立命館法学 一九九五年三号(二四一号)




◇ 論 説 ◇
氏名の自己決定権としての通称使用の権利


二宮 周平






目    次




        は じ め に
 氏については、その法的性質および社会的機能をめぐって多様な見解があるが(1)、氏名が個人の人格を象徴するものであり、人格権の一内容を構成するということについては、判例・学説において異論のないところである(2)。その内容と意義を明確にするために、氏名に関する人格的利益を端的に示すものとして、氏名権という言葉が用いられ、これも定着している(3)。しかし、判例における氏名権の法的保護は、自分の氏名が他人に無断で使用されたこと(冒用)に対して、氏名の使用の差止めや損害の賠償を認める事例がほとんどであり、氏名を正確に呼称される利益や通称を使用する利益は、法的保護の対象となりうることが示されはしたものの、結果的には請求自体は否定されている(4)。
 氏名を人格価値の一側面として把握するのであれば、時代の変化につれてその氏名を侵害する形態も多様になるのであるから、氏名を保護する範囲や氏名権の内容も、侵害の態様に応じて変容することとなる。氏名権の侵害の態様を個人の人格的利益の見地から判断すれば、自己の氏名を正確に呼称されないことや自己の氏名と信ずる氏名を使用できないことの方が、自己の氏名が他人に無断で使用されることよりも、精神的な侵害としては深刻である(5)。ところが、判例は冒用に対する保護の段階に止まっており、氏名の人格権的把握が十分であるとはいえない。
 それを如実に示したのが関口訴訟である。大学院以来、婚姻後も一貫して旧姓を用いてきた教員が、就任した国立大学に対して旧姓の使用を求めた事案で、東京地裁は、通称名であっても、一定の場合には、「人が個人として尊重される基礎となる法的保護の対象たる名称として、その個人の人格の象徴となりうる可能性を有する」としたが、他方で、公務員の場合には同一性を把握する手段として戸籍名を用いることには合理性があるとし、公務員の服務及び勤務関係において、通称名が国民生活における基本的なものとして根づいていないとして、また研究業績の公表など一定の範囲で通称名を使用できるよう配慮しているとして、大学側の通称名使用の規制に違法性がないとした(東京地判平五(一九九五)・一一・一九判時一四八六号二一頁、以下関口訴訟第一審判決とする)。
 しかし、公務員の場合、これまで通称名の使用が認められない事例が圧倒的に多かったのだから、そもそも国民生活に根づくわけがない。大学側の示す通称名使用に対する配慮では、大学内の文書などにおいて研究教育活動を通称名で行うことができないのであるから、これでは研究教育者としてのアイデンティティを保てない。通称名に人格権としての性質を認めても、その使用を安易に制限したのでは、人格権として認めた意味がないといえよう。
 そこで本稿では、通称使用について氏名権としての権利性と人格権としての保護の基準を検討し、私たちには自由に通称を用いる権利があることを明らかにしたい。その上で具体的な事例として、研究教育職に携わる大学教員の通称名使用がどの範囲で認められるのかを検討し、通称使用の権利性を少しでも定着させたいと思う。

        一 通称使用の権利性
 1 事実としての通称使用の自由
 判例は、常用漢字および人名漢字にない名への変更申立てを却下した事案で、「戸籍法は、各自が戸籍上の氏名以外の関係でこれと異なる氏名を呼称することを別段禁止してはいない」とする(最判昭五八(一九八三)・一〇・三一判時一一〇四号六六頁)。立法者も、通称使用を一般的に認める見解を示してきた。戦後の民法改正時に、夫婦同氏制度を維持するにあたって、氏を変更した方は、通称を用いることができるから、不都合はないと説明し(6)、一九七六(昭五一)年、離婚の際の婚氏続称制度を導入するにあたって、夫婦別氏論が展開されたのに対して、政府委員の中山法務政務次官は、「いろんな芸名だとかそれからペンネームだとか屋号だとか、そういうものを唱えることを禁止しているわけではございませんので、そういうものとうまくかみ合わせていけば、それほど現在の制度が女性の権利を阻害していると思わない」と答弁している(7)。
 唄教授は、「人は二つ以上の呼称をもつことは自由である。民法上の取得要件と変更基準にもとづいて称する氏(そして、その呼称が戸籍に記載されている)のほか、様々の呼称をもちうる。それには商号・芸名・ペンネーム・愛称・宗教名などいろいろあるが、中には日常生活上、その人の表示手段として戸籍上の氏にもまさって通用しているものもあろう」と指摘する(8)。また「人は戸籍上に記載された呼称以外の多くの呼称をもつことができるし、またそれの使用を甲から乙へ、乙から丙へと戸籍に関係なく変更することは、全く自由自在である」といわれる(9)。
 こうして通称使用の自由が認められているのであるが、通称使用は法の規律からは放置されているために、通称使用が可能かどうかは、職場の裁量に委ねられ、戸籍上の氏の使用しか認めないとか、通称の使用を限定するなどの処理をされる結果となっている。一九五〇年代にすでに唄教授は、氏名を、個人の同一性を特定し、それを社会的に表示するための記号と捉えるとき、社会関係の複雑化、個人の生活範囲の多様化に伴い、一人の人間が、その社会関係や生活範囲に応じて異なる呼称を称しうることは、「個人の自由に属するもの」であり、複数の呼称をもつ場合に、「そのどれも、呼称としての機能においては共通であり、そしてそのどの呼称についても、それを称することは個人の権利として、法律上保護される私権を構成するものといえよう」と主張されていた(10)。つまり通称を使用することを私権として認めるのである。いわば事実行為として放置されてきた通称使用について、このように個人の権利として認めることが、通称使用を社会的に定着させる上で必要になっている。そのためには、唄教授の指摘される「私権」の内容と根拠を具体的に明らかにしなければならない。本稿では、これを氏名の自己決定権とプライバシー権の見地から検討してみたいと思う。
 2 氏名の自己決定権
 (1) 氏名権の議論の中で  氏名の自己決定権という考え方は、氏名権の議論の中で表れてきたものである。当初、学説は、氏名権の内容につき、冒用を阻止する氏名専用権をあげたが、判例に現れた事案の展開に伴い、それを氏名を正確に呼称される利益まで広げるだけではなく、人格権としての意味を重視し、氏名権の本質を氏名の自己決定に求めるようになった(11)。例えば、小林教授は、憲法一三条の幸福追求権から導かれる新しい人権として、「自己の名を他から干渉されずに自由に選択しそれを公証させる権利」として「氏名選択権」という考え方を主張し、人格的生存にとって不可欠の利益だとする(12)。また斉藤教授は、「氏名をどのように使用するのか、それをどのように呼称するのかはひとり氏名所持者のみ決しうるところである」として、「自らの氏名につき決定をなしうる」という「氏名所持者の権利」を認める(13)。
 ただし、小林説も、斉藤説も、現行の夫婦同氏制度、親子同氏制度とのかかわりで「氏名選択権」「氏名につき決定をなしうる氏名所持者の権利」を論じているのではない。名について自由に選択し公証させる権利としての「氏名選択権」であり、定まった氏名をどのように使用し、呼称するかを決定する権利としての「氏名所持者の権利」である。夫婦同氏、親子同氏という氏の決定原理にまで踏み込んだ上で、自己決定が論じられるためには、夫婦別姓論を待たねばならなかった。
 一九八〇年代後半以降、夫婦別姓の議論が始まると、自分の意思とは無関係に、婚姻したことによってどちらかが氏を変更せざるをえない夫婦同氏制度は、氏名権の根幹にかかわる問題だと意識されるようになる。東京弁護士会「選択的夫婦別氏制採用に関する意見書」(一九八九年一月一八日)は、氏名が個人の人格の重要な一部である以上、自己が望まない氏の変更は、個人の自己否定、同一性の否定を意味するから、個人が自己の人格の実現を果たすためには、氏名権の基本的な内容として、「氏名をその意思に反して奪われない権利」あるいは「その意思に反して氏名を変更することを強制されない権利」が導き出されなくてはならないとした。酒向弁護士は、これを氏名に関する自己決定権と表現した(14)。同じ時期に、富田助教授は、氏に対する自己決定権の確保と氏の継続使用の利益の保護という観点から、氏を再検討していく必要があると指摘し(15)、澤田教授は、氏名が自己の人格に不可欠の利益だとすれば、氏名の取得、保持、変更それぞれの段階での権利保護性が検討されるべきだと指摘し、氏名の自己決定権に対して好意的な見方を示した(16)。
 氏名の自己決定権ということを徹底していけば、自己の責任において、いつでも変更する自由があるべきだということになるが、現在の法制度では、氏については、まったく自由に自己決定できるわけではない。夫婦は婚姻に際して、夫または妻の氏のどちらかを夫婦の氏としなければならない(民七五〇条)。養子は養親の氏を名乗らなければならない(民八一〇条)。子は、出生によって、婚内子(嫡出子)であれば父母の氏、婚外子(嫡出でない子)であれば母の氏を取得し(民七九〇条)、自由に第三の氏を取得することはできない。また名についても、用いる文字が制限されている(戸籍法五〇条)。
 したがって、現状で氏名の自己決定権というときには、民法の原則によって決定された生来の氏を自己の意思とはかかわりなく変更を強制されないこと、つまり自己の氏名を保持する権利が根幹になる。東京弁護士会意見書が、氏名の自己決定権と表現しないで、「氏名の変更を強制されない権利」と限定したのは、そのためである。こうした権利は現行法でも保障されている。それは、離婚の際の、婚氏続称の制度である(民七六七条二項)。この婚氏続称は呼称上の氏だとされているが、少なくとも結婚改姓した氏を離婚後も呼称として保持できることを認めたのであるから、自己の氏を保持する利益あるいは継続する利益を離婚に際して保障したと見ることができる。
 こうして、学説は、夫婦の氏の問題について氏名の自己決定権を論じ、中でも氏名保持の利益を基本にして夫婦別氏選択制度を根拠づけようとしたのである。そして現在、この立場から法改正が検討されている。法務省民事局参事官室による民法改正要綱試案の説明によれば、夫婦別氏制導入の動きに関して、「社会状況の変化に伴って、国民の間に、生来の氏を称し続けることが一種の人格的利益であると主張する見解が次第に拡がりをみせてきている」とし、この主張が最高裁判決(昭六二(一九八七)・二・一六民集四二巻二号二七頁)によって「いわば公的に認知されるに至り」と述べている(17)。
 このように氏名の自己決定権としては、名の選択、呼び方や用い方、そして生来の氏を維持することが、主張され、この内、婚姻の際の氏名保持の利益は社会的な承認を得て、法改正で保護されようとしているのである。
 (2) 通称使用と氏名の自己決定権  こうして学説上、広く承認されるに至った氏名の自己決定権の一内容として、通称使用の自由を捉えることができると考えるが(18)、その根拠を、氏名の自己決定権それ自体を検討することによって明らかにしたい。
 氏名とは、自己を他人から識別する機能を有すると同時に、自己の人格を象徴するものであり、個人のアイデンティティを確立する要めである。人は氏名によって自己を認識する。氏名が人格権の一内容を成すのは、そのためである。こうして氏名が自己の人格を象徴するのであれば、自己の人格に関することについては、自分で決定できるものでなければならない。確かに氏が夫婦同氏や親子同氏の原則により、夫婦関係や親子関係の成立・変更・消滅によって変動しても、氏が個人の呼称としての機能をもつ限り、人格を象徴するのであるから、氏名を人格権として捉えることは可能である。しかし、自己の意思によらないで、身分関係の変動で氏が変動することは、意思という人格の根幹を無視するものであって、人格権の本質に反している。したがって、氏名権を人格権の一内容とする限り、氏名権は氏名の自己決定権を内包しているのである。
 しかも氏名の自己決定権は、憲法の個人の尊重の原則によって根拠づけることができる。個人の尊重とは、個人の平等かつ独立の人格価値を尊重するという個人主義原理の表明であり、民法一条の二を通じて私法の解釈基準として、私法秩序一般をも支配している(19)。個人主義の原理は、個人が個人そのものとして価値あるものとされ、人間社会における価値の根源とされることである(20)。その個人の人格価値は氏名を通して外部に表れるのであるから、個人を尊重するという原理は、人格の象徴である氏名を尊重することを導く。
 さて個人を尊重するとは、具体的にどういうことかといえば、それは具体的個人が意思をもつ存在であることから、社会生活の中で、それぞれの意思が尊重されることを意味する(21)。意思の尊重とは、自己決定の尊重に他ならない。憲法で保障されている様々な基本的人権、例えば、思想・良心の自由、学問の自由、表現の自由、職業選択の自由などは、いずれも自分で選択し決定できなければ、「自由」とはいえない。すなわち、個人の尊重は、個人が一定の私的事項について、公権力による干渉を受けずに、自ら決定することの保障を含むと解され、これが自己決定権と呼ばれているのである(22)。佐藤教授は、個人の尊厳を「人格的自律権」あるいは「自己決定権」で説明しようとしている(23)。つまり、自己の行為については、自分で判断することができ、その意思決定が尊重されることが、個人の尊重の意味のなのである。したがって、個人の尊重の原理は、氏名の決定にあたって、その人の意思を尊重することをも導く。これが氏名の自己決定権なのである。
 この氏名の自己決定権を純粋に考えれば、夫婦同氏・親子同氏の原則に拘束されず、いつでも自由に法律上の氏名を決定し、変更することができることになる。そしてこのような自由があったとしても、人は生活関係の多様化に伴い、戸籍上の氏の他に、ペンネームなど自由に通称を使用することもできることになる。すなわち、民法によって定めれられた戸籍上の氏名の他に、通称として自由に自己を表現して活動することが、憲法の個人の尊重原則に基づく氏名の自己決定権として保障されるのである。通称使用の自由は氏名の自己決定権の一内容であり、氏名の自己決定権を根拠とする法律上の私権になるのである。ところで、現行制度では、戸籍上の氏名としては、夫婦・親子を一つの家族共同体として位置づける必要性から、自己決定は制限されている(24)。したがって、通称使用の自由は、現行制度の下において氏名の自己決定権を純粋に実現するものとして、重要な役割を果たしており、その自由は最大限に尊重されるべきものといえるのである。
 判例でも、「個人(自然人)は、自己の氏名をいかなるものにするかについては、公共の福祉に反しない限り、自由に決定することができ、基本的には、他人からいかなる容喙を受けることのないもの」であるとし、氏名決定の自由という法理を述べているものがある(東京地判昭六三(一九八八)・一一・一一判時一二九七号八一頁)。これは、団体の名称を無断使用した側に、名称決定の自由があることを導き出すために述べられたことであるが、氏名を決定する自由という考え方自体が、判例でも言及されていることに注目したい。団体の名称は、個人の戸籍上の氏のように民法の原則によって一義的に決定されるものではないのであるから、いわば個人の通称と同じものとして理解できる。したがって、個人にとってみると、通称決定の自由が示された判決と理解することができよう。
 さらに個人が氏名で自己を表示して、社会的活動を行っているのであるから、通称使用は、表現の自由(憲二一条)、学問の自由(憲二三条)、職業選択の自由(職業活動をする自由、憲二二条)からも根拠づけられる。著者として表示した氏名が通称であることは、社会的に多く見られる現象である。自分の書いた作品や論文、自分が行った職業上の仕事などは、すべてその氏名で、自分を特定し、他人と識別する形でなされているのであるから、その氏名が戸籍上のものであれ、通称であれ、法的保護に値するものとなる。通称が法的保護を受けることは、逆にいえば、芸術創作活動、学問活動を、通称で行いたいと個人が欲する場合には、通称を使用する権利があることを意味する。例えば、内野教授は、大学教官の教育・研究活動の自由は、学問の自由として憲法上の人権といえるとして、通称の一つである旧姓の使用権を導き出している(25)。
 以上のように、通称使用の法的根拠は、氏名の自己決定権であり、それは憲法一三条の個人の尊重原則によって裏づけられ、その個人の活動形態によっては、表現の自由、学問の自由、職業選択の自由という憲法の基本的人権によって補強されるのである。したがって、戸籍上の氏名と異なる呼称を用いることが、氏名の自己決定権として認められる。例えば、夫婦同氏制度の下では、本人が望んでいない場合でも、夫または妻のどちらかが氏を変えなければならない。これ自体、氏名権の見地からすると、本人の意思に反する改氏の強制だから、氏名権の侵害になるが、現行制度の下では、やむをえないこととして、一方が改氏する。このような場合、社会生活や家庭生活において、これまで自己の人格を表象していた婚姻前の氏をそのまま通称として用いるのか、それとも戸籍上の氏を用いるのか、選択することができ、その選択は本人のみがなしうることとなる。
 斉藤教授は、このような事例を具体的に予定していたとはいえないが、「本名を表示するか変名を表示するかを選択しうる場合にも、その選択はひとり氏名所持者のなしうるところである」と述べていた(26)。唄教授の考え方から推しても、社会関係、生活範囲に合わせてどの呼称を用いるかは、その呼称で自己の同一性を表示しようとする本人自身が決めることができることになろう。
 もちろん通称については、社会の側も利害を有する。戸籍上の氏名のような登録名ではないので、頻繁な呼称の変更は、個人の同一性把握を困難にする可能性があるからである。しかし、夫婦別姓の実践のように、婚姻前の生来の氏を継続的に使用している場合には、同一性把握を困難にする要素は見当たらない。むしろ氏が変わらないことは、個人の同一性把握を容易にするから、社会的利益にもつながる。かつて民法七六七条の改正前の事例であるが、離婚した女性が離婚復氏後に戸籍法一〇七条に基づいて、婚姻中の氏への変更を認めた事案で、「氏は名とともに個人の表象であり人格の同一性認定の有力な標識であって、かかる点から、文化、経済生活の複雑化せる近代社会において法的安定性をはかるため氏の不可変更性の要請は必然的なものということができよう」として、氏が変わらないことの社会的利益を指摘した審判もあるのである(東京家審昭三四(一九五九)・六・一五家月一一巻八号一一九頁)。
 したがって、婚姻後、通称として生来の氏を用いるのか、それとも戸籍上の氏を用いるのか、その選択は、氏名所持者だけがなしうることなのであるから、戸籍上の氏名の使用を強制されることは、氏名の自己決定権が侵害されたことであり、自発性に基づかない氏名の選択や変更として、氏名権を侵害することになる。例えば、大学教員が研究教育者として一貫して用いている氏名=旧姓を、大学においても使用したいと希望する場合、この通称使用の自己決定は、氏名権に基づくものとして尊重されなければならないのである。
 3 プライバシー権
 人は戸籍名を知られたくないと思う場合がある。戸籍名をプライバシーに属することだと捉えるならば、通称使用は戸籍名を表示しない点において、プライバシーを保護する機能があるのだから、通称使用の根拠をプライバシー権に求めることも可能になる。
 現在、プライバシー権は、「私生活をみだりに公開されない権利」にとどまらず、高度情報化社会を背景に「自己に関する情報をコントロールする権利」を含むものとして理解されている(27)。判例も、明示的に自己情報コントロール権という言い方をしてはいないが、実質的にはこの権利の中身を認めている(28)。
 何がこの自己情報にあたるかについては争いがあるが、芦部教授は、個人情報をすべて保護の対象となるものと考え、その収集、保有、利用ないし開示についてプライバシー権の侵害の有無が争われた場合、((1))誰が考えてもプライバシー情報と思われるものが侵害されたときは、行為者に「やむにやまれぬ利益(必要不可欠な利益)」がない限り、プライバシー権の侵害になり、((2))一般的にプライバシーと考えられる情報の侵害が争われたときは、「厳格な合理性」基準、すなわち目的と行為との間に実質的関連性があるかどうかが基準となり、関連性がない限り、プライバシー権の侵害になるとする(29)。関口訴訟の第一審判決は、原告がいかなる戸籍名を有する者であるかは、専ら公的な事柄であるから、戸籍名をもって原告のプライバシーに該当するということはできないとするが、内野教授は、一般論としていえば、戸籍名もプライバシーの対象となりうると考えるべきだと批判している(30)。自分が何者であり、何の誰という人物かということは、個人情報の中で最も基本になるものであるから、氏名はプライバシー権の対象であると考えるのが妥当であろう。
 次にコントロールとは、「いつ、どのように、どの程度まで、他者に伝達するかを自ら決定する」ことをいうのであるから、個人情報の収集、管理・利用、開示・提供のすべてにつき、本人の意思に反してはならないことが原則とされる(31)。中でも、個人情報を秘密にしておくことは、プライバシー権の基本となる。個人の尊重の原理は、個人の自律的な社会関係の形成を尊重することであり、自律的に形成される領域は、公権力や第三者によって干渉されてはならず、その領域の情報に立ち入ることは許されない。つまり個人はその領域についての情報を他に対して秘密にしておく権利を有する。これがプライバシーの権利であり、これによって個人の自律的領域を保護するからである(32)。
 したがって、戸籍名を公表しない権利も、プライバシー権の一内容になるのである(33)。関口訴訟の第一審判決の論理では、いわゆる通氏(日本風の氏名)で生活している在日韓国・朝鮮人に対して、その人の外国人登録名(民族名)を暴露することも、プライバシーの侵害にならないことになる。日本人でもペンネームや芸名のように、私生活と社会的生活を分け、私生活に第三者が侵入するのを防ぐために、戸籍名を明らかにしないでいる人もいる。このような場合に、本人の同意も得ず、戸籍上の氏名を公表しても、プライバシーの侵害にならないことになる。この結論は、プライバシーを保護してきた判例から見ても、妥当ではない。
 戸籍上の氏名と通称を併記することについても、同じ問題が生じる。「通称名(戸籍上の氏名)」という形の併記であれば、日頃、社会的活動上使われている氏名が先に出ているので、誤解は少ないであろうが、「戸籍上の氏名(通称名)」では、日常的に用いている氏名が括弧内に記載されているため、いつも使っているのは本当の氏名ではなかったのかとか、本当の氏名は何なのかとか、これからは戸籍上の氏名で呼ばなければならないのかとか、誤解を与えることになる。またいずれにせよ括弧書を併記することは、表示された者が戸籍上の氏名の他に別の氏名を有することを明らかにする。男性であれば、婿養子にいったのかとか、女性であれば、婚姻しているのかとか、その人のプライバシーに属することが、併記によってある程度暴露されてしまい、一定の先入観で属性を判断させることをも招きかねない(例えば、婿養子などのイメージ)。併記には、こうしたプライバシーの権利から見た問題点もあるのだから、何らかの形で通称が表記されていればよいという便宜的な発想で対処してはならない事項なのである。
 以上の検討から、戸籍名が本人の同意なく表示されれば、プライバシー権侵害として争われることになる。例えば、関口訴訟第一審判決のように、公務員の同一性の確認という抽象的な理由で、基本的人権であるプライバシー権を制限することはできない。芦部説にしたがい、氏名が((1))の情報に該当するとすれば、氏名の公表は、必要不可欠な利益がない限り、プライバシー権の侵害になるし、((2))の情報に該当するとすれば、氏名の公表は、公表目的との間に実質的関連性がない限り、プライバシー権の侵害になる。
 このように通称使用の権利を根拠づけることができるとして、通称は具体的にどのような法的保護を受けるのであろうか。

        二 通称の法的保護
 1 保護の態様
 社会生活の中で実践された通称使用は、実定法の上では、戸籍法における氏の変更として保護されることがある(34)(戸一〇七条)。社会的実態としての通称使用を尊重して、戸籍法上の氏自体の変更を認めるという保護である。通称を戸籍上の氏に変更してしまえば、氏名権としての保護に何の問題もないのであるが、戸籍上の氏の変更ができない場合もある。夫婦別姓の実践がその典型である。つまり、戸籍上の氏の変更は、戸籍筆頭者(配偶者がいる場合は配偶者と共に)しか、申し立てることができないため、配偶者が夫婦別姓の実践として、いくら婚姻前の氏を通称として使用していても、通称を戸籍上の氏に変更することができない。逆に芸名・ペンネームのように、本人が戸籍上の氏への変更を欲しない場合もある。これらの場合にも、通称を法的保護の対象にすることがある。それは、著作権法上の氏名表示権と、通称に人格的価値を認めて人格権として保護する場合である。
 (1) 著作権法による氏名表示権  著作権法は、著作物に対する著作者人格権の一つとして氏名表示権を認めている(著作一九条)。氏名表示権は、著作物に著作者の表示を付するか否か、いかなる表示を付するかを決定することができる権利である。その著作者の表示として、実名(戸籍名)や変名(ペンネーム、雅号など)の表示のほか、称号その他の身分・職業などに関するあらゆる肩書の表示も含むものとされており、他人が無断で氏名・称号を変えて表示したり、氏名・称号を削除したり、無記名著作物に著作者の実名をいれて表示したりする行為は、氏名表示権の侵害になるとされている(35)。そして侵害行為に対しては、侵害の停止または予防請求(差止請求、著作一一二条)、損害賠償請求(著作一一四条)、名誉回復等の措置の請求(著作一一五条)をすることができる。このように通称や旧姓の使用は、著作権法上、氏名表示権として法的保護を受けることができる。例えば、大学教員の研究成果の公表物、授業・講演の内容など著作物に関しては、当然、著作権法上の保護を受けることになるから、氏名表示権として通称を用いている場合、勝手にこれを戸籍名に変更したり、戸籍名を強制することはできないのである。
 なお、無名または変名の著作物の保護期間は公表後五〇年であるが、著作者の変名がその者のものとして周知のものであるとき、または五〇年内に実名の登録をしたとき、または五〇年内に実名または周知の変名を著作者として表示してその著作物を公表したときは、著作権は著作者の死後五〇年を経過するまで存続する(著作五二、五一条)。したがって、通称でも、周知のものは、戸籍名と同じ保護を受けるといえる。例えば、大学院以来、終始一貫して旧姓を用いて研究教育活動に従事し、社会的に評価されてきた場合には、単なる変名ではなく、実名に相当するものにあたるから、著作権法の趣旨から考えても、一層、法的保護に値するものといえる。
 (2) 人格権としての保護  すでに一九五〇年代始め、平賀法務省民事局参事官は、「元来個人を特定するための呼称としての一般的な氏名はかならずしも戸籍に記載された氏と名にかぎられない」から、「戸籍上の氏名とは異なる通称、筆名、芸名などであってもそれが個人を特定するための呼称として広く社会的に承認されている以上、これまた一般的な氏名の一種として法律上保護されなくてはならない」と述べていた(36)。斉藤教授は、「ときとして人はその他の名称をも有する。そのような名称であっても、それが人格を表象し、それと密接不可分のものである限り、『氏名』保護の射程内にある。したがって、ペンネームや雅号などの変名であっても、戸籍簿上の氏名と同じく、保護の客体となる。すなわち、そのような変名が冒用されるときにも、これも人格価値の侵害となる」と述べている(37)。
 判例では、タレントや俳優の芸名の無断使用に関して、差止めや損害賠償を認めている(東京地判昭五一(一九七六)・六・二九判時八一七号二三頁、富山地判昭六一(一九八六)・一〇・三一判時一二一八号一二八頁など)。このように冒用に対していわば防御的に通称を保護することは認められているが、通称使用の妨害の差し止め、通称の使用命令、使用できなかったことによる損害賠償請求は、まだ認められていない(関口訴訟第一審判決)。
 しかし、本人にとっては、自己の氏名(通称)を他人に冒用されることよりも、自分の氏名であると信じる氏名(通称)を希望通りに使用できないことの方が、人格価値の侵害としては深刻である。自己の人格を象徴する氏名(通称)を使用できないことは、自己の人格を表現できないことと等しいからである。冒用を保護するのであれば、被害実態としてはより深刻な通称使用の妨害に対しても、人格価値の保護が図られなければならない。それでは、通称が人格権としての法的保護を受ける基準は何なのであろうか。
 2 法的保護の基準
 通称が人格権としての法的保護の対象となるためには、それが本人の人格価値を表象するものにまでなっていなければならないことはいうまでもない。
 こうした基準の設定について参考になるのは、山主教授の戸籍法上の氏名変更の基準である。それは、((1))氏名がその人の同一の生活関係において継続的に使用され、((2))それがその人の氏名であると一般的に認められ、((3))そのことによってその人の人格の同一性を示す表象となっていること、である(38)。滝沢教授は、通称一般について、通称使用の継続の事実の他に、通称使用の正当性が必要だとするが(39)、正当かどうかの判断基準が不明であり、他人の氏名を用いて呼称秩序を混乱させるなどの事情がない限り、どのような名称を用いるかは個人の自由に属するものであり、正当性を要件にするのは妥当ではない。
 他方、関口訴訟第一審判決は、「通称名であっても、個人がそれを一定期間専用し続けることによって当該個人を他人から識別し特定する機能を有するようになれば」、人格権として法的保護の対象たる可能性があるとして、専用性を要件とした。これに対して、秋山検事は専用性という要件に対して批判的で、通称が人格に関することであるから、どのような名称で呼称されたいかを外部に表示した時から、保護されると解する余地があると述べる(40)。
 確かに個人は、ある呼称によって他人と識別されるのであるから、個人がある呼称で自己を表示したいと欲してその表示を用いれば、第三者はその表示がその個人を示すものであると認識する。したがって、専用性の要件は、呼称という事柄の本質上、不要と考えることができる。しかし、通称の人格権としての保護の中には、他人の無断使用について、差し止めたり、損害賠償を請求したりすることも含まれているのであるから、単に外部へ表示しただけでは足らず、継続使用をすることによって社会的認知を受けていることが必要ではないだろうか。したがって、山主教授の((1))〜((3))の要件が妥当であると考える。
 関口訴訟では、原告は結婚改姓によって戸籍上の氏が夫の氏になってからも、一貫して生来の氏で研究教育活動を行っており、山主教授の((1))〜((3))の要件をすべて満たしている。婚姻前の旧姓を通称名として用いる場合は、これはいわば当然のことである。つまり、生来の氏をそのまま継続使用しているのであるから、いわゆる芸名やペンネームのように継続使用や社会的認知の有無を論じる必要性がないのである。
 山主説と異なる要件を考える立場でも、旧姓使用の場合には、特別な扱いをしている。例えば、秋山検事は、専用性が要件として必要であるとしても、旧姓使用の場合は、婚姻前にすでに長期使用しているのであるから、専用性の要件は不要であるとし(41)、正当な理由を要件とする滝沢教授も、旧姓使用の場合は、正当理由の裏づけは容易であり、継続が長期にわたらなくても、当事者の意思を尊重する余地はあるとする(42)。犬伏助教授も、一般の通称名以上に旧姓通称は個人が長年にわたって自己を表示してきたもので、個人の人格により密接に関連するものとして、人格権に含まれるものと考えると述べている(43)。すなわち、旧姓使用は、どのような立場に立っても、原則として人格権として法的保護の対象になるといえるのである。
 こうしてある通称使用が人格権として法的保護に値するとされた場合、その通称使用を規制するには合理的な理由が必要になる。実際に裁判で争われたケースとして関口訴訟を具体例にとって、果して合理的理由があるかどうか、検討してみたい。

        三 通称使用の規制
 1 国立大学教員の通称使用請求事件
 関口訴訟では、原告は、婚姻に際して夫の氏「W」を夫婦の氏としたため、戸籍名は「W」となった後も、従来どおり「関口礼子」を使用してきた。そこで国立大学である図書館情報大学就任後も、研究教育活動において「関口礼子」の使用を大学側に申し入れたところ、大学側はこれを認めず、彼女の氏名の取扱いについて文書を作成した。それは、((1))戸籍上の氏名によらなければならないもの、((2))「W」又は「W(関口礼子)」による必要のあるもの、((3))「関口礼子(W)」又は「関口礼子」を使用して差し支えないもの、の三通りである。
 具体的には、((1))はa人事記録に基づく発令行為(任免、給与関係書類)、b発令行為に基づく学内での事務処理上の書類等及び学外への公文書類等、c他機関からの依頼書又は本人の申請に基づき、学長名(発信名義者)で学外の諸機関に提出する書類等、dその外、公務員としての権利、義務に係る書類及び法令等により戸籍どおりの記入が求められている書類等、e授業の実施、単位の認定、指導教官等に関する書類等、((2))はa学内施設の利用申請に関する書類等、b非常勤職員雇用関係書類、((3))はa研究活動及びそれに伴う研究成果の公表物並びに公開講座のポスター及び講義要旨、b学内で発行する刊行物で本人が寄稿する論文等、cその他abに準じて取り扱って差し支えない書類である。
 大学側はこれに従って、科学研究費の申請・登録・成果の公表、研究者データベースへの登録、研究用物品の注文書、在外研究員への応募、大学職員録、授業時間割、学生の講義概要、クラス担任名掲示、卒業研究抄録などについて、戸籍上の氏名「W」を用いる他、図書館に所蔵する原告の著書の著者名「関口礼子」にあたる部分に「W」のラベルを貼付するなどの行為を行った。
 しかし、現行法体系には、戸籍上の氏名の使用を強制する法律はない。私見によれば、通称を用いるか、戸籍名を用いるかは、氏名の自己決定権として、氏の所持者自身が決定すべき事項であり、第三者はこれを侵害してはならないのであるが、氏名の自己決定権という考え方自体がまだ社会的承認を得られていないとしても、判例・学説の言うように、通称にも人格権としての保護は認められており、旧姓使用の場合には、生来の氏の保持という点で、氏名権の視点から見ても利益性の高いものであり、かつ氏の不変更という社会的利益も実現できるものであるから、人格権としての保護を受ける資格は十分すぎるほどある。このような段階に達している通称の使用を制限することは、個人の人格価値に直接かかわることであり、人格権自体が憲法一三条の個人の尊重原則に基づく権利であるのだから、通称使用の制限には合理的な根拠が必要になる。人格価値にかかわることについては、厳格な審査基準を用いる立場によれば、単なる合理的根拠では足らず、その規制がやむにやまれぬ利益の促進のために必要であることが要求される(44)。
 したがって、なぜ戸籍上の氏名ではなく通称を使用することができるのか、という観点ではなく、なぜ通称の使用を規制することができるのか、という観点から検討しなければならない。さもなければ、通称も含めて氏名が人格的価値をもつという確定した判例法理を無視することになる。
 2 通称使用の規制の根拠
 関口訴訟第一審判決は、公務員の同一性の把握の必要性をあげ、戸籍名よりすぐれたものは存在しないことから、同一性を把握する方法としてその氏名を戸籍名で取り扱うことは極めて合理的だとし、研究活動およびそれに伴う研究成果の公表物などには通称を用いることができるから、規制は違法でないとする。そして「公務員の服務及び勤務関係において、婚姻届出に伴う変動前の氏名が通称名として戸籍名のように個人の名称として長期間にわたり国民生活に基本的なものとして根づいているものであるとは認めることができず、また、右通称名を専用することは未だ普遍的とはいえず、個人の人格的生存に不可欠なものということはできないものというべきである」として、人格権の侵害を認めない。
 憲法一三条の保障する人権といえるための要件として、第一審判決は、「長期間にわたり国民生活に基本的なものとして根づいている」ことと、「個人の人格的生存に不可欠なもの」という要件を設定した。学説では、二つを要件とする立場(45)と、後者のみ要件とする立場(46)があるが、第一の要件を必要とすると、少数者の主張する利益を人格権として保護することができなくなる。本判決がその例である。それはこういうことである。
 公務員の場合、これまで通称名の使用を認めない職場が圧倒的に多かったのであるから、そもそも国民生活に根づくわけがない。水野教授も、夫婦同氏制度が存在し、結婚改姓を肯定的に受けとめる女性も多く、それに不満をもつ女性であっても、旧姓使用には本件のように多くの困難が伴う以上、旧姓が通称名であることが普遍的なものになる事態はありえないと批判している(47)。多数の人が主張し、普遍的なものになっているということは、すでにその利益は守られている段階に達している。例えば、通称使用が普遍的であれば、誰も異議を唱えないのであるから、職場での通称使用も広く認められ、困ることは何もなく、今さら人格権を主張して法的保護を求める必要はないのである。人格権としての保護が必要なのは、普遍性・多数性を獲得していない少数者の利益なのである(48)。現実生活の中で根づきようのないものを要件としたのでは、公務員職場における通称使用のような少数派の利益を護ることはできない。この点で第一審判決は、人格権の意義を誤解しているように思われる。
 第二の要件についても、第一審判決が「人格的生存に不可欠」の基準を公務員一般に求めたのは、納得できない。関口訴訟の原告は、研究教育活動に従事してきた大学教員である。このような属性をもつ個人を基準としなければ、当該事件の解決にはならない。大学院時代から旧姓を一貫して使用して研究教育活動をしてきた者にとって、旧姓の使用はまさに人格的生存にとって不可欠である(49)。人格権は個人の人格価値を対象とする権利であるから、当の個人が人格的生存に不可欠なものであると認識していることが、出発点である。そしてその主張に合理性が認められるとき、たとえそれが少数であっても、人格権として法的保護の対象にするのが、人格権の理解として正しいものと思われる。
 それにもかかわらず、公務員であることによって、通称使用を規制することができるのであろうか。公務員について通称使用を規制する法的根拠は薄弱である。例えば、職員の任免等の手続について(昭五九(一九八四)・九・二七文人任一五〇号)は、「任免等についても、この通知に基づき又は準じて措置されるようお願いします」とした上で、上申書の氏名欄に「氏名を戸籍のとおり記入するとともにふりがなを付し、その者の個人番号を併せて記入する」としているが、明示的に戸籍名の記入を指示しているのは、この通知しか見当たらない。したがって、これ以外の分野では、戸籍名でなくても同一性の確認ができればよいことになるし、この通知自体も、措置のお願いであって強制ではなく、しかも個人番号を併記するのだから、戸籍名でなくても同一性の確認はできるように思われる。
 現在、公務員であっても、公的文書において婚姻前の姓を名乗ることを認める自治体や国立大学が存在する(50)。私立大学や民間企業においても通称使用を認める事例が増えている。事業規模の大きな所では、同一性把握の要求は同じであろうが、給与や保険関係すら、通称での登録を認めるところもある。したがって、公務員であることから、同一性把握の必要性を理由に通称使用を規制することには、合理性がない。通称名Aが戸籍名Bであることを登録しておけば、人物の同一性は確認できる。むしろ通称名と戸籍名を場合によって使い分ける方法の方が、現場ではかえって混乱を生む。通称名のみで一貫して扱う方がはるかに合理的である。通称名の頻繁な変更がなければ、事務手続上の支障は何もない。
 仮に、公務員の特殊性から戸籍上の氏名が必要な場合があるとしても、関口訴訟のように、大学で研究教育に従事する者の場合は、職業の性質上、通称使用の必要性が高いので、その面での配慮が必要になる。
 3 研究教育職の特殊性
 (1) 大学の研究教育職に対する配慮  大学における研究教育活動は、行為者の氏名を表示して行われ、その活動が特定される。これらの活動は、行為者の人格を表示する氏名と分離して考えることはできない。ところで、憲法の保障する学問の自由は、その内容として、((1))学問研究の自由、((2))研究成果発表の自由、((3))大学における教授の自由、((4))大学の自治があげられているが、((1))〜((3))の学問の自由は、研究教育活動が行為者の表示と分離できない以上、論理必然的に、どのような氏名で表示するかという自由をも含むことになる。したがって、研究教育活動については、学問の自由の保障として、本人の意思を尊重して氏名表示の自由を認め、大学内においてその氏で統一的に扱いその人格を総体として把握できるようにすべきだといえる。このような見地からは、研究活動や研究成果の公表で使用する氏名と、大学内外の公的文書、授業活動、科学研究費の申請、データーベースの作成などで使用される氏名を、異なって扱うことは、研究教育者としてトータルな存在を分裂させることであり、研究教育者としての人格権を侵害する行為にあたるのである。
 滝沢教授は、関口訴訟の原告は研究教育職として、大学によりその人格をそれにふさわしい状態で保護されるべき地位にあり、被告大学側は原告の職務遂行に必要な環境整備にとりくむべき職分にあるのであるから、通称使用の希望に可能な限り協力すべき社会的義務があるとする(51)。また水野教授も、研究教育活動について、通称名を使用できるようにすることに、事務上とりたてての支障があるとは思われず、原告の職業上の必要性を考えれば、大学当局がそれらの通称名使用に協力することは、むしろ責務でさえあったのではないかとする(52)。
 このような研究教育にふさわしい環境を整備する社会的義務あるいは責務を、例えば、労働環境や学校教育における安全配慮義務のように法的な義務とすることができれば、原告の意思を無視した形での戸籍名の強制は、研究教育活動に対する配慮義務違反として、違法性があるということができる。また法的義務とすることが認められなくても、研究教育者に対しては、職業の性質上、通称使用の規制には最大の慎重さと配慮が必要となるのであるから、同一性の把握にあたって、他の方法を用いることが可能であれば、他の方法を用いるべきであり、こうした配慮をせず通称使用を規制したことは、人格権の侵害として違法性があるといえる。
 そこで関口訴訟で問題になった個別の規制について、第一審判決のいうように、研究教育職としての「配慮」がなされていたと評価できるのか、これまで公表された判例批評をまとめてみよう。
 まず内野教授は、学問の自由の一環として旧姓使用権を、大学教官の教育・研究活動に密接不可分に関連して付随する事項についても認め、大学側が授業その他教育関係の文書に戸籍名を表示したことは人権侵害であるとする。そして大学側が研究教育活動上は通称表示ができるようにしていたことを、「配慮された」と第一審判決が認めたことに対し、図書館の原告の図書に戸籍名のラベルを貼った行為などにかんがみると、「配慮された」とはいえないと批判し、給与など人事関係の書類については、教育・研究活動との密接不可分性が否定される可能性があるとする(53)。滝沢教授は、学内施設の利用申請に関する書類等、非常勤職員雇用関係書類の段階までは、旧姓使用を認めうるとし、教授会の席札に戸籍名を強いるのは、不法行為の域に達していると批判する(54)。水野教授は、科学研究費の書類など研究活動に不可欠な一連の分野、授業時間割・授業概要など教育活動での旧姓使用が認められなければ、「配慮された」とはいえないとする(55)。
 いずれも研究教育活動を基本に据えているが、どこまでが研究教育活動かは、教員の活動自体がトータルなものであるために、区別しがたい面がある。例えば、滝沢教授は、科学研究費補助金関係の表示は、文部省が括弧書きによる通称表示を認めたので、旧姓使用の主張は控えるべきだとするが、水野教授は、これも研究活動に不可欠な一連の分野だとしている。他方、滝沢教授は、教授会の席札に戸籍名を強いることは、不法行為になることを示唆している。研究教育職に従事する者の人格の同一性を尊重する立場に立てば、できるだけ広く研究教育職と他の業務との関連性を認め、人格を総体的に把握する必要があると考える。以下、この立場から、関口訴訟で問題になった規制を個別に検討したい。
 (2) 研究業務  研究業務に直接関連する事項としては、((1))科学研究費補助金に関して、研究者番号登録、分担者承諾書、研究成果報告書、((2))在外研究員への応募書類、((3))物品等注文費、アルバイター出勤予定表等の研究費使用の申請書および旅行命令依頼票、((4))学術情報センターおよび筑波研究学園都市研究機関等連絡協議会に提出する情報、への氏名の表示がある。
 関口訴訟第一審判決は、((1))〜((3))について、国費の支給であることから、戸籍上の氏名で同一性を把握する必要性が高いとする。また科学研究費関係では通称を括弧書きすることが可能であるとし、戸籍上の氏名の強制を正当化する。しかし、これらの行為はすべて直接研究に関することであり、戸籍上の氏名を強制すること、あるいは戸籍上の氏名との併用は、逆に研究者としての自己同一性を混乱させる結果となる。国費に関する事柄について、頻繁に氏名を変更したり、突然戸籍上の氏名ではない通称を使用したりするのであれば、戸籍上の氏名による同一性把握が必要となるかもしれないが、原告の場合、研究者として長年活動し、業績をあげ、しかも研究者として活動して以来、研究生活上、一貫して氏名を変更していないのであるから、同一性の把握ができないということはありえない。研究者の人格に直接かかわることについては、最大の配慮をすべきであって、戸籍上の氏名によらなくても同一性の把握が可能な者に対してまで、形式的に戸籍上の氏名を強制することには、合理性がない。
 なお研究成果報告書は、科学研究費の交付を受けた研究者が研究成果をまとめたものであり、その内容は学術論文であり、「思想又は感情を創作的に表現したもの」として、著作権法の定義する著作物に該当するから、著作権法の適用対象である。もしこれが単なる報告書であり、著作物でないとするならば、無断の引用や内容の改変もありうることとなるが、それでは研究成果をまとめた著者の見解が無断で利用され、内容も改変されることを意味するのであるから、「報告」という名前に拘泥するのは、不合理である。内容が研究成果としての思想、考え方、見解の表明である以上、著作物にあたるといえる。
 また研究代表者がその内容をまとめた研究成果報告書概要も、一つの著作物として、同様に著作物としての法的保護が認められるものである。一般に大学の講義概要でも、そこに講義担当者の見解の表明がある場合には、著作物とされている。他方、官公文書でも、政府の刊行する白書などの報告書は、著作権法上の保護を受けるほか、法令、通達などの翻訳物、編集物であっても、私人の作成するものは保護を受けるとされている(56)。官公庁の発行する文書でも、高度に学術的意義を有し、必ずしも一般に周知させることのみを意図しないものは、学術に関する著作物として著作権の保護を受けるとする判例もある(東京地判昭五二(一九七七)・三・三〇判時八四五号二五頁)。こうした基準に照らしても、研究成果の報告書概要は著作物に該当するといえる。
 これらが著作物である以上、著者は著作者人格権の一つとして氏名表示権を有しており、どのような表示にするかは自分で決定できるのであるから(著作一九条)、原告は研究者として旧姓をこれらの著作物に表示することができ、意に反して旧姓使用を変更されることはないのである。またこれらの著作物に表示する氏名が科学研究費申請の登録をした氏名と異なってもよい。例えば、申請登録を戸籍名(通称名)でしたことは、報告書という著作物の著作者としての表示についてもそのようにすることの同意まで含んではいない。まして関口訴訟のように旧姓での申請を大学側が受け付けないため、やむをえず括弧書を了承したような場合には、なおさら著作物の氏名表示の同意は含まれていないといえる。
 ((2))((3))については、さらに手続的書類にすぎないとして、戸籍上の氏名の強制を正当化する。しかし、手続的書類の場合には、単なる事務手続であるがゆえに、個人の特定さえできればよいのであるから、戸籍上の氏名を使う必要はないのであって、研究者としての同一性を確保するために、通称で手続を進めるのが、研究職への配慮というべきものであろう。
 ((4))については、研究者としてのアイデンティティに直接かかわることなのであるから、同一性が何よりも要請される。研究情報のネットワークなのであるから、これを利用する者にとっては、原告が研究活動上、使用している呼称で登録されていなくては、意味がない。原告の戸籍上の氏名を知っている者しか利用できないような情報システムでは、利用者は困るし、データーバンクとして意味をなさない。
 私の所属する立命館大学では、科学研究費の登録名や学術情報センターへの登録名をはじめ、((1))〜((4))いずれも、個々の教員の申請どおりに手続をしており、((1))((4))について文部省からクレームがついたことはない。担当部局は、教員が研究しやすい環境を整備することが、研究事務の役割であると述べている。国立大学でも役割は同じではないであろうか。
 (3) 教育業務  教育業務に直接関連する事項としては、((1))授業時間割、((2))学生マニュアル(授業概要)、((3))クラス別学生名簿、((4))掲示板のクラス担任名簿、((5))卒業研究抄録集、((6))学生委員会編集の雑誌「ゆうりす」、((7))大学案内、((8))大学図書館に備えつける指定図書に添付される図書ラベル、((9))非常勤講師の委嘱に関する回答書、((10))大学主催の公開講座のポスターへの氏名の表示がある。
 大学における教育は、研究者が自らの研究に基づいて行うものである。研究と教育の統一こそ、大学教員の責務である。したがって、教員がどのような研究をしているか、その成果をどのような形で発表しているかは、授業を受ける学生にとって最大の関心事項となる。授業を受け、教員の講義内容を知り、さらに詳しく学習を深めたい場合には、教員の公表した研究業績(著書、雑誌論文、科学研究費研究成果報告書など)を読むことが必要となる。そして教員に個人的に質問したり、討議したり、ゼミナールなどで共同学習をする。このような大学における教育のあり方を前提とするとき、教員の研究業績で表示されている氏名と、授業など教育の現場で表示されている氏名が異なることは、学生に無用の混乱を引き起こすだけではなく、研究教育者としての教員の実績や信用を損なうことにもなる。
 関口訴訟第一審判決は、原告が学生らに対して、年度当初の授業の都度、自己の氏名が授業時間割に表示されるものとは異なり、研究、教育活動上、氏名を通称名で表示していることを説明すれば、通称名で築き上げた環境を維持することは十分可能だとして、人格権侵害を認めない。水野教授は、この判旨に対して、本人が行う授業時間における口頭での説明を、事務職が妨害しないことが、「配慮」でもあるというのであろうか、と強く非難している(57)。「配慮」とは、原告が研究活動上用いている通称で授業活動ができるようにすることである。
 逆に本人が口頭で説明してもいいというのであれば、戸籍上の氏名を用いる必要性はないのであるから、((1))〜((8))について、通称名で表示しても、何ら問題はないであろう。こうした事項について通称名で扱う国立大学、私立大学が存在する以上、戸籍上の氏名でなければ困ることが実際にあるのかどうか、疑問である。大学側が戸籍上の氏名を強制するのであれば、何がどう困るのか具体的に証明すべきであって、公務員の同一性把握という一般的抽象的理由では、不十分である。
 また判旨のような論法であれば、すべて個別の活動にあたって別途説明すればよいことになってしまう。例えば、大学案内を受験者が入手したときに、原告は自分が教育活動上、通称を用いていることを、受験者の所まで行って説明できるのであるから、問題はない、とでも言うのであろうか。このようなことでは、研究教育者としての自己同一性を確保することができなくなる。通称名に研究教育者としての人格価値を認めるということは、個別の説明を要しないことを意味する。年度当初に様々な事情で授業に欠席する学生がいる限り、毎年のみならず、毎回、説明をせざるをえないような事態、原告の結婚の有無などプライバシーまで暴露されうるような説明をせざるをえない扱いこそ、まさに人格権の侵害に他ならないのではないだろうか。
 HIについても、研究活動と教育活動には密接な関連があるのであるから、研究者として通っている通称名で表示し、手続を進めるのは、当然である。公開講座に研究活動上まったく無名の戸籍上の氏名が表示されていたのでは、受講者の関心をひくことはできないだけでなく、受講者に研究者に関する正確な情報を伝えることもできない。非常勤講師も同様であり、非常勤講師を依頼する大学は、原告の研究者としての実績に基づいて講師として教育を依頼するのであるから、研究者としての氏名と違う氏名で回答されたのでは、困惑するだけであろう。
 これらの点も、私の所属する立命館大学では、研究教育活動を行う教員の意思を尊重して、すべて通称名で表示している。事務担当者によれば、研究業績と教育活動が一致するので便利でさえあれ、事務手続上、困ることは何もないという。国立大学でも、事情は同じではないであろうか。
 なおつけ加えれば、授業や講演は、著作物にあたるのであるから(58)、著作権法の適用を受け、著作者には氏名表示権が認められる。したがって、授業や講演を自己の望む氏名表示で行うことができる。それを表記する時間割、授業概要やポスターも、氏名表示権の派生的効果として、当然、その氏名で表示することになる。授業や講演の中身と、その外部への文書表示を異ならせるのであれば、授業や講演について著作物として氏名表示権を認める意義はほとんどないからである。
 (4) その他の事項  その他、研究教育業務と間接的に関連する事項として、教授会において使用される座席名札の表示がある。教授会は、大学の運営にかかわる事項、役職者の決定、授業担当者の決定、カリキュラム改革、講師・助教授・教授への昇任や新任者の決定などの人事、留学の承認、学生の処分など、研究教育にかかわる事項を審議決定する機関である。日常的に学生と接する際に使用されている呼称、研究活動で使用されている呼称と、教授会での名札表示を異なって扱う必然性は何もない。
 私の所属する立命館大学においても、通称使用をする教員は通称で表示され、議事録にもそのまま通称で表示されている。文部省へ提出する必要のある会議議事録については、任用に際して用いた氏名が戸籍上の氏名である場合、通称名を先に出し、戸籍上の氏名を括弧書で表示しているが、実際の会議は、やはり通称のままである。このような処理が可能である以上、実際の会議の場にまで、研究教育で使用していない戸籍上の氏名を強制することは、原告に対する嫌がらせ以外のなにものでもなく、滝沢教授の指摘するように、不法行為の域に達しているといえよう(59)。
 さらに、職員録や人事記録の記載がある。本件で問題になっているのは、((1))図書館情報大学が発行する職員録、((2))図書館情報大学以外の機関が発行する職員録作成のために、当該機関に提出する情報、((3))文部大臣および図書館情報大学長作成の人事記録への氏名の表示である。
 これらはいずれも任用関係が前提にあるから、任用時に使用されていた氏名との同一が要請される。したがって、戸籍上の氏名で任用したのであれば、戸籍上の氏名で表示することには、一定の合理性がある。しかし、任用時と氏名が異なることは、日常的に起こりうる。婚姻や縁組による改姓、民法七九一条による氏の変更、戸籍法一〇七条による氏の変更などがあれば、任用時の氏名とは異なることになる。この場合も、任用された人物と現在、氏が変わっている者とが同一人物であることが確認されることが必要となる。通常は戸籍抄本を用いて戸籍上の氏名でこれを証明することになる(職員の任免等の手続きについて、昭五九(一九八四)・九・一七文人任一五〇号III四)。しかし、基本は同一性の確認である。原告のように研究業績が多く、社会的に認知されている場合には、研究生活上で使用されている通称で((1))〜((3))に記載しても、同一性の確認はできる。((1))〜((3))がどのような形で利用されるかを考えるとき(特に職員の検索、業績の評価など)、日常の研究教育活動で用いられている氏名で表示されることこそ、求められているといえよう。
 私の所属する立命館大学では、大学発行の職員録や人事記録は、通称名を表示した上で、括弧書で戸籍上の氏名を記しているが、((2))のような他の機関が発行する職員録については、各学部事務室で、教員が日常使っている氏名、つまり通称名で情報を提供している。括弧書で戸籍上の氏名を記すことに対して拒否した教員がいないため、問題にはなっていないが、括弧書のない表示も可能であるという意見もある。
 (5) 小括  以上、研究教育業務に直接関連する事項や教授会の名札表示について、研究者としての通称使用を規制する合理的根拠は何もない。また任用関係を前提にする事柄でも、研究教育活動の実績があれば、通称名で表示しても何の不都合もないのであるから、通称使用を制限する合理的根拠はない。これらについて戸籍上の氏名を強制することに、やむにやまれぬ利益があるともいえない。それにもかかわらず、通称の使用を規制することは、研究教育職に携わる原告の人格権を侵害する行為として、違法性を帯びるものといわざるをえない。また原告の活動が研究教育活動という学問の自由に属する事項であることから、国立大学が教官という個人に対して、学問の自由という基本的人権を侵害した行為として、違法性を帯びるものともなる。
 さらにプライバシー権の見地からみても、本人の意思に反してまで戸籍上の氏名を表記することが必要である事柄は、せいぜい文部省との関係での人事記録くらいであり、研究教育活動においては、戸籍名を表示する必要不可欠な利益も、また戸籍名を表示し通称使用を規制する目的との実質的関連性も認められない。それにもかかわらず戸籍上の氏名を表示することは、プライバシー権の侵害に他ならず、やはり違法性があるといえる。
 したがって、戸籍上の氏名の使用の差し止め、通称の使用、および通称を使用できなかったことから生じる精神的損害の賠償を認めるに足りるだけの違法性があるといえるのではないだろうか。
 原告の通称名の使用は、勝手気ままなものではない。一九六三年、大学院進学以来、一貫して研究者としての自己を表示してきたものであり、かつ研究者としての確固とした実績をもつものである。このような原告の通称(旧姓)使用を研究業績の公表などに限定するのでは、研究活動に従事しない一般の公務員の場合には、通称使用は認められないに等しい結果となる。これでは、夫婦別氏選択制度が法制度化されていない現段階で、夫婦別氏を実践する方法の一つとして、社会的に広がりかつ認知されている通称使用を否定することになってしまう。関口訴訟第一審判決の結論は、社会の要請を理解していないものといわざるをえない。水野教授は、「おそらく一〇年先に読み返されたときに、本判決の人権問題における視野の狭さと社会の変化への鈍感さは、誰の目にも顕著な違和感をもって映るものと思われる」と、鋭く批判している(60)。
 ここで論じたことは研究教育職にたずさわる者の特権ではない。人格権の内容は、時代の変化によって進化するものである。職業を得て社会的に活動している女性が一般的に増加している今日、氏名の意義は個人の人格の象徴という人格権に収斂しようとしている。自己を表現する手段としての通称に、積極的意味を見いだすことができる時代になっているのである。裁判所は、プライバシー、名誉、肖像、氏名など多様な人格権が判例によって生成され、内容が豊富化されてきた歴史を認識し、時代の要請に法的根拠を与える努力をすべきだと思う。

        おわりに
 氏名が自己の人格を象徴するものであり、自己を表現するものであることを認めるならば、各自が自分のライフスタイルに応じて氏名を選択したり、決定したりできるのは、憲法の保障する個人の尊重および表現の自由の当然の帰結である。現行法では、法律上の氏について、親子同氏・夫婦同氏・離婚離縁復氏というように取得・変更の要件が法定されており、完全に自己決定できるわけではない。しかし、離婚の際の婚氏続称、離縁の際の縁氏続称(民八一六条二項)など、身分関係の変動にもかかわらず、呼称の継続を認める法改正をし、他方で、外国人と婚姻した場合に、外国人である配偶者の氏に変更し、または離婚などにより再変更することができる(戸一〇七条二、三項)など、氏の身分性を維持しつつも呼称性を重視する方向に動いている(61)。現在、検討中の夫婦別氏選択制度が導入されれば、こうした方向はさらに進む(62)。望ましいのは氏から身分性を取り除き、呼称に統一することであり、身分関係とは無関係に自己の意思に基づいて氏名の取得・変更を可能にする制度である。
 通称使用は登録上の氏名でないがために、純粋に自己の責任において自己が決定し変更できる領域である。氏名の自己決定が完全に保障される領域である。将来、法律上の氏名について、自己の責任に基づいて自由に自己決定ができるようになったとしても、なお社会関係に応じて複数の氏名をもつ自由はあるのであり、通称使用の自由が意味をなくすことはありえない。だから、夫婦別氏選択制度が法制化されても、通称使用の自由をなお強調する必要があるのである。
 通称使用の自由を幅広く認めることは、氏を個人の呼称に純化する方向と軌を一にしている。それは、やがて個人の尊重の原則に基づいた氏の自己決定の制度を実現することに結びつくと思われる。そのような夢を描いて、通称使用の自由を権利として定着させていくことが、法律家の役割ではないだろうか。

(1) 水野紀子「夫婦の氏」戸籍時報四二八号六頁以下(一九九三)の分析参照。
(2) 斉藤博『人格価値の保護と民法』六一〜六二頁(一粒社 一九八六)。最判昭六三(一九八八)・二・一六民集四二巻二号二七頁。
(3) 川井健「氏名権の侵害」『現代損害賠償法講座2』二二三頁(日本評論社 一九七二)、五十嵐清『人格権論』六五頁(一粒社 一九八九)、榊原富士子「氏名と人権」福沢恵子編『現代のエスプリ 夫婦別姓時代を生きる』三三頁(至文堂 一九八九)、澤田省三『夫婦別氏論と戸籍問題』三一〜三六頁(ぎょうせい 一九九〇)、大森政輔「氏名権論」『講座・現代家族法1』二六頁(日本評論社 一九九一)、植野妙実子「現代における女性の氏名権」法学新報一〇〇巻三=四号一一八頁(一九九四)。
(4) 二宮周平「氏名権と通称使用」阪大法学四四巻二・三号四九四〜四九七頁(一九九四)参照。
(5) 同旨、水野紀子「判例批評」私法判例リマークス一〇号七九頁(一九九五)。
(6) 中川善之助『改正民法余話』ジュリスト九三六号九五頁(一九八九)より。
(7) 第七七国会参議院法務委員会議録(戸籍時報二三四号三八頁〔一九七七〕)より。
(8) 唄孝一『唄孝一・家族法著作選集 第2巻 氏の変更』一二二頁(日本評論社 一九九二〔初出は『氏の変更 下』一九五六〕)。
(9) 唄孝一『唄孝一・家族法著作選集 第1巻 戦後改革と家族法』一四二頁(日本評論社 一九九二〔初出は「『氏』をどう考えるかということ」〔一九五七〕)。
(10) 唄・前注(8)二六二頁。
(11) 二宮・前注(4)四九七頁。
(12) 小林節「判例批評」判例時報一一一七号二〇五頁(一九八四)。
(13) 斉藤博「判例批評」判例時報一一三六号一八九頁(一九八五)。
(14) 東京弁護士会・女性の権利に関する委員会編『これからの選択 夫婦別姓』七七頁〔酒向徹〕(日本評論社 一九九〇)。
(15) 富田哲「『氏』はいかにあるべきか?」私法五一号一七四頁(一九八九)。
(16) 澤田・前注(3)三三頁。
(17) 法務省民事局参事官室「婚姻制度等に関する民法改正要綱試案の説明」ジュリスト一〇五〇号二二〇頁(一九九四)。
(18) 榊原弁護士がこのことを最初に指摘している(榊原・前注(3)三三頁)。
(19) 野中・中村・高橋・高見『憲法I』二五〇頁〔野中俊彦〕(有斐閣 一九九二)
(20) 有倉遼吉=小林孝輔編『別冊法学セミナー・基本法コンメンタール 憲法〔第3版〕』五八頁〔樋口陽一〕(日本評論社 一九八六)。
(21) 植野・前注(3)一二二頁。
(22) 野中他・前注(19)二五四頁〔野中〕。
(23) 佐藤幸治「個人の尊厳と国民主権」法学教室一二七号二一頁(一九九一)。なお自己決定権については、佐藤幸治「日本国憲法と『自己決定権』」法学教室九八号六頁(一九八八)、山田卓生「自己決定権をめぐって」法学教室一〇二号六三頁(一九八九)、竹中勲「個人の自己決定とその限界」ジュリスト一〇二二号三三頁(一九九三)、芦部信喜『憲法学II』三九一頁(有斐閣 一九九四)などを参照した。
(24) この制限は、民法改正当時には一定の合理性があったかもしれないが、今日の社会情勢を考慮すると、個人の尊重原則に反するものとして、違憲の疑いがある。ただし、夫婦同氏制度については合憲とする審判がある。岐阜家審平一(一九八九)・六・二三家月四一巻九号一一六頁は、夫婦同氏制度は「主観的には夫婦の一体感を高めるのに役立ち、客観的には利害関係を有する第三者に対し夫婦であることを示すのを容易にす
版面あわせるものといえる」から、現在においても合理性を有しており、憲法一三条に違反しないとした。この判旨自体は、関口訴訟第一審判決でも用いられている。しかし、一体感は主観的なもので、そう感じる人もいれば、感じない人もいるのだから、一方的に押しつけるのは不合理である。また日本人の氏として同じ氏の人が多数存在する以上、同氏だから夫婦であることを示せるとは限らないのだから、このような理由づけでは、
夫婦同氏制度を正当化することはできない。なお憲法一三条および二四条の視点から、夫婦同氏制度を違憲とする見解として、植野・前注(3)一〇四頁、辻村みよ子「憲法二四条と夫婦の同権」法律時報六五巻一二号四五頁(一九九三)などがある。
(25) 内野正幸「判例批評」判例時報一五〇三号二〇四頁(一九九四)。
(26) 斉藤・前注(2)六二頁。
(27) 芦部・前注(23)三七九頁、樋口・佐藤・中村・浦部『注釈日本国憲法 上』二九一頁〔佐藤幸治〕(青林書院 一九八四)など。
(28) 指紋に関する情報は本来各個人の自由な管理にゆだねられるべきものとした東京高判昭六一(一九八六)・八・二五判時一二〇八号六六頁、個人情報に対する訂正・抹消請求権を認めた東京地判昭五九(一九八四)・一〇・三〇判時一一三七号二九頁など。
(29) 芦部・前注(23)三八六頁。
(30) 内野・前注(25)二〇四頁、同旨、長岡徹「判例解説」法学セミナー四八三号二一頁(一九九五)。
(31) 芦部・前注(23)三八二頁。
(32) 野中他・前注(19)二五五頁〔野中〕。
(33) 内野・前注(25)二〇四頁、長岡・前注(30)二一頁。
(34) 戸籍法上の保護については、二宮・前注(4)五〇〇〜五〇一頁参照。
(35) 半田正夫『著作権法概説〔第六版〕』一三一頁(一粒社 一九九二)。
(36) 村上朝一編『戸籍(上)』七四頁〔平賀健太〕(青林書院 一九五四)。
(37) 斉藤・前注(2)六二頁。
(38) 山主政幸「氏名変更事由としての『通用』」私法一一号四五頁(一九五四)。
(39) 滝沢聿代「判例批評」ジュリスト一〇五九号一九四頁(一九九五)。
(40) 秋山仁美「判例批評」法律のひろば四七巻四号五八頁(一九九四)。
(41) 秋山・前注(40)五九頁。
(42) 滝沢・前注(39)一九四頁
(43) 犬伏由子「判例概説」法学セミナー四八三号二八頁(一九九五)。
(44) 芦部・前注(23)二四二頁。
(45) 芦部信喜『憲法』一〇三頁(岩波書店 一九九三)。
(46) 佐藤幸治『憲法〔新版〕』四〇三頁(青林書院 一九九〇)。なおこの分析は、内野・前注(25)二〇四頁による。
(47) 水野・前注(5)七九頁。
(48) 同旨、水野・前注(5)七九頁。
(49) 内野・前注(25)二〇四頁、長岡・前注(30)二一頁。
(50) 高橋・折井・二宮『夫婦別姓への招待〔新版〕』二七〇〜二七三頁(有斐閣 一九九五)のアンケート参照。その他、公務員レベルでは、大阪府教育委員会が教員の旧姓使用を認め(朝日新聞一九九三年一二月二五日)、文部省でも旧姓使用の検討をしており(朝日新聞一九九四年四月二三日)、通産省工業技術院人事課は「研究活動における旧姓使用についての考え方」において、公務員として直接権利義務にかかわること以外の、研究活動に密接に関連のあるもの(例えば、研究所内外の委員会の委員名、各種名簿類、外部発表・学会参加費の支払者・領収書名などを含む)について旧姓使用を認めている(一九九四年一一月二一日)。
(51) 滝沢・前注(39)一九五頁。
(52) 水野・前注(5)七八頁。
(53) 内野・前注(25)二〇三〜二〇四頁。
(54) 滝沢・前注(39)一九四頁。
(55) 水野・前注(5)七八頁。
(56) 半田・前注(35)一一四頁。
(57) 水野・前注(5)七八頁。
(58) 半田・前注(35)九二頁。
(59) 滝沢・前注(39)一九四頁。
(60) 水野・前注(5)八〇頁。
版面あわせ(61) こうした法改正は「呼称上の氏」と「民法上の氏」の区別を利用してなされているが、唄教授は、この現象を「実はかえって呼称機能の拡大と自由化をめざして身分性の制約を克服してゆく過程とみることができる」と分析し、「『身分性からの制約』をなるべく離れて呼称性・個人性を貫徹しようとする傾向は今後の大勢と判断しても大過あるまい」とされる(唄・前注(8)三〇一頁)。
(62) 床谷助教授は、唄教授の指摘した身分性と呼称性の統一が「呼称上の氏」理論を駆使する実務に阻まれてきたが、夫婦別氏制はこの壁を動かすだけの影響力を持ちうるし、そのようなものとして実現されるべきだとする(床谷文雄「民法上の氏と戸籍制度」阪大法学三九巻三・四号八四五頁〔一九九〇〕)。

* 本稿は、関口訴訟の原告代理人から依頼されて控訴審に提出した意見書を、論文の体裁に再編したものである。意見書自体、すでに公表していた「氏名権と通称使用」阪大法学四四巻二・三号四九一頁以下(一九九四)を基に作成したため、本稿では、この論文と重複する部分をかなり割愛したが、それでも人格権としての保護、権利性、結びなど、なお重複する箇所がある。このようなものを論文として公表することにためらいはあったが、通称使用の権利の根拠づけや関口訴訟の具体的な検討など、前稿より詳しく深めた点もあるので、本誌に掲載することにした。ご寛容いただきたい。