立命館法学 一九九五年二号(二四〇号)




◇ 論 説 ◇
明治民法における行為能力の制限
---明治前期法曹法と民法典の編纂---

大河 純夫






        一 課 題 と 対 象
 日本の学説は、権利能力・意思能力・行為能力・責任能力・遺言能力等さまざまな形で「能力」概念を用いている。だがよく知られているように、民法典は「能力」(第一編第一章第二節の表題)・「能力者・無能力者」(一九条、二〇条、一二〇条)という用語を行為能力の意味に限定して使用している。
 かつて、乾昭三=長尾治助編・新民法講義(有斐閣 一九八八年)でいわゆる行為無能力を「行為能力とその制限」(一〇四頁)の表題で執筆したことがある。しかし、意思あるいは意思能力についての定見がなく、不満足な整理にとどまっている。消費者契約や高齢化社会における成年後見制度がさしせまった課題となっているいま、筆者の疑問の一端を示しながら問題のありかを推考することにしたい。本稿は、その端緒的な作業として、明治民法、とくにその財産法における能力規定の歴史的意味内容とその背景を明らかにすることを目的としたものである(1)。そのために、まず明治民法に先行する判例の分析を行い(一)、次に「能力」に関する起草者の見解を整理し(二)、最後に課題の再設定を行うことにする(三)。
 本稿は、明治民法施行前のいわば明治前期法曹法の構造、つまり制定法・慣習法・慣習(習慣)・慣例・裁判慣例及び条理が織りなしてきた法形成の構造、を析出するための準備作業を兼ねている(2)。

(1) 遺言(九六一条以下)をはじめとする身分行為も深く関連する問題であるが、独自の検討を要する問題であり別の機会に譲ることにしている。たとえば、遺言に関する旧規定一〇六三条は「遺言者ハ遺言ヲ為ス時ニ於テ其能力ヲ有スルコトヲ要ス」と規定していた(現行民法九三六条に対応)。
(2) 拙稿「明治八年太政官布告第一〇三号『裁判事務心得』の成立と井上毅(一)・(二)・(三)〔未完〕」立命館法学二〇五〜二〇六合併号(一九八九年)、二二七号(一九九三年)、二三四号(一九九四年)参照。

        二 明治前期判例法における能力
 一 一八七六年(明治九年)四月一日の太政官布告第四一号は「自今満貳拾年ヲ以テ丁年ト相定候條此旨布告候事」と定めたが、この布告自体は未成年者の行為の法律上の効果を何ら規定するものではなかった。けっきょく未成年者等の行為能力等に関する制定法は明治民法典の施行を待たなければならなかった(1)。その結果、問題の解決は判例に委ねられることになる(2)。
 未成年者の法律行為の効果について、判例とくに大審院がどのような立場をとっていたのかは不鮮明なところが多い。現在の民法学からみるなら、無効、取消、あるいは拘束力の承認といった、判断が混在する状況から出発したとみてよいように思われる。
 たとえば、〔15・02・08〕大判明治一五年二月八日大審院民事判決録自一月至二月八一頁=明治前期大審院民事判決録(8)一六頁(第一六号〔ただし事件番号ではない〕 貸金催促ノ件)は、Yに対するXの貸付金返還請求訴訟においてXの宗家の当主Aに弁済したとのYの抗弁について、「假令Xガ(取り立てをAに)委任ナシタルトスルモ、幼者即チ不能力者ナル者ノ為シタルモノナレバ、到底其効力ヲ有ス可カラザルモノナリ。況ンヤ其委任シタルコトナ・・・キニ於テヲヤ」(判決録八五頁)と、傍論ながら(3)未成年者が行った委任は無効であるとしている。
 〔20・03・30〕大判明治二〇年三月三〇日明治前期大審院民事判決録13−I 二五六頁(補五一)=裁判粋誌二巻一一三頁(明治一七年第二五〇号(4) 幼者約定取消請求ノ件)においては、未成年戸主A(当時一三歳)が、A所有の不動産に抵当権を設定し、Y2と連帯してY1から金銭を借入れた(借入金はY2が費消したようである)。Aの後見人及び父親が契約(「(Aが)自己ノ姓名ヲ署シタ連借ノ契約」)の取消しを請求したのが本件である。第一審は取消請求を認めなかったが、原審が負債はY2のみの負債であるとした。たとえ未成年者であるとしても戸主が実印をもってした契約は有効である、と上告人が主張したのに対して、大審院は、
「我邦幼者ノ契約ヲ無効視セザルハ自然ノ後見人アリテ之ヲ為シタリト見做スニ依テノ事ニテ、幼者自ラ為シタル契約ヲモ有効ト為スニアラザルベシ。如何トナレバ是非ヲ弁別スル能力ナキモノノ為シタルコトヲ有効トスルハ天理上アルマジキ事柄ナルヲ以テナリ」(二五九頁.大審院の「弁明」の第一条)
とし、また当時Aが一三歳になっていたとしても未成年者(「幼者」)であることには変わりなく効力を有するはずがない(弁明第三条)、とのべ上告不受理としている。
 また、〔20・10・19〕大判明治二〇年一〇月一九日裁判粋誌二巻二五九頁(明治一九年第一四九号 公債証書取戻ノ件)は、AがX所有の公債証書をXから借り受けY(東京貯蓄銀行)に担保として供したので、Xが公債証書貸渡契約の無効を主張して公債証書の取戻を請求した事件について、「七歳未満ノ幼者ニ権義ノ如何ヲ識別スル智力アラザルハ実際上論ヲ俟タザルノ事柄ナルニ付、其幼者ノ記名ニ係ル証書ノ効力ヲ有シガタキ亦タ言ヲ俟タザルモノナリ」(二六二頁)という。未成年者のケースではないが、〔23・05・14〕大判明治二三年五月一四日裁判粋誌五巻一四三頁(明治二二年第五六二号 地所取戻ノ件)は注目すべきものである。未成年者Aの自然後見人である実父BがA所有地をYに売却(契約書にはA・B連署)したので、後見人XがYに対して契約取消・地所取戻を請求した。売買契約の時点で(明治二一年三月二〇日)、すでにBは「瘋癲者」・「精神錯乱」の状況にあり、親戚協議の上Xが後見人となり、後見届が村役場に提出されていた(明治二一年三月一日)。大審院は、「上告人Xハ当該役場ヘ届出ヲ為シタル現在後見人ナルニ、乙一号契約ハ之レガ認諾ヲ経タルモノニアラズ、又該証ニ連署セルAノ実父Bハ其已前ヨリ精神錯乱セシコトノ証明アルモノナレバ也」として、売買契約「ニ効力ヲ生ゼシム可キモノニアラズ」とした(破棄移送)。契約の効力は生じないとの構成のようである。
 このような構成のもとで、未成年者の法律行為は原則として無効であるから、契約の有効を主張するものは未成年者が成年者と同じ能力を有することにつき証明責任を負担するとの判決すらあらわれる。〔21・11・22〕大判明治二一年一一月二二日裁判粋誌三巻三一四頁(明治二一年第三一八号 公売処分故障ノ件)がそれである。未成年者Aが一七歳四ケ月のとき不動産を抵当にYから二五〇〇円の借金をしたが、公売処分に付されたので、Aの後見人Xが異議を申し立てた。原審がXの異議を認めたので、Yは、Aの「実際其能力ノ有無ヲ審究シテ・・・貸借ノ効無効ヲ判決スベキ」として上告。大審院は、「元来被上告人Xガ起訴ノ要旨ハAガ当時未丁年者ニシテ不動産ヲ抵当トシテ借金スルノ能力ナシト論告スルモノナレバ、上告人Yハ之ニ対シテ当未丁年者ナレドモ右等借金スルノコトニ付キテハ丁年者ニ同ジキ能力ヲ有セシトノ挙証反駁ヲナスノ筋合」とし、上告不受理とした。
 とはいえ、このような「無効」構成が唯一の方法だったのではない。〔16・03・03〕大判明治一六年三月三日大審院民事判決録明治一六年自一月至三月二一一頁=明治前期大審院民事判決録(9)三一頁=裁判粋誌首巻二三三頁(明治一六年第七一五号 契約取消ノ件)を例にとろう(5)。本件では、後見人を付していない未成年戸主Aが約三町の土地を売却しかつ買戻契約を締結したので、実母Xが原売買契約の取消を請求した。原審(大坂上等裁判所)が「明治九年第四十一号及同第四十四号布告ハ未丁年者ノ結ビタル契約ヲ左右スル法令ニ非ズ。AY間ノ売買ハ有効ナレバ、上告人X其取消ヲ請求スル訴権ナシ」(二三四頁)としたので、X上告。大審院は次の説示のもとに、破棄自判としている。
 (i) 「明治九年第四十一号及ビ同第四十四号(「凡ソ代人ハ心術正實ニシテ満廿歳以上ノ者ヲ撰ムベシ」・引用者)ノ布告ニヨリ未丁年者ノ取結ビタル契約ハ一概ニ取消スヲ得ベキモノト論ジ難シト雖ドモ、法律上二十年ニ満タザル者ヲ未丁年者ト定メシ所以ハ未ダ智能完全ノ年齢ニ達セザルニ由レルモノタレバ、未丁年者ノ取結ビタル契約ニシテ取消シ得ベキト否トハ其事柄ニ就テ判断スベキコトナリトス」(判決録二一三頁。弁明第一条)
 (ii) 「売渡シ直段(裁判粋誌では「売渡代金」)ハ一千三百円ニシテ買戻シ直段ノ(同じく「買戻代金」)三千円ナルニ依レバ格外ノ低価ニテ売渡セシモトノ推測スルニ余リアリ。凡土地ノ如キハ財産中最モ貴重スベク価格モ亦他ノ動産ノ如ク時々高低スベキモノニ非ズ。Aハ、斯ク三町ニ近キ田地ヲ一朝千三百円ニ売却シ忽チ之ヲ三千円ニ買戻スガ如キハ、智能完全ノ者ノ所為ト認メ難シ。是則契約ノ取消ヲ求ヲ得ベキ正当ノ理由アルモノトス」(判決録二一三〜二一四頁。弁明第二条)
 (iii) 「凡幼者ニシテ定マリシ後見人ナキ場合、父アラバ其父、父ナキトキハ母タルモノオノヅカラ後見ノ任アルモノトス。故ニ幼者Aガ所為ニ就テハ其母タル上告人Xニ訴権ナシト云ヲ得ズ」(判決録二一三〜二一四頁。弁明第三条)
 (iv) 本件「田地売買ノ契約ハ、Aガ未丁年者ナルト其代価ノ不相当ナルトノ原因ニヨリ適正ノ契約ト認メガタシ。依テAガ母Xヨリ之レガ取消ヲ求ムル上ハ、被上告人Yニ於テ之ヲ拒絶セザルヲ得ザルモノトス。根元売買ノ契約ニシテ取消シ得ベキモノタル上ハ買戻契約モ又無効タルベシ」(判決録二一四頁)
 本判決は「オノヅカラ後見ノ任(6)」にある者(母)の取消権を承認した。だが、判決が最後で「Aガ未丁年者ナルト其代価ノ不相当ナルトノ原因ニヨリ適正ノ契約ト認メガタシ」とまとめているように、ただ未成年であることのみによって未成年者の売買契約の取消を認めているものでもない。
 他方で、未成年者であってもその知力等を根拠に契約の効力・拘束力を認める判決もある。〔18・11・30〕大判明治一八年一一月三〇日明治一八年大審院民事商事判決録一一頁=明治前期大審院民事判決録11八頁(明治一七年第三一三号 地所売買契約履行請求ノ件)をみることにする。被告Yの実兄で当時戸主であったAがXに所有地(田畑宅地四町八畝二六歩)を二千円で売却し、Xは代金を支払った(明治一五年一一月二六日)。公証手続が未了であったところ、Aは隠居し家督相続人Bが相続し(同年一二月一四日.当時Bは一年八ケ月)、さらにYに「譲与」した(明治一六年一月二六日.このときYは一六歳二ケ月)。なお、Yは、戸長宛に「御請」と題する書面を署名捺印の上差し入れた上で、係争地を譲り受けている。XがYに対して引渡等の履行を請求したのが本件。原審は、売買証書に戸長の奥書があるが公証といえないこと、またYが戸長へ提出した「御請」と題する書面はYの認めるものではないし、仮に認知したものであるとしても「個ハ未丁年者Yノ契約ニシテ其未丁年者ノ為メニ頗ル不利益ナル契約ナレバ効力ナキモノナリ」として、Xの請求を棄却した。Y上告。大審院は、
「父母ガ他人ト結成シタル財産ニ就テノ契約ヲ其財産相続者タル子弟ガ継承スベキハ当サニ法理ノ然ラシムル処・・・未曽テ民事契約上未丁年者ノ権義ヲ制限スルノ法律在ルコトナキニ拘ラズ、一概ニ」
原審がYの「御請」書の効力を排斥したのは不法の裁判であるとし、破棄移送としている(7)。「上告受理主趣書」が明言しているように、本判決はYの判断力に基づく判決を指示したものと考えてよい。
 二 このような判断の混在状況にあって、問題のとらえ方に理論的根拠を与えた画期となる判決は、〔22・06・28〕大判明治二二年六月二八日裁判粋誌四巻四〇八頁(明治二二年第三三号 貸金催促ノ件)であると思われる。
 この事件で、原審(宇都宮始審裁判所)が「本邦未ダ幼者ノ能力ニ付規定スル所ナケレバ単ニ未丁年者ナルノ一事ヲ以テ其契約ハ無効ナリト論定スルコトヲ得ズ。而シテ控訴人ハ甲二号日付当時ハ已ニ満十六歳六月ナレバ十分自己ノ利害ヲ辨識シ得ルモノト認ムルヲ以テ、甲二号ハ固ヨリ有効ナリトス」(四一三頁)としたのを受けて、大審院は、
「上告第三論旨ハ之レヲ要スルニ未丁年者ノ能力ニ付テハ成文律ナキヲ以テ明治八年第百三号布告第三条ノ法文ニ依リ断定スベキナルニ原院ガ之レニ依ラズ未丁年者ノ取結シ契約ヲ有効ト判定シタルハ不法ト云フニ在レドモ、未丁年者ガ取結シ契約ハ一般ニ無効トナルベキ習慣ナキナリ。盖シ原院ガ本邦未ダ幼者ノ能力ニ付規定スル所ナケレバ単ニ未丁年者ナルノ一事ヲ以テ該契約ハ無効ナリト論定スルコトヲ得ズト判定セシハ即チ右布告第三条ニ依リ條理ヲ推考シテ裁判セシモノトス」
とし、原審の判断を維持した(上告不受理?)。
 この判決は、第一に、未成年者の能力に関する成文法が存在せず、しかも未成年者の締結した契約を一般的に無効とする「習慣」も存在しない以上、未成年者であることのみをもってその契約を無効とすることはできないとする。大審院は、明治八年の太政官布告第一〇三号「裁判事務心得」三条「民事ノ裁判ニ成文ノ法律ナキモノハ習慣ニ依リ習慣ナキモノハ條理ヲ推考シテ裁判スベシ」を援用してこの構成を根拠づけている。つまり、未成年者の法律行為の効力に関する成文法及び習慣が存在しない以上条理に依拠するとしているのであるが、未成年者の法律行為についての条理は未成年者であることのみをもって無効とするものではないとする。ここでは、行為者の弁識力によって契約の効力を判断するのが条理にかなっているとされている。そして、第二に、「未丁年者ノ辨識力」・「弁識力ノ程度」は契約の時点につき判断すべきものであり、またその判定は裁判官の判断事項であるとする。
 後者について、この判決の後に下された〔23・07・05〕大判明治二三年七月五日裁判粋誌五巻一八九頁(明治二三年第一五五号 貸金請求ノ件)---借入当時一七歳八ケ月の被告に対する返還請求を認容した原審判決を肯定した判決---は、「未丁年者ノ為シタル契約ノ効力ノ有無ニ関シテハ曽テ法律ノ規定ナキヲ以テ、其年齢及ビ行状等ニヨリ能力程度ヲ考察シ契約ノ有効無効ヲ判定スルハ事実裁判所ニ一任スルノ例規ナリトス」(一九二頁)と、このような立場が「例規」=裁判慣例となったと断言する。
 このようにして、未成年者の法律行為の効力が法律行為時点での「未丁年者ノ弁識力、弁識力ノ程度」(大判明治二二年六月二八日)・「其年齢及ビ行状等ニヨリ能力程度」(大判明治二三年七月五日)によって判断されることになった。〔26・04・15〕大判明治二六年四月一五日大審院判決録民刑合本明治二六年自三月至四月九八頁=裁判粋誌第八巻上一一二頁(明治二六年第六〇号 弁償契約履行ノ件)は、後見人を付していない満一九歳の戸主が締結した債務引受契約について、「被告ハ、該証成立ノ当時未丁年者ナルモ既ニ満十九年以上ニ達シ別ニ後見人ヲ置カズシテ一家ノ戸主タリシ以上ハ、実際同家ノ権義ニ関スル事件ヲ処理スル智能アルモノ」と認定し、契約の履行義務を認めた原審の判断を正当とした。〔27・03・06〕大判明治二七年三月六日裁判粋誌九巻上六六頁も、「未成年者ト雖モ常人ニ優ル智識ヲ具有スル上ハ有効ニ無償義務ヲ負担スルノ合意ヲ為スコトヲ得」としている(8)。〔27・09・19〕大判明治二七年九月一九日大審院判決録民刑合本明治二七年自七月至十月(大審院民事判決録)三八九頁=裁判粋誌九巻下三五頁(明治二七年第一一六号 地所取戻ノ件)も同旨である。この事件では、一四歳九ケ月ないし一五歳一ケ月で後見人のいない未成年者が借金し、その後に債務の弁済のために本件地所の買い取りを貸主に依頼し、売買契約を締結した(一五歳一〇ケ月)。原審は、「被控訴人(売主)ハ明治元年生ニシテ普通十七歳ト唱フル少壮者」(三九二頁)であり、当時後見人を付しておらず「相当ノ智力アッテ本訴ノ売買ヲ取結ビタルモノ」と判断した。大審院も原審の判断を肯定。大審院は本件での未成年者を「後見人ノ下ニ在ル不能力者ト同一ニ看做ヲ得ズ」とする(なお、判決録が掲げる「要旨」参照)。なお、訴訟能力も当該未成年者の弁識力にかかるとするのが大審院の立場であった(9)。
 このような立場からして当然のことであるが、成年に達すれば後見は当然「解除」され、法律行為(10)・訴訟行為(11)を単独で行うことができる。成年者を後見に付すことができるのは「瘋癲白痴若クハ浪費者タル如キ正当ノ理由」がある場合に限られる(12)。未成年者の成年後の追認も肯定されている(13)。
 三 しかし、〔16・03・03〕明治一六年三月三日の大審院判決が示していたように、未成年者の法律行為を無効とするにせよ取消しうべき行為とするにせよ、その法律行為が消極的評価を受ける要件を未成年者の弁識力・その水準という単一の基準にとどめることはできなかったことも事実である。
 〔24・01・21〕大判明治二四年一月二一日明治二四年大審院民事判決録第壱巻一〇頁=裁判粋誌六巻一四頁(明治二三年第八五号 貸金催促ノ件)をみることにする。債務者Yが債権者の一人である未成年の前戸主Aとの間で「利息放棄ノ契約」を行うとともにAに債務を弁済したが、現戸主の後見人XがYに対して債務の弁済を請求した。一審はXの請求を認容したが、原審はAに対するYの弁済を有効とした。大審院は、(その当否は別として)未成年の前戸主Aが行った弁済受領行為(14)及び「利息放棄ノ契約」の取消の可否について、当該契約が「幼者ノ為メ有害無益」か「無害有益」かの問題に絡めて、次のように判示する(破棄移送)。
「原裁判所モ亦幼者ト為シタル契約ニシテ幼者ノ為メ有害無益ナルトキハ之ヲ取消シ得ベキ條理ヲ認メタルコトハ其判文ニ依テ明了ナリ。然則、当然財産上ノ権能ナシト看做ス可キ被後見中ノ幼者タル上告人先代Aニ対シ被上告人Yガ義務ノ弁済ヲ行ヒ且其事ニ関シ取結ビタル契約ハ果シテ無害有益ナリシヤ否ヤヲ明確ニシタル上ニアラザレバ其弁済ヲ以テ有効ナリト判断シ得ザル條理ニシテ、而シテ其挙証ノ責任ハ被上告人Yニ属スルモノトス。
 何トナレバ、幼者ニ対シテ為シタル財産権上ノ行為ヲ以テ有益ナリト主張スルハ普通ノ事態ニ反スルコトヲ主張スルモノナレバナリ。然ルニ原裁判所ハ已ニ前掲ノ條理ヲ認メナガラ・・・不当ニ法則ヲ適用シタル裁判・・・」(一六頁)
 本判決は、冒頭で、原審の構成に引きずられるかのように、未成年の法律行為は(原則として取消しえないのであるが)、それが「有害無益ナルトキハ」取消すことができるとしている。しかし、本判決が「財産権上ノ行為ヲ以テ(未成年者にとって)有益ナリト主張スルハ普通ノ事態ニ反スルコト」(一五頁)としていることは、未成年者の法律行為は通常未成年者にとって「有益デナイ」から、その行為が有効であることを主張する者はその行為の有益性(「無害有益」)につき主張証明責任を負担すると構成していることになろう。
 また、未成年者の法律行為の効力を後見人の存在またはその同意との関係で判断する判決もある。たとえば、後見人が存在することを一つの理由として、未成年者の法律行為の効力を否定した一連の判決がある(15)。〔22・02・27〕大判明治二二年二月二七日裁判粋誌四巻六七頁(明治二一年第三三六号 玄米売買約定履行ノ件)は「後見人ノ認メザル」被後見人の契約は「無効」とする。〔26・01・18〕大判明治二六年一月一八日大審院判決録明治二六年自一月至二月一二頁=法曹記事一六号六四頁(明治二五年第三六八号 銀行株券名面換請求ノ件)は、「苟モ後見人ノ付シアル以上ハ、被後見人タル未成年者(一八歳)ノ取結ビタル契約ニシテ其効力ヲ有スルコト能ハザルハ條理上当然ノ結果」(判決録一三頁)・「当然無効」(同一四頁)とする。〔29・02・08〕大判明治二九年二月八日民録二輯二巻二九頁(明治二八年第五〇三号 保証履行請求ノ件)もこの系譜の判決で、「未成年者ノ締結セル保証契約ハ、縦令其未成年者ガ商業ヲ為スル能力アリトスルモ、其商業上ノ必要ニ出タリトノ証明ナキニ於テハ、之ヲ民事上ノ行為ト為スベシ」とする。つまり、後見人が被後見人たる未成年者に営業を許しているからといって、保証契約のような民事上の行為に関する能力が当然あるとはいえないと判断されている。
 四 以上の判例について次のことを指摘することができる。未成年戸主に後見人が付されている場合には、未成年者の締結した契約は無効とされる([20・03・30]・[22・02・27]・[26・01・18]・[29・02・08] なお注15参照)。後見人が付されていない未成年戸主については、未成年者の生活情況も判断要素に入れ知力があるとし拘束力を認めるもの([26・04・15]・[27・09・19]なお注(9)も参照のこと)、取消を認めるもの([16・03・03])がある。戸主であるかどうかは不明瞭なケースでは、効力を否定するものもある([15・02・08(傍論)・[20・10・19])が、未成年者の知力を理由に契約の拘束力を認めるものが多い([18・11・30]・[22・06・28]・[23・07・05]・[27・03・06])。その他に瘋癲者の行為能力を否定したものがある([23・05・14])。なお、証明責任の問題についてはやや混乱しているとみるべきか([21・11・22]・[24・01・21])。
 検討すべき課題は多いが、判例の動向についてさしあたり次のことを指摘することは許されよう。第一に、判例は未成年者の行為の効力は行為の時点で弁識力を有していたか否かの判断の問題であるとし、当然無効という立場をはやくから放棄した。ここには、後見人が付されていない幼戸主(未成年戸主)の取引行為を承認せざるをえない実態が反映されている。しかし、後見に付された未成年戸主の法律行為は効力を有さないとする立場は貫かれているように思われる。
 第二に、取消または無効の主張についていえば、すでに契約が履行されておれば無効の主張がなされ、未履行の場合には取消しの主張がなされることが多いといえる。もっとも、返還請求の前提として取消を主張しているケースもあり、無効の主張であるか取消の主張であるかには、裁判所は必ずしもこだわっていないように思われる。旧民法財産編三〇四条が合意の成立要件を、三〇五条が有効要件を定めており、後者は無効となしうる合意(la convention annulable)で、これは「取消スコトヲ得ベキ合意」(財産編三二〇条一項)と翻訳されていた(銷しょう除じょ訴権 l'action en rescision については財産編五四四条以下参照)が、当時の大審院は取消と無効の差異を鮮明に認識するにはいたらなかったようである。この点は当時の訴訟法理論との関係でなお検討する必要がある。
 第三に、未成年者の法律行為が取消・無効となりうるための要件は弁識力・判断能力の不備または不十分さにもとめられるのであるが、相手方が当該法律行為が未成年者にとって「無害または有益」であることを主張証明した場合には取消・無効の主張が阻止されるとか、当該法律行為の性質との関連で検討しようとする萌芽もみられる。全体として、ボアソナード草案および旧民法の立場が色濃く反映されていることになる。このような明治前期判例法に対して明治民法の編纂はどのような意味を持つものであったのか、これが次の検討課題である。

(1) この点について、さしあたり石井良助・明治文化史2法制(一九五四年)五四六〜五五一頁〔原書房 一九八〇年の新装版による〕参照。明治九年の太政官布告第四一号については、堀内節編・明治前期身分法大全第四巻(日本比較法研究所 一九七九年)一三四頁以下に収録された資料参照。
(2) もちろん、明治民法の施行にいたる期間、断片的であれ個別的な民事立法がなされた。その主要なものは民法施行法から検出することができる。その場合にあっても、具体的な問題の解決にあたっては、当該法規だけではなく、それを補充・修正するために慣習法・慣習(習慣)・慣例・裁判慣例、そして条理論の形でヨーロッパ法(理論)が公然と動員される。以下の検討も、その一端を示すことになろう。
  以下取り扱う時期の判決では「言渡」の用語が用いられているが、「大判」と表記することにする。また、事案を理解しやすくするために、必要に応じて事件名を記載することにする。
(3) 〔18・12・25〕大判明治一八年一二月二五日明治前期大審院民事判決録11四一一頁も傍論。なお、傍論であるが、〔18・06・12〕大判明治一
八年六月一二日明治前期大審院民事判決録11一七七頁は、未成年者の法律行為の無効を主張しうる者は未成年者側であるとしている。
(4) 裁判粋誌二巻一一三頁は「明治一八年第五二〇号」と記載しているが、明治前期大審院民事判決録13−Iの「判決索引」で補正。この判決は、「我邦幼者ノ契約ヲ無効視セザルハ自然ノ後見人アリテ之ヲ為シタルト見做スヲ以テナリ」と、いわゆる自然後見人との関連で無効視しないとしているのであるから、未成年者の法律行為そのものは無効とする立場を前提としている。
  参考までに、浪費者に関する〔20・?・?〕大判明治二〇年判決月日不詳明治二十年大審院民事商事判決録一九五頁=明治前期大審院民事判決録13−I 二九頁(明治一九年第二三八号 貸金催促ノ件)をあげておこう。
  X1・X2(席貸業者および宿屋業者)がYに対して遊興代金、洋服帽子時計代および現金で貸与した金員の返還を請求した事件。原審は、Yが本件借用証書に自ら記名調印したとしても当時すでに「精神錯乱・癲狂」におちいっていたこと、また借用した金員を「事実浪費シタ」ことを理由に、Xには「其金額ヲ請求スルノ権利ナシ」とした。X1・X2の上告に対して、大審院は、原審が「Yガ当時既ニ精神錯乱シ居リタルモノト認定」したのは是認できるとし、洋服帽子時計代の返還請求についても、「右物品(洋服帽子時計)ガ被上告者Yノ為メ必要欠クベカラザルノ具タル以上ハ、尚ホ遊興ノ費金ト同ジク浪費ニ属スベキモノナルヲ以テ、其現品ヲ取戻スハ格別、代金ノ弁償ヲ受クベキ道理ナキモノトス」として、上告を不受理としている。
  原審が返還請求権を否定した根拠・法的構成は明確ではないが、無効↓返還請求権なしの構成と推測される。大審院は「浪費」と現存利益で判断しているものと思われる。
(5) 明治前期大審院民事判決録(9)の編集者は事件番号を明治一四年第七一五号としている。裁判粋誌首巻二三三頁は明治一六年第四五号としている。なお、明治前期大審院民事判決録(9)三〇頁に収録されている〔16・03・03〕大判明治一六年三月三日大審院民事判決録明治一六年自一月至三月二〇四頁は、同一紛争についての別訴訟で、YがAに対して売戻代金を請求した事件である。
(6) 明治前期においては親権者という用語は存在しない。親権は後見の中に包摂されており、しかも後見は未成年の戸主のみに付すものであったから、一般未成年者に対する親権的なものは戸主権のなかに包摂されていたとされる。
  一家に幼年戸主がいる場合、親族が協議して後見人を選任することになっていた。しかし、その戸主に父または祖父がいる場合、これらの者は当然に後見人となるべき者であったから、その就任には親族の協議を要せず、また戸長役場への届出も不要であった。これを一般に自然後見人という。この点については、手塚豊・明治民法史の研究(下)(慶応通信 一九九一年)五八頁、神谷力・家と村の法史研究(お茶の水書房 一九七六年)一〇四頁以下参照。なお、実父または実祖父が幼年戸主の後見人となるにつき親族の協議を不要とした明治二二年一〇月二三日の司法省回答(外岡茂十郎編・明治前期家族法資料第三巻第二冊---家族関係先例集---〔早稲田大学 一九七一年〕二〇八頁)に注意。
(7) 本判決の判決書及び上告受理主趣書が二二〜二三頁に復刻されており、これも参考にした。「上告受理主趣書」では、「抑未丁年者ノ契約ハ無効ナリトノ法律アルコトナシ。依テ未丁年者ノ契約等アルニ方テハ、他ニ知覚未備蒙モゥ癡チノ所為等アルヤ否ヲ比照シテ其契約ヲ無効ナリト論ズル場合ハ往々アリ。然レドモ本訴上告人Yノ如キハ、已ニ一家ヲナシ公私ノ権義ヲ行ヒ現ニ論地ノ地券書換願ヲモ自ラ願出タル程ノモノニシテ、知覚未備ノモノト看做ガタク・・・」(二三頁)としている。
  「御請」には、「同(明治一五)年一一月二六日売渡約定証若干(二千)円分 但X宛ノ分同上/右ニ関スル地所私へ譲請仕候上ハ右公証ノ分ハ私ニ於テ負担可仕、且右両証トモ本月一五日限リ私名義ヲ以テ右両人ヘ宛テタル証書ニ認換可仕云々/明治一六年一月二七日」と記載されている。
(8) なお、〔29・12・04〕大判明治二九年一二月四日裁判粋誌一一巻四七五頁も参照のこと。
(9) 〔24・12・08〕大判明治二四年一二月八日裁判粋誌六巻四二七頁(明治二四年第一一五号 貸金貸米並預米請求ノ件)は、「本邦未ダ後見人ニ関スル法律ノ制定アラズ。之レヲ習慣ニ徴スルニ、未ダ丁年ニ達セザル者ト雖モ、別ニ後見人ヲ置カズシテ事業ヲ営ムコトヲ禁ゼズ。若シ此ノ未丁年者ノ行為ニ付争訟アルニ於テハ、裁判所ハ其情況ニヨリ其能力ノ程度ヲ考察シテ責任ノ有無ヲ判決セザルベカラズ」(四三二頁)とする。〔25・09・20〕大判明治二五年九月二〇日大審院判決録明治二五年自九月至十月四五頁=裁判粋誌七巻五七六頁(明治二五年第一六五号 精算残金請求ノ件)も、「民法ハ未ダ施行ナラザルニ付、随テ民事訴訟法四三条モ亦実施スルヲ得ズ。現今ノ例規モ後見人ノアルモノハ格別一般未丁年者自カラ私権ヲ行使スルヲ禁ゼザルモノニ付、後見人ヲ解除セシモノノ選任セル代理人ハ訴訟上其資格ナキモノト云フヲ得ズ」(五七七頁)という。〔28・10・30〕大判明治二八年一〇月三〇日裁判粋誌一〇巻六〇四頁も、「後見人ナキ未成年者ニシテ普通智識アルモノト認ムベキモノハ其訴訟ヲ進行スルノ訴訟能力アリ」としている。
(10) 〔26・12・16〕大判明治二六年一二月一六日裁判粋誌八巻下一一九頁、〔27・09・20〕大判明治二七年九月二〇日裁判粋誌九巻下三七頁参照。
(11) 〔23・10・20〕大判明治二三年一〇月二〇日裁判粋誌六巻三五八頁(後見人がいたとしてもという)、〔24・10・20〕大判明治二四年一〇月二〇日裁判粋誌六巻三五八頁、〔28・05・14〕大判明治二八年五月一四日裁判粋誌一〇巻二八七頁参照。
(12) 〔27・10・30〕大判明治二七年一〇月三〇日裁判粋誌九巻下八四頁、〔28・06・25〕大判明治二八年六月二五日裁判粋誌一〇巻三八四頁(ただし傍論か?)参照。「浪費者ニ附シタル後見ノ効力如何ヲ判定シタ」大審院判決(明治二五年第四一四号)があるようだが、未見。なお、〔24・10・05〕大判明治二四年一〇月五日裁判粋誌六巻三二四頁(明治二三年第二一号 離婚送籍書調印請求ノ件)は、精神病者が癲狂病院を退院したときは、退院後も無能力であるとの立証のないかぎり能力ありと取り扱うのは正当としている。
(13) 〔26・02・21〕大判明治二六年二月二一日裁判粋誌八巻上四七頁。〔27・05・04〕大判明治二七年五月四日大審院判決録民刑合本明治二七年自五月至六月二一五頁=裁判粋誌九巻上一六八頁は、一三才五ケ月の者が講会契約を締結し、その後も講会の継続中常に講員としての義務を尽くしその事務に関与していたので「是レ能力発達ノ日之ヲ黙認シ又ハ追認シタルノ事実ヲ生ズ」、といわゆる法定追認を認める(もっとも、成年に達したことが要件とされているものではないようである)。なお〔30・11・10〕大判明治三〇年一一月一〇日裁判粋誌一二巻三三九頁も参照のこと。
(14) この当時、弁済受領者及び弁済の法的性格がどのように把握されていたかは独自の検討を要する課題である。
(15) なお、〔25・09・15〕大判明治二五年九月一五日大審院判決録明治二五年自九月至十月二一頁=裁判粋誌七巻五三八頁(明治二五年第九八号 財産管理中精算金及証書類請求ノ件)では、大審院は、後見人罷ひ黜ちゅっ〔ヒチュツ〕訴訟事件(別訴)において後見人のある未成年者A自らが原告の一人になっていたとする「事跡」がないにもかかわらず、Aを原告の一人だとして「未成年者タルAノ不利益ニ関スル訴訟費用」を負担させた原審の本件判決は違法な裁判、として一部破棄移送としている。判決録が掲げる要旨「後見人アル幼者ノ行為ヲ以テ独立ノ能力アル者ノ行為ト同視ス可カラザルハ法理ノ然ラシムル所ナリ。故ニ・・・幼者ノ承諾ノミニ據テ之ヲ処分(訴訟費用の支払=幼者の財産の処分)スルハ不当ナリ」は傍論であるが、このような思考が背景にあることは明白である。

        三 明治民法における行為無能力=行為能力の制限
 一 すでに指摘したように、明治民法は能力という用語を行為能力に限定して使用している。この行為能力について民法典の起草者がどのような見解をもっていたのかを改めて(1)検討する。民法第一編第二編第三編の公布(一八九六年=明治二九年四月二七日)の直後に出版された梅謙次郎・富井政章の著作を素材とする(2)。
 梅謙次郎・民法要義巻之一〔初版〕(一八九六年=明治二九年六月)は、「我邦ニ於テハ仏法ノ語例ニ倣ヒ行為能力ノミヲ能力ト称スルコト慣例ト為レルガ如シ。本節(第一編第二節能力のこと---引用者)ニ能力ト曰フハ即此意義ヲ以テシタルナリ」(一〇頁)と、ドイツ法では権利能力・行為能力の二つにつき「能力」の用語を使用しているが、日本民法ではフランス法の用語法を踏襲した「我邦慣例」に従い行為能力のみを「能力」としたと明言し---ちなみに、権利能力についても、明治三四年の民法講義では「権利能力」のタイトルをつけているが、民法要義では「私権ノ享有」のタイトルを一貫させている(目次一頁、本文七頁参照)---、続けて、
「行為能力モ権利能力ニ均シク各人皆之ヲ具有スルヲ原則トシ、事実上権利ヲ行使スルコトヲ得ザル者及ビ法律ヲ以テ特ニ無能力者トシタル者ノミ之ヲ具有セザルナリ」(一〇頁)。
「独逸学者ハ行為能力ヲ具有セザル者ヲ分チテ無能力者、限定能力者(gescha¨ftsunfa¨hig ; in der Gescha¨ftsfa¨higkeit beschra¨nkt)ノ二種ト為スト雖モ、其所謂無能力者ハ我民法ニ於テハ意思無能力者ノミニシテ、是レ法律行為ノ要素タル意思ヲ欠クヲ以テ法律行為成立セザルモノトシ敢テ之ヲ無能力者ト曰ハズ」(一〇〜一一頁)
としている(3)。
 富井政章・民法総論第二巻(八尾書店 一八九七年=明治三〇年八月)一四一頁以下も同様の見解である(4)。彼は言う。
「意思能力ハ行為能力ノ一要素ナリ。意思ナキニ於テハ法律行為ノ成立スル筈ナキヲ以テ、意思能力ヲ具ヘザル者ハ全然無能力者ナリ」(一四一頁)
「所謂能力トハ行為能力ノ意ニシテ自ラ己レノ権利ヲ行使スルコト、即チ法律行為ヲ為スヲ得ルコトヲ謂フ。権利能力ニ同ジク行為能力モ亦各人之ヲ有スルヲ原則トシ、其之ヲ有セザル者ハ特ニ之ヲ指定ス。新民法中無能力者ト称スル者即チ是ナリ」(一五一頁)
「意思能力ハ法律行為ノ成立要件ニシテ、辯別ナキ幼年者又ハ禁治産者ニ非ザルモ、実際心神ヲ喪失セル者ノ為シタル行為ハ意思ヲ缺ク故ヲ以テ当然無効ナルコト論ヲ俟タズ。是其行為ノ当時ニ於ケル各当事者ノ精神ノ状況如何ニ因リ判定スベキ事実問題ニシテ、未成年者又ハ禁治産者タルニ因ラザルモノトス。無能力者ニ関スル規定ハ却テ意思能力ノ存在セル場合ニ於テ其適用ヲ有スルモノト解スベシ。是ニ由リテ見レバ、無能力者トハ、独逸法ニ所謂無能力者(意思能力ナキ者)ト同一ニ非ズシテ、限定能力者ヲ謂フモノトス。唯便宜上仏国法ノ例ニ倣ヒ従来慣用スル所ノ語ヲ踏襲シタルノミ」(一五二〜一五三頁)
 民法編纂にあたって補助委員の任にあった仁井田益太郎の見解も同旨である(5)。
 ここには、いくつかの共通の特徴がある。まず第一に、「行為能力モ権利能力ニ均シク各人皆之ヲ具有スルヲ原則トシ」(梅)・「権利能力ニ同ジク行為能力モ亦各人之ヲ有スルヲ原則トシ」(富井)と、人は総て等しく行為能力を有するのが原則であり、その例外としてこの行為能力を制限するのが(行為)無能力制度であると把握されている。ここには、いわば行為能力平等の原則、その例外的制限としての行為無能力制度、の構造が明確に把握されている。
 第二に、起草者は民法典上の「能力」を行為能力の意味に限定して用い、しかも「無能力」をドイツ民法の「制限的行為能力 die beschra¨nkte Gescha¨ftsfa¨higkeit」に対応するものとしている(6)。明治民法はドイツ民法典のいう「行為無能力 die Gescha¨ftsunfa¨higkeit」を規定しなかった。
 第三に、表現に微妙な差はあるものの、梅にしろ富井にしろ、意思ないし意思能力を「法律行為ノ要素」と位置づけ、これを欠く場合には法律行為は「不成立」としている。
 もっとも富井の場合には、さらに「当然無効」を付け加えている。事実、明治二六年九月二一日主査委員に配付された甲第三号議案の一四条(現行九条)が旧民法人事編第二三〇条第三項「禁治産ノ裁判言渡前ニ為シタル禁治産者ノ行為ニ対シテモ其行為ノ当時ニ於テ喪心ノ明確ナルトキハ銷除訴権ヲ行フコトヲ得」を削除する提案を行うのであるが、その「理由」は「未ダ禁治産ノ宣言アラザル間ハ普通ノ原則ニ従ヒ意思ノ有無ニ依リテ行為ノ有効、無効ヲ分ツヲ以テ穏当ナリトス」としている(7)。これを受ける形で、未定稿本民法修正案理由書自第一編至第三編・完は「喪心者ニシテ一切本心ニ復スルコトナシトセバ、其行為ハ禁治産ナキモ皆当然無効」(六頁)と表現している。富井の叙述は法典調査会におけるこの立場を踏襲したものといえようか。
 いずれにせよ、意思ないし意思能力の欠如と行為無能力(=制限的行為能力)とは次元の異なるものと把され、かつ競合しうることは当然とされているのである。
 第四に、行為能力についてのこのような構成---「制限的行為能力」・「取消シ得ベキ行為」---にもかかわらず、明治民法が「能力」・「無能力」の用語を採用したのは「唯便宜上仏国法ノ例ニ倣ヒ従来慣用スル所ノ語ヲ踏襲シタ」(富井)にすぎないとされている。ここには法典調査会における立法方針---法典調査規程一五条「法典ノ文章ハ簡易ヲ主トシ用語ハ成ル可ク従来普通ニ行ハルルモノヲ採ル可シ(8)」---が貫かれている。
 二 問題は「意思能力」であろう。たしかに、梅も富井も、「意思能力」・「意思無能力者」・「意思能力ナキ者」の用語を用い、しかもこれがドイツ民法の「無能力 die Gescha¨ftsunfa¨higkeit」・「無能力者 die Gescha¨ftsunfa¨hige」に対応するかのごとき表現を行っている。だが明治民法は「意思無能力者」概念を採用していない。起草者はどのように考えていたのであうか。
 ここでは、梅が「(意思無能力者の場合)法律行為ノ要素タル意思ヲ欠クヲ以テ法律行為成立セザルモノ」と表現し、富井が「意思ハ法律行為ノ要素ナルヲ以テ意思能力ヲ有セザル者ノ行為ハ全ク行為ト称スベキニ非ズ。故ニ、其未成年者又ハ禁治産者ニ出ヅルト否トヲ問ハズ、当然無効ナルコト論ヲ俟タズ。是其行為ノ当時ニ於ケル各当事者ノ心状如何ニ依リテ決定スベキ事実問題」と把握していることが注意される必要がある。つまり、意思能力の問題は、むしろ法律行為の要素としての意思の存否の問題として論ぜられているのであり、またその存否が当該法律行為の状況に応じて判断されるべき問題とされているのである。ここには、個別具体的な法律行為時点における意思の欠如とか意思無能力状態を語ることはできたとしても、意思無能力者一般なるものは存在しないことになる。梅・富井にしてみれば、このような構想は偶然ではない。彼らの初期の著作をみることにする。
 富井政章の契約法・全(時習社 一八八八年=明治二一年二月)四五頁以下は「意思能力」という用語をもちいていない。富井によれば、「契約ノ要素」は、「之ヲ缺クニ於テハ、契約ノ全ク成立セザルモノ」と「之ヲ缺クニ於テハ、契約ハ成立スレドモ将来ニ於テ其効力ヲ保ツヲ必セズ何時取消サルルヤ知ルベカラザルモノ」からなるとされる。つまり成立要件と効力要件である。契約(一般)の成立要件(「契約ノ成立ニ缺クベカラザル要素」)は同意・目的・約因の三つであり、効力要件(「契約ヲ取消シ得ベキモノト為スノ要件(引用者一部修正)」)は「同意ニ瑕疵ナキコト」・「能力」である。ここでの「能力」は「(制限的)行為能力」に他ならないから、のちに富井が「法律行為ノ成立要件」として語る「意思」は、ここでの「同意・目的・約因」中の「同意」の展開として位置づけられる問題ということになろう。
 梅謙次郎・日本売買法全(八尾書店 一八九一年=明治二四年一〇月)でも、「能力」は契約の成立要件(承諾・目的物・原因)ではない。「凡ソ能力ノ事ニ就テ原則トスベキハ、法律ニ於テ故ラニ無能力トナサザルモノハ皆ナ能力ヲ有スルモノトスルコト是ナリ」(一一三頁)、「能力ハ・・・契約ノ有効ニ必要ナルモノニシテ、之レナシト雖ドモ契約成立セザルニアラズ。故ニ能力ナキモノ売買ヲ為スモ、其人能力ヲ得タル後之レヲ認諾スルトキハ売買確立シテ復タ之ガ無効ヲ訴フルコト能ハズ」(四六〜四七頁)。「能力」は効力要件とされている。この当時の梅にとっても能力は行為能力をさしているのであって、意思の契機は、契約の成立要件としての「承諾」の問題として把握されている。
 旧民法において、無能力は合意の効力要件の問題であり(財産編三〇四条二号)、無能力者が締結した契約は "la convention annulable“(財産編三二〇条のテキストでは「取消スコトヲ得ベキ合意」であった(9)。無能力は推定されずそれを主張する無能力者(側)が証明責任を負担する(三一八条・三一九条)。すでにみたように、このような構成は明治前期の判例に投影されている。これに対して、「当事者又ハ代人ノ承諾 les convention」は契約の成立要件 (des conditions d'existens de convention) であり、「承諾」(le consentmen. 富井のいう「同意」、梅のいう「承諾」)は「意思ノ合致」(l'accord des volonte´s) と位置づけられていた(財産編三〇六条一項参照)。先に一瞥した梅・富井の見解は、この成立要件に対応したものであることは明らかなことである。
 三 明治民法は旧民法の修正として成立する。と同時に、起草者が当時並行して進められていたドイツ民法典の編纂作業にも熱いまなざしを送っていたことも事実である。梅・富井が契約の成立要件の問題と評価したドイツ民法典における行為無能力をみなければならない。
 行為無能力を定めるドイツ民法一〇四条(行為能力の制限は一〇六条、一一四条)に対応する規定は、第一草案六四条である。それは次の内容であった。
 Eine Person, welche im Kinderalter steht, ist gescha¨ftsunfa¨hig.
 Dasselbe gilt von einer Person, welche des Vernunftgebrauches, wenn auch nur voru¨bergehend, beraubt ist, fu¨r die Dauer dieses Zustandes, ingleichen von einer Person, welche wegen Geisteskrankenheit entmu¨ndigt ist, solange die Entmu¨ndigung besteht.
 Willenserkla¨rungen gescha¨ftsunfa¨higer Personen sind nichtig.
(Mugdan, Die gesamten Materialien zum BGB fu¨r das deutsche Reich., 1899. S. LXXIV.) 
 第一草案の翻訳である今村研介訳・独逸民法草案第一巻(司法省 一八八八年=明治二一年七月)は、「第六十四条 幼年ノ中ニ在ル人ハ行為無能力者タリ/只一時タリトモ弁識力ヲ失ヒタル人ハ此状況ノ継続間又精神病ノ為メ成年ヲ剥奪セラレタル人ハ其成年剥奪ノ存続中前項ト同一ナリトス/行為無能力ナル人ノ意思ノ陳述ハ無効タリ」(一八頁)としている。また、理由書の翻訳である沢田要一訳・独逸民法草案理由書第一編(司法省 一八八八年=明治二一年一一月)は「凡ソ未ダ満七歳ト為ラザル幼年ノ者ハ行為無能力ナリトス(第二十五条)。此者ハ通例必要ノ意思及ビ必要認識力ヲ有セズ。又此レト同一ノ理由ニ因リ、理性ヲ行用シ能ハザル者ハ、其行用シ能ハザル情況ノ一時ナルト(過度ノ酩酊、狂熱,夜間徘徊狂、酔眠等)其精神力ノ欠無久シキトニ拘ハラズ、行為無能力ナリ」(二一五頁)と訳している。
 しかし、明治民法の編纂の段階では第二草案も参考にされており、その七八条は次の内容であった。
 Gescha¨ftsunfa¨hig ist :
1. wer das 7. Lebensjahr nicht vollendet hat ;
2. wer sich in einem Zustande krankhafter Sto¨rung der Geisteskrankenheit be findet, durch den seine freie
Willensbestimmung ausgeschlossen wird ;
3. wer wegen Geisteskrankenheit entmu¨ndigt ist.
(a. a. O. S. LXXIV.) 
 一〇四条二号は、最終的には、 "wer sich in einem die freie Willensbestimmung ausschlie■enden Zustande krankhafter Sto¨rung der Geistesta¨tigkeit befindet, sofern nicht der Zustand seiner Natur nach ein voru¨bergehender ist“ の内容となった。つまり、「精神活動の病的障害により自由な意思決定ができない状態にある者は、その状態が性質上一時的なものでない限り、これを無能力者とする」とされた。
 ドイツ民法における行為無能力 die Gescha¨ftsunfa¨higkeit は、民法あるいは国家の行為 (die Entmu¨ndigung) によって行為能力が剥奪される者を規定し、その者が行う意思表示を法律上当然に無効とするものなのであり(ドイツ民法一〇五条一項)、その一〇四条一号・三号についていうなら自己決定をなしうる判断力が実際に wirklich 欠如しているか否かには関係しないのである(10)。自然的行為無能力(一〇四条二号)では、上記の要件が採用された(当時のドイツ刑法五一条に依拠したようである)。たしかに、一〇四条二号に従って行為無能力の存在を主張する者は、その要件事実につき証明責任を負担する。なぜなら行為能力が通例とみられるべきだからである。また、精神病が行為無能力を根拠づけるといった経験則は存在しないし、いったん生じた精神病が継続しているとの推定もなりたたない。しかしながら、法律行為時点において一〇四条二号の意味での行為無能力を証明することで足りるのであって、なされた行為との因果関係の証明は不要であるとされているのである。これに対して、明治民法にはこの意味での特別な規定は存在しないのであるから、問題は個別具体的な法律行為の時点において意思・意思能力が実際に具備されていたかどうかが問われなければならないのであり、明治民法の起草者の見解に従うなら、契約の不成立を主張する者が意思ないし意思能力の不存在について証明責任を負担すべきものなのである。
 ドイツ民法一〇四条二号(一〇五条一項により意思表示は無効 nichtig)・一〇五条二項(11)、さらにはこれらの規定が契約の効力要件の問題であって成立要件の問題ではないことに、梅・富井が着目している気配はない。未定稿本民法修正案理由書は「一般ノ契約ニ必要ナル要件ハ契約ノ目的物及ビ当事者双方ノ意思ノ一致ニ外ナラズト謂ハザル可カラズ。然レドモ此事タルヤ法文ヲ以テ之ヲ規定スルノ必要ナカル可シ。故ニ財産編第三百四条乃至第三百六条ハ之ヲ削除シタリ」(四四〇頁)、と説明している。法典調査会における富井の説明(12)を反映したものであろう。梅・富井は意思ないし意思無能力の問題を契約の成立要件とする立場を貫徹する。
 四 こうみてくると、たしかに梅・富井は「意思無能力者」という表現をしばしば用いているのであるが、理論上は意思ないし意思能力の欠如の問題なのであって、この表現は比喩にすぎないと考えるべきである(13)。明治民法の起草者は、未成年者にも判断能力が充分な者がおり、その場合にはその行為を有効とする立場に好意を示していたふしがみられる。彼らは、未成年者の行為について、その年齢・取引行為の種類との関係でみれば或る範囲では完全に有効な法律行為をなしうることに確信を持っていた。彼らは、ドイツ民法第二草案七八条一号=現行法一〇四条一号のような年齢のみを基準とする「行為無能力者」を採用する立場を採用しなかった。未成年者・禁治産者・準禁治産者の法律行為を「取消し得べき行為」とする行為能力の制限で十分対応できると考えていた。たしかに、行為能力が制限された者の定型化の限りでは、弁識力の有無・程度によって解決するとした明治前期法曹法の領域は縮減された。しかし、起草者によれば、意思ないし意思能力による法律行為の不成立の問題領域はのこされている。明治民法は、先行する明治前期法曹法との連続性とともに断絶性を有する立法だということになる。
 起草者にとっては、総ての人に平等な権利能力・行為能力が認められることが原則である。意思・意思能力の欠如は意思表示・契約の不成立の問題として個別的に取り扱われる。民法は、制限的行為能力者の法律行為を取消し得べき法律行為とする特別の規定を置くにどどめた。明治民法成立の後には「意思無能力者」といった用語すら使用する彼らではあるが、理論構成の上では、意思無能力者という定型的な人間像は否定されているのである。たしかに、行為能力の制限(明治民法典の用語では「無能力」)での妻の無能力に関する規定(一四条乃至一八条)、一一条の原始規定(「聾者・唖者・盲者」を準禁治産者となしうることを規定していたのであるが、障害の発生時期を不問に付し、かつ一つの障害が準禁治産宣告事由たりうるとしていた)をあげるまでもなく、民法の起草者は当時の統治集団にありがちな愚民観から脱却することはできてはいない。これは事実である。しかしながら、妻の無能力に関する彼らの説明をあげるでもなく、彼らが置かれていた時代的制約と思想状況とを顧慮するならば、当時としては抜きんでた醒めた思考を展開していることもまた事実なのである。意思無能力者を法律上規定しその意思表示を無効とする立場をとらず、意思ないし意思能力の存否の問題=法律行為の成立の問題とした起草者の法的思考にはなお研究すべき課題があるように思われる。そこでは、心裡留保・虚偽表示・錯誤を「意思ノ欠缺」(一〇一条一項)としたこととの関連も検討される必要があろう。

(1) 須永醇「権利能力、意思能力、行為能力」星野英一他編・民法講座一民法総則(有斐閣 一九八四年)九七頁以下、星野英一「日本民法典に与えたフランス法の影響---総論、総則(人ー物)---」民法論集第一巻(有斐閣一九七〇年)六九頁以下、特に一〇〇〜一一一頁(初出は日仏法学三号〔一九六五年〕参照。
  なお、以下のものが関連するがここでは立ち入らない。給喧@例(Law of application of the laws in general. 明治二三年法律第九七号 法令全書第二三巻ノ二五五頁)三条「人ノ身分及ビ能力ハ其本国法ニ従フ 親属ノ関係及ビ其関係ヨリ生ズル権利義務ニ付テモ亦同ジ The civil status and legal capacity of persons are governed by the law of the country to which they belong. The same appliesto the relation of consanguinity and the rights and duties arising from it.」(英文は、川上太郎・日本国における国際私法の生成発展〔有斐閣 一九六七年〕三四頁以下に復刻されているカークード Kirkwood, William Montague Hammett による翻訳)。現行法例四条一項「人ノ能力ハ其本国法ニ依リテ之ヲ定ム」、同二項の「外国人ガ日本法ニ依レバ無能力者タルベキトキ」との対比が必要。月。罪法(明治一三年七月一七日太政官布告第三七号 明治一五年一月一日施行)及び明治一四年一二月二八日の太政官布告第七三号〔輪廓附 司法卿連署〕(法令全書第一四巻一三二頁)に示される治罪法上の無能力者(未丁年者、妻タルモノ、白痴瘋癲人、治産ノ禁ヲ受ケタル者)。獄セ治一三年七月一七日太政官布告第三六号刑法(法令全書第一三巻ノ一一〇一頁)三五条。明治一五年八月一四日太政官達第三号・第四号(? 要調査)。麹c室典範一三条「天皇及皇太子皇太孫ハ満十八年ヲ以テ成年トス」・一四条「前条ノ外ノ皇族ハ満二十年ヲ以テ成年トス」。
(2) 関連するものに、梅「契約概論<講義>」日本之法律(博文館 東京)二巻一号〜五号(明治二三年)があるが検討の機会を得ていない。
(3) 引用文中の「行為能力モ権利能力ニ均シク各人皆之ヲ具有スルヲ原則トシ、事実上権利ヲ行使スルコトヲ得ザル者及ビ法律ヲ以テ特ニ無能力者トシタル者ノミ之ヲ具有セザルナリ」(一〇頁)のなかの「事実上権利ヲ行使スルコトヲ得ザル者」は気になる表現であるが、立ち入ることはできない。意思無能力について、一九一一年=明治四四年の訂正増補版一三頁は「意思無能力者 (willensunfa¨hig)」と表現している。
(4) 富井政章・民法原論第一巻総論(大正一一年版)の関連箇所は次の内容。
「法律行為能力ハ権利能力ト同ジク何人ト雖モ完全ニ之ヲ有スルヲ原則トシ、自ラ一切ノ又ハ或種ノ法律行為ヲ得ザル者ハ特ニ之ヲ指定セリ。所謂無能力者ト称スル者即チ是ナリ。・・・」(一四三頁)
「無能力者ハ必ズシモ意思ヲ有セザルガ為メニ無能力ナルニ非ズ。換言セバ、民法ニ所謂能力ハ之ヲ意思能力ト混同スベカラズ。蓋シ、意思ハ法律行為ノ要素ナルヲ以テ意思能力ヲ有セザル者ノ行為ハ全ク行為ト称スベキニ非ズ。故ニ其未成年者又ハ禁治産者ニ出ヅルト否トハ問ハズ、当然無効ナルコト論ヲ俟タズ。是其行為ノ当時ニ於ケル各当事者ノ心状如何ニ依リテ決定スベキ事実問題ニシテ、未成年者又ハ禁治産者ナルコトニ関係ナキモノトス。故ニ、無能力者ニ関スル規定ハ、意思能力ノ有無ニ関セズ其適用ヲ生ズベキモノト解スベシ。要スルニ、我民法上ノ無能力者ハ独逸民法ニ所謂無能力者(意思能力ナキ者)ト同一ニ非ズシテ、該法典ニ所謂限定能力者ヲ謂フモノトス。是亦仏国民法ノ例ニ倣ヒ従来慣用セル語ヲ踏襲シタルモノニ外ナラザルナリ」(一四三〜一四四頁)
  もっとも、富井は、「意思能力ハ行為能力ノ一要素ナリ。意思ナキニ於テハ法律行為ノ存立スル筈ナキヲ以テ、意思能力ヲ具ヘザル者ハ全然無能力者ナリ」(民法総論第二巻一四一頁)、「意思能力ハ法律行為ノ成立ニ缺クベカラザルコト論ヲ俟タズト雖モ、是意思表示ノ一要件ト見レバ可ナリ」(訂正増補民法原論第一巻総論〔大正一一年〕四〇〇頁)としている。
(5) 仁井田益太郎「未ダ法律行為ノ何物タルコトヲ弁ゼザルノ未成年者ノ為シタル行為モ単ニ之ヲ取消スコトヲ得ルニ止マルヤ 将タ意思ノ存セザルモノトシテ全ク無効ナルヤ」(積極)法典質疑録一号(明治二九年二月二七日発行)七頁。
「修正案ニ於テ未成年者ガ其法律行為ヲ取消スコトヲ得ベキ旨ヲ規定セル場合ハ必ズ其未成年者ガ意思ノ能力ヲ有セルコトヲ予想シタルモノト謂フ可シ。今若シ未成年者ニシテ意思能力ヲ有セザル時ハ其ノ為シタル法律行為ハ全ク成立スルコトナキヲ以テ其法律行為ノ取消ヲナスヲ得ルヤ否ヤハ敢テ之ヲ問フノ必要ナキナリ。之ヲ要スルニ意思能力ヲ有セザル未成年者ノ法律行為ハ全ク其効ナキヲ以テ之ヲ法文ニ明言スルノ必要ヲ見ズ」(一〇頁)、とする。
(6) 富井政章・民法総則(自第一章至第三章)〔法政大学明治三七年度第一学年講義録〕(国立国会図書館所蔵)は、「以下説明スベキ無能力者ナル者ハ必ズシモ意思能力ヲ缺ク者ニアラズ。・・・故ニ寧ロ限定能力者ト謂フベキナリ」(四九頁)と断言する。
(7) 日本近代立法資料叢書一三巻第二綴『民法第一議案』一九頁。明治二六年一〇月六日の第一一回民法主査会議の議事録にも再録されている(同前第一綴二七七頁参照)。富井は、「未成年者ニシテ其年齢最モ幼少ナル為メ意思能力ヲ缺ク場合ニハ法律行為ノ根本的要素ヲ缺クニ因リ其行為ノ成立セザルコト論ヲ俟タズ。此点ハ未成年者タルト成年者タルトノ間ニ寸毫ノ差異ナシ」(富井政章・民法総論第二巻一五九〜一六〇頁)という。。
(8) 民法成立過程研究会・明治民法の成立と穂積文書(民法成立過程研究会 一九五六年)一一二頁。
(9) 旧民法における無効・取消については、熊谷芝青「日本民法における『無効及ヒ取消』---効力否認論序説---」早稲田法学会誌四二巻(一九九二年)一八三頁以下が詳しい。最近の鎌田薫「いわゆる『相対的無効』---フランス法を中心に---(上)・(下)」法律時報六七巻四号、六号(一九九五年)、とくに(上)八〇〜八一頁はコンパクトだが鋭い分析を行っている。なお、ボアソナード氏起稿・再閲修正民法草案注釈第二編五五頁以下を参照のこと(とくに六八頁以下〔四九〕の項目)。
(10) Vgl. Werner Flume, Allgemeiner Teil des Bu¨rgerlichen Rechts, Zweiter Teil. Das Rechtsgescha¨ft., 4 Aufl. 1992. S. 182ff. もっとも、証明責任とからんで、とくにドイツ民法一〇四条一項・三項と二項との構造把握とからんで、論争の対象であった。この点について、Gottfried Baumga¨rtel, Handbuch der Beweislast im Privatrecht., Bd. 1., 1981. S. 8ff., Leo Rosenberg, Die Beweislast auf Grundlage des bu¨rgerlichen Gesetzbuch und der Zivilprozessordnung., 4. Auflage, 1956. S. 337ff.(倉田卓次訳・証明責任論(判例タイムズ社 一九八七年)四一三頁以下)を参照のこと。
(11) § 105 Abs.2. Nichtig ist auch eine Willenserkla¨rung, die im Zustande der Bewu■tlosigkeit oder voru¨bergehender Sto¨rung der Geistesta¨tigkeit abgegeben wird.「意識喪失又は精神活動の一時的障害の状態でなされた意思表示はこれを無効とする」
(12) 法典調査会・民法議事速記録三 日本近代立法資料叢書8 六四五頁以下を参照されたい。
(13) もっとも、本文で述べたことであるが、未定稿本民法修正案理由書自第一編至第三編・完が「喪心者ニシテ一切本心ニ復スルコトナシトセバ、其行為ハ禁治産ナキモ皆当然無効」(六頁)と表現しているように、彼らが意思無能力者を想定していなかったというわけではない。この点については前掲注一須永論文九九頁参照。しかし意思能力という概念は使用されていないのであって、富井・梅が意思無能力者という用語を民法財産編の公布ののちに使用しはじめるのはなぜか。疑問が残る。大方の教えを乞わなければならない問題である。

        四 まとめと課題の再設定
 一 明治民法の「能力」規定の意義について、以上の検討に基づいてさしあたり指摘しうることは次のようになろう。
 本稿は、起草者がすべての人に平等な権利能力・行為能力が認められることを当然の原則と把握し、日本民法典では法律によるその例外的制限としての「行為能力の制限」を規定したことを確認した。そして、民法典はこの行為能力の制限の意味で「無能力」の用語を使用し、またこのような構成および効果論(制限的行為能力者の行為を「取消シ得ベキ法律行為」とする構成)が明治二〇年代の判例法ないし法曹法に裏打ちされたものであることも明らかにした(1)。起草者にとっては、先行する判例法が無効または取消の対象としたケースは、一部は行為能力の制限によって、一部は意思または意思能力の不存在(=契約不成立)の問題として対応することができるものであった。
 われわれにとって印象的なことに、起草者が、権利能力平等の原則は当然としても、意思・意思能力の問題を先見的に存在する意思無能力者といった視点から把握する立場を基本的には斥け、法律行為時における意思ないし意思能力の欠如の問題として、そして法律行為の成立要件の問題ととらえていた。
 二 明治民法は行為能力の制限=制限的行為能力制度のみを規定したにとどまる。しかしながら、その後の学説は、行為無能力・行為無能力者の表現を用い、しかも制限的行為能力も意思能力の不十分な人の定型的類型と把握する傾向にある。立法の時点とはことなり、日本の学説は、権利能力者・意思無能力者・行為無能力者・責任無能力者・遺言無能力者など、その能力の水準・程度によって「人格」を区別化する傾向に流れた。
 またこの国における法律行為論・契約論は、契約を意思表示の合致によって成立するとし、かつ契約の成立について「契約の内容とせらるべき事項が示されているとみられさえすれば(2)」契約は成立するとし、問題を契約の効力要件の領域へ移送する傾向にある。そして、能力論では、意思無能力を客観的に画一化した制度が行為無能力制度であるから、意思無能力制度は「無能力」制度に「昇華し転化してしまった」結果、民法の下では意思無能力制度は存在しないとし、意思能力の問題を理論上民法学から放逐しかねない学説すら登場している。他方で、また多くの学説が採用している意思無能力論にあっても、ドイツ民法典の行為無能力(一〇四条)を解釈論によって導きだそうとする傾向にあるために、定型的人間像から出発するきらいがある。このためか、日本の民法学は意思ないし意思能力の問題を精緻化することに成功せず、現実の裁判等で有効な役割を果たすことはできていないように思われる(3)。
 しかし、この日本においても成年後見制度に着目した民法等の改正が現実の日程にのぼっている。成年後見制度はこの学風の克服を兼ねるものでなければならないだろう。その意味で、意思ないし意思能力の内的構造を正面から検討することが課題となっている(4)。また契約・法律行為の成立論も再検討する必要があろう。民法の起草者が、意思ないし意思能力の問題は当然の法理としての契約・法律行為の成立要件の問題として対応できると(楽観的に?)考えていたと思われるだけに、この問題に踏み込む必要がある。
 三 ドイツ民法典は、民法典と国家の行為(裁判所による行為能力の剥奪宣言)によって行為能力が剥奪されたり制限された人格を規定し、その次に彼が行った意思表示の効力(無効 nichtig または無効となしうる unwirksam werden ko¨nnen)を定めている。これに対して、さいきんの成年後見法(Das Gesetz zur Reform des Rechts der Vormundschaft und Pflegschaft fu¨r Vollja¨hrige vom 12. September 1990)は、精神病を理由とする行為能力の剥奪宣言(§ 104 BGB. Ziff. 3.)を削除し、問題のとらえ方を根本的に転換しようとしているかに見える。とはいうものの、一〇五条二項も、遺言に関する二二二九条四項(5)も存続している。法律行為時における Das geistig-willensma¨■ige Fahigkeit zur Selbstbestimmung (Flume)の有無によって紛争を解決する立場を捨ててはいない。同時に、いわゆる自然的行為無能力に関する民法一〇四条二号もなお必要な規定と判断されており、法律行為の効力を否定しようとする者は一〇四条二項が定める無能力者の要件について証明責任を負担するにとどまるのであって(自然的行為)、無能力者の意思表示は一〇五条一項によって当然無効 nichtig とされるのである。日本の実務・理論状況を考慮するなら、このような判断の実践的・法理論的基礎がリアルに捉えられる必要があろう(6)。

(1) 明治民法の公布(明治二九年四月二七日)・施行(明治三一年七月一六日)以降に、大審院が民法施行前の事件について判断を下すとき、民法施行前の法が言及される。しかし、それは当該大審院の「解釈」の所産であることに注意する必要があるように思われる。
  私見によれば正当なのであるが、〔29・11・07〕大判明治二九年一一月七日民録二輯一〇巻三〇頁、〔38・05・31〕大判明治三八年五月三一日民録一一輯八二〇頁は、未成年者の(無)能力は行為者の実際の能力如何の問題であるとする(長野地松本支部判明治〔判決年月日不詳〕法律新聞一二八号(明治三六年三月二日発行)一一頁も「民法実施前ノ慣例」としてこの理を述べている)。ところが、〔29・03・17〕大判明治二九年三月一七日民録二輯二巻六七頁、〔31・05・25〕大判明治三一年五月二五日民録四輯五巻九〇頁、〔34・03・19〕大判明治三四年三月一九日民録七輯三巻五七頁は、未成年者の無能力は推定されていたとする(「法律上」あるいは「条理上」、それぞれ根拠づけはことなる)。東京控訴院判明治三六年一月二四日法律新聞一二六号一六頁は「民法施行以前ニ於テハ、後見人ノ付シアル未丁年者ガ後見人ノ同意ヲ得ズシテ為シタル行為ノ無効ナルコト論ヲ俟タザルガ故ニ、後見人ノ同意ナキ本件貸借ハ無効ナリ」と断言する。明治民法公布後の大審院の眼を通じて民法施行前の法状態を把握しようとすることには、このような危険を伴う。
(2) 末川博・契約法・上(岩波書店 一九六四年)二一頁。
(3) 〔38・05・11〕大判明治三八年五月一一日民録一一輯七〇六頁、〔大02・03・18〕大判大正二年三月一八日民録一九輯一三三頁、〔昭29・06・11〕最判昭和二九年六月一一日民集八巻六号一〇五五頁。須永諄「財産法上の法律行為と意思能力---判例の分析を通して---」法学志林六三巻四号(一九六六年)三五頁以下の判例分析がするどい。
(4) この点について、前田達明「意思能力・行為能力・権利能力」同・民法随筆(成文堂 一九八九年)二八頁(初出は判例タイムズ四四六号〔一九八一年〕、同「意思表示の構造」同前三七頁(初出は判例タイムズ四二五号〔一九八〇年〕、米倉明・民法総則講義一(有斐閣 一九八四年)七七頁以下、北川善太郎・民法総則(有斐閣一九九三年)一三三頁、鹿野菜穂子「契約の解釈における当事者の意思の探究---当事者の合致した意思---」九大法学五六号(一九八八年)九一頁以下、中井美雄「民法における『能力』制度論の動向---『意思能力・行為能力』を中心に---」立命館法学二二五・二二六合併号(一九九三年)一頁以下参照。
(5) § 2229 Abs. 4. wer wegen krankhafter Sto¨rung der Geistesta¨tigkeit, wegen Geistesschwa¨che oder wegen Bewu■tseinssto¨rung nicht in der Lage ist, die Bedeutung einer von ihm abgegebenen Willenserkla¨rung einzusehen und nach diese Einsicht zu handeln, kann ein Testament nicht errichten.「精神活動の病的障害、心神耗弱又は意識障害によって、自ら行った意思表示の意味を理解しその洞察に従って行動することのできない者は遺言をすることができない」
(6) なお、筆者は、高齢者問題は約款規制法の制定と結合しなければならない課題でもあると考えている。

* 本稿は、立命館大学人文科学研究所プロジェクト研究A−二(一九九五〜九七年度)での研究課題設定のための研究会(一九九五年六月一〇日)に対する報告である。
三校