立命館法学 一九九五年三号(二四一号)
◇ 研究ノート ◇
ウォルフレン『日本/権力構造の謎』を読む
大学院政治学ゼミ
(編)
福井 英雄
目 次
I はじめに
II 『日本/権力構造の謎』の分析視角と変革論
III ウォルフレンのマス・メディア論
IV 日本官僚制とウォルフレンの議論
I はじめに
福 井 英 雄
一九九四年度の大学院政治学ゼミは、「現代日本国家論」として、それにかんするいくつかの文献をとりあげたが、そのなかにK・v・ウォルフレンの『日本/権力構造の謎』が含まれていた。この文献は、単にゼミで検討の対象とするだけでなく、さらに検討の必要があるということでできあがったのがこの研究ノートである。
この『日本/権力構造の謎』の原著の英語版は、The Enigma of Japanese Power と題して、八九年に初めて出版され、翌九〇年には邦訳が上・下二巻に分けて出版された。さらに九四年には文庫新版が新たに出版されてもいる。そして本書は、欧米における日本見直し論の代表的著作であり、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」式の日本観を「日本異質論」へと決定的に転換させることになった。
それだけにわが国においても大きな反響をよびおこしたことは当然といってよい。これに激しく反発するものもあれば、基本的に賛意を表するものも多い。本書にかんして多くの書評が出され、論文も発表されている。そうするとこの研究ノートで何をつけ加えるかの問題があるが、本書にはなおいっそうの研究の意義があると考えた。はじめゼミ参加者のうち六名が執筆に参加すると予定していたが、諸般の事情で三名の参加にとどまらざるをえなかった。執筆された三名のものも全体としてけっして体系的でなく、あくまで研究ノートにとどまっていることをはじめに断っておきたい。
そのうち第一の上田論文は、ウォルフレンの本書における「分析視角と変革論」とをとりあげている。政治体制と社会構造の変革諸要因の分析という上田の問題意識に引き寄せたものだが、そこから抽出されたことは次の二点である。一つは、ウォルフレンの欧米中心主義的思考のために、欧米流自由民主主義体制を絶対視していること、二つは、階級的視点や発展史観を欠くために変革主体とその展望において自家矛盾に陥ってしまっていることである。
第二の立石論文は、ウォルフレンの「マス・メディア論」を検討している。具体的には、日本においてマス・メディア---そのさいウォルフレンが主として考察の対象とするのは「大新聞」である---は、いかなる政治的位置にあり、複雑に交錯する権力諸関係のなかでいかなる機能を果たしているか、を主要な検討課題としている。この結果明らかにされたことは、マス・メディアが時に部分的に反発しながらも、基本的に〈システム〉に依存し、これに奉仕していることである。
第三の石見論文は、〈システム〉の重要な構成要素をなす「日本官僚制とウォルフレンの議論」に焦点をあてている。わが国の官僚制については多くの問題点があり、学界において争点ともされてきたが、石見はこれらの争点や問題点を検討するために、ウォルフレンの議論を手掛かりにするという方法をとっている。そして最後に、わが国の官僚制は、ほんとうに大きな力をもっているのか、今後ももち続けるのか、いわば日本官僚制の将来展望についても考察を加えている。
以上の三編をもってこの研究ノートはなっているが、すでにみたようにはじめ他に三編を予定していた。その一つは、ウォルフレンの〈システム〉論とわが国の権力構造において支配的地位にあるのは「政・財・官」三角同盟であるという見方とを比較することであった。いま一つは、ウォルフレンの解明した日本権力構造の謎や「日本異質論」などは、韓国からみるとどのようにとらえられるかを明らかにすることであった。三つ目は、これをさらに進めて第三世界一般からみて、ウォルフレンの業績がどのようにとらえられるかを解明することであった。これらのいずれもやむをえない事情で、ここに掲載することができなくなったが、別に何らかの方法で公表する機会をもてれば幸いと考えている。
II 『日本/権力構造の謎』の分析視角と変革論
上 田 聡
『日本/権力構造の謎』は、周知のように、欧米における日本見直し論者(revisionists)を代表する著作として世界的に反響を巻き起こした。日本国内においては、それまでの〈日本経済の成功に学べ〉式の好意的論調から〈日本異質論〉への転換を象徴するものとして、そして、日本の政治・社会権力への赤裸々な挑戦を意味するものとして一部から激しい反発を受けながらも、読者のなかに少なからぬ支持者を見出してきた。昨年、邦訳の文庫新版があらたに発行されたのは、それを如実に物語る出来事である。
この著作については、すでに賛否両論が出尽くしている観があるが、この研究ノートでは、政治体制と社会構造の変革(ないし転換)諸要因の理論的把握という私自身の問題意識に引き寄せて、ウォルフレンの分析視角を歴史の論理把握との関連で位置づけ直して見たい。なお、この著作に関しては数多の書評・論文が著されているが、ここでは私自身の問題意識に最も近いものとして、『文化評論』一九九一年三月号に掲載された平野喜一郎氏の書評論文を取り上げるにとどめる。
一、『日本/権力構造の謎』における基本視座
このウォルフレンの著作において中心的位置を占める概念は、言うまでもなく、氏独特の〈システム〉(‘system')概念である。これは、〈国家〉概念が「政治的中心の存在を前提とする、責任の所在(1)」を欠かせないがゆえに、そうした責任ある中央政府を持たない日本の政治体(body politic)を表すものとしてウォルフレンが用いた概念である。それは、「国家の定義を適用できないが、しかし一国の政治的営みをすべて包含するもの(2)」であって、そこには官僚機構・政治機構やそのアクターのみならず、農協、警察、マスコミや、暴力団まで含まれる(3)、とされる。そして、「〈システム〉は政治的責任感の発達した、自立した市民の存在を許し得ない」がゆえに、日本では「マスコミと企業を通しての教化によって、解放された市民の発達が阻まれている(4)」と、ウォルフレンは考えるのである。
実は、責任ある中央政府の不在という論点や〈システム〉概念の独特な用法を別にすれば、ウォルフレンの主張する内容自体は、現状に批判的なマルクス主義者や近代主義者らがこれまでに主張してきたこととほとんど変わらない。そのうえ、責任ある中央政府の不在という論点さえ---すでに指摘がなされているように---丸山真男氏の権力構造分析を援用したものと思われるから、厳密には独創的な主張とはいいかねるのであって、理論枠組み自体、かつての近代主義や講座派マルクス主義の主張と大同小異なのである。すなわち、政治機構や社会組織における抑圧的性格に着目し、そうした政治的・社会的抑圧やそれを合理化するイデオロギーこそが近代的な自立した市民の成長を阻んでいると考えて、こうした障害を取り除くことこそが焦眉の課題であるとみなす点で、ウォルフレンの議論は、近代主義や市民社会論(そして、ある程度までは講座派マルクス主義)と共通しているといえるわけである。
もっとも、このことはウォルフレンの議論と近代主義・マルクス主義の主張との同質性を意味するものではない。いうまでもないことであるが、ウォルフレンの議論はあくまで〈日本異質論〉の系譜に属するものであって、日本社会の抑圧的性格を---洋の東西を問わぬところの---前近代性に由来するものと見る後者の主張とは明らかに視点を異にする。そして、この両者を隔てるものこそ、階級的視点や発展的思考の有無なのである * 。
* 平野喜一郎氏の論文にも、ほぼ同趣旨の指摘がある。平野氏の場合には、前者(階級的視点の欠落)については「独占資本の支配力の過小評価(5)」という形で触れられ、後者(発展的思考の不在)については、次のように指摘されている---「ウォルフレンの著書の分析的方法の限界と不十分さは、その構造分析が固定的・非歴史的であり、この〈システム〉の変化や崩壊の道すじが明らかではないことである(6)」。なお、平野氏は、ウォルフレンの主張と講座派や市民社会論に基づく日本の前近代性の批判との共通性に関連して、(ウォルフレンは)「西欧市民社会を理想のタイプにして、それを基準にして日本社会を切って捨てるというのではない」とウォルフレンを擁護しておられるが、ウォルフレンが日本における政治制度の建前と現実との間の乖離から〈国家〉の存在を否認して、それに代わるものとして〈システム〉概念を持ち出すとき、欧米においては〈国家〉の存在が前提されているわけであるから、事実上、欧米における形式的な権力所在と実質的なそれとの間の乖離が不問に付されているわけで---国家権力の階級性を認めないウォルフレンの場合には、欧米においてはそうした乖離は基本的に存在しないと仮定され得るかもしれないにしても---マルクス主義の立場を表明される平野氏であれば、そのことから、欧米を理想化したものを準拠枠として日本の現状にメスを入れるウォルフレンの議論の片寄りに気付かれなかったとは考えにくい。その意味で、残念ながら平野氏のこの一文には賛同することができない。
版面合わせのアドバンス
ウォルフレンはもちろん、日本の〈システム〉の独特な権力構造が歴史的に形成されたものであることを否定しはしない。けれども、インフォーマルな社会的統制を---程度の差はあれ---前近代社会に広く共通するものであるとは見ずに特殊日本的なものであることを強調するウォルフレンの場合には、日本文化ユニーク論を退けて日本文化自体の政治的起源を主張する論旨とは裏腹に、抑圧的な政治・社会構造や氏の指摘するところの文化に対する政治の優位自体が---明示はされていないものの論理的には---結局は広義の文化以外に帰着させることができない *。そこにウォルフレンの論理のアポリアがある**のであり、それは変革主体と不可分の現状規定に論が及ぶとき、さらなる困難に突きあたることになるのである。
版面合わせのアドバンス
*誤解のないように付け加えれば、ウォルフレンには歴史的パースペクティヴが全くないというわけではない。例えば、その主張の当否は別として、文化の政治的起源を論じるために日本史を古代にまで溯っているし(7)、〈システム〉の形成史との関連では明治以降の日本近現代史にも目を向けている(8)。だが、ここでも、平野氏が指摘されているように社会発展やその原動力といったものへの着目がほとんど見られず、それゆえに、むしろ時代を超えた一貫性のみが強調される結果となっているのである。そうした意味で、ウォルフレンは歴史における特殊性には目を向けながら、肝腎の歴史発展の普遍性への着目を欠いていた、といえるかもしれない。
** 発展的思考に欠けるウォルフレンにとって、市民社会が未発達で社会全体が抑圧的性格をもつ日本の現状は、欧米的価値観とは相いれない特殊日本的権力構造の所産として捉えられることになる。これは、マルクス主義を含む従来の日本の論壇において近代化の過程で積み残された封建的残滓とみなされてきた諸現象に対するウォルフレンなりの理解である。したがって、多少の不正確さは恐れずに単純化していえば、近代主義や講座派マルクス主義が文化的・社会的側面を含めての日本の近代化とか市民社会の育成・成熟化という形で求めてきたものを、ウォルフレンは自分たちから見て異質である日本社会の(事実上の)欧米化という形で主張したということができよう。
歴史の弁証法を理解しないウォルフレンにあっては、日本を---かつては西欧にもあったはずの---封建的な関係や慣習が根強く生き残った社会(別の表現を用いるなら、近代化の途上にあって文化的・社会的な封建遺制を有する社会)として捉え、そこに何世代か前のヨーロッパの人々の呻吟を重ね合わせて見る、という思考は間違っても現れてこないであろうから、彼が結局のところ日本文化政治起源論に活路を見出すことになってしまったのも理解できないことではない。
二、『日本/権力構造の謎』と変革の論理
さきに述べたように、ウォルフレンは日本の現状を直接的には前近代性の残存による政治・社会構造の歪みと見ないで、歴史的に形成されてきた特殊日本的な伝統の帰結と見る。したがって、そこから導き出される変革の論理も、当然、近代主義やマルクス主義とは異なったものになる。ウォルフレンのこの著書は原則的には分析と理論化の書であって運動の書ではないが、日本の現状を憂える同氏の問題意識ゆえに---価値判断の排除という氏自身の前提に反して---著者の思い入れと日本の読者への訴えかけが行間にあふれており、とくに最終章では一定の指針さえ示されている。そこから読み取れる変革の展望は、外圧と自覚的市民の主体的活動である*。すなわち、日本は欧米と同様の責任主体を備えた〈国家〉ではないのであるから、欧米諸国は日本ががあたかもそうであるかのようにみなして外交を行ってはならない。日本は国際社会において欧米諸国とは違ったルールでゲームに参入してきているのであるから、日本がこのような状況を改善しなければ近い将来日本は孤立を免れないであろう。だから、日本は自らが破滅に至らないためには現状を改めねばならず、自覚した市民たちが日本の〈システム〉を変革して責任ある中央政府を有する政治体制を樹立し、個人の自由な発達が可能な社会に日本を作り変えねばならない、というのがウォルフレンの言いたいことだと理解してよいであろう(9)。
* これについては、同氏が最近毎日新聞社から出版された『人間を幸福にしない日本というシステム』という著作が参考になる(10)。
このうち前段の主張は、西側の〈自由民主主義体制〉を絶対化して先進諸国に有利な〈自由貿易体制〉を金科玉条にするものであるから、ウォルフレンに見られる欧米中心主義、価値観における欧米絶対化論の現れと見ることができ、読者がこれと異なった価値観に立脚する場合には別の結論が導き出されようが、それは本稿の対象とするものの範囲を超える*。
版面合わせのアドバンス
* なお、この点に限らず、著者は日本の権力構造を分析する際に、意識してかそれとも無意識にか、欧米の価値観が普遍的な妥当性を有するものと信じ、そうした視点から日本のの現状を断罪しているように思われる。確かに、西洋近代の思想や原理には洋の東西を越えて人類が共有し得る重要な部分が存在することは否めないが、そのことと、西欧や米国の文化・価値観のすべてを最善で見習うべきものと認めることとは、本質的に別のことである。著者も抽象的にはそのことを否定しないはずだが、本書における具体的叙述や論旨は実質的にその陥穽に陥っているように見受けられる(その一例が自由貿易体制の絶対化である)。はしなくも、著者の立場はこの点に関するかぎり、かのF・フクヤマの〈歴史の終焉〉論と軌を一にしているといえるであろう。もっとも、著者の立場が〈西欧絶対化論〉的色彩を帯びていて、にわかに同意できない部分があるとしても、民主主義、人権といった、ヨーロッパ起源ではあるものの今日では全人類共有の財産である思想・原理からみて、日本の現状が深刻な問題を抱えていることに疑いはない。また、この普遍的諸原理に個人主義ないし個人の尊重という思想を加えることが許されるとすれば、それは、日本の現状に対して、いっそう厳しい評価を不可避のものとするであろう。この点で、ウォルフレンの日本分析には厳粛に受けとめるべき点が多々あることを率直に認めねばなるまい。
版面合わせのアドバンス
これに対して後段の主張は、近代主義やマルクス主義の主張と、ある程度まで重なるものである。だが、近代主義やマルクス主義の場合には---それらの主張が今日でも変わらぬ有効性を持つか否かはひとまず措くとして---概して、資本主義の発展と産業構造の近代化による近代的市民(ないし近代的労働者階級)の成長に望みを託すことができ、そこで形成された変革主体が政治的・社会的近代化の課題を達成することを歴史の必然と見ることができた。その点で、彼らの呼びかけは主意主義に陥ることなく、一定の説得力をもったのである*。しかるに、ウォルフレンの主張の場合、呼びかけの内容に限って言えば、(国際関係と日本の進路に関する部分を除くと)結論は右の立場とさほど変わらないにしても、変革主体の形成を裏付ける論理が見出されない。変革の必要性や具体的提言は---内容の是非は別として---主張されるものの、それを行うべき市民は、氏の論理からすれば〈システム〉に搦め捕られて自由な活動を制限された存在なのであって、本当に変革主体となり得るかどうか危ぶまれる存在である**。それゆえ、ウォルフレンの呼びかけは主意主義的なものにならざるを得ず、説得力と展望の点でかつてのマルクス主義や近代主義にはるかに劣っている。そして---学問的にはこちらの方が重要なのだが---これらの弱点を生んだものこそ、さきに指摘した歴史への発展的視点の欠落と考えられるのである。
版面合わせのアドバンス
* 念のために申し添えれば、私自身は近代主義やマルクス主義の旧来の主張・展望が今日でもそのまま当てはまるとは考えていない。これらの流れを受け継ぎながら、かつての展望と今日の社会状態とのギャップを理論的に埋め、近代主義的な歴史観を大胆に作りかえたものこそ渡辺治氏の諸業績(11)と言えるが、残念ながら、その理論は現実の閉塞状況をよく説明してはいても変革の展望を十分に示していない。だが、同じく変革の展望と主体形成の可能性という点で袋小路に突き当たっているとはいっても、渡辺氏の場合には歴史発展の論理を組み込んだうえでの結果であるから、ウォルフレンよりも分析の幅と研究水準という点ではるかに優れているといえるであろう。
** このように、ウォルフレンの主張において変革主体と目される自覚した諸個人は、氏自身の論理からすれば、〈システム〉の魔手によって多方面から捕捉されているのであって、そうした支配の網の目をかいくぐって変革主体にまで成長して勢力を結集するのは至難の技、ということになる。そこで残された要素は外圧のみとなるわけだが、これとて氏の信奉する近代民主主義の原理からすれば内政干渉となる危険をはらんでいるわけで、主張には自ずと限界がある。それゆえ、ウォルフレンの主張は変革主体という点でどうしても袋小路に突きあたるのであり、ここに、前近代的紐帯から解放された諸個人たりうるところの近代労働者階級と彼らの近代的・民主主義的意識を資本主義的発展が生み出すことに希望を託し得た、戦後日本の講座派や近代主義者との相違が生まれるのである。
版面合わせのアドバンス
三、マルクス主義における変革の論理と
『日本/権力構造の謎』
こうしたウォルフレンの議論の位相と問題点をより明らかにするために、ここでは次に、マルクス主義における社会の歴史的発展の論理を概観しておきたい。
マルクス主義の場合には、近代的な対等・平等の市民的関係をもたらす前提となったものは絶対主義のもとでの資本主義の発展と社会意識へのその反映であり、そうした市民的関係を現実に生み出したものこそ、ブルジョア革命という形での政治的・社会的変革である、とされる。そして、それを担ったものは、当然ながら市民階級(ブルジョアジー)だというわけである。
また、理念的に見れば、このブルジョア革命は政治的には民主主義をもたらすものとして捉えられる*。それは、対等・平等の市民的関係を政治的にも実現し、資本主義の発展を政治的に保障する体制を創り出すものであり、今日の〈自由民主主義体制〉は基本的にこうした出自を持つのである。
* もっとも、実際には---イギリス革命がそうであったように---ブルジョア革命が直接に民主主義体制を確立したとはかぎらないが、その場合にも、民主主義への道を切り開いたのはブルジョア革命だったということができよう。なお、〈自由民主主義体制〉は、ブルジョア的な自由主義原理が、下からの抗しがたい圧力に直面して民主主義原理をブルジョアジー(なかでも独占資本)の支配にとって許容し得る範囲で包摂したところに生じたブルジョア民主主義体制として位置づけられる。
版面合わせのアドバンス
とはいえ、こうした図式はいわば理念型であって、現実にはすべての国がそのままの道程をたどるわけではない。とくに後発の資本主義国ではブルジョア革命をもたらすべき諸要素が十分に成熟せず、〈上からの革命〉という形で歪みを伴ってきわめて不徹底な変革が行われるにすぎない場合があり、その場合には、封建的・前近代的要素が払拭されず、近代的・資本主義的要素と長く併存することとなる。その代表例はドイツであるが、日本もまたそれに近い道をたどったことはいうまでもない。
山之内靖氏や淡路憲治氏らの研(12)究(13)によれば、マルクスとエンゲルスにおける後発資本主義国の発展パターンの理解にはいくつの段階や類型があるとされるが、その代表的なパターンは連続二段階革命(=複合的発展)のそれであり、日本において講座派が採用したのもそうした見解であった。この連続二段階革命の源流は『共産党宣言』その他に見られるドイツ革命論であるが、そこでは、先進諸国のブルジョア革命に比べてプロレタリアートの果たす役割が重視されている。そして、一八四八年革命におけるドイツ・ブルジョアジーの意気地のなさやその後のビスマルク体制下でのブルジョアジーの体制内統合を目のあたりにして、マルクスとエンゲルスは革命におけるブルジョアジー(小ブルジョアジーを含む)の役割を重視しなくなり、変革主体としてのプロレタリアートに一層の期待を寄せるようになるのである。
マルクスとエンゲルスの存命中にはドイツにおいて革命は起こらず、その後、実際に生じたドイツ革命もマルクスやエンゲルスが想定したものとは大いに異なった経過をたどるが、それでも彼らが看破していたとおりに、ドイツ一一月革命を指導したのはもはやブルジョアジーではなかった。そして、こうした点で、マルクスとエンゲルスの理論を継承・発展させたのは---すでに常識になっているように---レーニンに代表されるロシア・マルクス主義だったのである。
周知のように、レーニンは、マルクスとエンゲルスの時代の革命論を帝国主義段階におけるブルジョアジーの反動化という視点から修正し、〈プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁〉というテーゼを打ち出した(14)。これは、マルクスやエンゲルスがすでに一九世紀のドイツにおいて目のあたりとし、かつ部分的には理論に吸収していた現象---すなわち、革命におけるブルジョアジーの反動化現象---を帝国主義段階の到来という視点から一般化し、革命論において新たな定式化をなすに至ったものである。また、トロツキーはちょうどそれと前後して、一八四八年革命時のマルクスとエンゲルスの〈永続革命論〉を新たな理論づけをもって再提起している(15)。この両者に共通するのは、発達した労働者階級が存在するなかで遂行される民主主義革命は旧来のブルジョア革命の段階にはとどまり得ない、という視点である。
もちろん、今日では---かりに、彼らの理論がその当時においては正しいものであったとしても---彼らの革命論をそのまま適用することは不適切であろうが、その革命論を形成する前提にあった見方、すなわち、帝国主義段階のブルジョアジーは民主主義革命において反動的役割を果たすという認識まで全面的に有効性を失ったとは考えられない。マルクス主義に反感を示すウォルフレンがこうした歴史のダイナミズムを理解し得ないのは仕方ないとしても、日本における支配層(同氏の表現を用いれば管理者 administrators)が民主主義的な変革を望まない以上、欧米において歴史の弁証法によって支配体制の座を占めた〈自由民主主義体制〉がそっくりそのまま実現されると考えるのはむしろ滑稽であろう。
かりにレーニン的な前提に立つとするならば、現代日本において西欧近代の積極的獲得物である民主主義があるべき姿で実現されるには、下からの、すなわち労働者階級を中心とした勤労人民の運動によるしかないであろうし、〈システム〉が日本資本主義の利害を体現するものであるからには、その勤労人民の運動は、少なくとも日本の資本主義そのものに修正を加えるものにならざるを得ないであろう。したがって、潜在的には資本主義と対立する利害関係をもつ(と考えられる)人民に、日本資本主義の代弁者たる〈システム〉の変革を求めながら、その変革の行き着く先にに現代資本主義の代表的支配体制である〈自由民主主義体制〉を見るウォルフレン氏の主張は、自家撞着にほかならないであろう。この点にこそ、同氏の提言の最大の難点があるように思われるのである。
四、まとめにかえて
これまで見たきたように、ウォルフレンの主張は日本における近代主義者や講座派マルクス主義の見解とある程度オーヴァーラップするものでありながら、階級的視点や発展的視点に欠けるがゆえに現状を説明する論理としては不十分な点があり、それが結論的部分にも反映して、変革主体とその展望において自家撞着に陥ってしまっていた。また、それは氏自身の欧米中心主義的思考と相俟って、現代のブルジョア民主主義体制を代表する欧米流〈自由民主主義体制〉を絶対視し〈自由貿易体制〉を不可侵のものとするという主張になってしまっていた。
これに対して、近代主義者や講座派マルクス主義、とくに後者は近代民主主義の成果を高く評価してその獲得を重視しながらも、それが持つ資本主義固有の限界を認識し、それを乗り越えようとした。旧ソ連における実験は、レーニン段階における時代的・特殊ロシア的制約やスターリン独裁の誕生によって失敗に帰したが、だからといって、それによりブルジョア民主主義を乗り越えるプロレタリア民主主義の可能性自体が失われたわけではない。(もっとも、ソ連型の「プロレタリア民主主義」は---今となっては、それが民主主義であったかどうかさえ疑わしいが、百歩譲って民主主義の一変種であったとしても---もはや、歴史の試練に耐えられないであろうが。)
いずれにしても、現代日本における民主主義の歪み(ないし形骸化)をもたらしたものが何であり、それを打破するために必要な変革が何なのかが明確にされなければ、ウォルフレンのいう〈システム〉を変革することは不可能であろうが、氏の分析はその点で不十分さが目立つものだったのである。
もちろん、だからといって、旧来の近代主義的な主張がそのまま通用するものでないのは、繰り返すまでもないことである。現に、前節で援用したレーニンの主張自体、今日の視点で再検討されねばならないものといえる。したがって、ここではウォルフレンの変革論に対する本当の意味でのオルターナティヴを提示することはできないが、また、そうすることは本研究ノートの課題というより、ウォルフレンの主張に共鳴する人たちの実践的課題であろう。ここで重要なのは展望の有無ではなく理論の首尾一貫性と説明能力なわけであるから、その限りにおいてウォルフレンの主張の分析的有用性の如何が明らかになればよいわけである。そして、これまでの考察の結果、ウォルフレンの分析視角は従来の近代主義や講座派マルクス主義を乗り越えるものではないことが明らかになったからには、この点にこれ以上立ち入ることが有用とは思われない。
ただ、誤解のないように、最後に一言だけ付け加えておきたい。
ウォルフレンの『日本/権力構造の謎』における分析は、その理論的パースペクティヴにおいて近代主義を越えるものではないにせよ、そして、その主張自体が欧米中心主義的で〈自由民主主義〉絶対化論的な限界を有するとしても、冷静で見識豊かな在日外国人によってなされた分析の結果が、戦後日本の批判的知識人のそれと少なからぬ共通性をもった点には十分に注意を払うべきである。マルクス主義を忌み嫌う同氏の分析結果が---具体的処方箋は別であるが---そのマルクス主義や近代主義といみじくも似通ったものになったことは、単なる偶然とは考えにくい。これこそ、曇りなき目で眺めれば思想的立場を越えて現実が明らかになる、という好例ではなかろうか。その点で我々は、同氏の真摯な研究を心から歓迎し、自らの理論的営為を渡辺氏らの研究成果を踏まえて発展させねばならないであろう。そのための学問的刺激としてウォルフレン氏の著作は大いなる意義をもつものであり、上述の欠点にもかかわらず、広く読まれることが期待されるものである、といわねばならない。
(1) Karel van Wolferen, The Enigma of Japanese Power : People and Politics in a Stateless Nation, PaperMac, 1990, p. 57.(篠原勝訳『日本/権力構造の謎(上)』早川書房〈早川文庫〉、一九九四年、一二三頁。)
(2) Ibid., p. 57.(前掲訳書、上、一二三頁。)
(3) Ibid., p. 7.(前掲訳書、上、四八頁。)
(4) Ibid., p. 537.(前掲訳書、下、三二六頁。)
(5) 平野喜一郎「ウォルフレン『日本/権力構造の謎』を読む---八〇年代の政治と経済」、『文化評論』、一九九一年三月号(通巻第三六二号)、一八五頁。
(6) 同右、一八九頁。
(7) Wolferen, op. cit., ch. 11.
(8) Ibid., ch. 14, 15.
(9) Ibid., ch. 16.
(10) カレル・ヴァン・ウォルフレン『人間を幸福にしない日本というシステム』(篠原勝訳)、毎日新聞社、第三部参照。
(11) 例えば、渡辺治『「豊かな社会」日本の構造』、労働旬報社、一九九〇年、同『企業支配と国家』、青木書店、一九九一年など。
(12) 山之内靖『マルクス・エンゲルスの世界史像』、未來社、一九六九年。
(13) 淡路憲治『マルクスの後進国革命像』未來社、一九七一年、及び、同『西欧革命とマルクス、エンゲルス』、未來社、一九八一年。
(14) 例えば、B・●・レーニン「民主主義革命における社会民主
党の二つの戦術」(邦訳『レーニン全集』第九巻、大月書店、五ー一三六頁所収)。
(15) 例えば、●・トロツキー「総括と展望」(原暉之訳『第二期トロツキー選集・三・わが第一革命---一九〇五年革命論文集』、現代思潮社、二八七ー三八四頁所収)。
III ウォルフレンのマス・メディア論
立 石 芳 夫
ウォルフレンの著書『日本/権力構造の謎』は、その名の通り第一義的には、日本の政治社会における権力構造および権力行使のあり方に焦点をあてたものである。その分析視角の特徴は、日本の権力主体には官僚組織も含めて、国家を国家たらしめている、権力を行使する明確なセクターが、より端的には、通常の西欧諸国にあるような「国家」が欠如しており、日本の政治権力構造を国家に似て非なる〈システム〉という言葉で形容していることにある。ウォルフレンによれば、〈システム〉とは、「政治的な営為に携わる人びとの間のその相互作用がおおよそ予想できる一連の関係の存在」、「個人が、暴力にでも訴えないかぎり手も足も出せない、逃れようのない支配構造」、「個々人のいかなる力よりはるかに強い力をもつ社会・政治的な仕組み」、「"国家"でもなく、"社会"でもない、それにもかかわらず、日本人の生き方を、また、だれがだれに服従するかを決定する機構」である。要するに、この〈システム〉なるものが日本人および日本全体を支配しているというのがウォルフレンのモチーフであるが、それは、「とらえどころのない国家」、"権力者のいない国家"、"責任者のいない国家"であって、国家に代表される実体的な権力による支配というよりも、むしろ社会的・政治的な雰囲気や土壌から醸し出される、きわめて関係的な権力による支配の総体として理解されている。
ところで、本稿の主要テーマは、ウォルフレンの一連の所説のなかから、日本のマス・メディア(主要には「大新聞」)に関する議論に着目し、それが、従来の日本の研究者の諸見解と比していかなる理論的スタンスにあるかを考察することにある。具体的には、日本においてはマス・メディアは、どのような政治的位置にあり、複雑に交錯する権力諸関係のなかでいかなる機能を果たしているのか、を検討することがここでの課題である その際、いま触れたウォルフレンが理解する権力構造の基本枠組みとの関係で、マス・メディアの立脚点を再確認してみることからはじめなければならない。
一、〈システム〉におけるマス・メディア
ウォルフレンによれば、〈システム〉=権力構造は、次のような全体図に示される諸集団から構成されているという。〈システム〉のなかで「今日もっとも力のあるグループは、一部の省庁の高官、政治派閥、それに官僚と結びついた財界人の一群である。それに準ずるグループもたくさんあり、たとえば、農協、警察、マスコミ、暴力団などである(1)」。これによるとマス・メディアは、〈システム〉内の官僚ー政界(政権党)ー財界という三極構造に準ずる地位に位置しつつ、〈システム〉に奉仕しているのだとされる。しかし、マス・メディアは、農協、警察、暴力団などのほかに労働運動や教育界の一部と同様、〈システム〉の抱き込みから逃れられない反面、「日本の管理者(アドミニストレーター)の主要グループを時おり脅すほどの社会組織」であるという(2)。
以上の指摘から、基本的に〈システム〉に依存しこれに奉仕しながらも、時にはこの〈システム〉に対して部分的に反発するという、マス・メディアの政治的位置が確認できよう。しかし、マス・メディアは「教育制度に比べれば独立性が高く、一見したところ〈システム〉内で仇役の立場を演じているように見える。ところが、日本の新聞がほぼ一貫して見せる"反体制"の姿勢は、いたって表面的なものである」とウォルフレンが述べていることからも明らかなように(3)、あくまでも、マス・メディアの〈システム〉への「反発」よりも、「依存」に重点がおかれている点に注目する必要がある。
では、マス・メディアは、どういうかたちで〈システム〉に依存し、あるいは、これに対して部分的・表面的に反発しているのだろうか。この点を理解するためには、ウォルフレンの所論にそくして、マス・メディアの政治的機能について検討しなければならない。なぜなら、この問題を論じることによって、マス・メディアの政治的位置がいっそう浮き彫りになると思われるからである。
二、マス・メディアの機能の特質
日本のマス・メディアの機能的特質に関するウォルフレンの見解はきわめて明瞭である。それは、メディアが「〈システム〉を"真正面から本格的"に論じること」なく、「〈システム〉の本質的な特徴やそれがどの方向に日本を導いているかについて、読者が検討できるよう、批判的な観方を用意していない」というものである(4)。これは簡単にいえば、いわゆる「事実報道」の欠如である。政治報道の特徴についてウォルフレンは、「日本のマスコミの"政治分析"は、終始くりひろげられる自民党の派閥間の権力闘争に関する論評と推測が中心である」という(5)。マス・メディアは、日本の政治過程の一要素にすぎない派閥闘争を、あたかも日本政治全体において決定的に重要な争点であるかのように、あるいは「サムライの忠誠と裏切りをテーマとする日本の連続テレビ時代劇」のように描き出しているのである。
こうして一般の人びとは、社会的な事物について正確で重要な事実を知らされることなく、歪められた情報を受容する。これによって、〈システム〉全体もしくはその一部が一定の政治的利益にあずかるという、世論操作(この語はウォルフレン自身その一連の著作のなかでほとんどまったく使用していないが)を媒介とした政治的支配の構造が成立することになる。しかも、「日本の巨大日刊新聞は、互いに他社のやり口をまね、時事問題についても、ほぼ同じ姿勢で報道する。異口同音の切り口のニュースや見解による報道で、国内問題についても国際問題への態度についても、日本のマスコミは一般大衆の心情に大きな影響を与える(6)」。
以上のウォルフレンの指摘から、日本のメディアの同調性の高さと影響力の大きさを確認することができる。このこと自体は、ウォルフレンをまつまでもなく、すでに多くの研究者が言及してきたことであり、いまさら強調する必要はない。
しかし、ウォルフレンの指摘のなかで特徴的であると思われるのは、こうしたメディアによって引き起こされる「情報の雪崩現象(7)」が、二通りのパターンをとって生じるという点である。以下、項目ごとに検討していく。
(1) 〈システム〉の構成員とマス・メディア
「情報の雪崩現象」の第一のパターンは、政治家や財界などの汚職スキャンダルが明るみに出て、マスコミがこれを一斉報道する場合である。
「日本の大新聞(私の見るところ、真の政治改革を阻害する最大の障害)が用いる非公式の権力と検察庁のそれは、官僚たちにスキャンダルという武器を与えて野心的な政治家を失脚させる(日本の非公式の権力システムの強力さを考えると、いかなる政治家でも周到に準備されたスキャンダルによって攻撃できる(8))。」
ウォルフレンは、政治スキャンダルの槍玉にあげられたとされる政治家や財界人を多数指摘しているが、ここでの文脈で例にあげているのは、自民党を割って出て新党を旗揚げし、「政治改革の仕掛人」として彼自身注目し期待している、政治家小沢一郎のことである。ここでウォルフレンが念頭においているのは、日本の政治社会の抜本的・全面的改革が求められている現在、著書『日本改造計画』を提示して現状の打開を試みている小沢に対して、マス・メディアは検察などとともに、そのスキャンダル暴きに躍起になって「小沢バッシング」を声高に叫び、日本政治を旧態依然たる姿(通常の国家にみられる「公式の権力」を中軸とした政治の運営ではなく、〈システム〉の特殊な構造に起因する「非公式の権力」による政治)にとどめようとしているという点である。
「〈システム〉の一部構成員は、対抗する構成員に反撃あるいは抑圧をおこなう場合、予想どおりに展開される新聞の攻撃を利用する。事実、新聞は、権力者の一部の集団が強くなりすぎるのを他の集団が防ぎ、力の均衡を保つのに重要な役割を果たしている(9)。」
ウォルフレンが政治家としての小沢に対して、きわめて高い評価を与えていることは彼の著書の随所から明らであるが、その是非を論じることはここでの課題ではない。また、政治疑獄の疑いを投げ掛けられた政治家を徹底究明することはマス・メディアの使命ではないか、といった疑問に対してもここでは答える必要はない。注目すべきことは、小沢バッシングにみられるように、政治スキャンダル(選挙での失敗・後退などの政治責任問題も含めて)を材料に〈システム〉内の特定の構成員・集団を攻撃することによって、マス・メディアが〈システム〉の維持・存続に重要な政治的役割を果たしているという指摘である。こうしたウォルフレンの主張から、先に記した「日本の管理者(アドミニストレーター)の主要グループを時おり脅すほどの社会組織」としてのマス・メディアが、支配的勢力間の多元的(多元主義ではなく)権力構造のなかに明確に位置づけられていることが、あらためて確認できよう。
(2) マス・メディアの「社会的制裁」機能
「情報の雪崩現象」が生じる第二のパターンは、マス・メディアがその時々の社会問題をとりあげる場合にみられる。
「時には、新聞の矯正的な機能が〈システム〉自体のうまく機能していない面に対して向けられることもある。ときおり、ある事柄が連日マスコミによって攻撃され、国中が燃えるということがある。このように、おおいに注目され、強く否定される事柄は、一般に"スス問題"と呼ばれる(10)。」
マス・メディアが糾弾する社会問題として、ウォルフレンは、学校でのイジメ問題、公害問題、ボロ儲けをもくろむサラ金業者による被害などを例示している。こうした問題は、〈システム〉内部で発生しながらも、〈システム〉自身が解決不可能な場合、マス・メディアがそれにかわって社会的制裁を加えざるをえないものとされる。例えば、政府が水俣病の被害者救済運動に動きだした背景について、ウォルフレンは次のようにいう。
「ほとんどの場合、裁判所はあくまでも脇役としての役割を果たしたにすぎない。マスコミによって増幅された激しい抗議に〈システム〉が反応しただけのことなのだ。これは不正が人目を引き、国民の怒りが社会全体に広がった場合に限り、〈システム〉によって不正が正されるという証拠である(11)。」
しかし、このように一見して、正義を買って出て様々な社会的不正を是正しているようにみえるメディア報道にも政治的限界がある。「権力保持者たちが公式ルールに忠実に従わない時、新聞はそのことを指摘し批判するのに理想的な立場にあるはずなのだが、〈システム〉が提示するリアリティを乱すまいとおもんばかる同僚ジャーナリストや編集者によって、それも厳しくチェックされてしまう(12)。」こうしてマス・メディアは、「社会秩序の維持と番人」という社会的要請と、事実と本音を隠すことによって〈システム〉を維持するという政治的義務との矛盾に巻き込まれ、その結果、「周期的に怒りのエネルギーを発散すべくみずからのガス抜きのためのをキャンペーン展開することになる」。したがって、マス・メディアがときおり果たしているかにみえる社会的制裁なるものも、メディアの本質的機能としてでなく、付随的機能として理解しなければならないのである。さらにまた、マス・メディアによるボロ儲け批判が客観的には、〈システム〉内のある構成員(サラ金に融資した大手金融業界など)の利益に奉仕する場合もあることに注意する必要がある(13)。
同様に、社会的不正を糾弾する日本のマス・メディアの政治的役割に着目した樺島郁夫の議論は、ウォルフレンのそれと際立った対照をなしている。樺島によれば、マス・メディアは、そのイデオロギー的中立性と政治的包括性(マス・メディア全体に権力寄りのバイアスはなく、またメディア報道が集団の大小・新旧の違いを越えてこれらを包括していること)に支えられて、多大な影響力(「世論喚起能力」)を発揮し、「伝統的な権力集団である自民党と官僚組織が政治過程の核を構成し、マス・メディアはこれらの権力の核外に位置し、権力から排除される傾向にある集団の選好をすくい上げ、新しい多元主義を政治システムに注入している」とされる(14)。両者の議論の決定的な違いは、マス・メディアと権力集団(ウォルフレンの場合は〈システム〉)との距離関係についての認識にある。したがって、マス・メディアがリクルート事件などの政治腐敗をはじめ、環境問題、消費者運動、市民運動の声を集約して政府に圧力をかけることによって、「社会の不平不満を増幅させる社会的拡声器の役割を果たしている」という樺島の見解は(15)、そもそも日本政治に多元主義を認めないウォルフレンにとっては受けつけられないばかりか、マス・メディアによる「社会的制裁」は、〈システム〉の他の構成員を利する結果におわるか、せいぜい、マス・メディアが自らに要請される事実報道という建前を保持するためのパフォーマンスにすぎないのである。
ともあれ、以上の考察から、マス・メディアが引き起こす「情報の雪崩現象」は、メディアの〈システム〉への従属に起因する政治的機能としてとらえられなければならない。逆にいえば、メディアは〈システム〉に従属し奉仕する存在であるからこそ、〈システム〉固有の政治的慣行に反抗するアクターの出鼻を挫くために特定の政治家の失墜を狙ったり、社会的正義を実践することさえあるのである。こうしたウォルフレンの考察は、有力なエリートなり権力集団がマス・メディアを利用して大衆を支配するといった、短絡的で道具主義的なメディア観を免れており、そこには、より構造的な政治的配置のもとでマス・メディアの政治的機能をとらえようとする姿勢がうかがえるのではないだろうか。この点は、次に論じる日本の「記者クラブ」の政治的性格をめぐる問題のなかでも明らかになるだろう。
三、記者クラブの政治的役割
ウォルフレンのメディア論でもうひとつ言及しなければならないのは、「記者クラブ」の存在である。ウォルフレンは記者クラブを、「ジャーナリストとその取材対象である〈システム〉側の各組織体とが共生するための制度化された機関」と定義し、歴史的には、戦前からの政府当局による情報統制とメディア自身による「自主検閲」という伝統の延長線上にこれを位置づけている(16)。「共生するための制度化された機関」というかぎり当然、メディア・権力集団双方に、各々の利害関係にもとづく何らかのメリットがあるはずである。それは、マス・メディアにとっては「重要なニュースを見逃す心配がない」ことであり、権力集団にとっては「報道媒体の自主規制を円滑化するなによりの方法」だという点に求められる。後者の点について補足すると、「記者クラブを通じて情報を選択して流すのは、あからさまな政府の直接検閲よりはるかに体裁がよいし、ニュースと一般大衆の意識を当局の意向どおり標準化する手段として、より効果がある」という意図をつきとめることができる(17)。それゆえ、記者クラブで取材活動するジャーナリストが、「重要な新事実が判明したり何かふっと洩らされても、特別待遇の資格を失いたくないから決して公表したりしない」のも(18)、このような両者の間の相互依存的関係が前提にあるからであり、そのために、当該記事を掲載すべきかどうか、あるいは掲載するにしてもどのような論調で書くべきか、といったようなことを、記者クラブの全会員が協定を結んで、準備周到な「自主検閲」まで行なっているのである。したがって、マス・メディアが「〈システム〉を"真正面から本格的"に論じることはない」とされる最大の理由は、こうしたメディア自身による自主的・能動的な検閲機能にある、といっても過言ではないのである。私は別の機会で、この記者クラブにおけるメディア−権力関係がいかなる政治的関係を有するのかについて、記者クラブとメディアの「アジェンダ設定」機能との関連から、石川真澄の所見を検討したことがある(19)。石川は、新聞記者が記者クラブに集中的に配置されていることを実証したうえで、メディアの権力機関への高い情報依存を指摘し、「マスメディアからの影響力よりも権力集団からのメディアへの影響力のほうが圧倒的に大きい」と結論づけた(20)。
しかし、マス・メディアに対する権力集団の圧倒的な影響力という石川の指摘自体については賛成できるにしても、彼の見解とウォルフレンのそれとを対比するうえで重要なことは次のことである。すなわち、記者クラブの政治的性格をめぐって、ウォルフレンのように、権力集団とメディア双方が「共生するための制度化された機関」とみるか、それとも石川のように、権力集団のメディアに対する影響力の行使の場とみるかによって、政治的アクターとしてのマス・メディアの能動性を重視するか、それともその受動性を重視するのかという、政治過程へのマス・メディアのコミットメントに関する二通りの解釈が成り立つということである。この問題は、換言すれば、例えばマス・メディアが何らかの政治キャンペーンを展開する場合、それが権力集団によって「いやいやながらに」強制されたものであるのか、それともマス・メディア自身が多少なりとも目的意識的に行なうものであるのか、という論点とも重なり合ってくるのである。ウォルフレンがどちらかといえば後者の立場にあることは、これまでの文脈から明らかであろう。
四、マス・メディアと世論をめぐる問題点
しかし、以上のように、ウォルフレンが記者クラブをめぐる個別の政治家とジャーナリストの癒着関係を軸に、両者が「共生関係」にあるといっても、マス・メディアの政治的機能を解明するためには、なお問題点が残されている。それは、オピニオンを生産する社会的制度としてのマス・メディアへの視点の欠如であり、換言すれば、メディアと世論の関係をめぐるウォルフレンの認識にかかわる問題である。
「日本のマスコミが何らかの問題を論じるなかで世論を引き合いに出すときは、世論を創りだそうとしている場合がほとんどだ。世論を正確に伝えるのではなく、創りあげるのが、日本に近代的なメディアが誕生して以来の伝統である(21)。」
この引用箇所でウォルフレンは、マス・メディアが世論を創出している点を日本の近代以来の伝統に由来する特殊性であるとし、暗に西欧のメディアは世論を創出していない、と述べているように思われる。しかし、はたして世論形成機能を発揮しないマス・メディアのコミュニケーション活動を想像することができるだろうか。洋の東西を問わず、今日のマス・メディアが政治過程に無視しえない影響力を行使していると仮定すれば、それは第一義的にメディアの世論形成機能にあるはずである。ウォルフレンは明らかに、アメリカのマスコミ論の伝統にありがちなメディア=「中立媒体」論の立場に依拠している。もっといえば、その主張には、マス・メディア=「現実の鏡」であるという、社会一般に多くの人びとが共有している、マスコミに対する一種の規範意識がみられる。このメディア=鏡説に対しては、様々な角度からの批判が可能であるが、単純に考えても、誰が世論を形成しているのか、何が世論なのか、世論はいかにしてマス・メディアによって察知されるのかなど、前提問題に関わる多くの疑問が投げかけられているのである。六〇年代までマス・メディアの政治的効果は取るに足らないという議論が横行したアメリカにおいても、テレビが大統領選挙の当落を決するという「テレポリティックス」的状況がいまや指摘されているもとでは(22)、マス・メディアが、世論を創出していること自体に問題があるという点よりも、何を、いかに、誰に対して、世論を創出しているのかという問題のほうが重要であろう。この点からも、日本のメディアと西欧諸国のメディアとの質的差異について、もっと掘り下げて吟味する必要があるように思われるが、その比較検討は残念ながらまったくといってよいほど行なわれていない。
したがって、多くの日本の論者が評したように、ウォルフレンが必ずしも西欧の基準でもって日本政治やこの国のマス・メディアの問題を「断罪」している、と私は考えない。むしろウォルフレンは、しばしば「日本異質論者」と称されるように、日本政治をあまりにも「異質に」、そして「個体的に」扱いすぎたように思われる。そしてこのために、著書『日本/権力構造の謎』の体系性とボリュームにもかかわらず、日本社会と西欧社会の比較分析を可能とする理論作業を事実上断念しており、この点にこそ重大な問題があるのではないだろうか。ウォルフレンが願ってやまない日本政治の抜本的改革に向けた、自らの問題提起への回答が、日本のひとりひとりの市民に対する単なる啓蒙におわっている点も、ひとつにはこうした脈絡に由来するものと考えられる。
しかし、ウォルフレンが日本のマス・メディアに投げかけた疑問は、傾聴に値するものである。それは、「このままでは理念のない情報ばかりが栄えて、ジャーナリズムは滅亡してしまう、いま必要なのはジャーナリスムの日本革命だ」という、ジャーナリスト原寿雄の切迫した危機感と問題意識を共有するものだからである(23)。この危機感の焦点は、いうまでもなく、単なるジャーナリズムの危機にとどまらず、日本の政治的民主主義を確立する一環としてメディア改革が提起されている点にある。こうした意味から、いわゆる「九三年政変」によって自民党長期単独政権転覆を経た今日においても、ウォルフレンのキー・タームである〈システム〉とそれに包括されたマス・メディアをめぐる政治的諸問題は、いまなおわれわれの眼前にあるといわなければならない。
(1) ウォルフレン、K『日本/権力構造の謎』(文庫新版)上(篠原勝訳)早川書房、一九九四年、四八頁。
(2) 同右、一九三ー一九四頁。
(3) 同右、二一四頁。
(4) 同右。
(5) ウォルフレン『日本/権力構造の謎』下、一九九四年、一六七頁。
(6) ウォルフレン『日本/権力構造の謎』上、一一九ー一二〇頁。
(7) 同右、二一八頁。
(8) ウォルフレン『民は愚かに保て』(篠原勝訳)早川書房、一九九四年、二〇五頁。
(9) ウォルフレン『日本/権力構造の謎』上、二二〇頁。
(10) 同右、二二三−二二四頁。
(11) 同右、一四五−一四六頁。
(12) 同右、二二一−二二二頁。
(13) 同右、二二五−二二七頁。
(14) 樺島郁夫「マス・メディアと政治」『リヴァイアサン』七号、一九九〇年、八頁。
(15) 同右、25頁。
(16) ウォルフレン『日本/権力構造の謎』上、二一五ー二一六頁。
(17) ウォルフレン『日本/権力構造の謎』下、二八四頁。
(18) ウォルフレン『日本/権力構造の謎』上、二一七頁。
(19) 立石芳夫「マス・メディアの政治的機能と民主主義」福井英雄編『現代政治と民主主義』法律文化社、一九九五年、二七八ー二八三頁。
(20) 石川真澄「メディア---権力への影響力と権力からの影響力」『リヴァイアサン』七号、一九九〇年、四八頁。
(21) ウォルフレン『民は愚かに保て』、五〇頁。
(22) ハルバースタム、D『メディアの権力』(全三巻)二、一九八三年、一〇五ー一四七頁。
(23) 原寿雄『ジャーナリスムは変わる』晩聲社、一九九四年、一頁。
IV 日本官僚制とウォルフレンの議論
石 見 豊
(PL学園女子短期大学専任講師・本学大学院聴講生)
近年、規制緩和や地方分権が、わが国の政治行政上の大きな課題になっている。今日、行政改革の実施段階において、それはとくに重要性をもっている。そして、その中にあってつねに、わが国官僚制の構造と行動が論議の的になってきた。政治学や行政学において、官僚制の問題は古くからある主要なテーマのひとつであるが、ウォルフレンは、新たな立場から、わが国の官僚制についての分析を試みている。
ウォルフレンは、滞日生活三〇年の経験を有するオランダ人ジャーナリストである。彼は、リビジョニスト(修正主義者、日本見直し論者)として、「日本異質論」を唱え、その立場は、チャーマーズ・ジョンソン、クライド・V・プレストウィッツ、ジェームズ・ファローズなどと共通している。欧米知識人にとっての「日本問題」は、わが国の経済発展とともに時代によってかなり変化してきた。一九六〇年代には、わが国の経済成長が「奇跡」として称賛を浴び、七〇年代にはそれが「摩擦」を生み、八〇年代には、「脅威」として扱われるようになった(1)。ウォルフレンの著作である『日本/権力構造の謎』は、このような時代状況の中で生まれた、最も手厳しい日本批判の書である。彼の著作をめぐって、わが国の知識人の間でもかなりの論争が展開された。その主たる論点は、彼の分析が、欧米的な価値基準にもとづいているのではないかという点にあった(2)。しかし、それについて論議することが、小論の目的ではない。
ウォルフレンの主たる関心は、わが国の権力構造の解明にあった。彼が「謎」として提起した問題は、つぎの三点であると考えられる。第一に、わが国には、官僚・政治家・財界人からなる明確な支配階級が存在するが、彼らは半自治的な存在で、お互いのバランスの上になりたっている。ウォルフレンは、これを「管理者」(アドミニストレーター)と呼んだ。第二に、日本社会には、この管理者を中核として、教育、組合、野党、マスコミ、宗教などのありとあらゆるものを抱きこんでしまう機構(しくみ)があり、彼はこれを「システム」と名づけた。このシステムは、国家でも社会でもないが、市民に服従を強いる。第三に、「管理者」にも「システム」にも、政治的な中核や強力な指導者はなく、責任の所在は不明確で、権力の正体は見え隠れする、という三点にある。
しかしながら、その謎において、官僚制は重要な役割をはたしているようにおもわれる。官僚制を軸にわが国の権力構造を考えることにより、ウォルフレンの提起した「謎」にかなりこたえられるのではないか。そこで、小論は、ウォルフレンの分析を中心に、わが国の官僚制について再検討することにねらいがある。わが国官僚制の争点や問題点を検討するために、ウォルフレンの議論を手掛かりにするというスタイルをとる。まず、従来からある官僚制論とウォルフレンの論議のちがいについて整理する。そこでは、政党と官僚制との関係、戦前と戦後の関係が中心になる。つぎに、わが国官僚制の組織的および政策的特色について検討する。具体的には、わが国官僚制の特徴といわれる省庁間セクショナリズムや行政指導などをとりあげる。そして、最後に、これが小論の「問い」であるが、わが国の官僚制は、ほんとうに大きな力をもっているのか、そして今後ももち続けるのか、について考えるつもりでいる。これは、わが国官僚制の将来展望についての問題でもある。
一、わが国の官僚制論とウォルフレンの論議
(1) わが国の官僚制をめぐる三つの論議
わが国の官僚制については、従来、戦後の政治過程における、政党(政治家)と官僚制との関係の面から論じられてきた。つまりそれは、戦後の政治過程において、官僚が優位であると見るか、政党が優位であると考えるのかのちがいである。そして、この論議は、わが国の戦前と戦後の関係(継続性)を論じるものでもあった。
これまでの、わが国の官僚制論をめぐる論議は、概ねつぎの三つに整理できる。すなわち、官僚優位論、政党優位論(多元主議論)、政党優位論への批判(村松理論への批判)の三つである(3)。その争点を簡単に整理すると、ポイントはつぎの二点である。ひとつは、政治権力の戦前と戦後の継続性の問題であり、それは戦後の時代区分やその変化・発展への評価のしかたによる問題である。もうひとつは、政党と官僚制の優位論争の問題であり、それは両者の関係を全体としてとらえるか政策ごとに見るかのちがいによる問題である。
第一の説である官僚優位論を代表する辻は、わが国の官僚制が、微温的な戦後改革のために、唯一の国家機関であり政治権力の核として「温存・強化」されたことを、その根拠としてあげた。その具体的な理由として、つぎの三点をあげている。すなわち、((1))GHQの間接統治、((2))官僚制の中立性に対する幻想、((3))行政の知識に関する政党の無力、の三点である(4)。この官僚優位論は、官僚権力の戦前と戦後の連続性を重視し、ながく学界の通説であった。また、官僚制のうち、大蔵省や通産省などの経済官僚の役割にとくに注目する学説も見られる(5)。
一方、第二の説である政党優位論を主張する村松は、戦前の天皇制中心の政治体制が戦後は国会中心の国民主権の政治体制へ転換した点や、統治の実質部分として官僚制よりむしろ政党や利益集団の活動を重視した。そこで、官僚優位論の問題点としてつぎの三点を指摘した。すなわち、((1))時代区分が不明確な点、昭和二〇年代とその後の変化の把握不足に関する点、((2))官僚像の変化、戦前の天皇の官吏としての内務官僚と戦後台頭したテクノクラートとしての経済官僚のちがいに関する点、((3))実証研究の不足、の三点である。そして、村松は、政党優位論の要旨としてつぎの三点を提起した。((1))官僚優位論は五五年体制下ではあてはまらない、((2))自民党の長期政権によって、与党政治家の政策形成能力・影響力が向上した、((3))わが国の政治過程は、官僚支配による一元的なものではなく多元的なものである。この政党優位論は、政治権力の戦前と戦後の断絶性を主張し、多元主義論を提唱した(6)。その後、諸氏によって様々な形容詞付の日本型多元主義が生み出された(7)。
さらに、第三の説として、政党優位論を批判する議論が山口によって展開された。山口は、村松理論の問題点としてつぎの三点を指摘した。((1))細かい時期区分の必要性、五五年体制下の約三〇年間を一括してとらえることへの問題、((2))政策決定過程の検討が、福祉や農業などの政策分野に限定されている点、財政・金融・産業などの政策分野では多元主議論が妥当するかどうかへの疑問、((3))政党と官僚制の力比べより、政策の決定と実施の過程における、両者の協力・分業関係の検討が重要。そこで、山口は、上記の批判にもとづいて、理論の対象となる時期区分と政策類型をある程度細かく設定し、各々の理論モデルの特長と限界を認識した上で、それらの統合をめざした(8)。
(2) ウォルフレンの官僚制への論議
ウォルフレンは、わが国の官僚制について、基本的に戦前と戦後の連続論の立場をとっている。わが国が戦後復興をとげ経済大国に成長した理由として、「米占領軍に指導された"デモクラシー"による経済的、政治的再編成ではなく、日本の社会・政治的世界と一度は捨てた戦争中の"封建的"な慣行」をあげている(9)。そして、「システム」を戦前の官僚制が強化されたものと見なしている。
また、占領軍がわが国の政治指導層の変革においてくだした最も問題ある決定は、官僚制をそのまま温存したことであると認めている。しかし、この点を強調しすぎることは、当時の権力の現実を無視することになると、一定の留保を付けている。つまり、当時の占領軍の関係者は、わが国の官僚制もアメリカと同様の非政治的な専門技術者であると思いこんでいたからである(10)。
そして、戦後、わが国の官僚制が強い権力を得た要因として、軍人仲間からの解放、財閥解体、公職追放などをあげている。さらに、戦前の経済官僚が戦後は財界代表に変じ、社会統制官僚は政治家として国会に流入し、ウォルフレンがいう官僚、元官僚の財界指導者、官僚出身の政治家からなる「管理者」(アドミニストレーター)が形成されていった。
ここで、ウォルフレンのいう官僚制の論議を整理すると、彼の関心は、官僚優位か政党優位かの論争にはなく、戦前から戦後にかけての官僚制の人と政策の継続性、およびその強化にあった。ただし、上記のように占領改革の評価などにおいて辻の見解とも若干異なり、山口が試みた政策類型による分析などとは全く異なる手法である。ウォルフレンの分析は、むしろ、リビジョニストの後見人ともいわれるジョンソンが通産省研究の中で明らかにした、官僚制の組織としての継続性と発展性に主たる関心があるようである。
人的には、戦前の満州国や企画院で訓練した革新官僚が、戦後も経済安定本部や通産省で活躍する。また、上記のように、元官僚の財界指導者や官僚出身の政治家が、各界で活躍する。政策的にも、経済システムや金融統制の体制は、戦前から大きく変わっていない。そして、戦前には官僚制と対抗した権力主体である軍や財閥が、戦後には解体し、その分官僚制の権力が強まり、次第に強化されてきた。ウォルフレンの見解は、「一九八〇年代後期の日本の〈システム〉は、一九世紀末から徐々に形成された政治的な勢力の統合強化の産物であり、戦争によって促進された統合物である」という表現に集約されている(11)。
二、わが国官僚制の組織的特色
(1) 官僚政治と省庁間セクショナリズム
これまでの論議からも、わが国の官僚制が大きな権力をもっていることがわかる。そこで、ウォルフレンは、わが国を「権威主義的官僚国家」であると考えれば、わが国の権力構造の謎も解きやすくなると自答している。ただしかし、ウォルフレンが問題にしているのは、その官僚の中で実権を握っているのはだれだかわからない、という点である。省庁間の縄張り争い(セクショナリズム)は、官僚が政策決定における全般的な支配力を握ることをこれまで妨げてきた。そして、それは、ほんとうに必要な国の統一政策の形成を妨げ、全体としての官僚の権限がおよぶ範囲を不明確にしている、とウォルフレンは指摘する(12)。
省庁間セクショナリズムは、わが国の官僚制にかぎったことではなく、各国の行政組織においても見られる官僚制の逆機能のひとつであるが、ウォルフレンは、わが国のセクショナリズムの特徴を明治国家の性格にもとめている。つまり、明治国家は、一部の藩閥による寡頭政治政権であったために、この国家の創始者たちは、みずからの権力を失うのを恐れて、政治権力の責任の所在をあいまいにした。それでも、初代の創始者たちの時代は、意見のちがいを調整し、統一政策を打ち出すことができたが、次代の後継者たちの時代になると、内務省、陸軍、海軍、外務省、大蔵省、枢密院などの国家機関が独自の利益と自治観をもちはじめ、調整がきかなくなった。ウォルフレンは、この点にセクショナリズムの淵源を認めている。
かつて、辻は、わが国官僚制の特徴として、((1))階統制と割拠性、((2))行動形態の諸様式、((3))意思決定における稟議制の三つをあげた(13)。ここでの主題は((1))であるが、その意味するところは、「制度的には天皇を統治権の総覧者とする精緻な階統制が設けられていながら、その制度の現実的な運用面においては、封建時代に存した多元的な政治勢力が存続し、階統制自体に割拠的性格が生ぜざるをえなかった」という矛盾した結合にある(14)。太政官制度から内閣制度への発展段階において、この矛盾の是正がめざされたが、結局果たせず、統治構造自体の脆弱性と各省中心の割拠性(セクショナリズム)を招いた。ウォルフレンのいうセクショナリズムは、この辻の割拠性と意見を同じくする。
また、村松は少し異なる見解をもっている。村松は、わが国におけるセクショナリズムの生理の面(純機能)を「省庁中心システム」と呼んだ。「省庁中心システム」は、経済成長期には、競争エネルギーになり、政府活動の活力でもあった。それは、人員や予算などの少ない行政リソースを最大動員するための窮余の策だったからである。しかし、欧米の政策に追いつくという国家目標が達成されてからは、セクショナリズムの逆機能がめだちはじめた。つまり、「省庁官僚制の利益代表行動が団体や政治家集団と結託して同盟の三角形をつくり、不透明な利益構造を作った」からである(15)。この点においても、村松は、辻と異なる時代認識をもっている。
(2) セクショナリズムの解決策
わが国官僚制の組織的特色のひとつである、このセクショナリズムに関して、戦前・戦後を通じて様々な解決策が試みられてきた(16)。戦前においては、省庁間セクショナリズムについては、内務省が一定の調整機能をはたしていた。それを可能にしたのは、地方行政と警察行政を一手に掌握した内務省の優越的地位に原因がある(17)。戦後、内務省の職務は、自治省・警察庁・建設省・厚生省・労働省などに分割された。戦前の内務省の省内調整が、すくなくとも今日の五省庁間の総合調整にあたることを考えれば、内務省のはたした調整機能の大きさが想像できる(18)。また、総合調整機能の強化をめざして、内閣補佐機構と調整機関の整備充実が試みられた。企画院は、その試行錯誤の結実したひとつの姿である。企画院は、国家総動員計画を担当し、物資動員計画の作成と実施にあたる戦時経済運営の中枢的機関であったが、当初期待された調整機能を充分に発揮することができなかった(19)。ウォルフレンやジョンソンの観察によれば、その効果があらわれるのは、後身の軍需省や戦後の経済安定本部、通産省になってからである。内務省や企画院に関するウォルフレンの評価は、社会統制官僚や経済官僚の牙城であり、戦後官僚制のモデルと見なしている。
戦後改革においても、セクショナリズムを是正する内閣補佐機構や調整機関の強化は実現されなかった(20)。戦後、省庁間セクショナリズムについて最も論議されたのは、第一次および第二次の臨時行政調査会においてであった。第一次臨調と第二次臨調では、性格を全く異にする。第一次臨調は、高度経済成長にそなえる行政組織づくりが目的であり、一方、第二次臨調は、大きくなりすぎた政府を縮小することにねらいがあった。第一次臨調では、内閣官房を拡大強化し、予算編成権も具備した「内閣府」や首相のブレーンとしての「内閣補佐官」などの設置が提案されたが、どれも実現されなかった。また、第二次臨調およびその後身の行革審では、管理機能の充実をめざし行政管理庁と総理府の一部を統合した「総務庁」の設置や安全保障と情報機能の強化をねらいとした内閣官房の改組が実現した(21)。
このように、わが国では省庁間セクショナリズムの解決策として、総合調整機能の強化が論議されてきたが、ウォルフレンの関心は、むしろ、つぎの二点にあるといえる。第一は、首相のリーダーシップの発揮である。たしかに、わが国の首相に与えられている実権は、西欧やアジア諸国の首長より小さいが、運用次第ではかなりのことができるという(22)。そこで、システムを最もうまく活用した田中角栄や大統領型首相をめざした中曾根の例をあげている。ウォルフレンは、政策面では成果をあげなかったが、政治スタイルや象徴性の面で中曾根に一定の評価を与えている(23)。第二は、経済官僚(官庁)の役割である。大蔵省と通産省は、より責任ある省と見なされ信頼も大きい。予算編成権と経済発展の「水先案内人」としての役割はそれを裏付けている。しかし、彼らも自省の利益があり、縄張り争いの渦中にある(24)。
一九八四年、電気通信産業という新しい監督権をめぐり、通産省と郵政省の間で繰り広げられたVAN戦争や、一九六七年の秋、「局あって省なし」の省庁内における部局間セクショナリズムの典型例を見せた大蔵省の「財政硬直化打開」運動は、あまりにもよく知られた事例である。結局、これらの事件の調停役を務めたのは政治家であり、さらに、後者の事例は、その発端の原因が政治家にある。現状のところ、省庁間および省庁内セクショナリズムの解決策は、官僚制の内部統制にはなく、政治家に依存している。そして、それが族議員の温床にもなっている。
三、わが国官僚制の政策的特色
(1) わが国における官民関係
政策とは、政府が、国民(社会や市場)に影響をあたえる諸施策(影響力)であると表現できる。そこでは、当然、官と民の関係、公と私の関係がテーマになる。
かつて、わが国を称して「日本株式会社」という比喩があった。ウォルフレンは、わが国政府には重要な意思決定をおこなう取締役会や内外に責任をもつ取締役社長が存在しないので、その表現は不適切であるという。しかし、この比喩が意味するところは、彼がいままでにも指摘したように、わが国では、官と民、公と私の境界があいまいで、経済成長という国家目標(政策)にむかって、渾然一体となって突き進んでいくそのような結びつきを表現したのであろう。
ジョンソンは、それを「資本主義的発展志向型国家(CDS)」と名づけた。CDSの特徴は、官僚制と産業界との協力体制にある。つまり、政府が経済を誘導していく新しいタイプの政治経済モデルである。ジョンソンの観察によれば、通産省はその「水先案内人」や「経済参謀本部」の役割をはたした。近年、経済成長をおさめている韓国、台湾、香港、シンガポールなどの新興工業地域(NIES)も、このCDSに分類される。
ウォルフレンは、その著書の冒頭に外国人の日本理解を混乱させる二つのフィクションをあげた。第一は、責任ある中央政府があるというフィクションであり、第二は、「自由市場」の経済国であるというフィクションである。この二つのフィクションは、相互に関連していて、実は、第一のフィクションを解く鍵が、第二のフィクションの中にあることを彼は表現したかったのだろう。上記のことはそれを示している。
繰り返しになるが、ウォルフレンは、わが国官僚制が非常に大きな権限をもっていることを指摘している。それは、わが国の官僚制が、営利事業に関する許認可権を握り、助成金、税法上の特典、低利融資などの自由裁量権を有しているからである。その中でもとくに、「行政指導」は、「管轄下の民間組織を"自発的に"役所に従わせることができる」(25)という、わが国独特の官民関係を形成している。そして、行政指導は、わが国の各種政策、とくに財政・金融政策や産業政策などの経済関連政策を実施する上で、よく使われる統制手段である。そこでつぎに、わが国官僚制の政策的特色のひとつである行政指導について考えたい。
(2) 行政指導を中心に
行政指導とは、村松の定義によれば、「行政機関が国民の自発的協力を前提にして一定の政策目的を実現するために働きかけを行うこと」であり、「行政と関係団体をつなぐ重要な導管」である(26)。しかし、ほんとうに「自発的協力」を前提にするのだろうか。ウォルフレンは、「官僚にとって自発的協力という幻想を保つことは非常に重要である」と指摘する。また、村松は、行政指導のはたした産業発展への効果を疑問視する。そして、行政と業界との利害調整は、司法のルールによっておこなわれることを提案する(27)。しかしながら、ウォルフレンは、その司法にも疑問の目を投げかけている。
よく知られた事例であるが、行政指導の問題点を明らかにするために、証券不祥事の例を振りかえっておく。バブル経済の崩壊の中、一九九一年六月、四大証券をはじめとする多数の証券会社が、大口投資家にかぎって損失補填をしていたことが明るみに出た。争点は、この行為が、一九九一年一〇月改正前の証券取引法には違反しないが、社会通念上の道義に反する行為であるにもかかわらず、事実上大蔵省の黙認の上におこなわれていたことである。この事件に対して、アメリカの証券取引委員会(SEC)のような厳しい摘発機関の設置がもとめられたが、大蔵省の反対にあい、結局、独立性の弱い大蔵大臣の指揮権のおよぶ「証券・金融検査委員会」とその事務局が、大蔵大臣の付属機関として設置された。また、官僚制と業界の間に政治家が関与したケースとしては、リクルート事件などがあげられる。
新藤は、行政指導の問題点をつぎのように指摘する。第一の問題点は、行政指導の不透明性にある。行政指導は、官僚制にも業界側にもメリットがあるかもしれないが、社会全体にとってはどうだろうか。この閉鎖的なシステムは、民主性という面で問題がある。そこで、行政指導についての一般ルールを定めた「行政手続法」の制定は、評価に値するが、今後はその運用をつぶさに検討する必要がある(28)。また、第二の問題点は、官僚制にとってのデメリットである。行政指導は、一見、立法府(政治家)に対する行政府(官僚制)の優位をもたらすように見えるが、逆に官僚制の権威の失墜をもたらしているのである。上記の証券不祥事の結末は、それをよくあらわしている。そして、第三の問題点は、政治(族議員)の介入である。新藤も、行政指導は、「政治家が特定利益の依頼に応じて、便宜をはかるように官僚に働きかけるうえで、まことに都合がよい手段」であると指摘している(29)。つまり、行政指導は、「政・官・業」を結びつける一因にもなっている。
四、むすびにかえて
これまで、ウォルフレンの議論を中心に、わが国の官僚制について再検討してきた。組織的特色と政策的特色の両面から検討を試みたが、わずかにセクショナリズムと行政指導について若干考察したにすぎない。そこで、ウォルフレンが問題にしたのは、「政・官・業」をめぐる関係の不透明性にあったといえる。彼は、この三者の関係について、「強力な経済関係省による経済界の統制と保護」「官僚と自民党政治家との間のパワープレイ」「経済界による自民党支持」という三すくみの構造をあらわしている。ウォルフレンの分析について以前から疑問だった点は、彼が提示したこの構造や「システム」および「管理者」という概念が、従来からある「三角同盟論」や「官僚優位論」とどこがちがうのか、という点である。
日本政治のモデルについて、辻中は、つぎの四つに分類整理している。((1))エリート主義モデル(三角同盟論や官僚優位論)、((2))階級闘争モデル、((3))多元主義モデル、((4))協調主義モデル(コーポラティズム)、の四つである。これを、マクロレベルにおける国家の「構造」と、ミクロレベルにおける社会における個々の「政策」、のどちらに焦点があるかという視点で分類するとき、((1))((2))((4))は前者にあたり、((3))は後者にあたる。ウォルフレンの提示する概念は、基本的には、アドミニストレーターという明確な支配階級を指摘し、国家の「構造」を問題にしているが、それが、システムという社会一般への広がりをもっている点に特徴がある(30)。
それでは、ウォルフレンのいう「構造」とはなにか。たとえば、近年、欧米やわが国の政治学や行政学において関心を深めている「制度」とは異なるものか。ウォルフレンは、ジョンソンの提示した概念を用いて、わが国を「発展志向型国家」として認めている。それは、つまり、国家が経済を誘導していく政治経済モデルであり、最近の政治経済学や新制度論などの理論動向を反映したものでもある。ジョンソンは、歴史的制度論者として、「制度」が政策に与える影響や、その継続性や発展性に関心があった(31)。しかし、ウォルフレンのいう「構造」とは、文化をも含んだ社会構造を意味し、政治経済学や新制度論よりも広い視野をもった概念といえる。
また、ウォルフレンのえがくわが国の政治過程において、最も重要な点は、アドミニストレーター間、とくに政府機関相互と自民党の諸派閥間で、果てしなくくり返される抗争である。その過程において、「政・官・業」の各アクターの連結環となっているのが、「族議員」である。これまで見てきたように、わが国官僚制の組織的および政策的特色のひとつであるセクショナリズムや行政指導が、この三者の結びつきを強め、その三者を媒介する「族議員」の温床にもなっている。族政治は、一九八〇年代後半に、自民党の一党優位体制による政策形成能力の向上や低成長期における政治的資源(予算や利権)の獲得、ぶんどりという政治経済環境の変化や必要に応じて出現したものである(32)。その原型は、田中角栄であり、田中は、わが国の「システム」の中心は空洞だと見抜いていた。族政治についての検討は、紙幅の制限もあり、今後の課題としたい。
そこで、冒頭に設定した「問い」にこたえなければならない。つまり、わが国の官僚制は、ほんとうに大きな力をもっているのか、そして今後ももち続けるのか、という問題である。ウォルフレンは、わが国官僚制の力の強さを繰り返し主張してきた。しかし、ここで、官僚制権力について村松の興味ある分析を思い出さねばならない。村松は、権力には「自律性」と「活動量」の二要素があることを指摘している。自民党政権時代、わが国の官僚制は、政策形成に関わることによって活動量を拡大し続けた。一方、その分、自律性は制限されてきた。今日の連立政権の時代、わが国の官僚制は、自律性か活動量か、自律性か政治化か、選択を迫られている。そして、官僚制は、本人(議会)に対して、でしゃばりの保証人の役割から代理人に純化することをもとめられている。また、村松は、中立者としての司法の調整にも期待をよせている(33)。
この村松と同様の主張が、ウォルフレンの中にも見つけられる。ウォルフレンは、「日本語文庫新版への結び」において、官僚制の能力の限界について言及している(34)。そして、今日、わが国が直面している諸問題の解決には、官僚制は力不足であり、政治家の決断を期待している。実は、そのことに官僚制自身が気づきはじめているという。政党と官僚制が、優位関係から融合関係に移ってきた今日、官僚制が大きな力をもち続けるとは考えられない。いずれにしろ、ウォルフレンと村松の結論は一致している。最終的に決めるのは、「消費者」としての市民である。
最後に、ウォルフレンへの評価をもって小論のむすびとしたい。ウォルフレンの著作が出版されてからかなりの時間が経っている。しかしながら、この時点においてウォルフレンを研究する意味は、十分にあるといえる。それは、旧著以後、その著作にも触発されて、日本政治をめぐる環境や理論動向が大きく変化した。それらの点をふまえて、彼の議論を再検討することは意味のある作業であろう。ただ、小論がそれにどれだけこたえられたかはいささか自信がない。また、ウォルフレンは、最近、新しい著作を出版した(35)。そこでは、「政治化された社会」などの概念を使い、旧著における主張をより詳しく展開している。しかしながら、評者は、旧著がわが国の学界や言論界に大きな反響を呼んだだけに、それらとの対話(相互作用)を通した「新しみ」を期待していた。小論は、新著を評するものではないが、旧著への評価の延長線上に、そのような印象をもった。旧著を評価するとともに、今後のウォルフレンの仕事に期待したい。蛇足ながら、その際、評者は自分の専門関心からも、今度は国政レベルから地方レベルにおける(中央・地方の関係も含めた)権力構造の「謎」の解明を期待している。
(1) 奥井智之『日本問題』中公新書、一九九四年、参照
(2) 『中央公論』(一九八九年一月号、同年五月号)における、ウォルフレンと村上泰亮、舛添要一との論争が、有名である。
(3) 佐藤満「政策過程と行政」『日本の政治』法律文化社、一九九二年、参照。ならびに、佐藤満「政策過程モデルの再検討」『政策科学』(二巻一号)立命館大学政策科学会、一九九四年、参照
(4) 辻清明『新版 日本官僚制の研究』東京大学出版会、一九六九年、参照
(5) 大蔵省(大蔵官僚)研究については、伊藤大一『現代日本官僚制の分析』東京大学出版会、一九八〇年、参照。通産省(通産官僚)研究については、チャーマーズ・ジョンソン『通産省と日本の奇跡』TBSブリタニカ、一九八二年、参照。また、最近のジョンソンの業績については、山口定「戦後日本の産業政策と Ch・ジョンソン」『政策科学』(二巻一号)立命館大学政策科学会、一九九四年、参照。さらに、ストリート・レベル(第一線職場)の官僚制研究については、畠山弘文『官僚制支配の日常構造』三一書房、一九八九年、などの業績がある。
(6) 村松岐夫『戦後日本の官僚制』東洋経済新報社、一九八一年、参照
(7) 「限定された(limited)」(福井、一九六九年)、「パターン化された(patterned)」(村松・クラウス、一九八七年)、「官僚主導大衆包括型」(猪口、一九八三年)、「仕切られた(compartmentalized)」(佐藤・松崎、一九八六年)、「分散型 (fragmented)」(中邨、一九八四年)。これらの形容詞付の多元主義モデルは、明らかにアメリカのモデルとの一定の距離を意識している。
(8) 山口二郎『大蔵官僚支配の終焉』岩波書店、一九八七年、参照
(9) ウォルフレン『日本/権力構造の謎・下巻』(文庫版)早川書房、一九九四年、二二一頁
(10) 同上、二二一頁、参照
(11) 同上、二二〇頁
(12) ウォルフレン『日本/権力構造の謎・上巻』(文庫版)早川書房、一九九四年、一〇四ー一〇五頁、参照
(13) 辻清明『行政学概論・上巻』東京大学出版会、一九六六年、参照
(14) 同上、九九頁
(15) 村松岐夫『日本の行政』中公新書、一九九四年、二六ー二七頁
(16) 片岡寛光『内閣の機能と補助機構』成文堂、一九八二年、参照
(17) 佐藤竺「行政制度(法体制準備期)---内務省の成立---」『近代日本法制度発達史』勁草書房、一九六〇年、八二頁、参照。ならびに、大霞会編『内務省史』第一巻、地方財務協会、一九七一年、五八一ー五八三頁 、参照
(18) 秦郁彦『戦前日本官僚制の制度・組織・人事』東京大学出版会、一九八二年、六八六ー六八七頁、参照
(19) 赤木須留喜『近衛新体制と大政翼賛会』岩波書店、一九八二年、参照
(20) 岡田彰『現代日本官僚制の成立』法政大学出版部、一九九四年、参照
(21) 竹下譲「第二臨調の行政改革とその進捗度−総合調整機能の強化を事例に」『行政改革の理念と実践−日本・アメリカ』行政管理研究センター、一九八六年、参照
(22) 前掲、ウォルフレン『日本/権力構造の謎・上巻』三〇七頁、参照
(23) 同上、三一八頁、参照
(24) 同上、二六一ー二六三頁、参照
(25) 同上、一二五ー一二六頁、参照
版面合わせのアドバンス
(26) 前掲、村松『日本の行政』一三六ー一三七頁
(27) 同上、一四一頁、参照
(28) 兼子仁『行政手続法』岩波新書、一九九四年、参照
(29) 新藤宗幸『行政指導』岩波新書、一九九二年、一六〇頁、参照。また、許認可権限については、森田朗『許認可行政と官僚制』岩波書店、一九八八年、参照。
(30) 村松岐夫・伊藤光利・辻中豊『日本の行政』有斐閣、一九九二年、五九ー六九頁、参照。ならびに、福井英雄編『新版 日本政治の視角』法律文化社、一九九二年、参照
(31) 新しい政治経済学や制度論は、一九六〇年代末以降、アメリカでそれまでの政治学(行動論的政治学)への見直しとしてあらわれた。従来の「アクター」や「過程」を重視するアプローチに対して、「構造」や「制度」に焦点をあてた。新政治経済学といっても、それは、生産現場の構造や社会構造、国家構造、国家構造と社会構造の関係などを論ずる諸派からなり、また、新制度論も合理的選択論や歴史的制度論などに細類される。森脇俊雅「現代政治学における政治経済学的諸研究についての一考察」『法と政治』(第三八巻 第四号)関西学院大学法政学会、一九八七年、参照。真渕勝「新しい制度論の展望」『阪大法学』(第四〇巻 第三・四号)大阪大学、一九九一年、参照。真渕勝『大蔵省統制の政治経済学』中央公論社、一九九四年、参照。
(32) 猪口孝・岩井奉信『「族議員」の研究』日本経済新聞社、一九八七年、参照
(33) 前掲、村松『日本の行政』二〇一ー二一〇頁、参照
(34) 前掲、ウォルフレン『日本/権力構造の謎・下巻』四一一ー四一七頁、参照
(35) ウォルフレン『人間を幸福にしない日本というシステム』毎日新聞社、一九九四年、参照