州政府および州首相によって独占的に担われることになる。この脈絡において、州任命型上院改革は、連邦政府の地域的正統性をさらに浸食する一方で、全国政治の舞台における州政府の役割を制度的に承認するという論理を含んでいる。第二に、行政的連邦主義の現実に鑑みると、州任命型の改革によって、結果的に、激しい政府間対立が全国的政治過程にまで及ぶということである。とはいえ、上院改革の本来的目的が、中央レベルにおける地域代表の実質化にあることに鑑みると、上院を「諸州の院」に改革することで、地域代表の質を高め、政府間対立の緩和を図るとする想定は、カナダ連邦システムの原理と実際を大きく歪めるものであり、問題をさらに深めかねないリスクを伴っているといえよう。

  第二項  公選型上院改革案
一、上院改革議論の変容
  上院議員の直接選挙制を求める改革案は、一九八〇年代半ば以降、上院改革案のメインストリームを占めるようになる。州任命型モデルが、総じて、州政府ないし州政治家の主導において推進されたのに対して、公選型上院を求める圧力は、民間の次元から発せられた。実際、後に見るように、一九八二年に州任命型上院の推進役として登場したアルバータ州政府が、わずか三年のうちに方向転換を迫られた背景には、公選制を求める世論の圧力があった。上院改革をめぐる議論において、公選型モデルが有力なアジェンダとして登場する画期となったのは、一九八五年にアルバータ州が定式化した「トリプルE型」モデルであったが、その原型は、民間の政策研究機関、「カナダ西部財団(Canada West Foundation)」(アルバータ州、カルガリー)の一九八一年の報告書、『地域代表ーカナダのパートナーシップ』にみることができる(23)。西部財団の報告書は、アルバータ州政府の方向転換に影響を与えたのみならず、当時の主流であった州任命型モデルとの比較において、公選型上院の論理的根拠をきわめて明瞭に示している。
  第一に、地域代表の主体としての州政府の役割を明確に否定し、実効的地域代表の問題を、連邦ー州関係とは別の次元において捉えていることである。

今日のカナダにおいて、地域的アイデンティティの中心は、州政府である。これは全くもって妥当である。というのも、全国的には少数派であっても、地域的次元では多数派を構成していることもあり、この場合、州政府が「地域の人々の」政府にほかならないからである。……(中略)……しかし、州政府が、地域的感情の唯一の政治的中心となるとすると、これは妥当であるとはいえない。というのも、連邦ー州間の権力バランスを州に有利に傾けてしまうという形態でしか、地域的感情を表明することができないということになるからである。地域的利益に実効的役割を認めることで、地域間の利害を調停する機関が、全国政府のなかに必要とされるのである。現在のカナダの政治制度においては、オタワ連邦政府を攻撃するしか、地域的忠誠心を表明する術がない(24)

したがって、

公選型上院であれば、全国政府の行動の地域的正統性を大きく高め、全国的諸問題への関わりに没入する州政府を解放することができる(25)

すなわち、この立場からすれば、州任命型上院のモデルは、政府間対立を中央政府内に持ち込むにすぎず、地域代表の改善にはなり得ないと考えられている。この意味で、公選型上院が、実効的地域代表を達成するための唯一の手段であるとされている。
  第二に、公選型上院の妥当性が、民主性と正統性という観点から明確にされていることである。すなわち、報告書によると、多くの場合、公選制を求める理由として、現行の任命型上院が民主的特質にないことが挙げられているが、それだけでは十分な根拠とはならないとしている。

直接公選制が検討される理由は、……(中略)……選挙の実践的・直接的含意に求められる。選挙によってその地位を得たならば、その人物には、選挙期間中に重視された争点と直接関連する諸問題において、自らを選出してくれた人々を代表するという義務が課せられることになる。一定の任期において選挙されるということは、最終的に、有権者に対して明確で直接的な責任を負うということになる。この二つのファクターを結びつけることが、正当性を生むのである(26)

すなわち、たとえ上院議員が直接選挙によらないとしても、彼らが地域的関心を表明できないというわけでないし、自らの地域のために現実的譲歩を引き出すことができないというわけでもない。むしろ、直接選挙によらなければ、影響力を行使するための堅固な民衆的・憲法的基盤を持ち得ないことが問題とされているのである。
  カナダ西部財団の報告書が示した以上の二点は、一九八五年のアルバータ州「トリプルE型上院」改革案に、そして、さらに、公選型上院論一般の共通認識として継承されている。
二、「トリプルE型上院」案
  さて、アルバータ州政府は、一九八二年の州任命型上院改革案を公表した後、その実現可能性を探るべく、一九八三年一一月に、「上院改革に関する特別選任委員会(Alberta Select Special Committee on Senate Reform)」を設立する(27)。同委員会は、アルバータ州全域において、上院改革に関する公聴会を重ねていくが、これがアルバータ州政府にとっては思いもよらぬ結果を生むことになる。

任命型上院について委員会が受け取った決定的な問題とは、カナダの人々が、自らが上院議員と直接的な結びつきをもち得るようなシステムを求めていたことである。州政府の代表という方法では、そうした直接の関係を認めることにはならない。委員会は、この概念について、アルバータの人々から全く支持を得ることができなかった。また、こうした任命システムが、連邦政府に受け入れられないという可能性もあった(28)

すなわち、アルバータ州政府は、ここに至って、自らがイニシアティブをとってきた上院改革のアジェンダに民衆的支持を動員できないことを認識するところとなった。さらに、直接公選型上院を求める圧力は、民衆のみならず、「カナダ西部財団」をはじめとする民間団体からも強まっていた(29)。こうした状況のなかで、特別選任委員会は、一九八二年の任命型上院案を破棄し、直接公選制を主眼とする新しい上院改革案の構想にコミットするようになる。かくして、一九八五年三月に、特別選任委員会は、『カナダを強化するーカナダ上院の改革』と題する報告書を公表する。この報告書は、次のような巻頭言で始められている。

上院改革に関するアルバータ特別選任委員会は、民衆によって直接選挙され、各州が平等な議員数をもって代表される上院を勧告する。上院議員には、コンフェデレーションの父祖たちが思い描いたように、地域の影響力を発揮する点で実効的な存在となれるだけの権限が与えられるべきである(30)

この改革案は、三つのキーワード−選挙(Election)、平等(Equal)、実効的(Effective)−の頭文字をとって、「トリプルE型(Triple−E)」上院と呼ばれる。
  一九八五年の「トリプルE」型上院改革案は、その呼称が示すように、直接公選制の導入とともに、次の二つの点において、従来の上院改革案とは区別される特質を有している。第一は、二つめの「E」としての州間平等(provincial equality)の原則である。B.C.案が、(自らを「太平洋地域」として一地域単位を構成するとしたうえで)現行の地域間平等の原則を承認し、また、アルバータ「州任命型上院」案が、州を単位としながらも、人口規模に応じた「加重代表制(weighted system of representation)」を提起しているのに対して、トリプルE型改革案が想定するモデルにおいては、人口の規模にかかわらず、各州にそれぞれ同数の上院議席が配分されるものとされている(31)。トリプルE型上院を支持する立場からすれば、州間平等原則は、州を単位とする点で、カナダ政治システムの実際に即しており、また、各州の平等を認めることで、人口の少ない諸州の代表を保障することができる。周知のように、二院制をとる連邦国家にあって、上院に州間平等を採用した先例は、アメリカとオーストラリアである。実際に、いずれの国も、大規模州と小規模州との人口格差がきわめて大きいにもかかわらず、議席数のうえで州平等が公的に承認されている。
  第二は、三つめの「E」、すなわち、上院の実効性についての言及である。何をもって「実効的」とするかの基準は必ずしも明確でないとはいえ、改革後の上院にどれほどの「実効性」を想定するかという問題は、とりわけ、ウェストミンスター型議会主義の伝統との関係において、とりわけ、内閣に責任を負う下院との関係において、連邦型の上院をどのように適合させるかという争点を提起する。この点で、トリプルE型上院改革案には、興味深い言及が認められる。州任命型上院改革案が、多くの場合、絶対的拒否権の行使領域を地域固有の領域に抑えて、これ以外の管轄に関しては停止権を認めるにとどまっていたのに対して、トリプルE型上院案は、これのみでは不十分であるとしている。すなわち、財政法案および課税法案に関しては、責任政府の伝統に従い、たとえ上院が拒否権を行使したとしても、下院はこれを単純多数派をもって覆すことができるとしているが、その他の法案については、票決パーセンテージの点で、上院の否決を上回ることが必要であると規定されている。例えば、上院が六〇パーセントの票決で否決した場合、下院がこれを覆すためには、それ以上のパーセンテージの議決が必要とされる。このメカニズムを導入することで、「下院の優越が保障されることになるが、こうした優越に訴えることができるのは、『人口による代表』に基づく代表機関において圧倒的な合意が成立していなければならない」ことになり、全国的政治過程における多数派中心型バイアスに対して、大きな抑制となることが期待されている(32)。以上の検討からわかるように、一九八五年のトリプルE型上院改革案は、その原理と実際の両方において、州任命型上院改革案とは全く異なり、しかも、現行の政治制度に対する含意という点では、より根源的な挑戦の試みであったといえる。
  以後、トリプルE型上院は、西部カナダ、とりわけ、アルバータの最も重要な憲法改革争点として、憲法政治の舞台においても積極的に追究されることになる。とりわけ、注目すべきは、一九八九年一〇月に、アルバータ州政府が先駆的に実施した上院議員「選挙」であろう(33)。一九八七年のミーチレーク協定は、ケベックの憲法的地位を中心とするものであり、西部が要求していた上院改革には何の言及もされなかったが、序文において、「上院の任命に関して提起されている改正が発効するまで、上院の欠員を補充するために任命される人物は、欠員が生じた当該州政府によって候補者リストが提出され、枢密院に認められた人物が選ばれる」と述べられていた。アルバータ州政府は、この規定を利用し、州民によって選挙された一名の上院議員「候補」の名前のみをリストに掲載し、連邦首相に提出しようと考えたのである(ただし、選挙結果には法的拘束力はない)。選挙の結果、改革党のスタン・ウォーターズ(Stan Waters)が勝利した。八ヶ月後、マルルーニー連邦首相によって、ようやく正式に任命されると、カナダ史上初めての「民衆によって選ばれた上院議員」が誕生した。
  このアルバータ州の試みは、以後の憲法議論において、上院改革、とりわけ、公選型上院改革が重要な争点となることを確実としたという意味で、重要なイニシアティブであった。実際、一九九〇年にミーチレーク協定が挫折した後、一九九二年のシャーロットタウン協定に至る憲法議論(「カナダ・ラウンド」)において、トリプルE型上院は、ケベックの「独自の社会」規定、先住民自治とともに、重要な争点の一つとなる。しかしながら、同規定のレファレンダムによる否決によって、上院改革の展望は、再び暗礁に乗り上げる結果となった。


(1)  Donald V. Smiley and Ronald L. Watts, Intrastate Federalism in Canada (Toronto:University of Toronto Press, 1985), pp. 5-16.
(2)  Peter H. Russel, Constitutional Odyssey:Can Canadians Become a Sovereign People?, 2nd. ed. (Toronto:University of Toronto Press, 1993), pp. 74-75.;Smiley and Watts, ibid.
(3)  Russel ibid.
(4)  したがって、ケベックの立場は、多くの場合、英系カナダ、とりわけ、西部と大西洋諸州において主張される州間平等の編成原理と真っ向から対立することになる。これは、一九九〇年代に至って、「非対照型連邦主義」をめぐる議論へと連なる。次を参照のこと。Russel, ibid., pp. 177-178,:David Milne,"Equality or Asymmetrty:Why Choose?", Ronald L. Watts and Douglas M. Brown ed., Options for a New Canada (Toronto:University of Toronto Press, 1991), pp. 285-307.:Alain−G. Gangnon,"Future of Federalism:Lessons from Canada and Quebec", Internatinal Journal, Vol. 48, no. 3 (1993):F. Leslie Seidle, ed., Seeking a New Canadian Partnership:Asymmetrical and Confederal Options (Ottawa:The Institute for Research on Public Policy, 1994).
(5)  フルトン=ファヴロー方式の内容は、次を参照のこと。James Ross Hurley, Amending Canada's Constitution:Historiy, Processes, Problems and Prospects (Ottawa:Minister of Supply and Services Canada, 1996), p. 185.
(6)  Russell, op cit.
(7)  Smiley and Watts., op. cit., pp. 11.
(8)  Smiley and Watts, op cit., pp. 12-15.
(9)  ケアンズは、「イントラステイト連邦主義」型範疇に分類され得る改革案として、次の九つが含まれると指摘している。(一)連邦下院選挙制度の比例代表制への改革、(二)党首選挙手続の改革、(三)代表型官僚制の入、(四)公務員制度改革、(五)連邦内閣の再構成、(六)党議拘束の緩和、(七)上院改革、(八)最高裁判所の人員・決定作成および任命手続の改正、(九)連邦政府委員会(federal boards and comissions)の任命手続・構成・機能の改革ーこれである。次を参照のこと。Alain C. Cairns, From Interstate to Intrastate Federalism in Canada (Kingston:Institute of Intergovernmental Relations, 1979), pp. 12-13.
(10)  Smiley and Watts, op. cit., pp. 18-20.
(11)  「連邦の院(House of Federation)」とは、構成員の半数ずつをそれぞれ、直前に行われた連邦選挙ないし州選挙における政党勢力に比例して、下院の政党リーダーと州議会の政党リーダーによおって選出されるものとする案である。Goverment of Canada, The Constitutional Amendment Bill, Text and Explanatory Notes (June, 1978)
(12)  Roger Gibbins,”Constitutional Politics and the West, in Keith Banting and Richard Simeon, ed., And No One Cheered:Federalism, Democracy and the Constitutional Act (Toronto:Methuen, 1982)., p. 120.
(13)  ibid., p. 121.
(14)  ibid., p. 122.
(15)  カナダ西部財団(Canada West Foundation)は、一九七一年に設立された独立の非党派的・非営利的調査研究組織であり、一般会員、民間企業、西部四州およびユーコン・北西準州の政府からの出資で運営されている。その目的は、(一)西部および北部の経済的・社会的特質と潜在力に関して、実践的で構想力に富む調査研究プログラムを立案・実施し、(二)カナダの伝統と西部カナダの将来的展望についての理解を深めるために、情報教育プログラムを立案・実施すること−であるとされている。専任スタッフに加えて、広範な分野の識者や学者が調査研究プロジェクトに加わっており、西部カナダの視点から数多くの調査研究レポートを出版している。現実政治、とりわけ、上院改革を含む憲法議論や様々の公共政策に関しても多くの提言をしており、西部カナダの地域政治を考察するうえで重要な組織となるに至っている。なお、カナダ西部評議会のURLアドレスは以下の通り。http://www.cwf.ca/ 組織の紹介や研究プロジェクト、出版物についての情報も豊富である。
(16)  William. R. Bennett, What is British Columbia's position on the Constitution of Canada? (Victoria, B. C.:K.M. MacDonald, Queen's printer, 1976)
(17)  British Columbia. Executive Council, British Columbia's Constitutional Proposals:Presented to the First Minister's Conference on the Constituion, October, 1978. (Victoria:Province of British Columbia, 1979)
(18)  Alberta, Harmony in diversity:a new federalism for Canada:Alberta Government position paper on constitutional change (Edmonton:Government of Alberta, 1978)
(19)  ibid., Recomendation #
4.
(20)  Government of Alberta, A Provincially−Appointed Senate:A New Federalism for Canada., Alberta Government Discussion Paper on Strengthening Western Representation in National Institutions, August 1982., p. 2.
(21)  ibid., pp. 1-2. また、次も参照。J. Peter Meekison, Alberta and the Constitution, in Allan Tupper and Roger Gibbins (ed.), Government and Politics in Alberta (Edmonton:The University of Alberta Press, 1992), p. 257.
(22)  British Columbia, op. cit., p. 35. Alberta, op cit, 1982., pp. 13-14.
(23)  Canada West Foundation, Regional representation:the Canadian partnership:a task force report/prepared by Peter McCormick, Ernest C. Manning, Gordon Gibson (Calgary:Canada West Foundation, 1981).
(24)  ibid., p. 105.
(25)  ibid., p. 108.
(26)  ibid., p. 109.
(27)  Alberta Select Special Commitee on Senate Reform, Strengthening Canada:reform of Canadian Senate (Edmonton, 1985).
(28)  ibid., p. 21.
(29)  Roger Gibbins,"Alberta and the National Community", in Allan Tupper and Roger Gibbins (ed.), Government and Politics in Alberta (Edmonton:The University of Alberta Press, 1992), pp. 74-5.;  Randall White, Voice of Region:The Long Journey to Senate Reform in Canada (Toronto:Dundurn, 1990), p. 215.
(30)  Alberta Select Special Commitee, op cit, p. 1.
(31)  ibid., p. 26:Alberta, 1982, pp. 17-18.:British Columbia, 1979, pp. 34-35.
(32)  ibid., p. 34.
(33)  Alberta's Senate Election:History in Making (Canada West Foundation, October, 16, 1989)

第四章  上院改革議論の変容とその政治的含意


  前章では、一九六〇年以降の憲法政治の展開を概観するとともに、その過程において、西部カナダに登場した上院改革案を二つのモデルに整理して検討を加えた。ここで最も重要なことは、一九八〇年代の前半期の僅か数年間で、西部カナダにおける上院改革議論の基調が、州任命型から公選型モデルへと大きく変容したことである。この脈絡において、アルバータ州議会特別選任委員会による「トリプルE型上院」案が重要なのは、連邦制度改革をめぐる西部カナダのコンセンサスを形成するための土台の位置にあるからである。一九八八年五月にブリティッシュ・コロンビア州・パークスヴィルで開催された西部州首相会議において、西部四州は、アルバータ州のトリプルE型上院イニシアティブに協力することを全会一致で承認した(「パークスヴィル協定(1)」)。以後、トリプルE型上院は、憲法議論における西部カナダの重要なアイテムとして展開されることになる。
  さて、一九八〇年代前半の州任命型と後半以降の公選型改革案、とりわけトリプルE型上院は、いずれも、地域代表機構としての上院を実質化・実効化する目的を持っている点で共通しているが、カナダの連邦システムに与える制度的含意において、両者は大きく異なっている。すなわち、両モデルはともに、広義におけるイントラステイト連邦主義型改革の範疇にあるとはいえ、地域代表の主体をどこに求めるかという点で、前者の州任命型モデルは、「イントラステイトー政府(intrastate−government)」連邦主義として、後者の直接公選型モデルは、「イントラステイトー民衆(intrastate−population)」連邦主義として理解することができる。また、連邦システムとの関連においては、州任命型モデルは、全国的政治における州政府の役割を強調することから、「分権型ーイントラステイト(decentralist−intrastate)」連邦主義として、直接公選型は、全国的政府において民衆を直接代表することをもって、その正統性を高めることから、「集権型ーイントラステイト(centralist−intrastate)」連邦主義として整理することができよう(【図4(2)】)。

  ここでは、上院改革議論の変容を、次の二つの視点から考察する。第一に、トリプルE型上院の論理が、憲法議論、とりわけ国民的統合をめぐる議論に与えるインパクトの問題である。上院改革が、カナダ連邦システムにおける実効的地域代表を達成するものであるとするなら、それは同時に、連邦国家カナダにおける国民的統合の問題とも密接に関係する。第二に、西部カナダ地域主義の展開という脈絡において、上院改革議論の方向転換は、どのように位置づけられ得るのかということである。

  第一節  国民統合へのインパクト

  第一は、直接選挙制の導入がもたらすインパクトである。一九八〇年代前半までの州任命型上院モデルは、連邦レベルの立法過程において、州政府が確固とした管轄領域をもつ自律的アクターとなることを想定しているという意味で、実質的な「分権型連邦国家」の創出に連なるものであった(3)。したがって、このモデルは、少なくとも原理上、憲法議論におけるケベックの立場と共存し得るものであった。現行システムにおけるケベックの地位に鑑みると、同州が上院改革そのものを熱狂的に支持する可能性はきわめて小さいとはいえ、アルバータとケベック州政府はともに、全国的立法過程において州政府の発言力を高め、州権の強化を期する制度改革案において、利害の一致をみることも可能であった。実際、アルバータが「州任命型上院」案を公表したのとほぼ同時期に、ケベック自由党は、『ベージュ・ペーパー』と呼ばれる、同種の上院改革案を公表した(4)
  これに対して、直接公選型上院モデルは、オタワ連邦政府において、州政府ではなく、州の有権者の実効的代表を高めるものである。したがって、全国政治の舞台において、州政府と州首相の地位と影響力を減じることが想定されている。ケベックが、その強力なナショナリズムの担い手としての州政府の地位、あるいは、州権の拡大を志向していることに鑑みると、上院議員の直接公選制は、同州において全くアピール力を持たないばかりか、激しい反発さえ呼ぶものである。全国レベルでの憲法議論が、常に、カナダにおけるケベックの地位をめぐって開始され、アルバータないし西部諸州が単独で主導権を握ることができないものであるだけに、憲法ヴィジョンにおけるケベックとの対立は、西部の憲法戦略にとって決定的な打撃とならざるをえない。すなわち、西部カナダ諸州が、トリプルE型上院という一貫した憲法ヴィジョンを確立したとしても、これを実際のアジェンダに乗せるためには、ケベックの不満によって引き起こされる憲法議論の波に乗るしかなく、この波の中で、連邦制度改革という争点を提起するしかないのである。
  第二は、州間平等の原則がもつ含意である。上院改革の原則として、「州間平等代表」を導入することは、国民的統合との関係において、困難な問題を引き起こすことになる。というのも、トリプルE型上院の導入は、中央カナダ二州から西部ないし東部のペリフェリー地域への権力移動を意味しているからである。オンタリオとケベックは、現行の上院議席の配分において、それぞれ単独で一「地域」区分を構成し、二三パーセントの上院代表を保持しているが、州間平等に基づいて改革された後には、一〇パーセントへと減少することになる。さらに、上院議席の州間平等は、ケベックを単なる「一〇州のうちの一つ」として捉えるものであるから、同州の「独自の社会」としての承認を完全に否定することにもなる。かくして、上院の代表原理をめぐる議論は、ただちに、連邦国家カナダをめぐる「ヴィジョン」の対抗として展開され、憲法政治の舞台において重要な争点として浮上するのである。カナダにおいて、言語的・文化的・民族的多様性を尊重する「衡平」と、領域的多様性を承認する「平等」の原則を調停することはきわめて困難な課題である。

  第二節  西部地域主義の脈絡

  西部カナダの地域主義の脈絡に即しても、上院改革議論の変容は、西部の地域主義の論理それ自体に大きく転換を迫りうるものでもある。既に述べたように、カナダ連邦システムの構造的帰結として、全国政治の舞台における地域的利益の代表は、州首相および州政府によって独占的に担われてきた。実際、上院改革が、憲法議論における西部カナダのアイテムとして登場したのも、州首相および州政府による積極的なキャンペーンによるところが大きい。
  とはいえ、上院改革議論の焦点が、州任命型から直接公選型モデルへと変容したことは、連邦システム一般にとって、あるいは、連邦システムにおける州首相にとって一つのパラドクスである。すなわち、直接公選型上院において、地域の民衆は、全国政治の舞台における地域代表の役割を、州首相をバイパスして、連邦レベルでの政治家に託すことになるからである。州政府は、直接公選型上院改革をアピールすることで、カナダの連邦システムにおいて伝統的に担ってきた役割を自ら否定するというジレンマに陥ることになる。事実、アルバータ州のロッヒード首相は、同州における上院改革の論調が「トリプルE型上院」に変わった後は、上院改革イニシアティブに対して消極的になったと言われている(5)。したがって、「トリプルE型上院」案が、西部カナダの体系的な地域的アジェンダとして展開されるためには、このモデルのイントラステイト連邦主義的含意に適合的な推進勢力が必要とされる。

  第三節  新しい地域主義的アクターの登場−改革党

  連邦システムの構造と地域主義の関係に鑑みると、一九八四年連邦総選挙は、新しい地域主義的アクターの登場の契機を生み出したという意味で、一つの画期であったといえる。ディーフェンベーカー期以来、連邦レベルでは久しく進歩保守党を忠実に支持し続けた西部の人々にとって、マルルーニー政権が、西部からの実質的代表をもって成立したことは、ある種の「制度的テスト」であった(6)。すなわち、西部にとって「妥当な政党」が政権を掌握し、「妥当なリーダー」が連邦首相となれば、現行システムにおいても、制度改革を必要とせずに、地域的利益が代表され得るのか。答えは否、であった。マルルーニー政権においては、確かに、西部に配慮した政策的展開−全国エネルギー計画の廃止と西部エネルギー協定の締結、あるいは、西部経済多様化局の設置や西部穀物安定基金の創設−があったとはいえ、同政権がこれ以上に重視したのは、なによりも保守党とケベックとの関係であった。実際に、保守党が大勝利を収めることができたのは、伝統的支持基盤たる西部に加えて、ケベックを掌握したことが大きい。この結果、保守党内の地域バランスに変化が生じた。つまり、一九八四年までの時期において、西部は、政権与党=自由党に代表されることは殆どなくても、二大政党の一翼たる進歩保守党のコーカスにおいては、大きな影響力をもつに至っていた。しかし、一九八四年に、進歩保守党が政権与党になって以降、同党内の地域的重心は東へと、すなわち、ケベックへと移動した。保守党基盤の「ケベック化」によって、西部が占める比重が大きく減少するところとなったのである。つまり、一九八四年選挙において、西部は、政権を得た代わりに、党を失った。マルルーニー政権という「制度的テスト」の結果は、西部の政治的不満を強めたにすぎなかった(7)
  マルルーニー政権成立直後から既に、とりわけ、アルバータ州とB・C州のビジネス層において、政権に対する不信感が広まりつつあったとはいえ、これが一気に噴出する契機となったのは、一九八六年一〇月に連邦政府が下した「CFー18戦闘機」のメンテナンス契約に関する決定である。当時、連邦政府は、委員会を組織し、契約先の調査にあたらせていた。調査の結果、ウィニペグの「ブリストル航空会社」が、最も安いコストで最高の条件を提示していたにもかかわらず、マルルーニー政権は、ケベックの「エアーカナダ社」との契約締結に踏み切った。この決定は、「連邦政府が、シニカルな政治的計算によって、西部を犠牲にして中央カナダを優先した」として、ウィニペグにとどまらず、広く西部諸州の人々の憤慨を喚起するところとなった(8)。これを直接的契機として、一九八七年五月、バンクーバーにおいて「カナダの経済的・政治的将来に関する西部会議」が開催され、「西部カナダの声を代表し、カナダの政治システムの根源的構造改革を目指す新しい全国政党の設立」が決議される。そのスローガンは、「西部は参加を欲する(The Wests wants In!)」であった(9)
  連邦システムの構造と上院改革をめぐって、改革党の結成は、次の二つの点で重視されるべきである。第一に、同党が、その誕生当初から、連邦政府における地域代表の必要性を激しく主張し、トリプルE型構想に基づいた上院改革を綱領の重要な一部として位置づけていたことである。同党の政策文書『ブルー・ブック』には、二一の基本原則が列挙されているが、最優先すべき争点として、上院改革を挙げている。

我々は、カナダ議会にトリプルE型上院を確率する必要があると確信している。すなわち、人民によって選出され、各州が平等に代表され、地域的諸利益を守るうえで充分な実効性を発揮し得る上院を(10)

  第二に、上院改革イニシアティブとの関連で、さらに注目すべきことに、改革党は、西部の地域的利益の代表と擁護を掲げて登場したという意味で、まぎれもなく地域主義的抵抗政党であるが、その視野においては、きわめて「ナショナル」な政党であった。というのも、一九九一年にサスカトゥーンで開催された党大会において、(一)党の組織基盤、活動、候補者擁立を、「ケベックを除くカナダ」全域にまで拡大すること、そして、真に「全国的」な政党を目指すべく、(二)州レベルの党組織を一切創設しないこと−が決議されたからである(11)。すなわち、改革党は、すぐれてイントラステイト連邦主義の枠組において展開することになったのである。この意味で、トリプルE型上院改革案は、その枠組に適合する推進主体を獲得したということになる。
  以上のように、西部カナダ地域主義の脈絡において、上院改革議論の変容は、とりわけ、トリプルE型上院案の登場をもって、イントラステイト型連邦主義の枠組における展開の可能性を得ると同時に、伝統的な地域的疎外を克服するための一貫した憲法アジェンダを提供することになったのである。また、その推進において、改革党の登場は、とりわけ重要な意味をもっていたといえよう。

(1)  Chronology of Events:Jan. 1988− June 1989, in Ronald L. Watts and Douglas M. Brown ed., Canada:The State of the Federation 1989 (Institute of Intergovernmental Relations, Queen's University, 1989), p. 249.:Randall White, Voice of Region:The Long Journey to Senate Reform in Canada (Dundurn, 1990)., p. 230.
(2)  Alain C. Cairns, From Interstate to Intrastate Federalism in Canada (Kingston:Institute of Intergovernmental Relations, Queen's University, 1979).
(3)  Gibbins,”Alberta and the National Community, in A. Tupper and R. Gibbins, Government and Politics in Alberta (Edmonton:University of Alberta, 1992)., pp. 74-75.
(4)  Quebec Liberal Paty, Constitutional Commitiee, A New Canadian Federation, (Quebec:Quebec Liberal Party, 1980)
(5)  Roger Gibbins,”Western Canada:The West Wants In, in Kenneth McRoberts, ed. Beyond Quebec (McGill−Queen's University Press, 1995), pp. 45-60.
(6)  Roger Gibbins,”Senate Reform:Always the Bridesmaid, Never the Bride, in Ronald Watts and Douglas M. Brouwn, ed., Canada:The State of Federation, 1989 (McGill−Queen's University Press, 1989), pp. 193-210.;Peter McCormick and David Elton, The Western Economy and National Unity (Canada West Foundation, 1986). p. 6-7.
(7)  McCormick and Elton, ibid.
(8)  Geffrey Lambert,"Manitoba", in Canadian Annual Review of Politics and Public Affairs, 1986 (Toronto:University of Toronto Press, 1990)., p. 29.
(9)  Alberta Report (June 8, 1987).
(10)  The Reform Party of Canada, The Blue Book, 1991. p. 4.
(11)  Alberta Report (April 15, 1991).

 

むすびにかえて

  本稿では、連邦型国民統合と地域主義の関係について検討する取り組みの一環として、西部カナダの地域主義の展開を考察した。その際、連邦システムという制度的媒介が、地域主義の展開に与える役割に注目すると同時に、制度的バイアスが与えられた地域主義が、全国的コミュニティとの関係で、国民統合問題にどのような反作用を及ぼしているかを検討した。その特徴を要約すると、西部カナダの地域主義とは、地域主義でありながらも、ケベックのような遠心的・分離独立的ベクトルを持っているわけでなく、他の諸州と平等な関係において、全国的コミュニティに包摂されることをと求めてきたという意味において、すぐれて統合的な特質にある地域主義であると言える。その背後には、強力な経済的権力と全国的経済に対する貢献への自負と、政治的権力の欠如というジレンマを見ることができる。したがって、その地域主義的方向性は、すぐれてイントラステイト連邦主義的枠組において展開するところとなり、このベクトルが最も体系的に表現されたのが、「トリプルE型上院」改革案と改革党の登場であった。本稿を閉じるにあたって、カナダの連邦型政治体制と地域主義に影響を与え得ると予想される近年の動向について、若干言及しておこう。
  第一に指摘しておくべきは、改革党の動向である。同党は、一九八八年の補欠選挙において、連邦政党システムへの参入を果たした後、一九九三年選挙において大躍進を果たし、五二議席を獲得した。四年後の一九九七年選挙では、議席数をさらに六〇にまで伸ばし、野党第一党(Her Majesty's Official Opposition)の地位を獲得するまでに至った。重要なのは、こうした急速な発展過程において、改革党は、西部のみならず、広くイギリス系カナダにおいて支持基盤を確立するために、徐々に西部地域色を薄めつつあることである。イギリス系カナダの大票田、オンタリオでは、「トリプルE型上院」というアイテムは、とりわけ不人気である。したがって、改革党は、結党当初に見られた「トリプルE型上院」という地域主義的アイテムよりも、既存政党に対する包括的なポピュリスト的攻勢へと戦略を転換しつつある。すなわち、西部地域主義政党として出発した改革党にとって、地域色の維持と全国政党への発展とは、ある意味、トレードオフ的なジレンマにあると言える(1)
  第二に、より一般的な動向として、北米自由貿易協定(NAFTA)を中心とする北米大陸次元での経済的グローバル化が与える影響について展望することができよう。グローバル化が連邦システムに与える何らかの効果があるとすれば、それは、経済的権限における中央政府の弱体化である。かつての時代であれば、西部地域にとって重視される様々の経済的権限は、総じて、オタワ連邦政府の強固なコントロールのもとにあった。したがって、西部カナダの地域主義は、歴史的に、中央レベルでの政治的影響力を追求するという特質が備わってきたのである。西部地域主義のイントラステイト連邦主義的特質を最も明瞭に示すスローガン、「西部は参加を欲する(the West Wants In!)」は、この点を如実に示している。
  しかし、今日、国際的貿易協定や市場グローバル化の進展は、オタワ連邦政府の経済的コントロール力を大きく制約しつつある(2)。そうなると、西部カナダにとっても、オタワ連邦政府は、「参加の対象」としても、あるいは、制度改革のターゲットとしても、以前ほどの意味は持たなくなる。ただし、注意しなければならないのは、西部においては、ケベックのような分離主義的運動が、グローバル化によって促されるといった事態にはないことである。むしろ、重要なことは、オタワ連邦政府は、かつてのように、地域主義の方向性において、魅力的な改革対象ではなくなるという状況も想定できるということである。したがって、これは、西部カナダ地域主義の方向性を大きく転換させることにもなろう。
  いずれにせよ、こうしたグローバル化が連邦システム全体を、あるいは、そのなかで展開する地域主義をどのように規定しつつあるかということは、今後の重要な検討課題である。

(1)  改革党は、二〇〇〇年一月の党大会において、政権を担い得る右派勢力の再編を、あるいは、より限定的に、オンタリオ州への進出を目指して、「カナダ保守改革同盟(Canadian Conservative Reform Alliance)」へと党を再編した。また、七月の党首交代の後、一一月に実施された連邦総選挙において議席を六七に伸ばし、オンタリオでも二議席を獲得した。
(2)  次を参照のこと。David A Wolfe,”The Emergence of the Region−State, in Thomas J. Courchene, ed., Nation State in a Global/Information Era:Policy Challenges (Kingston:John Deutsch Institute for the Study of Economic Policy, 1997).

※本稿は、平成一〇年度(一九九八年度)、一一年度(一九九九年度)、一二年度(二〇〇〇年度)文部省科学研究費補助金(特別研究員)による研究成果の一部である。