立命館法学 一九九五年二号(二四〇号)




ドイツにおける
民事責任体系論の展開 (三・完)

---危険責任論の検討を中心として---

増田 栄作






目    次


  • 第一章 は じ め に
  • 第二章 ドイツにおける民事責任体系論の展開
     第一節 ドイツ民事責任体系の基本的理解---「責任法の複線性」論
     第二節 民事責任体系論の展開---「複線性」論再検討の動向
     第三節 小  括               ---以上第二三七号
  • 第三章 ドイツにおける危険責任論の展開
     第一節 ドイツ危険責任原理の一般的理解
     第二節 近時の「危険責任」特別法と責任原理を巡る議論---以上第二三九号
     第三節 危険責任論の新たな展開
     第四節 小  括
  • 第四章 お わ り に---以上本号



第三節 危険責任論の新たな展開
 第一項 概  観
 これまでのドイツにおける近時の民事責任特別法ー「危険責任」特別法の個別的検討を通じて、近時諸法規の責任規定に関する二つの動向が認められた。すなわち、第一に製造物特に工業的製造物に基づく損害に関する責任規定の増加、及び、第二に因果関係立証負担軽減の諸規定を有する責任規定の増加である。その内特に第一の動向は各法規毎に責任原理を巡る議論を生じている。それらの動向を伴った「危険責任」特別法の登場・増加をうけて、最近では更に危険責任原理一般あるいは民事責任原理・体系一般の理解をも射程に入れた議論が現れ始めている。それらの議論はドイツにおける危険責任原理や民事責任原理・体系一般に関する Esser 以来の従来的・通説的理解を新たに展開・変容させる契機をはらんでいる。本節ではこのような論議状況について整理・分析し、危険責任原理や民事責任原理・体系に関する理解自体の新たな展開・変容状況について検討する。
 具体的には、近時の「危険責任」特別法の特殊性を認識しながら、それらを新たな危険責任体系の下に包摂しようとする Deutsch の「危険責任の新たな体系」の構想、及び、近時成立した「危険責任」特別法の多数を占め、従来的危険責任原理との差異が指摘される、製造物に関する責任諸規定(薬事法、製造物責任法、場合によっては遺伝子工学法も含む)の責任原理の類型化や更にはその責任類型のトータルな民事責任原理・体系への位置付けに関する議論について検討した上で、それら論議状況の意義について考察する。
 第二項 Deutsch の「危険責任の新たな体系」
 Deutsch は薬事法以降の様々なドイツ「危険責任」特別法(薬事法、連邦鉱業法、製造物責任法、遺伝子工学法、環境責任法)の登場をうけて、危険責任原理の枠内においても様々な段階が存在することを指摘し、「危険責任」特別法を三つの類型---((1))「狭義の危険責任」、((2))「拡張された危険責任」、((3))「原因推定責任」---に分類、危険責任の新たな体系化を試みる(1)。
 ((1))「狭義の危険責任」とは、高速度交通機関やエネルギー施設、動物保有等に課される従来の伝統的危険責任類型のことである。この責任類型の責任根拠は、「精密に限定された危険、すなわち、鉄道、自動車、航空機、動物、配電施設又は配管施設など」に関する危険であるとされる。また、責任範囲は当該危険の現実化によって生じた損害に限定され、「危険責任の立法化の根拠であった危険の現実化として、侵害及び損害が現れるのでなければならない」とされる。つまり、この危険責任類型の特徴は、「責任範囲の責任根拠への適合」である(2)。
 ((2))「拡張された危険責任」とは、薬事法、製造物責任法における責任規定のような、製造物に関する責任類型のことである。この責任類型の責任根拠に関して Deutsch は、確かに危険責任の根拠として薬事法については「効力ある化学的薬物の工業的開発及び製造」、製造物責任法については「工業的近代的商品生産、及び、部分的には匿名の流通者を経た流通の連鎖」といった「危険」の基準を挙げるが、その一方で薬事法、製造物責任法がともに工業的製造物以外についても責任を認めることを指摘して、「危険」は「主な[責任]根拠ではなく、厳格責任の動機であるに過ぎない」と述べて重視しない。また、責任範囲は責任根拠ー「危険」の現実化とは関わらないとする(3)。
 ((3))「原因推定責任」とは、鉱業法(4)、遺伝子工学法、環境責任法にみられるような、「危険責任と損害推定の組合せ」を有する責任類型のことである。責任根拠は限定された危険であり、責任範囲は危険の現実化としてあらわれた損害に限定されるという。この点、((1))「狭義の危険責任」類型と変わらない。「原因推定責任」類型の特徴は、因果関係推定規定が置かれている点である。そして「推定された因果関係を伴う原因責任は我々の知る最も厳しい責任である」とされる(5)。
 前節でみたような危険責任特別法の個別的分析の局面では、Deutsch は薬事法、製造物責任法におけるような物の欠陥を介した責任類型に関して、いずれも従来の危険責任類型との差異を認識しながら、薬事法の責任規定については危険責任とし、製造物責任法のそれについては不法ー過失責任と解していた。ここではそれら責任規定を、従来的な危険責任に対するそれらの特殊性を認識しながらも、あらためて危険責任の一類型として位置付けたものである。また、従来的な危険責任類型に因果関係推定規定が加わった類の責任も従来的危険責任類型とは異なった一類型として扱い、全体として三つの類型からなる危険責任の新たな体系を構想する。以上のような体系化の試みは、近時の「危険責任」特別法が危険責任の名において実質的には様々な類型の責任規定を登場・増加させてきた事実を確認した上で、新たに危険責任原理内での体系を構築しようとするものであり、第一節で述べたような危険責任原理の一般的理解の次元における新たな展開につながるものとして評価し得るように思われる。
 第三項 製造物に関係する責任の位置付け
 第二節では近時の「危険責任」特別法の責任規定に関する動向の一つとして、製造物に基づく損害に関する責任規定の増加を指摘し、それらの責任原理、特に薬事法及び製造物責任法におけるような製造物の欠陥によって生じた損害に関する責任規定の責任原理がそれぞれ問われている状況を、各法規に即して個別的に検討した。理論的にはそこから進んで、いかにしてそれら製造物に関係するそれぞれの責任を一般化して把握しトータルな民事責任原理・体系のなかに位置付けるのかが問われ、更には従来の民事責任原理・体系論の理解自体を新たに再構成する契機が生じている。本項ではそのような製造物に関係する責任を一般化して考察する学説を取り上げ、それらの学説がいかにその責任一般を把握し、民事責任原理・体系を再構成しつつあるのかを整理・分析する。
 製造物に関係する責任一般について考察する学説としては、それらを「危険責任の新たな体系」の下に包摂して危険責任と解するもの(Deutsch)、行為責任としての危険責任と解するもの(Kreuzer、Canaris---なお、Canaris はそれに加えて具体的危険に関する危険責任と解する)、無過失責任と解するもの(Kullmann)、不法ー無過失責任と解するもの(Schmidt-Salzer)が確認される。理論上は更に、例えば製造物責任法の責任原理に関する Deutsch や Ko¨tz の見解のような、不法ー過失責任と解するものが考えられよう。しかしながら、そのような立場で製造物に関係する責任一般について論じた学説は確認できなかった。また、Deutsch の見解については既に前節で述べたのでここでは扱わない。したがって以下では行為責任としての危険責任と解する説、無過失責任と解する説、不法ー無過失責任と解する説の三つについて取り上げることとする。
一 行為責任としての危険責任と解する説
 Kreuzer は、「・・・ドイツ法は比較的最近になって初めて無過失の危険な行為に関する責任構成要件を承認した(行為責任)」として、行為責任としての危険責任が既に危険な交通手段や施設に関する従来的危険責任原理と共に存在することを主張する。そして、行為責任としての危険責任規定に属するものとして具体的には水管理法二二条一項、薬事法八四条、製造物責任法一条、遺伝子工学法三二条を挙げる(6)。Kreuzer の所論においては、従来問題になってきた水管理法の責任規定に加えて、薬事法、製造物責任法、遺伝子工学法といった製造物に関係する責任諸規定について、これらをも同様に行為責任としての危険責任に解し、類型化している点が注目される。これら製造物に関係する責任規定がいかなる意味で行為責任としての危険責任と解され得るのかについては、より詳細な説明はなされておらず、必ずしも明らかであるとはいえない。しかしながら、前述第三章第一節における危険責任原理の一般的理解の箇所で検討した Bru¨ggemeier や Canaris の見解によれば、製造物の保有者ではなく製造・流通行為を行った者の保証責任を問うところから行為責任という特徴付けが行われており、Kreuzer の見解もこのような理解と類似のものと考えることができる。
 Canaris も危険責任の基本類型として行為責任としての危険責任類型を認め、その中に Kreuzer と同様の責任規定を分類する。Canaris の所論において更に注目すべきは、特に製造物の欠陥を介した責任(薬事法八四条及び製造物責任法一条)に関して、それらを抽象的危険に関する危険責任ではなく、具体的危険・具体的瑕疵に関する危険責任と解し、その他の危険責任規定と区別することである。Canaris によれば、製造物の欠陥を介した責任においては、決して抽象的な製造・流通行為一般ではなく、より具体的な、欠陥ある製造物の製造・流通行為に危険責任が根拠付けられる。そしてそのことは、従来の危険責任が一般的抽象的危険を問題とする点---例えば自動車の走行、毒蛇の保有、鉄道の運行、原子炉の操業等による危険一般が問題であって、自動車のブレーキ不能、蛇の逃走、機関車の脱線、原子炉の制御不能等の具体的危険の次元にはかかわらない---と異なっているとする(7)。
 Kreuzer 及び Canaris の行為責任としての危険責任説に関しては、この説が薬事法、製造物責任法、遺伝子工学法といった製造物に関係する責任諸規定を行為責任としての危険責任と一般的に類型化して把握することによって、行為責任としての危険責任類型が近時新たに登場・増加しているという観察に結び付く点が重要であるように思われる。その類型が従来否定的に解されていたところ、近時逆に危険責任における責任類型の一種として認める見解が有力化していることについては第一節で述べたが、この Kreuzer 及び Canaris の所論もそのような傾向に沿うものであり、その点で本説は従来の通説的理解の再検討を促すものと解することができる。また、Canaris による具体的危険としての危険責任類型の主張に関して更に考察を進めるならば、この責任類型が不法行為責任、特に後述の不法ー無過失責任説と実質において非常に接近することが明らかとなる。そのことは、製造物の欠陥を介した責任規定の責任原理を介して危険責任原理と不法行為責任ー過失責任原理が交錯し、従来的な責任原理・体系の枠組みが新たに展開・変容する契機が生じていることを示唆している。この点に関しては第三章第三節第四項においてあらためて検討する。
二 無過失責任と解する説
 Kullmann は、「危険な製造物の流通に関して適用される無過失の責任規定」に関して、それが「特別の危険」に相当するものをもたず、したがって危険責任ではないと述べる。そして、「それにもかかわらず、商品生産者は製造物損害について具体的過失の考慮なくして責任を負わされ得ることが法的又は社会政策的根拠から必要と考えられる」とし、「しかしながら責任が欠陥のない製造物の利用にまで拡大され得ない場合は、賢明にも危険責任概念は断念され、それに関して「無過失責任 verschuldensunabha¨ngige Haftung」の名称が堅持されなければならない」と主張する。つまり、製造物に関係する責任を危険責任ではない「無過失責任」として類型化する。その上でその無過失責任類型の下に薬事法、製造物責任法、遺伝子工学法の責任諸規定を服せしめる。このような Kullmann の見解は、危険責任とは異なった無過失責任という責任原理の範疇を新たに見いだし、そこに製造物に関係する責任諸規定を位置付けるものである(8)。
 Kullmann の無過失責任説は、この説が製造物に関連する責任類型に、危険責任とも異なった無過失責任という、民事責任体系上独自の責任原理の位置付けを与え、従来的な責任体系の理解に新たな一歩を加えようとする点で注目に値する。「ドイツにおける無過失責任は今日まで危険責任の形式においてのみ存在してきた」と Kullmann も述べるように(9)、ドイツにおける従来の民事責任体系は不法行為法における過失責任原理と特別法における危険責任原理の「複線性」をもって成り立っており、無過失責任は専ら危険責任としてのみ認められていると一般的に解されてきたように思われる。Kullmann の見解は、従来の危険責任原理の外側に新たに「無過失責任」という責任原理の範疇が存在することを主張するものであり、ドイツにおける従来の民事責任原理・体系一般に関する理解の再検討を示唆している。しかしながら、この危険責任とも異なった「無過失責任」が民事責任原理・体系中にいかに位置付けられるのかについては十分に明らかではない。Kullmann は製造物責任法の責任原理考察の箇所において、この責任原理を無過失責任と規定しながら、更に「この責任が危険責任として評価されるべきか、又は不法行為として評価されるべきかは、実務に関して意味をもたない。したがって、この問題は・・・それ以上検討されない」と述べて、無過失責任原理のより詳細な検討を放棄する(10)。したがってこの責任類型が例えば製造者責任であるのか、製造物責任であるのかについても判然としない。
三 不法ー無過失責任と解する説
 製造物に関係する責任について、出発点は Kullmann と同様に無過失責任と解しながら、更に責任体系のなかにおける位置付けについても明確化を試みるのは次の Schmidt-Salzer の所論である。Schmidt-Salzer は薬事法及び製造物責任法におけるような製造物の欠陥を介した責任諸規定に関して、これを無過失責任、しかも不法行為責任としての無過失責任と解する。より詳細に検討するならば、以下の通りである。
 まず、そのような無過失責任原理と危険責任原理との共通点としては、双方とも責任構成要件に行為者の過失を必要としない点が挙げられる。しかしながら、両者の相違点は、無過失責任原理が不法行為法の範疇に含まれることに存在するとされる。「無過失責任はまず第一に違法な行為を前提とする。したがって、無過失責任は不法行為責任として格付けされる」。そして、そのような不法ー無過失責任として挙げられるのが、製造物の欠陥を介して生じた損害に関する責任の類型である。「[不法ー無過失責任と危険責任の]二つの範疇の区別の焦点は、製造物責任法的欠陥概念に関する議論である。より詳細には、ここでは欠陥ある行為について述べられなければならず、したがって定められた義務水準から外れた行為について述べられなければならない。無過失の製造物責任は、欠陥ある、そして違法な第三者の人的及び物的損害を惹起する行為が存在する場合にのみ考慮される。第一にこの点に無過失責任原理が介入する。・・・『事業領域の職務に関する厳格責任』が存在する」。Schmidt-Salzer はこのようにして、欠陥概念を製造者自身の注意義務違反の行為と関連させて把握し、製造物の欠陥を介して生じた責任は無過失かつ製造者の注意義務違反の違法行為から生じた責任であって、したがって無過失の不法行為責任として位置付けられるとする(11)。
 Schmidt-Salzer の不法ー無過失責任説に関しては、この説が製造物の欠陥を介した責任諸規定に不法ー無過失責任という位置付けを与え、危険責任以外の無過失責任という従来の責任体系とは異なった新たな責任類型を認めながら、かつ従来の責任体系に関する関係をも明確化ー不法行為責任に服せしめる点が重要である。「不法行為責任/危険責任という損害賠償原理の二区分は、不法行為責任の下位集団としての有過失の不法行為責任の二区分(=伝統的不法行為責任/無過失不法行為責任)によって補充されなければならない(12)」。このような見解は、ドイツにおける従来的な民事責任原理・体系一般に関する理解に新たな展開・変容をもたらそうとするものである(13)。
 以上のような三つの学説は、いずれにせよ製造物に関係する責任諸規定の特殊性を認識して、それらの責任原理を一般的に類型化し、更にはトータルな民事責任体系の中に位置付けようとする。これら学説状況から、製造物に関係する責任規定の本質の理論的考察を通じて、ドイツにおける従来的な危険責任原理あるいは民事責任原理・体系一般に関する理解が新たな展開・変容を遂げる可能性を有していることが看取され得るように思われる。
 第四項 本節のまとめ
 以上、ドイツにおける近時の「危険責任」特別法の登場・増加を受けて最近現れてきた、危険責任原理、更には民事責任原理・体系一般に関する理解について新たな展開・変容を示唆する幾つかの論議を概観した。Deutsch は近時のドイツ「危険責任」特別法が危険責任の名の下に実質的には様々な類型の責任規定を増加させてきた事実を確認した上で、それらを、「狭義の危険責任」・「拡張された危険責任」・「原因推定責任」の三つに類型化そして統合する「危険責任の新たな体系」を構想する。また、近時成立した「危険責任」特別法の多くを占める製造物に関係する責任諸規定(薬事法、製造物責任法、場合によっては遺伝子工学法も含む)に関してそれらの特殊性を認識して責任原理を一般的に類型化し(行為責任としての危険責任説(Kreuzer、Canaris)、無過失責任説(Kullmann)、不法ー無過失責任説(Schmidt-Salzer))、更にはトータルな民事責任原理・体系中に位置付けることによって、従来の危険責任原理や民事任原理・体系一般に関する理解を新たに展開・変容する契機を生ずる諸説があらわれている。
 これらの見解が展望する民事責任原理・体系論の特徴に関して、総じていえるのは、これらが従来の単一的な危険責任原理の理解を多様化させ、個別責任原理内あるいは不法行為責任ー過失責任原理と危険責任の境界上に新たな責任原理の範疇を設定し、民事責任原理・体系の枠組自体を新たに展開・変容させる傾向が看取されることである。
 また、特に注目されるのは、製造物の欠陥を介した責任規定の性質を巡る論議において新たにあらわれた責任類型、すなわち、行為責任としての危険責任説・具体的危険に関する危険責任説と不法ー無過失責任説の非常な近接性である。この理論状況については、第二節における製造物責任法の箇所でも触れたが、そこでの議論状況が、危険責任原理や民事責任原理・体系一般に関する議論の次元にも持ち込まれているということができる。すなわち、製造物の欠陥を介した責任の責任原理は、前者によれば製造物の製造・流通行為、しかも製造物の欠陥を生じたそれという具体的危険・具体的瑕疵に基づく損害の引受けとしての危険責任原理であるとされ、後者によればそれは同じく欠陥を生じた製造者の具体的製造・流通行為における客観的注意義務違反・V. pfl. 違反という違法性判断を介した、しかしながら無過失の不法行為責任と解される。両者とも責任は欠陥を生じた製造物の製造・流通行為という同一の具体的行為に関する責任であり、ただ前者がその責任をその危険行為から生じた損害の引受けとして危険責任原理に基づいて理解するのに対して、後者が損害を生じた行為の客観的注意義務違反・V. pfl. 違反ー違法性判断に基づく不法行為責任と解する点が異なっているに過ぎない。両者は欠陥や開発危険の抗弁の性質理解等の具体的判断基準において、製造物の客観的性質に基づいて判断するか、それとも製造者自身の行為に基づいて判断するかといった原理的差異を生ずるものの、実質的には同一行為の客観的評価---危険の判断も、V. pfl 違反の判断も結局客観的・規範的評価である---であり、非常に接近している。

(1) Deutsch, E., Das neue System der Gefa¨hrdungshaftungen : Gefa¨hrdungshaftung, erweiterte Gefa¨hrdungshaftung und Kausal-Vermutungshaftung, NJW 1992, S. 73. なお、本論説に関しては以下の翻訳が存在する。エルビン・ドイチュ(澤井裕訳)「危険責任の新しい体系ー危険責任、拡大された危険責任及び因果関係推定責任ー」関西大学法学会誌三六号(一九九一年)八〇頁。
(2) Deutsch, a. a. O. (Fn. 1), S. 75.
(3) Deutsch, a. a. O. (Fn. 1), S. 75f.
(4) BGBl. I 1980 S. 1310. 鉱業法の責任規定について述べた文献は少ないが、さしあたり以下の文献参照。Deutsch, E., Unerlaubte Handlungen und Schadensersatz, 1987, 190f. : Larenz, K./Canaris, C. W., Lehrbuch des Schuldrechts, II/2, 13. Aufl., 1994, S. 641f.
(5) Deutsch, a. a. O. (Fn. 1), S. 76f.
(6) Kreuzer, K., Prinzipen des deutschen auβervertraglichen HaftungsrechtsーEine Skizzeー, in : Festschrift fu¨r Werner Lorenz, 1991, S. 131f.
(7) Larenz/Canaris, a. a. O. (Fn. 4) S. 605f.
(8) Kullmann, H. J./Pfister, B., Produzentenhaftung, 3500 (PfH27. Lfg. I/91), S. 2.
(9) Kullmann/Pfister, a. a. O. (Fn. 8), S. 1
(10) Kullmann/Pfister, a. a. O. (Fn. 8), 3602(PfH25, Lfg. IV/90), S. 8.
(11) Schmidt-Salzer ,J./Hollmann, H. H., Kommentar EG-Richtrinie Produkthaftung, 1986, S. 246f.
(12) Schmidt-Salzer/Hollmann, a. a. O. (Fn. 11), S. 249.
(13) Schmidt-Salzer は以下のように民事責任原理の位置関係を図示している。Schmidt-Salzer, J., Die EG-Richtlinie Produkthaftung, BB 1886, S. 1108.


第四節 小  括
 以上、ドイツにおける最近の危険責任原理に関する学説動向の検討を行った。本節では第三章のまとめとして、ドイツにおける危険責任原理に関する理解の展開・変容状況をあらためて整理し、危険責任原理が Esser 以来の伝統的理解から、特に危険責任原理の多様化、不法行為責任ー過失責任原理との相対化の方向において展開・変容していることを確認すると共に、併せてその展開・変容をもたらした理論的根拠について考察を加えることとする。
 まず、第一節におけるドイツ危険責任原理の一般的理解の検討では、一方で Esser の危険責任論によって確立されたドイツ危険責任に関する従来の理解がなお安定的地位にありながらも、他方で危険責任原理の理解を特に不法行為責任ー過失責任原理との関係において流動化・相対化させる方向へと展開・変容する傾向が、端緒的にせよ存在することが確認された。そして、第二節、第三節における危険責任原理のより個別的局面における論議状況の検討によって、一般的理解の次元において端緒的にあらわれていた傾向が一定の有力な基礎をもって展開していることが明らかとなった。すなわち、第二節における近時の「危険責任」特別法に関する議論の検討によって、個別の「危険責任」特別法における責任規定に関して、従来からの危険責任原理や民事責任原理・体系に関する理解に必ずしもなじまないものが増加しており、それら責任規定の体系的整序のために、特に危険責任原理と不法行為責任ー過失責任原理との中間領域において、民事責任原理の新たな範疇が形成されつつあること、そしてそれを受けた第三節における危険責任原理や民事責任原理・体系一般に関する議論の検討によって、いわば危険責任原理に関する従来の理解を多様化させ、逐には危険責任原理から民事責任原理・体系一般に関する理解をも新たに展開・変容させる傾向が生じつつあることが明らかになった。これらを事象の展開に沿って整理するならば、まず、個別の「危険責任」特別法における、従来からの危険責任原理の理解に十分適合しない責任規定の出現・増加に伴って、それら責任規定の責任原理の解明及び体系的整序を巡る論議が行われ、そこから更に危険責任原理や民事責任原理・体系一般に関する理解を再検討する傾向が生じている。そして、その傾向が教科書・体系書の叙述におけるような危険責任原理の一般的理解にまで表出していると把握することができる。
 以上のような危険責任原理の展開・変容傾向の理論的根拠について考察を加えるならば、その傾向は、一方で賠償責任法の現状動向への対応を主要な動機としながら、他方で理論的根拠に対する関心を表面上希薄化させることを示しているように思われる。すなわち、その傾向は近時の新たに制定された「危険責任」特別法における責任規定の性質を巡る議論に大きく触発されたものである。従来の民事責任原理・体系の理解に必ずしも適合しない「危険責任」諸規定の出現・増加という現状動向への対応が、危険責任原理から民事責任原理・体系一般へ至る理論の展開・変容の一つの基本的な契機となっている。そして、他方で新たに生じた責任の範疇---行為責任としての危険責任・具体的危険に関する危険責任・無過失責任・不法ー無過失責任・拡張された危険責任・原因推定責任等---がいかなる性質の責任原理であるのか、特に Esser が「複線性」論の理論的根拠として挙げた民事責任の機能・目的論---損害の個人的答責機能及び社会的分配機能---との関係においていかなる意義を有するのかという点については、Esser の問題意識との対応も明らかではなく、考察の手掛かりは必ずしも十分ではない。少なくともその点では、近時の理論傾向は理論的根拠に関する考察を表面上希薄化させているといえるのである。
 しかしながら、理論的根拠に関する考察の表面上の希薄化の一方で、近時の理論傾向に伏在する、危険責任原理の理論的根拠ー民事責任の機能・目的論の展開・変容も看取されるように思われる。すなわち、従来危険責任原理が担っていた民事責任の機能・目的ー損害の社会的分配機能の、危険責任原理の形式的枠組みを越えた全責任法レベルでの有力化である。そのことは、新たな責任原理の諸類型中特に危険責任原理と不法行為責任ー過失責任原理の境界上に位置するものの出現・増加---拡張された危険責任、行為責任としての危険責任、具体的危険に関する危険責任、無過失責任、不法ー無過失責任---、及びそれらを通じた両責任原理の非常な接近において明らかである。これらの内責任類型の性質・内容がより明確な行為責任としての危険責任・具体的危険に関する危険責任類型、及び、不法ー無過失責任類型を取り上げて考察を加えるならば、以下の通りである。
 行為責任としての危険責任類型は、危険責任の機能・目的ー損害の社会的分配機能を当該責任類型の理論的本質として堅持しつつ、その機能の射程を施設・物等の定型的危険から人の行為に関する危険にまで拡大するものである。特に製造物の欠陥を介した責任に関して示された、具体的危険・具体的瑕疵に関する危険責任という類型化は、従来の危険責任が抽象的危険に関する責任原理であったところ、その適用範囲を欠陥を生じた製造物の具体的製造行為に関する危険にまで拡大するものである。本来、危険責任原理は Esser の責任原理・体系論において明らかなように、いわゆる「許された危険」による損害の配分的正義に基づく社会的分配の機能・目的を担う責任原理であり、したがってその機能・目的から導かれる責任の制限(社会的分配であるがゆえに負担も過度であってはならない)を前提していた。そして、損害賠償範囲の制限等と共に、対象とする危険の抽象的に確定可能な物への制限もそのような性格をもって理解される。しかしながら、近時それらの制限を緩和・排除する傾向が有力化している。従来から賠償範囲制限の排除が有力に主張されてきた。そして、この行為責任としての危険責任・具体的危険に関する危険責任類型の主張も、従来危険責任に課されていた、抽象的に確定可能な物への対象の限定という責任制限を排除するものとして理解することができる。そしてこれら制限の撤廃が含意するのは、危険責任原理が担う損害の社会的分配の機能を、その機能ゆえに定められていた危険責任の形式的枠組みを越えて拡大することであるように思われる。
 不法ー無過失責任類型は、従来の不法行為責任ー過失責任原理から主観的過失要件を排除した、行為者自身の客観的外的義務違反・V. pfl. 違反のみを問題とするものとされる。Schmidt-Salzer の説明によれば、このような責任類型と危険責任原理との差異は、もはや帰責の根拠が行為に関わるか、それとも物に関わるかということに過ぎない。そしてこのことは、当該責任類型が、一応は不法行為責任とされながらも、Esser が不法行為責任ー過失責任原理の機能・目的として挙げた損害の個人的答責の機能はむしろ過失要件と共に脱落し、違法性判断も客観的外的注意義務違反・V. pfl. 違反として規範的性格を有することから、損害の社会的分配の機能をもって適用されることを意味しているように思われる。この不法ー無過失責任類型は行為責任としての危険責任・具体的危険に関する危険責任類型と実質において非常に接近したものである。すなわち、それら責任類型は共に欠陥ある製造物の製造・流通行為に関わるものである。前者がそれを注意義務違反・V. pfl. 違反の行為という枠組みから判断するのに対して、後者がそれを損害の保証義務を負う危険行為という枠組みをもって判断することに原理的差異が存在するが、それら判断基準はいずれにせよ規範的性格のものであり、実質的差異は非常に小さなものになっている。このこともまた、不法ー無過失責任類型が危険責任類型と同じく、損害の社会的分配機能を担う責任領域であることを示しているように思われる。結局、両責任類型は共に損害の社会的分配機能が従来の責任原理の形式的枠組みを越えて優位した責任領域であり、そのような領域が危険責任原理、不法行為責任ー過失責任原理の従来的枠組みを越えて生じていることを示すものと考えられる。
 以上から総じて、近時の危険責任原理の新たな展開・変容の傾向の理論的根拠として、危険責任原理が従来担っていた損害の社会的分配の機能が、従来の危険責任原理の形式的枠組みを越えて拡大していることが指摘できるように思われる。

第四章 お わ り に
 これまで、ドイツにおける民事責任原理・体系論の展開・変容状況を、特に危険責任原理の側面から検討してきた。本章では、以上の検討内容をあらためて総括することによって本稿の到達点を示し、また幾つかの点について考察を加え、その上で今後の考察課題の設定を行う。
 第二章におけるドイツ民事責任体系に関する理解の検討によって明らかになったのは、Esser の「責任法の複線性」論をもって基本的理解とされていた従来の理論状況を新たに展開・変容させる傾向の存在である。すなわち、民事責任体系を構成する責任原理として、不法行為責任ー過失責任原理と危険責任原理の二つを挙げ、かつ両者を厳格に区別する「複線性」論の構想に対して、それを批判しつつ、民事責任原理を両責任原理の厳格な区別から、「三線」化・「多線」化・段階化・流動化・「収斂」等の方向で次第に相対化し、連続的・一体的に理解する傾向が存在する。そして、その傾向は、民事責任体系の理論的根拠の以下のような展開・変容に対応している。すなわち、「複線性」論におけるような、民事責任の機能・目的それぞれ---損害の個人的答責及び社会的分配---の貫徹、及び、賠償責任法の現状動向に対する理論的一貫性の重視から、「複線性」論再検討の諸説におけるような、理論的一貫性に対する現状動向の重視、及び、理論的根拠---民事責任の機能・目的---に対する考察の表面的希薄化・本質的には個人的答責機能の後退・社会的分配機能の有力化への展開・変容である。
 第三章におけるドイツ危険責任原理に関する理解の検討によって明らかになったのは、同じく Esser の危険責任論をもって確立された従来の通説的理解を新たに展開・変容させる傾向の存在である。すなわち、過誤ある行為より生じた損害の互換的正義に基づく行為者への個人的帰責を旨とする不法行為責任ー過失責任原理とは厳格に区別された、「許された危険」より生じた損害の配分的正義に基づく危険源保有者への社会的分配という危険責任原理の構想が、近時の「危険責任」特別法における従来的理解に必ずしも適合しない責任規定の出現・増加に伴うそれら規定の体系的整序の努力を通じて、従来の単一的理解から多様化し、特に不法行為責任ー過失責任原理との流動化・相対化の方向において展開・変容する傾向が存在することが明らかになった。そして、そのような傾向の理論的根拠として、その傾向が一方で賠償責任法の現状動向への対応を主要な動機としながら、他方で理論的根拠に対する関心を表面上希薄化させていること、しかしながら、それに伏在する実質として、民事責任の機能・目的における損害の社会的分配機能の、危険責任原理の形式的枠組を越えた全責任法的有力化が看取されることが指摘された。
 これらの検討によって、ドイツにおいて近時あらわれてきた、民事責任原理・体系に関する理解の展開・変容傾向、特に危険責任原理の側面からのそれが、より包括的に把握され得るように思われる。すなわち、前述のような「危険責任」特別法における責任規定の増加を一つの主要な契機とした、危険責任原理に関する理解の展開・変容傾向が、民事責任原理の上位理論としての民事責任体系論の展開・変容傾向の一因を構成している。総じて述べるならば、ドイツにおける民事責任原理・体系論の展開・変容の一つの傾向が、危険責任原理と不法行為責任ー過失責任原理の「複線性」から、両責任原理のより一体的把握の方向において示されることが明らかである。そして、そのような展開・変容をもたらした理論的根拠として、民事責任原理・体系論考察における、いわば理論指向から現実指向への観点の移動、及び、民事責任の各機能・目的ー損害の個人的答責と社会的分配の各機能の貫徹から、個人的答責機能の後退・社会的分配機能の有力化への展開・変容が看取される。
 さて、そのような本稿における検討の到達点を示した上で、なお幾つかの点について若干の考察を試みることとする。具体的には、第一に、本稿でみたようなドイツにおける民事責任原理・体系論の展開・変容傾向をもたらした背景、特に法制度的背景及び現実的背景、第二に、その展開・変容傾向から推察可能な今後の不法行為制度論の発展方向、第三に、その展開・変容傾向や発展方向に対する評価について検討する。
 第一に、ドイツにおける民事責任原理・体系論の展開・変容傾向の背景に関して考察を行う。まず法制度的背景について検討するならば、ドイツ法を取り巻く法制度上の動向として、EC域内における法統合の動きに伴ったドイツ法体系への異質の法原理の流入が注目される。v. Bar は、EC指令(あるいは指令案)における製造物製造者、廃棄物発生者、及び役務提供者の民事無過失責任(製造物責任、廃棄物責任)あるいは推定過失責任(役務責任)の新たな諸規定に関して、それらがドイツにおける「純粋な」危険責任と全く異なる内容と遺伝形質を持つことを指摘する。すなわち、ドイツにおける従来の「純粋な」危険責任が許された危険の責任法的補充として構想されるのに対し、それら新たな諸規定における責任は禁じられた危険の現実化における客観的な安全基準によって査定された行為義務(危険制御義務)違反に関する責任であり、また前者が一九世紀来のドイツ固有の法発展に由来するのに対して、後者は今世紀における V. pfl. に関する責任の展開に基礎を有し、また特に役務責任については、この責任の性質はむしろフランス法における faute や英米法における negligence といった概念によってより良く説明されることを述べる。この「純粋な」危険責任と新たな責任の両者は、確かに多くの領域で効果の統一がなされ得るが、しかしながらいかなる同一性も生じないという。その上で、この新たな責任の傾向を積極的に評価し、これがヨーロッパの新たな責任法秩序の形成につながることを展望する(1)。このような指摘から、EC統合に伴う国内法整備の一環としての統一的基準に基づく民事責任規定の登場・増加が、ドイツにおける民事責任原理・体系論に重大な影響を与えつつあることが看取されよう。そして、このような動向は、ドイツの民事責任論の真価が問われる場面でもある。EC指令に基づく民事責任規定に関して、ドイツの民事責任原理・体系論はいかにしてそれらに合理的説明を加えながら展開し得るのか、それとも結局それらの理論的包摂を果たし得ず自ら解体していくのであろうか。EC指令に基づく民事責任特別法は、ドイツの伝統的ドグマーティクの試金石である。
 次に展開・変容の現実的背景について検討を行うならば、法理論が対象とする現実の動向として、現実社会における危険の具体的内容の変化が一つの重要な現実的契機として挙げられるように思われる。その変化は、Esser の危険責任論及び民事責任体系論ー「複線性」論が形成された当時における危険の具体的内容と、現代社会におけるそれの異同の検討によって明らかになる。より幅広い社会理論的側面からの検討をも必要とするであろうそのような課題に関して、まとまった準備のない現時点において言及できることは限られている。しかしながら、少なくとも二つの危険の間には、約五〇年間を経て「許された危険」と目される事象が著しく日常化した点において、明らかに差異が指摘できるように思われる。そのことを特に顕著に示すのは、やはり製造物に関する危険の増大、及び、それに応じた製造物に関する「危険責任」特別法の増加である。Esser の危険責任論が確立された一九四〇年代当時、危険責任特別法の対象とされていたのは、鉄道・自動車・航空機等の輸送機関や配管・配電施設に関する危険といった、市民の日常生活の比較的外側に位置し、危険の発現形態も責任主体---危険源の保有者---も定型的に把握することの比較的容易な危険であった。そのことは、不法行為責任ー過失責任原理と厳格に区別された危険責任原理を確立し、それに服するべき危険の対象を立法者による厳格な審査を経て確定することの必要条件であったように思われる。それに対して、近時の製造物に関する「危険責任」特別法---薬事法・製造物責任法・遺伝子工学法---において対象とされるのは、主に工業的製造物、日常生活において広く利用されるものも含んだそれに関する危険である。そのような工業的製造物が内包する危険の一つの大きな特徴は、それが現代社会において日常生活の内側に深く侵入している点である。確かに、科学技術の進歩と共に個々の工業的製造物の安全性は以前の同種のそれよりも向上しているであろう。しかしながら、工業的製造物が、内部機構を複雑化させ、用途を多方面に拡大しつつ、市場に大量に流通し、日常生活の隅々までいき渡った現在の状況は、危険が日常生活の比較的外側に位置し、特定の保有者の支配下にあった Esser の危険責任論確立当時の状況とは明らかに異なっている。また、現在の工業的製造物に関する危険の更なる特徴として、その危険が定型的把握に一定の困難を伴う点が挙げられる。すなわち、工業的製造物に関する危険は、従来対象となってきた危険のような、特定の保有者による特定の危険源の保有という外見上比較的明白な状態ではなく、工業的製造物の製造・流通行為という必ずしも一目瞭然ではない事象にかかわるものである点、しかも加えて製造物の欠陥の存在が要件となる場合は、欠陥の認定という規範的評価が更に課される点において、以前の危険とは異なり、定型的把握がより困難であることが指摘できるように思われる。いずれにせよ、近時のドイツにおける民事責任原理・体系論の展開・変容傾向は、危険の具体的内容という現実的背景からも理解されるべきであろう。
 第二に、本稿で示されたような民事責任原理・体系論の展開・変容傾向から推察可能な今後の不法行為制度の発展方向について考察を加えてみたい。そもそも本稿の目的は、不法行為制度論の考察に何らかの手掛かりを見いだすことであった。この考察課題に関しても、民事責任原理・体系の内危険責任原理の側面のみからの検討に止まっている現段階の到達において確言することは困難である。しかしながら、仮定的にせよ考察を試みるならば、民事責任原理・体系論が本稿で看取されたような方向において展開・変容していくとするならば、民事責任原理・体系がその機能・目的に関して個人的答責から社会的分配への重点移動を進め、損害分配における判断基準の実質化を更に展開すること、及び、それに伴って過失責任原理を基本とした不法行為制度も、より社会保障的性格を強めた損害補償制度全体において自らの占める役割を漸次縮小させる方向に向かうことが予測できるようにも思われる。確かに、そのような方向性を「私法の社会化」の一つの発展段階として把握することは可能なように思われる。すなわち、日常生活における危険の遍在化に従って損害のより迅速かつ十分な(「適切」な)填補の要請が強まり、もはや古典的な過失責任原理をもってはその要請に応えきれないとして、危険責任原理やそれが担う損害の社会的分配機能によって補われる領域を拡大するものと解することは可能であろう。
 しかしながら、第三に、そのようなドイツにおける民事責任原理・体系論の展開・変容傾向や、不法行為制度論の発展方向に対する評価を行うならば、その傾向や発展方向は、これを一般的な発展の方向性としてそのまま受けとめるかどうかについては、なお検討を必要とするように思われる。確かに、現代社会における危険の新たな状況に対応して、不法行為制度を含む損害補償制度も更に整備され、展開を遂げることは、あるいは当然であるかもしれない。しかしながらその一方で、従来の不法行為責任ー過失責任原理及びそれが担っていた損害の個人的答責機能の側面は、そのまま自らの適用領域を漸次縮減させていくものなのであろうか。むしろそこに至る前に、不法行為責任ー過失責任原理に期待される社会的公正の実現という役割が看過されてはならないように思われる。人は社会生活において注意深く行動しなければならず、その注意を怠って他人に損害を与えた者は、自らがその損害を賠償しなければならないという、いわゆる「古典的市民法」における不法行為責任ー過失責任原理の基本的命題がもつ積極的意義があらためて問い直される必要がある(2)。そして、現にドイツにおける民事責任体系論が、本稿において示されたような批判に曝されながらも、そのような批判的見解も含めてなお「複線性」論にこだわりつづけることは、ドイツの民事責任論において不法行為責任ー過失責任原理の積極的意義がなお否定し難いことを表しているように思われる。
 その上で、(ドイツに限らずより一般的な当為の問題として)民事責任原理・体系論において採るべき方向性についても言及するならば、Esser の「複線性」論が基礎に有する問題意識にあらためて注意を喚起したい。すなわち、「複線性」論が不法行為責任ー過失責任原理と危険責任原理を厳格に区別することによって、それぞれが担う損害の個人的答責と社会的分配の機能・目的の十分な達成と歪曲の阻止を図ることが注目されるべきである。それによって、不法行為責任ー過失責任原理の有する積極的意義の「復権」もまた可能となるのではないか。確かに、EC指令に基づく異質の責任規定が登場・増加し、また危険の具体的内容が展開・変容を遂げている現状にあって、本稿で検討したドイツにおける近時の議論が示しているように、Esser の「複線性」論及び危険責任論にそのまま固執することはできないであろう。しかしながら、それでもなお、Esser の理論の基本的な問題意識及び理論枠組みから汲み取るべき一片の真理ももはや消失したようには思われない。危険の具体的内容の展開・変容を踏まえつつ、Esser の基本的着想の現代的展開がいかにして可能かを追求することが、民事責任原理・体系の検討にとって今後採り得べき一つの方向性であるように思われる。この点で、「複線性」論を批判しつつ、しかしながらなおそれを安易に捨て去ろうとしないドイツの議論の仕方から学ぶべき点は少なくない。
 以上の三点にわたる考察は、ドイツにおける民事責任原理・体系論の不完全な概観の上に仮説を重ねた、あくまで仮定的なものに過ぎない。より深い理解のためには、ドイツにおける民事責任原理・体系に関して危険責任原理と並んでもう一つの支柱をなすところの不法行為責任ー過失責任原理の分析が行われなければならない。したがって、今後の考察課題としては、ドイツにおける不法行為責任ー過失責任原理の展開・変容状況の検討が挙げられる。ドイツにおける不法行為責任ー過失責任原理の理論状況に関しては、従来から違法性論及び過失論の両面について非常に詳細な検討が蓄積されてきた(3)。それら違法性論及び過失論について、特に近時の動向に注目しつつ、特に民事責任体系論及び民事責任の機能・目的論の視角から分析を行い、本稿において到達したドイツにおける民事責任原理・体系論の展開・変容傾向の実情をより包括的に把握、その全景を明らかにすること、これが今後の課題である。その上で、本稿の最後に言及したような、不法行為制度の今後の発展方向やその在り方についてのより本格的な検討もあらためて可能となるであろう。

(1) Bar, C. v., Neues Haftungsrecht durch Europa¨nisches Gemeinschaftsrecht. Die Verschuldens-und die Gefa¨hrdungshaftung des deutschen Rechts und das haftungsrechtliche Richtlinienrecht der EG, in : Festschrift fu¨r Hermann Lange, 1992, S. 373ff.
(2) 北山助教授は、一九世紀ドイツにおける損害賠償法を巡る法理論状況、すなわち、パンデクテン法学私法体系における過失責任主義の確立過程、及び、無過失責任規定を有するライヒ責任法の成立過程を歴史実証的に検討し、それら法理論状況の本質が、ドイツ産業革命期の展開過程において産業資本を事故損害の負担から回避させ、その活動自由を保障することにあった点を指摘、そして批判する。その上で、ドイツ損害賠償法理論がとり得べきであった方向性に関して、以下のように主張する。すなわち、「法規上の確固たる人権規定を有しておらず、権利意識も希薄であった当時のドイツにおいては『無』過失責任は責任根拠たりえず、むしろ過失概念を深化させ、構造的に過失を把握することこそが必要だったのではないか」(北山雅昭「ドイツにおける過失責任主義の確立過程と経済的自由主義---『ドイツ産業革命と損害賠償法』研究序説---」早稲田大学大学院法研論集三六号(一九八五年)一四五頁以下)。なお、北山「ライヒ責任法の成立過程に関する一考察---『ドイツ産業革命と損害賠償法』研究の一環として---」早稲田大学法学会誌三六巻(一九八六年)五七頁、同「一九世紀ドイツにおける損害賠償法の一側面---ライヒ責任法成立史研究=補説---(一)(二・完)」早稲田大学大学院法研論集四〇号一一三頁、四三号一〇三頁(一九八七年)参照。
(3) さしあたり前田達明『不法行為帰責論』(一九七八年)、錦織成史「民事不法の二元性---ドイツ不法行為法の発展に関する一考察---(一)(二)(三・完)」法学論叢九八巻(一九七六年)一号二五頁・三号二五頁・四号六八頁参照。また、最近の研究として、潮見佳男「民事過失の帰責構造---過失の規範化と行為者の意思をめぐって---(一)(二)(三)」阪大法学四三巻(一九九三年)一号一九三頁、四号八七頁、四四巻(一九九四年)一号五三頁が連載継続中である。
(完)