立命館法学 一九九五年二号(二四〇号)




◇ 資 料 ◇
アメリカ「多元主義」の系譜
---マディソンから行動論まで---

ジョン・G・ガネル   
中  谷  義  和 訳   







「いずれの形態の社会生活であれ、その研究の主要課題は、諸集団の分析にある。・・・諸集団が適確に論述されたとき、一切が論述されたことになる」
---アーサー・ベントレー 
「"多元主義者たち"という言葉は、彼らにあって、観察された集団の諸形態の多元性が論じられているわけであるから、そうした研究者に適用するに妥当であろう」
---アール・レーザム 
 ジョン・ディキンソン(John Dickinson)は、一九三〇年の『アメリカ政治学雑誌(American Political Science Review)』の論文において、「貴族主義的ドイツが、フォン・ヒンデンブルク大統領のもとで、安定した共和国へと移行したことは、長い民主政治の進歩の歴史にあっても、注目すべき奇跡のひとつである」と主張している(1)。この見解は、カール・フリードリヒ(Carl Friedrich)やウイリアム・ヤンデル・エリオット(William Yandell Elliott)にも認められるように、研究者たちにあって広く共有されていた。この指摘から読み取れることは、部分的であれ、政治学の予見能力には限界があるということである。この点は、例えば、ベルリンの壁の崩壊を目のあたりにして、再び、驚愕に包まれたことにも認められる。だが、本論とのかかわりという点では、これに止まるものではなくて、ディキンソンの指摘に従えば、民主政治の理論はアメリカ政治の実際に求められるべきであるし、また、民主政治の理論とアメリカ政治の実際は、多元主義ないし集団間の対立と妥協の過程において規定され得るとの主張が登場していることである。
 一九七〇年代の中期までに、多元主義をもってアメリカ政治学の経験的・規範的理論とする考えは、広範な批判にさらされるに至っていた(2)。マンカー・オルソン(Jr.)(Mancur Olson, Jr.)は、そうした批判者のひとりとして、集団活動が自動調整的で公的利益そのものの維持に連なるとする信念に潜んだ鍵的概念のいくつかに挑戦している。彼は、「圧力集団には、総じて、有益なものがあるとか、あるいは、少なくとも良好なものがあるとする理解がどうして展開されるに至ったかについて、これを精確に辿ることは困難であろう」と示唆している(3)。だが、本論のねらいは、こうした理解の系譜化にほかならない。本稿の紙幅で、この物語のすべてを語り得るとは思っていないが、こうした言説がどのような展開の過程にあったかについて、その輪郭を辿り、その決定的節目を再構成したいと思っている(4)。「批判的多元主義から・・・無批判的で弁護論的多元主義への移行が一九五〇年代に起こった」という確信が広く存在している(5)。そうした移行が、確かに、この時点で結晶化したとも言えようが、その進化は、長く複雑な道程にあったのである。
 ここで検討することは、多元主義の概念であって、その現象ではない。この指摘をもって、本稿の対象領域の予告ともしておきたい。多元主義は、例えば、国家と同様に、政治学の言説から立ち消えてしまった用語ではない。政治学の言葉にあって、合衆国が多元主義社会であるとみなしたり、多元主義をもって民主政治とすらみなすことは、別に異常なことでもない。しかし、この概念の意味が、言説的に、どの程度に定着し、また、どの程度の歴史にあると指摘し得るかとなると、その位置付けは、主として、政治学に関、す、る、注釈の領域に、すなわち、政治学と政治理論の領域に属することになる。その範域の確定がこの考察の中心となる。この概念が、政治の事象によって、どの程度に触発され、あるいは、逆に、政治用語にどの程度に浸透しているかということ、この点は、触れるにしても、主な対象とはしない。同様に、政治の理解と説明という点で、この概念の認識論的有用性を評価することも直接の対象としない。本論の課題は、多元主義概念の展開を政治学の言説の内的力学の文脈に位置付けることにある。
 多元主義の概念をめぐっては、多様な主張が歴史的に展開されてきたが、その最大の問題のひとつは、この概念を敷延ないし抽象し、多様な基準をもとに、類似の、あるいは想定可能なイメージとみなされ得るものをも多元主義の概念に含ましめようとする傾向である。この種の予弁法型アプローチから、二つの困難な事態が生ずる。第一は、多くにあって、明らかに個別のものであったり、あるいは緩やかな連関にしかないもの相互の関係を具体的なものと、あるいは同じものとみなしたり、さらには両者の歴史的連関をつけようとすることである。第二は、決定的転換が起こっていながら、これをあいまいにすることである。多元主義の生成過程を検討するにあたって、多くの理由から多元主義の先行形態としてなにを設定するのが妥当と考えられるかということ、この点の検討が重要であるにしても、多元主義の先行形態に、既に、多元主義が内在していたと想定しないことが、あるいは、現在のイメージをもって、過去の意味を引き出さないことが必要である。さらに、より重要なことは、機能的・分析的類似性が認められるからといって、これをもって、歴史的に同根の類似性と類縁性の位置にあるとみなさないようにすることである。
 この概念の進化過程を再編成しようとすると、ひとつの困難に出合うが、これは、政治学史の研究の、より一般的な問題に起因している。これは、この学問にあって、政治学の現在を過去に投影することをもって、あるいは、新しいアプローチの正統化過程において政治学の現在に間違った性格を与えることをもって、その過去を打ち消そうとする傾向が認められるということである(6)。だが、なぜ多元主義概念の具体的展開が関心の対象とされるべきなのであろうか。多くの理由を挙げることができようが、次の三点を強調しておきたいと思う。
 何よりも、多元主義には、アメリカ政治学史の主な流れについて、また、他の諸国の政治学の形成に与えた影響という点で、その知的移動についても、かなり多くのことを語りかけ得るものが認められるということである。現代政治学の主な規範的・記述的・説明的・イデオロギー的テーマが多元主義概念を展開軸としていたという考え、これを否定しようとする人々はまずいまい。例えば、多元主義の展開を理解するということは、政治学の主要な研究課題のひとつを理解することであるのみならず、内外における、また、二〇世紀アメリカ政治学における民主政治の主要な理念の展開を理解することにほかならないからでもある。第二に、現在、東ヨーロッパなどの諸国の民主政治と民主化が強調されるなかで、特徴的なことは、多元主義の視点から説明されることが多いが、民主政治と多元主義とを等視することがどのような性格の問題をはらみ、また、こうしたイメージとまつわって、合衆国の民主的社会をめぐって、どのような論争が繰り返されたかについて考察したものはほとんど見当たらないということである。多元主義と民主政治とを等視しようとする潮流はいくつかの例に認められるが、これには、ワイマール・ドイツの場合と同様に、近視眼的なものがあると示唆すべき根拠もあるように思われる。第三に、かつて、多元主義をめぐる論争の種ともなったことであるが、国家と社会との関係にまつわる争点は、政治理論の多様な次元で復活しているということが挙げられる。例えば、脱マルクス主義の社会理論は、政治と民主政治の理解に回帰し始めているが、その一般的特徴を多元主義的民主政治の伝統的イメージと区別することが困難な場合が多いものとなっている(7)。
 最初に、多元主義の一般史とその前史に回帰するよりも、まず、この概念が、より厳密には、この言葉が、どの時点で政治学の言説に登場したかという点で、その位置を定め、次いで、多元主義がなぜ政治学の分野で注目されるようになり始めたかについて説明することにしたい。この極めて重要な糸口から、前後を辿ることは可能なことであろう。
 一九世紀の合衆国政治学は、国家の概念を軸としていた。これは、最も直接的には、ドイツ移民のフランシス・リーバー(Francis Lieber)によるドイツ哲学の移植に負うものであり、彼は合衆国の体系的政治研究の創始者ともなった。また、例えば、シオドア・ウルズィ(Theodore Woolsey)とジョン・W・バージェス(John W. Burgess)のように、彼の後継者の教育実践に負うものでもあった。これは、より概括的には、アメリカ国民の制度的展開と統一化の必要の学問的反映と解釈することもできよう。国家の探究には、他に、政治学の知的アイデンティティーと実践的権威の模索という問題も含めて、多数の争点が含まれていた。だが、その顕現形態は、オースティン的分析法学の用語やドイツ歴史哲学から援用された有機体的イメージに窺えるほどには明示的なものではなかった。
 人民主権論からすれば、また政府の上位に位置する権威の理念からすれば、これに不可欠と思われたことは、人民ないし公的実体を探究することであった。だが、これは、例えば、『フェデラリスト論集』のような伝統的文献に認められる限りでは、理論的に明確なものとはされていないし、また多岐化と断片化を強めていた社会にあっては、実践的に自明のことでもなかった。さらに、民主的絶対主義と非干渉主義型政府への関心が強かったことから、この時期の主要な理論家たちにあって、国家と政府との違いが強調されるところとなり、彼らの民主政治観にも大きな影響を与えることになった(8)。一九世紀の中期までに、力点は民主政治の概念に傾き、合衆国をもって民主的共和制と想定されるに至っていた。しかし、民主政治は、基本的に、政治への参加の視点からというよりも、国民国家を構成している諸個人の統一の視点から理解され、政治に参加するということは、フェデラリスト派に認められるように、制約はあるにしろ、大衆の意見とは別のことであり、その上位に位置するものとみなされていたのである。
 二〇世紀の初めまでに、国家は、なお、政治学の主題の位置を占めていたとはいえ、その概念は、政治の機構や機関と同視されるという傾向を強めていた。だが、伝統的国家理論の後退とともに、批判されることも多かったとはいえ、諸集団と集団利益に焦点がすえられるようになり、これが政治の駆動力であり、政治的現実の中心とも考えられだした。こうした趨勢は、二つの補完的事象を触媒としていた。ひとつは、第一次世界大戦の勃発後、国家の理論を先導してきたドイツ哲学に強い反動が起こったことであり、他は、主として、ハロルド・ラスキ(Harold Laski)の著作に代表されるように、また、彼の著作に触発されて、国家主権の伝統的ないし一元的概念の批判が起こったことである。これを触媒として、多元主義をめぐる対話が政治学の言説に明示的に登場するにいたった。
 このように、多元主義は、元来、批判的な規範理論として導入されたのであるが、その後、一〇年間に、やや変則的ながら、世紀転換期以来の展開の過程にあった政治の記述的論述と一体化するに至った。だが、同時に多元主義は、アメリカ政治学にあって展開されていた基本的民主政治論、つまり、国家を共同社会と、また人民主権の中心とみなす論述の基礎を鋭く切り崩すことになった。一九二〇年代の終わりまでに、多元主義は、生成期の代議制政治論の基礎をなすにいたり、次の三〇年間に、新しい形態の民主政治理論に転換するという固有の歴史を辿ることになった。
 近年、アメリカ共和制の知的基盤をめぐって、多大の論争が繰り返されている。一九五〇年代にあって、基本的価値はロック主義的で、アメリカ政治の理論と実際は、革命の時点から、ロックの理論とイデオロギーを基礎とした合意型ヘゲモニーを特徴としているということ、これが、よかれあしかれ、アメリカ政治の実際に内在的な「特質」であると(ダニエル・ブァースティン)、あるいは、自由主義的絶対主義であると(ルイス・ハーツ)主張されていた(9)。一九六〇年代までに、「有害」論に弾みがついていた。これは、部分的であれ、左右のいずれを問わず、ドイツからの移民研究者の著作に負うところがあった。その例として、オット・キルヒハイマー(Ott Kirchheimer)とレオ・シュトラウス(Leo Strauss)が、それぞれ、挙げられる。彼らは、ワイマール自由主義と多元主義への攻撃を合衆国に持ち込み、アメリカ社会の批判的分析に転用したのである(10)。この文献全体にまつわる難点のひとつは、その議論が歴史的形態をとっている場合が多いにもかかわらず、歴史的挙証に欠けていることが多いということである。例えば、C・B・マクファーソン(C. B. Macpherson)は、自由主義を「所有的個人主義」と、また、ホッブズとロックを生成期のブルジョア社会の弁護論者とみなしているが、このイメージは、多くの人々に批判的考察の基礎を提供したとはいえ、「歴史的」批判主義の攻撃に服さざるを得なかった(11)。
 バーナード・ベイリーン(Bernard Bailyn)の『アメリカ革命のイデオロギー的起源(The Ideological Origins of the American Revolution)』(一九六七年)とゴードン・ウッド(Gordon Wood)の『アメリカ共和国の創造(The Creation of the American Republic)』(一九六九年)をもって(12)、建国期の修正主義論の登場をみることになる。この視点においては、革命の息吹となり、その正統化論となったイデオロギーは、ロックの理念や経済的自由主義と政治的個人主義ではなくて、イギリスの公法学者と野党派政治家の扇動性の強い修辞を援用したイデオロギーであって、これは、イギリス憲政の諸原理の修復と再構築を志向した一種の反動的な共和主義的急進主義に根差すものであるとされた。このイメージは、さらに、J・G・A・ポコック(Pocock)によって展開され、アメリカ政治思想の基本的輪郭は、公徳の優位性の観念と結合した市民型ヒューマニズムの古典的共和主義の伝統や、都市と農村とのイギリスの論争に求められるべきものであるとされた(13)。さらには、より「歴史主義的」な政治思想史のアプローチをとるなかで、こうしたテーマの展開に参加することになった人々もいる。例えば、ジョン・ダン(John Dunn)は、一八世紀のアメリカにあって、ロックの影響を求めようにも、その具体的挙証には、困難にちかいものがあると示唆し(14)、ゲリー・ウィルズ(Garry Wills)は、ジェファソンのイメージをもって、自由主義の影響力は、ロックの理念というより、フランシス・ハチソン(Frances Hutcheson)とスコットランド啓蒙の理念の信奉者に求められるべきものとしている(15)。さらには、ドナルド・ウインチ(Donald Winch)に従えば、アダム・スミスですら、その称賛者と批判者から、個人主義と資本主義の理論家という間違った評価を受けてきたわけであるから、修正主義の路線が対象とすべきはロックに留まるものではないとされた(16)。
 他方で、今や、確認可能なまでに、また、注目すべき規模で、以上のような新しい歴史的正説やロックと自由主義の追放論に対し、その反作用が始動するに至っている。ジョイス・アプルビー(Joyce Appleby)、ジョン・ディギンズ(John Diggins)、アイザック・クラムニック(Issac Kramnick)たちが、この種の建国期の読解に挑戦し、一八世紀英米のイデオロギーに占める自由主義的な政治・経済理念のイムパクトの妥当性を強く主張している(17)。問題は、アメリカ政治の性格の理解という点で、この種の検討から、何が生み出されたかということである。
 積極的には、この検討から、それまでにみられなかったほどに綿密な歴史学的文献が生まれたということ、この点は極めて明らかである。また、ウッドが明確にしているように、革命の理念と憲法の作成や正統化にあたって決定的なものとなった理念、この両者には、幾つかの重要な違いが存在していたということも明らかにされている。アメリカ政治の理論・イデオロギー・実践は、人民、代表、権力分立のような鍵的概念の意味という点で、革命と制憲会議とのあいだに幾つかの根本的転換を経ていたのである。幾つかの点で、憲法は、「人民」と公的目的を制度的に代理し得るものを発見しようとする試みであったのみならず、革命によって生み出された政治生活の民主化に対する反動を象徴するものでもあった。これは、部分的であれ、当時にあって、人民とその目的を発見するに困難なものがあったという理由からのみならず、人民を具象すると想定される大衆ないし多数意見には、危険がつきまとっているとみなされたという理由に負うものでもある。
 だが、この種の文献の多くに残されている諸困難のひとつは、多くの点で、現代の政治関心に左右されているふしが認められるということである。少なくとも、こうした著作の多くには、学問的装いにあるとはいえ、イデオロギー的主張がこびりついている。さらに、これは、この時期の政治的志向を一元的に組み替えることが可能であるかのような観念と結合している場合が多いが、これには困難なものがある。別の問題は、この種の文献には、諸理念を行動と事象の駆動力として分離し得るとする学問的な観念論的偏見が反映されているということである(18)。行為者が自らの正統化のよりどころを修辞や理念に求め、その囚人となってしまうということは、極めて起こり得ることではあるが、だからといって、政治的行為が一般的な哲学的主張に発すると理解し得るとみなしたり、行為者がロックやマキャヴェリのような個人の理念に訴えていることをもって、政治的行為の説明がつくとみなすことには疑わしいものがある。また、この論争の両当事者にあって、ロックの文典と文脈を深く配慮することなく、自由主義の現代的シンボルをあまりにもロックに読みこもうとするものが認められる(19)。
 以上のように、一八世紀に対する学問的関心の高まりが認められるが、その多くにあって信頼に耐え得ると思われる一般的結論は、総じて、ロックと共和主義のいずれにも辿り得ると思える知的源泉ないし原理がどのようなものであれ、アメリカ革命の政治思想には、「人民」と呼ばれる実体が存在し、有徳と有機体的アイデンティティーのうちに、民衆型政府を創造・維持し、また、実質的に代表され得る実体でもあるとする仮説が浸透していたということである。この仮説は、アメリカ人が最初の邦憲法を創造・採択するにあたって思案したことや、例えば、立法部の役割を高めつつ、どのように行政部を制約すべきかという点と大きくかかわっていた。だが、憲法論争が始まった頃までには、伝統的に想定されていた人民の理念は危機に瀕していた。
 とはいえ、アンティ・フェデラリスト派は、この概念に固執し、広大な共和国や遠くの国民政府に対する反論の不可欠の論拠とした。おそらく、歴史的には、極めて制約された説明の価値にしかないにしても、革命と建国のレトリックにあって、ロックとホッブズのメタファーが、それぞれ、どのように登場しているかに注目してみることには、幾つかの点で、有益なものがあろう。革命という言葉の焦点は、ロックの諸論稿に認められるように、専制政治の問題と社会的・政治的共同体の権利と主権にすえられていたのにたいし、憲法の弁護論は、断片化と対立の文脈や秩序と権威の修復の必要を想定していた。
 アンティ・フェデラリスト派が保守主義者であったということは、「連合規約」に特徴的な分権型連邦政府の形態に固執したいと考えていたことに認められる。というのも、この規約には、邦議会において実質的に代表される幾つかの政治的統体ないし人民の存在が含意されていたからである。彼らの基本的前提は、個人の自由と共和政治が市民的有徳を行使・維持し得るだけの、経済的・社会的・文化的にかなり同質的な人々からなる狭い地域においてのみ成立し得るとするものであった。こうした地域にあってこそ、人民と政府との緊密な関係や相互の応答と責任の体制が成立し得ると考えられた。こうした環境において、とりわけ、陪審部や民主的立法部のような諸機関において、代表制は実質的なものとなり得ると、つまり、人民の真の姿となり得て、民衆型政治ないし自治の理念が実現され得るものと想定されていた。彼らの構想からすれば、専制化を制約するためには、政府の構造を簡素なものとし、また、明確な制度的分離をもって均衡化される必要にもあった(20)。こうした仮説が、全て、憲法案の批判にあっても繰り返されたのは、憲法案が、フェデラリスト派の弁護論に認められるように、全くの別の共和政治の理論に立っていたからである。
 マディソンとハミルトンが訴えた人間性のイメージは、自己利益の追求欲の激しさとその多様性のゆえに、同質性が不可能とされるとするものであり、かくして一般的公徳心の可能性が掘り崩され、社会的安定が脅かされるとみなされたのである。こうした「徒党と動揺」の世界にあって、政治秩序、統一性、安全、自由を維持すべきものとすれば、求められることは、強力で活力にあふれ、集権的で独立型の政府と国民主権であるとされた。つまり、共和制の諸価値を実現しながらも、同時に、民主的であれ連邦的であれ、過去の民衆型政府の経験の特徴をなし、アナキーと専制の循環の繰り返しを可能とさせた失敗の原因を取り除くものでなければならないと考えられたのである。彼らの議論にあって、基本的問題とされたことは、現在と歴史とを問わず、多様な社会・経済的利害と能力を基礎として成立する国内の徒党であり、この問題への対応こそが、政治の科学の課題とされたのである(21)。
 マディソンの有名な『フェデラリスト論集』(第一〇篇)は、この病理の対応策である。その答えは、簡潔には、こうした弊害を緊要なものとすることをもって、その対応策を発見すること、つまり、徒党ないし個別の社会・経済利益層の数と活動を広大な領土に拡散することをもって、公共善そのものに有害な目標を追求しようとする徒党ないし利益層の権力を阻止することに求められている。だが、マディソンの基本的関心は、彼の呼称する「多数型徒党」にあったのであり、この徒党こそが、政府をコントロールし、自らの目的に政府を利用し得る存在であると想定されたのである。この用語は、伝統的共和主義論の文脈からすれば、撞着語法であった。というのも、伝統的共和主義論にあって、多数派とは、実質的に、人民を具象するものと理解されていたからである。だが、この概念は、『フェデラリスト論集』に反映された社会的現実のイメージにおいて、意味変化をきたしたことが窺われる。
 マディソンの議論に従えば、徒党は、その原因を除去することによって封じ込められ得るにしても、これは、人間性に宿るものそのものを根絶しようとすることになるだけでなくて、政府が守るべく、また調整すべく創造された自由そのものや利益の多様な形態と財産の獲得能力を奪うことになるとされた。彼は、指導者も宗教的・道徳的価値のいずれもが徒党を制約・緩和し得るものではないと信じていた。だが、バーナード・マンデヴィル(Bernard Mandeville)の言葉に認められるように、私的悪徳から公益が生み出されるような方法をもって、徒党の影響を、憲法構造の枠内において、社会的・制度的にコントロールすることは可能なことであるとされた。小徒党は、立法部の多数派の活動をもって制約され得るにしても、最大の問題は、なお、多数型徒党の危険にあった。マディソンは、明らかに、純粋民主制が徒党に対処し得る手段とはなり得ないと指摘している。彼は、純粋民主制が、歴史的に、多数専制と混乱に連なったにすぎず、また、理論的にすら、その前提とされている完全な平等の理念には欠陥が含まれていると論じている。マディソンが提示した代案は代議制政治であり、これが、今や、共和主義形態と等視され、さらには、この形態こそ、政治の運営を少数者に委ね、広大な空間にも広げ得る形態であると規定されたのである。
 マディソンの主張によれば、代表型政治は、多くの点で、より優れた守護者を生み出すだけでなく、利益を洗練・集約することになるとされ、また、広域型共和制の主な長所は、狭域型民主政治に比して、政党と利益層の増殖に連なることに求められている。かくして、競争の激化と多様化から、多数型徒党の形成と活動、あるいは、いずれかを縮小させることになると想定されている。マディソンの指摘を引用すれば、これは、「共和政治に最も起こりがちな弊害の共和主義型救済策」ということになろう。マディソンは、さらに、『フェデラリスト論集』(第一四篇)において、民主政府と共和政府との違いについて論じているが、この区別は、部分的であれ、アンティ・フェデラリスト派が既に認めていた共和制政府の概念と憲法の理論とを区別するための触媒であった。彼の議論にあって、広大な社会における民衆型の新政治形態は、"完全に"民衆的で、「非混合」型の最初の政治形態であるとされ、伝統的共和主義や、政府の諸部門が社会の異なった有機的要素を代表しているイギリス憲政に特徴的な実質代表論とも、微妙に異なるものであるとされている。
 『フェデラリスト論集』は、実効的主権の中心位置について疑念を留めないものとなってはいない。この政府は、国民政府の枠内にあった。これは、連合体ではなかった。連邦政府は、合意を基礎としつつも、絶対・至高のものとされ、また、州政府からのみならず、社会を混乱させる徒党や商業利益からも、それなりに分離し、距離を保ちつつ、これを規制・コントロールするものとされた。この政府は、本質的に、国民的な「個人支配の政府」であって、諸個人の利益は多様で流動的な徒党においてまとめられることになるから、固定的階級や諸州を支配するものではないとされた。マディソンが第四六篇で指摘しているように、州と連邦のいずれを問わず、政府は、全て、諸個人としての人民の信託と信任によるものであり、政府そのものは、いずれのレヴェルと部門にあっても、人民全体を代表しているとされた。政府は、人民の選挙や行動をもって、ある程度コントロールされて然るべきであるにしても、主として、その内部構造をもってコントロールされるべきものともされた。また、マディソンとハミルトンにとって、これは、主として、「選挙による専制」を阻止すべく、立法部という最も民衆的部分を分割・抑制することを意味していた。
 人民が権力と主権の究極的源泉であると位置付けられてはいるが、「人民」とは、諸個人の総体にすぎず、その集約的利益が徒党や政党に反映されるものとみなされた。その役割は統治することではなかったし、政府は、制憲会議に代表された人民の始源的権威に回帰すべき問題でもなかった。マディソンは、新しい体系にあって、何が新しいかと言えば、「極めて民衆的」政府形態が生み出されたが、この政府にあっては、「人、民、の、集、合、的、力、能、を、も、っ、て、、そ、の、存、在、が、全、面、的、に、排、除、さ、れ、て、い、る、」点にあると主張している。分割型政府の原則が不可欠とされている。また、第四九篇において、マディソンは、統治活動に「強力すぎるほどの公的情熱を傾けることから生ずる公的安寧の撹乱の危険」を強調している。問題は、「まず、政府をして被治者をコントロールせしめ得るものとし、次いで、政府が自らをコントロールする義務を負うものとすること」にあるとされた。『フェデラリスト』(第五一篇)において、マディソンは、政府の均衡を保つための「政府の内部構造の組み立て」方について、そのプランを詳細に提示している。自由の維持は、社会全体におけると同様に、政府の内部に「対立的・敵対的利益層」を創出することによって、また、異なった部門間の利害と権力の重複をもって、機能の共有から起こる対立を媒介とした均衡の保持に求められたのである。
 だが、マディソンも、再び、社会的多様性という問題に返っている。現代社会においては、「支配者の抑圧から社会を守ることだけでなく、社会の一部を他の部分の不正から守ることも必要である」と論じているが、ここで指摘されている「他の部分」とは、多数利益層である場合が多いとされている。彼が選んだ方法は、「社会のなかに極めて多様な市民を含ましめることによって、全体の多数派の不正な結合を、不可能とは言わないまでも、極めて困難なものとすることであり、・・・また、全ての権威が・・・社会に由来し、社会に依拠するものとしつつも、社会自身も多くの部分と利益層や市民の諸階層に分裂したものとすることによって、個人ないし少数派の権利が多数派の利益結合体の危険から免れるものとする」ことであった。かくして、自由と公共善の保持策は、究極的に、「利益層の多元性・・・党派の多様性」に求められた。マディソンもハミルトンも、アメリカを、主として、徒党と対立とを常にはらんだ商業社会とみなしていたのである。
 トクヴィルが目的団体と政治的分権化を強調したところから、彼の作業をもって、フェデラリスト派の議論を端緒とするアメリカ型多元主義思想の物語に組み込みたいとする試みが繰り返されている。トクヴィルの作業には、アメリカ政治の特徴を活写するものがあり、後に、さまざまな文脈で使われるようになったとはいえ、トクヴィルが多元主義をめぐるアメリカの対話の性格と方向に大きくかかわっていたということ、この点を示唆したものは殆どない。彼の焦点は、自由と目的団体の多元性との関係にあり、また、その苦悩は多数派にあったが、これは、興味深いことに、マディソンの理念や関心とは異なるものであった。事実、トクヴィルの議論には、幾つかの点で、対照的モデルの範例となり得るものが認められる。トクヴィルの著作の分析には、極めて多くの研究が積み重ねられているわけであるから、実質的に何か補足すべき余地は殆ど残されていないが、簡単であれ、彼の思索と、その後の多元主義概念に関する思考とがどのような関係にあるかについて指摘しておきたい。
 トクヴィルは、一八三一年四月に、グスタフ・ボーモン(Gustave Beaumont)と連れだってアメリカを訪れ、約一世紀後のハロルド・ラスキと同様に、合衆国の理解にというより、彼の母国に、あるいは、目的そのものとしての民主政治の将来にすら関心を深くした。彼は、フランス貴族が中産階級型ブルジョア社会に特徴的な極端な個人主義と経済的自由の追求から離脱すべきであると説得したいと考えていた。というのも、この社会は、多数派民主政治型絶対主義に連なるおそれがあり、また、これまでとは別の、少なくともアメリカのパラダイムに潜在的な伝統を招来するおそれがあったからである。しかし、ラスキと同様に、彼は、過去をもって自らのイメージを作り上げている。
 これまでの歴史に帰るべきではないと信じつつも、トクヴィルのモデルは、部分的であれ、中世社会のコミューンやギルドと専門的職業団体に負うものであって、これによって中央政府が抑制されたと、また自由な活動と純粋共和主義型生活の楽園であったとみなし、そうした生活は、現代にあっては、「市民の自発的結社」において実現され(22)、貴族の権威に変わり得るものであると考えていた。この点で、彼は、アメリカこそ自由の国であるとし、主として、自由と自治との同視のうちに、自由は、習慣と慣習をもって、また市民に有徳と責任を教え込み、権威感をも育む政治教育をもって育成・実践されているとみなしたのである。
 だが、トクヴィルにあっては、この種の公的自由の実現は、集権化と選挙による専制に連なる可能性にある広大な国家では困難であるとみなされている。彼が勧めていることは、分権型政治体制であり、この体制によって、目的団体と地方社会が作り上げられ、「強調的行動の無限に豊かな機会が展望される」としている(23)。これが彼のアメリカ観であり、ニューイングランドの町やその他の自治団体に認められるとみなした。かくして、「神が宇宙を支配するように、人民がアメリカ政治の主人公となっている」と信じていた(24)。だが、彼の警告は、おそらく、より強く母国を意識してのことであったろうが、アメリカにあってすら、トクヴィルが想定した公的自由に対する危険が存在していたのである。
 迫力に満ち、劇的に表明された彼の恐怖感とは、民主的社会における自己否定的な個人主義と平等化の趨勢であり、これによって個人の孤立化と弱体化は免れがたいと想定された。伝統は、もはや諸世代の紐帯とはなり得ず、権威の役割を果たし得なくなっている。判断の基準は内面化し、「人々の結合は、もはや、理念によるのではなくて、利益によるものとなっている」とされた。トクヴィルが想定したことは、新しい商業精神や経済的自己利益の追求と物質的利得の獲得欲であった。かくして、社会の脱政治化を招き、人々は、公務と社会活動から遠ざかるに至る。彼は、「世界中の安楽の獲得欲が貧者の想像にとりつき、それを失うのではないかという恐怖心が富者の想像にとりついている」と述べ、また、アメリカにあって「人々の熱情の多くは、富への愛着に終始しているか、あるいは、これを起源としている」と指摘している(一三七、二三九)。
 社会的位階制の崩壊と個人主義の台頭とともに、唯一の権威は、「群衆」ないし多数派に求められることとなった。トクヴィルが恐れた多数派とは、明示的多数利益ではなくて、個人主義の価値そのものを無視し、絶対的で挑戦しがたい存在となり得る大衆的世論にほかならなかった(25)。彼は、平等とは、自由と同様のものでないことを強調し、また、民主的社会においては、激しい平等欲から、人々は、平等になったら自由なのだと信ずるようになるとも指摘している(26)。こうした状況にあって、世論型のものであれ、集権政治ないし新しい経済的貴族制のいずれであれ、多様な専制政治の危険があり、その登場には殆ど不可避に近いものがあると考えた(27)。
 トクヴィルの確信に従えば、アメリカにおける個人主義と平等の極端な主張や、そこから生まれかねないアミノー状況への対応策は、社会的・経済的自由よりも公的自由を宣布し続けることにあるとされる。「社会の成員が公務にかかわらざるを得ない状態におかれると、必ずや、自らの利害範囲から抜け出て」、相互依存性や協力の必要を理解せざるを得なくなると考えられたのである。彼も、「あらゆる世代のアメリカ人が、境遇と性向のいかんを問わず」、「政治目的」をもたない「目的団体を不断に形成している」という「参加の習慣」の存在の事実に利点を認めたのである(28)。こうした市民型目的団体は、個人主義の効果を減ずる作用を有するのみならず、政治的目的団体とは相互補完関係にあるとされたのである。望むらくは、民主的社会にあって、啓蒙型自己利益ないし「正しく理解された自己利益」が、つまり、他の利益のためには、欲求の充足を控え、一部の利益を犠牲にすることも、また、相互依存関係にあることを知ることも、時には必要とされるという知識、これが個人主義と平等の危険の防壁とみなされたことになる(29)。さらには、宗教も凝集力となって、対立的な物質的利益の追求から人々を遠ざけ得るものとされた(30)。
 トクヴィルは、後の二〇世紀型多元主義アプローチのいずれよりも、伝統的共和主義論に近い立場にあった。トクヴィルに同調した人々のひとりとして、リーバーが挙げられる。トクヴィルは、刑務所改革に興味を同じくするなかで、彼に会う機会を得ており、また、リーバーが発刊した『アメリカ百科事典(Encyclopedia Americana)』からかなりの情報も得ている。リーバーも、民主的絶対主義に苦悩している。また、アメリカ政治社会のテュートン的起源に焦点をすえているとはいえ、ハーバート・ボクスター・アダムズ(Herbert Baxter Adams)とジョンズ・ホプキンス大学の彼の政治研究集団も、トクヴィルと同様に、タウンが民主社会の中心であると考えていた。トクヴィルが、実際に、アメリカ政治の性格をどの程度に理解していたかということは、論争の余地のあるところである。トクヴィルは、ジャレド・スパークス(Jared Sparks)にニューイングランドのタウン政治の性格について、やや詳細に質しているが、スパークスは、彼の著作を評価しつつも、同時に、「彼の理論を、とりわけ合衆国に適用する場合には、迷い道に踏み込むことも起こり得ることを得心させた」と指摘している。この点は、とくに、多数派の専制にまつわる彼のイメージに妥当するものと信じ、この点で、スパークスは、トクヴィルが「完全に間違っている」と確信していた(31)。ラスキが登場するまでには、トクヴィルとの意識的結び付きの障害となるものは殆どなくなっていた。ラスキはトクヴィルの著作を検討しているが、トクヴィルが多数派の専制によって何を言わんとしていたかを捉えそこなっているように思えるし、また、ラスキは、中世の団体観念に立ち戻って分権化を弁護するという点では、トクヴィルとは共通の土俵にいなかったことが窺われる(32)。
 一九世紀のアメリカ政治学者が、社会的多元主義の事実や争点に気づいていなかったわけでない。むしろ、その存在に気づいたからこそ、統一性と民主政治の理論を国家と立憲主義に捜し求めることになったのである。また、二〇世紀初期の革新主義期の現実主義者たちは、利益層の肥大化が公的利益に有害であると考え、同様に、より立憲的視点から、国家を共通善と民主的価値を代表し、実現し得る手段とみなした。ラスキがせきたてたことは、主として、多元主義を民主政治の理論として修復させるという対話ではあったが、それは、『フェデラリスト論集』に認められるような議論や、いわんやジョン・C・カルフーン(John C. Calhoun)の競合的多数制の主張とも、さらには、国民的社会が多様なレベルの利益層から構成されているとする理念、これとの共通点を殆どもたない方法においてのことにすぎなかった。二〇世紀の第I四半期のアメリカ政治学において、何が多元主義にかかわる理念と理解され得るかをめぐって議論されていたが、ラスキは、これと自らの主張とを結び付けようとする意図にはなかったのである。
 アメリカ多元主義の伝統における源流的思想家として、しげく引用され、また、これには適切なものがあるにしても、アーサー・ベントレー(Arthur Bentley)の『統治の過程(The Process of Government)』(一九〇八年)は、政治学のこの言説に直接的イムパクトを殆ど与えていないし、「多元主義」という言葉も使われていない。さらに、彼は集団に焦点をすえているが、これは、回顧的にしげく意味賦与されるほどには斬新なものでもなかった。例えば、ジェームズ・ブライス(James Bryce)が歴史の重要性を強調しているが、これは、政治の現実と個別性に注目すべきことを求めたものである(33)。ピーター・オデガード(Peter Odegard)は、早期の重要な集団政治研究のひとつ(一九二八年)を残してもいるが、ベントレーの著書の一九六七年版の序文において、ワシントン大学の大学院生の時期に初めてこの本を読んだとき、その主張に驚きもしなかったと述べている。それは、彼の教師であったJ・アレン・スミス(J. Allen Smith)が、既に、『アメリカ政治の精神(Spirit of American Government)』(一九〇七年)において、ベントレーとチャールズ・ビアード(Charles Beard)に先立って、憲法の成立を利益集団間の対立の所産として位置付けていたからであると指摘している(34)。
 だが、ベントレーの著作が注目されなかったわけではない。例えば、ビアードは、この書を高く評価しているし(35)、また、ビアードの分析が、コロンビアの経済学者=E・R・A・セリグマン(Seligman)の理論の影響をより直接的に受けているとはいえ、セリグマンのみならず、ベントレーも、ビアードの『憲法の経済的解釈(Economic Interpretation of the Constitution)』(一九一三年)に、また建国期の現実に作動したのは経済的利益層間の対立であるとするテーゼに影響を与えたと解釈するのが妥当であろう。だが、この著作は、世紀転換期後の政治的現実観の転換を示すにすぎないものでもあった。というのも、多くの社会科学者が、革新主義期のマクレーカー的精神を共有しつつ、権力と利益の現実を描写すべきであるとの方向において、形式主義的・法学的研究やベントレーが「精神的素材」と呼称したものを拒否するようになっていたからである。彼らの関心は、潜在的な民主的多数派と信じられるものを覚醒することにあったのであり、この点では、ベントレーも、この伝統の一部を担っていたことは明らかである(36)。だが、この書を完成してしまう頃には、彼の理論的関心は、既に、社会的現実を過程として分析することや、社会の科学的説明の方法に移りはじめており、当初の集団と利益層に関する強い関心や規範の強調はかげをうすくするに至っていた。
 主として、誤解と無視を招いたのは、前者の視点である。というのも、政治学者たちが、一九二〇年代の終わりまでに、ベントレーの集団活動型政治観に引きつけられるようになっていたからである(37)。これは、ひとつには、ベントレーが自らの著作を、主として、政治学の学問体系に寄与するものではなくて、社会学の研究と経済学の基礎となり得ると位置付けていたことにもよる。だが、政治学者は、この指摘をもって、国家のような超越的存在を対象とするよりも、政治的なものとして分解することができ、また、経験的に分析され得るような諸過程と構造に政治学の固有の領域を求めたいと考えていた。集団と対立は、公的関心の対象となるのみならず、この二点で分析の対象ともなり得ると想定されたのである。
 ベントレーは、社会が集団活動に顕在的な諸利益層からなり、なかでも、政治集団が最も際立った、あるいは「表面」に近い位置にあると論じている。諸集団は、主として、他の諸集団との関係において規定されるものとし、また、少なくとも、際限がないほどに多様な利益集団からなる現代社会の流動的な不定形状況にあって、諸集団の自然な、ないし一定の分類様式は存在しないものとされている。ベントレーは、「統治」とは、包括的に、政治と、あるいは集団間相互の関係や調整と理解され得るが、最狭義には、一定の機能を遂行する特有の構造を対象とするものであると論じている。第三の意味として、統治には、伝統的に、国家研究に属している統治の形式的機関にかかわる諸過程と諸機関が含まれるとしている。ベントレーが拒否していることは、制度的実態としての国家の概念というより、主権の概念なのであって、これは、いかなる記述的意味をも含まない形而上学的概念にすぎないとみなされている。
 ベントレーにとって、政治の諸過程と諸関係とは、主として、諸力と圧力の問題であり、諸集団の形状と既存の均衡ないし秩序とは、いずれの時点であれ、社会の組成にほかならないものとみなされている。行政部、立法部、法体系のような統治の構成要素は、利益層を担い手とし、利益層を媒介として表現されるから、利益層の点で理解される必要にあるとされる。この議論が、民衆型政治の諸理論にとって、どのような含意にあるかは明らかであった。ベントレーによれば、人民の支配や公的利益という伝統的観念とは、現実には、捕捉しがたいものであり、また、専制と民主制との規範的・形式的区別が殆ど無意味なのは、統治とは、常に、集団利益の既存の構造の表象にほかならないからであるとされる。この点で、彼は、また、諸集団と諸利益が統治の過程を媒介として代表されることも明らかにしている。したがって、ベントレーの後継者の課題は、統治における代表様式の記述を代議制政治の理論に組み替えることに求められることになったと思える。
 民衆型政治の伝統的諸観念は、権力が多様な非形式的ないし非政府的組織によって行使されているという事実に直面するなかで、支持するに困難であるという意識が強まっていたとはいえ、断片化状況、あるいは、回帰的に、多元主義とも呼ばれる状況は、なお、総じて、政治病理にほかならないと理解されていた。だが、一九一七年と一九二一年の一連の著作において、ラスキは、伝統的国家理論と一元的主観概念を、さらには、彼にあって、政治的集権化の現実的含意と理解されるものを批判したのみならず、多元主義に注目し、これを、政治の「現実主義的」論述であり、また新しい民主政治論の基礎ともなり得るとしたのである(38)。国家の理念が哲学的観念論と形而上学的絶対主義を基礎としてきたように、ラスキは、自らの論述の基礎をジョン・デューイ(John Dewey)のプラグマティズムとウィリアム・ジェームズ(William James)の多元主義的宇宙のイメージに求めているが、この世界にあって、全体は、その部分からなるにすぎないものとされていた。
 ラスキは、国家には特別の道徳的権威など存在せず、諸個人が帰属する多様な目的団体や諸集団のひとつにすぎないと論じている。法と政府活動の基礎は、こうした諸個人の意見と寛容に求められ得るにすぎないものであり、また、教会から労働組合に至る多様な目的団体の主張から生まれる諸力の複合体に求められるものであるとした。ラスキは、合衆国には、経済的専制から生ずる危険がないとはいえないにしても、多様な統治のレベルと極めて多様な目的団体が存在しており、多くの点で、多元主義政治のモデルとなり得ると信じていた。だが、彼も中世の多元的社会のイメージをよりどころとし、さらには、サンディカリズムとギルド社会主義のような現代のイメージをも論拠としている。他方で、メアリ・パーカー・フォレット(Mary Parker Follett)もこの流れに合流し、多元主義をもって集団民主政治論の理論化を期そうとするのであるが、主な対話は、ラスキをはじめ、彼の議論に援用されたデュギー、フィギス、メイトランド、コールのような人々の著作を中心としていた。
 ラスキが社会の多元主義的特徴を主張し、あるいは伝統的国家理論の、より形而上学的次元を拒否したが、この点で彼に論争を挑んだ人々は殆どいなかった。むしろ、関心は、第一に、国家が何らかの特別の包括的権威を保持していないとすると、集団間対立はどのように解決され得るのかというプラグマティックな問題であり、第二に、こうした理解と民衆型政治や自由民主政治との連関を、一体、どのようにつけるかということであった。また、それほど明示的ではなかったといえ、政治学の存在意味と権威という点で、国家否定型政治学の政治学的・専門的意味についても、一定の関心が集まっていた。こうした問題を焦点そのものとする論争が一九二〇年代に起こり、この論争にあって、科学的現実主義者に対してのみならず、ラスキに対しても最も包括的で厳しく、しかも継続的反応を示したのが、ハーバードのウイリアム・ヤンデル・エリオットであった。だが、この時点までに、ラスキは、既にハーバード法学大学院ロー・スクールの滞在期間を終え、イギリスに帰っていた。彼がとどめおいたのは、論争のシンボルの位置にすぎなかった。
 エリオットは、「現代社会の構造そのものが目的団体的性格にある」ことを認めてはいるが、現代政治理論の最も重要な争点は、「自、発、的、目、的、団、体、」にどの程度の「自律性」が許容されるべきかという点にあると信じていた。彼は、民主政治の理論には、立憲国家の理念に代表されるように、ある種の統一性と正統性が必要とされるにもかかわらず、これは、多元主義とプラグマティズムによって、さらにはファシズムと共産主義を含めて、内外の多様な現代理論と政治実践の諸形態によって掘り崩されていると信じていた。国家と立憲政府の理念に代表されるように、共通の道徳的・政治的生活への参加の倫理が必要とされるにもかかわらず、集団政治論は、理論的にも実践的にも、これを脅かしているとみなされた。たとえ「神話」にすぎなかろうと、民主政治には、政府の諸制度に明示された諸目的を保有していると理解され得る人民の共同体に対する信頼や、憲法によって創造された連邦国家を具象する法が必要とされると考えられたのである。
 一九二〇年代中期までに、集団政治の事実と、自由民主政治ないし代議制政治の存在とその理論との調和をどのように図るかということ、これが根本問題であるとみなされるに至っていたが、これには、既に、政治学が辿りつつあった方向を予示するものがあった。チャールズ・メリアム(Charles Merriam)は、第一次世界大戦後、政治学の理論と実践の再構築に多大の努力を傾けていたが、一九二四年に、「政治思想の最近の諸傾向」について考察している。この時期を特徴付けるものとして彼が挙げている社会的特徴は、すべて、多元主義の深化を示すものにほかならず、「産業化と都市化、多様な人種や民族との新しい接触とフェミニズムの台頭」であった。また、彼は、理論化のひとつの主方向としてドイツのオット・ギールケ(Ott Gierke)に先導された方向をあげているが、ギールケは、メリアムの学位論文の共同指導者でもあった。ギールケの理論は、国家が地理的・人種的実体というよりは、経済的・専門的職業集団の複合体であるとみなすものであった。
 メリアムは、こうした理解が「"政治的多元主義"の理論」を構成するものとみなし、これには、ギールケの中世社会の分析のみならず、サンディカリズムとギルド社会主義のような現代型パースペクティブも含まれるとしている。コロンビア時代の彼の教師、ウイリアム・アーチボルド・ダニング(William Archibald Dunning)のように、諸理念は、主として、社会的脈絡の所産であるとする立場から、メリアムは、総じて、「多元主義的政治理論とは、現に存在し、また展開過程にある集団的連帯性の合理化とみなされ得るし、事実、この点から解釈・理解するに有効なものがある」と判断している(39)。だが、メリアムの関心は、なお、多様性の克服、社会的コントロールの行使、国家を媒介とした民主的価値の追求、社会の科学的知識と専門技術を基礎とした公共政策、これにあった。しかし、この書において、メリアムの共編者で社会学者のハリー・エルマー・バーンズ(Harry Elmer Barnes)は、多元主義とは社会的現実を記述したものであり、民主的社会の理論でもあるとの視点から、より周到な多元主義論を展開している。
 バーンズは、多元主義の理論とは、多数の知的伝統が合流したものであると示唆している。ひとつは、ラスキがこの対話の主たる論拠としているように、メインランドとフィギスのような思想家のみならず、ギールケやラスキの理念にも代表されるものであった。もうひとつは、ベントレーのシカゴ時代の教師で社会学者のアルビオン・スモール(Albion Small)の理念であった。スモールは、グスタフ・ラッツェンホーファー(Gustav Ratzenhofer)のようなヨーロッパの思想家たちの著作に注目させるという役割を果たしていた。バーンズは、これらが一体化するなかで、国家と政治諸機関は、任意性の範囲と程度の両点で「目的団体の最高の顕現形態」であるにしても、「多数のコーポリットな諸集団の所産でもある」との理論に連なったと主張している。かくして、国家の機能は「諸集団相互や、諸集団と国家との関係の調整」に求められることになった。多元主義理論が「事態の表面下」に底流し、「自らの目的の実現を求め、他の集団の恒常的志望との調整を期している対立的利益集団」からなる「社会・政治過程の現実的性格」を照射したとされる。バーンズは、なかにはルドウィヒ・グムプロヴィチ(Ludwig Gumplowicz)のように、国家を合法的抑圧体と、また経済的少数派の手段とみなす人々もいようが、国家とは、秩序を守り、アナキーと不当な搾取を防止する「審判員」と理解され得ると論じている(40)。彼は、この見解こそが、ベントレーによって最も周到に練り上げられることになったと信じていたのである。
 ラッツェンホーファーとグムプロヴィチのような人々が、政治学の言説において、それほどもてはやされたわけではないし、また、そうでもなかったであろう。彼らは、マルクスやジンメルと並んで、ベントレーによって、集団理論の発展を検討するなかで紹介されていた。また、バーンズのベントレー解釈は、ベントレーの著書に明示的な域を越えるものがあった。というのは、ベントレーの著書は、革新主義期の改革的争点を回避しているとはいえ、なお、記述的現実主義と民主的意識の覚醒の結合という観念に貫かれてもいたからである。
 バーンズのベントレー論に従えば、全ての社会と政治の本質は利益集団間の闘争に求められていることになる。専制政治と民主政治との違いは、前者にあって、一人ないし少数が対立関係の解決をはかるのにたいし、後者にあっては、「あらゆる利益集団が自らを主張し、公平・公正に自らが代表され得る」ことに求められている。民主的政治体制における国家の役割は、「こうした利益層の対立に必要な規制を課し、この過程が破壊的なものではなくて、確実に有効なものとすることにある」とされ、また、「政府とは、こうした諸集団が対立の公的側面を伝導し、自らの目的の実現を期すための、あるいは自らの目的と別の集団の対立的志望とをその都度に調整し得るための機関であり、通路である」とされる。バーンズは、この理論から民主的代表理論の危機が生まれたと主張している。つまり、地理ないし一般意志の観念を基礎とした理念は、神話とされ、「代表制度と政府の現実目的や機能との調和がはかられる必要にある」と理解されるに至ったのである(41)。
 バーンズの論述は、確かに、極めて注目すべきものであった。それは、多元主義理論の明確化という点では、一九五〇年代までに登場したいずれの論述にもまして鮮明なものとなっている。だが、一九二〇年中期までに、既に、人民主権の担い手としての合理的で確認可能な公衆という理念は、大きく蚕食されるに至っていた。この点は、具体的には、ウォルター・リップマン(Walter Lippmann)の著作に認められる「幻想の公衆」や、W・B・マンロー(Munro)にあって「全ての政府が・・・見えざる影響力の圧力に服している」姿が強調されていることにも窺われる(42)。かくして、例えば、メリアムのように、プロパガンダと市民教育を統一的社会感を育成するための手段とみなし、これを重視した人々もいる。また、ジョン・デューイといえば新自由主義を連想させるものがあるとはいえ、彼は、公衆を「大社会」として再構築する必要にあると考えていた(43)。これとは別の選択肢は、政治生活の現実から民主政治のイメージを構築し、マディソンが大きな役割を果たしたように、共和主義の弊害を共和主義の理論へと組み替えることであった。しかし、まず、政治的現実には、ある種の一貫性があると理解される必要にあった。
 政治学において、集団政治論の代表とみなされ得る最初の主要な経験的研究は、ピーター・オデガードの『圧力政治(Pressure Politics)』(一九二八年)であるが、これは、反酒場連盟の活動について論述したものである。この著作において、オデガードは、民主政治論にとって、この種の研究がどのような含意にあるかという検討を努めて避けようとしている。だが、わずかの期間に、彼は、伝統的政党の代表機能には十分なものが認められず、圧力集団がこの機能を補完しているにすぎないとの結論を引き出すにいたっている。「このような諸機関を媒介として、一般市民が代表されているというのが事実である。組織的集団の意見以外の公的意見は、どのような意味においても、単なる幻想にすぎない(44)」と。とはいえ、この点で決定的道を開いたのは、ペンドルトン・ヘリング(Pendleton Herring)の『議会における集団代表(Group Representation Before Congress)』という研究であり、また、彼によって、次の一〇年間に、この問題が最も精力的に追求されることになったとみてよかろう。
 へリングは、初版において、多元主義という言葉を使ってはいないが、一九六七年の再版においては、行動論時代の絶頂期にあったことも重なって、「よく組織された諸集団をもって強力な土台が構築されることによって、多元主義社会はひとつの現実となり、代議制度も有意味なものとなる」と主張している(45)。彼は、革新主義期の運動にあっては、特殊利益層はよくないものとみなされ、また、「多分に内実を欠いた世論と漠然とした公益」に期待が寄せられていたにすぎないと指摘している。こうした背景において、また、一九二〇年代の国家中心主義と多元主義との論争という知的文脈において、この著書は、元来、彼の学位論文として、ホプキンス大の大学院生の頃に書かれていたのである。またW・W・ウイロビー(Willoughby)は、国家理論に対する攻撃に抵抗してはいたが、経験的研究の重要性を強調し、その法学的分析において国家の神秘的諸次元を解消したという点では、多大の役割を果たし、また、へリングの指導者でもあった。エリオットは、かなり妙なことに、へリングの著作を原稿の段階で読み、彼がハーバードの地位を得るにあたって、その道もつけている。
 へリングは、ベントレーの著作に出会いはしたが、その影響を殆ど受けなかったと述べている。「活動的で凝集力に満ちた組織的集団が、コミュニティにあって重要性を高めている」という点で、自らの研究が、基本的には、その様態の一側面の記述的論述であるとみなしつつも、「このような動きの十分な意義の検討は、政治理論家と公衆に委ねられる必要にある」と主張している(46)。だが、彼は、規範的意義を全く無視していたわけではない。彼の示唆に従えば、集団とその諸活動の最近のひろがりに関する論述をもって「国民代表」における最近の諸展開や従来の代表観の新しい次元を研究したのであり、また、民衆型政治において「世論」がどのように実現されるかという鍵的争点について検討したにほかならないとされる。彼は、ラスキたちが民主政治の新しい基盤や政府の代表形態と効率化の深化形態を集団生活に認めたことに、また、こうした現象に関するラスキの記述が、明らかに、規範的論調の強いものであることに注目している。彼は、集団生活には、より直接的に個人にかかわるものが含まれているし、新しい代表形態や民衆型政治に対する積極的役割のみならず、意味と表現の新しい源泉も含まれていると主張している。
 一九三〇年までに、ディキンソンは、こうした人々の代表者の位置にあり、はるかに明示的立場を表明していた。彼は、民主政治が、逆の様相にあるかの観にあるにしても、所を得つつ機能しているとみなし得るが、それにしても、「政治的民主政治の内実」を新たに問うべき時代が到来していると主張している。だから、人民の意志という理念のような伝統的民主政治の「神学」と「教条」や、この種の信条体系を実践しようとする試みから脱却する必要にあるとの主張に連なるのである。「現に存在している唯一の意見、唯一の意志とは、特定の諸集団の意見であり、その意志でもある」とされる。立法部は、現実には、諸利益集団のフォーラムであり、政府は、総じて、「調停者」とみなされるべきであると論じている(47)。より伝統的な法学的国家理論に固執する人々から多元主義に対する根強い抵抗があったが、それは、一部に止まり、例えば、W・W・ウイロビーにあって、国家の本質に関する多元主義の主張とは、現実には、「倫理的理論」にほかならないことが強調されている(48)。
 へリングも、やがて、アメリカの政治過程と民主政治とをより強く等視するようになった。例えば、「公的利益は、特殊な主張と欲求の妥協を媒介として、最終的に実効的なものとされ得ない限り、具体的に表現されることはあり得ない。特殊な諸利益は、全体を構成する諸部分であるから、この構図から排除することなどできない」と論じている(49)。彼の結論は、第二次世界大戦の直前に書かれた『民主制の政治(Politics of Democracy)』に認められる。本書において、彼は、政党による統合と政府の答責性とならんで、政治的合理性は、利益集団間の対立と調整に認められるはずであると主張している。民主政治とは、神学や信条の問題ではなくて、寛容と妥協の実践の問題であるとされる。また「公的利益という神話を弁護する用意にあるにしても、それは、この概念があいまいだからこそ、集団利益間の最も自由な相互作用が可能にされるという理由からである。支配的連合体は、いつでも、そのプログラムが公的利益を表現していると主張し得るものである」と論じている(50)。
 一九三〇年代は、集団活動の経験的研究と新しい民主政治のイメージとの補完関係の展開をみた時代である。これは、全体主義との対比において起こったことである。民主政治とは、多様性と妥協を体現するものであり、アメリカの諸制度と政治行動に代表されると理解された。一九四〇年代の初期までに、ある政治の研究者は、当時に至る膨大な圧力集団の文献を概観し、「圧力集団は、人民による、人民のための民主政治の現代型表現である」との結論を導いている(51)。デビッド・トルーマン(David Truman)が集団政治の古典的論述を書き上げ、ベントレーに返り、彼をもって「基準点」であると位置付けたとき、規範性の響きと共鳴しつつも、集団をもって政治分析の枠組みとする理念へと回帰すべきことを意味していたが、これは、また、アメリカ政治が集団型民主政治の理論をもって論述し得る性格にあるというイメージを喚起することにもなった。
 トルーマンの作業は、アメリカ政治における集団、とりわけ圧力集団の役割の、あるいは、彼の好みの用語に従えば、「利益集団」の一般的な体系的論述を提示することにあった。広範な文献に依拠しているとはいえ、彼の目的は、個人の行動に止目するあまり、利益集団を無視する傾向のみならず、これを「病理」とみなす根深い傾向を克服することにあった。彼は、集団が、いずれの社会を問わず、その不可欠の構成要素であり、また、マディソンの時代以来、アメリカ政治の理解のみならず、アメリカ政治にあっても中心的位置にあったと論じている。だが、集団と集団の理念が、より主要な位置を占めるようになったのは、現代生活においてのことであったと考えられる。彼は、民主的政治体制に占める諸集団の役割が注目されて然るべきであるとしつつも、まず必要とされることは、統治の過程における集団の現実機能を適確に把握することであると指摘している。
 トルーマンの結論は、この過程が集団の行動、とりわけ、彼の呼称する「組織的利益集団と潜在的利益集団」の行動と切り離しては理解され得ないとするものであった(52)。前者は、政党や形式的な立憲的諸機関と同様に、政治体系の重要な位置を占めるに至り、後者、あるいは「未組織の」構成要素は、「イデオロギー的合意」に代表され、「ゲームのルール」を決定するものとされている。トルーマンの理論にあって、代議制民主政治に不都合な集団政治の諸含意や「病原的」ないし「病理的」危険が存在し得ないとされているわけではないにしても、彼の著作の対象は、主として諸集団が代議制政治において、どのように機能しているかの論述と説明にあり、また、その研究の意図は、部分的であれ、包括的な公的利益など存在せず、また存在の必要もないことを明示することにあるということ、この点を明確にしている。
 彼の評価は、政府が「利益を基礎とした」権力の中心に位置し、これに対し、諸集団が「手ァ掛クかセりス」をつけようとすることによって、政府の決定が生み出されているとみるものである。集団意志を表明するための多数の手掛かりや妥当な機会が存在している限り、この過程は、入力と出力の適性の点からみて、十分に合理的に機能しているとされた。均衡ないし平衡は、「複数ないし重複的成員構成」や合意の枠組みによって促進されている。「かくして、広く支持・承認された利益を基礎とした潜在集団における複合的成員構成が、合衆国のような現行の政治体系において、その均衡化の動輪の役割にある」と位置付けられるのである(53)。マディソンの理論が、事実上、彼の論述に影響したかどうかは別として、代議制政治における安定性に関するトルーマンの分析は、多くの点で、マディソンのイメージを現代風に鋳直そうとする意識的試みであったと言える。
 アール・レーザム(Earl Latham)の著作が一年後に出版されているが、これは、台頭期の経験的多元主義理論を理論的に補強し、この理論を規範的脈絡から分離しようとする試みであるという点では、より明示的なものがある。彼の主張に従えば、その「関心は、社会進歩の予見や経済改革というよりは、社会における集団活動と結合した多くの現象の精確な考察にある」とされる。つまり、彼の呼称に従えば、「哲学的」多元主義というより、「分析的」多元主義にあるとされる(54)。しかし、政治学が、なお、自らの民主政治観を説明・弁護しようとしている時点において、この区別には支持するには困難なものがあった。
 ロバート・ダール(Robert Dahl)の最も早い時期の著作には、明らかに、規範的多元主義の伝統に対する愛着心を示すものは認められない。それどころか、彼の論述にあっては、「諸決定が極めて多様な集団間の交渉の所産とされている」ような現代の大衆社会の文脈において、合理的な外交政策を設定することは困難であるとみなされている。この文脈にあって、彼の悩みの種は、主として、大統領の過大な自立性とその権力の危険にあり、かくして、大統領と議会との協力関係の強化の必要が指摘されている(55)。だが、一九五〇年代の初期にチャールズ・リンドブロム(Charles Lindblom)と共著を発刊する頃までには、彼も、多元主義をめぐる対話に入り、アメリカの政治・経済体系を自動修正的「対抗諸力」のひとつとする諸議論の合唱に参加するに至っている(56)。ダールとリンドブロムは、民主政治に最も近い形態は、平等と多数支配をもって定義するなら、議会の阻止機能に求められるというより、権力が位階制から小集団に移動した「ポリアーキー」と呼ばれる過程に求められるとしている。これによって、彼らにあって「政治の第一の問題」とされたこと、つまり、支配者の専制主への転化の防止策の解決をみたとされている。マディソンにかなりよく似て、彼らも、「民主政治ではなくて、ポリアーキーこそが現実的解決策である」との結論を導いている(57)。
 ダールとリンドブロムが基本的対照モデルとしているのは、合衆国とロシアであり、前者は、指導者たちが支持を競い合うことを強制される政治過程の代表とされている。だが、このような体系には、全ての参加者がゲームのルールを承認していることのみならず、「社会的教化と習慣化」が必要とされることになる。これは、単に、政治の構造と過程の問題に止まらないことになる。再び、マディソンと同様に、彼らは、ポリアーキーには、「か、な、り、の、程、度、の、社、会、的、多、元、主、義、が、必、要、と、さ、れ、る、」ことを強調し、この点を理解しそこねると、ルソーのようなユートピア主義者の迷いに陥ることになると指摘している。結論的には、大衆社会の危険と福祉国家によるコントロールが過大視されてきたということであり、また、「合衆国の社会的多元主義は広範に及び、立憲的構造とも結合して、政府の政策設定に占める多様な社会集団間の交渉の規模の広さがこの国の政治体系の支配的特徴をなしている」ということ、つまり、まさに「権力の社会的分立」状態にあるとされている(58)。彼らは、古典的自由主義と社会主義とが、もはや無意味な目標となっていて、自由と合理的社会とは「漸 進 主 義ィンクレメンタリズム」をもって実現され得るとの結論を導いている。社会的多元主義と集団指導層間のあらゆるレベルでの不断の交渉、これが民主的ないしポリアーキー型政治の鍵的特徴であり、立憲的構造と個人的政治参加にまして重要であるとされる。アメリカ政治の構造は、交渉の機会を促し、これを供与する構造にはあるが、小集団生活を維持し、ポリアーキーに適合的な人格を創造することをもって補強される必要にあるとも指摘している。
 こうした主張が『フェデラリスト論集』の基本理念の再版とは別のものとみなすには、極めて困難なものがあるが、ダールは、なお、マディソンとは一定の距離を保たざるを得ないと感じていた。アメリカ多元主義の言説に決定的に踏み込んだことを示すひとつとして、ダールの『民主政治論序説(Preface to Democratic Theory)』が挙げられる。この著作は、アメリカ政治の集団論の台頭期にあって、どのような規範的民主政治論が生成していたかを十分かつ形式的に明示しようとした最初の具体的試みであるとみなすことができる。規範的民主政治論は、民主政治の理念とアメリカの諸制度の実際とが等視される時代にあっては、せいぜい、外辺の位置に止めおかれていたにすぎなかっただけでなく、この種の自由民主政治のイメージは、政治理論の分野にあって、亡命研究者から厳しい攻撃を受けてもいた(59)。だが、ダールは、集団理論について深く検討していないし、また、いまだ多元主義の概念の十分な理解に及んでもいなかった。この点は、「ポリアーキー型」政体の論述において、多元主義の概念が、興味深いことに、登場していないことに窺われる。繁く指摘されながら、体系的検討に付されることは殆どなかったが(60)、この著作の特徴のひとつは、ダールのマディソン解釈に求められる。
 ダールは、明らかに、マディソンの議論から距離をおいてはいるものの、殆ど区別しがたいテーゼを展開している。確かに、解釈上の違いの余地はあるにせよ、ダールのマディソン論は、その力点の選択という点で、極めて一方的で、とても偶然とは思えないものとなっている。極めて明らかなことに、これは、一九二〇年代の国家と多元主義との緊張関係に認められると同様の対話からなっている。マディソンが抑制と均衡や権力の分立のような立憲構造に焦点を設定しているのに対し、ダールは、この点を避け、専制の阻止という点では「些細」で不必要なことにすぎないものとみなし、むしろ、「社会変数」をポリアーキーの基礎とすべきであるとしている。利益集団の相互作用や社会的価値という極めて重要な「基底的合意」による抑制基盤、これが重要であって、より可視的な日常政治は「がらくたにすぎない」ものとみなすことができるとしている。
 ダールは、「記述的方法」に訴えていると主張しているものの、彼の呼称を使えば、「アメリカ型混ハィ成ブリ体ッド」の機能に固有の理論をもって民主政治の理念にしようとしていることは明らかである(61)。彼は、この理論を別の民主政治諸理論の「最大化」の主張と対置し、また、古典的民主政治や独裁政治から区別もしている。ダールにおいて民主政体の尺度は、「一般に、政治学者によって民主的と呼ばれている国民国家と社会組織の全てを一つの範疇に属する現象として」捉えることに求められているものの、そのパラダイムの実例は、合衆国にほかならなかったのである(62)。
 ダールは、多数派が、さまざまな点で、マディソン型民主政治論とポピュリスト型民主政治論の主要関心とされてはいても、現実の争点とされることはないと論じている。ベントレー、トルーマン、レーザムの著作に注目し、ダールは、「区別し得るのは、多様なタイプと規模の諸集団にすぎず、これは、全て、少なくとも部分的には、常に他を犠牲にしつつ、さまざまな方法で自らの目的の実現を期している」と主張している。多数派は、問題とも、その可能性にもないのが現実とされている。政治の現実の素材は、数的多数派を「無関心の多数派」とみなし、これを黙認ないし無視した「少数諸派の支配」ないし「少数諸派による政治」であって、これは、伝統的意味での少数支配とは異なるものである。この過程は、「果てしなく繰り返される交渉」と「かなり少数の諸集団の着実な宥和化」の過程ではあるが、選挙とならんで、「人々のなかの活動的で正当な集団が、決定過程のある重大な局面において、自らの主張を伝え」、また政府も応答的なものとなる「高い可能性」にある過程であると位置付けられている(63)。
 ダールは、マディソンが「全ての多元主義的社会に存在している固有の社会的抑制と均衡の重要性を過小評価している(64)」ことを挙げ、この点で意見を大きく異にしていると述べている。だが、この種の結論を、『フェデラリスト論集』などのマディソンの著作の読解において、明示的に読み取ることは殆どできない。さらに、ダールは、制度的構造を重視していないにもかかわらず、これによって多数派の要求が抑制され、経済的少数派に特権的位置が与えられていると批判しているようにも思える。「ポピュリスト」型民主政治に対するダールの批判となると、さらに捉えがたいものとなる。というのも、このモデルは、明示的な理論ないし実例をもって提示されておらず、むしろ、人民主権と政治的平等の最大化の点から規定された分析的概念として提示されているにすぎないからである。ダールは、これでは一組の狭い目標にすぎないと位置付けているが、それは、部分的であれ、彼が、こうした諸目標を本質的に重要な目的というよりは、操作的価値として扱ったことに負うものである。
 五年後に、ダールは、『統治するのはだれか(Who Governs)』を書いているが、この頃までに、ポリアーキーの概念は、彼の著作にあって、少時、多元主義に道を譲るに至っている。この著書は、彼の民主政治論を経験的に実証しようとしたものと理解するのが妥当である。だが、その目的は、ニューヘブンの研究を基礎に、経験的挙証をもって、パレート、モスカによって、より近時にあっては、C・ライト・ミルズ(C. Wright Mills)やフロイド・ハンター(Floyd Hunter)のような社会学者によって主張されたように、政治の表面の背後には、常に、経済エリートが存在するとする理念やアメリカ政治がリーダーたちによって遠隔操作された大衆社会として理解され得るとする理念、これを切り崩すことにあった(65)。そのねらいは、また、民主政治がポピュリスト型参加の方向で捉えられる必要にないことを繰り返し明示することにもあった。トルーマンが反論を試みたことではあるが、一九六〇年までに、圧力政治をもって民主政治の病理とする古いイメージと新しい批判の波との合流が起こっていた。新しい批判の波は、支配的エリート論者や成層化論者の議論とは異なって、多元主義の現実に再挑戦することを目的とするというよりは、多元主義が政治と「政治的なるもの」の両者に与えた影響を批判しようとするものであった(66)。しかし、社会学者のなかには、既に、多元主義をもって民主政治とすることに同意し、多元主義を大衆社会や全体主義の防波堤であると論ずる人々もいたし、また、政治学者のなかにも、多元主義が一般的な「安定的民主政治の理論」となり得ると確信している人々もいたのである(67)。
 集団の一般理論という理念は、その批判者の存在にもかかわらず、地歩を固めていた。ベントレーの著書は再版を重ね(一九三五、一九四九、一九五五年)、『記念論集』(一九五七年)をもって頂点に達している。この論集において、政治学の寄稿者から、集団理論と政治学の関係は、需要・供給の理論と経済学との関係に等しいものがあるとみなし得るのは、「諸価値が、集団の対立過程を媒介として、社会において権威的に配分されているからである」との示唆が提示されている(68)。なかには、たとえば、集団パラダイムの構築に大きな役割を果たしていたオデガードのように、当時の議論の要点を十分に理解していなかったと思われる人々もいる。彼は、ベントレーからレーザムに至る文献の幾つかの前提に異議をはさんでいる。彼は、集団理念に新しいものなど殆ど認められないと主張している。それは、部分的であれ、プラトンからマルクスに至る政治理論の伝統であったとされている。また、現代の諸理論は、集団と均衡のような鍵的概念について、たかだか両義的概念の位置にあるにすぎず、しかも、より重大な問題は、民主政治の過程に占める個人や価値などの諸要因の位置を補捉しそこなっていると主張している。彼の結論は、集団理論とは、現在の形態にあって、かつて「見えない政府」と呼ばれていたものを追放したいとするあまり、「政治過程から、理性、知識、知性を払拭したにすぎない」ものとされた(69)。
 一九六〇年の『アメリカ政治学雑誌(American Polical Science Review)』は、ベントレーと集団理論に関する四論文を収載しているが、そのなかの三論文は、「ベントレー再訪」と題するシンポジュームに収録されている。一論文は、ベントレーのアプローチを弁護し、彼の著作をよりどころに構成される必要を論じているが、他は、この理論が狭い視野にあり、方法論上の間違いも認められるとし、さらには「現実的なるもの」を保守的に「聖化」したにすぎないと非難している(70)。幾つかの点で、ここで交わされた検討は、結局、ベントレーとトルーマンや集団理論を対象としているというより、政治の科学の可能性をめぐって、より一般的争点を検討の対象とするものであったというのが実態である。こうした言説の潮流は、同様の流れにあったとはいえ、ダールの著作に底流する流れそのものではなかった。
 ダールは、既に、「支配的エリート・モデル」に挑戦していたが(71)、今や、ニューヘブンは、階統的な貴族型寡頭制から「非累積的」で「分散的不平等」型の「多元主義体制」への移行という長期の歴史的展開を経たとし、この体制を、その働きの点で、安定的な「民主的体系」に最も接近したものであると論ずるに至っている。ダールがニューヘブンからアメリカ政治のより一般的な主張を引き出したいと考えていることは明らかである。彼は、「では、多元主義的民主政治にあって、だれが支配しているのか」という問題を設定し、本質的には、そんな人々がとくにいるわけではないと答えている(72)。多様な争点が働いて、多様な集団や利益層の集約が招来されている。だが、安定と不安定の触媒の位置にいるのは、「政治層」であり、ゲームのルールに関する合意と信念の制約の枠内で活動している指導者たちであって、「市民の多くは、極めて深く政治に関与しているわけではない」とされる。ダールは、「政治の優位性」と「民主的ポリスの生活に対する市民の関心」が「神話」であるとし、この点を強調している(73)。
 おそらく、過去七五年間に、ニューヘブンが大きく変わったわけではなかろうし、あるいは、政治学者からすれば、政治とみなされる様相が大きく変化したわけでもあるまい。かつて、『ニューヘブンの共和制(Republic of New Haven)』という詳細な研究において、ハーバード・アダムズの学生が、ダールが大いに望むところであったろうと思えるが、「ニューヘブンには、多数の町のひとつとして、国民的福祉を大いに増加させたという点で、いくつかのささやかな諸活動が認められ、また、これを明示するものがある」と指摘している。だが、当時にあってすら、「あらゆる党派からなり、尊敬すべき多様な市民は、全て、タウン・ミーティングや学区集会を無視し」、また、「それがいつ開かれるかについて知らないも同然にある」と記していたのである(74)。
 ダールがニューヘブンの研究を公刊した年に、ヘンリー・カリエル(Henry Kariel)は、「アメリカ多元主義の没落」を提唱している。これは、強力な「権力ブロック」が登場し、これが、さらに、「新しい公共秩序」の台頭を促し、「アメリカニズム」とみなされてきた「小集団の集成体」と「自発的目的団体」の影を薄くしたことを意味するものであった(75)。だが、これは、多元主義社会の諸条件が変わってしまったにすぎないということではない。カリエルには、多元主義理論の基本的主張に同調するものが殆ど認められない。彼は、この理論が一九二〇年代の論争の過程で輸入されたが、社会的・政治的多元主義の事実が想定されていた状況において、問題は国家の創造にあったというアメリカの文脈に即してみると、この理論は殆ど無意味に等しい理論であったと指摘している。マディソンすら、多元主義をもって自動修正型機制であると考えていた点では間違っていたとされる。カリエルは、ベントレーとトルーマンの理念に言及し、社会科学者たちがイデオロギーと政治的記述を吸収した伝統の一部をなすものとみなしているが、ダールについてはふれていない。
 カリエルの主張に従えば、多元主義は「政府なき国家を規定」し、また、「多元的な自発的目的団体が存在し、その相互作用から公共善が組成されるという見えざる手順によって誘導されている」状況にあるとの仮説にあったとされる。この教義に何らかの取り柄があるにしても、現代の対応策は、もはや、「組織的な私的権力」センターを強化することをもって、多元主義を蘇生することには求められ得ない。問題は、「非自由主義的政治秩序の確立は別にしても、何らかの手段によって諸センターをコントロールすること」であるとされる。カリエルは、「多元主義の理論は、大規模技術社会という現状において、立憲民主政治の諸原理と対立」するものであって、より平等主義的社会に道を譲らねばならず、その一部は、国家介入によって達成されるであろうと論じている(76)。彼の主張によれば、この種の答えの先例は、「アメリカ型国家主義」に認められる非多元主義的伝統に求められるものであって、この伝統は、ハミルトンから、ハーバート・クロリー(Herbert Croly)のような革新主義者たちを経て、現代の自由主義政治理論に連なっており、大統領の権力とリーダーシップの強化のような施策をもって、政府の集権化と公約規制をはかるべきであるとされる。かくして、諸集団は、私的主張を展開しつつも、現実には、公的性格と機能を帯び、「個人の美的・知的・道徳的・精神的善」を脅かしているとされ、立憲主義は諸集団を超える位置に高められる必要にあると指摘している(77)。
 カリエルの著書は、多元主義の理論と実践に対する批判の一〇年の開始の位置にあたっている。例えば、ネルソン・ポルスビー(Nelson Polsby)に認められるように、ダールの協力者たちは、コミュニティ権力の論述をもって、「多元主義的選択肢」の形態と内実を追求し、成層化論者たちを批判し続けた。ポルスビーは、より明確に、このアプローチを、マディソンとトクヴィルに始まりへリング、トルーマン、V・O・キー(Key)へと連なってくる伝統と結び付けようとしている(78)。この点で、リンドブロムは、自らの著作が、フィギス、メイトランド、ラスキ、ベントレー、レイザム、へリング、トルーマンに認められる伝統において、「多元主義思想の未完の課題」を完成しようとするものであるとし、この課題は、「人々の協力が、だれかの調停を経ることも、支配的な共通目的をもつこともなく、また、相互の関係を完全に規定したルールもなく、成立し得る」方法を明示することにほかならないと論じている(79)。
 アメリカの政治と社会の多元主義的イメージが頂点に達したように(80)、多様な多元主義の教義の批判も同様の状態に至った。だが、攻撃の厳しさを強めたのは、多元主義をもって社会的・政治的現実を映すものであるとする論述よりも、その現状をもって民主政治の理論としたり、多元主義政治の実践には病理的かげりがあるとする主張に向けられた。一九六〇年代に至って、多元主義をめぐって激しい論争が繰り返されたが、これを説明する方法は多様である。つまり、異なった政治イデオロギーの学問的反映として、歴史的に多元主義理論と結合した行動論的政治分析の諸アプローチをめぐる論争の作用として、また公的争点の批判的理解に対する政治学の有意性をめぐる関心の高まりの一部として、さらには、アメリカの政治生活の脈絡外で起こった政治理論における新しい理念の所産として、これが挙げられる。しかし、政治学と専門集団の内外にあって、どのような直接的影響を与えたにしろ、この論争と議論の基本的視点が、どの程度に、この分野の概念的レパートリーに定着したかを確認する必要にある。一九六〇年代の政治学の言説の特徴となった多元主義と行動論をめぐる論争の物語が極めて固有の物語りであり、多くの点で、この分野の歴史の明確なひとこまであったにしても(81)、そこで展開された議論は、立憲主義と多元主義との、さらには、長くアメリカ政治研究の伝統とされてきたところではあるが、政治的現実の多様なイメージと民主政治との基本的対話の途絶えることのない流れのなかにおいてのことであった。この小論において検討したことは、この対話である。この論争は、原理的に、多くの形態をおび得たであろうが、ひとつの形態が政治学の言説構造に底流し、この議論の性格を規定していた。だが、それは、認識されていたにしても、参加者たちにあって漠然と理解されているにすぎない場合が多かったのである。版面あわせ

(1) John Dickinson, “Democratic Realities and Democratic Dogma," American Political Science Review 24 (1930), p. 286.
(2) 幾つかの鍵的用語は、次に認められる。E. E. Schattschneider,
The Semisovereign People (New York : Holt, Rinehart & Winston, 1960) ; Grant McConnell, Private Power and American Democracy (New York : Knopf, 1966) ; Theodore Lowi, The End of Liberalism : Ideology, Policy, and the Crisis of Public Authority (New York : Norten, 1969).
(3) Mancur Olson, Jr., The Logic of Collective Action : Public Goods and the Theory of Groups (Cambridge : Harvard University Press, 1965).
(4) 集団政治研究の全般的展開については、次において、包括的に論じられている。G. David Garson, Group Theories of Politics (Beverly Hills : Sage, 1978).
(5) Mark Kesselman, “The Con■ictual Evolution of American Political Science : From Apologetic Pluralism to Trilateralism and Marxism," in J. David Greenstone (ed.), Public Values and Private Power in American Politics (Chicago : University of Chicago Press, 1982), p. 35.
(6) 方法論的・史学方法論的争点の検討については、次を参照のこと。David Easton, John G. Gunnell, and Michael Stein, Regime and Discipline : Democracy and the Development of political Science (Ann Arbor : University of Michigan Press, 1995).
(7) 例えば、次を参照のこと。Ernesto Laclau and Chantal Mouffe, Hegemony and Socialist Strategy (London : Verso, 1985) ; Laclau, New Re■ections on the Revolution of Our Time (London : Verso, 1990).
(8) 一九世紀政治学における国家概念についての、より十分な検討については、次を参照のこと。John G. Gunnell, “In Search of the State : Political Science as an Emerging Discipline," in Peter Wagner, Bjo¨rn Wittrock, and Richard Whitley (eds.), Discourses on Society : The Shaping of the Social Science Disciplines (Reidel/Kluwer, 1990).
(9) Daniel Boorstin, The Genius of American Politics (Chicago : University of Chicago Press, 1953) ; Louis Hartz, The Liberal Tradition in America : An Interpretation of American Political Thought Since the Revolution (New York : Harcourt, Brace, 1953).
(10) この展開の詳細な検討については、次を参照のこと。John G. Gunnell, The Descent of Political Theory : The Genealogy of an American Vocation (Chicago : University of Chicago Press, 1993).
(11) C. B. Macpherson, The political Theory of Possessive Individualism (Oxford : Clarendon Press, 1962).
(12) Bernard Bailyn, The Ideological Origins of the American Revolution (Cambridge : Harvard University Press, 1967) ; Gordon Wood, The Creation of the American Republic, 1776-1787 (Chapel Hill : University of North Carolina Press, 1969).
(13) J. G. A. Pocock, The Machiavellian Moment : Florentine Political Thought and the Atlantic Republican Tradition (Princeton, N. J. : Princeton University Press, 1975).
(14) John Dunn, “The Politics of Locke in England and America in the Eighteenth Century," in John Yolton (ed.), John Locke : Problems and Perspectives (London : Cambridge University Press, 1969).
(15) Garry Wills, Inventing America : Jefferson's Declaration of Independence (New York : Doubleday, 1978).
(16) Donald Winch, Adam Smith's Politics : An Essay in Historiographic Revisionism (Cambridge : Cambridge University Press, 1978).
(17) Joyce Appleby, Economic Thought and Ideology in Seventeenth Century England (Princeton, N. J. : Princeton University Press, 1978) ; Capitalism and a New Social Order : The Republican Vision of 1790s (1984) ; John Patrick Diggins, The Lost Soul of American Politics : Virtue, Self-interest, and the Foundation of Liberalism (New York : Basic Books, 1984).
(18) ベイリーンとポコックの検討については、次を参照のこと。John G. Gunnell, “Method, Methodology, and the Search for Traditions in the History of Political Theory : A Reply to Pocock's Salute," Annals of Scholarship I (1980).
(19) だが、次も参照のこと。Richard Ashcraft, Revolutionary Politics and John Locke's Two Treatises of Government (Princeton : Princeton University Press, 1986).
(20) 次を参照のこと。Herbert J. Storing. The Anti-Federalist (Chicago : University of Chicago Press, 1981) ; Herbert J. Storing, What the Anti-Federalists Were For (Chicago : University of Chicago Press, 1981).
(21) マディソンとハミルトンの引用は、全て、次による。Jacob E.
版面あわせCooke (ed.), The Federalist (New York : Meridian Books, 1961).
(22) Alexis de Tocqueville, Democracy in America (New York : Vintage, 1954), Vol. I, p. 9.
(23) Ibid., Vol. II, p. 103.
(24) Ibid., Vol. I, p. 65.
(25) Ibid., Vol. II, pp. 4-7.
(26) Ibid., Vol. I, pp. 99-106.
(27) Ibid., Vol. II, pp. 334-48.
(28) Ibid., Vol. II, pp. 108-14.
(29) Ibid., Vol. II, pp. 123-32.
(30) Ibid., Vol. II, pp. 152-56.
(31) Herbert B. Adams, Jared Sparks and Tocqueville (Baltimore : Johns Hopkins University Studies in Historical and Political Science, No. 12, 1898), pp. 43-44.
(32) Harold J. Laski, “Alexis de Tocqueville and Democracy," in F. J. C. Hearnshaw (ed.), The Social and Political Ideas of Some Representative Thinkers of the Victorian Age (New York : Barnes and Noble, 1930), pp. 100-115.
(33) James Bryce, “The Relations of political Science to History and to Practice," American Political Science Review 3 (1909).
(34) Peter Odegard, “Introduction" in Arthur Bentley, The Process of Government (Cambridge : Belknap Press, 1967).
(35) Charles Beard, Political Science Quarterly 23 (1909) 739-41.
(36) ビアードとベントレーの検討については、次を参照のこと。
版面あわせ Raymond Seidelman, Disenchanted Realists : Political Science and the American Crisis, 1884-1984 (Albany : State University of New York Press, 1985).
(37) この問題の周到な検討については、次を参照のこと。Paul F. Kress, Social Science ane the Idea of Process : The Ambiguous Legacy of Arthur F. Bentley (Urbana, Ill. : University of Illinois Press, 1970) ; James F. Ward, Language, Form and Inquiry : Arthur F. Bentley's Philosophy of Social Science (Amherst, MA. : University of Massachusetts Press, 1984).
(38) この時期の詳細な検討については、次を参照のこと。John G. Gunnell, “The Declination of the ‘State' and the Origins of American ‘Pluralism'," in John Dryzek, James Farr, and Stephen Leonard (eds.), Political Science and its History : Research Programs and Political Traditions (New York : Cambridge University Press, 1994).
(39) Charles E. Merriam, “Recent Tendencies in Political Thought," in Charles E. Merriam and Harry Elmer Barnes (eds.), A History of Political Theories : Recent Times (New York : Macmillan, 1924), pp. 1, 29-30.
(40) Harry Elmer Barnes, “Some Contributions of Sociology to Modern Poritical Theory," in Merriam and Barnes, (eds.), pp. 362-63.
(41) Ibid., pp. 377, 380-81.
(42) Walter Lippmann, The Phantom Public (New York : Harcourt, Brace, 1925) ; William Bennett Munro, Invisible Government (New York : Macmillan, 1928), p. 1.
(43) John Dewey, The Public and its Problems (Boston : Holt, 1927).
(44) Peter Odegard, The American Public Mind (New York : Columbia University Press, 1930), p. 168.
(45) Pendelton Herring, Group Representation Before Congress (New York : Russell and Russell, 1929), p. xi.
(46) Ibid., p. xvii.
(47) Dickinson, op. cit., pp. 287, 291.
(48) Westel Woodbury Willoughby, The Ethical Basis of Political Authority (New York : Macmillan, 1930).
(49) Pendelton Herring, “Special Interests and the Interstate Commerce Commission," American Political Science Review 27 (1933), p. 917.
(50) Pendelton Herring, The Politics of Democracy (New York : Norton, 1940), pp. 424-25.
(51) Mary E. Dillon, “Pressure Groups," American Political Science Review 36 (1942), p. 481. また、次も参照のこと。John D. Lewis, “The Elements of Democracy," American Political Science Review 34 (1940).
(52) David Truman, The Governmental Process (New York : Knopf, 1951), p. 502.
(53) Ibid., p. 514.
(54) Earl Latham, The Group Basis of Politics (Ithaca : Cornell University Press, 1952), p. 9.
(55) Robert A. Dahl, Congress and Foreign Policy (New York : Harcourt, Brace, 1950), pp. 261-62.
(56) 次を参照のこと。John Kenneth Galbraith, American Capitalism : The Concept of Countervailing Powers (Boston : Houghton-Mif■in, 1952).
(57) Robert A. Dahl and Charles E. Lindblom, Politics, Economics, and Welfare : Planning and Politico-Economic Systems Resolved into Basic Social Process (New York : Harper and Bros., 1953), pp. 273, 275-76.
(58) Ibid., pp. 302, 307-8.
(59) 次を参照のこと。John G, Gunnell, The Descent of Political Theory : The Genealogy of An American Vocation (Chicago : University of Chicago Press, 1993).
(60) ひとつの例外として、次の体系的分析が挙げられる。Richard Krouse, “Robert Dahl : The Theory of Polyarchial Democracy," in Sidney A. Pearson, Jr., The Constitutional Polity : Essays on the Founding Principles of American Politics (Lanham, MD. : University Press of America, 1983).
(61) Robert Dahl, A Preface to Democratic Theory (Chicago : University of Chicago Press, 1956), pp. 22, 132, 135.
(62) Ibid., p. 63.
(63) Ibid., pp. 131-32, 145, 150.
版面あわせ(64) Ibid., p. 22.
(65) C. W. Mills, The Power Elite (New York : Oxford University Press, 1956) ; Floyd Hunter, Community Power Structure : A Study of Decision -Makers (Chapel Hill : University of North Carolina Press, 1953) and Top Leadership USA (Chapel Hill : University of North Carolina Press, 1959).
(66) Grant McConnell, “The Spirit of Private Government," American Political Science Review 52 (1958) ; David Spitz, Democracy and the Challenge of Power (New York : Columbia University Press, 1958) ; Sheldon Wolin, Politics and Vision (Boston : Little-Brown, 1960).
(67) Roberto Nisbet, The Quest for Community : A Study in the Ethics of Order and Freedom (New York : Oxford University Press, 1953) ; William Kornhauser, The Politics of Mass Society (New York : Free Press,1959) ; Harry Eckstein, A Theory of Stable Democracy (Princeton : Princeton University Press, 1961).
(68) Charles B. Hagan, “The Group in political Science," in Richard Taylor (ed.), Essays in Honor of Arthur Bentley (Yellow Springs : Antioch Press, 1957), p. 110.
(69) Peter H. Odegard, “A Group Basis of Politics : Notes on Analysis and Development," Western Political Science Quarterly 11 (1958), p. 699.
(70) Myron Q. Hale, “The Cosmology of Arthur F. Bentley," American Political Science Review 54 (1960), p. 957. 同号所収の次も参
版面あわせ照のこと。R. E. Dowling, “Pressure Group Theory : Its Methodological Range" ; Robert T. Golembiewski, “The Group Basis of Politics : Notes on Analysis and Development" ; Stanley Rothman, “Systematic Political Theory : Observations on the Group Approach."
(71) Robert Dahl, “A Critique of the Ruling Elite Model," American Political Science Review 52 (1958).
(72) Robert A. Dahl, Who Governs? (New Haven : Yale University Press, 1961), pp. 85-86.
(73) Ibid., pp. 281-82, 311.
(74) Charles H. Levermore, The Republic of New Haven (Baltimore : Johns Hopkins University, 1886), pp. iv, 290.
(75) Henry Kariel, The Decline of American Pluralism (Stanford : Stanford University Press, 1961), p. 2.
(76) Ibid., pp. 2, 4, 68.
(77) Ibid., pp. 271, 274.
(78) Nelson W. Polsby, Community Power and Political Theory (New Haven : Yale University Press, 1963).
(79) Charles E. Lindblom, The Intelligence of Democracy (New York : Free Press, 1965), pp. 3, 12. また、次も参照のこと。“The Science of Muddling Through," Public Administration Review 19 (1959).
(80) 例えば、次を参照のこと。Don K. Price, The Scienti■c Estate (Cambridge : Harvard University Press, 1965) ; John Kenneth Galbraith, The New Industrial State (Boston : Houghton-Mif■in, 1967).
(81) 次を参照のこと。Gunnell, The Descent of Political Theory.
 〈付記〉 本稿は、次の論稿の訳出である。John G. Gunnell, “The Genealogy of American ‘Pluralism' : From Madison to Behavioralism".
 本稿は、一九九四年八月の「国際政治学会(IPSA)世界大会」(於 ベルリン)の報告として準備され、訳者に郵送されたものである。訳者は、本稿がアメリカ政治学における「多元主義」の流れを簡潔に整理した示唆的論述にあると判断し、著者の許可を得て訳出した。
 著者は、ニューヨーク州立大学アルバニー校の政治学教授であり、その著作は、アメリカ政治学史と政治理論を中心に多数に及ぶが、最近の代表的著書としては次がある。Between Philosophy and Politics : The Alienation of Political Theory (Univ. of Massachusetts Press, 1986) ; The Descent of Political Theory : The Genealogy of an American Vocation (Univ. of Chicago Press, 1993).
 本誌への訳出転載を認められたガネル教授の好意に感謝の意を表する---訳者。