立命館法学  一九九六年一号(二四五号)




◇論  説◇
戦後国際政治における
基軸的対抗関係の形成と
「冷戦」戦略の発動
(一九四〇年代後半ー五〇年代)
 (二・完)

−現代国際政治史序説II−


菊井 禮次






目    次




三  副次的対抗関係(南北関係・トランスナショナルな階層間関係)の形成と発展
  第一節で略述したように、戦後初期段階の国際政治における主導的対抗関係として急激に浮上しつつあった東西関係(体制間対抗関係とその現象形態としての狭義の東西「冷戦」体制)の背後で、それよりは若干のタイム・ラグを伴いながらもほぼ同時期に、二つの副次的対抗関係が姿を現しつつあった。その一つは、かつての植民地・従属地域での民族解放運動のグローバルな展開の所産として新たに登場してきた南北関係であり、もう一つは、東西「冷戦」の急激な展開過程に呼応して、西側大国の「冷戦」戦略発動に起因する国際緊張の激化に抵抗する国際労働運動と反核・平和運動の展開、換言すれば、ナショナルなレベルを超えて形成されつつあったトランスナショナルな階層間対抗関係である。
  ここで言う「副次的」対抗関係とは、主導的対抗関係に次いで、戦後初期の基軸的対抗関係の形成に一定の役割を演じたサブ・システムの国際関係のことであり、固よりその地位は固定的なものではなく流動的なものである。上記の南北関係とトランスナショナルな階層間関係は、そうしたものとして位置づけられており、基軸的対抗関係の発展に応じてその地位が変動してゆくことは言うまでもない。そのことを前提にした上で、以下、これら二つの副次的対抗関係の形成と展開過程について略述することにしよう。
  〔1〕  民族解放運動のグローバルな展開と南北関係の形成
  戦前欧米日資本主義諸大国の植民地・従属地域であったアジア、アフリカ、ラテン・アメリカ三大陸では、大戦期における反ファシズム・民族解放闘争の延長上に、戦後、国家的独立をめざす民族独立運動が急速に発展し、旧来の植民地支配体制に深刻な打撃を与えることになった。この運動は、戦時中の抗日武装闘争を基盤として大戦直後の四〇年代後半期に先ずアジアで始まったが、五〇年代前半に中東、北アフリカ地域へと波及し、更に五〇年代後半から六〇年代初期にかけて、ブラック・アフリカ、次いでラテン・アメリカがその舞台となって行く。戦後初期段階におけるこうした民族解放運動の典型例として挙げられるのは、アジアでは、前出のヴェトナム革命(四五年)、朝鮮革命(四八年)、中国革命(四九年)以外にインドネシア(四五年)、インド(四七年)であり、中東ではエジプト革命(五二年)、アフリカではガーナ(五七年)とギニア(五八年)、中米ではキューバ革命(五九年)である。
  これらの民族独立運動の性格と態様、発展過程は、当然ながら各地域、各国を通じて一様であったわけではなく、解放運動を担った主体勢力の相違、植民地領有国側の対応の違いに応じて多様な展開を見せた。主体勢力の面で言えば、ヴェトナム、北朝鮮、中国のように労働者・農民階層とその政党が解放革命の主導権を握っていた地域では、民族解放革命に引き続いて「人民民主主義革命」への展開が図られ、前述のように「社会主義陣営」の一角を形成することになる(但し北朝鮮の場合には、解放主体に対する駐留ソ連軍の影響力と役割を考慮する必要があろう)。これに対して、インド、インドネシア、エジプト、ガーナ等のように土着のいわゆる民族ブルジョアジーが中核勢力となり、労働者・農民層を同盟軍として独立運動を遂行した大半の国々では、独立達成後、国家権力を掌握した民族ブルジョアジーと労働者・農民階層の間に徐々に階級対立が醸成され、その間隙を衝いた米欧諸大国によって主として六〇年代以降、これらの民族ブルジョアジーの一部は、後述するように「新植民地主義」支配の協力者とされてゆく。更にフィリピン、韓国のように解放時に米国の政治・経済・軍事的影響力が圧倒的に強かった所では、国家的独立は得たものの、実質的にはいわゆる「傀儡政権」が樹立され、当初から対米従属国となってゆく。
  ところで、このような各地の民族独立運動に対する植民地領有国(欧米諸国)側の対応も、国によって、また解放運動の発生した地域と時期によって決して同じではなかった。大まかに言えば、米国(特に米国資本)からすれば、英仏等が支配していた膨大な植民地地域の解放(開放)は、ある意味で歓迎すべき出来事であったろうが、大戦で国力が疲弊した仏蘭の支配層にとっては、植民地の喪失は重大事と映ったであろうし、また英国は植民地に独立権を付与して、これらの国を英連邦内に繋ぎ止め、自国の影響圏内に置く方を得策と考えたであろう。欧米諸国のこのような対応の相違ないし対立について、ある論者は次のように具体的に述べている。
  「西欧植民地国家=英仏蘭三カ国は、自らの既得権益=勢力範囲の維持に努めたが、アジアの民族革命の高まりへの対応は各々異なっていた。フランス、オランダの場合は形式的な独立そのものさえ認めず、そのためインドシナ、インドネシアで独立戦争が勃発した。これに対し、イギリスは植民地諸国に形式的な独立を与えることにより、実質的支配を維持することをめざした。四七年二月には、インド、パキスタン、翌四八年二月にはセイロンが英連邦内の自治国として独立するのを承認した。・・・/アメリカのアジア政策のモデルとなったのがフィリピン政策であった。四五年初頭、マッカーサー率いる米軍が、・・・四二年以来日本軍に対しゲリラ闘争を展開していたフィリピン人民抗日軍(フクバラハップ団)を武装解除させ、その指導者を投獄した。・・・フィリピンは四六年七月四日アメリカからの独立を宣言した。独立同日、アメリカに対して市場を開放することを骨子としたベル通商法(フィリピン通商法)が結ばれた。次いで四七年三月に米軍基地の九九年借地権を内容とした『米比軍事基地協定』が結ばれ、アメリカはフィリピンにおいて絶対的地位を築いた。/そして、戦後のアメリカは東南アジアへの政治的・経済的浸透を図ろうとしたので、西欧諸国との間に対立が起こった。その対立の典型的な例がインドネシアの独立をめぐるアメリカとオランダとの対立であった。石油資源の宝庫インドネシアでは、アハメド・スカルノのような民族主義者が四五年八月一七日にインドネシア共和国の独立を宣言したが、オランダは独立を認めず、独立戦争が開始された。オランダは、四六年から四七年にかけてと四八年との二度にわたる武力攻撃、いわゆる”警察行動”を起こした。アメリカはインドネシア側を支持し、オランダに対しマーシャル・プランの取り消しという圧力をかけた。四九年一一月に開かれたハーグ円卓会議で、インドネシア共和国独立が承認された。アメリカは、オランダに代わり、インドネシアにおける政治的、経済的進出の足場を築いたことになった(1)。」

  このように、アジアの民族独立運動に対する欧米諸国の対応は一見、必ずしも一致したものではなかったが、独立を支持する米国、反対する仏蘭、と図式的に割り切れないことは、右の引用箇所にある米国のフィリピン独立容認の内実ひとつを取ってみても明らかであった。現地の抗日勢力を抑圧し、軍事基地租借の約束を取り付けた上での独立承認、その近隣に位置するインドネシアの独立支持は、米国政府の意図がどこにあるかを自ずから物語っていた。四九年初頭に発表されたトルーマン政権のポイント・フォア計画(米国民間資本の海外進出のための後進地域開発援助計画)、インドシナ侵略戦争展開中のフランス軍に対する経済・軍事援助供与の決定(五〇年五月)は、その証左と言えよう。つまり、ヴェトナムや朝鮮のように民族解放革命が、東西「冷戦」と絡み合い、相乗作用を誘発する恐れのある地域ではこれを抑止し、当面その恐れがない地域(前述の民族ブルジョアジー主導型及び「傀儡政権」型の新興独立国家の場合)では、新たな資本進出の場としてその独立を容認(支援)する、というものであった。言い換えれば、旧植民地・従属地域の独立運動に対する米国の基本的立場は、資本主義大国(とりわけ米国)主導型国際秩序の許容範囲内の「国家的独立」は認めるが、その枠組みから逸脱する危険性を秘めた新興独立国家の出現は極力妨害する、という姿勢に貫かれていた。従って、大戦直後一躍軍事・経済的超大国の地位を確立し、商品・資本市場のグローバルな拡大を狙う米国と、植民地の独立運動の高揚に自らの凋落の反映を見るヨーロッパ諸国との間には、確かに対応の相違・摩擦は生じたとはいえ、新興民族国家を大国主導の国際政治・経済システムの軌道内に繋ぎ止めておくという点では、根本的な利害の対立はなかったと言えよう。
  戦後初期段階の民族解放運動に対処する米国のこのような基本的立場は、上述の対仏支援決定と朝鮮戦争勃発に先立って一九五〇年四月に策定された米国家安全保障会議(NSC)の世界政策に関する文書、NSC68「アメリカの国家安全保障に関する目標と計画」の中に、間接的表現ながら次のように表明されている。「我々は、自由世界の政治・経済体制が首尾よく機能するよう指導しなければならない。我々の本質的価値観を国内並びに海外で実際に主張することによってのみ、我々自身の一体性を保持できる。・・・/自由世界のこれらの目標は全て、平時でも戦時でも同様に有効であり必要である。しかし、我々の根本的価値観と我々の国家安全保障への献身を検討する際にいつでも求められるのは、我々は冷戦の戦略によってそれらの達成を目指すということである。・・・/現時点での我々の全般的な政策は、アメリカ的体制が生き延びることができ繁栄できるような世界環境を育成することを目指すものと描いてもよいだろう。・・・/この幅広い意図には二つの従属的な政策が含まれる。一つは、たとえソ連の脅威がなくとも、我々が恐らく追求するであろう政策である。それは、健全な国際共同体を発展させることを試みるという政策である。もう一つは、ソヴェト体制を『封じ込める』政策である。これら二つの政策は緊密に相互関連しており、互いに影響し合っている。にもかかわらず、両者を区別することは、基本的に妥当であり、我々が今しようと試みつつあることをよりはっきりと理解するのに寄与している(2)(傍点は引用者)
  この引用文、特に傍点を付した箇所から明らかなように、米国の政策目標は、対ソ「封じ込め」と並んで、それとは区別される政策−「たとえソ連の脅威がなくとも」追求する政策、即ち「健全な国際共同体を発展させることを試みるという政策」−の実現であり、「冷戦の戦略によってそれらの達成を目指す」というものであった。つまりNSC68は、当時米国政府が展開しつつあった「冷戦」戦略が、単に狭義の対ソ「封じ込め」戦略に留まらず、我々のいう資本主義大国主導型国際秩序の存続・強化を意図した広範な世界戦略であったことを自ら暴露しているのである。この政策文書の策定後間なしに実施されたインドシナでの対仏支援と朝鮮内戦への軍事介入は、それらが、狭義の東西「冷戦」の要素を内包しつつも、そこに収まり切らない南北抗争の萌芽をも孕んだ、広義の国際的対抗関係への具体的対応策であることを示していた。
  このような米国の意図にもかかわらず、民族解放戦争としての性格をも具有した朝鮮戦争と第一次インドシナ戦争は、民族解放勢力側の優勢のうちに収束を迎え、前者は五三年七月、後者は五四年七月に、それぞれ休戦協定が締結された。休戦協定に至る過程で、米英仏ソ中といった大国間の交渉と駆け引き(朝鮮休戦協定案をめぐる米対中ソ、米対英の確執、五四年四月ー七月のジュネーヴ極東平和会議に先行する米英ソ仏四国外相会議等)があったことは言うまでもないが、むしろ注目されるのは、両戦争の休戦に少なからぬ役割を果たした、インドを初めとするアジアの新興独立国の動向である。インドのネルー首相は既に五三年初期に、いわゆる「第三地域(平和地域)」構想(3)を提唱していたし、朝鮮休戦協定の基になったのはインド案であった(4)。また同首相は、ジュネーヴ会議出席中の五四年四月末にインドを訪れた中国の周恩来首相と会談し、両国首脳による「平和五原則」(((1))領土主権の尊重、((2))相互不可侵、((3))内政不干渉、((4))平等互恵、((5))平和共存)を発表した。「平和五原則」は、ある表現を借りれば、「アジア諸国が自分たちの意見を初めて明確な形として打ち出したものであった(5)。」更に時期を同じくして、セイロンのコロンボで東南アジア五カ国首脳会議(コロンボ会議、同年四月末ー五月初、参加国はインド・セイロン・インドネシア・パキスタン・ビルマ)が開催され、インドシナ戦争の平和的即時解決、植民地主義への非難、中国の承認、原水爆の禁止を決議した。参加国の顔触れから明らかなように、これらの新興諸国はいずれも民族ブルジョアジー主導下の国家であり、いわゆる東側のメンバーではなかった。
  五〇年代前期におけるこのようなアジアの新興民族国家の動向は、旧来の大国主導型国際秩序に代わる新たなオールタナティヴの模索とその萌芽を示すものであったが、それを更に鮮明な形で推し進めたのが、コロンボ会議での開催決定を受けて、同会議の延長上に一九五五年四月、インドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ諸国会議(バンドン会議)であった。同会議には、当時のアジア・アフリカ両大陸の独立国の殆どに当たる二九カ国が参加したが、その内訳は、インド・インドネシア・エジプト等の新興独立諸国一九カ国、社会主義の道を進む中国と北ヴェトナム、更に親米欧派の日本、タイ、南ヴェトナム等八カ国であった(6)。この顔触れが示しているように、参加国の政治路線は多様であり、決していわゆる反米路線一色ではなかったが、そのことは逆に言えば、路線の相違を超えて一堂に会したアジア・アフリカ諸国が、今や国際舞台における新たな集団的アクターとして登場し、積極的に発言し始めたことを物語るものであった。そのことは、同会議で採択された「世界平和と協力の増進に関する宣言」(「平和十原則」)の内容に明瞭に表れている。そこでは、((1))基本的人権の尊重、((2))全ての国家の主権と領土の尊重、((3))全ての人種・全ての国家の平等、((4))内政不干渉、((5))自衛権の尊重、((6))大国による集団防衛取決めの利用と他国への圧力行使の阻止、((7))侵略行為・侵略の威嚇の回避、((8))国際紛争の平和的解決、((9))互恵・協力の増進、((10))正義と国際義務の尊重、の一〇項目が謳われており、大国中心の国際秩序に対する明確な批判と、それに代わる平和・平等・民主主義の国際秩序の構築が明記されている。大国支配と植民地主義に対決し、国際舞台におけるアジア・アフリカ諸国の連帯と協力を高唱した「バンドン精神」は、東西関係と交差しつつも、それとは区別される別次元の国際関係−戦前には明確な形では現れていなかった新たな国際的対抗関係、即ち南北関係が形成途上にあることを、「南」の国々の側から主体的に明らかにしたものであったと言えよう。前出のNSC68の文言は、「北」の資本主義大国、特にアメリカが、いわば、そうした事態の到来に対する懸念を先取りして、それへの対応策を事前に打ち出したものであった。
  バンドン会議の成功に象徴されるA・A新興諸国の国際舞台への台頭と、その影響力に脅威を感じた米国は、直ちに反撃に乗り出した。資本主義大国主導の「自由世界」=「健全な国際共同体」の許容範囲からはみ出す恐れのある新興諸国は今や中国、朝鮮、ヴェトナムだけでなく、民族ブルショアジー主導下のインド、インドネシア、エジプト等にも広がる様相を見せてきたからである。前節で触れておいたように、米国は既にインドシナ休戦直後の五四年九月に、ジュネーヴ国際協定(インドシナ三国の独立とヴェトナム統一を保証)をボイコットして同国主導のSEATOを発足させ、その適用範囲内にインドシナ三国を位置づけて、以後ヴェトナムへの直接的介入を一段と強めつつあった。一方、中東地域では、第一次中東戦争(四八ー四九年)後アラブ諸国の間に中立主義的傾向が芽生えていたが、五二年のエジプト革命とその急進化、非同盟路線の影響を受けて、アラブ民族主義が急速に高揚しつつあった。こうした傾向を懸念する米欧諸国は、バンドン会議後の五五年一一月、同地域を勢力圏としていた英国の主導下にMETO(バグダッド条約機構、加盟国は英国・トルコ・イラク・パキスタン・イラン、オブザーバーとして米国)を結成し、それに歯止めをかけようとした。これを英米のアラブ世界に対する分断策として警戒したエジプトのナセル政権は、対抗措置としてスエズ運河を国有化し、それを切っ掛けにスエズ戦争(第二次中東戦争、五六年一〇ー一一月、エジプト対英仏・イスラエル)が勃発した(7)。だが「アメリカは反英仏の立場に立つことによって、A・A地域でのアメリカの政治的立場を守」ろうとして「英仏に圧力をかけた(8)」。停戦後、中東での英仏の影響力は更に凋落し、それに代わって米国の主導権が強まっていった。
  米国は翌五七年一月にその中東政策「アイク・ドクトリン」を発表し、中東諸国に四億ドルの経済・軍事援助を供与し、支援要請があれば米軍を出動させることを明らかにした。この米軍出動には、「国際共産主義に支配されている国の公然たる武力侵略を被った中東諸国から、その国の独立の保障と保護のため、援助要請がある場合」という条件が付いていたが、現実には、同年春に米軍が出動したヨルダンとレバノンは「公然たる武力侵略」を被ってはいなかった。また五八年七月のイラク革命が親米英派アラブ諸国を不安に陥れ、その要請を受けて米軍と英軍が再度レバノンとヨルダンにそれぞれ出動したときも同様であった。次いで米国は、保守派が権力を握っているトルコ、パキスタン、イランとの間に相互軍事援助条約を締結し、イラクの離脱で弱体化したMETOに代えて、五九年八月、トルコに本拠を置くアメリカ主導のCENTO(中央条約機構)を設立した。こうした経過が示しているように、アイク・ドクトリンは、NSC68で言う「対ソ封じ込め」政策と関連しつつも、それとは次元を異にする「健全な国際共同体を発展させる」政策の中東版であり、「国際共産主義に支配されている国の公然たる武力侵略を被った中東諸国」の場合でなくとも、米国指導層が、アラブ・ナショナリズムの急進化が「健全な国際共同体を発展させる」上で支障となると一方的に判断した時には適用されるものであった。
  A・A両大陸における民族解放革命の高揚の中で、民族ブルジョアジー指導下のインド、インドネシア、エジプト等が、五〇年代前半期に米欧諸国から経済的支援要請を断られて、対ソ・対中接近を図ったことは事実である。しかし、このような対ソ・対中接近は、「国際共産主義の侵略と策謀」の所産ではなく、むしろ米欧側が、これらの国の民族ブルジョアジーの東西間中立化志向を危険視し、アジア・アラブ世界の守旧派(王政派、大地主層、軍部)政権を支援して、民族資本家政権を中国やソ連側に追いやった結果であった。ここに米欧支配層側の誤算があったと言えよう。支援要請に応えて、それ相応の経済・技術援助を供与しておれば、場合によっては「健全な国際共同体」の枠内に取り込むことが出来たかもしれないA・A地域の民族主義政権をむざむざと敵に回してしまった誤算とその反省−これが、主として六〇年代初期以降、資本主義諸大国、特に米国によるA・A世界の民族ブルジョア政権に対する一定の政策変更、即ち民族資本家層の分断と右派部分の取り込みを図る「新植民地主義」政策への転換を促した要因であった。
  以上に略述したように、主導的対抗関係−東西関係と狭義の「冷戦」体制−の展開過程と交錯しながら、五〇年代初期以降、それとは別次元の、ある意味では、東西関係よりも広範な領域を覆い、米欧の支配層にとって「共産主義陣営」以上に重大な危険性を生み出す可能性を秘めた国際的対抗関係としての南北関係−「北」中心の「健全な国際共同体」の維持・強化を策す米欧諸大国支配層と、新たなオールタナティヴな世界を志向し、模索する「南」の民族ブルジョア層を含むA・A諸国との間の対抗関係−が形成され、その後六〇年代に本格的に展開されて行くのである。
  〔2〕  国際労働運動及び平和運動の展開とトランスナショナルな階層間対抗関係の形成
  上述したバンドン会議の「平和十原則」から明らかなように、一九五〇年代前半にA・A新興独立諸国が新たなアクターとして国際舞台へ登場し、その指導者たちが大国の横暴を批判し国際平和と中立化志向を表明した背景には、アジアでの二つの戦争の勃発と、米国に対抗するソ連の原爆保有(四九年九月)、次いで米ソの水爆保有(前者は五二年、後者は五三年)によって明らかになった東西核競争(と場合によっては米ソ核戦争)に対する強力な危機意識があった。このような反戦・国際平和への強い欲求と核兵器競争に対する危機意識は、勿論「南」の新興諸国のみならず、第二次世界大戦の戦勝国・敗戦国を問わず、戦禍を被った多くの資本主義国の国民諸階層、特に労働者階級と知識人を含む広範な市民階層の間にも共通して見られるものであった。これらの階層は、四〇年代末から五〇年代にかけて、ナショナルな枠を超えて広く国際労働運動や反核・平和運動を展開し、それらの運動を通じて、彼らの共通の「敵」−核軍拡競争を先導し、「冷戦」戦略を推進する米欧諸国(特に米国)支配層との間に、徐々にトランスナショナルな階層間対抗関係を形成しつつあった。そこで叙述の便宜上、先ず最初に大戦直後の国際労働運動の展開状況について概観し、次いで戦後初期段階における市民レベルの反核・平和運動の歩みを簡潔に辿ってみることにしよう。
  資本と労働のトランスナショナルな対抗関係は、第一節で触れたように、国際社会主義・労働運動として一九世紀後半以来存在していた。だが、その共産主義的潮流と社会民主主義的潮流とが長期にわたるイデオロギー的対立を克服して、一時的にせよ統一組織として運動を展開するようになったのは、第二次世界大戦中の共通の反ファシズム闘争を通じて、戦後まもなく米・西欧諸国とソ連・東欧諸国、更にA・A諸国を含む単一の国際労働組合組織「世界労働組合連盟」(WFTU  世界労連)が結成されて以後のことである。即ち、大戦初期の四一年一二月に早くも英ソ労働組合委員会が結成されていたが、その延長上に大戦末期の四五年二月にロンドンで第一回世界労働組合大会が開催され、反ファシズム連合諸国から六千万の労働者を代表する六三組織(米国のCIOを含む、但しAFLは不参加)の代表が参加した。この大会で、労働者階級と労働組合の新しい世界組織として世界労連の創設が決議され、次いで大戦直後の四五年九月末にパリで開かれた第二回世界労働組合大会(五六カ国から六五組織の代表が参加)で正式に結成された。その後、後述する国際自由労連との分裂を経て、五三年一〇月にウィーンで開催された第三回世界労働組合大会(世界労連第三回大会)には、八千八百万の労働者を代表する諸組織から代表が参加しているが、その中には、A・A地域の新興諸国(朝鮮、インドネシア、フィリピン、ヴェトナム、イラン、エジプト、ナイジェリア等)の組合代表も含まれていた(9)
  パリ大会で採択された規約・綱領によれば、世界労連は、(1)人種・国籍・宗教・政治的見解の相違を超えた世界的規模の労働組合組織であり、(2)反ファシズム闘争、反戦・平和闘争を遂行し、(3)労働者の基本的権利の増進をめざして世界各地で共同闘争を組織する、等を目的としていた。その綱領は、W・Z・フォスターが言うように、「労働者階級の目標という問題を持ち出さず、あらゆる政治的傾向の労働者−共産党員、社会党員、アナルコ・サンディカリスト、カトリック労働者など−がすべて加入出来るように、心を配って書かれていた(10)」が、他方、彼も認めているように、「この労働組合運動の大発展の大きな特徴は、それが主として左翼と共産主義者の指導の下にあったことである(11)」。
  では、世界労連の結成とその急速な拡大は、米欧指導層の目にどのように映ったのであろうか。世界労連結成当時、米ソの対立は未だ表面化していなかったものの、その数カ月後の四六年三月にはチャーチル英首相の「鉄のカーテン」演説が行われ、前述のように四七年三月にはトルーマン・ドクトリンが発せられて、東西「冷戦」体制が急激に進行しつつあった。そうした情勢からすれば、単に「ソ連圏」ないし「共産系」労組のみならず西欧諸国の社会民主主義系労組、更にはA・A新興諸国の労組をも包括する世界的規模の労働運動組織の出現と急速な発展は、米欧支配層の目から見て看過すべき事柄ではなかったと言えよう。しかも、それは「主として左翼と共産主義者の指導の下に」ある組織であり、その中で強力な影響力を持つソ連の労組指導部が党を介して政治指導部に直結もしくは従属(官製労組化)している組織構造からすれば、世界労連が「労働者階級の目標〔社会主義権力の樹立〕という問題を持ち出さない」統一戦線型組織であったとしても、その運動に親「社会主義圏」的傾向が生じたことは、ある意味で避けられなかったであろう。また「冷戦」攻勢が専ら米欧諸大国の側から掛けられていたことを考慮すれば、その反戦・平和闘争の矛先が西側諸大国、特に米国の「冷戦」戦略に向けられたのは当然であったと考えられる。しかし、米国政府にとって、それが「自由世界」=資本主義大国主導型国際秩序の許容範囲から逸脱する恐れのある運動組織であるならば、その拡大は阻止されなければならない。そこで米英支配層は四八年以来、アメリカ国務省の肝煎で、世界労連に参加していなかった米国のAFL(アメリカ労働総同盟)を中心に、加入していたCIO(産業別労働組合会議)及び英国のTUC(労働組合会議)の右派指導者に働きかけ、四九年一一月から一二月にかけてロンドンで、世界労連内のマーシャル・プラン支持派を結集した対抗組織−「国際自由労働組合連盟」(ICFTU  国際自由労連)を設立させることに成功した。こうした設立の経緯が示しているように、国際自由労連は当初から反共色の濃厚な組織であり、その活動目的に、労働組合からのコミュニズムの排除、自由世界の防衛に必要な一切の措置の推進、等を掲げていた。国際自由労連の創設は、既に四七年に断行されていたフランスとイタリアの連立政権からのコミュニスト閣僚の追放措置に呼応するものであった。
  こうして戦後の国際労働運動は、国際資本の工作の下に世界労連発足後僅か四年で左右に分裂したが、しかし世界労連は、先に触れたように五〇年代に入ってからも拡大を続け、同じく統一戦線型組織である「世界民主青年連盟」(四五年一一月にロンドンで創立)や「国際民主婦人連盟」(四五年一一月にパリで設立)と連携して反戦・平和闘争を展開していった(12)。前述のように、世界労連の活動に「ソ連寄り」の姿勢が見られたことは事実だとしても、そのことを理由に、戦後国際政治における資本と労働のトランスナショナルな対抗関係を「東西対抗関係」一般に解消してしまうことは不当であろう。というのは、後者が国家間ないし国家群間の対抗であるのに対して、前者のそれは、ナショナルな枠組みを超えた国家横断的な(資本主義国の労働組合も社会主義国の労働組合も含めた)階層間対抗関係だからである(因みに、労使協調路線に立つ国際自由労連の方は、インターナショナルであってもトランスナショナルな組織と見做すことは出来ない)。言い換えれば、米欧支配層が、早くも四〇年代末期に世界労連の対抗組織として国際自由労連の設立を企図したのは、東西関係と密接に関連しつつも、それとは次元を異にする独自のグローバルな階層的対立関係の存在とその展開の脅威を、そこに見出したからである。西側大国主導の国際システムの存続をめざす広義の「冷戦」戦略が、単なる対「共産陣営」戦略に留まるものでなかったことは、そのことからも言えよう。
  ところで、上述の世界労連、世界民青連、国際民婦連といった統一戦線型運動組織では、「主として左翼と共産主義者の指導」の色彩が強かったが、それらの組織とは別個に、しかし一定の協働関係に立ちながら、より市民的レベルに近い知識人・文化人主導の平和運動も戦後急速に成長しつつあった。ある辞典の表現を借りれば、「平和運動が世界の人民の中から直接起こり、多くの人民の代表者が積極的に参加し、しかも世界的規模をもった、力強い平和運動に発展したのは、第二次世界大戦後のことである。具体的に言うと一九四九年四月、パリとプラハで開かれた平和愛好者世界大会で決定された世界平和擁護運動(Partisans of Peace Movement)の開始以来のことである(13)」。ここで述べられている平和愛好者世界大会(=第一回平和擁護世界大会)に先立って、その準備段階として四八年八月末にポーランドのウロツラフで「平和擁護のための世界知識人会議」(四五カ国から五〇〇人の知識人が参加)が開かれ、平和擁護世界大会準備に向けて「平和擁護国際知識人連絡委員会」の設置を決定した。また同年一二月の国際民主婦人連盟第二回大会(ブダペスト)は、「平和擁護のための宣言」で強力な反戦・平和勢力の結集を訴えた。更に翌年三月にはニューヨークで「世界平和のための文化・科学会議」が開催され、その他世界各地の都市で類似の平和会議が開かれた。こうした一連の準備の上に、上記の第一回平和擁護世界大会がパリとプラハ(14)で開催されることになったのである。
  同世界大会には七二カ国から二〇〇〇名余の代表が出席し、フランスの著名な科学者、ジョリオ・キューリーが議長に就任した。大会宣言は、「冷たい戦争の準備者たちは、単なる闇取引の段階から、公然たる戦争準備の段階に入っている」として、原子兵器禁止、軍拡と軍事ブロック反対、植民地体制反対、日独の再軍備反対、等の平和運動の基本方針を明らかにした。そして、同大会はこれらの課題を推進するための常設機関として、平和擁護世界大会委員会(五〇年一一月にワルシャワで開催された第二回世界大会で、世界平和評議会に発展改組)を設立し、以後この機関を中心に活動を展開していった。活動の主なものは、原子兵器禁止の署名運動を全世界に呼び掛けた五〇年三月のストックホルム・アピールの運動(上記の第二回平和擁護世界大会までの僅か八カ月間に世界中で五億余りの署名が集まったと言われている(15)、米英ソ仏中五大国に平和協定締結を要求する署名活動を展開した五一年二月のベルリン・アピール(署名数約六億一千万、そのうち日本は約六百万)、紛争の話し合いによる解決を要求した五三年六月のブダペスト・アピール署名運動、西独のNATO編入と再軍国化の脅威、NATOの核兵器使用決定(五四年一二月)に抗して、原子戦争の準備に反対する署名運動を推進した五五年一月のウィーン・アピール(署名数約七億)等の一連の署名運動の展開とその成功である。その間、世界平和評議会の呼び掛けで、朝鮮・インドシナ両戦争最中の五二年一二月に、ウィーンで諸国民平和大会(=第三回平和擁護世界大会)が開催され、五大国間の会談を要求する「五大国政府への呼び掛け」を採択した。この大会には八五カ国から一八八〇名が参加したが、そこには、それまで世界平和評議会に直接関係を持っていなかった「世界政府運動者、クェーカー教徒、中立主義的平和運動、様々な平和主義者が集まり、世界平和評議会の平和運動は、世界平和運動の大同団結を示すことになった(16)」。
  また特に日本に関して言えば、五四年三月の米国によるビキニ環礁水爆実験での第五福竜丸被曝事件を機に広範な原水爆禁止署名活動が起こり、翌五五年には原水爆禁止日本協議会(原水協)が結成されて、同年から以後毎年、広島と長崎で原水爆禁止世界大会が開催されていくことになった。それに続いて欧米諸国でも五〇年代後半に、例えば五七年四月の西独科学者による核兵器生産・研究協力拒否の「ゲッチンゲン宣言」、同年六月の米国のポーリング博士を中心とした核実験停止を求める「科学者アピール」、同年七月の「パグウォッシュ会議」(核戦争の危機に科学者が社会的責任を果たすよう訴えた五五年の「ラッセル・アインシュタイン宣言」に基づいて、カナダのパグウォッシュで開かれた科学者たちの国際会議)、五八年に結成された英国の「核軍縮運動」(CND)等の活動が展開されていった。
  以上の経過が示しているように、四〇年代末期から五〇年代にかけて推進された「世界平和評議会」の大々的な反戦・国際平和の署名活動や科学者たちの核兵器反対運動は、決して特定の政治・社会システム擁護ないし反対の立場に立ったものではなく、いわば超党派的な性格を帯びていたが、しかし、それらの運動の内実からすれば、核兵器を含む「力の行使」によって資本主義大国主導の国際秩序を維持しようとする勢力にとって対立的存在たらざるを得なかった。こうして、ここでもまた米欧支配層は、これらの運動に体現される自国民を含む世界各国民衆の平和志向との間に、トランスナショナルな階層間対抗関係を形成することになったのである。


(1)  柳沢英二郎他『現代国際政治  ’40s-’80s』亜紀書房、一九八五年、七三ー七五ページ。
(2)  NSC68「アメリカの国家安全保障に関する目標と計画」(抄訳)『「赤旗」評論特集版』一九九四年一月三一日号、二八、三一ページ。
(3)  「米ソいずれの軍事ブロックにも反対し、戦争に反対し平和を維持する平和地域の樹立をめざす」構想。柳沢英二郎他『危機の国際政治史  一九一七ー一九九二』亜紀書房、一九九三年、一八九ページ参照。
(4)  インド案が基になった経緯について、柳沢他『現代国際政治  ’40S-’80s』九一ー九二ページ参照。
(5)  同上書、九七ページ。
(6)  松岡  完『二〇世紀の国際政治』同文舘、一九九二年、一七九ー一八〇ページ参照。同所には、参加国のうち、インド、インドネシア、エジプト等、新興諸国の参加理由として、興味深い指摘が見られる。
(7)  スエズ戦争の原因と経過の概要について、同上書、二一〇ー二一二ページ、及び柳沢他『現代国際政治  ’40s-’80s』一三〇ー一三四ページ参照。
(8)  柳沢他、同上書、一三四ページ。
(9)  W・Z・フォスター(長洲他訳)『国際社会主義運動史』下巻、大月書店、一九五七年、二五六ページ。
(10)  同上書、二五九ページ。
(11)  同上書、二五六ページ。
(12)  「世界民主青年連盟」と「国際民主婦人連盟」の成立過程及び初期の活動について、同上書、二六〇ー二六四ページ参照。
(13)  蝋山芳郎編『岩波小辞典  国際問題  第2版』岩波書店、一九六八年、九九ページ。戦後初期段階における国際平和運動の詳細について、フォスター、前掲書、三一九ー三二二ページ、及び熊倉啓安『戦後平和運動史』大月書店、一九五九年、第II章、三二ー一一一ページ参照。
(14)  会場がパリとプラハの二カ所に分かれたのは、フランス政府が「共産圏」諸国代表の入国を許可しなかったからである。熊倉、同上書、三四ページ参照。
(15)  その主なものは中国−二億二三七五万、ソ連−一億一五五一万、東西ドイツ−一九〇〇万、イタリア−一七〇〇万、フランス−一五〇〇万、日本−六四五万、ビルマ−三五〇万、米国−三〇〇万、英国−一二〇万、インド−六七万、等であった。同上書、四〇ページ。
(16)  前掲『岩波小辞典  国際問題  第2版』一〇〇ページ。



四  その他の対抗関係(西西関係・東東関係・南南関係)の形成と展開
  以上に略述した主導的対抗関係としての東西関係、副次的対抗関係としての南北関係及びトランスナショナルな階層間関係以外に、戦後初期段階のグローバルな国際政治を何らかの程度において規定していたその他のサブ・レベルの国際関係として、既に第一節で触れておいたように、((1))資本主義諸大国同士の政治・経済・軍事関係に関わる西西関係、((2))形成過程にある「社会主義圏」内諸国の国家間関係を表す東東関係、((3))A・A新興民族国家の登場に伴って新たに浮上しつつあった南南関係、の三つがあった。これら三種類の国家間関係は、一九四〇年代後半から五〇年代にかけての時期には、基軸的対抗関係の形成・展開に対して、前二者ほど強い規定力を持っていなかったという意味で、ここでは「その他の対抗関係」として位置づけられている。しかし、基軸的対抗関係の発展ないし推移につれて、これら三つの国際関係の位置が変化していくことは、東西関係や南北関係、あるいはトランスナショナルな階層間対抗関係の場合と同様である。その点を踏まえた上で、以下西西関係、東東関係、南南関係の順で、それらの形成・展開過程を簡単に見てゆくことにしよう。
  〔1〕  西西関係の変容と米国のヘゲモニー確立
  本稿の冒頭で述べたように、第二次世界大戦終結を契機として、国際政治の展開基軸は根本的に転換し、その結果、戦前期に基軸的対抗関係の位置を占めていたいわゆる六大帝国主義列強(米・英・仏・独・伊・日)間の対立・協調関係は、戦後サブ・レベルの国際関係の一つとしての西西関係に転化し、それと同時に、相互の力関係も、その内部構造も戦前のそれから一変した。即ち、かつてある程度の政治・経済・軍事的拮抗状態を保っていた諸大国の地位は大戦直後大きく変容し、敗戦国の独・伊・日は連合国側の軍事占領下に置かれて、一時的にしろ列強の位置から転落し、また戦勝国のうち、英・仏両国も大戦で国力を疲弊させ、戦前領有していた膨大な植民地を喪失して、その地位を著しく後退させたのに対して、独り米国だけは軍事力と経済力の両面で他国の追随を許さない圧倒的優位(1)を獲得し、覇権的地位を確立するに至った。その結果、戦前存在していた大国間の一定の力の均衡状態は完全に崩壊し、今やヘゲモニーを掌握した米国が資本主義世界を領導・支配し、英仏を含む他の資本主義諸大国が、国によって程度は異なるにせよ、政治・経済・軍事の諸領域でアメリカに依存ないし従属するという、戦後特有の新しい西西関係の内部構造が成立した。資本主義大国間関係を構成する対立と協調の両局面のうち、対立を主調としていた戦前の様相とは異なり、特に戦後初期段階においては、前者の局面は後景に退き、一方における米国の主導と他方における西欧・日本の対米依存を色濃く反映した、非対称の協調的側面が顕著となった。対立から協調への重心の移行が、戦後国際政治における対抗基軸の転換の必然的所産であることは、改めて繰り返すまでもあるまい。では、このような西西関係の変容は、具体的にはどのように進行したのであろうか。以下その過程を簡単にフォローしておこう。
  第二節で概説したように、戦後初期段階の主導的対抗関係−東西関係に対する米欧諸大国の対応策は、米国主導の狭義の「冷戦」戦略(トルーマン・ドクトリン−マーシャル・プラン−NATO結成)として発動されたが、この戦略の形成・展開過程は同時にまた、資本主義世界全体、とりわけ西欧諸国に対するアメリカの政治・経済・軍事的ヘゲモニーが確立されてゆく過程でもあった。つまり、「冷戦」戦略の形成・展開は、西欧諸大国の対米依存ないし従属とパラレルに進行したのであり、それは西欧諸国の支配層にとって不可避の過程であった。けだし、戦前のいわゆる「一国社会主義時代」と異なって、ソ連という共通の目の上のたん瘤を抱えながらも、勢力圏の拡大を目指して自分たちの間で互いに戦争に訴えるといった「余裕」は、もはや失われてしまったからである。彼らにとって対米依存は選択肢の一つではなく、それ以外の選択はあり得なかった。このような「冷戦」政策の形成と米国の覇権確立の同時過程は、同国が戦時中に生み出した膨大な軍事力(特に原爆)と経済力を梃子に進行した。その当時、いわゆる「原爆外交」と「ドル外交」(「原爆帝国主義」と「ドル帝国主義」)と呼称されたものが、それである。
  第二次世界大戦中ヨーロッパと太平洋の両戦線で戦った米国は、海外に多数の軍事基地を設けたが、これらの海外基地は戦後も「自由世界の防衛」の名目で維持され、軍事占領下の西独・日本の米軍基地と共に、他の資本主義諸国の対米軍事的従属を推進する一つの手段となった。だが、アメリカの軍事的ヘゲモニー樹立の最大の武器となったのは、言うまでもなく大戦直後の原爆独占に始まる同国の強大な核戦力であった。「原爆帝国主義」の呼称が生まれる所以である。ソ連の原爆保有(一九四九年)後は、米国はいわゆる「核抑止力」戦略(ソ連の核保有後は不断の対ソ核優位によってソ連を牽制し、戦争の勃発を抑止して「自由世界」を防衛するという戦略)を打ち出して、益々強大な核戦力を開発・保持し、核戦争の脅威の名の下に西欧初め資本主義諸国を自国の「核の傘」の中に引き入れていった。自らは核兵器を保有しないか、あるいは英国(及び後年のフランス)のように保有しているとしても、その力が微弱な西欧諸国の支配層は、ソ連・東欧「全体主義」の脅威から「自国の安全」と「西洋文明」を守るためには、「世界の警官」=アメリカ合衆国の膨大な核戦力に依存せざるを得ないからである。このような米国の「核抑止力」戦略は四〇年代末期から五〇年代前半にかけて次第に形を整えてゆくが、その過程で、西欧、日本、及びその他の資本主義諸国の側は「共同防衛」において通常戦力を分担するという形で、前述した米国主導の集団的ないし個別的軍事同盟のシステム(NATO、CENTO、SEATO及び日米安保条約、米韓・米比・米台各相互援助条約、等)に組み込まれていった。
  ところで、資本主義世界における米国のこうした軍事的覇権の確立過程は、同国の経済的・金融的ヘゲモニーの樹立過程と不可分に絡み合っており、両者の過程は相互補完の関係に立って同時進行した。戦勝国、敗戦国を問わず他の諸大国が大戦で甚大な経済的破壊を蒙った中で、アメリカだけは戦時中から終戦直後にかけてその経済力と金融力を飛躍的に発展させ、戦後の世界経済における同国の地位は格段に高まった。資本主義世界の工業生産高、貿易額、金・外貨準備高に占めるその比率は、前出の注(1)の数字が示しているように大幅に増大した。しかし、大戦期に蓄積されたこのような膨大な生産力と資本力は、一旦終戦となるや、それらが有効に費消されない限り、資本主義的生産様式の下では遊休生産力、遊休資本に転化する。そこで、こうした過剰生産力と過剰資本の捌け口として他国の商品・資本市場を利用するために実施されたのが、マーシャル・プラン(欧州復興計画)その他の援助計画に具体化された、「経済援助」・「軍事援助」の名による莫大なドル撒布(国家資本・民間資本の輸出)であった。このような経済・金融支援は、米国の支配層にとって戦後恐慌回避のための商品・資本投下市場の確保に留まらず、それらの援助を通じて西欧・日本を含む被援助諸国の対米経済依存ないし従属を推進するための強力な手段でもあった。いわゆる「ドル帝国主義」の名称は、これに由来している。そして、そのような援助を実施するために米国政府のイニシアティヴで設立された国際機構が、大戦末期(一九四四年七月)の連合国経済会議(ブレトン・ウッズ会議)の協定に基づいて戦後間もなく設置されたIMF(国際通貨基金  一九四六年五月から業務開始)であり、更に、これまたアメリカの提唱で四七年四月ー一〇月のジュネーヴ国際貿易雇用会議で合意を見たGATT(関税・貿易に関する一般協定  四八年一月から実施)であった。IMFは、ドルを資本主義世界の事実上の基軸通貨として各国通貨をドルに結び付け、各国の財政・通貨政策に対する米国の介入を制度化することによって、ドルによる金融的秩序の確立に重要な役割を果たすことになった。他方、GATTは、加盟国間の関税障壁の軽減、差別待遇の撤廃の名の下に、世界貿易におけるアメリカの制覇に道を開く有力な手段として活用された。
  このような金融・貿易面での制度的保障の上に展開される米国の対外経済援助(=ドル支配)政策は、先に触れたように、西欧・日本その他の資本主義諸国に対する同国の軍事的ヘゲモニー確立と一体となって推進された。軍事的覇権確立と経済・金融的覇権樹立の同時進行、一体化は、具体的には、米国の大資本が最新の軍需産業部門(原子力産業・エレクトロニクス・宇宙開発分野等)を排他的に掌握し、そのための重要な原料資源(戦略物資としてのウラン・タングステン・コバルト等)を独占することによって、西欧・日本のライバル資本を自分たちに依存・従属させ、各国政府の軍事政策を左右するという形で行われ、また対外経済援助(大量のドル撒布)によって被援助諸国を自国の組織した軍事同盟網に引き入れる経済的基礎を整え、これらの国を自国主導の「冷戦」戦略に従わせるというやり方となって現れた。こうして米国をリーダーとし、西欧・日本をその追随者とする、非対象の力関係に基づく協調的西西関係が形成されたのである。
  しかしながら、このような戦後初期段階の協調関係は、「冷戦」戦略そのものが最初から内包しているある種の矛盾−米国支配層の西欧・日本のジュニアー・パートナーに対する経済的支援と軍事的梃子入れがやがて、アメリカ大資本のライバルとしての西欧と日本の大資本の育成・強化をもたらし、後者の同盟諸国の「相対的自立化」傾向を招く、という矛盾−の作用によって影響を受け、五〇年代末期以降、西西関係は一定の改変を余儀なくされることになった。その兆候は、特に西欧において、経済面では五七年のEEC(欧州経済共同体)の設立、また政治・軍事面では五八年六月に発足した仏ドゴール政権による「自主外交」の展開となって現れた。そこで先ずEEC創設とその意味について略説し、次いでドゴール「自主外交」(但しその実質化は六〇年代に入ってからであるが)に関して簡単に触れておくことにしよう。
  前述した米国の経済的・金融的支援(マーシャル・プランに基づくドル撒布)によって大戦直後の経済的危機を脱出した西欧諸国の支配層は、五〇年代後半以降その経済力の発展に応じて、対米軍事的依存・従属を前提としながらも経済面では一定の「相対的自立」を要求し始めた。それは、五七年三月に西欧六カ国(仏・西独・伊・ベネルックス三国)によって調印されたEEC条約(欧州経済共同体設立条約=ローマ条約)に基づく西ヨーロッパ経済統合への動きとなって具体化した。EECの設立は、((1))域内関税の引下げ・廃止、域外共通関税の設定、((2))域内での資本・労働力の自由移動、((3))共通農業政策の推進、((4))加盟諸国の海外領土の共同体編入、等により西欧諸国を一つの纏まった経済ブロックに編成して、形成途上のソ連・東欧「社会主義経済圏」(一九四九年一月にコメコン〔経済相互援助会議〕設立)やA・A新興諸国群の経済的発展に対処するという西欧諸国支配層の共通の要求(但し英国と北欧は、この時点ではEECに参加せず、別個にEFTA〔欧州自由貿易連合、六〇年設立〕を組織した)に根差すものであった。だが他方、そこには、アメリカ資本の更なる支配強化に対して西欧資本独自の利益を守るという要素も萌芽的には孕まれていた。
  従って、自国主導の資本主義世界経済の強化を目指す米国にとって、EECの発足はある意味でディレンマであった。EECに先行して五二年に発足したECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)の設立の際に米国が賛成、協力した事実(2)から明らかなように、アメリカは、「冷戦」戦略の一環としてソ連・東欧「社会主義圏」に対抗する西欧の経済的復興と発展を歓迎し推進する立場に立っていたが、しかし、近い将来自国資本の強力なライバルとして成長する可能性を秘めた統合ヨーロッパの出現を双手を挙げて歓迎する立場にはなかった。その意味では、EECの設立と拡大は、米国と西欧の西西関係に潜在する対立的局面をある程度進行させることになる。とはいえ、その後のEECの成長は必ずしも米国の影響力低下に直結するものではなかった。というのは、六〇年代以降アメリカ民間資本の対西欧輸出は激増し、しかも米国を本拠とする多国籍企業の西欧進出(特にハイテクノロジー部門)が続き、米資本を中核とする資本の国際的結合が進行していくことになるからである。つまり、EECの成立と発展は、確かに一面では西欧の米国からの「遠心化」傾向を伴いつつも、半面では逆に資本の国際化を通して米・西欧の「求心化」傾向をも強めていくことになるのである。そうした意味で、西欧の対米自立化はあくまでも「相対的自立化」なのである。
  五〇年代末期以降の米・西欧関係に現れたこのような「遠心化」傾向と「求心化」傾向の二面性は、部分的にせよ政治・軍事的関係にも生まれつつあった。五八年に成立したフランスのドゴール政権がその後六〇年代に華々しく展開する対米批判の「自主外交」がそれである。例えば、インドシナ介入に深入りする米国の向こうを張ってフランス政府が六三年に提唱したインドシナ中立化構想、同じく六三年のフランス独自の核武装化構想、六四年の対中国交回復と対ソ接近、六八年のNATO軍事機構からの脱退、等の対外政策や行動は、そうした「自主外交」の動向を物語っている。尤も一九六〇年代は、次稿で詳説するように、それまでの「米ソ対決・国際緊張激化時代」からいわゆる「米ソ平和共存・デタント時代」に移行しており、その限りで言えば、ドゴール・フランスの対米「自主外交」は、そのような米国の対ソ戦略転換を前提としつつも、にもかかわらず米国が自分たちの頭上越しに独占的に展開する対ソ戦略と世界戦略の転換に対する西欧諸国の不安と不満をある程度代弁したものであり、米国と西欧との間の「遠心化」(いわゆる西側の「多極化」)傾向を誇大視することは禁物であろう。けだし、ドゴール・フランスの対米抵抗は、新旧国際秩序をめぐる基軸的対抗関係の全体的枠組みからすれば、所詮「コップの中の嵐」に留まらざるを得なかったからである。言い換えれば、米国の核戦力というシェルターに保護された上での西欧、特にフランスの「相対的自立化」要求の枠を出るものではなかったのである。
  〔2〕  東東関係の形成と内部矛盾の生成
  以上に略述した西西関係と対比して、その規模と世界政治に及ぼす現実の影響力の点でよりマイナーではあるが、戦後初期段階の国際政治に初めて登場したサブ・システムの一つに、「社会主義圏」を構成するソ連・東欧・アジア諸国間に形成されつつある東東関係(社会主義諸国間の政治・経済・軍事的関係)があり、その内部には、第二節で言及したソ連・ユーゴスラヴィア紛争が示しているように、四〇年代末に早くも一定の対立(内部矛盾)が現れていた。
  かつてマルクスとエンゲルスは『共産党宣言』の中で、「一個人による他の個人の搾取が廃止されるにつれて、一国民による他の国民の搾取も廃止される。/一国民の内部の階級対立がなくなれば、諸国民の間の敵対関係もなくなる(3)」と予見していたが、それから丁度一世紀後に発生したソ連・ユーゴ紛争の現実は、彼らの予見を裏切っていた。それでは、彼らの予見的命題そのものが最初から誤っていたのであろうか。東東関係の形成途上に発生した、この紛争を含む諸々の否定的現象とそれらの要因を解明するためには、彼らが述べていたそれ以外の命題にも耳を傾ける必要がある。即ち、マルクスは『ゴータ綱領批判』の中で、将来の共産主義社会について、それは「それ自体の土台の上に発展した」社会ではなく、「反対にいま漸く資本主義社会から生まれたばかりの」社会であり、従って共産主義社会は「あらゆる点で、経済的にも道徳的にも精神的にも、それが生まれ出てきた母胎たる旧社会の母斑をまだ帯びている(4)(傍点は引用者)と述べており、また彼は、史的唯物論の定式として有名な『経済学批判』の「序言」で、「物質的生活の生産様式が、社会的、政治的、及び精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。・・・経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造全体が、あるいは徐々に、あるいは急激に覆る(5)(傍点は引用者)と論じていた。これらの命題を手掛かりにしながら、以下形成途上の「社会主義圏」の国際関係とその内部矛盾について簡単に見ておこう(6)
  第二節で述べたように、一九四〇年代後半から形成されつつあったソ連・東欧「社会主義圏」は、形成途上の社会主義諸国の社会・経済的統合体というよりはむしろ、実態としては政治・軍事的側面に大きく傾斜した「社会主義陣営」であり、しかも急激に加速する外部からの「冷戦」圧力は、そうした側面への傾斜を強める方向に作用した。「社会主義圏」形成過程に刻印されたこのような政治・軍事的傾向は、その構成諸国の社会・経済的建設に否定的影響を及ぼさずにはおかなかった。更に圏内の東東関係といっても、それは前述の西西関係よりも遥かに非対称な国家間関係(主導的地位にあるソ連と模倣・追随を余儀なくされる東欧・アジア諸国)であり、そしてこれらの国家及びそれらの間に形成される政治・経済的相互関係には、マルクスの言う「旧社会の母斑」が濃厚に付着していた。しかもその「母斑」は、彼が想定していた「旧社会」=近代資本制社会のそれだけではなくて、それ以前のいわば「旧・旧社会の母斑」=封建制・絶対主義体制の残滓をも色濃く残していた。その点は、東独とチェコスロヴァキアを除く他の東欧及びアジアの「社会主義国」のみならず、革命後三〇年を経ていたソ連の場合も例外ではなかった。マルクスが指摘していたように、「旧社会」で培われた人々(指導層を含む)の意識(例えばロシア大国主義)という「上部構造」の一環は、経済的基礎が社会主義の方向に変化しても直ちに覆るのではなしに、「徐々に・・・覆る」のである。前出のソ連・ユーゴ紛争におけるソ連側の対応には、外部からの「冷戦」圧力と絡んで、そうした「旧・旧社会の母斑」が反映していたと言えよう。
  従って、戦後初期段階の東東関係には、少なくとも三つの要因、即ち((1))米欧からの「冷戦」攻勢という外部要因(否定的要素)、((2))「一国民の内部の階級対立がなくなれば、諸国民の間の敵対関係もなくなる」という意味で社会主義諸国に内在する相互協力推進の内部要因(肯定的要素)、((3))「旧社会と旧・旧社会の母斑」という内部要因(否定的要素)、が互いに複雑に絡み合って作用したのである。そのことは、一九四九年に設立されたコメコン(経済相互援助会議)及び一九五五年に結成されたワルシャワ条約機構(WTO)の場合に当てはまるであろう。四九年一月のコメコン創設(原加盟国は、ソ連・ポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア、後に東独・アルバニアが加入)は、米国が「冷戦」戦略の一環として四八年四月から実施し始めた対西欧経済援助(マーシャル・プラン)に対するソ連及び「社会主義陣営」の対抗措置を直接の契機とするものであって、その目的は、経済経験の交流、技術的相互援助、原料・食糧・機械・設備その他の相互援助を行うことであった。ソ連の公式統計によれば、コメコン諸国の工業生産高は一九五〇年を一〇〇として五五年には最低一六八ー最高二一二、六〇年には最低二六七ー最高三九七へと増大しており、またそれらの産業構造に占める工業部門の比率も五〇年代末には最低五六%ー最高八七%に、更に工業生産高に占める生産財の比率も同時期にブルガリアの四七%は別として、他の加盟国は五四%ー七二%に達していた(7)。その限りで言えば、コメコンを通じての国々の経済協力と相互援助は、各国の「社会主義経済」建設にそれなりの役割を演じたことになる(前記の三要因のうち((2))の要因の作用)。また五五年五月にワルシャワでソ連・東欧八カ国間に締結された東欧友好協力相互援助条約(ワルシャワ条約)とその軍事機構(WTO)は、前述のように、前年五四年の西独の再軍備とNATO加盟への対抗措置として設けられたものであり、米欧からの「冷戦」圧力が継続していた当時の状況からすれば、形成途上の「社会主義圏」にとって、それ自体は必要な軍事的措置であったと言えよう(やはり((2))の要因の作用)
  しかし、問題は、形成期の東東関係を規定するこの((2))の要因は、コメコンとWTO結成の経緯が物語っているように、否定的要素としての((1))の要因と無関係ではなかったことである。当時のいわゆる「マルクス・レーニン主義的」教義では、工業生産における生産財生産部門の消費財生産部門に対する優位は社会主義経済の発展の指標とされていたが、これは見方を変えれば、国民生活に不可欠の消費財生産の犠牲において重工業(軍事工業)生産が突出することを意味していた。これが、外部からの「冷戦」圧力(((1))の要因)の結果余儀なくされたものであることは言うまでもない。この圧力がなければ勿論WTO結成の必要もなく、その場合には、よりバランスのとれた社会主義経済の基礎構築が可能になっていたであろう。しかも、コメコンにおいてもWTOにおいても主導的地位に立っていたのは、「旧・旧社会の母斑」を帯びた「社会主義の先進国」ソ連であった(((3))の要因の作用)。WTOに基づいて東欧諸国に駐留していたソ連軍の法的地位協定が欠如していたことは、既に見たとおりである。((2))の相互援助・協力の要因を内在させつつも、あるいはそのような協力を部分的に実現しつつも、それを制約し、且つ歪曲する((1))と((3))の要因の作用−そこに、形成途上の東東関係に内部矛盾と対立を胚胎させる原因があった。それはWTOの結成後間もなく、四〇年代末のソ連・ユーゴ紛争以上の大事件となって表面に現れることになった。
  その切つ掛けとなったのは皮肉にも、一九五六年二月のソ連共産党第二〇回大会でフルシチョフ党第一書記が行ったスターリン「個人崇拝」批判であった。「個人崇拝」批判そのものは、ソ連に残存している「旧・旧社会の母斑」(特定の政治指導者を神格化する前近代的遺制)克服の一環として積極的意義を持っていたが、その唐突なスターリン弾劾は「社会主義圏」内部に深刻な動揺を惹き起こさずにはおかなかった。特に、「冷戦」の重圧下に過度の重工業化(軍事工業化)政策を取り、国民の消費生活を抑制することによって国内に一定の不満と憤懣を蓄積していた一部の東欧諸国では、ソ連でのスターリン批判は、これらの国にとって対ソ追随主義と自国の特定指導者(「小スターリン」)に対する「個人崇拝」の弊を改めさせる契機となると同時に、その反作用として民衆の対政府批判を激化させ暴発させる一因ともなった。その典型となったのが、同年六月のポーランドのポズナン事件と一〇月ー一一月のハンガリー動乱である(8)。ポーランドでは、六月末工業都市のポズナンで労働者が物価引下げと賃上げを要求して暴動を起こし、その圧力の下に、かつて「チトー主義者」として追放されていたゴムルカが一〇月に政権に復帰した。ゴムルカは直ちに改革に着手し、「社会主義への多様な道」を掲げて、自国の性急な農業集団化の廃止、宗教の自由容認等を実施して国民の要求に答えるとともに、ソ連に対して自国が「社会主義陣営」の一員として留まることを約束した上で、不平等な両国経済関係の見直し、駐留ソ連軍の法的地位の確認等を要求した。スターリン批判の中で「社会主義への移行形態の多様性」を打ち出していたフルシチョフ政権側は譲歩を余儀なくされ、同年一一月の両国党・政府代表会談で、ポーランド炭輸入価格の引き上げ、ポーランドの対ソ負債の帳消し、駐留ソ連軍の法的地位協定の締結等を約束した。こうしてポーランドには一時、いわゆる「一〇月の春(9)」が訪れたが、これに続くハンガリー動乱の場合は、逆に悲劇的な経過を辿ることになった。
  ポーランドの「一〇月の春」に刺激されて、隣国のハンガリーでも一〇月下旬に、対ソ追随路線を取ってきたラコシ=ゲレ政権に対する学生・労働者・市民の反政府デモが首都ブダペストで発生し、「チトー主義者」として追放されていたイムレ・ナジの首相就任と自由の回復を叫び、ソ連軍の撤退を要求した。ゲレ政権はナジを首相に迎えたが、同時に民衆の運動を抑えるためにソ連軍の介入を要請した。ソ連軍の出動で逆にデモは暴動化し全国に拡がった。そうした危機的状況の中で、ナジ首相はソ連軍のブダペストからの撤退を求め(これは一時的に実現した)、更に複数政党制の容認を発表した。だが、ナジ政府のラディカルな自立化路線の「行き過ぎ」を懸念したソ連とハンガリー党指導部(カダル第一書記)は、カダル「臨時政府」の要請という形を取って大規模なソ連軍の第二次軍事介入を行い、民衆の暴動を鎮圧した。ナジ首相はそれに抗議して、一一月一日に自国のWTOからの脱退、ハンガリー問題の国連提訴を声明したが、彼自身がソ連軍に連行され間もなく処刑された。こうしてナジ政府の目指したラディカルな自主路線は挫折を余儀なくされ、それに代わって今や「臨時政府」の衣を脱ぎ捨てたカダル政権が登場したが、その下でハンガリーは六〇年代以降、徐々に「穏健路線」に沿った政治・経済改革を進めていくことになる。
  しかしながら、ハンガリー動乱の悲劇を、単なる悲劇とのみ見做すのは一面的評価であろう。というのは、ハンガリーの手探りの自主路線追求は先行のポーランドの「一〇月の春」と並んで、東東関係に実在していた不平等な歪んだ関係(主導・介入するソ連と模倣・追随する東欧諸国、という関係)を、一時的・部分的にせよ修正していく上で重要な契機となり得たからである。ハンガリー動乱最中の同年一〇月三〇日にソ連が「政府宣言」を発表し、その中で、同国が東欧諸国との間で同権原則を侵害する行為を犯していた事実を認め、その改善を約束して、「社会主義共同体諸国は、完全な同権、領土の保全と国家的独立及び主権の尊重、相互の内政不干渉という原則の上にのみ、その相互関係を樹立することができる(10)」と述べざるを得なかったことは、そのことを物語っている。この「政府宣言」に沿ってソ連は同年一一月から翌五七年五月にかけて、東欧・アジアの「人民民主主義」諸国との間に一連の協議を行い、前記駐留ソ連軍の法的地位協定の締結(ハンガリー・ポーランド・ルーマニア・東独)を含めて、各国との政治・経済・軍事的関係の調整を図った。こうした関係調整が必要となったことは、東東関係を規定する前述の((1))、((2))、((3))の三要因の結果であると同時に、ソ連と東欧・アジア諸国との間に生成しつつあった新たな内部矛盾の所産でもあったと言えるだろう。即ち、この新しい内部矛盾とは、一方では、ソ連の介入的支援の下にともかく社会主義社会構築の一歩を踏み出した後者の国々が、やがて自国にとってのソ連モデルの不適合性を体験させられて、自国の政治・経済的条件にマッチした自主路線を目指そうとし、他方、ソ連はそうした試みを「異端」として抑えようとするところから発生する対立であって、当初は発生の条件を持ち得なかった内部矛盾である。換言すれば、「社会主義圏」が徐々に形成されてきた時点で初めて生ずる矛盾であると言ってもよい。
  この新たな内部矛盾は、既存の三つの規定要因と絡み合って東東関係全体に影響を及ぼしていくことになるが、とりわけ、それが劇的な展開を見せるようになるのは、五〇年代末期から潜在的に進行し六〇年代に入って表面化する、社会主義建設路線をめぐる中ソ両国共産党間のイデオロギー論争(ユーゴスラヴィアの社会主義路線、スターリンの功罪、五八年に始まる中国の「大躍進政策」、五九年の中国・インド紛争へのソ連の対応、ソ連の対米接近と「アメリカ帝国主義」の性格規定、等をめぐる両党間の評価の対立)、次いで両国の国家間対立である。そして、この中ソ間のイデオロギー的対立とそれに起因する対外政策上の対立が、六〇年代以降の国際政治の動向に、従ってまた基軸的対抗関係の展開に重大な影響をもたらすことになる。しかし、五〇年代末期に胚胎していたこの中ソ対立に関しては、叙述の便宜上、戦後国際政治の第二段階を扱う予定の次稿で取り上げることにする。
  〔2〕  南南関係における紛争の発生とその性格
  上述した東東関係と並んで、戦後初期段階の国際舞台に始めて出現したもう一つの新たなサブ・レベルの国際関係は、A・A地域の新興民族国家間に形成される協力・対抗の関係、即ち南南関係である。前節の〔1〕で考察したように、戦後のアジア・アフリカ地域の民族独立運動を推進し、また国家的独立獲得後は、大国支配に抗してA・A諸国を「バンドン会議」(一九五五年四月)に結集させた力は、言うまでもなくナショナリズムの潮流であった。しかし、ナショナリズムは双刃の剣であり、外部の大国支配の圧力に立ち向かうときには新興諸国を協力・連帯させ、統一行動へと駆り立てる鋭利な正義の刃となるが、新興諸国同士の相互関係の面では、時として国境問題、宗教問題、少数民族の帰属問題等をめぐって紛争を引き起こし、民衆の間に排外主義的感情を煽り立て、諸国間の連帯と協力を断ち切る悪魔の邪剣ともなる。ナショナリズムに内在するこのようなアンビヴァレントな属性が、米欧諸大国によって分断支配のために意図的に利用されるとき、南南関係における消極的側面が露呈する。更に戦後初期段階の南南対立が、当時の東西関係及び南北関係と交錯しながら形成され展開していく場合も稀ではなかった。以下、戦後初期のアラブ・イスラエル紛争(第一次及び第二次中東戦争)を中心に、この時期の南南関係に発生した紛争について簡単に触れておくことにしよう。
  周知のように、東地中海沿岸のパレスチナでは、第一次世界大戦当時の英国の矛盾した政策(一九一五年の「フセイン=マクマホン書簡」と一九一七年の「バルフォア宣言」)の結果、同大戦後同地に入植し始めたユダヤ人と現地のアラブ人との間に民族・宗教上の相違、経済的利害の対立をめぐって紛争が発生し、流入ユダヤ人の数が増えるにつれて両者間の軋轢は拡大していった。第二次世界大戦後の四七年に英国は同地に対する委任統治権を放棄し、国連総会は同年一一月、パレスチナのアラブ・イスラエル両国への分割を決定した。この分割案にアラブ諸国は反対したが、それぞれの思惑から支持に回った米ソを含めて、多数国は賛成した(11)。これに基づいて翌四八年五月にイスラエル共和国が樹立され、その後米ソ英仏等は相次いで同国を承認したが、アラブ諸国(シリア・エジプト・イラク・サウジアラビア等)はイスラエル建国を認めず、建国の翌日共同してパレスチナに侵攻し、約一年間戦争が続いた。これが第一次中東戦争である。次いで五六年一一月にイスラエルと英仏がエジプトに侵攻し、第二次中東戦争(スエズ戦争)が勃発したが、これについては前節で触れたので省略する。この二度にわたる中東戦争は、確かにイスラエル対アラブの南南抗争ではあるが、そこには明らかに、西・北の大国が支援するイスラエルと南のナショナリズムをバックに持つアラブ諸国との対抗という構図(南北抗争)が透けて見える(12)。また四七年秋に起こったカシミール地方の帰属をめぐるインド・パキスタン紛争も、宗教上の問題(ヒンズー教対イスラム教)が絡んでいるとはいえ、元々は英国による同年八月の英領インドの分割独立(インドとパキスタン)承認に起因しており、ここにも大国による分割支配の負の遺産が見出されるのである。従って、戦後初期段階に発生した南南対立は、民族解放運動の大規模な展開を危惧する欧米諸大国の思惑と無関係ではなかったと言えよう。


(1)  第二次世界大戦で欧州と太平洋の両戦線で戦った米国は、その過程で自国の陸軍力を戦前の一七位から一位へ、海軍力を二位から一位へ増大させ、原爆、戦略空軍等全ての分野で圧倒的優位を保持するに至った。また経済面では、同国のGNPは戦前一九三九年の九一一億ドルから四五年の二、一三六億ドルへ、資本主義世界全体の鉱工業生産高に占める比率は戦前の四二%から四六年の六二%へ、世界貿易に占める比率は戦前の八分の一から四九年の三分の一へ、と飛躍的に増大し、更に四七年における米国の金保有高は世界全体の七〇%近い二二九億ドルに達していた。世界政治学団体研究会編『戦後世界政治の構造』法律文化社、一九七二年、四〇、五五ページ参照。
(2)  前掲『岩波小辞典  国際問題  第2版』の「欧州石炭鉄鋼共同体」の項目(同書一〇〇ページ)参照。
(3)  『マルクス・エンゲルス全集』第四巻、大月書店、四九三ページ。
(4)  同『全集』第一九巻、一九ー二〇ページ参照。
(5)  同『全集』第一三巻、六ー七ページ。
(6)  戦後初期段階における東東関係の経過、及びその内部矛盾の発生要因と性格について詳細は、前掲拙著『社会主義国際関係論序説〔増補版〕』第二章、第四章、及び第六章を参照。
(7)  同上書、五一ー五二ページ所載の第5表「社会主義体制諸国の社会的生産構造の平準化」及び第6表「セフ加盟国の工業生産高の動態」を参照。但し当時のソ連の公式統計数字には、信憑性の点で問題があることを考慮する必要があろう。
(8)  ポズナン事件とハンガリー動乱の概要について、柳沢他、前掲『現代国際政治  ’40s-’80s』一一九ー一二二ページ、松岡、前掲『二〇世紀の国際政治』二二三ー二二七ページを参照。
(9)  「一〇月の春」は、同年一〇月二一日の「ワルシャワ放送」で、あるラジオ解説者が「いまはまさに一〇月の春だ。希望に目覚め民族の誇りに目覚めた春だ。・・・我々自身の進むべき社会主義へのポーランドの道を明らかにしようと断固決意した春だ」と放送したことに因んでいる。コンラッド・シロップ『十月の春』(雪山慶正訳)新興出版社、一九六五年、二〇〇ページ。
(10)  前野  良編『ハンガリー問題』合同出版社、一九五七年所収、二七九ページ。
(11)  パレスチナ問題の歴史的背景についての詳細は、松岡、前掲『二〇世紀の国際政治』二〇五ー二〇八ページ、前掲『岩波小辞典  国際問題  第2版』一六五ー一六六ページを参照。
(12)  ソ連がイスラエル共和国の最初の承認国であったという事実も、またスエズ戦争で米国が英仏の対エジプト侵攻に反対票を投じたという事実も、前者の場合は、その当時、自国内の対イスラム教徒政策でアラブ諸国との関係を悪化させていたからであり、後者の場合は、中東地域からの英仏勢力の駆逐を謀っていたからであって、両国ともアラブ民族主義の高揚を手放しで称揚していたわけではない。従って、これらの歴史的事実は、ここでいう構図(南北抗争)を覆すものではなかろう。


  以上に概観してきたように、戦後初期段階(一九四〇年代後半ー五〇年代)の国際政治過程は、戦前とは異なる新しいグローバルな対抗基軸(従来の資本主義諸大国主導型国際政治経済秩序の存続・強化を図る勢力と新たな国際秩序の形成を模索する勢力との間の基軸的対抗関係)が初めて姿を現し、次第にその形を整えてゆく時期に当たっており、そして、この基軸的対抗関係に規定されて、そのサブ・システムを構成する六つの国際関係と内部の対抗関係が若干のタイム・ラグを伴いつつも出揃い、相互に交錯しながら戦後国際政治の原型像を形作ってゆく歴史的過程であった。このような新たな対抗基軸の出現に逸早く気付いたのが他ならぬ米国の支配層であり、トルーマン政権の打ち出した広義の「冷戦」戦略は、既に見たように、それへの全般的な対応戦略であった。この対抗基軸の一方に位置する当面最大の「敵」が、ソ連の領導する形成途上の「社会主義圏」と目される限り、この戦略は、主導的対抗関係に対処するための対ソ「封じ込め」という、軍事力に主眼を置いた狭義の東西「冷戦」政策として発動されたのであった。しかし、「敵」は「社会主義陣営」だけではなかったことが間なしに判明した。南北関係と国境を越えた階層間対抗関係が、東西対抗関係を補完する副次的対抗関係として浮上した。旧来の帝国主義間対立は、これら二つのレベルの主導的・副次的対抗軸に規定されて、今や米国を覇権国とする西西関係へと変容し、また国際舞台に新たに登場した東東関係も南南関係も、やはり対抗基軸の作用を受けて、当初からデフォルメされた形で出発せざるを得なかった。だが、それぞれのサブ・システムの歴史的展開、特に南北関係、西西関係、及び東東関係のそれは、広義の「冷戦」戦略のプランナーたちに主導的対抗関係の位置づけの再検討を迫ることになり、六〇年代以降、一定の戦略変更を余儀なくさせていくことになる。 (完)