立命館法学  一九九五年第二号(二四十号)




抽象的危険犯の現代的展開と
その問題性 (二)

---近年のドイツの議論を参考にしながら---

金 尚均






目    次




第三節 環境保護刑法における法益の問題
 第一項 問題状況とその特徴
 一 抽象的危険犯の場合、従来から国家的法益や社会的法益との関連が指摘されてきた。放火罪に関していえば、ドイツと同様、日本でも社会的法益の保護の側面が強調される一方で、これに対する現実の危険は軽視される傾向にあり、危険は形式的に立法者の立法動機にすぎないといわれている。例えば、辺りに誰も住んでいない野原の一軒家の放火の例や不燃性の家屋に対する放火の例が教室事例としてよく挙げられるが、このような事例においてまで放火罪の成立を認めることができるのであろうか。特に成立を肯定した場合、「公共の安全」という法益、抽象的には社会的法益に対する侵害または危険の実体の曖昧さが問題になる。近年この問題について、生命、身体の完全性という法益とのかかわりで社会的法益の危険をできる限り可視化させ、しかもその可罰性を限定しようとする努力も行われている。
 このように解釈論上の問題に加え、また抽象的危険犯においては新たな法益の出現という問題がある。ハッセマーによれば、従来は放火、道路交通における飲酒、または航空交通(Luftverkehr)への危険な侵害(gefa¨hrliche Eingriffe)など、人の利益に対する明白な脅威が抽象的危険犯によって規制されていた、と述べられている(1)。これに対して、現代刑法における法益保護は、環境、経済、データ処理、麻薬、租税、海外貿易、及び組織犯罪などを対象にして、社会存続の前提基盤となるような諸制度を保護する傾向にある。すなわち、その侵害・危険が不可視で、しかも動的でなく、因果的に変更可能でないような制度、言い換えればエスタブリッシュメントの安定を保護する法益とこれを内包する刑罰規定が社会の複雑性や危険を理由に増加する傾向にあると言ってよかろう。つまり、普遍的法益が増大しているのだ(2)。その上、規制の対象となる事象は、被害者がいないか、または被害者を特定するのが極めて困難なものが多い(3)。
 普遍的法益と抽象的危険犯という規制形式は密接な関係にある。予防の見地からすれば、普遍的法益は、社会学的、政治学的に構想されたある観念的なシステムを法益の内容としており、このシステムの保護が刑法的保護の正当化根拠とされる。立法者はその侵害・危険が不明確なことを戦略的に利用して、危険の立証が不要とされる抽象的危険犯という規制形式でこのような性格をもつ法益を保護しようと試みる。もっともこの逆もまた正しい。なぜなら、ある社会問題に対して未然に有害な結果を阻止するという課題を前にして、刑法的対応を正当化するのに普遍的法益が用いられるのかもしれないからだ。
 しかし、このような理論構成は、はたして妥当であろうか。ここではまさに「目的」が「手段」を正当化しているようだ。とりわけ、このような理論に対しては、法益の犯罪限定機能、個別に法益に対する重大な侵害・危険の結果を発生させた場合にのみ刑法を発動すべきだという思想、最終的にウルティマ・ラティオの思想が軽視されているとの疑問が湧き出てくる。
 第二節のところでは、いわば大枠の問題として一般的・抽象的なレベルで抽象的危険犯における法益の包括的な枠組みについて検討したが、つぎに、個別のレベルの問題として、このような疑問を考慮しながら、刑法における保護法益の限定や刑法の管轄領域の問題も視野に入れた上で、ドイツの環境刑法における法益論を例にしながら、現代の抽象的危険犯における法益とはいかなるものであり、しかもいかに理解されているのかを考察したい。
 二 環境刑法の重要な問題の一つに、法益をいかに把握すべきかという問題がある。つまり、水域、大気、土壌を固有の財として法益に組み込むべきか、それともこれらに対する危害を通じて生じる人の生命や身体の完全性という法益の侵害・危険の観点から捉えるべきか、ということだ。
 マルティンによれば、環境法益は、経済刑法、麻薬刑法、交通刑法における超個人的法益に対して、つぎのような特徴をもつとされる。第一に、「環境の清潔さ」といった環境法益における行為客体としての、水、大気、土壌、植物、及び動物などの環境媒体は具体的に危殆化し、しかも具象的に理解できるということによって前者とは異なるとされる。第二に、これらは、一定の国家的または社会的秩序と結びつけられていない点でも相違があるとされる。第三に、経済制度や交通制度などの人的に構築・改造された制度とは異なり、実質的には、立法者の単なる措置によっては環境がもっている物理的・自然的性質を変えることはできないと解されている(4)。このような相違から、マルティンは環境法益を具体的超個人的法益に分類する。
 では、「環境」という概念の中身とは何かが問題となるが、これについてロンツァニの説示によれば、法益としての「環境」とは、そのシステム、資源、自然の構成要素、及び諸機能を含めたものとして理解されている(5)。このことからすると、「環境」とは、自然を構成する諸々の物質、それらがもつ働き、及び諸連関を総称した概念ということになろう。
 クーレンは、環境法益(o¨kologische Rechtsgu¨ter)の独自保護説を唱えているが(6)、彼の説においても、そもそも環境保護という場合、もちろんそのバックボーンとして個人的利益の保護が重視されているであろう。しかし、刑法理論上も人の生命や身体と関係させながら法益が把握されるのかといえば、必ずしもそうではない。つまりクーレンは、環境法益は個人的法益から導出されたものではないし、しかもこれに還元できるものでもない、と指摘する(7)。ここに抽象的危険犯における法益の位置づけの問題性がある。
 日本では、最近、伊東氏がドイツ刑法三二四条を例にしながら、水域刑法において、「水域」を行為客体とし、「ある現状における水体の・(人を含む)動植物や他の環境媒体との相互作用中において保有する諸機能の全体を包含して成っている生態系(8)」を法益とみなす見解を打ち出している。しかし、伊東氏が生態学的法益概念を主張し、しかも抽象的危険犯による規制に依拠する背景には、「環境というものの掛け替えのない価値とわが国において(さえ)も微妙なところで全面倒壊の開始を免れている(免れている?)というその事実状況は、環境刑法における刑罰的保護の前置化(Vorverlagerung)・法益危殆化の一応の推定と裁判官による行為の危険性の確認による抑制という行き方を正当化し得るように思われる(9)」、との思想が潜んでおり、これが環境刑法における法益の捉え方に影響しているともいえる。クーレン説にもいえることだが、生態系の毀損の判断は極めて困難と思われ、結局は危険が擬制されたり、または法益の現実的危険との希薄な関係をもつにすぎない行為の一般的危険性のみが問われるにすぎないのではなかろうか(10)。
 なお、このようにクーレンが個人的法益と断絶させて環境を独自に保護すべきだと主張する背景には、環境保護の必要性という直接的な根拠だけでなく、当該法益に対する侵害・危険が、それ自体をとればあまり有害でない行為の集積によって発生するという理由もあると思われる。つまり、環境犯罪は、蓄積犯罪(Kumulationsdelikte)なのだ。このような理由から個々のわずかな危険しかもたない態度が規制対象とされるのであろう。それに対し、個人的法益との関連で環境法益の侵害・危険を問題にする見解では、そもそも蓄積犯罪という性格をもつにすぎない態度を刑法が扱うことはできなくなる。なぜなら、個々の実害のあまりにも軽微な行為は、人の生命や身体の完全性といった法益を具体的に危険にさらさないからだ。
 また、ブロイは、環境刑法の法益論争の対抗軸として、生命・健康保護説と環境保護独自説があるとし、後者に対して動物保護法を例にとりながら、その問題点を指摘する。ブロイによれば、動物虐待の社会侵害性は、せいぜいのところ、公共の支配的価値に対する違反が及ぼす社会における脱統合的効果にあり、動物保護法はなんら法益を保護するものではないとしつつ、実際には社会侵害性はなく、単に倫理を保護するにすぎない、と批判する(11)。ここでの問題は、法益の確定における個人的法益とのかかわりの無視、軽視にあり、このことは当然に環境保護独自説にも当てはまる。ブロイは、環境刑法では、水、大気、土壌は単に行為客体にすぎず、それら自体は法益たり得ない、と批判する。そこで、刑法による環境保護は、人の保護を視野に入れてのみすることができる、と主張する(12)。このような基本的観点にしたがって、環境との関係において、一般的に人が問題となるのではなく、特別に、自己を取り囲んでいる外界(Auβen-welt)の中心としての人が問題であるにすぎず、これによってはじめて外界が彼の環境になる、と解されている(13)。このような環境保護は、人のための機能の中で環境を見ており、それゆえ常に間接的に人の保護に向けられている、と述べ(14)、環境刑法における法益を人の自然的生命基盤(die natu¨rlichen Lebensgrundlagen des Menschen)と把握する(15)。このブロイの見解は、人の生命・健康との関係を法益に盛り込み、刑法上保護すべき法益を解釈上明確にしようとするものと思われる。ヒルシュもまた、「人の現代及び将来の生命基盤としての環境」を環境刑法の保護法益と考えている。その際、ヒルシュは、人の利益は、個々の法益の定義においては必ずしも必要ではなく、法秩序による保護のための立法者の動機を形成するだけで十分だ、と考えている(16)。
 しかし、ヒルシュ自身も認めているように、「環境が環境---人間中心主義的(o¨kologisch-anthropozentrisch)に理解された場合にも、実際には、『環境』という単なる法益はかなり不明確であろう(17)」。この問題を回避するために、行為客体の明確化が試みられるが、それは行為客体の攻撃があれば、法益の危険があったと推定する議論の修正であり、依然として行為と法益の関係は疎遠なままだ。その上、「環境」という法益の曖昧さとその侵害・危険の抽象性には、ひきつづき変化はない。
 さらに、法益において自然的生命基盤が中心的要素となる場合には、法益に対する危険判断では、人の生命・健康といった法益に対する危険への視点が希薄になりはしないであろうか。ブロイ・ヒルシュ説では、個人的法益に対する危険は単なる立法動機であって、危険の解釈においては、具体的に環境汚染行為と個人的法益に対する危険の関係は問題にされていない。確かに、立法政策の面では、ブロイ・ヒルシュ説は、環境独自保護説とはその思想的根拠を異にしているようだが、個人的法益に対する危険を立法動機におとしめることにより、この思想的相違が危険判断に生かされていないのではなかろうか。その意味で、環境保護独自説と同様の問題を抱えることになり、彼らの試みの意義も中途半端なものにならざるを得ない。

(1) Winfried Hassemer, Produktverantwortung im modernen Strafrecht, 1994, S. 20.
(2) Hassemer, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 10f.
(3) Vgl. Winfried Hassemer, in : Rudolf Wassermann(Hrsg.), Kommentar zum Strafgesetzbuch, 1990, S. 30. Hassemer, Einfu¨hrung in die Grundlagen des Strafrechts, 2. Auflage, 1990, 24f.
(4) Jo¨rg Martin, Strafbarkeit grenzu¨berschreitender Umweltbeeintra¨chtigungen, 1989, S. 33.
(5) Marco Ronzani, Erfolg und individuelle Zurechnung im Umweltstrafrecht, 1992, S.25ff. 環境の概念に関する議論の整理のために、伊藤司「環境(刑)法総論」法政研究五九巻三・四合併号(一九九三年)六七三頁以下を参照することが有益だ。
(6) Lothar Kuhlen, Umweltstrafrechtーauf der Sache nach einer neuen Dogmatik, ZStW 1993, Band 105, S. 698. クラウス・ティーデマン/西原春夫=宮澤浩一監訳『経済犯罪と経済刑法』(一九九〇年)一九五頁以下。
(7) Kuhlen, a. a. O.〔Anm. 6〕S. 704.
(8) 伊東研祐「環境刑法における保護法益と保護の態様」松尾浩也=芝原邦爾編『刑事法学の現代的状況ー内藤謙先生古稀祝賀論集ー』(一九九四年)三三一頁。また、参考文献として、高橋広次「環境の法哲学への序論」南山法学一八巻四号(一九九五年)五八頁を挙げておく。
(9) 伊東・前掲論文(8)三三二頁。
(10) 伊東説では、目的が諸々の概念や解決手段をも規定しているのではなかろうか。逆に、これによって、刑法的管轄の問題に関し、個人的法益の侵害・危険を間接的にしか考慮しないことから、伊東説は、他の問題に対しても刑法の守備範囲を広げる方向に作用するものではなかろう
か。
(11) Rene´ Bloy, Die Straftaten gegen die Umwelt im System des Rechtsgu¨terschutzes, ZStW 1988, Band 100, S. 491f.
(12) Bloy, a. a. O.〔Anm. 11〕S. 493.
(13) Bloy, a. a. O.〔Anm. 11〕S. 493.
(14) Bloy, a. a. O.〔Anm. 11〕S. 494.
(15) Bloy, a. a. O.〔Anm. 11〕S. 496.
(16) Hans Joachim Hirsch, Strafrecht als Mittel zur Beka¨mpfung neuer Kriminalita¨tsformen, S. 6. 既に第一章第五節で記したように、本論文は、一九九四年に京都の同志社大学にて開催された Das 2. Japanisch-Deutsche Kolloquium u¨ber Strafrecht und Kriminologie でのヒルシュ氏の二五ページからなる講演原稿だ。
(17) Hirsch, a. a. O.〔Anm. 16〕S. 6.

 第二項 ミューシック説の検討
 一 つぎに、環境保護の刑法的正当化に関する議論の補足として、またここでの議論の内容をより鮮明にする意味で、法益論を批判しつつ、社会システム論的なアプローチを試みるミューシックの議論を検討したい。
 まず前提の議論として、刑法の任務を法益保護に求め、刑法における法益の枠組みを確定した上で刑法で扱う事柄を限定しようと試みる法益保護思想をミューシックは批判する。ミューシックによれば、法益保護思想のもとでは、((1))法がもっている社会的相互作用(soziale Interaktionen)に対する根本的な関連が曖昧にされ(1)、((2))しかも刑法にとって重要なコンフリクトに対するパースペクティブを客観的な財の世界(Gu¨terwelt)に限定してしまうのは、コミュニケーションという、法が機能しなければならない根本的な領域を見誤るものであり、また、((3))法益概念は、単に態度操縦的メカニズムという図式で社会形態と規範の機能を単純化して叙述しているにすぎず、それによって法と社会の本質的な関連を切断しようするものだ、とミューシックは述べる(2)。法益概念によって現代社会の複雑な形態が媒介されるべきだとするならば、法益概念は必然的にその輪郭を失ってしまう。「複雑化した社会」という言葉にも象徴されるように、社会の複雑な諸関連の中では、現代社会はひとえに確固とした財の総体としてはまったく記述され得ない。それゆえ、法益概念の非物質化傾向(Entmaterialisierungstendenzen)は法益論における理論内在的な崩壊現象だ、と批判的な評価をミューシックは下す(3)。
 法益保護思想とは異なり、ミューシックは、刑法の任務を、コミュニケーションシステムたる社会の構造とその基本的形態を保護し、しかも個人的パースペクティブからは、概して社会的相互作用の基本的条件を保護する点に認めており(4)、この観点から普遍的法益にアプローチする。
 ミューシックは、普遍的法益の構成と刑法的保護の正当性に関する問題は、法の背後にある社会形態と社会構造を背景にして展開されなければならないとするが、彼は、基本的にこれを刑法上保障される行為規範の機能をいかに規定するかという問題として扱う(5)。つまり、刑法規範の正当性、ここでは普遍的法益を保護する規範の正当性の問題を、規範が現行社会システムの存続、維持、その安定化にとっていかなる役割を果たすのかという問題へと還元する。ここで彼は、犯罪構成要件の社会的機能というシステム言及をキータームにしながら問題を解こうとする。普遍的法益の問題との絡みで言えば、「法的に実定化された(positivierte)行為規範は、社会の構造として直接的な相互作用にのみ関係するのではない、すなわち、それは、直接的な社会的接触の一般的構築のための方向づけ典例 (Orientierungsmuster)としてのみ奉仕するのではない(6)」、とミューシックは指摘しつつ、それだけでなく態度への期待・予期を制度化・安定化させる法規範は、制度を確立することまたは社会の複雑な部分システム(Teilsystem)の形態にも関係することができると分析する。つまり、「一定の形態におけるかの社会的接触を刑法上規範化することは、直接的に正当化されるのではなく、もっぱらこの形態の構造からのみ正当化され得る、すなわちこの形態においては直接的な相互作用の領域に基づいて基礎づけることはできず、第一に、複雑な社会システムを考慮して基礎づけることができる。そのシステムの構成要素とは、このような相互作用関係だ(7)」、とミューシックは解する。ある犯罪構成要件の社会的機能という複雑に媒介されるシステム言及が問題にされ得る限りで、これを根拠に行為規範が刑法上正当化されるというわけだ。この様な基礎に立って、ミューシックはつぎのように言う、「システム言及というこの複雑な媒介は、いわゆる普遍的法益を保護する犯罪構成要件の正当性問題の構造的基盤を構築する(8)」、と。
 最終的に、ミューシックは、犯罪構成要件の社会的機能というシステム言及からのアプローチによって個人的法益と普遍的法益の正当性も明らかになり、その限りで両者には質的な相違はなく、単に量的なそれがあるにすぎないとの主旨の結論を出す(9)。ここで注意すべきは、システム言及という、いわばシステムの存続、維持、安定化を目的にしながら、規制すべき事柄について、現行の社会システムに照らして、それにはいかなる手段が妥当であるかが判断されるということだ。
 二 つぎに、ドイツ刑法三二四条に関するミューシックの見解を見よう。
 ミューシックは、法は社会内部の(gesellschaftsintern)の諸関係を構築するものであるのに対し、環境犯罪では、犯罪化された行為客体として、水域などの社会の外部(gesellschaftsextern)にある媒介物が中心になっているが、しかし我々は「自然的環境」とはコミュニケーションしない、とまず留保を付す。その上で、諸々の法規範が社会形態を形成することからして、環境犯罪を、他の犯罪と同様、社会内部と関連をもつものとして構成しようと考える。つまり、環境犯罪構成要件は、水域や大気などの環境媒体と関連して特殊な社会的形態を保障する、とミューシックは考える。換言すれば、全体システムとしての社会を環境システム(o¨kologische System)の中でいかに整備していくかということが課題だとする(10)。ミューシックの解釈によれば、自然環境もしくは環境システムは社会的環境の一断面として社会内部的構築物であり、これを認知することと形態を規定することは、社会の認識構造及びこれと結びついた社会全体の自己記述の反省過程に依存しており、この様な社会の自己記述と同様に、「自然的環境」も特別に区分されたことによって生み出されたものにすぎず、そのもとで様々な社会の部分システムが作動しており、その限りで、「環境媒体」を社会的媒体だと解する(11)。
 ミューシックは、他の抽象的危険犯と同じく、環境犯罪においても環境媒体の直接的な取扱いにかかわる基準の規範的保障が問題だとしながら(12)、「三二四条によって保障されるこの基準の社会的背景は、社会的に認知された、社会のエコロジカルな環境媒体としての水域の機能だ(13)」、と主張する。ここで示された基準こそが、ミューシックの想定するドイツ刑法三二四条の保護形態だ。しかし、ここで保護財を確定することは、刑法上保障されている行為規範の社会的機能を理論的に再構築したもの、すなわち法理論上のシンボルにすぎない、とミューシックは消極的に評価する(14)。このところに注意を要する。
 三 まとめとして、まず環境犯罪に対する自然主義的アプローチについて言うと、自然主義的な「環境」法益概念を環境犯罪に当てはめる学説では、あらかじめ想定された環境の悪化の阻止とそのための事前予防という目的に沿いつつ、この目的の最適化のためにこのような法益が打ち出されている。しかしこのような理論構成に対しては、いわば、目的が次第に手段を神聖化しているように見える(15)。ここで法益は、ある事象を刑法で扱うに際してこれを正当化させるための機能を担っているにすぎないのではなかろうか。これに関してまさにハッセマーは、「法益保護の原理は、この様な分脈では限定的な処罰の禁止から処罰の命令に移行し、正当な犯罪化の消極的な基準から積極的な基準へと移行している(16)」、と説示する。この点だけを見れば、法益とは、ある行為規範の社会的機能を理論的に再構築したもの、つまり行為規範が前もって意図した保護対象を記述したものとの主旨のミューシックの指摘は一理あるといえよう。
 しかし、法益論は、ある行為が「環境」という法益を危殆化したか否かに関する限定の問題であり、また「環境の清潔さ」や環境のもつ機能が刑法にとって保護すべき利益なのかという刑法の管轄領域の限定の問題でもある。環境刑法における自然主義的理解は、ウルティマ・ラティオたる刑法、また社会の構成主体たる個人との関係をなおざりにし、刑法における法益を政策的判断のみにかかわらしめる傾向にあるといえよう。
 また、ミューシック説に対しては、これは、刑法における環境保護理論を、つまり法益保護説からする「環境法益」を規範論の立場から法社会学的に構成したものといえるが、行為規範の社会的機能というシステム言及の見地から刑法の正当性を理解する点で、目的---手段関係、究極目的たる「社会の安定化」と環境刑法における目的たる社会構成要素としての「環境の機能」の保護と、そのための役割を果たす手段としての犯罪構成要件という図式が構想されているように思われる。ここではコミュニケーションシステムたる社会の中に個人的ファクターは解消され、システム言及という社会の必要性及び利益と個人の必要性及び利益が同一視されているか、もしくは社会の利益は個人の利益であるとの結論に至る恐れがある。これは、先の自然主義的な法益理解と同様、刑法の犯罪限定機能に資するものとは言い難い。しかも「法益」というフィルターを通さずに行為の正否を問うことから、違法性判断において、その判断基準として社会目的の見地が前面に出て来ることを考えると、ミューシック説は、自然主義的な法益の理解以上に問題を抱えているように思われる。
 これに加えて、法についてミューシック説から導かれる帰結とは、つぎのようなものと思われる。「法律」・「規範」イコール「法」となる。これは、もっとも率直な実証主義であって、自然法思想を大上段に立った議論として拒絶することを意味する。また、「法」イコール「システム言及」、つまり法は、社会システムの安定化という目的のための手段とされ、社会システムの安定化という目標の見地から法が解釈され、しかも法的規制形式が選択されることになってしまうのではなかろうか(17)。

(1) Bernd J. A. Mu¨ssig, Schutz abstrakter Rechtsgu¨ter und abstrakter Rechtsgu¨terschutz, 1994, S. 152.
(2) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 153.
(3) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 156. ミューシックは、「このこと(訳者注:法益概念における脱物質化傾向)は、財の意味論の中では、社会の形態を包括的に描写することが構造的に条件づけられて不可能であることの印である」(Mu¨ssig, a. a. O., S. 156.)、と述べている。
(4) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 142.
(5) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 185.
(6) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 185.
(7) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 186.
(8) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 186.
(9) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 187f.
(10) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 222.
(11) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 222f.
(12) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 225.
(13) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 225.
(14) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 225f
(15) Winfried Hassemer, Produktverantwortung im modernen Strafrecht, 1994, S. 8.
(16) Hassemer, a. a. O.〔Anm. 15〕S. 7.
(17) これは、「法(das Recht)が法(Recht)と規定しているものが法(Recht)である」、とのルーマンの指摘に似ている。Niklas Luhmann, Das Recht der Gesellschaft, 1993, 143f.

 第三項 ホーマン説について
 一 以上のような人の生命・身体の完全性などの人的な法益とは独立した、超個人的法益や普遍的法益、さらに環境犯罪で言えば、生態学的法益論または環境保護独自説とは異なり、ホーマンは、近代刑法の諸原則を厳格に維持しながら、個人的法益の保護を刑法の中心に据えて議論を展開している。
 まず、ホーマンは、いわゆる法益一元論の問題を取りあげる。ホーマンの区別によれば、法益一元論は、国家主義的アプローチと人格的アプローチに分かれる。第一に、法益概念に対するアプローチの相違を見ると、前者では、法益とは、国家によって構想される、すなわち法益は全体または国家の財であり、しかも生命、自由、そして財産のような個人的法益は、法的に分配された、もしくは国家的機能から導かれたものとして概念づけられる。これに対して、後者では、法益は個人から導かれ、その上普遍的法益は、個人の人格的展開に奉仕する限りでのみ正当だとみなされるものから導かれたものとして理解される、とホーマンは言う(1)。これは、つぎのようなことのためにはなんらの動機も与えない、つまり、社会化、社会関係の濃密化、または複雑な制度の創造という現代的傾向というものが、法や法思想においても同じく、個人的要素や人格的要素を諸制度(Institutionen)の見地から構成し、機能させる、つまりある程度社会的変化と一致させてこれらを「社会化」させるため、というハッセマーの見解に沿うものと思われる(2)。
 第二に、特徴について見ると、一元的---国家主義的アプローチのそれは、つぎの点に求められている。すなわち、環境犯罪でいえば、環境は、独自の、人によって媒介されたものではなく、少なくとも個人的法益と同価値の法益として認識される。その上、個人法益は普遍的法益の見地から構成され、しかも機能させられ、環境という普遍的法益が上位に置かれる(3)。ホーマンによれば、経済刑法や麻薬刑法においても状況は同じだとされる。なぜなら、これらの構成要件は、個人と彼の自由な活動に方向づけられた法益保護の領域を放棄しており、またこれらは、個人の人的活動の前提条件の保護を意図するのではなく、機能、機能の統一性、または制度、つまり普遍的法益のそれを意図しているからだ(4)。しかも、構成要件自体は、侵害から危険へと処罰段階を前傾化させて刑法的保護(Strafrechtsschutz)をおこなっており、その上、抽象的危険犯として形成されている(5)。これに反して、一元的---人格的アプローチの理論的な特徴は、普遍的法益を個人的法益から構想され、個人的法益によって媒介され、しかもこれから導出されたものとして捉えるところにある。一元的---人格的理論は、普遍的法益を個人法益の下位に置かなければならない、とホーマンは言うが(6)、この言説は、ハッセマーの理論とほぼ同じ系統に属するものといえよう。つまり、「これに関して、まず、人格的法益概念(ein personaler Rechtsgutsbegriff)は、公共また国家の法益を否定しない、すなわちそれはこのような法益を人格(Person)の見地から構想し、機能させる、つまりそれらを人の利益に奉仕する可能性という前提条件としてのみ承認することができるということを確定すべきだ(7)」、と。
 ホーマンは、これらの相違を明らかにした上で、自己の法に対する見解に基づいてその対立を解決しようと試みる。つまり、「次第に社会化が高まっていく社会の変化というものは、普遍的法益から、すなわち国家的見地から法益を概念づけるのを強制するのではなく、むしろ刑法に対し、個人の利益が社会もしくは国家のそれに対して明確に強調されるべきか否かの考察の為の機会を提供する(8)」、とホーマンは述べる。この課題の解決の糸口として、彼は、「唯一自由主義国家概念と一致し、しかも人格的な国家及び法についての理解に基礎を置く人格的法益理論のみがこれをすることができる(9)」、と主張する。
 ホーマンの学説においては、個人としての人の保護が刑法にとって至上の任務なのであり、実際にはそれは、人の有する諸利益を個別化・具体化させたところの法益を保護することによって達成されると構想されているのであろう(10)。このようにホーマンが述べる背景には、「人格的な国家と法についての理解の基礎は、すでにその『人格的な』ものとしてのその関係から明らかになる。それは、出発点と上位概念として個人に立脚するという理解を基礎としている。したがって、人の明確な像とは、以上のような像を基礎としている。人格的な国家と法についての理解は、人 (Menschen)を人格(Person)として把握する(11)」という思想がある。つづいて、「第一に、人を人格として理解することは、人が自分自身を表現すること、すなわち彼は、それ自体閉ざされた統一体であり、しかも目的そのものだということを意味している・・・。このような人の人格性の観点が、各々の個人の固有の価値を基礎づけ、それとともに最上位概念として彼を整序することを正当化する(12)」、とホーマンは言う。かかる解釈をもって「個人としての人の性質は、彼を無条件に下位に位置づけるような、(例えば、氏族、民族、国家のような)上位に位置づけられている組織的な全体の構成員もしくは部分にすぎないと解するような理解を排除する(13)」、とホーマンは主張する。ここで強調すべきは、確かに、個人も社会との関係なしに生きていくことは不可能に近いが、しかし個人が社会とかかわるのは、あくまで自由な展開の為だと考えられていることだ(14)。
 二 ホーマンは、人間中心的な法の理解から、つぎのような帰結を導き出す。
 ホーマンの理論の大前提は、国家中心に人が動くのではなく、人を中心にして国家が動くということだ(15)。したがって、「すなわち、法は人に奉仕する、その結果、それの意味と目的は、同じくこれによって規定される(16)」。つまり、人または個人に奉仕することが、各々の国家秩序と、それとともに法秩序の意義と目的なのだ(17)。「なぜなら、国家と法秩序は人に奉仕するよう規定されており、しかも人の本質を固有の人格の展開に見い出すゆえ、国家と法秩序は人の自由な展開に奉仕しなければならない、すなわち、このことを助成しかつ支援しなければならないからだ(18)」、との帰結にホーマンは至る。
 以上のことを前提にして、ホーマンは刑法における法益とはいかなるものであるべきかを問う。
 まず、この問題のバックボーンとして、ホーマンは、人格の自由な展開の前提条件及び必要条件を外的な攻撃から保護するという見地と、刑法がウルティマ・ラティオでなければならないという見地から、刑法は高度な社会的有害性を示す行為態様に対してのみ制裁を加えるべきだ、と述べる。ここから刑法でいう法益とは、個人の自由な展開を可能にするための前提条件とその必要条件ということになる(19)。
 第二に、刑法で扱うべき法益は、現実的な所与(Gegebenheit)を示すものでなければならない(20)。法益は、単に精神的に観念されるにすぎないものや単なるフィクションではなく、むしろ人格的な現実なのだ。また、法益は、物理的・具体的な所与にまでなり得なくとも、現実的な所与として現れるものでなければならない(21)。
 第三に、このような法益の性質から、毀損可能なものが刑法の法益だということが明らかになる(22)。さらに、刑法でいう法益とは、因果的に変更可能なものということも導き出される。したがって、これは、因果的に変化して影響され得る物理的な対象であって、かつ個人の自由な展開の必要条件のような現実的な所与といえる(23)。
 ホーマンによって主張されている法益論からは、「公共の法益は、個人のそれよりも下位に置かれる」、すなわち 「これにしたがえば、普遍的法益を人格的な諸利益(自由な展開の必要条件もしくは前提条件)に還元することができる限りでのみ、普遍的法益は正当だ(24)」、ということになる。詳述すると、普遍的法益と個人的法益との関係がかけ離れていればいるほど、刑法における保護領域は明確には規定できなくなってしまう。また、構成要件該当の行為によって惹起される危険が抽象的な場合も同じだ(25)。このことは、日本の行政刑法の肥大化傾向の問題にも当てはまるといえよう。
 これに対してホーマンは、「刑事刑法(Kriminalstrafrecht)は、典型的には、法益の直接的な侵害または高度な危険へと指し向けられる行為態様を処罰するのに対し、これとは逆に、付随刑法(Nebenstrafrecht)は、高い価値を有する法益を経験則上危殆化する行為態様を犯罪化する。それは、典型的には、つまり---刑事刑法によって把握されている危殆化と比べればはるかに強度の小さい---法益の危殆化の典型的な原因として現れる(26)」、と考える。したがって、ホーマンによれば、生命、健康、または身体の完全性などの重要な古典的法益を軽微な程度で危殆化させる行為が付随刑法の管轄に置かれる(27)。「なぜなら、保護すべき法益が高い価値を有する場合のみ、包括的な刑法的保護 (訳者注:中核刑法と付随刑法の両方を含む)の許容性は問題にならないからだ(28)」。
 三 ホーマンは、環境犯罪の刑罰規定における普遍的法益に対して、以上のような法益論を適用する。ここでは水域の保護を規定しているドイツ刑法三二四条を例にしながら考えよう。
 まず、保護法益が何であるかが問題になる。
 これについて、とりわけ「水域の清潔さ」それ自体を保護法益とする学説、つまり環境独自保護説が問題となる。本質的に、この説は、現代及び未来の世代のための生命基盤としての環境という法益の機能を保全することに止目している。この学説によれば、水域の清潔さに対する何らかの変更が問題になることから、水域という物質に対する不利益な変更をもたらす行為があれば、当該法益は侵害されたと解される。例えば、有害な物質を河川に垂れ流す行為などはその典型であろう。ここでは、「水域の清潔さ」が法益とされているため、水域汚染行為そのものが結果であり、したがって、本規定は、抽象的危険犯ではなく、侵害犯としての構造をもつことになる。
 このような学説に対して、ホーマンは、刑法における環境保護は、むしろ環境の危殆化を通じて発生する人の生命及び健康という法益に対する危険から、これらを保護しなければならない、と批判する。この見地においては、ドイツ刑法三二四条の水域に対する不利益な変更が人の生命・身体の完全性などの法益に対する抽象的危険という性質をもつことになり、したがって、本刑罰規定は抽象的危険犯ということになる。
 ホーマンは、環境独自保護説は個人的法益を社会的法益の見地から構成し、機能させているので、したがって、普遍的法益を個人的法益から導き出されたものと解する見解とは相い入れない、と指摘する(29)。また、「環境」という概念に着目した場合、自然の見地から把握するのか、それとも社会的な見地から把握するのかによってその理解が異なることに着目して、前者の場合、環境法益の解釈に際して可罰性の限界は保証されず、それゆえその限界領域は個々人の環境に対する観念によって異なることになる、とホーマンは述べる(30)。ホーマンの法益に関する理解からすれば、人的展開の前提条件もしくは必要条件であることが明らかなものだけが、規範の法益たり得る(31)。このような理解からは、「環境」または「自然環境」といったような独自の法益は考えられ得ない(32)。むしろ彼は、人の展開にとって不可欠な必要条件及び前提条件としての人の生命や彼の健康の保護を可能にするものとして環境を理解している。つまり、 「環境」は、ハッセマーの言う「人の健康及び生命にとって必要なものの媒体(Medium menschlicher Gesundheits- und Lebensbedu¨rfnisse(33))」であり、したがって、ホーマンは、環境保護のための刑法的規制は人の生命・身体の完全性・健康とかかわりながら考えられなければならないとする。
 また別の視点として、ホーマンは、ドイツ刑法二二三条以下(身体への傷害)が健康や身体の完全性などの保護法益に対する侵害犯に刑罰を科していることとの比較において、ドイツ刑法三二四条が同様の法益に対する抽象的危険犯にまで刑罰を科している点で不均衡だ、と指摘している(34)。同じことは、人の生命及び身体への具体的危殆化に刑罰威嚇を加えているドイツ刑法三一五条以下の交通犯罪との比較においてもいえる、と述べられている(35)。例えば、通常の傷害罪が三年以下の自由刑または罰金刑、三一五条以下でも、最高刑が五年以下の自由刑または罰金刑であるのに対して、健康や身体の完全性に対する抽象的危険を規制する三二四条においては、五年以下の自由刑または罰金刑が規定されている。その意味からも三二四条を抽象的危険犯と把握する試みは妥当ではないとされる(36)。
 ホーマンは、ある法益の保護を刑法で扱うべきか、それとも付随刑法で扱うべきかに関する基準として、法益に対する毀損の強度を挙げる(37)。つまり、付随刑法(秩序違反法)は、高い価値を有する法益を類型的に軽微な程度で危殆化する行為態様を包括するのだ、と(38)。ホーマンによれば、環境汚染行為の社会侵害性は単に態度の犯罪化に関する決定の諸基準の一つにすぎないとしつつ、法益に対する現実の毀損の程度だけが刑法で扱うべきか否かの基準たり得る、と解されている(39)。したがって、現実的危険の高い蓋然性をもった、具体的危険犯もしくは抽象的危険犯によって包括される特に社会侵害的な行為が刑法典において規制されるべきであり、逆に、具体的危険のない社会侵害性の軽微な行為に対する前地的な規制は、秩序違反法のもとに置かれることになる(40)。
 まとめると、ホーマンは、ドイツ刑法三二四条の法益を、人の生命、身体の完全性、及び健康といった古典的な個人的法益として捉えようとしている。しかもこれを基本にして、刑法による保護に値するのは、社会侵害的で、しかも法益の危殆化の高度な事象だけだと考えている。このような把握は、第一に、個人的法益との関係をもたない事象を刑罰で規制することの制限、第二に、刑法における抽象的危険犯の多用化に対する抑制への道程の大事な一歩といえる(41)。

(1) Olaf Hohmann, Das Rechtsgut der Umweltdelikte, 1991, S. 61.
(2) Winfried Hassemer, Grundlinien einer personalen Rechtsgutslehre, in : Lothar Philipps und Heinrich Sollen(Hrsg.), Jenseits des Funktionalismus, 1989, S. 90. ハッセマーは、国家は自己目的ではなく、人の生命の可能性(Lebensmo¨glichkeit)の展開とその保障を助成しなければならないとする国家観を刑法理論の土台にしているということができる(Hassemer, a. a. O., S. 91.)。
(3) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 63.
(4) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 148.
(5) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 148.
(6) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 63.
(7) Hassemer, a. a. O.〔Anm. 2〕S. 92.
(8) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 65.
(9) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 65.
(10) このような法益の捉え方は、遡れば、社会契約論に端に発していると思われる。この理論を貫徹させると、国家は、個人の生命、自由、財産の保護を主たる任務として、それ以外のことは契約の範囲ではなく、国家の任務ではないという結論に至るであろう。
(11) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 66.
(12) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 67.
(13) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 67.
(14) Vgl. Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 69.
(15) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 71.
(16) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 71.
(17) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 71.
(18) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 71f.
(19) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 72.
(20) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 114.
(21) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 114.
(22) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 115.
(23) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 115., 117.
(24) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 142.
(25) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 143.
(26) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 144.
(27) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 145.
(28) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 145.
(29) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 189.
(30) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 192.
(31) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 194.
(32) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 194.
(33) Hassemer, a. a. O.〔Anm. 2〕S. 92., 93.
(34) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 198.
(35) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 198f
(36) Vgl. Olaf Hohmann, Von Konsequenzen einer personalen Rechtsgutsbestimmung im Umweltstrafrecht, GA 1992, S. 86.
(37) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 199.
(38) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 199.
(39) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 200.
(40) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 203.
(41) Hohmann, a. a. O.〔Anm. 36〕S. 84. なお、三二四条における攻撃の客体について、ホーマンは、人の生命や健康に対する「直接的」な攻撃ではなく、これに対する「間接的」な攻撃を内包している人の自然の生命基盤に向けられる攻撃を対象としている。また、ここでは、法益としての人の生命及び健康をいう場合、それは、個々人のそれではなく、全ての者のそれをさす。つまり、抽象的なレベルでの公衆を意味するものと思われる。ここで注意すべきは、人の生命・健康という法益と一定の関係を保ちながら、法益に対する危険を具体的に考えていくことだ。しかし、これを怠り、抽象的危険の判断で抽象化、一般化が施されるのであれば、ホーマンの理解は、環境刑法における法益概念の抽象化はもちろんのこと、違法性判断の抽象化も免れず、それにより、彼の展開した法益概念の意義は減殺されることにもなりかねない。なお、これについての詳述は、他の章に譲りたい。参照、伊東研祐「環境刑法における保護法益と保護の態様」松尾浩也=芝原邦爾編『刑事法学の現代的状況---内藤謙先生古稀祝賀論集---』(一九九四年)三一七頁。

第四節 小   括
 一 現代刑法は、環境や現行経済制度などの「システム」や「システムに対する信頼」の保護に重点を置こうとしている。ここでいうシステムとは、現存の社会体制の中で市民が生活するための前提的な基盤をさすが、社会を安定化させしかもこれを持続させる上で、そのために何らかの措置が必要だということは言うまでもない。しかし、その社会的実在性は認められつつも、その抽象的な性格を覆い隠すことのできないシステムやインフラストラクチァーそのものを、市民の個人的法益とのかかわりを度外視してまで刑法において独自に保護する必要性があるのか、また可能なのかは疑問だ。これらを独自の保護法益とすることによって、法益に対する侵害・危険が極めて曖昧なものになる恐れがある。また、これらの事柄と個人的法益との関係が顧慮されない場合には、社会システムの保全こそ個人の自由を保障するとの論理が提唱されることになってしまうかもしれない。けれども、現実の社会から見てもまた理念的にも、両者が矛盾なく融和できるほどの社会的環境は整っていないし、しかもいずれを上位概念として立てるかということは刑法における理論構築に大きな影響を及ぼす。個人の自由・尊厳といったものが国家・社会システムの下位に置かれるならば、個人の自由保障を名目に彼の自由が制限されてしまう恐れがある。
 刑事的制裁は、他の法領域のそれに比して最も過酷なものであり、その立法と適用が恣意的に行われたならば、市民の自由領域は極端に縮小されてしまう。このことから刑法の適用は極めて慎重でなければならないとの発想が当然に生まれてくる。このことは、抽象的危険犯、ここでは環境問題に対する刑事的対応についても当てはまる。
 二 それでは、このように刑法のウルティマ・ラティオ原則を強調した場合、これを担保するにはいかなる基準が必要であろうか。
 まず、社会の中で放置することができないほど有害な事象だけを刑法で扱う、いわば「社会有害性」の基準が挙げられよう。もっとも、社会有害性の判断に際して、憲法が最大限尊重されなければならない。単に社会の世論や一部の者の判断だけで社会的に有害だとして、立法化が進められるのは許されるべきではない。このような立法は、一時的に市民の不安を解消させるかもしれないが、それは実際の解決策にはなりえず、さらに法化現象を促進させるにすぎない。それゆえ、人の生命・身体・自由・財産などの基本的利益に沿いつつ、これらに対する社会的に放置できないほどの重大な侵害・危険行為だけを刑法典で包括し、法益も個人的法益の見地から捉える必要がある。また社会的法益についても、社会有害性を考える場合、社会の構成員としての個人とその個人的法益に対する保護という目的と関連させつつ、これらを保護するのに必要不可欠なものか否かを検討し、個人的法益から社会的法益を導出する必要がある。
 刑法的規制の第二の基準として、法益に対する危険の強度も顧慮されるべきだ。たとえ社会有害的な事象であっても、法益に対する危険が曖昧なものや極めて軽微なものは刑事的制裁に馴染むとは言い難い。そのような事象に対しては刑罰以外の他の制裁の可能性が考慮されるべきだ。これをなおざりにすれば、「刑法のインフレ化」が生じたり、また刑法と他の法領域の限界が曖昧になってしまう危険性がある。したがって、他の法領域で扱うことができずかつそうすることが市民にとって不都合な、しかも実害的な事象のみが刑罰賦課の対象とされるべきではなかろうか。
 三 ホーマンは法益論の面から抽象的危険犯の問題性、ひいては刑法の管轄領域を限定しようとの試みをおこなった。が、もう一歩踏み込んで考察するならば、第一に、刑法の能力の限界、つまり刑法の問題解決能力の観点から抽象的危険犯という規制形式の問題を検討する方途と、第二に、危険概念の明確化によって抽象的危険犯の処罰範囲を限定するという方途がある。本章では刑法の管轄領域の問題も考察対象に加えながら、法益と関連させて抽象的危険犯の問題を検討してきたことから、次章では本稿の問題意識を明確にする意味で、とりわけ前者の問題を扱いたい。この問題は、現代刑法における抽象的危険犯という規制形式の増加傾向の問題性、しかも刑法の限界性をより明確にするのに資すると思われる。

   第三章 抽象的危険犯に対する批判的考察
第一節 ヘルツォークの抽象的危険犯批判
 一 これまでは主に抽象的危険犯の正当化根拠について議論してきたが、本章では、さらに一歩足を踏み入れ、抽象的危険犯がもつ結果・効果志向、この背景にある予防的・教育的な意図について検討したい。すなわち、法益保護の早期化の一手段としての抽象的危険犯が刑法や社会にいかなる影響を及ぼすのかということと、刑法の限界の問題に配慮しつつ、刑法の社会問題解決の能力について考えたいと思う。
 抽象的危険犯が刑法や社会にいかなる影響を及ぼすのかについて、とりわけヘルツォークが注目すべき議論を展開している。
 まず、第一に、社会的見地から危険犯を考える上で、ヘルツォークは、「いつ、社会的な不安定は、ある種の大衆的な安全性の欲求へと転化するのか、つまり保護を供与する適切な手段として刑法が社会的意味をもつにいたるような、安全性が最も高く(訳者注:それが必要だと)評価されるようになるのであろうか(1)」を問題にする。ここで人々の内面的な不安定性と欲求の関係にとって、もっぱら方向づけ・定位(Orientierung)の不安定(Unsicherheit)が中心的であり、この不安定性は、とりわけ生活関係が不確実であることに対する反応として現れる。不安定性を画期的な変革または社会変化の結果として、つまり単なる一時的な社会的危機として把握するか否かに関係なく、不安定性は既存の秩序が害されることによって生じるとされる(2)。そこでヘルツォークは言う、危険とは、存在するものではなく、それは、多層的な社会的相互作用の過程および解釈過程の中で明らかになる、と(3)。
 ヘルツォークは、失われた安全性に対して社会が確固たる秩序を確保しようと試みているのを前提にしながら(4)、つぎのようなテーゼを確立しようとする。つまり、危殆化構成要件の拡張---特に抽象的危殆化構成要件の拡張---は、一部は、経済的または科学的領域、文化的秩序、もしくは倫理的、道徳的または政治的な基本契約における革新、複雑性の増大、構造の変化、変革(Umbru¨chen)を目前にして、社会的に方向づけ・定位が不安定であることへの対応として解釈され得る、と(5)。ヘルツォークによれば、この様な状況のもとでは、自己確信と信頼の分解、伝統的な関係と確固とした内的確信が破られることに対するさまざまな不安や安全への高い欲求を根拠に、刑法による社会的コントロールが秩序を危険にさらすような行為にまでその管轄範囲を拡張していくことが説明可能だ、と解されている。それにより、刑法は予防を目的にする外的な制御装置となり、安全性を確保するレーダー装置と同様に、広範囲にわたって、発生するかもしれない脅威(Bedrohung)を監視する、と状況を分析する(6)。こうして刑法の任務は次第に変化していくが、現代刑法における抽象的危険犯の問題の基本的枠組みを整理し、ヘルツォークの問題意識をつまびらかにする上での便宜上、そこでの特徴について見ておきたい。これについてヘルツォークの学説の縁源を成している学者の一人であるハッセマーは三つの点を挙げる。すなわち、
(1)「古典的」刑法は理念的な中核をもっている。犯罪行為の標準形式としての侵害と同様に、刑法の明確性や補充性がこの中核だ。
(2)このような理念的中核から現代刑法はますます速度を増して離れていく。
(3)このような展開は刑法を特殊な問題へと導く(7)。
 二 第二に、ヘルツォークは法理論的見地から危険犯を検討するのであるが、その前提としてハッセマーの議論を見ておこう。彼はつぎのように述べている。すなわち、「各則の、とりわけ経済犯罪、環境犯罪やコンピュータ犯罪の領域における大改正は、効果的な犯罪予防の観念に基づいている。それらは広範に抽象的危険犯の形で構成要件を作り、そのことによって責任主義にとっても特徴的である法益侵害(不法)と刑罰の結びつきを解消している(8)」、と(9)。また、具体的には、抽象的危険犯は予防にとって障害となる帰属を緩和する。しかもそれは、裁判において侵害の証明を免除し、犯罪論上、帰属プログラムを簡明にする(10)。
 他面、ヘルツォークはトイプナーの理論を引用しつつ、抽象的危険犯の成立根拠を問う。トイプナーは、「法はもはや、発展した市場経済の規範的命令に基づいて制約されるのではなく、近代福祉国家の政治的介入の必要性に基づいて制約される(11)」、と指摘する。法は、政治的システムの目的のために制度化可能にするために、相応な行動計画の中で好都合な目的予定を再形成し、規範によって政策を充足させようと努力するが(12)、このような試みの刑法の局面における表れとして、抽象的危険犯が規制的法として用いられるとヘルツォークは捉えているように思われる。だが、この様な目的のために抽象的危険犯を用いることで、その法律はトリレンマ---相互の非連動性(Indifferenz)の出現、社会の過度の法化の出現(U¨berlegalisierung der Gesellschaft)(法による社会の分裂(Desintegration))、及び社会による法的な分裂---に陥る、とヘルツォークは危惧の念を表している(13)。
 相互の非連動性について言うと、例えば、刑事立法者は、政策的な利益衡量の混乱の中で明確な条件プログラムを公式化するのに失敗するかもしれないし、法律素人たる市民は、刑法的不法について平行評価的な洞察に失敗するかもしれない。このような両者の関係というのは、無理な政策に基づく刑事規制と、社会的な問題の見方及びその評価の両方がうまく連動していないという状況の特徴である、とヘルツォークは評価している(14)。
 社会の過度の法化に関しては、例えば、道路の利用に際して、経済生活において、または環境との関係において、関係者は、個々人の内面のジャイロコンパスによって右側通行を守らされ、しかも違反に際して、社会コントロールによってその行動は停止させられるので、規律正しくしかも責任感をもちながら人々は行動するだろう、という確信に依拠しているが、これが失われると、外的統制(Auβen-Lenkung)、つまり国家的強制や制裁の要請が出てくる。しかし、国家がこのような要請を規制法によって担うにつれて、固有の安全性への利害について社会の責任とその能力は低下するとされる(15)。
 最後に、社会による法的な分裂については、社会的安全性のために様々な方面から刑法による規制に関心が向けられるが、その際刑事立法は、多元的な利益の考慮及び利益衡量の圧力を受け、それは有益な結果を考慮し(結果志向)、しかも柔軟な解決を受け入れるといわれる。そこでは、刑法は広く法益侵害の前段階において作動するのと同じく、またそれは既に政策的便宜を多めに見て、しかもこれに道を開けるようになる(16)。
 三 第三に、ヘルツォークは、刑事政策的な見地から環境刑法を例にして危険犯の検討を試みる。
 ヘルツォークは、環境犯罪に関する公的な議論の影響のもとで、つぎのような社会的な刑事政策的需要にいたる図を示す。つまり、「環境→生命の基礎/環境汚染→生命の脅威/生命の脅威→犯罪/犯罪の管轄→刑法(17)」。ハッセマーによれば、ここでの意図は、環境保護について市民を敏感にさせるために国民教育の手段として刑法を投入することだ、と解されているが(18)、ヘルツォークはこの様な図式を批判的に捉え返し、「これまで社会問題の刑法による解決は観察され得なかった(19)」、としつつ、また、「麻薬刑法は、薬の使用や薬の消費の拡大を除去しなかったし、補助金詐欺 (ドイツ刑法二六四条)の構成要件によって補助金詐欺が減少されるか否か、そしてドイツ刑法一二五条によって 『積極的武装』や『覆面すること』が今や犯罪化されているからといって、集会で暴力がエスカレートしないか否かは、誰も言うことはできない(20)」、と評価する。その上、麻薬刑法、経済刑法、及びデモ規制刑法は、「刑罰威嚇による環境意識の教育という意味における環境刑法の一般予防的効果と何等変わりはない(21)」、とヘルツォークは見ている。こうして、「あらゆるこの様な期待と制度化の帰結として、環境刑法は規制的トリレンマ(Trilemma)に陥る(22)」としながら、「環境刑法は、実際にはこれが規制する領域に適合しないと同時に、それは、少なくとも最悪の事態の阻止を可能にしようという増大した社会的期待と衝突する。しかも永続的な『完遂欠損(Vollzugsdefizit)』という圧力のもとで、さらに法治国刑法の限界に達するまで刑法的保護は繰り返し広範に前傾化する(vorverlagern(23))」。このような状況下では、社会的需要と政治的供給との多層的な関係を示す政治的市場化(Vermarktung)の条件によって、刑法は構造上過大に要求され、刑法の古典的形式は失われるとして、ヘルツォークは早期化の手段としての抽象的危険犯を批判する(24)。また、訴訟法上の問題としては、ハッセマーが言うように、このような動きは、「行為者の地位を弱め、しかも古典的---自由主義的国家刑法を破壊するということが明確であり、それとともに疑念を抱かざるを得ない(25)」。
 四 ヘルツォークは、総括的に「危険領域における刑法の拡張は自然の過程ではない、すなわち人間の生活条件から一般に導き出される刑法の任務増加としては理解され得ない(26)」、としつつ、「たとえ制度の発展において人類学的要素として安全性の欲求が認識され得るとしても、概してこのことは、なお刑法の正当性のためにしかもその危殆化領域における拡張のためには存在しない(27)」、と述べる。加えて、ヘルツォークの学説によれば、危険刑法は、つぎのようなことも意味する。つまり、危険刑法は、社会を一定の範囲内で、いわば腫れ物をさわるように扱うこと、すなわち、一定の危険を保持することができる社会の能力もしくは自立的にそれを扱うことを可能にする社会の能力と矛盾するものであり、その上、長い目で見れば、このような刑法は、社会的な自己規制を破壊することをも意味する(28)。
 結論として、ヘルツォークは、社会的不安定、安全性の欲求、国家的な存在配慮への高まる依存、しかも外的制御への依存という社会的特徴があるとはいえ、これらの問題が十分に解決されていないことを理由に危険刑法が取り入れられるが、このような挙行は、必然的に全体として刑法の信用を失わさせる(29)、と述べて、締めくくる。彼の理論は、抽象的危険犯という規制形式による社会問題の解決を幻想であるかのように、消極的に、もっといえば否定的に理解しているといってよい。
 つぎに、今概観したヘルツォークの抽象的危険犯に関する見解を個別の事例に当てはめて検討したい。この対象として近年問題となっている経済刑法と環境刑法の問題をヘルツォークは挙げている。

(1) Felix Herzog, Gesellschaftliche Unsicherheit und strafrechtliche Daseinsvorsorge, 1991, S, 53.
(2) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 54.
(3) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 54.
(4) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 54.
(5) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 54.
(6) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 58.
(7) Winfried Hassemer, Produktverantwortung im modernen Strafrecht, 1994, S. 3.
(8) ヴインフリード・ハッセマー/堀内捷三監訳『現代刑法体系の基礎理論』(一九九一年)一二六頁。ヴォルフは、刑事不法と他の法領域の不法を区別する見地から、抽象的危険犯が責任原理に反していると、つぎのように批判している。すなわち、抽象的危殆化を禁止すること、つまり法益侵害を前傾化させた規範を根拠にして各人を処罰することに対して、彼が有責に財そのものを侵害したことよりも刑罰を高く規定するという不正義は、責任原理によって創造された観点から逃れられないであろう(Ernst Amadeus Wolff, Die Abgrenzung von Kriminalunrecht zu anderen Unrechtsformen, in : Winfried Hassemer(Hrsg.), Strafrechtspolitik, 1987, S. 149.)、と。
(9) Vgl. Winfried Hassemer, Symbolisches Strafrecht und Rechtsgu¨terschutz, NStZ 1989, S. 557., 558.
(10) Hassemer, a. a. O.〔Anm. 9〕S. 558. ハッセマー/堀内監訳・前掲書(8)一七頁。
(11) Gunther Teubner, VerrechtlichungーBegriffe, Merkmale, Grenzen, Auswege, in : Friedlich Ku¨bler(Hrsg.), Verrechtlichung von Wirtschaft, Arbeit und Slidarita¨t, 1984, S. 306. トイプナーの学説の詳細については、樫木氏の詳しい紹介があるのでそれを参照していただきたい。グンター・トイプナー/樫木秀木訳「法化ー概念、特徴、限界、回避策ー」九大法学五九号(一九九〇年)二三五頁以下。
(12) Teubner, a. a. O.〔Anm. 11〕S. 307.
(13) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 62., 64f.
(14) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 64.
(15) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 64.
(16) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 65.
(17) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 68.
(18) Hassemer, a. a. O.〔Anm. 7〕S. 8.
(19) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 145.
(20) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 145. なお、クーレンは、制裁の威嚇が存在しても必ずしも常に全ての市民が行為規範に従うとは限らないことから、これは刑法の一般予防効果が限定的なものであることを示しているとの留保を付しつつ、しかしこのこのことはかかる効果が存在しないということを示すものではない、と批判している。Lothar Kuhlen, Zum Strafrecht der Risikogesellschaft, GA 1994, S. 367.
(21) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 145.
(22) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 69.
(23) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 69.
(24) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 69.
(25) Hassemer, a. a. O.〔Anm. 9〕S. 558. 抽象的危険犯に関するハッセマーの評価を総括的に示すと、「現代の結果志向的な刑法は、事態を詳細に検討もしないで、また問題解決の可能性に関して精確に吟味もしないで、『行為要請』を説きがちだ」(ハッセマー/堀内監訳(8)一七頁)ということになる。
(26) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 70.
(27) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 70.
(28) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 72.
(29) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 73.

第二節 経済刑法と環境刑法に対するヘルツォークの考察
 第一項 経済刑法について
 一 補助金詐欺の構成要件を定めた経済犯罪の抑止のための法律が一九七六年に施行された。
 ドイツ刑法二六四条は補助金詐欺の防止を目的としており、一般的にこれは抽象的危険犯規定と理解されている。ここでの特徴は、通常、詐欺罪の構成要件に必要な欺罔行為→財物の交付→損害の発生といった要件が不要とされているところにある。したがって、補助金の交付決定の権限を有する官庁、補助のための手続に関与する機関、もしくは官吏に対して欺罔行為をおこなえば既遂になり(1)、いわば実害なき詐欺罪の成立が認められることになる。ここでいえることは、近年の経済刑事立法においては、小さな詐欺や小銭窃盗から、その高い不法内容をもち、かつ大きな損害を有する経済犯罪へと重点が移行していることだ(2)。これにともない、「自由主義---法治国的立場は、かなりじゃまなものとみなされた(3)」のであり、「事細かな帰属原則や刑法的介入の排除への歴史的傾向にまったく反して、いわば古典的な形式を擬した諸規則をもつ厳格な経済刑法が要請されている(4)」、とヘルツォークは解している。
 だがヘルツォークは、客観的必要性と一定の刑法的手段が適正だとの主張の背後に(刑事)政策的関心が隠れており(5)、「刑法を厳格化することは、経済非行の抑止のための有効な命令ではなく、さらにこの様な社会的問題の領域において刑法的手段をもって行うことは、一定の(刑事)政策的方向づけをその場しのぎなものと思わせるであろう(6)」、と批判する。
 二 法益保護の早期化という観点からその問題を見た場合はどうか。
 まず、「効果を生じさせるために、損害を防止するために、犯罪的エネルギーを中和するために、しかも最適な予防効果を成し遂げるために、経済非行事象のどの時点で刑法は介入すべきであろうか(7)」、とヘルツォークは問題を提起する。現代社会では、経済非行によって生じた損害金額が社会一般に向けて提示されることで、これへの法的対処が課題とされるに至り、しかも刑法においては法益保護の早期化および法益侵害の前段階の行為、特に抽象的に危険な行為の処罰が叫ばれる。だが、そこでは刑法の謙抑性の原理、補充性の原理、またウルティマ・ラティオなどの意義が、社会から、主要には刑法から消え失せてしまうかもしくは消されてしまうという問題が生じる。
 また、経済刑法における、本来の地位を剥奪された(mediatisierten)法益の枠組み及びその形成のこの種の確定は、事実上財物や財産の刑法的保護との関連がかなり疎遠になっていることを見せつけている(8)。通常、詐欺罪では、個人的法益に対する詐欺行為が問題であったのに対し、ドイツ刑法二六四条では、国家的・社会的法益、ドイツ的な言い方をすれば、普遍的法益を危険にさらすような詐欺行為が問題となっている。この構成要件においては、ある者によって惹起せられた公的財産の損害が問題なのではなく、国家意志の操作が問題になっている。したがって、ドイツ刑法二六四条では、国家の補助金制度そのものが保護財とされ、国家の計画及び目的に違反するような行為をするところに国家的手段の利用に対する実質的損害が見い出されることになる(9)。
 総じて、ここでは超個人的に、機能的に法益が確定されており、また処罰条件が短縮されている、つまり、被害者の財産的損害が構成要件要素とはされていない。この両者の関連が重要ではないかと思われる(10)。経済刑法においては、本質的に現行経済システムへの信頼が保護法益となっている(11)。つまり、行為者---被害者関係内部の具体的信頼が問題なのではなく、システム信頼という意味における抽象的な信頼の保護こそが課題となっている。ティーデマンは、超個人的・社会的利益によって特徴づけられる領域においては行為無価値が前面に出る、なぜなら、超個人的な制度の具体的侵害を考えることは困難だからだ、と述べる(12)。そうであるがゆえに、抽象的危険犯は、類型的に超個人的法益の保護にふさわしい法律技術と見なされる。これに対して、危険犯においては、常に結果無価値の放棄が問題となるのであり、したがって、この様な放棄は、個人的---主観的法からは導き得ないような法益の見地において公式化される。このような展開の潮流において、固有の危険犯とは、まさに行為無価値に対する超個人的法益の保護なのだ、とヘルツォークは分析する(13)。
 三 以上のような予防を目的として抽象的危険犯が用いられる動向に対して、ヘルツォークは、第一に、「刑法の法益保護は、人々が相互の承認の中で互いに交流するのを保障する。ここでは交換可能な行為の見地と予期の地平に対する人間相互の信頼、人々の中で分配される共通の世界の受容が課題だ(14)」、と言う。このことを裏返せば、刑法は、人々が互いに接触、交流しながら、社会生活を営む上で最低限必要な、しかも基本的な事柄だけを管轄し、経済システムへの信頼そのものは、刑法の法益保護の枠組みに入れられるべきではないということになろう。
 第二に、保護法益に対する侵害という結果無価値的側面によっては、かつ少なくとも危殆化結果によってはまったく不法を基礎づけることのできないような犯罪について、その存在の正当性がいかにして基礎づけられるのか、といった重大な問題が生じるとして、ヘルツォークは違法性の解釈における結果無価値の側面の軽視または無視に疑問を提起する(15)。
 このような批判を前提にして、ヘルツォークは、経済刑法に対する批判の中心的根拠として刑法の補充性原理を持ち出す。ヘルツォークは言う、「補充性の原理は、自由主義的---法治国的刑法の主要原理なのだ。刑法は、国家権力の最も峻厳な武器であり、刑事手続が被告人の人的領域への広範な介入を許容し、自由を喪失させ、つまり法的かつ社会的地位と財産を失わさせることを決定することができるので、本来のウルティマ・ラティオたる刑法は最後の地位にあり、これは公的平穏の確保にとって欠くことのできない場合にのみ姿を現すべきだ(16)」、と。かかる刑法の原理に反して、現行の経済刑法においては、刑罰構成要件は、そもそも通常の経済生活においてともかくも真面目ではないとみなされる行為態様を把握しているにすぎず、その上、これは、通常の経済人(Wirtschafter)によっておこなわれる法益の危殆化を回避する。この様な論証は、規範に服従している公衆の負担なしに抑圧的、威嚇的に介入することを可能にするために、単に行政による若干の費消をもってコントロールされるような、かつ阻止可能であるような経済生活におけるあらゆる不順な、不真面目なもしくは不服従的な行為態様を単純に可罰的だと宣言することに帰する(17)、と批判する。
 これに対してヘルツォークは、「もし、市場経済秩序が後になってから撹乱されないようにしようとするならば、経済の領域における社会侵害的な行為態様の防止に関しても防止措置の予め与えられている順位が守られるべきだ。まず、市場参加者自身にかかる行為態様を採るよう呼びかけるべきだ。その規制が意図された目的を達成するのに十分ではないところではじめて、国家的な規範化の為の領域が出始める(18)」、と提言する。
 最後に、ヘルツォークは、「私法的手段や公法的手段によって、相互の予期の不可欠な保障とその操縦が達成され得るところでは、市場経済的プロセスを重大に破壊することもなく、すでに刑法の補充性の原理は刑法的規範への依存を禁止する(19)」、と指摘する。したがって、刑法の補充性の原理を踏まえない経済問題に対する性急な刑法的措置は問題だといえよう。

(1) Felix Herzog, Gesellschaftliche Unsicherheit und strafrechtliche Daseinsvorsorge, 1991, S. 118., 122f.
(2) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 109.
(3) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 110.
(4) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 114f.
(5) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 116.
(6) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 116.
(7) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 116.
(8) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 117.
(9) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 117.
(10) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 118.
(11) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 118.
(12) Klaus Tiedemann, Welche strafrechtlichen Mittel empfehlen sich fu¨r eine wirksamere Beka¨mpfung der Wirtschaftkriminalita¨t?, in : Verhandlungen des 49. DJT 1972, Band I Teil C, S. 46f. Vgl. Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 128.
(13) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 129.「個人的---主観的法」とは、ヘルツォークの議論の分脈からして個人の基本的人権と理解してよいと思われる。
(14) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 118.
(15) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 130.
(16) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 119f.
(17) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 121.
(18) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 121f.
(19) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 122.

 第二項 環境刑法について
 一 一九七〇年代中葉以降、ヨーロッパでは---本稿では特にドイツにおいて---環境問題が大きな社会問題となり、公共や政治的議論における重要な関心事となった。「緑の党」に象徴される環境保護政党の躍進も手伝って、環境保護を刑法でもおこなうべきではないかとの議論が立法機関で行われるに至った。こうして、一九八〇年に第一八次刑法一部改正法律により、刑法典第二八章に「環境に対する犯罪行為」が組み込まれることになった。
 二 ここではヘルツォークが環境刑法のどの点に問題意識を向けているのかを考えることにするが、これについて、彼は環境刑法におけるドイツ刑法三二四条を主たる検討素材にしている。
 端的に言って、ヘルツォークの問題意識は、第一に、環境保護の問題を刑法で扱うことと、刑法によって環境意識を新たに創出及び強化することが可能なのかということに向けられている。環境刑法においては、たとえ軽微な環境破壊行為であっても、塵も積もれば山となるということと発想を同じくする、いわゆる蓄積犯罪が根本的な規制対象なのだ。このような特徴をもった環境犯罪について、一方では、刑法がこれを処罰対象としており(1)、他方では、「多元的な分裂した価値観の状況において、刑法は社会倫理的標識(Zeichen)を設定し、社会教育的任務を代表し (wahrnehmen)、しかも内政的な行為能力を証明すべきだ(2)」、と言われているところにヘルツォークは注意を向ける。ヘルツォークは、「誤った発展と個人の誤った態度を立法によって反対方向に操縦しようとする構想は、ここでも一括しては退けられない(3)」、と一定留保しつつも、問題は、「経験的なしかも規範的な疑いの動機となるのは、ひっくるめて刑法典に環境保護刑罰規定を導入することが環境意識を生じさせ、環境保護が行われるのを助け、しかもこのことが、包括的な環境保護法典の構想が失敗したことに対する政治的な代理人と見なされているということだ(4)」、と述べている。
 これとのかかわりから、先に述べた麻薬刑法、経済刑法における補助金詐欺、そして集会刑法においてその効果が証明されないのと同様に、ヘルツォークは環境刑法についても同じことがいえるのではなかろうかとの疑念を提起する。このような疑問をもちつつヘルツォークは、環境刑法における一般予防的効果と捉えたとしても、刑罰威嚇による環境意識の教育という意味において、何等変わりはない、と批判する(5)。刑法によって環境意識を創出させる試みに対して、ヘルツォークは、「いわば、環境意識を調教によって生じさせることに反対する規範的反論の向こう側で、ここでは事態を改善するために刑罰威嚇によって変えようとする経験的な予防計画は、一度も体型内在的に (systemimmanent)その正当性の経験的証明をおこなっていない(6)」としながら、たとえ証明に成功したとしても、人間の尊厳から見て、理性的に行動させようとして、刑法によって市民を調教することに関して国家が権限を有するかについては、法と自由の関係において疑念が生じ、しかも刑法が現代の中心的な社会問題に対して益々抑圧的、支配的に反応するならば、これは、さらに政治的文化と創造性の無能さをさらす、と厳しく批判する(7)。ヘルツォークは言う、「この様な環境刑法においては、それ自体としては完全に無害と考えられ、しかもその蓄積によって環境に負担を課す行為態様が犯罪化されているが、このことは国民教育のための刑法の薄弱な道具化だ(8)」、と。
 三 つぎに、環境刑法における法益と抽象的危険犯について考えよう。
 ヘルツォークは、「環境刑法によって人に行動様式を訓練させようとする者は、保護財の確定に際して、自然の存立を人間の利益とは独立させるべきだとそそのかされ、個人的法益の侵害または危殆化とは関係なく、最終的には、環境の危険とみなされる一定の行為態様が刑罰を科せられる(9)」、と指摘する。例えば、ドイツ刑法三二四条では、水域の清潔さそのものといった人間の生活利益とは区別されたところの独自の環境が保護法益として盛り込まれ、これによって社会生活において人間がどのような生活態度を採るべきかについてまで刑法が干渉するようになった。
 しかし、生物学的に規定されている保護法益がいつ毀損されるのかということは極めて曖昧であり、また、そこでは証明の困難さだけではなく、帰属の問題も生じる。なぜなら、環境汚染が蓄積犯罪だということから、それは明らかに個々の行為者の行為ではなく、多くの人々の行為の集積によって惹起されるからだ。この様な困難を回避するには、帰属の内容を希薄化させることが必要になる。つまり、行為と結果の因果関係はもちろん、危険性についての証明を要しない犯罪形式が必要となる。抽象的危険犯こそがそれなのであり、かかる性格をもつ抽象的危険犯においては、その客観的帰属は環境刑法の一般予防目的の見地から基礎づけられ、その客観的帰属の範囲は、結果の定義を修正することによって確定されるようになる(10)。
 四 ヘルツォークは、「中核刑法における刑法的帰属をそのつど刷新するために体系的帰結が脚色されるならば、ひいては刑法の法治国---自由主義原則が重大に脅かされるということが明らかになる(11)」、と述べる。
 総括として、ヘルツォークは、環境刑法について、「古典的法益保護刑法の枠組みを突き破る可罰性の拡張は、法治国的---自由主義的帰属文化の構造を重大に損なう。しかも、それは全て表向きでは国民の環境意識の強化を目的にしている。刑法が環境意識を強化し、その上重大な環境負担を抑制するのに適した手段だと言われるということは、訴追実務の経験的所見によれば、はっきりと疑問がもたれる。環境犯罪を有効に防止のために刑法を相応に整序することが、法治国---自由主義刑法の規範的基礎に対する重大な損害になるということは確実だ(12)」、と自己の見解を述べる。

(1) Felix Herzog, Gesellschaftliche Unsicherheit und strafrechtliche Daseinsvorsorge, 1991, S. 144.
(2) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 146.
(3) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 145.
(4) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 145.
(5) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 145.
(6) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 145.
(7) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 145f.
(8) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 146.
(9) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 147.
(10) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 153., 155.
(11) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 151.
(12) Herzog, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 157.

第三節 小   括
 一 抽象的危険犯の理論的な基礎づけとその問題性について論じてきたが、様々な社会問題に対処することは、当然、我々が社会生活を営む上で大事なことだ。しかし、刑罰によって、しかも小さな危険または危険を生じさせる恐れのあるにすぎない行為の処罰を可能にする抽象的危険犯という規制形式によって、これをおこなうことが果たして妥当なのであろうか。これに関してヘルツォークが鋭い指摘をしたのは、上で見たとおりだ。
 抽象的危険犯という規制形式が個々人の自由領域を不当に削減する恐れをもっていることは否定しがたい。加害者に対して刑罰を科す法としての刑法におけるウルティマ・ラティオ原理の見地からは、抽象的危険犯という通説・判例にしたがえば「擬制された危険」説が採用されている犯罪類型を認めることにも問題がないとは言えない。また、抽象的危険犯のような小さな危険、一般的危険、または危険そのものがない行為までも刑法に盛り込むことによる刑法の加重負担とそれによる刑法の統制能力の喪失といった恐れがある。しかも、社会的な関係からすれば、国家が諸々の社会問題の対処に介入することによって、社会問題に対する市民の自律的な解決能力が低下し、しかも市民の自立的な活動・生活が毀損されてしまうかもしれない。
 二 ヘルツォークは、規範意識の創出や漠然としたシステム信頼を保護するために、実害を未だ発生させていない行為者の外部的な態度のみを問題にして、正しい態度をとるべきだとの教育的な効果を意図しながら刑罰を科すところに現代的な抽象的危険犯の目的があると指摘した。この指摘をマクロ的な見地から眺めると、社会における様々な危険状況に対処するための手段として、またその理論的な正当化のために積極的一般予防論が登場するに至り、その文脈の中で抽象的危険犯の多用化が生じるに至ったと思われる。積極的一般予防論は、公共の遵法意識の覚醒、強化を意図する、いわば、市民に対する上、つまり、国家からの法への服従の要請と遵法意識の覚醒、強化が目的だとさえ思われる。
 これに対して日本においては、むしろ個別の領域におけるそれぞれの政策的な意図から抽象的危険犯が用いられている傾向があるように思われる。ここでの特徴は、刑法典の他に、特別刑法とかかわって、行政法や商法の領域などで刑罰が適用されていることと、日本の実務が刑罰の効果やその便利さを主眼に置いているということだ。その結果、本来あるべき刑法の謙抑主義という姿をあまりにも等閑視したままで、刑罰という制裁手段がかなり便宜的に用いられているのではなかろうか(1)。
 だが、ここで最大の問題は、上からの市民の法意識の変革が可能なのか、またそうすることが妥当なのかということだ。ハーバーマスは、「下からの正当化の自発的諸形態においてのみ市民の法意識の再生産を不断に繰り返すことができるし、繰り返さなければならない(2)」のであり、「民主的な市民の法意識は、行政が関与する問題ではない。行政不服従に対して予防的な社会的治療の措置をもくろんで、干渉する問題ではない(3)」、と指摘する。このハーバーマスの指摘は、今後の刑法のあり方について一つのヒントを与えてくれるものといえる。なぜなら、遵法意識は、市民相互間のコミュニケーションの中で醸成されていくべき類のものであって、一定の法律が社会において有効に適用されるには、当該規範を受容する社会的な基盤がなければならないからだ。それにもかかわらず、かかる社会的基盤が存在しない状況で、上から遵法意識の覚醒、強化を試みたところで、かかる試みはむなしい結果を生むにすぎない(4)。
 三 最後に、未だ仮説的見解にすぎないが、以上の諸説を踏まえつつ、私見を述べておきたい。危険が蔓延している状況は確かに深刻なものがある。また時として、このような状況への対応がヒステリックに叫ばれたりするが、すぐさま刑罰による対処を要請することには問題がある。なぜなら、それによって逆に我々の自由はおろか、問題に対する自律的解決能力が失われるかもしれないからだ。
 もちろん発明や技術の発展の意味を否定するわけではない。しかし、もともとこのような危険社会の原因を形成した重要な担い手は、技術の進歩と産業の飛躍的な発展についてその経済的な側面に力点を注いできた国家・行政ではなかろうか。まさにこのことは発展の影の部分といえる。だからといって、それをなおざりにしたままで、刑法の領域で抽象的危険という可罰的な違法行為とそうでない行為との限界線上にある非常に曖昧な概念を用いて規制することにはにわかに賛成しがたい。また、市民の自由な社会生活の発展を念頭に置いた上での国内の社会政策や行政法における行政基準等の問題を改善していく動きなしに、ひとえに刑法的解決に期待するのも納得しがたい。このようなことは、刑法のウルティマ・ラティオ原理の見地からも問題だ。しかも、近代刑法の諸原則を無視してまで刑法に取り入れたからといって解決するものではないのではなかろうか。
 しかし、現実を見ると、ドイツ及び日本においておびただしい数の抽象的危険犯及び形式犯規定が存在している。かかる抽象的危険犯的性格・形式犯的性格を有する刑罰規定が日常の裁判において適用されている。
 つぎに、本章で明らかにした抽象的危険犯の問題性を前提にしながら、抽象的危険犯の問題の解明のもう一つの方法として、その限定解釈を試みたい。

(1) ドイツと日本の両国においては、刑事政策的な目的を主眼に、抽象的危険犯には刑法の諸原理や法益の犯罪限定機能を軽視したままで、政策的な見地を優先した立法化がなされてきたのであり、また現在でもこの状況には変化はない。それどころか、今後増える可能性を大いにはらんでいるということでは相違はない。
(2) ユルゲン・ハーバーマス/三島憲一=山本尢=木前利秋=大貫敦子訳『遅ればせの革命』(一九九二年)二六三頁。ハーバーマスは、「生活世界の植民地化」という表現を用いて、現代社会においては人間が自分達の生活を安定化・合理化させるために作った法システムによって、逆に人間が支配される状況が生じているというような主旨のことを述べている。ユルゲン・ハーバーマス/丸山高司=丸山徳次=厚東洋輔=森田数実=馬場孚瑳江=脇圭平訳『コミュニケーション的行為の理論(下)』(一九八七年)二八四頁以下参照。池田善昭『システム科学の哲学』(一九九一年)三七頁。
(3) ハーバマス・前掲書(2)『遅ればせの革命』二六四頁。
(4) 平野氏は、刑法の謙抑的な適用という見地から「法は、個人の生活利益を保護するために存在するのであって、個人に礼儀正しい『立居振舞い』を教えるために存在するのではない」、と指摘しておられる(平野龍一『刑法総論I』(一九七二年)五一頁)。