立命館法学 一九九六年一号(二四五号) 草創期のアメリカ政治学 −F・リーバーの政治論− 中谷 義和 |
(一) は じ め に 独立革命から憲法採択に至る政治過程にあって、また南北戦争(一八六一ー六五年)に至る対立過程にあって、現実政治の認識と政治理念の構築という点では、著名な政治の思想家や理論家が陸続と登場している。だが、この時期の政治的思惟の多くは現実の政治課題との対決において練り上げられたものである。確かに、「政治学(science of politics, or political science)」ないし「政府=統治(government)の科学」という言葉は、建国期の文書に認められるとはいえ(1)、その後、体系的展開をみることはなかったし、大学教育にあっても、総じて、歴史学や経済学と、あるいは法律学や道徳哲学と未分化の状況にあり、ギリシア語やラテン語教育と結合している場合も多かった(2)。したがって、アメリカ政治学の自立化と制度化は、やはり南北戦争後に求めざるを得ない。 アメリカ政治学史の時期区分は多様であり得ようが(3)、ここでは、一八八〇年代に政治学の大学院が主要諸大学に開設され、また、「政治学」が学科目として多くの大学において開講されるに至ったことをもって、アメリカ政治学はその「形成期」を迎えたものとみなし(4)、この形成期を導いた草創期のアメリカ政治学の源流を辿るとすると、F・リーバー(Francis Lieber, 1800-1872)に行き着かざるを得ない。それは、リーバーによって、アメリカ政治学の体系化と制度化が緒についただけでなく、その後の政治と政治学の研究者に与えた影響にも大きなものがあったからである。 リーバーは、サウス・カロライナ大学にあって、多くの論稿と著書をもって政治学の体系化につとめ、一八五七年にコロンビア大学へ「歴史学と政治学教授(Professor of History and Political Science)」として転任するが、これをもってアメリカにおける政治学ポストの公的認知の嚆矢とされる。かくして、リーバーによってコロンビア大学の政治学教学の基礎がすえられ、一八八〇年に、彼の後継者たるバージェス(John William Burgess, 1844-1931)によって「コロンビア大学政治学大学院(Columbia University School of Political Science)」が創設され、メリアム(C. E. Merriam, 1874-1953)やビアード(Charles A. Beard, 1874-1948)をはじめ多くの政治研究者が輩出されていくことになる。この点で、F・リーバーは、コロンビア大学における政治学の開学の祖にあたる。 また、リーバーの知的影響と人脈は広範に及んでいる。すなわち、ジェンズ・ホプキンズ大学の初代学長=ジルマン(Daniel Coit Gilman, 1831-1908)やイエール大学の学長=ウルズィ(Theodore Dwight Woolsey, 1801-1889)は、リーバーの影響を大きく受けているし(5)、コーネル大学の政治学大学院の開学に導いたホワイト初代学長(Andrew Dickson White, 1832-1918)は、イエール大学での学生時代をウルズィの指導下で過ごしている。そして、ジョンズ・ホプキンス大学の政治学の開拓者たるアダムズ(Herbert Baxter Adams, 1850-1901)は、アマースト大学の学生時代をリーバーの研究に過ごし、歴史学的政治学の方法を学ぶとともに、留学先たるハイデルベルク大学では、リーバーの友人たるブルンチュリーの教えも受け、やがて、コーネル大学の学長に就くことになる。また、ウィロビー(Westel Woodbury Willoughby, 1867-1945)やウィルソン(W. Wilson, 1856-1924)は、アダムズの教え子にあたり、ウィロビーはやがてアダムズの後任を、ウィルソンはプリンストン大学々長を経て第二八代大統領を務めることになる。 さらには、社会学にあっては、サムナー(William Graham Sumner, 1840-1910)やウォード(Lester Frank Ward, 1841-1913)の文化的・動態的社会アプローチはリーバーに負うものとされ、アメリカ政治学のみならず、アメリカ「社会学の先駆者」のひとりとも見なされている。また、リーバーの影響は、コロンビア大学にあって、「制度派」経済学者のヴェブレン(Thorstein B. Veblen, 1857-1929)や「新歴史学」の主唱者たるロビンソン(James H. Robinson, 1863-1936)にも及んだとされる(6)。 リーバーの交流も広範にわたり、スパークスらの学界指導層のみならず、ケントとストリー裁判官、クレイやウェブスター、カルフーンやビドル、C・サムナーにとどまらず、大統領のジャクソンやリンカーンからグラントやガーフィールドに至る政治家との交流を結び、ペリー提督とも知己にあった。また、ドイツ国家学の泰斗=ブルンチュリ(Johann Caspar Bluntchli, 1808-1881)やトクヴィル(Alexis de Tocqueville, 1805-59)との親交も深く、トクヴィルのアメリカ訪問と『アメリカ民主政治(De la Democratie en Amerique)』(全二巻、一八三五ー四〇年)の著述にあたっては、資料的便宜もはかり、その後も長く交友関係にあった(7)。 (二) 略 伝 ブルンチュリは、リーバーを評して、「人間としても、研究者としても自由主義者であった」としている。また、思想の位相という点では、「自由主義的ナショナリストにして共和主義的立憲主義者」と(8)、あるいは、ヨーロッパの政治概念をアメリカの政治と政治制度に適用しようとしたという点では、「ドイツの影響力を代表する最初の政治思想家」とも位置付けられている(9)。 リーバーのドイツ時代は、不分明な部分をとどめているが、一八〇〇年三月一八日にベルリンで生まれたとされる(10)。ナポレオン軍占領下のベルリンにあって、ナショナリストの家族のもとで育ち、ヤーン体育学校を経て(11)、ワーテルローの戦いに従軍・負傷する。退院後、一八一〇年創立のベルリン大学へ入学し、シュライエルマッハー(Frederick Schleiermacher, 1763-1834)やフンボルト(Wilhelm von Humbolt, 1767-1835)、フイヒテ(Johann G. Fichte, 1762-1814)の影響も受ける。だが、当時のプロシアは、いわゆるウィーン体制下にあり、一九年の「コッツェーブ(August von Kotzebu)暗殺事件」をきっかけとした「ブルシェンシャフト(Burschenshaft)」に対する弾圧のなかで、ベルリンを追われ、一八二〇年四月にイエナ大学に移り、間もなく、数学で学位を取得している。 イエナにあって、リーバーは「フイルヘルニスムス(Philhellnismus)」に加わり、二一年には、ギリシャ独立運動に赴く。失意の帰途にあって、ローマ史家で共和主義者のニーブール(Barthold G. Niebuhr, 1776-1831)の援助を受けるところとなり(12)、少時、ローマに滞在したのち、二三年にドイツに戻るも、再び反動期の投獄にあい、二六年五月にイギリスへ亡命する。ロンドンにあって、オースティン(John Austin, 1790-1859)とベンサム(Jeremy Bentham, 1748-1832)の知己を得たのち、ボストンのギムナジウムの体育教師に応募し、二七年六月にニューヨークに上陸する。 ボストンにあって、リーバーは、水泳を中心として体育を教え、三二年にニューヨークに、三三年にはフィラデルフィアに移っている。その間、ニーブルの紹介を得て、ドイツ新聞の通信員を務めつつ、ブロックハウス社の『百科事典(Conversations-Lexikon)』(一八一二年初版)の第七版を基礎に、アメリカ最初の百科事典たる『エンサイロピディア・アメリカーナ(Encyclopaedia Americana, 13 vols.)』(一八二九ー三三年)の編集にあたり(13)、この作業のなかで多くの知己を得ることにもなる。 リーバーは、三二年二月に帰化するが、初期のアメリカ体験と旅行記は、イギリスにおいて、『アメリカの外国人(The Stranger in America)』(一八三五年)として発刊されている(14)。また、一八三一年秋に、折から行刑事情調査のためにアメリカを訪れていたトクヴィルとボーモンの訪問を受け、彼らの調査報告に刑務所改革に関する長文の序文を付して、『行刑制度について』(一八三三年)として訳出し(15)、さらには、『教育と犯罪の関係に関する論究(Remarks on the Relation between Education and Crime)』(一八三五年)と題する小冊子を発刊している。 一八三五年六月、サウス・カロライナ大学理事会の決定を受け、リーバーは、「政治経済学と歴史学の教授(Professor of Political Economy and History)」としてサウス・カロライナ大学へ赴任する。リーバーは、就任講演において、「実践的道徳」としての歴史学教育の必要と意義や資料を基礎とした政治現象の因果的説明の必要性を指摘し(16)、やがて、極めて広澣な資料収集によりつつ『法と政治の解釈学(17)』(一八三七年)や『政治倫理学要論』(全二巻、一八三八ー三九年)を(18)、また『財産と労働論』(一八四一年)や『市民的自由と自治論』(一八五三年)などの著作を残す(19)。『要論』は、ハーヴァード大学(カレッジ)で、また『自治論』はイエール大学(カレッジ)でテキストとして使用されるとともに、その後、アメリカ最初の政治学的論述と位置付けられることになる(20)。 リーバーは、サウス・カロライナ大学にあって、「蜘蛛が独り糸を編むかのごとく」多くの著作を残し、また、ドイツ版ラテン同意語辞典の翻訳も行っているが(21)、折からの南北対立の表面化のなかで、現実政治との関わりも深くする。この点で、リーバーは、国際分業と経済的相互依存関係の認識において、自由貿易論の立場から、南部の主張には同調的ではあったものの(22)、カルフーンに宛てて、奴隷制は「退廃状態であり、全ての進歩と文明化の二つの主要な構成要素・・・つまり、法制度としての財産と結婚を否認している」と書き送っていることにも窺われるように(23)、奴隷制には反対の意向にあった。だが、この問題に対する連邦政府の介入や、漸次的改良の立場からアボリショニズムにも批判的でもあった。だが、南北戦争が切迫するにつれて、「連邦離脱(セセジョン)」論は「自己破壊の原理」の主唱にすぎないとの立場から南部の連邦脱退論には強く異論を唱えるとともに、南北戦争の危機が切迫するに至るや、連邦国家の統一と奴隷制の廃止を鮮明にする(24)。 一八五六年の学長選の敗北を機に、リーバーは、サウス・カロライナ大学を辞し、五八年にコロンビア大学に移り、歴史学・政治学教授を務めることになる。その就任講演において、リーバーは、サウス・カロライナ時代の教育・研究歴を踏まえて、歴史学・政治学・経済学の意義と課題について自説を披瀝している(25)。 南北戦争は、リーバーにとって、三人の息子が従軍し、長男は南軍に従軍・負傷するという苦境に立たしめた。この内乱を契機とし、リーバーは、諸国民の世界的社会関係の模索へと向かい、戦時国際法を含む国際法・国家間関係への関心を強くする。 リーバーは、南北戦争期にあって、北部支持を明確にし、南部同調派に対抗して「連邦出版協会」を組織するとともに、その議長に就いている。また、陸軍省(War Department)の「戦時法制定部」の求めに応じて、『ゲリラ隊と戦時の法・慣例との関係(Guerilla Parties and their Relation to the Law and Usages of War)』(一八六二年)と題する小冊子と『陸戦における合衆国軍隊の統治慣例(A Code for the Government of Armies of the United States in the Field)』(一八六三年)を作っている。『慣例』は、「戦時法制定部」の修正を経て「一般法令一〇〇号(General Orders, No. 100」と、あるいは「リーバー戦時法典(Lieber’s Code of War)」とも呼ばれるようになり、その後、一八九九年と一九〇七年のハーグに始まる戦時法制定会議のモデルともなった(26)。 南北戦争後の再建期(Reconstruction, 1865-77)にあって、リーバーは、六五年から「コロンビア大学法律学大学院(Columbia University Law School)」で研究・教育活動にあたるとともに、一八六五年創設の「アメリカ社会科学協会(American Social Science Association)」の設立メンバーとなっている。この協会を基礎に、その後、アメリカの社会科学界は分化し、「アメリカ政治学会」も一九〇三年に創立されている。また、リーバーは、コロンビア大学における政治学系大学院の創設に尽力し、その営為は、後継者たるバージェスに継承され、八〇年に「コロンビア大学政治学大学院」が設立されることになる。 その間、リーバーは、七二年一〇月二日に亡くなっている。コロンビア大学政治学部は、リーバーの業績を讃え、一九〇四年に、「歴史学と政治哲学のリーバー教授職(Lieber Professorship of History and Political Philosophy)」を置き、ダニング(William Archibald Dunning, 1857-1922)がこの席につき、一九二九年には「政治哲学と社会学(Political Philosophy and Sociology)」と名称を変えて、マッキーバー(Robert Morrison MacIver, 1882-1970)に継承されることになる。 (三) 社会・国家・政府・国民の概念 リーバー政治学の体系的論述の最初は、『政治倫理学要論』に求められる。この点で、『法と政治の解釈学』と『政治倫理学要論』とは、ほぼ同時期に公表されているが、『解釈学』は、上陸以来の課題としていた『要論』の一部に予定していたものを独立の論稿として発表したものであり、神学ないし哲学における解釈学の世界を法と政治の世界に転釈し、「科学」としての「政治と法の解釈学」を試みたものである(27)。 『法と政治の解釈学』と『政治倫理学要論』の発刊をみた頃のアメリカは、ほぼ、建国後五〇年を経た頃にあった。だが、いまだ、『合衆国憲法』は、国民的紐帯の位置を占めるに至らず、なお、南北は、南北戦争の前哨戦ともいうべき「無効宣言」論争の過程にもあった。この点で、イギリスにあって、ベンサムとマンチェスター学派が自然権の理論を一九世紀の産業・社会に適したものに鋳直すという作業過程にあったように、アメリカにあっては、アメリカの現実にふさわしい政治理論を必要としていたのである。トクヴィルが「全く新しい世界には新しい政治学が必要である」と指摘しているのも(28)、あるいは『法と政治の解釈学』が憲法の解釈と通釈の「理法」について論じているのも、こうした状況の反映でもあった。 リーバーが「法と政治の解釈学」を試みたのは、例えば、言葉を媒介とした人々の統一や行動の助長と抑制に認められるように、法・政治現象に占める言語の象徴的作用の重要性や「市民」生活における「解釈」と「通釈」の必要性の認識においてのことである。したがって、『解釈学』は、言語学的・論理学的・倫理学的方向においてのことであるが、法学のみならず、政治と政治学の解釈学的方向を設定せんとした位置にもある。 「解釈学(hermeneutics)」とは、『法と政治の解釈学』の副題が示しているように、「解釈(interpretation)と通釈(construction)の原理と規則を設定する科学部門」であり、こうした原理と規則の現実的適応の概念たる「釈義(exegesis)」に対比される位置にあり、この限りでは、「解釈学」は「釈義」ないし「説明(explanation)」の基本原理であり、『解釈学』と『釈義』とは「理論と実践」の関係にあるとされる。また、「解釈」とは、「何らかの形式の語彙の真の意味を、つまり、著者が伝えたい意向にあった意味を発見する技術」であるとし、九つの「基本的解釈原理」を措定している(29)。だが、語彙は、実践において、あるいは実践を媒介として字義変化を、また、字義変化を媒介として実践の変化を呼ぶことになる(30)。ここに、「通釈」の必要が起こる。リーバーは、「通釈」とは「典拠の直接的表現を超える事項について、典拠から窺われ、所与とされている基本的要素から結論を、つまり、典拠には文言として認められないとしても、その精神とされる結論を引き出すことである」とし、一六の「一般的通釈原理」を措定するとともに、一一の「基本法の解釈学原理」を提示している(31)。 『法と政治の解釈学』が法と政治の「解釈」と「通釈」の「理法」を論述の主たる目的としているのにたいし、『政治倫理学要論』は、当時の大学教育における倫理学型政治学という支配的潮流もあって、「倫理学の原理の政治への適用の方法」を目的として「政治倫理学」の体系化を試みたものであり、豊かな傍証と言語学の素養をもって、政治生活と倫理との統合を模索したものとなっている。本書は、その後、アメリカ最初の体系的政治学の論述書と位置付けられることになる。 リーバーは、政治学的には、「アメリカ最初の体系的国家論者」であり、「国民(Nation)ないし政府(Government)の同意語にはとどまらないものとして、初めて国家の概念を導入し、これを理論的分析の対象とした」とされているように、合衆国政治学において、「国家(State)」の概念を設定し、これを分析の対象としたのみならず、この概念をもって「アメリカ国家」にアプローチした研究者ともされる(32)。 リーバーは、既に、『エンサイクロピディア』において、「国家」を定義して、「政体(body politics)、政治目的のための人々の団体(association)であり、その目的はコモンウェルス、つまり共通善(common good)という言葉によく表現されるところである」と、あるいは、国家は「人々の能力の十分な発展にとって不可欠であるがゆえに、人間の自然な条件であるとも呼ばれ得る」とし、また「政府」は「国家の偉大な諸目的を達成するための手段にすぎない」と指摘している(33)。こうしたリーバーの「国家」と「政府」論が体系的展開をみせるのは、『政治倫理学要論』においてのことである。 リーバーが自らの課題を、歴史的事実において政治哲学の原理的検討に求めているように(34)、あるいは、ブルンチュリによれば、リーバーは「哲学派(Philosophical School)」と「歴史学派(Historical School)」の影響下で育たざるを得なかったと指摘しているように(35)、その政治学的営為の特徴は、倫理・国家学型歴史学的政治論に求められ得よう。この点は、『要論』が、カントの政治哲学原理と同様に、人間の社会性を基礎に、個人の権利・義務関係を「国家」との関連において模索するという、いわば倫理・哲学的(ethico-philosophical)国家論型政治学と歴史学型アプローチとの複合的論述にあることに認めることができよう(36)。 『政治倫理学要論』は、「社会(Society)」・「国家(State)」・「政府(Government)」を区別している。すなわち、「社会」を定義して、「同一の関心を有し、そのために、一致して努力する多数の諸個人」であるとされ、また、「国家」とは「権利型社会(jural society)」であると、あるいは「権利関係を基礎とし、また、これに従って組織された人間社会」であり、人間の「自然な状態」にほかならず、「諸社会のなかの社会(the society of societies)」であるとされる。これにたいし、「政府」は、「国家の装置」ないし「機関(institution)」であり、「社会の明確な自覚的行動によって設置され得る」ものであり、いわば人間の案出物であるとされる(37)。では、なぜ「国家」が人間の「自然な状態」であり、「始源的(aboriginal)」存在であるとの定義が導かれるのであろうか。これは、リーバーにあって、人間の「個人性(individuality)」と「社会性(sociality)」という二元性ないし複合的存在であるとの視点から、あるいは人間が生物学的にアトムな存在であるとする「個人主義(individualism)」と、「社会的存在(sociality)」であるとの意味における「社会主義(socialism)」との複合的観点と理念から導かれている(38)。 近代の政治学的論述の多くが「人間論」から出発するように、『要論』も人間の「個人性と社会性」が所与の現実であるとし、この人間の二元性から社会・国家・政府・国民の概念が導出されてくることになる。すなわち、『要論』は、人間の生物的・物理的個別性のみならず、外界への自己投影意欲という精神的・物質的個別性に「個人性」を認め、「所有(property)とは、人間の個人性の、外的事物への適用にすぎず、あるいは、人間の個人性の物的世界における現実化と表現化である」としている。つまり、外的事物の個人化(所有)が個人性の自己実現であり、これが「進歩」の要諦とされる。ここに、「精励」と「創意」を媒介とした「社会進歩」と「文明化(civilization)」の原動力が措定されることになる。かくして、「個人性」の自己実現と「所有」とが等視されるとともに(「所有的個人主義」)、「所有」の「自由」(個人主義と自由主義との接合)に「文明化」の契機が措定され、その保護と保証に「政府」の「義務」が求められ、また、共産主義批判の視点が設定されることにもなる(39)。 他方で、リーバーは、人間とは「社会的存在」であるという意味での「社会主義」の視点から、「個人性」と並んで人間の「社会性」を設定し、個人の「存在」と「個人性」の追求は、社会において実現されざるを得ないものとみなし、「社会」を「人々の主要な関係」に即して、(1)血縁関係、(2)交換関係、(3)交流(コミティ)関係、(4)知的関係、(5)権利関係に大別し(40)、「国家」とは、(5)の「権利(ライト)関係」に属するものと位置付けている。 「個人性」の追求は、「自由な行動」(「個人主義的自由主義」)の相互発現において、人間の「社会性」との原理的矛盾を招来することになる。この矛盾の止揚は「権利(right, jus)」を媒介として「国家」を導出することに求められる。すなわち、リーバーに従えば、「権利」とは「相互に公正とされるものを要求すること」であるとされる。ここに、「社会」を媒介とした「権利」の個人化と個人的「権利」の社会的「義務」化の相互関係(個人性と社会性の共存)が存在することになる。「国家」とは、こうした「権利関係を基礎とした社会」であり、代表的には、「法律(law)」を媒介として社会諸関係の「権利」の包括的保護を目的とした「社会関係」であるがゆえに、「諸社会のなかの社会(the society of societies)」と位置付けられることになるのである(41)。かくして、「国家」とは、人工的・意図的案出物ではなく、「個人性」の実現において必然的な社会関係であり、「人間は国家を欠いて生存し得ず、国家は人間の本性にとって必然であり、国家は人間の自然な状態」であり、「必須条件」であるとされ、この認識において、契約論的社会・国家観が拒否されることにもなる(42)。 このように、「個人性」の自己実現は、「社会」において、また、「国家」に担保されざるを得ないわけであるから、「個人性」の「自由」において「国家」の「絶対的権力」は否定されながらも、ひとつの社会としての「国家」の必然性の観念において、それは「神聖なる結合体」であり、「人々の栄光」であると理解され、個人の「社会性」において「国家」への「誠実な献身」が「道徳的責務」として要求されることにもなる。ここに、人間の「個人性」と「社会性」という二元性が、あるいは「個人性」の自己実現の社会的媒介の必然性が「国家」への個人的「義務」のみならず、「国家」の「公共性」と「自立性」に接合する内在的契機を確認することができる。この点で、「自由主義」の生命力は、「自由」に「個人主義」の契機を、「平等」に「社会主義」ないし「組織化」の契機を措定し、この対立的命題の至当な位置を時代の要請のなかで模索してきたことに求められようが、リーバーにおける「個人主義」と「社会主義」の共存の必然性と相互制肘の原理は、「個人主義」者の「社会主義」認識の欠如と、社会主義者の「個人主義」認識の欠如の二面的批判にも連なることになる(43)。 「国家」・「主権」・「政府」は、近代政治原理にあって一対の概念である。リーバーは、「主権(Sovereignty)」を定義して、「国家から必然的に、あるいは自然に派生」する「自己完結的権力」であり、「社会の属性」であるとする。また、「主権」は社会に帰属するのみならず、「公論(public opinion)」、「法創造(generation of law)」、「権力(power)」として顕現するものとしている(44)。かくして、「主権」は「権利関係」としての「社会」たる「国家」に帰属し、この「国家(社会)主権」が「公論」を媒介として「立法」に接合し、法の発動主体としての「政府」は、その正統性の基盤を「国家」に置いているという国家・主権・政府の連環の論理が成立することになる。だが、こうしたリーバーの「国家」観は、個人の「社会性」において、社会関係としての「国家」の全社会の包摂と「自立化」の観念のみならず、「政府」が権力の現実的発動主体であるだけに、「国家」と「政府」との同視の契機を不断に内在させざるを得ない。かくして、リーバーの「国家」論に「国家」の「社会」からの分離と自立化の、さらには「国家」と「政府」との同視の内在的契機を読みとることができるだけでなく、「国家」が主権を有する人民の「政治的結合体」(「政治的社会関係」)とされているがゆえに、ドイツ「国家学」の影響のみならず、その後のアメリカ政治学における「国家」論のひとつの原型を認めることもできよう。 リーバーの検討は、「国家」と「国民」とを区別しつつも、歴史的視点において、両者の一体化概念としての「国民国家」の理念にも及ぶ。すなわち、リーバーは、近代における通常の政体は「国民的(ナショナル)政体」であり、その最高の政治形態を「代議制国民政府(representative national government)」に求めるとともに、ギリシアの「都市国家」や「封建体制」との歴史的対比において、近代の「国民(Nation)」の形成を位置付け、その構成要素として、領土・言語・政府の共通性と並んで、人々の「有機的統一性」や「共通の運命」にあるという意識の共有を挙げている。というのも、リーバーにあって、「国家」が人間存在にあって不可欠の「始源的」社会関係と観念されているわけであるから、こうした社会関係と「国民」の形成史とは同時進行の過程にあり、近代に至って「国民国家」の形成へと連なったと理解されているのである。こうした歴史的視点において、入植史以来のアメリカ建国史において、とりわけ、「合衆国憲法」の制定をもって、「アメリカ人民はひとつの国民(ネーション)を形成している」との指摘に連なるのである(45)。かくして、リーバーにおいて、「個人性」の自己実現は、「文明化」の力学的・歴史的過程と結合して「国民(ネーション)」の形成へと、さらには、この過程が社会関係としての「国家」に担保され続けざるを得ないがゆえに、ここに「国民国家」として発現したものとされ、この脈絡において、「アメリカ合衆国」は「国民国家」と位置付けられ得ることになる。こうした「国民(民族)」観の形成史やその構成要素には、その後の「国民(民族)」論の原型を読み取ることができよう。 (四) 政治体制論 『政治倫理学要論』における倫理・国家学型歴史学的政治論は、人間の「個人性と社会性」の理念、あるいは「個人主義」と「社会主義」を基本認識として、『市民的自由と自治論』(一八五三年)において、「市民的自由(civil liberty)」と「自治(self-government)」の検討に結合する(46)。 「市民的自由」とは、「自由の一般理念の、人間の市民(シヴィル)状態への、つまり政治的存在としての諸関係への適応」であり、人間の「個人性」と「社会性」の二重の表現、いわば「社会状態における自由」であり、「人間の政治的領域における自由」にほかならないとされる。また、「自治」とは、「自由のコロラリー」であり、「政治の舞台となり、また政治が構成される多様な諸次元(サークル)における自恃と自己決定の承認」であり、「結合型自主活動の諸機関、諸機構、および、こうした諸機構の体系的結合体」において成立し得るものとされる(47)。かくして、リーバーにあって、精神的「自由(フリーダム)」に対比される社会的「自由(リバティ)」は、人間の「社会性」において、「政治的・制度的自由」と観念され、政治の構成諸単位の「自治」の複合的構成において発現し得るものとされていることになる。こうした分節型有機的構成としての「自治」観は、政治体制の編成原理とも接合している。 リーバーは、「政治の機能様式」を「国家の政体(polity of a state)」とし、これを「アウタルキー(autarchy)」と「ハマルキー(hamarchy)」に二分し、「アウタルキー」型政体とは「絶対的権力ないし絶対主義」の体制であり、公的権力が君主・貴族・人民のいずれに帰属していようと、この体制は「権力と強力」に依存し、その維持原理は「犠牲」に求められるとする。これに対し、「ハマルキー」型政体とは「多数の個別部分が独自の行動をとりつつも、総体として、ひとつの生命あるシステムに統一」された「ひとつの有機体、有機的生命体」であり、その維持原理は「妥協(compromise)」に求められるとしている(48)。 こうした「ハマルキー」と「アウタルキー」への政体二分論は、「自由」観の二分論を基礎としている。すなわち、リーバーは、「自由」観を「イギリス型(アングリカン)」(ないし、その展開形態としての「アメリカ型」)と「フランス型(ガリカン)」に分け(49)、「フランス型自由」観に「公的権力」(政府・官僚制)を媒介とした集権的「組織化」を、また、「英米(アングロ・アメリカン)型自由」観に個人の法的・制度的自由と自治の原理を認め、こうした二つの「自由」観を基礎に、有機的分権・協調型(コーパラティブ)代議制(ハマルキー型英米政体)と統一的集権・強力型政治体制(アウタルキー型フランス政体=「フランス型自由のカリカチュア」)を措定するのである(50)。 さらには、「絶対主義は保護の否定であり」、「保護」は「自由の要諦」であるとの認識において、また「フランス型自由」観に特徴的な「平等」と「民主政」との、また「自由」と「民主政」との、したがって、「平等」と「自由」との等置への思想的傾斜が統一的・集権主義と「多数の絶対主義」を招来し、これが「議会主義」の否定に連なるとの認識において(「人民の全権」から「皇帝の全権」へ(51))、「多数型専制」を「民主的絶対主義(democratic absolutism)」をもって呼称し、「民主的自由(democratic liberty)」観との対置において、「君主型絶対主義」や「皇帝型絶対主義」と共に「絶対主義」に包括している。さらには、「多数の支配」とは「集団の権力」にすぎず、「市民的自由」とは相入れず、政府による「多数専制」にほかならないとの視点において、また、大衆の「一時的衝動、興奮、パニック、恐怖、復習心、悪意、ファナティズム」を避け、「熟慮と討議」や「公論(public opinion)」の代弁機関たらしめるべきとの考えにおいて、「代議制」が弁護されるのみならず、投票権の拡張には賛意を表しつつも、都市無産層を含む普選の導入には否定的意見が表明されるのである(52)。こうした「民主的絶対主義」の観念には、フランス革命の経緯、とりわけ、「ナポレオン三世はフランス人の圧倒的多数によって選ばれたことを自らの王権のよりどころとし、自らの政府を普選によって永遠のものとしている」と指摘しているように、あるいは、「全ては人民のために、されど何事も人民によらしめることなかれ(Everything for the people, nothing by the people)」とのナポレオン一世の好みの言葉を引用し、帝政批判のよりどころとしているように、フランス革命の経緯や、同時代人として目撃した「四八年革命」以後のフランスの政治状況、とりわけナポレオン第二帝政の成立が深い影を落としていたのである(53)。 リーバーは、「自治」の保証メカニズムを「制度的自由(Institutional Liberty)」に求めている。「制度」とは、「慣例、法律、あるいは広範で反復的作用にある規則、こうしたもののシステムないし体系」であり、こうした制度には、「自らの自律的活動と存続のみならず、総じて自らの展開をも守り得る有機的組織(オーガニズム)を内包するもの」としている。こうした自律的・分節型「制度的自由」の体制は、社会の個人への「分散」体制とは異なるのみならず、「絶対主義」や「集権主義」と対立関係にあるという視点において、ルッソーの「非分節的・非組織的・非制度的多数制」と対置されている(54)。 こうした「制度的自由」の概念は、リーバーがカルフーン(John C. Calhoun, 1782-1850)とほぼ同時代人であり、両者は共に「多数専制」ないし「多数派絶対主義」体制の阻止を課題としていたということもあって、カルフーンの「競合的多数制(Concurrent, or Concurring Majority)」の概念と対比されることが多い。 カルフーンは、南北間の対立のなかで、「多数利益(majority interests)」による政府を媒介とした「多数専制」の抑制のメカニズムを「競合的多数制」に求めた。この点では、リーバーも、確かに、「多数派絶対主義」の危険感の共有のうちに、「制度的自由」の体制を提唱しているのであるが、階級や職能集団による拒否的権力の行使は「多数の敵対関係を生み出す」のみならず、身分型分散的「中世国家への回帰にほかならない」と指摘しているように(55)、さらには、リーバーの「国民国家」の理念とも矛盾するものであるがゆえに、この種の利益集団による拒否権の相互発動にかえて「制度的自由」の体制に「多数専制」の抑制と分節型「国民」統合の制度的保塁を求めたのである。 「制度的自由」観の体制化は「ハマルキー」型体制と符合している。この点で、「ハマルキー」型体制とは、「妥協」を維持原理とした相互の「抑制と修正」の有機的分権型協調体制とされているがゆえに、アメリカの自由主義的立憲共和制型連邦体制の積極的擁護論に符節することにもなるし、あるいは、リーバーの「制度的自由」論が政治権力の機能的・空間的分立を媒介とした有機的統一論(分節型政治編成論)であるだけに、「地方自治(local self-government)」を賞揚するものであり、この点では、トクヴィルの「地方自治」論と重なり合うものを認めることができる。 (五) 学史的位置 リーバーは、『エンサイクロピディア』において、「政治(politics)」の項を設け、「最広義において、統治(government)の科学と技術の両者であり、あるいは、国家の成員としての、人々の諸関係の全てにおいて、その調整を対象とした科学、および、この科学の適用である」と、あるいは「市民社会の諸目的を可能なかぎり完全に成就するための理論と実践である」と定義しているように、統治の科学と実践の両者を含意するものとしている。また、「政治学(political science)」を「抽象的、ないし純粋に哲学的」研究と「歴史的・実践的」研究に分け得るものとしている。こうした「政治学」の理論的・実践的・歴史的領域設定には、その後の伝統的政治学の研究領域と符合するものがある。 さらに、リーバーは、政治学の研究対象として、(1)「自然法」、(2)「抽象的ないし理論的政治学」、(3)「政治経済学」、(4)「治安の科学」、(5)「政治の実際」、(6)「政治の歴史」、(7)「ヨーロッパとアメリカの国家体系史」、(8)「統計」、(9)「実定法・公法・憲法」、(10)「諸国民の法運用」、(11)「外交」、(12)「政治実践」、この一二領域を措定している。したがって、「政治学」の対象領域は、政治の理論的・歴史的研究と現状分析から、「政治経済学」のみならず、法学や統計分析から外交と比較法学にまで及ぶものとなっている(56)。この点でも、その後の政治学の展開を想起してみるに、政治学の分化という点では興味深いものがある。 ところで、一九八〇年代の合衆国政治学は、「国家の理念の神格化」に見舞われたとされる(57)。それは、ウルズィーとバージェスやウィルソン、あるいはウィロビーらの著作に認められるところであるし(58)、アメリカ最初の政治学雑誌たる『政治学季刊誌(Political Science Quarterly)』(コロンビア大学)が、創刊号において、「政治学(political science)」とは「国家の科学(science of the state)」であり、「国家の組織と機能、および国家間関係」の研究に求められると規定していることにも窺われるところでもある(59)。これは、この時期のアメリカ社会科学者の多くがドイツに留学するなかで(60)、ドイツ国家(法)学の影響を強くしたということもあるが、歴史的には、一九世紀末のアメリカ社会の”危機”のなかでの「国民と政治的共同体の模索」の反映でもあった(61)。だが、こうした「国家の理念の神格化」は、アメリカ政治学史の文脈にあっては、リーバーの国家学的・歴史学的視座の延長において、歴史的・知的状況との複合において顕在化したと言えよう。 広く、合衆国の政治理念にあっては、「ロック的自由主義(Lockean Liberalism)」の伝統において、いわゆる「無国家感(sense of statelessness)」を特徴とし、政治学における国家概念の成立は、南北戦争後の行政・官僚制の構築と「新アメリカ国家」の成立以降のこととされている(62)。確かに、『フェデラリスト論集(Federalist Paper)』(一七八七年)にあって、「国家」の概念にかかわる論述タームは、「政府ないし統治(government)」、「市民政体(civil polity)」、「市民社会(civil society)」であり、同質的・有徳的人民の有機的政治共同体という含意にあった古典的「共和政(制)」の概念ではなくて、「党派(fractions)」と「動揺(convulsions)」の社会を前提としている。この視点において、「政府」は、複雑な「抑制と均衡」のメカニズムを内包した「多数専制」防止型・「利益集団」型代議制統治機構とされ(「マディソン・モデル」)、「民主的(democratic)」というより「民衆的(popular)」な統治形態が構想されたのである。だからこそ、やがて、この統治機構が、人民と公的利益において、介入主義型国家形態への移行を強めるなかで、そのジレンマを強くせざるを得なかったのである(63)。 だが、いわゆる「無国家感」は、建国期からの政治の論述にあって一般的であったわけではない。確かに「国家」の政治学的営為は認められないにしろ、「連合規約」が一三の「邦(states)」に主権を認めていることに、また、「フェデラリスト」と「アンティ・フェデラリスト」の国制論争に、さらには、南北戦争に至る憲法・主権論争にも認められるように、「国家」の観念とアメリカ型国家体制の模索は、建国期からアメリカの政治理念に底流している。この点で、リーバーの政治学史的位置と意義は、こうした「国家」の「奏音」をひとつの「国家論」と「国民国家」論として体系化するとともに、「国家」としての、また「国民国家」としての「アメリカ合衆国」への政治学的アプローチが試みられ、その理論的営為が、やがて、「国家の理念の神格化」の局面に至って、多様な「国家」論の基底に位置したことに求められる。 また、リーバーの「制度的自由」観は、やがて、「ワイマール憲法」の起草者のひとりたるプロイス(Hugo Preuss, 1860-1925)によって、積極的に見直されるに至ったことにも認められるように、二つの「自由」観を基礎とした「制度的自由」論や「ハマルキー」型政治体制論は、「自由主義的立憲政体」の理解という点でも鍵的位置にあるし、「制度的自由」の体制が有機的分節型体制と唱揚しているだけに、自治型政治編成にとどまらず、ひとつの「多元主義的政治体制」像の模索の位置にあるとも言えよう。 さらには、やがて「国家」と「統治機関」との等視が、あるいは共同体型国家観が支配的になるだけに、「国家」と「社会」や「統治機関」との等視の学史的脈絡をつける必要があるにせよ、人間の「個人性」と「社会性」を基底として「国家」をひとつの「社会」とみながら、「社会のなかの社会」としたリーバーの「国家」観に、「国家」の自立化の論理的契機を求めることができようし、あるいは、「国家」が社会の一関係ととらえられているだけに、「国家」の「社会」への再吸収の理論化の糸口を求めることもできよう。また、リーバーの「個人主義」が、「個人性」の自己発言の認織において「所有」の「自由」の観念と結合しているだけに、いわゆる「所有的個人主義」(C・B・マクファーソン)のひとつの「原型」を認めることもできる。 以上のように、リーバーの政治論には示唆的なものが認められるだけでなく、政治の体系的研究と政治学の制度化の、また「国際法学」の端緒という点で、さらには、その知的・政治学的影響力の強さと広さという点でも、アメリカ政治学の源流に位置していると言える。 (1) 「科学(Science)」という言葉が社会論述の修辞として極めて重要な位置を占めるに至った状況において、「政治の科学(Science of Politics)」ないし「政府の科学(Science of Government)」という言葉は、既に、『フェデラリスト論集(Federalist Paper)』(一七八七年)の9、18、31、37、44、47、66の各篇に認めることができ、この点では、「アンティ・フェデラリスト」派にも同様のものがある(Herbert J. Storing, ed., The Complete Antifederalist, Univ. of Chicago, 1981, esp. vol. 2)。この点については、次を参照のこと。James Farr,”Political Science and the Enlightenment of Enthusiasm, American Political Science Review(以下、APSR と略記)vol. 82, 1988, pp. 51-69; idem,”The Estate of Political Knowledge: Political Science and the State, JoAnne Brown and David K. van Keuren, The Estate of Social Knowledge (Johns Hopkins Univ. Press, 1991), pp. 5; 17, n. 21; I. Bernard Cohen, Science and Founding Fathers: Science in the Political Thought of Jefferson, Franklin, Adams, and Madison (W. W. Norton, 1995). (2) Anna Haddow, Political Science in American Colleges and Universities, 1636-1900 (D. Appleton-Century, 1939). (3) 例えば、ソミットとタネンハウスは、「前史−一八八〇年以前」−「形成期−一八八〇ー一九〇三年」−「生成期−一九〇三ー二一年」−「中間期−一九二一ー四五年」−「現代−一九四五年以後」に、あるいは、D・イーストンは、「形式的(法的)」−「伝統的(非形式的・前行動論的)」−「行動論的」−「脱行動論的」の各段階に区分している。また、ファーとセイデルマンは、「初期(一八五七ー一九〇三年)」−「展開期(一九〇三ー四五年)」−「論争期(一九四五ー七〇年)」−「新出発期(一九七〇ー九二年)」に区分している。Albert Somit and Joseph Tanenhaus, The Development of American Political Science: From Burgess to Behavioralism (Allyn and Bacon, 1967, 2d ed., 1982); David Easton,”Political Science in the United States: Present and Past, D. Easton, J. G. Gunnell and L. Graziano, The Development of Political Science (Routledge, 1991); James Farr and Raymond Seidelman, eds., Discipline and History: Political Science in the United States (Univ. of Michigan Press, 1993). (4) 一八七六年に、ジョンズ・ホプキンズ大学に「歴史・政治学研究(Studies in Historical and Political Science)」の大学院が置かれ、一八八〇年にコロンビア大学政治学大学院が、また、翌年にミシガン大学に、さらには、一八八六年には、イエール大学に政治学の大学院が設置されている。また、第十一回の「アメリカ政治学会」における報告によれば、一四一大学に「政治学一般(General Political Science)」が、四三大学に「政治諸理論(Political theories)」がおかれていたとされる。Albert Somit and Joseph Tanenhaus, op. cit., 1967;”Report on Instruction in Political Science in Colleges and Universities, Proceedings of the American Political Association at its Tenth Annual Meeting (held at Washington, D. C., December 30, 1913-January 1, 1914), APSR 10, 1924, pp. 249-70. (5) ジルマンは、リーバーの『彙集ー回想・講演・小論(Miscellaneous Writings: Reminiscence, Addresses and Essays, 2vols., Philadelphia: J. B. Lippincott & Co., 1881)』(以下、MWと略記)を編集し、その「序文(Introduction)」を執筆している。また、ウルズィは、リーバーの『政治倫理学要論(Manual of Political Ethics, 1838-39)』の第二版(一八九〇年)と『市民的自由と自治論(On Civil Liberty and Self-Government)』の第三版(一八七四年)を編集し、前者の「緒言(Preface)」を付し、後者の「序文(Introduction)」を執筆している。なお、ウルズィの『国際法研究入門(Introduction to the Study of International Law)』(1860,箕作麟祥訳『国際法』、一八七三年、二書堂)の第二版(一八六四年)は、リーバーに捧げられている。また、この訳書において、「インターナショナル・ロー」には、従来の「万国公法」という慣用語に替えて「国際法」の訳語があてられた始めとされる(松隈清「南北戦争と国際法学」『紀要』、八幡大学社会文化研究所、一九七九年第五号)。 (6) 例えば、次を参照のこと。Joseph Dorfman and Rexford G. Tugwell,”Francis Lieber: German Scholar in America, Columbia University Quarterly (Sep., 1938), pp. 159-290; Lee M. Brooks,”Sociology in the Works of Francis Lieber, Social Forces VIII (1929), pp. 231-41; A. W. Small,”Fifty Years of Sociology in the United States (1865-1915), American Journal of Sociology 21 (May 1916), pp. 727-29. (7) MW, II, p. 13.『法と政治の解釈学』第二版(一八三九年)は、当時、ニューヨーク州大法官(Chancellor)にあったJ・ケントに捧げられいる。なお、ブルンチュリの『一般国家学(Allgemeine Staatslehre, 1851)』は、一八九五年に、『国家の理論(The Theory of the State, 1895, reprinted, Books for Libraries Press, 1971)』として英訳されている。また、リーバーがトクヴィルとボーモンの訪問をうけたのは、三一年九月一八日である(Thomas Sergeant Perry ed., The Life and Letters of Francis Lieber, Boston: James R. Osgood, 1882, p. 91, 以下、LLFL と略記)。会見の状況については次を参照のこと。George W. Pierson, Tocqueville and Beaumont in America (Oxford Univ. Press 1938), pp. 375-80. (8) J. C. Bluntschli,”Lieber’s Service to Political Science and International Law, MS, II, pp. 7-14; idem,”The Service of Francis Lieber to Political Science and International Law, International Review (Jan. 1880), pp. 50-55. Frank Freidel, Francis Lieber: Nineteenth-Century Liberal (Louisiand State Univ. Press, 1947, reprinted, 1986, Peter Smith); Bernard E. Brown, American Conservatives: The Political Thought of Francis Lieber and John W. Burgess (Columbia Univ. Press, 1951, reprinted, 1967, AMS). ブラウンがリーバーを「保守主義者」と位置付けているのは、思想の位相においてはリベラルであるが、アメリカ思想の文脈においては「保守主義」者であるとの限りにおいてのことである(Bernard E. Brown, op. cit., 1967, p. 7)。 (9) アメリカ政治学に与えたドイツ観念論の影響については次を参照のこと。T. I. Cook and A. B. Leavelle,”German Idealism and American Theories of the Democratic Community, Journal of Politics (Aug. 1943), vol. 5, no. 3, pp. 213-36; Sylvia D. Fries,Staatstheorie and the New American Science of Politics, Journal of the History of Ideas 34 (July-Sep. 1973), pp. 391-404. (10) F・フライデルの考証に従えば、リーバーの生年月日は、一七九八年三月一八日とされる。次を参照のこと。Frank Freidel, op. cit.,: 1968, p. 3, n. 4. 他に、リーバーの伝記としては次がある。Thomas Sergeant Perry (ed.), op. cit., 1882; Hugo Preuss, Franz Lieber: Ein Burger Zweier Welten (Berlin, Carl Habel, 1886); Lewis R. Harley, Francis Lieber: His Life and Political philosophy (1899, reprinted, AMS, 1970); Ernest Nys,”Francis Lieber; His Life and Works, American Journal of International Law, vol. 6, 1911; Ernest Bruncken,”Francis Lieber, A Study of a Man and Ideal, Jahrbuch der Deutsch-Amerikanishen Historishen Gesellshaft von Illinois (Chicago, 1915), vol. 15, pp. 7-61; C. S. Harley, Francis Lieber’s Induence on American Thought and Some of His Unpublished Letters (Philadelphia, 1918); L. M. Sears,”The Human Side of Francis Lieber, South Atlantic Quarterly 27 (1928); J. Dorfman and R. G. Tugwell, op. cit., 1938; Bernard Edward Brown, op. cit., 1967. (11) ヤーンのナショナリズムについては次を参照のこと。Hans Kohn,”Father Jahn’s Nationalism, Review of Politics 2 (October 1949), pp. 419-32. (12) ワーテルロー戦の回顧については、次を参照のこと。The Battle of Waterloo, MW, I, pp. 151-75. また、ニーブルの回想を含めて歴史的視点や地方自治制への止目の喚起については、次を参照のこと。Of the Historian Niebuhr, MS, I, pp. 47-148; On Civil Liberty and Self-Government, (3rd and revised ed., T. D. Woolsey, ed., 1874) p. 321. (13) Encyclopaedia Americana: A Popular Dictionary of Arts, Sciences, Literature, History, Politics, and Biography, brought down to the Present Time; A Copious Collection of Original Articles in American Biography; on the Basis of the Seventh Edition of the German Conversations-Lexicon, edited by Francis Lieber, assisted by E. Wigglesworth and T. G. Bradford (Carey, Lea and Blanchard), 13vols, 1829-33. (14) 本書は、アメリカにあっては、『ドイツの一紳士への書簡』として発行されている。Letters to a Gentleman in Germany, Written after a Trip from Philadelphia to Niagara (Philadelphia; Carey, Lea & Blanchard, 1835). (15) G. De Beaumont and A. De Tocqueville, translated from the French, with an Introduction, Notes and Additions, by Francis Lieber, On the Penitentiary System in the United States, and Its Application in France: with an Appendix on Penal Colonies, and also, Statistical Notes (Philadelphia; Carey, Lea and Blanchard, 1833). (16) On History and Political Economy, as Necessary Branches of Superior Education in Free States: An Inaugural Address Delivered in South Carolina College, December 7, 1835, MW, I, pp. 179-203. リーバーが資料整備や国家(State)学の一分野としての「統計(Statistics)」の必要を重視したことは、一八三六年四月一八日付で、議会が合衆国の統計学的調査を行い、その成果を公表すべきことを求め、これをカルフーンが上院にて代読していることにも窺われる。この点で、リーバーの歴史学的・資料重視型方法は、コロンビア大学にあって、ダニングをはじめとする政治分折に継承されることになる。W. A. Dunning, Essays on the Civil War and Reconstruction (Macmillan, 1897, Harper Torchbook, 1965), p. 361. (17) Legal and Political Hermeneutics, or Principles of Interpretation and Construction in Law and Politics, with Remarks on Precedents and Authorities (Boston, Little and Brown, 1837, later editions, 1839 and 1880). 本書の引用は、第二版(一八三九年)に従い、以下、LPHと略記。 (18) Manual of Political Ethics Designed Chiey for the Use of Colleges and Students at Law (2vols, Boston and London, Little and Brown, 1838-39, 2nd ed., 1847, 3rd ed., by T. D. Woolsey, Philadelphia, 1875, 1890, 1901,澤柳政太郎訳『政治道徳学』全二巻、東京専門学校出版部、一九〇二年).本書の引用は、第二版(一八九〇年)に従い、以下、MPEと略記。 (19) Essays on Property and Labour as Connected with Natural Law and the Constitution of the Society (New York, Harper and Brothers, 1841, 2d. ed., 1864). 本書の引用は、第二版に従い、以下、EPLと略記。On Civil Liberty and Self-Government (Philadelphia, J. B. Lippincott, 1853, later eds., 1874 and 1901,李抜著・林董訳『自治論』、一八八〇年).本書の引用は、第三版(一八七四年)に従い、以下、CLSGと略記。 (20) 例えば、次を参照のこと。Anna Haddow, op. cit., 1939, pp. 138-44; C. E. Merriam, A History of American Political Theories (Macmillan, 1903, reprinted, 1969, Augustus M. Kelly,中谷訳『アメリカ政治思想史(I)』、御茶の水書房、一九八二年), pp. 305-07; idem, New Aspects of Politics (Univ. of Chicago, 2nd ed., 1831.,中谷監訳『政治学の新局面』、三嶺書房、一九九六年), p. 56; R. G. Gettle, History of American Political Thought, 1928(鷲野隼太郎『政治思想史(下)』、聚英閣、一九二八年、一八八頁). (21) Dictionary of Latin Synonymes, for the Use of Schools and Private Students, With a Complete Index, by Lewis Ranshorn (Boston, 1839, reprinted, E. H. Butler, 1860). (22) Notes on Fallacies of American Protectionists MW, II, pp. 391-459. リーバーの自由主義経済観は労働組合批判にも連なる(EPL, p. 214, MPE, II, 199-200)。 (23) LLFL, p. 230; EPL, p. 16. (24) An Address on Secession, MS, II, pp. 125-35. (25) History and Political Science, Necessary Studies in Free Countries, MW, I, pp. 329-68 (reprinted, James Farr and Raymond Seidelman, eds., Discipline and History: Political Science in the United States, Univ. of Michigan Press, 1993) pp. 21-32. (26) Instructions for Armies in the Field: ‘General Order NO. 100’ MW, II, 247-74;”On Guerrilla Parties, MW, II, 277-97; B. Dyer,”Francis Lieber and the American Civil War, Huntington Library Quarterly (July 1939), no. 4, pp. 449-65; Richard S. Hartigan, Lieber’s Code and the Law of War (Precedent, 1983). リーバーと戦時法制定について検討した邦語文献としては次がある。松隈清「フランシス・リーバーの戦争法々典化事業への貢献(一)(二)」『八幡大学論集』(第二三巻第四号、第二四巻第一号、一九七三年)。 (27) 『要論』の資料収集は一八三六年まで行われ、秋には執筆を開始し、翌年には第一巻の執筆を終えている。また、『解釈学』は、当初、『アメリカの法学者(American Jurist)』(vol. 18, 1837-38)に発表され、三七年に小冊子として出版されている。なお、『解釈学』の標準版(第二版)は、かなり大幅な補正を経て、三九年に出版されている。 (28) Alexis de Tocqueville, Democracy in America, 1835; Vintage Books, 1961, vol. I, p. 7(井伊玄太郎訳『アメリカの民主政治(上)〈講談社文庫〉』、一九七二年、二六頁). (29) LPH, pp. 23, 64-65, 71, 119-20. リーバーが「表象」のなかでも、「言語」を重視したのは、言語による意志疎通のみならず、言語を媒介とした行動の促進・抑制機能や言語と環境との相互変化機能の理解においてのことであり、「法と政治」の世界にあっては、基本法を媒介とした人々の一体化と統一の重要な契機を構成するものとみなされている(What is our Constitution, MS, II, pp. 89-123)。この視点は、「文明化(civilization)」や「国民ないし民族(nation)」の位置付けの基底を構成することにもなる(Nationalism and Internationalism, MW, II, pp. 225-43)。 (30) この問題を論じたものとして次がある。James Farr,”Understanding Conceptual Politically, Terence Ball, James Farr, and Russell L. Hanson, ed., Political Innovation and Conceptual Change (Cambridge Univ. Press, 1989). (31) LPH, pp. 56, 143-44, 177-88. LPH の文献考証と今日的意義を論じたものとして次がある。James Farr,”Francis Lieber and the Interpretation of American Political Science, Journal of Politics (Nov. 1990), vol. 52, no. 3, pp. 1027-49. (32) John G. Gunnell,”In Search of the State: Political Science as an Emerging Discipline in the U. S., in Peter Wagner, Bjo¨rn Wittrock, and Richard Wittrock, Discourses on Society: The Shaping of the Social Science Discipline (Kluwer Academic Publisher, 1991), pp. 131, 135; James Farr, op. cit., 1990. (33) Encyclopia Americana (New Edition, 1836), vol. 11, p. 568. (34) MS, I, pp. 179-203, 339-40. (35) Bluntschli, op. cit., in MS and International Review. (36) 一八一七年の「ブルシェンシャフト綱領」にあって「権利が、それに照応した義務を欠いて主張されるとき、それは特権、つまり不正である」とされたことに窺われるように、リーバーの「権利」・「義務」観は、ドイツ自由主義の伝統に属するものとされる(Bernard E. Brown, op. cit., 1967, p. 29)。また、後年、リーバーは、K・マルクスが「権利なき義務も、義務なき権利も存在しない」と指摘していることを発見して、大いに悔しがったと言われる(LLFL, p. 392, 416)。この点で、リーバーは、「政治倫理学の根本原理」とは、「自由大なれば、それだけ義務にも大なるものがある」ということであり、「自由とは、義務の認識によって制約された行為の自由である」と位置づけている(MPE, vol. I, p. 384)。また、ブルンチュリーは、リーバーの「義務」の観念は、「道徳的責務」であるとし、グナイストの「法的責務(Rechtspflight)」と区別している(MS, II, p. 10)。 (37) EPL, pp. 70-71; MPE, vol. I, pp. 147-50, 152, 162, 238-39; CLSG, p. 38. リーバーは、jus と lex、 droit と loi、Recht と Gesetz、jural と legal との対比において、国家を「ジュラル(jural)な社会」と定義しているのであり、したがって、「法律」や「政府」が存在しない状況にあっても「国家」は存在し得るとされる(MPE, I, p. 152, n. 1)。また、「社会」には、「保険会社、慈善団体、学界」などのように、「一時的結合体」という点では「目的団体(associations)」ないし「会社(company)」という結合関係もあり得るとしている(MPE, I, p. 147)。 (38) MPE, I, pp. 20-33, 57-63. (39) MPE, I, pp. 111-13, 115-16, 126-29, 193-95; MW, II, pp. 363-66; EPL, pp. 182-83. リーバーが「事物の個人化」(=「所有」)のプロセスとして設定しているのは、「生産(production)、領有(appropriation)、占有(occupation)、複合的生産(mixed production−例えば、動物の飼育や土地耕作)、権利の譲渡など」である(ibid., p. 114)。なお、政府による「保護理論(protection theory)」は、その後、ウルズィ、バージェス、ウィルソンに至って、「一般的福祉」という積極的政府・国家観によって変更をみたとされるが(e. g., Merriam, op. cit., 1903, pp. 315-20)、リーバーにあって、「国家」の「正当な目的」に「ひとりではなし得ず」、また「ひとりではなすべきことではない」こととならんで、「ひとりではなそうとはしない」ことを挙げ、その例として、道路の維持、学校教育、公立病院を挙げていることに鑑みて(MPE, I, p. 173)、人間の「社会性」の理念において、政府の公共政策が含意されていたものと理解し得る。 (40) MPE, I, pp. 147-52. (41) MPE, I, pp. 145-46, 150-52, 162-67; CLSG, pp. 260-61; MW, I, pp. 336-38, 474-75. (42) 契約説の批判については、MPE, I, pp. 287-96, MW, I, pp. 217, 351, 358. リーバーの契約論批判は、南部の契約論的連邦国家論批判と北部の国民国家的連邦論擁護の論拠ともされている。MW, I, p. 217. (43) MPE, I, pp. 160-62, 171; CLSG, p. 102, n. 1. (44) MPE, I, pp. 173, 217, 223-38; CLSG, pp. 150-51. (45) Nationalism and Internationalism, MW, II, pp. 225-43. リーバーの「ナショナリズム」について検討したものとしては次がある。Merle Curti,”Francis Lieber and Nationalism, Huntington Library Quarterly 3 (April 1941), pp. 263-92; C. B. Robson,”Francis Lieber’s Nationalism, Journal of Politics 8 (1946), pp. 57-73. (46) リーバーは、「フリーダム(freedom)」の概念が「人格的・個人的」合意にあるのに対し、「リバティ(liberty)」は「公的性格」にあるものとし、例えば、「良心の自由は常に存在するが、この自由(フリーダム)が市民の自由な選択権として、ある国の法によって保証されるや、精神的自由(フリーダム)の外的承認であるがゆえに、良心の自由(リバティ)と呼び得る」としている。MW, II, p. 371, n. 1. (47) CLSG, pp. 248-50, 297; MW, II, pp. 371, 373, 378; MPE, I, p. 384. (48) MPE, I, pp. 352-56. (49) リーバーは、「アメリカ型自由」を「共和制型連邦主義、国家と教会の厳格な分離、市民に対する一層の平等と抽象的諸権利の承認、全政体の一層の民衆的ないし民主的表現」に要約している(CLSG, p. 256; MW, II, pp. 377-80)。 (50) MPE, I, pp. 352-53; MW, II, pp. 371-88. (51) CLSF, pp. 150-52, 256-69, 279-96, 368-69; MW, II, pp. 281-83. (52) MPE, I, pp. 214-17, 272-73, 322-26, 363; CLSG, pp. 38-40, 151-52, 167, 262, 281-83, 355; MW, II, p. 196, 426-27; LLFL, pp. 421, 426-27. (53) CLSG, pp. 31, 250. リーバーは、英仏の政治体制の相違を近代の「国民国家」の成立過程における封建体制の克服の過程に求め、イギリスにおける「自由主義型国家」とフランスにおける「政府型国家(government-state)」とを対比している(CLSG, pp. 48-50, 346-47)。 (54) 「インスティテューション」の概念には、リーバーにあって、何かに着手するという「創発性」の含意も込められている。CLSG, pp. 301, 311-14, 358-59, 361, 366, 371-72. J・H・ロビンソンとT・B・ヴェブレンにおける「制度」概念の展開については次を参照のこと。Morton White, Social Thought in America: The Revolt Against Formalism (Viking Press, 1949), pp. 51, 92. (55) CLSG, p. 359. (56) Encyclopdia Americana, vol. 10, 1836, pp. 225-27. 「政治経済」を政治学の対象に含ましめていることは、一九世紀の政治学のありようを示している。この点で、当時のイギリス政治学の動向については、次を参照のこと。Stefan Collini, Donald Winch, and John Burrow, That Noble Science of Politics: A Study in Nineteenth Century Intellectual History (Cambridge Univ. Press, 1983). (57) John G. Gunnell, The Descent of Political Theory: The Genealogy of an American Vocation (Univ. of Chicago Press, 1993), p. 57. (58) 例えば、次が挙げられる。Theodore D. Woolsey, Political Science, or the State Theoretically and Practically Considered (Scribner’s, 1877); John W. Burgess, Political Science and Comparative Constitutional Law, 2 vols., 1880-91 (高田早苗・吉田己之助訳『比較憲法論』、早稲田大学出版部、一九〇八年); Woodrow Wilson, The State: Elements of History and Practical Politics, 1891 (高田早苗訳『政治汎論』、早稲田大学出版部、一九〇八年); W. W. Willoughby, An Examination of the Nature of the State (Norwood, 1896). (59) Munroe Smith,”Introduction: The Domain of Political Science, PSQ (March 1886), vol. 1, no. 1. (60) 政治の研究者についてみれば、例えば、H・B・アダムズ(ジョンズ・ホプキンス大学)はハイデルベルグに、J・W・バージェス(コロンビア大学)はライプチヒとベルリンに、また、F・G・グッドノー(コロンビア大学)はパリとベルリンに留学している。詳細については次を参照のこと。Peter T. Manicas, A History and Philosophy of the Social Science (Basil Blackwell, 1987). (61) John G. Gunnell, op. cit., 1993, p. 59; Stephen Skowronek, Building a New American State: The Expansion of National Administrative Capacities, 1877-1920 (Cambridge Univ. Press, 1982), p. vii, 44. (62) Stephen Skowronek, op. cit., 1982, p. 5; Bernard Crick, The American Science of Politics: Its Origins and Conditions (Univ. of Carifornia Press, 1959,内山・梅垣・小野訳『現代政治学の系譜』、時潮社、一九七三年), pp. 96-97; Daniel T. Rodgers, Contested Truths: Keywords in American Politics since Independence (Basic Books, 1987), pp. 14, 166, 171. 「国家感の欠如」観の批判については、次を参照のこと。Andrew Kirby,”The Great Desert of the American Mind: Concepts of Space and Time and Their Historiographic Implications, J. Brown and D. K. van Keuren, op. cit., 1991. (63) John J. Cunnell,”Political Science as an Emerging Discipline in the U. S., in Peter Wagner and Bjo¨rn Wirkrock (eds.), Discourse on Society: The Shoping of the Social Science Discipline (Kluwar Academic, 1991), pp. 154-56. |