立命館法学  一九九五年五・六号(二四三・二四四号)




刑事手続における裁判による法創造とデユー・プロセス


久岡 康成






目    次




一  は  じ  め  に
(一)  今日では裁判の機能として、判決の効果もしくは裁判手続きの効果として、紛争解決機能のほかに、権利創設的機能、法定立機能、政策形成機能などを数えることは、一般的なこととなっている(1)。裁判による法創造機能も、これらの紛争解決機能以外の機能の一つとして論じられているものである。裁判の目的として追求される機能なのか、裁判の結果として発生・随伴しているだけの機能であるかは別に置くとして、少なくとも事実上はこのような機能が存在することを認容することは、今や通常のことである。そうして、「裁判による法創造」は、本論分集が献呈される畑中和夫教授が多年にわたって関心をもたれ、研究の進展に貢献されたテーマの一つなのである。かって、立命館大学法学部が、一九八八年九月二一日から二三日までの三日間、国際シンポジュウウム「裁判による法創造−現代社会における裁判の機能」を開催し得たのも、同教授の研究活動の大きな成果であったということができる(2)
  このような、裁判による法創造の問題を、刑事手続において考えることはもとより容易ではない。このことは、裁判による法創造機能の論議が、従来主として民事裁判を念頭において行なわれてきたことからも(3)、見て取ることが出来る。また刑事法における基本原則である、罪刑法定主義の原理や、刑事手続における人権保護の課題との関わりを考えるとき、その慎重な検討を要することはいうまでもない(4)。しかし、民事裁判の領域で、裁判による法創造機能が論じられる大きな契機となった、いわゆる「現代型訴訟」などの背景をなす社会事象は(5)、また刑事手続においても共通した背景となっている。罪刑法定主義の原理や、刑事手続における人権保護の課題を考えればこそ、逆にそのような原理を尊重し課題を進める方向で、裁判による法創造機能を考える必要が生じていないのであろうか(6)。考えるべき論点と問題は、極めて深く複雑であるが、以下まず、主として民事裁判を念頭に論じられてきた裁判による法創造の問題を、刑事手続の視点から眺め直してみたい(7)

(1)  田宮裕「日本の裁判」八頁、田中成明「判決の正当化にうおける裁量と法的基準」法学論叢九六卷四・五・六号一六〇頁など。また参照、渡部保夫他・現代司法三頁。
(2)  その成果は、天野和夫、P・アーレンス、J・Lジョーウエル、王叔文編・「裁判による法創造」(一九八九年、晃洋書房)にまとめられている。
(3)  田宮裕・前掲書八頁。
(4)  井戸田侃「日本の刑事法における特色」天野他編・前掲書三五九頁。
(5)  新堂幸司「現代型訴訟とその役割」・「基本法学8紛争」三二〇頁以下など、多くの論稿がある。また、吉野正三郎「裁判による法形成と
裁判官の役割」天野他編・前掲書三六九頁は、「法適用型訴訟」に対して「法形成型訴訟」の名称を現代型訴訟の名称として提唱する。
(6)  裁判による法創造機能(畑中和夫「あとがき」天野他編・前掲書四一五頁)と、裁判の機能としての法定立機能(田宮・前掲書一一頁)などの言葉と同意義のものかについては、厳密には検討の余地があろう。
(7)  なお、以下では刑事手続の語は、公判手続と捜査・強制処分を含む意味で用い、かつそれは広義ではその手続き的側面と実体的側面を含むものであるが、通常は狭義の手続き的側面に限って、この言葉をもちいるものとしている。

二  裁判による法創造についての従来の議論
(一)  裁判による法創造にかかわっては、判例が法源であるか、判例の拘束性は事実上の拘束性か法律上の拘束性か等が問題になった。法源論はもとより法哲学上で古くから論議されてきた問題であり、本稿の論じ得るところではない。ただ現行刑事訴訟法のレベルでは、判例違反が上告理由となっているのであるから(刑訴法四〇五条)、刑事裁判では、裁判官が法律に強く拘束されることは前提としつつ(憲法七六条三項)、判例が法源でありかつ法律上の拘束力を持つと考えることが妥当であろう(1)。単なる個別事件の紛争解決機能にとどまらず、法律上の拘束力を持つ法源を形成していく裁判に、法創造機能が認められることになる。
  ところで、紛争解決機能といい、法創造機能といっても、判例の法源性にかかわって論じられてきたそれらの機能は、いずれも判決・決定・命令などの「判決等」(裁判所・裁判官の意思の表明)が持つ効果、あるいはそれらの「判決等」の内容がもつ効果であった。これを逆に、紛争解決機能もしくは法創造機能を効果としてもつ、「広い意味での裁判にかかわる活動」を探せば、そのような効果を事実上持つものは、「判決等」に限らず、訴訟の提起、公判手続き、さらには訴訟提起の準備(捜査)の活動など多数認めることができる。これらの「判決等」以外のものの効果は、事実上の効果である。また、紛争解決機能では和解等の誘因となり、法創造機能では国会の立法の契機等になるという意味で、間接的な効果である。また「判決等」が裁判による法創造機能を果たす形にも、直接的に「法源の形成(法規範さらには法制度の定立)」という形で裁判による法創造の機能を果たすこともあれば、間接的もしくは事実上他の課題との関係で法創造機能を果たすこともありうる。なお裁判の政策形成機能という概念が論じられるときにも、「判決等」の性格が、単なる「法の適用」でなく「政策判断」でもあるという意味と(2)、「判決等」を含む「広い意味での裁判にかかわる活動」が政策形成過程に事実上インパクトを与えていることの指摘の意味とがある(3)
(二)  刑事法の領域において、従来主として裁判による法創造として議論されてきたのは、「判決等」による、直接的な「法源の形成(法規範さらには法制度の定立)」という形であった。例えば、前示のシンポジュウムの報告集における、谷口正孝前最高裁判事、井戸田侃教授の論稿がそうである。すなわち、谷口正孝前最高裁判事は、同シンポジュウムの報告集における論文、「裁判の拘束力と裁判官による法形成」において、裁判官による法形成として、判例による法形成を論じられ、その刑事法等の分野におけるいくつかに事例として、共謀共同正犯、電子機器による模写文書と文書偽造、名誉毀損罪と事実の証明、第三者所有物に対する没収、衆議院議員定数違憲判決をあげられている(4)。また、井戸田侃教授は、同シンポジュウムの報告集における論文、「日本の刑事法における特色」において、「実際問題としては、裁判官はこれまでの判例に従って判断するのが通常である」とされ、裁判による法創造を認められたうえで、刑法と刑事訴訟法に分け、その解釈原理を論じておられる(5)
  そこでは、裁判による法創造の問題で判例の形成を問題とし、かつ事実上は「判決等」における法解釈が問題とされてきたのである。裁判による法創造の一般の問題としては、前示のように多くの問題があるのであるが、紙幅の関係もありここでも、「判決等」による「法源の形成(法規範さらには法制度の定立)」を念頭に、裁判による法創造を議論することとする。また、「法源の形成(法規範さらには法制度の定立)」のなかでも、法解釈・法理論によるものを念頭とし、事実判断の累積によるものは検討できていない。
(三)  ところで、「判決等」による、法解釈・法理論による、「法源の形成(法規範さらには法制度の定立)」は、判決書の作成の時点では、あるいは「判決等」を言い渡す裁判官の自覚としては、判決書のなかでの法論理の立てかたにより、類推解釈を含む新たな法の定立、拡大解釈・縮小解釈などの法の解釈に分けられる。しかし、後の裁判時に、以前に「判決等」による「法源の形成(法規範さらには法制度の定立)」があったか否かが探求され、それが肯定されるときには、法源となる以前の「判決等」は、言い渡し時には法の定立の場合もあれば法の解釈の場合もある。すなわち、「判決等」による、法解釈・法理論による、「法源の形成(法規範さらには法制度の定立)」を検討するには、法の定立であれ法の解釈であれ、いわゆる判例変更の場合も検討することになる。そうして刑事手続きの領域で、いわゆる判例変更の現象が最も明確に見られるのは、デユー・プロセスをめぐる論議の中であり、その中でもアメリカ合衆国におけるデユー・プロセス論議の中である。そこで、以下まずアメリカ合衆国におけるデユー・プロセス論議を、刑事手続きを中心に簡単に振り返ったのち、引き続いてこの問題を考えることにしたい。

(1)  谷口正孝「裁判の拘束力と裁判官による法形成」天野他編・前掲「裁判による法創造」一七頁)
(2)  特に憲法訴訟において強調される例として、芦辺信喜編・講座憲法訴訟(第一卷
)序論参照。
(3)  裁判の政策形成機能(田宮・前掲書一一頁など)といわれるものは、多くこちらに着目している。また、天野和夫「裁判官による法創造とその政策的機能」・天野他編・前掲「裁判による法創造」一ス頁)。
(4)  谷口・前掲論文二二頁以下。
(5)  井戸田侃・天野他編・前掲「裁判による法創造」三五九頁以下。

三  アメリカ合衆国におけるデユー・プロセス論議
  アメリカ合衆国における刑事手続きについては、デユー・プロセス革命と呼ばれるウオーレン・コート期の諸判決を始め、既に多くの紹介があるが(1)、裁判による法創造の問題と関連させて、被疑者・被告人の人権の保護を中心に、簡単に振り返ってみたい(2)
(一)  アメリカ合衆国における被告人・被疑者の人権の保護の仕組みは、連邦制の国家であることから、連邦と各州という二つのレベルから出発しなければならない。すなわち、コモンロウの共通地盤があるとはいえ、各州がそれぞれ自前に刑法と裁判機構をもち、権利章典も独自に保有しているのである。他方でアメリカ合衆国自体は、もちろんそれとは別の刑法と裁判機構をもち、権利章典も独自に保有しているわけである。
  (1)  アメリカ合衆国成立後、南北戦争までの間は、州レベルを中心とする刑事司法と、人権保護の時期であった。そもそも、アメリカ合衆国憲法の人権保障規定にあたる、アメリカ合衆国憲法修正一条ないし一〇条(合衆国権利章典、Bill of Rights とも呼ばれる)が、憲法修正の形で一七九一年に付加される形になったこと自体が、当初の州レベルを中心とする思想の強さを示すものである。また、合衆国憲法修正一条ないし一〇条が成立した後も、連邦レベルではコモンロウはないと考えられ、かつ連邦議会の制定する刑罰法規もいまだ少なかったので、依然として刑事司法は州のレベルで実行されており、被疑者・被告人の権利の保護は、事実上は各州の裁判、各州の権利章典にまかされるところとなった。このような状況の中で、連邦の権利章典は、連邦議会の立法だけを拘束し、各州には適用されないと解されていた。人身保護令状制度もないこの段階では、州の裁判・刑事司法からの救済を連邦の裁判所に訴える方法も不十分でもあった。いわば州と連邦の「二重の基準」状況であった。
  したがって一九世紀においては、被告人・被疑者の権利の保護は、事実上は各州にまかされるところとなった。そして各州の憲法は、その課題に応えるかのごとく、一八二〇年代および一八五〇年代の州憲法改正の動きのなかで、ほとんどの州憲法に連邦の憲法修正と同様の被告人の権利保護が規定されることとなった。
  デユー・プロセセスの理念は、以上のような州レベルを中心とする刑事司法の展開のなかでも、それ自体としては堅持されていた。しかし他方、当時の刑事司法、あるいはデユー・プロセスが、歴史的には、奴隷制度と「共存」していたことも指摘されている。それは、奴隷制度と同時代をわかち会うというだけでなく、南部諸州の「奴隷法典(slave codes)」内部でのデユー・プロセセスの保障という形でも「共存」していたのである。また、この時代の、その他の社会の少数者にたいする迫害の存在、さらには判事や陪審員になっている実際の人々の中での「社会周辺(society’s fring(3))」の人々の少なさも見逃すことのできない事実であるとされている。
  (2)  修正一四条と人身保護令状制度の成立
  南北戦争の結果は、州レベルを中心とする刑事司法と人権保護の時期における、デユー・プロセスの中の矛盾、限界の中心であった奴隷制度を廃止することになった。南北戦争後の法制度の整備のなかで、まず指摘されるべきは、一八六三年の連邦の人身保護法(Habeas Corpus Act)の制定である(4)。この制定は、南北戦争の時期の人身保護令状の停止権限について一定の決着をつけるとともに、司法手続のみが抑留の根拠となり得ることを確認し、さらに州の刑法・裁判による受刑者に対し連邦の裁判所が人身保護令状を発することを認めて、州法域へ連邦裁判所の権限を拡大する基礎が作られたのである。ついで指摘しなければならないのは、適正手続き(Due Process of Law)の保障を定める合衆国憲法修正一四条の成立である。
  人権保護の裁判では、まず、連邦法域の中で前進が見られた。修正四条を根拠として、令状のない捜索・押収を違法としたボイド判決(6)と、そのような場合の証拠排除法則を認めたウイークス判決(7)である。但し、同判決のレベルでは、州の公務員が違法に収集した証拠物は多くの州ではそのまま証拠能力を認められ、かつ連邦法域に持ち出されても、連邦の公務員による連邦裁判所への提出という、いわゆる「銀の盆理論(silver platter doctrine)」が用いられることにより許容されるという限界をもっていた。
  しかし、これらは連邦法域に限っての話で、権利章典の州法域への拡大は、依然として拒否されたままであった。大陪審の権利(修正五条)は州の裁判に適用されないとしたハルトード判決や(8)、自己負罪拒否特権(修正五条)について、被告人が証人となることを拒否したことを有罪の根拠の一つにした被告人の有罪を維持したトワイニング判決がこれである(9)。州の裁判については、州の憲法が被告人の人権の保障を定めており、そこへの連邦の権利章典、デユー・プロセスの適用はないという、いわゆる「二元的連邦主義(5)」への拘泥があったのである。
  (3)  フエア・トライアル・テストと選択的組込み論
    ((1))  フエア・トライアルテスト
  このような状況のなかで、いわゆる「二元的連邦主義」から脱却し、州法域へ連邦のデユー・プロセス、権利章典を適用させる先駆となったのは、一九三二年のスコットボーロ・ケース(Scottsboro case)といわれるパウエル判決である(10)。すなわち連邦最高裁は、アラバマ州法で有罪とされた黒人青年の有罪判決を、この事件に修正六条が適用されるわけではないが、州および連邦の先例は弁護人依頼権を「デユー・プロセスの意義の中心」にしており、それは保障されなければならないものであるとして、破棄したのである。また二重の危険についての一九三七年のパルコ判決は(11)、州最高裁の有罪判決を維持はしたが、権利章典が修正一四条を通して州に適用があるわけでないとしながら、言論、出版、弁護人依頼権など「秩序ある自由の体系(a scheme of orderd liberty)」に必須である「権利(right)」は、州のコントロールに服する「特権(privilege)」と異なり、すべての州に適用され、保護されるとしたのである。そして言論、出版などの分野での「秩序ある自由の体系(a scheme of orderd liberty)」にあたるものが、刑事手続きの分野では、「フエア・トライアル(Fair Trial)」と考えられたのである。
  修正一四条のデユー・プロセスは、権利章典自体(ことに修正一条ないし八条)を州に適用するものではないが、手続きの「公正(fairness)」という基本的価値は組込んでいるという見解であった。すなわち、各事件がフエア・トライアルに反するか否かを、連邦の憲法修正(人権保護)を州に及ぼす基準にするという、「フエア・トライアル・テスト(Fair Trial Test)」が、採用されたのである(12)。「フエア・トライアル・テスト」の特色は、各事件の結論がそれ自体の事実関係に依存するというケースバイケース的な処理にある。従って同テストにたいしては、その積極面を評価しつつも、このようなケースバイケース的な諸判決による基準は極めて見えにくいもので、法執行に対する確実な予言を提示できないことになり、裁判官の個性に左右される専断的な裁判ではないかの疑問が生じることとなった。
  すなわちそこでは、強制された自白を用いた有罪を破棄したチェンバース判決(13)、ミシガン州における「裁判官による一人制大陪審(one man jury)」による有罪を破棄したオリバー判決(14)、令状なき押収をフエア・トライアルに反するとしたウオルフ判決(15)、さらに胃からの強制的に取り出された麻薬カプセルの証拠としての利用を許さなかったロチン判決など(16)、被告人の権利保護の方向での積極的な判決もあらわれてきた。しかし他方では、弁護人依頼権が「公正さの基本的原則」になっていることを認めないベッツ判決(17)、マイクロホン設置のための無断の住居立ち入りや(18)、意識のない被疑者からの血液サンプルの無断採取が(19)、「公正」を害しないというような判決もあらわれることになった。
    ((2))  ウオーレン・コートにおける選択的組込み論とデユー・プロセス革命
  「フエア・トライアル・テスト」のケースバイケース的な処理から脱却し、被告人の権利の保護が飛躍的に発展したのは、いわゆるウオーレン・コートの時代である。被告人の権利の保護のいっそうの発展の口火となたのは、不合理な捜索・押収をされない権利(修正四条)であった。まずエルキンズ判決(20)で前述の「銀の盆理論」を放棄したのち、連邦最高裁は、マップ判決で(21)「フエア・トライアル・テスト」からも脱却し、修正四条は全体が州に適用されるとして、権利章典の条文ごとに判断して修正一四条に組込んでいく、いわゆる「選択的組込み論(Selective Incorporation)」を採用することを明らかにした。そうしてさらに連邦最高裁はこれに引き続いて、修正六条の弁護人依頼権についてはギデオン判決(22)、前述のトワイニング判決を変更する修正五条についてのマロイ判決(23)、対質権についてのポインター判決(24)、修正五条の自己負拒否特権についてはミランダ判決(25)により、それらが修正一四条のデユー・プロセス条項により州の裁判に組み込まれていることを明らかにしてきた。デュー・プロセス革命と総称されるものである。
  「選択的組込み論」にたつこのような被告人の権利保護の拡大は、他方では犯罪処罰を困難にし、犯罪増加の原因となるとの批判を生み、いわゆる「犯罪防止等包括法(The Omunibus Crime Control and Safe Street Act)」の制定なども行われた。連邦最高裁は、一面ではヘビアス・コーパス訴訟での遡及的救済を否定したり、「情報屋」の利用、電話盗聴、麻薬事件での令状なき逮捕の肯定など慎重な姿勢も示しつつ、他面では引き続いて少年事件へのデユー・プロセスの適用を認めたゴールト判決のほか(26)、証人審問権、迅速な裁判、陪審の保障などの問題で権利保護の拡大を実現することとなった。またこの間、ミランダ判決によるミランダ警告の普及を始めとする実務の改善があるとともに、立法レベルでの検討も併行して行われた(27)
  (4)  バーガー・コート以降の被告人の権利
  一九六九年からのバーガー長官下のバーガー・コートにおいては、警察など法執行機関の行動に対して寛容で、被告人の権利拡大には抑制的という傾向ではあるが、「選択的組込み論」で権利章典の各条文が州に適用されるという枠組みを始めとして、ウオーレン・コート時代のデユー・プロセス革命の基本は維持され、残っていると評価されている。ウオーレン・コートの判例を拒否するのでなく、個別事件でのこれら適用の現実的あり方を問題としたのである(28)。また、一九八六年に就任したレンクイスト長官下のレンクイスト・コートも、バーガー・コートを引き継いで、被告人の権利の拡大には消極的、法執行官の裁量には好意的という傾向はあるものの、ウオーレン・コートのデユー・プロセス革命の枠組みのなかでは動いていると解されている(29)
  バーガー・レンクイスト・コート期においては連邦最高裁が被告人の人権保護で積極的な役割を果たさないため、かえって州の(最高)裁判所もしくは立法で、被告人の人権保護が連邦より進むという状況もある(30)。いわゆる「新しい二重の基準(New Double Standard)論」である。たとえばミシガン洲では被疑者同定(identification)における弁護人依頼権」を認め、ミシシッピイ州では証拠排除法則における善意の例外を認めなかったことがあるといわれている。もっとも州の立法自体は犯罪増加の怖れを理由に、犯罪対策手段強化に進むことも多い。例えば一九七二年のコネチカット州での非死刑事件での六人制陪審の採用、多くの州でのチャージ以前の容疑者の身柄拘束の許容などがその例である(31)。いわゆる「新しい二重の基準論」への過大な期待は持ち得ないといわれている。
(二)  以上のようなウオーレン・コート期のデユー・プロセス革命と、バーガー・レンクイスト・コート期をへて、刑事手続きに関わる人権保護の状況は、アメリカ合衆国ではどのようなものになっているであろうか。
  (1)  逮捕と捜索・押収に関する保障を定める修正四条関係では、まず違法収集証拠排除法則が問題となる。前述のようにウイークス事件で連邦レベルで認められたのち、マップ判決で州レベルでも認められたものである。ただし、同法則は、マップ判決後、社会的コストなどを理由に、比較的早くから批判的な論議を受けることとなった。例えばストーン判決は(32)、既に州裁判の段階で修正四条の問題について十分で公正な聴聞(a full and fair hearing)がなされていることを理由に連邦人身保護令状の請求が却下された判決であるが、違法収集証拠排除法則については、憲法上の権利を実施するための、「裁判官により作られた手段(a judge made device)」と位置づけている。そうしてさらに違法収集証拠排除法則は、一九八四年のレオン判決(33)により、善意の信頼(good faith)と合理的錯誤(reasonable
mistake)の例外を許容することになったのである。
  逮捕と捜索・押収に関する保障は、刑事上の捜査の対象となる以前の人々を含めて、広く人の「身体の安全(Phisically Security)」の保障であり、論じられている問題は多岐にわたっている。蓋然性ある理由(Probable cause)、逮捕に引き続く捜索(Search incident to an otherwise lawful arrest)、自動車の場合の例外(The automobil exception)、情報屋(Informer)、停止と所持品検査(Stop and frisk)、逮捕と検問(Arrest and other detention)、行政上の捜索(Administrative searcher)、電子監視(Electoronic Surveillance)などがそれらである。これらはいずれも一つ一つ個別に、独立に論じられるべき問題であり、ここですべてを紹介することすら困難である。ここでは電子監視につき、修正四条と「プライバシイの保護」との関係で簡単にみることにしたい。
  電子監視はいわゆる盗聴・ワイヤタッピングの問題であるが、それを手段の側から見ての呼称である。アメリカ合衆国においても、一九二八年のオルムステッド判決は(34)、ワイヤタッピングは、書類の押収でもなく、有形的結果も現実の住居の物理的侵害もないので、修正四条の保障を侵害しないとした。そうして、その後約四〇年間警察による盗聴はその際に住居の侵害などを引起さないかぎり、特段司法上の問題にならなかった。一九六七年のカッツ判決(35)に至って、オルムステッド判決を明確に覆した後に、修正四条の保護は場所(plases)の保護ではなく人(people)の保護であるとして、それがプライバシイの期待を保護するものであることが明確にされた。もっともカッツ判決は、令状なしに電話ボックスに据え付けられていた盗聴装置により得られた証拠による有罪を破棄しつつ、令状による電子監視を規制する、憲法に違反しない基準の立法の可能性は肯定していた。
  一九六八年の「犯罪防止等包括法(The Omunibus Crime Control and Safe Street Act)」、一九七八年の「外国諜報捜査法(Foreign Intelligence Surveillance Act)」、また一九九〇年の電子監視についての連邦および三五の州・特別区での法などは、カッツ判決の認める立法の可能性に基礎を置くものといえよう。これらの法による令状によるワイヤタッピングの数字はきわめて多く、例えば一九八九年の数字で一、二六三、五二八件、一三五、八一四人にのぼると言われている(36)
  (2)  修正五条の関係でも多くの問題があるが、ここでは自己負罪拒否特権について見たい。まず、自己負罪拒否特権については、何といっても警察の尋問が最大の問題である。前述のように修正五条の自己負罪拒否特権は、ミランダ判決により、弁護人依頼権と合体して、修正一四条のデユー・プロセスに組み込まれ、連邦の裁判でも、州の裁判でも保障されることになった。ミランダ判決は捜査側からは当初はあたかも重大な障害のように受け取られ、批判もあった。しかし、その後の判決でも、尋問中の弁護人依頼権の主張はその後の警察主導の尋問の絶対的障害となることなどが認められ(37)、ミランダ判決は、ミランダ原則として定着したと考えられる。そこで現在では、議論はミランダ原則を認めた上でその範囲をどうするかの問題となっている。すなわち、ミランダ警告なしの陳述が法廷で用いられる場合があるかなどのミランダ原則の効果の範囲、被疑者がミランダ原則の権利を放棄したか、ミランダ・タイプの尋問が行なわれたか、ミランダ警告なしの陳述の後のミランダ警告のある陳述もミランダ警告のない陳述と同様に扱われるか、などの問題である。これらにかかわっては、おおよそ以下のような状況である(38)
  ((1))  被告人のミランダ原則違反の陳述も、被告人が証言した場合の弾劾証拠としてはもちいれる(ハリス判決(39))。捜査機関には、弁護人なしの尋問を受けている被疑者に他の者が選任した弁護人が面会に努めていることを告げる憲法上の義務はない(40)。また、強制された自白の法廷への導入は、常に破棄されるような過誤ではなく、時々は「無害の過誤」であることもある(41)
  ((2))  ミランダ原則の権利の放棄は自発的なものでならず、その場合強制の自覚が非自発性判断で重要なのだが、「神の声」からの強制との自覚の場合は、非自発的でない(42)
  ((3))  交通犯罪で逮捕前に行なわれた質問は、「拘禁中の尋問」ではない(43)。また、公共の安全は、ミランダ警告まえに被疑者に銃の所在を質問することを許す(44)
  ((4))  ミランダ警告なしの供述は、必ずしも常に、のちのミランダ警告のある供述をもミランダ警告のない供述と同様に扱わせるものでない(45)
  (3)  修正六条の関係でも多くの問題があるが、ここでは弁護人依頼権について簡単に見たい。修正六条の弁護人依頼権について、修正一四条による「選択的組込み」を認めたのは、ギデオン判決であった。そうして、ギデオン判決では、資力のない被告人はすべての重罪事件において弁護人が政府により付される資格が認められたのであるが、後のバーガー・コート時代にこのギデオン・ルールは、すべての軽罪で、弁護人が付されていない被告人に拘禁刑を言渡すことはできないとされている。そして現在では、修正六条による弁護人依頼権は、正式の「チャージ(Charge)」の後のすべての手続きで保障されているのである(46)
  ((1))  アレインメントの段階でも要求され、弁護人依頼の主張はそれ以後の警察主導の質問の絶対的障害となる(47)
  ((2))  上訴段階でも要求される(48)。ただし、権利としての上訴の場合に限り、裁量による上訴は含まない。
  ((3))  拘禁されている場合は、もちろん要求される。したがって、連邦のケースだが、拘禁中被告人の供述を聞いた報酬つきの情報屋の証言なども許されない(49)
  ((4))  警察ラインアップの際も要求される(50)。ただし、非公式な被告人の同定作業は含まない。
  ((5))  プロベーションの取り消しの中にも弁護人の立ち会いを要するものがある(51)
  また、修正六条は、単なる弁護人の立ち会いを超えて、被告人が弁護人の「効果的な」援助を受ける権利を有することを意味していると考えられるが、いつが「効果的」援助のない場合かついての議論はやはり困難のようである。誤り一般のない弁護ではなく、誤りがなければ手続きの結果が別になるような場合が議論されている。また、最近では、資力のない被告人が、精神状態に基づく効果的防御の準備のために必要な援助を得るために、適任の精神科医へのアクセスを、憲法が必要としているとされている(52)。弁護人依頼権の場合に類似の論理で、「効果的な」援助を求めたものといえよう。

(1)  デユー・プロセスを中心にしても、田宮裕・「刑事手続とデユー・プロセス」北大法学論集14巻三・四合併号、同・刑事手続とデユー・プロセス一七二頁所収を始め多くがある。デユー・プロセス条項自体についても、鈴木圭介「アメリカ独立戦争と人権宣言」東京大学社会科学研究所編・基本的人権2、三八五頁、田中英夫「憲法第三一条(いわゆる適法手続条項)について」日本国憲法体系八巻一六五頁、同・英米法研究2デユー・プロセス二八一頁所収など多くがある。なお参照、、久岡「刑事訴訟における適正手続とフエア・トライアル」立命館法学二三一・二三二号一一二六頁。
(2)  以下、アメリカ合衆国憲法(修正)の人権保護規定が刑事手続で尊重されるにいたった跡を振り返るにあたっては、David J. Bodenhamer; FAIR TRIAL (1992) を参考にした。また参照、David J. Bodenhamer; Equal justice under law: The supreme court and rights ofthe accused, 1932-1991; in Crucible of Liberty 200Years of the Bill of Rights; Edited by Raymond Arsenault; p73-95; 1991。
(3)  Bodenhamer, Fair Trial, p. 66.
(4)  なお参照、久岡「アメリカ合衆国における人身保護令状制度の展開」立命館法学一三三・一三四・一三五・一三六号一二八頁。
(5)  南北戦争直後に成立したアメリカ合衆国憲法修正は、修正一三条(一八六五年)、一四条(一八六八年)ないし一五条(一八七〇年)である。
(6)  Boyd v. United States, 116 U. S. 616 (1886).
(7)  Weeks v. United States, 232 U. S. 383 (1914).
(8)  Hurtada v. California, 110 U. S. 516 (1884).
(9)  Twining v. New Jersey, 211 U. S. 78 (1908).
(10)  Powell v. Alabama, 287 U. S. 45 (1932).
(11)  Palko v. Connectocut, 302 U. S. 319 (1937).
(12)  Bodenhamer, Fair Trial, p. 99. これに対しフエア・トライアル・テストの、ケースバイケース的な解決を批判し、権利章典自体を修正一四条に組み込まれていると解すべきだと、「全面的組込み論(total incorporation)」を主張したのは、ヒューゴ・ブラック判事(Justice Hugo Black)であった。
(13)  Chambers v. Florida, 309 U. S. 227 (1940).
(14)  In re Oliber, 333 U. S. 257 (1948).
(15)  Wolf v. Colorado, 338 U. S. 25 (1949).
(16)  Rochin v. California, 342 U. S. 165 (1952).
(17)  Betts v. Brady, 316 U. S. 455 (1942).
(18)  Irvin v. California, 347 U. S. 128 (1954).
(19)  Breithhaupt v. Abram, Wardem, 352 u. s. 432 (1957).
(20)  Elkins v. United States, 364U. S. 206 (1960).
(21)  Mapp v. Ohio, 367 U. S. 643 (1961).
(22)  Gideon v. Wainright, 372 U. S. 335 (1963).
(23)  Malloy v. Hogan, 378 U. S. 1 (1964).
(24)  Pointer v. Texas, 380 U. S. 400 (1965).
(25)  Miranda v. Arizona, 384 U. S. 457 (1966). なおミランダ判決については、我国でも小早川義則「ミランダ判決の一五年」名城法学三二巻二・三号二一三頁等、数多くの論稿がある。
(26)  In re Gault 387 U. S. 1 (1967).
(27)  Bodenhamer, Fair Trial, p. 125.
(28)  Bodenhamer, Fair Trial, p. 137.
(29)  Bodenhamer, Fair Trial, p. 138.
(30)  A. T. Manson and D. G. Stephenson, Criminal Justice, p. 346.
(31)  Bodenhamer, Fair Trial, p. 137.
(32)  Stone v. Powell, 428 U. S. 465 (1976).
(33)  Leon v. U. S. 468 U. S. 897 (1984). ただし同事件は、令状のある捜索の事件についての事例であった。
(34)  Olmstead v. United States, 277 U. S., 438 (1928))
(35)  Katz v. United States, 389 U. S. 347 (1967)).
(36)  A. T. Manson and D. G. Stephenson, Criminal Justice, p. 339.
(37)  Edwards v. Arizona, 451 U. S. 578(1987).
(38)  A. T. Manson and D. G. Stephenson, Criminal Justice, p. 341.
(39)  Harris v. New York, 401 U. S. 222 (1971).
(40)  Moran v. Burbine, 473 U. S. 412 (1985).
(41)  Arizona v. Fulminante, 59 U. S. L. W. 4235 (1991).
(42)  Colorado v. Connelly, 479 U. S. 157 (1986).
(43)  Beremer v. McCarty, 468 U. S. 157 (1984).
(44)  New York v. Quarles, 467 U. S. 649 (1984).
(45)  Oregon v. Elstad, 470 U. S. 298 (1985).
(46)  A. T. Manson and D. G. Stephenson, Criminal Justice, p. 343.
(47)  Hamilton v. Alabama, 368 U. S. 52 (1961); Michiganu. Jalcson, 475 U. S. 625 (1986).
(48)  Ross v. Moffitt, 417 U. S. 600 (1974).
(49)  Massiah v. U. S., 337 U. S. 201 (1967).
(50)  U. S. v. Wade, 388 U. S. 217 (1967).
(51)  Gagnon v. Scarpelli, 411 U. S. 778 (1973).
(52)  Ake v. Okulahoma, 470 U. S. 68 (1985)


四  裁判による法創造とデユー・プロセス
(一)  裁判による法創造の観点から、アメリカ合衆国における刑事手続きの発展をみて、まず問題になるのは、どのような場合に裁判により法創造が行なわれるのか、そしてその法創造が社会的にどんな役割を果たしているのかである。特に参考になるのは、いわゆるデユー・プロセス革命の時期における、連邦の人権保護の権利章典のデユー・プロセス条項(修正一四条)による州法域への適用の経過である。前示のようにこの経過は、フエア・トライアル・テストの採用とその後の選択的組込み論への移行であるが、それを支えたものは刑事手続きが持つ社会的意味の認識であった。
  弁護人依頼権や自己負罪拒否特権などの被疑者・被告人の人権保護を、フエア・トライアルに意義あるものと認めつつ、憲法修正四条、五条などの州裁判への適用を、ケースバイケースに判断した後、その違反を考えるフエア・トライアル・テストの時代と、権利・条文ごとに州裁判に組み込まれていることを前提にその違反を考える、「選択的組込」の時代を区分したのは何であろうか。それは刑事手続き、とくにその結果が、抽象的に考えられるだけでなく、特に刑事手続に厳しくさらされている「社会の周辺(society’s fringes)」にいる人々(1)、グループから考えられても、「フエア・トライアル」と受けとめられるようなものでなければならないとの考え方である。例えば、弁護人依頼権の保障を州法域に及ぼしたミランダ判決の直前数十年の間、法執行が州ごとにばらばらで不公正であったために不利益を受けた人々の多くは、若者、教育の少ない者、少数グループのメンバーであった被告人達であったとことが、今日認められている(2)。逆にいえばこのような状況の自覚・反省のなかで、刑事手続きが持つ社会的意味の認識が進み、弁護人依頼権保障の拡大も実現したといえるのである。またデユー・プロセス革命を実現したウオーレン・コートでは同時に、選挙の手続き、学校差別、宗教の公的支持などの分野で(3)、いわば「機会の平等(Equality of opportunity)」のみならず「条件の平等(Equality of condition(4))」、に奉仕するような多くの判決が出され、また議会でも雇用の促進などに寄与する、いわゆるアファーマテイブ・アクションが立法された時期でもあった。社会的公正への寄与、いわば形式的な「機会の平等(Equality of opportunity)」にとどまらず実質的な「条件の平等(Equality of condition)」の視点から、「フエア・トライアル」と言えるか否かを吟味することが、裁判によるデユー・プロセス革命を支えた内実ということができよう。
  裁判による法創造にしろ法解釈にしろ、多数者の意見が反映しやすい議会にたいし、司法が積極的姿勢をとって、社会的に存在が認められる、若者、教育の少ないもの、少数グループのメンバーなどの、多数意見形成に親しみにくい「社会の周辺(society’s fringes)」にいる人々、すなわち「少数者」の立場をすりあわせ保護していくことは、権力分立制のもとでの裁判所の役割ではなかろうか(5)
  このことは逆に、国の権限の創出など、議会においての立法が可能な問題、いわば多数者の利益にそう事項については、裁判による法解釈は別として、裁判による法創造はありえず、議会の立法機能によって解決されるべき問題になる。前示のようにアメリカ合衆国における電子監視の問題について、裁判によるのでなく議会による立法の形態によっていることは、その内容の賛否は別として、大いに参考になる点である。なお、もし議会による立法の可変性を低くみて、いったん議会で立法されたら廃止・変更などありえないとの不安から、国の権限の創出の方向でも裁判による法創造を許容する見解もありうるかもしれない。しかしその段階こそ、議会の立法に対して、裁判による法創造機能が、「社会の周辺(society’s fringes)」にいる人々の保護を志向して発揮されることが期待されるときで、それによりそのような不安が防がれるべきものといえよう。
(二)  このように、憲法の適正手続き条項にある法規範が含まれるとの解釈論の形の主張も含め、裁判による法創造について、「少数者」・「多数者」という社会的視点を持ち込み論ずることは、すぐれて技術的な訴訟の場にはなじまいという議論や、また逆に刑事訴訟では「被告人」・「検察官(国)」という形で既に「社会的視点」は組み込まれているから、「少数者」・「多数者」というような視点は不要であるという議論があるかもしれない(6)
  まず、「少数者」・「多数者」という社会的視点を持ち込み論ずることは、すぐれて技術的な訴訟の場にはなじまないとの疑問については、既に我国の刑事訴訟では刑事訴訟法の解釈論として、「被告人」・「検察官(国)」の関係という形で既に「社会的視点」は持ち込まれてまれている。平場教授の「当事者武器平等(Waffengleicheit)の要求(7)」、井戸田教授の「当事者対等の原則論(8)」、田宮教授の「実質的当事者対等(9)」などそれである。したがって、「社会的視点」を持ち込むことはすぐれて技術的な訴訟の場にはなじまないとは、一般にはいいえないことになる。
  次に逆の、刑事訴訟では「被告人」・「検察官(国)」という形で既に「社会的視点」は組み込まれているから、それ例外の「少数者」・「多数者」というような視点は不要であるという議論については、議員などによる公務員犯罪、公害犯罪や多国籍企業のような巨大企業の業務にかかわる犯罪が提起される可能性を考えるとき、「被告人」・「検察官(国)」という構図で固定できない場合を考えなければならないのでなかろうか。被告人一般だけでなく、重ねて社会的「少数者」、社会的弱者という面に着目し、いわば実質的デユープロセスの見地から刑事司法を考えるべき時期がきている。近時の「当番弁護士制度」などの政策的提言に対する社会的支持は、まさにこれを示すものと思われる。なお、被告人一般でなく、社会的「少数者」、社会的弱者という面に着目し論ずることは、これまで被告人一般として享受してきた権利の保障を危うくするとの危惧もあるかもしれない。しかし、刑事手続き上の権利は、歴史的にみて近代市民社会の共通のたからであって、「すべての人に等しく保障される」ことは当然の前提である。その上で形式的保障にとどまらない実質的保障を論じたいだけである。憲法学の立場からは、我国の戦後の憲法や法体系は、フランス革命以来の市民法的な近代化の課題と、二〇世紀後半という時期での社会法的な現代化の課題という、二重の課題に直面していると論じられる(10)。そしてこの二重の課題は、例えば、近代化の課題を背負う自由権、現代化の課題を背負う社会権のように、役割分担的に考えられるべきでなく、個々の法、条項、人権レベルでもそれぞれに担われているものであろう。デユー・プロセス、憲法の適正手続き条項自体もそのような二重の課題論を担うもの、いわば「実質的デュー・プロセス」として論じられるべきものと思われる。

(1)  David J. Bodenhamer, FAIR TRIAL (1992); p. 66.
(2)  A. T. Manson and D. G. Stephenson, Jr. Criminal Justice; p. 341
(3)  David J. Bodenhamer, Equal justice under law: The supreme court and rights of the accused, 1932-1991; in Crucible of Liberty 200Years of the Bill of Rights; Edited by Raymond Arsenault (1991); p. 80.
(4)  David J. Bodenhamer, FAIR TRIAL (1992); p. 111. なお、私の、久岡「刑事訴訟における適正手続とフエア・トライアル」立命館法学二三一・二三二号一一四ス頁における、「いわば「機会の平等(Equality of opportunity)」を目標とした革命的な諸判決を次々に」は、正確には「いわば実質的な「機会の平等(Equality of opportunity)」を目標とした革命的な諸判決を次々に」の意味であり、詳しくは、いわば「機会の平等
(Equality of opportunity)」のみならず「条件の平等(Equality of condition)」(実質的平等)、に奉仕するような多くの判決が出され、の意味である。この機会に訂正したい。
(5)  裁判の政策形成機能が論じられる理由として、天野・前掲論文一ス頁は、別に、日本の現実における「議会の機能不全」状況を指摘する。
(6)  田宮裕「刑事訴訟におけるデユー・プロセスの保障」高田・田宮編演習刑事訴訟法(新版)一三頁の「刑事手続の純化の要求」は、刑事手続の「対象」の純化の問題であり、刑事手続きのあり方は、また別論となろう。
(7)  平場安治・新刑事訴訟法一九頁
(8)  井戸田侃・刑事訴訟法要説三五頁。
(9)  田宮裕・前掲論文一一頁。
(10)  山下健次編・概説憲法二三頁等。


五  結 び に か え て
  それでは以上のような議論は、刑事訴訟法を論ずる上で何らかの意味をもつのであろうか。早急な結論は困難であるが、この点を若干考えて、結びにかえたい。
(一)  まず、「国の権限の創出など、議会においての立法が可能な問題、いわば多数者の利益にそう事項については、裁判による法解釈は別として、裁判による法創造はありえず」、という命題は、現行刑事訴訟法の解釈の枠組みとも一致するものである。これについては、刑事法の解釈原理として、実体法たる刑法の世界のみならず、手続法たる刑事訴訟法についても、罪刑法定主義が解釈原理として機能するとされる井戸田侃教授の見解(1)から検討を始めてみたい。
  まず実体法たる刑法の世界では罪刑法定主義によって、裁判により犯罪・刑罰を創設することが禁止され、犯罪を拡大・加重する方向では類推解釈も許されず、また犯罪と刑罰の要件は一義的に明確でなければならない、とされている。これらはほぼ一致した見解である。他方手続法たる刑事訴訟法については論争が行なわれている。すなわち多くの見解は、刑事訴訟法については刑法と異なり罪刑法定主義の適用はなく、刑訴法一条(デユー・プロセスも含む)のほかに特別な解釈原理として機能するものはないとしているようである。これに対して、井戸田教授は、裁判所の規則制定権(憲法七七条)の限界であると考えられる法律事項には裁判の法創造は及ばず、またこの法律事項について定める法規や、強制処分法定主義(刑訴法一九七条一項但書)にかかわる法規については、罪刑法定主義は解釈原理になると主張されている。
  裁判所規則制定権の限界については、国会と裁判所と間の役割分担の関係もあり別に置くとしても、国の機関と人々との間の関係を律する刑事訴訟法上の原則は、裁判による法創造においても、当然尊重されるべきことになろう。そのような原則として次のものがある。まず、国や公の機関の行動は、行政法学が説くように、その行動の根拠を授権する根拠規範の存在を必要とするものである(2)。本来自然の自由を有する人との違いである。またことにその国や公の機関の行動が強制処分にあたるときは、強制処分法定主義により「この法律による特別の定め」を要することになる(刑訴法一九七条一項但書)。また、この「特別の定め」の内容は、憲法の定める令状主義を考えるとき(憲法憲法三三条、三五条)、裁判官の発する令状によるべきことになろう。そうして、このような要請をかなえる、刑事手続きに関する裁判による法創造を、国の権限を創出する方向で考えることは難しく、結局、先に四章(一)で述べた、「国の権限の創出など、議会においての立法が可能な問題、いわば多数者の利益にそう事項については、裁判による法解釈は別として、裁判による法創造はありえず」、という結論と一致することになる。したがって、裁判による法創造の機能は、もっぱら「少数者」の利益にそう方向でのみ考えられるべきほとになる。
(二)  裁判による法創造とデユー・プロセスの観点から、前示のようなアメリカ合衆国における刑事手続きの発展を概観するとき、裁判により解釈され(確認され)もしくは創造される法が、「法」レベルのものか、「憲法」レベルのものかという問題が、刑事手続きにおける法創造の場合には、独特に存在するということがわかる。
  アメリカ合衆国における、違法収集証拠排除法則の最近の取扱いがその例である。アメリカ合衆国の場合、例えば前示のストーン判決は(3)、直接は、州裁判において修正四条の問題について十分で公正な聴聞がなされていることを理由に連邦人身保護令状の請求が却下された判決であるが、その結論が導かれるにあたって、同判決が、違法収集証拠排除法則をマップ判決に抗して、憲法上の権利そのものでなく、憲法上の権利を実施するために「裁判官により作られた手段」と、いわば低く位置づけていることが大いに関連していると思われる。我国の場合も、アメリカ合衆国の議論にならってか、憲法上の権利を実施するための原則と違法収集証拠排除法則を説明されることもある。具体的事例で、違法収集証拠排除法則の適用に消極的な結論が出されることと関係があろう。また、身体を拘束されている被疑者と弁護人等との間の接見交通権は、判例の中で「憲法の保障に由来する」と表現されているが(4)、その意義をめぐっても同様の論議がある。すなわち、この接見交通権が弁護人依頼権(憲法三四条前段)の内容自体かの問題である(5)
  法創造の場合は、裁判により創造された法を「憲法」レベルのものと論証することは、法創造機能のレベルを極めて高くする必要があって、通常困難である。従って当該の法については、「憲法」レベルのものとして、適正手続条項(憲法三一条)に含まれると、法解釈でそれを論じることになるか、「法」レベルのものとして裁判による法創造として論じられることが多い。そしてその場合、「法」レベルのものと評価されることは、人権保護の効果をもつ法(権利)の場合は、現行刑訴法上は上告理由の否定のみならず(刑訴法四〇五条一項)、その制限、放棄などが認められやすくなってくるのである。しかし、ある法規範が、「法」レベルのものか、「憲法」レベルのものかという問題は、もちろんその効果だけから逆に判断できるものではなく、理論的に検討さるべき問題である。そうしてこの問題を考えるにあたっては、例えば、アメリカ合衆国における、「フエア・トライアル・テスト」の論議や「選択的組み込み」の基準がもう一度参考にされるべきことになろう。端的に導入するならば、「フエア・トライアル」に必須の権利は、「憲法」レベルでの権利で、適正手続条項(憲法三一条)に含まれるが、「選択的組み込み」の基準から考えると、「フエア・トライアル」に必須の権利か否かの判断に際し、刑事手続きの「社会的」不公正を是正するための必要性を加味して判断すべきことになろうか。
(三)  以上、刑事手続きの領域での裁判による法創造の問題と、デユー・プロセスのありかたの問題を関連させて考えてみた。論議はまったくの試論に止まるものであるが、なお機会があれば次の点を考えてみたい。
  第一は、裁判による法創造は、結果として生じる個別的機能、もしくは部分的な機能なのか、刑事訴訟の目的や構造にかかわるような一般的機能であるのかという問題である。民事訴訟については、裁判論(司法過程論論)もしくは民事訴訟法学の立場から、いわゆる現代的訴訟を念頭においた、裁判による法創造の推進にふさわしい民事訴訟のあり方論・構造論がすでに立論されているが(6)、刑事訴訟ではどうかの問題である。また、もし裁判による法創造をみとめることになれば、裁判による法創造機能のウエイトは別として、いずれにしろ訴訟関係者の法理論、「価値観」が一定の役割を果たすことは否定できず、その相互の交流・争いの場としての刑事裁判のあり方が問題になってくるのであろうか。証拠調べのありかた、判決理由なども問題となるものと思われる(10)
  第二は、いわば「実質的デユー・プロセス」の見地から刑事司法を考えるとして、第一の点も含め、具体的にいかなる問題提起が可能かである。また逆に近時の我国の刑事裁判のなかで、例えばいわゆる「電話の検証(7)」とか「採尿令状(8)」による「連行(9)」のような、裁判による法創造とも見うるようないくつかの現象で、具体的に検討する必要があるものもある。

(1)  井戸田侃・前掲論文三五九頁以下。
(2)  藤田宙晴「警察法二条に関する若干の考察」法学五二巻五号一頁、五三巻二号七八頁等参照。
(3)  マップ判決以前の前示のウオルフ判決も同様。弁護人依頼権についての前示のベッツ判決も修正一四条に関して同様。
(4)  最高判決昭和五十三年七月一〇日民集三二巻五号八二〇頁
(5)  接見交通権が弁護人依頼権(憲法三四条前段)の内容自体、それを保障するものかについては、見解が分かれる。
(6)  例えば、吉野正三郎・前掲論文などがある。
(7)  甲府地判平成三年九月三日判例時報一四ス一号一二七頁。
(8)  最決昭和五五年一ス月二三日刑集三四巻五号三スス頁。
(9)  東京高判平成二年八月二九日判例時報一三七四号一三六頁。