立命館法学  一九九六年一号(二四五号)
「第三世界」のナショナリズム論(南野)
「第三世界」のナショナリズム論
−「従属理論」派ナショナリズム論をめぐって−
南    野    泰    義
目    次
一  はじめに
二  「従属理論」形成の史的前提
三  「従属理論」の世界認識
四  「従属理論」とナショナリズム
五  まとめにかえて

一  は  じ  め  に
  米ソ冷戦体制の終焉とともに、帝国主義論への関心は後退した。それは第三世界における民族解放運動に対する関心をも後退させることになった。そうした情勢の中で、かつて従属理論をはじめとする構造主義派の議論に対する評価も後退した感がある。しかし、ポスト冷戦の時代は、「文明の衝突」に向かうという議論さえ出てきている。サミュエル・ハンチントンは、米ソ冷戦の終焉によりイデオロギーの対立は後退し、ヨーロッパと非ヨーロッパとの「文明の衝突」の時代が来ると予想した(1)。一九九〇年から始まる湾岸危機・戦争が、主権国家概念を中心とした西欧国際システムとイスラム教的ウンマ(宗教的共同体)概念を基底にもつイスラム国際システムとの対抗軸の中で起ったことからも、そうした時代の到来を予見させた。ハンチントンの議論は、ヨーロッパ的な価値が普遍的意味を持てなくなったことへの危機感から、ヨーロッパ文明を相対化することをつうじてその再興を追求したものである。しかし、それは、ヨーロッパ文明が第三世界を席巻し、同化することがもはや不可能であることの裏返しでもあると思われる。
  これまで、ヨーロッパの側から非ヨーロッパ圏を見る場合、ヨーロッパ的な価値基準を尺度としてきた経過がある。モンテスキューは『法の精神』の中で、「アジアには隷属の精神が支配している。この精神はいまだかつてアジアを去ったっことがない。そしてこの地方の全歴史の中に、自由な魂を例示するただ一つの特徴をも見出すことは不可能である(2)」と指摘した。また、ヘーゲルは、『歴史哲学』の中で、アジアについて「この歴史もそれ自身はまだ何といっても没歴史的なものである。というのは、その歴史はただ同じものを〔太陽〕の荘厳な没落の〔毎日の〕繰り返しにすぎないからである。\\なぜなら、そこには如何なる進歩も作り出さないからである(3)」と述べている。彼らは、けしてAALAのすべてについて語っているわけではない。しかし、ヨーロッパにおけるヨーロッパ以外の地域に対する目は、ヨーロッパ的な発展を尺度にしたものであったことは否定できない。
  ヨーロッパにおける近代市民社会形成は本来的に、資本=賃労働関係を内包するものであった。だが他方で、ヨーロッパ近代は、資本主義的な搾取関係と同時に、市民社会の克服を通じて人間の解放を展望する社会主義理論を生み出すことになった。マルクスやエンゲルスによる社会主義理論は一方で封建制を克服すべき近代化を容認しつつ、他方で近代化、つまりヨーロッパ型の市民社会が持つ資本主義的な制約を否定することを通して、被抑圧人民の解放を展望していた。それゆえ、西欧市民社会の歴史性と限界性を指摘し、その揚棄を展望したという点で、西欧=発展というシェーマを克服しているかに見えた。
  しかし、マルクスは、そのインド論の中でアジア社会について次のように述べている。「インドに歴史らしいもがあるとすれば、インドの過去の全歴史は、インドがうけたあいつぐ征服の歴史である。インドの社会はまったく歴史をもたない。すくなくとも人に知られた歴史はない。われわれがインドの歴史をよんでいるものは、この抵抗しない、変化しない社会という受動的な基礎のうえに、あいつぐ侵略者が帝国をつくりあげた歴史にすぎない。\\イギリスは、インドで二重の使命を果たさなければならない。一つは破壊の使命であり、一つは再生の使命である。−古いアジア社会を滅ぼすことと、西欧的社会の物質的基礎をアジアにすえることである(4)」と。また、マルクスは「イギリスの干渉は、\\この小さな半野蛮、半文明の共同体の経済的基礎を破壊して共同体を解体させ、こうすることによって、アジアでかつて見られた最大の、じつは唯一の社会革命を生み出したのである(5)」と言うのである。かくて、マルクスは、非ヨーロッパ社会であるインドがヨーロッパ文明の洗礼を受けることにより、アジア的な停滞社会から目覚め、ヨーロッパ的な市民社会を追求することになると考えていた。そして、その延長上に、近代的な個人主義に陶冶された労働者階級がイギリス帝国主義に対して革命運動を闘うことになることを予定していた。つまり、ヨーロッパ近代文明の第三世界への伝播により、第三世界の停滞性を克服し、近代的なエートスを培養するとともに、階級意識の高揚を期待したのである。
  以上、モンテスキューやヘーゲル、そしてマルクスによるアジア社会論である。かれらは第三世界の全体像について述べているわけではないが、その分析にあたって、西欧近代における市民社会に歴史的判断の価値基準を求めることにより、西欧=発展、第三世界=停滞という分析シェーマで把握している点が看取される。こうした西欧=発展、第三世界=停滞というシェーマによる分析からは、発展した文明国の歴史的発展を普遍化し、これを教えるためには停滞している第三世界を支配し、「保護」・「援助」しなければならないという論理に転化し、第三世界の独自の論理やその背景にあるナショナリズムは無視されることになる。イギリスの著名なナショナリズム研究者であるアンソニー・D・スミスは、「西欧以外のナショナリズムを分析し、説明する場合、西欧的な基準に依拠する傾向が顕著に見られる。例えば、アフリカのナショナリズムを認識する場合、ヨーロッパのナショナリズムと同じ特徴を持っている否かという基準から判断することがよくある。\\(それゆえ)われわれは未だ、多くのナショナリズム研究が依拠するヨーロッパ型のナショナリズム論から解放されていない(6)」とヨーロッパ中心主義的な研究状況を批判している。それゆえ、われわれが、第三世界側の立場に立つ研究を追求する場合、この普遍的価値としての西欧市民社会を脱構築することにより、西欧=発展というシェーマの裏返しとしての第三世界=停滞という論理を克服する必要があると思われる。
  戦後、第三世界は民族解放運動の結果、国家的な独立をはたした。しかし、そこに誕生したものは、これまで西欧で考えられてきた民族や国家とは異なったものでないかという疑問が提起された。今日、そうした疑問に答えるべく、西欧に起源を発する民族理論やナショナリズム論の再検討が始まっている。本稿では、その一つの試みとして、第三世界の民族的解放の論理と考えられてきた従属理論をとりあげ、その民族・ナショナリズムの理解について検討する。
「ノ8.5゙80」
(1)  Samuel P. Huntington,”The Classh of Civilization?  Forreign Affairs, Summer, Vol. 72, No. 3, 1993, p. 22.
(2)  モンテスキュー『法の精神』(中)(一七四八年、岩波書店)一一四ページ。
(3)  ヘーゲル『歴史哲学』(一八三七年、『ヘーゲル全集』I上巻、岩波書店、一五九ページ)。
(4)  マルクス「イギリスのインド支配の将来の結果」(一八五三年、『全集』H、二一三ページ)。
(5)  同「イギリスのインド支配」(一八五三年、『全集』H、一二六ページ)。
(6)  Anthony D. Smith, Theories of Nationlism (2nd. ed.), New York, 1983, pp. xi-xiv.
「ノ8.5」
二  「従属理論」形成の史的前提
  バニア・バンビーラによれば、従属理論は六〇年代、キューバ革命の成功を契機に、この革命を理論的に擁護する役割をになった。それは、従来ラテンアメリカ諸国の共産党によって担われてきた「正統派マルクス主義」理論に依拠せずして成功したキューバ革命の出現と、「先進的」か「後進的」かといった近代化論的な二分法に依拠したCEPAL(国連ラテンアメリカ経済委員会)流の開発政策の破綻というラテンアメリカの現実と思想状況とを反映して、反正統派マルクス主義、反近代化論として理論化されたものであった(1)
  その背景には、第三世界における民族解放運動の形成過程の問題がある。第三世界の民族解放運動は、第一次大戦の前後する時期に、ヨーロッパが革命運動によって動揺する中で活発化してくる。しかも、そうした運動は、レーニンの帝国主義論の影響を受けて、これまでの一揆主義的な暴動としてではなく、一定の合目的的な方向を与えられることになる。しかしレーニンが先進諸国の労働者階級と被抑圧民族とが同一の立場にあるとは考えず、むしろ対立的な側面を強調しつつ、「社会革命は、先進諸国におけるブルジョアジーにたいするプロレタリアートの内乱と、未発達の後進的な被抑圧民族における民族解放運動をも含めた、一つづきの民主主義的および革命的な運動とを結合した時代でしかおこりえない(2)」と主張するとき、かれは、まず第一に、ロシアの革命を展望していたのであり、その延長上にヨーロッパ革命を想定していた。つまり、ドイツ革命の展望が失われる一九一八年まで、ヨーロッパの帝国主義列強を弱体化させる一つの手段として、第三世界における被抑圧民族の解放運動が想定されていたと考えられる。すなわち、被抑圧民族の解放運動はヨーロッパの先進資本主義諸国を弱体化させ、かかる先進諸国の労働者階級が追求する革命運動を側面的に支えるという二次的な意味で理解されていた(3)
  一九二〇年七月、コミンテルン第二回大会において、植民地革命の戦略と戦術が提起された。この大会にあたって、レーニンは『民族および植民地問題に関するテーゼ草案』を書いている。かれは、その中で「\\もっともおくれた国家と民族について、とくにつぎのことを念頭におかなければならない。第一に、すべての共産党は、これらの国のブルジョア民主主義的解放運動(第二回大会で採択された『民族および植民地問題に関するテーゼ』では、これらの国における民族解放運動と修正されている)を支援しなければならない(4)」とし、植民地・従属国における民族ブルジョアジーがすすめる民族主義運動を共産主義者が支持する可能性を認めなければならないとした。ここに、第三世界の民族解放を民族ブルジョアジーとプロレタリアートおよび農民との統一戦線を通じて追求するという、いわゆるコミンテルン方式が採用されることになった。
  このテーゼに対して、インドのM・N・ロイは、『民族および植民地に関する補足テーゼ草案』の中で、ヨーロッパの資本主義はそのエネルギーを第一に産業化されたヨーロッパ諸国よりもその植民地所有から引き出してるがゆえに、第三世界の植民地・従属国における民族解放運動の発展なくして、帝国主義の克服は不可能であると主張した。そして、民族ブルジョアジーによるナショナリズムと一切の収奪からの解放を要求する貧困な農民や労働者からなる大衆的なナショナリズムとに分裂しており、しかも第三世界における資本主義的な生産力−下からの市民社会的な生産力編成−の形成の可能性は望めないがゆえに、植民地における解放運動の主要な勢力は民族ブルジョアジーの運動の枠にとどまるものではなく、農民を中心とした勤労大衆と直接的に接触している勢力によって担われなければならないと反論した(5)
  コミンテルン第二回大会につづいて、同年九月には、バクーで第一回「東方民族大会」が開催されたが、ダンコースはこの会議について、「西方の安定を考慮して、\\当方革命を特権化せよという回教徒の要求に対して、コミンテルン指導部は否定的に答え、第二回大会より後退さえしたのである。ラデック、ベラ・クン、パヴロヴィッチの発言やテーゼから明瞭にでてくることは、東方民族の解放運動はなお世界革命を支える第二勢力であって、それ以外の何ものでもないということであった(6)」と指摘している。しかも、一九二一年六月に開催されたコミンテルン第三回大会では、東方問題に関する委員会に対して、ヨーロッパとアメリカの代議委員団からは一人の代表も参加しないという状況さえ存在した(7)。これは、コミンテルン内部の、とくに欧米のメンバーが植民地・従属国問題について如何に無関心であったかを示す出来事であった。このように、レーニンとロイの対立や第一回「東方民族大会」が示しているように、第三世界の民族的解放を求める主張は、コミンテルンのヨーロッパ中心主義とコミンテルン方式に対抗する形で展開されてきた。そして、この軋轢は、第二次大戦を前にしてコミンテルンによって提起された「反ファシズム統一戦線」戦術の第三世界の植民地・従属国への適用をめぐって噴出してくることになる。
  コミンテルン第七回大会で決定されたテーゼは、世界の共産党に対して反ファシズム諸勢力との統一戦線を要求するものであり、ヨーロッパを中心としたファシズムに対抗するための戦術であった。それゆえ、第三世界の植民地・従属国にとって、このテーゼはヨーロッパにおける意義とは異なり、反ファシズムに与する先進諸国の支配下にある植民地・従属国の民族解放運動を封殺する意味を持っていた。
  キューバでは、共産党は一九二五年八月に、コミンテルンのキューバ支部として創設された。キューバ共産党が結成された一九二五年は、三〇年代にマチャード独裁体制といわれたヘラルド・マチャードが大統領に就任し、二年後には大統領任期を延長して、独裁体制に入った。三〇年代のキューバは共産党を中心とした反独裁闘争が大衆的に組織されていた。そして、キューバ共産党は大衆闘争を重視する立場から、ソヴィエトの結成を呼びかけた。マチャード政権が崩壊した後、学生や下級将校が中心となったキューバ革命連合が形成され、ハバナ大学教授グラウ・サン・マルチンが政権を担当していた。これをキューバ共産党は、ロシアのケレンスキー政権と擬して把握し、ブルジョア民主主義の打倒を訴えていっさいの他の勢力を敵視していた。
  一九三七年のコミンテルン第七回大会は反ファシズム統一戦線を提起し、各国の共産党にファシズム独裁の台頭に対抗する勢力との共同戦線を組むように要求した。当時、キューバ共産党は、反マチャード闘争の過程で軍部の一部を巻き込んだフルヘンシオ・バチスタの勢力を、ファシズム勢力と規定していた。しかし、バチスタ勢力がアメリカの外交官サムナー・ウェルズと接触するにいたって、バチスタ政権が反ファシズムという建前をとってアメリカの支援のもとで成立すると、キューバ共産党は、これまでの規定を転換して、バチスタを反ファシズム勢力の一員として把握するようになる。そして、キューバ共産党は、アメリカの善隣外交を良いものとして積極的に支持した。このことは、アメリカによるキューバ支配を不問に付し、免罪するという結果を引き起こした。これに対して、一九五九年のカストロの革命は、こうした状況のなかで、ホセ・マルティのアメリカ帝国主義論が再評価され、キューバを解放するためには、反米闘争を押し進めなければならないという立場から行われたものであった。それゆえ、キューバ革命ははじめから「正統派マルクス主義」政党と鋭く対立する側面を持っていたのである(8)
  イランでは、一九一七年のロシア革命に相応して、反英闘争が活発化する。一九一九年のイギリス=イラン条約の締結を契機にして、クーチェク・ハーンに指導された武装ゲリラ勢力「イスラム統一運動」が一九二〇年六月にイラン北部に「イラン・ソヴィエト共和国」、いわゆるギーラーン共和国の建国を宣言し、同年夏には、アゼルヴァイシャン州ダブリーズで、モハンマド・ヘヤバーニーの勢力が反英、反テヘラン政府の旗のもとに蜂起し、「アゼルバイジャン共和国」を樹立した。一九二一年には、ホラーサーン州都マシュハドでタキー・ハーンが地方革命政権を樹立した(9)。そして、アゼルバイジャン油田で働いていたイラン人労働者を中心にする「エダラト」を基礎に、一九一九年にイラン共産党が結成される。イラン共産党は、ジノヴィエフを議長として一九二〇年九月にバクーで行われた第一回「東方民族大会」に参加者総数一八九一人中一九二人の代表団を送り込んだ。これを重視したソビエト・ロシアはその会期中に、イラン共産党に対して「ソヴィエト・ロシアに対する戦争は、東洋に対する戦争である。われわれが開始した巨大な闘争において、東洋の人民はわれわれの忠実な同盟者となるだろう。\\同志代表諸君、勤労大衆のなかに階級意識を発展させたまえ。彼らを労働者ソビエトのまわりに組織せよ。ソビエト・ロシアとともに団結せしめよ(10)」とソ連に対して採用すべき方針を指示した。これを契機にイラン共産党はソ連共産党との従属的な関係を深めていくことになる。
  イラン共産党は、一九二九年に非合法化されるが、テヘラン大学の教授であったタキ・アラーニを中心とした知識人グループはその方針を継承し、一九三三年に雑誌「ドニア」を創刊した。そして、一九四一年には、知識人階層を支持基盤にしてツデー党が結成される。旧カジャール王朝と親密な関係にあり熱心なイスラム教徒であるソレイマン・エスカンダリ王子とヌーレディン・アラムティを幹部会議長とするツデー党は一九四四年、イランの資源はイラン人労働者の手によって開発されるべきであるとするそれまでの見解を転換して、イラン北部の油田をソ連に委譲するべきであると宣言した。これにより、ツデー党は反英的な知識人や一般大衆の支持を急速に失っていく。かくて、第一回「東方民族大会」以来のソ連に対する忠誠は、イランのナショナリズムと衝突することになった(11)
  他方、ソヴィエト・ロシアは、一九二〇年九月に第一回「東方民族大会」をバクーで開く一方で、一九二一年二月二六日にはソヴィエト・ロシアとテヘランのイラン中央政府との間に友好条約を結ぶ。これに先立つ一九二〇年六月、トロツキーは「東方での潜在的なソヴィエト革命は英国との外交バーターむけの主たる物品として現在とくにわれわれに有利である(12)」と言い、ギーラーン共和国などの反英勢力をイギリスとの外交交渉を有利に運ぶための道具として把握した。そして、ソヴィエト・ロシアが友好条約を結んだ相手は、ギーラーン共和国をはじめとする反英勢力に敵対しイギリス勢力と結合したコサック大佐レザ・ハーンに支援された親英的なズィヤーゥッディーンを首相とするテヘラン政府であった。レーニンは、「第八回ロシア・ソヴィエト大会」で対イランとの外交交渉について次のように報告している。「われわれはまた、近くおこなわれるペルシャとの条約調印をも歓迎することができる。このペルシャとの友好関係は、帝国主義の圧政になやむすべての国民の、根本的利害の一致によって、保障されているのである(13)」と。この頭越しのソヴィエト・ロシアの対イラン外交と、それにつづくソヴィエト・ロシアの軍隊のギーラーン共和国から撤退により、イランの反英勢力は切り捨てられた。このように、ソヴィエト・ロシアがコミンテルンをつうじて、イランの共産党をはじめとする反英勢力を大国的な外交のコマとして把握していたことは明らかである(14)
  しかも、コミンテルンは、そもそもレーニンがロシア革命の生き残りをかけて、ヨーロッパないしは世界の共産党に対して、世界革命に9152がる革命運動の高揚を期待して作られたものであった。しかし、レーニンの死後、スターリンの指導のもとでコミンテルンは、ソ同盟の方針と政策を追求するための機関に変えられていく。つまり、コミンテルンの反ファシズム統一戦線戦術への転換にはこうした背景が存在するとともに、第三世界の植民地・従属国には、ヨーロッパにおける意味とは別に、逆説的な方向に作用したと言わなければならない。すなわち、第三世界の民族解放運動はこうしたイデオロギー状況の中で、自らの民族解放を自分たちの力で擁護していくことができる論理を構築しなければならなかった(15)。ここに、「従属理論」形成の前提条件が生み出された。

(1)  Vania Bambirra, Teoria de la dependencia: una anticritica. Mexico, 1978, pp. 15-33.
(2)  レーニン「マルクス主義の戯画と『帝国主義的経済主義』とについて」(一九一六年、『全集』23、五二ー五四ページ)。
(3)  巣山靖司「一九四〇年代のAALAにおけるマルクス主義」(川端正久編『一九四〇年代の世界政治』ミネルヴァ書房、一九八八年、二七九ー二九七ページ)。
(4)  レーニン「民族および植民地問題に関するテーゼ原案」(一九二〇年、『全集』31、一四〇ページ)。
(5)  M・N・ロイ「民族および植民地問題に関する補足テーゼ原案」(一九二〇年、いいだもも編訳『民族・植民地問題と共産主義ーコミンテルン全資料・解題』社会評論社、一九八〇年、三四ー三七ページ)。
(6)  H. Carre´re d’Encausse et Stuart schram, le marxisme et l’asie. 1853-1964, Paris, 1962, pp. 52-53.
(7)  『民族・植民地問題と共産主義−コミンテルン全資料・解題』、五四ページ。
(8)  Rollie Poppino, International Communisum in Latin America-A History of the Movement 1917-1963, London, 1964, pp. 160-161.
(9)  Richard W. Cottam, Nationalism in Iran; Updated through 1978, University of Pittsburgh Press, 1979. pp. 102-106.  山内昌之「ロシア革命と西アジア」(『歴史学研究』四〇九号、一九七四年、二二ー二五ページ)、加賀谷  寛「イランにおけるレザー・シャー政権の成立」(岩波講座『世界歴史』第二五章、一九七〇年、岩波書店、四七八ー四九〇ページ)を参照。
(10)  アーマンド・ファルギー、ジャン・ルー・ルベリエ、『イラン−”神の革命”の内幕』(弥永康夫訳、一九七九年、朝日イブニング)二三七ー二四六ページ。
(11)  同上、二五一ー二五四ページ。
(12)  Leon Trotsky, The Trotsky Paper 1917-1922, Vol. 2 宸P920-1922噤C The Hague/Paris, 1971, No. 556.
(13)  レーニン、「第八回ロシア・ソヴェト大会」(一九二〇年一二月、『全集』31、四八二ページ)。
(14)  Richard W. Cottam, op. cit., pp. 188-189.『第一回東方民族会議』については、『コミンテルン資料集』第一巻(村田陽一編訳、一九七八年、大月書店)三〇八ー三一五ページ。B・ラジッチ、M・M・ドラチコヴィッチ『コミンテルンの歴史』(菊地昌典監訳、一九七七年、三一書房)三〇三ー三〇九ページ、伊藤秀一『バクーの東方諸民族会議』(『神戸大学文学部紀要』一九七一年第一号)を参照。
(15)  巣山靖司「『第三世界派』の理論構造」(『歴史評論』三四一号、一九七八年九月号、七〇ー七四ページ)。


三  「従属理論」の世界認識−ネイションへの視点
  従属理論は、第一に、世界資本主義システムを世界経済の中心=周辺関係への極分化と中心国による経済的余剰の収奪と領有による周辺地域での低開発の発展の固定化を保障するものであると考える。第二に、世界システム内の中心=周辺関係の克服の課題と民族解放の接点を民族自決の行使に求める。そこから第三世界の植民地・従属国の諸民族による反帝国主義的な民族解放運動は、抑圧民族のプロレタリアートの社会主義運動と同様に社会革命の重要な要素を構成するものとして把握するのである(1)。では、こうした特徴をもつ従属理論は、民族解放の主体となる「民族なるもの」をどのように接近するのであろうか。
  バンビーラによれば、従属理論はレーニンの『帝国主義論』を発展させたものであると考えられている(2)。レーニンの帝国主義論は、世界経済の中で一国経済が如何なる関係にあるのか、という問題意識から出発し、すぐれて一国の経済構造を基礎単位と考え、その総体として世界経済を見るというものであった。レーニンの把握は、その一国規模の経済構造の量的延長上に世界経済を設定するのではなく、個々の国民経済の特殊な経済構造の集積としての世界経済がまた、一つの個体として特殊な性格を持つというものであった。つまり、それぞれに個性をもった国民経済を前提として、これを総括する世界経済もまた一つの個体であり、独自の個性を有するものと考えていた。そして、レーニンは一国規模での資本主義的発展から、世界経済と国民経済の緊張関係に接近したのである。すなわち、レーニンの場合は、生産力視点から資本主義を定義するがゆえに、常に「下から」の局地的な資本主義発展が問題にされている。そこから、かれは、個々の国民経済の生産力発展の相違から生ずる不均等発展に規定された世界経済を想定した。
  一方、従属理論は、国際経済を一つの個体として、これに一国規模での国民経済が従属すると考える。そして、世界経済の成立を資本主義的世界体制の成立と考え、この資本主義の発展は世界経済における不等価交換を媒介に、中心国による周辺諸国の富の収奪を前提にしてはじめて可能であったとする。従属理論は、この富の収奪を弁証する論理を「経済的余剰」の収奪と領有の理論に求めた。そして、一六世紀以来、世界が一つの資本主義システムに包摂されて以来、周辺地域の「経済的余剰」は中心地域によって収奪されており、それゆえに中心地域の発展(=周辺の経済余剰の収奪と領有)は、他方で周辺地域の低開発化を引き起したと考える(3)
  従属理論において、中心地域による第三世界の「経済的余剰」の収奪は、世界経済を舞台とした不等価交換による余剰の移転として現れる。エマニュエルは、中心が周辺の経済的余剰を収奪し、領有する過程を世界市場における不等価交換に求める。エマニュエルの場合、かかる不等価交換は賃金の間に存在する格差から説明され、究極的には国家間の賃金格差に求められた(4)。サミール・アミンは、第三世界の従属状況を賃金格差に現われる不均等な搾取によるものと考え、不均等搾取に媒介されて不等価交換が成立すると把握したのである。アミンの場合、ここに通常の資本主義的な搾取とこれに媒介されて追加的な搾取が不等価交換によってもたらされるとした(5)
  従属理論の場合、経済的余剰はある経済の内部において獲得されるけれども、それは輸出という行為を媒介として外国市場において実現されると考えるがゆえに、資本主義の発展は外国市場における中心による周辺の収奪によって可能になったとする点を強調する。つまり、「周辺」から「中心」への「経済的余剰」の流出を実現市場における不等価交換を中心に把握するがゆえに、一国規模での労働力の搾取の問題は国際的な流通過程の中で認識される。それゆえ、従属理論では、不均等発展は、世界市場における不等価交換によって生み出されたものであるということになる(6)
  従属理論の「経済的余剰」論から世界資本主義体制の中心=周辺関係を説明する場合、世界経済(=全体)と国民経済(=個)との関係は、テオトニオ・ドス・サントスが、「従属の理論は、我々が諸国家の国内的状況を世界経済の一部分として見ることを可能に」し、「我々は低開発の状況を世界規模での資本主義の拡大の過程の一部分ないしはその結果として把握しなければならない(7)」と述べているように、まず世界経済の存在を前提にして、その一構成要素として国民経済が設定されているがゆえに、世界経済の個性が国民経済の個性を決定するというものであった(8)。したがって、一国規模の問題は世界システムに内在する中心=周辺関係を軸に把握されるがゆえに、それは、世界経済における支配=被支配関係を反映したものと考えられた。


(1)  Sheila Smith,”Class Analysis versus World systems, Journal of Comtempolary Asia,Vol.12, No.1, 1982, p.7. Gabriel Palma,”Dependency: a Formal Theory of Underdevelopment or a Methodology for the Analysis of Concrete Situation of Underdevelopment, World Development, Vol. 6, 1978, pp. 881-882.
(2)  Vania Bambirra, op. cit., p. 31.
(3)  従属理論による第三世界の収奪のメカニズムについては、Teotonio Dos Santos, Imperialismo y dependencia, Mexico, 1978, pp. 342-343. P・バラン『成長の経済学』(小原敬司訳、東洋経済新報社、一九五七年)、P・スィージー、P・バラン『独占資本』(小原敬司訳、岩波書店、一九六六年)、巣山靖司「いわゆる『独立社会主義者』グループの研究」(岡部広治編『ラテンアメリカ経済発展論』アジア経済研究所、一九七二年、一一一ー一一四ページ)、同「『第三世界派』の理論構造」(『歴史評論』三四一号、一九七八年九月号、七〇ー七四ページ)。
(4)  Arghiri Emmanuel,”White-Settler Colonialism and the Myth of Intestment Imperialism, New Left Review, No. 73, 1972, pp. 47-53.
(5)  Samir Amin, Unequal Development, Monthly Review Press, 1976. pp. 138-145.
(6)  ibid.
(7)  Teotonio Dos Santos,”The Structure of Dependence, The American Econcmic Review, 1970, May, p. 231.
(8)  Ruy Mauro Marini, Dialectica de la dependencia, 1973, p. 16. Vania Bambirra, op. cit., p. 27.  従属理論の世界認識については、Vendulka Kubalkova, Albert Cruickshank, Marxism and International Relations, London, 1985, pp. 216-223. を参考にした。


四  「従属理論」とナショナリズム
  従属理論は、その成立経過と分析視角からして、第三世界の側からの民族的解放の論理としての性格を持っていた。そして、一国規模単位で現れるナショナルなものは、世界資本主義体制の中の一構成要素として把握されていた。つまり、世界資本主義体制を個体として、これがナショナルなものを規定するという関係にあった。こうした世界認識から従属理論は、如何にして民族的解放の論理を組立て、解放されべき従属的な諸民族とそのナショナリズムを如何に概念規定していたのであろうか。
  従属理論は、まず、戦後の第三世界の国家的独立は植民地解放であり、それゆえに旧宗主国の影響力と利益を固定することになったと考える(1)。サミール・アミンは「第三世界のブルジョアジーは、世界資本主義体制に結合する以外に自らの発展を見出すことができない。逆に、離脱とは、人民による民族形成のための要求である(2)」として、民族的解放は、世界資本主義体制からの「離脱」delinking であると理論づけ、一国規模での自給経済の創出を展望した。アミンは世界資本主義からの「離脱」を民族的解放と考え、これを内発的な発展の契機として捉えたのである。つまり、世界資本主義体制からの「離脱」をとおして民族の蘇生を展望した(3)
  F・H・カルドソは、個々の諸国がその植民地化の過程で与えられた特殊性にしたがって様々な条件の下に置かれていると考え、民族的解放のナショナリズムの形成は個々の諸国の一国規模での課題に対応したものでなければならないと主張する(4)。カルドソの場合、世界経済における矛盾から出発して一国経済の独自性の問題に接近する。この一国規模の独自性は植民地化の過程で与えられた特殊な再生産体系の種差性に求められている。かれは、植民地化の過程で付与された種差性を如何にして克服していくのかという課題からナショナリズムの形成を考える。つまり、民族的解放の課題は本国で生産される「経済的余剰」の領有と流用を帝国主義の手から取り戻すことであり、被抑圧階級が自律的な発展のためのイニシァティブを如何にして獲得するのかという点に重点が置かれている(5)。したがって、従属理論において、ナショナリズムの問題は、世界資本主義体制の中に包摂された植民地・従属国の中心地域に対するリアクションと理解されており、第三世界の人民が担うべきナショナリズムとは、世界資本主義からの離脱とアウタルキー的な社会の創出に収斂する民族的解放を押し進めるためのイデオロギーとして把握されている(6)
  従属理論が、民族的解放を世界資本主義体制からの離脱を通じて追求するとき、その主体となる「民族なるもの」をどのように理解しているのだろうか。レジス・ドブレは、「民族とは、言語と同様に、それぞれの諸生産様式にまたがって存在する不変的なもの」であり、「民族はある意味で、歴史的に規定された存在様式であり、その限りで可変的なものである。また民族を民族たらしめているものは不変的である」として、民族を「人間の本性に属する始源的で不変的な一形態(7)」であると考える。ドブレは、民族とは人間の無秩序な状態に対立する社会の形成の時期にさかのぼって、人間の社会システムをシステムたらしめる条件のもとで定立すると考えるのである。つまり、民族は、歴史的に規定された諸々の集団的な存在様式を継承するものとして把握するのである。このように、ドブレの所説から民族というカテゴリーを導き出す場合、それは所与の定在であり、この所与の民族は自らが担ったその歴史的課題にしたがって特殊な形態をとって現象するものであった(8)
  また、アミンは、そのアラブ民族論の中で、民族形成の問題を「一つの所与の社会構成体を構成する、明確な輪郭を持った社会的集合体を如何に定義するかという問題(9)」であるという。そして、民族という現実を一つの社会構成体の形成と民族の存在を不可分の統一的なものとして捉えようとする(10)。アミンは、民族について、若干の方言や祭祀の差異が存在してようとも、血縁的、地縁的、言語的、文化的に共通であるという意識を持つ「エスニック集団」が存在する場合、「一階級が国家の中心的用具を管理し、共同体の生活に一つの経済的統一を保障する場合、すなわちこの支配階級による余剰発生の組織が、その流通や配分と同様に、その諸地域の運命と結び付く場合、民族は実際に姿をあらわす(11)」というである。それゆえ、民族という事実が、「資本主義的生産様式は、民族の発展にとってそれほど決定的な役割を果たしていない(12)」ということになり、資本主義に先行して存在しうるものとして把握したのである。かくて、アミンは、資本主義的生産様式に固有の国際分業からの周辺部分の離脱をもって、個々の「エスニック集団」のもつ自発的な生産様式の自律的確立と考え、同時に、その離脱こそが民族としての発現を可能たらしめる条件であった(13)
  従属理論において、ナショナリズムは民族的解放のためのイデオロギーであるとともに、民族を民族たらしめる契機を自律した経済的システムの確立に求めた。そして、いかなる生産様式においても経済システムの自律した確立をもって民族の発現と考え、資本主義の形成と結びつけた西欧型の民族形成を相対化したのである。したがって、ここでの論点は完全な生産様式を確立しているか、そうでないかという点に収斂することになり、資本主義的な生産力編成とあいまった西欧型の民族形成とは異なる独自の民族形成のあり方を指し示したのである。従属理論において、資本主義的な生産力編成という問題は西欧起源の発想であり、第三世界における価値の尊重という視点からして、明らかに相対化されるべきものであった。つまり、従属理論が民族的解放を「離脱」なる概念で説明する所以は、ヨーロッパ中心主義からの政治的、経済的のみならず、文明的、価値的なレベルでの解放を志向するところにあった(14)
  しかし、従属理論のナショナリズム理解においては、民族形成のメルクマールを一つの経済的システムの確立に収斂させていた。それゆえ、民族的な共属意識の形成は、言語及び文化の共同性と地域的領域の同質性といったエスニック要素を前提としつつも、経済的なシステムの形成に収斂されて把握されている。したがって、諸民族に独自の言語や文化、そして価値に対する抑圧の克服は、すべて経済的なレベルでの帝国主義からの解放に収斂された形で追求されることになった。


(1)  F. H. Cardoso, op. cit., pp. 3-10.
(2)  Samir Amin,”Self-reliance and the New International Economic Order, MonthlyReview, Vol. 29, No. 2, 1977, pp. 1-21.
(3)  Samir Amin,”Crisis, Nationalism and Socialism, Dynamics of Global Crisis, Monthly Review Press, 1982, p. 218.
(4)  F. H. Cardoso, op. cit., pp. 116-122.
(5)  ibid., pp. 102-104.
(6)  Andre G. Frank,”Crisis of Ideology and Ideology of Crisis, Dynamics of GlobalCrisis, Monthly Review Press, 1982, p. 152.
(7)  Regis Dobray,”Marxism and the National Question, New Left Review, No. 105, 1997. p. 28.
(8)  ibid.
(9)  Samir Amin, Unequal Development, Monthly Review Press, 1976. p. 27.
(10)  ibid., p. 23.
(11)  ibid., p. 27.
(12)  ibid., p. 30.
(13)  ibid., pp. 29-30.
(14)  Samir Amin, Eurocentlism, Monthly Review Press, 1988, pp. 139-152.


五  まとめにかえて
  西欧では、民族形成は、資本主義的な市場統一を民族形成の決定的な契機と考えたがゆえに、「民族は資本主義とともに」といったシェーマで把握されていた。そして、非合理な「血の叫び」は自律した自由な諸個人の「集団を形成しようとする意思」=社会契約によって合理化され、自由な諸個人の一般意思を体現するものとして民族国家の形成が予定されていた。それは、市民社会形成にともなう民主主義の創出という問題と結合しており、民族は近代の産物であるとともに、合理的な定在として理解されていた。
  しかし、「民族は資本主義とともに」といった西欧型のシェーマに立脚する限り、資本主義形成が未成熟であったり、植民地支配によって社会的経済的構造が歪められてしまった第三世界の人民大衆は「民族」として確定できないという問題が存在した。つまり、これは西欧型の「民族」範疇では、第三世界の人々は民族として生きる権利、つまり民族自決を行使する権利が保障されえないという問題に連9152してくる。
  だが、これまで、第三世界おける民族解放運動は、ヨーロッパで教育を受けたエリート層が指導的位置を占めてきたがゆえに、西欧型を模写する形で民族の形成が追求される場合も多かった。アンソニー・D・スミスは、西欧型の民族理論は本来、巨大国家形成を肯定するものであるがゆえに、複雑な民族構成を持つ第三世界の実体には適合しない場合が多いばかりか、西欧型の民族理論が適用されることにより、逆に第三世界に民族紛争の契機が付与されることになったのではないかと指摘する(1)
  従属理論は、第三世界の政治的、経済的活動それ自体は歴史的に形成された文明的な独自性を反映したものであるがゆえに、民族的な独自性や自主性の回復は非西欧的な方向で追求されなければならなかった。つまり、従属理論は、西欧型の民族理論を相対化することを通じて、第三世界に独自の民族形成のあり方を見つけだそうという問題意識を持っていた。その意味で、従属理論は、第三世界の側から西欧型の民族理論を相対化し、第三世界の独自性を提起することにより、西欧=発展、第三世界=停滞というシェーマに挑戦したのである。


(1)  Anthony D. Smith, op. cit., pp. 74-76, 84.