「西欧植民地国家=英仏蘭三カ国は、自らの既得権益=勢力範囲の維持に努めたが、アジアの民族革命の高まりへの対応は各々異なっていた。フランス、オランダの場合は形式的な独立そのものさえ認めず、そのためインドシナ、インドネシアで独立戦争が勃発した。これに対し、イギリスは植民地諸国に形式的な独立を与えることにより、実質的支配を維持することをめざした。四七年二月には、インド、パキスタン、翌四八年二月にはセイロンが英連邦内の自治国として独立するのを承認した。・・・/アメリカのアジア政策のモデルとなったのがフィリピン政策であった。四五年初頭、マッカーサー率いる米軍が、・・・四二年以来日本軍に対しゲリラ闘争を展開していたフィリピン人民抗日軍(フクバラハップ団)を武装解除させ、その指導者を投獄した。・・・フィリピンは四六年七月四日アメリカからの独立を宣言した。独立同日、アメリカに対して市場を開放することを骨子としたベル通商法(フィリピン通商法)が結ばれた。次いで四七年三月に米軍基地の九九年借地権を内容とした『米比軍事基地協定』が結ばれ、アメリカはフィリピンにおいて絶対的地位を築いた。/そして、戦後のアメリカは東南アジアへの政治的・経済的浸透を図ろうとしたので、西欧諸国との間に対立が起こった。その対立の典型的な例がインドネシアの独立をめぐるアメリカとオランダとの対立であった。石油資源の宝庫インドネシアでは、アハメド・スカルノのような民族主義者が四五年八月一七日にインドネシア共和国の独立を宣言したが、オランダは独立を認めず、独立戦争が開始された。オランダは、四六年から四七年にかけてと四八年との二度にわたる武力攻撃、いわゆる”警察行動”を起こした。アメリカはインドネシア側を支持し、オランダに対しマーシャル・プランの取り消しという圧力をかけた。四九年一一月に開かれたハーグ円卓会議で、インドネシア共和国独立が承認された。アメリカは、オランダに代わり、インドネシアにおける政治的、経済的進出の足場を築いたことになった(1)。」