立命館法学  一九九六年一号(二四五号)




転換期韓国における利益集団政治(一)
−一九九三年薬事法の改正に見る医薬分業政策を事例として−


嚴 敞俊






目    次




は  じ  め  に
  韓国の政治は、転換しているのか。韓国政治は、いったい、どこからどこへ向けて変容していくのか。現時点で、何がどこまで変わっているのか。あるいは変わっていないとすれば、それは何故なのか。こうした問題意識は、ここ数年韓国学界の論争の中心になっている(1)。転換を認める場合、その始点を一九八七年六月の「六月民衆抗争」に求め、すでに一〇年に近い歳月が経とうとしているからである。
  論争では、かなり大胆な主張も見受けることがめずらしくない。たとえば最近多くの論者は、「国家ー市民社会」の二元的モデルを枠組とし、権威主義的国家の全般的後退と、市民社会の活性化やその成立を認めることにちゅうちょしない(2)。彼らは、韓国の転換期の政治変動について、開発独裁に集約された権威主義体制からしだいに多元的民主主義へと移行していく過程ととらえ、その動力を市民社会の量的・質的成熟に求めている。市民社会の拡大が、すなわち国家の縮小と理解され、政治的多元主義化を民主化の主な内容と考えているのである(3)
  こうした動向を受けた形で、すでに一部の研究者たちは、韓国における政治的多元主義の到来を先取りしている。政治学や行政学の分野で、こうした傾向が最も顕著なのは「利益集団政治」の研究(4)であろう。彼らは、韓国利益集団政治の分析において従来の通説(5)であるエリートモデルによる接近や国家コーポラティズム的接近の限界性を指摘するとともに、多元主義的アプローチの導入を提起している(6)
  多元主義的アプローチの登場の背景としては一九八〇年代以降、韓国の政治環境が著しく変化していることが考えられる。まず国際貿易秩序の変容は、市場開放の要求と国際的ルールの段階的適用という外圧として現われ、韓国政府のフリーハンドを狭めている。またそれと連動して、その間の産業化によって国内的には社会勢力の成長と多元化が進行している。財閥は、資本力を背景に政治力を増している。さらに労働運動や他の社会運動も、政治過程への影響力が無視できない存在になっている。また民主化の開始以後、従来のような強制的手段は、簡単には使えないようになっている。したがって、決定に至るまでの政治過程も長期化・複雑化・開放化する傾向を強めている。これらの変化は、政策問題の解決において政治権力をして新しい統合策を模索せざるをえなくしている。
  本稿の課題は韓国政治の見方における多元主義的アプローチの可能性と限界性を明らかにするところにある。多元主義的アプローチの場合、その対象として、政治過程における利益集団の利益表出の活発化や影響力の変容(7)・市民運動(8)や集団紛争(9)の噴出・権威主義的行政スタイルの統制力喪失(10)といった論点を好んで取り扱っている。そのために本稿では、具体的には次のような論点を用意する。すなわち、((1))利益集団の自律的利益表出の根拠とその限界、また有効な利益表出の戦術は何であったのか(以下、論点1と呼ぶ)。((2))市民団体の役割は何であったのか(以下、論点2と呼ぶ)。((3))行政の政策的失敗の要因は何であったのか(以下、論点3と呼ぶ)。((4))真の権力はどこに求めるべきなのか(以下、論点4と呼ぶ)、である。ちなみに、これらの論点は転換期韓国の政治体制の連続と断絶という点でその意義を認められるということは言うまでもない。以上の論点について考えるために、本稿では一九九三年の「薬事法」改正の政策過程を事例として取り上げて検討する。
  本改正は、漢方薬の調剤権をめぐって起きた関係利益集団間の紛争から始まった。「大韓韓医師協会(以下、漢方医会と略)」と「大韓薬師会(以下、薬剤師会と略)」の熾烈な利益表出活動が展開した。そして争点は、洋方(11)を含む医薬分業政策の全般に拡大した。ここに登場する医薬関連の主な利益集団は、いずれもその保有するリソースにおいて豊富さを誇っている。「保健社会部(日本の厚生省にあたる。現在は保健福祉部。以下、保健部と略)」は、利益集団の調整に失敗した。さらにこの事例では、韓国随一の市民団体と言われ、研究者からも注目を集めている「経済正義実践市民連合(以下、経実連と略)」も加わっている。
  この事例については、管見ではすでに四本の論文が発表されている(12)。さらに、それだけにとどまらず、多元主義的アプローチの適用の可能性や正当性を主張するために、より多くの研究者によって触れられている。その意味で、これは、韓国政治に対する多元主義的アプローチの適用の可能性を検討するうえで、典型的事例と見ることができよう。
  最後に、本稿の構成を簡単に述べてから本論に入ることにしたい。まず第一章では、前述した論点について先行研究が如何なる認識をもっているのか、またその問題点は何かについて検討する。また、本稿の叙述の方法を述べることにする。第二章では、本事例の背景について関係利益集団の対立関係を軸にして接近する。第三章では、リソース分析および戦術分析によって多元主義的アプローチの可能性と限界性を明らかにする。

(1)  一九九二年四月の韓国社会学会・韓国政治学会共催の共同学術大会は、主題に「韓国の政治変動と市民社会」を採択し、この論争を公式化した。ここでは、市民社会の概念、韓国市民社会の時系列的分析、産業化と国家ー資本ー労働の関係変化、中産層の成長、世界体制の変化、九〇年代新しい社会運動の展望などについて議論された。韓国社会学会、韓国政治学会共編『韓国の国家と市民社会』(ソウル、ハンウル、一九九二)所収の諸論文を参照。
(2)  こうした観点の急先鋒としては、キム・ソンクッ(金成国)「韓国資本主義の発展と市民社会の性格一九六〇年代以後を中心に」韓国社会学会、韓国政治学会共編、前掲書所収。
(3)  イム・ヨンイル「韓国の産業化と階級政治」韓国社会学会、韓国政治学会共編、前掲書所収、一七五頁。
(4)  韓国における利益集団政治研究は、その歴史が浅く、アン・ヘギュン(安海均)「韓国の利益団体に関する資料研究」ソウル大学行政大学院『行政論叢』三巻一号(ソウル、一九六五)によってようやく始まるが、そこでは利益集団の政治過程における影響力が微々たるものであるという共通認識の下、エリートモデルの観点から韓国の利益団体の行政や権力エリートに対する従属性を批判してきたという点で一致していたと言えよう。その際、準拠としたのは米国の多元主義モデルであった。八〇年代に入ると、コーポラティズム論が紹介され、国家コーポラティズム論からの接近が加わったが、確固たる理論枠組を提示し、分析の精度を高めただけであって、政治過程の認識において従来の認識を替えるものではなかった(国家コーポラティズム的アプローチの代表例としては、Jang-Jip Choi, 「Interest Conflict and Political Control in South Korea; A Study of The Labor Unions in Manufacturing Industries, 1961-1980」 (Ph. D. Dissertation, Univ. of Chicago, 1983)やキム・ヨンレ(金永来)「韓国の利益集団に対する組合主義的分析韓国労総と全経連を中心に」延世大学博士論文(ソウル、一九八六)などがある)。しかし八〇年代末以降は、多元主義的アプローチの登場を受けて、韓国の利益集団政治研究は、多元化を見せはじめている(多元主義的アプローチの
代表例としては、イ・ジョンヒ(李政煕)「韓国の公益集団の利益表出構造とロビー活動」韓国政治学会『韓国政治学会報』二四輯一号(ソウル、一九九〇)、同「韓国の主要利益集団の政治理念」韓国政治学会『韓国政治学会報』二四輯二号(ソウル、一九九〇)がある)。
(5)  通説的理解の特徴は政治過程の行政化を強調するところにあると考えられる。それは次の三つの要因によって達成された。((1))大統領から各省庁官僚へ至る統制経路のしっかりした確保アン・ビョンヨン(安秉永)によると、主要政策の創案・形成・決定は、主に大統領と大統領府秘書室、関係各省庁官僚の三者の協調によって短期間で行われた。大統領の政治的決断・政策意志と官僚の技術的合理性が問題解決の鍵であるという。官僚の政策執行は、大統領の権力と権威によって支えられ、強力な執行を保障された。一方、政府主導の政治過程で、国民の多様な利益と要求を政策代案として集約し、表出すべき議会・政党・利益団体・マスコミなどはまったく形骸化したという。アン・ビョンヨン「体制危機の克服と政策決定の刷新」韓国行政学会『韓国民主行政論』(ソウル、考試院、一九八八)二九九−三〇三頁。((2))支配と抑圧を背景にした融合と排除の統制メカニズムの駆使キム・ヨンレ(金永来)によると、韓国の利益集団の影響力は、その集団のもつ内的リソースの如何によるというよりは、政府との関係如何によって与えられる。そのメカニズムは、政府の政策目標からなされる政府による利益集団の選択、すなわち融合と排除である。キム・ヨンレ『韓国利益集団と民主政治発展』(ソウル、大旺社、一九九〇)五七−一一六頁。韓国の場合、産業化時代に融合されたのは資本であり、排除されたのは労働である。資本形成的・労働統制的産業化政策はそのいい例である。マ・インソブ「資本主義的発展と民主化韓国産業化の段階、階級構造と国家」韓国政治学会『韓国政治学会報』二六輯二号(ソウル、一九九二)。((3))社会勢力の動員と再編に対する積極性アン・ヘギュン(安海均)は、韓国行政の特徴として社会部門の動員と再編に対する積極性をあげている。彼は、社会勢力の動員と再編に行政が積極的に介入したのは朴正煕・全斗煥両軍事政権の正当性危機を克服するための意図的努力であったと見ている。朴正煕・全斗煥軍事政権は、経済成長を通じて政治権力を維持し、さらにこれを正当性の基盤にしようとしたが、そのために、社会部門に対する国家コーポラティズム的統制による社会構造の再編を図った。韓国の利益団体は、国家によって組織され国家に従属して成長した。社会部門に対する動員と再編のイデオロギーとしては、発展行政論と、分断状況を利用した国家安保論であったとする。アン・ヘギュン「韓国官僚制と政策過程」アン・ヘギュン他『韓国官僚制と政策過程』(ソウル、茶山出版社、一九九四)九−一〇頁。通説によると、韓国の政治過程は、戦略過程が主で、イデオロギー過程や利益過程は、極端に矮小化していると言える。特にイデオロギー過程は、権威主義的政治体制の下、最初から封じ込まれ、政治過程に進入することはできなかった。
(6)  イ・ジョンヒは、一九八〇年代後半から国家コーポラティズム的利益表出体系が変化し、利益集団の組織と理念性向、機能と影響力が変わりつつあるとし、韓国利益集団政治の分析には従来の国家コーポラティズム的接近とともに多元主義的視角が併用されていることを指摘している。イ・ジョンヒ、ナムクン・ヨン「韓国利益集団政治研究の対象と方法」キム・ケス(金桂洙
)他『韓国政治研究の対象と方法』(ソウル、ハンウル、一九九三)二二〇−二二二頁。
(7)  イ・ジョンヒの前掲論文「韓国の主要利益集団の政治理念」は、革新系列の利益集団の噴出、既存の利益集団の政府からの自律化・内部における民主化の傾向を認めている。
(8)  ジョン・ジョンファン(全貞煥)「政策問題の特性と公益団体の活動戦略に関する研究消費者団体を中心に」ソウル大学博士論文(ソウル、一九九三)は、市民運動はその成長によって自らの要求を政府や企業の主張と競争できるものにし、政策に反映させていることに成功しているとする。
(9)  ホン・ジュンヒョンによると、韓国における集団的紛争は、八〇年代後半から急増している。その様相も組織化・過激化・長期化している。市場開放による農民などの集団的異議申し立て、公害・環境関連の集団紛争が増加している。ホン・ジュンヒョン「集団紛争の実態と紛争解決の問題点開かれた社会のための紛争解決制度の模索」法と社会理論研究会『法治主義と弱者・少数者・被害者の保護』(ソウル、一九九四)参照。
(10)  ヨム・ゼホ(廉載鎬)とパク・クッフム(朴国欽)は、民主化以後の政策には非一貫性が著しいという。その理由の一つは政策問題に対する権威主義的対応にあるとし、変化した政策環境とのずれを指摘する。ヨム・ゼホ、パク・クッフム「政策の非一貫性とジレンマ第六共和国の政策対応を中心に」韓国行政学会『韓国行政学報』二五巻四号(ソウル、一九九二)参照。
(11)  韓国の医療体系は、洋方と漢方に二元化され、併存している。洋方とは、伝統医学としての漢方に対する用語で、西洋医学に基づいた現代的医療・処方を言う。キム・ヨンイク(金容益)によると、西洋医学の伝統医学との関係類型には排除型・容認型・併存型・統合型があるとされる。排除型は伝統医学の存在そのものを不法化する。容認型は不法化はしないが、制度としての定着は認めない。これには日本、シンガポール、ホンコンなどが属する。併存型は韓国、インド、スリランカがあるが、そこには二つの医療制度が存在する。統合型は両医学の融合を試みているが、これには中国、北朝鮮、ベトナムなどが属する。ソウルYMCA市民社会開発部編『民主改革と市民社会』(ソウル、一九九四)四〇六頁。
(12)  パク・スンギ(朴順基)「政策執行における利益集団の役割に関する研究韓薬調剤権紛争事例を中心として」慶煕大学修士論文(ソウル、一九九四)、イ・ヘヨン(李海盈)「処方科学としての政策学の定義とその研究課題韓薬調剤権紛争事例を中心として」慶北産業大学論文集一〇集(テグ、一九九四)、キム・ボンジン(金範鎭)「韓薬調剤権紛争過程に現われた利益集団の利益表出活動分析保健政策決定過程を中心として」ソウル大学修士論文(ソウル、一九九四)、キム・ジュファン(金周煥)「利益集団の葛藤に対する葛藤仲裁比較研究漢薬分業葛藤における政府と経実連の葛藤仲裁を中心として」高麗大学修士論文(ソウル、一九九四)の四本である。

第一章  先行研究の検討および叙述の方法
第一節  先行研究の検討
  ここでは、本稿と同じ対象事例を取り上げた多元主義的アプローチで書かれる以下二つの論文を検討したい(13)。いずれも通説的理解に対して疑問を表明したり、新しい捉え方を提起している。
  キム・ボンジン(14)の議論は、前述した論点のなかで、論点1と論点3とかかわりをもつ。彼は、改正薬事法について利益集団の競争と相対的影響力の差によって均衡づけられたと見て、その政策過程は多元主義的視角から理解すべきであると主張する。分析の対象は、((1))薬剤師会と((2))漢方医会の影響力決定要因と利益表出活動、((3))保健部の政策的対応、という三つに設定する。利益団体の影響力決定要因は、内・外的変数とに分かれ、外的変数は政治文化から、内的変数は理念・目標、組織の規模・結束力、財政、リーダーシップといった内的リソースから構成する。利益表出活動は、保健部に対して直接圧力をかける「直接行動」と、保健部を迂回して世論喚起などに訴える「間接行動」とに分析している。保健部の政策的対応については、利益集団の利益投入と世論の圧力から説明される。
  キムによると、以下のように分析する。利益集団は活発な利益表出活動を行った。薬剤師会は直接行動を重視した。それに比べ、国会や保健部への影響力に劣るとされる漢方医会は、意見広告や漢方医学部学生による授業拒否など間接行動を重視した。保健部は、両利益集団の利益葛藤を調整できず、無能ぶりをあらわにした。二転三転した結果、最終的に改正においては、漢方医会の要求が多く反映された。
  これらからキムは、利益集団が実質的に政策決定機関化していること、漢方医会のように間接的利益表出に集中するほうが行政への直接行動より効果的であること、をつきつめる。一方、行政は、エリートモデルの想定するイメージとはうらはらに、有効な政策をまったく提示できなかった。特に、最終局面で保健部が市民団体の仲介による両利益集団の合意案を受け入れ、法案に反映したことは、政策決定の脱権威主義化を物語るものとして評価されている。まさに通説の理解をくつがえす主張と言わざるをえない。
  しかし、キムの研究は、両利益集団の活発な利益表出活動の様態についてはよく分析しているにもかかわらず、保健部との関係においてそれがなぜ可能であったのか。いいかえれば、保健部はなぜ自律的な政策を打ち立てられず、ひいては当面の利益調整にも失敗したのかという疑問に対してまったく答えられていない。それはリソース分析において、二つの大きな落し穴があったからではないか。
  大嶽秀夫によると、大企業のリソースは、組織権力と経済権力、特殊政治的リソースの三方面からなる。組織権力には人材・資金・地位の提供・組織のネットワーク・匿名性などが、また経済権力には専門知識と情報・生産力・経済支配などがある。また通産省のエリート官僚の分析では、その自律性要因として情報網・プロフェッショナリズムなどをあげている(15)
  これを援用すれば、第一に両利益集団のリソース分析において、キムは大嶽のいう組織権力についてのみ分析しているのである。そこから何らの媒介もなく、利益表出の活発さを引き出している。しかし、組織的リソースにおいて、この事例の両利益集団に優る利益集団は、いくらでもある。にもかかわらず、すべての利益集団が必ずしも保有するリソースに見合った利益表出活動を行えるのではない。そこでは行政との関係や政策類型上の特性などの変数がからむほか、リソース分析の枠内で考えても経済権力の側面が関係していることをも指摘せざるをえない。経済権力の構成要素の多くは市場の現状から形成されるが、市場は特定の時空間においては、一つの所与として存在し政策過程の参加者の行動の範囲を枠づけるのである。
  第二に、行政の自律性要因についての分析も欠けている。単に、利益集団の要求に対する政策的対応という表面の動きを丹念に追っている。そこから通説のいう強力で有能な官僚観というものは簡単にも否定されてしまい、行政はもはや利益集団の同列以上のものではなくなってしまっている。冒頭で述べたような国家の拡大が市民社会の縮小と理解され、また市民社会の拡大が国家の縮小と理解されるという短絡的な思考が働いている。
  つぎに、キム・ジュファンは(16)、紛争の仲裁という観点から、保健部の仲裁失敗と市民団体=経実連の調停成功について鋭利に比較している。彼の議論は、本稿の論点のなかでは、論点2と論点3とかかわりをもつ。そこでは、分析の対象を仲裁主体の権威・戦略・環境と設定し、さらにそれぞれを信頼性・専門性・時間の制約性とに単純化している。
  「薬事法改正推進委員会」での審議をへて発表された政府案(17)は、関連利益集団や消費者団体によって拒否された。保健部と両利益集団に対する世論の非難が度を増すなか、経実連は「経実連の代案(18)」の発表によって両利益集団に働きかけを行い、民間による「漢方薬調剤権の紛争解決のための調停委員会」を構成した。そこで経実連は両利益集団の合意を取り付けることに成功した。両利益集団は経実連の代案を全面的に受け入れた。そして合意案は、改正薬事法に反映されることになる。
  キムは、まず((1))仲裁主体の信頼性において、保健部は官僚の代表性や政策の一貫性に問題があったことに対して経実連は高い社会的評価を得ていたこと、また((2))専門性において、保健部は恣意的状況認識とイッシューの複雑化(委員会における多数の参加者、多数の議題、議題分割の失敗)の誤りを犯した反面、経実連は客観的状況認識とイッシュの単純化(少数の参加者、議題の制限)に成功したこと、((3))時間の制約性において、経実連の場合は保健部の仲裁時と比べて、利益集団に世論の圧力が強く当っていたこと、またここで合意ができないと政府案が通ってしまうという危機感があったという点で時間の制約が強かったとしている。以上を通じて、行政の無力化と市民団体の浮上という政策過程の変容を析出している。
  しかし、ここで指摘しておかなければならないことが二点ある。キムが注目していることは、あくまでも状況のレベルに限定していること、また状況のレベルにおいても重要な部分を見落としていることである。
  まず状況のレベルにおいて、彼は、合意案が薬剤師会から最終的に拒否されたこと、したがって薬剤師会会長が会長を辞退せざるをえなかったこと、またそれによって大統領と検察の介入を招き、ようやく事態が鎮静化したことについて言及しようとしない。すなわち、紛争を「仲裁」できたのは、市民団体でも保健部でもなく二つの権力であったこと、市民団体の役割は結果的には権力の介入を招く橋渡しにすぎなかったことである。
  第二に、彼は分析を状況のレベルに限定しているため、信頼性変数で経実連の社会的評判について若干言及しているだけで(19)両仲裁者のリソース分析をまったく行っていない。これでは仲裁失敗の要因は解明できず、葛藤管理のメカニズムをめぐる模索という彼の研究目的が、単に葛藤管理におけるテクニックのそれに矮小化されている。
  以上から多元主義的アプローチの先行研究は、行政の無力化・利益集団の自律化・世論や市民団体の浮上といった観点から、官僚制の優越性・利益集団の従属性・政策過程の閉鎖性などを内容とする従来の通説に対して反論を立てていることがわかる。
  ところで、先行研究は韓国の政策体系における保健政策領域の周辺性(20)について、またその限りで一定の多元主義的先端性が認められるということについてまったく気付いていない。そのためにこの事例は、既存の政策過程一般と無媒介的に比較され、通説をいかにも簡単に否定することになっている。そしてこのような活発な利益表出と行政の政策的失敗は、韓国の政策過程にますます拡大するだろうという展望を可能なものにしている。
  それだけではない。先行研究の性急さは、第一に改正薬事法が洋方と漢方の両方における医薬分業を規定したことを無視し、薬事法の改正過程を漢方薬の調剤権紛争の過程に置き換えていることからもうかがえ、その意味で事実の半分しか述べていない。したがって、関連利益団体のなかでは最大のリソースをもつ洋方の医師たちを代表する「大韓医学協会(以下、医師会と略)」が、なぜそれに見合う利益表出をしなかったのかという当り前の疑問が課題として提起されない。
  第二に、先行研究は、政策決定機関について保健部のみに限定して考察している。しかし大統領府秘書室は、紛争の最初の段階から介入していた。そして紛争を鎮静化しただけではなく、国会の立法過程における利益集団の最後の巻き返しを封鎖したのも、大統領であった。また検察も二度にわたって紛争に介入している。その意味では、保健部は名目上の政策決定機関にすぎない。先行研究は、政策決定機関の評価を根本から見誤っていると言えよう。
第二節  叙述の方法
  分析は、一次分析と二次分析とに分けて進める。一次分析では、各参加者のリソースと段階別戦術の分析である。二次分析では一次分析を受けて、前述の論点1−論点4の検討から多元主義的アプローチの可能性と限界性について明らかにする。
  (1)  一次分析
  第一に、リソース分析である。
  本稿の提起した論点のなかの論点1と論点3については、各参加者のリソースを分析することによってその手掛かりを得られるであろう。なぜならば、リソースは、行動主体において何ができるかを決める出発点であるからである。ただその際、先行研究のリソース分析の問題点や前述した大嶽秀夫の議論を参考にして本事例におけるリソースのなかみを再定義する必要があろう。
  まず、利益集団のリソースとしては、大嶽の組織的・経済的・政治的リソースの分析を踏まえて、(ア)組織的リソースとしては組織規模(会員数、財政力)・リーダーシップ・結束力を、(イ)経済的リソースとしては市場支配力を、(ウ)政治的リソースについては利益集団が保健部と国会に「派遣」している官僚や国会議員の数をもって考察することとする。分析対象とする利益集団は、薬剤師会と漢方医会である。利益集団のリソース分析は、主に利益集団の自律的利益表出の根拠とその様態の説明に用いられる。
  つぎに、保健部のリソースである。保健部のリソースに関しては、予算の大きさと政府内と対利益集団関係における政策的自律性という二つの面から検討する。保健部のリソース分析は、政策失敗の説明に用いられる。
  リソース分析の対象は、右の三団体である。薬事法の改正過程に登場する集団や団体がそれらに限られるわけではない。実際の改正過程はもっと華やかであって、少なくとも二〇を超える団体などが登場している。しかし、利害関係などによる連合が行われ、結局は漢方医会・薬剤師会・保健部のいずれかの側に分類することができる(21)
  ところで、経実連と医師会、大統領の位置づけ方には議論がありうる。まず経実連は、先行研究においてその役割の独自性が認められ重要視されたが、そもそも漢方医会の要請によって政策過程に参加しただけでなく(22)、後述するように漢・洋方の二元化を認めることによって漢方医会側に組みしたことを重視する必要があろう。つぎに、医師会は医薬界最大規模の利益団体で、組織的・経済的・政治的リソースにおいて漢方医会や薬剤師会をはるかに上回る。医薬分業に対しては一番大きい利害をもっているだけでなく、過去における利益表出活動の経験も豊富である。それにもかかわらず、医師会は利益表出活動を活発に展開することはできなかった。それは改正過程の前半においては漢方分業と医療一元化で薬剤師会と利害が一致し薬剤師会の利益表出に便乗したことと、後半においては大統領の介入があり活動に制約を受けていたことのためである。最後に大統領の介入は利益表出活動に対する「集団エゴ(韓国では集団利己主義という)」との決めつけや厳罰に処するという脅迫行為、実際には検察による検挙という暴力手段に訴える形として現われる。大統領のリソースは、憲法上の権限や政治的慣行から圧倒的優越性があることは自明なことである。何よりも本事例で医師会と大統領は、多元主義的アプローチの適用可能性を大きく制限する要素として働いているのである。医師会と大統領という要因は、多元主義的アプローチの限界性や政治体制の連続面を導出するための指標として認識できる。
  第二に、各参加者の「戦術」分析である。戦術は、利益集団にとって「利益表出様態」として、保健部にとって「政策的対応」として現われるものである。戦術分析についても両利益団体と保健部について行う。戦術分析を行う理由は、戦術がリソースと環境(23)の関数として作り上げられると考えられるからである。
  まず、利益集団の戦術についてである。戦術分析からは主に論点2と論点4に対する手掛かりが得られる。戦術は三つの観点から検討していきたい。第一に、行政や大統領への「直接的接近」と大衆水準へ迂回する「間接的接近」がある。前者は、陳情・請願・当局者面談・会議参加などである。後者は、各種の討論会への参加や開催・新聞広告・世論調査などである。第二に、利益集団間の「役割分担」と「連合」がある。前者は同一視集団のなかで、後者は他の集団との間で行われる。連合の対象は、行政・他の利益集団・市民団体などが考えられる。第三に、利益表出の強度とかかわって、「穏健な接近」と「強硬な接近」を設定する。後者は休業、デモ、免許返納などである。前者はそれ以外のものと考える。
  つぎに、保健部の戦術についてである。これは「一方的決定」・「仲裁」・「非決定」に分けて検討を加えることにする。
  なお、戦術分析は、政策過程の各段階に応じて行う必要がある。段階によって主体の戦術が変化を見せるためである。段階の設定は、紛争の再発期・拡散期・政府議題化期・経実連による調停期・立法期とする。
  (2)  二次分析
  ここでは多元主義的アプローチの可能性と限界性について明らかにするために、一次分析の結果を踏まえて、設定した論点にしたがって政策過程をもう一度検討し直す。すなわち、(ア)利益集団はどこまで自律的・従属的なのか。また(イ)戦術は「間接的接近」と「直接的接近」のどちらがもっと有効であるのか。(ウ)市民団体の役割は多元主義の脈絡から見る時、肯定的なのか、それとも否定的なのか。(エ)行政は公正で中立的なのか、それとも利益と価値の選好において偏向しているのか。(オ)その政策決定は開放的か閉鎖的か。(カ)権力は多元的に所有されているかどうか、という六つの観点である。各々の答えが前者であれば、多元主義的アプローチの妥当性が高いということになろう。
  なお、二次分析においては、「危機」概念が非常に重要となる。危機とは、行政にとって非決定による決定の先伸ばしができず、何らかの決定を下さなければならない状況である。そこで二次分析は、危機の程度によって、「低度の危機」・「中度の危機」・「高度の危機」と分けてそれぞれの段階において検討を進める。

(13)  その他、パク・スンギ、前掲論文やイ・ヘヨン、前掲論文があるが、内容的に重複したり、あるいは本稿の目的上、検討に値しないと判断し、検討からは除外してある。
(14)  以下、キム・ボンジン、前掲論文を参照。
(15)  大嶽秀夫『現代日本の政治権力経済権力』(三一書房、一九七九)八〇−八四頁、一六九−二〇一頁。
(16)  以下、キム・ジュファン、前掲論文を参照。
(17)  その内容はすでに漢方薬を調剤していた既存の薬剤師の既得権の認定と調剤範囲の制限、薬剤師の新規参入の禁止であった。そのため、漢方医会は漢方における医薬分業反対と薬剤師の漢方薬調剤禁止の観点から、また薬剤師会は医薬品一般の調剤権が薬剤師にあることと薬剤師間に差別をもうけることは法的公平性に欠けることを理由に、そして消費者団体は漢方の医薬分業が依然として曖昧であることや法的公平性に欠けることを理由に反対した。保健部の仲裁は失敗に終わり、紛争はさらに激化した。
(18)  その内容は、漢方における医薬分業の実施、漢方薬剤師の新設であった。
(19)  経実連の「市民運動」は、良心的著名人士、改革的研究者、元学生運動出身者などを中核にして、マスコミの応援を得て、「実践可能な政策代案づくり」にその特徴がある。したがって、経実連の主要なリソースは、組織のネットワーク、社会的評判、知識および情報力にあると考えられる。また経実連は、金泳三政権の内閣や大統領府にも元経実連関係者を多数もっている。
(20)  通説によると、保健政策などは、主要な政策分野ではない。保健政策などは、政府の統制の対象にはならず、基本的に民間まかせで行われてきた。注(5)および第三章第一節を見ること。
(21)  まず漢方医会側では、漢方医会・全国韓医科大学学生会連合・全国韓医科大学教授協議会・全国韓医科大学学父母協議会・大韓韓薬協会・国民健康と韓医学守護委員会(以上、同一視集団)・スーパーマーケット連合会・大韓獣医師協会・医療事故家族協議会・経実連(以上、連合の対象)などを、薬剤師会側では、薬剤師会・全国薬学大学協議会・薬学部学生(以上、同一視集団)・大韓医学協会(連合の対象)を、保健部側では、保健部・教育部・大統領・検察・関係長官対策協議会・政府与党会議などを、それぞれに分類することができる。
(22)  筆者による漢方医会パク・スンギ(朴順基)課長のインタビューより。一九九五年九月二六日。
(23)  ここで環境というものには、政治体制や政治文化、そして局面における政治的状況などが考えられる。韓国における政治文化については、その一定性と市民文化の未発達を認め、熾烈な利益表出戦略に対しては否定的に作用するものと仮定する。また政治体制は、リソース分析と戦術分析を通じて導出されるものと見て、ここで取り上げない。政治状況については、九三年という時期は金泳三政権の発足一年目であり、政権の改革性が最も強かったことに注意する必要がある。


第二章  一九九三年薬事法改正の背景
  韓国の医療体系において、医療供給者の統合という大きな課題がある。そのなかで、一番大きい障害は医薬分業の未実施と洋方・漢方の分離問題である(24)。前者では医師と薬剤師間で合理的な役割分担が設定されておらず、病院と薬局間には協力関係というよりは競争関係が続いている。後者では洋方と漢方の分離によって同じ病状について異なる説明と治療が行われている。さらに洋方界と漢方界の間にも葛藤関係が続いており、医療費の浪費や薬害事故の頻発などが指摘されてすでに久しい。薬事法改正の争点の推移を見ると、直接には漢方分業から提起され、洋方分業を含む医薬分業全般へと展開したが、洋方と漢方の分離か統合かの問題と微妙にからんで展開したことも見逃すわけにはいかない。医薬分業と医療統合の問題について関係利益集団の対立を図示すると、以下のようである。

  医薬分業  
賛成 反対
医療統合 賛成 薬剤師
(洋方薬剤師)
医師(洋方医) 洋方界
反対 漢方薬業士 漢方医 漢方界


第一節  医薬分業問題
  まず医薬分業問題である。改正前の薬事法は、一九五三年薬事法の制定当初から洋方と漢方の両方に対して医薬分業を原則的に規定しながらも、付則において医師らの調剤権を認めることによって紛争の火種を作っていた。すなわち第二一条において、「薬剤師でなければ、医薬品を調剤することはできない」としながら、付則第三条では、「医師・歯科医・漢方医・獣医師は、自ら治療用として使用する医薬品に限って、自ら直接調剤する場合は、第二一条の規定にもかかわらず、これを調剤することができる」としているからである。これによって、医師らは治療と調剤を事実上制限なく行うことができた。一方、薬剤師も調剤以外に軽症の患者に対する診断が黙認されてきた。
  医薬分業問題はすでに六〇年代から議論されはじめられた。だが、薬剤師たちが完全分業の実施を積極的に求めるようになるのは薬剤師の相対的過剰が徐々に問題となる七〇年代に入ってからである(25)。その背景には、薬剤師の就業構造上、開業薬剤師の比率が極端に高く、そのため経営悪化の打開策として医薬分業の実施を要求したことが挙げられる。韓国の場合、薬剤師は、個人薬局(八〇・三%)の形で開業するものが多く、病(医)院勤務(七・一%)や製薬会社勤務(八・六%)などは少ない(26)。一部の薬剤師が従来慣行的に取り扱ったことのない漢方薬を調剤しはじめたのも同様の理由からである。
  こうしたなかで、一九七七年からの医療保険制度の段階的導入は、薬局経営に打撃を与え医療職域間の葛藤を表面化する契機となった。医療保険は、家計の診療費負担を引き下げ、また生活向上とともに高まった国民の高水準の医療利用欲求とも重なり、国民の医療利用のパータンを従来までの薬局中心から病(医)院など医療機関中心へと替えさせたからである。ちなみに、韓国国民の薬局利用度は、一九七七年までの七五・〇%以上であったもの(27)が、しだいに減少し一九九二年には四〇・一%にまで下がっている(28)
  同様の傾向は、都市部家計の月平均医療費支出構成を見ても明らかである。一九七〇年から一九八一年までの約一〇年間、家計の月平均医療費支出は九二〇ウォンから一四、三三二ウォンへと名目で一五・五倍も上昇するが、内訳を見れば薬品費は四〇・〇%から二二・八%へと比重を大きく落としている。そのかわり、診療費・分娩費・入院費等病医院向けの支出は、三五・〇%から五五・七%へと伸びている。漢方薬も一五・七%から二〇・五%へ伸びる(29)。一九九二年、韓国国民の医療費支出は、一般病医院四五・九%、歯科病医院三・一%、漢方病医院・漢方薬舗二八・五%、薬局二一・五%、保健所等〇・六%となっている(30)。なお、漢方の場合は医療保険の適用対象外となっているものがほとんどで、伸びについては医療保険の導入よりも国民の高い漢方選好傾向が生活水準の向上とあいまったためと考えるほうが妥当であろう。こうした背景から薬剤師会は、医薬分業の実施を要求した。
  つぎに、医薬分業について洋方と漢方に分けて考えてみることにしよう。
  洋方の場合、その争点は実施時期と実施の場合における適用除外の範囲をめぐってである。医師会は医薬分業についてそれを前提として認めながら、医と薬を同一視する国民の慣行や無薬局地域の存在・薬局の処方箋処理体制の不備等を理由に、分業実施は時期尚早とした。また完全分業についても円滑な治療を妨げるとして、「部分分業」を主張した。こうしたなかで紛争にまで発展したのは、一九八九年の医療保険の国民皆保険化を控えて一九八二年から実施された「地域医療保険示範事業」の際であった。
  この紛争は、両職域間の最初の正面衝突であったというだけでなく、当時全斗煥軍事政権の暴圧が横行していた政治状況のもとで起こったという点で国民の記憶に新しいものである。要するに医療保険の地域医療保険への拡大段階を迎え六つの地域での試験適用が決まった際、すでに実施されていた被庸者医療保険のため薬局経営に危機感をもち始めた薬剤師側が、薬局を医療保険療養機関に指定することと、医薬分業を規定した薬事法を根拠に医師の処方箋発行を義務づける完全医薬分業の実施を要求したことが発端であった。
  保健部は、これを受け入れ適用地域の薬局を医療保険療養機関として指定し、六地域のなかで一市に限って試験的に完全医薬分業を実施することを決めた。しかし、処方箋発行の義務づけをしない任意分業を主張する医師会の圧力に押され、一旦下したこの方針をすぐさま撤回し、任意の分業形態にもどしたのである。
  そうした方針変更に対して、当然薬剤師側は強く反発した。まず、当該市の九〇個の薬局のなかで八四個の薬局が一日休業に入った。休業は急速に全国化し、ソウルでも五、六一三の薬局のなか五、一五九の薬局が休業に入った。また、薬剤師会は完全医薬分業が実施されなければ、全国二万七千余名の薬剤師免許を返納することまで決めたのである。
  政府は、国務総理主催で関係長官対策会議を開き政府の仲裁方針を確認する一方、休業が続けられる場合は警察力の発動までも決めた。保健部も、医師会・薬剤師会・保健部官僚・学界専門家・市民団体で医薬協業推進委員会を発足することを決めた(31)
  結局、六ヶ月間の地域医療保険試験適用は任意医薬分業で執行されたが、医師の処方箋発行が極めて少なかったため医薬分業という政策目標が達成できず失敗した。保健部は、新しい医薬分業形態を模索した結果、処方箋発行の範囲を一部緩和した部分分業案と医師と薬剤師間の契約による一定期間の実施という点で、両団体の合意を取り付けた。試行期間は、一九八四年五月から一二月までとした。その期間中、処方箋発行は順調に行われた。薬剤師会はこの結果に満足し、契約の一年延長を申し立てた。しかし、医師会はこれを拒否し、その結果契約分業は八ヶ月で終わった。保健部もついに、一九八五年一〇月医薬分業試験実施の終結を公式に発表した(32)
  その後も医薬分業の議論は続いた。審議会などにおける長い議論にもかかわらず、結論は出されず、薬局の保険療養指定が認められただけで、医薬分業は無期延期された(33)
  ところで、漢方の医薬分業はさらに複雑なものがある。改正前の薬事法は、第二条四項において医薬品について定義し、同五項には漢方薬について別途の定義を与えていた。薬剤師会は、前述した第二一条と付則第三条、および第二三条一項(「薬剤師は、その処方箋を発行した医師・歯科医・漢方医・獣医師の同意を得ずに、処方を変更したり、修正して調剤することはできない」)という三つの規定を根拠に、漢方薬についても調剤権は薬剤師にあると主張した。これに対し、漢方医会は漢方薬の定義が別途になされているのは薬事法が薬剤師の漢方薬の調剤権を否定しているからだと主張した。
  ここでの争点は、漢方の場合医薬分業は可能なのか、また可能とした場合漢方医のパートナーはだれなのかということである。漢方医たちは、漢方はそもそも医薬分業ができないとし、薬剤師の漢方に関する知識や資質の不足を問題とする。仮に分業する場合でも、漢方医会は分業のパートナーとして漢方薬業士を予定している。漢方薬業士は、薬事法第三条による医薬品販売業者の一種である。漢方薬の「混合・販売」が認められているが、その定義に曖昧さがあるため、事実として調剤が認められているにすぎない。ちなみに漢方薬業士は、漢方医が制度化する前から「漢方薬房」として存在していた。また無薬局地域の解消という目的で、八〇年代中頃まではその存続が認められていたものである。
  漢方医と薬剤師の紛争は、六〇年代末から一部の薬剤師が漢方薬を調剤・販売することによって始まった。七二年に漢方医会と漢方薬業士たちは薬剤師の漢方薬調剤が薬事法違反ではないかと保健部に質疑した。保健部の有権解釈は、薬剤師の調剤権を認めるものであった。これに反発した漢方医会は、七五年と七六年に国会に薬剤師の漢方薬調剤禁止を内容とする薬事法改正の請願をした。国会は改正をしない代わりに、調剤範囲をこれ以上拡大してはいけないとする決議を採択した。保健部は、それを受けて八〇年に薬事法の施行規則を改正し、第一一条に「薬局は、在来式漢方薬蔵以外のそれを置き、これを清潔に管理しなければならない」という規定を挿入した。薬剤師会は、この条項について清潔義務を規定するだけで漢方薬の調剤とは関連がないとして、漢方医会による「不当な」援用の可能性を取り上げて、これの撤廃を要求した。これに対して、保健部は自治体に取締をしないよう通達を出す一方、薬剤師会に対して在来式漢方薬蔵の撤去と調剤権は無関係であると説明した。しかし、漢方医会はそれに納得せず薬事法の改正ができないなかで、この条項について薬剤師の漢方薬の取扱を禁止するものと自己に有利な解釈をした。以上、施行規則をめぐる対立する解釈が生じたことによって、今後発生する紛争が当然予期できたのである(34)
第二節  医療統合問題
  洋方界と漢方界の間には、洋・漢方医療の「統合」か「分離」かをめぐって対立がある。医師と薬剤師は「統合」を、漢方医と漢方薬業士は「分離」を主張している。韓国ではこれを医療一元化論・二元化論と言っている。この問題の背景には医療における近代と伝統の対立、特に韓国ナショナリズムの観点からは帝国主義と民族主義の対立とも言い換えられる側面があることを指摘しておかなければならない。
  植民時代に漢方医は、医療制度から完全に排除された。医師という名前は、洋方医に取って代わられた。解放後、職能団体を再建し、五一年の医療法制定時にはなんとか制度として認められたが、政府の洋医学一辺倒政策の下で洋医学の補助的地位をよぎなくされてきた。漢方界は、政策決定に反対はできても、それに参加することは許されなかった。保健部の医政局・薬政局官僚の七−八割は医師・薬剤師の免許をもち、医師会・薬剤師会の推薦を受けて特別採用された者が占めている。それに対して、漢方医出身者は一人もいないのが現状である。漢方薬業士の場合は、事実上漢方の薬剤師として機能しているにもかかわらず、そもそもその法的地位は販売業にすぎないのである。
  したがって漢方界では一元化論に対して洋方による漢方の吸収統合と見て反対する。今回の薬事法改正においても、漢方医はあくまでも二元化の立場から、薬剤師を洋方薬剤師とみなし、漢方分業から排除しようとした。漢方医たちは、「統合」の前に漢方医学の育成政策を確立しなければならないと主張する(35)
  洋方界、特に医師会は漢方医学育成政策にことごとく反対してきた。たとえば漢方医は公衆保健医になることはできないが、これは医師会のロビーによるものとされている。九一年と九二年の公衆保健漢方医示範事業の成功にもかかわらず、立法化ができなかったのは医師会の一元化論があったからであると言われている(36)
  以上のように、医薬分業問題と洋・漢方統合問題は、関連利益集団の紛争を伴うなど根深い問題点を抱えているために、従来から法の改正による解決が延期されてきた。九三年三月に金泳三文民政権が発足するとすぐに、問題が一気に表面化し、同年一二月に改正薬事法が国会を通過するに至ったが、そのことは次章で検討することになる。

(24)  イ・ドゥホ他『国民医療保障論』(ソウル、ナナム、一九九二)五四七頁。
(25)  韓国の場合、医師対薬剤師の比率は、一九九〇年現在一・一一であり、薬剤師の相対的過剰が生じていることをよくわかる。これに対して、世界保健機関(WHO)は、四一を適正比率と規定している。参考までに英国(一九八二年、六・五一)、西ドイツ(一九八四年、五・〇一)が目標を超えており、フランス(一九八六年、三・四一)、米国・カナダ(いずれも一九八四年、三・二一)が後を追っている。保健社会部『薬事法改正方案に関する公聴会』(ソウル、一九九三・八・二〇)所収の大韓韓医師協会監査のイ・ボムヨンの「主題発表抄録」一二頁。韓国の場合は、当初医療人材が絶対的に不足しているなか、政府の医療人材養成政策が、医師に比べて相対的に速く輩出できる薬剤師の養成に向けられていたこと、また国民の病医院等医療機関利用率がまだ低い段階で、薬剤師が事実上一次医療機関の役割をひとり担ってきたことによるものと考えられる。健康社会のための保健医療人連帯会議『健康社会のための保健医療』(ソウル、実践文学社、一九九二)一四四頁。
(26)  これに対して、日本と米国は、個人薬局(三八・五%、六八・〇%)、病医院勤務(二八・四%、二五・五%)、製薬会社勤務(同様に一二・六%、二・五%)がわりあい均衡を保っている。イ・ボムヨン、前掲報告、一二頁。
(27)  チェ・ソンモ(崔成模)、ソン・ビョンジュ(宋炳周)「政策執行の政治的性格と特徴医薬分業政策を中心に」韓国行政学会『韓国行政学報』二六巻三号(ソウル、一九九二)七七六頁。
(28)  韓国保健社会研究院『国民健康および保健意識行態調査』(ソウル、一九九三)。大韓韓医師協会「言論人にあげる文章」(ソウル、一九九三年八月)一頁から再引用。なお、他の医療機関の利用度を見れば、病医院四八・五%、歯科医二・一%、漢方医四・三%、保健所等四・四%、その他〇・六%となっている。
(29)  チェ・ソンモ、ソン・ビョンジュ、前掲論文七七七頁。
(30)  韓国保健社会研究院、前掲報告書。同じく、大韓韓医師協会、前掲文章から再引用。
(31)  チェ・ヨンチュル(崔永出)「医薬分業政策決定過程における利益集団の利益表明活動分析」ソウル大学修士論文(ソウル、一九八四)六〇−六五頁。
(32)  チェ・ソンモ、ソン・ビョンジュ、前掲論文参照。
(33)  健康社会のための保健医療人連帯会議、前掲書、一四六−一四九頁参照。
(34)  以上は、イム・ジュビン「漢薬調剤権に関する紛争と政策執行研究」ソウル大学修士論文(ソウル、一九八五)参照。
(35)  大韓韓医師協会『薬師の韓薬調剤および韓・洋方協診体制に関する公聴会抄録』(ソウル、一九九三)参照。
(36)  ソウルYMCA市民社会開発部編、前掲書、三九八頁。
  *韓国の人名・書名などについては、筆者の責任で日本語に訳したことを付記しておく。