立命館法学 2000年6号(274号) 266頁




一九九八年北アイルランド地方議会選挙の構造



南野 泰義


 

目    次

一  は じ め に

二  地方議会選挙と選挙制度

三  地方議会選挙の動向と結果

四  まとめに代えて




一  は  じ  め  に


  一九九八年四月一〇日に、北アイルランド紛争をめぐる一つの到達点として、「ベルファスト和平合意」(Agreement reached in the multi−party negotiations)が締結された。いわゆる「グット・フライデー合意」(以下、「和平合意」)である。これは、ユニオニストとリパブリカンおよびナショナリストが北アイルランド紛争の処理について協議するために、一九九六年六月に発足した「円卓会議」の到達点を示すものである。かかる「和平合意」の前提には、一九九七年七月にアイルランド共和軍(IRA)によって発表された「無期限の停戦」が大きなきっかけとなったことは言うまでもない。IRAは四月に、「和平合意」について容認する声明を発表し、さらに「和平合意」の賛否をめぐる国民投票が五月二二日に、北アイルランドとアイルランド共和国でそれぞれ実施された。結果は、北アイルランド六郡で七九%、アイルランド共和国で九八%の賛成票が投じられた。かくて、地方政府の設置をはじめとする和平プロセスの具体化に向けて動き出すこととなった。
  「和平合意」文書は、全一一章からなる本文と、付帯文書としての「英国=アイルランド共和国政府間協定」から構成されている。本文には、(1)英国とアイルランド共和国が北アイルランドに対して領有権を主張しないこと、(2)北アイルランドの帰属は将来において、北アイルランド住民の意志に委ねられること、(3)かがる帰属が確定するまで、北アイルランドにカトリック系、プロテスタント系の各政治勢力による権力分有方式の地方政府(Assembly)を置くことなどが明記されている (1)。これは、北アイルランド紛争の解決にむけての前提条件とその枠組みを確定するという性格を超えるものではない。一九九八年六月二六日に実施された北アイルランド地方議会選挙は、「和平合意」文書が示している権力分有方式による地方政府の設置を具体化するという性格を持つものであった (2)
  本稿では、「和平合意」後の北アイルランドにおける政治的展開の方向性と各政治勢力の権力配置を明らかにするための前提として、地方議会選挙結果の示した内容と意味を考察することが目的である。

(1)  The Agreement:Agreement reached in the multi−party negotiations, H.M.S.O, Belfast, 1998, pp. 1-3.
(2)  Brendan O'Leary,”The 1998 British−Irish Agreement:Power−Sharing Plus, Scottish Affairs, No. 26, Edinburgh, 1999, pp. 14-17.


二  地方議会選挙の選挙制度
−単記移譲式比例代表制(PR-STV)

  一九九八年六月二五日、北アイルランド地方議会選挙は実施された。この選挙では、アイルランド共和国で広く実施されている単記移譲式比例代表制(Proportional Representation−Single Transferable Vote、以下、PR-STVとする)が採用された。今回の地方議会選挙では、選挙区は英国総選挙と同じ北アイルランド六郡を一八の選挙区に区分し、全一〇八議席が争われた。
  英国領内で行われる選挙方法は、英国総選挙に代表されるウェストミンスター式小選挙区制(Westminster Plurality)が広く採用されている。近年では、一九九七年に実施されたスコットランドやウェールズの議会選挙、一九九九年に行われたロンドン市長選挙や同市議会選挙などで、移譲式による比例代表制を部分的に組み込んだ方法が採用されている。また、一九九九年に行われた欧州議会選挙では、ドント式による比例代表制が採用されるようになっている。これは、現労働党政権による選挙制度改革の一定の前進を示すものである。しかし、英国下院の英国総選挙では、一八八五年以来、ウェストミンスター式小選挙区制が採られている。かかる選挙方法は、‘First past the post' と呼ばれ、一つの選挙において、過半数に到達していなくとも相対的最多票を獲得した候補が当選者となるというものである。
  他方で、英国の統治下にある北アイルランドでは、英国下院に代表選出する英国総選挙を除いて、比例代表制による選挙が行われるケースが多く見られる。一九八二年の地方議会選挙では、今回と同じ単記移譲式の比例代表制選挙が行われた。また、欧州議会選挙では、英国の選挙のなかで唯一、北アイルランド三議席については、第一回選挙からPR-STV方式が採用されている。五年に一度実施される地方自治体選挙においても、このPR-STV方式で実施されている。一九九六年に実施された円卓会議選挙の場合では、拘束名簿式の比例代表制に加えて、上位一〇位までの政党にそれぞれ二議席ずつ議席配分されるトップアップ方式が補完的に導入されるという変則的な選挙方法で行われた。
  ウェストミンスター型の小選挙区制との比較で、比例代表制について見ると、かかる小選挙区制の場合、効率的な政府運営を可能にするという点で一定の評価を行なうことができるが、他方で、議会の代表性を損なうという問題が存在する (1)。むしろ、比例代表制は、「多数派と少数派の間の”権力の共有”、”権力の拡散”、”権力の公正な配分 (2)”」を保障するシステムとしての特徴を持つものとされている。北アイルランドにおける「和平合意」は、「権力の分有」による地方政府の設置を基本課題として位置づけている。それゆえ、今回の地方議会選挙において、英国国内で広く採用されている小選挙区制選挙ではなく、何らかの比例代表制を用いた選挙が実施された背景には、ユニオニストとナショナリスト/リパブリカンが厳しく対立する北アイルランドの政治情勢を反映して、その勢力配置に配慮した行政運営が求められていたからである (3)
  英国では、すでに述べたが一八八五年の第三次選挙法改正によって、小選挙区制が施行されたが、すでにこの段階で比例代表制を求める動きが存在していた。一八八四年に比例代表協会が設立され、ジョン・スチュアート・ミルらを中心にPR-STVの採用が主張されていた。アイルランドでは、一九一一年にシン・フェイン党(第一次)を結成したアーサー・グリフィスが「アイルランド比例代表協会」を設立させていた。一九二〇年のアイルランド統治法は、英国総選挙において採用されている小選挙区制が少数派を排除する傾向があるとして、移譲式による比例代表制を原則として採用するよう求めていた。南アイルランド(後の共和国)では、この移譲式による比例代表制を採用することに何の抵抗もなく受け入れられ、一九二二年に制定された「アイルランド自由国憲法」には選挙制度としてPR-STVの採用が明記されたることになった (4)
  しかし、北アイルランドにおいては、ジェームズ・クレイグなどオフィシャル・ユニオニスト党(OUP)を中心にして、移譲式による比例代表制に対する反発が大きく、英国型の小選挙区制の採用を求める動きが強かった。その結果、英国政府は、一九二〇年の統治法において、南北アイルランドに比例代表制を導入しようとしたにもかかわらず、北アイルランドにおいては、ストーモントに置かれた地方議会と各行政区の地方自治体議会に限定して比例代表制を採用したのである。それでも、OUPをはじめとするユニオニストの反発は強く、一九二二年に発足した北アイルランド地方政府は北アイルランドで行われるすべての選挙について、小選挙区制を導入しようとした。OUPは一九二五年の選挙に小選挙区制を採用しようと画策したが、一九二九年にようやく比例代表制を破棄し、小選挙区制の導入に踏み切ったのである。同じ年に実施された第三回地方議会選挙は英国型の小選挙区制で行われた。ここに導入された選挙制度は、北アイルランドが英国の直接統治下に置かれ、地方議会が廃止される一九七三年まで続けられることとなった (5)
  OUPが比例代表制の破棄に固執した理由として、英国による北アイルランド地方政府への介入を避ける意図があった。つまり、OUPは、英国政府が南北国境委員会に再統一派を入れることによって、ユニオニストの動きをコントロールしようとするのではないかという疑念があったからである。しかし、北アイルランドにおいて比例代表制が廃止されたのは、一九二五年ではなく、一九二九年であった。比例代表制の廃止と小選挙区制導入が四年あまりずれ込んだ背景には、比例代表制で行われた一九二一年の第一回北アイルランド地方議会選挙で、OUPが五八議席中四〇議席を獲得するというナショナリスト/リパブリカンに対する圧倒的勝利があった。これには、北アイルランドのプロテスタント系とカトリック系に閉じられたコミュニティの高い分極化状況が作用していた。それゆえ、OUPは一九二五年の地方議会選挙に臨むにあたって、小選挙区制の導入をあえて急ごうとはしなかったのである。しかし、一九二五年の地方議会選挙では、コミュニティ間の閉鎖的な分極化状況を利用しきれず、ユニオニストそのものが分裂する中、OUPは労働党と無所属候補に四議席を奪われ、全体として八議席を失ったのである。逆にナショナリスト/リパブリカンは現有議席一二議席を維持する結果となった。こうした選挙結果を受けて、OUPは、北アイルランドの特殊事情を最大限利用し、議会における多数派を維持しうる選挙制度として、小選挙区制への転換を決断したのである (6)
  かくて、小選挙区制の導入は、OUPのストーモント支配を保障するための手段であった。当時の北アイルランド首相ジョージ・クレイグは、「私が議会において求めているもの、この議会で、昔ながらの明快でわかり易い(小選挙区制)システムによって、より良いものを獲得しうると信じているもの、それは、英国との連合に賛成する人々と、連合に反対しダブリン議会に加わろうとする人々である (7)」と小選挙区制導入にあたっての意欲を示したのであった。これに対して、ナショナリストの指導者であるジョー・デブリンは、「こうした行為は、われわれを排除するものではないが、無所属や労働党員を排除するものである (8)」と反論している。
  小選挙区制が導入された一九二九年の地方議会選挙では、無所属や労働党候補は得票を半減させるなか、OUPは五議席を回復し、ナショナリストは一議席を失う結果となった。この選挙で、OUPは二二議席のマジョリティを獲得して、一九二五年に一二議席まで減少したマジョリティを一〇議席回復することができたのである (9)。とくに、注目されることは、小選挙区制導入により、無投票選挙区が倍増したことである。一九二九年選挙では、全選挙区に占める無投票選挙区が二五年選挙の二倍に相当する四二%にのぼったことである。実際、一九二九年から一九六五年まで、平均で四五・九%の選挙区が無投票選挙区となっており、ユニオニストとナショナリストのコミュニティが隣接している選挙区以外は、そもそも選挙にならなかったのである。ここからも、OUPが小選挙区制を導入することにより、いわゆるゲリマンダリングによって北アイルランドのコミュニティの閉鎖的な分極状況を最大限利用しようとし、またそれに成功したことは明らかであった。このことは、同時にユニオニストの支持基盤であるプロテスタント系コミュニティとナショナリストの支持基盤であるカトリック系コミュニティとの分極構造を強化、固定化する作用を持っていたのである (10)
  さて、一九七三年に北アイルランド議会が廃止され、英国の直接統治が開始されたのにともなって、選挙方法も変更されることになった。一九七三年五月三〇日に行われた北アイルランド地方自治体選挙(Local District Council Election)では、小選挙区制ではなく、PR-STVがほぼ五〇年ぶりに復活したのである。
  北アイルランドでは、一九七三年以降、四つの異なるレベルの選挙−英国議会選挙、地方自治体選挙、欧州議会選挙、地方議会選挙−が存在している。すでに述べたが、小選挙区制で実施されている英国議会選挙を除いて、他の三つの選挙はすべてPR-STVで行われている。PR-STVは、ウェストミンスター式小選挙区制とは異なり非常に複雑な制度であるが、また死票をほとんど生まない制度としての特徴を持っているとされている (11)。しかも、現在、この制度を運用しているのは、北アイルランド以外には、おもにアイルランド共和国とオーストラリア、マルタで見られるが、日本などではほとんど馴染みのない選挙方法である (12)
  それゆえ、一九九八年の地方議会選挙を考察する上で、かかる選挙制度について簡単な説明を加えておく必要があろう。まず、その投票方法から見てみよう。一九九八年の地方議会選挙では、北アイルランド全土を英国総選挙の選挙区区分にしたがって一八の選挙区に分けられており、各選挙区に六つの議席が配分されていた。今回のPR-STVのケースでは、基本的に一八五七年に英国のトーマス・ヘアーが提唱した「ヘアー式」に基づいており、政党を選択する名簿式ではなく、有権者は各自一票を各政党の候補者に対して投票する。その場合、有権者がそれぞれ最も好ましいと考える候補者に一位、その次に好ましいと考える候補者は二位と、一位から二位までの順位をつけて投票するのである。つまり、有権者は一回の投票で、複数の候補者を選択することができるのである。アイルランド共和国で行われているPR-STV選挙の場合では、各有権者が一位ないしは二位をつけた候補者の当選確率は、一位が七〇%、二位が七五%−八〇%とされている。PR-STVにおいても、死票が生じることは避けられないが、一位ないしは二位の候補者のいずれかが当選する可能性が高いゆえに、有権者の意思が議会に反映されやすい構造になっている。
  このように投票そのものは平易なものであるが、複雑なのは票集計である。各選挙区で六つの議席をそれぞれ獲得するのに必要な最小限の得票数、当選基数(Quota)がまず設定されなければならない。当選基数の算出方法は、以下のとおりである。当該選挙区の有効投票数を議席数に1を加えた数で割り、この商に1を加えた数が当選基数となる。





たとえば、ミッド・アルスター選挙区の場合では、有効投票数が四九、七九八票であったが、これを「議席定員6+1」で割ると、七、一一四票となり、これに1を加えた七、一一五票が当選基数となる。この当選基数の決定方法は、一八六九年にドループが提唱した「ドループ式」に依拠したものである。この方法は、アイルランド共和国で実施されているPR-STVの当選基数を算出する方法と同じである。
  ここで、北アイルランド地方議会選挙で実施された選挙方法についてまとめておこう。

  (1)  有権者は、当該する選挙区の候補者名と政党名がアルファベット順に記載された投票用紙を一枚手交され、有権者が好ましいと考える候補者について、一位ないしは二位の順位をつけて投票する。

  (2)  当該する選挙区の有効投票数を「議席定員六+一」で割った商に、一を加えた数が当選基数となる。

〔例〕 PR-STVによる集計方法
[議員定数 6,当選基数 8,923](13)
(表1) 第1回集計(第1順位結果)  
候補者名 第1順位得票数 当落
A 7,457
B 6,346
C 8,161
D 4,973
E 12,192 当選
F 10,824 当選
G 5,591
H 3,962
I 1,147
J 1,806

 第1回集計の結果、第1順位得票数によりEとFの当選が確定になった。しかし、まだ4議席定員が満たされていないため、EとFの余剰票が他の候補に移譲される。

 

  (3)  第一位順位票は、候補者毎に集計し、ここで当選基数を上回った場合、その候補者は当選となる。(表1参照)

  (4)  当選者が第一位順位票の集計で議席定員を満たさなかった場合、当選者の余剰票(当選者の第一順位得票数から当選基数を差し引いた票数)および最下位候補者の第一順位得票数が、それに記入されている第二順位の候補者に移譲される。

  (5)  移譲される票の配分は、当選者および次の条件にある候補者の第一順位票にさかのぼって、そこに記入された第二順位候補者について集計し、余剰票を移譲可能票で割った商=移譲値に比例して行われる。この手続を当該選挙区の議席定員が満たされるまで繰り返す。この方式は、グレゴリー方式と呼ばれ、アイルランド共和国で採用されているもので、票の移譲に偶然性が生じないように配慮した方法である。(表2・表3参照)

(表2) 第2回集計(第1回移譲)
〔E余剰票の移譲の場合(余剰票数は3,269)〕

候補者名 第2位順位得票数@ 第2位順位得票数の移譲票数A
A 5,218 42.8 1,399
B 175 1.4 47
C 816 6.7 219
D 0 0.0 0
G 4,408 36.2 1,182
H 693 50.7 186
I 462 3.8 124
J 402 3.3 108
小計 12,192 99.9 3,269

  当選者の余剰票をその他の候補者に移譲する場合,その算出方法は次のとおりである。まず,第1回集計で当選した2人の候補者の全得から第2位順位票の結果を集計し,これをその他の候補者がそれぞれ第2位順位で獲得した得票数について,その余剰票に占める割合に比例して配分すると(表2)のようになる。
  当選者Eの余剰票の移譲について見ると,Eは第1位順位票で12,192票を獲得していた。これから当選基数を引くと,Eの余剰票数は3,269となる。これをその他の候補者に配分することになる。ではどのようにして配分するのか。まず,Eが獲得した第1位順位票12,192票の第2位順位に記入されていた候補者について集計する。これが(表2)の@である。Eの余剰票3,269は全得票数(第2位順位票)12,192と同じ重さを持つように移譲値を算出しなければならない。この場合の移譲値(3,269÷12,192)は0.2681となる。この移譲値に比例してEの第2位順位票からの獲得票数を算出する。Aの場合では,第2位順位に記入されていた5,218票に移譲値をかける(5,218×0.2681)と1,399票となる。これがEからAに移譲された票数となる。


(表3) 第2回集計(第1回移譲)                                                        
候補者 第2回集計の得票数 第1位順位得票数 移譲内訳 当落
E F
A 8,872 7,457 1,399 16
B 8,152 6,349 47 1,759
C 8,380 8,161 219 0
D 5,059 4,973 0 86
G 6,790 5,591 1,182 17
H 4,184 3,962 186 0
I 1,271 1,147 124 0
J 1,937 1,806 108 23

  Eと同じ作業を当選者Fの余剰票についても行い,(表3)のように第2回集計(第1回目の移譲)の結果とする。第2回集計では当選者が出なかったので,次に移譲の対象となるのは,最下位から3番目の候補より得票数の合計が下回るHとIについて,同じ作業を第3回集計において繰り返すのことになる。

(表4) 第3回集計(第2回移譲)                                            
候補者 第2回集計
の得票数
第1位順位
得票数
移 譲 内 訳 当  落
I H
A 9,882 7,457 140 870 当選
B 8,483 6,349 2 329
C 9,092 8,161 674 38 当選
D 5,064 4,973 0 5
G 7,508 5,591 89 629
J 4,580 1,806 368 64

第3回集計では,IとHが最下位より3位のJに対して,2候補の総得票数が下回るため,落選となり,IとHの各得票は移譲の対象となる。この場合も第2回集計と同様に移譲値に比例して他の候補者に票が分配される。その結果,AとCの当選が確定した。それでもすべての議席定員が満たされていないので,続く第4回集計では,ここで当選したAとCの第1順位票からまだ当選が決まっていない候補者に関して第2位順位を集計し,余剰票とする。これを再び当選がまだ決まっていない候補者に移譲値に比例して配分していくのである。

  (6)  各回毎の集計で落選が確定する候補者の条件として、(a)各集計回において当選者が出なかった場合、最下位候補者は落選となり、その得票はすべて移譲の対象となる。(b)各集計回において、当選者が出た場合で、最下位候補者について、当選者の第二位順位票がすべて移譲されたとして、最下位より順位をあげることができる可能性がある場合には、最下位候補者は落選とならず、その得票は移譲の対象とならない。(c)各集計回において、統制者が出なかった場合で、最下位候補者から三番目の候補者より、それぞれの得票数を合算した票数が下回る場合には、最下位候補者と最下位二位の候補者は落選となり、その得票はすべて移譲の対象となる。

  (7)  どうしても当選基数に達する候補者が出ない場合で、次の集計で移譲された票数を加算しても当選基数に達する候補者が出ないことが明らかとなった場合、最も得票数の多い候補者から当選とし、議席定員が満たされる。

  このように、PR-STVは集計方法において複雑な構造を持っている。しかし、この選挙制度を採用する背景には、すでに述べたように、北アイルランドにおける複雑かつデリケートな政治的諸関係が存在している。一九七三年以降、PR-STVによる選挙が北アイルランドで施行されてきた経緯とともに、今回の「和平合意」が追求する権力分有による統治方法を内実化するにあたって、できる限り北アイルランドの政治的勢力分布を反映し、かつ住民意思を反映できる選挙制度を採用することが不可欠の条件でもあった。それゆえ、死票を少なくし、有権者の意図する候補者ができるだけ議席に接近できる方法としてPR-STVが採用されているという点を十分理解しておく必要がある (14)

(1)  P.J. Emerson, Consensus Voting Systems, Belfast, 1991, pp. 21-24. ジョバンニ・サルトーリ『比較政治学』(岡沢憲芙監訳、工藤裕子訳)早稲田大学出版部、二〇〇〇年、六〇ー六二ページ。
(2)  Arend Lijphart, Democracies:Patterns of Majoritarian and Consensus Government in the Twenty−one Counties, Yale University Press, 1984, p. 23.
(3)  Brendan O'Leary, op. cit., pp. 18-19. Paul Norris,”The 1998 Northern Ireland Assembly Election, Politics, Vol. 20, No. 1, London, 2000, p. 42.
(4)  元山  健『イギリス憲法の原理−サッチャーとブレアの時代の中で』法律文化社、一九九九年、二二七ー二二八ページ。
(5)  Paul Mitchell, Rick Wilford (eds.), Politics in Northern Ireland, Oxford, 1999, pp. 67-69.
(6)  Ibid., p. 68.
(7)  Northern Ireland Parliamentary Debate, House of Commons, Vol. 8, Col. 2276, 1927.
(8)  Northern Ireland Hansard, Vol. 10, Col. 451, 5 March 1929.
(9)  Robert D. Osborne,”The Northern Ireland Parliamentary Electoral System:the 1929 Reapportionment, Irish Geography, No. 12, Dublin, 1979, p. 43.
(10)  Ibid., pp. 54-55.
(11)  Paul Mitchell, Rick Wilford (eds.), op. cit., pp. 74-75.
(12)  単記移譲式比例代表制のシステムについては、Paul Mitchell, Rick Wilford (eds.), op. cit., pp. 74-80. を参考にした。
(13)  BBC Online Network:Northern Ireland the Search for Peace, 27 April 1999, http://news.bbc.co.uk/hi/english/static/events/northern ireland/stv/default.htm より作成した。
(14)  Brendan O'Leary, op. cit., pp. 21-22.


三  地方議会選挙の動向と結果


(1)  地方議会選挙の概要
  一九九八年五月の国民投票の結果を受けて、北アイルランド地方議会選挙が実施された。今回の北アイルランド地方議会選挙に参加した主な政治勢力は、アルスター・ユニオニスト党(UUP)、民主ユニオニスト党(DUP)、進進歩ユニオニスト党(PUP)、アルスター民主党(UDP)などのユニオニスト政党、連合党(APNI)や北アイルランド女性連合党(NIWC)などのユニオニスト系諸派、そして社会民主労働党(SDLP)、シン・フェイン党などのナショナリスト政党、その他、労働者党(WP)、労働党(Lab)、共産党(CP)、ユニオニスト系およびナショナリスト系無所属の候補者であった。

  かかる選挙の投票率は七〇%にのぼり、最近、北アイルランドで行われた各種選挙の中でも突出した数字を示している。一九六八年以降、紛争の激化とともに、北アイルランドで行われる各種選挙の投票率は傾向的な低下を経験していた。英国総選挙について見ると、一九七〇年の七七%を最高に、九七年には六八%まで低下している。また、北アイルランドの地方自治体選挙では、一九七三年の六五%から一九九六年の六五%まで低下して

(表5)1998年北アイルランド地方議会選挙結果
政 党 名 第1位順位 得票率(%) 議席数
社会民主労働党 SDLP 177,963 21.99 24
アルスターユニオニスト党 UUP 172,225 21.28 28
民主ユニオニスト党 DUP 146,989 18.03 20
シン・フェイン党 SF 142,858 17.65 18
連 合 党 APNI 52,636 6.50 6
連合王国ユニオニスト党 UKUP 36,541 4.52 5
進歩ユニオニスト党 PUP 20,634 2.55 2
北アイルランド女性連合党 NIWC 13,019 1.61 2
ユニオニスト系諸派 Ind. U 23,127 3.00 3
アルスター民主党 UDP 8,651 1.07 0
そ の 他
15,674 1.8 0
合 計 810,317  100.00  108

有権者数 1,178,556  無効投票数 14,074  投票数 824,319  投票率(%) 68,76  有効投票数 810,317
(出典) The Office of the Chief Electoral Officer for Northern Ireland のデータより作成。


いた。それゆえ、こうした投票率の低下傾向のなかで、一九九八年の地方議会選挙はまずまずの数字を記録することができた。これは、今回の「和平合意」を具体する地方議会として、地域住民の期待を示すものであった (1)
  今回の地方議会選挙では、「和平合意」に支持する姿勢を示していた各政党の得票率は、七五%にのぼった。これは、「和平合意」の是非をめぐる国民投票において、「和平合意」に対する支持は七一%であったのに対して、四ポイント上昇したことになる。この結果、地方議会一〇八議席のうち八〇議席を「和平合意」支持派の諸政党によって占められることになった。その内訳は、表5によると、UUPが二八議席、SDLPが二四議席、シン・フェイン党が一八議席、APNIが六議席、NIWCが二議席、PUPが二議席を獲得した。他方で、「和平合意」に反対の姿勢をとる各政党は全体の二八議席を獲得している。その内訳は、DUPが二〇議席、UKUPが五議席、ユニオニスト系諸派が三議席であった (2)

(2)  ユニオニスト票の動向
  今回の地方議会選挙には、ユニオニスト系候補者は、「和平合意」支持勢力として、UUPとこれに同調するPUP、APNI、NIWC、その他に数名の無所属候補が立候補した。「和平合意」反対勢力として、DUP、UKUP、UDP、その他に諸派・無所属候補が立候補した。ユニオニスト系候補者が獲得した票数は四七五、四二〇票であったが、そのうちUUPなど「和平合意」支持派は二五九、一四五票であり、DUPなど「和平合意」反対派は、二一六、二七五票であった。これは有効投票総数の五八・六%をユニオニスト系候補者が獲得したことになる。
  地方議会選挙における議席獲得数からすると、UUPが第一党の地位を獲得したことになる。しかし、投票結果の内容を見ると、第一位に好ましい政党として最多得票を得たのはSDLPであり、UUPは第二位であった。しかも、九〇年代に入ってからの各選挙での得票に比べて、UUPは大きく後退したのであった。一九九二年の英国総選挙でUUPは三四・五%の支持票を獲得している。その後、傾向的な支持票の低下を示しつつも、一九九七年の英国総選挙では三二・七%の支持を獲得していた。
  今回の地方議会選挙では、第一位政党としては二一・三%の支持と激減し、議席数では第一党となったものの、SDLPに後れをとる結果となった。また、この結果は、一九二〇年以降、北アイルランドという枠組みの中での選挙では、UUPは第一位に好ましい政党として、少なくとも過去一〇年間で最低の得票となった。UUPは地方議会における議席数では第一党を占めるにいたった。しかし、議会における「和平合意」支持派ユニオニストに占めるUUPの比率は、二五・九%にとどまり、ユニオニスト系全議員に占める比率も四二・四%と過半数を得ることができなかったのである。選挙全体としては、「和平合意」支持派が七一・八%の得票率を獲得したが、殊にユニオニスト・サイドにおいては、「和平合意」支持派のUUPが過半数割れの状況となり、ユニオニスト内部における影響力を低下される結果となった。
  こうした結果となった原因には、当然、「和平合意」をめぐるUUPの政治方針がプロテスタント系住民に十分浸透し得なかったという見方もあるが、もう一つの重要な点として、あとで述べるが、今回の選挙がPR-STVで行われたことがあげられる。
  第一位順位政党への投票について、その構成を見ると、「和平合意」支持派の中で、主流派のUUPが獲得した支持票は二五・一%であったのに対して、「和平合意」反対派のユニオニストは二五・五%の支持票を得ているのである。こうした結果から、アイリッシュ・タイムスは、六月二七日付けの紙面で、ユニオニスト支持の有権者の投票行動は、明らかに「和平合意」支持から反対へとシフトしていると指摘している (3)。だが、UUPはPR-STVに救われた側面もある。つまり、UUPは、第二位順位の政党として獲得した票の移譲によって、第一位順位では二一・三%の議席しか獲得できていなかったものを、二五・九%まで拡大することに成功したのである (4)
  また、UUPと同調した行動をとっていたデビット・アーバインとビリー・ハッチンソンを指導者とするPUPは二議席にとどまっていた。ただし、このことは、「和平合意」支持派のユニオニスト・ブロックとしてみると、UUPとあわせて二七・七%となる。しかし、UUP党首のデビット・トリンブルが選挙前に、「和平合意」の推進のためにはユニオニスト票の七〇%を支持票として獲得する必要があるとしていた (5)。UUPと同調した動きを採らないまでも「和平合意」に支持を表明している部分を含めると、ユニオニスト票の五八%を獲得するにとどまったのである。

(表6) 1998北アイルランド自治議会選挙における各勢力比較
政治勢力 得 票 数 第1位順位
得票率(%)
議席数 議席占有率(%)
ユニオニスト 支持派 259,154 31.9 38 35.1
反対派 216,275 26.7 28 25.9
ナショナリスト 323,438 39.9 42 38.8
そ の 他 11,459 1.4 0 0.0
合 計 810,317 99.9 108 99.8

(出典) 表5より作成。


しかし、それは全体の三一・九%に過ぎなかったのである。(表6参照)
  今回の選挙で、「和平合意」支持派のユニオニストのなかで党勢を拡大したのは、UUPには同調しないまでも「和平合意」支持派を構成する北アイルランド女性連合であった。また、北アイルランド女性連合は、北アイルランドでも裕福な中間階層を組織する穏健なユニオニスト系の政党であるが、一九九六年の円卓会議選挙より〇・五七ポイント支持を伸ばして、ベルファスト南部地区でモニカ・マクウイリアム女史、北ダウン地区でジェーン・モリス女史の二議席を獲得している。同じく穏健派ユニオニストの連合党も六議席を獲得している。
  他方で、「和平合意」反対派のユニオニスト各党は、いずれも一九九六年の円卓会議選挙時よりも得票率を低下させている。イアン・ペイズリー師を指導者とするDUPは、一九九六年の選挙より七ポイント後退し、二〇議席の獲得にとどまった。この結果を受けて、副党首のピーター・ロビンソンは更迭されている。また、武装グループのアルスター防衛協会(UDA)/アルスター自由戦士(UFF)と密接な関係を持つUDPは、反対派の中でもっとも強硬派とれており、議会そのものを認めない立場にあった。今回の選挙では、ロイヤリスト系武装勢力と強い関係を持つことから、一九九六年より五、〇〇〇票あまり得票を減らしている。
  しかし、唯一「和平合意」反対派の中で、ボブ・マッカーシー率いるUKUPは、その得票率を一九九六年円卓会議選挙の三・六九%から四・五%と八ポイントあまり上昇させ、絶対獲得票数も一九九六年の二七、七〇〇票から三六、五〇〇票に伸ばしているのである。その結果、五つの議席を獲得するに至った。「和平合意」反対派の票の動き見ると、DUPを中心として、強硬派のUDPが支持層の選挙ボイコットもあいまって得票率を低下させる中、DUP支持票が穏健派のUKUPに流れたことが、UKUPの党勢拡大につながったと考えることができる。つまり、ナショナリストに対する妥協を心良しとしないユニオニスト系有権者の側で、「和平合意」そのものには反対の意思を持つものの、武装闘争の継続には「ノー」を示す結果となったのである (6)
  地方議会選挙におけるユニオニスト票の動向を見てみると、ユニオニスト政党は全体として五四・五%の票を獲得している。この数字は、一九九二年英国総選挙の五六・三%、一九九三年地方自治体選挙の五四・三%、一九九六年円卓会議選挙の五七・六%、一九九七年英国総選挙の五四・三%、一九九七年地方自治体選挙の五三・二%と比べても、大きな変動を示すものではない。ユニオニストは北アイルランドにおける基礎票を概ね動員することができたと言える。しかし、第一位順位票の移譲状況を見ると、UUPからPUPに移譲された余剰票は四三%であったが、PUPから連合党に移譲された余剰票も二〇%にのぼっている。また、UUPからSDLPに三六%の余剰票が移譲されている。さらに、UUPの支持者が第二順位に「和平合意」反対派を選択しているケースも多く見られるのである。たとえば、南ダウン選挙区では、UUPの余剰票のわずか一二%がSDLPに移譲され、七五%がDUPなどの「和平合意」反対派に移譲されているのである。つまり、UUPからDUPなどの「和平合意」反対派へ大量の余剰票が移譲されているように、UUPの支持票を「和平合意」支持に組織することが十分できていなかったと言える (7)
  そうすると、ユニオニスト系各党の得票率の変動から推測するに、ユニオニスト支持票のなかで、(i)武装闘争の継続を認めるか否か、(ii)「和平合意」に支持か反対かの二つの選択肢をめぐって票が移動したと考えられる。その結果、「和平合意」反対派が党勢を後退させたのと対応して、UUPのユニオニスト内での影響力の低下が顕著になったと言えよう。今回の選挙は、「和平合意」支持派が三〇議席(UUP、PUP)、反対派が二五議席(DUP、UKUP)、そして「和平合意」に支持の姿勢をとりつつも、UUPと同調しない連合党、北アイルランド女性連合が八議席というように、北アイルランドにおけるユニオニストが必ずしも一枚岩ではないことを示すと同時に、かかる紛争の複雑な勢力間関係を浮き彫りにする結果となったと言える (8)

(3)  ナショナリスト/リパブリカン票の動向
  次に、ナショナリストについて見ると、今回の選挙に参加した政党は基本的に「和平合意」支持の立場にあった。地方議会選挙に参加したナショナリスト系候補者は社会民主労働党(SDLP)、シン・フェイン党の二党と諸派一名の無所属一名であった。ナショナリスト系候補者が獲得した票数は三二一、三四九票であったが、そのうちSDLPとシン・フェイン党だけで、その九九・八%にあたる三二〇、八二一票を獲得している。これは有効投票総数の三九・六%をこの二つの政党で分け合ったことになる。これは、一九九二年英国総選挙の得票数二六二、七〇〇票、得票率三三・五%を大きく上回る数値であり、これまで北アイルランドで行われた選挙のなかで、ナショナリストが獲得した最大の得票数と得票率であった。このことは、PRーSTVで行われた選挙に対するカトリック系住民の信頼感が高まったことを示すとともに、とくにIRAの無期限停戦の継続とシン・フェイン党を介した政治闘争への信頼が得られたことによる政治的局面における紛争解決への期待の高まりを示すものでもあった (9)
  この選挙で、SDLPは第一位順位政党として二一・九九%の支持票を獲得し、二四議席を占めるに至った。SDLPは獲得議席について、結果として第二党となったが、副首相のポストを得ることに成功したのである。しかし、今回の地方議会選挙での結果は、必ずしもSDLPにとって、大勝利とは言えるものではなかった。SDLPが獲得した二二・九九%の得票率は、一九九六年の円卓会議選挙の結果よりも〇・六三ポイント増加し、得票数でも一六〇、七八六票の躍進を見たのである。しかし、一九九二年以降の北アイルランドで行われた各種選挙における得票率の推移から見て、これらの数値は、平均的なものでしかなかったのである。とくに、党首のジョン・ヒュームの地盤であるフォイル選挙区のほか、南ダウン選挙区とニューリー及びアーマー選挙区で第一党になった以外は、得票率を低下させている。
  この選挙では、ナショナリスト票が過去最大を記録する中で、ナショナリスト政党第一党を自負してきたSDLPは、平均的な得票率しか得ることができなかった。他のナショナリスト政党について見てみると、ナショナリスト政党第二党であるシン・フェイン党は、今回の選挙で、一九九六年円卓会議選挙よりも二・一ポイント、二六、四八一票も得票を伸ばすことに成功している。この結果、SDLPとシン・フェイン党との勢力上の格差は、一九九六年の六〇対四〇から五五・五対四五・五に縮まったということできる (10)。そして、カトリック系住民の人口比率の高いバン川の以西の各選挙区で第一党ないしに第二党を争う政党として踊り出たのである。とくに、西ティーロン選挙区では、シン・フェイン党は一九九七年の英国総選挙より六ポイント得票率を延ばし、三四・一%を獲得して第一党となった。その結果、DUPのオリバー・ギブソンに次ぐ得票を獲得し、パット・ダハティが第一順位で当選を確実にしたのをはじめ、第九回集計でバリー・マクエルダフを当選させたのである。この選挙区は、カトリック系住民の割合が高いにもかかわらず、一九九七年英国総選挙でSDLPとシン・フェイン党にナショナリスト票が割れたため、UUPのウィリアム・トンプソンが議席を獲得していた。
  また、ミッド・アルスター選挙区では、一九九七年の英国総選挙でシン・フェイン党ナンバー2のマーチン・マクギネスを当選させた実績から、四〇・七%の最多得票率を獲得し、第一順位で当選を果たしたマクギネスのほか、第六回集計でフランキー・モーローとジョン・ケリーの三名の当選者を出すことに成功したのである。注目すべき選挙区として、ベルファスト北地区がある。ここは、プロテスタント系住民が多数派を占める選挙区である。この選挙では、DUP、SDLP、シン・フェイン党の三党がともに得票率二一%で競り合い、僅差でシン・フェイン党が第一党となったのである。シン・フェイン党の場合、カトリック系住民が多数派を占めている選挙区ないしは宗派上の人口比率が接近している選挙区で強さを見せている。カトリック系住民が九〇%を超えるベルファスト西地区選挙区では、五八・九%の得票率で四議席を獲得した。この選挙区は他の二議席をSDLPが獲得し、ナショナリスト政党が独占するという結果となった。
  だが、全体の傾向からすると、ベルファスト西地区は例外的な選挙区である。なぜなら、ナショナリスト政党が順調に票を伸ばしている選挙区では、その対抗馬として「和平合意」反対派ユニオニスト政党が票を伸ばしているという傾向が見られるからである。たとえば、ミッド・アルスター選挙区では、第一位順位集計で、シン・フェイン党のマーチン・マクギネスが当選したが、同時に、DUPのウイリアム・マックレア師が第一位順位最多得票で当選している。また、フォイル選挙区でも、ナショナリスト政党が五議席を獲得する中、反対派のDUPが一議席すべり込んでいる。こうした傾向は、西ティーロン選挙区やベルファスト北地区選挙区でも見られる。その場合、「和平合意」支持派ユニオニストUUPが苦戦を強いられているという傾向がある。かかる現象の背景として、ナショナリスト政党が強力な選挙区ほど、プロテスタント系住民とカトリック系住民との対立関係が厳しいという実態を反映したものと考えられるのである (11)
  シン・フェイン党は選挙全体として見れば、第一位順位政党としては第四党の一七・六%の得票率であった。だが、九〇年代に入ってからの北アイルランドにおける各種選挙では、ほぼ一〇%政党の地位でしかなかった。シン・フェイン党がはじめて選挙に参加したのは一九八三年のことであるが、当時、その支持基盤はフォールス街を中心とするベルファスト西地区選挙区に限られたものであった。しかし、一九九四年のIRAによる無期限の停戦宣言によって、シン・フェイン党への支持票は傾向的な増加を示している。停戦後に行われた一九九六年円卓会議選挙では、一五・五%と一九九三年地方自治体選挙より二・一%も得票率を拡大している。そして、一九九七年英国総選挙では一六・一%、一九九七年地方自治体選挙では一六・九%、そして今回の地方議会選挙では一七・六%と着実に得票率を拡大しているのである。
  だが、さらに注目すべてき重要な点は、シン・フェイン党が今回の地方議会選挙に臨むにあたって、提起した選挙戦略である。ジェリー・アダムズ党首は、選挙綱領の冒頭で、今回の地方議会選挙をヒューム=アダムズ会談、IRAの無期限停戦宣言とともに、北アイルランド政治を転換し、和平を実現する重要な機会と位置づけ、「和平合意」支持勢力の勝利とナショナリストの団結を呼びかけている (12)。かかる選挙綱領によると、シン・フェイン党は、今回の選挙について、「和平合意」を支持するか否かの選挙であると位置づけ、自らが最も「和平合意」を推進し、平和的な紛争解決を目指す立場にある政党であることをスローガンとして掲げた。そして、党の独自の路線を全面的に強調するのではなく、むしろ「和平合意」支持派への投票を呼びかけたのである。つまり、第一順位票でなくとも、第二順位票でもよいという戦術を採用したのである (13)
  事実、第一順位票において、当選したのはシン・フェイン党の地盤であるベルファスト西地区選挙区とミッド・アルスター選挙区に限られており、残りの一六の議席はすべて第二位順位票の移譲の結果に拠るもであった (14)。「和平合意」支持派への投票を訴えることにより、第二位順位票を取り込むことで相対的に支持基盤の弱い選挙区での複数当選を目指したのである (15)。それゆえ、ベルファスト北地区選挙区(集計回数一一)で一〇回目、ベルファスト西地区選挙区(集計回数一〇)で一〇回目、ファーマナー及び南ティーロン選挙区(集計回数一〇)で九回目、フォイル選挙区(集計回数八)で八回目、ニューリー及びアーマー選挙区(集計回数八)で八回目、ミッド・アルスター選挙区(集計回数六)で六回目、西ティーロン選挙区(集計回数九)で九回目など、集計回数の終盤に当選基数に滑り込むことに成功した選挙区は七選挙区にのぼり、ベルファスト西地区、ミッド・アルスター、フォイル、ファーマナー及び南ティーロン、西ティーロン、ニューリー及びアーマーの六選挙区(いずれも移譲回数の終盤に二人目ないしは三もしくは四人目の当選者を滑り込ませている)で複数当選を果たしたのである。
  シン・フェイン党は、複数の候補者を立てた選挙区において、一人の候補者を当選させるにあたって、シン・フェイン党支持票の八七%がもう一人のシン・フェイン党候補者から移譲されている。また、シン・フェイン党がSDLPの候補者から移譲された票は、SDLP支持票の四五%にのぼっている。逆に、シン・フェイン党が一人しか候補者を立てなかった場合には、六八%のシン・フェイン票がSDLPに移譲されている。これは、他の政党に比べ最も高い比率を示すものであり、支持票の組織化に最も成功した政党と言えよう。すなわち、シン・フェイン党は、今回の地方議会選挙が採用したPR-STVなる選挙制度を十分に活用したことが、選挙結果に反映されていると言えるのである (16)

(4)  一九九八年地方議会選挙と一九九七年英国総選挙との比較分析
  次に、一九九七年五月の英国総選挙と一九九八年六月の地方議会選挙について、それぞれの投票結果を比較してみると、UUPは、一九九七年の英国総選挙では三二・七%の得票率を得ていたが、一九九八年の地方議会選挙では、

(表7)90年代における北アイルランド各種選挙での各政党の得票率
政 党 名 1992年 1993年 1996年 1997年 1997年 1998年
英国
総選挙
地方自治
体選挙
円卓会議
選挙
英国
総選挙
地方自治
体選挙
自治議会
選挙
アルスターユニオニスト党 UUP 34.5 29.4 24.2 32.7 27.8 21.3
社会民主労働党 SDLP 23.5 22.0 21.4 24.1 20.7 22.0
民主ユニオニスト党 DUP 13.1 17.3 18.8 13.6 15.6 18.1
シン・フェイン党 SF 10.0 12.4 15.5 16.1 16.9 17.6
連 合 党 APNI 8.7 7.6 6.5 8.0 6.6 6.5
連合王国ユニオニスト党 UKUP 3.7 0.5 4.5
進歩ユニオニスト党 PUP 3.5 2.2 2.5
北アイルランド女性連合党 NIWC 1.0 0.5 1.6

(出典) Paul Norris, "Northen ireland Assembly Election," Politics, Vol.20, No.1, p.40 より。


二一・二八%と一一ポイントあまり減少しているのである。
  選挙制度との関連で、UUPの得票率を見てみると、明らかに一つの傾向がある。五年に一度実施される英国総選挙では、UUPは三〇%台の支持票を獲得しているのであるが、北アイルランド地方自治体選挙では、二〇%台の支持票しか獲得しておらず、その格差は一〇ポイント程度もある。ここには、選挙制度の相違という問題がある。つまり、英国総選挙の場合、周知のように、ウェストミンスター方式といわれる小選挙区制で投票が行われている。これに対して、地方自治体選挙では、連合王国内では例外的にPR-STVで実施されているのである。すなわち、UUPの場合、表7が示しているように、小選挙区制による選挙では集票力を持っていると言える。しかし、PR-STVで行われた場合は、明らかにその集票力を低下させているのである。つまり、UUPは選挙制度との関連で言うと、小選挙区制で行われる英国総選挙では強く、PR-STVで行われる北アイルランド地方選挙では集票力を低下させるという特徴を持っていたのである。
  また、北アイルランドにおいて第二党の影響力を持つとされるナショナリストのSDLPが獲得した二二・九九%の支持票は、一九九七年の英国総選挙よりも一・九ポイント後退したものであった。また、一七七、九六三票という得票数も、一九九七年英国総選挙での一九〇、八四四票より一二、八八一票も減らしているのである。SDLPの場合は、選挙制度との関連では、小選挙区制かPR-STVかに問わず、二〇%台の得票率を維持している政党である。むしろ、小選挙区制で実施された選挙の方が、一ポイントから二ポイント程度その得票率を上げている傾向がある。この点で、UUPとSDLPは小選挙区制のもとで、北アイルランドにおける二大政党制の対抗軸を形成してきた政党であるということができる。しかし、多党制にもとづいたPR-STVのもとでの選挙では、その集票力を十分に発揮できないという傾向を示していると言える (17)
  他方で、DUPは九〇年代に北アイルランドで行われた各種レベルの選挙では、PR-STVをはじめする比例代表制で行われた選挙において、小選挙区制で行われた選挙より三ポイントから四・五ポイント程度その集票力を増しているのである。一九九七年の英国総選挙と一九九八年の地方議会選挙を比較すると、一九九七年が一三・六%であったのに対して、一九九八年では一八・一%と四・五ポイントも増加させているのである。
  また、シン・フェイン党の場合も同様の傾向を示している。シン・フェイン党は、一九九八年の地方議会選挙で、過去最高の一七・六%の得票率をあげたが、これは、一九九七年の英国総選挙と比較して、一・五ポイントの増加を示す数字である。小選挙区制で実施された一九九二年英国総選挙とPR-STVで実施された一九九三年の地方自治体選挙との比較でも、後者の選挙で二・四ポイントの増勢を見ている。また、一九九七年の英国総選挙(五月一日実施)と同年五月二一日に行われた地方自治体選挙とを比較すると、後者の選挙で〇・八ポイント増勢を示しているのである。
  しかし、一九九八年の地方議会選挙と一九九七年の英国総選挙を比較する場合、選挙制度の違いがあり、得票数お

(表8)1998年北アイルランド地方議会選挙について,「小選挙区制」採用した場合の試算
政党名 1997年英国総選挙 1998年自治議会選挙 小選挙区制を採用した場合の増減
小選挙区制 単位移譲式比例代表制 小選挙区制
得票数 得票率 議席数 得票数 得票率 議席数 議席数(試算)
UUP 258,439 32.7 10 172,225 21.28 28 9 −1
DUP 107,348 13.6 2 146,989 18.03 20 2 ±0
SDLP 190,844 24.1 3 177,963 21.99 24 3 ±0
SF 126,921 16.1 2 142,858 17.65 18 4 2
PUP 202,634 2.55 2 0 ±0
UKUP 12,817 1.6 1 36,541 4.52 5 0 −1
UDP 8,651 1.07 0 0 ±0
APNI 62,972 8.0 0 52,636 6.50 6 0 ±0
NIWC 3,024 0.4 0 13,019 1.61 2 0 ±0
Ind.Unionists 23,127 3.00 3 0 ±0
総議席数 18 108 18

(出典) Irish Political Studies, Vol.13, 1998 and Vol.14, 1999 の Data Section より作成。


よび得票率に見られる数値から、党勢の比較をおこなうだけでは十分ではない。ここで、一九九八年の地方議会選挙について、小選挙区制が採用されたものと仮定して、試算として再集計し、地方選挙時点での各政党の勢力関係を見ることにする。
  まず、一九九八年の地方議会選挙が小選挙区制で行われたとする。その場合、一九九七年の英国総選挙と一九九八年の地方議会選挙は、選挙区の区割りについてはまったく同じであることから、各党が一八の各選挙区に一名の候補者を立てたものと仮定して、各選挙区における各党の第一順位得票数から当落を試算してみた。その結果は表8が示しているように、UUPが九議席、DUPが二議席、SDLPが三議席、シン・フェイン党(SF)が四議席となった。一九九七年との対比でその獲得議席数の増減を見てみると、UUPが一議席減、DUPが増減なし、SDLPも増減なし、シン・フェイン党が二議席増、UKUPが一議席減となった。そして、PR-STVを採用した場合に、六議席を獲得したAPNIと二議席を獲得したNIWC、三議席を獲得したユニオニスト系無所属候補は議席を得ることができなかった。
  まず注目されるのは、得票数は第一党となったSDLPが三議席にとどまったのに対して、得票数第二位のUUPは、一九九七年より一議席減となったが一八議席中九議席を獲得し、議席の五〇%を占めていることである。また、この試算によると、議席を失ったベルファスト北地区選挙区と西ティーロン選挙区を除いて、すべて一九九七年の英国総選挙で議席を獲得した選挙区で、議席を得ているのである。この数字は、UUPが地方議会選挙でも、プロテスタント系コミュニティの閉鎖性を利用した選挙を展開していたことを裏付けるものである。同様の傾向がSDLPにも見られるのである。SDLPの場合も、フォイル選挙区、南ダウン選挙区、ニューリー及びアーマー選挙区と、一九九七年英国総選挙で議席を獲得した同じ選挙区で議席を得ているのである。DUPについても、アントリム北地区選挙区とベルファスト東地区選挙区で議席を得ており、一九九七年の英国総選挙で得た議席を守った形になっている。
  これに対して、シン・フェイン党の場合は、党の地盤であるベルファスト西地区と一九九七年の英国総選挙で議席を獲得したミッド・アルスター選挙区で議席を得ている一方で、西ティーロン選挙区とベルファスト北地区選挙区で議席を得ている。西ティーロン選挙区は一九九七年の英国総選挙でUUPのウイリアム・トンプソンが議席を獲得した選挙区である。とくに、注目すべきは、ベルファスト北地区選挙区である。この選挙区は、一九九七年の英国総選挙でUUPのセシル・ウォーカーが議席を獲得しており、一九八三年の英国総選挙以来、UUPが議席を守りつづけるなど、ユニオニストがこれまで議席を独占してきたところである。この選挙区における一九九八年の地方議会選挙での第一位順位票を見ると、UUPが四、四七九票、DUPが八、七六四票、SDLPが八、六六一票、シン・フェイン党が八、七七五票となり、一一票差の非常な僅差ではあるが、シン・フェイン党が第一党となっているのである。
  この場合、一九九七年の選挙で二一、四七八票を獲得したセシル・ウォーカーが一九九八年の地方議会選挙への出馬を見合わせたこともあり、UUPの票が伸びなかったという見方もできる。しかし、一九九七年の場合は、DUPが候補者擁立を断念し、DUP票がウォーカーに流れたと言われているが、今回のように投票率が一九九七年より一・六七ポイント上昇している中で、UUPとDUPを合わせたユニオニスト票が一三、二四三票と八、〇〇〇票あまり減少している。他方、シン・フェイン党は一九九七年より五%程度も得票を伸ばしているのである。これは、ベルファスト北地区という強硬派のユニオニストの影響力が強い選挙区で、リパブリカンのシン・フェイン党が第一党になったことは、シン・フェイン党がこれまでのようにカトリック系コミュニティを支持基盤として選挙を戦ってきたスタイルを、PR-STVの特性を生かすことにより政策提示型の選挙戦を闘うスタイルに転換しつつあると見ることもできよう。
  いずれにしても、一九九八年の地方議会選挙の結果は、UUPがユニオニスト内での影響力を低下させている一方で、シン・フェイン党の躍進が際立ったものとなった。このことは、ナショナリスト内部におけるSDLPの影響力を侵食するとともに、和平プロセスにおけるシン・フェイン党の交渉力を高める作用を持つものと考えられる。

(1)  Paul Norris, op. cit., p. 39.
(2)  一九九八年北アイルランド地方議会選挙の投票結果については、CAIN Web Service: http://cain.ulst.ac.jp/issues/politics/election/ra1998.htm および Irish Times on the Web: http://www.ireland.com/special/peace/assembly/result/index.htm のデータに依拠した。
(3)  Irish Times, 27 June 1998.
(4)  Brendan O'Leary,”The 1998 British−Irish Agreement, op. cit., pp. 18-19.
(5)  Paul Norris, op. cit., p. 40.
(6)  Sydney Elliott,”The Referendum and Assembly Elections in Northern Ireland, Irish Politics Studies, Vol. 14, Belfast, 1999, pp. 148-149.
(7)  John Doyle,”‘Towards a Lasting Peace'?;the Northern Ireland Multi−Party Agreement, Referendum and Assembly Elections of 1998. Scottish Affairs, No. 25, Edinburgh, 1998, pp. 18-19.
(8)  Ibid., p. 18.
(9)  Ibid., pp. 15-16.
(10)  Brendan O'Leary,”Party Support in Northern Ireland, 1969-1989, in John McGarry and Brendan O'Leary, The Future of Northern Ireland, Oxford, 1990, p. 347.
(11)  Paul Norris, op. cit., p. 41.
(12)  Gerry Adams,”For Real Change Building a New Ireland, in Manifesto;Ready for Government, Introductory Letter from Gerry Adams MP, June, 1998. Dublin, http://sinnfein.ie/documents/98manifesto/left.html より。
(13)  Sinn Fein, Manifesto;Ready for Government, June 1998, Dublin, pp. 1-5. http://sinnfein.ie/documents/98manifesto/left.html より。
(14)  Paul Norris, op. cit., p. 42.
(15)  Brendan O'Leary,”The 1998 British−Irish Agreement, op. cit., p. 18.
(16)  John Doyle, op. cit., p. 17.
(17)  P.J. Emerson, Beyond the Tyranny of the Majority:Voting Methodologies in Decision−making and Electoral System, Belfast, 1998, pp. 2-4, 41-42, 70-73.


四  まとめに代えて


  最後に、九〇年代に北アイルランドで行われた各種選挙の結果について、各政党の勢力分布の変容を選挙制度の相違から見た場合、北アイルランドにおける投票行動に見られる選択肢に二重の構造が存在する。第一は、小選挙区制を採用した場合である。つまり、英国との連合をめぐって、ユニオニストかナショナリストかという北アイルランド政治の大きな枠組みを問う選択肢が設定されるケースである。この場合、ユニオニストの主流派を支えるUUPとナショナリストの伝統を継承するSDLPが大枠で支持を二分する形で選挙戦が闘われることになる。それゆえ、この二つの政党は、こうした大枠の選択肢が争点となる小選挙区制において最も集票力を発揮することができると考えられるのである。
  第二は、PR-STVを採用した場合である。つまり、ユニオニストおよびナショナリストが、それぞれ体内的に抱えている対立関係が反映して、個々に選択肢が設定されるケースである。一九九八年の地方選挙の場合では、「和平合意」の推進か反対かが重要な争点となった。この場合、ユニオニストについて言えば、穏健派ユニオニストであるUUPと強硬派ユニオニストであるDUPの間にある路線対立が、「和平合意」の推進か反対かをめぐって、政党選択にあたっての争点として浮かび上がってきたのである。他方、ナショナリストの場合も、穏健なナショナリストの立場にあるSDLPとリパブリカンとして急進的なナショナリストの立場に立つシン・フェイン党とのあいだにある路線対立が、同様の争点をめぐって、政党選択を左右したのである。すなわち、多党制を容認するPR-STVの場合、ユニオニストとナショナリストのという大きた枠組みを提供する対抗軸ではなく、さらにそれぞれの勢力が内包する路線や立場から生ずる対立関係が投票行動に直接反映する構造を持っていたのである。
  かくて、一九九八年北アイルランド地方議会選挙の結果、「和平合意」支持派が八〇議席、反対派が二八議席と、「和平合意」支持派が七四%の議席を占有することになった。しかし、ユニオニスト系「和平合意」支持派の第一党であるUUPは二八議席に止まり、UUPに同調するPUPの二議席をあわせたとしても三〇議席でしかなく、反対派のDUPとUKUPを合わせた二八議席とユニオニスト内部における勢力関係は伯仲する状況となった。また、ナショナリスト陣営についても、基本的には「和平合意」支持で一致しているものの、SDLPとシン・フェイン党との勢力格差は、大きく縮小される結果となった。それゆえ、今回の選挙結果は、UUPとSDLPが各々ユニオニストとナショナリストの主流派として、それぞれの陣営の中で実質的な影響力を低下させるなかで、武装闘争路線から政治闘争路線に転換したシン・フェイン党が政治闘争の場において第三の政治勢力として影響力を持ちつつあることを示すものであった。その背景には、北アイルランド有権者のなかに、プロテスタントとカトリックとの間の武力抗争の終結と平和的な政治的解決の期待が高まっていたことがあげられるが、もう一つ重要なことは、PR-STVなる選挙制度によるところが大きい。つまり、PR-STVという特殊な選挙制度が北アイルランド有権者の微妙に異なる意思を反映させ、「和平合意」の基本理念である権力分有体制の構築にあたって、効果的に作用したということである。その意味で、改めて言うまでもないが、選挙制度のあり方が政治権力のあり方を左右するという事例を今回の北アイルランド地方議会選挙は示していると言えるであろう。

[なお、本稿は、二〇〇〇年度文部省科学研究補助金(基盤研究C)による成果である。]