立命館法学  一九九五年第一号(二三九号)




◇ 紹 介 ◇
ギュンター・シュペンデル

祝 賀 論 文 集 の 紹 介(六)
Festschrift fu¨r Gu¨nter Spendel zum 70. Geburtstag am 11. Juli 1992/
hrsg. von Manfred Seebode.-Berlin ; New York : de Gruyter, 1992


刑  法  読  書  会
生  田  勝  義 編







目    次


  • クリスティアン・キュール「当罰的態度の自然法的限界」
  • H・ミュラー=ディーツ「量刑と効果指向」
  • ウルリッヒ・クルーク「七〇年を経たカール・フォン・オシーツキー裁判に対する再審の試みに関する考察」
    ---以上一九九四年一号 
  • クラウス・ロクシン「復活したローゼ・ロザール」
  • ヘルベルト・トレンドレ「基本法の人間像と統一ドイツの堕胎法の新規制」
  • クラウス・ラウベンタール「少年の逸脱行動に関する犯罪学的認識の結果としての少年審判補助機関の任務の変化」
    ---以上一九九四年三号 
  • ハンス=ルートヴィッヒ・ギュンター「刑法上の正当化事由の分類」
    ---以上一九九四年四号 
  • ハロー・オットー「過失の正犯と共犯」
  • ギュンター・ベムマン「裁判官と制定法を超える法」
  • オトフリート・ランフト「刑事訴訟における証拠禁止についての覚書」
    ---以上一九九四年五号 
  • ゲルト・ガイレン「『死の天使』の(への)哀れみ」
    ---以上一九九四年六号 
  • マンフレート・ゼーボーデ「不真正不作為犯の法的明確性について」
    ---以上本号 


 マンフレート・ゼーボーデ
  「不真正不作為犯の法的明確性について」

MANFRED SEEBODE, Zur gesetzlichen Bestimmtheit des unechten Unterlassungsdelikts. in : Festschrift fu¨r Gu¨nter Spendel, 1992, 317-346.
〔紹介者はしがき〕
 不真正不作為犯と罪刑法定主義との関係はドイツではしばしば議論されている。刑法第一三条が設けられてからは、本条が総則において不真正不作為犯処罰の一般的要件を抽象的に規定しているために、基本法第一〇三条第二項の明確性の要請と抵触するのではないかが問われている。ゼーボーデ論文は、まず刑法上の合法性原則につき一般原則と比較しつつその不十分さを指摘し、次に不真正不作為犯の判例・学説の動向を簡潔にまとめ、刑法第一三条と法的明確性との関係を検討したうえで、作為義務が法律上または契約上根拠づけられる場合にのみ本条が適用されるべきことを主張する。それは現在の理論水準においても不作為犯の成立範囲の外枠が抽象的価値基準で設定されるにすぎないこと、今日なおナチス時代における処罰感情論に基づいた刑法理論の後遺症が感じられること、および、啓蒙主義の貴重な遺産で法治国家原則の根幹をなす合法性原則が刑法領域において徹底されるべきことを指摘し、フォイエルバッハの発生根拠論への立ち返りも原理原則論による説得力がある。ただ、刑罰法規の明確性が何を対象にどのような資料に基づきどの程度要求されるのかについて一般的な判断方法が提示されていない点、法律または契約が作為義務の根拠とされる場合に不作為による危険状況の惹起や親密な生活共同体を根拠とする学説とは現実にどの程度処罰範囲の違いを生み、形式的作為義務を作為犯の構成要件に相応した保護目的や刑法上の重要性などで具体的にいかに限定するのかが詳論されていない点、また、法的明確性をはじめとする合法性原則と実質的な要罰性・当罰性の議論との関係が明瞭ではない点には不満が残る。わが国では、ドイツとは異なり、不真正不作為犯は罪刑法定原則に基づく解釈の限界の問題であろう。刑罰法規の文言が不作為をも意味しうるとしても、法規の明確性に照らしその適用範囲の特定性・限定性を促進・強化しないのであればその解釈は不当であるから、個々の犯罪類型ごとに立法による犯罪化が現代的罪刑法定原則に合致すると思われる。いずれにせよ、不真正不作為犯の処罰範囲の限定との関係でゼーボーデ論文は参考になりうるであろう。以下、その要旨を紹介する。
*     *     *
 シュペンデルは、一九四八年のラートブルフ古稀祝賀論文集における初期の論文において、ラートブルフに従い、理性、明確性、秩序および首尾一貫性により拘束された認識方法を重視する合理主義を明らかにした。
 理性に基づく法律学は、客観的事実的な目的志向的思考の前提に服し、あらゆる感情的な法発展およびそこから生じる法の不明確性を回避し、裁判官の裁量を排除し、その体系的に描かれた領域の明確な特徴づけによって個人の自由を保障する。ラートブルフは「秩序は救済である」とする。「法律なければ刑罰なし」という命題は「啓蒙主義の子」である。啓蒙主義によって根拠づけられ、ナチス時代の崩壊以降再び認められた、合理的な刑事政策や理性に合致した法認識の要請は合法性原則を憲法上の原則とする。刑法上の合法性原則は、基本法のもとで、合理的で首尾一貫した適用により、議会民主主義的に合法化され一義的な刑法秩序を保障するのにふさわしい。それは、裁判官の裁量を排除し、処罰に値すると感じた行為を可罰的と規定された行為にする誘惑を禁ずる。厳格な法律の制限のもとで追及されるあらゆる目的は、学説や実務がこの前提をより徹底的に考慮し、解釈論と立法論とを明白に区別し、また、法律がより明確に記述され、より合理的、分析的かつ体系的に理解され実務で用いられれば、より迅速にかつ正確に達成される。
 本稿は、不真正不作為犯という重要な領域について、立法者、理論家や実務家が、われわれの歴史の脱却された非合理的な時代の法発見や認識の方法を引き継いでいるのか、あるいは、感情に基づく可罰性の解釈、「健全な民族感情」による法の獲得の裁量、矛盾や痕跡を有効に免れているか否かという問題を検討する。

I

 刑法上の合法性原則は、比較的新しい一般原則に巻き込まれながら、より厳密になっている。最も重大で社会倫理的非難と結びついた国家の法介入である、刑罰による威嚇とその合憲性が、合法性の一般原則によってではなく、基本法第一〇三条第二項および刑法第一条によって判断されるべきこと、ならびに、刑法上の原則による刑罰の合憲性に対する要求や標準が、包括的な法治国家原則が市民のその他の負担につき前提とするものより劣ってはならないことが明らかとなる。
 1.基本法第一〇三条第二項で保障された原則の意義は争われない。「成文による、厳格で、確実な事前の法律なければ犯罪も刑罰もない」は、刑罰の予見可能性および計算可能性によって法の確実性を保障する。何人もいかなる行為が禁止され刑罰で威嚇されているのかを予め知りえなければならない。権力分立や民主主義原理の保障は規範の受取人の法治国家上の保障という役割に資する。これによって、立法府のみが可罰性につき決定をなし、他の国家権力が処罰の前提を規定することは禁じられる。さらに、憲法は、刑法の適用における平等を保障し、刑法の断片性を守らなければならない。一般予防の考慮と結びつきから、責任原則との関係が無視されてはならない。この関係は、それが人間の尊厳を尊重するという憲法の任務の具体化であることを証明している。この原則は国家の全能に対する国民の防壁とされ、同時に、刑法典が「犯罪者のマグナ・カルタ」と呼ばれる。
 2.市民の自由と同様に法的確実性のために、そして、民主主義的要請と同様に権力分立の保障のために、法律あるいは一義的で明確な法律上の原則によって発せられない、あらゆる国家による法の介入を違憲とする定式は、ワイマール時代以降、明らかに国法理論の一部に加えられ、法治国家上の基本原則の一つとされる。しかし、基本法第二〇条第三項によって前提とされ憲法上の慣習と考えられるにせよ、これは基本法その他の連邦法においても包括的かつ明確には規定されていない。罪刑法定主義と比較して、憲法による一般的な法律による制約はあまり強力ではない。というのは、より厳しい法律による拘束では廃止されるであろう活動の余地が執行府に残されており、また、刑罰ほど厳格に規則に合致した行政行為が市民に帰せられるわけではないからである。しかし、国家行為の重大性に応じ、法律上の委任に課される明確性の要求は大きくなっている。
 3.一般的な法律による制約は現実的な意義を増し、その適用領域は拡大している。一九七二年以降、刑の執行の法律による制限に関する連邦憲法裁判所判決のために、個別的な権力関係はもはや合法性原則の例外ではない。法律の制約は、市民に直接関係する原則上の問題の一つであるにもかかわらず、より包括的で、民主主義上かつ法治国家上刻印された議会の制約である。連邦憲法裁判所は一般的な法律の制約を伝統的領域を越えて拡大している。しかし、適用領域の拡大のみが一般的な合法性原則の現実的意義の高まりを示すものではない。同時に、法律の明確性や確実性および国家行為の計算可能性に対する要求も高められる。近時、連邦憲法裁判所は、制限の前提と限界が確実で市民に認識でき、規範の確実性という法治国家の要請に相応する法原則を要求する。いわゆる国勢調査判決は、自己情報決定権にかかわり、一九八三年国勢調査法第九条第一項(国勢調査の結果の届出記録簿との照合およびその訂正への利用)がその内容において不明確でその射程につき市民に理解できないであろうから、違憲と判断した。同条第一項後段の効果も軽視できず、同条第三項と同様に、明確性に違反した。また、各自の統計上の処理のためにラント統計庁から諸団体への国勢調査における重要事項の引き渡しを認める規定につき、統計上の処理という文言は非常に不明確でさまざまな活動のために用いられうるから、自己情報決定権への干渉の法的前提が不正確であるとして、同条同項第二文も違憲とした。
 4.これに対して、もっとも苛酷な国家による法介入としての刑罰の法的前提の合憲性については、明らかにささいな要求がなされているにすぎない。罪刑法定主義は、より古く、しっかりとした基礎をもち、一般的な法律の制約に対比して際立った地位にある。しかし、その適用領域は相変わらず狭く限定されており、その有効性も失われている。
 刑罰が法律上規定されなければならないが、それは刑の量定の本質からあまり厳格でない標準や相対的な明確性で十分とされ、法的結果に対する明確性の要請をほとんど無意味とするような刑罰の大まかな限定が許容される。また、基本法第一〇三条第二項の適用範囲から、刑事訴訟法は原則的に除外される。
 連邦憲法裁判所は可罰性の法的明確性をしばしば強調している。例えば一九八三年には、「『法律なければ刑罰なし』の原則は成文の実体刑法に刑事裁判所を厳格に拘束することを根拠づける。刑事裁判所は立法者の言うことを言葉どおりにとると考えられる。それを正すことは刑事裁判所には禁じられる。・・・十分に明確な刑罰構成要件を要求する基本法第一〇三条第二項は、何人もいかなる行為が禁止され刑罰で威嚇されているのかを事前に知りうることを保障する」、と述べた。しかし、刑法上の合法性原則は、一般的な合法性原則とは異なり、危機的状況にある。連邦憲法裁判所は、刑法が現実社会の多様性を考慮しなければならず、一般的な、不明確な、流動的な概念や一般条項の必要性を強調する。法的明確性も、状況の変化や個々の事例の特色を考慮しなければならない法領域の本質から、過剰に要求されてはならない。刑罰命令の射程や適用領域が解釈によって確認され、処罰の危険を知りうるであろうことで十分である。「甚だしい狼藉」が固まった判例により厳格に確定された意味を理由に明確であるとした判決は、刑罰威嚇の法的明確性が裁判官によって決定されうることを意味する。それゆえ、法的明確性の要請は、「政治的信条」にすぎない、裁判官の全権に委ねられる、罪刑法定主義の底点であるなどの厳しい批判を受けている。
 判例や学説を支配するあきらめの代わりに、刑法システムにおける不明確性の必要を非難しこれを覆す努力がなされなければならない。法治国家の基本原理は、裁判や法律学の信頼性のためにも、「口先の信条」であってはならない。実際、連邦裁判所はこれまで刑罰規範を不明確と判断してはいないが、連邦憲法裁判所は刑法上の合法性原則に現実的な重要性を付与する傾向にある。一九八八年および一九九〇年に明確性の要請に基づく刑罰規範への異議に手を差しのべ、一九八六年には、「口先の信条」に対する警告や、個々の事例において明確性の要請や類推禁止の違反をあまりに大まかに評価する傾向にあるという正当な批判を取り上げている。

II

 明確性の要請が罪刑法定原則の底点を意味するのであれば、不作為による結果不回避の可罰性は、法律上の刑罰の基礎づけおよび構成要件の明確性という憲法上の要請を軽視する点で頂点に位置する。
 1.不真正不作為犯に対する罪刑法定原則にもとづく議論は古くからある。その処罰が類推禁止に違反すること、あるいは、作為との同置が違憲であることなどがしばしば主張される。そこで、立法府は、憲法上の異議に前もって対処するために刑法第一三条を設けて、作為犯が原理上不作為によっても行われうるとした。第一三条は刑罰に値する不作為を可罰としているにすぎず、基本法第一〇三条第二項および憲法判例に照らして、立法府のさらなる対応が引き続き求められる。
 2.刑法第一三条は、「刑罰法規の構成要件に属する結果が生じないことを法的に保証する場合、その結果の回避を怠ったこと」の可罰性の基本原則である。可罰条件として、法的な行為義務が不可欠であり、倫理上その他の義務では明らかに不十分である。しかし、刑法は、いかなる場合に法的作為義務が存在するのか、とりわけ、それがどこから生じるのか、それがどのような性質のものでなければならないのかにつき、何らの指示も与えない。これらを明らかにするには、不真正不作為犯の歴史的展開に立ち戻り罪刑法定原則を顧慮した検討が必要である。
 可罰性を根拠づける法的義務は、当初、法律または契約から生じる場合にのみ認められた。フォイエルバッハは、明らかに、作為義務が根拠づけられる特別な法的根拠を要求し、「これらの法的根拠がなければ、人は不作為によって犯罪者とはならない」とした。まもなく先行する違法な行動から、さらに一九世紀後半には時々合法な先行行為から、保障的地位を導く学説が主張された。法律と契約に向けられた形式的法的義務説は放棄され、いわゆる実質説が優位となる。家族共同体、親族共同体、危険共同体や居住者共同体など親密な生活共同体が行為義務を根拠づけるという見解が、罪刑法定原則の破棄に乗じて、ナチス時代の裁判例によって採用され、形式的法的義務説から実質説に傾く学説により有力化した。それは広範で危険な基準や不作為の機能に照準を合わせた基準から導かれた。具体的には、社会の期待およびそれに相応する自然感情、法秩序全体の精神から導かれる法義務、すべての人間の連帯の緊密化に伴う個別倫理的義務の法的社会的義務への移行、共同体における行為者の地位や倫理的義務の一般的実現への信頼などである。ライヒ最高裁判所は一九三五年九月の判決で改正された刑法第二条の「健全な民族感情」を考慮した。学説の一部がこれに賛成し、民族的な慣習秩序から生じる義務が何らかの実定法上の規定によって知らされなくても可罰性の根拠となると主張した。
 ナーグラーは、一九三八年の論文において「保証人」につき詳論し、「合法性ならびに違法性は、現在、健全な民族感情にしたがい決定される。フォイエルバッハの法原則(法律なければ犯罪なし)の破棄に基づき、そのかぎりではわれわれの刑法は自由主義以前の時代の刑法段階に立ち戻っている。この新たな法思想は、不作為による犯罪遂行に関するライヒ最高裁判所の判決においても、公式に堂々と侵入している。司法の倫理化によって、裁判所は、面倒に集められた何らかの法律資料によるカモフラージュをもはや頼らなくてよい。最高裁判所は、率直かつ自由に、社会倫理的拘束を公言できる」とした。
 ライヒ最高裁判所の新たな法根拠論は学説や裁判をひきつけ、戦後の判例も広く行き渡った価値判断に基づき憂慮すべきほど拡張している。
 法律、自由意志による引き受け、不作為による危険な状態の惹起、および、家族共同体、生活共同体あるいは危険共同体という、刑法第一三条の法的作為義務の発生根拠は、判例および学説によって基本的に承認されている。しかし、これらの発生根拠は不真正不作為犯の特徴である法的不安定を解消してはいない。しばしば実質的な基準により、主として法的義務の機能によって分類する新たな見解もやはり十分ではない。保護義務と保障義務との区別は細分化され一部基準が具体化されているが、しかし、行為義務の法律上の基礎や起源およびその明確性に関する重要な問題を解決せずむしろ隠蔽する危険すら孕んでいる。明確性の要請を満足する結果回避義務に達することはかなり困難である。というのは、判例が用いる四つの形式的原則あるいは新たな理論の実質的考察方法いずれも、保証人的地位が、その根本思想においても、きわめて多くの具体的事例においても、なお不明瞭で議論の余地があり、より詳細には明確化しえないからである。
 3.不作為による結果不回避が可罰的であるとしても、今日実務で行われ、学説上過度に細分化した刑法第一三条の法的義務の根拠は明らかに法律上明確であるとは判断されていない。法律上の規定の欠陥や明確性の要請の違反を根拠に違憲論が主張される。
 イエシェックは、第一三条によって明確性の要請が十分には充足されていないとする。ラックナーも、本条がその境界設定に重要であるあらゆる本質的な事実問題を解決しないままであるから、不真正不作為犯の明確性の原則に関する問題性が解決されてはいないとする。ヴェルツェルは、不真正不作為犯の場合、「法律なければ刑罰なし」の原則が根本的に縮小されているとする。ヤコブスは、刑法第一三条について「規定の不明確性」と「法律上の就任義務(Einstandspflicht)の高度な不明確性」を問題とする。シュミットホイザーは、第一三条が法的安定性には何ら貢献しえない、というのは、この規定がまさ決定的な境界線を指定しえないからであるとする。そして、バウマン/ウェーバーは、基本法第一〇三条第二項によって要請される可罰性の法的明確性が充足されるのか否かは不確かであるとし、エーザーも同じく構成要件の明確性の不充足に関する疑念をもっている。ロクシンは、憲法裁判所の判例によればきわめてささいな要求のために実務上存続している法規の明確性の侵害を遺憾とする。オットーもまた、保証人的地位の範囲があらゆる場合に議論の余地があるから、基本法第一〇三条第二項から生じる問題性が未解決のままであるとする。ボッケルマンは、保証人的地位が書かれざる拡張的な構成要件要素であるとして合法性原則に違反するとする。
 4.しかし、通説は、合憲性を支持し、以下の五つの根拠を指摘する。
 (a) 刑法第一三条によって要請される法律上の就任義務は、刑罰構成要件において不作為にも言明された可罰性を制限する機能を果たすとする。しかし、この理解は、可罰性の範囲が積極的に(可罰性を根拠づける)あるいは消極的に(制限的に)理解されるかの判断によって、法的明確性をすり抜けることを認めこととなり、不当である。禁止形態の刑罰構成要件が事実上行為命令を示し不作為をも含むのか否かについて、立法者は第一三条でもってこの問題を否定し、保証人説による構成要件の制約を固守することで、明確性の要請を顧慮しても何ら得られないとする。それは無限定かつ不明確な刑罰構成要件の引き受けを前提とする。
 (b) 第二に、憲法作成者がこの実務を知っていたことが主張される。これは、憲法作成者の歴史的意思をよりどころにした基本法第一〇三条第二項の制限的な解釈に、憲法上の疑念を克服する可能性を見いだすものである。しかし、それは、憲法作成者がこの実務を知っていたこと、いや、そもそもそれにつき考慮したことの証明すら失敗している。議会によって合法と認められないあらゆる可罰性に対する、基本法第一〇三条第二項で言明された否認を受け入れ、とりわけ、憲法作成者が、罪刑法定主義の破棄に従い、可罰性が「国民倫理」を引き合いに出して拡張する実務や学説を拒絶していたことが考慮に値する。そのため、憲法作成者が明確性の要請を明らかに必要とする刑法上の合法性原則の要請を制限することを望むとは考えられない。さらに、意味やテキストを歪曲する歴史的解釈は批判されるべきであるという一般的考慮からも疑問である。
 (c) 慣習法を引き合いに出して可罰的な不真正不作為犯の不十分な法的明確性を満足させようとする試みもしばしば見られる。しかし、法的行為義務の内容と範囲についてはなお重大な意見の相違があり、刑法第一三条は常に不明確な慣習法を内包する。これは合法性原則を無視する。というのは、それが慣習法上まさに明文に根拠をもたない刑法を認め、憲法に違反するからである。刑罰を根拠づける慣習法の禁止は、各則の領域だけではなく、総則にも妥当する。慣習法による保証人理論を許容する解釈は、理論的な根拠づけを欠き、基本法第一〇三条二項の価値を低減し、司法権に立法権限を与えることとなる。
 (d) 連邦憲法裁判所判決は、判例や学説による具体化に照らして「甚だしい狼藉」の可罰性が十分に明確であり、また、立法府による明確化のみが是認されるものではないと判断した。これによれば、刑法第一三条も少なくとも一定の明確性の程度に達しており、さしあたり満足しうるという推論に達する。しかし、この判決は刑法第一三条には適用されない。というのは、比較できる概念および具体的な保証人的地位が規定されていない点で成文法を欠いているからである。さらに、その明確性は制限されているがなお不確実な核心領域においても争いのある事例を確定しえないであろう。可罰的な不真正不作為犯は、判例によっても、可罰性の前提および限界が明確で国民が認識できるほどには確定されない。保証人義務の根拠に関する論争や立法者の断念は、不真正不作為犯の明確化がこれまでの学説や判例によって将来に委ねられていることを示している。
 (e) 最後に、不真正不作為犯の実務による処罰の合憲性を根拠づけるのに、立法者はその欠陥を除去する類型化をなしえなかったが、さもなければ生じる多くの処罰の間隙に照らして少なくともさしあたりは現状で甘んじなければならないと主張される。これは罪刑法定原則が不真正不作為犯については重要ではないことを明瞭に認める。そこでは、以前に明らかに合法性原則に勝ち誇った保証人理論がそのまま引き出され、相変わらず核心としてそして唯一の基礎として法感情を示すにすぎない。そこから基本法第一〇三条に反して処罰する必要が生じ、また、基本法第一〇三条からこれを覆い隠す必要も生まれる。
 基本法第一〇三条を根本的に覆す試みは以下の二点で不当である。第一に、不可能が要求されえないという認識は確かに正当であるが、それは憲法がいわゆる処罰の間隙を埋める義務を負う場合にのみ立法者によって利用されうる。法律上不明確な不真正不作為犯の犯罪化に関するそのような義務づけは、そのような義務に対する基本法一〇三条二項の劣位化と同様に認められない。第二に、不作為犯の法律上のさらなる明確化が実現されえないであろうということは証明されていない。例えば、一九六六年の代案第一二条や一九六三年のバウマンの対案第八条は、作為義務の発生根拠を列挙することで、これまでの不明確性に対処する。また、不真正不作為犯の規定は、総則に置かれるのではなく、刑罰構成要件で個別に明確化され、やむをえない場合には諸外国の法や草案のように刑法基本原則の違反ではなく「処罰の間隙」を甘受する可能性を追及する余地が残されている。さまざまな提案は、それが可罰性を制限するとして個々に批判を受け、また、とりわけ基本原則においても詳細においても明確性あるいは統一性が達成されておらず未解決なままであるから、法律とはなっていない。それは基本法第一〇三条二項が許容しないのである。

III

 これまでの状況は、アルミン・カウフマンがすでに「不真正不作為犯の不十分な構成要件の明確性の法治国家的問題性はいつものように学説上の解釈によっては克服されえない」、と言い当てていたとおりと思われる。では、法的明確性を欠くために刑法上非難されうる結果不回避を不可罰とみなす少数説に与すべきか。
 1.刑法第一三条が法律上明確な法的作為義務を指示するかぎりでは、罪刑法定主義はその可罰性と対立しない。もちろん、刑法第一三条の文言を顧慮しつつ、しかし、あらゆる法的義務の違反を刑罰の対象とせず、不真正不作為犯の可罰性を無限定としないという目的に照らして、法規定が、作為犯の刑罰構成要件に相応した保護目的を示し、侵害された法益を保護するために行為者を「歩哨に立たせる(auf Posten stellen)」法的かつ刑法上重要な結果回避義務を根拠づけるべきである。新たな機能理論またはいわゆる実質的法的義務理論がこれを解明するのに参考となる。子供の福祉に関する基本法第六条第二項一段、民法第一六二六条、第一六三一条による両親、道路が滑り易い場合には滑り止めの砂をまく義務を定める共同体規則による通行人に対する家主は明らかに該当する。しかし、配偶者は、民法第一三五三条が相手配偶者による第三者への侵害防止の保証人あるいは配偶者の処罰に対するその保護の保証人とするものではないから、相手配偶者の犯罪行為を阻止する地位にはない。直接の法律上の作為義務としては、法律に基づくもの(合法な命令、法律上有効な判決)や作為義務が契約によって規定され法律上根拠づけられる場合があてはまる。それは、構成要件的結果を防止する法律行為上の義務者が、「約束の不履行は殺人者を作りえない」という原則が拒否されるゆえに、「歩哨に立つ」場合には、刑法第一三条により刑法上の意義を有する。
 しかし、通説とは違って、法益保護の単なる事実上の引き受けは、より広い状況(例えば、行為者の存在を信頼した犠牲者による危険創出や危険の増大)と関連して、何らの法律上の結果回避義務を根拠づけるものではない。そこでは有効な合意が考慮されるべきである。それが法律上の義務を生み出すからである。契約が適切な行動によってもまた第三者のためにも締結されうるから、不作為は契約による保障人的地位を用いて理解され、危険共同体や緊密な生活共同体により根拠づけられる法律上の作為義務も可罰的とされうる。例えば、登山家によって形成された集団(刑法第三二三条cによる法律上の義務を欠くままである偶然的な危険共同体を除く)や家族の一員に加えた者による病人の世話の不履行である。もちろん、構成要件上の法益保護の備えをさせる契約上の義務のみが考慮される。刑法第一三条における不作為行為者は、刑法上非難される結果が生じないことを法律上保証しなければならない。被用者の一般的忠実義務は被用者を雇用者のあらゆる法益に関する保証人とするものではない。
 2.不作為による危険状況の惹起、緊密な生活共同体あるいは危険共同体、自らの責任領域または支配領域に基づく保証人的地位は法定されていないし、また、法律上も法律行為上も根拠づけられない。事実上の発生根拠に基づく可罰性は刑法上の合法性原則に矛盾する。というのは刑法第一三条はこれを含まないからである。啓蒙主義における法規への厚い信頼ははるか昔に克服され、法規による拘束が不可能であり望ましくもなく、解釈や価値判断が必要であることは認められる。しかし、可罰性は法律から明白に理解されえなければならない。つまり、法への服従につき予測可能で法律を手掛かりに確認でき、立法者の明白な意思に基づかなければならない。さらに、刑罰法規は少なくとも裁判に堅固で確かな根拠を与えることが必要である。法律や契約からではなく、不作為による危険状況の惹起や事実上の共同体から派生した保証人的地位や、これに基づく不真正不作為犯は、法律からは明らかにならず不明確である。そのような発生根拠から導かれた義務は、道徳上社会倫理上根拠づけられ、さまざまに広がる感情に迎合するが、それ相応に不明確である。形式的法的義務論の明白な刑事政策的欠陥は法律上もはや抑制しえない保証人義務の増殖をもたらす点にある。刑法の断片性、権力分立や明確性の要求の軽視は、社会倫理的非難だけではなく、個々人の役割・地位を社会学的に描写し、その者に対する社会の期待を保証人的地位の根拠にまで高める分析にも基づいている。社会的な日常的期待は立法者によって法的要求に根拠づけられない道徳的義務を拠り所にするかもしれないが、それが法的義務に高められるかぎり、法律上や法的業務上の結果回避義務は社会学的確定によってのみ具体化されうる。しかし、全くの事実上の期待の違反を根拠とする不作為は刑法第一三条において問題とはされない。不作為による危険状況の惹起に基づく刑事責任は、無限定な法規定や裸の裁判官による決定として、罪刑法定主義と矛盾する。緊密な生活共同体などに基づく不作為も同じである。結果回避に関する法的義務は存在しないし、生活共同体の概念の外枠も欠如している。
 3.不真正不作為犯は、刑法一三条における一般的規定によって要求される結果回避義務が法律上または契約上根拠づけられるかぎりで、基本法一〇三条二項と調和する。先行行為や共同体などの単なる事実的根拠から導かれる作為義務を法律上根拠づけられるとし、そこから可罰性を推論することは、「法律なければ犯罪も刑罰もない」という基本原則と矛盾する。結果回避義務の慣習法による承認も十分ではない。というのは、それが明確性の禁止ならびに刑罰を根拠づける慣習法の禁止に違反するからである。不真正不作為犯の領域を判例や理論によって取り込もうとする立法者の試みは、犯罪行為の法的明確性の要求に矛盾する。争点の未解決および理論や判例への委譲はしばしば賢明であるが、刑法一三条の文言に基づき、基本法一〇三条二項に適応する解釈によれば、法的明確性が出発点とされるべきである。刑法上の合法性原則のために、刑法一三条からいわゆる形式的法的義務論への指示を読み取る以外の術はない。
 法律上のまたは法律に基づく作為義務は、不真正不作為犯の必要条件であるが十分条件ではない。刑法上重要であるのは、あらゆる法的義務ではなく、その保護目的が犯罪構成要件の保護目的と合致し、最終的にはその法益の保護につき用心して不作為を「歩哨に立たせる」、十分に明瞭で、明確で一義的な法的義務である。フォイエルバッハの死後一五〇年以上経ても、刑罰の前提が国勢調査に伴う法干渉に劣らぬほど明確であるべきであれば、刑法一三条や基本法一〇三条二項の命令はますます正当となる。それゆえ、(部分的な)後退は進歩である。これは「明白に討論の価値のない先祖返り」と見なされるべきではない。形式的法的義務論が悩ましい解釈をせずに他の諸見解が認める不真正不作為犯事例を可罰的とするとしても、増大する法規制のゆえにそれだけ一層、可罰性の間隙は正義感によれば確実なままである。この間隙がまさに、本来の理論から方向転換し、自由な法発見、さまざまな保証人的地位の繁茂、部分的には国家社会主義思想の利用、最終的には法感情に調和的な伝統的な言い回しのカタログに通じている。それゆえにまた、形式的法的義務論が狭すぎるあるいは広すぎるという主張は基本法一〇三条二項に対してもはやその優位を保つべきではない。刑事政策的考慮は検討されるべき立法論であり、合法性原則が厳格に適用されればされるほど支持されるであろう。処罰感情は何ら解釈論を基礎づけない。立法者が別の規定を作成するまで、現実の処罰要求は、不真正不作為の刑法一三条によって把握されていない若干の事例では、感情的な刑法の理解がシュペンデルによって常に支持された、法規に忠実で、合理的で、かつ、首尾一貫した目的思考に導かれる刑法の理解に対してその優位を保つべきでなければ、不可欠の法治国家原則である「法律なければ犯罪なし」に屈服しなければならない。 (門田成人)