立命館法学  一九九五年五・六号(二四三・二四四号)




共 犯 の「従 属 性」に つ い て


松    宮    孝    明






目    次




一  は  じ  め  に
    本稿では、主として、刑法六一条・六二条の教唆犯・従犯、すなわち「狭義の共犯(1)」の「従属性」問題を扱う。ところで、「従属性」(Akzessorieta¨t)とは、本来、なにものかに「付随する」とか「付け加わる」とか「派生する」といった性質を意味する(2)。狭義の共犯においては、これは「正犯」に対する「付随性」ないし「派生性」を意味することになる。かくして、刑法は、その六一条において、教唆犯を「他人を教唆して犯罪を実行させた者」と定義し、その六二条において、従犯を「正犯を幇助した者」と定義したうえ、教唆犯には「正犯の刑を科」し、従犯には「正犯の刑を減軽する」こととしている。狭義の共犯は正犯に付随して成立し、かつその刑も、正犯の法定刑を手がかりにして決められているのである。
    この「従属性」については、これまでから、「従属性の有無」ないし「実行従属性」と「従属性の程度」ないし「犯罪従属性」・「要素従属性」という、やや次元を異にする問題のあることが指摘されてきた(3)。すなわち、「従属性の有無」では、狭義の共犯の成立に正犯の実行行為を要するか否かという問題が、「従属性の程度」では、主に、狭義の共犯の成立には正犯の行為がどのような性質を備えていることを要するかが問題にされてきたといってよい。そして具体的には、前者では正犯が実行行為に出なかった場合でも、共犯は未遂として処罰可能かという問題が扱われ、後者では、とくに正犯に責任能力がなかった場合でも、共犯は成立可能かという問題が扱われてきた。
  もっとも、前者は、解釈論として厳密にいえば、未遂処罰規定の射程範囲の問題であって、正犯の未遂とは無関係に教唆・幇助に未遂規定の適用を認めるか否かの問題である。したがって、刑法四三条の「犯罪の実行」の着手が「正犯行為の実行」の着手を意味するなら、この問いへの答えは明らかであるし、いずれにせよ未遂処罰に必要な各則規定(四四条)が教唆・幇助に存在しないから、刑法上の教唆・幇助の未遂に関する解釈論上の結論は「否」でしかない(4)
  これに対して、「従属性の程度」ないし「要素従属性」の問題は、以下に述べるように、二義的である。というのも、そこにいう「従属」の意味は、((1))共犯成立の「必要条件」として正犯に備わるべき要素という意味で用いられる場合と、((2))正犯のある種の要素が共犯に「連帯」する、ないし共犯の科刑が正犯に「付随」するという意味で用いられる場合とがあるからである。
    そこで以下では、まず、このような「従属性」の二つの意味を明らかにし、ついで、((1))の「必要条件としての従属性」にまつわる問題を検討し、最後に、((2))の「連帯作用としての従属性」にまつわる問題を検討することにする。前者では、主として「間接正犯」と共犯との関係が扱われ、後者では、主として身分犯に対する共犯の問題が扱われる予定である。

(1)  以下、単に「共犯」と呼ぶこともある。
(2)  新村  出編『広辞苑(第四版)』(一九九一)一二一七頁では、従属とは「他のものにつき従うこと。また、そのもの。」とされている。
(3)  「従属性の有無と程度」という呼称については、団藤重光『刑法綱要総論(第三版)』(一九九〇)三七四頁以下により、「犯罪従属性」という呼称については、植田重正「共犯独立性説と従属性説」日本刑法学会『刑事法講座第三巻』(一九五二)同『共犯論上の諸問題』(一九八五)六頁以下に、「要素従属性」という呼称については、平野龍一『刑法総論II』(一九七五)三四五頁以下、三五四頁以下によった。さらに、佐伯千仭
『四訂刑法講義(総論)』(一九八一)三三三頁以下は「共犯の処罰上の従属性」および「概念上の従属性」という呼称を用いる。以下では、用語の混乱を避けるため、もっぱら「実行従属性」および「要素従属性」という呼称を用いることにする。なお、「罪名従属性」と呼ばれる問題もあるが、それは本稿では扱わない。
(4)  むしろ、深刻なのは、破壊活動防止法三八条以下のような特別法に見られる、独立共犯処罰規定の立法論上の妥当性である。わが国では、いわゆる「共犯従属性説」は、あくまで総則共犯規定の解釈に関するものであって、独立共犯規定の妥当性問題は、ほとんど、その視野に入っていなかったといってよい。これを指摘する近年の論文として、佐伯仁志「教唆の未遂」阿部純二ほか編『刑法基本講座第四巻』(一九九二)二〇七頁以下がある。

二  「従属性」の二義性
    わが国の教科書では、「要素従属性」は、ドイツのM・E・マイヤーの分類に従って、四つの従属形式に分類されるのが通常である。第一は、共犯成立には正犯が各則の構成要件を実現すれば足りるとする「最小従属形式」で、第二は、正犯が構成要件を違法に実現したことを要するとする「制限従属形式」、第三は、正犯が構成要件を違法かつ有責に実現したことを要するとする「極端従属形式」である。問題は、第四の「誇張従属形式」である。これは、通常は、提唱者マイヤーの定義に従って、正犯の人的な加重減軽の事情も共犯の処罰に影響を及ぼす立場という形で定義されている(1)。しかしながら、わが国では、少なからぬ教科書で、この従属形式が「正犯の行為が構成要件に該当し、違法・有責であり、かつ可罰性の条件を具備することを要する(2)」とか、正犯に一身的な処罰阻却事由のないことを要する立場(3)と定義されている。その上で、この従属形式は、正犯に多くを要求しすぎるとして現実性のないものとみなされているのである。
  一見すればわかるように、後者の定義は、((1))共犯成立に必要な正犯の要素を述べたものである。これに対して前者は、((2))正犯の「身分」等の要素が共犯の処罰に連帯ないし連動作用をもつという意味である。このうちのいずれが、第一ないし第三の従属形式の定義と同じ観点による定義かと問われれば、それは((1))の定義であろう。というのも、第一から第三までの従属形式は、いずれも、共犯成立に必要な正犯の要素を述べたものだからである。したがって、統一的な観点からする従属形式の分類という点からみれば、後者の定義が優れているといえよう(4)。しかし、それでは、マイヤーはなぜあえて、不整合な観点による分類を行ったのかという疑問が残ることになる。実はここに、「従属性」の二義性が示されているのである。
    マイヤーが「誇張従属形式」と名づけたものは、歴史上実在した立法形式であった。これは、一八一〇年のフランス刑法典が採用した、そしてまた一八五一年のプロイセン刑法典にも採用された、身分犯に対する身分のない共犯は正犯と同じ刑で処断されるという従属形式を意味していたのである(5)。さらにまた、この従属形式は、わが国の旧刑法の立案作業の段階でも、フランス人ボアソナードによって提案されたことのあるものであった(6)。もっとも、加減的身分の連帯作用を認める立場の中でも、これを非身分者が正犯の加重身分を認識していた場合に限るか否かについては、さらに争いがあった。一九世紀半ばのフランスの判例は、加重身分の認識の有無に関わらず身分の連帯作用を認めていたが、ボアソナードやオルトランは、これを認識のある場合に限っていたようである。しかし、わが国の旧刑法の立案過程において、ボアソナードは、その見解を改めて、ドイツ刑法やベルギー刑法と同じく、加重身分の連帯作用を一切否定し、加重身分の個別化作用を認めるに至った(7)。しかし、いずれにせよボアソナードの当初の構想では、尊属殺に関与した第三者は、尊属殺という、より罪責の重い犯罪について、共に刑責を負うべきであると考えられていたのである。それは、共犯の「付随的」性格から見ても、理論的に一貫性のあるものと考えられていた(8)
    いずれにせよ、誇張従属形式とその他の従属形式との相違は、正犯の加減的身分が共犯に連帯ないし連動することを認めるか否かにある。ここでは、((2))の意味での従属性が問題となっているのである。したがって、最小従属形式から極端従属形式までの分類で問題となっている((1))の意味での、つまり「必要条件」としての従属性の観点で誇張従属形式を定義することは、原典と理論史を無視する点で、問題をはらむものである。同時にまた、これによって、「従属性」という言葉は歴史的にも二義的に用いられてきたことが、明らかになったと思われる。
  したがって、両者は明確に区別して論じられるべきであろう。そうでないと、((1))の議論として述べられたことが((2))の議論と混同されかねないからである。たとえば、共犯成立に正犯の責任能力を要するかという、((1))のレベルでの極端従属形式と制限従属形式の争いにおいて、「極端従属形式では、正犯の責任能力が責任能力のない共犯にまで『連帯』するから不当だ」という的はずれの批判がなされかねないからである。実際には、極端従属形式も、「責任の連帯性」を意味するものではない。正犯の有責性は、共犯成立の必要条件のひとつにすぎないのである。したがって、このような誤解を避けるためには、「従属性」問題の持っている、これら二つの意味の相違を意識しながら分析を進めるべきことになろう(9)
    この点について付言すれば、すでに、一九三二年にドイツのケーパーニックは、要素従属性に二つの意味があることを指摘していた。そしてそこでは、最小従属形式・制限従属形式・極端従属形式といった、正犯行為の構成要件該当性・違法性・有責性への従属の有無と、刑罰構成的・加重的・減軽的・阻却的身分への従属性とは次元の異なる問題であって、したがってたとえば、制限従属形式を採用しながら加減的身分の連帯作用を認めることもできると主張された。すなわちケーパーニックは、「・・・たとえば、立法者は、一方で、特別の資質や関係(die besonderen Eigenschaften und Verha¨ltnisse)に関する限りでは、共犯行為を正犯行為に従属させ、他方で、正犯行為の違法な構成要件実現だけで足り有責な実現は必要ないとすることも、十分に考えることができる。」と述べたのである(10)
  もっとも、その分類方法は、本稿と異なり、共犯の可罰性に影響する正犯要素を、構成要件該当性・違法性・有責性といったすべての犯罪に共通する要素と、身分犯の身分や目的犯の目的のように、特殊な犯罪にだけ必要な要素とに分けて、前者への従属性を「一般的従属性」と名づけ、後者への従属性を「特殊的従属性」と名づけるものであった。つまり、「必要条件」か「連帯ないし連動作用」かといった、「従属性」自体の二義性に基づく分け方ではなく、従属対象の一般性ないし特殊性による分け方をしたのである(11)
  これは、今日から見れば、不十分なものであろう。というのも、同じく身分への「従属性」でも、「正犯に身分がないと身分犯に対する共犯は成立しない」という命題と、「身分のある正犯の法定刑によって身分のない共犯も処断される」という命題とでは、その意味は異なるからである。たとえば、収賄罪に対する共犯は、正犯に公務員または仲裁人という身分がないと成立しないが、少なくとも立法論上、その処断刑は収賄罪のそれにしたがう必要はない。実際、現行法でも、単純収賄の法定刑は五年以下の懲役であるが、その必要的共犯たる贈賄行為の法定刑は、三年以下の懲役である。さらに、今日では、ドイツ刑法の教科書でも、「必要条件」としての従属性を「正犯行為への共犯の依存性(Die Abha¨ngigkeit der Teilnahme von der Haupttat)」と呼び、連帯作用を意味する「内的(質的)従属性」と区別するものがある(12)。しかし、ケーパーニックが、制限従属形式と加減的身分の連帯作用(つまり誇張従属形式)の両立可能性を指摘したことは、まったく正当である。そしてこれは、後に述べるように、身分の連帯ないし個別化作用と制限従属形式との関係を考える上で、極めて重要な指摘なのである。

(1)  「共犯の処罰は、・・・正犯の人的資質にも依存するのであり、その結果、人的な事情で刑罰を加重するものおよび軽減するものも、共犯の処罰を加重したり軽減したりする。」≠cie Bestrafung der Teilnahme ist.....abha¨ngig auch von den perso¨nlichen Eigenschaften des Ta¨ters, sodaβ straferho¨hende und strafmindernde Umsta¨nde, die seiner Person anhalten, den Teilnehmer belasten und entlasten. M. E. Mayer, Der allgemeine Teil des deutschen Strafrechts, 2. unvera¨nderte Aufl. 1923, S. 391.
(2)  「正犯が構成要件該当性、違法性、責任のほか、さらに、一定の可罰条件をも具備しなければならないとする誇張従属形式」大塚  仁『刑法概説(総論・改訂増補版)』(一九九二)二四七頁、「正犯の行為が構成要件に該当し、違法・有責であり、かつ可罰性の条件を具備することを要するとする誇張従属形式」大谷  実『刑法講義総論(第四版)』(一九九四)四一七頁、「誇張従属形式は、犯罪成立要件の外に、一定の処罰条件をも具備しなければならないとするもの」野村  稔『刑法総論』(一九九〇)三八五頁。さらに、福田  平『全訂刑法総論〔増補版〕』(一九九二)二三八頁は、「正犯が構成要件該当性、違法性、責任のほか、さらに可罰性の条件を具備することを要し、一身的な刑の加重減軽の事由も共犯に影響を及ぼすものとする誇張従属形式」と定義し、オリジナルの定義との折衷的な表現をしている。なお、前田雅英『刑法総論講義[第二版]』(一九九四)四五八頁も、「(a)誇張従属性説犯罪:犯罪=TB+R+S+処罰条件」としている。
(3)  「正犯の行為が構成要件に該当しかつ違法・有責であるだけでなく一身上の処罰阻却事由をもそなえていないことを要するとする誇張従属性」藤木英雄『刑法講義総論』(一九七五)二九六頁。
(4)  「要素従属性とは、共犯の概念上の前提となる正犯の行為とは、構成要件に該当する行為であればいいか(最小従属性説)、構成要件に該当する違法な行為であることが必要であり、かつそれで足りるか(制限従属性説)、構成要件に該当する違法、有責な行為であることが必要か(極端従属性説)という問題である。」と述べた後に、「正犯の刑の加重減軽事由が、共犯に影響を及ぼすかという問題(影響を及ぼすという見解を
誇張従属性説という)も、右の問題の延長線上にある。」(傍点筆者)とする平野・前掲書三四六頁の記述が、この事情を端的に物語っているといえよう。まさに、前三者の問題の延長線上に誇張従属形式を捉えると、これは共犯成立の必要条件として、正犯の処罰条件の存在ないし処罰阻却事由の不存在を要求する形式と理解されることになる。しかし、誇張従属形式を前三者の延長線上で捉えることは、まさに、ミスリーディングなものであろう。ここでは、誇張従属形式の定義は正しいが、その理解は誤っているといわざるをえない。
  もっとも、誇張従属形式以外の従属形式が、正犯の客観的処罰条件を共犯処罰の必要条件としない趣旨かどうかは、後述注(8)で述べるように、疑わしい。もちろん、違法性や責任の要素に還元できない処罰条件を残しておくこと自体の妥当性も問題であり、その意味で違法性の要素に還元できる処罰条件については、制限従属形式からも、従属性が認められるが、処罰条件自体としても、正犯が可罰段階に達する前に共犯の可罰性を認めるのは、実行従属性との関係で、矛盾をはらんでいる。
(5)  一八一〇年のフランス刑法典は、その第五九条で、「重罪または軽罪の共犯は、その重罪または軽罪の正犯と同一の刑に処する。」と定め、せいぜい母親による新生児の謀殺または故殺(いわゆる「嬰児殺」)に対してのみ、死刑(一九八一年の廃止後は無期懲役)を一〇年以上二〇年以下の有機懲役に減軽する規定をもつにすぎなかった(訳文については、法務大臣官房司法法制調査部編『フランス刑法典』(一九九一)三八頁、一〇九頁を参照した。なお、加減的身分の特別規定を持たないという点においては、一九九二年のフランス新刑法典でも事情は異ならない)。これにならって、一八五一年のプロイセン刑法典は、その第三五条で、「重罪または軽罪もしくは重罪または軽罪の可罰的未遂の共犯者には、正犯者に適用されると同一の刑罰法規が適用される。」と定め、他方で、嬰児殺や親族相盗における正犯者の減軽ないし阻却的身分の効果は、他の共犯者に及ばない旨を規定していた(訳文については、西田典之『共犯と身分』(一九八二)一八頁も参照した)。そして、いずれの刑法の解釈においても、共犯の「従属的性格」から、身分なき共犯は、身分ある正犯の法定刑によって処断されたのである。しかも、興味深いことに、いずれの刑法においても、加減的身分犯における共同正犯の扱いに疑義が生じていた。というのも、共同正犯もまた「正犯」であるから、従属性原則が支配する「共犯」の場合と異なり、身分なき共同正犯者は身分犯の共同正犯にはなりえず、したがって、非身分者の場合、共同正犯の方が教唆犯よりも法定刑が軽くなるという矛盾が生じたからである。そして、この矛盾は、いずれにおいても、「共同正犯は相互に他の共同正犯者の共犯である」という「相互共犯の理論」を用いて、身分なき共同正犯者にも身分犯の重い刑を科すことで解決された。これについては、江口三角「フランスにおける共犯(一)」愛媛大学紀要(社会科学)三巻四号(一九六一)四頁、西田・前掲書二一頁以下参照。
(6)  このあたりの事情は、鶴田文書研究会『早稲田大学図書館資料叢書1  日本刑法草案会議筆記』(一九七七)二九三三頁、中西  縁「共犯と身分についての一考察(一)」同志社法学一八〇号(一九八三)九四頁以下参照。
(7)  これについては、吉井蒼生夫=藤田正=新倉修編著『日本立法資料全集8  ボアソナード講義  刑法草按注解  上』(一九九二)三三九頁以下参照。なお、フランス刑法流の誇張従属形式から旧刑法におけるその否定に至る経過については、中西・前掲七九頁以下も参照。
(8)  付言すれば、「正犯の処罰条件への従属」という定義も二義的である。これが「客観的処罰条件への従属」という意味なら、正犯が可罰段階に達する前に共犯の処罰を認めることは、実行従属性の場合と同じく、疑問であるから、むしろ従属は当然のことと考えられるし、逆に「一身的処罰阻却事由の不存在への従属」という意味なら、「一身的」という形容を無にする主張だといわなければならない。
(9)  その一例は、西田典之「『共犯と身分』再論」に関する筆者の批評(法律時報六七巻七号(一九九五)一〇三頁以下)である。
(10)  H. Ka¨pernick, Die Akzessorieta¨t der Teilnahme und sog. mittelbare Ta¨terschaft, 1932, S. 17f.
(11)  Vgl., Ka¨pernick, a. a. O., S. 14.
(12)  Vgl., G. Jakobs, Strafrecht AT, 2. Aufl. 1991, 22/10ff., 23/1ff.


三  必要条件としての「従属性」
    ((1))の意味での、つまり共犯の必要条件という意味での「従属性」において、「要素従属性」として論じられている問題を整理してみると、つぎのようになる。すなわち、
  (1)  責任能力のない者の動作も、共犯の対象となる「犯罪の実行」と言えるか。
  (2)  故意のない者の行為も、「犯罪の実行」と言えるか。
  (3)  責任阻却事由の認められる行為も、「犯罪の実行」といえるか。
  (4)  正当防衛のように違法性を阻却される行為も、「犯罪の実行」と言えるか。
  ところで、責任能力がなければ、あるいは、過失犯や結果的加重犯の場合を除いて、通常、行為者に故意がなければ、その行為の外形が刑法第二編に定められている客観的な犯罪類型(いわゆる「構成要件」)に当てはまっても、処罰はされない(刑法三八条一項本文、三九条)。そのような場合でも、刑法六一条にいう「犯罪の実行」といえるのかどうかが、まず、問題となる。この場合に、「犯罪」とは「構成要件」に該当し「違法」で「有責」な「行為」であるという定義に忠実であれば、右の三つのいずれの問いについても、答えは「否」ということになろう(1)。これは、一般に「極端従属形式」と呼ばれるものである。
  もっとも、人がはじめから責任無能力者あるいは錯誤に陥っている者を利用して犯罪の外形に当たる行為を行わせる場合には、通説によれば、利用者は「間接正犯」となる。したがって、この場合には、共犯の従属性は、なんら問題にならない。その結果、ここでは一見すると、処罰に値する行為が共犯でない場合は間接正犯、間接正犯でない場合は共犯というように、両者は相補的な関係にあって、その間に「処罰の間隙」はないように見える。ゆえに、わが国のたいていの教科書は、間接正犯と共犯との関係を、このような相補的なものだと説明している(2)
  しかし、たとえば実行者に責任能力がないのに、共犯の側に、実行者に責任能力があるという錯誤があった場合には、問題が残る。というのも、仮に実行者に責任能力がない場合「犯罪」は成立しないという見解つまり「極端従属形式」を採るなら、この場合、「犯罪を実行」させたことにならないので教唆も幇助も成立せず、他方、共犯の側には責任無能力者を利用するという「間接正犯」の故意がないので、「間接正犯」で処罰することもできないからである(3)。また、相手が責任無能力者であることを知っていても従犯的役割しか果たしていない場合には、必ずしも「間接正犯」となるための利用行為があったとはいえない。つまり、このような場合には、「間接正犯」概念の助けを借りても、「処罰の間隙」が生じるのである。そこで、このような「処罰の間隙」を埋めるためには、共犯の従属対象である「犯罪の実行」の内容を、何らかの形で薄めなければならない。
  ところで、一九世紀中ごろにドイツで全盛だったヘーゲル学派は、「行為」とは責任能力者の動作であることを要し、責任無能力者のそれは「行為」でないという見解を採った。これは必然的に、「極端従属形式」と結びついたのである。そこで、このような行為概念を前提とした場合には、様々な阻却事由を、「犯罪」の成否とは関係のない一身的処罰阻却事由にしてしまう方法が選択されることになる。現に、ドイツの一九〇九年刑法改正予備草案は、このような方向を目指した(4)。そこでは、正当防衛による不処罰も、単なる処罰阻却事由とされたのである。
  しかしやがて、「行為」と「行為者」は別のものであって責任能力は「行為者」の属性であるとする見解が支配的となるにつれ(いわゆる「因果的行為概念」)、責任無能力者にも「行為」があるのだから、共犯の従属性もまた、段階的区別のできる概念だという見解が唱えられることとなった。これが、M・E・マイヤーによる「従属性」の段階的区別である。そしてそこでは、立法論として、共犯は、実行者による「構成要件」該当行為の実行にだけ従属することも(「最小従属形式」)、「構成要件」に該当する「違法」な行為に従属することも(「制限従属形式」)ありうるし、「構成要件」に該当する「違法」で「有責」な行為に従属することも(「極端従属形式」)、さらには「構成要件」に該当し「違法」で「有責」な行為を行った者の一身的な刑の加重減軽事由に従属することも(「誇張従属形式」)可能だとされたのである(5)
  この中で、マイヤー自身は、制限従属形式が妥当であると主張した。最小従属形式では、正当防衛のような違法でない行為を援助した場合にも、従犯が成立することになって妥当でなく、また誇張従属形式では、当時の現行法が認めていた、加減的身分の個別化作用と矛盾することになってしまうからである。もっとも、彼の制限従属形式はあくまで立法論であって、解釈論としては、彼は極端従属形式に従っていたことに注意しなければならない。
  その後、ドイツでは、一九四三年の改正で制限従属形式が採用され、今日に受け継がれている。したがって今では、実行者の責任能力について共犯の側に誤想があっても、教唆・幇助が成立することについて争いはない。
    ひるがえってわが国では、明治四〇年の現行刑法制定以来、刑法六〇条以下の総則共犯規定には、全く変更はない。そして少なくとも戦前までは、わが国でも、これら共犯規定は極端従属形式を採用したものであるという見方が一般的であった(6)。わずかに、一二、三歳の者の犯罪行為については、「刑事未成年」として不可罰だが(刑法四一条)、その者にはすでに是非の弁別能力があるとの理由で、共犯が可能だとされていたにすぎない(7)。したがって、法改正がなくても、解釈論として要素従属性の緩和が可能かどうかが問題となる。
  これについては、わが刑法がその二四四条の「親族相盗例」において、親族でない共犯者については同条第一項の刑の免除等を用いないと規定していることから見て(同条第三項)、現行法は正犯行為に可罰的違法性が欠けている場合でも、共同正犯を含む共犯の成立を認める趣旨と解し、従属性を正犯行為の単純な違法性にまで緩和する見解が、戦前から有力に唱えられていた(8)。従来の通説は、親族相盗例を「一身的処罰阻却事由」と解することで共犯の成立を説明していたが、およそ違法・責任と無関係な処罰阻却事由を認めることは妥当でなく、錯誤をいっさい無視する結果になることも不当であるとして(9)、これを支持する見解も有力である。
  他方、近年では、たとえば嘱託殺人は処罰されるが(刑法二〇二条)、それを嘱託した被殺者は、殺害が失敗した場合でも、嘱託殺人未遂の教唆犯で処罰されることはないように、被教唆者が構成要件に該当する違法な行為を行ったときでも教唆者が処罰されない場合があることを理由に、最小従属形式を支持する見解もある(10)。しかしこれは、関与者ごとの「違法の相対性」と呼ばれる問題、より正確には、「その法益は共犯者からも守られているか」という刑法規範の保護範囲の問題であって、共犯成立のための正犯行為の必要条件の問題としての要素従属性とは関係がない(11)。制限従属形式を採用する場合でも、正犯行為の違法性は共犯成立の必要条件にすぎないのであって、正犯の違法行為が存在すれば常に共犯が成立するわけではない。
    他方、下級審判例では、刑事未成年者にそれと知らずに窃盗を教唆した者に対して、窃盗の「間接正犯」で律すべきであるとしつつ、刑法三八条二項によって窃盗の教唆を認めたものがある(12)。刑法三八条二項は重い「間接正犯」で処罰することを禁止しているだけで、教唆犯で処罰することを積極的に根拠づけるものではないから、この結論は、正犯が責任無能力(13)であっても教唆犯が成立するという制限従属形式の考え方を採用したものだと見るしかない。また、正犯の心神喪失状態での殺人を幇助した者に殺人罪の幇助を認めたものや、刑事未成年者に対する無免許運転教唆を認めたものもある(14)。ここでは、極端従属形式の放棄は明らかである。
  最高裁では、暴行によって自分の意のままに従わせていた一二歳の少女に窃盗を行わせていた者に、窃盗罪の「間接正犯」を認めた昭和五八年九月二一日の決定(15)が、刑事未成年だけを理由とせず、「畏怖、抑圧されている者の利用」を強調した点で、制限従属形式への親近性を示したものとして注目されている。もっとも、「間接正犯」という結論自体は極端従属形式でも説明できるものである。逆に、制限従属形式によれば、この少女はすでに窃盗の「正犯」だから、利用者は教唆犯になるはずだという見方もある(16)。しかし、限縮的正犯概念では教唆・幇助は正犯以外に処罰範囲を拡張するものである以上、「畏怖・抑圧」状態利用にすでに正犯性が認められるなら、教唆・幇助は論ずる余地がないのであって、制限従属形式からもこの結論は説明可能である。従属形式の緩和は、たしかに、「処罰の間隙」を共犯によって埋める可能性を開くが、論理必然的に「間接正犯」の縮小を伴うものではない。ゆえに、この決定をいずれかの従属形式に有利なものと見ることは、妥当でない。
    正犯に故意が認められない場合にも、共犯の成立が可能かどうかについては、争いがある。ここでは、多数説は、教唆というのは相手方に犯罪の故意を惹起することであり、幇助もまた故意の正犯に対するものに限ると定義することで、一見、正犯の故意への従属性を認めているように見える(17)。しかし他方で、教唆者が実行者の故意を誤想した場合に、教唆犯の成立を否定する見解は、ほとんどない(18)。つまり結果的には、故意なしで犯罪行為を行った者に対する教唆を認めているのである。
  他方、制限従属形式を明文で採用したドイツでは、戦後、目的的行為論の影響の下で、故意を構成要件の要素とする見解が一般化したため、故意のない者に対する共犯は認められないとする立場が通説・判例となり(19)、ついには刑法に明文化されるに至った。そこでたとえば、身分犯の場合、故意のない身分者を利用した者は、正犯に故意がないので教唆・幇助にならず、また正犯としての身分がないので「間接正犯」にもならないのである(20)。これは、教唆者が相手方の故意を誤想した場合にも当てはまる。もちろん、このような「処罰の間隙」を生み出す規定に対しては批判もあるが、解釈論としてはしかたがないと見られている。このような立場からみれば、わが国の通説は、故意への従属性を否定したものと見られることになる。言い換えれば、わが国の通説の前提と結論には、矛盾があるのである(21)
  これに対しては、故意への従属性を維持しつつ、故意誤想の場合には、刑法三八条二項によって、通説によれば重ならないはずの教唆犯と間接正犯との間に「重なり合い」が作り出されるとする見解もある(22)。しかし、それは、構成要件の重なり合いが認められない場合にも、錯誤の場合に故意の符合を認める「抽象的符合説」ないし「可罰的符合説」であって、構成要件を基準とする犯罪の個別化機能や故意の規制機能を否定するものであり、妥当でない。
  また、故意への従属性に固執すると、身分犯や「自手犯(23)」において正犯に故意がない場合に、これを利用した者を無罪とするか、あるいは身分がない者ないし自手実行をしていない者にも「間接正犯」を認めなければならなくなる。運転者に免許の有効性をわざと誤信させた者を無罪とするのは妥当とは思われないが、さりとて身分のない者あるいは自手実行をしていない者に身分犯や自手犯を認めるのは、罪刑法定原則に反する(24)。ここでは、刑法三八条二項も使えないため、妥当な結論を得るためには、端的に故意への従属性を否定するしかない(25)
    しかし、結論が妥当というだけでは、それはまだ解釈論ではない。それでは、責任能力への従属性も故意へのそれをも否定する考え方は、現行法の解釈として可能であろうか。
  学説には、教唆とは相手方に何らかの行動の決意を生じさせて犯罪的結果を起こさせればよく、その決意が犯罪的内容のものでなくてもかまわないとする見解がある(26)。これに対して下級審には、教唆とは犯意を起こさせることだとして、過失犯に対する教唆を否定したものもある(27)。もっとも、その事案は教唆者にも故意がなかったものであって、同様のケースで過失犯の共同正犯を認めた最高裁判決(28)と比べるなら、過、失、に、よ、る、教、唆、の可罰性を否定したにすぎないものと見る余地もある。いずれにせよ、故意従属性を認めた判例と見るのは早計である。
  しかし、刑法六一条の「教唆」は犯意の惹起でなくてよいとしても、実行させる「犯罪」が有責性のないものでよいかどうかは、なお問題である。この点を考慮して、右の見解の中には、故意への従属性は否定しつつも、正犯の過失の存在は必要だとするものがある(29)。しかし、これでは、錯誤や身分犯・自手犯で正犯が無過失の場合に、なお「処罰の間隙」を残すことになる。また、これらの見解は、共犯を拡張することで「間接正犯」の成立範囲を限定ないし否定するという意図に出たものであるが、すでに述べたように、共犯の拡張は、論理必然的に間接正犯の縮小をもたらすものではない。むしろ、要素従属性の緩和は、共犯形式にまたがる錯誤の場合や身分犯・自手犯への共犯の場合における、「間接正犯」にも教唆・幇助にもならない領域を埋めるものである。つまり、従属性を緩和すれば処罰範囲が広がる場合があるのだから(30)、共犯の成立は積極的に根拠づけられなければならない。
  この点では、極端従属形式の立場からの、従属性を緩めることは罪刑法定原則に反するとする批判(31)にも、理由はある。もっとも、この場合には、右のような錯誤や身分犯・自手犯の場合には、「処罰の間隙」が生ずることを甘受しなければならない。
  刑法六五条二項が身分の有無による刑の加減を認めていることを、制限従属形式の間接的な根拠とする見解もあるが(32)、処罰を阻却する一身的事情が含まれていないことから見て、制限従属形式を積極的に根拠づけるものとはいえない(33)。親族相盗例(刑法二四四条)や親族間の賍物罪における刑の免除規定(刑法二五七条)の一身的性格を根拠に従属性の緩和を説明することも(34)、これらを違法・責任とは関係のない「一身的処罰阻却事由」と解する立場から見れば、結論の先取りと見られるおそれがある。また、刑法六一条の「実行させた」という文言に着目し、正犯行為は実行行為であれば足り、必ずしも有責である必要はないとする見解もあるが(35)、実行させる対象は「犯罪」なのだから、これが有責性を含まないことを証明しない限り、説明にならない。
    ひとつの説明方法は、「犯罪」概念の相対性を認めることである。すなわち、「犯罪」と「罪」とは同じ意味と考えられる。ところで刑法三八条一項は、「罪を犯す意思がない行為は、罰しない」と規定する。ここにいう「罪」は、故意の対象となるものであるから、犯罪の主観的要素をも含むと解することは矛盾であろう。したがって現行刑法は、「罪」という概念を犯罪の客観的要素のみを指すものとして使用する場合もあるということになる。ならば、刑法六一条の「犯罪」も、同じ意味で解釈することは可能ではないかというのである。この場合には、故意や責任能力その他の責任要素がなくても「犯罪」は存在するといえよう。逆に、正当防衛のように全く違法でない行為は「犯罪」とはいえない。ゆえにこれは、故意(および過失)を責任要素と解する古典的な犯罪論体系を前提とした、制限従属形式の採用を意味するのである。
  もっとも、「目的犯」の目的のような主観的違法要素の場合は、さらに検討を要する。通貨偽造を教唆したが、予期に反して偽造者に行使の目的がなかった場合、教唆者も自ら行使する意図はなく、他にも、その偽貨の行使を予定している共犯者がいなかったなら、およそ行使の危険がないのだから、通貨偽造罪もその教唆犯も成立しないと見るべきであろう。しかし、教唆者あるいは他の共犯者にその偽貨の行使を予定している者がいて、その事情を打ち明けつつ偽造を依頼した場合には、行使目的を秘して利用したわけではないから「間接正犯」は認められないが、偽造者本人の認識にかかわらず行使の危険はあるとして、通貨偽造罪の教唆犯が認められるべきである。この場合の「行使の目的」とは、純粋な内心超過傾向ではなく、客観的な行使の危険の認識として、故意に含まれるものと思われる(36)
    最後に、いわゆる「身分なき故意ある道具」に触れておこう。その典型は、公務員が自分の妻や私設秘書などに命じて、自分宛の賄賂を業者から受け取らせるという類のものである。この場合には、妻や秘書には収賄罪の主体たるべき身分がないから、彼ら自身が収賄罪の「正犯」となることはない(37)。ところで、公務員たる身分のような主体は構成要件の客観的要素であるから、この場合には、仮に、要素従属性を最小従属形式にまで緩和したとしても、非公務員は共犯成立の必要条件たる「正犯」たりえないことになる。そこで、通説は、このような場合の背後の公務員は収賄罪の「間接正犯」であるとする。
  しかし、このような構成には、以前から疑問が提起されていた。すなわち、間接正犯が成立するためには、被利用者に「道具」たる性質がなければならない。そして、その「道具」性は、事実を認識し法規範に従って犯罪行為を思いとどまる能力の欠如、すなわち故意(38)と責任能力の欠如に求められるのが一般であった。言い換えれば、被利用者に故意と責任能力があれば、その行為を思いとどまるべき障害、すなわち「規範的障害」があるのだから、被利用者は「道具」とはいえないと考えられてきたのである。ところが、「身分なき故意ある道具」の場合には、非公務員は収賄行為に手を貸してはいけないというのであれば、まさにこの「規範的障害」が存在することになる。したがって、背後者は「道具」を利用したとはいえないことになるので、これを「間接正犯」と見ることに疑問が提起されたのである(39)
  ここでは、通説によれば背後者の「共犯」性は否定されるが、それは、限縮的正犯概念では、自動的に「正犯」性を根拠づけるものではないため(40)、背後者は「共犯」でも「間接正犯」でもないということになってしまう。そこで、学説の中には、要素従属性を構成要件に該当しない単純な違法行為にまで緩めて、背後者を教唆犯、被利用者を従犯(41)とする見解もある(42)。ただ、そうなると、説例のような場合、この賄賂を収受したのは一体誰なのかという問題を生ずることになる。非身分者が「正犯」的な行為をしているとみなせば、公務員宛の賄賂が非身分者に「収受」されたことになってしまう。しかし、単なる取り次ぎ役が「賄賂を収受した」と見るのは、まったくもって、社会的実態を無視した解釈である。
  したがって、問題は、「収受」という実行行為の解釈に帰着しよう。そして、賄賂罪や賍物罪などのような取引犯罪では、民法的な視点から取引の主体と見られる者が実行行為の主体でもあると見る方が、言葉の意味にも社会の実態にも適した解釈であろうと思われる。このように見ることが許されるなら、説例の場合、賄賂を収受したのはまさに公務員自身であって、その妻や秘書ではないということになろう。つまり、背後者は収賄罪の「直接正犯」なのである。実際、判例もまた、このような結論を認めている。いわゆる「ロッキード事件」において、第一審は情を知らない秘書に現金を受け取らせた内閣総理大臣に、間接正犯構成をとらずに、受託収賄罪の成立を認めており(43)、控訴審(44)、上告審(45)もこの結論を認めている。同様の事態は、公務員が虚偽公文書を私人に口述筆記させたような場合にも認められる。刑法一五六条にいう「文書の作成」主体は、この場合、観念的に見て、公務員本人であると解されるのである。ここでも、「間接正犯」の出る幕はない(46)

(1)  もっとも、(2)では、過失犯処罰規定がある場合は例外ということになる。
(2)  たとえば、平野・前掲書三五七頁は、「この場合は、『犯罪』を構成要件に該当する違法・有責な行為と解すれば、間接正犯になる可能性のあるものが、『犯罪』を構成要件に該当する違法な行為と解すれば、共犯になり、その未遂が処罰されることはなくなる」とし、中山研一『刑法
総論』(一九八二)四四七頁は、「制限従属形式への移行がもたらす実際的帰結は、間接正犯の相対的縮小と教唆犯の相対的拡大という形であらわれる」とする。前田『刑法講義総論[第二版]』四六二頁以下も、「従来は、教唆犯が不成立の場合には間接正犯が成立すると考えられてきた・・・。間接正犯の成立範囲は要素従属性の学説によって決定されてきたのである。」と述べる。
(3)  一八八四年のドイツライヒ裁判所判決(RGSt 11, 56)は、このような事案について無罪を認めた。これについては、松宮「非故意行為に対する共犯」立命館法学二三一=二三二号(一九九四)二四一頁以下参照。
(4)  一九〇九年予備草案については、佐伯千仭
「共犯規定の発展」同『共犯理論の源流』(一九八七)五頁以下も参照。
(5)  M. E. Mayer, a. a. O., S. 391.
(6)  瀧川幸辰『刑法総論』(一九二九)団藤ほか編『瀧川幸辰刑法著作集第一巻』(一九八一)三二〇頁以下は、そもそも、実行従属性と要素従属性の区別をしていない。瀧川『犯罪論序説(改訂版)』(一九四七)団藤ほか編『瀧川幸辰刑法著作集第一巻』(一九八一)一九三頁では「極端従属形態による正当的共犯理論は自然発生的である。」とされ、『刑法講話』(一九五一)二二二頁では、「わが刑法は第三の極端従属形式をとるものと解せられている」とされている。
(7)  小野清一郎『新訂刑法講義総論(増補三版)』(一九五〇)二〇〇頁、団藤『刑法綱要総論』一五七頁、三八三頁。もっとも、一八七一年ドイツ刑法典の「刑事未成年」制度は、満一二歳以下の者に限られており、わが国よりも年齢が低いことに注意しなければならない。また、刑事未成年者については、ドイツの実務でも、精神障害の場合とは異なる単なる訴追障害事由だとする見解もあったのであって(Vgl., RGSt 11, 58f.)、事実、一九二三年に制定された少年裁判所法四条は、刑事未成年者の行為に対する共犯の成立を認めた。したがってこの見解は、極端従属形式のささやかな修正にすぎない。
(8)  佐伯「いわゆる共犯の制限された従属形式」前掲書六九頁以下参照。
(9)  錯誤を考慮した判例として、福岡高判昭和二五・一〇・一七刑集三ー三ー四八七。
(10)  平野・前掲書三五八頁、、前田・前掲書四六〇頁。
(11)  一部では、最決平成四・六・五刑集四六ー四ー二四五が、直接行為者に過剰防衛が認められる場合に背後者に過剰防衛を認めなかったことを契機として、これを最小従属形式に有利な判例として説明しようとする動きがある。前田・前掲書四六〇頁以下参照。しかし、いずれにせよ、違法な正犯行為があっても背後者が処罰されないケースがあるからといって、これを最小従属形式の妥当性の論拠とすることはできない。平成四年決定の結論も、責任減少事由としての過剰防衛を理由とする刑の減免は個別的に行われるという、責任の個別性を述べたものと見るべきで
あろう。
(12)  仙台高判昭和二七・二・二九判特二二ー一〇六。
(13)  もっとも、ここでは刑事未成年であるが。
(14)  京都地舞鶴支判昭和五四・一・二四判時九五八ー一三五(正犯は、原因時点での過失を理由に、重過失致死罪とされた)、因島簡判昭和六一・五・二〇米澤慶治・研修四五七号(一九八六)四九頁以下参照。
(15)  刑集三七ー七ー一〇七〇。
(16)  たとえば、前田・前掲書四六四頁は、制限従属形式によれば、少女が「構成要件に該当し違法な行為を行った以上、被告人は教唆になるはず」だと述べる。さらには、制限従属形式では「正犯」となるのだから、本決定は「正犯の背後の正犯」を認める考え方に親近性を示すものだとする評価もあるが(内田文昭「間接正犯の正犯性」判例タイムズ五三〇号(一九八四)六四頁以下、斉藤誠二「是非の弁別能力のある刑事未成年者を利用する間接正犯」法学教室四四号(一九八四)九四頁)、すでに述べたように、制限従属形式は、「正犯に構成要件に該当する違法な行為があれば、必ずしも正犯に責任能力がなくても、共犯が成立しうる」と述べるものにすぎず、「共犯が成立しなければならない」と述べるものではない。また、「正犯の背後の正犯」の問題も、厳密には「故意作為正犯として罪責を問いうる者の背後の故意作為正犯」を認めうるか否かという問題であって、強制された刑事未成年者の行為を利用する間接正犯を認めるかどうかという問題とは直結しない。仮に右の意味での「正犯の背後の正犯」を認めれば、故意犯の分野でも、限縮的正犯概念はおそらく否定されてしまうであろう。ゆえに、わが改正刑法草案二六条二項は、間接正犯を「正犯でない他人を利用して犯罪を実行した者」に限ったのである。もっとも、近年、ドイツでは、故殺の作為直接正犯の背後にも故殺の作為間接正犯が認められるとする判例があらわれた。旧東西ドイツの国境における東ドイツ国境警備兵による亡命者の殺害について、旧東ドイツ国防評議会幹部の刑事責任に関し、原審の故殺教唆を覆して間接正犯を認めた、一九九四年七月二六日の連邦裁判所判決である(BGHSt 40, 218=NJW 1994, 2703)。この体系を揺るがす判決に対して、故意犯で限縮的正犯概念を採るロクシンはこれを支持しているが(C. Roxin, Vorwort zur sechsten Auflage, in: Ta¨terschaft und Tatherrschaft, 6. Aufl. 1994.)、ヤコブスは、「正犯の背後の正犯」は体系矛盾であって、むしろ片面的共同正犯を認めた方がよいとする(G. Jakobs, NStZ 1995, S. 26f.)。なお、わが国で、「正犯の背後の正犯」を認めて統一的正犯概念を目指すべきだとするものとして、高橋則夫『共犯体系と共犯理論』(一九八八)がある。
(17)  たとえば、団藤・前掲書三八三頁、平野・前掲書三六〇頁。
(18)  団藤・前掲書四二九頁は、「おそらく、教唆の限度で責任を問われるべきであろう。」と述べるし、平野・前掲書三九〇頁、大塚・前掲書二
九七頁、前田・前掲書五二四頁、大谷・前掲書四八一頁、内田『改訂刑法I(総論)』(一九八六)三三四頁注(2)も同旨。疑問を留保するも同旨、福田・前掲書二七三頁。
(19)  一九五六年の連邦裁判所判決(BGHSt 9, 370)。事案は、被告人が、薬物を濫用する目的で、情を知らない医師に治療のためと思い込ませて処方箋を書かせたというものである。判決は、医師を主体とする身分犯について、非身分者は間接正犯にはなれないことを前提として、被告人を故意のない医師に対する教唆犯として処罰できるか否かを問題とし、これを否定した。これ以前には、情を知らない医師を騙して患者に関する秘密を漏洩させた被告人に対して、故意のない身分者に対する教唆犯の成立を認めた判例があったが(BGHSt 4, 355)、本判決は、ヴェルツェル、ボッケルマンの見解を引用して、これを覆したのである。
(20)  前述の BGHSt 9, 370 の事案は、まさにこの類型に当たる。
(21)  松宮・前掲立命館法学二三一=二三二号二六〇頁以下参照。
(22)  町野  朔「法定的符合説について(下)」警察研究五四巻五号(一九八三)一七頁、井田  良『犯罪論の現在と目的的行為論』(一九九五)一八九頁以下。なお大塚・前掲書二九七頁も、故意のない者を利用する場合と責任無能力者を利用する場合とを区別せずに、「刑法三八条二項の趣旨を顧慮して、軽い教唆犯の責任を問うべきものとする見解」が妥当であるとしている。しかし、刑法三八条二項は旧刑法七七条三項を踏襲したものであり(倉富勇三郎ほか編・松尾浩也増補解題『増補刑法沿革綜覧』(一九九〇)二一四四頁)、かつ、旧刑法七七条三項は明治一〇年の日本刑法草案八九条と同じ文言であって、その起草者ボアソナードは、これを「犯せる行為の故意すなわち罰すべき念慮に出でざる者に係る」と述べているだけなのである(吉井ほか編著『日本立法資料全集8  刑法草案注解  上』二三七頁)。つまり、三八条二項は、「重い犯罪の故意がないときには重い犯罪では処罰できない」という当然のことを述べたものにすぎない。
(23)  自らの手で実行しないと正犯とならない犯罪。たとえば無免許運転罪は、自ら自動車を運転した者しか犯せない(岡山簡判昭和四四・三・二五判タ二三七ー三三二)。ドイツでは、偽証罪も自手犯の典型とされているが、わが国では、共謀共同正犯論の影響で、自手実行できない非身分者についても、刑法六五条一項を根拠に、共同正犯たりうるとする判例がある(大判昭和九・一一・二〇刑集一三ー一五一四)。そこでは、自手犯の特殊性が見過ごされて、身分犯一般の問題として処理されているのである。
(24)  判例は、身分犯である虚偽公文書作成罪について、非公務員による「間接正犯」を否定している(最判昭和二七・一二・二五刑集六ー一二ー一三八七)。もっとも、すでに見たように、学説の多くが自手犯と見る偽証罪については、判例では、自ら偽証をしなかった者に、刑法六五条一項を介して、同罪の共謀共同正犯を認めたものがある(大判昭和九・一一・二〇刑集一三ー一五一四)。
(25)  もっとも、背後者の意に反して実行者に故意が生じなかった場合に、因果関係の錯誤として処理する方法はある。Vgl., G. Jakobs, Strafrecht AT, 2. Aufl. 24/2ff.  その場合には、教唆の既遂は否定される余地がある。
(26)  佐伯『四訂刑法講義(総論)』三五五頁、中  義勝『講述犯罪総論』(一九八〇)二五五頁、中山『刑法総論』四六九頁。
(27)  東京高判昭和二六・一一・七高刑判特二五ー三一。
(28)  最判昭和二八・一・二三刑集七ー一ー三〇。
(29)  植田「目的的行為論と間接正犯論」瀧川先生還暦記念『現代刑法学の課題  下』:同『共犯論上の諸問題』二五頁以下、中・前掲書二三五頁。この立場は、その限りで、正犯にはなお「規範的障害」が存在するので、「道具」理論に基づく「間接正犯」は成り立ちえないと見る。
(30)  この限りで、井田・前掲書一七五頁の指摘は正当である。ただし、それは、錯誤規定を拡張して故意への従属性をこっそりと放棄することを認めないという前提の下でではあるが。
(31)  瀧川『犯罪論序説(改訂版)』:団藤ほか編『瀧川幸辰刑法著作集第一巻』一九三頁。もっとも、瀧川博士は、間接正犯と共犯との間に「処罰の間隙」が生ずる事実を認めていない。最近では、吉岡一男『刑事法通論』(一九九五)一〇〇頁が、「共犯の成立範囲を明確に限定する観点からは、極端従属性説をとるとともに、間接正犯構成による処罰範囲の拡大にも反対していく理論構成が望ましい」と主張する。
(32)  平野・前掲書三五七頁参照。しかし、カントロヴィッツは、加減的身分の個別化作用を規定した、当時のドイツ刑法五〇条が、M・E・マイヤーの主張と異なり、必ずしも現行法を制限従属形式で解釈する妨げとはならないと主張したが、それはあくまで、「五〇条と制限従属形式とは矛盾しない」という消極的な主張にとどまっていた。Vgl., Kantorowicz, Tat und Schuld, 1933, S. 92, 106ff. 先にみたケーパーニックの主張も、加減的身分犯の規定を制限従属形式の積極的な論拠とするものではない。Vgl., Ka¨pernick, a. a. O., S. 24.
(33)  当時のドイツ刑法五〇条を極端従属形式の根拠と見るM・E・マイヤーの本旨は、一九〇九年ドイツ刑法予備草案が、五〇条に相当する草案八〇条において、「刑罰を加重し、減軽しまたは阻却する一身的資質または関係は、この資質または関係のある者についてのみ顧慮される。」(傍点筆者)と規定し、かつ草案理由書が、この「刑罰阻却事由」の中に、責任無能力や正当防衛などの、今日でいう責任および違法阻却事由を含むものと述べたので、この草案八〇条の解釈として、制限従属形式を主張するところにあった。つまり彼は、当時の現行刑法五〇条に「刑罰阻却事由」を加えるだけで、極端従属形式は放棄できると主張するために、極端従属形式の唯一の拠り所は五〇条にしかないと述べたのである。たしかに、今日から見れば、身分の連帯ないし個別化作用の規定が共犯の必要条件に関する規定でもあるとするのは、「従属性」の二つの意味を看過した点で不十分なものであろう。その限りで、ケーパーニックやカントロヴィッツの指摘は正しい。しかし、それはマイヤーの責任で
はなく、違法および責任阻却事由をすべて「人的処罰阻却事由」に流し込んだ予備草案の立案者の責任なのである。マイヤーは、まさにそれを逆手に取って、従属性の段階的区別を編み出したのである。
(34)  佐伯『共犯理論の源流』六九頁。
(35)  大塚・前掲書二四八頁、大谷・前掲書四一八頁。
(36)  中山・前掲書二四〇頁。なお、最判昭和三四・六・三〇刑集一三ー六ー九八五は、通貨偽造罪の行使の目的を、他人をして真正な通貨として流通に置かせる目的でもよいとして、共犯者の行使目的を認識してこれに協力する場合でも、端的に行使目的を認めている。
(37)  もっとも、判例(大判大正三・六・二四刑録二〇ー一三二九)・通説は、刑法六五条一項を介して、非身分者も収賄罪の「共同正犯」にはなりうるとする。しかしこれは、公務員しか受け取ることのできない職務の対価を非公務員も受け取れるという、矛盾に満ちた解釈を前提とするものである。
(38)  中博士が指摘するように、過失の場合には、やや問題がある。過失行為者もまた、刑事責任を担いうる者である以上、単なる「道具」とはいえないからである。前出注(29)参照。
(39)  現に、マウラッハ=ゲッセル=ツィップは、これをもはや間接正犯ではないとする。各則の実行行為の解釈でまかなえない場合は、処罰の間隙もやむなしとするのである。Vgl., Maurach/Go¨ssel/Zipf, Strafrecht AT, Teil. 2. 1989, §48 II/57f.
(40)  拡張的正犯概念なら、それは可能である。そもそも、「共犯でなければ正犯」という発想は、拡張的正犯概念のものである。限縮的正犯概念では、「正犯でなく、かつ、共犯の要件を満たす者が共犯」である。
(41)  より正確には、共犯従属の必要条件としての「正犯」性は備えているが、身分がないため正犯でなく従犯として処罰される者。
(42)  佐伯『四訂刑法講義(総論)』三五八頁以下。これには、「正犯なき共犯」を認めるのは不当だとする常套的な批判が加えられているが、本説は、従属対象たる「正犯」の要件を緩めるだけで、およそ正犯のない共犯を認めるという趣旨ではないから、この批判は当たらない。
(43)  東京地判昭和五八・一〇・一二判時一一〇三ー三。
(44)  東京高判昭和六二・七・二九高刑集四〇ー二ー七七。
(45)  最大判平成七・二・二二刑集四九ー二ー一。
(46)  近年、ドイツの一部では、身分者の特別義務の違反があれば、背後の身分者の直接正犯が成立するとする「義務犯」構成が主張されている。Vgl., Jakobs, Strafrecht AT, 21/104.

四  連帯性としての「従属性」
    つぎに、連帯性ないし連動という意味での「従属性」の検討に移ろう。ここではとくに、一定の身分があって初めて成立する犯罪(「構成的身分犯」)や、身分によってとくに刑の軽重がある犯罪(「加減的身分犯」)および一定の身分があることで処罰が阻却される犯罪(1)に対する共犯の扱いが問題となる。
  周知のように、現行刑法は、このような身分犯に対する共犯について、一方で、その六五条一項において、「犯人の身分によって構成すべき犯罪行為に加功したときは、身分のない者であっても、共犯とする。」と定めるとともに、他方で、同条二項において、「身分によって特に刑の軽重があるときは、身分のない者には通常の刑を科する。」と規定する。さらに、「阻却的身分」者への共犯については、刑法二四四条三項のように、各則において断片的に、その処罰阻却効の非連動性が規定されている。逆に、このような個別化規定のない構成的身分犯では、身分のない共犯も、身分犯の法定刑を基準に処断されるものと解されている。つまり、ここでは、加減的身分や阻却的身分ではその効果は個別的なのに、構成的身分では法定刑が連動するのである。その結果、通説によれば、医師でない者が医師に違法な堕胎を教唆した場合には、業務上堕胎罪(刑法二一四条)の三月以上五年以下の懲役ではなく、非医師に適用される同意堕胎罪(刑法二一三条)の二年以下の懲役で処断されるのに、公務員に有印虚偽公文書作成を教唆した非公務員は、公務員と同じく、刑法一五六条により一年以上一〇年以下の懲役で処断されることになる。つまり、身分がなくても犯罪となる行為への関与の方が、身分がなければ犯罪とならない行為への関与よりも軽く処罰される、あるいは逆に見れば、非身分者を軽く処罰する規定がないために、構成的身分犯に関与した非身分者はより重く処罰されることになるのである。
  そうなると、今は、虚偽私文書作成は医師が公務所に提出すべき診断書等に限られているが、仮に、すべての私文書についてその虚偽作成を一六〇条で処罰する旨の法改正がなされれば、虚偽公文書作成を教唆した私人は、現在の一年以上一〇年以下の懲役ではなく、三年以下の禁錮または三〇万円以下の罰金で処断されることになろう。あるいは、今でも、私人が国立病院の医師に虚偽の検案書の作成を依頼すれば一年以上一〇年以下の懲役なのに、私立病院の医師が国立病院の医師に虚偽の検案書の作成を依頼した場合には三年以下の禁錮または三〇万円以下の罰金にすぎないことになる。これは、矛盾でなくて何であろうか。
    そこで、このような矛盾を解決するために、一部では、身分を行為の違法性に関する身分(「違法身分」)と行為者の責任に関する身分(「責任身分」)とに分け、前者については、加減的身分であっても、正犯の法定刑が身分のない共犯にも連動し、後者については、構成的身分であっても、連動を否定するという見解が主張されている(2)。そこでは、通説たる制限従属形式の背後にあるとされる「違法は連帯し責任は個別化する」というテーゼを根拠として、違法身分は身分のない共犯に百パーセント連帯するとされるのである。その結果、たとえば、従来六五条二項の適用対象と考えられてきた、特別公務員暴行陵虐罪(刑法一九五条)への私人の関与のケースは、暴行罪等の刑で処断するのでなく、六五条一項を適用して一九五条の法定刑で処断すべきであるとされる。
  しかし、この見解に対しては、「違法身分」と「責任身分」の区別が流動的であり、従来の構成的身分、加減的身分という区別によって六五条一項と二項の適用を決める方が安定的だとする批判があるほか(3)、従来二項の適用領域だとされていた加重的身分のかなりの部分が違法身分として一項の適用を受けることになり、身分のない共犯の処断刑を引き上げる結果になるとする危惧も表明されている(4)。理論的には、とくに、加減的違法身分の個別化作用を認める見解もあることを考慮すれば(5)、違法身分は一律に百パーセント連帯作用をもつと見てよいかどうかが問題となる。
    この問題の焦点は、現在通説とされている制限従属形式から、「違法の完全な連帯」が帰結されるかというところにある。というのも、右の見解は、これを前提に、従属性緩和の妥当性の論証によって違法身分の連帯性を証明しようとするからである(6)。しかし、すでに見たように、極端従属形式から制限従属形式への変遷は、単に共犯成立の必要条件の緩和を意味するだけであるから、この論証は前提を欠く。極端従属形式において正犯の有責性が共犯に連帯するわけではないように、制限従属形式においても、正犯の違法が共犯に論理必然的に連帯ないし連動するわけではない。これは、制限従属形式でも、たとえば、嘱託殺人の被殺者は二〇二条の教唆犯となるわけではないことなどから、明らかであろう。確認されたのは、せいぜい、正犯行為の違法性が共犯成立の必要条件であることと、逆に、正犯の有責性は共犯成立の必要条件でないということまでである。その意味で、正犯行為の違法性は、そのままでは、共犯に連帯するものではない(7)
    この意味では、これまで一般には当然の規定と見られてきた(8)六五条一項の根拠と妥当性そのものが、むしろ検討の余地のあるものなのである。事実、旧刑法になかったこの規定の立法理由は、公務員犯罪への非公務員共犯の可罰性の確認にあった。さらに言えば、原案にあった「共に犯したる」という文言を「加功したる」に代えるという貴族院での修正は、非身分者の共同正犯を否定する趣旨であったと見られる(9)。そして、非身分者による共犯の可能性を説明するものは、少なくともドイツでは、従属形式緩和の理論ではなくて、共犯の処罰根拠論であった。つまり、身分の連帯作用は、制限従属形式とは別に、論証されなければならないのである。そしてそれが、六五条二項の解釈・適用の指針ともなるように思われる。
  この点では、ドイツの現行刑法が、構成的身分犯の場合の非身分者の共同正犯を否定し、かつ非身分者による教唆・幇助に必要的減軽を定めたことや(ドイツ刑法二八条一項)、ドイツの通説が加減的違法身分への二項の適用を認めること、わが改正刑法草案三一条一項が、佐伯博士の年来の主張に沿って(10)、非身分者に任意的減軽を定めたことが、もっと注目されてよい。つまり、現行ドイツ刑法でもわが改正刑法草案でも、違法身分は「部分的にしか連帯しない」とされているのである。まさに、「違法身分であってもなおその一身性の故に無条件で全面的な連帯ではなく、違法性の低さを考慮した刑の減軽余地が留保され」ていたといえよう(11)
  この意味で、この一世紀のドイツおよびわが国の刑法学の歩みは、違法身分を含むすべての身分犯について、身分の個別化作用を認める方向にあったと見るべきであろう。そしてまた、このような個別化作用を認めない現行刑法六五条一項では、たとえば賄賂を提供してその収受を求めた場合には贈賄罪として三年以下の懲役にしかならないのに(一九八条)、単純に賄賂の収受を教唆した場合には、単純収賄罪で五年以下、受託収賄罪で七年以下の懲役になってしまう(一九七条一項)。つまり、賄賂を提供しないで教唆したほうが刑が重くなるという矛盾が生じているのである。また、情を知って賄賂を取り次いだだけの者が、受託収賄罪の場合には、贈賄者より重い三年六月以下の懲役で処断されることになる。
  ところで、この点、佐伯博士は、身分のない教唆者は贈賄罪の刑で処断されるべきものとしていたし、さらに、公務員と共謀して公正証書の原本に不実の記載をさせた非公務員も、公正証書原本等不実記載罪(刑法一五七条)の刑で処断されるべきものとしていた(12)。このように、矛盾は、可能な限り、身分の個別化作用を拡大する方向で解決されることが望ましい(13)
    違法身分の百パーセントの連帯作用を認める見解によれば、すでに述べたように、従来加減的身分として刑の個別化が認められていた特別公務員暴行陵虐罪への私人の関与などの場合に、これまでよりも従属性(連帯性)が強化されることになる。これは、ある意味では、誇張従属形式への一定の回帰でもある。というのも、必要条件としての「従属性」と連帯作用としての「従属性」とは別次元の問題であって、ケーパーニックの見解に見られるように(14)、制限従属形式を採りつつ違法身分の限りで身分の連動性を認めることは可能だからである。したがって、このような回帰の妥当性の判断には、このように制限従属形式と両立可能であるにもかかわらず、なぜ、ドイツ刑法やわが旧刑法によって、つまり、フランス人ボアソナード自身によって、フランス刑法流の誇張従属形式がしりぞけられたかを探ることで示唆がえられるようにも思われる。
  ところで、近年、薬物犯罪における「営利の目的」や事後強盗罪への関与などにおいて、目的のない者や窃盗犯人でない者の行為を軽く処罰する規定があるにも関わらず、これらの「非身分者」を身分者と同じ法定刑で処断しようとする傾向が、一部の判例(15)や学説(16)に見られる。これもまた、誇張従属形式への一定の回帰である。したがって、誇張従属形式の問題点の解明は、現在のこれらの傾向の持つ問題性をも明らかにすることになろう。この意味で、誇張従属形式放棄の歴史の研究は、現在の解釈にとって、意外に重要なように思われる。
    いずれにせよ、「違法身分の連帯性」は、従属形式からではなく、共犯の処罰根拠から出てくることは、確認しておく必要があろう。そしてまた、構成的身分の連帯作用が結果の共同惹起だけで説明できないことは、賄賂であることを偽って公務員に金銭を渡した場合、通常の結果犯なら「故意なき者を利用した間接正犯」が成立するはずなのに、収賄罪の故意ばかりでなく、そもそも収賄行為の成立自体が否定されることからも明らかであろう。というのも、公務員がその金銭を賄賂だと認識しない以上、その金銭を「職務の対価」つまり賄賂と特徴づける当事者間の「取り決め」が成り立たないからである。このような「取り決め」なしに金銭が自動的に「賄賂」という性格をもつはずはない。
  したがって、ドイツで純粋惹起説を唱えたリューダーセンも、このような場合に外形的な結果の惹起だけで身分のない共犯の可罰性を説明することはせず、身分犯の構成要件の中に、たとえば「身分者に収賄行為をさせた者は・・・」といった趣旨の共犯構成要件も含まれていると読み込むことで、その可罰性を根拠づけた(17)。また、修正惹起説ないし従属性志向惹起説と呼ばれるドイツの通説的見解では、身分なき共犯の違法性は正犯行為の違法性から引き出されている(18)。つまり、これらの惹起説でも、身分なき共犯の可罰性を説明するのは、結果の共同惹起ではなくて、これとは別次元の、正犯の違法行為の誘発ないし違法性の連帯なのである。さらに不法共犯説では、共犯の独自の不法が正犯の不法な行為の惹起に求められることになる(19)。要するに、結果の共同惹起だけでは、身分なき共犯の可罰性は説明できないのである(20)
    最後に、連帯性としての「従属性」の検討から明らかになったことを、再度まとめてみよう。まず、身分犯の共犯問題を規定する刑法六五条は、その一項と二項とにおいて、身分の連帯作用と個別化作用を相互に認めることで、一定の矛盾を生み出していることが、再度確認された。そこで、これを解決するために、構成的・加減的という身分の分類ではなく、違法身分と責任身分の相違によって、一項と二項の適用領域を分けようとする見解が現れた。そして、その論拠は、「違法は連帯、責任は個別」という、通説たる「制限従属形式」の背後にあると見える考え方に求められた。しかし、あらかじめ見たように、制限従属形式は、決して、「違法要素の百パーセントの連帯」を要請するものではなく、正犯の違法は共犯の必要条件だが正犯の責任はそうでないという意味しか持たない。したがって、身分を「違法身分」と「責任身分」とに分けること自体は妥当だとしても、その違法身分は百パーセントの連帯作用を持つわけではなく、ゆえに、違法身分に一項を一律に適用すべき必然性はないことも明らかになった。言い換えれば、加減的違法身分の場合に、共犯の処断刑を正犯の法定刑より軽くすることは、制限従属形式からでも可能だったのである。もっとも、制限従属形式では、正犯の違法は共犯の必要条件であるから、正犯の違法身分は共犯の違法性の上限としては働くことになろう。したがって、たとえば自己堕胎罪(刑法二一二条)にいう「妊娠中の女子」が減軽的違法身分であるなら、これに対する教唆・幇助は、自己堕胎罪の法定刑の限度で処断されることになる(21)。他方、責任身分はまったく個別的に作用するから、共犯の法定刑は、正犯のそれより重くなることもあれば軽くなることもある。
  つぎに、したがって、違法身分の百パーセントの連帯を主張する見解は、実際には、すでに放棄された誇張従属形式への一定限度での回帰に至ることが確認された。しかし、このように身分の連帯作用を強化する方向で六五条一項・二項の矛盾を解決することは、誇張従属形式の持っていた問題点を復活させる恐れがある。したがって、むしろ解釈や立法で、身分の個別性を強化する方向での解決の方が望ましいように思われた。たとえば、従来加減的身分とは考えられてこなかった収賄罪についても、身分なき共犯には六五条二項を適用して贈賄罪の法定刑で処断するという具合にである。あるいは、収賄者以外の関与者は、すべて贈賄罪の法定刑で処断すべきかもしれない(22)
  最後に、「違法身分の連帯性」は、決して共犯による結果の共同惹起の事実から引き出されるのでなく、何らかの形での正犯違法の部分的連帯作用の承認という、「共犯の処罰根拠」で扱われるべき問題であることが確認された。いずれにせよ、構成的身分犯における身分なき共犯の可罰性の説明が、決して自明のことではないことは、明らかになったと思われる。

(1)  このような身分を、さしあたり本稿では、「阻却的身分」と呼ぶことにする。これは、一部では「消極的身分」と呼ばれることもある。しかし、「消極的身分」という言葉は、「公務員でない者」とか「親族でない者」といった、「・・・でない者」という意味でも用いられることがあるので(たとえば、団藤・前掲書四二四頁)、本稿では、混乱を避けるため、この用語は用いないことにした。
(2)  西田『共犯と身分』一七二頁以下、同「『共犯と身分』再論」内藤  謙先生古稀祝賀『刑事法学の現代的状況』(一九九四)一八三頁以下参照。
(3)  たとえば、前田「共犯と身分」芝原邦爾ほか編『刑法理論の現代的展開総論II』(一九九〇)二五四頁、同『刑法総論講義[第二版]』五〇八頁。
(4)  たとえば、中山「刑事法学の動き」法律時報五二巻二号(一九八〇)一四二頁以下。
(5)  佐伯『四訂刑法講義(総論)』三六五頁、平野・前掲書三六六頁など。
(6)  西田『共犯と身分』八三頁以下。
(7)  繰り返しになるが、制限従属形式では、「責任は個別的に」働くが、「違法は連帯的に」働くとは限らない。ちょうど「消極的責任主義」という言葉がそうであったように、せいぜい、上限として機能するだけなのである。これについては、すでに、中博士および林教授が疑問を提起していた。中「違法の連帯性と要素従属性」関西大学法学部百周年記念論文集『法と政治の理論と現実  上巻』(一九八七)三七五頁以下、林  幹人・法学教室五五号(一九八五)一五七頁参照。
(8)  たとえば、団藤・前掲書四一九頁以下、平野・前掲書三六九頁、西田・内藤  謙先生古稀祝賀『刑事法学の現代的状況』一八一頁。
(9)  この修正については、倉富ほか編『増補刑法沿革綜覧』九四四頁以下参照。そこでは、明治三四年改正案七七条の「犯人の身分により構成すべき罪を共に犯したるときは、その身分なき者といえども、なお共犯とす。」(旧仮名遣いは現代風に改めて引用した。)という原案が、貴族院特別委員会の三好退蔵委員の提案によって、現行法六五条一項と同じ、「犯人の身分により構成すべき犯罪に加功したるときは・・・」という文言に修正された。その理由はまさに、身分のない者は構成的身分犯を共に犯すといえるはずがないというところにあったのである。
(10)  佐伯『四訂刑法講義(総論)』三六五頁以下。同「共犯と身分」『共犯理論の源流』一六九頁は、非身分者の「違法性は身分者のする加担と比べて少ない訳であるから、量刑にあたり裁判官が適当な考慮を払うことが要求される。」とする。
(11)  中山・前掲法律時報五二巻二号一四四頁。
(12)  佐伯『共犯理論の源流』一六九頁。
(13)  ただし、後に述べるように、制限従属形式では、違法身分は、共犯の違法性に関して、その上限として作用すべきことになろう。
(14)  Vgl., Ka¨pernick, a. a. O., S. 18.
(15)  覚せい剤取締法において刑を加重する作用をもつ「営利の目的」について、最決昭和五七・六・二八刑集三六ー五ー六八一は、第三者に財産上の利益を得させることを動機・目的とする場合を含むと解した。それも、麻薬輸入罪の「営利の目的」について、他の共犯者の「営利の目的」を認識しながら輸入行為を行った者に六五条二項を適用した最判昭和四二・三・七刑集二一ー二ー四一七があるにもかかわらずである。こ
れは、心情要素にすぎない「目的」にも、事実上、連帯作用を持たせる方向での解釈である。しかし、通貨偽造罪の「行使の目的」のような主観的違法要素と異なり、違法性に直接の影響を与えない心情要素に連帯作用を認めることは疑問である。さらに、事後強盗罪に関与した窃盗犯人でない者に六五条一項を適用すべきか二項を適用すべきかについては、下級審に争いが見られるが、ここでも、一項の適用を認めるのは誇張従属形式への一定の回帰と見られるであろう。一項の適用例としては大阪高判昭和六二・七・一七判時一二五三ー一四一が、二項の適用例としては東京地判昭和六〇・三・一九判時一一七二ー一五五がある。
(16)  西田・内藤  謙先生古稀祝賀『刑事法学の現代的状況』一八八頁以下、一九七頁、前田『刑法総論講義[第二版]』五〇六頁。もっとも、後者は、事後強盗罪について、違法身分の連帯性を根拠とするのではなく、事後強盗罪が「窃盗犯人であって初めて犯せる構成的身分犯だ」という理解を根拠とするものである。しかし、構成要件から見て「身分があって初めて犯せる犯罪」かどうかを基準にするなら、従来の加減的身分犯もまた、すべて「構成的身分犯」になってしまうであろう。そうではなくて、構成的身分か加減的身分かの区別は、身分のない者に対しても、その行為を処罰する規定があるか否かに求められるべきなのである。
(17)  K. Lu¨derssen, Zum Strafgrund der Teilnahme, 1967, S. 29, 161ff.
(18)  Vgl., C. Roxin, LK 11. Aufl., 1993, Vor §26/17f. 斉藤誠二「共犯の処罰根拠」下村康成先生古稀祝賀『刑事法学の新動向  上巻』(一九九五)一八頁以下参照。その限りで、これは「違法性借用説」である。もっとも、筆者は、この「借用」に否定的な評価を下すつもりはない。
(19)  Vgl., Welzel, Das Deutsche Strafrecht, 11. Aufl. 1969, S. 112f., 115., Jakobs, a. a. O., 22/6ff.
(20)  しかも、身分なき共犯の可罰性は、正犯とは異なる共犯の独自の処罰根拠によってやっと説明できるのであって、正犯の一種である共同正犯について、非身分者の可罰性を根拠づけることは、理論的にはほとんど不可能であろう。
(21)  現に、大判昭和一〇・二・七刑集一四ー七六、同昭和一五・一〇・一四刑集一九ー六八五は、「妊娠中の女子」でない者に、自己堕胎罪の従犯を認めている。
(22)  現に、一九九〇年のドイツ連邦裁判所判決は、この方向を示唆している(BGHSt 37, 207. Vgl., K. Lackner, StGB 21. Aufl. 1995, Rn. 19 zu §331.)。


五  むすびにかえて
    以上、共犯の従属性という問題を、「従属性」という言葉の持つ二つの意味、すなわち((1))共犯成立のために正犯に備わるべき必要条件という意味と、((2))正犯要素の共犯への連帯ないし連動作用という意味に分けて、いくつかの問題を分析した。そこでは、まず、M・E・マイヤーの提唱した四つの要素従属形式が、決して単一の観点で分類されたものではなく、むしろ誇張従属形式と他の従属形式とは次元の異なるものであって両立可能なものであることが確認された。つぎに、極端従属形式から制限従属形式への従属性の緩和は、必ずしも論理的に「間接正犯」の縮小をもたらすものではなく、むしろ、共犯と間接正犯の間の「処罰の間隙」を、共犯の拡張によって埋めるものであることが確認された。そして、その過程で、制限従属形式は、正犯が違法でも共犯が処罰されないケースを承認するものであること、わが国の通説は、故意への従属性を実際には否定していることが確認された。最後に、制限従属形式は、必ずしも違法身分の完全な連帯作用を要請するものではなく、むしろ連帯作用は部分的なものと見た方がよいことが確認された。また、その過程で、身分の個別化作用を高める方向での解決の試みも示された。
    もちろん、部分的にせよ、身分の連帯作用の根拠は、さらに検討の余地のあるものである。また、それ以外にも、残された課題は数多い。ただ、筆者としては、このような形での議論の整理もまた、共犯をめぐる議論を前進させるために、なにがしかの意味を持つのではないかと考えるのである。