立命館法学  一九九六年一号(二四五号)




福井英雄先生の学問と人柄
(一九九五年一〇月二六日に開催された「故・福井英雄教授を偲ぶ集い」での追悼講演)


形野 清貴






  福井先生の突然の訃報を聞き、御葬儀を終えてから、はや四ケ月近くがたちました。しかし、私には今だに先生がお亡くなりになったということが信じられません。今日も、「ここ立命館に来れば先生にお会いできる」−そういう気持でこちらにまいりました。聞くところによれば、先生は死の前日まで、病身をおして御担当のゼミに出席なさっていたということです。先生の御魂は先生が愛されていたこの立命館のキャンパスのどこかに眠っておられる−そういう思いがいたします。
  私は、福井先生が主宰されていた「現代政治研究会」という研究会を通じて、先生とお付き合いをさせていただいた者でございます。先生の御活躍の場は広く、今日この「偲ぶ集い」で先生についてお話いただける方はたくさんおられますし、私の出る幕とは思いませんが、ぜひその研究会で福井先生の教えを受けた者から話をするようにということでございますので、大変厚顔とは思いましたけれども、私がその光栄を担わせていただきました。御了承願います。
  福井先生の学問的な業績を全部ここで網羅し、その内容を御紹介するということは時間的にもとうていできませんし、すでに御承知の方もたくさんいらっしゃると思いますので、ここでは、福井先生の主要な学問的業績を概観するとともに、私の立場からみた福井先生の一面というものを、思いつくままにお話し申し上げたいと思います。
  私が先生に初めてお会いしましたのは、一九八二年でございます。当時、私は現在の本務校に職を得てまもなくの頃でありまして、同じ大学院出身のオーバー・ドクターや現役の院生の同僚と、インター・ユニバーシティな研究会をつくりたいと相談をしておりました。そのためには、有名な先生に中心になっていただく必要があるということで、ここ立命館大学の研究室に福井先生を訪ねてお願いをいたしました。先生は他大学の若い私共の願いを心よくお聞き入れ下さいまして、こうして「現代政治研究会」が発足したわけでございます。後で知った事ですが、その時、福井先生は、この機会に京都の「民科政治」の再建をと考えていらっしゃったようで、その「趣意書」などをお作りになっていたということでございます。いろいろな事情でこの構想は実を結ばなかったようですが、「現代政治研究会」は、関西の諸大学の若干の先生方の御協力も得て、若手研究者を中心とした「勉強会」的な性格の研究会として、今日まで一三年間継続し、先生が最後に御出席になられた今年四月までに一〇五回の例会を重ねることができました。
  福井先生は、この研究会の事実上の主宰者として、御病気や校務の都合などやむを得ない場合を除いて、ほとんど毎回御出席になり、後進の指導にあたられました。研究会では、現代国家論や日本政治論など時々の話題の書物をとりあげ、その紹介と検討を中心に報告と討論がおこなわれましたが、先生は、院生の会員に対しては必ずその修士論文の作成過程での発表を義務づけられておりました。こうして、この研究会からは、若手の研究者が次々と各地の大学に職を得て、巣立っていきました。と同時に、立命館大学をはじめ関西の諸大学の院生が新しい会員として加わってまいりました。一〇年以上も経過しますと、例会の出席者の顔ぶれも少しづつ変化してまいりますし、私なども近頃はいろいろな事情で例会に欠席がちになっていましたが、この研究会の今日までの継続は、ひとえに福井先生の御指導と御努力の賜物であったと感謝しております。
  さて、福井先生の学問業績の全体を見渡してみますと、大きく前期と後期に分けることができるように思います。前期は、一九五七年に京都大学大学院で修士論文をお書きになって研究生活の道に入られてから、一九七〇年代前半までの一五年間余りで、ここでの主たるテーマはイギリス議会政治に関する研究であります。後期は、一九七〇年代半ば以降の約二〇年間で、この間は現代国家論と現代日本政治分析の研究に集中されてきたように思います。
  先生は、五七年に「イギリス議会政治の構造変化」と題する修士論文をお書きになって以来、六一年から六六年の大阪市立大学助手の期間も含めて、近代から現代にかけてのイギリス議会政治の成立と構造変化に関する研究に専念してまいられました。その成果が相次いで公表されたのは、六五年から六六年にかけて大阪市大の『法学会雑誌』に三回にわたって連載された「『議会の黄金時代』における治安判事と議会政治の構造」という論文と、立命館大学に赴任された六六年から六七年にかけてこれも三回にわたって『立命館法学』に連載された「一八世紀イギリスの地方政治と中央政治」という論文であります。「議会政治の構造変化」とは、一八六七年の第二次選挙法改正を契機としてそれ以降に展開する、議会主義の政治構造から執行権優越の政治構造への変化のことですが、これらの論文において、先生は、それに先立つ近代イギリスの議会政治の形成過程をフォローし、その構造を解明されました。
  まず、後者の論文では「市民革命」以後の一八世紀前半のイギリスの政治構造が対象とされ、次に前者の論文では、産業革命を経た一九世紀の一八三二年の第一次選挙法改正から第二次改正に至る、いわゆる「議会の黄金時代」と呼ばれた議会政治確立期の政治構造が対象とされています。これらのなかで、先生は、議会政治の確立をデモクラシーの発展の過渡的段階として位置づけ、やがて議会政治の構造変化へと至る近代の議会主義的政治構造の内在的矛盾を明らかにするとともに、近代イギリスの政治構造をたんに中央政治のレベルだけでなく、中央政治と地方政治の連関と統合の過程に注目することによって、当時の地方政治における治安判事の重要な役割を解明されております。そして、一八世紀に地方政治を支配し、中央政治との媒介者としての役割を果した治安判事が、一九世紀における代議制的統治方式の浸透、つまり議会政治の確立と近代的地方自治制の展開のなかで、次第にその役割を失い、下院議員を通じた統合方式へと移行することを詳細に跡づけ、さらに議会政治の構造変化とともにそれが政党組織の発展にとって代わられることを示しておられます。
  これらの業績をふまえて、先生は、修士論文で取り組まれたイギリス議会政治の構造変化の過程を、その後の研究にもとづいて大幅に拡充したものを順次公表していく計画をお持ちになっていたようです。そして、その一部は『立命館法学』誌上で、七〇年に「議会主義再編の史的背景」、七二年に「政党地方組織の発展」として公表されました。これらの論文のなかでは、議会主義の構造変化の背景として、一方では一九世紀末以降の独占資本主義段階への移行に伴なう国家介入の拡大と国家権力の強化が、他方では選挙権の拡大に伴なう政党組織の発達とその寡頭制化がとりあげられ、そして、第二次選挙法改正以降のイギリスの自由党と保守党の地方組織の発展の過程が跡づけられています。先生の計画では、その後、「政党の寡頭制的編成化」、「議会主権の崩壊」、「行政権優越の政治構造」を扱った続編を公表される予定であったようですが、残念ながらこの作業は一時中断のやむなきに至ったようです。この間の御事情については知る由もございませんが、先生は、近年、私達に「自分のライフワークとしてイギリス議会政治の研究を再開したい」ともらしていらっしゃいましたので、残された仕事のことがたえず念頭にあったのだと思います。
  先日、本日の司会をされている堀先生が福井先生の御自宅にうかがったさいに、奥様より、先生の書斎の手文庫のなかに保管されていた「イギリス議会政治の構造変化−自由・保守両党の編成化を中心として」と題する手稿を手渡され、私も見せていただきました。この手稿は先生の執筆計画の原型をなしていたもので、原稿用紙の欄外には、その後の研究にもとづく新たな参考文献と該当の頁数がいたるところに記入されておりました。先生の早すぎた御逝去が、この御仕事の完成を妨げることになったことが、かえすがえすも残念でなりません。
  福井先生は、七〇年代の半ば頃から次第に現代国家論の研究にその重点を移していかれたように思われます。当時、欧米諸国で始まった「マルクス主義国家論ルネサンス」の理論動向が、わが国でも田口富久治先生などによって精力的に紹介され始め、それが、わが国も含めた先進諸国の民主的変革をめざす政治的・社会的運動の高揚とあいまって、一定の影響を及ぼすようになってまいりました。福井先生は、七四年に田口先生が編集された『講座・マルクス主義研究入門』第二巻に「現代資本主義国家論」という論文を執筆され、さらに一九八〇年には自らも編者の一人となった『講座・現代資本主義国家』第一巻に「現代資本主義国家の統治機構」という論文を執筆されました。私も当時、これらの講座で勉強させていただいた一人でありまして、私が福井先生の御名前を知ったのは、実はこれらの論文を通じてでありました。その後、先生の現代国家論研究は、八三年の共編著『現代国家論』所収の「現代国家の基本問題−国家独占資本主義を中心に」、八五年の雑誌『科学と思想』に掲載された「現代国家論とエンゲルス『起源』の意義」、八六年の『立命館法学』に発表された「『ブルジョワ社会の総括』と国家の機能」などと続きますが、八七年には、それらを集大成した先生の主著『現代国家の構造と機能』が上梓されました。
  この著書のなかで、先生は、まず現代の先進諸国の国家を国家独占資本主義段階における国家、つまり「国家独占資本主義国家」としてとらえ、現代国家論の基本的問題として、((1))国家と独占資本との関係、そのなかでの国家の相対的自律性の問題、((2))国家の反動的・権威主義的再編の傾向と民主的変革を志向する運動との対抗の問題、をあげられています。次いで、先生は、「ブルジョワ社会の総括」形態として現代国家をとらえる視点から、いわばこの国家の「形態論」ともいえる現代国家の構造と機能の解明を、この著書の中心テーマとして設定されております。ここでは、国家独占資本主義のもとでの国家の介入の全面化が政治体制の外延の拡大をもたらすとともに、権威主義的な性格を強めることを指摘され、現代国家の統治機構の特質について、((1))議会政治の構造変化、すなわち執行権の優越、((2))統治主体としての「政・財・官」三角同盟、((3))統治機構の内部編成と矛盾の展開、という三つの側面から検討されています。また、国家介入の全面化に伴なう現代国家の機能の拡大・強化を、経済的機能、政治的機能、イデオロギー的機能という三つのレベルで分析されております。これらの課題、とりわけ現代国家の統治構造の分析は、福井先生にとって、初期のイギリス議会政治研究に連なるテーマであったように思います。イギリス議会政治の構造変化に関する研究を未完のまま一時中断しつつも、現代国家論という一般的レベルでそれを継続されていたといってよいように思うのであります。
  ここで、福井先生の現代国家論研究に関連して、いわゆる「ネオ・マルクス主義」の評価にかかわる問題にふれておきたいと思います。八〇年代に入りますと、わが国でもプーランザスやジェソップなどの著作が相次いで翻訳出版されるようになりました。発足したばかりの私達の研究会でも、それらの著書のいくつかを取り上げ、それらの理論動向をフォローするのにかなりの力を注ぎました。そして、それらの評価をめぐっては、当然のことながら、会員のなかでも意見の分かれることがありました。福井先生は、八八年に「ボブ・ジェソップの国家論」、九〇年に「『ネオ・マルクス主義』の『権力ブロック』論とヘゲモニー論」と題する論文を雑誌『科学と思想』に寄稿され、これらの理論動向に対して一定の批判を展開されました。それらの批判点は、ジェソップらの国家に対する関係論的アプローチが、土台ー上部構造論や階級国家論というマルクス主義の基本的立場に反するものであり、「階級支配の機構」としての国家の実体的側面を軽視しているということであったように思います。
  しかし、福井先生は、これらの理論動向を全く拒否されていたわけではありませんし、プーランザスの国家論については一定の評価をされておりました。また、先生は、これらの新しい理論動向をフォローすることと平行して、マルクスやエンゲルスの古典に立ち返り、そこから現代国家論や政治過程分析の方法を学ぶ努力をされていました。さきにあげた「現代国家論とエンゲルス『起源』の意義」や「『ブルジョワ社会の総括』と国家の機能」とともに、八九年から九三年にかけて『立命館法学』に掲載された、マルクスのいわゆる「フランス三部作」を対象にした「マルクスの政治過程分析の方法《序説》」、「マルクスの政治過程分析の方法」、「マルクスの政治過程分析と国家論」がそれにあたります。そのなかで、先生は、階級闘争とそれを代表する政党間闘争のあり方が政治過程を規定すること、その時々の政治形態はこれら階級闘争と政党間闘争を総括したものとして現われること、したがって、現代国家の具体的分析においては、「階級支配の機構」としてのその実体的側面とともに、関係的諸側面をリアルに分析することが重要であること、つまり、「『実体』的諸側面と結合することによって、その関係的諸側面を現象面からだけでなく、その基礎からとらえる」必要性を強調されたのであります。
  後期における福井先生のもうひとつの主たる研究分野は、現代日本政治の分析であります。この分野では、先生は、たんに書斎の研究者としてではなく、京都府や地元の吹田市の自治体問題に実践的にもかかわりをもたれ、地方自治について数々の論文や報告書を執筆されております。その代表的な業績としては、京大時代の恩師にあたられます長浜政壽先生の追悼論文集の編者の一人として七五年に出版された『現代政治と地方自治』所収の、吹田市における革新市政に関する論文、七九年の共編著『地方自治体の現状と課題』所収の、地方議会をテーマとする論文、九三年の共編著『地域づくりと住民自治』所収の、中丹後リゾート開発についての論文などがあります。また近年では、淡路島のリゾート開発や関西学研都市建設に関する論文を立命館大学人文科学研究所の紀要や叢書に、また八九年参議院選挙青森選挙区を事例とする「地域環境問題と国政選挙」と題する論文を『立命館地域研究』にお書きになっております。私には、これらの分野での先生の御業績について述べる資格はないのですが、私は、これら地方自治・地方政治の分野に関する御仕事が先生の業績のなかで占める比重はきわめて大きいのではないかと思います。そして、福井先生のこれらの御仕事は、初期のイギリス議会政治の研究以来、全国的な政治のあり方は中央政治のみならず地方政治のあり方によって規定される、という一貫したお考えに基づくものだと思えるのであります。
  現代日本政治に関して先生がとりくまれたもうひとつのテーマは、戦後体制ないし戦後民主主義に関する問題であります。私は、先生にとってこの問題は、いわば自己の同時代史を検証する作業でもあったのではないかと思います。先生は、終戦の年、一九四五年に中学校に入学されまして、いわゆる「戦後民主主義」の時代にその青春時代を過ごされました。この時代は、占領下での「戦後改革」によって形成された「戦後民主主義」の体制が、その後の占領政策の転換と「逆コース」によって修正を被り、それらをめぐる保守勢力と革新勢力の対抗のなかで、五五年の保守合同から六〇年の安保闘争をへて、いわゆる「戦後体制」へと収斂していく激動の時代でした。先生は、九一年度の日本政治学会の年報『戦後国家の形成と経済発展』に収録された論文「『逆コース』と戦後体制の形成」において、この過程について分析されております。そのなかで、六〇年安保をへて確立に向かうわが国の「戦後体制」は、「戦後改革を前提として、『逆コース』の諸政策とそれに対する反対運動との対抗という、『逆コース』をめぐる政治過程を総括するものとして形成された」と指摘されています。そして、この体制が日米安保体制に照応する国内支配の体制であるとして、「戦後体制」のはらむ日米安保体制と日本国憲法体制との矛盾に言及されています。
  いうまでもなく、「戦後体制」は政治的には、いわゆる「五五年体制」と呼ばれる自民党一党支配の体制でもありました。先生は、八六年の『現代日本の国家と法』所収の論文「五五年体制と保守支配の構造」において、六〇年安保の衝撃による自民党の統治方式の転換、「高度経済成長」政策の展開が保守支配の構造に与えた影響、「政・財・官」の三角同盟の形成と自民党の支持調達メカニズム、保守支配の動揺とその再編などの問題にわたって、自民党一党支配の構造について分析されております。ところで、こうした「戦後体制」は、皆さんも御承知のとおり、今まさに再編成の過程にあります。福井先生は、この支配体制の再編成が、日米安保体制の拡大・強化と密接に結合して進められているとお考えでした。すなわち、自民党一党支配の「五五年体制」が日米安保体制に照応する国内支配の体制であったとすれば、近年の「国際貢献」論にみられるように、いまや日米安保体制のグローバルな展開に照応する政治体制として、保守二大政党制に基づく権威主義的な支配体制の確立がはかられようとしている、というわけであります。先生は、こうした日本の「政治大国」・「軍事大国」化の動向が、戦後五〇年を経た今日、再び日本国憲法の「改正」をめざす動きを強める背景にあるとして、懸念を示されていました。先生がお亡くなりになる直前の今年四月に出版された、先生の最後の編著である『現代政治と民主主義』に収録されている論文「日本における戦後民主主義の原点」は、こうした問題意識をもって書かれたものでありました。まことに、福井先生は、「戦後民主主義」の歩みとともにその人生を歩んでこられた方であったのであります。
  さて、この『現代政治と民主主義』は私達「現代政治研究会」の会員による論文集であります。私は、この仕事が先生との最後の共同作業になるとは夢にも思っていませんでした。しかし、今から振り返ってみると、先生はこの仕事の完成をかなり急いでいらっしゃったように思います。一般に、こうした多人数で共著をまとめる場合、執筆段階で足並みがそろわず、当初の予定からずれ込むことが多いのですが、福井先生は、私達を叱咤激励して当初のスケジュール通り事を運ばれました。その間、昨年の春休みの三月と夏休みの九月には、それぞれ一泊二日の合宿をもち、春の合宿では各自の執筆内容の報告を、夏の合宿では原稿を持ち寄っての検討をおこないました。作業の遅れていた私などは、夏合宿の前に先生から直接の督促の電話を受けたこともありました。
  秋に最終原稿を提出し、初校を終えて年を越してから、福井先生の入院と手術の連絡が突然、私のもとにも入りました。先生は、この本の「あとがき」を手術前の入院中にお書きになったと聞いています。退院された後に福井先生の御自宅に御見舞にまいりましたが、ずいぶんと痩せられた先生のお姿を拝見してびっくりしました。しかし、先生は、四月になったら教壇に立つつもりだと話していらっしゃいました。そして、その後の再入院という事態にもかかわらず、先生は、病院から無理を押して教壇に立たれました。『現代政治と民主主義』が出版されて四月におこなわれた合評会にも、先生は病院から、奥様の付添いのもとで御出席下さいました。先生は、お亡くなりになる前日にも大学に出講されて、ゼミをおこなわれたと聞いております。先生の絶筆はその時に提出された、大学院政治学ゼミによる「ウォルフレン『日本/権力構造の謎』を読む」に寄せられた「まえがき」であるとのことです。まことに壮絶な生き方であったと思います。
  今、私の脳裏には、福井先生の眼鏡の奥に光るやさしいまなざしが浮かんでおります。
  福井先生、どうか安らかにお眠り下さい。