立命館法学 2000年6号(274号)30頁




初期蘇峰と「平民主義」の挫折

- 再改正される模範会社法からの示唆 -


米原 謙


 

 

は  じ  め  に

  よく知られているように、徳富蘇峰は日清戦争を契機にその思想的立場を急角度に転換した。蘇峰はそれを「平和主義より帝国主義に進化した(1)」と説明している。蘇峰自身が告白しているように(2)、戦争と三国干渉が、かれのいう「進化」の重大な契機になったのは確かである。しかしそれはあくまで外的な契機だった。蘇峰の言論を丹念にフォローしていけば、かれのいう「進化」が一八九四年の戦争とは、一応、無関係に徐々に準備されていたことに気づくだろう。
  ここでわたしが検討するのは、近代化と国民国家形成をめぐる初期蘇峰の構想である。『将来之日本』とその後の著作で、蘇峰は英国をモデルに日本を文明化する構想を抱いていた。具体的にいえば、コブデンとブライトに代表されるマンチェスター派自由主義に範をとった「中等民族」論がそれである。「中等民族」とは「田舎紳士」と都市の商工階層の連合を意味する。それは、初期議会の民党対藩閥という対立図式において、「進歩党連合」の提唱として現れた。本稿は、『国民之友』の論説(無署名論文を含む)を中心に蘇峰の主張をフォローすることによって、「中等民族」論と「進歩党連合」論がともに破綻することを確認するだろう。国内政治における行きづまりは、蘇峰において歴史観全体にはね返ってこざるを得ない。なぜなら「中等民族」が歴史の牽引力になるという初期蘇峰の信念は、産業化の必然を説いたスペンサーの進化論に基づいていたからである。「世界の大勢」という見方は、蘇峰の生涯を貫く歴史観の特徴である。かれはそれをスペンサーから得たのではない。むしろ「世界の大勢」に従ってスペンサーを受容したのである。自己の構想と現実とのあいだの齟齬が明瞭になったとき、かれの態度を規制したのはこの歴史観だった。かれが自らの「転向」を「進化」と説明したのはこうした事情による。つまりマンチェスター派自由主義に基づいた国民国家構想が行きづまったとき、かれの目に見えてきたのが「帝国主義」だった。その意味では、歴史観こそが蘇峰の全思想のダイナミズムであるといってよい。以上の理解にしたがって、わたしはまずかれの歴史観から検討を始めよう。

一、歴    史    観


  明治一〇年代末から二〇年代初めは、明らかに時代の転換期だった。一〇年代半ばに頂点を迎えた自由民権運動は、その後、散発的な武装蜂起の末に崩壊した。憲法発布と国会開設を目前にひかえながら、政治的言論の低調は誰の目にも明らかだった。中江兆民は一八八八(明治二一)年にその様子をつぎのように回顧している。「顧フニ一昨年即チ明治十九年ノ如キハ我邦民間政治思想ノ最下降シタル時候ト謂フ可シ。昔日ニ在テ演壇ニ登リ洪流ノ弁ヲ奮ヒタル有志家モ口ヲ閉ヂテ復タ言ハズ、諸新聞ノ如キモ唯里巷日常ノ事迹ヲ列挙スルニ過ギズシテ、一モ人聴ヲ竦動スルニ足ルノ論ヲ見ズ(3)」。こうした政治的沈滞を突き破って時代転換の狼煙をあげたのが、弱冠二三歳の青年徳富蘇峰だった。一八八六(明治一九)年一〇月に蘇峰の『将来之日本』が大成功を収めたのは、そこに提示された「新日本」の構想がこうした沈滞を突き破るに足るインパクトを持っていたからである。蘇峰の新しさとは何だったのだろう。
  周知のように、『将来之日本』の基本的シェーマは、軍事型社会から産業型社会への転換というスペンサー『社会学原理』のテーゼに基づいている(4)。蘇峰はそれを独特の明快さで提示した。そこにはいくつかの特徴がある。まず第一に、かれは「如何ニナル可キ乎」と「如何ニナス可キ乎」の二つの問題を不可分とし、後者は前者から導き出されないかぎり「空望」にとどまると主張したことである。そこには歴史の「大勢」という言葉で表現される一種の必然史観がある。例えばそれはつぎのように表現される。「社会ニハ社会必然ノ情勢アリ。故ニ吾人カ希望スル所縦令千万アルモ決シテ此情勢ニ敵スル能ハサルナリ」(A五三(5))。実際には、蘇峰の歴史観はここで表明されているほど単純なものではなく、もっと陰影に富んだものだった。しかし『将来之日本』の無類の成功が、「如何ニナス可キ乎」という当為の問題を、「如何ニナル可キ乎」という「必然ノ情勢」から導出するという論理的詐術によっていたことは否定できない。
  第二の特徴は、「武備主義」と「生産主義」という図式的な二元論である。軍事型社会(「武備主義」)では、政権は少数の人が握り(貴族主義)、富の分配は不平等で、社会の結合原理は「強迫」的で軍隊組織がモデルとなる(腕力主義)。これとは逆に、産業型社会(「生産主義」)では、人民が国家の主人公(平民主義)で、社会の結合原理は自由な契約であり、富の分配は人為的ではなく、平和がその「真面目」である。つまり武備主義、貴族主義、腕力主義と、生産主義、平民主義、平和主義は、それぞれセットをなしており、このふたつの原理は二律背反で両立不可能な社会類型として説明される。
  『将来之日本』のもっとも重要な特徴は、上記のふたつの原理(二元論と必然史観)が、「旧日本」と「新日本」の対比と密接に結びつけられた点にある。蘇峰によれば、明治維新によって「旧日本ハ既ニ死」(A五二)に「新日本」が出現したのだから、維新は「日本ノ変化」というより「日本ノ復活再生」である。つまり「宇内生産的ノ境遇ト平民主義ノ大勢トハ我カ幕府ヲ駆リ(中略)無謀ノ暴挙ニセヨ。活眼ノ経綸ニセヨ。(中略)自家撞着ノ事業ヲハ其ノ儀型ノ中ニ溶解シ(中略)新日本ナル固結体」(A一〇五)を形成した。だから徳川封建社会は武備主義を原理とする「旧日本」であるのにたいして、明治の日本は生産主義を原理とする「新日本」である。しかし当代の日本は未だ十分に「新日本」になりえていない。「今日ノ我国ハ新旧日本ノ戦場」(A一〇九)であり、「今日ノ社会ヲ支配スル重ナル部分ハ凡テ是レ旧日本ノ分子」(A一一〇)だからである。こうして「武備主義」と「生産主義」の二元論は「旧日本」と「新日本」という二元論に置きかえられ、後にはさらに世代論と結びつけられて、「天保ノ老翁」対「明治ノ青年」として対置されるのである(「新日本之青年」A一一八)。
  このような二元論と進化論に基づく必然史観が、直接にはスペンサーに依拠していることはいうまでもないが、蘇峰においては、それが著しく強調され単純化されている。しかも「宇内ノ大勢」という言葉は、現存の資料のなかでもっとも初期の草稿に属する「外交術」(一八八一年一月一五日執筆)にすでに登場しており、スペンサーとは無関係に、早くからかれの歴史観の根幹をなすものだった。同志社就学中から、かれは自己の勉学の第一に「歴史、文明史」をあげていた(6)。そうした関心から導き出されたのが「大勢」とか「時勢」という歴史の捉え方なのだろう。一八八三年に執筆されたと推測される草稿ではつぎのように書いている。「抑モ時勢ハ実ニ一人一箇ノ得テ如何トモス可カラサルモノニシテ、其ノ成ルニ及ンテ往々人ノ意表ニ出ルモノアリトス」(C三一四)。このように早くから身につけられていた歴史観が、スペンサーの進化論によってソフィスティケイトされたのが、上記の「大勢」論だった。
  ジャーナリズムの世界では、単純化は不可欠のレトリックである。「新聞記者」たろうとし、現に生涯を「記者」として過ごした蘇峰は、ほとんど本能的にそのことを意識していたのだろう。蘇峰の膨大な著作を読み進んでいくと、『将来之日本』に見られる二元論と「大勢」論が、かれの生涯を貫く思考の特徴であることに気づくはずである。蘇峰の変説(7)は、このことを抜きにしては論じられない。蘇峰に日本ナショナリズムの旗手としての役割を見出そうとするわれわれ(8)は、かれがその思考の基本的枠組をどのように生み出していったかを考察しなければならない。
  『将来之日本』には「日本の将来材料」と題された草稿が残されている。和田守氏がすでに指摘している(9)ように、草稿と刊本を比較すると、刊本では「武備主義」と「生産主義」の二元論が格段に整理されるとともに、「自然ノ大勢」が著しく強調されている。しかしこうした違いにもかかわらず、最初の「第一回」が「社会ノ常勢」から説き始められ、「社会ノ常勢ニ抵抗ス可ラサルヲ知ラハ、其只始ヨリ抵抗セサルノ優レルニ如カサルナリ」(C二七〇)として、「大勢」論が前面に出ている点では、両者に変わりはない。しかしもしかれの歴史叙述がこのような必然史観で尽きていたら、蘇峰のあの膨大な歴史叙述は存在しえなかっただろう。かれの歴史理解はけっして「大勢」論だけにとどまるものではない。その点で参考になるのが、『新日本之青年』(第七回)の「時勢」についての説明である。そこでかれはまず頼山陽の「人ハ勢ニ違フ能ハズ、而シテ勢ハ亦或ハ人ニヨリテ成ル」という語句を引用した後、つぎのように述べる。人間は「時勢ノ奴隷」であるとともに、その「時勢」自体が社会の作り出したものである。だから「時勢ト一箇人トハ相共ニ源因結果ノ関係ヲ有スルモノニシテ。(中略)時勢ノ一箇人ナルカ。一箇人ノ時勢ナル乎。未タ容易ニ其軽重尊卑ヲ判スルニ苦ム也」(A一四六ー七)ということになる。ここでは「時勢」と個人の営みとの鋭い緊張関係が意識されている。
  事実、社会の進化における個人(あるいは少数者)の役割はかれがしばしば強調するところだった。例えば「少数者の責任」(第一五三号、無署名(10))では、「社会は自然に運動す」という考え方を批判して、「改革家たる者」は全力を尽して自ら信ずることを行うべきで、それによって始めて「自然の運行己れと伴ひ。進化の理法我が為す所を支配」することになると説かれている。ここでは「進化」にたいするオプティミズムは、「世を誤まる」ものとして断固として拒否される。そして汽車やレールがあっても、機関車や蒸気力がなければ汽車は動かないという例をあげて、進化は「方法」であって「力」ではないと説かれる。つまり歴史の原動力は個々人の主体的な営みであり、それがなければ歴史の進化はあり得ないというのである。同じ趣旨は「人物」(第二二四号)でも繰り返され、先の「進化は勢力にあらす、仕方なり」という言葉がモルレー(11)に由来するものであることが明らかにされる。この文章ではもっぱらナポレオンなどの英雄が問題にされ、「彼等は大勢の王にして、大勢の臣僕にあらす。彼等は大勢の原動力にして、大勢の盲随者にあらす」(D二四九)と説明される。このように蘇峰にとって、歴史の「大勢」はけっして超越的に存在するものではなく、個人の営為と緊張関係に立ち、時に偉大な個人によって作り出されるものだった。
  この「大勢」と個人との緊張関係の意識は、蘇峰の歴史観の中心的テーゼだった。一九一〇(明治四三)年には、それはつぎのように表現される。「進化説も、大勢論も、詮じ来れは事後の鳥目的観察に過きず。其の経過の迹に就て、之を概括的に論評すれは、其間に自から一種の潮流ありて、人力の得て如何ともす可からざるものあるに似たり。されと当時に於て、其の大勢を率先し、其の大勢を喚起し、その大勢を利導する人あるにあらざるよりは、何を以てか今日を致すを得んや」(「維新志士遺墨展覧会に就て」、D一一〇二)。さらに一九二八(昭和三)年の講演「歴史の興味」では、それは「平等観」と「差別観」という言葉で説明されている。ここにいう「平等」とは歴史の普遍的側面を、「差別」は個別的側面をさしている。だから歴史を「大観」するには「平等観」が、「分析」するには「差別観」が有効だとされ、つぎのように説明される。「平等観からみれば、その時代にはその時代を支配する大勢があります。差別観からすれば、その大勢を導く人もあり、大勢に反対する人もあり、種々の人があります。大勢論のみにて、一切を了し去らんとするは、地球を平面にするようなものであります(12)」。この叙述にはマルクス主義を批判する底意もあったかもしれないが、ともかく独特の「大勢」論と、それを制約する英雄的個人への視点が、蘇峰の歴史観の根幹をなしていたことが看取されるだろう(13)
  ここでもう一度『新日本之青年』にもどろう。『将来之日本』同様、この本も明快な二元論によって構成されている。封建ー明治、老人ー青年、復古主義ー偏知主義、東洋流ー泰西的、秩序ー進歩、日本ー世界などの対照がそれである。末尾では、「青年」が当今の日本の「時勢」を改革する必要を説いており、その訴えかけの論拠はつぎのようなものである。「諸君ハ之ヲ日本ノ小時勢ヨリシテハ。不幸ノ場合ニ在リ。之ヲ坤輿ノ大時勢ヨリシテハ幸福ノ場合ニ在矣。之ヲ日本ノ小境遇ヨリ見レハ。困難ノ位地ニ立テリ。之ヲ坤輿ノ大境遇ヨリシテハ必勝ノ位地ニ立矣」(A一五三)。つまり日本の状況は「純乎タル泰西的ノ学問世界」を目指す「青年」には不利であるが、「坤輿ノ大境遇」は、日本の小状況とは逆に、「第十九世紀文明世界」である。だから「此ノ第十九世紀宇内文明ノ大気運ニ頼テ我国ノ時勢ヲ一変」(同上)せよと鼓舞されるのである。ここでは「日本ノ小時勢」と「坤輿ノ大時勢」の対立が強調され、いずれ後者が前者を飲み込んでしまうと論じられる。つまり「日本ノ一局部」と「世界ノ大局面」が対照され、後者に依拠することによって「前途ノ萬境遇」を「自カラ作為スル」(A一五四)ことが求められるのである。このように「時勢」そのものが重層的になっていて、「大時勢」に従うことによって「小時勢」を克服でき、「吾人ガ前途モ亦吾人カ作為スル所ノマヽ也」(同上)とされるのである。この「大時勢」と「小時勢」の二重構造は、「大時勢」の局面での歴史の進歩にたいするオプティミズムと一体である。だから「小時勢」が「大時勢」に背反すれば、そのオプティミズムはペシミズムに一転する。『将来之日本』にはその特徴がよく出ている。蘇峰はこの書をつぎのような語句で結んでいるのである。「吾人ハ之ヲ恐ル若シ我国人ニシテ天地ノ大勢ニ従フコトヲ遅疑セハ彼ノ碧眼紅髯ノ人種ハ波濤ノ如ク我邦ニ侵入シ。遂ニ我邦人ヲ海嶋ニ駆逐シ吾人カ故郷ニハアリアン人種ノ赫々タル一大商業国ノ平民社会ヲ見ルニ到ランコトヲ」(A一一二)。洋々たる「将来の日本」は、「天地ノ大勢」に背けば、一転して列強の植民地と化すというのである。
  このように蘇峰の歴史的思惟が「大時勢」と「小時勢」という二重構造からなっていることを考慮すれば、時としてオプティミズムと必然史観が前面に出てくる事情は理解できる。「小時勢」における混乱や逆行は、いずれ「大時勢」の「大勢」に支配されるからである。例えば「明治二十年を送る」(第一三号、無署名)には、そのような側面が典型的に出ている。この論説で蘇峰は、歴史の流れを「軽舟に駕して長江を下るが如し」と例えている。船には数多くの水夫のほかに「一の大なる船将」が乗っていて、「恒に其の神秘なる勢力を揮ふて、其の運動を指揮なせり、進むも往くも彼の意中にあり」ということになる。このような無類のオプティミズムの極が、「天意」、「進化神」などの擬人化された観念(14)による歴史の支配というレトリックとなるのである。

二、「中等民族」論の展開


  『将来之日本』がスペンサーの進化論とマンチェスター派の急進的自由主義とのアマルガムであることはよく知られている(15)。蘇峰が、その平民主義の担い手として、ブライトやコブデンに比定しうるような政治家や党派の出現を予期していたことは疑いない。その構想の内容と最終的な挫折の道のりを簡単にたどっておこう。
  蘇峰は『将来之日本』以前から英国を日本近代化のモデルと考えていたが、日本が英国とまったく同じ道筋をたどるとは考えていなかった。『明治廿三年後ノ政治家ノ資格ヲ論ス』(一八八四年一月)は、そのことを主題としたものである。『自伝』によれば、蘇峰は一八八二(明治一五)年一〇月中旬に中江兆民とともに板垣に会見した。このとき板垣から「自由新聞一葉」を見せられて非常に感激し、さらにマコーレーの『英国史』の示唆もあってこの書を著したという(16)。板垣から見せられた『自由新聞』の論説とは一〇月三日の社説「学者論士ノ通弊ヲ論ス」に違いない。この社説は「反対党ノ学士」が英国の保守党に倣うと自称しているのにたいして、政党には「創業守成」の区別があることを知らないものだと批判したものである。蘇峰はこれを受けてつぎのように論ずる。「我国将来ノ時勢ハ決シテ維新前破壊的ノモノニアラス又第十九世期英国守成的ノモノニモアラス実ニ一種未曾有ノモノニシテ強テ古今ノ歴史上ニ其ノ比ヲ求メント欲セハ第十七世期英国革命ト稍其ノ皮相ヲ同フスルモノアリ」(A二四)。蘇峰はここで、「守成」の立場に立つ「学者」の主張する「立憲政治家」と「創業」の立場に立つ「壮士」のいう「東洋流ノ創業家(17)」をともに否定して、「改革政治家」という第三のタイプを提示する。蘇峰によれば、「改革政治家」とはつぎのような存在である。「純乎タル学者ニモアラス又ハ純乎タル実務家ニモアラス即チ遠ク社会ノ外ニモ出デス近ク社会ノ内ニモ居ラス学者ト社会ノ中間ニ立チ以テ輿論ヲ率先スルモノナリ」(A二五)。このように「学者」と「実務家」を兼ねた存在として、ここで例示されたのがジョン・ブライトだった。蘇峰の平民主義の中核をなす「田舎紳士(コンツリー、ゼンツルメン)」論は、おそらくこのような文脈から導き出されたものであろう。
  「田舎紳士」論が具体的に展開されたのは、「隠密なる政治上の変遷(第二)」(第一六号)だった。治者意識の抜けない士族や政治意識の欠如した工商にたいして、「半士半商」の「田舎紳士」は、「天下国家の事を思ふて一身一家を忘るゝに到たらず、一身一家の事を思ふて天下国家を忘るゝに到らさる」存在として特徴づけられる。この定義でもわかるように、「田舎紳士」は「壮士」に対置されたものである。士族主導の政治にたいする批判は『明治廿三年後ノ政治家ノ資格ヲ論ス』以来の蘇峰のモチーフであり、『将来之日本』でも、それは「日本流若クハ封建的ノ自由主義」(A一〇七)として激しく批判された。「新日本の青年及ひ新日本の政治(第二)」(第七号、無署名)では、壮士を「時候遅れの代物」と呼び、「建設的の時勢に立て、破壊的の事業を試みたり」と論断した。しかしまだこの時点では、壮士に代わる政治的主体について、蘇峰は十分なイメージを彫琢できていない。『国民之友』に五回連載された「隠密なる政治上の変遷」は、田舎紳士と商工階層からなる「中等民族」の政治を士族の政治に対置することによって、その克服を目指したものである。ここでは「士族てふ一種の政治要素の速かに分解消散せんことを願はざるを得ず」と、士族主導の政治を徹底して否定している。
  壮士すなわち自由党系の政治にかわって、蘇峰が期待を寄せていたのが改進党と「中等民族」だった。「在野党に対する今後の政治」(第一四号、無署名)は、自由党にかわる在野党の中心を「秩序的の進歩党」と「平和的の人情党」に託している。「秩序的の進歩党」は明らかに改進党を指している。これにたいして「平和的の人情党」とは、「在朝もなく、在野もなく、唯国を愛し、民を愛し、世を憂ひ、時を憂ふるの心よりして、一国政治の改良を計り、一国人民の幸福を計る者にして、(中略)其の目的は敵党の勝敗、坐席の交代にあらずして、政治の世界に人情の主義を適用せんと欲する者(18)」のことである。同じ主張は、「新日本の青年及ひ新日本の政治(第四)」(第九号、無署名)では、「青年」の政治として「老人」のそれに対置される形で提示されている。蘇峰はそれを四つの点で特徴づける。(一)  政府中心ではなく人民(すなわち「茅屋中の人民」)中心であること。(二)  人情すなわち「人民を愛する」こと。(三)  悲憤慷慨ではなく人民の進歩改良を目指すこと。(四)  運動は「事務的」すなわち「沈重穏当」であること。
  「隠密なる政治上の変遷」では、農工商の政治的成長によって出現する「中等民族」が、士族に代わる政治的担い手として期待されている。同じ主張は、『明治廿三年後ノ政治家ノ資格ヲ論ス』や「新日本の青年及ひ新日本の政治」では、どちらかというと世代論的な観点から提示されていた。世代論から「中等民族」論への転移は、自由党的な運動にたいする批判が、たんに「破壊」的とか「悲憤慷慨」型という運動形態への批判に止まらなくなったことを意味する。だから蘇峰は「壮士の称号は、取りも直さず無職業を意味する(19)」現状を指摘し、それにかわる理想の政治家像を具体的に提示するのである。それは「政治人民」と「非政治人民」のあいだの障壁を打破して「兼業の政治家(20)」を育てること、つまり「財産あり、職業あり、勤勉にして品行ある人民(21)」の政治意識を養成しなければならないという主張として展開されることになる。議会開設を契機に、農村における「田舎紳士」と都市の工商層からなる「中等民族」が自らの政治的影響力を自覚して政治の主導権を握るだろう。そうすれば「実際的の政論(22)」が社会を風靡することになるというのである。このような蘇峰の構想は実現しただろうか。
  『将来之日本』や『国民之友』における蘇峰の成功は、ある意味で士族の政治の隆盛と対をなしていた。「抽象的の政論天下に雷鳴する間たは、士族即ち政治世界の主人公たりしなるべし(23)」と蘇峰は書いた。しかしこのような批判をした蘇峰の言論も、実は「抽象的の政論」のレヴェルに止まっていたのである。議会開設後の蘇峰は、具体的な政治状況の評価においていくつかの屈折を余儀なくされる。「抽象的の政論」なら、理念にもとづく単純明快な二元論によって裁断することができる。しかし「実際的の政論」では、それは容易ではなく、議論が単純明解であればあるほど現実との齟齬をきたす可能性が高い。ここではそれを、進歩党連合の主張を素材にして分析しておこう。進歩党連合、すなわち自由党と改進党の連合は、初期の『国民之友』が精力的に展開したものであり、その挫折が蘇峰の変説の間接的な原因になったと考えられるからである。
  すでに何度も述べたように、蘇峰は壮士の運動を激しく批判したが、それを自由党と同一視することは注意深く避けていた。おそらく営業上の配慮もあっただろうが、戦略的にも自由党を抜きにして、かれのいう「平民主義」の実現は考えられなかったのである。「民間党」の合同は、『国民之友』第七号(一八八七年八月)の論説「大隈、板垣、及ひ後藤氏」(無署名)ですでに展開されていた。しかし翌年二月に大隈が外相として入閣すると、「大隈伯内閣に入る」(第一六号、無署名)を書いて、かれは「民間党」の合同という主張を放棄する。それによれば、在朝在野の別は主義の相違ではなく、「双方位地の相違を表する境界」にすぎない。「保守」と「改進」の対立は、在朝と在野の間だけではなく、在朝者のなかにも在野の者のなかにも存在する。したがって大隈が入閣することによって、政府のなかでも「保守」と「改進」の亀裂が生じ、それは政府部内で「改進主義」が重きを占める契機になると蘇峰は主張する。「政党及ひ其の要素」(第二四号、無署名)では、もっと単刀直入に「現今の時節は大団結を為すの時節に非す」と述べている。つまり自由民権期の政党の枠組をそのまま前提にするのはナンセンスで、国会開設を機に根本的な再編成を予期したのである。蘇峰は自由民権期には自由党系の相愛社に所属していたにもかかわらず、『明治廿三年後ノ政治家ノ資格ヲ論ス』以後はむしろ改進党にシンパシーを感じていた。前述した「在野党に対する今後の政治」で、「秩序的の進歩党」(すなわち改進党)と「平和的の人情党」に期待をかけているのもその表われである。だから条約改正をめぐって大同団結派が批判の声をあげたときも、かれは大隈条約案に理解を示した。そして後藤が入閣したときは、大隈のときとは打って変わってきわめて冷淡な態度をとっているのである。
  以上のような主張や「中等民族」の政治的成長への期待からすれば、在野の二大政党の合同という発想はむしろ奇妙である。しかし大隈条約案が挫折したとき、蘇峰は再び進歩党連合論に復帰する(24)。まず「大同団結の為めに賀すべき事あり望むべき事あり」(第六七号)では、大同派が保守派と分離したことを歓迎し、改進党攻撃を中止するとともに内部の壮士を規制し、連合の機会をもとめるよう暗に訴えている。大隈条約案の挫折が明らかになりつつあった時期である。「政党変革論(上)」(第七〇号、無署名)は、政党の現状についてつぎのように診断する。「今日の政党は(中略)其従来有し来れる区々の空名を脱却し、純乎たる主義を根拠とし、之に拠りて目下多数国民の政治上の思想を代表するに足るべき、活力、活威ある政綱を定むるに在るのみ」。見られるように、ここでは政党の現状の変革の必要性が力説されている。しかしここで問題になっているのは、政党の組織化の必要性であって既成の政党枠組の再編ではない。ちょうど旧自由党系が三派に分裂し、別個に再興しようとしていた時期だった。反政府だけを売り物にしたかつての自由党ではなく、選挙を念頭に置いた綱領と組織の必要性を説いたのである。この三派の合同気運が盛り上がる五月になると、自由党系三派だけでなく改進党や九州同志会などを加えた「在野進歩的大連合党」の結成を訴えるキャンペーンが始まる(25)。「七月以後」(第八二号、無署名)や「請ふ一歩を進め」(第八三号、無署名)がその始まりである。「今日は在野大連合の望を達する日なり、是非とも連合せざる可からざるの時なり、保守党を制せんが為に、吏権党を制せんが為に(下略)」(「差寄りの注文」、第八八号、無署名)。こうして『国民之友』の社論の軸は、これ以後、日清戦争直前まで、「民間党」対「吏権党」(後には「民党」対「吏党」)という二元論になる。
  『国民之友』の初期を飾った「中等民族」論はその後どうなったのだろうか。衆議院議員選挙法が公布された直後の一八八九年三月、蘇峰は「土地の所有者は政権の所有者なり」(第四五号、無署名)という論説を書いている。有権者は直接国税一五円以上を納めるものと定められていたが、蘇峰の試算では、有権者の「百中の九十八弱」が地主だった。かれはその事実をどう受けとめただろうか。「吾人は曾て田舎紳士なるものが、必らず我国政治上の要素たるべしと推定したることありき、今や果して愈々政治上の重もなる要素とならんとせり、吾人は之を見て、我国の為に祝す可きや否やを知らず、然れども彼等が政権の所有者たる以上は、彼等に向て唯其有したる所の政権をして、濫用することなからんことを望むのみ」。蘇峰が「隠密なる政治上の変遷」を書いて、「田舎紳士」こそが士族に代わって国家の「元気」となると論じたのはちょうど一年前のことだった。しかし出現した現実は楽天的な予想とは違っていた。「祝す可きや否やを知らず」と書いたところに、蘇峰の苦い思いが込められている。蘇峰の構想では、「田舎紳士」は都市の商工業者とともに「中等民族」を形成するはずだった。しかし実現したのは「地主の衆議院」であり、目下のところそれが是正される見通しもなかった。この文章の末尾には「我国生産的の機関の大に発達するを俟つより外あらざるなり」とある。つまり産業化の進展による商工業者の成長に期待するしかなかった。かれの構想は早期には実現すべくもないという諦めの心境が、吐露されているのである。
  問題は、選挙権の制限と都市の商工業の未発達だけではなかった。商工業が未発達である以上、「田舎紳士」が「中等民族」の中核をなす。ところがこの「田舎紳士」は、蘇峰がそれを称揚していたまさにその時に空洞化しつつあったのである。かれは「田舎漢」(第五二号、無署名)で、「理想的の田舎漢」をつぎのように描く。「彼の容貌風采は粗硬なり野鄙なりと雖も、其の光々明々たる精神は、之を透して、美絶、清絶、壮絶たらずんばあらず」。あるいは「青年学生は奚ぞ故郷に帰らざる奚ぞ田舎に遊ばざる」(第五六号、無署名)では、「真正の愛国心なるものは、田舎の茅屋を見て始めて発揮すべし」と書く。しかし現実には「田舎漢」はますます都市化しつつあり、かれは「彼れ田舎紳士よ、何ぞ都人士を学ばんとするや」と嘆かなければならなかった。この延長上に書かれたのが有名な「中等階級の堕落」(第一七二号)である。蘇峰はここで、「獅子の割前」に与った「田舎紳士」が「市化」し、「剛健、勤倹、純粋、簡質の徳」を喪失したと、厳しく糾弾している(D一八〇)。地租五円以上を納める人口は、一八八一年から一〇年間で一八〇万人から一四〇万人に減少した。これは一八八〇年代に進行したデフレ政策の結果であるが、かれは「田舎紳士」の「堕落」を非難し、その没落を「自業自得」と決めつける。「田舎紳士」像が理想主義的に彫琢されていただけに、批判は道徳主義的になってしまうのである。
  しかし視線が冷淡になったのは、たんに理想が裏切られたからではない。かつて一体をなすと考えられた「中等民族」の内部に、実は都市と農村の対立が存在することに気づいたからである。それが露出するきっかけとなったのは、一九九二年末に伊藤内閣が提出した地価修正案だった。これによって自由党は「軟化」し、蘇峰の念願だった民党連合は根本から崩れ始めた。かれは地価修正や選挙法の現状を「偏農主義」と呼び、これに対抗して、都市の住民が「市府同盟」を結成すべきだと訴える(「市府同盟」第一七五号、無署名)。別の論説では、「今の政党は、百姓党のみ」として、それが「部分的、階級的」で「商工社会」の利害を代弁していないと批判している(「新日本の政党(第二)」、第二〇二号、無署名)。政府との提携に怒って、かれが自由党を「新吏党」と呼び始めるのはこの四ヵ月後のことである。つまり進歩党連合の構想と「中等民族」論が破綻するのは、ほぼ期を同じくしているのである。もちろんこれは必ずしも偶然ではない。むしろ進歩党連合と「中等民族」論は相互にリンクしていた。進歩党連合は政党改革論の一環であり、連合を通じて政党が選挙区と「至密な関係」をもち「地方の輿論」を代表するものに変わることをかれは期待していた。連合による政党再編成によって、「中等民族」を代表する「兼業の政治家」が出現するという構想である。
  しかしこの構想は、少なくとも短期的には、挫折する運命にあったといえる。「中等民族」は「田舎紳士」と都市の「商工社会」を同じカテゴリーに包んでいたが、マンチェスター派から学んだ蘇峰が、この両者の対立に無知だったはずがない。すでに国会開設前から、かれは「当分の中は地主の衆議院」たらざるをえないと述べ、ブライトの演説を引いてかつて英国もそうだったと指摘している(前掲「土地所有者は政権の所有者なり」)。政府の地価修正案は「中等民族」内部の「田舎紳士」と「商工社会」を決定的に対立させ、進歩党連合を不可能にした。両者の裂け目が見え始めたとき、かれは「将来の日本」への展望を見失い、その平民主義は色あせていかざるを得なかったのである。

三、対    外    硬


  「中等民族」論は、西欧(とくに英国)をモデルとする強固な国民国家の形成という蘇峰の構想の中心をなすものだった。その背景に、列強のアジア進出への強い危機感があったことはいうまでもない。『明治廿三年後ノ政治家ノ資格ヲ論ス』を出すまでの蘇峰を貫く関心は、弱肉強食の国際社会の現実のなかで、いかにして普遍的な文明を達成するかという点にあった。かれは同志社就学時代の勉学の最重要項目のひとつに文明史を挙げていたが、その一端は「文明ノ勢力」と題する小文に見ることができる。ここでかれは福沢やギゾーを引証しながら、文明の進歩を「人々ノ交際ニ於テモ始メハ強弱ヲ圧シ、次ニ権利トナリ、次ニ礼譲トナル」(C一一五)と書いている。弱肉強食から「礼譲」への文明の進歩を信じながら、この時点ではまだ、それをどのように実現するかについては言及されていない。
  一八八一年に執筆された「外国対体論」では、日本の国際的地位の低さと列強の侵略の可能性に言及して「切歯腕臂渠輩ノ専横ヲ憎ミ我国ノ微弱ヲ哀マザレバアラズ」(C一三七)と述べる。蘇峰の認識では、国際社会の現状は「腕力世界」であり、ここで頼るべきは「力」であって「信義」や「条理」ではない。英国の「実力」を構成しているのは議院や海陸軍、そして「「カムブリッヂ」「オックスホルト」ノ大学」や「「マンチエストル」ノ製造所」(同上)である。つまり英国の「力」はたんなる軍事力ではなく「文明」である。当然、日本が目指すのも「殖産興業ナリ貿易通商ナリ或ハ政治ノ改良ナリ教育ノ進歩ナリ」(C一三八)ということになる。周知のように『文明論之概略』で、福沢諭吉は「目的」としての文明と「手段」としての文明の関連を見事に説明していた。蘇峰の説くのもこれと等しい。目標となる「礼譲」の文明世界は、文明の「力」によって達成されるしかないのである。同じ時期に書かれた「外交術」では、それを「今日ノ大勢ハ理ヲ以テ理ヲ行フ時ニ非ラズ力ヲ以テ理ヲ行フノ時ナリ」(C一三九)と表現する。日本の急務は、そのための「実力」の養成である。「実力」とは、前述の殖産興業云々にほかならない。これによって日本は、「外ハ天理ヲ以テ渠輩ノ利己主義ヲ破リ、内ハ実力ヲ培養シテ以テ天理ヲ護シ、(中略)常天理ヲ以テ活地ノモノトシ寸毫モ屈スル所ナカランコトヲ」(同上)期すべきだというのである。同じ趣旨は「外交ノ徳誼」でも説かれている。ここでも蘇峰は「腕力世界」の現実を認めたうえで、なお外交における徳義の重要性を強調する。そして「眼前ノ利害」ばかり追求する列強に対抗するには、徳義を「標準」とする外交が有効だを説き、そのために「実力」が必要だと述べる。国際社会における「理」の実現と、そのための「実力」の養成、これがこの時期の蘇峰の基調だったのであり、それは「時勢」の変化にともなって変容を受けながらも、生涯を通じて主張し続けられることになった。『将来之日本』では、スペンサーの進化論が謳歌されて「生産主義」の到来の必然性が強調されたので、「実力」の養成という観点は背景に退いたかにみえる。しかし草稿である「日本の将来材料」では、国際社会の優勝劣敗を決するのは文明の発展いかんにあり、「文明ノ元素ハ智力ニシテ、智力ノ元素ハ富」であると述べ、国家独立の基礎が兵備ではなく「富」にあることを強調していた(26)。だから「天下ノ大勢」に従って、「生産機関ノ発達」を期すべきだという『将来之日本』の主張は、初期の著作で述べた「実力」養成の必要を別の形で述べたに過ぎないのである。後年の蘇峰はたしかに「力の福音」を説いたが、「四海兄弟の黄金時代を見んことを欲す」とも書いていた(『時務一家言』、A三三六)。理想実現のためには「力」が必要だとかれが説いたとき、理想はたんなる口実だったとばかりはいえないと思う。
  「外国対体論」、「外交術」、「外交ノ徳誼」の三編を書いた後、かれが出会ったのがマンチェスター派だった(27)。これによってかれは英国の「文明」の「力」の核心を知った。それとともに、産業化と貿易が国際社会の「理」を実現するという論理を身につけた。つまり産業化と「中等民族」の成長こそが、弱肉強食を克服し平和な世界をもたらす道だというのである。日清戦争までの蘇峰の著作は、表面的にはこうした論旨で一貫している。しかし背後に、対外的危機感とナショナルな自負心が見え隠れすることは珍しくなかった。例えば一八八五年九月に、蘇峰は「愛国ノ歌」という作詞をしている。一節を引いてみよう。「今ハ昔トナル海ノ/西ナル英ト露西亜等カ/獅子奮迅ノ威ヲ振ヒ/殺気亜細亜ノ天ニ満チ/四百余州ノ帝国モ/今ハ土足ニ蹂躪シ/長白山ノ頂ニハ/鷲ノ旗影閃メケリ/起キヨ武夫イサ起キヨ/国ニ尽スハ今ナルソ/異邦人ヨ侮ルナ/我ガ日本ニ人ナシト/目ニモノ見セム仇アラハ/日本刀ノ折ル迄(後略)」(C二五二)。同じ時期に執筆刊行した『第十九世紀日本ノ青年及其教育』であれほど「東洋流」を批判していた蘇峰は、英国やロシアに敵意を燃やす歌を塾生に歌わせていたのである。
  蘇峰の平民主義にひとつの転機がきざすのは、一八九〇年六月の論説「日本人種の新故郷」(第八五号)である。この文章の冒頭で、かれはつぎのように語る。「世界将来の問題を察するに、人種の事最も関心するに堪へたり、今日は最早武力を以て天下を征服するの時に非ず、人種を以て世界を併呑するの時なり」。自由貿易主義は平和をもたらすというコブデンやブライトの主張とは裏腹に、現実には「自由帝国主義」がますます顕著になってきたとき、蘇峰はそれを人種論によって説明しようとした(28)。これはその最初の表われである。かれはここで、英国は「小国」だが「人種としては大」であること、中国は領土を削られながら人種としては拡張しつつあると指摘する。一年余り後の「対外政策の方針」(第一二六号、無署名)も「武略的政策」を批判して、今日は人種や富による競争の時代だと述べている。人種としての日本人の「膨脹性」とそのライヴァルたる中国人という見方は、日清戦争直前の論説「日本国民の膨脹性」(第二二八号)で高らかに宣言されるが、その基本的観点はすでにここに見られる。
  日清戦前の蘇峰にとって、もっとも大きな転機となったのは条約改正問題である。一八九三年三月から六月まで八回連載された「条約改正論」で、かれは政府の改正案が時を経るごとに後退してきたとしてつぎのように批判している。「明治政府は、年々歳々軟色を呈し、第一には、根本的に撤去を求め、第二には、制限的に之を求め、第三には、内地雑居の景物と立会裁判の愛嬌とを添加して、退譲的に之を求めるを以て、一たび屈したる膝は、俄かに伸ぶ可らず」(第一八七号、無署名)。これは大隈条約案にたいして、かれ自身がかつて下した評価を覆すものである。大隈案には、期限つきながら外国人法官任用や治外法権の存続の規定があった。それでもかれは「今回の条約改正を目して円満なりと謂はず、然れども或るものは皆無に優る、是れ尚ほ忍ぶべし」(第五八号、無署名)と書いていたのである。政府案は「年々歳々軟色を呈し」てきたと書いているのも、明らかに事実に反する。政府の改正案は挫折を重ねるごとに自主性を高めていた。
  「条約改正論」の「第五」では、蘇峰は内地雑居と交換に法権・税権の完全回復を主張している。そして内地雑居の譲歩なしに法権・税権回復を目指すのは非現実的だとし、さらに非内地雑居論を「臆病」と批判している。一年後の一八九四年に、第二次伊藤内閣が着手した条約改正は、この論説で蘇峰が主張した条件に沿うものだった。それにもかかわらず、かれはそれを猛然と批判し、「硬六派」の一翼を担って条約励行論を唱えることになる。この論理的には矛盾した行動の理由は明らかである。条約励行論と期を同じくして、かれは自由党を「新吏党」と呼び始めた。蘇峰は伊藤内閣と自由党の提携が許せなかったのだ。かれの宿論だった進歩党連合はこれによって最終的に崩壊した。このとき「内治」と「外政」、すなわち条約励行論と藩閥批判は連動した。そして「藩閥同盟対国民的同盟」という対抗図式が成立する。「蓋し藩閥党は非責任内閣論者のみ、非自主的外政派のみ。国民的同盟は、責任内閣論者のみ、自主的外政派のみ」(第二二〇号、無署名)ということになる。これによって『国民之友』は創刊以来の社論を根本的に転換し、敵対してきた『日本』や政教社一派と手を握った。そのことを宣言した「平民的進歩主義と国民的精神」(第二二二号)は、この転換を「国民思想の分水嶺」とし、「第二の維新」と評した。それによれば、維新の精神は「国民的精神を緯とし、平民的進歩主義を経とし、以て大ひに国民的運動を中外に発揮する」にあった。自由民権期には、「平民的進歩主義」と「国民的精神」の両主義は民権対国権という形で対峙し、明治二〇年代前半には、蘇峰の「平民的進歩主義」と政教社の対立となって現れた。この対立が「今や漸く融和抱合し。茲に国民的大運動」となって現れたというのである。

お  わ  り  に


  蘇峰は「対外硬」に転換した。しかしこれは単に従来の立場を変えたという単純なものではない。一八九四年のこの時点で、蘇峰のこれまでの構想は根本から瓦解したのである。文明化を通じて西欧先進国のような国家形成をし、国家の独立を達成することがかれの目標だった。スペンサーの進化論はその見取り図を示し、コブデンとブライトの自由主義はそのための具体的な道筋を示しているとかれは考えていた。しかしその中核をなすはずの「中等民族」は思いどおりには育たず、自由主義の担い手となる「民党」は藩閥と妥協した。完全な行きづまりであり、残されたのが対外硬だった。これはかれ自身の思想的経歴からすれば、スペンサーやコブデン、ブライト以前の世界に回帰することを意味している。かれはそれを「勢極れば変じ、変ずれば通し、通ずれば成る」(同上)と表現する。いかにも蘇峰は挫折を知らないタフな思想家である。蘇峰の立場の転換は明らかに『将来之日本』以来の構想が挫折した結果だが、かれはそれを挫折とは捉えず、むしろ「世界の大勢」の変化によるものとして受けとめる。そしてこれ以後のかれの言論は、もっぱら日本の「膨脹」に向けられることになるのである。
  確かに一八九四年は、蘇峰の意図をはるかに超えて「国民思想の分水嶺」となった。日清戦争を契機に、民党対藩閥という初期議会の対立図式が姿を消してしまうことになるからである。巨視的に見れば、蘇峰の立場の変化は、日本近代史の重要な転換の一幕だったといえるだろう。優れたジャーナリストだった蘇峰は、確かに「時勢」の転換を見誤らなかった。しかしこの「世界の大勢」に従った結果が、早くも一〇年後には、日本の国際的孤立という悲壮な自覚に変わる(29)ことを、かれはまだ知る由もなかったのである。

(1)  「山路愛山に与ふ」、『蘇峰文選』(民友社、一九一五年)五一四頁
(2)  『蘇峰自伝』(中央公論社、一九三五年、以下『自伝』と略す)三一〇頁
(3)  「政治思想ノ張弛」、『中江兆民全集』第一四巻(岩波書店、一九八五年)一九二頁
(4)  この点については山下重一『スペンサーと日本近代』(御茶の水書房、一九八三年)一〇四頁以下を参照
(5)  徳富蘇峰の引用のうち、以下の文献に収録されているものは、A、B、C、Dと略記してページ数を本文中に記すことがある。A=『徳富蘇峰集』〈明治文学全集24〉(以下、文学全集版『蘇峰集』と略す)、筑摩書房、一九七四年。B=『徳富蘇峰集』〈近代日本思想大系8〉(以下、思想大系版『蘇峰集』と略す)、筑摩書房、一九七八年。C=『同志社大江義塾  徳富蘇峰資料集』(以下、『資料集』と略す)三一書房、一九七八年、D=『蘇峰文選』民友社、一九一五年。
(6)  「今後学問之目的如何  第一」、前掲『資料集』一〇四頁
(7)  蘇峰の生涯を論じる際に不可避なかれの言論の曲折について、ここでは「転向」や「変節」という倫理的なニュアンスの語を避けて「変説」と呼ぶことにする。
(8)  拙稿「「膨脹」する「大日本」−日清戦争後の徳富蘇峰−」(『阪大法学』第五〇巻第四号、二〇〇〇年一一月)参照
(9)  『資料集』の和田氏による「解説」八五四頁
(10)  本稿では『国民之友』と『国民新聞』の無署名論文を蘇峰自身が書いたものとして扱う。たとえ蘇峰が自身で書いたものでなくても、かれの意向を反映したものと考えられるからである。なお無署名論文を引用する際は「無署名」と記す。ただし著作集に収録されて蘇峰が執筆したことが確認されたものについてはこの限りではない。また『国民之友』は誌名を省略して号数のみを記す。
(11)  蘇峰は一八八二(明治一五)年に馬場辰猪からモルレー卿の『コブデン伝』(John Morley, Life of Cobden)をもらい、この本から強い影響を受けたことを告白している。前掲『自伝』一八〇ー一頁参照。
(12)  『歴史の興味』(民友社、一九三〇年)二七頁
(13)  同様の例をもうひとつだけ挙げておこう。一九二五(大正一四)年の講演「歴史及び歴史家」で、蘇峰はつぎのように語っている。「(前略)大勢はあるが、之を自ら調節し、引つ張つて行き、時としては狂瀾を既に倒れたるに廻らすと云ふ力が人間にはあると云ふ点に於て、初めて歴史に価値があるのである」(『時勢と人物』民友社、一九二九年、三六ー七頁)。
(14)  「天意」は「明治二十年を送る」(第一三号)で、「進化神」は「隠密なる政治上の変遷」(第三回、第一七号)で使われている。なお「進化神」という言葉が、もとは中江兆民が『将来之日本』を揶揄する意図で書いた『三酔人経綸問答』に由来することはいうまでもない。兆民が『国民之友』第一五号の「隠密なる政治上の変遷」(第一回)を批判する文章で、再度、この言葉を使ったので、蘇峰はここでそれを逆手に取ったのである(参照「国民之友第十五号」、『中江兆民全集』第一四巻、岩波書店、一九八五年、一六八ー九頁)。
(15)  蘇峰の著作とコブデンとブライトとの関係を分析したものとして、熊谷次郎「蘇峰とマンチェスター・スクール」(『経済経営論集』(桃山学院)第二一巻第一号)を参照。
(16)  前掲『自伝』一九一ー二頁
(17)  蘇峰のいう「学者」と「壮士」について、和田守氏は、『自伝』の以下の一節を根拠に、前者が改進党、後者が自由党を指すと述べている(C八四九ー五〇)。「予は自由党が兎角空論に流れ易く、偶々実行に取掛るものがあれば、それは所謂る直接行動にて、武力に訴えるの行動となり、改進党が知識、財産を誇りとして、英国流の改革論を唱ふるも、何となく因循姑息。正直のところ、仏蘭西流の自由党にも、英国流の改進党にも、何れも慊らぬ所があり(後略)」(同上書一八九頁)。「壮士」が自由党を指す点では異論はないが、「学者」が改進党かどうかはなお検討の余地があると思う。なぜなら『自由新聞』の社説「学者論士ノ通弊ヲ論ス」で批判された「学者論士」は英国保守党をモデルにしており、改進党を指すとは思えないからである。
(18)  「人情」は humanity の訳語で「道心」とも訳された。蘇峰は時折この語を使っている。以下はその一例である。「第十九世紀の世界は、即ち人情(ヒウマニチー)の世界にして、所謂一国が平民的の社会となるは、即ち人情が一歩を進みたるの徴候にして(下略)」(「明治二十年を送る」、第一三号、無署名)。
(19)  「壮士の前途」、第九六号、無署名
(20)  「専門の政治家と兼業の政治家」、第三八号、無署名
(21)  「建白書」、第六〇号、無署名
(22)  「隠密なる政治上の変遷」(第五)、第一九号
(23)  同上
(24)  二大政党制の主唱者としての蘇峰という観点から、『国民之友』の政治論をていねいに跡づけたものとして、坂野潤治『近代日本の国家構想』(岩波書店、一九九六年)第二章第三節、明治立憲制研究会「明治立憲政治の形成過程−『国民之友』に見る議院内閣制論−」(一)、(二)(『社会科学研究』第四八巻第一号、第二号)がある。蘇峰が英国をモデルとしており、二大政党制もそのコロラリーだったことは争えない。しかし初期議会でのかれの政論のモチーフは民党連合による藩閥打破だったので、それをあえて二大政党制と結びつける必要はないだろう。また進歩党合同の主張についての変化の原因を、明治立憲制研究会は議会開設にもとめているが、直接の契機が大隈条約の帰趨だったことは明らかである。
(25)  このキャンペーンは孤立した動きではなく、自由党側では中江兆民が熱心に支持し、蘇峰と連携していた。この点については、拙著『兆民とその時代』(昭和堂、一九八九年)二一〇頁以下を参照。
(26)  「日本の将来材料」、『資料集』二七八頁
(27)  この点については前掲の熊谷論文を参照。
(28)  英国の帝国主義を人種論から理解する視点は、チャールズ・ディルクの影響であろう。この点については宮本盛太郎『知識人と西欧』(第二版、蒼林社出版、一九八三年)第二章が指摘している。なおこれより約三ヵ月後の『国民新聞』(一八九〇年九月四日、無署名)にも、似た趣旨の論説「海外に雄飛すべし」が掲載されている。
(29)  日露戦争直後の一九〇五年六月一八日の論説で、蘇峰が日本の姿を「旅烏」と評して深い孤立感を表明していることは、すでに前掲拙稿で指摘した。