立命館法学  一九九六年一号(二四五号)
アメリカ孤立主義の転換と一九三九年中立法(安藤)
アメリカ孤立主義の転換と一九三九年中立法
安    藤    次    男
    目    次
は じ め に
一章  一九三九年における中立法をめぐる論争
二章  第二次大戦と中立法改正論争
三章  第二次大戦の勃発と孤立主義の論理
お わ り に

は  じ  め  に
  建国以来のアメリカ外交を特色づけてきた孤立主義は、パールハーバーをもって事実上終わった。一九四七年のバンデンバーグ決議と一九四九年のNATO結成がその終結を宣言するものとなった。
  第二次大戦後の世界がパクスアメリカーナの世界として理解されるようになってからの五〇年間は、アメリカの世界的な関与とその指導力を基礎とする国際システムによって各国の外交行動は制約を受けてきた。それを保証し助長したのが冷戦体制というイデオロギー政治であった。一九九〇年代のポスト冷戦時代に入ると、アメリカは「唯一の超大国」として世界政治における主導権を強めてきている。
  ところが、孤立主義外交が完全に過去のものとなった一九九〇年代に入って、アメリカの学界においてはふたたび孤立主義研究への関心が高まってきている。共和党の大統領候補の座を争っているP・ブキャナンは、政治的にも経済的にも孤立主義者と見られているが、孤立主義研究の復活はそのような現実政治の影響だけではない。ポスト冷戦時代にアメリカは世界政治の主導権を独占的に握ることを目指してきたが、民族紛争の多発、先進諸国間の軋轢の増大、さらには環境・人権・貧困問題などの不安定要因が増して新しい世界秩序が見えてきていない状況の中でアメリカ外交の理念そのものが問われている、そのような背景のもとで孤立主義研究への関心が生まれてきたといえよう。アメリカにおける最近の孤立主義研究の業績は、問題関心も多様で必ずしも共通の課題が意識されているわけではないが、本稿の課題を設定する前にその傾向を明らかにしておきたい。
  きわめて現代的な問題意識から、現代世界の状況をふまえてアメリカ孤立主義の復活に警鐘を鳴らしたのがアーサー・シュレジンガー・ジュニアの雑誌論文、「原点に帰るのか−孤立主義のあらたな脅威」である(1)。彼は、次のように説く。ウィルソンは、バランスオブパワーの維持というアメリカの国益の観点から第一次大戦に参加したが、彼はそれを相互依存という新たなビジョンで補強しようとした。しかし国際連盟加盟が上院で否決されて孤立主義が復活し、大恐慌がそれを強めると、F・ルーズヴェルト大統領も議会を抑えることができずに中立法を制定した。一九三九年のヨーロッパでの戦争の勃発とパールハーバーにもかかわらず、国際主義は孤立主義を一掃できなかった。ルーズヴェルトが孤立主義復活の防止のためにもっとも重視した国際連合の創設およびその後の冷戦の発生によって、アメリカ孤立主義の時代は終わったと思われたが、それは幻想のようだ。冷戦時代のアメリカの国際主義は、アメリカの安全が脅かされていると思われたからで、その意味ではスターリンのおかげで四〇年以上も孤立主義を封じ込めることができたといえる。ソ連の脅威がなくなった今、国際協力へのインセンティブが消えて孤立主義の問題がユニラテラリズム(アメリカ単独主義)という形をとって再浮上しようとしている。ここには、レーガン、ブッシュ政権下での国内問題の深刻化、国連への信頼の低下、国民を十字軍にかりたててきた頑固な国際主義者への不満、そして集団安保の財政的負担などが影響している。ブキャナンだけでなくギングリッチもドールも世界の平和システムとしての集団安全保障体制に否定的で、国民感情のレベルでも、同盟国の防衛への支持が一九九〇年の六一%から四一%に低下している。
  シュレジンガーはこのように、「自国に具体的な脅威がふりかかっていないときに世界秩序のために死ぬことは難しい」といいつつ、「アメリカがやらなかったら、他の小さな、弱い、貧しい国が世界秩序を保証してくれるはずがない」として、「言葉やカネだけでなく、血を流してでもその役割を果たすのでなければ世界秩序を重視したことにはならないのだ」と結んでいる。戦後五〇年間のパクスアメリカーナの世界秩序の全面的な肯定の上に、クリントン民主党政権を支持する立場から孤立主義保守派を批判した本論分は、建国以来のとくに二〇世紀のアメリカ外交の理念の変化を大きな視野でとらえたものであるが、国内政策と対外政策との関連には論文の性格上触れておらず、また、あまりに軍事力に偏した印象をまぬがれない。
  アメリカ外交における孤立主義から国際主義への転換を、二〇世紀初頭から一九五〇年代までの長い期間をとって明らかにしようとしたのが、ロナルド・E・ポワスキーである(2)。彼は、アメリカはなぜ歴史の大部分でヨーロッパに対する孤立主義政策を追求したのか、また、それをなぜ二〇世紀に放棄したのか、という問題意識に立って歴史過程を分析した。彼は、「孤立主義とは、ヨーロッパの政治軍事問題(経済ではない)に巻きこまれることを避ける試み」であり、「もっと厳格にいうと、アメリカが西半球の限界を超えて軍事的コミットをしたり海外の強国と軍事同盟を結ぶことを拒否すること」と一般に理解されてきたと述べた上で、一九世紀から二〇世紀にかけては、アメリカが望む目標を追求するために他の国々と協調して行動することを回避することをも含むようになったとして、最初の国際主義者としてセオドア・ルーズヴェルトをあげている。この国際主義路線がパールハーバーで定着し、NATO結成で孤立主義が最終的に放棄されたとする。
  このようなポワスキーの歴史解釈は一般的に受け入れられている説である。F・ルーズヴェルトの国際主義が大統領就任以前からの一貫したものでありながら世論に配慮するパワーポリティクスに優れた政治家であったがゆえに中立政策に追随したこと、また第二次大戦後の冷戦政策の起源に関してソ連の脅威を過大に評価した問題を指摘するなど、興味深い視点はあるが、独創性には乏しい。
  ジョン・N・ペトリーの孤立主義研究は、海軍軍人の教育のための国際法の観点からのものであり(3)、アメリカの対外政策の変容を捉えようとする本稿の問題意識とは視点が異なる。ニコラス・J・カルは、アメリカの中立政策を変えさせようとしたイギリス政府の対米宣伝工作の実態を分析した。米英関係を検討するために有効な実証研究だが、政治史というよりは社会史の性格が強い(4)。エリック・A・ノートリンガーは、ポスト冷戦時代におけるアメリカ外交の転換をこれまでの「戦略的国際主義」に代えて軍事予算削減を含む「国家安全保障戦略」によって行なうことを提言している(5)。ジャスタス・D・ドウネッケは、一九四〇年代初頭に孤立主義者の大同団結組織として結成されたアメリカ第一委員会の資料を編纂し、それに基づいて反介入主義者の運動の特質を分析したが、アメリカ第一委員会の政治的性格については、従来の諸研究とは異なって、その政治的中道主義と非人種論的傾向を強調している(6)
  第二次大戦に至るまでのアメリカ孤立主義については、これまで多くの実証研究がおこなわれてきたが、それらは一般に第二次大戦の勃発、ドイツのイギリス空襲あるいはパールハーバーを契機にして孤立主義が敗退していく過程を、アメリカの安全の確保という観点から必然的なものとして描く傾向が強かった。しかし、戦後のパクスアメリカーナの成立との関連に注目するなら、そこに何らかの形でアメリカの政策的な意思または意図が働いたと考えるのが自然であろう。本論文は、一九三九年中立法の制定過程と第二次大戦勃発後の孤立主義の論理を分析することによって、孤立主義から介入主義への転換のなかにアメリカ孤立主義の特質とアメリカ外交の論理を明らかにしようとするものである。

一章  一九三九年における中立法をめぐる論争
  イタリアのエチオピア侵略とドイツによるオーストリア合併に対応して、アメリカは一九三七年中立法(五月一日)によって中立政策の強化をはかった。しかし、その後のドイツによるチェコのズデーテン地方の合併(ミュンヘン協定)そして日本による中国侵略の拡大はアメリカの中立政策そのものの存在基盤をゆるがすこととなった。ここからあらためて、中立法の強化によるアメリカの安全か、それとも中立法の緩和による民主主義諸国への援助を通じるアメリカの安全かという論争が再燃した。
  一九三九年一月四日の年頭教書でルーズヴェルトは、「戦争を防ぐにはいろいろな方法があるが、わが国の国民の総意を侵略国の諸政府に分からせるためには単なる言葉ではないもっと強力で効果的な方法もあるのである。われわれは少なくとも、なんらかの行動によってあるいはなんらかの行動をとらないことによって侵略者を元気づけ助け支えるようなことはできないしまたすべきではない。われわれが慎重に考えて中立法を制定したときには、中立法が公平に機能しない−侵略者を助けその犠牲者への援助をしない−かもしれないということを知っていた。自己保存の本能にしたがって、われわれは今後はそのようなことを許してはならないのである」と、中立法の改正を訴えた(7)
  ルーズヴェルトとハル国務長官は「できることなら中立法の完全廃止かそれでなければ侵略国に対してのみ武器禁輸を適用できる裁量権を望んでいた」が、上院外交委員長のピットマンは、「望みうる最良のものは武器禁輸の廃止と軍需品を含むアメリカから交戦国へのすべての商品にキャッシュアンドキャリー(現金自国船主義)を適用することだと信じていた(8)」ので、政府もその線で進める方針を固めた。一月二三日には、カリフォルニアで軍用機が墜落したが、死者の中にフランスの軍人がいたために、ルーズヴェルト政府が中立法にも関わらず対外的な軍事援助を事実上行なっているのではないかとの疑惑がもたれた。トーマス上院議員が、アメリカが調印国である条約に違反した国に対してのみ禁輸を適用する権限を大統領に与える法案を提案し、ナイ上院議員が平時と戦時とを問わず西半球以外のすべての国に対する武器輸出を完全に禁止する法案を提出していた状況のもとでは、政府の方針が受け入れられる条件は限られていた。五月初めにピットマン委員長がピットマン法案を通す見通しがないと伝えたために、政府は「上院でなく下院に期待することとした(9)。」
  この間、駐仏アメリカ大使のビュリットは、五月一〇日に、駐仏イギリス大使の言葉として次の内容の電報をハルに送っていた。「イギリス政府の知るところでは、リッベントロップ(ドイツ外相)は、英仏がアメリカから軍事物資を入手できないだろうことは確かだから、ドイツが英仏に戦争をしかけても報復はないだろうということをヒトラーにわからせようとしてきた。リッベントロップは、最近の中立法をめぐる論争は、戦争になった場合でもアメリカは英仏に軍事物資や航空機を売らないだろうという証明だと見ている(10)。」
  五月二七日にハル国務長官は、ピットマン上院外交委員長とブルーム下院外交委員会委員長代理に「できるかぎりわが国が戦争に巻きこまれることがないようにするために」中立法の改正案を提示した。それは主要に次の六点であった。(1)アメリカの船舶の戦闘地帯への立ち入り禁止。(2)アメリカ国民の戦闘地帯への旅行の制限。(3)アメリカから交戦国への輸出品はあらかじめ名義を購入者に変更しなければならない。(4)交戦国へのローンに関しては現行法を維持。(5)わが国の国内における交戦国への募金を規制する。(6)武器、軍需品および戦争基礎資源に関する国家軍需品統制委員会と資格認定制度は維持する。この中でもっとも重要な変更は第三点目で、いわゆる「キャッシュアンドキャリー」の原則を三七年法の規定する戦争基礎資源だけでなく武器全般に広げて適用し交戦国への軍事輸出を可能にしようとするものであった。三七年法は、二年間の時限立法であったために、五月一日にキャッシュアンドキャリーの適用は失効していた。政府は膠着状態の上院でなく下院に目をつけて、六月一三日に政府案(ブルーム法案)を外交委員会で一二対八で通した。一二人は民主党議員、八人は共和党議員と党派によってはっきり投票が分かれ、少数派の共和党員は「ヨーロッパにおける勢力均衡を維持するためにわが国の力を使おうとする大統領の政策に反対である」という声明を発表した(11)。六月三〇日の下院本会議では、戦争資材の禁輸は廃止するが武器軍需品については禁輸を継続する修正案が出され、民主党議員の多くが議場を出ている間に採決され、一五九対一五七で可決されてしまった。最終的な表決は、二一四対一七三となった。ルーズヴェルトはコナリー上院議員にあてた手紙で、「下院の票決でヒトラーに決定的な動機が与えられてしまった。ヒトラーとムソリーニがさらなる領土拡大をもとめるがゆえにヨーロッパで戦争が生じたら、責任の大半は昨夜の議会の行動にあるのだ」と非難した(12)。ルーズヴェルトの目から見ると、「孤立主義は、ヒトラーの征服欲はヨーロッパを支配してしまえば満足させられるだろうというオーストリア流のアパシーを示していた」のである(13)。ハルも、「議会の票決がヒトラーの計画に影響を与えるだろうことが私にはわかっていた」と回顧している(14)
  七月一一日に開かれた上院外交委員会では、コナリー議員がブルーム案支持を表明したが誰も賛成せず、一九四〇年一月まで審議を延期するというクラーク案が一二対一一で可決され、政府の方針は挫折した。
  七月一四日にルーズヴェルトが「上院外交委員会は一二対一一で平和と中立に関する法案の審議を次の会期まで延期したと聞いている。−平和およびアメリカの中立と安全のためには議会が今会期中に必要な行動をとることが必要である」との意見をつけて議会に送ったハルのペーパーは、議会との膠着状態を次のように説明している。「双方は、次の四点では一致した。アメリカはなによりもまず自国の平和と安全に関心がある。政府の政策は他国の戦争に引きこまれないようにすることにある。わが国は常に紛糾同盟(entangling alliances)や他国への関与を避けなければならない。外国で戦争が生じた場合には、厳格な中立の地位を守り、戦争に引きこまれないような政策をとらなければならない。」焦点は、武器禁輸解除にあった(15)。ハル文書は、武器禁輸がアメリカを戦争の圏外におく最良の方法だとする反対論を批判して、「それは論理的整合性に欠ける。武器、軍需品、戦争資材の貿易は現在禁止されているが、軍需品を作るに必要な物資と同様に重要な資材は輸出されているではないか。たとえば、戦時にはわれわれは爆弾は輸出できないがその製造に必要な綿は輸出できる。大砲や弾は輸出できないが、それに必要な鉄鋼や銅は輸出できる。航空機は輸出できないが、その飛行に必要な燃料は交戦国に輸出できるのである。有効な封鎖が行なわれたときあるいは交戦国がそのような商品を禁制品と指定したときを除いては、武器の継続的な貿易は戦時において中立国に認められた伝統的な権利なのであるから、反対論は妄想である。」ハルはさらに、「ルーズヴェルト政権を含む中立法改正派は、最初に同法が制定されたときから、それは中立国が交戦国と貿易する権利および交戦国が中立国と貿易する権利を認めている国際法の原則から運まかせで逸脱するものだという事実に注意を喚起してきた。中立とは公平(どちらにも味方しないという意味で)を意味すると考えたのである」と、国際法適合性を主張した。ただし、後段では、「事実として、最近わが国が輸出した武器軍需品の大部分は平和志向の諸政府に向けられてきた」と指摘して、武器禁輸廃止が民主主義国への援助という目標をもっていることを明らかにした(16)。これは、中立法改正論議の中で政府の要人が事実上英仏に対する援助強化のための中立法改正という意図を初めてほのめかしたものとなった。政府とルーズヴェルトは、それまで一貫して、戦争の回避と国際法適合性を確保するための改正であると国民には説明してきたのであるが、ルーズヴェルトはハルに対して禁輸廃止の必要性を強調した際に、「廃止すればヨーロッパでの戦争を防止できる。防止できないまでも、それはアメリカに非交友的な国が勝利する可能性を減らすことができる」と説明していたのである(17)
  ハルとルーズヴェルトの路線はほぼ一致していたとする見解もある。ハル自身も、のちの第二次大戦開始直後の大統領声明に関して、「私は思想的には中立ではない。なぜなら絶対的に連合国支持だからだ」と記している(18)。しかし、中立法をめぐる経過からは微妙な相違を読み取らなければならないだろう。すでに一九三九年七月一三日に、ルーズヴェルトはハルが大統領と異なる意見を持っているという新聞報道に反論する声明を出しているが(19)、第二次大戦の過程全般にわたる経過はともかくとして、少なくとも、禁輸廃止の理由として、ルーズヴェルトが英仏に対する援助強化を重視していたのに対してハルの場合には、国内経済に対する影響を重視していたと見られること、また、一九四〇年になるとアメリカは英仏への援助を強めて事実上、非交戦国と自らをみなすようになるが、ハルは「国際法は中立国と交戦国の中間の国を認めていない(20)」と主張したことに見られるように交戦国としての立場への接近に消極的だったと考えられる。

二章  第二次大戦と中立法改正
  危うい平和は、一九三九年八月二三日の独ソ不可侵条約の締結に続く九月一日のドイツ軍のポーランド侵攻と九月三日の英米の対独宣戦で破られた。ルーズヴェルトは九月五日、中立法の規定にしたがって、次のように戦争状態が存在することを宣言した。「不幸にしてドイツとフランス、ポーランドおよびイギリス、インド、オーストラリア、ニュージーランドの間に戦争状態が存在することを宣言し、それによって合衆国またはその属領のすべての国民、および居住するかもしくは合衆国またはその属領の領土もしくは裁判管轄権のもとにあるすべての人々が、議会合同決議に含まれている条項、すなわち、武器、軍需品、または戦争資材を合衆国またはその属領からフランス、ドイツ、ポーランド、またはイギリス、インド、オーストラリア、ニュージーランドに対して輸出する場合、またはそれらの国々に運搬する場合、もしくはそれらの国々に運搬したりそれらの国々の利用に供する場合に適用される条項に、いっさい違反しないよう勧告する。」その上で、禁輸対象国と禁輸指定品目を明らかにした(21)。三七年法(合同決議)の第一項では、諸外国間に戦争が勃発したことを認識した場合には「大統領は戦争状態の存在を宣言しなればならない」とされていた。
  この中立宣言は、数週間前から国務省内で草案が検討されていたにも関わらず、発表は五日になった。ハルは、「イギリスの宣戦がコモンウエルス諸国を含むものであるか否かを確かめる必要があるので宣言は翌日の四日になるだろう」と記しているだけで、それが五日になった理由を述べていないが、他方で、「英仏はアメリカに大量の武器を発注しており、その船送が中立宣言でどの程度影響を受けるのかが気になったが、あまり影響はないだろうとの報告を受けた」という状況を記しており、ルーズヴェルト政権として英仏への武器運搬の条件を確保するために意図的に遅らせたと見ることができる(22)。内務長官のハロルド・イッキーズは、「大統領は中立法のもとめる宣言を急いでしようとはしなかった。彼は英仏が宣言が出されるとアメリカから輸入できなくなる軍需品を輸入できるチャンスを与えたいと思っていたのだ」と記して、それがルーズヴェルトの意思に基づいていたと指摘している(23)。すでに三日には、アメリカの定期船アセニア号が魚雷で沈められ、ドイツ政府は「それはアメリカの対独敵意をかきたてるためにイギリスがやったことだ」と説明したが、のちのニュルンベルグ裁判ではドイツ潜水艦による偶発的な攻撃だったことが証言されている(24)
  ルーズヴェルトは、九月一三日、中立法改正のための特別議会を二一日に開会することを要請した。前日の二〇日に、ルーズヴェルトは一五名の両党指導者と会談した。彼は、議会指導者が禁輸廃止とバランスをとるためにキャッシュアンドキャリーと交戦国への信用供与禁止を付け加える必要があると主張したのに対して、妥協しなければならないと考えた。彼はキャッシュアンドキャリーのうちとくにキャリー(アメリカ船に武器などを運搬させない)に関心をもっていた。「当時、アメリカの船舶が英仏向けにあらゆる禁輸品を積んでドイツの封鎖を超えて運んでいたが、それでも事件が起こらなかったのは多分に、ヒトラーがアメリカと対立したくないと思っていたからだ(25)。」彼は、国際法にもとづく中立という穏健な表現をしたが、「孤立主義をドイツや共産主義者に結び付けるという、結合による罪、という手法を使った」とされる(26)。九月二一日の議会で、ルーズヴェルトは、議会が三七年法を制定し自分がそれに署名したことに遺憾の意を表して、「私は今年の七月一四日に議会に対して、平和を守りアメリカの真の中立と安全という利益を守るために三七年法を改正するよう求めた。いま再び、古くからの国際安全という利益を守るために三七年法の条項すなわち禁輸条項について議会が改正の行動を起こすことを要請する。なぜならそれらの条項は、アメリカの中立、アメリカの安全、とくにアメリカの平和に重大な危機をもたらしているからである」として、「禁輸の廃止と国際法への回帰」を訴えた。さらに、「われわれのほとんどが目的について一致しているからには、唯一の問題はそれを実現する方法になる」として、具体的に、アメリカの商船が戦争地帯に立ち入ることを制限する、アメリカ市民が交戦国の船で旅行することまたは危険な地域を旅行することを抑制する、交戦国が購入した商品についてはアメリカ国内で名義を変更することを必要とする、交戦国への信用供与を制限する、の四点を改正点として強調した。後半の二点がキャッシュアンドキャリーの原則の適用である(27)。ここでは、「孤立主義がまだ力をもっているアメリカでは、中立法制定に関連して民主主義諸国への援助を問題とするのは禺の骨頂である」から、禁輸解除が英仏を利することには触れられなかった(28)
  ルーズヴェルトは、現行法が誤って中立法と呼ばれているが、それが常にわれわれを攻撃国の側におしやるものだと考えていた(29)。政府の後押しで作られた中立法改正推進団体である「中立法改正による平和のための非党派委員会」の指導者である共和党系ジャーナリストのウィリアム・アレン・ホワイトは一〇月一五日に、独裁国に反対し民主主義を守ろうと国民に呼びかけた(30)。政府の法改正の狙いが単なる通商の回復ではなく英仏を始めとする民主主義国の陣営への接近であることの表明であった。
  上院外交委員長のピットマンは、禁輸廃止とキャッシュアンドキャリーの原則の復活を盛り込んだ法案を九月二五日に提案し、法案は公聴会もなしに九月二九日に一六体七で可決され、一〇月二日に上院本会議に上程された。
  従来の孤立主義者の中から政府案支持に回るものが増えた。共和党のロバート・タフトは、禁輸廃止とキャッシュアンドキャリーの再立法化は中立に反しない、禁輸は諸国間で公平には機能しない、禁輸を廃止しても戦争にまきこまれる機会が増えるわけではない、という根拠で賛成にまわった。同じく共和党の有力者であったジョージ・ノリスは、禁輸を廃止すれば英仏を援助することになり、廃止しなければヒトラーとその同盟国を助けることになり、結局、全体的な中立は不可能である、という主張で法案に賛成した(31)
  上院は、六三対三〇、下院は二四三対一八一で通過し、両院協議会報告は、上院で五五対二四、下院で二四三対一七二で可決され、一一月四日にルーズヴェルトが署名して三九年中立法が発効した。

三章  第二次大戦の勃発と孤立主義の論理
  第二次大戦が現実に勃発してしまったという状況は、アメリカ社会および議会内の孤立主義的な傾向を大きく変えた。三七年中立法の路線ではアメリカを戦争の局外におくことはもはや不可能と思われたのである。
  しかし、議会における投票結果に見られるように、三七年法を堅持するべきだという見解は少数派になったとはいえ根づよく残っていた。ヨーロッパにおける戦争の勃発という新たな要因を組み込んだ上でなお従来の孤立主義路線を維持していこうとする見解はどのような論理によって支えられていたのであろうか。孤立主義は中西部および西部の諸州で大きな影響力をもっていた(32)
  上院の特別委員会委員長として第一次大戦へのアメリカの参戦原因を調査して、ドイツによるアメリカ船舶に対する攻撃によってアメリカはやむなく参戦したという公式の説明とは異なって、経済利益を求める財界などが意図的にアメリカを戦争に引き込んだことを明らかにし、三〇年代に孤立主義が台頭する重要な原因をつくったジェラルド・P・ナイ上院議員(ノースダコタ)は、独ソ不可侵条約が締結されてヨーロッパでの戦争が不可避となった翌日、次のようなラジオ演説を行なった(ナイ以下の八人の引用文は抄訳である)。
「ホ.18モ」  ルーズヴェルト政権は、チョートーカ演説以降、厳格な「戦争の局外に立つ」政策から逸脱し始めたが、それは国内政策の失敗を自覚したときであった。戦争景気をおこせば政府の体面を救えると考えたのである。そもそもアメリカが第一次大戦に参加した当時の大統領や大使たちの言っていたことを思い返してみよ。そこにはヨーロッパ民主主義の擁護などというものは何も見い出せない。参戦が決定されたあとに民主主義が叫ばれたにすぎない。そこにあったのは、ヨーロッパの戦争から得られるアメリカの通商上の利益、アメリカの銀行家による連合国への融資、大規模な援助を通じて連合国がアメリカの物資を買えるようにしてアメリカの繁栄を確保するための中立政策の変更、である。ページ大使はウイルソン大統領に、わが国が参戦するのは貿易上の利益を守り恐慌を避けるためであると書き送っていて、民主主義擁護にはふれていない。だから戦争を避けるには中立法が必要なのだ。ヨーロッパの目標あるいは戦争はアメリカとは関係のないものだ。現在のヨーロッパの紛争も民主主義とは関係がなく、ただ、パワーポリティックスの主張にすぎないのである(33)
  ナイは、一〇月一日のフォーラムでは、次のように中立法改定反対の理由を述べた。武器禁輸廃止によってわが国をヨーロッパの戦争の一方の陣営の兵器庫にすれば他方の陣営の攻撃の的にされる。有力な政治家が、アメリカを戦争の局外に置きたいなら禁輸廃止が不可欠だと主張しているが、英仏がわれわれにそのような理由で禁輸を廃止して欲しいと願っていると考える者がいるだろうか。現在のヨーロッパの紛争に民主主義の理想がわずかでも含まれていると考える様なばかげたことはやめよう。そこに含まれている最大の課題は、現在の帝国主義と帝国維持、そしてそれを危うくするような新たな帝国主義と帝国の建設を阻止することである(34)
  同じく中西部のアイダホ出身のウイリアム・E・ボラー上院議員は、禁輸廃止反対の論理を次のように展開した。
「ホ.18モ」  政府が武器を交戦国の一方に供給し他方には供給しなくてよいようにするための中立法廃止が提案されている。この廃止提案は武器供給で一方の側に片いれする計画に基づいて行なわれたのだ。これはヨーロッパの現在の紛争に干渉するものとなることは明らかだ。禁輸廃止は非中立とはならないといわれる。現在の状況のもとではたしかにそうかもしれない。しかしここワシントンでの議論はもはや単なる武器供給の問題ではない。戦争に備えようということが言われているのだ。廃止論者がいうプランは、ヨーロッパの民主主義が危機にあり、われわれはそれを救いに行かなければならない、文明が脅かされそれを無視できない、ということだ。しかし、戦争が続き、民主主義と文明への脅威が増大しているとしたら、かつて手を出したことのあるわれわれは何を言ったらよいのか。その時になって現実に背を向けるのだろうか。アメリカがヨーロッパの紛争に関与するときがきたのだろうか。キャッシュアンドキャリーの計画は、禁輸法を廃止し、わが国の政府が武器軍需品を一方には直接送り他方には送らないことを可能にするものだ。われわれをヨーロッパの戦争に巻込むような行動を避けることが大切である。アメリカでは、ヨーロッパの心情やイデオロギーに反発する感情が大変強い。ヨーロッパの心情やイデオロギーはアメリカ文明の教養や教えとは対立するものだ。二〇年前にわれわれはヨーロッパの戦争に加わるためにヨーロッパに行った。高い希望と十分な理由があった。しかしなんと無益な犠牲を払ったことだろう。中立法に関して言えば、唯一の問題、唯一の意見の相違は、武器を売るのか売らないのかということである(35)
  同じく中西部のオハイオ州を基盤に革新主義共和党員として知られたロバート・M・ラフォレット・ジュニアは、一〇月四日、次のような見解を明らかにした。
「ホ.18モ」  もっとも重要な問題はアメリカの国益である。わが国の援助があろうとなかろうと、英仏が勝てばヨーロッパにおける民主主義が守られるとする根拠をわれわれはもっているのだろうか。アメリカはかつて世界の民主主義を守るために英仏に加担したが、その悲劇的な結果はご存じの通りだ。英仏は戦後の数年間にはドイツ民主化のための努力を妨害した。だから英仏はナチズムのそしてナチズムがもたらしたすべての災厄の生みの親となったのである。イギリスは日本が満州に手を出したときに日本を支持し、それを止めようとしたアメリカに貧乏くじを引かせた。英仏はわれわれがムッソリーニのエチオピア侵略を止めようとしたときにはかたらってエチオピア征服に同意を与えた。それからミュンヘンだ。フランスが保護を約束していた民主的なチェコスロバキアは裏切られてヒトラーの配下に入れられてしまった。現在われわれは英仏が戦争目的だとしている「文明の擁護」という表面の下に何があるかを知らない。英仏はもし勝利したら一九一八年に彼らが書いたよりももっと恐ろしい条約を作るのではないか。アメリカが戦争当事国の一方に加担するだけでは国外での民主主義を守れないことははっきりしている。アメリカが戦争に巻込まれたら国内の民主主義を破壊することになるのも明確である。参戦すればアメリカ自身の民主主義がまっさきに犠牲になり、かつて経験したことのない独裁政治に陥るだろう。西半球は難攻不落である。アメリカが西半球防衛に必要な陸海軍と基地を提供すればいかなる国あるいは国々も攻撃することはできない。われわれはモンロードクトリンを、諸外国が宣伝その他の手段で西半球に進入することを禁止するということを意味するものと解釈している。文明に奉仕するには戦争の局外に立つことが必要である。戦争が終われば、アメリカは世界の救済者そして指導者の地位を手に入れることになるだろう。戦争が勃発したあとで武器禁輸を廃止すれば外国からはアメリカが戦争の一方の当事国に加担したとみなされることは間違いない。アメリカが戦争の局外に立とうとするなら、キャッシュアンドキャリーの原則をすべての商品に拡大しかつ武器禁輸を継続することだ。武器禁輸を廃止することは、非中立であり、わが国の軍需産業のとてつもない膨張をもたらすだろう(36)
  西海岸出身のハイラム・W・ジョンソン上院議員(カリフォルニア)は、一〇月二四日、次のようなラジオ演説を行なった。
「ホ.18モ」  禁輸廃止に反対する者はヒトラーに好意的だからだと非難されることがある。しかし私は親英でも親仏でも親独でも親露でもなく、祖国のことだけに心をよせるごく普通のアメリカ人である。われわれの中にいる仮面をかぶった数多くのイギリス人が彼らの手中にあるメディアを通じてアメリカ人は何をすべきかと宣伝しているために、アメリカ国民の声が聞こえない。禁輸条項の堅持はドイツを利するものではない。禁輸法はすべての国に平等に禁輸を適用するので、ドイツがそれから利益を得ることはない。大統領は禁輸廃止よってアメリカの軍需産業を英仏のために働かせようとしている。アメリカ人は二〇年前に、世界の民主主義を守るために理想主義にかられて戦って勝ったが、世界の民主主義は危うくなり、数十万の人々を独裁者のもとの奴隷にしてしまった。それだけではない。アメリカから数十億ドルの戦費を借りた国々はわれわれを笑いとばし、負債の返済を拒否した。戦費はいまやアメリカの納税者の負担に転嫁されている。われわれは再び幻滅を味わうべきなのか。一部の禁輸廃止派の上院議員は、それが連合国の助けになるものであり、連合国の勝利はアメリカの利益になると主張している。しかしこれは賭けにすぎない。禁輸のもとでは、英仏は海上を支配しているから一部の品目を除けば欲しいものは何でも入手できるが、ドイツはおかれた状況から何も手に入らない。オーストリア、ミュンヘン、ポーランド問題などは、英仏とドイツが行なっているパワーポリティクスの一部であった。アメリカはそれらに関与しなかったしなんの関係もない。われわれは悪事に関与した犯人の一人すなわちイギリスから参戦するように求められているのだ。禁輸を廃止したからといってアメリカが戦争の局外におかれるかどうかは五分五分だ。禁輸廃止論者はしばしば、いまヒトラー阻止に助力しなかったら彼はヨーロッパを征服し次にはアメリカを征服するだろうと言っている。しかしヒトラーは決してヨーロッパを征服することはない。今まで誰もできなかったことだ。二〇年前にはアメリカがカイザー阻止のために連合国に強力しなければカイザーは次にはアメリカを席巻すると言われた。このばかげた言い分がヒトラーとともに復活したのだ。ある日われわれはイギリス首相が宥和主義者だということを知るが、彼は翌日には別の態度をとっている。問題は、すべての交戦国への武器、軍需品、戦争資材の完全な禁輸か、それとも英仏へのそれらの無制限な売却か、である(37)
  翌年に設立される孤立主義団体のアメリカファースト(アメリカ第一委員会)の有力なメンバーとなるチャールズ・A・リンドバーグは、一〇一四日、次のようなラジオ演説を行って、人種論の立場から攻撃兵器ではなく防御兵器ならば交戦国への売却を認めてもよいとする見解を明らかにした。
「ホ.18モ」  西半球はわれわれの領分である。アラスカからラブラドールまで、ハワイからバーミューダまで、カナダから南米まで、アメリカは侵略軍が足を踏みいれることを絶対に認めない。これらの地域はアメリカの地理的防衛戦に不可欠の外郭である。現在論議されている立法問題は、武器禁輸、運搬の制限、信用の供与という三つの重大問題を含んでいる。第一の禁輸に付いては、禁輸廃止はヨーロッパの民主主義を助け、外国への武器売却によってアメリカに利益をもたらすとともにわが国の兵器産業の確立に資すると主張されている。しかし今次の戦争は民主主義のための戦争ではない。それはヨーロッパの勢力均衡をめぐる戦争であって、力を得たいとするドイツの希望と、力を失うのではないかとする英仏の恐怖とがもたらしたものにすぎない。軍隊がより多くの軍備を得れば戦争は長引き、ヨーロッパがより疲弊すれば民主主義への希望は小さくなる。それがわれわれが第一次大戦に参加して得た教訓だった。もし戦後に民主主義的原則がヨーロッパに適用されていたら、もしヨーロッパの民主主義が(それがあったと仮定して)民主主義を守るために犠牲を払っていたら、もし英仏がもがき苦しむドイツに手を差し伸べていたら、今次のような戦争は起こらなかったろう。攻撃的破壊兵器をヨーロッパの戦場に売ることによってアメリカが文明と博愛に貢献できるとは思えない。われわれとヨーロッパを結び付けているのは政治イデオロギーではなくて人種である。守らねばならないのはヨーロッパ人種だ。白人が脅かされているなら、その擁護に参画して英仏独とともに手を携えて戦わなければならない。純粋な防御兵器ならヨーロッパ諸国に供給することを支持する。攻撃兵器と防御兵器を区別できないとする専門家もいるが、軍需品と半完成品を区別できるなら、それは可能だ。運搬に関しては、戦争地域およびヨーロッパの危険海域に立ち入らないことが肝要である。交戦国への信用供与は禁止すべきである(38)
  ヒュー・S・ジョンソンは、九月二七日のアメリカンリージョン(在郷軍人会)全国大会で、次のように述べた。
「ホ.18モ」  戦争が避けられないなら今すぐ参戦するのがよい。しかしわれわれは戦争の局外に立つことができるのだ。もし今次の戦争が明日にでもあるいは二年以内に終わるものならば、アメリカと野蛮な国々との間に英仏の帝国をそのまま残してもよい。もし交戦国が思慮が足りなくて最後まで戦うなら、両陣営とも疲弊するからアメリカを道ずれにすることはなくなる。ヒトラーでさえ大西洋を越えることはできない。ヨーロッパの戦争はアメリカに対する危険を減少させるものだ。われわれはいかなる国も西半球のアメリカを攻撃できないように陸海空軍を強化しなければならないのである(39)
  中西部のアイオワ州を基盤とするエドワード・w・スチムソン牧師の次のような説教が議事録に収録されている。
「ホ.18モ」  第一次大戦でアメリカは、一三万人が戦死したのに何の見返りもなく感謝もされず、かえって、参戦が遅かったと非難されたものだ。数十億ドルの戦争費用も返されるわけでない。一時的に景気がよくなったがそれは少数の利得者にのみ恩恵となったにすぎない。われわれはアメリカの国益を重視して、戦闘の局外に立つだけでなく軍需品供給に手を染めてはならない。二つのことに留意しなければならない。一つは、今次のヨーロッパの戦争には善悪に関わる道徳的な問題はないこと。二つには、一方の側に立つアメリカの参戦はヨーロッパ問題の道徳的な解決には何の役にも立たないということである。ドイツだけが悪いという宣伝がなされているが、ドイツだけが悪者で連合国は文明と民主主義の正当な擁護者だと言う権利がわれわれにあるのか(40)
  九月二七日にはジョン・H・ホームズが次の演説をしている。
「ホ.18モ」  この瞬間にアメリカ国民にとってヨーロッパ大陸で展開されている戦争の局外に立つことほど重要なことはない。われわれは世界の民主主義を守り地上から永遠に戦争を終わらせるために戦っていると思い込んで先の戦争に参加した。一三万七千人が死傷し、われわれがようやく稼いだ富を四〇〇億ドルも使った。モラルは衰え、政治経済生活は混乱し、大恐慌への道を掃き清めてしまったが、あとでわかったのは、ヨーロッパは理想には関心がなかったこと、英仏の関心は平和にではなくてその帝国の拡充と強化にあったこと、そしてベルサイユ条約には次の戦争の原因と条件が含まれていたことだった。われわれはいま帝国主義の炎の中から他国の栗を拾い上げてまたやけどをしようとしているのだろうか。先の六月にジョージ国王とエリザベス女王がわが国を訪問したが、その本質は、イギリスが再び自分の帝国のために戦うときにはアメリカ人一人一人がその責務を果たすように説得する試みをカムフラージュしたものにすぎないのである(41)
  同じ日のベルゲンイヴニングレコード紙にもイギリス帝国に反対する立場から中立法改正に反対する次の評論が載せられた。
「ホ.18モ」  アメリカ国民の九〇%あるいは議員の九九%は現在進行している神聖な持てる国と邪な略奪国との間のアルマゲドンにわが国を巻込みたくないと心底願っている。第一次大戦時のわが国と英仏とのパートナーシップは勝利をおさめたが、ヨーロッパのパートナーであった二国がアメリカの健全な利他主義を強欲なヨーロッパリアリズムに従わせたためにその勝利は民主主義を発展させられなかった。英仏は、恐ろしいカイザーを取り除き、自分たちの帝国を拡大し、指導者もなく希望を失った六千万の人々を放置した。中立の最善の定義は、交戦国のいずれにも積極的な援助をしないということだ。交戦国への長期信用の供与はわが国の中立を侵害する可能性があるが、これは現行法でも禁止されている。軍需品に対する禁輸法が維持されるとしても、わが国で生産されるすべての品目を対象とするように拡大する必要がある。軍需品は戦争に不可欠だが、兵士を養いその背後の人々の士気を高める食糧も同じことなのだ。キャッシュアンドキャリーならばすべての交戦国が購入、支払、自己の責任での運搬を行なう上で平等の機会をもっているので、交戦国への売却と発送は非中立とはみなされない。そのような政策は、明らかに、ドイツではなくて大西洋を支配する英仏に、また、中国ではなくて太平洋を支配する日本に有利になる。この政策が公平であることは、アメリカ市民が英仏に対してと同様に中国に共感を持っているという事実に示される(42)

お  わ  り  に
  アメリカ孤立主義研究の出発点ともなったマンフレッド・ジョナスの研究によって、孤立主義の背後には反ニューディールの保守派、親ニューディールのリベラル派、親ソの共産主義派、親独のファシスト派などそれぞれ異なる政治的立場と論理があったことが明らかにされているが(43)、第二次大戦の勃発を含む一九三九年の政治過程は孤立主義をめぐる論争が国内政治の次元を超えて文字どおり戦後に至るアメリカの対外政策の在り方そのものを問うものとなったことを明らかにした。
  アメリカ孤立主義は、一九三五年中立法制定によって法制化されたとき以来、アメリカ単独主義(ユニラトラリズム)と戦争回避を内容とし、一九三九年の世界情勢の変化はとりわけ戦争回避という国民の一致した志向をどう実現するかを焦点に押し上げた。ここでの争点はドイツと対立している英仏との協力関係をどのような内容で具体化するかにあった。この争点をめぐる論争は、孤立主義を生み出した二つの要因の変化とどう結び付いていただろうか。第一の要因は第一次大戦における英仏への不満、第二は西半球は安全であるという「西半球難攻不落論」である。
  英仏への不信感は、さまざまな孤立主義者に共通のものであった。三章でみたように、それはベルサイユ体制への不満である。過酷なドイツへの制裁的な措置がドイツの民主化を妨げてヒトラー台頭を招いたという不満は、英仏の政策が世界の平和や民主主義ではなくて自己の「帝国」の利益を優先させるという「帝国主義」に由来していたという理解に基づいている。そのような英仏帝国主義に対する警戒心は、第二次大戦に対しても及んだのである。「現在のヨーロッパの戦争も民主主義とは関係がなく、ただ、パワーホリティクスの主張にすぎない」(G・P・ナイ)、「現在のヨーロッパの紛争に含まれている最大の課題は、現在の帝国主義と帝国の維持、そしてそれを危うくする様な新たな帝国主義と帝国の建設を阻止すること」(G・P・ナイ)、「オーストリア、ミュンヘン、ポーランド問題などは、英仏とドイツとが行なっているパワーポリティクスの一部」(H・W・ジョンソン)などの発言は、英仏の戦争目的に対する不信を表している。
  第二の「西半球難攻不落論」は、元来、ヨーロッパの戦争はアメリカ大陸にまで及ぶことはないという見通しにも支えられて成立したものである。対英不信の問題はあったが、その環となるのが、イギリスが防波堤になるだろう、つまり、イギリスは負けないだろうという期待であった。したがって、第二次大戦が勃発すると英仏がドイツに対する戦争に勝利できるか否かによってアメリカ孤立主義の存立の条件が変わることになる。「ドイツが英仏に勝利してもヒトラーによる軍事侵略や経済支配が成功すると恐れる必要はない」と言っていたR・A・タフト上院議員も三九年中立法では賛成に回った(44)。アメリカからの武器供給がなんらかの形でなされなければイギリスの勝利は困難であろうということはほぼ一致した見方となっていた。孤立主義者はイギリスの対独勝利とアメリカを戦争の局外におくこととを切り離し、後者を優先させることを主張していたが、この当時には少数派となっていたといえる。国際主義者はイギリスの対枢軸勝利がアメリカの安全にとって不可欠であるということでは一致していたが、イギリスの勝利をどう確保するかという点ではなお意見がわかれていたのである(45)。そこで、禁輸の継続かそれともキャッシュアンドキャリーのもとでの援助の開始かが争われることになった。キャッシュアンドキャリーはすべての交戦国の平等な取扱を前提としていたが、三九年当時の状況からはそれは事実としてドイツに対抗する英仏への武器売却になることは明確だった。禁輸の継続については、交戦国への武器供給を禁止しかつ交戦国を公平に扱うから戦争の回避(アメリカを戦争の局外に立たせる)を保証するとする孤立派に対して、国際派はそれは侵略国を利するがゆえに戦争の拡大をもたらしてアメリカを戦争に巻込むと主張した。それと裏腹の関係になる禁輸解除については、孤立派は交戦国への武器供給を通じてしかも英仏に有利なることによってアメリカを戦争に巻込むと批判し、国際派は、民主主義国が強化されるから戦争回避につながると主張した。すでに最初の三五年中立法の制定時に、差別的禁輸派(侵略国と被侵略国とを区別する)と無差別的禁輸派が争って無差別的禁輸派が勝利したのであるが、同じ問題が第二次大戦の勃発とともに形を変えて再燃した。イギリスの対枢軸勝利がアメリカの安全にとって決定的に重要だと考えた人々は介入主義者と呼ばれるようになり、「彼らはアメリカを戦争の圏外におくことよりもイギリスの勝利の方が重要だと考えた」のである(46)
  このような経過に照らすと、対英不信とイギリス勝利待望論という矛盾した両面をもちながらも、アメリカの安全(それは当時、アメリカを戦争に巻込まないという戦争回避論で孤立派とも一致していた)の観点からイギリス援助論が勝利したと見ることもできるが、これまでしばしば行なわれてきたこのような解釈は短絡的と言わざるをえない。アメリカの対英不信とは反対に、イギリス側にも対米不信が一貫して存在していたのである。
  N・J・カルは著書で、次のように米英間の摩擦を指摘している。
「ホ.18モ」  ロシアン卿は戦争でも平時でも英米協力が必要だと言ったが、チェンバレン首相は妹あての手紙で、「アメリカ人にわれわれのために戦って欲しいとは思わない。もしそうなったら平時になってそれに対して高いツケを払わねばならなくなるからだ」と書いた。ロシアンは、ニューファンドランドのセントジョンズ港の安全のためにアメリカの船を臨検するよう戦時内閣に要求したが、英米間の合意はならなかった(47)
  すでに一九三八年には、米英間の通商協定をめぐる交渉が対立を深めていた。イギリスの製造業者はイギリス連邦内での貿易を妨げるような対米譲歩に反対し、それは「一九三二年のオタワ協定で獲得したイギリス市場内での特恵的扱いを減少させる」ものだと懸念していた(48)。アメリカの門戸開放の要求に対する反発は第一次大戦から戦後のIMF、GATT体制の成立に至る米英間の対立のもっとも重要な要因となったものである(49)
  したがって、米英間の矛盾と対立という側面から見ると、イギリスへの武器を含む援助によってイギリスの対枢軸勝利を助け、それを通じてアメリカを戦争の局外におくという介入主義者の路線(これはドイツのイギリス空爆が始まると、戦争に巻込まれる危険があっても援助を強化する路線へと転換する)と、中立法改正に反対した孤立主義者との間に決定的な差異を見ることは適切ではない。イギリスの対独勝利こそアメリカの安全を保証する(イギリスはアメリカの防壁)という介入主義者の判断には当時の状況からみて妥当性があったと思われるが、そこにおいてアメリカの安全の確保という希望が対英不信を乗り越えたとみるのではなく、むしろ、イギリス援助を通じてアメリカの対英優位(イギリス帝国の開放とイギリスに代わる世界的なリーダーシップの確立)を実現する意思が働いていたと考えるべきだろう。孤立主義者のラフォレットが、参戦しないことによって戦後のアメリカのリーダーシップが確保されると考えたのに対して、介入主義者は参戦がアメリカに強力な世界的影響力を与えるとみたといえよう(50)。中立法改正はこのような意味をもつものとして理解されなければならない。
  一九三七年の隔離演説から一九四一年のパールハーバーに至るアメリカの参戦過程の中で、中立法改正と第二次大戦の勃発をめぐる一九三九年の政治過程は、アメリカの対外政策の特質をもっとも鮮明に示すものとなったのである。


(1)  Arthur Schlesinger, Jr., Back to the Womb?ーIsolationism’s Renewed Threat, Foreign Affairs, July August, 1995.
(2)  Ronald E. Powaski, Toward an Entangling Alliance; American Isolationism, Internationalism, and Europe, 1901-1950, 1991.
(3)  John N. Petrie, American Neutrality in the 20th CenturyーThe Impossible Dream, 1995.
(4)  Nicholas John Cull, Selling WarーThe British Propaganda Campaign Against American Neutrality in the World War II, 1995.
(5)  Eric A. Nordlinger, Isolationism Reconc45cguredーAmerican Foreign Policy for a New Century, 1995.
(6)  Justus D. Doenecke, In Danger UndauntedーThe Anti-Interventionist Movement of 1940-1941 as Revealed in the Papers of the America First Committee, 1990.
(7)  Public Papers and Addresses of Franklin D. Rooserelt 1939, pp. 3-4.
(8)  Wayne S. Cole, Roosevelt and Isolationists 1932-1945, 1983, p. 310.
(9)  Cordell Hull, The Memoirs of Cordell Hull Vol. 1, 1948, p. 643.
(10)  Foreign Relations of the United States 1939, Vol. 1, p. 185.
(11)  Willam L. Langer and S. Everett Gleason, The Challenge to Isolation 1937-1940, 1952, p. 141.
(12)  Wayne S. Cole, op. cit., p. 315.
(13)  Justus P. Doenecke, op. cit., p. 4.
(14)  Cordell Hull, op. cit., 646.
(15)  Public Papers and Addresses of Franklin D. Roosevelt, 1939, p. 382.
(16)  Ibid., pp. 382-385.
(17)  Cordell Hull, op. cit., 643.
(18)  Ibid., p. 676.
(19)  Public Papers and Addresses of Franklin D. Roosevelt, 1939, p. 380.
(20)  Foreign Relations of the United States 1940-1, p. 753.
(21)  Public Papers and Addresses of Franklin D. Roosevelt 1939, pp. 473-478. pp. 516-519.
(22)  Cordell Hull, op. cit., p. 676.
(23)  Harold L. Ickes, The Secret Diary of Harold L. Ickes, Vol. 1, 1954, p. 715.
(24)  Cordell Hull, op. cit., p. 677.
(25)  William L. Langer and S. Everrett Gleason, op. cit., p. 222.
(26)  Wayne S. Cole, op. cit., p. 322.
(27)  Public Papers and Addresses of Franklin D. Roosevelt 1939, pp. 512-522.
(28)  Cordell Hull, op. cit., p. 684.
(29)  William L. Langer and S. Everrett Gleasonk, op. cit., p. 219.
(30)  Robert A. Divine, Illusion of Neutrality, 1962, p. 305.
(31)  Wayne S. Cole, op. cit., p. 325.  ォウ01審議の際にラッシュ・D・ホルト上院議員は、出身州のウエストヴァージニア州のャウ Wheeling Intelligencer 紙の世論調査の次のような結果を議事録に収録させて、戦争反対の世論の強さを訴えた。アメリカを戦争の局外におく、一五三三人、戦争に賛成、二四人、現行法支持、一一一二人、キャッシュアンドキャリーでの軍需品輸出を支持、三二一人。Appendix to the Congressional Record 1939, p. 431.  他方で、九月二一日づけの New York Herald Tribune 紙は、世論の変化を次のように伝えている。英仏ポーランド側の勝利を望む、八三・一%、ドイツ側の勝利を望む、一・〇%、どちらの勝利も望まない、六・七%。現行法維持、二四・一%、キャッシュアンドキャリーによる禁輸解除、二九・三%、英仏側への参戦または武器援助、三六・七%。Appendix to The Congressional Record 1939, p. 45.
(32)  地域的感情が、それは人種的な感情とも関連があったが、戦間期における孤立主義の復活の決定的な基礎となった。Thomas N. Guinsburg, The Pursuit of Isolationism in the United States Senate from Versailles to Pearl Harbor, 1982, p. 289.
(33)  Appendix to the Congressional Record 1939, pp. 89-91.
(34)  Ibid., pp. 244-245.
(35)  Ibid., pp. 79-80.
(36)  Ibid., pp. 143-145.
(37)  Ibid., pp. 561-563.
(38)  Ibid., pp. 301-303.
(39)  Ibid., pp. 95-97.
(40)  Ibid., pp. 97.
(41)  Ibid., p. 199.
(42)  Ibid., p. 95.
(43)  Manfred Jonas, Isolationism in America, 1966, pp. 34-35.
(44)  Wayne S. Cole, op. cit., 1983, p. 327.
(45)  Wayne S. Cole, America First, 1953, p. 6.
(46)  Wayne S. Cole, An Interpretative History of American Foreign Relations, 1968, p. 395.
(47)  Nicholas John Cull, op, cit., pp. 36-37.
(48)  Donald B. Schewe, ed., Franklin D. Roosevelt and Foreign Affairs, Vol. 10., May 1938 to July 1938, pp. 351-352.
(49)  佐々木雄太『三〇年代イギリス外交戦略』(名古屋大学出版会、一九八七)は一九三〇年代の宥和政策に関連して次のような評価を与えている。「チェンバレンの対米不信感は、世界市場と政治的覇権をめぐるアメリカとの矛盾・対立に対する敏感な認識に裏付けられていたと理解できる」。七三ページ。
(50)  ドウネッケは同じ様な趣旨を次のように記している。ルーズヴェルトは紛争に十分に参加してはじめて平和について平等な発言権を確保できると信じていた。Justus P. Doenecke, op. cit., 1990, p. 3.