立命館法学 一九九五年三号(二四一号)




アメリカにおける契約準拠法の展開に関する一考察
---重心理論の比較法的位置付けについて---

樋爪 誠






目    次




       第一章 は じ め に
 国際私法は、具体的に生じてくる渉外的法律関係について、それと最も密接な関係にある国の法(以後これを最密接関係国法という)を選び出すことをその本質とする。したがって、各々の抵触規則はその最密接関係国法の確定を示すものでなければならない。しかし、契約準拠法に関しては、債権契約そのものの高度の人工的・作為的性質、すなわちその合理性・抽象性の故に、最密接関係国法の確定が非常に困難であるとされる(1)。その結果として、近時、契約準拠法については最密接関係国法自体を抵触規則として、後は実務に委ねるというのが世界の趨勢である。
 例えば、一九七一年にアメリカ法律協会(American Law Institute)による「抵触法第二リステイトメント(Restatement of the Law, Con■ict of Laws, Second)」(以後これを第二リステイトメントという)は、その一八八条において、明示的な準拠法の合意が存在しない場合には「最も重要な関連を有する邦の法」によるとしている(2)。ヨーロッパに目を転じれば、一九九一年に発効した現EUによる「契約債務の準拠法に関する条約(Convention on the Law Applicable to Contractual Obligations)」(以後これを契約債務準拠法条約という)も、四条で、明示的な準拠法の合意がない場合には、最密接関係国法によると定めている(3)。他方、EU域外国においても、例えば一九八七年のスイス国際私法は一一七条において最密接関係国法を採用している(4)。さらに一九八六年の「国際的有体動産売買契約の準拠法に関するハーグ条約(the Hague Convention on the Law Applicable to International Sales of Goods)」も、八条三項において、最密接関係国法を基準として採用している(5)。また、以上のものはすべて、当事者自治の原則(Prinzip der Parteiautonomie)を採用している(6)。
 このように、当事者自治と最密接関係国法という組み合わせは、契約準拠法決定に関して、相当の普遍性を持つ基準となってきたとも言えよう。そして、先にも述べたように、その普遍性の確保は、各法域における具体的運用にかかっているのである。したがって、今後はこれらの諸法制の異同を明確にし、新たな展開を図ることが肝要である。
 そのなかで、アメリカ抵触法上、この問題がいかに考えられてきたかを見る必要がある。なぜなら、周知のとおり、アメリカでは、今世紀半ばの「抵触法革命(American Con■icts Revolution(7))」を機に、とりわけ債務法(主に不法行為および契約)の分野において、伝統的抵触法理論が激しく批判された。その後に、先の第二リステイトメントが作成されたのである。しかし、この第二リステイトメントは、先に述べたような他の法制度と結果的には大きく異なるものとはならかった。ところでこの第二リステイトメントは、そのいわゆる「革命」理論にのみ依拠するものではなく、むしろ「重心(center of gravity)」理論といわれる判例法理との折衷であるとされる。したがって、この「重心」理論の歴史的な展開の中に、契約に関するアメリカ抵触法の比較法的位置付けを見いだすことができるのではないかと考える。
 本稿では、この点をイギリス抵触法との関連を中心に検討する。なぜなら、一方では、抵触法上、不法行為に関しては、イギリスのいわゆる「プロパー・ロー(proper law)」理論と、アメリカの第二リステイトメントの密接な関係が早くから認められている(8)。しかし他方で、アメリカ抵触法とイギリス抵触法は、とりわけ今世紀以降のアメリカ抵触法の強い独自性のため、一般的にその関連性は否定される傾向にあった(9)。しかし、契約の「プロパー・ロー」理論は、英連邦のみならず、EUやハーグの諸条約にも影響を及ぼしており(10)、手法も不法行為と類似することに鑑みれば、アメリカの契約抵触法にも同様のことが言えるのではないか。この点を解明したい。
 このことは、ひいてはリステイトメントと他の法制の実証的研究の手がかりになると考える。なぜなら、当事者自治や最密接関係国法といった抽象的な基準を有する法制度を比較検討する場合、いずれにも通ずる概念を中心にすることが極めて有益だからである(11)。

(1) 例えば、折茂豊『当事者自治の原則』(一九七〇年、創文社)(以降、折茂・当事者として引用)九頁等参照。
(2) 第二リステイトメントの全体像については、松岡博『国際私法における法選択規則構造論』(一九八七年、有斐閣)(以降、松岡・構造論として引用)に詳細である。
版面あわせ
(3) 契約債務準拠法条約については、岡本善八「国際契約の準拠法---EEC契約準拠法条約案に関して---」同志社法学三二巻一号一頁以下参照。
(4) 一九八七年のスイスの国際私法については、三浦正人「一九八七年のスイス連邦国際私法仮訳」名城法学三九巻一号六五頁以下(一九八九年)、井之上宜信「スイスの国際私法典について(1)(2)」法学新報九六巻一・二号四〇五頁以下(一九八九年)、奥田安弘「一九八七年のスイス連邦国際私法(1)ー(6)」戸籍時報三七四号ー三七九号(一九八九年)等がある。なおこのうち「共通規則」と「債務法」の部分の訳については奥田安弘『国際取引法の理論』(一九九二年、有斐閣)二七三頁以下にも収められている。また、同法の立法過程については、石黒一憲「スイス国際私法第二草案(一九八二年)について(1)〜(3)(完)」法学協会雑誌一〇〇巻一〇号一六四頁、一〇一巻二号三二〇頁、一〇一巻六号一三八頁以下(一九八四年)、奥田安弘「スイス国際私法典における若干の基本的諸問題(1)(2)(完)」北大法学論集四〇巻二号二九一頁、四〇巻三号五九九頁以下(一九八九年)等参照。
(5) この条約の逐条的紹介として、松岡博・高杉直・多田望「国際物品売買契約の準拠法に関するハーグ条約(一九八六年)について」阪大法学四三巻一号(一九九三年)があり、同条約の正式な報告書の翻訳としては、同じく松岡博・高杉直・多田望「Arthur Taylor von Mehren『国際物品売買契約の準拠法に関するハーグ条約についての報告書(翻訳』」香川法学一三巻三号(一九九三年)がある。なお、この条約はハーグの「国際動産売買の準拠法に関する一九五五年の条約」の事実上の改正にあたるが、この一九五五年の条約については、川上太郎『国際売買法概論』(一九六四年、千倉書房)二三頁以下を参照。
(6) この原則に関する文献及び説明は山田鐐一『国際私法』(一九九二年、有斐閣)二八一頁以下を参照。また、その歴史的展開については折茂・当事者に詳細である。
(7) 抵触法革命のあらましについては、Scoles/Hay, CONFLICT OF LAWS [2nd. ed. ] (1992) P. 15 et seq. 及び松岡・構造論第一部第一章を参照。また石黒一憲『現代国際私法[上](一九八六年、東京大学出版会)六〇頁以下も手がかりとなろう。
(8) F. A. Mann, The Proper Law in the Con■ict of Laws,(以降、“Mann, Proper Law", として引用)36 I. C. L. Q. 438 (1987) et seq. ;「プロパー・ロー」(一九七五年、国際法学会編『国際法辞典』)五九九頁[西賢]等参照。また、第二リステイトメントに影響を与えたとされる「不法行為のプロパー・ロー」理論については、西賢「不法行為のプロパー・ローについて」『国際私法の基礎』(一九八三年、晃洋書房)一九一頁以下参照(なおこの論文の初出は一九六六年)、本浪章市「『渉外不法行為に関する英国の伝統的規則とプロパー・ロー』 ---序章---ボーイズ事件再考開始(控訴院までに限定して)」関大法学三九巻四=五号二六七頁、同『英米国際私法判例の研究 国際債権法の動向』(一九九四年関大出版部)一二五頁以下、折茂豊『渉外不法行為法論』(一九七六年、有斐閣)一〇七頁以下等参照。
(9) この点を比較的明確に述べているものとして、川上太郎「アメリカ国際私法の発展ーその一、序説ー」神戸法学雑誌一一巻四号四四三頁以
下がある。
(10) 「プロパー・ロー」(一九九五年、国際法学会編『国際関係法辞典』)六九〇頁[岡本善八]、松岡博『国際取引と国際私法』(一九九三年、晃洋書店)二二二頁等参照。
(11) 松岡・前掲書(注(10))第二部第一章及び第二章を参照。


       第二章 問 題 の 所 在
第一節 契約準拠法の歴史的展開
 (一) マンスフィールド卿以前
 まず、契約準拠法に関する歴史的展開を英米を中心に概観する。
 イギリスにとって歴史上、法的に最も重要な最初のできごとは、一〇六六年のノルマン征服(Norman Conquest)であった。しかし、厳密に言えば、法的に重要であったのは、政治的要請から生じた結果であった(1)。すなわち、精神的な権威を重んじるアングロ・サクソン王権に比して、物理的な力による統治を欲していたノルマンの王権は、裁判所の統括を含めた中央集権を渇望するようになった(2)。その一環として、国王の目となって国内をまわる王室巡回裁判所(itinerant Royal justice)の制度が導入されたのである。それが当時すでに存在していた裁判所と並行して運用されたため、二重管轄の問題が生じ、同時にそれぞれの裁判所が適用する法の「抵触」も結果として生じた。それは、巡回裁判所を含め当時国内に存在した複数の裁判所間における管轄権の「抵触」であり、それに付随して起こる各裁判所が適用する法の「抵触」であった(3)。すなわち、二つの「抵触」は純然たる国内法問題であったのである。
 他方で、古くは王室から勅許を得ていた商品取引所の裁判所において、あるいは一四世紀以降の海事裁判所(Court of Admiralty)において、渉外的な要素を包含した商事紛争が扱われていた。しかし、その場合に適用されていたのは商慣習であり、法選択の問題は生じていなかった、といわれている(4)。一七世紀の初頭からは外国判決の承認も行われるようになったが、イギリスの裁判所が行えるのは、当該外国裁判所が国際的見地から管轄権を有しているかおよび終局判決であるかの判断のみであった。したがって、渉外的契約における法選択問題の真の起源は一八世紀まで待たねばならない、とされている(5)。
 一方、大陸法に関しても、古代においては、抵触法規則を展開させる余地はほとんどなかった(6)。『ローマ法大全』にある『学説彙纂(Digesta)』の二つの項目「不動産に関する担保義務(Si fundus, D 21. 2. 6)」と「契約締結地に関する推定(Contraxisse, D44. 21. 7)」は、渉外的な契約問題に関するものであり、両項目とも契約締結地法の適用を前提としていた。しかしながら、現代法の法源としての価値はほとんどないといわれる(7)。
 次いで、イタリアの後期註釈学派のなかの法規分類学説において、一四世紀にその中心であったバルトルス(Bartolus a Sassaferato)も、契約の方式及び実質に関する問題には契約締結地法が適用されると説いた(8)。しかしバルトルスの活躍した時代には、契約に関する法は普通法(jus commerce)としてのみ発展していたのであり、制定法のない分野であって、実際上もほとんど問題とならなかった(9)。
 一六世紀のフランスの学者デュムーラン(C. Dumoulin)は、夫婦財産制の分野おいて、当時支配的であった契約締結地法主義に批判を加えた(10)。その際にデュムーランは、当事者の意思を準拠法決定基準として重視したので、後世の学者たちから、「当事者自治原則の父」と呼ばれた(11)。
 デュムーラン以降も、契約の締結及び履行が時間的、空間的に一致した状況で行われた当時の取引情勢を反映して、契約締結地法主義は支配的であり続けた(12)。
 そして、次の展開は、一七世紀のオランダにおいて見られることになる(13)。なかでも、フット親子(P. Voet, J. Voet)とともにオランダ学派を形成したフーベル(U. Huber)が一六八九年に発表した小冊子『各国間の異なる法の抵触について(DE CONFLICTU LEGUM DIVERSARUM IN DIVERSIS IMPERIIS(14))』は、その後の英米法系諸国の抵触法理論に多大な影響を及ぼしたものとして有名である。
 フーベルは、抵触法に関する原則を一五の項目に分けて論じた。その中でも、契約問題にとって重要だったのは五章の「契約(Contractus)」と、一〇章の「行為地の原則の制限(Limitatio regulae de loco)」の二つであった。まず五章においてフーベルは、婚姻、遺言、判決手続と同様に契約においても行為地法主義を採用するとした(15)。そして次に一〇章において、主に婚姻契約を念頭に置きながら、「契約が締結された場所は、必ずしも絶対的に考慮されるものではない。当事者が契約締結時に他の場所を想定していた場合には、締結地は考慮されるべきではない。各人は履行すべき地において締結したものとみなされるのである」という例外を定めたのである(16)。
 このように、フーベルは契約締結地法に明確な例外を定めており、デュムーランと同じく、当事者の意思に比重をおいて契約準拠法を説明したのである。しかし、当事者による準拠法選択を認めたとは言えない。
 (二) イギリス抵触法
 このフーベルの理論がイギリス法へ継受された(17)。とりわけ、次に紹介する判例は、フーベルを明確に引用したものとして有名である。
 Palmes Robinson v. Anna Bland (1760) 2 Burr 1077 は、外国における賭博金債務の支払に関する事案である(18)。イギリス人貴族Xとイギリス人貴族訴外Aは、一七五五年八月に、フランスのパリで、上流階級層の集う中で賭けに興じていた。その席においてAは、Xから金員を借り入れ、さらにその後Xとの勝負のためにXから再度借り入れた。賭けは公正に行われXの勝ちに終わった。Aはその借金について、同日同地において為替手形を振り出した。その手形は二度の借り入れの合計額を、Xの指図により、一覧後定期払(一〇日間)で、ロンドンにおいてAがXに支払うというものであった。その後Aは遺言なく死亡し、遺産管理人の地位には、Aの妹であるYが就いた(19)。
 英仏両国法のいずれにおいても、賭博金債務について振り出された手形は無効であった。ただし、フランスにおいては、上流階級者の男性間の賭博の賭け金は、通常裁判所では回復不可能であったが、宮廷裁判所の裁判官の面前で「儀礼的金銭債務(debt of honour)」として回復し得た(20)。
 Xは、その為替手形に関するものを含めて、XとA間の三つの契約を請求原因として八〇〇ポンドの支払を主張した。それに対してYはそのような契約をAが締結しなかったと抗弁した(21)。賠審はXを支持し、六〇〇ポンドの支払いを認めた。巡回裁判所による一審は、原告が勝訴。
 王座裁判所(Court of King's Bench)は、原審を取消し、次のように自判した。すなわち、外国で締結された契約の解釈は、礼譲にしたがい(ex comitate)、また万民法(jus gentium)上の一般原則にしたがい、契約締結地法によって支配されるのであって、その権利実現のために提起された訴訟地法ではない。しかし、契約締結時において、契約の対象が地域的な関連を有する国の法を当事者が別に意図していた場合、契約の解釈はその国の法による。したがって、フランスにいるイギリス人が別のイギリス人に為替手形を振り出した場合、その手形の解釈はイギリス法によらねばならない。また、外国において賭博債務の支払のために締結された契約および公序良俗に反するおそれのある契約に、イギリスの裁判所が効力を付与することはないとした。王座裁判所は、結論として、イギリス法上Xは金銭を回収する手だてを何ら有しないのであり、Xの請求は認められないとしたのである(22)。
 この判決において、首席裁判官であったマンスフィールド卿(Lord 〈William Murray〉 Mans■eld)は、行為地法原則の例外として履行地法を適用するにあたり、フーベルの方法論を忠実に引用したのである(23)。これは、他の二人の裁判官(デニソン(Denison) 裁判官とウイルモート(Wilmot)裁判官)が、その見解の中で抵触法という概念自体に戸惑いを見せているということと対比してみても、当時の裁判実務からは相当乖離したものであることが伺える(24)。かなり唐突な引用であったと言えよう(25)。
 この判決は、後世の学説から、イギリスにおける当事者自治原則の萌芽とされることがある(26)。たしかに、前述の通り(27)、フーベルの理論自体にも同旨の解釈がなされることがあり、この評価は根拠のないものではない。しかし、マンスフィールド卿が英米法学上果たした独自の役割にも留意するべきであろう。
 マンスフィールド卿は土地法が大部分を占めていたコモン・ロー領域において、積極的に商人間の慣習を取り込み、商事法の発展に大きく貢献した。すなわち、法を当時の商業社会の便宜に一層適合させることを基本とし、法の合理化、法の理解の容易さの促進、及び予測可能性の確保によってそれを達成しようとしたのであった。そのような中で、商事契約において、当事者の意思を重視すべきことを繰り返し説き、契約文言の解釈を自由にして当事者の意思の実現を図っていたのであった(28)。
 また、本件において、マンスフィールド卿は、当事者の意思に関して次のように理由付けている。本件証券はイギリスで支払い得るので、本件取引行為は完全にイギリスの取引行為であり、したがって、イギリス法の適用を受けるべきである。このことは、不動産が不動産所在地法によるのと全く同じ理由である、あらゆる契約において契約の対象がイギリスと地域的関連を有する場合、イギリス法が適用されるべきであり、同時に、イギリス法の適用が意図されたとすべきである、と。この限りにおいてマンスフィールド卿は、当事者の意思に言及してはいるものの、それが準拠法選択を意味していたとは言い難い。
 このような点に鑑みれば、この判決は、むしろ当時のイギリスの社会思想に基づく実質法上の新たな契約思想の準拠法決定基準への反映であったと言えるのではないか。
 いずれにせよ、契約締結地法の画一的適用を脱し、履行地法適用の可能性を裁判上明確にした先例であり、イギリスの裁判所が具体的な事案の解明のために、より妥当な法を探究し始めた判例として、その存在意義は大きい。
 (三) アメリカ抵触法
 一八世紀後半からの技術・文明の発展が、国際取引情勢に新たな問題を投げかけた。一九世紀の初めまでは、商人たちは自ら貨物船を所有し、自ら船荷を売買していた。しかし産業革命の完成と一八四〇年頃からの国際貿易の急激な増加が、海運業を独自の業種として成長させた。さらに一八五〇年頃から、郵便及び電信サービスが国際貿易の便宜のために発展し、銀行業も新しい信用形態の使用によって増加していった。これらすべてが相乗的に作用し、契約の締結及び履行における場所と時間の一致を破壊していった(29)。国際取引の新たな基準が要求される基礎的条件が整っていた。
 イギリスにおける抵触法に関する最初の業績は、一八二三年のヘンリー(J. Henry)の「人法と物法の相違、及び外国判決、契約、婚姻及び遺言におけるその効果について(Treatise on the difference between the statute personal and statute realandits effect on foreign judgements and on contract, marriage and wills)」である(30)。これは、著者の裁判官としての経験に基づいて著されたものである。しかし、その理論は属地主義に基づいた既知の大陸法の理論の反復であったとされ、歴史的価値のみを有すると一般的には解されている(31)。
 他方アメリカでは、ニューオリンズの弁護士リヴァーモア(S. Livermore)が一八二八年に「法の不一致に関する論考(Dissertation on the Contrariety of Laws)」を著し、そこで法規分類学説の理論を擁護した。リヴァーモアの著作は、ローマ法とコモン・ローの間から生じた抵触問題を、ルイジアナ州の裁判所において蓄積された判例に基づき丹念にまとめたものではあったが、時代後れという評価を免れ得なかった(32)。
 しかしながら、リヴァーモアの抵触法学に対する貢献は別のところにあった。彼の集めた判例は、ハーヴァード大学に寄贈されることとなり、そこで、同大学のストーリー(J. Story) によって活用されたのである。つまり、一八三四年に公表された『法抵触釈義(COMMENTARIES ON THE CONFLICT OF LAWS)』の基本資料として利用されたのである(33)。
 ストーリーはイギリスのいわゆる「マンスフィールド・コート」を模範としていた。したがって、ストーリーはイギリス法を積極的に受け入れた反面、この時期の他の裁判官たち同様、裁判所で争われる問題について、時代の要求に応じて創造的に対処し、より独自のアメリカ法の形成に寄与した(34)。
 ストーリーは、一方では契約締結地法を契約準拠法の基本とする点で、マンスフィールドはじめ先人たちと軌を一にしていた。しかし、他方では、「自然的正義(natural justice)」にかなうものとして、履行地法に大きな比重を置いたことでも知られている。現在でもこの点が彼の学説の特徴であるとされている(35)。
 ある研究によれば、ストーリー以降のアメリカ判例法は、大きく分けて、二つの傾向が見られたという。ひとつは、まさにこのストーリーを範とするものであり、契約締結地法あるいは履行地法を適用する。当事者の意思は通常現実的であれ推定的であれ、これらの法の適用を支持する根拠とされていた。もうひとつは、Schundder v. Union National Bank of Chicago 事件におけるハント(Hunt)裁判官の意見であり、契約上の問題を契約の成立、解釈および有効性と履行の二つに分割し、前者には契約締結地法を後者には履行地法を適用するという立場をとった。この後者の立場が一九三四年のリステイトメント(Restatement of the Law, Con■ict of Laws)(以降、第一リステイトメントという)にビール(J. Beale)によって採用された理論である(36)。
 この二つの傾向のいずれが実務において支持されたかを見てみると、一九三四年までは前者に従った判例が多かったのに対して、一九三四年以降は後者の立場をとるものが増えたという。すなわち、一九三四年の第一リステイトメントがストーリーの理論を中心とした判例法理にかわり、実務において重要な役割を果たしはじめたのである。他方、こういった二つの大きな流れからははずれるものもいくつか存在した。それが、当事者自治の原則とニューヨーク州裁判所と連邦裁判所において認められたいわゆる「重心」理論であるという(37)。
 この一九三四年の第一リステイトメントの硬直的な規則に対する批判を契機として抵触法革命が起こるのである。ケイヴァース(D. Cavers)の論文に端を発し、一九五八年以来の論文でカリー(B. Currie)が「統治利益の理論(govermental interest analysis)」を明らかにしたのをはじめ、同じくケイヴァースの「優先の原則(principles of preference)」やレフラー(R. Le■er)の「ベター・ロー・アプローチ(better law approach)」、あるいはバクスター(W. F. Baxter)の「比較損傷(comparative impairment)」理論およびヴァン・メーレン(A. T. von Mehren)とトラウトマン(D. Trautman)等、さまざまな論者がさまざまな理論を唱えるに至った(38)。これらの理論は伝統的な抵触法規則の硬直性と価値中立性に疑問を持ち、各事案において具体的な結果をも考慮した抵触法上の処理を目指した点で共通しているといえよう。その点に注目し、これらの手法を結果指向型のアプローチとも言う(39)。
 判例においても、一九六三年に著名な「バブコック事件(40)」において、不法行為の問題についてではあるが、伝統的な不法行為地法主義が排斥され、上述のようないわゆる新理論が採用された。そのような情勢なかで、リステイトメントの改訂作業も進み、一九七一年にリース(W. L. M. Reese)を報告者として抵触法第二リステイトメントが公表された。しかし、この第二リステイトメントは、冒頭で述べた通り、必ずしも、新理論のみから成っていない。たしかに、新理論は第六条において、「アプローチ(41)」に拠る場合の原則として位置づけられてはいる。しかし、契約に関する中心的規定である一八七条は、当事者自治を採用し、一八八条は重心理論を採用している。この当事者自治と重心理論は、先に述べたように、二つの主要な傾向に対する例外とされていたのである。すなわち、第二リステイトメントの契約に関する部分は、結果拍向型アプローチと当事者自治および重心理論の三つの理論から成りたっているのである。
第二節 アメリカ抵触法とイギリス抵触法の交錯
 このようなアメリカ抵触法の展開のなかで、伝統的な国際私法理論との比較において注目すべきであるのは、重心理論と結果思考型のアプローチである。なぜなら、契約締結地法主義、履行地法主義あるいは当事者自治といった考え方は、ヨーロッパをはじめ広く世界的に見られるものであるが、先の二つの考え方は、一見すると、他に例を見ないアメリカ抵触法に特有のものに思われるからである。では、この二つの考え方はいかにして形成されたのであろうか。後者については他法域からの影響を指摘されることはまずないのに対して、前者についてはイギリス抵触法との関連性を指摘するものがある(42)。その点を少し踏み込んで検討してみたい。
 アメリカの契約準拠法決定基準の比較法的な位置付けを、イギリス法との関連の中で見いだそうとしても、単純な二国間の法制度の比較とは異なる考慮が必要である。まず第一に、周知のごとくアメリカは連邦制度のもとのいわゆる不統一法国家であり、準拠法選択基準に関しても一概に何が有力であるかということはできない。スコールズとヘイ(E. Scoles/P. Hay)の『抵触法[第二版](CONFLICT OF LAWS [2nd ed.])』(一九九二年)によれば、過半数以上の州においていまだに一九三四年の第一リステイトメントが採用されている一方で、多くの州で第二リステイトメントの重心方法論が用いられているという(43)。歴史的にもまた内容的にも、相容れないはずである新旧両リステイトメントがいまだに併存状況にあり、しかも新リステイトメントにより淘汰されたはずの旧リステイトメントの規則がいまだに多くの州で採られているという現状は、アメリカ抵触法理解の難しさを示す好例であろう。ただ、同書も指摘するように、多くの州がさまざまな規則を併用したり、場合によっては混同して用いており、また少なくない州が最近この問題に関する判決を下していないということもあり(44)、新旧リステイトメントの拮抗ということのみですべてが言い表せるわけではない。また、実務の状況がどうであれ、理論的には第二リステイトメントの方が優れていると見てよかろう。したがって、本稿においても、契約準拠法に関するアメリカの主たる研究対象は第二リステイトメントとする。
 他方、イギリスにおいてもこの問題は最近画期的な転換点を迎えたばかりである。先にも述べたように、一九九一年よりEUの契約債務準拠法条約がイギリス国内で効力を生じているのである(45)。この契約債務準拠法条約については、イギリス国内において、同国のそれ以前の準拠法決定基準であった契約のプロパー・ロー(proper law)理論との類似性が指摘されている(46)。むろん、同条約の適用範囲内の問題についてイギリスが従前の判例法によることは不可能であり、また、条約四条のいわゆる「特徴的給付(characteristic performance)」の理論に代表されるように、従来のイギリス国際私法とはまったく異なる部分も多い(47)。しかし、イギリスは従前の判例法理との共通性があるからこそ条約を受け入れたと考えられるのであり、むしろ、そのような前提に立つイギリスが同条約を今後いかに運用していくのかが、非常に興味深い。
 この契約債務準拠法条約は第二リステイトメントと基本的に類似するという指摘がある。この点を最も明確にしている論者の一人がランドー(O. Lando)である。ランドーによれば、第二リステイトメントに従った相当数のアメリカの裁判所の用いた手法は、契約債務準拠法条約に見られる手法や規則に非常に似ているという。しかし、他方でランドーは、いわゆる抵触法革命の影響はヨーロッパの国際私法上見られないとしている(48)。したがって、彼の所見では、契約債務準拠法条約は第二リステイトメントのなかでも「抵触法革命」の諸理論の影響のない部分と近似しているということになる。
 また、ランドーは、第二リステイトメントの契約に関する部分を、判例法上の重心理論と、抵触法革命を主導したケイヴァース、カリー、レフラー、ヴァン・メーレン=トラウトマン、ワイントラープ(R. Weintraub)等を中心とした学説上の政策中心化方法論(policy-centered approach)の折衷であるとしている(49)。そして、この契約法領域における重心理論とは、ニューヨークの裁判所で生起し、一九六〇年の第二リステイトメントの草案において採用されたものであるという。
 それでは、この第二リステイトメントの一九六〇年草案の段階において、いかなる認識のもとに重心理論は導入されたのか。第二リステイトメントのリポーターであるリースの当時の所見に一瞥を加える。
 リースは、一九六〇年に、第二リステイトメントの草案のとりわけ契約の部分に関する論文を発表している。それによれば、リステイトメントの改正の目的は、その内容をより時代にそったものとし、法実務家にとって用いやすいものにすることにある。しかし、抵触法リステイトメントの改正には独特の問題が存在する。すなわち、契約準拠法とは明白に単一の規則による判例が大変少なく、むしろ相容れない複数の規則によって構成されていると考えるべき領域だからである。このような状況にある分野において、ひとつの規則を確立するためには、学説によるかあるいは仮定的事例の中から抽出したさまざまな可能性を基本とすることになるが、前者はともすれば現実から乖離してしまうし、後者の場合、仮定的事案を設定するのに限界がある。いずれにせよ必然的に危険を伴う作業であるという。そして、規則をまったく設定しないという方法でしかリステイトメントの欠点を補うことはできないかもしれないとさえ危惧する。しかし、既得権理論に基づくビールのリステイトメントにおける諸規則が、多くの事案において結果の妥当性を欠くことは明白であり、完全にそこから脱する必要があるとして、全面改訂の必要性を主張している(50)。
 そしてリースは、「この改訂後の契約の章が、第一リステイトメントよりも一層イギリス法と調和するものであることを確信している(51)」という。具体的内容として、草案は四つの点で第一リステイトメントとは異なるという。最も大きな相違は、当事者自治が採用されたということである。二つ目の相違は、当事者による有効な準拠法選択がない場合、契約の有効性は、必然的かつ不変更なものとして契約締結地法によるのではなく、契約が最も重要な関連を有する邦の法によるのであり、「この規則はイギリスで普及しているプロパー・ロー理論と本質的に類似する(52)」ものであるという。三つ目の相違は、草案では、契約類型ごとに規定をおくことが可能になったことである。次いで、四つめの相違として、草案は契約の有効性と履行の間に明確な区別を置いていないことを挙げている。つまり、草案はビールのリステイトメントが履行地によらしめていた問題も、契約の有効性の準拠法に連結したのであり、したがって、「基本的には、イギリスの裁判所の規則を採用したことになる」のであるとする(53)。
 このように述べた後、最後にリースは、この草案を準備するに際して、アメリカの判例とほぼ同じくらい十分にイギリスの判例を考慮したとしている。したがって、「この草案は、概ね、イギリス法に相反しないはずである。なぜなら、イギリスとアメリカ合衆国に普及する法選択規則の間には、基本的な差異がほとんどないことは確かだからである」という。そして、この草案がイギリスにおいても批判・検討され、そこから示唆を享受できることを望んでいると結んでいる(54)。
 このような報告者の立場は、一九六〇年の草案のコメントでも述べられており、わが国においても紹介されている。そこでは、一九六〇年草案の方法論はイギリスの裁判所のそれと「ほとんど同じ」であり、「最も重要な関連の州」という表現自体もアメリカのクック(W. W. Cook)とイギリスのチェシャー(G. C. Cheshire)の用いる表現と一致するものであるとしている(55)。また、この紹介によれば、草案起草者は、「最も重要な関連を有する州」と「プロパー・ロー」、「重心」さらに「諸要素の集合(grouping of elements)」は表現上の差異に過ぎないと考えていたようである(56)。
 以上のように、一九六〇年草案の時点において、混沌とした状況にあったアメリカの契約準拠法決定基準の確立に苦慮したリースが、イギリスの判例法理にその解決の糸口を求めていたことがよく伺える。すなわち、この当時、リースはイギリス判例法の重心理論という手法を第二リステイトメントに用いようとしていたのである。
 また第二リステイトメント完成後にも、リースは興味深い記述をしている。一九七七年にリースは、その当時のアメリカの契約準拠法決定基準を概観した結果、四つの基準が存在するとしている。まず第一が契約締結地法、第二が履行地法、第三が契約の重心理論すなわち重要な関係の多数が集積する州(the state wherethe majority of the sigini■cant contacts were grouped)の法、そして第四が当事者によって選択された法である(57)。そして、三番目の基準の先例として、引用されているのは後述するインディアナ州最高裁判所の判決(58)であった。すなわち、リースはイギリスおよびニューヨーク州以外の判例にも、重心理論の根拠を求めているのである。
 このインディアナ州最高裁の判決に関しては、ユンガー(F. K. Juenger)も、その比較法的意義に関連した見解を述べている(59)。ユンガーもまた、基本的に、第二リステイトメントは契約準拠法条約はと類似するという立場である。(但し、ランドーがこの両者に好意的であるのに対して、ユンガーはかなり批判的である)。ユンガーによれば、両者の類似性は、今世紀前半の契約に関するアメリカ抵触法の歴史的な展開にその一因があるとしている。すなわち、アメリカ抵触法は、本来ヨーロッパの抵触法ともに発展してきた。しかし、ビールによって英米抵触法の間に大きな溝が作られてしまった。その結果、そのいわば揺り戻しのような現象がいくつか起こったという。彼は、その一例として、一九三六年のニューヨークの中間上訴裁判所の判決と先に挙げたインディアナ州最高裁の判決、および、有名な Auten v. Auten (1954) 124 N. E. 2d. 99. 事件(以降、オートン事件という(60))というニューヨーク州の最高裁の判決を挙げる。とりわけ、最初の二つの判例は、「プロパー・ロー・アプローチへの回帰」であったと言うのである(61)。すなわち、ここでもリースによって重心理論の根拠とされた判例は、別の点ではヨーロッパ法なかでもイギリス法を意識した判決であったとする見解が存在するのである。
 また、ユンガーによって挙げられた一九三六年のニューヨークの中間上訴裁判所の判決についても興味深い点がある。この事件では裁判官が、その当時の契約準拠法決定基準に関する判例・理論の状況をまとめ、当該事案と照合しながら、比較検討している(62)。その裁判官によれば、契約準拠法決定基準には四つの方法論が考えられるとする。まず第一に、最も権威あるものとして契約締結地法、第二に履行地法、第三に当事者の意図した法、そして第四が契約準拠法を決定するために構築された諸々の要素の集合による推定という方法であるという。そして、最後の方法論は、抵触法上の難題を解消するためにチェシャーによって提唱された学説であるとする(63)。すなわちこの時点で、チェシャーの方法論は、ニューヨーク州の主要な四つの基準のひとつとして明確に言及されているのである。
 このようなイギリス・アメリカ間の相互作用は、「抵触法革命」が盛んに論じられた不法行為法においては明確に認識されているのであることは冒頭で述べた。つまり一九五〇年代に入り、チェシャーの契約のプロパー・ロー理論は、モリス(J. H. C. Morris)によって不法行為法領域にまで広められたのであるが、モリスの所見は、アメリカにおいて表明されたこともあいまってアメリカ抵触法に大きな影響を与えた、といわれているのである。その結果、第二リステイトメントの不法行為に関する規定は、このモリスの不法行為のプロパー・ロー理論を基本にしているといわれている(64)。
 他方、契約準拠法に関しては、英米抵触法の相互の関連性は必ずしも強いとは考えられてこなかったように思われる。しかし、上で見たように、重心理論の形成におけるイギリス抵触法との関連性は非常に深いのである。これを手がかりとして、次章以下で具体的にアメリカ抵触法上の重心理論とはいかなものなのかという点について検討を試みる。

(1) R. H. Graveson, The Special Character of English Private International Law,(以降、“Graveson, Character" として引用) COMPARATIVE CONFLICT OF LAWS (Selected Essays, Volume I) (1977) p. 3
(2) 望月礼二郎『英米法〔改訂第二版〕』(一九九〇年、青林書院)八頁参照。
(3) R. H. Graveson, Character p. 3.
(4) A. N. Sack, Con■icts of Laws in the History of the English Law, in Law : ACentury of Progress 1835-1935, Vol3, 349et seq. このサック(Sack)の見解に依拠し、同様のイギリス法史を示すものとして、「国際私法の歴史」(川上太郎)国際私法講座・第一巻一〇〇ー一〇一頁、岡本善八「英国国際私法の形成過程ー Sack 教授の所説を中心として」同志社法学二三号三四、四二頁がある。あわせて参照されたい。
(5) A. N. Sack, Ibid. 川上・前掲論文同所、岡本・前掲論文及び岡本「英国国際私法に於ける当事者自治の原則」同志社法学一九号(以降、岡本・当事者として引用)二二頁参照。ただし、この商慣習の内容については、法選択の問題は本当に生じ得なかったのか等、今後の研究がまたれる部分が少なくないと思われる。
(6) O. Lando, The Proper Law of the Contract,(以降、“Lando, prpper law", として引用)(1964) 8 Scandinan Studies in Law p. 113.
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(7) Ibid.
(8) Id. at 113-114.
(9) Id. at 114.
(10) Id. at 114-115.
(11) しかしながら、ランドーは、ニボアイエ(Niboyet)やバティフォール(Batiffol)といった現代フランス国際私法学者の間では、デュムーランの議論は任意法規の領域のみでなされており、強行法規を含めた法選択を許容する同原則の本旨からすればこの評価は適切ではなかった、という議論があることを紹介している。Id. at 115.
(12) Ibid.
(13) Id. at 116-117.
(14) この論文に関しては、場準一「ウルリクス・フベルス『各国間における異なる法の抵触について』」一橋論叢五六巻四号四〇八頁以下、同五七巻一号七八頁以下、同五七巻三号三二一頁以下、同五七巻五号六五二頁以下、同五八巻三号三七〇頁以下、同五八巻四号一五八頁以下、同五九巻二号一九〇頁以下、五九巻五号五八四頁以下に詳細である。他に、D. J. L. Davies, the In■uence of Huber's De Con■ictu Legum on English Private International Law (1937) 18 B. Y. I. L. 49 参照。
(15) 場前掲論文(本章注(14))五七巻一号八三頁以下参照。
(16) この項目の解釈としては、古くから、これをあくまでも属地主義の観点にたった客観的方法論による規定であり、究極的には履行地法への傾斜を述べたものであるという考え方と、当事者の意思に重きを置いた、フーベルの主観主義の現れであると解する考え方の二つに分かれてきた。前者の場合には、当事者の意思は、対象の所在の確定のための補助的な一要素であるのに対し、後者の場合は、原則である行為地法主義も含めた基本的な判断要素として捉えられている。場・前掲論文(本章注(14))五八巻三号九〇頁以下参照。
(17) オランダ抵触法のイギリス抵触法への継受に関しては、直接継受説とスコットランド経由説の間に対立が見られた。D. J. L. Davies, op. cit., p. 52-53. A. E. Anton, The Introduction into English Practice of Continental Theories on the Con■ictof Laws (1956) 5 I. C. L. Q. 534.
(18) この判例については、岡本・当事者二三頁、折茂・当事者三九ー四〇頁等において言及されている。
(19) The All England Law Report (1588 to 1774) p. 178
(20) Ibid.
(21) Ibid.
(22) Id. at 179.
(23) Ibid.
(24) The All England Law Report (1588 to 1774) p. 180-182.
(25) このことを指摘するものとして、R. H. Graveson, The Proper Law of Commercial Contracts as developed in the English Legal System, Lecture on the Con■ict of Laws and International Contracts (Univ. of Michigan, 195 1) (以降、“Graveson, Proper Law" として引用)p. 8.
(26) 後で見るように、プロパー・ロー理論には客観主義、主観主義の間に対立が見られらのであるが、このような理解はとりわけ主観主義者の間で重視されているようである。例えば、M. Wolff, PRIVATE INTERNATIONAL LAW, 2nd. ed. (1950) p. 415-416.
(27) 本章注(16)参照。
(28) 望月・前掲書(本章注(2))三五頁。スコットランド人であり、スコットランドでの実務経験もあるマンスフィールド卿の存在が、大陸法の継受に関するスコットランド経由説の大きな論拠となっている。本章注(17)の文献参照。
(29) O. Lando, Proper Law, p. 117-118
(30) R. H. Graveson, Character p. 6 ; D. J. L. Davies, op. cit., p. 49.
(31) D. J. L. Davies, op. cit., p. 49-50.
(32) Ibid.
(33) Ibid.
(34) 望月・前掲書(本章注(2))五六ー五七頁。「マンスフィールド・コート」とは本文で述べたような主旨で一貫して判決を下したマンスフィールド卿の活躍した時期のイギリスの裁判所を指す(望月同書三五頁参照)。
(35) J. H. C. Morris, CASES ON PRIVATE INTERNATIONAL LAW (1951) p. 206-207.
(36) O. Lando, New American Choice of Law Principles and the Europian Con■ict of Laws, 1982 Am. J. Com L.(以降、“Lando, New American" として引用)19-20.
(37) Id. at 20-21.
(38) この点については、第一章注(7)に掲げた文献、ならびに、廣江健司『アメリカ国際私法の研究』(一九九四年、国際書院)三五頁以下等参
版面あわせ
 照。
(39) 松岡・構造論五五頁以下、この松岡分析に従うものとして、溜池良夫『国際私法講義』(一九九三年、有斐閣)五四頁がある。この中でとりわけ重要なのは、カリーの統治利益の分析という手法と、「虚偽の抵触(false con■ict)」という概念の導入であった。
(40) Babcock v. Jackson, 12, N. Y. 2d. 473, 191N. E. 2d. 279 (1963). この判決に言及する文献はたいへん多い。本浪章市「不法行為の準拠法に関する一考察---バブコック判決序説」関大法学論集一四巻四=五=六合併号(一九六四年)三二五頁以下を初めとして、同『英米国際私法判例の研究 国際私法序論』(一九八六年、関大出版部)三頁以下、西・前掲書二一三頁以下、折茂・前掲書(第一章注(8))一八〇頁以下、松岡・構造論六二頁以下、石黒・現代七七頁以下、廣江・前掲書(本章注(38))二七頁、溜池・前掲書(本章注(39))五四頁以下、櫻田嘉章『国際私法』(一九九四年、有斐閣)四九頁以下等参照。
(41) 松岡・構造論八三頁以下等を参照。そのリース等を中心にむしろより狭い適用範囲のルールの確立を主唱するいわばルーリストによる「反革命」の動きも顕在化し、まさにアメリカ抵触法はいまだ混迷の中にあるといってよかろう。
(42) 川上・前掲論文(第一章注(9))四七二ー四七三頁参照。
(43) Scoles/Hay, CONFLICT OF LAWS [2nd. ed. ] p. 691.
(44) Id. at 695.
(45) この点については、樋爪誠「債権契約準拠法決定基準に関する『最も密接な関係国法』について」立命館法学二三六号(一九九四年)一〇八頁参照。
(46) 樋爪・前掲論文(本章注(45))一三七頁以下参照。
(47) これについては、多くの文献が存在するが、旧来のイギリスの契約のプロパー・ロー理論と契約債務準拠法条約の相違点を図表化し分かりやすく示しているものとして、See, P. Kaye, THE NEW PRIVATE INTERNATIONAL LAW OF CONTRACT OF THE EUROPEAN COMUNITY, 442 et seq.
(48) O. Lando, New Ammerican, 28.
(49) Ibid.
(50) W. L. M. Reese, Contracts and the Restatement of Con■ict of Laws, 9 I. C. L. Q. 532 et seq.
(51) Id. at 533-534.
(52) Id. at 537.
(53) Id. at 540.
(54) Id. at 541.
(55) 川上太郎、松岡博「米国衝突法第二リステイト試案(一九六〇年)、契約の部、邦訳(1)」西南法学一巻二号二八五頁。
(56) 川上、松岡前掲資料同所。
(57) W. L. M. Reese, Choice of Law in Tort and Contracts and Direction for theFuture (1977) 16 Colum. J. Transnat'l L. p. 18.
(58) Ibid.
(59) F. K. Juenger, The EEC Convention on the Law Applicable to ContractualObligations ; An American Assessment, CONTRACT CONFLICTS (P. M. North ed. ) (1982) 304.
(60) この事件について、リースは別の論文でこれを「重心理論」による判決であると分析するが、他方イギリスのグレイブソン(R. H. Graveson)はこの事案を「グルーピング・オブ・コンタクト(grouping of contact)」という方法論であるとし、プロパー・ローと事実上同じ方法論を採用しているとする。
(61) F. K. Juenger, op sit supra.
(62) Jones v. Metropolitan LIfe Insurance Co. (1936) 286 N. Y. Supp. 4 (NewYork) 6-7.
(63) Id. at 7.
(64) 第一章注(9)参照。

       第三章 若 干 の 考 察
第一節 序  論
 重心理論を検討するにあたり、ここではまず三件の判例を見る。第一の判例はチェシャーの学説に言及したものとしてユンガーにより引用されたもので、おそらくは重心理論を明確に用いた最も初期の判例のひとつと考えられる事案である。第二の判例は、第一の判例において先例として扱われた判例で、重心理論がいかにして形成されたかを追ってみる。そして、第三の判例は、ユンガーとリースがともに重心理論の先例として紹介しており、かつ、後述するオートン事件においてもまた重要判例として言及されているものである。
第二節 事例研究
 (一) ジョーンズ事件
 ニューヨーク州の Jones v. Metropolitan Life Ins. Co., 286 N. Y. S. 4 事件(以降、ジョーンズ事件という)は次のような判決である。
【事実】
 原告Xは、訴外Aの補助的遺産管理人として、Aの三通の簡易生命保険証券に基づいて、ニューヨーク法人であり、ニューヨーク州に本店を有する被告Y保険会社に、保険金の支払いを求めた。当該保険証券作成時および保険事故発生時(Aの死亡時)に、Aはニュージャージー州に住んでおり、契約の申込も同州でなされており、かつ保険料全額が同州において払いこまれた。また、Aの娘であり、保険金の受取人であるYもニュージャージー州に住んでいた。当該証券はYの本店において作成され、ニュージャージー州の保険募集人(以降、外務員とのみいう)によって、Aに交付された。当事者には、証券の交付以前になされるべき義務は何ら存在しなかった。
 Yは三通の証券のうち、一通はAに送付すらされていないこと、および三通の証券すべてに関して、Aがその作成時に健康な状態ではなかったことを主張した。とりわけ、後者の理由により、保険証券は無効になり、契約は解除され得ると主張した。前者の点に関するXの主張は明らかではないが、後に陪審はYの主張を明確に否定した。後者の点についてXは、証券作成時にAの健康状態が良くなかったことについては認めた。しかし、同時に、Yが契約解除権を放棄しているとも主張した。なぜなら、Yの外務員はAの健康状態に関する情報を、当該証券作成前に口答で伝えられていたからである。これに対して、Yは外務員との口答のやり取りを権利放棄の証拠とすることに反対した。その根拠は本件保険契約がニュージャージー州で締結されており、同州法によれば、保険契約の内容は口答では変更し得ないからであった。
 一審では、本件保険契約の準拠法はニューヨーク州法であるとされ、Yの主張は退けられた。Yが上訴(1)。
【判旨】
 上訴棄却。契約準拠法に関しては、((1))契約締結地法、((2))履行地法、((3))当事者自治、((4))さまざまな要素の集積によって判断する方法の四つの立場があるが、本件はいずれによってもニューヨーク州法が準拠法となるべき場合である。したがって、Yの外務員が口答で被保険者の不健康に関する情報を得たことにより、当該証券中の契約解除権の放棄は認められる。当裁判所は原審を支持する(2)。
 この判決は、上の四つのそれぞれの場合、いかなる結論になるのかについて述べている。たいへん示唆的であると思われるので、ここでその内容を見てみたい。以下は判旨の要約である。
 ((1))まず第一は契約締結地法主義である(3)。ビールは、履行地法によるという当事者の意思が明らかでない場合、この立場がニューヨーク州の判例法である、としている(4)。この立場はまた、ビールの既得権理論にも合致するのである。
 本件の場合、契約締結地州はニューヨーク州と考えられるべきである。当事者になんら条件の課されていない保険証券が送付された場合、契約は発送地において効力を生じる。また、このようになんら条件の課されていない場合には、外務員への送付あるいは交付が保険契約者への送付あるいは交付とみなされるのである。これは、判例・学説の支持するところである(5)。
 ((2))次は履行地法主義であり、これを支持する判例が存在する(6)。本件においては、この立場によってもニューヨーク州法が契約準拠法である。履行地すなわち保険金支払地に関する条項は当該証券中には存在しないといえる。このような場合、判例には二つの考え方が存在している。ひとつは保険会社の主たる営業所所在地を履行地とするものであり、もうひとつは契約締結地を履行地とみなすものである。本件の場合、いずれにせよニューヨーク州が履行地となる(7)。
 ((3))三つ目は当事者自治を認める立場であり、これを支持する判例がある(8)。本件では当該証券中に「本店:ニューヨーク市」と明記されており、且つ、その認証文言上、証券作成日に証券を発送するとなっていたことから、Yはニューヨーク州で義務が生じたと考えていたと思われる。したがって、契約準拠法はこの場合もニューヨーク州法である(9)。
 ((4))最後に、契約を構成するさまざまな要素の集積によって契約準拠法を決定するという立場がある(10)。これはニューヨーク州の判例とイギリスの学説上認められているものである(11)。
 本件の場合、この手法によっても契約準拠法はニューヨーク州法である。Yはニューヨーク法人であり、且つ、その本店はニューヨーク州に存する。証券はニューヨーク州で作成され、ニューヨーク州で支払可能であった。証券所有者が投票権を有する取締役の選挙はニューヨーク州で開催された。証券所有者が参加できる剰余金の分配はニューヨーク州の監督に服していた。これに対して、ニュージャージー州との関連性を示すものとしては、保険が同州の住民により勧誘され、保険料の支払地でもあったということが挙げられる。当事者間の契約の準拠法を決定するにあたっては、第一の要素の集積の方が第二のそれよりもはるかに重要である(12)。
 (二) ホーリー事件
 次に、(一)の判決において、((4))の立場の先例として挙げられた、同じくニューヨークの中間上訴裁判所による Hooley v. Talcott, 113 N. Y. S. 820 事件(以下、ホーリー事件という)を見てみる。
【事実】
 これは動産占有回復訴訟である。一九〇二年から一九〇四年にかけて、訴外Aは絹の会社を経営していており、リボンとドレス地をフィラデルフィア州で製造し、生糸の売買をニューヨーク州で行っていた。一九〇二年と一九〇三年に、Aは現金が不足したので、ニューヨーク州の代理人訴外Bを通じて、ニューヨーク州の問屋である被告Yと、ニューヨーク州においてある融資に関して合意した。その合意の内容とは、まずBがAを代理して生糸を売却し、Aのために融資を設定する。そして、Aがその融資の利子と手数料を月々Yに支払うというものであった。
 融資の設定方法は毎回基本的に同じであった。Aが白地手形に署名し裏書した後、ニューヨーク州のBにそれを送付する。Bはその手形に、これがフィラデルフィア州で日付を記入されたものであること、Aによりフィラデルフィア州の銀行で支払われ得るものであること、及びAにより裏書されたものであること、以上の三点を記入した。Bはその手形をYに交付し、これに対してYは小切手を振り出した。この融資の見返担保として、ニューヨーク州の倉庫に保管されていたAの絹がYに引渡された。すべての場合において、Aにより署名された手形と小切手は、まずAによりBに引渡され、次にニューヨーク州においてBが直接Yに引渡した。取引行為全般においてYは金銭の貸与にのみ関わり、絹の売却に関する代理権をなんら有さなかった。すなわち、YとAの間には、Bを介してなした基本的合意しか存在しないのである。
 何度かの融資の後、Aは破産した。Aの破産の時点での未払の融資額を表すものとして、Yは五通の手形を有していた。融資に先立った利息と手数料の支払が高利の取引行為にあたるかが問題となった。
 Aの破産管財人として正式に任命された原告Xは、本件契約の準拠法は利息と手数料の支払がニューヨーク州の利息制限法に反すると主張し、絹の占有回復を主張した。これに対してYは、本件契約の準拠法はフィラデルフィア州法であり、利息と手数料の支払は同州法上有効であると主張した。
 一審における陪審の評決は、手形に日付が記入された地であり、かつ、支払が予定されていた地がフィラデルフィア州であったことを理由に、契約準拠法をフィラデルフィア州法とした。したがって、ニューヨーク州の利息制限法の適用はないとして、Yの主張を認めた。Xが上訴(13)。
【判旨】
 原審破棄、再審理(new trial)を命ずる。
 契約が実際にはどこで生じたのか、言い換えれば、書面のみであらわされている意思の合致が実際にはどこで生じたかを確かめるためには、取引行為全体を見なければならない。これにあたって、日付が付与された地あるいは署名地がどこであったかは重要ではない。なぜなら、本件において基本的な問題である金銭融資および見返担保の提供の合意はニューヨーク州でなされているからである。したがって、本件契約の準拠法はニューヨーク州法である。当裁判所は陪審を基礎にした原審の判決を破棄し、再審理を命じる(14)。
 取引行為に関連する出来事の一つである証券の期日とそこに定められた支払地によって準拠法は決定されるのか(一審における陪審の判断)、あるいは取引行為全体が検討されるべきなのかが問題となるとして、この判決は後者の立場にたって判断した。以下、その理由付をもう少し詳しく見てみる。
 本件は証券に関する事案ではなく、X(破産管財人)による特別な絹の占有回復に関する訴えであって、その絹は明らかに破産財産であって、かつ、ニューヨーク州の倉庫に保管されており、Xが保険代と保管代を支払っている。その財産はY所有の約束手形により証明された金銭の融資に対する見返担保としてYにより申し立てられているものである。融資の話し合いはニューヨーク州においてAの代理人とYの間でなされた。それに基づいく合意もニューヨーク州においてなされた。Aの便宜のためフィラデルフィア州の銀行において支払可能とされているが、手形はAの代理人によってニューヨーク州においてYに引き渡された。利息と手数料はニューヨーク市においてYに支払われた。小切手はフィラデルフィア州のAに送付されていたものの、融資そのものはニューヨーク州のYの金銭によってなされた。さらに、物品すなわちその融資の返済に対する見返担保は、まさにニューヨーク州において保管されているのである。取引行為全体において、問題となっている合意がニューヨーク州の契約であることは疑いない。契約に関する当事者の意思はニューヨーク州において合致したのであり、そこで担保付きの融資の合意がなされたのである(15)。
 (三) バーバー事件.
 最後に、インディアナ州最高裁判所の W. H. Barber v. Hughes et al. 63 N. E. 2d. 417 事件(以降、バーバー事件という)は以下のとおりである。
【事実】
 Xはデラウエア会社であって、本店所在地であるイリノイ州で営業の認可を受け、シカゴで営業活動を行っていた。Y 1・Y 2はインディアナ州に住む兄弟であり、かつパートナーである。一九三五年以前、Y等は石油製品をXから定期的に購入していた。製品の引渡のほとんどの部分はイリノイ州で行われていた。
 ある時期から、Y等の支払が滞るようになった。一九四〇年一〇月に、XとY 1はイリノイ州のシカゴにおいて、未払の石油製品代金債務の支払方法について合意し、同時に、一定額が現金で支払われた。残りの額について、手形が振り出されることになった。その手形は、まず、シカゴのXよりインディアナ州のY等に送付された。そして、手形はY 1・Y 2により署名されて、シカゴのXに返送された。手形には日付が記入されていたが、その署名地は明らかではなかった。手形にはY 1・Y 2の署名と未払債務の支払に関する先の合意が記載されていた。さらに、この手形は、手形または書面上に記載されている債務が支払われなかった時には、その所持人に対し一切の抗弁を主張せず、請求を認諾する権限を所持人の代理人に認めるいわゆる「請求認諾権委任文言付約束手形(cogonovit note)」であった。
 一定の支払がなされた後、手形はA石油会社に譲渡された。一九四三年九月に、手形所持人であったAは、未払額の支払について、手形中の認諾条項にのみ基づき、一般管轄の正式記録裁判所であるシカゴ市裁判所において判決を得た。その後も、支払はまったくなされなかった。当該手形はAからXに譲渡された。
 イリノイ州法はこのような形式に基づく債務の履行を認めている。すなわち、呼出状(summons)なしに判決を下すことを認めているのである。Xは、合衆国憲法上の十分な信頼と信用条項に基づき、先の判決による債務の履行を求めた。Y等は、このような認諾条項はインディアナ州の制定法上無効であると主張した。
 一審はY等が勝訴。Xが上訴(16)。
【判旨】
 原審破棄自判。インディアナ州のパートナーシップのメンバーが、主にイリノイ州外の取引行為から生じた債務について、イリノイ州において支払に関する合意をなし、その際に一部分は現金で支払い、残額は当該手形による支払とし、その後、インディアナ州において両パートナーシップが当該手形に署名し、イリノイ州にいる債権者にそれを郵送し、イリノイ州で債権者は手形を受け取り、それを残額の支払いに充当した場合、当事者は、債務の履行によって手形の効果が生じると考える。手形債務はイリノイ州において履行されると考えられるべきであり、したがって、手形とその認諾条項の有効性はイリノイ州法によって決定されねばならない(17)。
 この判決では、裁判官は、以上のような理由付に続き、さらに学説をもとにして、手形及び認諾条項の有効性をイリノイ州法とした自らの判決の正当性の確認を試みるのである。その理由は、インディアナ州をはじめ他州においても、この問題に関する判例法の蓄積が不十分であり、裁判所の得た結論を判例法以外の基準で合理的に見る必要が残さされているからであるという(18)。
 まず、そこで基準とする抵触法学説を「いかなる裁判所においても規則にまでは高められていない(19)」としつつ、敢えて定義を試みるならば、「裁判所はいくつかの州に関連する取引行為の当事者のあらゆる行為を検討し、諸々の事実が最も密接に関連する法を取引行為の準拠法として適用する(20)」ものであるとした。その際に、チータム、ドーリング、グッドリッチ、グリスワルド(Cheatham Dowling GoodrichGriswold)編の『抵触法判例集[第2版]CASES ON CONFLICT OF LAWS (2nd ed.)』(一九四一年)と、ハーパー/テインター(Harper and Taintor)編の『抵触法判例集(CASES ON CONFLICT OF LAWS』(一九三七年)という二つの判例集を参照している(21)。とりわけ後者は、この問題について詳しく述べているとして、かなり詳しく引用されている。重要であると思われるので、ここでも一部紹介する。
 「多くの裁判所は、契約上の取引行為に関して、両当事者により意図された地に最も重要な連結点を見いだすよう主張する。これはつまり、裁判所は当事者の行為に影響を与えたとみなされ得るあらゆる状況を検討し、最も密接な関連を諸状況の重心と性質付けられ得る地に見いだす、としているようである(22)」。
 「連結点の集中を最も重視することは明かに有益である。なぜなら、契約締結地や履行地の確定の際に生じる多くの難しい問題が排除され得るからである。さらに、そこから導かれる結論は妥当性をも有する。すなわち、取引行為に最も密接な関連を有する地の法をその取引行為の準拠法とする根拠は、法概念(例えば、契約締結地、履行地、当事者の意思)の場所的関連付(localisation)にあるのではなく、その州と当事者の主要な行為の間の事実的関連の密接性にあるからである(23)」。
 以上のような学説の紹介後、同裁判所は本件にこれをあてはめている。それによれば、重要な関連としては、当事者があらゆる場合においてビジネス取引にのみ従事しているということ、すなわち当事者がこのビジネスのほとんどすべてをイリノイ州においてのみ行っていることが注目されるべきであるとする。具体的には、蓄積した負債はイリノイ州の取引行為からのみ生じたこと、支払に関する話し合いがイリノイ州で行われたこと、手形がイリノイ州で支払い得たこと、手形がイリノイ州の形式を用いていたこと、手形はイリノイ州で作成されたこと、及び、手形はイリノイ州において効力を有しそこでの履行を予定されていたことを裁判所は挙げた。したがって、実際に意図されていたのは、、イリノイ州法が準拠法になるということであった。他方で、インディアナ州との関連は、債務者の住所地であること、債務者が手形に署名した地であること、手形の発送地であること、これだけである。これらの状況すべてに鑑みれば、取引行為の中心はイリノイ州にあり、イリノイ州法が手形及びシカゴ市裁判所においてそれに基づき得られた判決に適用されるべきであるという結論は回避しがたいのである、と(24)。
 次節では、これらの判例の意義について考えてみる。
第二節 重心理論とイギリス抵触法の関係
 (一) 三判例の意義
 まず、ジョーンズ事件について見てみる。この判決の最大の特徴は、先にも挙げたとおり、判旨のなかで明確にしかも他の基準と対比しつつ、イギリスのチェシャーの理論に類するものとして、「要素の集積」という方法論を示している点である。したがって、この判例は英米抵触法の契約に関するひとつの接点と見得るものであろう。では実際にこの方法論は他の基準とどのように違うのか。もう少し踏み込んで検討してみる。
 この事案では、保険証券中の無効事由の口頭での排除を可能にするニュージャージー州法と、それを不可として無効とするニューヨーク州法のいずれが準拠法かということが問題となった。((1))契約締結地法主義によれば、この場合保険証券の発送地であるニューヨーク州法であるとされる(25)。他方、((2))履行地法主義を採るならば、この場合は保険会社の主たる営業所所在地たるニューヨーク州法であるという(26)。保険契約とりわけ生命保険契約の準拠法決定基準については、さまざまな議論があり得るが、ここではその点には深く立ち入らない。以上のような二つの手法によれば、いずれにせよ機械的一義的に準拠法を確定できることになる。従来の伝統的な抵触法観によれば、これらの基準で十分であった。しかし、少なくともニューヨーク州においては、このような場合、取引行為全体を見なければ事案に正確に対応した抵触規則の確立が不可能であるという意識が萌芽しつつあったのである。
 その好例が、ジョーンズ事件において((4))の基準の先例として引用されているホーリー事件である。すなわちホーリー事件においては、文書の作成・解釈および契約の有効性は契約締結地法によるとは即断せずに、取引行為全体から準拠法を判断すべきという主張が明確になされているのである(27)。ただ、ホーリー事件においては、たしかに画一的な規則によることなくより広範に事案の検討を行ってはいるが、そこでは連結点の集中あるいは取引行為の重心といった表現は見られない。また、後で見るように、重心理論に特有の手法とされている法規間の関連度の比較ということも明確な形では行われていない。しかし、この事案においては、従来、重心理論に対する批判として指摘されてきているいわゆる要素の機械的な数え上げがなされているとも言えない。例えば、当事者の住所地は一切触れられていない。むしろ、担保となっている破産財産の返還というこの事案に特有の事情に焦点を合わせた検討になっているといえようか。例えば、、担保の所在地や手数料の支払地が重要な要素になっていることからそのことが伺える。
 いずれにせよ、今世紀のかなり早い時期に(一九〇八年)、すでに取引行為全体の考慮から契約準拠法を探究するという手法がニューヨーク州において見られていたのである(28)。
 では、そのホーリー事件に基づいた場合の、すなわち画一的な基準ではなく関連要素の衡量という手法を採った場合のジョーンズ事件の処理は具体的にはどのようになるのか。この場合、ニューヨーク州法が準拠法になる根拠として挙げられた要素とは、まず、同州が問題となっている保険契約の会社側の設立準拠法所属州であること、証券作成地であり且つ支払予定地であることが挙げられている(29)。その次に、証券所有者にも投票権のある取締役の選挙挙行地である点、及び剰余金の配当の監督官庁の所在地である点が挙げられている(30)。これらは具体的事実関係からはかなり掛け離れたものであはあるものの、ホーリー事件との比較において、この場合も保険契約という事案の特質に焦点を合わせたと解すれば、一応の説明はつこう。しかし、右の要素が原告や保険契約者の住所地以上に重視されるべき要素かはやや疑問であり、恣意的な感は否めない。
 ではなぜこのような手法が採られたのか。理由は二つあり得よう。ひとつはやはりまだこの手法に当時の裁判所が不慣れであったという見方である。しかし、この理由はあくまで推測上のものでしかなく、これを積極的に根拠づけることは現段階では困難である。また、判旨全体の構成から言えば、判例・学説の状況を十分に把握した非常に精緻な判決であるという印象も他方では強くある。そこでもうひとつの理由であるが、それは判旨の((3))の立場、すなわち当事者意思の探究という方法論との比較の中に見いだすことができると考える。判旨にもあるように、本件においては、仮に当事者の意思を探究したとしても、ニューヨーク州法が準拠法であることは「明らか」であったのであり、その根拠は専ら証券中の文言の解釈に求められていた(31)。したがって、この事案に限って言えば、重心理論は当事者意思の探究といわばベクトルを同じくしているのである。この判例のみからはこれ以上の考察は不可能であるが、次以降の判例の検討する際に、この点は念頭に置くべきと考える。
 それでは次にバーバー事件はどうか。ここで注意すべきなのは、この事件の判決自体は、契約締結地法としてのイリノイ州法に拠っているのであり(第二章の同事件の【判旨】の部分参照)、二つのケース・ブックを基にした記述の部分は判決を補完するために述べられているのであって、必ずしも事案には則していない。その結果、重心理論とは何かという一般的な定義が明らかになっている反面、いわゆる機械的な数え上げが行われる手法のように述べられているし、また認諾手形の有効性というこの事案の特徴も考慮されてはいない。ただ一般論であるとしても、この方法論が両当事者によって意図された地としての連結点の重心の地の探究であると明言した点は注目に値しよう(32)。なぜなら、イギリスにおいて、チェシャーの理論はプロパー・ローに関するダイシー(A. V. Dicey)の主観主義とウエストレイク(J. Westlake)の客観主義を「止揚」するために唱えられた新たな客観主義なのであって(33)、当事者意思とは無関係な純粋客観主義とは一線を画するものである。したがって、それと緊密な関係を有するアメリカの重心理論が単なる客観的な連結点の集中をはかるものではなく、意思探究類似の手法を内在しているものであるとしても、なんら不思議ではないからである。
 (二) さらなる考察---オートン事件を手がかりに
 これらの点について、もう少し検討を進めるために、契約に関する重心理論として、わが国でも著名なオートン事件についても検討してみる。ただ、この判例については、すでに詳細な判例研究がなされており(34)、本稿ではそれを前提にしつつ、必要な範囲について簡潔に紹介する。
 これは、一九三三年にニューヨークで締結した別居契約に基づく妻Yから夫Xに対する賦払金の請求に関する事案である。両当事者は、一九一七年にイギリスにおいて婚姻し、二児をもうけ、当地において婚姻生活を継続していたが、一九三一年にYはXを遺棄し、アメリカ合衆国に渡った。その後、Yはメキシコ離婚をし、別の女性と結婚した。一九三三年に、XはYと協議するためニューヨーク州へ渡り、月々五〇ポンドをXとその子供のためにYが扶養料を支払うという条件で別居契約をニューヨーク州で交わした。さらに、その合意は別居を継続することに加えて、Xがこの契約に関していかなる訴訟も提起しないこと、および離婚あるいは再婚に関して裁判をおこさないことを条件としていた。Xはその後直にイギリスへ帰った(35)。
 Yはほんの数回支払をしただけで、約束を果たさなくなった。Xは、一九三四年に、Yの不貞に基づく離婚に関する陳述書をイギリスの裁判所に提出した。一九三六年に訴状はニューヨーク州のYに送達された(36)。
 このイギリスでの訴訟からはほとんど何も得られないまま(一説には審理にまでいたらなかったとさえ言われている)、一九四七年にXは一九三三年の別居契約に基づき本件訴訟を提起した。Yは、Xによるイギリスでの訴訟の提起は別居契約を解消するものであると反論した。事実審裁判所および高位裁判所・上訴部(Appellate Division)はともにXの請求を棄却した。Xが上訴(37)。
 最高裁判所(Court of Appeals)は、一転して、高位裁判所・上訴部の判決を破棄・差戻とする判決を下した(38)。
 この判決において、ファルド(Fuld)裁判官は別居契約の準拠法を両下級審がニューヨーク州法としていたのに対して、イギリス法を支持する立場から次のように述べている。まず、先のジョーンズ事件を引用しながら、ニューヨーク州裁判所における契約準拠法決定基準にはさまざまあり得るとしながら、契約締結地を基本としつつ履行の問題については履行地法によるという規則が支配的なように思われるとした(39)。
 しかし、判例法の別の潮流も確かに存在するとし、当事者自治を認める判例とともに、いわゆる「重心理論」あるいは「連結点集中理論」と呼ばれる判例を紹介しており、後者の立場に立つ最近の事案として先のバーバー事件に言及している(40)。この理論は、当事者の意思や契約締結地あるいは履行地といった連結点を決定的なものとはせず、むしろ「争われている問題と最も重要な関連を有する地の法」を強調するものであるという(41)。ここで、ファルド裁判官は、ニューヨーク州の判例とともに、一九四九年のイギリスの控訴院の Boissevein v. Weil [1949] 1 K. B. 482 事件を例としてあげている(42)。さらにこの方法論によれば、関連諸州の利益を衡量できるだけでなく、当事者の推定的意思すなわち具体的な結果の妥当性からの規則の選択が可能になるとしている。
 本事案においては、ニューヨーク州は別居契約の締結地という以外は何ら関連性を有さない。それにに対して、当該契約の効果を受ける両当事者は英国国民(British subject)であり、両者がイギリスで婚姻し、イギリスに子供を有し十四年近く生活していること、また、Xがニューヨーク州へ来た唯一の目的はYとの話し合いであり、Xと子供がイギリスで継続して生活することに両者間に合意のあることから、イギリスがまさに重要な関連性を有するといえる。さらに、支払はイギリス通貨で、かつ第一回の支払はXがイギリスへ帰る前になされること、及びYがイギリスへ行く際には子供を訪問できることも契約に明記されていた。一九三四年のイギリスにおけるXの提訴も、その当時としてはXを救済できる唯一の手段であったという弁護士の判断があったことも考慮されよう、と(43)。したがって、本件契約の準拠法はイギリス法である。これがファルド裁判官の結論であった(44)。
 この判決は後に不法行為に関するバブコック判決にも引用され、その重要性は広く認識されるところである(45)。このオートン事件の判決では、具体的な法律関係、すなわち別居契約に伴う扶養料の請求にそった連結点の考慮がなされており、且つ、その結果、当事者の(あり得る)意思をも考慮し得るとしている点が、先に検討した諸判例との共通点を示しており、重要である。さらに注目すべきは、イギリスのボイサーヴィン事件について言及していることである。この事件は先にも述べた通り、第二リステイトメントの一九六〇年草案でも参考にされているのである(46)。最後にこのボイサーヴィン事件に関するイギリスの議論を手がかりに、重心理論に関する検討を一応まとめたい。
 この判例については、拙稿において以前簡単に紹介したので(47)、ここでは事実関係と判旨の概略を述べるにとどめる。
 オランダ人男性Xとイギリス人女性Yは、第二次大戦中に、敵国軍に包囲されやむなくモナコに滞在していたが、Yの生活資金が欠乏した。Yの振り出したイギリス銀行宛の白地小切手に基づき、XはYと終戦後に支払うことを条件に仏貨だての消費貸借契約を締結した。しかし、Yによるイギリスの銀行に対する処置が十分でなかったために、終戦後もイギリスの銀行からは支払がなされず、債務の履行を求めてXは訴を提起した。イギリスの一九三九年保護(金融)規則(Defence (Finance) Regulations, 1939)、及び緊急権限(保護)法(Emergency Powers (Defence) Act, 1939)という二つの特別法の域外適用の問題とともに、消費貸借契約そのものの準拠法が問題となった(48)。
 一審では、契約準拠法はモナコ法であり、モナコ法上当該取引行為は適法であり、かつ当該特別法の域外適用はないとしてXの主張が認められた。Yが控訴した。控訴院は、契約のプロパー・ローはイギリス法であるとし、当該特別法の規定により本件消費貸借は無効であるとして、一審とは逆にY勝訴の判決を下した(49)。
 この判例は、デニング(Denning)裁判官が、チェシャー理論を最初に実践したものとして注目された(50)。
 一九五〇年に、この判決にもかかわって、マン(F. A. Mann)とモリスが『インターナショナル・ロー・クオータリー(International Law Quarterly)』誌上で、契約準拠法決定基準に関して論争を展開した(51)。
 先の判例においてデニング裁判官が、「最も密接な関係を有する国」としてイギリス法を挙げたことについて、両者の見解は次のように相違する。マンは、しばらくの間モナコにいなければならないことを当事者は予期していたのであり、距離的、時間的な点でイギリスははるかかなたにあり、両当時者ともその当時イギリスへ帰国できる可能性はほとんどなく、モナコにおける返済こそが現実的であったのであり、これらの観点から最も密接な関係を有する国はモナコである、とする。しかし、この場合に黙示の意思を探究したならば、当事者はモナコの事情に詳しくなく、逆にイギリス法については知識もあり、それゆえ信頼もあったろうし、Yはイギリスに銀行預金を有し、将来的にはイギリスの法域に属することも予測できたことであった。したがって、イギリス法を適用することは合理的であった、とマンは判断する(52)。
 これに対して、モリスは、最も密接な関係を有する国を探究する立場から次のように反論する。当事者は当該契約をイギリスにおいて英貨によって履行することを英語で約束しており、また両当事者のモナコでの滞在はまったく意に反するものであった。また、小切手はイギリスの銀行から振り出され、借主はイギリス人であったのであり、さらにXとYが当該消費貸借契約を締結したのはノルマンディー上陸作戦成功後であり、イギリスへの帰国は十分期待できたのであった。したがって結論的には、(マン流に)黙示の意思を探究したのと同じく、プロパー・ローはイギリス法になる、とする(53)。
 マンは、最密接関係国法の探求に際し、事実的関連性をいわば漠然と問題としているのに対して、モリスは、事案の特徴(戦時下における消費貸借)に注目しつつ、当事者の意思の所在を連結点の集中により判断しているのである。このマンとモリスの対立は、チェシャーの唱えた最密接関係国法の探究を、要素の機械的数え上げであるとする前者と、それを否定する後者の間の相違を明確にしたものといえる。すなわち、契約のプロパー・ロー理論、及びそれに類する(由来する)手法は、純粋な客観的なものではなく、主観的な要素を考慮する型で事案の特徴に対応した分析を行っているのである。ボイザーヴィン事件の判決もあるいはそれを引用したオートン事件の判決も、このチェシャーとモリスの理論と軌を一にしていると考えられるのである(54)。

(1) 286 N. Y. S. 5-7.
(2) 286 N. Y. S. 9.
(3) この立場をにたつ判例として、F. A. Straus & Co. v. Canadian Paci■c Ry. Co., 254 N. Y. 407, 414, 173 N. E. 564 事件 ; United States Mortgage & Trust Co. v. Ruggles, 258 N. Y. 32, 38, 179 N. E. 250, 79 A. L. R. 802 事件がある。
(4) ここで参照されているのは、J. Beale, THE CONFLICT OF LAWS, (1935) p. 1157。
(5) これを支持する学説として、1 May on Insurance (4th ed.) 60 ; Vance on Insurance (2d. ed.) 211 ; 1 Couch, Cyclopedia of Insurance Law, 125, 127 ; 32 C. J. 1127 ; 14 R. C. L. 898 がある。
  また、これを支持する判例としては、Fried v. Royal Insurance Co. of Liverpool, 47 Barb. 127, af■rmed 50 N. Y. 243 事件があり、これがこの点に関する最重要判例であり以下の判決はこれに基づいている。Gallagher v. Metropolitan Life Ins. Co., 67 Misc. 115, 121 N. Y. S. 638 事件 ; Lasch v. New York Life Ins. co., 92 Misc. 190, 155 N. Y. S. 255 事件 ; Yousey v. Queen Ins. Co. [sup.] 148 N. Y. S. 125, 127 事件。
(6) この立場にたつ判例として、Manhattan Life Ins. Co. v. Johnsn 188 N. Y. 108, 113, 80 N. E. 658, 9, L. R. A. (N. S.) 1142, 11 Ann. Cas. 223 事件 ; Jewell v. Wright, 30 N. Y. 259, 264, 86 Am. Dec. 372 事件 ; Curtis v. Delaware, L. W. R. Co., 74 N. Y. 116, 120, 30 Am Rep. 271 事件がある。
(7) 286 N. Y. S. 5-7.
(8) この立場にたつ判例として、Wilson v. Lewiston Mill Co., 150 N. Y. 314, 323, 44 N. E. 959, 55 Am. St. Rep. 680 事件 ; Stumpf v. hallahan, 101 App. Div. 383, 386, 91 N. Y. S. 1062, Af■rmed 185 N. Y. 550, 77 N. E. 1196 事件が挙げられている。なお、アメリカ抵触法上の当事者自治の原則の動向のうち、学説の趨勢をまとめたものとして、松岡博「アメリカ国際私法における当事者自治の原則ー学説の推移を中心にして」国際法外交雑誌六八巻三号一頁以下がある。
(9) 286 N. Y. S. 5-7.
(10) この立場にたつ判例として、Hooley v. Talcott, 129 App. Div. 233, 236, 240, 113N. Y. S. 820 事件がある。
(11) そのイギリスの学説とは、G. C. Cheshire, PRIVATE INTERNATIONAL LAW (1935), 183 et seq.
(12) 286 N. Y. S. 9.
(13) 147 N. Y. S. 821-823.
(14) 147 N. Y. S. 826.
(15) 147 N. Y. S. 826.
(16) 63 N. E. 2d. 418-419.
(17) 63 N. E. 2d. 421-422.
(18) 63 N. E. 2d. 423.
(19) 63 N. E. 2d. 423.
(20) 63 N. E. 2d. 423.
(21) 63 N. E. 2d. 423.
  前者は、ハーバードの教授一人、コロンビアの教授二人及び裁判官で元ペンシルバニアの学長であったグッドリッチの共同作業である。後者は、インディアナのハーパー教授とネブラスカのテインター教授によって作られたものである。前者においてこの手法は何か所かで言及されている。四七八、五一一及び四一一頁を参照。
(22) 63 N. E. 2d. 423. これは原典の一七三頁の部分である。
(23) 63 N. E. 2d. 423. これは原典の一七五頁の六章の導入の部分である。
  なお、この編者は、判例を集めて検討した結果として、いくつかの裁判所はこの手法には意識的には従わずに、連結点を数えあげて、取引行為と最も密接な関連を有する州の法を適用していた、としている。
(24) 63 N. E. 2d. 423.
(25) 286 N. Y. S. 7-8.
(26) 286 N. Y. S. 8.
版面あわせ
(27) 113 N. Y. S. 823.
(28) ちなみに、この当時のイギリスは、ちょうど、いわゆる主観的プロパー・ロー理論と客観的プロパー・ロー理論の対立が明確になったころである。すなわち、一八七〇年以降、ウエストレイクにより主唱されていた客観的プロパー・ロー理論に対して、一八九六年にダイシーがその著書の中で「契約のプロパー・ローとは、当事者が適用を意図した法」であると明確に述べ、主観的プロパー・ロー理論を明言したからである。但し、この両理論の間に実際上大きな相違はなかったと見る見解もあることについて、Graveson, Proper Law, p. 及び樋爪・前掲論文(第二章注(45))一三二頁以下参照。
(29) 286 N. Y. S. 9.
(30) Ibid.
(31) 286 N. Y. S. 8.
(32) 63 N. E. 2d. 423.
(33) 例えば、山田・前掲書(第一章注(6))二八九頁参照。
(34) 「アメリカ衝突法判例研究(2)『別居手当契約の準拠法』」(川上太郎)国際法外交雑誌六三巻一号八二頁以下参照。
(35) 124 N. E. 2d. 100.
(36) 124 N. E. 2d. 100.
(37) 124 N. E. 2d. 101.
(38) 124 N. E. 2d. 101.
(39) 124 N. E. 2d. 101.
(40) 124 N. E. 2d. 102.
(41) 124 N. E. 2d. 102.
(42) 124 N. E. 2d. 102.
(43) 124 N. E. 2d. 102.
(44) 124 N. E. 2d. 103.
  なお、この事案に履行の問題は履行地法によるという規則を適用しても同じ結論であるということを根拠のひとつとして付言している。
(45) 例えば、溜池・前掲書(第二章注38)五四頁。
(46) 第二章第二節参照。
(47) 樋爪・前掲論文(第二章注(45))一三六ー一三七頁およびそこに掲げる文献参照。
(48) Law Reports Kings Bench 1 (1949) 483.
(49) Law Reports Kings Bench 1 (1949) 484.
(50) F. A. Mann, Proper Law, p. 444.
(51) F. A. Mann, The Proper Law of the Contract, 3 I. L. Q.. 60 ; J. H. C. Morris, The Proper Law of the Contract, 3 I. L. Q. 197. この論争については、鳥居淳子「英国国際私法における契約の準拠法---Cheshire, International Contracts, 1948 の紹介---」名大法政論集一二巻一二五頁以下、折茂・当事者六六頁等参照。
(52) F. A. Mann, ob sit. p. 70-71.
(53) J. H. C. Morris, ob sit p. 204-205.
(54) わが国では、ローカリゼーションこそ裁判官の思惟的な判断を導きやすくなる方法論であるという見解がある。鳥居淳子・前掲論文(本章注(51))一二六ー一二七頁。

       第四章 結びに代えて
 従来、わが国においては、とりわけ今世紀に入ってからのアメリカ抵触法の独自性というものが強く意識されてきたように思われる。その原因はまったく性質の違う二つのリステイトメントとその間の抵触法革命期における諸々の新理論の台頭に求められるのであり、このような現象が他国では類例をみないという限りにおいて、この認識は間違いではないであろう。
 しかし、冒頭でも述べた通り、その抵触法革命の影響を最も強く受けた不法行為法の領域において、イギリスの不法行為のプロパー・ロー理論と第二リステイトメントの密接な関連性が認められており、抵触法改命が必ずしもアメリカを「孤立」させたとはいえない。
 結論としては、少なくとも判例法理のひとつである重心理論はイギリスの契約のプロパー・ロー理論と緊密なつながりを有しつつ展開してきたと考えた。そして、このことはひとつ歴史的な意義にとどまらない。なぜなら、これが今後の契約準拠法決定基準の指針になり得るからである。具体的に言えば、すでに何度か触れたように、一九六〇年草案で取り込まれた重心理論は、最終的な第二リステイトメントではいわゆる政策考慮派との折衷を余儀なくされた。しかし、実際の運用上、心理論が今日果たしている役割を明らかにすれば(1)、一見まったく掛け離れているようであるアメリカとイギリスひいてはヨーロッパその他の国々との共通の土壌を考えることも可能となるはずである。
 いずれにせよ、アメリカ法の理解という点においても、イギリス法の果たす役割は非常に重要であると考える。かつて、プレブル(J. Preble)は、英米契約準拠法決定基準に関する詳細な比較研究の後に(2)、両法制の類似性を指摘しつつも、その最大の相違点として、ビールの既得権理論の影響を受けているかという点を挙げた(3)。すなわち、プレブルは、イギリスの契約のプロパー・ロー理論には(例えば第一リステイトメントのような)既得権理論の影響は見られず、また既得権理論に対する反動とも言うべき結果選択的なアプローチ生じなかったというのである。
 しかし、この点については若干の疑問を感じる。ビールの既得権理論はイギリスのダイシーに由来するというのは広く知られるところであるが(4)、そのダイシーの契約のプロパー・ロー理論もまた、チェシャーによって契約のプロパー・ロー理論の中に止揚されているのである(5)。たしかに、ダイシーの既得権理論はイギリスにおいて強い支持を得たとは言えず、彼の教科書からも早々に削除されたが(6)、他方では彼の主観的プロパー・ロー理論の根拠を既得権理論のひとつに求める記述も存在している(7)。今後研究を進める必要があると考えているが、少なくともビールの既得権理論のみから、イギリスとアメリカを抵触法上厳密に区別することはできないのではあるまいか。
 また、他方では、アメリカにおいてもいわゆる法域選択的アプローチが排除されたとは言いがたく、むしろ少なくない影響力を有していると言えよう。アメリカにおける一連のルール最評価の動きもその一例であろう。この点においても、英米抵触法の関連性は否定され得ないと思われる。
 そもそも、本文中に述べたように、わが国においても、契約準拠法決定基準に関して、英米両法間に一定の交流があったことは認識されてきた。ただ、その際に、チェシャーのプロパー・ロー理論が「客観主義」であることに重きが置かれてきたように思われる。しかし、契約のプロパー・ロー理論は主観主義を「止揚」した客観主義なのであり、それが最大の特色なのである。この点を踏まえて重心理論(8)と契約のプロパー・ロー理論を見た場合、その本質的な共通点がより明確になる。
 イギリスの従来の考え方すなわち契約のプロパー・ロー理論とEUの契約債務準拠法条約の理論的対応については、すでに考察を試み、一定の結論を得た(9)。それらの研究を通してアメリカ法とEU法の両方を止揚するような形での理論整理が可能になると現段階では考えている。

(1) 契約に関するアメリカ抵触法の最近の動向を探るものとして、三浦正人「当事者による有効な法選択のない場合---アメリカ抵触法第二リステイトメント第一八八条及び若干の判例」名城法学三八巻別冊四五二頁以下、野村美明「アメリカ契約抵触法の最近の動向」阪大法学四〇巻三=四号八九五頁等がある。
(2) J. Preble, Choice of Law to Determine the Validity and Deffect of Contracts : A Comparison of English and American Approaches to the Con■ict of Laws, part I ; 58 Cornell Law Review 433 (1973), part II ; 58 Cornell Law Review 635 (1973).
(3) J. Preble, 58 Cornell Law Review 501.
(4) 溜池・前掲書(第二章注(38))五一頁等参照。なお、ダイシーの理論については、久保岩太郎「ダイシー氏の英国国際私法準則」商学評論八ノ三がある。また、ビールの理論あるいは第一リステイトメントに関しては、川上太郎「米国国際私法のリステートメント」国民経済雑誌五九巻四号、久保岩太郎「米国国際私法最近五〇年の動向」民商法雑誌六巻三号、平良「リステイトメントを中心としたアメリカ判例法の課題」『アメリカにおける連邦と州の法律問題』所収、川上太郎「ビールとアメリカ国際私法」『国際私法の基本問題(久保岩太郎先生還暦記念論集)』二三頁等がある。また、既得権理論にとらわれずに、別の視点から、英米抵触法の分析を行っているものとして、折茂豊「属地主義理論について---ビールの学説批判を中心として」、同「国際礼譲の理論---特に英米国際私法に於けるそれについて---」法学一〇巻一二号一二〇四頁、同「国際私法における二つの学派ー特に大陸学派と比較してのコモン・ロー学派について---」国際法外交雑誌四三巻八号一頁等がある。
(5) 第三章第二節注(9)等参照。
(6) 彼の教科書の第五版から削除された。
(7) A. V. Dicey, THE CONFLICT OF LAWS (1896), 540 et seq.
(8) 重心理論についてより詳しい研究の手がかりとして、本浪章市「重心理論と国際私法における法的安定性と具体的妥当性」『国際私法の争点』三三頁、石黒前掲書(第一章注(7))七四頁以下等がある。また、附合契約における準拠法約款を中心にしたアメリカ判例法の研究については、松岡・前掲書(第一章注(10))二五五頁以下がある。
(9) 樋爪・前掲論文(第二章注(45))参照。